桜散る谷で

 

序、氷の憤怒

 

学校の帰り道、二年生である中島美樹はつい風に釣られて、振り向いていた。風は山の上にある学校へ吹いている。美樹の母校である、聖杖学園へ。

身長百六十三センチ、体重は五十キロ。均整の取れた肢体である。黒縁の機能的な眼鏡の奥にある切れ長の目や引き締まった口元には殆ど変化が無く、動作にもしかり。整った顔に、表情が浮かぶことは滅多にない。必要なことしか喋らず、成績はトップクラスで、絵に描いたような優等生。生徒会の副会長である彼女は、周囲からは冷血女とか、サイボーグだとか、ろくなあだ名で呼ばれていない。機能的に短く切りそろえている髪も、ネガティブな噂の発生源の一つになっていた。

そういうあだ名を聞く度に、勝手なものだと、美樹は憤りを感じる。ただし、表には絶対に出さない。基本的に、人間は気に入らない相手の行動は、いかなるものでも否定する。嫌いな相手が事実を言えば、どうにか揚げ足をとろうと考える。美樹が髪を伸ばそうが短くしようが、笑顔を浮かべようが浮かべまいが、評価など変わるものか。心の奥に、美樹は怒りを押し殺す。

今日は土曜日。半日授業だが、既に夕方近い。事実、通学路に殆ど他の学生の姿はない。

部活動に入っていない美樹がこんな時間に帰っているのは、他の生徒会メンバーが頼りにならないからだ。生徒会長は名門のボンボンと言うだけの、何の能もない男である。会計も書記もただいるだけのメンツであり、事実上の仕事は全て美樹がやっている。生徒会長がきちんと他のメンバーに指示をすれば済むことなのだが、その自覚も能力もない。美樹がいなければ、生徒会はとても回らないのだ。

身を翻して、家に歩き出す。家に帰っても何もない。両親は殆ど家におらず、弟は半年前から田舎だ。この年でほぼ自立しているに等しい生活の中、美樹の心はひたすらに憎悪だけが満ちていた。

ふと見ると、事務だけでなく、炊事洗濯で酷使している指先は荒れていた。自らの心を表すように。もはや、ため息も出なかった。

 

進学校として知られる私立聖杖学園。学校の規模こそさほどでもないが、地元屈指の難関校として知られ、高密度の教育と群を抜いて高い進学率を誇る。

体育会系よりも文化系の部活の方が盛んで、特に女子の書道部は何度もコンクールで賞を総なめにしている。今時古風な金ボタンの地味な黒学ランと、絶滅危惧種になりつつある清楚なセーラー服も、この学校の雰囲気にベストマッチしていた。中高一貫型という珍しい形態とをとる学校でもあり、それが故に良い意味でも悪い意味でも近寄りがたい雰囲気を作り出している。

時代錯誤的と陰口をたたく周囲の学校の生徒達も、本音では憧れざるをえない場所。それが聖杖学園だ。それだけに情報の価値は高く、学生達の噂にはかなりの頻度で登場している。あくまであこがれの存在としてだが、ひがみから来るネガティブな噂も人気があった。憧れと妬みを受けるが故に、また非常に古い学校であるが故に。此処は怪談のメッカでもある。様々なバリエーションの怪談があり、七不思議どころか主要なものだけでも十を超えるという有様だ。

このような学園だと、平均的な学校とは異なる特殊な空間が形成されているようにも思えるが、実情は違う。

たとえば、名家や権力階級の子女が多く入学しているのは確かだ。だが、彼らの精神構造は一般人と大して変わらない。普通の学校同様、落ち零れも出るし、虐めも起こる。不良少年もいれば、優等生を装い援助交際を影でやっているような女子もいる。ただ、この学校の場合、問題を起こした生徒は容赦なく放り出されるので、あまり派手に荒れるようなことがないのが唯一の救いか。それでも他の学校同様、強者がのさばり弱者は虐げられるという点では、根本的に同じである。程度の差さえあれ、学校など何処も同じだ。

主要都市から僅かに離れた自然豊かな学校と言うことが売りにはなっているが、そんなものは子供の情操教育に大して影響しない。事実何かしらの機会でアンケートを採ると、「虫がうざい」「通行に不便」「落ち葉が邪魔」等というものばかりがクローズアップされる有様だ。いつの世代も、人間はその場にある価値には気づけない。

そんな心が貧しい生徒達が通う箱庭が、聖杖学園の正体だと、美樹は考えている。

電車で三十分ほど揺られて、家に着いた頃には、文庫本を一冊読み切ってしまっていた。中身は大物作家Oの手によるバイオレンスものだ。情け容赦なく繰り広げられる殺戮劇が、憎しみに駆られた美樹の心を、ほんの少しだけ癒してくれる。閑静な住宅街を歩く。今時通行人に挨拶をする者などいないから、駅から家まで終始無言のままだった。

家の灯りは消えたまま。両親とも帰ってくるのは真夜中だ。遊びに行こうにも、気が利いた場所など無い。男遊びなどする気にもならないし、本屋など沿線で事足りる。一等地に建つ一戸建てだが、その冷え切り方は尋常ではなかった。美樹の頭と同じく、何もかもが冷え切っていた。ただ一つ違うのは、原因だ。この家が虚無によって冷え切っているのに対し、美樹の頭は憎悪によって却って冷え切ってしまっている。

美樹の父はゼネコンの重役で、工期の詰めには血の小便が出るほど酷い仕事をしている。時間がある日も会社でのつきあいによって生じる何かしらの飲み会やら勉強会やらで、遅くまで帰ってこない。SEをやっている母も似たような仕事量で、家族が顔を合わせることなど、月に何度もない。家族のために命を削って働いているのに、いつの間にか金銭を渡す以外の何も出来なくなっている。そんなありがちな矛盾に満ちた状態が作られているのだ。

家庭は当然冷えきった。弟がぐれて喧嘩を繰り返し、盛り場で止めに入ったサラリーマンを失明させかける事件を起こしたのは二年前。相手が悪い。親が悪い。だから出頭したくないとわめいて暴れる弟の右肩と左膝を叩き割って、警察に突きだした時。美樹の中で、何かが致命的に壊れたのかも知れない。弟は結局少年院行きになることもなく、田舎の親戚に引き取られた。もう二度と弟の右腕は頭より上には上がらないだろう。そして美樹と彼が顔を合わせることもないだろう。

家に帰って美樹が最初にすることは、二階の自室に行き、机に向かうことだ。席に着くとブラウンの手提げ鞄から本日分の教科書を取り出す。明後日の科目をチェックして、教科書を突っ込む。ノートを取り出してさっと復習をした後、明後日の科目の予習を行う。二時間弱で日課を終えると、やっと食事に移る。

まだ冷蔵庫には食料が入っているから、今日は買い物をしてこなかった。その辺のスーパーで昨日買った美味しくもない豆腐を刻むと、湯を沸かしてだしを取る、味噌と豆腐とわかめを入れて、味噌汁を仕上げる。口に入れるが、美味しいとは殆ど思わない。食べることが出来ればそれでいい。カロリーを計算しながら野菜を刻み、肉を焼いて、炊飯器から米をよそう。

米は最高級のコシヒカリであり、炊飯器も複層の圧力釜を搭載した高級品だ。だが、味がしない。それがますます静かな怒りを沸き立たせる。訓練用の長刀を取り出すと、無駄に広い庭に出る。

木で作ったものだとはいえ、有段者である美樹が振るう長刀は、空を切ってかなり大きい音を出す。踏み込み、切り下ろす。退きながら、切り上げる。短い気合いの声と共に、斬り、突き、切り上げる。美樹にとって唯一のガス抜きこそが、この長刀だ。

江戸時代に入ってスポーツ化した剣術だが、長刀に関してもそれは同じだ。だから、美樹の長刀は厭われた。相手に叩きつける本物の殺気は対戦相手を竦ませ、審判達のジャッジを相手に有利な方へ向けさせた。「武術の心を知らない」等という曖昧な理由で、勝ちを取り消されたこともある。恐怖に引きつる相手を見下しながら、美樹はくだらないと思ったものだ。長刀の大会に出るのをやめてからもう半年が経つが、こうして今でもガス抜きのために、毎日の素振りは欠かしていない。

三百回も素振りをすると、やっと苛立ちが晴れてきた。何かしていないと常に落ち着かない美樹は、殆どテレビなど見ない。家にはいると、すぐにシャワーを浴びて、クラシックのCDを掛けながらまた勉強だ。今日は多少気分がよいから、荒々しいビバルディにした。CDはきちんと買ったものだ。金なら腐るほど余っている。腐ってしまえば良いとさえ思う。

無意味で無目的な勉強だが、それでもやっていれば気が紛れるのだから不思議だ。ある意味生半可な不良少女よりも、よほど美樹は心が荒んでいたかも知れない。気がつくと、日付が変わっていた。切りがいいところまで進めるのに、更に三十分。

布団に潜り込んで目をつぶる。両親はこの時間になっても帰ってこない。だが、むなしいと感じることはあっても、寂しいとは感じない。というよりも、幼い頃からこの状態が当たり前だったからだ。

朝起きても、全く疲労は取れていなかった。父は結局帰ってこず、母は陽が昇る前からもう家を出ていた。日曜日だというのにだ。もちろん自分の朝食など無い。美樹は小さく嘆息すると、台所に出て、恐ろしく退屈な日曜日と向かい合うべく食事を作り始めた。

 

当然月曜日になっても、状況は何も変わらない。昼は学食があるからいいとして、問題は朝晩だ。冷蔵庫を覗くと、食パンが一切れ残っていた。トースターに放り込んで、焼き上がったところに高級品のバターを塗って食べる。時計を見ながら軽く英単語を覚えながら時間を潰し、いつもと同じタイミングで出る。この辺りの電車は、殆どダイヤを乱すことがない。聖杖学園に入ってから四年以上使っているが、今まで電車が遅れたことは二度しかなく、そのどちらでも美樹は遅刻を免れている。元々、学校に向かう時間がかなり早いのだ。

桜並木を通って学校に着く。すっかり緑色になっているこの道は、生徒達に嫌われている。この時期は毛虫が山ほど発生するからだ。道の両脇には点々と黒い糞が落ち、毛虫そのものが頭の上に落ちてくることも珍しくない。また、森の中に立てられているだけあり、蛇や蛙が出ることも多い。

さっさと学校に入った美樹は、一番に教室にはいると、朝の復習をすませる。こうやって頭を動かして、脳を温めておくのだ。

これだけ準備をしているにも関わらず、いやそのためというべきか、あまりにも授業は退屈である。入念な下準備の結果、簡単すぎるからだ。昼休みには大して混みもしない学食にいって、カレーライスを口にする。舐めたように綺麗に食べ終えると、余った時間で図書館へ。本は殆ど借りない。生徒達の間ではジュブナイルが人気だが、見向きもしない。

結局今日読むことにしたのは、北陸地方の歴史書だった。選んだ基準は特にない。今月は歴史書の棚を、端から潰しているだけである。このコーナーは読もうとする生徒が殆どおらず、美樹が独占できるのも嬉しい。ただし、本に埃が積もっていることが珍しくもないため、最初はそれを落とす作業が必要となる。

一番静かな図書館の奧。閲覧コーナーの隅の机に陣取ると、頬杖をついて読み始める。特に面白くも無い本だが、時間つぶしにはもってこいだ。しばらく集中して読んでいると、五十ページほど読んだところで、誰かが声を掛けてきた。

「珍しい読み方をする人ね」

「何でしょうか」

顔を上げると、其処には図書館の司書である片桐がいた。

この図書館の主とも言える女で、一部生徒に人気がある。クールな雰囲気の人物だが、意外にも気さくに相談に乗ってくれると言うことで慕われているらしい。まだ若いが、具体的な年齢は知られていない。男子生徒の間では、時々彼女の年が噂に上る。

「歴史書の棚を、端から潰しているでしょう」

「それが何か?」

「普通、そんな読み方はしないわ。 しかも時間を潰しているだけにしては、随分しっかり読み込んでいるようだし」

貴方には関係ないだろうと思ったが、美樹は少し考えてから、応える。適当に相づちを打つという行動は、プライドが許さない。

「本が好きですので」

「どういうところが?」

「活字は心を豊かにしてくれます」

大まじめに言うと、丁度時間が来た。七分前を知らせる腕時計のアラームを止めると、本を棚に戻し、会話を打ち切って教室に戻る。片桐はどうやら美樹の「優等生型返答」の裏に気付いていたようで、苦笑しながら見ていた。なかなか油断できない相手である。

渡り廊下を通って校舎へ。肩を怒らせて歩いていた不良生徒が、美樹を見ると蒼白になって道の脇にどく。美樹の弟はその凶暴性から不良達の間で知られており、ある意味伝説の人物であった。それを再起不能なまでにたたきつぶしたと言うことで、さらにはその後の数々の武勇伝のせいで、美樹は不必要なほどに恐れられている。

五分前には教室に着く。午後の退屈な授業が始まった。全く代わり映えのしない一日が続く。

 

授業が終わると、生徒会の時間だ。生徒会室に着くと、まだ誰もいない。

伝統ある学校の生徒会だけあり、部屋の作りはそれなりに立派だ。生徒会長の席はマホガニー材の特注だし、部屋の彼方此方にはトロフィーや賞状が陳列されている。しかも、どれも全国レベルの大会ばかりだ。生徒会長の席の前には執務用の長机がある。こちらは折りたたみ式のものであり、来客時には片付ける。窓際には大きなサボテンが飾られており、何年もその場を独占している。子供の頭ほどもある巨大なそれが花をつけるところを、以前美樹は一度だけ見た。

書類を並べて、素早く目を通す。ノートパソコンを引っ張り出すと、電子書類の作成に掛かる。丁度規定の時間の二分前になって、ようやく生徒会メンバーが一人、部屋に入ってきた。書記である彼女は、美樹の顔を見ると、ひっと小さな悲鳴を上げる。顔も上げずに、美樹は生徒を言葉だけで威圧した。

「何をしているの。 こんな時間になって、ようやく顔を出すなんて」

「ご、ごめんなさい」

口元を抑えて泣きそうな顔で謝る一年生のこの少女は、見かけ通り、昔の美樹のように非常に気が弱い。クラスの雰囲気で立候補させられ、たまたまルックスが良かったから当選したという不幸な経歴の持ち主だ。そんな相手に最初から美樹は期待していない。そればかりか多少美樹がしかりつけただけで泣き出したことも再三で、辟易さえしていた。

ただ、この鈍くさい少女も、一応仕事は出来る。パソコンの基礎的なスキルは持っているから、ある程度の非創造的な作業を回しておけるのが救いか。すぐにファイルを飛ばして、作業をするように指示。ファイルの量を見て少女は息を呑むが、知ったことではない。美樹はその四倍の量を毎日こなしているのだ。続けて、二分遅れて、会計が部屋に入ってくる。

「遅れてすみません」

「いいから仕事をしなさい」

「はーい」

そう不平そうな声を上げたのは、二年の男子生徒だ。隣のクラスの人間である。書記と同じく、会計を押しつけられた経緯は似ている。ただし、彼には能力もやる気もない。ぼさぼさの頭をかき回して、如何にも嫌そうに席に着く。こいつに学校を任せられると考えて投票した人間などいるのか。いや、それについては、言うだけ無駄だ。今時、まじめに考えて選挙に投票する人間がどれだけいる。

会計はかなり要領が良く、逆らいさえしなければ美樹が怒らないことを知っている。だから仕事もするが、作った書類はいつも間違いだらけで、とてもそのまま提出は出来ない。怒ってなおるような性格でもないし、美樹が結局後で目を通すのだ。

生徒会長が、最後に来る。何か言い訳をしようとしたが、美樹が顔を上げるだけでブリキの人形のように押し黙った。三年生のこの男が、生徒会を駄目にしている根源だ。基本的に会議に出ても先生の話は何も聞いていないし、書類にも殆どまじめに目を通さない。友人に、将来の就職を考えて生徒会長になったと放言しているらしく、責任感がないのもそれで頷ける。この辺りの事情は何処の学校でも同じだと美樹は聞いたことがある。つまり、世の中にはそれだけ屑が多いと言うことだ。

ただし、美樹がいる限り巫山戯た真似はさせない。

「ふ、副会長」

「いいから仕事をしてください」

「分かった、分かったから。 そんな怖い顔をしないでくれ」

何が怖い顔だ。起きたまま寝言をほざく生徒会長に怒りが沸く。

弟を半殺しにした時、つい鏡を見てしまった美樹は、其処にこの世で一番恐ろしい顔を見た。

それ以来である。かわいらしい物が好きで、気が弱く、白馬の王子様を夢見ていたような美樹が、鉄の規律と思想の権化となったのは。

あのとき見た顔に比べたら、怖いものなど何一つ無い。この世に一つもだ。

生徒会室に沈黙が降りる。他の三人を統制しているというのに、美樹はこの場の誰よりも孤独だった。

結局仕事は夕方に終わり、へとへとになった書記が最初に生徒会室を出て行った。会計は彼女に気があるらしいのだが、正直恋愛ごっこをしている余裕もないだろう。七回のリテイクの末ようやく仕事を終えた会計も、疲れ果てた顔で出て行く。大量の書類に印鑑を押し続けていた生徒会長も、仕事が終わると、すぐに生徒会室を出て行った。逃げるように、こそこそと。見苦しい姿である。

美樹はそれからも一時間ほど残業した。いつも通り、特に会計の仕事が酷い。リテイクをして書類の体裁だけは何とかなおさせているが、中身の計算は間違いだらけだ。書類にしっかり目を通しながら、美樹は計算間違いを全て直していく。しっかりノルマを片付けると、生徒会室を出た。外はもう暗くなりはじめている。学校に残っている生徒は、殆どいなかった。

いつのまにか、忌み嫌っているはずの両親と同じような生活を、美樹はしはじめていた。

 

1,過去へ

 

昼休み。図書館で美樹は、極めて不快な経験をしていた。わざわざ誰も読みそうにない本棚を選んで端から読んでいたというのに。この間真ん中程まで読んでいた本が、何者かによって借りられていたのである。

何かの間違いかと思って確認したが、やはり借りられている。どういうことだ。わざわざ借りられる可能性が殆ど無い本ばかり選んで読んでいるのに。いつも座る机に腰を卸すと、少しずつ状況を整理していく。

昨晩、学校を出る前に、美樹は図書館に立ち寄った。その時には確かに本はあった。というよりも、美樹が読んでいた。そして、本を返した時、誰も図書館には残っていなかった。

つまり、である。早朝か美樹が来る前に、誰かが借りた可能性が極めて高い。更に思い出していくと、不意に正解かと思える答えが沸き上がってくる。

そうだ、図書館の出口で、あの書記とすれ違った。奴は本を持っていた。それだけなら別に構わない。どこかで見た本だと思っていたのだ。奴は美樹を見ると真っ青になって頭を下げ、道の端にどいたが、それも後ろめたいことがあったからか。殊勝な顔をして、ずっと美樹を馬鹿にしていたに違いないあの下級生は、今頃してやったりと高笑いしている事だろう。

憤怒が心の底から沸き上がってきた。自分を軽蔑するだけでは飽きたらず、数少ない楽しみまで奪おうというのか。

考えてみれば、思い当たる節がある。幾つかの情報を総合するに、あの気が弱そうな言動はポーズに過ぎなかったのだ。気が弱そうな行動をする影で、陰湿な報復をする機会を狙っていたに違いない。友人達と美樹の陰口をたたく書記の顔がありありと脳裏に浮かんだ。そして奴は嘲笑するのだ。楽しみを奪われ、苛立つ美樹の姿を見て。

美樹は表情をあくまで崩さないままであったが、握りしめた拳が、もの凄い音を立てた。となりで検索していた生徒が、真っ青になって立ち上がり、逃げるように図書館を出て行った。それがますます美樹の怒りを増幅させた。

どうしてくれよう。美樹は心中でつぶやく。徐々に高まってきていた憤怒がこの瞬間、ついに爆発した。瞳に炎を宿した美樹は、思考を行動に移すことを決意する。校舎の裏にでも呼び出して、平手打ちをくれてやるか。別に仲間を連れてきてもかまわない。まとめてぶちのめすだけだ。弟を半殺しにしてから、美樹は何度も修羅場をくぐっている。十人近い不良に囲まれて、その半数以上を木製の長刀で殴り倒し、切り抜けたことさえある。陰湿な嫌がらせしか能がない女子生徒など、何人束になっても敵ではない。

殺るなら早いほうがいい。具体的にはどう殺るか考えながら腰を浮かせかけた美樹に、例の司書が声を掛けてくる。

「中島さん、ちょっといいかしら」

「今、急いでいるのですが」

「ひょっとして、貴方が探している本って、ついさっき借りられた「奥州藤原氏の攻防」かしら? もしどうしても読みたいのなら、在庫があるけれど?」

その言葉には、流石に心が引かれるものがあった。

美樹が読んでいたのは、あくまで歴史研究書である。ストーリーがあるようなものではなく、本来なら途中で読むのをやめても問題ない。だが、今の美樹にとって、長刀の素振りと並んで、本は大事な存在だ。昔も大事な存在だったのだが、今とは少し意味合いが違う。

美樹が活字を好きな理由は、一つ。裏切らないからである。時々嘘やいい加減な情報が書いてある場合もあるが、それも著者によるものだ。活字はあくまでありのままの情報を伝えてくる。それが陰口だらけの学生達に囲まれている美樹に、ささやかな癒しを提供してくれる。だから、本に敬意を表して、最後まで読んであげたいのである。

とりあえず、目的は果たせそうである。多少は怒りが和らぐのを、美樹は感じた。考えてみれば、あの書記は他の生徒達に仕事を押しつけられるような女だ。陰湿な計画を企む共犯者がいる可能性は低い。いたとしても、これからどうにでもなる。何も今怒り狂う必要はない。場合によっては後ではり倒せばいいのである。

片桐に連れられ、図書館の奥の一角に。其処にはハンドルで動かすタイプの移動式本棚がずらりとならび、カビと埃の臭いが蓄積していた。見れば、古い研究書や教材などの、誰も触らないようなものばかりだ。眉をひそめる美樹に、片桐は一番奥の本棚を探しながら言う。その本棚には、ハンドルは付いていない。

「今、手が足りないの。 奧にももう一つ本棚があるのだけれど、そちらを見てきてくれないかしら。 此処か、そっちにあるはずだから」

美樹は頷くと、一番奥の本棚に歩み寄る。歴史を感じさせる本ばかりで、しかも題名も殆ど整理されていない。眉をひそめた美樹だが、あの本の続きはどうしても読みたい。端から順番に見ていく内に、美樹はあることに気付く。

隅から、光が漏れているのだ。

光が漏れる装置も理由もない。何だろうと思った美樹は、本棚の端を確かめてみる。触ると、なんと本棚が動く。小首を傾げた美樹だが、司書は別の本棚でごそごそやっており、此方に来る気配はない。

思い切って、本棚を手前に引っ張ってみる。

意識が飛んだのは、次の瞬間だった。

 

いつの間に眠ったのだろう。全く覚えがなかった。ゆっくりと、自己を知覚していく。生暖かい感触が、右手にある。何だろうと思って、ゆっくりそちらを見る。

そして、至近で、首のない死体を目撃することとなった。

一気に眠気が吹っ飛ぶ。

流石に小さな悲鳴を上げた美樹は、生暖かい感触が、臓物であったことに気付く。飛び起きて、辺りを見回す。

森だった。緩やかな傾斜地である其処には、無数の木が生えていた。地面には分厚く枯葉が積もり、その上に点々と人間の死体が転がっている。いずれも首が無く、美樹が触っていたような、もっと酷い状態のものもあった。殆どが褌一つだけの格好で、死者の尊厳も何もない。吐き気がこみ上げてくる。目を閉じて、深呼吸する。何度か呼吸を繰り返すが、心臓は落ち着いてはくれなかった。血臭が酷い。

何だ。一体これは何だ。混乱する美樹の耳に、轟音がとどろく。手にたっぷり付いた血を拭う暇もない。あれは多分銃声だ。見れば、右手を汚した死体も、脇腹に大穴があり、そこから内臓が零れ出ていた。

身を隠す場所を探そうと考えたのは、自然の成り行きだった。何が起こっているのか、此処が何処なのか、確認するのは後でいい。まずは身の安全を確保することだ。少なくとも、此処は聖杖学園ではない。

聖杖には多くの怪談がある。その中には、図書館に異界に通じる扉があるというものがある。異界は亡霊達の住む世界で、其処に迷い込んだ人間は、たちまちとり殺されてしまうのだという。

数年前までは怖くて仕方がなかったこの怪談を、今更に思い出してしまう。森は何処までも広がっていて、隠れることが出来そうな場所など無かった。遠くからは銃声だけではなく、喚声までもが響き始める。まだ、どこかで戦いが行われているのだ。しかも現在の日本では絶えて等しい、本物の殺しあいだ。携帯を取り出して開いてみるが、もちろんアンテナは一本も立っていない。電源をあわただしく切ると、ポケットに突っ込む。慌てていて手元が怪しくなっており、単純な一連の動作の中で、何度も失敗しそうになった。

槍が落ちていた。半分に折れたので、放棄されたらしい。柄は血まみれで、穂先は欠けているが、無いよりマシだ。手に残った血の感覚を、握って思い出す。ずるりと滑ったからだ。

いつも持ち歩いている木製の長刀よりは少し短いが、無いよりはマシだ。他にないものかと思って辺りを見回すと、あった。残り半分の、石突きの部分が。ただしそれには余計なおまけまで付いていた。右手が、しっかりと槍を握りしめていたのである。しかもそれは肘から先しか残っていない。流石にそれを手に取る気にはなれなかった。

はやく此処を離れないと。殺される。それを強く美樹は意識した。

走り出す。落ち葉を蹴散らして、どこかに逃げ込まなければ。出来るだけ銃声がしない方に、人間の怒号が響かない方に。ひたすら走る。時々槍や刀の破片が落ちていたりして、それには例外なく人血がたっぷりこびりついていた。見れば、太陽はそろそろ山の向こうに沈もうとしている。もう、あまり時間は残っていなかった。

どう走り回ったのか、良く覚えていない。気がつくと、呼吸を整えながら、暗がりの中大木の根元に座り込んでいた。目の前には、古びた寺がある。朽ちてしまっており、中に人の気配は無い。混乱する記憶をたぐり寄せていく。これを見つけて、安心してしまったのだろう。めがねを外して拭こうと思い、そして直後に手が血だらけである事に気付く。体を洗えるとまでは思わないが、手くらいはどうにかしたい。

廃寺は暗闇の中、朽ちながらも傲然と立ちつくしていた。灯りは見えず、人の気配もない。まるで異界への扉のようで、根源的な恐怖をそそり上げる。それだというのに、大して怖くない。理由は簡単だ。この状況、人間の方が怖いからだ。異次元的な恐怖は、あくまで日常生活の中で生じる。此処は既に、そうではない。

寺の中に踏み込む気には流石にならなかったので、奧へ入る。無数の墓が林立しており、その殆どが朽ちていた。廃井戸を見つけるが、中には枯葉がたっぷり詰まっていた。いざというときは、此処に逃げ込むことを考える必要があるかも知れない。

水は何処にもなさそうだ。かなり厳しい。小川か何かが無いものかと辺りを見回している内に、本格的に周囲が見えなくなってくる。ため息一つ。寺の裏手に、丁度いい大きな木があったので、その根元に座り込んだ。

まだ遠くからは銃声が響いているが、近づいてくる気配はない。ようやく余裕が出来ていたので、星空の下で状況を整理する。

聖杖学園の奧の司書室で、扉を開けた。そうしたら、此処に来ていた。理由は分からない。だがともかく、此処に来てしまったのだ。

寺の構造や、槍の作りから言って、此処は多分日本だ。ただ、現代とはとても思えない。考えたくはないのだが、過去の日本ではあるまいか。それは可能性の一つとしてストックしておく必要があるだろう。過去だとすると、此処が何処で、いつの時代かが気になる。また、過去と見せかけて、実は未来の世界かも知れない。似ているだけで、全く別の世界かも知れない。或いは夢を見ているだけかも知れない。いや、それはない。手に残るこの血の感触、死体の手触り。夢では、こんなものは再現できない。

肌寒いが、我慢できないほどではない。曇っためがねを拭きたい。手の血だって落としたい。手を木の根で強引に拭った。だが血は既に乾きかけていて、何度も擦らないと取れなかった。眼鏡を拭いていると、気付く。いつの間にか、銃声が止んでいた。

銃声がするということは、もし此処が過去の世界だとすると、戦国時代後期以降と言うことだ。槍や刀と銃が戦場で共存していた時代は短い。火縄銃が普及してからは、それを中心に戦が展開した事を、美樹は知っている。火縄銃導入に積極的だったのは有名な織田信長だけではない。この時代は、誰もが火縄銃を揃えることに血道を上げていたのである。

戦国時代は土豪や国人といわれる小規模地方領主が、戦闘の主役となった。彼らは普段は「村の顔役」程度でしか無く、半農半領主の生活をしていた。そして大名の号令に従って、一族を連れて戦場に現れ、手柄を求めて激しく戦ったのである。

こういう小規模領主の集合体だったのが、戦国時代の「国」の実情だ。領主の権力の強弱には様々な差があったが、根本的な面で変わりはない。だから組織的な編成はとてもしづらく、武装を均一に整えることは難しかった。そのため、騎馬隊は存在しなかったなどと言う説まであがっている。おかしなものである。騎馬隊を運用したという記録は山のように残っているのに。鉄砲隊や槍隊は存在していたというのに。

ともかく、火縄銃が使われていると言うことだけでは、場所の特定は出来ない。腹も減って来たが、たべるものなど何もない。そもそも火を熾すこと自体が、この状況では自殺行為だ。寝る場所だって、はやめに確保しておかなければならない。だが、ずっと走り詰めで、体が動かない。うとうとと、まどろみ始めていた。

ふと意識を取り戻した時には、体が冷え切っていた。どう考えても、もう真夜中だ。不覚。体を起こす。鍛えていると言っても限界がある。冷え切った手足は悴んでいて、ろくに動けそうにない。

凍死するほど寒くはないが、それでもこのままだと身動きが出来なくなる。血染めの槍は、まだ手元にあった。槍を掴むと、木を支えに立ち上がる。嫌な予感が的中した。足音が近づいてくるのだ。しかも複数。

さっさと隠れておかなかった事を後悔する。無能な自分に苛立ちを覚える。長刀の鍛錬を欠かしたことはないが、それでも実戦で鍛え抜かれた武士複数を相手に勝てる自信など無い。寺の床下に逃げ込む暇はないし、枯葉が積もった井戸に飛び込めばその音で気付かれるだろう。幸い今は夜。じっとしていれば、かなりの確率で気付かれない。

木の裏側に、息を殺して潜り込む。足音の主が姿を見えたのは、そのすぐ後だった。

体は意外と小さい。美樹よりも背が低いのではないか。だが全員が油断無く武装しており、しかも殺気立っている。歩き方や動きそのものを見れば分かるが、強い。息を殺して、相手の様子を伺う。星明かりに目が慣れて、少しずつ相手の様子が見えてくる。

胴丸と呼ばれる、足軽用の鎧を着けているのが三人。胴丸は名前の通り胴を主体にガードする形態のもので、肩当てがなく、動きやすい反面防御力も低い。彼らに守られて、大鎧を着ているのが一人。大鎧はいわゆるフルアーマーであり、木と皮と僅かな金属で作られているが、長年研究され作り上げられてきたその防御力はかなりのものだ。大鎧の男は、他と比べると頭半分大きくて、美樹とほとんど背丈が変わらない。腰に大小をつけていて、槍は側にいる足軽に持たせているようだった。この状況からして、此処はやはり過去の日本か。しかも戦国時代の。その可能性は、更に高くなった。

小声で男達は何か話しているが、聞き取れない。発音はどうも日本語のようだが、訛りが酷すぎて、何を言っているのか分からない。どちらにしても、美樹にとっては歩く災難以外の何者でもない。早く行ってもらわないと困る。

男達は腰を下ろすと、ぼそぼそと相談する。やはり、何を言っているかは聞き取れない。火をつけないと言うことは、恐らく負けた方の人間だなと、美樹は冷静に判断していた。敗残兵というわけだ。それにしては妙に落ち着いている大鎧の男が、少し不思議だった。或いは育ちがよいのか、もしくは落ち着くことで部下達を制御しているのか。良くその辺りは分からない。

さて、どうするか。もう此処は安住の地ではない。隙を見てさっさと離れるか、それともしばらく様子を見るか。思案のしどころだが、そうもいかなくなる。

男達から視線を逸らして、思案していたのは、ほんの数秒のはずだ。だが、それが致命的だった。

袖口を掴まれた。反応できないうちに、地面に引きずり倒される。落ち葉が派手に舞い上がる、槍を持っていた手を踏まれ、更に首筋に槍を突きつけられた。男達はいつの間にか、全員がすぐ側にまで寄ってきていたのだ。身動きどころか、抵抗も出来ない。大鎧を着ていた男が、腰をかがめて、美樹の顔を覗き込んで来る。喉当てが口元を覆っており、顔の半分が隠れている状態だ。戦国後期には火縄銃対策として、こういう形状の鎧があったとは聞いていたが。至近で見るとぞっとしない。

「何だ、面白い格好のおなごだな。 何処のものだ」

「草のものか?」

口々に言う声は低く、相手を殺すことも前提に入れている口調だ。身動きできず、唇を噛む美樹の手から槍をもぎ取ると、足軽の一人が素早く後ろ手に縛り上げる。かなりきつく縛られたので、痛くて呻いた。本縄という奴だ。縛ると同時に関節を極めるため、抜けるのは無理だ。肩がもの凄くいたい。

足軽の一人が、ぎらついた目を向けて、舌なめずりしている。意図は明らかだ。目を閉じて、舌でも噛もうかと考えている内に、大鎧の男が言った。

「何ものだ。 織田の草か?」

「織田?」

聞き返すと、鋭い音と共に頬が張られる。眼鏡が飛んで、視界がぼやける。胴丸の一人の仕業だ。男は美樹の頭を掴むと、地面に叩きつけた。激しい痛みを覚えるが、悲鳴は上げない。負けるものか。こういう連中には、弱みを見せてはいけない。見せた瞬間が最期だ。

「もう一度聞く。 お前は、織田の草か?」

「知らない」

もう一度頬を張られる。さっきよりもかなり強烈だった。脳が揺れる。そのまま頭を地面に叩きつけられて、後頭部を踏みにじられる。意識が飛びそうだった。もの凄い筋力だ。小柄なのに、美樹がぶちのめした事がある不良生徒など問題にもならない。

「若、どうします?」

「放っておけ」

大鎧の男が言った。威厳のある口調にも関わらず、まだ声は若い。身をよじって必死の抵抗を試みる美樹の胸ぐらを掴むと、胴丸の男は美樹を放り出す。こんな状態では、受け身の一つもとれない。したたかに腰を打った。悔しい。

眼鏡が飛ばされてしまったので、辺りがぼんやりとしか見えない。眼鏡の場所も分からない。一人が美樹のセーラー服の襟を掴むと、木の根元に引きずっていった。必死に体を起こしてにらみ付けようとするが、男はそれ以上何もしなかった。雰囲気から言って、此方の目が悪いことに気付いている。逃げられはしない。さっき地面に叩きつけられた時に、鼻を打った。多分鼻血が出ているが、拭くことも出来ないのが悔しい。落ちていた槍に気付くと、胴丸の男は無造作にへし折った。

忘れていたはずの恐怖がせり上がってくる。鏡で見た、あのときの顔。ぼんやりして周囲が見えない状況で、容赦なく打ち砕かれる希望。どちらがより恐ろしいことなのか、美樹には分からなくなっていた。

震えが来始める。必死に足を閉じるのは、一番怖いことに対する精一杯の無意識的な防御だ。こう言う時は毅然としていろという鉄則が、頭の隅から抜けてしまう。男達は美樹に興味を失ったようで、車座になったまま二言三言話していた。まともな思考が出来なくなりつつある。痛みが、冷静さを、確実に奪い始めていた。

 

恐怖に満ちた長い長い夜が終わる。当然一睡も出来なかった。

大鎧の男が近づいてくる。ああ、殺されると美樹は思った。しかもただ殺されるようなことはないだろう。どうしてだか分からないが、ふと悔しさを覚える。

美樹は元々引っ込み思案で無能だった。それを悟っていたから、クラスの中では必死に目立たないように行動し、虐めを避けてきた。

小中学生は残酷だ。一度相手を弱者だと認識すると、暴力を振るうことになんのためらいも覚えない。無知な教育委員会が異常な権力を持ち、学校教育が崩壊の一途を辿っている現在、その傾向はますます顕著だ。教育を施されない子供は、人間のもっとも愚かな部分を体現する。「教師」に教育が許されず、親は仕事が忙しいことを理由に子供とふれあおうとせず。結果子供は野放しになった。残るのは、暴力性に満ちた人間の生物的本能だけだ。それがますます狂気の連鎖を加速させる。

「弱い方が悪い」等という理論も、そういう社会的状況が作り出してきたものだ。いじめを受ける弱い人間にも原因があるのなど当たり前のことである。だからといって、弱い者が悪いなどと言う理由が認められたら、社会そのものが成り立たない。

道で刺されて死んだら、隙を見せて歩いていた方が悪い。いきなり殴り殺されるような隙を見せる方が悪い。泥棒には入られる方が悪い。詐欺になど引っかかる方が悪い。誘拐される方が悪い。搾取される方が悪い。犯罪にあったら諦めるしかない。事実、社会で黙認され始めている、薄ら寒い理論である。そのような理屈がまかり通るのなら、人間を見かけ次第その場で殺してもいいことになる。なぜなら、殺されるような弱い輩の方が悪いのだから。そして捕まりさえしなければ何をやってもよいという理屈へつながっていくのだ。

美樹はまだ幸運だった。そんな愚劣きわまりない、社会の負のスパイラルに耐えられた。必死に気配を消すことで、その場にいないかのように、暴力を避けてきた。だが、弟は美樹より不器用だった。悪意の連鎖に耐えられなかった。そして空気のように振る舞うことを意図してきたが故に。美樹は弟が巻き込まれていく負のスパイラルをどうすることも出来なかった。

弟を半殺しにした時から、美樹は変わった。積極的に事象に干渉するようになり、それに暴力を用いることをためらわなくなった。そして、社会そのものに対する非常に強い不信感も抱いていった。やがてそれが、周囲全ての人間が、悪意を持って行動しているという理屈へと、化学変化していったのだ。周囲全ての悪意を、美樹は疑っていなかった。何かしらのアクションがある場合は、その裏に悪意があるという前提で思考を進めた。その結果、美樹の知力も他の能力も、以前とは別物というレベルにまで跳ね上がったのだ。

条件さえ揃えば、美樹は最悪のテロリストへ成長した可能性すらあった。

もう一度思う。悔しい。無能な自分が憎い。周囲の全てが憎い。何もかもが許せない。みんな壊れてしまえ。みんな死んでしまえ。憎悪の炎が、心の中で吹き上がる。

大鎧の男が手を伸ばしてくる。その顔がある辺りを必死ににらみ返す。大男が刀を抜いたので、むしろ安心した。このまま殺してくれる方が、むしろ気が楽だ。目を閉じる。一瞬の空白の後、後ろ手に違和感。今まで締め付けていた圧力が、急に消え失せる。

縄が解かれたのだと気付く。混乱が一瞬遅れて、美樹を襲った。

「ど、どうして?」

「好きにするがいい。 我らはもう行く」

唖然としている美樹を残して、大鎧の男は歩み去っていった。辺りをまさぐって、眼鏡を見つけた美樹は、それを掛けて視界がはっきりしてからも、呆然と座り込んでいた。助かったという思いと、どうしてなんだろうという不信感と、虚脱感が同時に襲ってくる。

助かったのだと分かったのは、それからしばらくして。遠くで、再び銃声がして、意識が現実に引き戻されてからだった。

 

2,一乗谷

 

廃寺を出た美樹は、辺りを当てもなくさまよい歩いた。

まず水がない。他にも生活物資の類が無いし、第一此処が何処なのかも分からない。帰る手だても分からない。

此処が戦国時代の日本だと言うことを、美樹は今や疑っていなかった。だが問題は、どの地方で、どういう戦乱に巻き込まれていると言うことだ。それが分かれば、比較的ましそうな陣営に接近することも出来るし、戦乱が起こらなかった地方へ脱出することも出来る。

さっき織田と大鎧の男は言っていたが、単純に信長と判断することは出来ない。織田家はそもそもそれなりに古くからある家であり、彼方此方に大小の勢力があった。それに信長が死んだ後も、織田一族は大きな勢力を持っていた。豊臣秀吉による天下取り、徳川家康による大阪の陣、さらには明治維新に到るまで、織田一族は勢力を落としながらも存続を続けていた。凡庸で知られた織田信長の次男信雄でさえ、最終的には五万石の大名に落ち着いているのだ。ただ、織田一族が参加した戦国時代後期の戦と考えると、東海地方から中部地方までだと範囲を絞り込むことが出来る。

喉が渇く。小川でもないものかと、辺りをふらついている内に、時々銃声が響き渡る。さっきの大鎧は比較的理性的だったから良かったが、下っ端の足軽に捕まったら何をされるか分からない。犯されるくらいで済めば幸運だろう。

ハンカチで顔を散々拭いて、汚れは出来るだけ落としたが、酷い顔をしているのだと思う。縛られていた手首や肩の辺りも痛い。セーラー服もすっかり泥で汚れてしまった。クリーニングしても元に戻らないかも知れない。

途中、行き倒れたらしい死体を見つける。首は残っていたから、まだこの辺に追撃軍は来ていないのだろう。脇腹と背中に一太刀ずつ受けていて、内蔵が零れている。手にはしっかり槍を握っていて、腰には小振りな刀も差していた。幸運だ。

「ごめんなさい」

白目をむいている足軽の亡骸には、既に銀蠅が集り始めている。槍をその手から外すのは苦労したが、どうにか取ることが出来た。刀も外す。鯉口を切って抜いてみると、曇りはなかった。

時代を問わずに共通したことなのだが、戦場で刀はあくまでサブウェポンである。殆どの場合は、主力武器として用いられるのは槍などの長柄系と飛び道具で、刀は首を切り落とすためだけに用いられた。そんな説を美樹は聞いたことがある。槍はかなり刃先が欠けているのに、刀は五体満足である状況を考えると、それは事実なのかも知れない。

問題は持ち運びだ。槍はいいとして、問題は刀だ。鞄など持ってきていないし、制服のスカートには刀を結びつけるような引っかけがない。いっそ刀は放棄するかと考えたが、いつ武器が手にはいるか分からない現状、それはあまり望ましくない。仕方がないので、死体がつけていた紐を剥がすと、四苦八苦しながら縛り、たすきがけにするようにして肩に掛けた。

水が欲しい。死体を探るが、水筒は空になっていた。腰につけていた笹の中には食物がありそうだったが、たっぷり鮮血がしみこんでいて、とても食べる気にはなれなかった。

戦闘地域を抜けて、人里に出ないと安心できない。この時代、追いはぎ村や海賊村なんてものが珍しくもなかったらしく、ある程度の規模の集落でないと危険だろう。どうしていいか分からないが、とにかく戦闘音からは離れる必要がある。喉の渇きが、焼け付くような痛みに変わってきている。何か食べようにも、どれを口に入れて大丈夫なのか、さっぱり分からない。

空腹と疲労と乾きが、徐々に意識を散漫にさせていく。気を配る回数が減り始め、足下も不確かになり始める。ごねている暇も相手もいない。歯を食いしばり、辺りのもの全てを恨みながら歩く。歩く。必死に歩く。

何とか川が見つかる。何歩かでわたれそうな細い川だが、救われたと美樹は思った。ただし、火を通さないと赤痢になる。さてどうしたものかと思った瞬間。遠くに煙が見えた。それも、尋常な量の煙ではない。以前、山火事を見たことがあるが、その時のような煙量だ。

呆然と立ちつくす。一体自分は何処にいるのだろう。

頭を振る。体力が尽きると、どうしても精神は散漫になる。何だかぼんやりして、どうしていいのか、何から手をつけていいのか分からない。槍を持ってきて良かったと思う。杖代わりになるからだ。

火をたかなくては。出来るだけ周囲に見えないように火をたくにはどうしたらいいのか。竈を作るのか。竈を作るとして、燃やすものを用意して。用意した後は火をつけて、湯を沸かす。沸かすにはどうするのか。容器がいるではないか。

乾いた笑いが漏れてきて、大の字に河原に転がってしまう。背中の刀の感触が痛くて、それがまた何だかおかしい。水が側にあるのに何も出来ない。喉が渇いているのに、飲んだら病気になるのが目に見えている。もうどうでもいい。何もかもが自棄になりかかっている。こうなったら、適当な相手でも襲って飲料水を奪うか。そうだ、こう言うところでは、死者を弔うために僧が従軍していたはず。そういう奴らなら、多分飲料水くらい持っているはずだ。

さっきの奴らだけではない。どうせ此処では力が物を言うのだ。美樹が過ごしていた日本も、じきにこういう場所になるのだろう。強者が何をしてもいいというのは、こういう事だからだ。だったら美樹が暴力に任せて相手を蹂躙してもいいはずだ。さっきの連中がやったようにだ。

気配を感じる。ふと顔を上げると、こっちを見ている影に気付いた。

女だ。小柄な女。体のつくりから言って、年はそう変わらない。だが、非常に小柄だ。140センチ後半程度しかないのではないか。さっきの男達が小柄だったこともあり、多分普通なのではないか。

粗末な木綿の服を着て、頭を手ぬぐいのようなもので巻いている女は桶を手にしていて、此方を見て硬直していた。

美樹の口の端がつり上がる。相手が悲鳴を上げようとするのと、美樹が躍りかかるのは、殆ど同時。

殺す!奪う!蹂躙してやる!

半笑いのまま、飛びかかった美樹は、苦もなく小柄な女を押さえつけた。あわただしく背中に手をやって、刀を抜く。口の端から泡を飛ばしながら叫ぶ。

「み、みず! 飲料水! 水寄こせっ!」

「ひっ! お、お許しを、お許しをっ!」

頬を容赦なくはり倒すと、腰にあった水筒をもぎ取った。竹で作った粗末な水筒であったが、水はしっかり入っていた。一息に飲み干すと、首筋に刀を突きつけて、言う。震え上がっている女は非常に丸っこい顔立ちをしていて、足が短く、今の日本人とは種からして違うように見える。

「仲間の所に案内しろ! すぐ! 今すぐだ! もたもたしていると、首を切り落とすぞ!」

「分かった、分かったから! 命だけは、命だけは助けて!」

馬乗りになったまま、呼吸を整えていく。少しずつ狂熱が冷めていくと、それに伴って周囲の様子も見えてきた。女の胸ぐらを掴むと、顔を近づける。

「この近くの村か何かの人間か?」

女はこくこくと必死に頷いた。人によっては嗜虐心を刺激されるかも知れない動作だ。こんな時代の人間にも、こういう奴がいるのか。この年まで良く生き残れたものだ。あげく、襟から手を離すと、しくしく泣き出す有様だ。舌打ちすると、美樹は女から体をあげ、槍をつきつける。

「此処は何処の国だ」

「はい? ひいいっ!」

「何処の国かと聞いている!」

「え、越前の国だ。 この辺りは、一乗谷だ!」

槍を突きつけると、女は蒼白になりながら言った。越前。越前というと、今の福井県か。そうなると、織田と呼ばれている勢力は、信長である可能性が高い。

「今の殿様は?」

「殿様? え、ええと。 朝倉の左衛門督様じゃ」

「義景公か?」

「へ? は、はい。 そう、そんな名前じゃった」

そうなると厄介だ。美樹は素早く情報を記憶から引っ張り出す。

越前の朝倉家は、信長の宿敵の一つ。しかも戦いは一進一退を繰り返し、最終的に朝倉家が滅ぶまで熾烈な攻防が繰り広げられたのだ。一般的なイメージでは実力に勝る信長が一方的な戦いを繰り広げていたように思われているが、それは違う。実際には一歩間違えば織田軍が全滅するような危地が何度もあった。義景は凡庸な君主だったとされているが、それでも精強な朝倉軍の抵抗は歴史に残る名将である信長の手を焼かせるほどだったのだ。

此処で問題なのは、最終的にどうなったか、ではない。戦の広がる範囲が読めないこと、どっちが勝っているか分からないことだ。

防衛能力が低い小動物は、大規模な群れを作ることが多い。そうすれば、敵の襲撃を受けた場合にも、自分が生き残る可能性が高いからだ。悔しいが、今はその方法を用いるしかないだろう。最悪でも食物は確保しないといけない。

「もっと水が欲しい。 食い物も欲しい。 お前の村に案内しろ」

「え? でも、村には今、織田様の軍勢が」

そんなことは分かっている! 村の連中が避難しているところに連れて行けと言っているんだ!」

思わず声を荒げてしまった美樹は、喉がより乾くのを感じて舌打ちした。それに、この女を人質にして行ったところで、戦になれている村人達が素直に従うとはとても思えない。場合によっては、人質ごと排除に掛かってくるだろう。こういう時代、子供は死んでもまた産めばいいものなのだ。気を抜いたら即座に殺されると思った方がいい。

呼吸を整えて、神経をとぎすます。逆らいそうなら殺せ。暴れそうなら殺せ。不穏な気配を見せたらその場で斬れ。自分自身に言い聞かせていく。

先に歩かせる。背中にぴったり槍をつける。これでも長刀は二段だ。この女くらいなら、即座に串刺しに出来る。さっきの連中にはまるで勝てる気がしなかったが、戦慣れしているとはいえ普通の村人一人ならどうにでもなる。

前を歩いている女は、結構器用に河原を歩いていた。殆ど体勢を崩さないし、歩くのも速い。何度か槍が離れそうになって、美樹は苛々した。不意に女が語りかけてくる。

「あんた、バテレンか?」

「はあ? 何で」

「バテレンは目が四つあるって聞いた。 それに、やたらでかいし」

「……いや、違う」

そういえば、そういう勘違いがこの時代あったという話を聞いたことがある。葡萄酒を飲むポルトガル人を見て、人血を嗜好すると勘違いした人々もいたそうである。滑稽だと笑うことが出来るだろうか。あまりにも習慣が違う文化同士が接触した場合、生じるのは喜劇ではなく悲劇である事の方が圧倒的に多い。

「じゃあ何だ? 人間じゃないだろ。 変なことばっかり言い腐って」

「……さっさと歩け」

女が足を止める。そして振り返る。じっと此方を見つめてくる。

「村のみんなをどうする気だ」

「どうもしない。 用が済んだら出て行く」

「嘘だ」

女は青ざめながらも、唇を噛んで、美樹をまっすぐ見つめてくる。美樹はすっと目を細め、槍を握る手に力を込めた。場合によっては、此奴を殺さなくてはいけなくなる。タイムパラドックスなど知ったことか。殺さなければ殺されるとなれば、美樹は容赦なく手を下す。

「さてはあんた、地獄から来た、鬼か?」

「だったらどうする」

「村のみんなを喰う気だな。 だったら、おら此処から一歩だってうごかねえ。 おっともおっかも、「じょうど」で会える。 殺すなら殺せ。 喰うなら喰え。 おらはここから、一歩だって動かないからな」

そう言うと、女は目をつぶって、合掌する。そしてなんまんだぶ、なんまんだぶとつぶやいた。胸の中央を槍先で軽く押すが、女は眉一つ動かさない。信仰によって死の恐怖を超越することが出来た、素朴な信徒の姿があった。

思い出す。

朝倉家が最終的に織田家に負けたのには、幾つか理由がある。一つはもちろん当主の力量の差だが、もう一つは戦力で劣るにも関わらず、二正面作戦を強いられたことにある。

朝倉家が領国にしていた越前は、一向宗が支配する「百姓の持ちたる国」越中と長い間交戦状態にあった。一向宗といっても、竹槍を持った農民などとは訳が違う。実際は戦闘経験豊富な武士達が率い、本願寺の圧倒的な資金力に裏打ちされた最新鋭の武装を持つ集団である。火縄銃も豊富に持ち、しかも信仰によって死を恐れない集団。信長も手を焼いた相手が、朝倉家にも戦いを挑んでいたのだ。

しかも信仰は人間の心を通じて潜り込む。特に一向宗の教えは、「南無阿弥陀仏」と唱えるだけで極楽浄土に行くことが出来るという、極めて分かりやすいものだ。これは民衆の心に希望をもたらすために簡略化された思想の究極型とも言えるものだが、逆に言えば非常に民衆を洗脳支配するのにも都合がよい。そして、敵に回した時、これほど恐ろしいものはない。これに限らず、朝倉家は戦略上のミスが多く、対織田家包囲網の足並みを乱す行動を何度もしており、結果徐々に追い詰められていったのである。

現に、美樹の前にいるこの女は、突きつけられた死を全く恐れていない。心のよりどころというものは、こうも人間を別の存在へと変えるのか。宗教が死に絶えた日本に暮らした美樹は、こういう光景をはじめて見た。背筋に冷たい汗が流れる。

この女を逃がしたら、もう安全圏に出る好機は無いだろう。幸運はそう何度も続くようなものではないからだ。

暴力で心をくじくかと一瞬思ったが、考え直す。それは多分無理だからだ。この女は喜んで殉教するだろう。それが良いことか悪いことかなどはどうでもいい。此処で死なれると、美樹が困るという事だけが重要なのだ。必死に思考を巡らせるも、この女に言うことを聞かせる手段が思い浮かばない。

最終的に逆らう一向宗をジェノサイドした信長の気持ちが、少し分かるような気がした。確かに、これほど唯物的な計算を乱すものはない。こういう単純で一種狂的な信仰の前には、理屈も利益も通じない。発作的にどんな行動を起こすか知れず、また社会の発展をマイナスに傾ける行動に情熱を注ぐこともためらわない。

遠くで銃声がした。女は微動だにせず、ひたすらなんまんだぶと唱えている。非常にまずい。やむを得ない。譲歩するしかない。記憶に残る一向宗の信仰をすばやく反芻すると、言い訳を組み立てる。

「ああ、分かった分かった! いいから目を開けろ」

「……」

「私は確かに地獄から来た鬼だが、阿弥陀様の教えを守るものを喰うことなど出来ぬ」

じっと女は此方を見つめてくる。美樹も槍を構えたまま、静かにそれに相対する。もし気合いで負けたら、即座につけ込まれると思ってよい。心理戦で勝つには、相手の弱みを突くことだ。

「鬼でも腹は減るし喉は渇く。 ただ食事をしたいだけだ。 今は別に人間の肉でなくてもかまわない」

「嘘ではないだか?」

「うるさいな。 もし嘘だったら、とっくにお前を喰っているさ。 いいから、水と、食料を持ってこい。 そうしないと、此方にも考えがある。 お前達を直接殺すことは出来ないが、信長にお前達のことを知らせることは出来る。 そうなればどうなるか、分かっているな。 何しろ相手は魔王だぞ。 阿弥陀様でも、お前達を救うことは出来ないだろうよ」

女の顔がさっと青くなる。彼女も知っているのだろう。第六天魔王と呼ばれた信長が、一向宗を毛嫌いしていることを。比叡山を丸焼きにするなど、仏教の権威を全く恐れていない事を。

本願寺の坊主達は、信長に対する聖戦を強要したと聞いている。今の時期に交戦状態に入っているかは歴史知識の浅い美樹には分からないが、それでもいい印象を抱いている一向宗信徒はいないだろう。

「どうした? 私は腹が減っている。 阿弥陀様の教えでは、誰にでも手をさしのべるのでは無かったのか? 鬼は例外だとでもいうつもりか?」

「……」

決してそんなそぶりは見せないが、美樹は背中に冷たい汗が流れるのを感じていた。美樹は人間を信用していない。相手の心の隙を上手く使って操作することを考えなければ、多分この状況は乗り切れない。

本物の鬼になれ。言い聞かせる。悪魔にでもなれ。暗示を掛けるように言い聞かせる。心を冷やす。絶対零度まで冷やし込む。

「分かった。 水と食料だけだぞ。 すぐにこの世から出て行ってくれるだな。 おっとうにもおっかあにも手は出さないだな」

「約束する」

そんな気はさらさら無いが、即答してみせる。女はっしばらく美樹の顔を見ていたが、やがて身を翻して、ぱたぱたと走っていった。乾ききった唇を舐める。脅しが少し足りなかったかと、不安に感じたのだ。

洞窟でもあればいいのだがと、周囲を探す。茂みに潜り込むと、顔に飛んでくるヤブ蚊を追い払いながら、座り込んだ。

女を追った方が良かったかと思い、美樹は作戦の失敗を悟った。だが、あの女だけならともかく、他の村人が美樹に気付かない保証はない。やはりこれで良かったのだ。

ため息が出る。ヤブ蚊を何匹かたたき落としている内に、眠くなってきた。うとうとしている内に、いつの間にか意識が落ちていた。

 

目が覚めたのは、気付いたからだ。川の流れるさらさらという心地よい音に混じっている何か。息を殺して近づいてくる誰かの足音。それはどんな不協和音よりも、腹立たしいものだった。

頭よりも、体の方が油断に懲りていたらしい。すぐに手足の先まで注意が行き渡り、音を立てないように体勢を変えると、匍匐前進で茂みから森の奧へ抜ける。槍を低く伏せたまま、来る相手の様子を伺う。

足音が消える。此方に気付いたのだと、すぐに体が悟った。

殺気が凄まじい勢いで迫ってきたのは、次の瞬間。跳ね起きて、気合いと共に槍を振るう。相手も殆ど同時に、美樹のものより重そうな槍を繰り出してきていた。美樹の槍が相手の眉間に、相手の槍が美樹ののど元に。寸前で互いが止まったのは、驚いたからだ。

「! お前は!」

「驚いたな。 鬼が出たと言うから、どのようなおおつわものかと思ってみれば」

槍を外さない美樹に対して、その男は、もう戦闘態勢を解いていた。あの、口元まで覆った鎧を着た、若い男は。

「槍を下げよ。 儂に戦う気はない」

「……」

「腹が減っているのだろう? 顔に書いてある。 付いてこい。 少しくらいなら、飯を食わせてやってもいい」

渋々美樹が槍を下げたのは、これ以上空腹が酷くなると、戦闘能力が無くなると体が警告していたからだ。喉も焼け付くように渇いていた。あの女に対する怒りはあまりわいてこない。というよりも、あれだけ脅してやったのに、よく大人に相談した。勇気のある奴だ。むしろ見直していた。

男はずんずんと山の中に歩いていく。毎日欠かさず修練している美樹でも付いていくのは大変だ。鋭い草の葉で、何度も足を切りそうになりながら、美樹は言う。

「この辺りは、一乗谷なのか?」

「不思議なことを言う。 そうに決まっているだろう」

「そうなると、義景公は負けたのか?」

「ああ、刀禰坂でな。 名の知れた侍大将が何人も倒れた。 ひどい負け戦だった。 もう朝倉の家は、終わりだろうな」

絶望的な状況を語っているにしては、男の声は酷く落ち着いていた。

この時代の武士は、江戸時代のそれとは別物だ。主君を七回変えてようやく一人前という言葉があったとおり、生きるためにはどんなことでもするのがこの時代の武士だ。恥という概念はあったが、それも微妙に現代とは違う。力を尽くした後は生き残るために奔走するのである。戦場の狂気と内面の美学の危ういバランスの上に、武士達は立っている。

山奥へ歩いていく。ふと、さっきの煙が上がっていた方を見る。そして、煙の正体を、知ることとなった。

街が、あった。遠目にも水路が張り巡らされ、緩やかに丁寧に区画整備された、美しかったと分かる街だ。

それが、まるごと、燃えていた。

朝倉家の本拠地一乗谷。朝倉家歴代の文化保護政策により、多くの公家が戦乱を逃れて住み着いた場所。京風の文化が華やかに咲き誇り、そして消えた場所。確か歴史は百年以上もあったはず。それが、目に見えるほどの速さで、滅び去っていく。

その瞬間を目撃していると思うと、身震いがした。

膨大な煙が、絶え間なく燃え上がる街から噴き上がり、まるで悪しき竜のようにうねり、火の粉を散らしながら舞っていた。木が軋みながら燃え落ちる音が、此処まで響いてくる。まるで、桜が満開になったかのようだ。桜が満開に咲き誇る谷。ただし、花びらは炎で出来ていて、歓声の代わりに断末魔が聞こえる。

周囲に黒々と布陣している織田軍の姿が見えた。もちろん、一般人を助けようなどとはしない。燃えるに任せるままだ。巨大な街が、人為的な悪意によって、またたくまに滅びていく。

地獄とは、こういう光景のことを言うのではないか。美樹はそう思った。やはり、人間は悪意の生き物だ。人間を構成しているのは、こういう地獄を生み出す狂気なのだ。強く美樹はそう思った。

男はあくまで静かだ。この分だと、朝倉家の人間ではないのかも知れない。如何にこの時代の武士が契約の原理で主家と結ばれたドライで現実的な連中だったといっても、それにも限度がある。傭兵のような事をしていた武士も少なくなかったと聞く。ただ、この若さでそれだけ知られた武士は、いたのだろうかという疑念も沸いてくる。

数々の疑念が流れていく内に、また腹が一つ鳴った。男は振り返りもしない。もうこうなったら、行くところまで行くしかない。

美樹は男について、山奥の奧まで、自分を叱咤しながらただひたすらに歩き続けた。弱音を吐くことは、プライドが許せなかった。置いて行かれたら確実に死ぬという恐怖心も、足を動かす原動力となった。

殺されるとなったら、一人でも多く道連れにしてやる。そう誓いながら、美樹は歩いて、男を追い続けた。

 

2,隠れ里

 

藪を抜けると、其処に小さな家があった。道など当然ない。昼なお暗い森の中に、不意に家が建っている光景は、違和感を生じさせるに充分だった。

流石に家の周囲は開けていて、小さな畑が幾つかある。何を育てているのかはよく分からなかった。稲やら大根やらにんじんやらではなさそうだ。畑の向こうには、急ごしらえらしい掘っ立て小屋が幾つかあった。そして、十人以上の粗末な身なりの男女が、此方をずっと見ていた。中には、竹槍を構えている者もいる。

老人が一人歩み出てくる。美樹を一瞥すると、彼は言う。

「山崎様、其方は?」

「物見の途中に見つけた」

「はあ、しかし。 いくを殺そうとしたのは、その鬼では?」

「誰だって、追い詰められればそうなる。 水と食料を分けてやれ」

舌打ちした老人が、訛りの酷い言葉で、若者達に何か言う。警戒をむき出しにしながらも、何人かが握り飯と水の入った桶を持ってきた。これでやっと一息つける。握り飯は味噌をつけて焼いてあったが、味は殆ど無かった。米自体もかなり硬い。そういえば、京都周辺では薄味が好まれると聞いたことがある。この辺でも、こういう味付けが好かれるのかも知れない。老人は時々美樹の方を見ながら、山崎と呼ばれた若者に言う。

「朝倉の殿様はどうなりましたかな」

「式部大輔様が連れて逃げられたと聞いているが、さてな。 この辺りに織田の足軽は来ていないが、どうなるかは分からんぞ」

村人達は、不安げだ。「いく」と老人が呼んでいたらしいさっきの娘は見えないが、ひょっとすると家の中でおとなしくしているのかも知れない。美樹に気付いても、出てこれはしないだろう。

「どうする? 越中に逃れるか? 越中まで行けば、きっと阿弥陀様のお導きがあるはずだで」

「そうもいくまい。 織田も馬鹿じゃねえ。 きっと網張って待ちかまえてるだろうし、下手に逃げても皆殺しにされるだけだろ」

「だからって、此処にとどまるのか? いずれ見つかって、皆殺しにされるぞ」

手に付いた焼き味噌を舐めながら、美樹は桶の水を一口に呷った。こんなに美味しい水は産まれて初めてだ。ハンカチを濡らして額や首筋を拭き、ようやく一息つけたが、状況はすこぶる悪い。

彼らの殆どは生き残れないだろう。なぜなら美樹の知る限り、信長のジェノサイド政策は越前でも行われたからだ。織田家が朝倉家を滅ぼした後、一時期越前は一向宗の手に落ちた。その後、再侵攻した織田軍の手によって、一万人以上が虐殺され、四万人以上が奴隷として売られたと聞く。信長による苛烈なローラー作戦は、有名な伊勢長島だけではなく、一向宗のいるいたるところで行われたのだ。

それは多分まだ先の出来事になるが、何しろ合理主義者の信長のことである。抵抗勢力に容赦はしないだろうし、彼の部下達も同じ考えのはずだ。

信長は残虐であったが、それ以上に極端な成果主義者であった。彼は宿将であっても仕事の出来ない人間には容赦しなかった。信長の怒りを買わないようにするためには、ただ必死に働くしかなかった。それを本当の意味で実行出来た人間は、彼の部下に一人、同盟者に一人だけだった。やがてその二人が天下を取る。美樹はそれを知っている。

山崎に従っていた、胴丸の男達が現れる。美樹とは逆の方向の森の中から現れた。彼らは美樹を一瞥したが、それだけだった。恐るべきドライさである。考えてみれば、殺し合いを日常的に行っている者達である。人の生死に乾いた考えを持つのは、当然なのかも知れない。

「どうだった? 越中との国境は」

「朝倉の敗兵が充ち満ちておりまさあ。 織田の軍勢よりも、統制が取れていない分連中の方が厄介でしょうなあ」

一番年上らしい、髷に白い物が混じった男が言う。口調は淡々としていて、ただ状況を報告する機能性だけがあった。彼が朝倉と呼び捨てにしたところから言って、ますます彼らがその家臣である可能性は低くなった。

「義景公は、もう討ち取られた様子か?」

「いや、まだ分かりませんな。 織田の足軽が彼方此方走り回っているようで、それを考えるとまだ居場所が分かっていないのでしょう。 ただ、どうも式部大輔様の動きがおかしいという噂もありましたしな。 今はどうなっているやら見当も付きませんな」

「山を越えて、飛騨に抜ける道は?」

「今はまだ無理でしょうなあ。 織田が手練れの草を仰山はなっているでしょうしな」

そうかと山崎はつぶやいて、呻いた。美樹だって同じ立場だったら、似たような事をしていたかも知れない。今までの状況から言って、彼らが織田家の人間だとは考えられない。生き残るためには、それこそ鬼神も目を見張るというような働きをしないといけないだろう。

「山崎様、どうしますだか」

「阿弥陀様の教えを捨てろ、といっても聞かぬだろう?」

「それは。 誰も地獄には堕ちたくありませんでな」

「……ならば、この世の地獄を生き抜くしかあるまい。 かなり危険だが、越中へ抜けよう。 そちらなら、織田の勢力圏ではない。 越後に抜ければ、戦国最強と言われる謙信公のお膝元だ。 信長も手が出せないだろう」

村人達の顔に安心が広がる。その横で、よく言うと美樹は思った。

確かに謙信は仏教徒だが、別に一向宗を保護していたわけではない。むしろ謙信は「自分教」とでもいうべき偏執的な思想の持ち主であり、それを実践することに至上の美を見いだしていた節がある。政治はおろそかになりがちで、領内では家臣同士の争いごとが絶えず、一向一揆も何度か起きている。確かに軍事面では戦国最強だろう。あの武田信玄でさえ謙信には勝てなかったのだ。だが、頼りになる人物かというと、小首を傾げざるをえない。

しかも越中や加賀と言われたこの時代の富山県や石川県は群小の豪族と一向宗がせめぎ合っていて、治安も最悪だったはず。しかも本願寺の坊主共が好き勝手な事をしたため、「一揆内一揆」等というものまで起こったそうである。とても潜り込んだからと言って、安全がえられるとは思えない。最低でも、其処は浄土ではない。

不意に山崎が座って考え込んでいる美樹の方を見る。一緒に歩いて分かったが、背は美樹の方がわずかに高い。高いのだが、威圧感は比べものにならない。胴丸の男達を見て思うが、山崎が強いと言うよりも、美樹が平和ぼけしすぎているのだ。長刀有段者の美樹でさえこうだ。普通の女子高生が戦国時代にでも迷い込んだら、ひとたまりもなく心身共に蹂躙され尽くして命を落とすのではあるまいか。人間は弱いと見た相手には、際限なくつけあがる。ましてこのような時代だ。弱者は強者のエサに過ぎない。

本当の意味で、強者が何をしてもいい時代なのだ。弱い方が悪いなどと宣う人間には、まさに天国であろう。

「なんと呼べばいい」

「中島美樹」

「ほう? 武家の娘か。 どうりで凛としているわけだ」

山崎は目元に笑みを浮かべると、東の方を見ながら言う。視線の先には越前があるはずだ。つまり、彼も行動を悩んでいるのだろう。

「美樹はどう思う? 越中に抜けるべきか?」

「や、山崎様! そんな鬼に意見を聞くのですか!」

「今は猫の手でも借りたい。 まして鬼は百人力と言うではないか」

青ざめてくってかかった村人を軽くいなすと、山崎は再び聞く。どうするべきか、意見はあるかと。

「越中に行くくらいなら、越後を抜けて、関東まで行くといいかもしれない」

「ほう?」

「関東の覇者北条家は、農業保護政策が盛んだ。 農民に対する待遇もいい」

北条家はまだしばらく滅びない。本拠地である小田原城までは何度も攻め込まれたが、それでもその広大な領土の安定度は周辺諸国の中で屈指のはずだ。また、北条家は農民を味方につけることで領土の安定と収入の増加を計った。多くの強豪に攻め込まれながらも、結局長期政権を保てたのには、それが大きな要因となっている。

「ただ、老大国だ。 内部は腐っているだろう」

そう言いながら、美樹は思い出す。小田原北条家には、腐敗を揶揄する逸話が幾つも残っている。まして、今は凡庸で知られた氏政が当主をしているはずだ。農民にとってはある程度暮らしやすい国かも知れないが、侍大将達は不遇だろう。

「なんだ、どういう意味だ」

「農民達はいいが、貴方はまともな待遇を受けられないかも知れないよ」

「その時はその時だ。 武田家にしろ徳川家にしろ、儂が仕える家は幾らでもある」

「うん? まさか本当に関東に行くつもりか?」

美樹は少し驚いていた。この農民達と山崎の関係がよく分からない。山崎はこの若さで大鎧を着ることが出来るような身分だ。かなり上級の武士の子息か、もしくは天才的な才能で成り上がった人間だろう。それが、何故このような少数の農民達に入れ込む。まして越前では、一向宗に対する風当たりが強かったはずだ。

「いい考えだなと思っただけだ。 まだ結論を出したわけではない。 朝倉の殿がどうなったか分からないし、今動くのはまだ早い」

山崎の声は異様に落ち着いていた。なぜだかよく分からないのだが、不安と不満が沸き上がってくる。感情の小規模な突沸が何度も起こる。どうしてだろうか。さっきから、妙に山崎に噛みついている自分がいる。

「自分で言ったことだが、旅費はどうする。 治安が悪い地域だって多いぞ」

「出来るだけ街道を使う。 後は銭だが、これもどうにかなるかもしれん」

近くで鉄砲の音がした。山崎が叱咤すると、村人達が慌てて家に隠れ込む。山崎もすぐに身を翻し、近くの木立の影に隠れ込んだ。

分からないことが多すぎる。歴史的な知識があっても、道しるべにさえならない。そもそもこの村は一体何だ。何がどうして、自分はこんな事をしているのだ。あの燃え落ちる都市を目撃した今は、此処が現代の日本ではないと理解は出来る。だが、理解できる、ただそれだけだ。何も出来ない。

茂みでしばらく伏せていると、再び銃声。悲鳴が一つ上がる。まだまだ、朝倉家の残兵に対する掃討戦は続いているのだろう。首をすくめた美樹は、震えが這い上がってくるのを感じた。原始的な先込め式マスケット銃とは言え、よほど条件が整わない限り、槍でどうにか出来るとは思えない。それなのに、ずいぶんと山崎は落ち着いていた。

「ところで、美樹。 この辺りで中島という武家は聞いたことがないのだが、どこから来た」

「分からない」

そう答えるしかなかった。身を伏せている美樹を山崎は怪訝そうに見たが、やがて茂みから顔を出す。

もう異邦人が行ったらしいと美樹が悟ったのは、それからしばしして。村の連中も山崎が戻ってきたことを確認して、おいおい家から出てくる。

ただ一人、美樹だけが、この状況に適応できずにいた。

 

朝になっても、悪夢は冷めていなかった。美樹は揺れる頭を必死に支えて、槍を掴む。一宿一飯の恩という言葉がある。戦闘能力があると見なされた美樹は、そのまま暢気な居候などさせてはもらえなかった。まだ日も出ない内から、美樹は「五作」というもっとも年かさの足軽と一緒に、辺りを警戒しに出ていた。

美樹は知らなかったのだが、戦国時代に、女性が戦うことはあったのだという。山崎の話によると、織田家の武将池田恒興配下には、女性で編成された鉄砲隊があるそうだ。気の毒な話である。池田隊は後に小牧長久手の合戦で徳川家康率いる精鋭に再起不能なまでに踏みにじられ、壊滅している。その女達がどんな目にあったのかは、わざわざ言われずとも想像が付く。

山崎配下の足軽達の名前は、昨日のうちに聞かされた。美樹を組み伏せた若いのが四郎次。もう一人の若い男が大丸だそうだ。どちらも武士ではなく、土豪に率いられて戦う足軽だ。それに関しては、今美樹と一緒に歩いている五作も同じであろう。

山は深く、はぐれたらもう二度と同じ場所に戻れそうもなかった。美樹は必死に歩く。既に靴下は汚れきり、足は酷い臭いがしそうだ。髪もかなり埃が付いていて、早く洗いたい。

気が緩むと、すぐに五作は振り返る。年老いているが、脂肪とは無縁の体つきをしていて、事実戦って勝てる自信はない。五作は山崎以外とは全く喋ろうとせず、美樹に話しかけてくることもなかった。美樹はただ予備戦力としか考えられていないようで、足軽達は対等の存在だと思っていないらしい。

しかし、その足軽達も、見たところ元から山崎の配下であるとは思えない。事実、足軽達は山崎を尊敬しているそぶりを見せても、臣下の礼は取っていない。美樹には分からないことが多すぎる。頭を抱えて、全て投げ出してしまいたくなるが、それだけはしない。この状況、隙を見せたら終わりだ。

「偵察にしては遠いな。 何処に向かっているのだ?」

小声で後ろから五作に言うが、答えは返ってこない。元々美樹も期待していなかったから、別に不快だとも思わない。ただ歩き続けていると、しばらくして、五作が言った。

「義景公がいそうな場所を、見に行く」

美樹は驚いた。完全に無視されていると思っていたからだ。腰につけた竹筒を口に当てると、五作は更に山奥を目指して歩く。美樹は朝もの凄く嫌そうな顔をしていくが渡してくれた竹筒に触れ、水の感触を確かめながら、更に言った。

「あまりいい殿様ではないと聞くが」

「それでも、信長よりはましだ」

今度は即答だった。藪をかき分けていく五作に続く。足が傷だらけだ。スカートはもう繕えもしないだろう。

柔らかいものを踏んだ。死体の手だった。肌が土気色に変わっている。既に腐敗が始まっているだけではなく、食い荒らされていて、辺りには臓物も散らばっていた。両目はえぐり出されていて、顔には赤黒い穴が空いている。悲鳴を上げそうになるが、必死にこらえる。五作は振り返りもせずに言う。

「織田の足軽だな」

「は、敗残兵に返り討ちにされたのか?」

「さてな」

「もし朝倉方の人間に殺されたのなら、この辺りに友軍がいるのではないか?」

そういう言い方があったのか美樹は知らなかったが、とりあえず言ってみた。五作は今度は応えない。やがて、しっと口の前に指を当てて黙るように促してきた。

美樹も感じた。煙の臭いだ。何か燃やしている。多分、肉や食べ物ではない。

低く伏せて、五作に続く。

開けた場所に出た。森の中を切り開いて、其処に建物が造られている。山の中に埋もれるようにして、だが確実に人間の建造物である存在感を作り出している。堀や矢倉があり、一瞬城かと思ったが、立派な寺だ。しかし、寺と言っても、非常に堅固な作りで、周囲は分厚い塀に囲まれている。この時代、武家屋敷でさえ小型の要塞と化しているとは聞いていたが、実物はこういうものなのかと、美樹は少し感心した。あくまで少しだけである。そういえば、延焼を防ぐため、壁に泥を塗ることが多いという話も聞いていた。遠くから見る分に、嫌に配色が地味なのは、それが原因かも知れない。

その寺の周囲を、分厚く兵隊が取り囲んでいた。

兵士達は殆ど足軽で、実戦装備である。寺の麓の辺りには、背中に旗指物をつけた騎馬武者も多くいる。布陣は分厚く、寺の中にいる人間が、外に出るのは不可能だろう。どこかで鶏が鳴いた。兵士達は身じろぎさえしない。一触即発の雰囲気が周囲に漂っており、いつ殺し合いが始まってもおかしくなさそうだ。寺の中にどれだけの人数がいるかは分からないが、いざ戦いになれば大勢の死人が出るだろう。

旗指物は遠くからではよく分からない。ただ、足軽の武装はどれも雑多。それに、織田家の足軽の屍がうち捨てられていたと言うことは。

「式部大輔様の旗だ」

五作がつぶやく。事情は分かった。

あの寺が織田に通じたか、或いはその逆に式部大輔とやらが織田に通じたのだろう。ただ、もし前者である場合は、今の状況から言って悠長に攻城戦などするわけがない。となると、十中八九は後者。そして、わざわざあれだけのものものしい包囲を行うと言うことは。

「義景公が、あの中にいるのだな」

「何故そう思う」

「そうでなければ、あれだけものものしい包囲をする理由がない。 しかも、包囲はもうそう長くは続かないだろう。 見たところ、寺にそれほどの人数が籠もっているとは思えない。 攻め込まれたら、ひとたまりもないのではないか」

「……すぐに戻るぞ」

五作が身を翻し、小走りに行く。美樹は必死に後を追ったが、何度もはぐれかけた。もう老人の足に、こうもついて行けないのだから情けない。「鍛えている」等という言葉が如何にむなしいか、よく分かる。

美樹は悟った。史実では、あそこで義景は死んだのだろう。今美樹は、過去の人間に余計なことを吹き込んでしまった。

今更ながらに、恐ろしい事をしてしまったと思った。これはタイムパラドックスというのではなかったか。今更朝倉家が巻き返せるとはとても思えないが、それでも死ぬはずだった人間が、生き残ってしまったらどうなるのか。バタフライ効果という有名な言葉もある。未来がどうなるのか、見当も付かない。

考え事が、風の音と共に流れる。前を走っている五作は、息も切らせていなかった。

 

3,悩み

 

山奥にそびえる寺。周囲を囲む兵士達。

山崎と、四郎次を連れて寺に戻った時に、状況はまだ変わっていなかった。山崎の話によると、此処は賢松寺というらしい。近くには平泉寺という、もっと強力な防備を施された寺もあるという。多数の僧兵を抱える強力な宗教武装組織。この手の危険な半独立勢力が、戦国時代には彼方此方にあったのだろうと、美樹は推察した。僧兵を抱えて武装勢力化した寺はもっと昔からあったはずだ。いつだかの上皇も、彼らの横暴を嘆く発言をしていたかと思ったが、具体的な名前は忘れた。

「五百はいますなあ」

四郎次が言った。にやにやと時々美樹に笑みを向けてくる。魂胆が透けて見えて、気色が悪い。山崎は表情を殆ど動かさず、食い入るように軍勢を見ていた。美樹にはさっぱり分からないが、配置や展開されうる戦術などが分かるのかも知れない。

「どうするのだ?」

「考えるのは俺じゃねえ」

四郎次はにやつきながら返してくる。舌打ちすると、美樹は不愉快なその顔から視線を外した。次に戦うことがあったら負けないと言い聞かせる。やがて、山崎は皆に戻るようにハンドサインを出し、五分ほど戻ったところで言った。

「裏手から入れるかも知れない」

「義景を助けるのか?」

「そうだな。 それがいいだろう」

「無益だ。 もう組織的な抵抗能力は朝倉家に残っていないのだろう? まして相手は信長だぞ。 下手に抵抗してみろ。 朝倉家どころか、周囲の住民まで根こそぎ皆殺しにされかねない」

信長が普段から其処までするという話は聞いていない。むしろ、最近は民の声を良く聞く彼の名君としての部分や、苛烈ではあったが公平だった性格が再評価されているはずだ。だが、今は信長の恐ろしさを強調し、歴史を変えないようにしないといけない。このくらいの方が、思いとどまらせるにはいいはずだ。

妙な話だった。顔も知らない信長と義景。それなのに、美樹は歴史と変わらない義景の死を願っている。そして、山崎が余計なことをしないようにも場をコントロールしようとしている。どうしてだろうか。恐怖からか。

美樹の周辺環境はろくなものではない。責任意識を放棄した大人達と、現状を刹那的に楽しむことしか考えていない学友達。無能な生徒会の面々。倫理も信念も持ち合わせない周囲の人間全て。そのあらゆる全部が、美樹には気に入らない。

それなのに、今必死に頭を働かせて、タイムパラドックスを起こさないように動いている。

美樹は歴史に知識があるが、あまり執着はない。信長が本能寺を生き残ったらどうなっていたかとか、武田信玄がもう少し長生きしていたらどうなっていたかとか、そういう事柄に殆ど思考的な食指を動かされないのだ。

分からない。どうしてここまで必死になるのか。美樹にとって、現状とは何だ。面白くもない勉強を作業的に行い、必要もないのに無能な生徒会の尻を叩き、頼まれてもいないのに鍛錬を欠かさない。それは何故だ。美樹は現状を好ましいと思ったことなど一度もないはず。全く知らない別の歴史を願ったところで、不思議ではないのだ。それなのに、何故だ。

美樹自身にもわからない。自分の命にさえ、そう執着が無かったはずだ。不良相手に大立ち回りをしたことだってあったはずなのだ。それなのに、どうしてなのだろうか。何が、美樹を変えているのだろうか。

山崎は他の皆にも意見を聞く。これはこの時代にしては、珍しいほどに民主的なやり方ではないのか。若いのに、とにかく出来た男だと言うほかない。

五作は言う。

「もし式部大輔様が信長に寝返ったとすると、恐らく奴は越前をエサに釣られたのでしょうな。 そうなると、この国は式部大輔様のものとなる」

「ふむ」

「かの方は、武略はあるが、朝倉家の他の者達からの人望がない。 何しろ父君も謀反を起こして追放されたほどの方ですしな。 更に、信長からの圧力も加わると、何が起こるか」

敢えて含みを持たせて五作が言う。そして、山崎が恐ろしいことを言った。

「その辺りも、信長の計算かも知れぬな」

「どういう意味だ?」

「もともと、越前には朝倉一族が深く根を張っている。 信長は調略を重ねて彼らに内部分裂を促し、今回の戦を成功させた。 しかし、今の状況では、結局首がすげ変わるだけで、信長の好きなように越前を支配することは出来ない。 だから」

まず朝倉一族を徹底的に滅ぼす。そのために、式部大輔景鏡をすげ替えて、彼に怨嗟を集中させる。そして一向宗の蜂起を誘発させて、そこを網で小魚をさらうようにして、一気に全滅させる。後は悠々と織田家子飼いの部下達が入ればいい。多少の混乱や、それによって大勢の人間が死のうと、信長には知ったことではないだろう。最終的に越前を膝下に納め、己の意思の通りに動かせればいい。

山崎はそう言った。

美樹は、喉を鳴らして、生唾を飲み込んでいた。

背筋に寒気を覚えていた。政略の世界が凄惨なものだと知っていたが、これほどだとは思わなかった。山崎は顔色一つ変えずにこのようなことを言ったが、つまり戦国時代ではこれが当たり前なのではないか。

一体、自分が暮らしていた所は何だ。

子供がぐれる理由は、殆どの場合親がろくに構おうとしないからだ。だが、子供はぐれていても、結局親の経済的社会的庇護を受けている。所詮甘えているに過ぎないのである。それくらいの理屈は、美樹にも分かる。

だが、そんなのは、結局平和な時代に培われた理屈ではないか。

この戦国の世では、ぐれている暇など無い。殿様でさえ、無能であれば放り出される世界だ。役に立たない子供など、下手をすれば幼い内に間引かれるのではないか。自分は一体、何に悪意を感じていた。ぬるま湯のような社会にか。周囲の愚かすぎる人間共にか。愚行の限りを尽くした弟にか。違う。それらによって表に出た、自分の中に潜んでいた闇に、だ。

だがそんなもの、この世界では、まさに日常的に遭遇する程度のものでしかないのだ。大量虐殺でさえ、繰り返される一般的な政略でしかない。

信長は、ひょっとすると、この時代ではさほど残酷な人間ではないのかも知れない。美樹はそんな風にさえ思えてきた。後世に残酷な人間として喧伝されただけで、彼はごく論理的にまともに考えて事を進めていただけではないのか。

思考のパラダイムシフトが起こる。

かって、弟を半殺しにした時にも発生したそれが、また起ころうとしている。

一体、今までの美樹の価値観は何だったのだ。現代社会でも、政争は陰湿を極めている。世界的に見れば、こういった想像を絶する闇は幾らでもある。それは分かっていた。いや、頭では分かっていた。体では分かっていなかったのではないか。

自分は甘えていたのではないか。だから、あの程度の恐怖体験で壊れてしまった。己が生きてきた世界が、あまりにも小さな箱庭だったのだと、美樹は今、体で感じ始めている。それが、全ての価値観を崩壊させていった。

乾いた笑みがこぼれる。美樹には構わず、四郎次が首の辺りを掻きながら言った。

「若殿、結局どうするので?」

「義景公を救えるか、探ってみよう」

「何のために? 美樹が言ったとおり、もう朝倉家は駄目だ。 そして、信長の野郎は気にくわないが、奴のやり方が、結局はいいんじゃないのか?」

「それは、我々はな。 だが、儂らを救ってくれたのは、一体誰だ? それにここに住んでいるのは、朝倉家だけか?」

五作も、四郎次も顔を見合わせ、嘆息した。美樹にも、それで大体事情が分かった。

そんな論理と効率が支配する社会で、彼らは恩を返すために動こうとしている。それは多分、「誇り」に基づく行動だ。

美樹がいた世界では、一度も見たことがない。尊敬の対象どころか、陰湿な嘲笑のネタに過ぎなかったそれが、今美樹の前で堂々と行われようとしている。恐らく、現代日本人が考える、真の意味での武士道が実施されようとしているのだ。当時でもまれであったであろう事が。

あまりにも多くのことが一片に起こったので、頭の整理が出来ない。茫然自失とする美樹の脇を、四郎次が肘で小突いた。

奪還作戦を開始するらしい。もう美樹には、反対する気力は残っていなかった。

 

五百程度の兵士では、賢松寺の包囲を完璧には行えない。美樹はそう聞いていたが、なかなかどうして。或いは朝倉景鏡とやらが、歴戦の武将であるからかも知れない。足軽達の包囲はかなり厳重で、警戒もきつかった。遠くから見ているだけで良かったさっきとは、根本的に状況が違った。

何しろ、彼我の戦力差は百倍である。しかも、突破作戦ではなく、救出作戦だ。よほど上手く敵の隙を突かないと、絶対に成功しない。寺の北部は包囲が手薄だと言うことだが、足軽が油断無く巡回し、隙も見あたらなかった。その上、寺を囲む城壁は高く、すぐに忍び込めそうもない。

山崎に頭を抑えられる。息を潜めるすぐ先を、ツーマンセルの足軽が槍を担いで歩き去っていった。ゆっくり視線を動かして彼らを追いながら、五作が言う。

「隙がありませんな」

「仕方がない。 少し場所を変えるぞ」

「いいのか? 時間がないのではないか」

「いや、こう言う時は焦った方が負ける」

少し後退して、状況を探っていた四郎次が戻ってくる。彼は目がよいらしく、寺の中を見て欲しいと山崎に言われていたのだ。

「悪い知らせですぜ」

「何だ」

「まず最初に、式部大輔様は間違いなく信長に通じてますぜ。 さっき、本陣の辺りに織田の黒母衣衆が来てました」

「ふむ……」

黒母衣衆といえば、美樹も聞いたことがある。信長の親衛隊だ。母衣というのは一種のマントのようなもので、戦場では目印になる。他にも赤母衣衆という集団があり、どちらも軍内で最強の強者を集めて作り上げられた。後に彼らの多くが上級将校に出世している。信長の部下で言うと、高名な加賀藩初代の前田利家や、秀吉と対立した佐々成正などがこの集団の出身となる。こういう親衛隊は幹部候補であり、同じような集団は他の国にもある。彼らは親衛隊として活躍するだけではなく、戦術眼と判断力を持つため、伝令役としても重宝されたのだ。

「もう一つの悪い知らせですが、寺には大した人数が籠もってませんな。 せいぜい二十人と言うところでしょう」

「根拠は?」

「あん? ああ、美樹にも説明しておくか」

美樹の静かな言葉に、僅かに驚いた様子で、四郎次は言う。気のせいか、僅かに視線に含まれる要素が変わったように見える。

「見張りがな、殆ど交代してねえ。 つまり、それだけ内部の人数が少ないって事だよ」

「見張りは、そんなに頻繁に交代するものなのか?」

「何いってんだ。 今は戦の最中だぞ」

「そうか、それもそうだな」

確かに、見張りを頻繁に交代しなければ、奇襲を受けた時に対応できないだろう。言われてみれば納得できる。

美樹の心は異様に冷え始めている。さっきのショックから立ち直ったのはよいのだが、本当にこれが自分なのかと思えるほどに冷たい。今なら、人を殺すことに殆ど躊躇しないような気もする。

この環境に、美樹は極めて的確に順応しつつあるのかも知れない。頭を振って雑念を追い払うと、美樹は山崎の横顔を見た。若い大鎧の「大将」は、腕組みして考え込んでいたが、やがて言う。

「耐えろ」

「は、しかし」

「今動けば確実に失敗する。 今は耐えろ」

恐ろしいほどに冷静な山崎の言葉に、美樹は頷くばかりだった。山崎は皆を見回しながら、声を殺して言う。

「この様子から言って、恐らく攻城戦は起こらないだろうな」

「というと?」

「この戦力差では、いくら何でも籠城は不可能だ。 その上、援軍の望みがない以上、籠城自体に意味がない。 これは一種の幽閉だ。 義景公は、恐らく、自害を強要されるはずだ」

つまり、その前に連れ出さなければいけないわけだ。

寺の中と連絡を取ることが出来るか出来ないかで、成功率は変わってくる。それに、攻め手が幽閉をしているというのなら、状況から言って自害を強要するのもそう遠くない未来だろう。

良く焦らずにいられると、美樹は素直に感心していた。

筆と墨と紙を取り出すと、さらさらと山崎は文をしたためる。矢文という奴であろう。そういえば、この時代の貴人は筆記用具を持ち歩いていたらしいと、美樹は聞いたことがあった。覗き込んだ美樹だったが、何が書いてあるか分からなかった。当時の字は同じ日本語といっても、字体をはじめとして何もかもが異なる。歴史の授業で見た古文書も、どれも字が崩れすぎていて解読できなかった。

四郎次が長大な和弓を山崎に渡す。山崎はしばし弦を引いて感触を確認していたが、やがて再び寺の側の茂みに移る。隙のない巡回をしている足軽が、すぐ目の前を通り過ぎていく。不意に立ち上がった山崎が、キジバトが飛び立つのと同時に最小限の音で矢を放ったのは、直後のこと。足軽が振り返った時には、もう山崎は伏せていた。

恐ろしい早業だ。弓道部の練習を見たことがあるが、手際といい、速さといい、比べものにならない。やはり実戦で鍛えた人間が相手ではとても及ばないと言うことだろう。美樹は舌を巻いていた。

ただ、ひょっとすると山崎が若いというのには語弊があるのかも知れない。この時代、十五にもなれば武士は初陣を飾る。仮に山崎が二十五だとすると、十年以上の戦歴を誇るベテランだ。それなら、幾ら鍛えていると言ってもそれが趣味の領域に過ぎない美樹とでは、力の差が出るのも当然なのかも知れない。

再び少し後退して様子を見る。もし義景が景鏡に死を迫られているとすると、今の矢文さえ届いていれば時間を稼げる可能性がある。あくまで、僅かながら、だが。景鏡が信長に内応を確約しているとすると、もちろん手みやげにするのは義景の首だろう。だから、信長の勘に触れることも警戒し、あまり長時間の逡巡は許さないはずだ。

義景さえしっかりしていれば、こんな事になっていなかっただろうに。美樹はあきれて頭を振った。

やがて、物見櫓にいた武士が、足軽の隙を見て素早く矢を放ってきた。山崎の手際にも負けない動きだった。ただ、矢は明後日の方向に飛んでいった。それを猟犬のように、四郎次が拾ってくる。

手紙を広げた山崎は、険しい表情でそれを見ていた。

「何が書いてある」

「うむ、そうだな。 手紙を書いたのは、寺の住職だ。 今、寺の中には義景公と、その妻子が十人ほどの武士と一緒にいるそうだ。 僧兵も前はいたのだが、この間の負け戦で皆死んだということだ。 防衛戦力は、事実上存在しない」

「状況は、予想以上に悪いな」

「住職もそう言っている。 義景を助けることは出来ても、妻子を救うことは難しかろうとな」

そして女子供だろうが、信長は容赦しないだろう。

特に敵国当主の子息である場合、殺すことが多いはずだ。後の災いの芽になるものは、早めに積むのが当然の判断だ。信長の場合、特にそれをためらわないだろう。彼は、常に合理主義を憐憫に優先するはずだ。妻は生き残ることが出来るかも知れない。しかし、子供は。確実に殺される。

山崎には、それでいいだろう。戦国のならいという奴だ。もともと、戦国の妻という人種は、公認スパイであり外交官でもある。そしてその子が殺されることも、覚悟の内のはずだ。

だが。美樹は、どうなのだ。

不思議と、反発心が沸いてこない。子供が殺されると言うことに対して、脊髄反射的な怒りが浮かばない。

ひょっとして。正しい判断が何か、分かっているからだろうか。頭を振って、落ちてきた枯葉を取り除く。迷いを払うのではなく、ただそれだけの動作だった。知らない子供など死ねばいいなどと言うたわけた思考を進めたわけではない。そのような思考を持つ輩は、人間と呼ぶ必要など無い。その場で自分こそ死ねばいい。

社会の混乱を防ぐために、死ぬ必要がある人間がいる。戦国のならいというのは、そういう意味なのだ。美樹はごく自然に、何も抵抗なく、その事実を受け入れていた。ただ、問題が一つある。

「で、義景公は?」

「うん?」

「義景公はどう思っている。 義景公がやる気になっていなければ、恐らく救出作戦は無為に終わるだろうな」

ゲリラ戦は過酷だと美樹は聞いたことがある。仮にこの場をしのいで、どうするのか。たとえば、反織田の勢力を糾合するとしてだ。その過程は地獄になるだろう。山野を駆け回り、信長に対抗できる戦力を集めて回り、今まで敵だった勢力にさえ頭を下げる必要が生じてくるだろう。

仮に逃げる場合はどうなるのか。大阪の石山本願寺はじきに滅ぶし、分厚く織田の包囲を受けている。そちらへ向かうのは自殺行為だ。かといって、越中も駄目だろう。今頃落ち武者狩りが、派手に網を張っているはず。山崎でも危ないのに、義景公などが通ろうものなら、瞬く間に狩られて首を取られてしまうだろう。何しろ、最近まで敵だった存在の、しかも首魁なのだ。

海路から中国地方を目指す手もある。比較的現実的な手段だが、海賊が怖い。ただ、此方は考えにくい。山崎が協力するとは思えない。彼は恩義のある村人達のために、義景公を助けようとしているのだから。美樹は山崎の村人達への好意を疑っていない。不思議と、それは前提だった。

どちらにしても、非常に過酷な道程になる。義景公がその気になっていなければ、とてもではないが耐えきるのは不可能だ。

そしてそれらが実行された場合。もし成功した場合。

美樹は最悪の場合、この場から消滅することになる。それくらいで済めばマシか。タイムパラドックスの影響は凄まじく、下手をすると宇宙全体が吹っ飛ぶ可能性があるという話を、何かで見たような気がする。それが本当に発生するのかは分からないが、さてどうしたものか。

山崎のやることを反対しようとは思わない。山崎は静かな誇りに基づいて動いている。現代の日本人がほぼ全員持っていない、本物のプライドによる行動だ。武士道の実践と言っても良い。それが大勢の死を招くと分かっていても、誇り高い事に変わりはない。

ならば、美樹がやる事は。

心が静かに冷えていく。更に冷たく、凍り付いていく。

何だ、やるべき事なんて、決まっていたのではないか。あまりの馬鹿さ加減に、美樹は自嘲していた。

 

4,義景

 

寺を囲んでいる兵は五百。そのうち三百が正面に展開し、八十前後が東西に展開している。山の北側に展開しているのは四十弱。その内の半数が、交代しながら、ツーマンセルでの監視を行っていた。それが、山崎の言葉による大体の状況である。美樹にはそこまで俯瞰的な分析は出来ないので、合っている事を祈るしかない。

隠れているすぐ側を、二人組の足軽が通り過ぎていく。息を殺している此方に対して、足軽も油断無く周囲に目を配っている。どちらも顔さえ合わせていないが、真剣な攻防を行っているに等しい。気を抜いた方が、次の瞬間死ぬことになる。

ツーマンセルによる監視というのは想像以上に厄介だと、見ていて理解できる。相互の視界を補助できるし、この状況、叫べば他の人間に簡単に伝わる。見張りを倒したとして、すぐに中から逃げ出してきた義景をかばい、そして撤退しなければならない。おそらく、隙が出来たとして、与えられる時間は十秒前後。半秒程度の隙では、連絡を取り合うのが精一杯だ。

焦るな。耐えろ。山崎はそう言った。美樹は静かに、茂みの中で伏せている。焦らず、耐える。そう言い聞かせるまでもなく、妙に心が静かになっていた。

隙が、不意に作られたのは、その時だった。

寺の正門の方で、騒ぎが起こる。爆発音。何が起こったのかと、聞きただす暇はない。歩いていた足軽はツーマンセルの二組四人。彼らの注意が正門の方へ向く。同時に、山崎と四郎次、五作と美樹が飛び出した。

犬のように低い体勢から繰り出した山崎の槍が、瞬く間に手近な一人を突き伏せる。喉を抉った槍が、血しぶきを上げる足軽が地面に倒れる前に、更にもう一人を突き殺す。驚くべき早業だ。

続けて飛びかかった美樹が、悲鳴を上げようとする足軽に槍を突き込む。同時に四郎次が同じ相手に槍を突き刺す。更に五作が矢を放ち、足軽の一人の口に突き刺さった。突き刺さった矢は、後頭部から鏃を飛びだしていた。話には聞いていたが、凄まじい威力だ。日本で盾が発達しなかった訳である。

美樹の心が冷える。地面に打ち倒した、死にきれずにもがいている足軽に、容赦なく槍を突き落とす。げっと無様な悲鳴を上げて、足軽は白目をむいた。大量の血が、制服に掛かる。だからなんだ。舌なめずりして、頬に飛んだ血を舐め取る。うまい。

塀を乗り越えて、武装した精悍な若者が二人飛び出してくる。それに遅れて、緩みきった体の中年男性が飛び出してきた。これが、義景公とやらだろう。誰も迷わず、そのまま藪の中に走り出す。妻子は最初から救出対象外というわけだ。

後ろから怒号。殆ど間が無く、矢が飛んでくる。至近の木に突き刺さり、義景公が悲鳴を上げた。矢をつがえている足軽が数人。彼らが次々に打ち倒される。寺の中に潜んでいた武士達が、援護射撃を行ってくれたのだ。彼らがこれからどういう運命を辿るかは言うまでもないことだ。

流石に景鏡の指揮は鋭いようで、すぐに混乱は収まり、足軽が追いすがってくる。必死に走る。彼らは猟犬のように獰猛な殺気を放ち、目をぎらぎら輝かせながら、追いかけてくる。何本も矢が飛んできて、山崎の大鎧に突き刺さった。くぐもった悲鳴を漏らす山崎。振り返ると、今の時点での追っ手は四五人だ。追うと追われるでは、どうしても前者が有利。徐々に距離が縮まってくる。

不意に山崎はとって返すと、先頭の足軽を稲妻のような突きで打ち倒した。足軽の放つ矢が、彼の頬のすぐ脇を掠める。遅れて躍りかかった美樹が、弓を持っていた足軽の喉を貫く。更に弓を美樹に向けようとした一人を、柄で殴りつけて打ち倒した。首を押さえてうずくまる一人の月代に、五作が放った矢が突き刺さる。頭部がパイナップルのように割れ砕けて、脳みそが飛び散った。一人が、獣のような雄叫びを上げながら、美樹に突きかかってくる。ぎらぎら光る穂先が、怒濤のような殺気と共に向かってくる。だが。

何だ。見えるじゃないか。

美樹は冷たい笑いを浮かべていた。

前は勝てる気がしなかった。山崎には今でも勝てる気がしない。だが、冷え切った心が、美樹の力を後押ししていた。すっと身をかがめて槍をかわすと、倍する勢いで槍を突き込む。敵の口の中に潜り込んだ槍の穂先が、歯と頭蓋骨の一部を砕く感触が、手に伝わってきた。力任せに槍を引き抜く。もう周囲に人はいなかった。慣れきっているだろう山崎が、軽い口調で言う。

「思い切りが付くと、全く動きが違うだろう」

「ああ、そうだな」

山崎の肩からは血が流れているが、動きが鈍る様子はない。美樹も細かい傷を幾つか受けていたが、まだまだ走れそうだった。体中が火照って熱い。散々浴びた返り血が口の側に垂れてきたので、再び舐め取る。実に美味。

再び追っ手の気配。怒号が飛んでくる。意味は聞き取れないが、逃がすかとか、殺すとか、そんな意味だろう。

走る。走る走る走る。目的を果たすのはまだ先でいい。

今は殺気をまき散らしながら追いかけてくる足軽共を、振り払う必要があった。山の険しい斜面を駆け上がる。茂みで何度か足を切るが、気にならなかった。後で痛いかも知れないが、今は大丈夫なのだから構わない。大きな岩を飛び越え、或いは這い上がる。先頭の五助が的確に矢で援護してくれて、二回助かった。

何度かとって返し、少人数の追っ手を突き伏せる。義景公と一緒に出てきた武士二人もかなりの使い手で、見事な戦いぶりを見せて追っ手を寄せ付けなかった。敵は人数を呼び集めて、結果動きが鈍くなってきていた。夕方になってきた頃には、追っ手はいなくなっていた。山の中を散々走り回ったというのに、自分が何処にいるか把握しているらしいのだから、山崎は恐ろしい奴だ。

休憩を取ったのは、走り始めてから二時間以上も経った頃だろうか。携帯を見られないように開くと、確かに二時間以上が経過していた。感覚が鋭くなってきているのが実感できる。もちろん電波状態はすこぶる悪く、アンテナは一本も立っていない。

めいめい休み始める皆を見回した美樹は、自分も側の木に背中を預けて座り込む。だが体はまだ余力を残していた。冷たい視線を周囲に這わせていくと、今回の作戦の救出目標を見つける。完全に腰を抜かしている緩みきった中年。間違いない。それが、義景だった。

義景はかなり太っており、鎧さえ着ていない。金糸銀糸をふんだんに用いた如何にも高級そうな和服を身に纏い、だらしなく舌を出して酸素を吸っていた。まるで飼い慣らされて太りすぎた室内犬のような印象を受ける。精悍な山崎と比べて、同じ時代の人間とはとても思えない。むしろだらけきった現代人に見える。服装こそ豪奢だが、ありとあらゆる意味で、無様だった。

こんな奴を助けるために、こいつの妻子は死地に残ったわけだ。それが社会的には正しいことなのだと思うと、ますます心が冷える。丁度位置的に美樹が斜面の上にいたので、見下ろす形になっていた。

静かに見下ろしている美樹に気付いたのか、義景が顔を上げた。不可思議そうに美樹を見つめ、隣にいた青年武士に言う。

「新介、あれはたれでおじゃろう」

「はっ。 山崎兵三郎様の話によると、手を貸してくれている者で、人ではなく鬼だという事にございます」

「ほう、鬼とな」

恐怖感も嫌悪感も示さず、物珍しそうに義景は言った。ひょっとすると、現実感覚として、恐怖がないのかも知れない。これも平和すぎる環境に育った現代の日本人と似ている。義景は美樹が見ていることも気にしない。ただ、体だけを服越しに見ていた。相手の存在を認識していない。というか、下層の人間を、人間だと思っていないのかも知れない。悪意無しに、そう考える事が出来る人間はいるのだなと、美樹は思った。

美樹はしばし主従のやりとりを側で見ていて、気付く。いわゆるこの青年、小姓という奴だろう。主君の身の回りの世話をする役である。世話の中には当然主君の男色の相手も含まれるから、美男子が多い。基本的に幹部の子息から選ばれたらしく、後に幹部クラスに出世することが多かったらしいと、何かの解説書で読んだ事があった。理由はよく分かる。非常に親しい状況であるから、忠誠心も期待できるし、どういう人間かよく分かっているからだ。

ごくまれに、頭が切れる人間の場合、主君との取り次ぎ役という立場を利用して、絶大な権力を手に入れることもある。織田家の小姓森蘭丸などはその典型であろう。首を幾つとってなんぼの時代に、主君の寵愛だけで出世したら、それは恨まれて当然である。彼らの末路は、大体暗いのだなと、美樹は静かに思った。

新介とやらは山崎同様若いのに大鎧を着こなしていて、夕日に照らされた顔立ちは良く整っている。眉がきりりと跳ね上がっていて、実に男らしい。もう一人、さっき兵庫助と呼ばれていた青年も、目鼻立ちが整ったかなりの美青年であった。多分美樹の予想は間違いないだろう。ただ、新介に比べて、兵庫助とやらは、冷徹そうな印象が目立った。

蘭丸と同じく、主君との取り次ぎ役を務め、絶大な権力を得て、周囲の反感を買っていた人間かも知れない。

軽く美樹が頭を下げると、緊張感がない様子で、義景は呼び寄せようとした。眉をひそめる美樹に対し、山崎が代わりに前に進み出て一礼する。跪いての最敬礼。相当に洗練されている。たたき上げの武人には出来ないことだろう。相当な教養があると、一目で分かる。

「何用でしょうか」

「うむ、兵三郎や。 あの娘は鬼と言うことだが、余の伽をさせるわけにはいかないかのう。 妾達とは皆離ればなれになってしまっての、肌寒くていかぬわい。 不可思議な格好だが、それも興の一つであろう」

「なりませぬ。 元々我らの家臣でも領民でもありませぬ。 手を貸してくれているだけの者にございます」

「しかし、余の領内の者なのではないか? それなら、鬼だろうと農民だろうと、余のものではないのかのう」

いけしゃあしゃあと義景は言った。どうやら悪辣な人間では無いらしいと、美樹は悟った。此奴はいわゆる「邪悪」な存在ではない。

ただの阿呆だ。

怒る気にもなれなかった。むしろ腕組みして苦笑してしまう。もちろん、抱かれてやるつもりなど無い。

ぐずる義景をなだめて、山道を山崎は急ぐように促す。義景はしばしぶつぶつ言っていたが、結局同意したらしく、腰を上げた。四郎次が歩み寄ってきて、松明に火をつけながら言った。

「どうだ、義景公は」

「うつけだな」

「その通りだ。 だが、この越前を納めるには、それが良かったのさ。 もう分かっているんだろう?」

にやにやと笑いながら四郎次が言う。美樹には何となく分かる。有能なリーダーが引っ張ろうにも、にっちもさっちもいかない状況なのだろう。だから凡庸なリーダーが立ち、皆でそれを支えていく体勢が好ましかったわけだ。

四郎次の話によると、朝倉家は複雑に血筋を領内の土豪達に張り巡らせており、一族だらけなのだそうだ。そんな状況になれば、奪い合う資本の規模が小さくなりやすく、一族同士の結束よりも、対立が顕在化しやすい。それを納めるためにも、「凡庸な」とげのない主君の方が望ましかったわけだ。それにより、一種の合議制が発足し、よりスムーズに国が動いたのだろう。

国内に多くの小勢力があり、それらとの折衝が国政の最大の課題となった時代。それを納めるために、何処の大名も血縁を利用した。だが、それが上手くいっても、何世代か経つ内に逆に利権関係ががんじがらめになってしまうのだ。まさに身動きできぬ状況である。それと真っ向から戦ったのは信長や、東北の雄伊達政宗、上杉謙信の父である長尾為景だ。彼らはジェノサイド政策を行い、一族だろうが邪魔な人間は皆殺しにした。逆に結束を力とした人間には、超同族社会であった三河の状況を利用し、団結を力に変えて、最終的に天下を取った徳川家康がいる。どのやり方が正しいという、模範解答はない。

山道を歩く。まだときどき死体が見つかった。腐っていて、酷い臭いを周囲にまき散らしているが、却って気配を消せるかも知れない。義景は途中から自分で歩くことさえ放棄し、部下に自分を背負わせて山を行った。それでも愚痴は最小限であったし、あまり文句も言わなかったから、美樹は何も言わなかった。疲れは殆ど感じない。それよりも、明確な目標があるため、気分が高揚して仕方がない。

山崎の表情は隠れていて分からない。明け方近く、美樹は気付く。山崎は、あの村を目指していない。むしろ、この方向は。

美樹は山崎の正体と目的に、この瞬間思い当たった。考えてみれば、山崎には不審な点が多かった。誰が山崎の正体を知っているのだろうか。それさえも分からない。だが、黙っていることにした。美樹の目的とも、それは外れることはないのだから。

眼鏡に息を吹きかけて、拭く。手には血がこびりついていて、乾きかけていた。体もしばらく洗っていない。汗もかなり酷くかいている。それだというのに、あまり気にならなかった。

どうも自分は順応性が高いらしいと、美樹は思った。怒りは、不思議と沸き上がってこなかった。

 

5,世の理

 

朝が来た。義景は新介の母衣を布団代わりに大の字にだらしなく寝ており、交代で見張りをしている周囲の者達の苦労など知ったことではない様子であった。仕方がないだろう。というよりも、彼は現代日本人と似たような生まれの、珍しい戦国人だ。心身共に惰弱なのは当然で、責めるべきではない。というよりも、責めたところでどうにもならない。責めたところで、殆どの場合は強くなどなれない。

あのときの弟のように、切れて暴れるだけだ。

甘ったれていると一刀両断するのは可能だ。だが、一種の温室栽培をされた存在が、いきなり外に放り出されたらどうなるか。人間の精神は肉体同様限界もあれば何かに染まりもする。もちろん、そんな状況でも生き残れる潜在能力の高い存在もいる。だが、それは所詮一握りだ。

小川を見つけたので、軽く頭と手を洗った。体まで拭く余裕はなかったので、それですませる。だが、首筋を濡らしたハンカチで拭うだけで、随分リフレッシュできた。水浴びできれば最高なのだが、其処まで美樹は無防備ではない。四郎次は隙を見せればいつでも性的な意味で襲いかかってくるだろうし、他の連中だって知れたものではない。問題はトイレだ。大の方はある程度我慢できるが、小用は難しい。こちらは隙を見ては茂みでしたが、二度ほど見つかりそうになって冷や冷やした。

用を済ませて、下着を上げて一息。生理がだいぶ前で良かったと美樹は思った。この大事な時期に生理が来たら、隙を見せずにいられる自信がない。戦闘面では完全に一皮むけた美樹だが、筋力で男に勝てるわけではない。組み伏せられたら終わりだから、そうならないように考える必要がある。

義景は起きると、鯛が食べたいなどと言って、小姓達を困惑させていた。言うことにはいちいち悪意がないのだが、周囲に災厄をまき散らしているのだから面白い。本当に苦労を知らないのだろう。

思考を巡らせると、記憶の引き出しから事例が出てくる。苦労を知らない=馬鹿殿というわけではない。九州随一の猛将立花宗茂は、典型的なお坊ちゃんだった事が知られている。戦場では鬼神のような働きを見せる反面、実生活では無知の極地で、浪人した時には日常生活さえろくに出来ずに難儀したという。

義景と宗茂を分けたのは何だろうと、美樹は思った。やはり潜在能力の違いなのだろうか。環境だろうか。教育だろうか。良き師匠はいなかったのだろうか。

美樹にはそんな人はいなかった。義景にはきっといたはずだ。

スポイルされるとよく言う。人間はプラス面で恵まれすぎていると、却って駄目になってしまうものなのだ。愛情や善意という意味でも、それは同じなのだろう。キリスト教に七つの大罪という思想があるが、それがなければ文明の発達が無いのもまた事実。温室栽培で作られる名君などあり得ないのだ。悪意無き暗君を目前に、美樹は世の理を思い知らされていた。

人間には必ず悪意がある。それは美樹の根本理念だった。それにいつの間にかこだわらなくなっていた。そうしたら柔軟に考えることが出来るようになり、体もより良く動いた。そして今。美樹は、掛け値無しに悪意が無いと思える相手を目前にしている。それなのに、尊敬はまるで出来そうにない。

勝手なものだと自嘲する。美樹は人間が嫌いだった。それが悪意を元に動いているからだったはずだ。それなのに、悪意がない相手を前にしても、結局人間を好きになれない。

「おお、鬼の娘よ。 近う寄れ」

美樹に気付いた義景は、だらしのない笑顔を向けて来る。美樹に微笑んでいると言うよりも、体内から締まり無く漏れ出している性欲で顔が緩んでいる感じだ。用件はわかりきっていたが、一応近づいてみる。

「何用か」

「おお、そなた。 余の伽をせよ。 肌寒くて仕方が無くての」

「断る」

即答すると、美樹はさっさとその場を離れた。驚いたことに、義景は怒るでもなく叫くでもなく、呆然としている。社会的なレベルでは、思い通りにならない事は当然彼にもあっただろう。しかし、目の前に出てきた人間、特に女性で、思い通りにならなかった相手はいなかったのかも知れない。

差別的と言うよりも、そういう環境に生まれ育ったが故の思考。同情はしないが、別に敵意も憎悪も沸いてこない。今の反応から言っても、この男に粗暴さは感じない。生まれを間違えてしまった、気の毒な人物なのかも知れなかった。

空模様が怪しくなりつつある。そろそろおかしいと感じたのか、小声で新介と兵庫助が何か言葉を交わしている。美樹から言わせれば、もう遅い。多分五作も四郎次も見かけ通りの足軽ではなく、山崎の子飼いだ。考えてみれば、大丸が置き去りにされた理由も、今ならはっきりわかる。あの男だけが、本物の足軽だったのだろう。

哀れなのは、あの村の者達だ。信仰を捨てなければ、今後の世を生きていくことはとても出来ないだろう。わがままに生きることは、強い人間の特権の一つ。弱者はこういう乱世では、強者に阿る術を磨かなければ生き残ることさえ出来ない。醜い人間の本性が露骨に出る乱世の理だ。

結局、いつの時代も、人間の本能は変わらない。

いつの間にか、美樹は人間に期待することを、諦めていた。

 

破滅の時は、意外と早かった。

その日の昼のことである。義景を背負って歩いていた兵庫助が足を止める。新介が刀に手を掛ける。振り向いた山崎は、涼しい目をしていた。

「どうしましたかな?」

「とぼけるでない! 何故、南へ南へと進んでいる!」

「我らを、織田に売るつもりであったな!」

山崎が小さく頷くと、四郎次が新介に突きかかる。一撃をどうにか刀で防いだ新介だったが、間髪入れずに動いた美樹が、脇から槍を入れる。大鎧にはじかれた一の槍だが、体勢を崩した所に、振り回して柄で殴りつける。石突きが鼻に当たって、新介が悲鳴を上げた。その気を逃さず、四郎次の槍が新介の喉を貫いた。

「お、おのれっ!」

兵庫助が身を翻そうとするが、五作が放った矢が、義景の背中に突き刺さった。ぎゃっと悲鳴を上げた義景に気付き、足を止めたのが運の尽き。脇に回り込んだ美樹の繰り出した槍が、兵庫助の脇を貫く。今度は鎧の隙間から綺麗に急所に入る。義景が地面に投げ出され、悲鳴を上げて倒れる兵庫助。つかつかと歩み寄った美樹は、槍を逆手に持ち帰ると、必死の形相で見上げてきた兵庫助に振り下ろした。一回、二回、三回。四回突き刺した頃には、もう兵庫助は動かなかった。いい男がもったいないが、仕方がない。指先に付いた血を口に入れる。やっぱり美味しい。

山崎が刀を抜いて歩み寄る。背中に矢を生やしたまままだ生きていた義景は、必死にもがいて逃れようとした。

「義景公、お命ちょうだいいたす」

「ひいっ! た、助けてくれ、助けてくれっ!」

氷のような表情のまま、美樹が行く手に立ちふさがる。槍をかついで、にやにやしながら四郎次がその隣に並ぶ。義景の表情が歪む。

義景の表情に憎悪はない。というよりも、どうしてこのような苦しい事をするのかと、とがめているようだった。

「介錯いたす。 腹を召されよ」

「い、いやじゃ! いやじゃあっ!」

「ならば仕方がない。 四郎次!」

「はっ!」

今までになく鋭い山崎の声が飛ぶと、四郎次の周囲の空気が変わる。今までの、「尊敬すべき人間に従っていた野良犬」の雰囲気が消え、「先祖代々仕えてきた忠実な部下」のそれに変わる。四郎次は屈強な肉体で義景のたるみきった体を起こすと、無理矢理座らせる。

「私が斬ろうか?」

「いや、これは儂の仕事だ」

「そうか。 隙を見て殺そうと思っていたのだが、手間が省けたな」

美樹の言葉に苦笑すると、山崎の雰囲気も変わる。僅かな動作から見えていた若さが消え、落ち着いた大人の余裕が出てくる。山崎は太刀を抜くと、涙を流して命乞いをする義景に歩み寄っていく。枯れ枝を踏み折る音が響いた。甲高い悲鳴を、義景が上げた。

振り下ろされた太刀が、義景の頸動脈を切断する。派手に鮮血が吹き上がった。ひっ、ひっとしばし呼吸音を漏らしていた義景だが、すぐに白目をむいた。更に心臓を一突きして、止めを刺す。

死体を横たえると、山崎は首を落としに掛かった。五作が無言のまま、穴を掘り始める。多分遺体を埋めるためのものだろう。

義景はともかく、最期まで主君を守ろうとした新介と兵庫助は、尊敬を受ける資格がある。たとえその主君が、暗君であったとしてもだ。

山崎が義景の首を落とす。首を失った体からは大量の鮮血がしばしあふれ出していたが、それも止まる。血は山の地面にしみこんでいった。

歴史は、変わらなかった。ひょっとすると、美樹が過去に戻り、この件を目撃することも、歴史の一部であったのかも知れない。

義景の首を、山崎が円筒形の箱に入れる。いわゆる首桶であろうか。全ての仕事を済ませると、山崎と美樹は無言で向かい合っていた。山崎は敵意を放っていない。場合によっては、口封じに美樹を殺しに掛かってくることも予想していたのだが。隣で五作が穴を掘り終え、四郎次と一緒に、新介と兵庫助の亡骸をを埋める。その作業音を聞きながら、目を閉じて、美樹は冥福を祈った。

しばしの沈黙の後、美樹は少し視線を逸らしながら言った。

「山崎」

「うむ? 何かな」

「貴方は織田の草か?」

「そんなところだと言いたいが、もう少し身分は上だな」

もし草だとすると、朝倉軍に潜り込んで将校にまでなるほどの者だ。密偵組織はこの時代腐るほどあったはずだが、その中でも相当に上位の人間だろう。或いは織田家が直接抱えている腕利きかも知れない。

「今回のあなた方の作戦の目的を、私なりに推理してみた」

美樹は言いながら、空を見上げる。甲高い声を上げながら、トンビが一羽飛んでいた。小型の猛禽は、人の営みなど知ったことではないとばかりに、自由に舞っている。

「貴方の目的は、朝倉景鏡に大きすぎる手柄を立てさせないことだな」

「どうしてそう思う」

「今回の件で、越前は織田家の膝下に入るのだろう。 そして、織田の目的は、貴方が言ったとおり自分にとって邪魔な土着勢力の一掃のはずだ。 義景が死んでも、景鏡がそれにすげ変わっては意味がない。 だから、景鏡には後ろめたいように、義景の首を敢えて渡さなかった。 そうすれば、景鏡はそれほどの褒美を要求できない。 結果、信長の思うとおりに事態は動く。 違うか?」

「面白い話だな」

山崎は、いや山崎と名乗る何者かは、結局それ以上何も言わなかった。それが正解だったのか、美樹にも自信はない。ただ、四郎次や五作の雰囲気は、それからがらりと変わった。やはり、美樹の考えは正解だったのかも知れない。

山崎が美樹をどうするつもりなのかは分からなかった。口封じに殺すかも知れない。今までの経緯でよく分かったが、山崎は本物のプロだ。必要なら赤子だって眉一つ動かさず殺すだろう。

今度こそ終わりかも知れない。山崎と部下二人に囲まれて、美樹は山を下りた。降りた先には、やはり織田軍が陣を張っていた。ただ、正面からは堂々といかない。歩哨に山崎が何か合い言葉を言うと、奧から髭もじゃの大男が出てきた。如何にも厳格そうな老人で、山崎の態度から、上級将校だと分かる。容姿と態度から言って、ひょっとして織田家の筆頭家老である柴田勝家かと思ったが、確証はない。大男は鼻を鳴らして首桶を取ると、陣の奧へ引き上げていった。足軽が純金らしいものを山崎に渡す。握り拳ほどもある袋に一杯の量だ。末端価格でどれだけになるのか、美樹には見当も付かない。

山崎は陣を離れると、手頃な石に腰掛け、四郎次と、五作にひとつまみずつ金を配った。美樹も同じだけもらう。困惑した美樹に、山崎は兜を外しながら言った。兜の下には、精悍だが、やはりまだ年若い男の顔があった。口ひげを上品に生やしているのだが、まだ顔の一部となりきれていない印象だ。ただし、若々しいのは顔立ちだけだ。雰囲気は大人のそれである。

「手伝いにも関わらず、よく働いてくれたそなたへの礼だ」

「そんな、こんな量、困る」

「いいから受け取れ。 そなたはこれだけの金を受け取る働きをしたのだ」

混乱が増す。だが、受け取らないのは逆に失礼に当たると、美樹は思った。財布を取り出して、入れる。日本円は役に立たないだろうが、この黄金だったら少しは使えるかも知れない。その様子を見ながら、山崎はなおも言う。

「どうだ、儂に仕えてみぬか」

「……貴方は本当は何者だ。 今の様子から言って、織田家の者でさえないな」

「部下になったら、教えてやってもいいが」

「いや、すまない。 世話になった」

ぺこりと礼をすると、山崎は苦笑いし、腰を上げた。街までの道のりを教えてくれる。最期に、一つだけ、美樹は聞いておきたかった。山崎は嘘をついていたかも知れない。だが、あのとき感じた誇りの輝きは、嘘だったのか確認したい。

「あの山奥の村は?」

「あれは戦を逃れてきた者達の集まりだ。 ああいう隠し田は何処にでもあってな、戦慣れした農民は、事が終わるまでああいう場所に隠れているものなのだ」

「そうではない。 あの者達が一向宗であるとなると、前途は辛いだろうな」

「そう、だな。 だが、この時代、誰かの下で庇護されて生きるのは難しい。 それが強力な大名でも、阿弥陀如来でも同じ事。 弱き者は死ぬしかない。 強き者でさえ、生きているだけで精一杯なのだ」

美樹一人で、あの村人達を関東へ導いてやるのは無理だろう。山崎に従っても、そんなことをしてくれるとは思えない。だが、山崎は、意外なことを言った。

「あの村の者達には、本当に世話になった。 関東にまでは連れては行けぬが、何とか手を尽くしてみよう」

「そうか、すまないな」

「またどこかで会おうぞ。 鬼の娘よ」

全面的に信じることは出来なかったが、山崎の言葉は美樹には嬉しかった。

街へと歩き出す。

思う。結局人間の思考が全て悪意であると考えていたのは、単に世に対してすねていただけなのではないかと。どうしようもない戦乱の中、何かにすがりながらも必死に生きていた農民達。命のやりとりが当たり前の世界で、血で血を洗う騙し合いを繰り広げ、それでも己の誇りに生きていた者達。そして見た、悪意無き人間の真実。

客観的に見れば、人間などどうという事もない存在だ。そんなものの悪意に一喜一憂し、身構えていた自分がばかばかしくなっていた。大量の血を浴びて、槍を担いで歩く美樹を見て、時々道で通りすがる織田兵が奇異の視線を向けてくるが、気にしない。自分に対して有害な悪意ならたたきつぶせばいい。そうでなければ無視するだけだ。

街が見えてきた。何の街かは知れないが、かなりの規模だ。盆地を覆い尽くすように広がっていて、色々なものが揃いそうだった。一安心した美樹は、顔を洗ってから街へ向かおうと思い、小川を捜す。道と言っても、山肌を強引に削っただけのような代物で、舗装などもちろんされていないから、左右は茂みになっている。潺を探しながら歩いていた美樹だが、やがてそんな必要もない事に気付いた。道の先に橋がある。そして道と交差するように、そこそこ大きな川が流れていた。

橋の下では、老婆が洗濯している。つい最近、近くで街が根こそぎ燃やされたというのに、暢気なものだ。或いはもう感覚が麻痺しているのか。川に降りる場所がないかと見回している内に、適当な傾斜を発見。そちらに向かって、三歩目を踏み出した瞬間だった。

油断していたと言うことはあるだろう。茂みに思い切り足を取られ、バランスを崩した。斜面に向けて倒れかかる。世界がスローモーに流れていく。

そして、頭が地面に叩きつけられると思った瞬間。

世界を光が漂白した。

 

山道を行く服部正次郎保継は、士官を断って去っていった娘の事を思い出していた。

徳川家康の配下である彼は、腕利きの伊賀者である。服部家の末流に位置する彼は、名字帯刀が許された武士でもあるのだが、影働きの方でより大きな期待を寄せられていた。五作も四郎次ももちろん伊賀者だ。

名前を隠し、数年掛けて朝倉家に潜り込んだ彼は、諜報活動を行っていたが、今回の織田軍進撃に伴って義景の首を上げるように命じられていた。理由は美樹と名乗ったあの娘が想像したとおりであったが、一つだけ違う点もあった。それは作戦遂行をつつがなく成功させて見せることで、家康配下の諜報集団の有能さを見せ、なおかつ恩を売っておくことだ。

涙ぐましい点数稼ぎのために、保継は動いている。これが影働きの真実だ。保継が受ける恩は少なく、死しても誰かの心に残ることは殆ど無い。今回は腕利きの浪人者として潜入し、将校として影働きをしたが、次はどうなるか分からない。農民になるかも知れないし、坊主として潜入するかも知れない。

実のところ、家康に他の命令も受けていた。もし義景の人物が優れているようなら、自分で判断していいと言われていたのだ。事実、もし義景が名君の器であったなら、助けていいとまで思っていた。だが、義景はとても潜伏に耐えられるような器ではなかった。結局の所、殺すのに決定したのは、救い出した後だ。そして、あの娘は、多分それに気付いていた。

あの娘は惜しかった。保継は何度もそう思った。腕前は並の足軽を遙かに凌駕していたし、冷え切った考え方も重宝したはずだ。だが、去った者は仕方がない。口封じをしなかったのは、あの娘は恐らく恩を仇で返すような真似はしないと考えたからだ。世にすねているようで、あの娘は人間の好意に飢えていた。そしてああいう性格の者は、簡単には信頼した人間を裏切らない。

また会えるかは分からない。だが、もし何年かして無事にいたら。こんどこそ部下にしたいと保継は思った。

「若殿、どちらへ?」

「あの村に行く」

どうせしばらく仕事はない。顔を見合わせる部下達に、保継は表情を消したまま言った。

「関東までは送れないが、越中くらいになら届けてやれるだろう」

「はあ。 しかし、いいんですか?」

「構わぬ。 越中はあの腐れ坊主共が年中悶着を起こしている所だ。 そこで一向宗の現実を見て信仰を捨てるも、阿弥陀の救いを信じてのたれ死にするも自由よ。 少なくとも、選ぶ自由くらいは与えてやりたいではないか。 事実、恩を受けた相手なのだ」

保継はそれ以上何も言わず、山道を行く。

美樹のことをよく分かる理由は簡単なこと。保継も、似たような性格だからだ。

自分は密偵には向いていないなと思いながら、保継は村へと急いだ。向いていなくともやらなければならない仕事はある。仕事とは関係無しに、恩は返すことが出来る。

具体的に越中に抜ける経路を幾つか想定しながら、保継は今一度だけ、あの娘のことを思い出していた。

 

6,鉄の女

 

美樹が目を覚ますと、其処は学校の教室だった。血の付いた制服はそのままに、美樹は机に突っ伏していたのである。

怪我も全て元のまま。槍はなくしていたが、刀はあった。財布の中には、小さな金の粒が入っていた。末端価格がどれくらいになるのか分からないが、売る気にはなれなかった。

既に夕方。外は暗い。刀をロッカーに隠すと、出来るだけ人と会わないようにして、美樹は帰路を急いだ。随分汚れた格好だなと自嘲する。事実、帰りの電車の中では、奇異の視線を向けられた。だが、気にしない。

家にたどり着く。テレビで確認したが、あれから数時間しか経っていなかった。あらゆる証拠品が、美樹が戦国時代へ行っていたことを告げていたが、誰に話そうとも思わなかった。話したところで何の意味もないし、そんな気にはなれない。

シャワーで血と汗を流す。爪の間にも随分血と泥が食い込んでいた。傷は三十箇所以上にあった。どれも大した怪我ではなかったが、見かけが痛々しいものも多い。多少しみるのを我慢して、風呂上がりに傷薬を塗る。ベットに倒れ込む。勉強などする気にもなれなかった。

天井を見ながら、ぼんやり思う。

狭い世界しか知らなかったのに、全ての世界を見たような気になっていた。殺しの感触は、いまだに手に残っている。あの刀はどうしようか。長刀袋に入れて一緒に持って帰るのがいいとして、その後はどうする。

どちらにしても、大した問題でもない。美樹はあくびをすると、目を閉じた。先人達の努力によって作られた平和にどれだけの意味と価値があるか。数日戦国時代に行っただけで、美樹は悟った。他にも知ったことは多い。身につけたものも多い。

明日からは、全く違う世界が見えそうだった。

 

美樹が生徒会室に入ったのは、時間丁度であった。既に全員が揃っていて、美樹の到着を驚いていた。

「先輩、珍しい、ですね」

「図書館で少し調べ物があってね」

片桐は知らないの一点張りだった。美樹はあの後本を見つけて帰ったなどとさえほざいた。例の本棚も見せてもらったが、押せども引けども微動だにせず、もちろん光も漏れて折らず、戦国時代になど行けなかった。

だが、不思議と腹は立たなかった。むしろ、あの経験を独り占めできることが、今は嬉しい。

生徒会の面々が、顔を見合わせている。美樹が錐を打ち込むような威圧感を放っていないからだろう。今にしてみれば、何をあんなに周囲に対して威嚇行動を取っていたのか分からない。死体が無数に転がるあの山のことを思い出せば、こんな学校などまさに天国に等しい。周囲を威圧する必要など無い。

仕事に入ると、書記があたふたしていた。表記ソフトの機能で分からない場所があるらしい。

「見せてご覧なさい」

美樹がそう声を掛けたので、ひいっと彼女は悲鳴を上げた。殺されると思ったのかも知れない。真っ青になって全身から冷や汗を流す彼女の脇に立つと、丁寧に最初から教えて上げる。更に少し打たせてみて、使っていない機能があるので、それも教えた。

首をすくめて、此方の表情を伺いながらキーを打っていた書記は、美樹が眉をつり上げも怒鳴りも殺気を放ちもしなかったので、小首を傾げていた。ついでに、会計の仕事も見てやる。こちらはもっと酷かったので、更に丁寧に教え込んで上げた。

すると、急に仕事の効率が上がった。随分早く仕事が仕上がったので、生徒会長も嬉しそうにしていた。書記などは、美樹に対して頭を下げる。

「あ、有難うございました!」

書記はそういってから、まだ美樹の顔色をうかがっていた。悪意を客観的に捕らえてみると、何のことはない。人間の心理が随分推察できるようになった。この娘は今まで美樹を馬鹿にしていたのではなく、怖がっていたのだ。そして今、美樹に掛け値無しに感謝している。

小言を言っても仕方がない。そうとだけ小さく返すと、美樹は一番最後に生徒会室を出る。妙な話だった。悪意が必ずあるという土台が外れてから、美樹はむしろ豊かにものを考え、客観的に分析できるようになった。随分周囲の空気が美味しい。まあ、人間に期待しすぎない事だと、自分に言い聞かせながら、美樹は学校を後にした。

後。生徒会長に就任した美樹は、比類無き豪腕をふるって学校をまとめ上げ、在学中は不正どころか虐めの一つも許さなかった。

イギリスの首相にちなんで、あだ名は鉄の女。名生徒会長として、中島美樹は聖杖学園の歴史に名を残すこととなる。

 

図書館の一角で、片桐汀子は新たに増えた本を熱心に読み込んでいた。生徒達は既に殆どが帰宅しており、図書館には彼女一人だ。

読了した。本を閉じると、満足そうに汀子は微笑む。

少し変わった、血なまぐさい成長物語。だが、人には人の成長方法がある。必ずしも同じ道を辿って、人は大きくなるわけではない。

だから、この物語も面白い。そして、本を作り出す、この図書館という空間も、である。

ふと汀子が図書館の窓から外を見ると、生徒会の後輩と一緒に帰宅している美樹の姿。美樹に話しかけている女子生徒は、笑顔さえ浮かべている。

そろそろ暑くなる時期の、小さな出来事であった。

 

(終)