ある冬の日の魔王

 

序、雪の中の魔王

 

身長二メートル五センチ、体重百三十キロ。巨大なる体躯を巨大なる学生服に包み、威風堂々たる足取りで、一人の巨漢が歩いていた。男の名は魔王院金剛。青葉台高校の二年生であり、歴とした現役高校生である

愛想のない顔には、笑顔の欠片も浮かばないが、別に不機嫌なわけではない。文字通り巌のような顔に、逆立った眉毛、鋭く辺りに鋳込まれる眼光。一見近寄る者などいないような雰囲気であるが、そうでもない。現に今も、男の隣には、ごく大人しそうな女子生徒が歩調を合わせて歩いている。女子生徒の名は七瀬かすみ、幼稚園児の頃からの、魔王院の幼なじみである。同じマンションに住んでいる二人はごく自然に心が通じ合っていて、魔王院はかすみを自然に守り、かすみは魔王院の言いたい事を別に口に出さずとも理解する。しかし近すぎるが故に、互いの全てを知り尽くしているため、(家族)ではあっても(恋人)にはなり得ない二人だった。

雪の中、吐く息は白い。小さくため息をつくと、かすみは少し上目遣いで魔王院に言った。

「金ちゃん、そろそろ文化祭だね」

「……そうだな」

「今年は、どうするの?」

「去年と同じだ……。 クラスの出し物を手伝う」

うっすら雪が積もった坂道。数限りなく通り過ぎた道だが、もう通る事が無くなる日が近づいている。魔王院はそれを言う事を、まだ渋っていた。良くしたもので、かすみも薄々何かある事には気付いている様子であるのだが、元々の引っ込み思案もあって直接魔王院には言わなかった。かすみの引っ込み思案は、この年になっても変動する様子はない。

「今年は、何をするの?」

「……まだ、決まってはいない」

「責任者は?」

「……何と言ったか……良く覚えていない。 少し……印象の薄い子だ」

しばし考え込んだ後、かすみはうっすら笑顔を浮かべた。

「見に行くから、頑張ってね」

無言で頷く魔王院。彼は一年の時には、誰よりも真面目に出し物を手伝い、力仕事などは殆ど一人で済ませてしまった。それに何も他人に言いはしなかったが、彼は努力に対する言葉の報酬を何より喜ぶタイプの人間だった。だからそれを無言で理解してくれているかすみの言動は、心地よい者だった。

彼の住むアパートは、もう目の前だった。本降りになり始めた雪の中を、二人は歩いていった。

 

魔王院が家に戻ると、既に妹の魔王院君子が帰っていた。一年年下の君子は、金剛とは似ても似つかない小柄な娘で、顔立ちも可愛らしい。ただし、二人は本質的な部分で共通箇所が多くあり、紛れもなく兄妹だった。

「お兄ちゃん、お帰りなさい」

「……ただいま」

「……ねえ、相談があるんだけど、いい?」

巨大な手で巨大な学生服に付いた雪を払い落とすと、金剛は無言で頷いた。君子は居間のテーブルに着くと、少し目を細めた。

「引っ越しまで、後一月きっちゃったね」

「ああ。 ……仕方がない」

「みんなには、もう言ったの?」

「いや、なかなか機会が無くてな……」

兄の返事を聞くと、君子は私もだよぉ、と少し寂しそうに言った。

不意に降って湧いた引っ越し話が、彼らの悩みの種だった。魔王院家の仕事の関係で、不意にかなり遠くの街へ引っ越す事が決まってしまったのである。何とか引っ越し寸前までは、二人だけで此方にいる事を親に承諾はさせたが、それでも余剰の時間は一月のみである。しばしの沈黙の後、金剛は言う。

「……皆に言うのは、後にしよう」

「後?」

「……今言うと、皆気を使うだろう」

「そうだね、お兄ちゃん」

君子は優しい笑顔を浮かべたが、すぐに寂しげな表情に戻る。

「せっかく、友達沢山できたのに」

「……」

会話はそれでとぎれた。金剛はしばしテレビを見た後、マンションの屋上へ上がった。雪が降る中、大きく息を吸い込む巨大な姿。それは目を光らせ、身をよじらせ、そして咆吼した。背中に、一対の巨大な黒き翼が具現化しそうな勢いで。

るがあああああああああああああああああああああああっ!

それは、まさしく音声の形をした力の発露。周囲に見せつけられる、無形の威圧。破壊のない、最強の暴。生あるものの精神が内包している、強大なる闇の飛翔。とどろき渡った咆吼に、恐怖して木から落ちる小鳥たち。周辺の民家の犬は皆怯えて犬小屋の奥に潜り込み、猫は疾走して各々の隠れ家に逃げ込む。咆吼を終えると、魔王院金剛は拳を胸の前で会わせ、再びマンションの中に入っていった。

やるせない気持ちを発散するに、彼はこの位しか思いつかなかったのである。だが、それで一応のけじめは付いたので、それ以降彼は周囲に動揺を見せる事はなかった。

 

1,魔王と小さな出会い

 

魔王院金剛は、青葉台高校へ向かうためにバスを利用している。バスの定期は多少値が張る物だが、文句は言っていられない。バスの戸を頭を下げて潜り、ちょうど後一月で切れる定期を使い、金剛はバスの奥へと足を踏み入れた。市営の、通常サイズのバスで、毎朝良く混む。長大な手を伸ばして、つり革の付け根を掴むと、後は揺れようがスリップしようが金剛は微動だにしない。非人間的な運動能力がもたらす、絶大な平衡感覚のたまものである。

幾つかの駅を通過すると、バスの中はますます混んで来た。魔王院は全然平気であるが、周囲の者達は苦しみながら重圧に耐えている。人自体がもたらす圧力と、人体自体が発散する熱。不快指数は極めて高いレベルにあるといえる。駅員が必死に乗員を押し込む、地獄の通勤ラッシュ時の電車ほどではないが、この中の環境はお世辞にも良いとは言えない。ふと何気なく魔王院が視線を窓からずらすと、特に苦しそうにしている小柄な女子生徒が目に入った。何処かで見た顔だが、どうしても魔王院は思い出せなかった。女子生徒は重量級の会社員二人にサンドイッチされた上に、右手をまた別の会社員に挟まれて、揺れるたびに眉を寄せて苦痛を我慢していた。魔王院は左手を少し挙げてスペースを創ると、重厚なるバスで女子生徒に語りかける。

「そこの君……」

「え……?」

「此方は……俺の影になっている。 次のバス停で……此方に来るといい」

「は、はい」

次のバス停はサラリーマンが沢山降り、それとほぼ同数乗ってくる。その流れに乗って、多少苦労しながらも女子生徒は魔王院の側に来た。右手でつり革の付け根を掴んでいる魔王院は、鞄を持っている左手を少し挙げてその女子生徒を覆い被せるようにして庇うと、以降は微動だにしなかった。女子高生は魔王院をすぐ側で時々見上げていたが、そんな事は知った事ではない。魔王院は窓に視線をやったまま、巌のような表情を崩さず、やがて高校の前の駅にバスは着いた。

「あの、ありがとう」

「いや……困っているときは……お互い様なのでな」

「……ひょっとして、私の事、分かってない?」

不可思議な事を言われて、魔王院はもう一度女子生徒の顔を見直した。いや、見下ろしたと言うべきであろう。両者の身長は五十センチ以上も離れており、女子生徒の頭頂部は魔王院の胸部にまでしか届かない。魔王院が人並み外れた巨体であると同時に、女子生徒も平均よりも遙かに小さいのだ。どう見ても、確実に百五十センチまで届かない。

しばしの沈黙の後、魔王院は女子生徒の事をようやく思いだした。何の事はない、同じクラスの影が極めて薄い女の子だった。小柄で愛嬌のある顔立ちをしているのだが、地味で華が無く、目立つ成績の保有者でもなく、何より致命的な事に全身からステルスオーラを発散している。それらの事情から、他人にあまり関心がない魔王院は、二学期末の現在も名前を覚える事が出来ないでいた。特徴的な三つ編みを顔の左右に垂らしている学友は、地味な雰囲気の中に静かに笑顔を湛えた。

「私、中里佳織よ。 今日はありがとう、魔王院君」

「いや……その……すまない。 名前、今まで……知らなかった」

「いいのよ、慣れてるから」

「……先に行く。 また、教室で」

罪悪感が手伝って、、魔王院は多少歩調を早め、青葉台高校へ向かった。中里と名乗った彼女が、文化祭の実行委員だった事を思い出したのは、その半ばであった。

 

青葉台高校の文化祭は、高校自体の規模もあり、余所の学校の生徒も多数訪れる煌びやかな物である。出し物は各教室の他に、各クラブも行うシステムをとっており、レベルの高さは毎年近隣で有名である。無論生徒はクラブの出し物を手伝うほか、各教室の出し物もきちんと手伝わなくてはならないのだが、これを護っている生徒は極少数なのが現状だ。故に、クラブ系の出し物は充実し、クラス系の出し物は貧弱になる傾向があり、文化祭に顔を出す者の中には、クラブ系しか見に行かないという者さえいる。

まだ文化祭まで時間はあるが、クラブによってはもう準備を始めている。特に文化系のクラブの中には、もう下調べや細かい打ち合わせに入っている所もあった。それは魔王院にとっても他人事ではない。何しろ彼の妹はクッキング部に所属しており、毎度文化祭では部の美味しい料理を目当てに多数の客が押し掛けるのだ。君子は同部でも先輩の香坂麻衣子に次ぐ料理の腕前を持っており、今から引っ張りだこだった。それに、君子にしてみれば、この地で送る最後の文化祭である。気合いが入るのも無理のない話であった。

てんてこまいの君子に頼まれて、魔王院は図書室を訪れていた。借りたい本があるのだが、手が回らないと言うのである。本棚の一番上にある本でも、魔王院は造作もなくとる事が出来る。何冊かの本をまとめると、魔王院は身を翻しかけ、そして止まった。自分を見上げている中里に気付いたのである。

「魔王院君?」

「……中里さん。 調べものか?」

「ええ。 文化祭の手助けになる本があるかな、って思ったの」

「そうか……」

しばしの沈黙の後、中里の遠慮がちな視線に気付いた金剛は、咳払いした。

「高い位置にある本なら……俺がとろう」

「本当? 助かるわ」

「俺が好きでやっている事だ……気にしなくて良い」

「……」

努力とそれによって得られる結果は個人によって違う。背が低い中里には、本棚の上の本を取るのは非常に重労働だが、魔王院にはそれこそ何でもない事だ。中里が選んだ本は、どちらかというと硬い本が多く、巌のような顔を向けながら魔王院は聞く。

「文化祭に……これらを使うのか?」

「まだどうなるか形が見えないから、イメージを固めておこうと思ったの」

堂々たる魔神を彷彿とさせる魔王院に全く物怖じせず口を利いてくる者は少ない。重い本を一つずつ渡しながら、魔王院は言う。

「……文化祭、頑張ろう。 ……俺は帰宅部だから……ある程度は役に立つはずだ」

「ありがとう、魔王院君」

中里は重い本を抱えて、多少蹌踉めきつつも、笑顔のまま去っていった。(郷土の文化)だの、(青葉台歴史展覧)だの、(祭りの意味と意義)だの、どう考えても文化祭には役に立ちそうもない本を。それにしても、今彼女が持っていった本は大きく、並の読書家ではすぐに読めるような物ではない。しかも文化祭の出し物決定は、三日後のホームルームである。多少魔王院は不安を感じていたが、数日後にそれを越える驚きを覚える事となる。

 

三日は、君子の料理の味見をしたり、荷物をクッキング部へ運んだりしているうちに過ぎ去っていった。魔王院も自分で文化祭の出し物を考えていたが、クラスの連中の思考はみんなクラブの出し物へと飛んでいて、真面目にクラスの出し物を考えて試行錯誤している中里の姿は明らかに浮いていた。普段は影が薄いで済むのだが、今はその上、外に存在がはじき出されているような印象である。

魔王院はあまり他人に興味を持たないタイプだが、今回ばかりは多少の不安を覚えて中里を観察していた。その結果、幾つかの事が分かった。中里は元々ステルスオーラを発しているだけではなく、極めて内向的な性格で、何かあっても他人に訴えようとしないのだ。別にそれ自体は悪い事ではない。だが、現代社会では、どういう訳か内向的な事自体が悪い事のように扱われる事が多い。また、内向的であるが故の弱点も幾つかある。体育の授業で怪我をしても黙っていて、後で一人でこっそり保健室へ行ったりするのだ。幾つかの事情は分かってきたが、高校二年生と言えば半分は大人である。である以上、中里の意向を尊重しつつ、その手伝いをしていくのが望ましい事であった。何を考えてそう言う行動をしているかなどは、余裕があるときにでも聞けばいいのである。

ホームルームが始まる前に、魔王院は中里の側へ行って咳払いした。以前別の女子生徒に同じ事をしたとき、悲鳴を上げられて困惑した事があったが、中里はそんな反応はしなかった。

「……中里さん」

「え? どうしたの、魔王院君」

「……文化祭の提案……決まったのか?」

「うん。 あの本読んで、少し参考にしたわ」

ワープロ打ちの分厚い資料の耳を揃えながら、中里はさらりと言った。つまり、だ。あの分厚い本三冊を、三日で読み終え、しかも内容を整理した事になる。戦場では、補給担当や後方参謀として非常に有能な仕事をする可能性があるタイプであった。いざ戦場に立ってみないと、実際にどうなるかは分からないが。

魔王院が見送る中、多少呼吸を整えながら中里は教卓に向かい、文化祭の出し物を決定する作業を始める。魔王院も大人しく席に着いたが、周囲はまるでやる気がない。そんな様子には構わず、まず彼女は、ワープロ打ちした原稿を読み上げた。

「私の案としては……」

それは要約すると、確かにあの三冊の本をまとめた内容であった。要するに青葉台の風土を調査し、展示する事で、文化祭に来た人達にこの土地の事を知って貰おうという物である。祭りという特性上、色々な人が来るはずだから、それに大きな効果を出すはずだと、中里は自信満々に言い切った。

確かに今言った事は正しいが、同時に大きな点を見落としている。祭りに来た人達は、何を目当てに来ているかを忘れているのだ。確かに一クラスくらいは行ってもいい品目であろうが、文化祭に来た人達の殆どは、そもそも刹那的な享楽を楽しむ目的で来ているのである。しかも、確かに訪れる人達の年齢層は広くなろうが、メインで訪れる人々は若年層だ。若年層の場合、相当良く出来ていたとしても、中里が提示したような展示にはあまり寄りつかないであろう。無論、個人によって結果は変わってくるが、それにしても高校の文化祭に不適な品目の一つである事は疑いない。少し勘違いした教師は支持するかも知れないが、その程度の物でしかない。

案の定、元々白けていた教室の連中は、更にやる気を無くした。そんな中、どちらかと言えば明るめの女子生徒が、挙手して言う。

「喫茶店はどう?」

「お、いいねー。 ただのサ店じゃなくて、何か工夫が必要だろーけどさあ」

賛同の声が複数挙がり、別に笑顔を崩す事もなく、中里は黒板に自分の案と並べて喫茶店と書いた。列んではいるが、どちらが支持されるかは明白だ。その後も幾つかの案は出たが、結局多数決で喫茶店に決定された。続いて、どういう店にするかという話が出たが、これは存外に長引いた。

結局、菓子に重点を置いた喫茶店にする事が決まった頃には、陽が落ちようとしていた。

 

もう皆帰った教室で、中里が原稿を鞄にしまい、帰ろうとしている。魔王院は数度ためらった後に、わざと目を見ないように言った。

「……中里さん……今日は……残念……だったな」

「ううん、気にしていないわ。 それに御菓子作り、結構楽しみよ」

魔王院は、中里がこの三日間でどれほど努力したか知っている。考えてみれば、並み以下くらいの運動能力ながら、滅多に怪我もしない中里である。体育で怪我をしていたのは、徹夜でもしていた可能性がある。少し心配になって、魔王院は続けた。

「あまり……無理はしない方がいい」

「ありがとう。 でも、大丈夫よ。 ……ねえ、また図書室行きたいんだけど、手伝ってくれる?」

「無論だ……我が魂の誇りにかけて手伝おう……」

足が遅めのかすみに併せて、ゆっくり歩く習慣が魔王院にはあったが、それでも置いていきそうになるほど中里は足が遅かった。更に図書室で、彼女は十冊以上も菓子作り関係の本を選び、右へ左へふらつきながら帰途へつき始めた。

何か理由があって、中里が奮起している事に魔王院が気付いたのは、このときであった。彼女の背中には、明らかに無理をしながらも、精神力でそれをねじ伏せている空気が存在していたからである。

魔王院は、文化祭では誰にも後ろ指を指させないほど、毎回全力を尽くしてきた。だが彼はこのとき、改めて今年の文化祭に、気合いを入れて臨む事を誓ったのだった。

 

2,小さな努力と魔王

 

文化祭へ向けての努力が始まった。期限は二週間強。魔王院にとって、青葉台高校で送る最後のイベントでもある。

魔王院は自分の保有するパワーが人並み外れている事、なかなかそのパワーに他人が着いてこれない事を知っていた。だからあくまで他人のサポートに徹する事を主としつつ、その中で全力を尽くすようにしていた。更に今回は、周りの手伝いが致命的に望めない事もあって、魔王院はいつものようにマンションの屋上で吠える事によって、気合いを自らに入れていた。周辺では無数の鳥が気絶したり、犬が怖がって犬小屋からでなくなるなどの珍事が多少起こったが、これは仕方のない犠牲である。

中里は元々非常に真面目な娘なのだろう事は、ここ数日の接触で魔王院にも良く分かった。だが現在中里は、そんな既存の観念を越える物凄い勢いで、自らの仕事に取り組んでいた。十冊以上あった料理の本をすぐに読み終えてしまったばかりか、レシピをコピーし、暇なときには目を通しているのである。また、料理を創る以外の様々な事にも、変わらずに全力を注いでいた。教室のレイアウトや、中の飾り付けについても真剣に考え、インテリアデザインの本も物凄い勢いで読みあさっていた。放課後は毎日遅くまで作業を行い、魔王院は毎日最後までそれにきちんとつきあった。最初のうちは、不平たらたらでありつつも、それにつきあう生徒も数名はいた。だが、すぐにいなくなってしまった。

 

文化祭準備が始まって五日目、魔王院の教室を君子が訪れた。何でも鉛筆を無くしてしまったそうで、無言のまま魔王院は新品のシャープペンシルを差し出す。礼を言ってそれを受け取りながら、君子は中里を見た。

「あれ? 中里さんって、お兄ちゃんのクラスだったんだ」

「うむ……。 失礼な話だが……最近まで知らなかった。 ……お前は何故……中里さんを知っている?」

「あ、最近ね、クッキング部でお手伝いしてくれるんだよぉ。 料理のお勉強がしたいんだって」

「そうか……。 どんな様子だ?」

「真面目で、凄く努力家だよぉ。 最初はスポンジも膨らまなかったけど、ここのところは美味しいケーキが焼けるようになってきたし」

一心不乱にレシピに目を通す中里を横目で見ると、後は二言三言買わして、君子は教室を出ていった。多少不安になったので、魔王院は中里に聞いてみる。

「……中里さん。 ケーキ作りは……どんな様子だ?」

「うん、何とか形になってきたわ」

「何個くらい……失敗したのだ」

「軽く四十個は」

嫌な予感は的中した。これではっきりしたが、中里は限度という物を知らないタイプだ。この様子だと、ここ数日はまともに寝ていない可能性さえある。彼女の机の上にある分厚いレシピは、文字通り血と汗の結晶に違いない。

「……もう少し……俺を頼ってくれ。 我が魂の誇りにかけ……全力で手助けする」

「ありがとう。 でも、私、頑張らなくっちゃいけないから……」

失言にも気付かず、中里は疲れた笑みを浮かべた。魔王院は気付かないふりをしつつ、言葉を続ける。

「……中里さん……今……朝何時に来ている?」

「校門が開く頃には来ているわ」

「分かった……俺もそれに合わせよう……」

何故頑張らなくては行けないか、等と無粋な事は聞かない。魔王院は表情を動かさず、巌のような顔のまま、言葉だけは少し優しい事を言う。

「困ったときは……お互い様だからな」

魔王院はそれだけ言うと、笑顔を浮かべるでもなく、いつものような重厚なる雰囲気を湛え続けた。無論あまりにも手助けしようとするのは、個人の尊厳を冒涜する事にもなるから、それ以上の事は言わなかったのである。だがそれを言い終えた後、中里は多少嬉しそうな顔をした。

その日も結局、かなり遅くまで準備は続いた。魔王院にとって喜ばしかったのは、中里が彼を頼るようになってくれた事である。学校を終えた後デパートに行き、テーブルコンロやそれ用のガス缶、更には材料を山ほど買い込むのを手伝い、荷物持ちをしたのだが、肉体と精神の極限まで頑張っている中里に比べれば、どうと言う事もない事である。更にはこの程度の荷物など、魔王院には木製のスプーンに等しい。

中里の家にたどり着いた頃には、すっかり夜中だった。礼を言う中里の表情は、どういう訳か安らいでいた。

 

土日も、無論中里は休まなかった。元々露骨に体力がない中里であるから、体に負担がかかっていくのが、魔王院にはありありと見えていた。力仕事は魔王院がサポートするにしても、偉大なる魔神を思わせる容姿を誇る彼には、見かけ通りどうしても細かい作業や料理は不向きである。更には、このクラスには、そういった面で中里を手伝いうるクラブ未加入の女子がいないのである。

料理に関しては、クッキング部がおそらくある程度は手伝いをしてくれるはずだと、魔王院は踏んでいた。君子にも事情を話してあるので、其方はほぼ問題がない。本当は此処までする意味があるか疑問な箇所であるのだが、魔王院としては中里の努力を知っていると言う事もあり、その意向を最大限かなえてあげたいと考えていた。問題はレイアウトで、それ関係の備品を創る作業もかなりの手間である。こればかりは手芸部などに手伝って貰うわけには行かないし、なおかつ魔王院にもあまり手伝えない。これも本来なら何かを適当に買ってきて済ませる事も出来るのだが、中里は物凄い量の本を読んで研究を重ねて、備品を熱心にデザインしている。それである以上、それを否定するのは非情を通り越して非道というものであろう。

それにしても、中里の集中力の凄まじさには目を見張る物があった。常人が一夜漬けに費やす集中を、一週間以上昼夜問わずに続けていると言って良い。特に大量の資料を集めて、中身を比較検討するという能力に関しては他に冠絶するものがあった。

学校の図書館の本はすぐに読み終わって返却していたのに、中里は別の本に絶えず目を通している。不審に思った魔王院は、多少嫌な予感を覚えて聞く。

「中里さん……その本は……?」

「これ? 近くの本屋さんで買ってきたの。 もう手近な図書館の参考になりそうな本は全部読んじゃったから」

絶句する魔王院の前で、中里は別に誇るでもなく普通に笑っていた。

中里が費やしている努力は推測するまでもなく膨大であり、その分負担も目に見えて巨大である。魔王院は周囲の人間で手伝える者を探したが、皆不可能という結論がでてしまった。かすみは吹奏楽部の練習で、殆ど中里と同じ時間まで残っている。それにかすみは中里よりもずっと体力が無くて、手伝ってくれと言えば幼なじみのよしみで多少は手伝ってくれるかも知れないが、その結果倒れる可能性が非情に高い。君子はこれ以上手伝えないし、何より彼女は受験で忙しい先輩の分も働いているのだ。一応魔王院家の一員だから、体力面では問題がないのだが、時間面では問題が大きい。同じクラスにいるかすみの親友の波多野葵も、色好い返事はしなかった。波多野は中学時代からの友人であり、スポーツ万能で体力は並の男子よりもあるくらいなのだが、悪い事に演劇部所属である。演劇部の練習のハードさ具合から考えて、幾ら波多野でも手伝いは難しい。

魔王院が悶々としているうちに、そろそろ中里の体力は限界に来ていた。文化祭を金曜日に控えた週の火曜日、見かねた魔王院は、行動にでた。

 

中里はその時間、図書室へ行って資料を集めていた。魔王院は手伝いを申し出たのだが、既に読んだ本の中身を確認するだけだと言う事で、申し出をやんわり断られた。少しふらつきながら図書室へ行く中里を見送ると、魔王院は教室へ戻った。生徒はかなりの人数、ほぼ全員が揃っている。彼らは当然クラブの出し物の準備に忙しいはずだが、体力面で余裕がある者が目立った。咳払いをすると、魔王院は朗々たるバスで言う。

「皆……少し聞いて欲しい」

「え? ……な、なに?」

やはり中里のようなタイプは稀少である。その場の全員に声が向いていると知って、多少困惑する声が挙がった。魔王院は気にせず、部下達に作戦の概要を説明する悪の組織の大幹部が如く蕩々と続けた。

「……クラスの出し物についてだ。 ……俺は全力で中里さんを助けてきたが……二人では……やはり出来る事に……限界がある。 多少で良いから……中里さんを……手伝ってもらえないか」

「なんだ、その事かよ。 みんな部活に所属してるんだぜ? 野暮な事言うなよ」

「それに、こっちはどーせメインじゃねーしな」

ぼそりと漏らした者がいた。魔王院が鋭い視線をい込むと、実弾入りの銃を向けられたかのようにその者は小さく息を漏らした。他の者を見回しても、罪悪感を湛えて俯いてしまう者も多い。この者の言葉は、皆の本音を代表していたと言っても良いだろう。

要はこれである。どうせ皆手を抜くクラスの出し物よりも、クラブの出し物の方に力を注ぎたいのだ。中里が苦労している事は皆知っているのに、それでも(不要な)力は裂きたくないのだ。言葉の間から見えるそんな本音に、人間などこんなものだと思いながらも、魔王院は続けた。

「……中里さんは……此処の所……殆ど睡眠もとらずに準備を頑張っている……。 クラスメイトとして……助けてあげようとは……思わないのか……」

「助けたいのは山々だけどさ、無理だしなあ」

「中里さんも、こんなの力入れてないで、テキトウに済ませちゃえばいいのにねー」

「そうそう。 どーせ誰も来ないのにさ」

魔王院の全身から、強烈な殺気が迸るが、平和呆けした者達は無論気付かない。一人波多野だけは、被害を避けるべく、無言で多少距離をとった。この辺は流石に魔王院の古い友人である。

中里はそんな事を承知の上で、激しい努力を続けている。多少考えれば分かる事である。何か理由があるのであろうと言う事も、多少考えれば分かる。それを、表に見える事だけを免罪符にして、分かっているくせに、自らは逃れようとする者ども。魔王院の怒りは、静かに、だが着実に高まっていった。クラスメイト達は、魔王院が静かになった事を良い事に、更に軽口を叩き続けた。

「そもそもさ、あの子なんであんなにムキになってるわけ? 何処のクラスだって、平気で手抜いてるのにね」

「きっとあれだろ? 地味で初めて脚光浴びるポジションに立ったから、自分の存在をアピールしたいんだろ?」

「馬鹿よねー。 誰もやりたくないから、このポジション押しつけられたのにさ」

「ほんとほんと。 ガリ勉に見えるけど、そうでもしないとまともな成績だせないんじゃない?」

笑い声が語尾に重なった。

誰もやりたくないから、このポジションを押しつけられた。真実ながら、改めて口に出されると、強烈な吐き気を覚える卑劣な言葉である。そして、中里もそれを知っている事は疑いない。知った上で、全身全霊を尽くして努力をしている事も。一旦歯止めが利かなくなると、人間という生物はとことんまで落ちる傾向にあるが、今教室にいるクラスメイト達が正にそれであった。魔王院にも、中里にその(誰もやりたくない仕事を押しつけた)原因の一端はある。立候補した中里に、考え無しに票を入れたからだ。だからこそ、その票の責任を果たすべく、今動いている。しかし、このクラスメイト共は。魔王院が次の瞬間、切れた。その全身から、物質化しそうな程の勢いで、強大なオーラが迸る。

うぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!

怯えて黙り込むクラスメイト共の前で、怒りを爆発させた魔王院は、目から爛々と光を発しつつ、右拳を壁に叩き付ける。

貴様ら、それでも中里さんの級友かぁああああああああっ!

爆音が響き、壁に円形の穴が空いていた。煙上がる穴からコンクリの破片を掴み出すと、魔王院は口から霧をはき出しつつ、鉄筋ごとそれを握りつぶした。筋肉が盛り上がり、周囲の空気温度が目立って上がる。怯えまくり、頭を下げまくるクラスメイト達。魔王院はその情けない様子を見て、怒りも覚め果て、ついと顔を逸らした。

「……もういい。 お前達の助力など……たのまん! 俺が……魂に代えてでも……誇りにかけてでも……中里さんを手伝う! 例え……この手足が……千切れようとも!」

肩を怒らせ、大股で教室を出ていく魔王院。教室は、死よりも深い沈黙に包まれ続けた。

 

魔王院は、中里に謝ろうと考えて、図書室へ向かっていた。皆の手助けを引き出そうと考えたまでは良かったのだが、逆の結果をもたらしてしまったからである。これでは当日さえも下手をすると二人っきりで仕事をする事になる。魔王院は喫茶店という性質上、どう考えても表にでるわけには行かないから、下手をすると店の運営を中里一人でやる事になる可能性すらある。重い気分を引きずって魔王院は歩いていたが、やがて不意に背後から声を掛けられた。殺気がなかったので、背後に人がいる事に気付かなかったのだ。

「魔王院君!」

「! ……中里さん」

書類を抱きしめたまま、俯いている中里が其処にいた。最悪の予感を覚えた魔王院の先手を打つように、中里は言う。

「……全部、聞いていたわ。 急いで戻ってきたら、魔王院君がみんなに話を始めて、出づらくて」

「すまない……。 我慢……しきれなかった……」

「ううん、ありがとう。 私……嬉しいよ。 本気で、本気で怒ってくれて。 そんな風に、怒ってくれる人、初めてだったから……」

中里の目から涙がこぼれ落ちていた。さながら攻撃機の大軍に襲撃された戦艦のように狼狽しながら、魔王院は言う。

「す……すまない……泣かないでくれ……その……」

二人は無言のまま、その場に立ちつくし続けていた。時々視線を向けていく者もいたが、立ち入りがたい雰囲気を感じて避けて通っていく。夕日が、山の向こうへ、静かに沈んでいった。

 

3,小さな理由と魔王

 

気が抜けてしまった中里がついに倒れて、魔王院が保健室へ運び込んだのは、それから程なくのことであった。保健室の先生はただの過労だと太鼓判を押し、魔王院を部屋の外に追い出した。無言のまま教室に戻ろうとした魔王院は、保健室の前に意外な人物が立っているのに気付いた。珍しく神妙な顔つきをした波多野であった。

「……さっきはごめんよ、金剛」

「俺に謝る必要はない……」

「そうだな、佳織に謝らないと、ね」

事情を全て知っている様子で波多野はうつむき、そして教室へ歩きながら言った。

「私、手伝うよ。 前日ちょっとと、当日の劇終わった後くらいしか無理だけど」

「……そうか。 中里さんが聞いたら……喜ぶだろう」

「後、クラスのみんなも、何人か手伝ってくれると思う。 流石にみんな、金剛の喝で目が覚めたみたいだからね」

教室にはもう生徒は残っていなかった。元々魔王院はあまり交友関係が広い方ではないから、別にこういう情況は気にならない。中里を待つ事に決めた魔王院は、机に座り直すと、波多野に視線を送った。

「……中里さんが頑張る理由……何か分からないか?」

「分からないよ、流石に。 ただ、みんなが騒いでたような理由じゃないだろうね」

「俺に出来る事なら……手助けしたいのだが。 心の中に……土足で踏みいるような事は……出来れば避けたい」

「そうだね。 でも佳織なら、きっと自分で話してくれるはずだよ」

 

中里が戻ってきたのは、波多野が部活へ戻ってから、すぐの事だった。まだ多少青い顔をしていたが、足下はしっかりしていた。待っていた魔王院を見ると、中里は安心しきった笑顔を浮かべた。

「……ありがとう。 待っていてくれたのね」

「いや……倒れた者を置いて帰るなど……我が誇りが……許さないのでな」

ごく自然に、二人の距離は縮まっていた。保険の先生に釘を差された事もあるし、今日はもう流石に作業も出来ない。最低限の事を済ませると、二人はそのまま帰途につく。その途中で、中里はぽつりぽつりと、頑張っている理由を話し始めた。

「私ね、中学まで、お姉さんみたいな人がいたの。 同級生だったんだけど、ずっとその人に頼りっぱなしで。 今は別の学校になっちゃったけど、まだ友人づきあいは続いているのよ」

コートの上からも響く寒さの中、二人は歩く。バス停にはすぐ着いてしまったが、次のバスまではまだ時間があった。

「その人、私の事を心の底から心配してくれる、大事な大事な友達よ。 でも、私が頼り切ってる事を、前から良くない事だって想っていたみたい。 だって私、あの人無しで、何かをやり遂げた事なんて一度もなかったんだから。 私だって、その情況が良いかなんて思っていないわ。 だから二人で、賭けをしたの」

「……それが……文化祭か?」

「ええ。 文化祭の出し物を成功させられるか、否か。 あの人も、うちの高校の、クラスの出し物がどういうものかは良く知っているわ。 だからこそ、そんな難しい賭けを持ちかけてきたの。 私があの人無しで、難しい事に挑戦して、やり遂げられるように」

星が降るような夜空を見上げて、中里は続けた。

「賭けの対象物、本当に些細な物なの。 でも、私ね、これが最後のチャンスだと思ったわ。 あの人に依存し続けていくのか、あの人と本当の意味で友達になれるのか、それに」

自分が本当の意味で独り立ち出来るのか、と中里は続けて、白い息を吐き出した。

「ダメね、私。 結局貴方に頼らないと、やり遂げられそうもないもの」

「……その人は……安易に誰かに頼る事を……戒めたのでは……無いだろうか」

バスが来た。中は殆ど誰もいない。疲れている中里を席に座らせると、魔王院は、自分は立ったままで言った。

「……今回の件に関して……俺の代わりは幾らでもいる……。 だが……中里さんの代わりは……誰もいない……。 俺は……中里さんを手伝ってきたが……安易に頼られた記憶は……一度もない」

「魔王院君」

一呼吸置くと、中里は笑った。自然で、暖かい笑みだった。

「もう少し、頼らせて。 でも、絶対に、喫茶店を成功させましょう」

「……無論だ」

魔王院は、巌のような顔のまま頷いた。彼は笑顔を浮かべる事が出来ないのだが、其処には笑みに見た、暖かい空気が確かにあった。

時間はもう無かったが、二人とも諦めてはいなかった。両者の間には、既に強固な信頼関係が気付き上げられていた。

 

翌日からも、情況は決して良くはならなかった。残された作業量はかなりあり、遅くまで仕事していっても、どうしても時間的にに間に合わないのである。魔王院は八面六臂の活躍を見せたが、それでもどうしても追いつかなかった。

水曜日はあっという間に終わり、ついに前日がやってきた。机などは、既に考え抜いた配置に移動し終えた。だが、どうしても飾り付けの部材が間に合わない。細かい作業をする中里を後目に、魔王院は最悪の場合に供えて、幾つか折衝案を考えていたが、そんな彼の思考を波多野の声が遮った。

「みんなで手伝いに来たよ、金剛」

「……波多野か」

「私も手伝うよ、金ちゃん」

「お兄ちゃん、私も」

波多野だけではなかった。十五名ほどのクラスメイトにくわえ、かすみや君子もいた。魔王院よりも驚いている様子の中里。手を回してくれたらしい波多野は笑顔を浮かべ、言った。

「何すればいい? 早く言いなよ」

「ええ!」

立ち上がると、素早く皆に指示を飛ばし始める中里。困惑が徐々に歓喜に代わり、やがて安堵へと移行していった。これなら間に合う。魔王院もすぐに作業に戻り、教室は時ならぬ活気に見舞われていった。

中里が非常に多くの本を読んで考え抜いた店内のレイアウトが、完成していく。机には白いレースのテーブルクロスが掛けられ、花瓶が並べられていく。花瓶には水とドライフラワーが入れられ、椅子にも綺麗なカバーが掛けられる。カーテンも一旦取り外され、ちくちく丁寧に作り上げた白カーテンに交換された。壁の汚れや罅は的確に小物で隠され、場の雰囲気自体が刷新されていく。見る間に、小汚い教室が、充分に見るに耐える小洒落た喫茶店に変貌していった。何処に何を配置すればいいか分かっているため、中里の指示は的確を極めた。

メニューも机の分以上に用意されており、店員用の制服まできちんとある。まだ足りない部材はあったが、人海戦術で見る間に確保されていく。最後の部材を急ピッチで創っていく魔王院に、波多野が小声で囁いた。

「明日も、何人か来てくれるってさ」

「……そうか」

「みんな、アンタの喝は応えたんだよ。 それに、佳織が最後まで諦めないで仕事してただろ? あれ見て逃げるような奴は、確かに情けないよ」

クラスメイトの全てが参戦したわけではない。だが、かなりの人数が手伝いに加わっていた。皆時間を裂いての事だから、長時間はいられないが、入れ替わり立ち替わり手伝いは来た。調理道具も運び終え、全ての準備が終わった頃、外は夜になっていた。

 

いつもより多少早い時間に、中里と魔王院は帰途についた。翌日の事があるから、今日はゆっくり休む必要がある。更に、魔王院は明日、やる事がない。厨房は中里がある程度面倒を見る事になるし、更に交代要員も確保出来た。魔王院は、店の方に出るわけにも行かない。雄大なる魔神を彷彿とさせる魔王院が店に出たら、客が間違いなく逃げるからだ。

明日、朝の最後の作業が終わったら、魔王院は友人達の間を回ろうと考えていた。波多野の演劇部やかすみの吹奏楽部は勿論、何人かの男友達のクラブやクラス、それに君子のクッキング部も。他にも何個か見る要素はあるが、時間は余る。しばし考え抜いた後、バスの中で魔王院は言った。時間が時間だから、殆ど客は乗っていなかった。

「……明日の午後……時間は?」

「そうね、一番混む昼前後を乗り切れば、きっと大丈夫よ」

「……そうか」

魔王院は、かすみにしか転校の事を告げる気はなかったが、今は気が変わっていた。最後の思い出をくれた中里にも、今は告げるつもりだった。どうしてそんな気になったのかは、よく分からなかったが、今は確かな決意があった。

「何処か回りたい所があるの?」

「……そうだな。 何カ所か……見に行きたい所はある」

「私はねえ……後で考えておくわ。 今は明日のお店の事に集中したいの」

中里の笑顔を見て、これを曇らせたくないと魔王院は思った。バスから降りた中里は、ずっと魔王院の方を見送っていた。二人は暗闇とバスの壁を隔てて、遠ざかっていった。

 

4,雪降る空の下で

 

文化祭当日が来た。もう転校まで、一週間ほどになっていた。しかも実質上学校へ行くのは、今日が最後と言って良かった。朝、いつもより早く起き出してきた君子を見て、金剛は少しためらった後に言った。

「……知っているかも知れないが……明日……迎えに来るそうだ」

「えっ? そっかあ、じゃあ今日が事実上最後なんだね」

寂しげに目を伏せた君子。金剛としても、あまり気分は良くない。後は終業式にだけは出られるが、それは本当に皆に別れを告げるだけで終わってしまうだろう事が疑いない。しばし二人の間には沈黙が流れたが、やがて君子は言った。

「お兄ちゃん、あのね」

「……? どうした?」

「今日、みんなに言うね」

「……俺も……そのつもりだった。 ただ……気を遣わせては行けないから……文化祭が終わった後に……な」

金剛と違って、君子には友人が多い。ただ、親友の数自体はそれほど多くない。逆に金剛は親友の数が多く、友人の数自体は少なかった。持って産まれた社交性の質の違いである。である以上、君子はもうあまり長時間隠しておけない。

重苦しい沈黙の中、朝の準備をしながら、君子は不意に言った。

「かすみちゃんも、中里さんも、きっと悲しむね」

「……何故だ? 俺は気分が良くないが……中里さんは……何故悲しむ?」

「お兄ちゃん、まさか、気付いてないの?」

意味が分からないと顔に書いた金剛を見て、君子は形容しがたい笑顔を浮かべる。

「平手の一発や二発、覚悟しておきなよ。 私だったら高位霊的存在殲滅形態にシフトチェンジして、素粒子砲の刑かな」

「……? ううむ……。 俺は一体……何をしたのだ……?」

首を傾げる金剛の前で、君子はため息をつくと。一足先に学校へと向かった。

 

霜柱が地面を覆う冬の朝の中を、魔王院は歩いていた。見慣れた周囲の光景も、もう見る事が出来なくなる。残念な話だが、家の仕事の都合上仕方が無いというのなら、従うしかなかった。

空は快晴とは行かず、雲が分厚く覆っている。天気予報でも、夜は雪が降るという話をしていたが、この分では外れる事はない。それにしても、この空。正に魔王院の現在の心境を反映しているかのようであった。ある意味極端なポーカーフェイスである彼は、かすみや君子以外に感情を読まれる恐れはないが、それでも多少は気をつけねばならない。今日に向けて全力投球している中里の気持ちを、乱すわけには行かないからだ。

君子の言葉は、どうも魔王院には腑に落ちなかった。魔王院は義に基づいて中里を助けたのであり、下心ややましい心はない。ただ最近は義以上に中里を助けたいとも思っているがそれはまた別の話である。そういえば、中里は良く感謝の言葉を告げてくれるが、内心はどう思ってくれているのか。口を出しすぎたのではないだろうか。手伝いすぎてはいないだろうか。助手として、有能に振る舞えただろうか。そんな事を考えながら、魔王院はバスに乗り込んだ。

魔王院の考えに、義と組織的な物以外の要素はあまりない。だから今も、君子の言葉をどうしても理解出来なかった。そして、中里の気持ちも。

 

魔王院のクラスの出し物は、周囲の手抜きな出し物に比べて、明らかに異彩を放っていた。丁寧に細部まで作られ、清潔に管理され、なおかつ中から実に美味しそうな甘い匂いが漏れている。周囲の手抜き出し物が却って引き立て役となり、物凄く目立つ存在となっていたのである。クラブ系の出し物の中には、これくらい良く作られたものもあったが、クラス系の出し物の中では明らかに良い意味で目立った。それ自体が、集客率を上げる。

魔王院は午前中、その辺を適当に周りながら時々中里の様子を見に行ったが、彼女は常に物凄い過重労働の中にいた。七種類も用意したケーキはそれぞれ注文が殺到し、客足はとぎれる事がなかった。ケーキはいずれも非常に凝った作りになっていて、文句を言う客は一人もいなかった。甘みを抑えたチーズケーキは、よく冷えていて、クリームもトッピングも申し分ない。ショートケーキの苺は大きな粒を丸ごと一つ使っており、スポンジも実に柔らかく膨らんでいる。甘いモンブランも、高級感漂うほろ苦いチョコレートケーキも、プロの作った物には及ばないが、しかし考え抜かれ丁寧に作り上げられた逸品ぞろいであった。前日に試作品の幾つかを食べた魔王院は充分に満足したし、君子が太鼓判を押すほどだから間違いない。客の中には、追加で別のケーキを頼む者も少なくなかったほどである。間違いなく文化祭の出し物は大成功だった。最も混んでいる時間帯などは、行列さえ出来ていた。

昼が過ぎると、ようやく一段落ついた。客も減り、魔王院は部外者立ち入り禁止の、教室の前のドアから入ってみた。区切られたその一角は、厨房になっているのだ。厨房は戦場を経た後のような有様であり、中里も椅子に背中を預けて下敷きを団扇にしていた。だがその顔には、成し遂げた者の満足感が確かにあった。朝日を浴びた海のように輝く顔は、生命力を燃やし尽くした後の、気高さがあった。

「中里さん……お疲れさま……」

「魔王院君……」

エプロン姿の中里は、周囲に支持を飛ばすと、すぐに制服に着替えて戻ってきた。多少疲れている様子ではあったが、笑顔を絶やさず、本当に嬉しそうだった。この笑顔を護る事が出来て、魔王院は満足を感じていた。二人は文化祭が終わる夕刻まで、色々な所を見て回った。

 

「うわぁ……思ったよりずっといい本が揃っているわ」

「……そうか……。 それは……良かった……」

中里が一番喜んだのは、文芸部が開いていた古書市であった。明らかに目の色が変わっており、マニアックな本ばかり選んで買い集めていた。まあ、それほど大した規模の古書市でもないから、荷物は大した量にはならなかったが。心底楽しそうに初版本の良さを語る中里は、終始笑みを絶やさない。

最初にバスの中で助けたときよりも、ずっと中里の表情は豊かになっていた。彼女に応えて、普通に笑ったり喜んだり出来ない事が、魔王院には悲しかったが、そんな事は表には出さなかった。ただ、中里が笑顔を浮かべている事が、どういう訳か喜ばしかった。しばし文芸部で中里は魔王院をほったらかしに本を漁っていたが、別にそれで良かった。魔王院は彼女が如何に困難な事をやり遂げたか熟知していたからである。最高の意味での息抜きをしている中里を、邪魔する理由などは無い。

「お待たせ、魔王院君」

「……良い本が手に入ったようで……何よりだ……」

「うん。 疲れも吹っ飛んだわ」

頷くと、魔王院は体育館へ行く事を提案した。丁度、吹奏楽部の演奏が始まる時間帯だった。更にその後には、演劇部の演目もある。大事そうに戦利品を抱きしめる中里と歩調を合わせながら、魔王院は不器用に会話を交わした。

吹奏楽部の演奏も、演劇部の劇も、例年かなり高レベルである。吹奏楽部は魔王院が良く知らないクラシックの名作を何本か連続して演奏し、割れんばかりの拍手を観客から貰っていた。フルート奏者であるかすみは別に目立つ事もなく、淡々と自身のパートをこなし、きちんと曲という名を持つパズルの一ピースとなっていた。演劇部はこれまた魔王院が良く知らない古典の名作とやらを上演していた。シェイクスピアではなかったが、充分に見るに耐える内容であった。特に男装した波多野は凛とした演技を見せ、何故か女子生徒から黄色い悲鳴が飛んでいた。それらを魔王院と見終えた中里は、次の出し物を見るべく歩きながら言った。

「楽しかったね」

「ああ。 かすみの演奏も……波多野の演技も……なかなか堂に入っていた……」

「葵、格好いいよね。 下級生にラブレター貰う事が珍しくないんだって」

下級生は下級生でも同性の。そう付け加えて、中里はくすくすと笑った。

「魔王院君は、ラブレターとか、貰った事はあるの?」

「いや……もっとも縁がない……物体の一つだ……」

「……そうなんだ。 良かった」

不可解な言葉を吐く中里に、魔王院は小首を傾げた。中里は立ち止まると、真剣な表情で言う。

「今回、成功したのは貴方のお陰よ。 お陰で、あの人も見返す事が出来たわ」

「いや……俺の力など……微々たる物だ……。 全ては……中里さんの……がんばりが招いた結果だ……」

「そんな事無いわ。 もう一度、御礼を言わせて」

礼を言う中里。魔王院はその姿を忘れられそうもなかった。しばしの時の後、魔王院は時計を見て、心底から息を吐いた。

「……残念だが……そろそろ時間だな」

「ええ。 片づけ、しなきゃね」

文化祭の片づけは、土曜の午前中に行う事に決まっている。一応残った生ゴミだけを処理し終えると、中里は自分の肩を叩いて嘆息した。ゴミを手早くまとめると、魔王院は咳払いした。

かすみには、先ほど吹奏楽部の演習が終わった後に、転校の事を告げた。かすみはもう、それを知っていた。家族ぐるみのつきあいであるから、本当は知っていて当然だったのかも知れない。かすみは悲しみを押し殺して、笑顔で魔王院を送ってくれた。次は、中里にも別れを告げなければならなかった。

いぶかしむ中里を、屋上へ魔王院は連れ出した。周囲は雪が降り始めていた。吐く息は白く、空気は冷たかった。

 

魔王院は中里に転校する事を告げた。

 

反応は静かであったが、作用は強烈だった。中里の表情は笑顔から、一瞬にして無に変わり、更に幾つかの感情が合わさって混ざり合っていった。

「どうして、私に言ってくれなかったの」

自分の肩を抱きしめて、静かに中里は言った。その表情には、今までにない物があった。悲しみと、それ以上の怒りと。魔王院は動揺していた。君子の予言が見事に的中した事と、中里の笑顔を曇らせてしまった事で。

「……中里さんは……今……大事な時期だった……。 余計な事に……気を遣わせるわけには……いかなかった」

「余計な事なんて……どうしてそんな事言うの?」

「すまない……」

中里の口調は決して激しくはなかったが、だがそれに内在する感情は膨大な物だった。彼女は魔王院の目をまっすぐに見据えた。もう、涙を隠しきれない様子で。

「魔王院君、私の事ずっと尊重してくれたよね。 影から護り続けてくれたよね。 嬉しかった。 凄く嬉しかったわ。 でも、その優しさが、今はとても痛いよっ!」

身を翻すと、中里は駆け去っていった。彼女を酷く傷つけた事を魔王院は悟ったが、もうどうにも出来なかった。

 

中里を傷つけ悲しませてしまった、その時の事を思い出しながら、魔王院は青葉台に戻ってきた。終業式の日である。暮らしていたアパートは既にがらんどうになっていた。丁度今の心を現しているかのようだと思いながら、魔王院は学校へ行く準備をしていた。何も残っていない居間の床で朝食を取り終えると、ゴミを袋に詰めながら、魔王院は君子に聞く。

「……お前の予言……見事に当たった。 どうしてわかったのだ?」

「お兄ちゃん、それはね。 私も中里さんも、女の子だってことだよ」

「……そうか。 俺は……どうすればいい」

「もう、分かってるはずだよ」

そういえば、魔王院は引っ越し先で、その時の事ばかり考えていた。中里を悲しませた事は対艦ミサイルの直撃よりも効いていたのである。痛烈な心の痛みは、容易には取れそうもなかった。

終業式はすぐに終わった。親しい友人達は皆魔王院との別れを惜しんでくれた。だが、中里は魔王院と視線をあわせようともしなかった。更に、ホームルームが終わった後、中里はいつの間にかいなくなっていた。誰かが肩を叩くので、振り向くと、波多野がいた。

「佳織さ、屋上に行ったよ」

「……感謝する……波多野。 この礼は……いずれ必ず」

「私にんなこと言ってる暇があったら、早く行きなって」

頷くと、魔王院は教室を飛び出した。

 

屋上の隅っこで、出っ張りに腰掛けて、中里は一人泣いていた。小さな体を更に丸めて、外の全てから自分を護るように。魔王院は大いに狼狽したが、今は狼狽し続けているわけには行かなかった。歩み寄ると、中里は顔を上げ、ハンカチで目を拭いながら立ち上がった。

「……すまない。 中里さんを悲しませてしまうとは……俺の愚行は万死に値する」

「ううん、いいのよ。 私こそ、取り乱してごめんなさい。 本当なら、貴方を笑顔で見送ってあげなきゃ行けないのに」

しばしの沈黙の後、中里は魔王院の顔を直視した。以前と同じように。魔王院は多少は動揺したが、今度は心の準備が出来ていた。

「魔王院君、一つだけ聞かせて。 どうして、私に良くしてくれたの?」

「それは……。 最初は義によって……だ。 困っているクラスメイトを……放っておく訳にもいかなかった……。 それに……俺も中里さんに……票を入れた一人だ。 である以上……中里さんを全力で支援する……義務があった」

「……貴方って、そう言う人だよね。 凄く頼りになる守護神、ていうのかな。 でも、私ね……。 ううん、なんでもないの」

「今は……出来れば中里さんの笑顔を……護りたいと思っている。 これは個人的な感情で申し訳ないのだが……嘘ではない」

「……っ!」

口を押さえて、中里は黙り込んだ。魔王院は出来るだけ慎重に言葉を選びながら、続ける。

「……迷惑だろうか……。 こういう……一方的な感情は……」

「ううん、そんな事無い、そんな事無いわっ!」

力一杯首を横に振ると、中里は魔王院に抱きついていた。それが、彼女の返答だった。精一杯背伸びして、魔王院の分厚すぎる胸板に顔を埋めながら、中里は言う。

「私も、貴方と同じ気持ちよ。 だから、一方的なんかじゃない」

しばらくそのまま、中里は泣いていた。魔王院も、微動だにせず、それを受け入れていた。

「折角心が通じたのに、もう会え無くなっちゃうのね」

「いや……連絡先は……此処に書いておいた……。 連絡してくれると嬉しい……。 それに……」

「……?」

「必ず帰ってくると……約束しよう。 俺は中里さんの為に……魂に誓って……高校を卒業したら……此処へ戻ってくる」

中里は、魔王院が非常に大きな苦労と共にはき出したその言葉に、待ってる、とだけ言った。それで今の二人には、充分だった。

再び、辺りには雪が降り始めていた。二人はその中で、もう少しだけ、距離を縮めたのだった。

 

終,魔王帰還す

 

一年数ヶ月後。青葉台高校の卒業式を、魔王院は同高校の屋上から見下ろしていた。卒業式を終え、センチな気分で校舎を出てくる生徒達。魔王院は既に引っ越し先で卒業式を終えており、急いで此方に戻ってきたのである。

無論、探している人は決まっている。相変わらず小さな体の彼女は、中里佳織。引っ越ししてからも連絡を取り続け、何度か直接会いもした。無論、今も魔王院の気持ちは変わっていない。自分以上に貴重な存在として、認識している。

今日ほどに待ち遠しい日は、今まで魔王院が生きてきた月日の中には無かった。人生の目標とかしていたと言っても良い。会いたいという感情を共有する相手との邂逅。更には、もう離れなくとも良い記念の日。兎を探す猛禽のように鋭い目つきで魔王院は校舎から溢れ出る生徒を検分し、やがてその視線を固定させる。

魔王院はフェンスを乗り越え、空中へ身を躍らせた。そして殆ど間をおかずに、地面へ着地していた。響き渡る轟音、舞い上がる砂塵。別に自殺などではない。魔王院家の強靱な肉体を持ってすれば、校舎の屋上から飛び降りたくらいでは怪我一つしないのである。魔王院はゆっくり立ち上がり、眼前にいる娘に、中里佳織に語りかけた。周囲の生徒は腰を抜かしたり、悲鳴を上げて逃げ回っていたりしたが、二人の間に雑音はなかった。

「……中里さん……ただいま」

「お帰りなさい」

魔王院金剛は、再びこの地で、中里佳織の笑顔を見る事が出来たのだった。

 

(終)