ある夏の日の魔王

 

序、雨降る夜道にて

 

初夏のその日は、天気が良いとは到底言えなかった。朝から雲が分厚く出て日光を遮り続け、そればかりか夕方からはとうとう雨が降り出したのである。雨は見る間に本降りになり、無数の雨粒がアスファルトに舗装された道路を叩き始めた。いつもより遙かに早く外灯が点き、外に出ていた洗濯物が取り込まれる。部活動を行っている学生達は憂鬱な気分を味わい、雨に悪態を付き、その腕を競い合った。やがて、道を行く者はまばらになり、雨の音ばかりが周囲に響く様になり始める。そんな中、奇妙なセンスで彩色された傘を差して、青い自転車を押し、夜道を歩く者がいた。それは私立青葉台高校の女子生徒らしく、同校の制服を着ていた。よく見ると、鞄等に装着されている小物も、尽く妙なセンスの物ばかりであった。

「あーあ。 こんなに遅くなっちゃった」

誰も聞く者がいないからか、女生徒は独り言をつぶやき、どうやら帰路らしい道を、自転車を押しながら歩く。ため息をつきはしたが、すぐに表情を改め、明るい表情を作る。それはごく自然な動作で、女子生徒が常に行っている習慣の様であった。

この女生徒の名は深山早苗。青葉台高校の一年生であり、写真部の部員だった。彼女は奇妙なセンスと、凄まじいまでの要領の悪さとを併せ持つ人物で、いつも何かしら失敗をしでかしていたが、笑顔を絶やさない様にするという心がけと、暖かな性格から、周囲を和ませる役割も同時に果たしていた。俗に言う(天然)の、典型的な例であっただろう。

今日も彼女は、皆が帰った後、部の備品整理をしていた所、案の定床にそれを倒して散らかしてしまい、拾い集めていたらこんな時間になってしまったのであった。器用ではないので、傘を持ちながら自転車を押すのは一苦労らしく、制服や鞄はかなり濡れている。写真部である深山は、当然鞄にカメラを入れているのだが、この様子ではそれも濡れてしまっていることであろう。うっかり屋さんを自他共に認める深山は、それに気づいていない様であったが。

「ふぇっ! ご、ごめんなさい……」

下を見ながら歩いていたのが災いして、深山は何か大きなものにぶつかった。いつもの様に誰かにぶつかったのだと思い、反射的に謝る彼女は、恐ろしいものを見た。外灯に照らされたそれは、途轍もなく大きな壁だった。よく見ると、それには二本の長大な足があり、人間だと分かった。やがて、それはゆっくり振り向いた。深山は硬直し、声も出ない。

巨大な男だった。夜闇に浮かび上がるその背丈は、周囲の塀を遙かに飛び越しているかと思われる。上半身には、何かを被る様に着ており、顔の上半分、それに肩から上を隠している。被っている何かからのぞき見える顔は、ごつく、そして愛嬌の欠片もなかった。

もともと気が小さい深山は、いつの間にか傘を取り落としていた。自転車を持つ手も離してしまったらしく、バランスを崩した愛車は塀に倒れかかった。手にぶら下げている鞄だけではなく、深山自身も振り続ける雨に濡れていく。やがて、無言の殻を破るかの様に、巨大な男が、深山へ手を伸ばした。次の瞬間、真っ青になっていた深山の、凍結していた生存本能にスイッチが入った。

「……きゃぁああああああああああああああぁあああああああぁああああっ!」

身を翻し、深山が走り出そうとして、五メートルも行かないうちに転ぶ。水たまりに顔から転んだため、盛大に水しぶきが上がった。一瞬深山の意識は遠くへ行きかけたが、すぐに相手の接近に気づいて、再び悲鳴を上げながら逃げ出した。

 

住宅街の一角、駅の側に、交番が設置されている。もともとさほど人の出入りが多くない駅なので、其処に務めている警官は暇をもてあますことが多い。其処には今日、つい最近巡査長に出世したばかりの大山が務めていて、案の定暇をもてあましていた。だが、その終わりは唐突であった。コーヒーを飲みつつ、様々な情報に目を通していた彼の耳に、激しく交番の戸を叩く音が飛び込んできたのである。

慌てて外に大山が出ると、全身ぐしょぬれの女子高校生が、真っ青な顔でガラス戸を叩いていた。制服からして青葉台高校の生徒らしく、そういえば大山も一度見かけたことのある顔だった。すわ痴漢か暴漢かと、大山は大急ぎで戸を開ける。それを見て安心したらしく、女子生徒はコンクリの床にへたり込んで、マラソンの全力疾走を終えた後の様に激しく息を付いた。

「どうした? なにがあったんだ?」

「お、おまわりさぁん!」

女子生徒はいきなり大山に抱きついた。普段だったら単純に嬉しかったかも知れないが、女子生徒はぐしょぬれであり、制服が派手に汚れることになった。その上、この場面を誰かに見られたら、確実にいらぬ誤解を招くことになろう。慌てて生徒の肩を掴んで押し戻すと、大山は何があったか、もう一度問いただそうと試みた。女子生徒はふるふると震える指先を、闇の向こうへ向けながら、パニック寸前の様子で言った。

「あっち、あっち、あっちでっ!」

「暴漢に襲われたのか? 痴漢が出たのか?」

「でんきの下にいて! 自転車が倒れて! 転んで!」

「……?」

「三メートルくらいあったんですー!」

頭の上に沢山クエッションマークを浮かべた大山が、相手がパニックに陥っていることに気づくまできっかり六秒。とりあえずポットからコーヒーを入れて、それを飲ませて落ち着かせようと大山は振りむきかけ、そして女子生徒が再び硬直するのに気づいた。

交番の入り口に、小山ほどもあろうかと思われる人影が立っている。その影は、上半身に布を被り、右手に軽々と青い自転車を抱えていた。自転車の籠には、丁寧にたたまれた傘が差してあった。真っ青な顔で震える女子生徒。無言のまま、腰の拳銃に手を伸ばす大山。

だがその警戒は、一瞬の後解かれた。小山の様な人影が、自転車をゆっくり地面におろし、被っていた布を自ら取ったのである。その下にあったのは、見覚えがある顔であった。

「金ちゃん? そんな格好で何してるんだ?」

「ふえ?」

「……大山さん……お仕事御苦労様です」

「大丈夫、とっても良い奴だ。 危険はないよ」

放心状態の女子生徒に、声をかける大山の側で、むっつりと表情の動かないその大男。彼は、大山の知り合いで、近くのマンションに住んでいる人物だった。名は、魔王院金剛という。冗談の様な名だが、戸籍にも登録されている本名である。知り合いからは、金ちゃんと呼ばれることが多い様だった。身長二メートル五センチ、体重百三十キロ。脳以外に脂肪はなく、全身が鍛え抜かれた筋肉の塊であった。しかもそれは、他者に見せるための筋肉ではなく、実戦にて鍛え上げた実用的な筋肉なのだと本人が常日頃から公言していた。故に、体は体重の割には細く、筋肉達磨と言われる様な体型ではなく、それに関しては威圧感を他者に与える要因とは成らなかった。しかし、顔はまるで愛嬌のない強面で、さかだった眉毛、角張った顎、虎でさえおびえて逃げるであろう眼光と言い、誤解される要素を山盛りに備えていたのは揺るがぬ事実である。しかも、これで現役の高校二年生だというのだから、世界というものは不思議に満ちていると言えよう。今までも、夜道で誤解から逃げられたことが一度や二度ではなく、大山もそう言った関係で顔を知っていたのである。よく見れば、被っていた布は、学生服の上着であった。

「……其処の子が……自転車と……傘を落としたので……届けに来ました」

「ああ、ご苦労さん。 で、何でそんな格好してたんだ? ただでさえ金ちゃんは誤解されやすいんだから、気をつけなきゃあかんよ」

「……傘を忘れて。 ……それに……帰り道で……濡れて泣いているねこをみつけて」

そういって男が懐から取りだしたのは、濡れてみーみー泣いているネコであった。黒と白を基調とした毛皮で、眉毛の様な変わった模様が額にあった。女子生徒は、そのネコに見覚えがある様で、飛びついた。

「ゆげ!」

「おう、あんたの知り合いだったか。 良かったなあ」

「はい! 急にいなくなって、心配してたんです。 良かった……」

「金ちゃんに感謝しろよ、姉ちゃん」

そう言われて、女子生徒は自分が如何に失礼な勘違いをしたか気づいて、罪悪感にとらわれた様であった。だが、一瞥も与えず、魔王院はそのまま交番を出た。冷酷と言うよりも、対人配慮自体が単純に苦手な様である。そのまま歩いていく金剛に、大山は心配そうに声をかけた。

「おいおい、金ちゃん、傘貸してやろうか?」

「いや……家までもうすぐだから……」

「そうかい、ま、気をつけて帰りなよ」

不器用に一礼すると、魔王院は闇の向こうへ消えていった。後には、ますます振りを強める、雨音が響き続けていた。

 

第一話,青葉台高校の魔王

 

「お兄ちゃん、あさだよぉ!」

マンションの一室に、女の子の声が響き渡った。高音で、舌っ足らずの語尾は母音を引きずっている。その声に触発される様に、周囲に地響きの様な音が響く。やがて、マンションの居間に、頭を下げながら巨大な姿が入り込んできた。そうしないと、入り口に頭がつかえてしまうのである。地響きは、この人物の足音であった。すなわちその正体は、青いパジャマを着た、魔王院である。

居間のテーブルには、既に朝ご飯が並べられ、先ほどの声の主らしい女性がいそいでそれを口に運んでいた。女性の名は魔王院君子。私立青葉台高校の一年生で、魔王院金剛の歴とした妹である。身長は標準よりも少し低いほどで、顔立ちも可愛らしく、兄とは全く似ていないが、だがしかしまごう事無く魔王院家の一員であった。性格はそそっかしい反面生活能力が高く、今日も朝食は君子が造った物である。手早く朝食を終えると、君子は食器を食堂へ運び、その足で玄関にかけていった。一方、金剛はマイペースで食物を口に運び、のんびりとかみ砕いて飲み込んでいる。その彼が、ふとあるものに気づき、君子に声をかけようとしたが、時は既に遅かった。

「じゃあ、お兄ちゃん、いってくるね!」

「……」

机の上には、昨晩用意したらしい裁縫道具が置き去りにされていた。家庭科の授業があると君子は言っていたから、おそらくそれで使うはずだったのだろう。君子は生活能力が高い反面、こういうそそっかしいミスが多く、金剛が忘れ物を届けることが時々あった。

現在、とある理由で、彼らの両親は家にいない。金剛は無言のまま食事を終えると、特注だとしか考えられない巨大な学生服を着込み、その偉大なる手に合わせて作られたらしい鞄を持つ。そして、裁縫道具を中に入れ、玄関に向こうとした瞬間、鍵穴から金属音が響き、ドアが跳ね開けられた。肩で息を付きながら、そこには君子が立っていて、兄の姿を認めると安堵した様に息を付いた。

「えへへへへへ、忘れ物しちゃった」

「……これか?」

「そうそう! ありがとう、お兄ちゃん!」

裁縫道具を受け取って、君子は満面の笑顔で兄に礼を言った。そして、再び身を翻しかけ、再び何かを思い出す。

「そうだ、お兄ちゃん。 かすみちゃんが外で待ってたよぉ。 早く行ってあげなよ」

「……そうか」

それだけ言うと、兄とは正反対の小柄な体型を生かした敏捷さで、君子は外へと駆け出していった。魔王院は、おもむろにドアに鍵をかけ、窓を開けると、ベランダに出た。そして、迷うことなく、其処から空へ身を躍らせたのである。別に自殺などでは無い。魔王院家に共通する頑強な肉体を持ってすれば、たかがマンションの六階から飛び降りた程度では、骨にひびが入るどころか、皮に傷さえ付かないのであった。着地と同時に凄まじい轟音が響き、アスファルトに舗装された地面が振動する。いつも金剛が飛び降りている場所には、数年分の圧力を見せつける様に、靴の形をしたくぼみが出来ていた。満足そうに魔王院が頷き、周囲を見回すと、既に君子の姿は其処にはなく、代わりに鞄を持って、青葉台高校の女子生徒が佇んでいた。彼女は、魔王院を見ると、恐れるどころか笑顔を浮かべた。その向こうでは、どうやらこの(魔王式朝ダイブ)を初めて見たらしい青葉台高校生徒が、青ざめてそそくさと立ち去っていった。

「おはよう、金ちゃん」

「……おはよう。 どうしたんだ……こんな所で」

「えっ……うん。 それはね……」

女子生徒は上目遣いで魔王院を見やり、その後恥ずかしそうに俯いてしまった。この極大人しげな女子生徒は七瀬かすみ。魔王院家の丁度一つ下の部屋にすんでいて、魔王院兄妹とはまだ幼稚園に通っていた頃からの馴染みである。二人は、重厚な金剛の性格と、おだやかで少女趣味なかすみの性格も後押しして、ごく普通に仲が良く、兄妹と間違われることも珍しくなかった。長い時間を共有してきたため、会話しなくても互いの事が分かるほどである。実際、いつもこの位置に飛び降りていることを知っているからこそ、此処で待っていたのであろう。一時期、彼女は金剛を(金剛クン)と呼んでいたのだが、金剛がその呼び方を嫌がったので、昔通りに戻したのである。

やがて、ここ暫く金剛はかすみと一緒に登校していないことに気づいた。中学時代は、周囲がからかう事を、気が弱いかすみが非常に嫌がったので、共に登校することを避けていた二人であったが、今となっては特に気にすることではあるまい。それにしても、これだけ金剛が相手のことを考えられたのは、奇跡に等しいことなのであった。

「……一緒に行くか? 丁度……一人で行くのも寂しいかと……思っていた」

「えっ……う、うん。 行こう」

本当に嬉しそうな表情をかすみが浮かべたので、金剛は嬉しく思ったが、顔には出さなかった。正確には出せないのだが、ともあれそんなことは関係なく、二人は学校へ歩き始める。

青葉台高校の周囲は交通網が発展していて、徒歩、自転車、バス、電車など、様々な方法での通学が可能である。しかも、金剛の住むマンションは、学校からかなり微妙な位置にあって、そのいずれを持ってしても通学が可能なのである。長大な足を持つ金剛の、歩く速度はかなり早い。だが、かすみと歩いているときは、意図的にゆっくり歩く様に配慮をしていた。だが、同時に、一切自分から喋ろうとはしないので、元々控えめでおしゃべりではないかすみの性格もあって、二人は黙々と学校へ歩いていくこととなった。学校まで、半ばほどの位置に来た所で、かすみが今日初めての話題を切り出した。

「だいぶ暑くなってきたね。 そろそろプール開きかな」

「プールか……久しぶりに……君子と三人で行くか」

「えっ? うん……そうだね」

会話はそれで閉じてしまった。やがて学校が見え始め、登校する生徒が増え始めた。周囲に比べて頭一つ半大きい魔王院は、同じ学級の生徒からは目印にされているという噂もあった。だが、魔王院は基本的に他者の目には無頓着だったので、それを聞いても、まるで知ったことではないという顔をしていた。

「ねえ、金ちゃん。 何かあったの?」

何が起こっても、滅多に動じそうもない魔王院が足を止めたのはそのときだった。不思議そうに小首を傾げるかすみに、魔王院は適当にごまかすと、再び歩き出す。その背に、かすみが困惑した様な声をかけた。

「あっ……金ちゃん」

金剛が振り向くと、かすみが申し訳なさそうに視線を下げていた。

「どうした……かすみ」

「ごめんね。 私、足が遅いから」

「……」

二人の間では、それだけで充分だった。金剛は特注サイズだとしか思えぬ巨大な腕時計をみやり、走らないと自分の日直に間に合わないことに気づいた。二人は、互いの日常スケジュールをほぼ把握していたのである。

「折角だから……最後まで一緒に行こう」

「ごめんね……」

「……走るぞ。 口を閉じるんだ……舌を噛む」

それだけ言うと、魔王院はかすみをひょいと肩に担ぎ上げた。そして、一声吠えると、鋭く地面を蹴ったのである。同時に、魔王院の周囲の光景が、早送りでもしたかの様に超高速で後方に流れ始める。普段の行動がゆっくりしていることと、足の速さは関係がない。いざ長大な足の持ち主で、魔王院家特有の常識離れした筋力の持ち主である金剛が本気で走れば、人を一人担いだ上で、百メートルを十秒台で走ることも可能なのであった。やがて魔王院はいつも行く通学ルートから不意にそれ、公園につっこんだ。そして、そのまま速度を落とさず、茂みへと猛然と驀進し、跳躍した。茂みを飛び越え、突破すると、其処には地面がない。丁度その向こうは、二メートルほど低い位置に道路があり、石垣が設置されているのである。石垣を空中で蹴ると、魔王院は空中で一回転する。そして、アスファルトの道路を三回ほど蹴りつけ、運動エネルギーを殺しながら速度を落とし、ガードレールの六センチほど手前で方向転換に成功した。そのまま再び速度を上げ、走り出すその脇で、自転車の車輪が激しくアスファルトの地面を擦過する音が響いた。走りつつ魔王院が視線をやると、小麦色に肌を焼いた、三つ編みを二つ、顔の左右にぶら下げた健康的な雰囲気の女性が、公園の階段の中央急傾斜部分を自転車でかけ下り、ドラフトして、道路に黒いドラフト痕を残しつつ、方向転換に成功して走り出す姿が見えた。そのまま魔王院の横に並び、女性は自転車をこぐ。操縦こそ若干乱暴だが、危なげはなく、事故を起こしそうな気配はなかった。むしろ、自分の体の一部の様に、見事に自転車を乗りこなしている。おそらく女性の年代は魔王院やかすみと同じ、制服からして高校も同じであろう。

「遅刻遅刻遅刻ーっ!」

魔王院など目に入っていないらしく、顔中に焦りを浮かべながら女子高生が叫んだ。魔王院も無言のままそばを疾走する。エンジンがかかってきた魔王院は更にスピードを上げ、自転車の女子高生は不思議そうに一瞬だけ視線を併走する相手に向けたが、やがてペダルをこぐ力を強めた様で、少しずつ魔王院を引き離していった。轟音をあげ、土煙を上げながら疾走する二つの影は、見る間に青葉台高校との距離を縮め、やがて学校が至近に迫った。その前には、さくら坂という急勾配の難所があるのだが、この二者には何の苦にもならないようであった。それにしても、これだけのスピードで走りながら、一切事故を起こさないのは、決して無理ではない速度で進んでいるからであろう。実際、何度か他の生徒を追い越したが、全く接触事故にはなりそうもないほど余裕を持ってかわしている。魔王院に至っては、邪魔な人間がいた場合はその頭上を飛び越していた。やがて、女子生徒が不意に方向転換し、激しくドリフトしながら脇道へそれていった。そちらには、生徒専用の駐輪場があるのだ。

「うぉおおぉおっ!」

思いっきり怖い顔で、目を爛々と光らせながら、短く一つ咆吼。魔王院はそのまま跳躍し、校門を飛び越して、六メートル半ほど先の地面に着地した。靴の裏が、激しく地面をこすりつけ、運動エネルギーを熱に変える。そして、数メートル進んだ後、汗一つかいていない魔王院は停止し、肩からかすみをおろした。どうも青葉台高校の生徒ではないらしい制服を着た女子生徒が、不思議そうにその様子を見ていたが、やがてついと身を翻し、校舎へと消えていった。かすみをおろした魔王院は、それには気づかず、念のため幼なじみに聞く。

「大丈夫だったか?」

「う、うん、大丈夫。 ごめんね……ゆっくり行きたかったのに」

多少ふらふらしながらではあったが、かすみは自然な笑顔を浮かべた。こうやって(魔王式高速登校)したことは今まで何度かあり、故に免疫が出来ていたのである。かすみは口を開き、礼を言おうとしたが、それは果たせなかった。第三者の声が割り込んだからである。

「よっ、お二人さん。 今日独創的な登校だったな」

声の主は、長身の男だった。青葉台高校の制服を着ていて、スポーツマン体型にハンサムな顔立ちと、優れた容姿上の武器を幾つも併せ持つ存在であった。多少軽そうなのが欠点ではあるが、それを除くと弱点らしい物はない。それは金剛の親友、木地本岳史であった。

木地本と金剛は中学時代からの腐れ縁であり、交友は長い。また、金剛にとって木地本は、自分を恐れ無いどころか、減らず口を何の遠慮もなく叩いてくる希有な存在でもあった。魔王院は木地本の台詞に全く表情を変えなかったが、かすみは違った。見る間に真っ赤になり、俯いて所在なげに視線を逸らしてしまう。

「き、金ちゃん、私先に行くね」

「……そうか」

金剛の視線の先で、かすみはそそくさと校舎へ駆け込んでいった。金剛は木地本を促して校舎へ歩きながら、少し非難を込めた口調で言った。

「かすみが……恥ずかしがって……行ってしまった」

「なーに言ってやがんだ。 お前がはっきりしないのがいけないんだよ」

意味が分からないと顔に魔王院が書いたので、木地本は呆れた様だった。

「俺の見たところ、七瀬はお前に気があるぜ。 さっきの見ても明らかだろうが」

「……そうなのか」

「そうだ、だからよ、口説き文句の一つも言ってやれ」

「……気が進まない。 俺は……今のままのかすみがいい」

「あのなあ、はやくしねーと、誰かに取られちまうぞ。 男子の間で、結構七瀬が人気有るの知らないのか?」

知らないと魔王院が即答したので、木地本はやれやれとばかりに頭を振る。女性に対する気が多すぎる木地本と、その正反対の魔王院は、これで良く出来たコンビなのかも知れなかった。

 

木地本と別れて、教室に、体をかがめて魔王院が入ると、人だかりが出来ていた。日直の仕事を行いながら、そちらへ魔王院が視線を向けると、青い制服が目に入った。それはいわゆるブレザーであり、セーラー服ではない。青葉台高校の制服は後者であるから、通常ではあり得ない存在が其処にいることになる。興味を抱いた魔王院は、仕事をしながら、もう一度視線をそちらへ送る。そこには、妙に無愛想で、全身から(近寄るなオーラ)を発している女子生徒がいた。一応質問には丁寧に応えているのだが、全身からあふれ出るオーラが周囲を見事なまでに拒絶している。状況からして、おそらく転校生であろう。

「おはよう。 みんな、席に着きなさい」

教室に、担任の麻生優子の声が響く。魔王院も、のしのしと自分の席へと歩み行き、窮屈そうに座った。そして、それと入れ違いになる様に、近寄るなオーラを全身から発している女子生徒が立ち上がった。麻生が黒板に向き直って名前を書き、それを終えて後、手を叩いて生徒達に呼びかける。

「もう知っているかもしれないけど、転校生よ。 沢田璃未さん。 沢田さん、挨拶して」

「沢田です。 よろしくお願いします」

「簡潔な自己紹介ね。 何にしても、皆、仲良くする様にね」

他者を拒絶する雰囲気を全身から発しながら、沢田という女子生徒が頭を下げた。様々な要素が、絡み、動き出すのを、この瞬間魔王院は感じた。

 

第二話,不器用なる魔王

 

昼食後のあまった休み時間を、どうやって潰すかは個人の自由である。勉強に費やす者、娯楽に費やす者、談話に費やす者、或いは休息や睡眠に費やす者。様々な者がいるが、魔王院は屋上に出て、空を眺めることが多かった。それは彼にとって、中学時代からの生活習慣だった。成績が特に悪いわけでもなく、誰に邪魔になるわけでもなかったので、それを非難する者は何処にもいなかった。

屋上に出た魔王院は、いつも指定席にしている隅に行くと、出っ張りに腰掛け、空を見上げた。そうすると、笑顔ではないが、微妙に表情が安らいだ。やがて、その顔に、誰かが不意に影を落とした。魔王院が気づくと、後光を背負って立っていたその者は、にんまりと笑みを浮かべた。朝の、自転車の女子生徒であった。

「キミ、朝の。 こんな所で何してんの?」

「……空を見ている」

「楽しい?」

「むしろ……雄大な気分になる。 大きな空を見ることで……自分の小ささを実感し……それで心を更に広く大きくしようと試みてもいるのだ」

「へー、面白いそうだね。 あたしもやってみよっかな。 隣良い?」

魔王院が頷いたので、女子生徒は隣の出っ張りに腰を下ろした。そして暫く空を眺めていたが、五分もしないうちに口先をとがらせた。

「んー、なんか退屈。 あたしにはあわないや」

「……そうか。 それも仕方がないかも知れない」

「あたしはやっぱ、プールでなーんにも考えないで泳いでるのが一番性に合ってるかな」

「それもいいな。 ……今度試してみる」

一拍おいたしゃべり方でありながらも、相手を感心させる魔王院の言葉に、女子生徒は妙に感じ入った様だった。

「えっと、自己紹介してなかったっけ。 あたしは二組の丘野陽子。 よろしくね」

「俺は……一組の……魔王院金剛。 よろしく……」

「魔王院!? 変な名前ー。 本名?」

「良く言われる。 歴とした……本名だ。 これでも」

更に丘野が何か言おうとして、魔王院の北東二メートルほどの位置にある物体に視線を釘付けにする。魔王院がつられて視線をゆっくりそちらへ移すと、それはブルーの布に包まれた弁当箱であった。周囲には誰もおらず、また濡れた形跡もないことから、今日来た誰かがおいていったものであろう。丘野は包みをほどいて、弁当箱を遠慮無く開け、眉をひそめた。中身が腐っていたら、かなりの惨事であっただろうに、丘野の行動にはためらいの様子は一切見えなかった。行動してから、結果でそのときそのときに思考を変えるタイプであろう。早い話が、行き当たりばったりである。

「なーんだ、カラじゃん」

「……見覚えがある。 ……俺のクラスの……沢田さんの物だ」

「ん? 一組の女子で、沢田? 聞いたこと無いけど、誰?」

「今日転校してきた……」

意外にも交友関係が広いらしい丘野に応えると、魔王院は周囲を見回した。そして、フェンスの下を覗き、視線を固定した。丘野もそれに習い、校舎の側に沢田を発見した。

「あ、あの子か! おぉーい!」

大きく手を振って、満面の笑顔で呼びかける丘野だが、沢田は気づかない。魔王院は、どこからともなく取りだした外履きに履き替え、弁当を持つと、フェンスを無言でよじ登り始めた。そして、何をするのだろうかと見守る丘野の前で、空に身を躍らせた。巨体が風を切り、校舎の屋上から、重力に誘われ、一気に沢田の眼前の地面へと到達していた。

響き渡る轟音、へこむ地面。舞い上がる砂埃。仏頂面をしていた沢田も、流石にあまりにもあり得ない光景に硬直していた。魔王院はゆっくり上体を起こし、学生服に付いた埃を払うと、巨大なる手で、ゆっくり沢田に弁当箱を差し出した。無論、傷一つあるどころか、身体的なダメージは絶無である。屋上から飛び降りたのだが、マンションよりは低いのだから、当然と言えば当然であろう。

「沢田さん……忘れ物。 屋上に……あった」

「……」

呆然としているのは沢田だけである。魔王院家特有の常識離れした筋力は青葉台高校では有名で、金剛も今までに数回(魔王式屋上ダイブ)を披露しているため、特に誰も驚かないのである。無論、初めて見る者は、誰でも驚いたが。

沢田はゆっくりぎこちなく屋上に視線を移し、そして魔王院へと視線を戻した。そして、人形の様に堅い動作で弁当箱を受け取り、言った。

「……えっと、こんな時、何て言えばいいの?」

「……分からない」

「そ、そうよね。 一応、お礼を言わせて貰うわ。 ……ありがとう。」

魔王院は対人配慮が苦手だが、今まで仏頂面だった沢田が、実に表情豊かに驚くのを見逃さなかった。何かしらの理由で、オーラを発して他者を拒絶しているであろう事にも気づいた。

「魔王院ー! 凄いよ! 日本一ーっ!」

屋上から、はしゃいで丘野が手を振っている。魔王院はそちらに軽く手を振ると、のしのしと歩いて校舎へと戻っていった。その背中を、しばし沢田が見送っていたのだった。

 

沢田の弁当箱の一件があってから、丘野は魔王院に大きな興味を抱いた様で、廊下ですれ違うときはかならず挨拶してきたし、良く昼休みに屋上に現れては他愛のない話をした。魔王院も丘野を鬱陶しいとか面倒くさいと思う様なことはなく、見かけたら必ず声をかけていた。一方で、沢田は全くと言っていいほど魔王院の前で表情を崩さず、相変わらず全身から強固な近寄るなオーラを発し、魔王院と言わず誰と言わず周囲を拒絶して(絶対的自分だけ空間)を構築し続けていた。

これは、むしろ沢田の反応の方がまともであった。人見知りしないで、容姿的に、威風を恥ずかしげもなく周囲になびかせる、雄大なる魔神を彷彿とさせる魔王院に、何の気兼ねもなく近づいてくる丘野の方が珍しいのである。丘野は結構交友関係が広い様で、魔王院は、彼女が良く他の女子生徒と話している姿も見かけた。かすみとも交流がある様で、一度話しているのを横目で見た。そこで、かすみとの下校時に、魔王院が丘野の話題を持ち出すと、驚きを誘発した。

「えっ……金ちゃん、陽子と友達なの?」

「……そうだな。 俺は少なくとも……そう思っている。 ……丘野さんもそう思ってくれていると嬉しい。 何か……丘野さんについて知っていたら……教えてくれ」

その返答を聞くと、珍しくかすみが頬をふくらませて怒った。火山が噴火する様に怒るのではなく、単純にへそを曲げるだけだが、魔王院には結構応えた。眉をひそめて、魔王院は自分の不備を詫びたが、何故怒っているか理解出来なかった事を敏感に察して、かすみはますますへそを曲げた。

「知らない」

「……ええと……どうすれば良いんだ? 機嫌を直してくれ……」

「……私のことを知りたいなんて、一度だって言ってくれたこと無いじゃない」

「それは……かすみのことなら……何でも良く知っているからだ。 丘野さんのことは……殆ど何も知らない」

「そんなの……私知らない」

マンションの前に来たので、かすみはそのまま足早にかけ去ってしまった。魔王院は小首を傾げ、自らも家に戻る。君子は既に帰ってきていて、夕食の準備を始めていたが、金剛の話を聞いてその手を止めた。

「お兄ちゃん、本当にかすみちゃんにそんなこと言ったの?」

「言った……」

「私がかすみちゃんだったら、絶対怒る。 高位霊的存在殲滅形態にシフトチェンジして、素粒子砲の刑だよぉ」

「……惑星の大気圏内でか? ……地軸が傾くぞ」

君子が頷いたので、髪の毛をかき回し、金剛は嘆息した。流石にそれを受けたら、彼でも無事に住まないからである。しかも、君子はかすみの事を実の姉以上に慕っていて、もし今後同様のことをしたら、先ほどの台詞を実行しかねないのだ。気まずい沈黙が流れたが、それを振り払う様に、君子は再び夕食の準備に取りかかりながら、兄に言う。

「お兄ちゃん、かすみちゃんは、今のままじゃあ嫌なんだと思うよ」

「……かすみと俺は、互いを知りすぎている。 これ以上は……近づけない」

「それはそうだけどぉ」

「これ以上近づいても……互いを傷つけるだけだ。 ……益はない」

金剛の台詞に、君子はしばし手を止め、再び包丁を持って野菜を刻み始めた。

「分かった。 じゃ、丘野先輩のことは、私が調べてあげる。 だから、かすみちゃんには謝ってよぉ」

「……分かった。 明日……謝る」

「……かすみちゃんが、何で怒ったのか教えてあげる。 だから、お兄ちゃんが、きちんと気持ちを伝えるんだよぉ」

 

幼い頃から、金剛とかすみは仲が良かった。子供は弱者に冷酷であり、気が弱い上に大人しいかすみは格好の虐めのターゲットであった。だが、彼女には、守護神とも言える存在がいたのである。それが、同じ団地にいた金剛だった。

金剛は何度もかすみを虐めの手から守り、虐めに直接関わった者は死にも勝る恐怖を与えられ、やがて周囲から虐めは消えた。元々心優しい金剛は、義憤に駆られてそれを行ったのだった。かすみは君子とも仲が良かったし、普段は動きが鈍い金剛ともペースが合い、家族ぐるみでのつきあいが続いた。かすみが、金剛を利用する様な性格であったらここまでのつきあいは続いたか微妙であろう。かすみは守護者の存在に奢ることなく、金剛を不必要に頼ることはない、出来た性格の持ち主であった。だからこそ、金剛も無言で影からかすみを守ってきた。金剛は、人並み外れた大きな力を、価値有る他者を守るために、自然に振るうことが出来る男だった。

かすみは守られるだけではなく、金剛の不調にはすぐ気づいたし、欠点も弱点も良く知っていた。中学くらいになると、かすみは逆に人気が出る様になり、金剛と周囲の橋渡しの役目を果たすようになった。金剛は不器用であったから、そもそもかすみが間に入らなければ、校内でただの怖い人としか見られなかった可能性が高い。家族の様に親身に金剛を心配もしたし、色々と知らないことに関しては、知識を提供することを惜しまなかった。二人は家族同然の関係であり、互いを慈しむことが自然に出来る関係だった。

だが、その関係に、最近ずれが生じていることに、金剛は気づいていた。金剛は、かすみを対等な立場の妹、言うなれば同じ年の妹、という風に考えていた。一方で、先ほどの君子の言葉や、木地本の台詞を総合すると、かすみは金剛を男として好いているとしか思えない。

金剛はかすみを好いているが、愛しているかと聞かれればノーだ。金剛に取ってみれば、かすみは家族同然の存在であって、今更これ以上踏み込む気にはなれないのである。だが、金剛は、言葉次第ではかすみが大きく傷つくことも悟っていた。しばし考え抜いた後、やがて金剛は結論を出した。

 

魔王式朝ダイブによる轟音が、朝の団地に響き渡った。それを行った金剛は、ゆっくり周囲を見回し、かすみの姿を見つけた。金剛は、あの後君子がかすみに何か電話をしたのを知っており、迂遠なことだと思いつつも、うつむき加減に非難を込めて彼を見る幼なじみに、言った。

「……昨日は悪かった。 許せる事ではないかも知れないが……許してくれたら嬉しい」

「ううん、いいの。 私こそ、ごめんね……」

「かすみが謝る事じゃあない……悪かった」

「もう良いよ。 それより、行こう。 遅れちゃうよ」

かすみが笑顔を浮かべてくれたので、魔王院はようやく安心した。幸い、今日は二人ともいそぐ理由がないので、魔王式高速登校はする必要がない。時々静かな会話をしながら、学校へ向かう二人の背後から、男が声をかけてきた。

「よっ。 おはよう」

「大山さん。 ……パトロールですか?」

「おう、そういうことだ。 じゃな、お二人さん」

自転車をこぎながら、大山が二人の隣を通り過ぎていった。大山は魔王院家と親しく、当然かすみと金剛が仲がよいことも知っており、言葉に悪気はない。だが、昨日の木地本の言葉同様、それにかすみは過敏に反応した。

「き、金ちゃん。 私、先に……」

「いや……せっかくだから……一緒に行こう」

魔王院は仏頂面のまま、かすみに言葉を続ける。その表情は、沢田とは別の意味で、堅い物であった。足を止め、次の言葉を待つかすみに、魔王院は厳粛に咳払いした。

「俺は……お前を大事に思う。 恋人としてではないが……友人として、隣人として大事な存在だと思う。 一歩を踏み出す気はないが……それではいけないのか?」

「……」

三分ほども過ぎただろうか。かすみは静かに首を横に振った。吹っ切れた表情であった。安心した様に魔王院は歩き出し、かすみが後に続いた。

殻が、破られた瞬間であった。かすみが目尻を拭うのに魔王院は気づいたが、気づかぬ振りをした。

「おーい!」

軽快な自転車の音と共に、聞き慣れた声が近づいてくる。魔王院とかすみが振り向くと、其処には丘野がいた。ブルーの自転車を繰って二人の側に寄せると、怪訝そうに言う。

「あれ? 七瀬と魔王院、友達だったの?」

「うん」

「へー。 ね、みんなで一緒に行こうよ。 その方が楽しいよ」

笑顔で即答するかすみに、無邪気に言う丘野。魔王院は二人を交互に見やると、学校へ行こうと言い、自ら率先して歩き出したのであった。

 

第三話,魔王と救世主

 

魔王院家の人間は、例外なく常人離れした強大なる肉体能力を持つが、それは粗暴なことには繋がらない。本日、彼は昼食を追えた後、いつもの様に空を見ていたのだが、ふと思い立って校舎の裏へと移動していた。そこは動物が多く訪れる場所で、ネコが好きな生徒や、鳥が好きな生徒が、たまに餌をやりに訪れていた。今日はたまたま弁当に剰りがでたので、彼らに施しをしようと思い立ったのである。

魔王院の顔は動物たちにも知られている。これは何度か餌をやりに訪れた結果である。よって、彼が校舎裏にはいると、すぐに数匹のネコが寄ってきた。出っ張りに腰を下ろすと、魔王院はあまったソーセージを取りだし、地面に転がした。ネコが餌を奪い合わないのは、おそらく他にも餌を与えている者がいるからであろう。鳥はまた別の餌やりスポットがあり、鳥の種類によっても時間帯や場所が微妙に違った。頬杖をついて、ソーセージを食うネコを仏頂面のまま眺める魔王院の耳に、第三者の声が飛び込んできた。

「ゆげー。 ゆげー。 どこー?」

その声を聞くと、ネコが一匹首をもたげて、一声鳴いた。よく見ると、そのネコは以前魔王院が雨の中で保護した個体であった。ゆっくりと手を伸ばして、触ってみたが、特に逃げる様子はない。飼い猫か、そうでなければ相当人になれた個体なのであろう。

「ゆげ! あ……えっと……」

魔王院がネコに手をやったまま顔を向けると、其処には、数日前、夜道で悲鳴を上げて交番に逃げ込んだ女子生徒がいた。右手にはピンクの小さなカメラを手にしており、左手は所在なさげに胸の辺りに当てている。生徒は無言の魔王院に何度か声をかけようとして失敗し、ようやく声を絞り出した。

「……あの……この間はすみませんでした」

「いや……皆ああいう反応をする。 だから……気にはしていない」

穏やかな魔王院の口調に安心したか、女子生徒は自分が一年二組の深山早苗だと名乗った。そして魔王院が先輩だと知ると、恐縮した様に、不必要なまでに丁寧な口調になった。卑屈と言うよりも、むしろこれが親愛の証である様に、しゃべり方は自然であった。

魔王院が手を離すと、ゆげと呼ばれたネコは、深山へとすり寄った。それを視線で追いながら、魔王院は問う。

「深山さんの……ネコなのか?」

「いいえ、でも大事な友達なんです。 ね、ゆげ」

深山が抱き上げても、ネコは抵抗しない。元々大人しいのか、或いは飼い猫だったのか。それについて何かコメントを言おうとしたとき、魔王院は第三者の登場に気づいた。

「……意外だわ」

「沢田さん。 ……沢田さんも……此処に集まる生物に……食物を与えに来たのか?」

「ええ」

そこには、笑顔の一つも浮かべず、相変わらず全身から近寄るなオーラを発し続ける沢田がいた。彼女の手には、包んだままの弁当箱があり、視線はゆっくりと魔王院の与えた餌へと移動し、戻った。現れたときは優しい表情をしていた様な気もするが、今、それを確認する術はない。

「今日は、もうその子達、満腹ね。 また明日にするわ」

魔王院は更に何か言おうとしたが、沢田はついと顔を背け、その場を去ってしまった。会話に加わることが出来なかった深山が、二人を交互に見やって、気まずそうにしていた。

「あの……先輩。 あの人は?」

「俺の……クラスメイトだ。 沢田さんという」

「何というか……その……あの……えっと……物静かな人ですね」

根暗と言わないのが、深山の良い所であろう。だが、魔王院は元々、違う印象を沢田に対して抱いていた。

「物静かと言うか……むしろ……雀蜂の様な印象を受ける」

「え?」

「雀蜂は派手な体色をしているが……あれは警戒色と言う。 余計な争いを避けるため……全身で……自分に近寄るなと言っているのだ。 ……沢田さんも……全身からオーラを発して……他者を遠ざけている」

コメントしようがないのか、黙り込む深山に、ゆっくり魔王院は顔を向けた。周囲のネコは、もう満腹し、その辺でくつろいでいた。

「……でも……何故オーラを発しているのだろう」

「えっと……私には分かりません」

「そうか……すまない。 変な質問をして」

二人の会話を断ち切る様に、チャイムが鳴った。昼休みが終わる五分前に鳴る物であった。

 

ネコの一件があってから、魔王院は沢田を観察することにしていた。授業中も時々視線を向け、休み時間にも様子を探った。もっとも、数日間の観察でも、沢田は尻尾を出さず、魔王院と何度か話したり共に行動はしたが、近寄るなオーラの強度は落ちなかった。

「魔王院、おはよー!」

朝、廊下を歩いていると、不意に背後から声がかけられた。魔王院がゆっくり堂々たる威厳を持って振り向くと、そこには丘野と深山がいた。丘野は右手にキュウリを生のまま一本持っており、ひまわりのような笑顔を浮かべて手を振っている。深山はいつもと同じピンクのカメラを持ち、不思議そうに魔王院と丘野を交互に見やった。天気はどんよりとした曇りだが、この二人の周囲には居ながらにして日の光が溢れている様である。

「ええっ? 丘野先輩と魔王院先輩って、お友達だったんですか?」

「そうだよ。 魔王院と一緒にいると、色々面白いものが見られるから、すっごくたのしいよ」

自分自身を棚に上げて丘野が言う。深山は胸の前で手を組み合わせて、目を輝かせた。

「そうだったんですか! ひょっとして……あの……面白い物だけじゃなくて……変な物とかも見られますか?」

「そりゃあもうばっちり! ……ところで、魔王院。 さっきからなにしてんの?」

「……あれ」

魔王院が緯線を一瞬だけ移した先には、沢田が相変わらず強固なオーラを放って防衛体制を取りつつ、なにやら黙々と本を読んでいた。結構器用な様で、廊下を歩きながら、ちらちらと大きな本に目を通している。優れた視力を持つ魔王院にも、本のタイトルは確認出来なかった。

「あ、この間の弁当の子だ。 沢田さん、だよね」

「ああ。 ……ずっと一人でいるから……少し気になる」

魔王院の言葉に、丘野は生返事をすると、キュウリを生のまま囓った。どうも間食のために持ってきた様である。緑の皮には棘が痛々しくついており、みずみずしい生命力を放っていて、見るからに食べると健康に良さそうであった。それを口の中でかみ砕いて飲み込むと、丘野は何か言おうとしたが、それは果たせなかった。隣では、深山が、ワイルドな、女の子が残したとは思えないキュウリの囓り跡を見て目を輝かせ、早速写真に納めている。

「金ちゃん、陽子、何してるの?」

「うわっ! びっくりしたあっ!」

「きゃあっ!」

「ご、ごめんなさいっ!」

丘野の声につられて魔王院と、反射的に謝る癖があるらしい深山が振り向くと、そこには自分もびっくりしたらしいかすみがいた。気が小さい彼女は、相当に驚いたらしく、小さく非難を込めたまなざしで魔王院と金剛を見やった。どうも深山とかすみは友人関係がないらしく、魔王院の観察によると、交わす視線は他人同士の物であった。

「もう、おどかさないでよ、金ちゃん、陽子」

「すまない……悪気はなかった……許してくれ」

「そうそう、ごめん、七瀬」

「もういいよ。 それよりも、なにをしていたの?」

かすみの言葉に魔王院が説明をし、かすみの視線が沢田へと向いた瞬間、丘野と深山の視線が正反対の方向へ向いた。今彼らのいる廊下に面した教室の中から悲鳴が上がり、掌大の蜘蛛が壁を這って天井へ上っていったからである。箒を構えた男子生徒がはたき落とそうとするが、蜘蛛は悠々と天井に昇り、かさかさとはっている。やがて、男子生徒は諦めて教室に戻っていった。丘野はしばし蜘蛛を見ていたが、正体を特定したらしく、その名を呼ぶ。

「アシダカグモだっ」

「おっきな蜘蛛さんですね。 丘野先輩、どういう蜘蛛さんなんですか?」

「毒はないし、ゴキブリを退治してくれる偉い子だよ。 あたしの家にも何匹かいて、大事にしてるんだ。 兄貴がそういうの好きで、太郎とか康夫とかジョンとか名前も付けてたっけ」

「うっわー、すごいですー! あしだかぐもさん、はい、チーズ!」

深山がカメラのシャッターを切った。フラッシュ付きであり、それは蜘蛛を刺激した。次の瞬間、悲劇が起こった。びっくりした蜘蛛が天井から落ち、かすみの顔面に張り付いたのである。

硬直するかすみ、そしてアシダカグモは、その長大な足を延ばして、かすみの顔を登頂し、頭へと移った。顔中に巨大な蜘蛛がはい回る感覚を覚えたかすみが、一呼吸おいて絶叫した。

「きゃあああああああー! いやあああああああああああああーっ!」

魔王院も驚くほどの悲鳴を上げたかすみだったが、驚いたのは蜘蛛も同じであった。一瞬後、大きさからメスと分かる蜘蛛が取った行動は、一番近い暗がりに逃げ込むことであった。何事かと周囲の生徒達が視線を向ける中、丘野が呑気に呟き、かすみが頭を必死に振る。

「わお、すごいスピード。 うちのジョンみたいだ」

「やだああーっ! 金ちゃん、金ちゃん取って! 助けてーっ!」

「そうしたいのはやまやまなのだが……」

魔王院の困った様な声に、おそるおそるかすみが視線をそちらへ向ける。普段は仏頂面の魔王院が、珍しく困惑を顔中に浮かべていた。

「背中に入った。 ……まさか……服の中に……手を入れる訳にもいかない……」

「……やあだあああああああああーっ!」

「わー、服の上から、蜘蛛が動いてる様子が見えるよ。 それはともかく、落ち着いてよ七瀬。 暴れると、大変だよ」

「す、凄いです丘野先輩! 決定的瞬間ですねっ!」

自分のせいで悲劇が起こったことに気づかず、目を輝かせて写真を撮りまくる深山。丘野は丘野で、落ち着く様にかすみに説得をするが、失神寸前の彼女は暴れてどうにも出来ない。魔王院と言えば、もともと極めて紳士的な性格でもあり、押さえつけることも出来ず、なだめることも苦手で、困惑するばかりであった。だが、大事な隣人の危地を捨て置くわけにも行かない。魔王院はいつにもないほどに真剣な顔で、周囲に向け絶叫した。

「誰か! ……誰か助けてくれっ!」

ついにへたり込んでかすみは泣き出した。状況を知っている女子生徒で、助けにでようと言う者もいない。かすみの涙も止まらない、元々気が弱い性格なのだから、仕方がないかも知れない。魔王院の眉間に、一瞬ごとに皺が寄る。無力感が、彼を雷の如く打ちのめしていた。

「誰か! ……誰かかすみの命を助けてくれっ! ……このままでは、かすみが死ぬ!」

しかし、誰も助けにはでない。轟音がしたのは、魔王院が拳で壁を殴りつけたからである。そこには、驚くべし、円形にくぼみが出来ていた。やるせなさに、獅子の如き咆吼を上げる魔王院。誰にもどうにも出来ないかと思われたそのとき、救世主が場に降臨した。

 

「どうしたの?」

「沢田さん……かすみの服の中に……蜘蛛が入ってしまった……。 まさか俺が取るわけにもいかない……このままでは……かすみの命が危険だ!」

「男子、全員回れ右っ!」

場に現れた、というよりも単に近づき続けていたため、単純に事態を悟った沢田は、魔王院の言葉で事情を把握すると、力強い声で周囲に号令を下した。そして、いわゆる童女泣きをするかすみのセーラー服の背中を素早くまくり上げ、蜘蛛を目にもとまらぬ早さで捕獲したらしかった。というのも、魔王院は大まじめに回れ右をして、決定的瞬間を見逃したからである。

「はい、七瀬さん、もう大丈夫よ」

「おー、凄い! 沢田さん、日本一ー!」

皆が振り向くと、丘野の拍手をバックに、沢田がとても優しい笑顔を浮かべていた。手の甲で涙を拭っていたかすみは、その笑顔を見て泣きやみかけ、そして硬直した。沢田の手には、足を縮めて、後ろから沢田に捕まえられたアシダカグモがいたからである。至近距離から、同性のアシダカグモとお見合いをすることになったかすみは、泡を吹いてあえなくひっくり返った。

「うぉおおおおおおおおおおおっ! かすみが……かすみが……! 死んだーっ!」

涙を流しながら、天を仰いで絶叫する魔王院。ハンカチで涙を拭う深山。その脇では、冷静に丘野がかすみの様子を確かめている。

「大丈夫、魔王院。 七瀬、気絶してるだけだよ」

ほどなくかすみは目を覚ましたが、すっかり腰を抜かしてしまっており、魔王院の手によって保健室に運ばれたのであった。

 

「それにしても……沢田さんは……かすみの命の恩人だな……」

「そんな、大げさだよ……でも、金ちゃんが本気で心配してくれて、嬉しかった」

「ねえねえ、魔王院、沢田さんに、今日のお礼しようよ。 みんなでお金出し合って、プレゼントしよう」

「それは素敵です。 何をあげましょうか?」

その日の帰り。すっかり仲良くなった四人組は、和気藹々とかすみが死にかけたときの話をしながら帰宅していた。話は自然と英雄たる沢田の事へと移り、彼女への礼にと移行する。

「沢田さん……いつもはとても硬い表情なのに……とても優しい笑顔だった。 本当は……明るい人なのでは……無いのだろうか」

「じゃさ、沢田さんが好きそうな物をあげて、もっと喜ばせてあげよう!」

「それなら、実は心当たりがあるの。 今日、沢田さんの読んでいた本、ちらっと見えたんだけどね」

 

翌日、沢田が屋上で本を黙々と読んでいるのを見かけた魔王院は、他の三人を手早く呼び寄せ、咳払いした。人の気配に沢田が顔を上げると、そこには昨日の騒ぎの張本人達が、満面の笑顔(魔王院除く)で立っていた。何か良からぬ事でも企んでいるのではないかと身構える沢田に、かすみが綺麗にラッピングした本を差し出した。

「沢田さん、はい、これ。 昨日のお礼。 みんなでお金を出し合って買ったんだよ」

「そんな、悪いわ」

「……遠慮せず……受け取って欲しい。 かすみの命の恩人に……物で礼をせねばならないのは……むしろ心苦しいのだ……」

苦笑した沢田はプレゼントを受け取り、包み紙を取った。そして、中からは、(世界の大型生物・水中編)と書かれた立派な装丁の図鑑が現れた。次の瞬間、沢田の目の色が変わり、手がわなわなと震え出す。

「こっ……これは……! 間違いないわ! ど、ど、どこで見つけたの!?」

「あたしが知り合いの本屋さんまで、自転車で飛ばしてきたんだ。 往復で四時間かかっちゃったよ」

目の色が変わった沢田は、丘野の返事もろくに聞かず、素早く図鑑をめくる。フルカラーで、しかもふんだんに写真と解説図が使われた美しい図鑑で、中には大型の魚類、頭足類、鯨をはじめとした、古今東西の海棲大型生物が多数解説されていた。

かすみが昨日目撃したのは、同シリーズの陸上編であったのだ。そして、かすみは幾度か沢田が同じ本を所持し、中に目を通しているのを目撃していた。調査の結果、それは極めて稀少なシリーズの図鑑だとわかり、駄目元で販売している本屋を調べ、ついに昨日入手に成功したのであった。

「凄い……メガロドンの体長が十五メートルに訂正されてる……ピラルクのマキシマムサイズも3m弱に修正されているわ。 イラストも精密……見れば見るほど凄い!」

目から光を発さんばかりの勢いで、沢田は輝いていた。そしてふと我に返ると、図鑑を閉じ、皆に笑いかけた。

「ありがとう、とても嬉しいわ」

沢田の顔に浮かんだそれは、かすみを助けてくれたときに一度だけ見せてくれた、とても優しい笑顔だった。そして、その身から、あの強固な近寄るなオーラは、もう立ち上ってはいなかったのだった。

 

第四話、魔王破れる

 

魔王院の家の近くに、大きくも小さくもない駅がある。特に優れた施設を有するわけでもない其処は、ハイソな駅前広場が人気を持ち、待ち合わせの場所としてよく使用され、今日も例外ではなかった。

「魔王院ー!」

遠くから響き来く声に、私服の魔王院が振り向くと、そこには案の定丘野がいた。彼女も私服で、自転車を引きずっている。背中には、小さなリュックを背負っていた。そして、右手にはキュウリを山盛りに入れた袋があり、そのうちの一本を取りだし、囓りながら周囲を見回す。

「ねえねえ、他の連中は?」

「木地本は……さっきジュースを買いに行った。 ……君子は来られない。 ……かすみはもうすぐ……多分五分前に来るはずだ。 ……深山さんと沢田さんはまだいない」

「そっか。 そうだ、魔王院」

嬉々として丘野が取りだしたのは、ガイドマップだった。そしてしおりを挟んでいたらしいページを開け、魔王院に見せた。

「ここ、良くない? まだ少し早いけど、その分海水浴客も少ないと思うし」

「む……確かに……」

「それでさ、実は面白いこと考えたんだ」

魔王院の前で、丘野はいたずらっぽく笑顔を浮かべた。

 

期末テストが終わり、青葉台高校の生徒達は、土日と祝日の位置が良かったため、連休を楽しんでいた。そんな中、皆で遊びに行くことを提案したのは丘野であった。こういった時の丘野の行動力は目を見張るものがあり、宿から予算、それに作戦の動員戦力まであれよあれよという間に殆ど一人で決めてしまった。

今回の参加者は、発案者たる丘野をはじめとして、魔王院、かすみ、木地本、沢田、深山である。二年生を中心とした仲良しグループであり、本当は君子も誘われていたのだが、既に先約があったため不可能であった。

一同は待ち合わせより二分ほど遅刻して集結すると、まずは一キロほど離れた場所へ歩いて移動した。そこには巨大なジェットコースターをウリにした遊園地があり、丘野が入手した入場券を人数分用意していたのである。というわけで、この中での王は丘野であった。で有る以上、彼女の意向は、遊びにある程度反映されなければならない。

「丘野さん、何に乗りたい?」

「ジェットコースター!」

沢田の問いに、即答する丘野。巨大な軌跡を描いて三回転するジェットコースターを見て、かすみは何かを魔王院に訴えかけようとしたが、あまりにも丘野がわくわくしているので結局何も言えなかった。この不況、一部の遊園地を除いて客入りは悪い。殆ど列ぶこともなく、彼らはジェットコースターに乗ることが出来た。電車が発車するときとは比較にならない衝撃と共に、遊具が動き出す。それは急角度の斜面で速度を上げ、急カーブを繰り返す。

「きゃははははははは! 早い早い!」

「……なかなかの……早さだ……」

「ふええええええっ! 丘野せんぱーい! 早すぎますー!」

「き、き、き、金ちゃんっ!」

はしゃぎ続ける丘野、単純に感心する魔王院。露骨におびえる深山とかすみ。沢田は普通に楽しみ、木地本はこういうのが駄目らしく真っ青な顔であった。しかし、フェミニストである彼は女性の前で無様な姿を見せるわけには行かないとでも考えたのか、可能な限り平静を装っていた。やがて轟音と共に、ジェットコースターは激しい勢いのままレールを伝って空中を三回転し、更に余韻を楽しむ様に加速と減速、直線と急カーブを繰り返し、やがて止まった。

「丘野、次は何に乗るんだ?」

「次はね、あれ」

丘野が指さした乗り物を見て、元々青ざめていた木地本は、更に青ざめた。それは、轟音と共に疾走して水の中につっこみ、激しく水を跳ね上げるウォータースライダーだったのである。

丘野は観覧車やメリーゴーランドなどと言った穏やかな乗り物には見向きもせず、ウォータースライダーやジェットコースターなどの激しい乗り物ばかりを徹底的に選択し続けた。五時間ほどで、計十一本もそう言った乗り物ばかりに乗ったあげく、疲労の欠片も見せなかった。

これに音を上げたのが、体力に自信がないかすみと深山である。ただでさえ集合時間が朝七時だった上に、昼を跨いで絶叫マシンに乗り続ければ、楽しいを通り越して、疲労もピークに達そうという物だ。やがて、流石に疲れ始めたらしい沢田が挙手した。

「提案よ。 そろそろ別の所へ移動しない?」

「あたしはいいよ。 じゅーぶん楽しんだし」

即答する丘野に、魔王院を除く一同はほっとしたようだった。魔王院はと言うと、丘野同様疲労の(ひ)の字も見えず、中立的な立場を保っていた。丘野の言葉の後に、全員がおいおいと賛意を示し、遊園地を後にすることが決まった。

遊園地は小高い丘にあり、周囲が一望出来る。見晴のいい場所には望遠鏡も設置され、夕方から夜にはかなりいい雰囲気になるらしく、カップルが多数訪れると木地本が話していたことを、魔王院は思い出した。当然、ここからは、直線距離にして十キロほど離れた海も一望することが可能である。

「じゃ、次は泳ごっか」

「いいな、賛成だ」

出来るだけ下心が見えない様に、上手く表情を隠して木地本が言う。要は皆の水着が見たいのだろうが、そう言うことを露骨に言うと確実に嫌がられ、好感度を落とす。この辺の妙は、彼が今まで多数の女性とつきあいを繰り返し、経験を積んできたことの現れであろう。だが、青ざめた者もいた。自転車で丘野が来たことに、最初から疑問を感じていたらしい沢田である。

「で、丘野さん、どうやって海まで行くの?」

「どうやってって……歩きで行くに決まってるじゃん。 自転車でも良いよ」

あまりにもさらりと言う丘野。眼下に広がる雄大な海までは、直線距離で十キロ以上あるのに、だ。一部を除いて全員疲労しているのに、だ。楽しそうにしている丘野に、今日は暫く皆につきあって楽しみ、自己主張しなかった魔王院が提案した。

「ただ行くのも……つまらない。 どうせなら……二人ずつチームに分かれて……一番早く海までたどり着いた者に……商品を出してはどうだろうか……」

「おっ、いいな。 魔王院、商品は何にするつもりだ?」

「……これでどうだ。 今度オープンした……大型水族館のチケットだ……丁度二枚有る」

そうやって魔王院が取りだしたチケットを見て、沢田の目の色が変わる。

「やりましょう! 今すぐ、絶対!」

「チーム分けはどうする?」

「金ちゃん、あの、私、木地本君と組むね」

真っ先に手を挙げたのはかすみだった。意外そうに木地本がその横顔を見たが、すぐに真意を悟った様で、黙った。

「私は魔王院君と組みたい」

沢田が挙手した。恐らく、提案者たる魔王院には必勝の秘策があると予測しての行動であろう。魔王院はそれに異存がなかったので、静かに頷き、必然的に丘野は深山と組むことになった。

「じゃ、深山。 これとこれ、それにこれつけて」

「え? 丘野先輩、これなんですか?」

「ボディーアーマー。 転ぶと危ないから」

自分の分のボディーアーマーを装着しながら丘野が言う。ボディーアーマーと言っても、自転車競技用の物で、しかも女性向きにサイズを小さくしてある。ゴーグルを装着しながら、丘野はにかっと笑った。深山はこれから起こりうる大惨事を予測したのか、僅かに青ざめたが、すぐにいつもの様に笑顔を作った。

一方で、かすみは携帯電話を取りだし、電話をかけた。十分ほど後、小型の中古車が現れ、私服を着た大山が窓から顔を出した。

「おや、おそろいだね。 どうしたんだ?」

かすみは大山の親戚筋で、非番の日は家族ぐるみでのつきあいが時々あった。かすみは腰をかがめると、大山に事情を説明し、やがて納得した警官は頷いた。

「魔王院君、勝算はあるの?」

「勝率は……五十七パーセントと言う所だ……」

「相手は車と自転車よ。 どうやって勝つつもり?」

当然の疑問を投げかける沢田に、魔王院は一切表情を変えずに応えた。

「沢田さんを……俺が担いで……走る」

「それで勝てるの?」

「相手が手強いので微妙だが……勝ちたい所だ」

「分かった。 じゃあ、任せるわ」

笑顔の沢田に、笑顔を返せないことを口惜しく思いながら、魔王院はゆっくりとスタートラインへと歩き始めた。

 

丘野の全身を、興奮がもたらす高揚が満たしている。以前彼女は魔王院と登校の早さを競ったことがあり、その常識離れした脚力に舌を巻いた。今日は一人後ろに乗せていることもあり、条件はほぼ五分。実に楽しい試合が期待出来ることであろう。

ここで問題なのは、丘野は勝つつもりが無い、と言うことだ。正確には、勝負そのものを競うつもりが無いと言った方が良いであろう。丘野は純粋に、競い合うと言うことだけに関心を示しており、勝敗そのものには全く興味がないのだった。

これは丘野にとっては普遍的なことだった。丘野は水泳部に所属しており、自由形の地区記録さえ持つほどの強者である。実際彼女は、本気を出せば全国レベルの選手と充分に渡り合えるほどの力を持っていたのだ。だが、本人はタイムにまるで関心を示さず、部内で(楽しく泳ぐ)事ばかり考えていた。それはタイム第一主義の教師に頭を抱えさせるに充分な事象であった。能力の無い部員ならそれで良かっただろうが、丘野は部でも数年来の逸材であり、文句なしのエースと言っていいほどの選手なのだ。単純に泳ぎを楽しみたい丘野と、彼女に(やる気)を出させたい顧問。今まで何度かそれは対立の火種となり、何度か水泳部を辞めようとさえ丘野は考えた。

そんなときに、魔王院が丘野の前に現れた。木訥でがさつだが根本的には優しく、そして丘野のあふれ出る生命力に充分についてこれる男である。今までも寄ってくる男はいたにはいたが、丘野のパワーに振り回されて殆どがすぐに逃げてしまった。だが、今日のことを見ても分かる様に、魔王院は平然と丘野のパワーを受け止めてくれるのだ。魔王院と話しているときに、丘野は楽しいと感じていた。そして、それが丘野にとっては全ての価値観だった。不思議と、楽しいはずの水泳部でたまっていたストレスは雲散霧消し、毎日がとても楽しくなった。今も想像を絶する相手との勝負でだけもたらされる興奮が体内を満たしていた。

勝負の細かいルールは既に決まっている。ゴール地点は、写真を全員に渡して既に確認済みである。また、大山は交通規則を破らないことが絶対条件だった。この辺りに制限速度を示す標識はないから、それはすなわち六十キロとなる。この辺りの道路は交通量も少なく、人家も周囲にはない。無理さえしなければ、事故の確率は極めて低いと言えるだろう。発車時刻まで、十五秒を切った。場を、言いようのない心地良き緊張感が満たし、丘野は深山を見やりもせずに言う。その顔は、真剣そのものだった。

「舌噛むよ、口閉じて」

「はい、丘野先輩」

深山は丘野より一つ年下だが、身長、体重共に丘野を凌ぐ。だが、体力は雲泥の差があり、運転手の代わりにはならない。丘野が左右に視線をやると、爛々と目を輝かせる沢田を担ぎ上げて身を低く沈める魔王院と、静かに、だが激しく闘志を燃やし、開始の時を待つ大山がいた。時間が徐々に発火点へと収束し、やがて爆発した。

「うぉおおおおおおおおおおおっ!」

とどろき渡った咆吼は、魔王院が上げた物だった。それが合図となり三者三様にスタートした。一秒ごとに三者は加速し、一気に高速の世界へと身を躍らせる。

しばしの間、戦況は互角であった。だが、流石に車は速い。最高速度、つまり六十キロに達した大山車は、徐々に、わずかずつ、だが確実に丘野と魔王院を引き離していく。丘野が視線をちらりと這わせると、呆然として後部座席に張り付く木地本と、笑顔のまま手を振っているかすみが見えた。かすみの様子に嫌みは全くなく、丘野は彼女を嫌いになる要素が無い。

「さっすがくるま! でも負けないよ!」

あくまでマイペースを保ちながら、丘野は素早く左右に視線を這わせた。そして、理想的な地形を発見し、目を光らせた。

「自転車にしか出来ない技を見せてやるっ!」

丘野はそれだけ言うと、素早く道路の脇に寄せた。そして道路の脇にあるコンクリートの護壁に、絶妙な動作で乗り上げ、速度を落とさぬまま斜めに走り、徐々に上へと上っていく。周囲を烈しい擦過音が圧し、それは鋸が金属を切断するかの様に響き轟いた。そして、六秒ほどの神業の後、ブロックの上に上がることに成功した。この間、若干スピードは落ちた物の、すぐに回復し、大山と魔王院を見下ろしながら疾走する。すぐ右は雑木林になっており、コンクリート壁と雑木林の間には側溝がある。つまり、実質に走路は幅十五センチほどしかなく、丘野の自転車操作技術が伺える。

「お、丘野先輩! 前、前ー!」

「おっしゃ、任せてっ!」

深山の警告が響き、丘野の眼前に大きな石が迫る。大きいと言っても直径三十センチほどだが、自転車の行く手を塞ぐには充分だった。丘野は前輪を持ち上げると、激しく右に車首を向け、地面に前輪を叩き付け、一気に方向を変え、ドラフトして速度を落とし、その後雑木林に突入した。そこには獣道があり、丘野は自転車を繰って一気に其処を通り抜けていく。無論、段差など物ともしない。そして、何度か見かけた小動物や昆虫は素晴らしい技術で的確に避けた。驚くべし、丘野は先ほどからコンクリート壁の上に獣道を探していたのである。そして、発見した後は、地形から考えて最適と思われるここへ突入したのだった。ブッシュの間から、陽光が差し込んで見える。そしてその先は、先ほどと同じコンクリート壁の上だと推測出来た。

「ふええええええええっ!」

「必殺! 丘野チャアアアアアアジ!」

深山の悲鳴と日光をバックに、ブッシュを蹴散らし、丘野の自転車が再び躍り出た。正確にはドラフト走行しながら躍り出たのだが、その光景は驚嘆するには充分であった。そして、雑木林に突入した時と同じように向きを変え、一端コンクリート壁と併走、その後コンクリート壁を駆け下り、一気に道路に出た。後ろには、茫然自失の態の大山がいた。

「どんなもんだいっ!」

道路は下り坂に入り、丘野の自転車は更に速度を上げ始めた。道路はS字に蛇行しながら、下り、その向こうには輝く海原が見えた。

 

魔王院は最下位に落ちていた。だが、前の二人に執拗に食らいつき、容易に差を開けさせようとはしない。目に光は灯り続け、衰えることもない。そう思った瞬間、丘野が見事な技術でショートカットを決めた。それは、素晴らしい興奮を魔王院にもたらした。

「流石は丘野さん……やるな……!」

高速で走り、風を切りながら、心底から感心して魔王院が言う。その肩の上では、沢田が心配そうに言った。

「魔王院君、大丈夫? 離されてるわよ!」

「大丈夫……丘野さんに……必殺丘野チャージがあるのなら……俺には……魔王院式走行術がある!」

鋭く目を光らせると、魔王院は疾走しながら視線を素早く左右に走らせた。そして、理想的な状況を悟ると、にいと口の端をつり上げる。

「車輪には出来ない技……とくと見せてやろう!」

道路の海側はS字に螺旋が繰り返され、少し高めの、非常に頑丈なガードレールが敷設されている。魔王院は速度を落とさぬまま道路を蛇行し、一端海側から離れると、一気にガードレールに向け疾走した。

「うぉおおおおおおっ! 魔王院式走行術、降魔報爆跳!」

短い叫びには、圧倒的なパワーが籠もり、絶大な力を持って周囲を圧する。そのまま魔王院はガードレールを蹴り、空中に身を躍らせたのである。高空を飛ぶ鳥が如く、魔王院は空を舞った。そして、異常なほど長く思える時間の後、下の道路に着地したのである。

そのまま、激しく地面を蹴りつけ、斜めに前進しながら運動エネルギーを殺す。幾度かそれを繰り返し、完全にエネルギーを消費し尽くすと、再び魔王院は走り出した。後方には、丘野と、大山の姿があった。スーパーショートカットに成功した魔王院は、一気にトップに躍り出たのである。

「凄い、凄いわ、魔王院君! 水族館はもうすぐ其処よっ!」

「油断はまだ禁物だ……まだ半分も来てはいない!」

沢田の声に、そのまま魔王院は更に速度を上げ、一気に独走態勢に入ろうとする。だが、後方の二人は手強く、それを容易に許そうとはしなかった。

 

大山は生唾を飲み込む感覚を、久しぶりに覚えていた。彼は現役の警官であり、法の使徒である。だが、幼い頃からそうだったわけではない。昔は様々に悪さもしたし、それは高校生の頃まで続いていた。むしろ、手がつけられないワルだったのだ。

愚行から足を洗ってからも、彼には車を駆ることが趣味として残った。暴走族に入っていた頃と違い、走ることが純粋に楽しくなっていたのだ。それは自分の存在感を、迷惑行為を通じて周囲にしめそうとする行動から、純粋に走ることを楽しむ事へ、誇り高きプライドへと昇華していた。今では、彼は立派なドライバーであり、法を守りつつ、趣味を楽しめる大人へと代わっていた。

だが、どうも最近、大川は物足りなさを感じていたのも事実である。それは、勝負出来る相手がいないのが原因だった。

荒れていた頃、唯一勝負事だけが彼の心を燃やした。それは純粋な闘争本能に起因し、どこか虚しかった暴走行為とは違った。走るスピードを競うことは、走ることよりも、競うことに意義があった。大山は時々その感覚を思い出すが、今はそんなことを競える相手がいなかった。しかし、今は違う。

自転車とただ走るだけでありながら、あの二人は絶大な力を持つ存在だと大山は悟っていた。そして、体が震えるほどの高揚を与えてくれる、全力で勝負出来る存在だと本能レベルで大山に教えていた。

体をわなわなと震わせている大山に、木地本が気づいた様だった。情けなくも後部座席に張り付いている彼は、疑問に眉をひそめた。

「大山さん?」

「俺は……俺は……」

「俺は?」

「……うぅれしいいいいいいいぞおおおおおおおおおおおっ!」

絶叫の次の瞬間、大山の目の色が変わった。そして、公定速度を守ったまま、だが着実に勢いが代わった。運転に張りが出、全身に生命力のオーラがたぎる。丘野の様に、或いは魔王院の様に。

「警官になって、苦節十五年! 誇り有る仕事なのに、どこか虚しかった! 今までは理由が分からなかったが、今は違うッ! 俺は……俺は! この俺と五分に戦える相手を捜していたんだあああああああっ!」

大山がハンドルを激しく切る。大山の本性を実は知っていたらしいかすみは落ち着いた物であったが、木地本は違った。悲鳴さえ上げなかったが、無言のまま青ざめている。

「行くぞ金ちゃん、そして丘野姉ちゃん! ……丘野チャージ? ……降魔報爆跳? しゃらくせえっ! 俺には! コーナリングの大ちゃんと呼ばれた俺には! 秘奥義カミソリコーナリングがあるっ! 見せてやるぜっ!」

言葉と同時に、大山は絶妙な技量で、カーブを最小限の消耗で曲がった。まさに神業、彼が暴走行為を繰り返していた頃に身につけた大業であり、見る間に前方の二人との距離を縮めていく。しかも今は、きちんと公定速度を守ってそれを行っているのだ。

「ま、まさか七瀬……これを知っていて、大山さんを呼んだのか?」

「うん。 どうせ金ちゃん、私と水族館に何て行ってくれないもん。 だから……金ちゃんが、他の女の子と水族館に行かない様に、ちょっとイタズラしちゃった」

かすみが少し拗ねた様な口調で言う。おそらく彼女は、まだ魔王院の事が諦めきれないのだろう。無論、完全に諦めていないのなら、最初から魔王院と組みたいと言えばいいわけで、この辺は微妙な乙女の心理と言った所だろう。大山はそんな事情には一切気づかず、ますます瞳に大きな炎を宿し、それを燃え上がらせる。

「おぉおおおおおおっ! 燃えてきたぜえええええええええっ!」

完全燃焼した大山が絶叫する。三つどもえの攻防は、ますます激しさを増していった。

 

戦いはクライマックスを迎えていた。砂煙を上げながら疾走する三者は、S字に蛇行する下り坂をほぼ降り終え、先頭の魔王院を丘野が追撃し、更に丘野を大山が追跡している。この長い長い坂を完全に下り終えると、後は三百メートルほどの直線である。

この三者は、皆自分の限界を知る者達であり、無理なスピードでは走っていなかった。だが、それがついに破れる瞬間が訪れた。魔王院が、現在の速度と残りの距離を計算し、舌打ちした。

「まずい……このままだと……ゴールの三十センチほど前で……丘野さんに抜かれる」

「ええっ? 此処まで来たのに……」

この瞬間、魔王院の脳裏に一瞬焦りが浮かんだ。そして、彼は再び蛇行すると、降魔報爆跳を実行した。

失策であった。最後の曲がりは今までとは比較にならないほど短く、劇的なショートカットには至らなかったのである。丘野はそれに対し、慎重に、だが確実に間を詰めてくる。ペースを落とすこともなく、乱れることもなく。更にその背後からは、獲物を狙うハブの様に、大山が着実に間合いを詰め来ていた。

やがて、坂は終わり、最後の直線にさしかかった。流石にこの道は交通があり、何事かと驚く通行人の頭上を魔王院が飛び越し、丘野が追い越し、大山が通り過ぎる。時々車さえ追い越しながら、三者は疾走し、見る間に間合いが詰まっていった。

ゴールの地点には、誰にも分かる目印があった。海水浴場を示す旗が、風になびいている。まだ砂浜には人が少なく、三人は同時に危険がないことを確認した。

「「「うぉおおおおおおおっ!」」」

三つの咆吼が、砂浜を蹂躙した。そして、三者は殆ど同時に、塊になって砂浜に突入した。

 

「負けた。 破れた。 ……だが……悔いはない」

砂浜に腰を落とし、魔王院が苦笑した。隣では、一位だった丘野が、深山とはしゃいでいた。その側では、結局三位だった大山が、残念そうな、だが悔いのない表情で丘野を褒めていた。それに対し、沢田は露骨に残念そうで、頬杖をついて海を眺めている。共通しているのは、直線距離にして十キロを、十五分ほどで踏破したのに誰も感慨を覚えていないことであろう。

「はい、御苦労様。 おしかったね」

「ありがとう……かすみ」

ジュースを買ってきてくれたかすみに礼を言うと、魔王院は再び丘野に視線をやった。

「かすみ……。 丘野さんに……俺は……負けるべくして負けた」

「……」

「丘野さんは……戦いを終始楽しみ……全く欲を出さなかった……。 対し……俺は……勝つことに執着しすぎてしまった……。 凄いな……丘野さんは……」

丘野を見やる魔王院の視線が暖かいことに気づいた様で、かすみは寂しそうな目をした。魔王院は数秒の沈黙の後、口を開く。

「……夏の……良い思い出に……なった」

「また、来年も来ようね、金ちゃん」

その言葉を聞いた魔王院の表情に、一瞬だけ影が差した。だが、それはすぐに消え、二度と現れなかった。

丘野が手を振り、かすみと魔王院を呼ぶ。二人は立ち上がると、皆の待つ方へ歩いていった。

掛け替えのない友と、それ以上の感情を抱いた者の方へと。

                              (終)