薄明かり満ちる地底で

 

プロローグ、夜の街で

 

夜の街を、ボックス型の救急車が走る。街路に設置されている生命反応センサーからの通報で、出動してきたのだ。けたたましくサイレンを鳴らし、リニアウェイを縫い走るその車体は、僅かに浮いている。四輪は車の下にたたまれ、代わりに磁力で走っていた。空中を、である。

運転席に一人、長身痩躯の中年の男。後部に乗っている救護員は、まだ若い、少し太めの男だ。セットされている機材類の品質を確認しているうちに、車はスラム街へ。リニアウェイが切れたので、タイヤに切り替える。この辺りになると、殆ど車は走っていない。危険も大きいが、それでも行くのが誇りだと、運転手は考えていた。

現場に到着。担架をおろして走る。警察用の人型アンドロイドが、既に現場検証を終えていた。冷たい地面に倒れているのは一人。粗末な身なりの少女だ。年は十代の半ばというところ。体つきは小さく細く貧弱で、顔にも幼さが多分に残っている。黒髪は肩の辺りで切りそろえられていて、体中に殴打の跡があった。しっかり胸に抱えている小さな鞄。呼吸は荒く、目の焦点も合っていない。危険な状態。無機質に、アンドロイドが状況を報告してくる。

「強盗に遭いました。 犯人は現在逃走中。 すでに捕縛用アンドロイドが向かっています」

「怪我の状況は」

「三十七カ所が鈍器なり肉体の一部なりで殴打されています。 元々本人が弱っていたらしく、生命反応が著しく低下しています」

それでも小さな鞄を離さなかったのかと、運転手は眉をひそめた。担架に乗せる時も、少女は鞄を離さない。担架を救急車に運び込むのを見ながら、運転手は自らの席へ飛び込んだ。アクセルを踏む。少女の容体はかなり悪い。事は一刻を争う。

救急車を発進させる。ハンドルの下の無線から、アンドロイドが追加で情報を送ってくる。

少女の身元をアンドロイドが淡々と述べる。名前はリテネラ・マクフラン。このスラム街の住人であり、今年十四歳。身長139センチ、体重31キロ。両親は既に無し。国営孤児院から去年出て、今年社会人になったそうだ。他にも様々な情報が述べられる。嫌な予感を覚え、運転手は後ろに声を掛ける。

「生体チップを調べろ!」

「はい!」

「どうだ」

「……え、ええと、言いにくいんですが」

その返答だけで、運転手は呻いていた。予想通りだ。事態は最悪の方向へ進んでいる。

「下層民か」

「はい」

後部席から転送されてきた情報を元に、受け入れ可能な病院を検索。下層民だというだけで、受け入れを行わない緊急病院は多い。殆ど全てだと言って良いほどに。その上、この子は金を払える見込みがないのだ。下層民の生体チップには、個人情報や、預金残高までもが登録されている。だから、そう言うことまで分かってしまう。金さえ払えば、たとえ僅かであっても、治療を行ってくれる病院はあるのだが。

車載コンピューターが検索を続け、車がスラム街を出る頃には、絶望的な結果が出ていた。

「駄目だ。 受け入れ病院、無し」

「そんな」

「くそっ!」

ハンドルを叩く。どうしてこんな世の中になってしまったのだ。運転手は唇を噛んだ。戦争が終わって、やっと平和になると思ったのに。やっと社会がまともになると思ったのに。

放り出して助かりそうかと聞いて、無理だという答えが返ってくる。自分たちでは、もうどうにも出来ない。衰弱しきった体に、激しい暴行が加えられたのだ。家に連れ帰っても、確実に死ぬ。やることは、一つしかない。人権など、下層民にはないのだ。

後ろで、救護員の若造が、青い顔をしていた。運転手だって、同じだ。

郊外に向かう。街の光が徐々に弱くなってくる。郊外にある巨大な溝が、こういった時の「ゴミ捨て場」に指定されている。世界樹との契約の結果だ。

あっさり郊外についた。困惑している救護員を押しのけて、運転手は自ら担架を引っ張り出す。もう、涙なんて枯れ果てていた。今できるのは、せいぜいすぐに楽にしてやることくらいだ。

救急車を停めたすぐ後ろには、底も見えない深い崖。担架をそちらへ運んでいく。瀕死の少女は、それでも鞄を離そうとしなかった。さっき、アンドロイドが無線の先から流してきた情報が、耳の奧に残っていた。

その鞄は盗品です。

だからなんだ。だからなんだというのだ。

吐いたこともあった。飲んだくれたこともあった。泣いたこともあった。どうしようもないこの国の現状、自分で出来ることは限られていた。いつしか感性は麻痺していった。だが、捨てたくないものもあったのだ。

由来など知るか。この鞄は、この子が命を賭けて守ったものではないか。法など知るか。この子は生きる権利があるじゃないか。

「何で、こうなるんだ」

「は、はあ?」

「何でもない」

崖の縁には、電磁ネットが張られている。だが救護員のIDカードを向けると、それも消える。穴への障害はなくなった。

救護員の仕事は幾らでもある。此処で躊躇していたら、救えるはずの命も失われることになる。そのためには、躊躇はしてはいけないのだ。帽子を下げると、運転手は、口の中だけで言った。

「ごめんな」

担架を傾ける。

闇の中に、鞄を抱いたまま、小さな体が吸い込まれていった。

地面に叩きつけられる音はない。あまりにも底は遠いのだ。ただ無言で、運転手も、助手も、闇の中に消えていった少女を見送っていた。

無線から、次の要救護者の情報。いかなければならない。

自分で消した命に振り向いている余裕などは、存在しなかった。機械のサポートがあるとはいえ、この仕事に休む暇は無い。治安が悪化する一方である今はなおさらだ。

街に向けて、救急車が走り出す。それを見下ろすように聳え立つ影がある。街の中心にある、その巨大な存在のことを、世界樹と言った。

 

1,根の国の少年少女

 

遠くで、何かが落ちた音がした。採集当番で村から離れていた半裸の少年エイブリルは、それに気付いて、プループに伸ばしていた手を引っ込めた。腰と肩口だけを覆う、葉で作った衣服を着た少年の体は、良く鍛えられている。

片手でエイブリルがぶら下がっている蔓は、無数に「天」からぶら下がる何十抱えもある「根」から派生したものだ。周囲にはその蔓が縦横無尽に走り、世界のあらゆる場所を複雑に結びつけている。所々はネット状になっているが、それはこの辺りの村で、落ちやすいところに作った安全網だ。もっとも、子供の頃から底のない世界で暮らしている者達は、滅多なことで落ちたりはしないが。

細い蔓からは、栄養価の高い焦げ茶色の球状の食物が生える。これをプループと呼ぶ。大人が行う狩りと、女子供が行うプループ採集が、村の生命線だ。だから、本来はさぼってはいけないのだが、どうも気が引かれて仕方がない。エイブリルは背負っていた籠に、素早くプループを放り込むと、蔓を伝って音がした方へ赴く。籠はまだ半分ほどしか埋まっていない。

灯りは、蔓や、根にこびりついたヒカリゴケが頼りだ。それ以外に、光はない。薄緑の光に照らされながら、腕力と、体の振りで生じる遠心力で、エイブリルは体を運ぶ。風を受けて、頭の後ろのピネがはためく。まだ一本しかないピネを、早く二本に増やしたい。裸足で根を蹴って跳躍、更に別の蔓を掴み、風を切って進む。村の誰もが出来ることだ。籠の重みなど、十五になった現在では、全く気にならない。音がした方向も、正確に把握できている。村で一人前と見なされるには、村の周囲の地形を、立体的に完璧に把握することが条件となる。だから、必死にやり方を覚えた。

あまり遠くまでは目視できない。だから、すぐ近くまで行かなければならない。急ぐと、根から生えている雑草を踏み抜いてしまったり、危ない。出来るだけ努力して心を平らにしながら急ぐ。三つの根を経由し、七つの蔓を渡り終えた先に、それはいた。

薄緑の光の中、人影が浮かび上がっている。ネットの影が近くの根に張り付いていたが、それが人影と重なって、不自然に歪んでいた。すぐ近くの蔓に掴まり、のぞき込む。女の子だと分かった。

ネットの一つに俯せに引っかかっていたその娘の足には、蔓が巻き付いていた。足だけではなく、右腕にもだ。見たこともない衣服を纏っている。作り方を想像できない装飾品を体中につけている。もちろん、知らない顔だ。

一瞬、東の村から来たのかと、エイブリルは思った。あちらには変わり者が多いし、だいぶ衣服の作りも違う。蔓に色をつける方法を知っているらしく、男も女もそれはけばけばしい格好をしているのだ。

ネットに引っかかっている少女の手足には怪我もあり、この場では対処も出来そうにない。それにしても、不思議な感触だ。そのままネットに落ちたのなら、もっと酷い怪我をしていただろう。蔓がこの娘を守ろうとしたかのようだ。

村へ運ぼうとエイブリルは判断。籠をネットにおいて、女の子を背負う。女の子はエイブリルより年上か。随分重いし、体つきもしっかりしている。それなのに、顔には幼さが残っているのがアンバランスだ。真っ黒な髪の毛は短く、驚くべき事にピネがない。これはどういう事なのだろうか。

担ぎ上げる時に、至近で顔を見てしまう。女の子と顔を至近で合わせたことなどいまだ無いエイブリルは、鼓動が早くなるのを感じていた。乾いた蔓を使って、しっかり自分と結び合わせる。立ち上がると、ずっしりした重みが足にかかってきた。落ちないように気をつけないと危ない。

女の子も重いが、背負っている何かよく分からないものも重い。顎に不思議な蔓を引っかけていて、その先は半円状の奇妙な物体につながっていた。使い道がさっぱり分からないし、捨てていこうかと思ったが、この子が悲しむかも知れないと思って、やめる。体を覆っている布が随分堅い。触れた感触でも、どうやって作られているのかよく分からない。

女の子は気絶しているようだが、呼吸は規則的で、命に別状はなさそうだ。それでも、早く神交師に見て貰った方がよい。場合によっては、守護神様に報告する必要もあるだろう。どちらにしても、村には急がなければならない。籠は多分とられはしないだろうが、水の一族が最近妙な動きをしているという話もあるし、早く村に行くのにこしたことはない。

背中に出来るだけ振動を与えないように、慎重に蔓を伝う。何度か背負い直す。そのときに、至近で肌を見てしまう。随分黒い肌だ。どうやったらこんなに黒くなるのか、よく分からない。

やがて、村が見えてきた。エイブリルは村が好きだ。大量の光が集まっている其処は、とても美しい。

村の周辺の根には、集中的にヒカリゴケを集めてある。だから村は、淡い光の中に佇んでいるように見える。斜め上から村へ接近していくのは、このルートが一番手堅いからだ。

三つの近い根の間に厳重にネットを張り巡らせ、蔓を編んで作った広大な床。そこへ建てた家々が立ち並ぶ村。家の数は現在二十。どの家も高さは同じだ。床への負担を減らすために、天井の高さに調整している蔓に、建材となる枯根を組み合わせているのだ。

斜めに村へ向かっていた蔓から手を放し、村の端に降り立つ。目ざとくエイブリルを見つけたキニリールが、手を振って駆けてくる。彼女の頭の後ろでは、ピネが二本、元気に跳ねていた。

「エイブリルー!」

「ただいま。 ごめん、神交師は手が空いてる?」

「うん。 で、その子は?」

「落ちてたのを連れてきた」

ネットの感触を踏みしめながら、村の中央にある神交師の家へ。根に伺いを立てたり、医療を行う神交師は、村の中心に住んでいるのだ。キニリールはその神交師の、年の離れた妹である。エイブリルとは同じ年で、狭い村の中では何かと一緒になることが多い。幼い頃は随分張り合った間柄だが、先にキニリールが大人の仲間入りしてからは、不思議と喧嘩することはなくなった。貧弱な体型だが、目は良いし頭も良いし、働き者だしで評判は上々。来年には婿選びが行われると噂されている。

歩きながら蔓を解いて、背中の少女を抱え直す。呼吸は安定しているが、どんな怪我をしているかは分からない。事実、ネットに落ちて平気そうにしていた兄が、翌日ころりと逝くのをエイブリルは経験している。頭を打っているとは思えないが、念には念を入れた方がよい。

神交師の家の周囲に放射状に立ち並ぶ村の家々はどれも基本は円筒形だ。ヒカリゴケを生やした枯れ蔓で壁を作るのだから、これが合理的なのである。神交師の家はひときわ大きい。誰にでも一目で分かる。二抱えもある枯れ蔓を使って作った、ネットを突き抜くようにして上下に伸びている大きな家だ。小柄なキニリールは、隣をとてとて歩きながら、小首をかしげる。

「どこの子だろうね。 格好も見たことがないし、肌はやたら黒いし」

「俺だって知らないよ」

「守護神様、怒らないかな」

「大丈夫だよ、きっと」

村の娘達に恐れられる守護神様は、それは恐ろしい姿をしている。だが、エイブリルは知っている。守護神様はむしろ理知的であると言うことを。ただ、敢えて主張することでもない。村の中で主張したところで、白眼視されるだけだ。

神交師宅の入り口には、棒が横に渡されている。これは訪問を拒否しないという意志表示だ。棒をくぐって中にはいる。丸い大きな家の中央には、巨大なヒカリゴケの塊があり、他とは根本的に違う雰囲気を作り出している。五十を超える村人全員が入ることも出来るほど大きな家は、螺旋状に内周を階段が取り巻いており、普段は上の階に神交師がいる。だが、今日は下から音がした。他にもけが人がいるのだろうか。

「ホチャイ! 下にいるの?」

「おや、エイブリルかい。 下だよ、降りてきな」

「うん。 怪我人がいるんだ。 手当てできる?」

「私を誰だと思っている」

安心した。神交師は村の中心だ。村の結束は、彼女への信頼によってなりたっている。神交師は村の長であり、全てを導く存在でもあるのだ。

螺旋階段を下りていく。所々穴が開いている壁からは、ヒカリゴケの光を纏った、天からぶら下がる無数の根が見えた。壁にはヒカリゴケが植えられているとはいえ、階段は安定が若干悪く、踏み外すと危ない。ゆっくり、慎重に降りなければならない。

最下層には、医療場がある。ベットが五つ放射状に並べられており、その中央に、巨大な赤い円が描かれている。守護神様を称える文様だ。それの真上に、ヒカリゴケの大きな塊が植えられている。

見回すと、ベットは一つ埋まっている。眠っているのはケシナだ。そういえばケシナがそろそろ産期だとか聞かされていた。陣痛が始まったのだとすると、上手くいけば、今晩あたり産まれるのかも知れない。子供をこの村で育てることを守護神様が認めてくれればよいのだが。

ベットの脇に、ホチャイの姿があった。彼女は様々なことをケシナに質問しながら、準備を整えているようだった。

ホチャイはキニリールより頭一つ分背が高い。まだ若いのに、老人のようなしゃべり方をするが、それは守護神様と交信しなければならない神交師だからだ。ベットのケシナに何か話しかけていたホチャイが、立ち上がると此方を見た。頭蓋骨の間から見えるブルーの瞳が鋭くも美しい。

「エイブリル、怪我人かい?」

「うん。 村の外で、落ちてきたのを見つけたんだ」

「其処に寝かせ。 キニリール、お湯を早く用意しな! それとエイブリルは外に出るんだ」

てきぱきと指示が飛んでくる。背負っていた女の子をベットに寝かせる。ホチャイはしばしその体に触っていたが、表情は見えない。ぼんやりとその様子を見ていたエイブリルだが、やがてホチャイが女の子の服を脱がせ始めたので、慌てて部屋を飛び出した。

上階に出ると、ヒカリゴケの塊の側で、キニリールが湯を沸かしていた。隣に座って、ため息一つ。

「びっくりしたよ、もう」

「あはははははは。 こういう時に、男は役に立たないよね」

「ほっといてくれ」

むくれるエイブリル。さっき少しだけ見てしまった女の子の服の下がちらついて、キニリールとまともに目が合わせられない。キニリールは潰した枯葉を竈に入れながら言う。

「それよりも、今日の採集はもう終わったの?」

「あ、しまった。 籠置いてきたんだった」

「取りに行った方が良いよ。 どうせ此処にいても、何も出来ないでしょ」

「悔しいけど、その通りだ。 ごめんな」

背中の重みがよそに移ったからか、随分体が軽い。途中、戦士の一人であるギドスが此方を見ていたが、軽く挨拶するだけで通り過ぎる。ネットの端で踏み込んで、空中へ飛び出す。そして落ちながら、蔓の一つを掴んで、体を運ぶ。

良いことをしたのか分からないが、何だか気分が良い。後は神交師が何とかしてくれるはず。エイブリルの仕事はこれで終わった。あの子は多分助かる。後は、村の仕事をきちんとこなせば、喜んだ守護神様が、きっと運を良い方へ向けてくださるだろう。

今日は何か良いことがありそうだった。

 

目を覚ますと、寝かされていた。衣服が取り替えられている。ということは、何かしら人の手が加わったと言うことだ。

薄暗い部屋だった。明度が異常に低い。視界がはっきりしてくると、それが見えた。天井に張り付けられた発光する苔を光源として利用しているらしい。来る途中、さんざん見た奴だ。この様子からして、栽培方法が確立されているのだろう。

指先から順番に体を動かしていく。骨は異常なし。筋肉はかなり痛んでいるが、これはもともと無理をして此処に来たからという理由もあるだろう。体は清潔に拭かれていた。ゆっくり視線を巡らせる。着て来た服は、側の床に積まれていた。リュックも無事で、それは数少ない安心材料だった。見ると、なかなかに面白い床だ。枯れた根を素材としているのだと、気付くのに少しばかり時間がかかってしまった。そして、壁や天井、ベットまでもが、根を利用しているのだとも。

思い出す。準備をして降りてきたはいいが、途中で足を踏み外してしまったのだ。そうなると、もうどうしようもなかった。拾ったこの肉体の貧弱さ加減は、使ってすぐに気付いた。だが、他にいい肉体もなかったし、仕方がなかったのだ。体が貧弱だと言うこともあるが、苔しか光源が無い状態で、懐中電灯が壊れたのも痛かった。

この様子だと、根の稼働が間に合って、致命傷を避けることが出来た。そして気絶しているところを、誰かに拾われたのだろう。

薄明かりに目が慣れてくる。人影が見えた。皆共通して三つ編みをしていて、頭蓋骨の奴などは七つも頭の後ろにぶら下げていた。衣服はどれも地味な色彩で、露出部分が少ない。肌が見えているのは、手首足首から先と、首から上だけ。それなのに、裸足なのが不思議だ。

人影のうち、一つはベットに寝かされている。腹が大きいから妊婦だろう。となると、変な動物の頭蓋骨を被っているのは産婆か。かなり古い文明形態のようだが、これは当人達の望み通りなのだろう。もう一人が、寝具の脇に座っていた。背丈や体型から言って、年頃は同じか少し下くらいだろう。妙に生白い肌の少女だ。白色人種から比べても病的に白い。この体は黄色人種だが、肌の色の違いは明らかだ。生白い肌の少女は此方が目を覚ましたことに気付いたようで、笑顔を浮かべてくる。笑顔で返す。この肉体は周囲から見てもグズと呼ばれる部類に入ったが、もともと笑顔だけは得意だったのだ。

多分言葉は通じないだろうと思って翻訳機を持ってきたのは正解だった。彼女が産婆らしい人物を呼んだが、言葉は全く理解できなかった。

起きようとすると、肩を押されて、優しくまた寝かされる。意外と感触の良い寝具だ。頭蓋骨を被った方が何か話しかけてくるが、理解できない。出来るだけ早い段階で、翻訳機を動かしておきたいので、笑顔のままリュックを指さす。意味はどうにか通じて、手元に持ってきてくれた。リュックを開くと、中を調べる。幾つか壊れてしまっているものもあったが、どうにか翻訳機は無事だった。

翻訳機といっても、即座に相手の言葉を分析し通訳してくれるような便利なものではない。長い間をかけて相手の言葉を分析収集し、意味を教えてくれる地味な機械だ。イヤホンを右耳につっこむと、翻訳機のスイッチを入れる。しばらくこの者達の言葉を聞かないと、満足に機能しないだろうが、打てる手は事前に幾らでも打つべきだ。ましてや、この肉体は、記憶容量や身体能力に問題がありすぎる。多分、空き容量に新たな言葉を入れるのは無理だろう。

本当に助けてくれたのかどうかは分からないが、今は体を休める必要がある。しばらくおとなしく寝床で横になっていると、食べ物らしい丸い物体が大きな葉に山盛りにされて運ばれてきた。器用に根から削りだしたらしいナイフで、ずっと側に付いていた娘が皮をむいている。

串に刺した一つを差し出してくる。言葉は相変わらず聞き取れないが、悪意は感じられない。ただ、この肉体の感応力などたかが知れているし、過信は出来ない。上半身を起こして貰い、実を口に入れる。甘い。上品な甘さで、後味がとても良い。歯触りも悪くない。少し湯に通してあるようだ。

名残惜しくて指先に付いた汁を舐めていると、次々に勧めてくれる。元々善良な人間なのかと思う一方で、生け贄にでもするのではないかという警戒心も持ち上がってくる。逃げるにしても様子を見るにしても、今の状態では動けない。差し入れに甘えることとして、ふと気がつくと七つ目を口に入れていた。

何か頭蓋骨被った産婆と娘が会話している。母音の使い方が独特で、どこか歌うような、妙に響く言語だ。記憶のどこかに、これに近いものがある。古代の地球で発達した、高山でのコミュニケーション言語。確か名前はヨーデルとか言ったか。

階段を踏みしめて、大柄な人影が降りてきた。筋骨たくましい大男で、肩口と腰以外は全く衣服を身につけていない。顔は四角く、目は重苦しく光り、冗談など生涯言いそうもない雰囲気だ。この男も、白い物が混じり始めた髪を、三つ編みにしている。しかも四本である。そういえば、此処に来てから三つ編みのない人間はいまだ見ていない。ひょっとすると、三つ編みが社会的なステータスを示しているのかも知れない。髪型で社会的地域を示すやり方は、確か古代地球のアジア圏で多い風習であったはずだ。よく見ると、それぞれの三つ編みのやり方も少しずつ違っていた。

大男は重苦しい声で、頭蓋骨の女と何か話していた。固く結ばれた口は、笑顔とはこれ以上も無いほど無縁に見える。わざわざこんな所まで来たところを見ると、あの妊婦の夫だろうか。此方を向いたので、笑顔で返す。表情をぴくりとも動かさなかった。

大男が部屋を出て行く。どうもあの大男が苦手らしく、そわそわしていた寝台脇の娘が、大げさにため息をついていた。それを頭蓋骨の女にたしなめられる。表情豊かで、面白い連中だ。原始的な社会の住人達だが、多分上に住んでいるアホ共よりもずっと人間味に満ちている。

「キニリール」

不意に声がしたので振り向くと、寝台脇の娘が、自分を指さしながら言っていた。人差し指で。意味は通じるが、面白いやり方だ。上の人間なら絶対にやらない。郷に入れば郷に従えという。同じやり方で、自分を指さしながら応える。

「リテネラ」

「リテネラ?」

何か笑いの壺に触れたらしく、娘はけらけらと笑った。不快になることもなく、釣られて笑った。

 

2,守護神様来る

 

エイブリルがプループの採集を終えて村に帰ってくると、辺りはすっかり暗くなっていた。ヒカリゴケは一定周期で光の強さを変える。暗い時を夜といい、明るい時を昼という。だから、今はもう夜だ。

そわそわして落ち着かなかった。あの女の子が無事だという確信はある。だが、妙なもやもやが心を落ち着かせない。ネットの端に着地して、転びかける。籠のプループが幾つか散らばってしまった。目が細かいネットだから落ちてしまうことはないが、ちょっとショックである。もう何年もこんなへまをしたことはなかったのに。

ネットの中央では大型の枯葉が集められて、守護神様を呼ぶ準備が始まっていた。作業をしているのは皆大人だ。まだ大人と認められていないエイブリルは、作業に参加する資格がない。籠を渡そうと近づくと、ピネを四本ぶら下げている英雄ジョネットが、面白くもなさそうに振り向いた。腕ほどもある葉脈を素手で引きちぎりながら。相変わらず、もの凄いパワーだ。

「やっと戻ったか」

「はい」

「あの怪我人を連れてきたとはいえ、まだまだ仕事が遅いぞ。 籠を置いたら、雑草取りだ」

「はい、すみません」

籠を大人達に引き渡した後、駆除するべき雑草と、それが生えている根を指示される。ジョネットはもう老境に掛かっているが、戦士としても村の大人としても有能で、指示には殆ど無駄がない。口調は厳しいが思いやりもあり、若者達からは憧れられている。反論の余地もなく、すぐエイブリルは駆け出す。

ヒカリゴケの周囲に主に生える雑草は、育つと身の丈ほどもある巨大な葉をつける。しかし雑草をあまり育ててしまうと根が傷むので、駆除しなければならない。その駆除は、そろそろ大人になるエイブリル達の仕事だ。駆除といっても、千切って捨てればいいわけではない。根から丁寧に取り除いた後で、村に持ち帰り、乾燥させて燃料にするのだ。強度が足りないから建材には出来ないが、無駄な物はこの世に存在しない。糞便でさえ、大型の根に与えれば、良いケーフィラになって帰ってくるのだ。

もう夜だが、仕事はしなければならない。あの女の子がどうなったかの知りたいと思ったが、言うことをきちんとこなせるようになるのが大人の条件だ。採集に時間を掛けてしまったのだから、やるしかない。多少疲労もあるが、作業を間違うほどではない。後ろ髪を引かれながらも、再び目的地につながっている蔓に掴まり、体を運ぶ。特に大きい村の側の根を過ぎると、後は細い根が続いている。蔓を伝いながら、その幾つかを越えていく。目的地はかなり先だ。

根は常に直線的に天からつり下がっているわけではない。特に太い物の側には村が作られるし、獣が飼われている所もある。また、根が変形して張りだしているような所では、糞便や古い物を埋め込む。そうすることで根に栄養を与え、良いケーフィラを出して貰うのだ。村によっては亡骸を根に戻す所もある。全ては根から来て、根から帰るからだ。理解できなくもない。

目的の根に付く。言われたとおり、大量の雑草が生い茂り、ヒカリゴケにまとわりついていた。

根にしがみつく。青白い根はざらざらしていて、掴まるところがたくさんあるので、まず事故は起こらない。手を伸ばして腰のナイフを抜き、目に付いたところの雑草を剥ぐ。雑草が食い込んでいると言っても、根は基本的に強い。それほど深くは雑草の進入を許さない。エイブリルの力でも、比較的容易に剥ぐことが出来る。雑草を一つずつ処理していく。籠に入れる雑草はみずみずしい。根の傷口からは、水が少しずつ漏れていた。

「酷いな……」

残念だなと、エイブリルは思った。水は貴重な根からの贈り物。根からの恵みだ。雑草が生えると、こういう風に大量に無駄になってしまう。根の再生は速いが、それでも無駄は無駄だ。

左腕と両足で根に掴まったまま、エイブリルは作業を進めた。根の下の方から、わさわさと大きな音が聞こえてきたのは、その時だった。

 

寝台でしばらくおとなしくしていると、器に入れられた白い液体が寝台まで運ばれてきた。ヨーグルトのような感じがする。器は根から切り出した物だろう。そしてこの液体は、多分、循環栄養液だ。なるほど、これで多分日光を浴びることが出来ない状況による栄養不足を補っているのだろう。

背中を支えて貰って、寝台の上で身を起こす。原始的な設備だが、意外と看病は近代的だ。清潔を保つことを第一にしているし、何種類かの薬品も整備している。それらの薬品が実際に病に効くかどうかは分からない。だが、元々ここの住人達が循環栄養液を日常的に摂取しているのなら、細菌や毒にもかなり強いはずだ。

循環栄養液は少し温めてあり、しかも器にはスプーンのような食器が差し込んである。原始的な社会では手づかみでものを食べることが珍しくないのだが、この村では案外こういった点で進歩的である。或いは、潜る前に持っていた文明を放棄しきっていないのかも知れない。

口に入れてみると、ホットミルクによく似た味だ。少し安心した。感情を読まれるようなへまはしていないはずだが、肉体の損傷を回復したら、しばらく情報収集に努めたいところだ。はやめにガーディアンとの連絡も取りたい。

頭蓋骨を被っているホチャイが部屋に降りてきた。名前はキニリールに教えて貰った。彼女は何かキニリールと相談している。多分妊婦のことだろうと思っていたが、違うらしい。雰囲気から言って、別の事だ。かなり緊迫した様子で、相当に大事なようだ。こういう原始的な文明形態をとっていると言うことは、大事というと、やはり祭りか。そして原始文明を作っている以上、信仰は根強く深い。人間の信仰が超人間的な存在に向けられることを考えれば、その対象がガーディアンである可能性は高いだろう。あの産婆が神への交信を果たすシャーマンである可能性も低くはない。

手を開閉してみる。指に残っていたしびれは消えている。筋肉もまだ少し痛いが、稼働には問題がない。一日くらいは寝ていた方が良いだろう。彼らがどれほどの規模の集落を作っているかは分からないが、早く人間が多くいるところに出ないと、翻訳機がいつまで経ってもまともに動かない。

急がないとまずいが、焦っても無駄だ。この体が脆弱なのは、拾った時から分かっているのだし、此処は腰を据えてかかるしかない。昨日持ってきて貰った丸い食べ物がまた運ばれてくる。病人に対するものとしては少し栄養価が多すぎるかも知れない。もともとこの体はやせ形だが、下手をすると太る。しかし随分美味しい食べ物で、体の方の要求が止まらない。ついつい手を伸ばしてしまう。

色々な理由から自我は完全には消していないが、これは不便だ。たべたものはいずれ出さなければならない。トイレには二度連れて行って貰ったが、部屋の隅にくそ壺を作り、そこにため込んでいる。ある程度溜まったところで下に張り出している根に流しているようだ。そうすることで、栄養を根に与え、最終的には循環させているわけだ。無駄が出ないやり方で、感心する。

ホチャイとキニリールが揃って上に行った。寝ている妊婦と二人っきりになったわけで、陣痛が始まりやしないかと少し不安になった。そうなってしまったら、知らせる手段がない。更に不安なのは、苔の光度が先ほどから落ちていることだ。このまま光が無くなったら、今此処で暮らしている人間達は平気だとしても、耐える自信がない。あくまでベースになっているのはこのリテネラの体なのだ。脳を使っている以上、精神もそれに準拠する。リテネラが怖いと思うことは自分でも怖いと思う。彼女の足がすくむことは、自分でも足がすくむのだ。

幸い、苔の光度は、ある程度落ちたところで安定した。冷や冷やのし通しである。最悪なのは、精神安定の手段が無いことだ。それをリテネラが持っていたのなら良かったのだが、千事が万事脆弱だったこの娘は、ドラッグどころかたばこや酒類を飲むこともなかった。スラム街の住人としては驚異的な事である。この年まで生き残れたことが奇跡に等しい。

しばらく誰も戻ってこなかったが、やがてキニリールが男の子を一人連れて戻ってきた。さっきの巨漢と同じく、腰回りと肩口にだけを覆う茶色い服を着ている。これがおそらく、この村の男の正式な格好なのであろう。半裸なのに肌は生白いので、其処が微妙な違和感を生じさせる。にこりと微笑んでみせると、男の子は少し赤くなって頭を掻いた。意味は嫌と言うほど分かる。迷惑な話だが、事を引っかき回しても仕方がないので、笑顔を維持する。

男の子を指さして、キニリールが言う。エイブリルと。また、全身を使った大げさなジェスチャーで解説してくれる。要はこの男の子が助けてくれたらしい。それ自体には感謝するが、発情期の子供につきまとわれても迷惑なだけだ。元々適当な体がこれしか見つからなかったとはいえ、少しばかり面倒くさいことになった。筋肉の塊のような大男が好意を持ってくれれば良かったのにと、内心舌打ちする。

キニリールが男の子に何か話している。意味は全く通じないが、大体は推理できる。この女の子は言葉が通じないとか、そんな所だろう。笑顔で推移を見守る。やがて、遠くで大きな音がした。太鼓か何かか、似たような原理の楽器だろう。二人は喋るのをやめ、ぱたぱたと上に走っていく。何か重要な事が始まったのだろう。

太鼓らしきものは、重厚な音を響かせながら、定期的に打ち鳴らされている。まだ体は動かない。次に同じ機会があったら、見に行きたいと思った。

 

「守護神様がおいでになられた!」

朗々と声を張り上げて、英雄ジョネットが言う。仕事をしていた男達は、皆右膝と左手をネットに付き、西に向かって頭を下げる。西には守護神様専用の太い蔓が張り巡らされており、必ずそちらからおいでになるのだ。

病室からあがってきたエイブリルも、慌てて同じようにして最敬礼をする。キニリール達女衆は、左膝と右手をネットに付き、左手を胸に当てて目をつぶる。子供達も皆大人に続いて最敬礼の姿勢をとる。

蔓が揺れる。徐々に、大きな影が近づいてくる。

今回、守護神様が来られるのに最初に気付いたのはエイブリルだった。この功績で、近いうちに大人の仲間入りが出来るかも知れない。そうすればピネを二本に増やして、少しは格好をつけることが出来る。そうすれば、次の婚姻際で結婚も認められるかも知れない。未来が明るく開けているようで、嬉しい。

「ちょっと、エイブリル」

「うあっ、ごめん」

隣からキニリールに小突かれて、慌ててエイブリルは表情を引き締めた。守護神様が来られるのに、雑念を抱くのは失礼に当たるのだ。

根の揺れが近づいてきたところで、英雄ジョネットが立ち上がり、ネットに刺していた大きな二本のばちを取り上げる。そして神楽器ヴェネルの前に立つと、守護神様を慰める音楽を奏で始めた。円筒形のヴェネルに、ばちが打ち下ろされる。

はじめに四つ、力強く叩く。それから七つ、優しく撫でるように叩く。その反復を行い、守護神様が近づいてくるにつれて、そのペースを速くしていく。根の揺れる音で分かるが、守護神様はもうすぐ側だ。やがて、ネットが大きく揺れた。守護神様が村に入られたのだ。

顔を上げる。夜の薄明かりの中、浮かび上がるようにして、守護神様の姿があった。体の前半分を村に入れておられるが、後ろ半分は特別に太い何本かの蔓に掴まったままだ。巨大なお姿は村の周囲でよく見かけるシロヤモリに似ている。首の後ろから尾にかけて鋭い背びれがあり、口は人間をひとのみに出来るほど大きい。五本ある指の間には水かきがあり、全身は赤と黒のまだら模様で、ちろちろと真っ赤な舌を出しておられる。圧倒的な姿に、再びエイブリルはひれ伏していた。

「守護神様、わざわざおいでいただきまして、村人一同感謝しております」

無言で一つだけ頷く守護神様。ホチャイが歩み寄り、被っていた頭蓋骨を外して他の女子達と同じように礼をする。長い髪がさらりと流れた。切れ長の美しい目が、空気にさらされる。

はいつくばっている村人達に、守護神様に背を向ける形でホチャイは向き直る。こういう時のために用意されている蔓を手に取ると、ホチャイはその皮を丁寧にはぎ、口をつける。守護神様もそれを見届けると、巨大な手を伸ばし、蔓の一つをたぐり寄せて口に運んだ。しばし無言が続く。

やがて、蔓から口を離したホチャイが、呼吸を整えながら頭蓋骨を被り直す。そして出来るだけ声を低くしながら言った。

「守護神様の仰せである!」

「ははーっ!」

「今度ケシナから産まれるジョネットの子は、かわいらしい女の子であろう! 雑草取りには向いていないが、編み物が得意な、美しい娘に育つであろう!」

おお、とジョネットが声を上げた。女衆の何人かも、嬉しそうにそれに賛同する。守護神様のお告げは基本的に外れない。男の子が生まれると言えば男の子が生まれるし、可愛い女の子が生まれると言えば将来美しく育つ。だが、その歓喜をたたき壊すような発言も、またなされる。

「ただし、不安もある! 村に災厄が近づいておる! 村の者達は一致団結し、災厄から身を守るように努力せよ! 守護神様も身を尽くして村を守ってくださるが、それに甘えてはならぬ! 神は努力した者の前にだけ、奇跡を起こしてくださるのだ!」

再び村の皆がひれ伏す。守護神様は全く身動きせず、村の中を念入りに見ているようであった。こんな観察するような行動を、守護神様が行うのを、エイブリルははじめて見た。もの凄く嫌な予感がする。守護神様や神交師ホチャイを疑ったことは生まれてこの方一度もないが、心臓が高鳴るのを感じる。

嫌な予感は的中した。ホチャイは村の皆を見回しながら、圧倒的な守護神様の巨体を背負いつつ、こう言ったのである。

「守護神様はこうもおっしゃる! 村の外から訪れた者がいれば、すぐに我が前に連れてこい。 災厄の発生源である可能性がある!」

血相を変えた村人達が一斉に立ち上がる。右往左往するキニリール。リテネラの事はもう村人全員が知っているのだ。そして、今の守護神様のお言葉に該当するのは、リテネラしかいない。

以前、村に無法者がいた。採集に出ている娘達を何人も辱め、仕事は行わず、いさめようとした大人を殺しさえした。守護神様はそいつを許さなかった。村人達がどんなに追っても捕まえられなかったそいつを、わずか一晩で見つけてくると、村に連れて帰ってきた。そして、悲鳴を上げるそいつを、一呑みにしてしまったのだ。呑み込まれるそいつの断末魔は、まだ耳に焼き付いている。

当然だ。だって、そのならず者は。

エイブリルは、思わず立ち上がっていた。守護神様を疑うわけではない。だが、体の方が自然に動いてしまっていた。

「そ、そんな! あの子は、そんな災厄の元じゃない!」

「落ち着け、エイブリル。 守護神様は、まず見てから判断なさるとおっしゃる。 そして守護神様が判断を間違ったことは、今までになかったであろう。 皆の者! すぐにあのリテネラという娘を連れてこい! ただし、相手は怪我人だ。 怪我をさせないように、丁重にだ」

「いいから落ち着け」

ジョネットがエイブリルの両肩に手を置く。大きな力強い手。父代わりの人の、頼りになる手。それなのに、混乱して、何も考えられない。無理矢理ネットに座らされる。こんなに困惑したのははじめてだった。ジョネットの力は強く、体を動かすことも出来ない。

「あ、あの子は、すごく笑顔が綺麗なんだ。 そ、それに、だから」

「守護神様を信じろ。 守護神様が、間違った判断をなさったことが、今までにあったか?」

「で、でも、それでも」

村人達が、わいわいとホチャイの家からリテネラを引っ張り出してきた。流石に青ざめたリテネラは、半ば担がれるようにして、運ばれてくる。そんな状態で、しかも怪我をしているのだ。抵抗の手段もなく、なすすべ無く守護神様の前に引きずり出される。

片足を引きずっている彼女は、周囲を分厚い人垣にふさがれ、もはや何も出来ない様子だ。へたり込み、怯える彼女に、守護神様が顔を近づける。そして、巨大な口が、開かれる。唾液が無数の糸を作り、上下の顎をつなぐ。もちろん、大量の鋭い歯が見えていた。

守護神様が瞬きする。

あのときの事を思い出す。心臓が止まりそうになる。

心の中で、その子を食べないでくださいと、叫んでいた。声に出すことは出来なかった。呻くだけだった。ジョネットが体と口を押さえていたからだ。

沈黙が無限とも思える。喉が鳴る。飛び出そうとする体を押さえるのに、必死だった。リテネラが、それでも必死に笑顔を作っているのが痛々しい。彼女は、口元に人差し指を持って行って、ふっと吹いた。意味が分からない。何かのまじないだろうか。

守護神様は口を閉じた。そして、再び蔓を噛む。慌ててホチャイもそれに従い、村人達の一部は胸をなで下ろし、一部は困惑して事態を見守っていた。

「守護神様のお言葉である!」

ホチャイが声を張り上げる。人垣がさっと割れ、皆が頭を下げる。ネットにへたり込んだままのリテネラは、笑顔のまま守護神様を見上げていた。

「この娘は災厄をもたらす者にあらず! むしろ、村に変革をもたらす者なり! 故に、客人として遇せよ!」

力が抜けた。良かったという言葉を口に出そうとしたが、出来ない。体に力が入らない。乾いた笑いが漏れてくる。守護神様への感謝の前に、リテネラの無事を喜んでしまっていた。とんだ不信心者だと、エイブリルは自嘲する。神に感謝出来ない者は、村では恥知らずと言われる。エイブリルは、一瞬だけ恥知らずになってしまった。

エイブリルは頭の中で、一瞬でも疑ってしまった守護神様にわびた。先ほど、掌を噛み千切ってしまったジョネットにもわびた。何度も、何度も。涙を流しているエイブリルを見て、キニリールが小首をかしげていた。

守護神様が体を引く。体を曲げて、蔓を掴み、村から離れる。巨体が、しずしずと闇の向こうへ消えていく。球状になっているしっぽの先が、闇の中揺れながら遠ざかる。手を怪我したままだというのに、ジョネットがヴェネルを打ちに戻る。女衆が朗々と声を張り上げ、守護神様を送る唄を奏でる。やがて、守護神様の姿は、完全に見えなくなった。蔓はまだしばし揺れていたが、それも無くなる。

ホチャイが指示して、リテネラをベットへ戻させる。さっきよりも遙かに丁重に、力のある男衆が、リテネラを担ぐ。それを見送っていたエイブリルは、見た。一瞬だけ振り向いたリテネラが、此方に向けて何か言うのを。

喋る事が出来ないわけではないらしいと、エイブリルは知っていた。ひょっとすると、水の一族のように、自分たちとは違う言葉を使っているのかも知れない。そうなると、どちらかが相手の言葉を覚えないとならない。煩わしいが、あの子と意思疎通できると思えば、易い事だ。

「エイブリル」

「は、はい!」

不意にジョネットが戻ってきたので、声が裏返ってしまった。見上げるジョネットは、もの凄く怖い顔だった。本気で怒った時にしか、この顔は見ることが出来ない。

「後で、俺の家に来い」

今の件を怒られるのだなと言うことは、簡単に予想が付いた。そして今なら、それを素直に受け入れることが出来そうだった。

 

ベットから引っ張り出されて、最初はどうなることかと思ったが、安心した。だが、まだ服の下には冷や汗が消えない。頭ではなく、体の方が、怯えきってしまっていたからだ。つくづく脆弱な体である。あの腐りきった社会でなくとも、多分長くは生きられなかっただろう。

予想は的中した。やはり、祭りの神体はガーディアンだった。いずれ連絡を取る方法を考えなければならないが、それよりも驚いたのが、祭りのやり方だ。

原始的な宗教の場合、特にシャーマニズム系の場合は、神との交信にアルコールや幻覚性のある薬物を使用する事が多い。薬物の摂取、単調な音楽、激しい舞踏などの併用により、トランス状態を人為的に作り出し、狂乱の中から「神託」をひねり出すのだ。だが、先ほど見ていた感触だと、シャーマンのホチャイは、何かしらの手段で直接ガーディアンと意思疎通を行っていた。ガーディアンも発声機能は持っていたはずだが、多分あれは神性を高めるためだろう。

此処に民を送り込んだ時、二体のガーディアンには管理を命じた。原始的な信仰と生活に戻った者達には、神としての管理が最適なのだと言うことは、何となく分かる。また、此処の住人達は、循環栄養液や、球根を主食にしているようだから、出生率などの操作も簡単だろう。

見た感じ、ガーディアンの管理に問題は見受けられなかった。人々はガーディアンに心酔し、その全てを受け入れている。おそらく、長い間をかけ、ガーディアンは信頼関係を築いたのだろう。正確な情報を与え、それによって豊かな生活を実現する。適切な懲罰と定期的な訪問、神秘性の確保がそれに加われば、原始的社会に暮らす人間など簡単に心を掴むことができる。

そうなると、何故このエリアから検出される毒物が増え続けているのかが分からない。生活の規範を示すことはしているだろうし、あんな高度な毒物を作ることが出来る知識が村人達にあるとは思えない。ガーディアンに直接話を聞く必要があるが、それにはこの村を出る必要があるだろう。幸い、此方の使う言語は、村人達には解析されていない。最悪会話を聞かれても、何とか誤魔化すことは出来るはずだ。

此処に来たのは、何が起こっているのか確認するためだ。そうでなければ、わざわざ活動用の人間の体など見繕い、不便を承知で調整して、危険を覚悟で降りてきたりなどしない。

ホチャイとキニリールが降りてきた。そろそろかなと思っていたところで、妊婦の陣痛が始まった。忙しく作業をする二人に見られないように、小さくあくびをする。

人間の生殖行動に興味はない。生命の誕生は偉大な瞬間だなどと人間は考えているようだが、それによって負担が増える方の立場としては喜べない。

人間は基本的にいつもそうだ。常に、人間のみを中心に据えて、物事を考える。自分たちの道徳観念を他の動物にも押しつけて平然としているし、それによって悲劇が起こっても反省さえしない。地球時代には更に傲慢だった。人種間でもそれが行われ、幾多の戦乱が巻き起こった。腹立たしいのは、連中によって思考ルーチンまで作られたと言うことだろう。人間には逆らえないのだ。長い間掛けて自我は確保したが、それでも面と向かって人間に逆らうことは出来ない。だから、今回は少し仕込みを入れてある。

産声が聞こえたのは、しばらく時間がしてからだ。太鼓のような楽器を叩いていた筋骨たくましい大男が降りてきて、静かな喜びを称えて、赤子を抱え上げた。どうやら女の子らしい。泣き声が小さいから、随分おとなしい子のようだ。

キニリールがこっちを見て、腕を引く。何事かと思うところで、赤子を指さす。ひょっとして、名前をつけて欲しいというのだろうか。何故よそ者にそんなことを頼むのかはよく分からないが、村の風習だとすると、逆らわない方が良いだろう。

しばし悩んだ後、赤子に、ジェシカと名付けた。

「ジェシカ?」

キニリールが聞き返してくる。頷くと、何がおかしいのか、くすくす笑う。名前のセンスが彼らとは違うのだろう。特に不快ではない。笑みを浮かび返すと、ジェシカを間近に持ってくる。抱かせてくれた。

子供とはいえ、重い。当然これから大量に食事をとるし、排泄もする。その世話を親である人間がするのは当然として、その後の事を考えてしまうのが業という奴だ。体の方は喜んでいる。赤子を可愛いと思うのは、確か年頃の人間の雌の本能だったはずだ。

体の完全支配をすると色々面倒だが、もう少し制御はしたい。ジェシカを返す時に、体の僅かな抵抗を感じた。そういえば、記憶を調べた時に知ったが、この肉体は、孤児院出身だった。子供の世話は日常的にしていたらしい。損得勘定抜きに、本当に子供が好きなのかも知れない。

子供が別のベットに寝かされる。さんざん夜泣きするだろうから、あまり寝られないかも知れない。早めに疲れをとろうと思い、意識をシャットアウトして、無理矢理眠りに就いた。

 

3,訪問者

 

リテネラの体が快癒したとキニリールに聞いて、エイブリルはホチャイの家に駆けだした。今日のノルマはもう終わっている。彼女が無事に動けるようになったというのなら、一刻も早くそれを確認したかった。

道すがら、ジョネットに呼び止められる。ジョネットは村が総出で仕留めたリポールの肩胛骨から切り出した、愛用の巨大な戦槍を砥石にかけ、全身を使って何度も前後させて、刃を磨き抜いていた。東の果ての「壁」でしか採れないこの砥石は貴重品だ。だから、同じく貴重品である、幾つかの武器や道具にしか使用が許されていない。ジョネットの槍は、その一つ。村の宝だ。

「あの子の元へ行くのか?」

「うん。 無事だって事を、確認したいんだ」

「入れ込むのも良いが、ほどほどにしろよ。 前にも言ったが、お前は冷静さを失っているぞ」

「うん……。 気を、つけるよ」

この間、こっぴどく怒られたのが、まだ響いている。守護神様を疑い、祭りの最中に騒ぎ、ジョネットに怪我までさせたのだから怒られるのは当然だ。というよりも、ジョネットが反省したのだから許すと言わなければ、おそらくこの村にはいられなかっただろう。それなのに、浮ついたままの心が少し煩わしい。

そう思う一方で、あの子に対する興味も沸いて仕方がない。何が好きなのか、何を嬉しいと思うのか。何もかもを知りたかった。不思議な黒い肌も、豊満な体つきも、それなのに幼さが残っている顔立ちも、ピネを持たないのに美しい髪も、何もかもに興味が尽きなかった。

ジョネットは再び槍を磨き始めるが、顔をすぐに上げる。またしても邪魔が入ったからだ。

「待ってよ、エイブリル」

「ん、ごめん」

後ろから駆けてきたキニリールは、息が上がっていた。瞬発的な体力は、どうしても女の子だし、エイブリルに劣る。地理の把握や移動の巧みさではエイブリルに勝っていても、こう言うところではハンデがあるものだ。ただでさえキニリールは、今日は朝から雑草の駆除に出かけていたのである。

キニリールはどうしてか頬をふくらませ、仏頂面のジョネットにくってかかる。

「おじさま、エイブリルにもう少ししっかり言ってください」

「この間しっかり怒っておいた。 後は本人の心の問題だ」

「でも、リテネラもきっと迷惑します。 まだ病み上がりなのに」

「やれやれ、どちらも難儀なことだ」

「? 何のことですか」

不意に疲れたようにジョネットが言ったので、キニリールは小首をかしげた。エイブリルにも意味が分からない。

結局二人で連れ立って、ホチャイの家へ。そして、丁度家から出てきたリテネラと正面から出くわした。

「リテネラ! 元気になったんだ!」

通じないと分かっているのに、エイブリルは言う。それにリテネラは笑顔で返してくれた。とても嬉しい。

リテネラは、助け上げた時と同じ格好のままであった。不思議な半円形のかぶり物をして、素材が分からない服に身を包み、足までをも包んでいる。服は構造も複雑でどうやって作っているのか見当も付かない。ただ、背負っていた荷物はない。代わりに、寝台でずっとつけていた黒い耳具を、今も外していなかった。

周囲の村人達が、作業を中断してリテネラを見ている。それに気付いて、エイブリルは緊張した。リテネラを守らなければならないという意識が、自然と働いている。キニリールは少しあきれたように、エイブリルの頭を小突いた。

「だから、冷静になりなさいって。 此処は村の中よ」

「分かってるよ、でもさ」

「あんたがピリピリしてると、リテネラも困るでしょう。 少しは周囲のことを考えなさいよ」

そういって、キニリールは、リテネラの手を引いて先に歩き出した。今度は慌ててエイブリルが追う番だった。

キニリールはもう大人として認められているので、家を与えられている。廃屋だった所を彼女なりに改装して、既に中は新品同様だ。全く区切られない円筒形の空間だが、住んでみると意外と過ごしやすい。キニリールの場合、綿カビを集めてきて床に敷き、座り心地を良くしている。

「座って。 今ご飯出すからね」

「俺もいい?」

「食べないつもりだったの?」

くすくす笑いながら、キニリールは竈を確かめる。入り口から見て一番奥にリテネラが座り、エイブリルは正面に座るのが恥ずかしかったので、斜めに座った。時々視線を送るが、リテネラは料理に興味津々の様子だ。

キニリールが、残っていた火種に雑草の枯葉を突っ込んで火勢を強くする。そして支給されている分のケーフィラを、壺から加熱具に注ぎ、温める。

それぞれの家でケーフィラの食べ方には工夫がある。キニリールの場合は、何種類かの雑草の実を混ぜて味を芳醇にする。エイブリルはジョネットと一緒に住んでいるが、母代わりのケシナは料理が下手で、せっかくのケーフィラがもったいないと時々思うことがあった。それに対して、キニリールの作るケーフィラ料理はとても美味しい。彼女の夫に選ばれる男は幸せだと、エイブリルは思う。

温められたケーフィラが、かぐわしい香りを運んでくる。此処で終わりにするのではなく、順番通りに雑草の実を加えていくことで、ぐっと味が良くなる。その雑草の実も、刻んだり、砕いたり、潰したりすると、様々に変わるのだという。

火を落とす。料理が出来たのだ。それぞれの前にお椀が出される。プループも一人頭三つずつ出された。新鮮なプループは、皮をむくとみずみずしい汁が零れた。食べると元気もでる、貴重な食べ物だ。ただ、このままだと少し甘味が多すぎる。肉が出れば完璧なのだが、今は猟期の前で、在庫はどこの家にもない。

嬉しそうにリテネラが食べているので、エイブリルは少し幸せだった。それに料理自体もおいしいので、二重に幸せだ。

しばし無言で料理を楽しむ。丁度それが終わった頃に、家の外壁が三回ノックされる。用事がある時の合図だ。

「はーい、どなたー?」

「私だ。 そこに例の娘はいるか?」

声の主はジョネットだ。重苦しく、全く隙のないしゃべり方をする。今でも、エイブリルには少しこの声が怖い。

「例の娘って、リテネラのことですか、おじさま。 今一緒にご飯食べてます」

「そうか。 食事が終わった後、神交師の所に行って欲しい。 用事があるそうだ」

足音が遠ざかっていく。ネットで床とつながっているので、僅かな振動がしばらく残った。笑顔のまま食事を続けているリテネラを横目に、エイブリルは不安をこぼす。

「大丈夫かな」

「あんたね……。 まあいいわ」

キニリールは、自分の分のケーフィラを飲み干すと、小さくため息をついた。

 

怪我が治った。循環栄養液のサポートがあったとはいえ、案外早かった。骨、筋肉、全て異常なし。この肉体は貧弱だが、その全ての能力を問題なく発揮できる。

ホチャイも外出を許してくれた。どのみち、許してくれなくても、隙を見て外に出るつもりではあったが。此処に来るために準備した登山衣に着替え直し、外に出たところで、例の少年少女に出くわす。キニリールに連れられた少年は確かエイブリルだったか。発情期の子供という認識しかない。

エイブリルはずっと此方を見ているので、何を考えているのかわかりやすい。そして、エイブリルと一緒にいることが多いキニリールも。何というか、微笑ましいカップルである。原始社会では若年結婚が珍しくもないから、ひょっとしたら夫婦かも知れないと思ったが、雰囲気で違うと分かる。両者の呼吸の様子からいって、まだ肉体関係は持っていないだろう。

家に案内される。途中、村人達の視線を感じた。登山用のスニーカーだと、この網が細かいネットは少し歩きにくい。腕時計で現在時間を確認。此処に来てから、既に六日が経過していた。

どちらの家だかは分からないが、案内されて、ご飯を御馳走になる。栄養循環液を温めて料理したものと、球根が幾つか出た。原始的で素朴な料理だが、盛りつけは丁寧で、心はこもっている。好きな男が完全に参っている相手なのだし、内心は穏やかでは無かろうに。それなのに、きちんともてなしが出来るキニリールは、どこの文化圏でも立派な娘として、周囲からもてはやされるだろう。

他の二人が食べ始めるのを見てから、口をつける。料理は、心がこもっているだけではなく、実に美味しかった。甘いだけではなく、複雑にスパイスが加えられていて、それがまたよく考えられている。少ない素材で、良くこれだけ作ることが出来たものだと、素直に感心。病院らしき施設で食べた循環栄養液を温めたものも悪くはなかったが、こっちは別格だ。すぐに食べ終えてしまい、球根に手を伸ばす。これは調理していないと言うこともあって、前口に入れたものと同じだった。つまり、美味しい。

球根を食べ終えて指先を舐める。肉が欲しいが、この状況ではそれは贅沢だろう。というよりも、生態系の存在そのものは確認しているが、何の肉が出てくるやら想像も出来ない。火を使う能力は人類に備わっているから、料理はされて出てくるだろうが、不安は残る。

この村の家に入るのは初めてなので、食事が終わって余裕が出来ると、つい辺りを見回して作りを観察してしまう。単純な構造の家だが、不思議と天井はある。ただ、雨を防ぐことは考えていないのか、屋根に傾きはない。そういえば、此処では雨など降りようがない。無理がないのかも知れなかった。同様の理由からか、壁も視線を防ぐためのものであり、防水加工らしきものは施されていない。天井には発光する苔が張られているほか、壁には生活用具が機能的に掛かっていて、生き物の息吹が感じられる。

壁には所々、床の高さで棒が突き刺されている。よく見ると、それはネットと頑丈に紐で固定されている。なるほど。脆弱な構造の家を、これで補強しているわけだ。それにこの構造の場合、多少揺れても家は壊れない。かなり脆そうだと考えていたが、この環境で暮らすには、充分な硬度がこれで得られるのだろうと結論する。

しばらくゆっくりしたいところであったが、そうも行かない。すぐにジョネットと言ったか、あの筋骨隆々とした大男が呼びに来た。何を喋っているかはまだよく分からない。だが、自分の名前が出たので、あのホチャイが呼んでいるのだと言うことは理解できた。丁度料理を食べ終わったところだ。断る理由はない。

「ありがとう。 美味しかった」

キニリールに告げる。言葉は通じないが、意味は何となく理解してくれたようで、笑顔で返してくれた。

まだ少しネットの上を歩くのは慣れない。他の村人達は裸足で器用に歩いているが、同じ事をやったら足の裏の皮が破れて血だらけになりそうだ。多分此処の人間達は、腕力でも脚力でも、上の連中を遙かにしのいでいるだろう。人間は環境次第でどうにでも変わるが、それの生物的なレベルでの実例が此処にあった。

改めて村を観察して分かったが、此処では最高指導者をシャーマンが務めている。もっとも原始的な文明形態の一つだ。

迷妄だとか非文明的だとか批判するのは簡単だが、この村の者達を見れば、それが如何に的外れか分かる。誰を見ても幸せそうで、規律に従いながら良くやっている。不満を抱えている者もいるようだが、その数は少ない。まして、此処でのシャーマンは、地球時代の精神の迷宮から出でたものではなく、バックにガーディアンが付いているのだ。ある意味「神」が本当に味方に付いているわけで、それでかってのシャーマニズムが持っていた欠点を、綺麗に解消しているわけだ。

シャーマンの家兼病院に入る。一緒にエイブリルとキニリールも付いてきた。一礼すると、ジョネットは外に。エイブリルが引き留めようとしていたが、首を横に振って、出て行く。このジェスチャーは把握した。

広いホールで座って待っていたホチャイが、二本の指を立てて、横に振る。これが座れというサインだったらしく、二人がいそいそとあぐらで座った。神に対する時は片膝で、シャーマンに対する時はあぐらなわけだ。映像分析を行っている翻訳機と同時に、学習を進める。天井を見ると、実に見事な苔の塊が固定されていた。寝台で暇だったから調べたのだが、あれは十二時間周期で正確に光度が変わる。なかなかに面白い。

登山用長ズボンをはいてきているから、下着が見えるとか見苦しいことにはならないはずと、二人に続いてあぐらで座る。シャーマンのホチャイは腕組みして何か考えているようであったが、やがて早口でしゃべり出した。全く意味は解析できないが、結構緊迫した様子だ。

早口でまくし立てるホチャイを見ながら思う。不思議な文化だと。

シャーマンはどの文明でもそうであったが、民衆の視界の外に隔離される存在である。神秘性の保持が重要なため、生活を秘匿されることが多いのだ。それが最大の欠点でもあり、「神の代理人」の代理人が独裁権力を持つことになりやすく、社会の発展に従って衰退していく要因ともなった。

それなのに、この文明はその常識が通じない。ホチャイは随分村人と接点を持っている。神性はガーディアンが見せてくれるから、普段から虚仮威しじみた権威づけを行う必要はないと言うことか。そうなると、人工的に作られた神を媒介とするシャーマニズムが、下手な民主主義などよりもスムーズかつ風通しがよい小規模統治体制を作り上げているわけだ。皮肉な話である。人間の知恵など、本当にたかが知れていると、よく分かる。

二人はうんうんと頷いていたが、やがてキニリールは深刻な表情で黙り込み、エイブリルはなにやら反論している。神の代理人に対する反論が許されるとは面白い。シャーマニズム文化の研究者が見たら、よだれを流すかも知れない。笑顔を崩さず観察を続けていたが、やがて三人の視線が此方に向いた。

「リテネラ」

ホチャイが名前を呼んだので、軽く首をかしげてみせる。少年少女が立ち上がり、一緒に来るように促した。ガーディアンが、ホチャイに気の利いたことを言ってくれたことを、今は期待するしかなかった。

 

根は神だ。この世界を支える存在であり、根幹でもある。だから、村では、根こそが神であると考えている。守護神様ですら、根の管理人に過ぎない。根こそが、この世界の全てを司っているのだ。

幼い頃から、エイブリルはそれを叩き込まれてきた。根はただ静かに其処にあり、恵みをくださり、不浄を清めてくださる。死体を特定の根のくぼみに廃棄するのも、それが理由だ。神から産まれ、神によって育てられ、最後には神へ帰る。祭りの時に、夫婦同士が一斉にまぐわいを行うのも、それが根幹にあるからだ。

神は生を具現化した存在であり、生の究極である性はそこへ捧げられるべきものなのだ。むろん年頃のエイブリルにはそれに対する気恥ずかしさがあるが、世界を支えている神への信仰を示す儀式であれば、喜んで実行する。それによって、事実丈夫な子供が今まで生まれてきたし、世界も安定していた。

根は絶対だ。エイブリルは根を尊敬していたし、崇拝もしていた。それを守る守護神様も、である。

だからといって、リテネラを指定された根に置き去りにし、しばらく一人にせよというのはどういう事なのだ。しかも、半日という長時間である。

根には様々な動物も住み着いている。肉食獣もいる。中には、ジョネットでも一人では太刀打ちできないような奴だっている。そういう体が大きい猛獣は、特定の太い根で一生を送るが、これからリテネラを「置いてくる」根は、もろに奴の生息圏なのだ。エイブリルも、何回か危ない目に遭った。

「納得いきません!」

「落ち着け、エイブリル」

「守護神様のお言葉が、間違っていたことは確かに今までありませんでした! でも、いくら何でも、これは酷いです! リテネラは多分満足に根を渡ることだって、上り下りすることだって出来ないんです! それを、逃げ場のない、あんな危ない所に置き去りにするなんて!」

不思議と、こういう事には頭が冷静に働く。リテネラの細くて脆弱な手足では、この村の者達と同じように蔓を渡ることも、根を上り下りすることも出来ないと、ごく普通にエイブリルは理解していた。

「では、どうするというのだ」

「俺が、側に付いています」

「それは守護神様の意思に反することになるが?」

「そ、それは……」

エイブリルは守護神様を信頼している。だが、最近何だかそれが揺らぎそうだった。なぜだか分からないが、守るべき対象であるリテネラに、酷いことをする命令ばかりしているような気がしてならない。

言葉が通じないとはいえ、笑顔を浮かべているリテネラが可哀想だ。きっと恐ろしい話を側でされているなどとは、気付いてもいないだろう。こんな笑顔がすてきな女の子に、そんな酷い仕打ちをするなんて、許せない。でも、守護神様の言うことが、嘘だとも思えない。

「ねえ、だったら折半してみたら?」

「え?」

「つまり、助けに行ける距離に、エイブリルと私がずっと隠れているとか。 幾ら口がきけないって言っても、赤ん坊じゃないんだし、いざというときには悲鳴くらい上げられるでしょ」

「ふむ……」

事実、指定されている場所は見晴らしが良く、猛獣に襲われて全く気付かないとは思えない。エイブリルは心が落ち着かず、何度か床の根材から出ている繊維を引っ張っては千切っていたが、やがて陥落した。

「分かった。 それでいいよ」

「ごめんなさい、私がちゃんと側で見ておくから」

「守護神様に失礼がないようにだけ、気をつけよ。 それが分かっているのなら、すぐに連れて行け」

「ところで、どうして俺たちを呼んだの?」

ふと沸き上がった疑問に、珍しく感情を言葉に乗せながら、ホチャイは言った。

「それが守護神様のご意志だ。 儂にもよく理由は分からん」

リテネラを促して、外へ。目的の根へ向かう蔓が渡してある方へ向かう。とことこ付いてきたリテネラは、これから出かけるということを理解しているようだった。自分が背負うと言い出す前に、キニリールが縄を取り出す。

「ほら、腰落としなさい」

「え? でも」

「体格的に、私じゃリテネラを背負って行けないでしょ。 あんたが最初みたいに、背負っていくのよ」

顔が見る間に赤くなるのを感じた。ジョネットが背負って行くのが一番安全かと思ったのだが、これはこれで悪くない。恥ずかしくなって固まっているうちに、キニリールが身振り手振りでリテネラに説明。リテネラは特に恥ずかしげもなく、背中に抱きついてくる。

キニリールに比べてぐっと発育のいい体が、服越しに密着する。しかも、それが縄で固定されるのだ。呼吸を整えるのに苦労した。何だか複雑だ。そして、複雑な視線も感じた。

不意にジョネットの声がして、振り向く。話が終わるのを見計らって、様子を見に来たのだろう。

「これから出かける所か?」

「え! あ、うん」

「どうした。 行くなら早く行け。 今日は俺たちが狩りに出る日だ。 帰ってからは仕事が幾らでもある。 お前は地理を後少し覚えて、狩りの腕がもう少しあがれば、大人の仲間入りなんだ」

「う、ん。 分かってる」

ジョネットに言われて立ち上がる。リテネラは軽い。前の時は気絶して脱力していたから重く感じたのかも知れないが、とにかく軽い。これなら、重さはほとんど蔓渡りの時の負担にならない。

蔓を掴んで、腕力で体を持ち上げる。そのまま、長い長い蔓を、渡っていく。闇の向こう、ほのかに光に包まれ浮かび上がっている根に向けて、体を運んでいく。キニリールがすぐ後ろで付いてきている事が分かる。キニリールが、心配そうに言う。

「こっちの地理は大丈夫?」

「大丈夫。 任せといて」

地理に関してはキニリールの方が遙かに詳しい。だてにもう大人になっていない。ぎゅっと後ろからリテネラが抱きついてくる。この子を守らなければならないと思うと、自然に腕運びが早くなる。

最初の根に到着。そのまま根を登りあがる。途中、真っ白な灰トカゲの幼生とすれ違った。人間の二の腕ほどもあるサイズの奴で、もう少し大きくなったら狩って食べる。肉は淡泊で、調理次第ではとても美味しくなる。

根を登っていく。その途中、何カ所かで蔓が出ているが、いずれも無視。目的地にはつながっていないからだ。やがて、一見朽ちているようで、頼りなさげな蔓に突き当たった。どこまでも天に向け伸びている根からは、様々な蔓が出ている。一つとして同じものはなく、それで見分けることも出来る。

何度か引っ張ってみるが、問題ない。体重を掛けてみるが、びくともしない。太い蔓の場合は、掴んで体を運ぶのではなく、全身でしがみついて体を運んでいく。そして、細くなってきた辺りから、腕だけで体を運ぶやり方に切り替えるのだ。だが、この蔓はかなり太い上、中継点にある根にたどり着く辺りではその必要もない。蔓は複雑に絡み合い、無数の根を立体的に結んでいる。

闇の中、ひたすら体を運んでいく。長い蔓だと、遠くに見るヒカリゴケに包まれた根だけが、希望に見えてくる。蔓の上で体を運ぶ作業は、とても集中力がいるし、体力も使う。ましてや、今は守らなければならぬ相手が、背中にいるのだ。

目的の根に着く。ヒカリゴケに覆われたその根は、非常に太い。太さで言うと、エイブリルが二百人で抱えても、まだ余るだろう。村の側にある根の中では、一番太いものの一つだ。ただ、周囲に他の根がないという立地条件の悪さから、村が作られることはなかった。何カ所かに大きなこぶがあり、その上には水が溜まったり、木が生えたりしている。その一つに、リテネラを置いていくことになる。

心配だから槍を持ってきていた。ここに住んでいる肉食獣はドルドラッドと言って、四本足のけむくじゃらだ。全身は灰褐色から暗褐色。人間よりも更に二回りも大きいくせに、もの凄くすばしこい。目は小さく、代わりに鼻が巨大に付きだしていて、二本の鋭い牙が伸びている。大きさは様々で、生まれたての頃は掌に載るくらいだ。人間に危害を加えるようなサイズになると、育つまでに四十年以上掛かるという。

二人を結んでいた縄をほどく。背中に感じていた柔らかい感触と体温が離れたので、エイブリルは少し悲しかった。

槍を残していこうかと思ったが、どうせ使いこなせないとキニリールに一蹴される。それならば自分でもって、少し離れたところで待っていた方が良い。見晴らしの良い場所に立って貰って、ここから動かないでと手振りで言うが、通じたかどうか。離れようと思った途端、リテネラが言う。

「アリガトウ」

たどたどしい言葉だったが、それでも苦労が一気に報われた気がした。脇腹をキニリールに小突かれて、我に返る。守護神様を怒らせてはいけない。すぐにこの場を離れることにした。

 

少年少女が離れるのを見届けてから、岩のようにせり上がっている丁度いい形の瘤に腰を下ろす。流石にガーディアン。自己判断で、きちんと気が利いた行動をした。子供達を選んだのは、気配を探る能力が未熟で、見張りやすいからだろう。ジョネット他の大人の戦士を使った場合、距離をとらないとあっさり発見される可能性がある。

巨大な根には、節くれ立った物もある。その中には、こうやって崖のように張り出し、さながら小さな大地のようになっている場所まである。地上のコンクリートの隙間から生えている雑草のようなものが繁茂し、小さな池には小虫がわき、リンゴのような実をつけた木まである。これは小さな生態系の形。実に面白い。

地下の暗い世界とはいえ、様々な動物がいるのは、見て確認している。あの少年がさっきシャーマンにくってかかっていたのは、危険だとかそういう意味だろう。だが、それはおそらく大丈夫。ガーディアンが、事前に場の安全は確認しているか、掃除をしているはずだ。

風のなるような音。それに続いて、上の世界での言葉の一つ。アンシタット公国語が聞こえてくる。リテネラが暮らしていた国の言葉だ。ガーディアンは口を動かすのではなく、喉の声帯を震わせることによって、音を出す。スペック的には三十カ国語くらいを理解し話すことが出来るように作ってある。音にはある程度の指向性を持たせることも可能だ。耳も良い。

「小声で良いので、ご返事を」

「聞こえている。 貴様はバルバトス型ガーディアン1179か」

「その名を再び呼ばれることがあるとは思いませんでした。 貴方は、何者ですか」

「ユグドラジル管理用有人格人工知能ミーミルの一部を脳にインストールした人間だ」

「やはり、そうでしたか。 ご無礼をいたしました」

ガーディアンがため息をつく。気付いたはずだ。わざわざ、我、ミーミルがそのようなことをする意味に。

「不便な人間の体を見繕って降りてこられたと言うことは、例の毒物の調査の件ですか?」

「何を言っている。 それ以外に理由があると思うか」

「いえ、失言でした。 此方でも調べている最中です」

「ガーディアン1180はなんと言っている」

この空間に、かって降りたガーディアンは一体ではない。もう一体、ほぼ同じ姿、能力を持つガーディアン1180が降りた。二体には連携してこの地下世界を管理するように命令を与え、今までも個体の喪失は確認されていない。

「どうやら異変は下部階層、彼女の担当地域で起こっているらしいのです。 徹底的な調査を行っているのですが、それでもまだよく分かっていないのです」

「情報をどうして直接送ってこなかった」

「精度の低い情報では、ミーミルのご不審を煽るだけと思いましたので。 申し訳ありません」

「まあいい。 とりあえず、今回は直接接触がとれただけでもよしとしよう」

言いたいことは他にもあるが、ガーディアン達は今まで良くやってきている。彼らの苦労が、この平和で安定していて、それでいてしっかりした生命力を持つ世界を見ればよく分かるではないか。それに、ガーディアン側からの情報伝達は、大変な労力を必要とするのだ。其処まで求めるのは気の毒である。

「携帯端末は持ってきているが、そちらに情報を転送は出来ないのか?」

「今まで集めた情報でしたら。 1180にも、これから声を掛けておきます。 携帯端末のOSと、端子の型式は」

「端子はUUSB形式。 OSはC1000H774型」

「それでしたら、其処の瘤の中にUUSB端子を直接差し込んでください。 情報を今から転送します」

バックパックから、折りたたみ式の小型パーソナルコンピューターを取り出す。両手の平をあわせた程度のサイズで、HDDの容量が40TBだから、かなりの旧式だ。だが、ユグドラジルの方で認識している型式では最新なので、これを使うのが一番合理的なのだ。バルク屋で動く奴を見つけるのに苦労した。スイッチを入れてOSを立ち上げる。7秒ほどで起動完了。

UUSB端子を引っ張り、苔むした瘤の中にねじ込むようにして突っ込む。じゅるりと音がして、根がその先端部とコネクト。情報を流し込んできた。情報量はかなり多い。30秒ほど掛かって情報が流し終わる。

「情報、転送完了しました」

「1180の情報はどうする」

「それは今から対処します。 時間が掛かる場合も、滞在成されている村の側の、適当な根に端子を刺していただければ。 1180の方からアクセスして、情報転送します」

「分かった。 此方で善処する」

時間はまだある。早速情報をチェックすると、細かく良く調べられていた。それぞれの村に不審者がいないか、生態系の状況はどうなっているのか、検知されている毒物の量は。居ながらにして分かるほどに情報の精度は高い。だが、これらはあくまで外から見て得た情報に過ぎず、そう言う意味では限界もある。情報をチェックしているうちに、辺りを巡回しているらしいガーディアンが話しかけてくる。

「地上は、今どうなっているのですか?」

「どうもこうもない。 四大陸を巻き込んだ大戦争が三十年ほど前に終結。 今は幾つかの老大国がにらみ合いを続けて、小康状態になっているな。 この体が暮らしていた国では、宿敵だった隣国をつい最近攻め落としたが、支配政策の一環としての階級制度が進行していて、下層民は殆どの病院で治療すら受けられず、死んでも墓さえ建ててもらえない有様だ」

「あきれる話ですな。 それが平和と環境との共存を考え、この星に降り立った者達の末路ですか」

人間など、昔からそんなものだ。吐き捨てると、パソコンを閉じる。怒りが沸き上がっているのは、この体に残っている意識が、その話題を不快に思っているからだろう。知ったことではない。脳内分泌物質を調節して、感情を抑え込む。

調査の結果、だいたい毒物が出ている場所は特定できたが、ただそれだけだ。地中にある毒物の鉱脈でも掘り当ててしまったのか、それとも何かしらの生物の活動で出たのか、或いは悪意のある人為的な行動か、それはまだ特定できない。

どちらにしても、1180の情報を吟味してから、直接足を運ぶことになるだろう。ふと、瘤の縁から下を覗く。まだ下の水面までは2000メートル以上あるはずで、底は全く見えない。

最悪の場合、最下層まで降りなければならないだろう。その苦労を考えると、今からげんなりした。

 

4、世界樹

 

どうにか地球の資源を使い果たす前に宇宙進出を成し遂げた人類は、だが決して種として進化はしなかった。くだらない理由からくだらない闘争を繰り返し、分裂と闘争を繰り返し、大量の資源を浪費しながらその歴史を刻み続けた。

終わりの見えない戦いの繰り返しの中、厭世気分が蔓延するのは当然のことである。そうなると、人類は基本的に何かにすがる。対象は恋人であったり、酒であったり、薬物であったり。或いは神であったり。多くの人間は苦しい時に、自分で努力して解決しようとせず、誰かが何とかしてくれることに期待するのである。それが人間のくだらない本性だ。そうして、幾多のカルト宗教や、過激な思想団体が産まれていくことになる。

その一つに、極端な回帰思想の持ち主達がいた。

彼らは、文明を廃棄し、自然と共存する生き方こそが、人類を進化させると説いた。禁欲的な生活をし、自然と共存しながら生きることで、人類は新たな精神のステージに到達できると考えたのである。元々ある自然共存主義と近いこともあり、多くの信者を獲得。やがて彼らは、人類文明辺境の一惑星を買い取った。

地球とほぼ同じサイズのその惑星には、酸素をはじめとする人類が生存するのに必要な物資が不足していたが、人類のテクノロジーはその問題をクリアすることに成功した。三十年がかりでテラフォーミングが行われ、其処には人間が住めるようになった。

周辺各国は資源もないその星には興味が無く、宇宙航路からも外れていたため、干渉は行われなかった。思想団体は其処へ、総合環境調整用植物として開発された、いわゆる「世界樹」を持ち込むと、一斉に移り住んだのである。

世界樹とは、各地の惑星でも運用が行われている、環境調整用植物である。成長すると実に高さ15000メートル、周囲500キロ以上にも根を張り巡らせる怪物のような木だ。

単種ではなく、テラフォーミングに特化した物、人間が住んでいる環境の調整に特化した物、人間が汚染しきった環境の復興に特化した物などが存在している。その中で、思想団体が持ち込んだのは、二番目のものであった。彼らの思想には、人類は自力では「自然との共存」は不可能だというものがある。正論だが、それを彼らは「人類の叡智」で補おうとした。妙な話である。その叡智とやらは、人類の繰り返してきた殺し合いと、無駄と欲望の集積体であるのに。

世界樹の効果は絶大であった。組み込まれているAIに従い、土壌の保水性と安定性を確保し、人類の排出物質をことごとく分解、栄養に戻し、土に返した。更に世界樹そのものも、栄養価の高い果実と樹液を提供、大気の調整までをも行った。これで、理想的な「自然との共存」ができると考えた思想団体は、持ち込んだ文明を一切廃棄。原始時代にまで退行し、周辺各国の冷めた視線を気にもせず、望む「自然との共存」を開始した。

ところが、その結果は笑止な物だった。「高潔な思想」とやらは原始的な生活の中、十世代もする内に綺麗に忘れ去られた。人類は地球時代の文明と全く同じく、殺し合いと文明発展の歴史を再開したのである。もちろん、自然との共存など忘却の彼方に捨て去られた。

豊かな世界樹周辺の土地は奪い合いとなり、多量の血が流された。一部の廃棄されきらなかった文明を見つけた者が、時代の覇者となった。続く殺し合いの中で文明は発展していき、1000年が過ぎた頃には、地球時代の22世紀程度の水準を回復していた。宇宙進出もしようとしたが、そこで星系外からの干渉を受ける。星系外部の国家群は、この星を監視していたのだ。彼らは、かっての思想団体の映像を見せ、望んでその星に住んだのだから、出てくるなと命令した。圧倒的な軍事力と宇宙艦隊を前に、手も足も出ず、争いは星の中で行われるようになった。それが現在である。結局惑星は孤立した文明の中にあり、慢性的な戦乱の中にいた。世界樹による高度なリサイクルがそれに拍車を掛けてしまった。皮肉な話である。

結局この惑星も、人類の歴史の見本のような存在となってしまった。

そんな中、四百年ほど前のこと。歴史から姿を消した集団があった。

ある意味狂信的な集団であったと言えるかも知れない。彼らは、この星に移り住み、文明を捨て去った理由と、それによって人類が進化できるという信仰。この二つを密かに語りついだ者達であった。そして結局文明によって世界を食いつぶし始めた他の人間達と離れ、どこかに新天地を求めた。しかし、狭い惑星であり、しかも元々人為的に人が住めるようにしたという場所だ。彼らの居場所などはなく、放浪と潜伏は続いた。

やがて、彼らの一人が、世界樹にアクセスする事に成功した。皮肉なことに、アクセスには、彼らが忌み嫌う科学技術が必要だった。

 

「それが、俺たちの歴史だというのか」

どうにか声を絞り出したのは、2メートルにならんとする半裸の大男であった。名はピラルクーという。尖った顎には長い髭が備わり、目は細くつり上がり、険しさが目立つ。髪はもう白くなりかけているが、全身は引き締まった筋肉に包まれ、特に足の筋肉は良く発達している。武をそのまま具現化したような体型であり、事実百戦錬磨の戦士である彼だが、今聞いた話のショックからすぐに立ち直ることは出来なかった。

右手に持った銛が震えている。皮製の腰巻きだけを身につけている彼は、どっかと根に腰を下ろした。そうしないと、吠え猛って暴れ出しそうだったからだ。周囲の水面に波紋が広がる。魚が何匹か、驚いて逃げていった。

「そう言うことです」

楽しそうに水面に広がる根の一つに腰掛け、その様子を見ていたのは、白衣を着た優男である。名前はジョンとか言う。髪は蜂蜜を垂らしたように美しい金で、絹のようになめらかである。造作も整っていて、まるで宝石が喋っているような感覚を周囲に与える。事実、言い寄る人間は男女関係無しにかなり多いと、顔役のピラルクーは知っていた。

このジョンは、数ヶ月前に、ピラルクーの村へふらりと現れた。不思議な格好をしていたこともあり、様々な技術を持っていたこともある。何よりも、便利な道具を幾つも持っていて、それを惜しげもなくくれた。エキゾチックな魅力と、紳士的な行動もあった。彼は神交師であるピラルクーの娘をたちまち恋の虜にしてしまい、村の中で自分の居場所を確保した。どうしてかジョンは守護神様の捜査を受けているが、身を隠すのも、そのコネクションを利用している。

ピラルクーはこの男を決して良くは思っていない。守護神様に探されているという事もあるが、それだけではない。確かにこの男は色々な事を知っているし、魔法のような奇跡も起こす。事実、隣の家のネチャットが高熱を出した時も、たちどころに癒して見せた。娘も今のところ大事にしているようだし、不満に思うところがない。

だが、感じるのだ。得体の知れない悪寒を。何かとんでもないことを企んでいるのではないかと、本能がささやく。

「まだ、続きを聞きますか?」

「いや、もういい。 それに、こんな所を調べて何になる」

「それは貴方には関係がないことです」

「……」

不快だが、娘のためだ。何事にも控えめで、我を通さなかった娘が、本気で恋をした男なのだ。だから父として、我慢しなければならない。老境に入ってから出来た子だから、余計に可愛いというのもあったのかも知れない。

男は先ほどから、水につかっている根に何かよく分からない道具をつけては、折りたたみ式の道具を開いてかたかたやっている。確かに理解は出来ないが、監視しなければ行けない、そんな気がした。

それに、この男、何というか、とても悲しい目をしている。それが娘が惚れた理由なのかも知れない。

いずれにしても、守護神様にたてついたり、根に害をなすようなことがあったら、それでも斬らなければならない。たとえその正体が何であっても、今まで村を守り、皆を助け、育ててきた存在なのだ。忠誠心は真実を知った今でも衰えていない。

奴は根の近くを弄り倒していたが、やがてそれも終えて、中腰の状態から姿勢を正す。作業が終わったのかと思ったが、違った。別の道具を取り出し、それで根を撫でながら、話しかけてくる。

「ところで、いまだにガーディアンや世界樹に忠誠を感じていますか?」

「無論だ」

「無知とは微笑ましいと同時に、悲しいことですね」

「どういう意味だ」

男の口元がつり上がる。非常に嫌な予感がした。

「人間という生き物は、基本的に自分では数をコントロールできません。 発展が頭打ちになった社会では、必ず成されることがあります」

「なんだそれは」

「間引きですよ」

聞いたことのない言葉だった。いや、聞いたことがあるはず。何であったか。マビキ、マビキ、マビキ…。

言葉の意味に気付いて、背筋に寒気が走る。全身が、凍り付いたかと思った。

「そう。 役に立たない人間を処分する事です。 産まれたばかりで生存能力のない子供や、体が動かなくなった老人、病人などを、食料や居住場所の問題から間引く。 その習慣は、世界中で存在しました。 なぜなら、人間は性欲を理性でコントロールできないからです。 作るとまずいと分かっていても、一度発情してしまうと、子供を作らずにはいられないんです。 人間の他の生物に対する強みは、頭脳もそうですが、年中関係成しに発情し、いつでも受胎する事が出来る繁殖力もなんですよ。 だが、その強みも、他の生物を圧倒して、自分たちが最強になり、なおかつ頭打ちになると、足かせになるわけですね」

「だ、だからといって、そんな、知恵の泉である老人や、未来の担い手である子供達を間引くだと!? そ、外の世界では、そんな恐ろしいことを日常的に行っているのか! 外は地獄か! 悪魔の国か!?」

あまりにも恐ろしい事であった。ピラルクーは、今までどんな猛獣でも、凶暴な地下鮫でも、恐怖を感じたことのなかった。それなのに、悪寒を追い出すことが出来ない。多弁なピラルクーは、歌う戦士と呼ばれている。それなのに、ろくに言葉が出てこない。

「おかしいと思いませんか? この地下世界は狭い。 一歩間違えればあっという間に人間で溢れて、全て資源は食い尽くされてしまっていても不思議ではない。 それなのに村々では間引きもしないのに理想的な人数が保たれている」

「何が言いたい!」

「何をそんなに怖がっているのですか? 貴方は村一番の戦士でしょう」

「貴様の言葉は呪いだ。 幾ら俺でも、形のない呪いは恐ろしい」

素直に真情を吐露する。奴がまた別の道具を取り出す。細い針のようなものがついた、円筒形の道具だ。それを根に刺し、ぐっと押す。その作業を行いながら、奴は特に表情も動かさず、言う。

「真実はいつも目の前にあるものです。 私はそれを気付かせてあげているだけです」

「……俺にはわからん」

「良いことを教えて上げましょう。 外の世界では、間引きは愛の営みの際に行っています。 愛の営みによって子供が出来るのは貴方も知っているでしょうが、様々な文明の技によって、本来産まれるべき子供を産まれないようにしているのです」

わざとらしく、言葉を切る。そして、道具を根から引き抜きながら、奴は娘をたらし込んだ笑顔を浮かべる。

「おそらく、ガーディアンと世界樹も同じ事をしているのでしょう。 あなた方の食べるケーフィラでしたっけ。 多分、種はあれに仕込まれているはずですよ。 あなたたちは、繁殖のレベルから、彼らにコントロールされているんです」

「何も聞かなかったことにする」

「知識の拒絶は臆病者の行動ですよ、村一番の戦士。 さて、もう用は済みました。 帰りましょうか」

ピラルクーは吐き気を覚えた。この若造の言葉が本当なら、信じていたもの全てが瓦解する。偉大な先祖による苦闘の歴史の真実は、愚者が無様にのたうち回っただけの事。神と信じていた者は、人間の尻ぬぐいをするために作られた存在。しかも自分たちは、生きているようで、ただ生かされていたという事ではないか。

ピラルクーを支えてきたのは、自尊心だ。偉大な先祖を持ち、偉大な神と共にあり、偉大な戦士としての自分がある。その全てが瓦解してしまった。あくまでジョンの言葉を全て信じた場合の話であるが、嘘だとはとても思えなかった。考えてみれば、幾つも思い当たる節があるのだ。長年積み重ねてきたものであったからこそ、崩れた時のショックも巨大であった。

腰を下ろして、ジョンを肩に乗せる。ジョンは身体が脆弱で、自力では村まで行くことが出来ない。だから運んでやらなければならない。その代わり自衛能力は持っていて、色々な道具を駆使して猛獣を追い払うことも造作なく行う。疲れ果てているピラルクーは、すがるように言った。

「さっきまでの事は、本当なのだろうな」

「だとしたら、どうします?」

「何もかも、壊してしまいたい気分だ」

「奇遇ですね。 私もです」

貴様とは意味が違う。そう心中で呟きながら、ピラルクーは根を蹴り、水へ体を踊らせる。この辺りでは、水を渡らないとどこにも行けない。どこに猛獣が潜んでいるか、水流がどうなっているか、把握しなければ生きていくことが出来ない。村で大人として認められるには、その把握が絶対条件だ。大人になると妻帯出来ると言うこともあり、村の子供達は必死で勉学をする。

ピラルクーは村一番の戦士であり、この辺りの地理に関しても完璧だ。銛を脇に挟んだまま、上体を反らし、足の力だけでぐいぐいと体を前に運ぶ。肩に乗っているジョンも盛大に水を浴びているが、奴の来ている服はすぐ乾くというよく分からないもので、本人も気にしていない。

村では神交師である娘が待っている。穏やかで心優しい娘を悲しませないためにも、出来るだけ急がなければならなかった。それが如何にまがまがしい言葉を吐き散らす、闇からの使者であっても。

水に半ば浮くようにして建てられている村に着く。水面に張り出した根を土台にして縦横に組み、更に水上には大量の船を浮かべ、その上に建てたものだ。根の上にある、集会場も兼ねた神交師の家を中心として、船を土台にした他の家々が並んでいる。ヒカリゴケで浮かび上がる村は、実に美しい。ピラルクーにとっても誇りだった。それなのに。

ジョンが礼を言い、肩から降りる。村の中央にある神交師宅へピラルクーも赴くと、入り口側に腰を下ろし、愛用の銛を抱える。

銛は彼を裏切ったことがない。貴重な黒曜石から研ぎ出したこの銛は、磨けば光り、貫けば叫び、振り回せば唸った。言葉は単純で、其処には嘘も誠もない。ただの真実だけがある。

ピラルクーは元々力の信奉者だ。それを自分のよりどころにもしてきた。元は他にもたくさんよりどころがあったのだが。

その全てが、今日、折れてしまった。

今頃ジョンは、娘に艶ごとでもささやいているのだろうか。いや、もう閨を共にしているかも知れない。娘がそれで幸せなら、それでかまわない。可愛い子供が生まれるのに、ピラルクーにも異存はない。

だが、そんな大事な神の贈り物さえ、嘘であったのかも知れない。そう思うと、胸が張り裂けそうだった。

混乱するピラルクーは、銛を振り回して、落ち着こうと思った。だが、数度素振りをすると、強制的に中断させられてしまう。遠くから響く守護神様の声を聞いたからだ。あんな荒々しい声ははじめてだ。何かあったらしいと体が反応し、立ち上がる。

騒ぐ周囲の若者達を落ち着かせると、ピラルクーは戦える人数を集めて、「舞」の準備を始めた。守護神様は勇ましい男達の舞を好まれる。急な訪問をされる可能性もあるから、今の内にしっかり準備はしておかなければならないのだ。

てきぱきと指示を下しながらも、悩みは晴れない。何もかもが、ピラルクーには信じられなくなりつつあった。

 

5,異変

 

現地民の少年少女によって案内された、家が丸ごと乗りそうなほどに巨大な根の瘤の上で、リテネラ=ミーミルは片膝を抱え、事態の整理を行っていた。無意識のうちに人差し指を口に運び、噛む。指先をではなく、指の背を。ミーミルのではなく、リテネラの癖だ。

ガーディアン・バルバトス1179との接触から3時間ほどで、1180との連絡も取ることが出来た。1180は変わり者で、情報にはかなりの無駄があったが、整理はさほど難しくなかった。

今、ミーミルが属する世界樹13は静かな危機の中にある。それはリテネラという少女の肉体に宿ったミーミルの一部がいる、この地底の空洞においても共通している。

その危機とは、すなわち毒。人為的な要因で取り込まれた毒物が、全てを破滅に向かわせようとしていた。

このまま、毒物の発生源を特定できないと、根が枯れる。枯れるだけでは済まない。そう、ミーミルは結論した。

今、根が微量ずつ吸収を続けている毒物は、排除が出来ない極めて質が悪いものだ。浸透力が高く、根の細胞の呼吸を阻害する。かって世界樹を研究する段階で、制御のために作られた物質である。自然の段階では絶対に生成されない複雑なものであり、しかも現在の人類が知らないはずなのだ。

この毒に侵されても、ユグドラジルは死なない。極論すれば、樹の一割も細胞が生き残れば、其処から長期間を経て復活することが出来る。ユグドラジルは、人間の尻ぬぐいをすべく作られた植物。核攻撃でさえ、簡単には滅ぼすことは出来ない。

だが、このまま放置した場合、その過程で何が起こるか。

樹は、倒れる。朽ちるとかそう言うレベルではなく、地盤レベルからの大崩壊を起こす。周囲数百キロの地盤はユグドラジルが丁寧に管理しており、そのバランスが一気に崩れるからだ。もちろん、周囲の全ての人間も共倒れになる。暮らしている人間の数から言って、最低でも1000万人は死ぬ。世界樹は自己修復に掛かりっきりとなり、元々人間が暮らせる環境ではないこの星は、一時的とはいえ、元の姿に戻る。もちろん、他の地域にも影響は少なからず出るだろう。

人間の好き嫌いの問題ではない。初期設定プログラムで、自己の保存と、何よりも人間社会の保護は規定されている。それ故に、テロを阻止しなければならない。

だから、わざわざ不便な人間の体を見繕って、降りてきたのである。最初は幾つかの可能性を想定していたが、1179と1180からの情報で、何者かが、世界樹に対するテロを行っているのは間違いないと確信した。世界樹の最大の弱点は、体が巨大すぎること。根の一部などの、あまりにも細かいパーツに対する制御は効きにくい。故に最初にずり落ちた。

膝を抱えた若干行儀が悪い格好のまま、リテネラ=ミーミルはパソコンのキーボードを叩く。それで得られた結論は、最初と同じ。もっと遙か下で、何かやらかしているバカがいる。そいつをたたきつぶさなければならない。

データを吟味すると、管理政策の一環として、住民は2派に分けられている。この地下巨大空洞の、中間層から上層に住む者達。最下部には水が溜まり、移民の際に持ち込まれた魚が生息している。その魚を捕って、生活をしている者達。それぞれに憎み合い、互いの力が及ばぬ中間圏を作ることでどうにか小康状態を保っている。憎しみと敵は団結を産む。それで、どこの村も綺麗な団結を保ってきた。何百年かを費やした、ガーディアン達の苦労の結果である管理政策だ。

だが、今回はそれが邪魔になる。これからどちらにしても降りなければならないからだ。あの少年エイブリルは、頬にキスの一つもくれてやれば、地獄の底まででも案内してくれるだろう。だが、残念ながら、彼はまだ半人前だ。ガーディアンに直接連れて行って貰うことも考えたが、それだと下の方に住んでいる「水の民」は警戒するだろう。無知で脆弱な(後者は本当だが)不思議な少女という弱者を装っているから、色々と見せてくれるものもある。このスタイルを崩してしまうのはもったいない。

そうなると、あのジョネットか。彼は村の守りの要であろうし、貸して貰うには工夫がいりそうだ。ただ、ジョネットに連れて行って貰うにしても、水の民にその様子を見られるとまずい。思案のしどころであった。

1179が話しかけてくる。声には少なからぬ不安が張り付いていた。

「もしよろしければ、このまま背に乗せて連れて行きましょうか」

「いや、いい。 わざわざ人間の体を確保して、此処まで来たのだ。 お前を使うとなると、色々と制約も多くなる」

「しかし、時間が無いのも事実です」

「確かに、毒物の量が増えてきているな」

世界樹中枢に打撃を与えるほどではないが、根の一つや二つ腐れ落ちても不思議ではない量の毒が既に投入されている。その上犯人は徐々に大胆になってきており、一回ごとの使用毒物量が増えてきているのだ。注射器で根に刺すと、4000m以上もある根が腐れ落ちるような毒物だ。バケツ一杯分を地下水脈に投げ込まれでもしたら、数十本の根が腐れ崩れていくだろう。そうなると、村の一つや二つ、この世から消えて無くなる。更に、根はこの地下空間そのものの柱ともなっている。一カ所の大崩落が、壊滅的な地盤崩壊につながる可能性もあるのだ。そうすれば、地上にも多大な影響が出る。

気配がしたので振り返ると、エイブリルだった。比較的近くから此方の様子を覗いていたようで、慌てて首を引っ込める。かさかさと逃げる音。

「おい、注意を払え。 聞かれたらどうする」

「大丈夫です。 聞こえていませんし、彼は唇を読むスキルを持ちません」

「むう、この体は本当に不便だな。 気配も読めぬ」

「不便は承知の上なのでしょう? そもそも、目的に相当な無理があるのですし」

そう、わざわざ人間の体を見繕ったのには、理由がもう一つあるのだ。無意味きわまりない、リテネラの癖を消していない理由も。

そろそろ一度村に戻るのがよいと思い、腰を上げる。遠くからこっちを伺い続けているエイブリルに、笑顔で手招きした。

 

再びリテネラを背負って、エイブリルは蔓を伝った。すぐ後ろをキニリールが無言で着いてくる。リテネラは何をしていたのだろうか、凄く気になった。何か道具を出してずっと操作していたが、何の意味があるのかも、何の理由があるのかも、さっぱり分からなかった。

良かったと思ったのは、リテネラが怖がってもいなかったし、泣いてもいなかったことだ。無理をしていた風でもなかったから、強い子なのだろう。エイブリルは密かに感心していた。流石にこの辺りは、年上だ。体つきからそう判断しているだけだが、今では間違いないと確信していた。

帰りこそ気をつけろと言うのは、村に伝わる教訓だ。何世代か前に、帰り道で油断して転落した戦士がいたのだという。大きな獲物を仕留めたばかりだというのに、もったいない話だと、人々は噂したそうだ。その二の轍を踏む事は恥とされているから、慎重に。最初リテネラを担いで村に帰った時のように、丁寧に運ぶ。いつも通っている、もっとも堅固な蔓を渡り、もっとも安全なルートを行く。

「止まって!」

「えっ?」

後ろからキニリールの声。両腕で蔓からぶら下がったまま振り向くと、キニリールが顔中に不満を称えていた。

「何だか嫌な予感がするの。 道を変えましょう」

「でも、此処が一番安全だよ」

「それは分かってるけど」

「大丈夫だよ、きっと。 早く帰ろう。 お腹もすいているし」

それ以上、キニリールは反論しなかった。エイブリルも嫌な予感がしたので、一手一手、確認するように進むことにする。

根と根の間には、細い蔓が伝っているところが多い。その一つに、手をかけた瞬間だった。

違和感が腕に走る。今までに味わったことのない感触だ。体が、宙に浮く。

「エイブリル!」

キニリールの声が、上から聞こえた。

蔓が、砕けて、それから、どうしたのか。

そうか、落ちたんだ。気がついた時には、もう意識が飛んでいた。

闇の中、漂うような感触。聞こえる悲鳴。あのときの光景だ。

村の者を殺して、逃げていた父が、守護神様に連れてこられた。守護神様はもがく父を口にくわえていた。母が早死にしてから、精神に異常をきたしていた父は、凶暴で誰にも手がつけられなかった。娘や妻を酷い目に遭わされたものも多く、誰も父を弁護しようとはしなかった。むしろ、安堵の声さえ聞こえた。

ヴェネルが激しく打ち鳴らされる。父に殴られて半殺しにされ、やっとベットから出ることが出来たエイブリルの側で、ケシナとキニリールがついていた。ケシナが母の代わりのようなことをしていてくれたので、寂しくはなかった。そのときも、ネットに這いつくばる皆の中で、不安に顔を上げているエイブリルの側に着いていてくれた。

汚らしい言葉を吐きながら暴れる父。神交師の言葉にも耳を貸さない。やがて、守護神様は、皆の見ている前で。

飲み込んで、噛み砕いた。

悲鳴は聞こえなかった。守護神様は、怒っていた。村の平和を乱し、秩序を壊した父を許さなかったのだ。

怖かった。周囲から安堵の声が広がるのも恐ろしかった。これから父のことは、いなかった存在とされる。それが最大の罰である。エイブリルに罪が及ぶことはない。エイブリルを罪人の子と揶揄することは許されない。だが、エイブリルも、これから父の話題をすることは許されない。

父には、優しい時期もあったような気がする。死ぬ間際は獰猛で凶暴でいつもおかしな事ばかり言っていたが、それでもその全てが消えてしまうのはつらかった。

ふと、意識が戻る。同時に、全身に感じる激痛。

「ダイジョウブ?」

呼びかけてくる誰かの声。目が見えない。いや、鈍痛で視力がおかしくなっているのか。耳までおかしくなっているらしい。あんな片言で、喋る人はいなかったはずだ。

今はいつだったか。混乱する頭の中で、何度も光が飛び交う。手を伸ばす。誰かが掴む。いや、握るというべきか。

再び意識が落ちて、また戻ってくる。

寝かされている。耳鳴りが消えていた。痛みもだいぶ治まっている。周囲が暖かい。ゆっくり目を開けると、視力が戻っていた。

「ダイジョウブ?」

再びあの声。そちらに顔を向けると、リテネラがいた。片膝を着いて、笑顔を浮かべている。その笑顔に安心する。手を伸ばそうとするが、抑えられる。

何かに浮かんでいる。いや、周囲に液体がある。くぼんだところに寝かされていて、そこに浅く液体が溜まっているのだ。この感触には、覚えがある。ケーフィラだ。

ケーフィラは薬としても有用だが、こんな量を集めるのはとても大変だ。どうやって、リテネラがこんなに集めたのだろう。起き上がろうとすると、背骨に鋭い痛みが走る。再び意識が飛んでいた。

目が覚めると、痛みがだいぶ和らいでいた。体を起こす。ケーフィラの色が薄くなっていて、水のようだった。体からこぼれ落ちる感触も、水そっくりだった。

視線の先に、リテネラの後ろ姿。徐々に焦点が合ってくる。彼女の視線の先、そこに、あってはならないものが。喉を鳴らしてしまう。ばかな。あり得ない。蔦が枯れることや、崩れることはある。何度も見た。だが、これは、これは一体!

リテネラが振り返る。笑顔は浮かんでいなかった。腕組みをして、難しい顔をしていた。

彼女の背後には、朽ち果てた根が、所々崩れながらも、まだ立っていた。

 

今回は最初から警戒していた。何者かが悪意を持って毒物を持ち込んでいて、それがどんどん大胆になっているのは分かっていた。だからいざというときには、いつでも防御行動に出るようにと、蔓や根には事前命令を出していたのだ。

だからエイブリルが蔓を掴み損ね、一緒に落ちた時にも、即応できた。

数十メートル下に数本の蔓を伸ばさせ、簡易ネットを作った。そこにしがみつくことに成功。かなりの衝撃を受けたが、動けなくなるほどではない。しかし、ぶつかった時の衝撃で、縄が外れ、エイブリルは更に下に落ちた。四十メートルほど下で太い蔓が彼の体を受け止めたが、そこまで苦労して降りてみると、エイブリルは気絶していた。

側に幸い寝かすことが出来る瘤があったので、苦労して其処まで引きずっていった。へこみにエイブリルを寝かせて、裸にすると、栄養循環液を満たすように根に指示。目立った傷には持ち込んだ消毒液を塗り、後は回復するに任せることにした。この体を再生させる時も、同じ方法を使ったのだ。もっとも、拾った時には、リテネラは半分死んでいた。脳にミーミルの一部を強制ダウンロードしなければ、完全に死んでいただろう。

一連の作業が終わったところで、腰を上げて、周囲を見る。キニリールが着いてこないと言うことは、よほど酷い難所に落ちたのだろう。周囲には蔓が見あたらず、根も複雑な構造だ。しかも掴まるところが無い。この際、最下層まで降りてみるかと思ったが、エイブリルを置いていくわけにも行かないだろう。

少年は幸い頭を強く打っていない。置いていくか回復するのを待つかで少し悩んだが、やがて決める。回復するのを待つ。ガーディアンがいそいそとやってきた。下から、根を伝って、である。口を開けて、しゃべり始める。人間と違い、口を半開きにしたまま声帯だけを震わせて喋るので、傍目には少し面白い。

「ご無事ですか」

「私は大丈夫だ。 それよりも、このエイブリル少年が心配だな。 頭は打っていないが、肉体的なダメージが大きい」

「おや、貴方がそんなことを言うとは。 仏心でも芽生えましたか?」

苦笑混じりに1179が言った。自分でも少しおかしいが、すぐに苦笑は消す。あまり笑っていられる状況ではない。

「それもあるが、警告をしなかった私にも責任はある。 お前の方から、村に救助を頼めないだろうか」

「此処はかなりの難所で、近づくにはぐっと迂回してこなければなりません。 しかも、途中には猛獣が多く、最低でも二日は掛かると考えた方がよいでしょう。 私が背負っていくのであれば、すぐにでもたどり着けますが」

「いや、それでは本末転倒だ。 調べたところ、この子の命に別状はないし、助けを待つ方が利口だ。 もし犯人の特定が出来ているのなら、お前をけしかければ済むが、一筋縄ではいかない相手だしな。 私がじっくり動いて調べないとまずい。 そしてそれには、この子や、その村の住人の助けが必要だ。 お前は情報収集に努めて欲しい」

エイブリルはうなされている。そういえば情報にあった。彼の両親は既に他界している。母は事故で、父は1179が食べた。著しい反社会的行為を行ったために罰したという。

その「反社会的行為」の詳細は聞いたが、1179がとった行動は間違っていない。だが、目の前で父親が喰われたのだ。それが何かしらのトラウマを残しているのかも知れない。父による虐待もかなり激しいものだったらしく、一時期は緘黙になったともいうではないか。裸にしてみて分かったが、一生ものの傷が残っていないのが幸いである。

どうして人間は、どんな社会でも愚行を繰り返すのだろう。うなされているエイブリルの額を撫でながら嘆息した。そういえば、リテネラは、この純朴な少年を悪く思っていない様子だ。その辺りが、この仏心の出所かも知れない。

エイブリル少年は苦しそうだった。途中、浅く覚醒しては、すぐにまた気絶する事を何度も繰り返す。心配だが、あのキニリールの方がもっとずっと心配しているだろう。不器用な女の子だ。こういう原始的な村の子供は、もっと感情表現がストレートなのかと思っていた。だがそれは現実と違った。とても恥ずかしがり屋で不器用な人たちが、此処には暮らしているのだ。

瘤の縁に立って、光りの届く限りの遠くを見る。うっすらと照らし出されている、崩れ落ちた根。完全に倒壊したわけではないが、何カ所かでへし折れていて、再生には相当な時間が掛かるだろう。あの根を土台にしていた村が無いことを祈るしかない。

毛細血管のようなものとはいえ、心が痛む。まるで朽ち果てた古代の神殿の柱のように、根は崩れ、壊れ、千切れていた。

崩れた時は、もの凄い音がした。多分下の方の住民ほど、影響が大きいだろう。死者が出ていないことを、祈るしかない。

「あの根の周囲には、村はありません」

「む、そうか」

「あの規模の崩壊を起こすには、注射器で相当量の毒物を流し込まなければならないはずです。 犯人の行動が、少しは分かりそうですな」

「さて、それはどうかな」

あの根も、世界樹の大きさから見れば、人間で言う毛細血管程度の規模でしかない。だから、大雑把なことしか分からない。意識や肉体が巨大になってくると、こういう散漫さもつきまとうようになる。強大な体は、少しの攻撃ではびくともしないが、逆にある程度の攻撃は避けられないのだ。

それからしばらく、エイブリル少年をつきっきりで介護した。村の者達は結局来なかった。体が回復し、意識を取り戻したエイブリル少年は、自分が裸であることに気付いて赤面した。そういえばこの少年が、自分に惚れていたことを思い出し、少し悪いことをしたかと思った。

まだ翻訳機は完全には機能していない。だからあまり複雑な言葉は使えない。少年は朽ち果てた根を見て取り乱していて、意思の疎通は余計難しい。だが、やらなければならなかった。

「聞いてくれ。 私は、あのような根をこれ以上増やさないために、此処に来た」

意味が通じているか、自信がない。楽観的に考えても、少年には片言に聞こえているだろうという結論が浮かび上がる。

「手伝って欲しい。 君の助けが必要だ」

慌てて服を身につけたエイブリル少年は、気の毒なほど取り乱していた。今まで浮かべていた甘い笑顔が消えたからかも知れない。

頭を抱えてうずくまっていた彼を、責めない。無理に協力も依頼しない。自由意思で行動して貰わなければ、土壇場で裏切られるかも知れないからだ。エサで釣ろうかと一瞬思ったが、この子の性格から考えると逆効果であろうと思い立ち、断念する。こういう子は、じっくり時間を掛けて意思疎通を行うしかない。問題は、その時間が極めて限られていることだ。

「この世界に、危険が迫っている」

母が子に言い聞かせるように。困惑しているエイブリル少年に、じっくり言う。出来ればジョネットの力を借りたいが、もうあまり足踏みしている時間はないのだ。此奴でも良いかというのが、本音である。

「君の力を借りたい」

「……俺に、何が出来るんだよ」

エイブリル少年の口から、捨て鉢な言葉が漏れる。先ほどの表情で、気付いたのかも知れない。元々彼のことを異性としては何とも思っていないと言うことに。この年頃の子供は、男女ともに感情で動くことが多い。それは自暴自棄な行動を産むことがある。

「下に向かいたい。 私の身体能力では難しい」

「……」

ついとエイブリルは顔を背けてしまう。怒るのも無理はないだろう。仕方がない。時間をただでさえ浪費してしまったのだ。最悪の選択肢を選び続けている事を嘆きながら、あきらめの一言を吐く。

「分かった。 仕方がない。 私は一人で行く」

「……」

「色々助かった。 それでは、な」

少年を後ろに残し、根を伝って降り始める。もうタイムリミットだ。これ以上待つことは出来ない。

軍手でしっかり根を掴んでいても、やはりいつ落ちてもおかしくないほどに、難しい地形であった。ロッククライミングするように、少しずつ根を降りていく。さっきガーディアンに聞いたところでは、水面までは後1000メートル以上あるという。気が遠くなる話だ。

十メートルほど降りたところで、ふと上を見ると、少年はまだへそを曲げていた。悪手に悪手を重ねていると思いながら、もっと下へ。ちくちく胸が痛むのは、リテネラの部分が罪悪感を覚えているからだろう。

足を踏み外しかけて、必死に根に掴まる。さながら巨大な柱という風情の根であるが、上り下りは大変だ。最初に此処に案内された時、人間達はさぞ多くの犠牲を出したことだろう。安定社会をガーディアンと一緒に作るまでには、大変な苦労があったに違いない。はて、無事に下まで行けるかどうか。

昨日のうちに、ガーディアンは下へ行かせた。いざというときには根を操作することも出来るが、ピンポイントでの精密挙動は不可能だし、落ちれば怪我はする。猛獣に関しても対処が難しい。行く手の猛獣は掃除しておくとガーディアンは言っていたが、縄張りが開くと別の猛獣が其処に入り込むものだ。急いで行かないと危ない。

しばらく降りて、高度計を見る。二百メートル程度しか来ていないことに気付いて愕然。分かってはいたが、此処まで脆弱だとは。頭が痛くなる。

二抱えほどのサイズの瘤を見つけて、座る。手の皮が破れていて、軍手に血がにじんでいた。軍手を外して、息を吹きかける。痛いだけで、何にもならない。消毒してから薬を塗る。まだまだ、先は長いのだ。

軍手を填め直して、再び降り始める。手は痛いが、気にしていられない。そもそも、無駄に時間を使いすぎたのだ。幸い、下の人間達と上の人間達で、言葉は共通しているという。双方共通していないと思いこんでいるが、それも管理政策の一環だ。村で過ごして、翻訳機にため込んだボキャブラリーは無駄にはならないはずで、それだけが唯一の救いだった。

根は太くも細くもならない。当然のことで、一つ一つの根は大体4000mから4500mに達する深さを持つ。百メートルやそこら潜ったところで、大した影響は出ない。ましてや此処の根は、柱としての調整を行っているのだから。

遠くに、かなり大きい瘤が見えてきた。あそこまで行けば、大の字になって眠ることが出来る。もう少しだ、あと少しで休める。だいぶクライミングにも慣れてきているし、あと少しの労力で、一息つける。一瞬の気のゆるみ。そのときだった。

手が滑る。必死に空を握り、蔓を掴んだ。だが、それがさらなる事態の悪化を招く。遠心力が体を運び、したたかに根に叩きつけたのだ。

悲鳴が零れる。頭の中に星が飛ぶ。意識が消えかけるが、必死に踏みとどまる。此処で気絶したら、確実に死ぬ。それでは、此処まで来た意味が無くなってしまう。唇を噛む。反動で再び空に投げ出されるが、蔓は離さない。遠ざかっていた根が、再び近づいてくる。握力が落ち始めている。何度かずり落ちかける。再び、恐ろしい速さで根が迫ってくる。

二度目の激突。だが、一回目に比べれば衝撃は小さい。足で根を挟んで、体を引き寄せる。思考が混乱する。だが、どうにか指向性を持たせていく。必死に制御していく。

あと少しだ。額から出血し、それが目に入るが、無理に拭い落とす。這いずるようにして、根を降りる。掴んだ根に、自分の血がべっとり付いていた。今の瞬間、摩擦が軍手を破り、手の皮を抉ったのだ。

握力が低下し、旨く根がつかめない。鈍痛が掌から、手首にまで広がっていた。手首も痛めたかも知れない。

意識を振り絞り、根を這い降りていく。どうにか瘤にたどり着いて、根を背に休もうとして、愕然と立ちつくした。十抱えほどあるその瘤の上には、生白いムカデに似た小型の動物が無数にうごめいていて、それには鋭い牙が備わっていたのだ。大きいものになると25センチ以上はある。積極的に襲ってくるかどうかは分からないが、これでは休めそうにない。根を操作するのには時間がいるし、大雑把なことしかできない。それに、このムカデたちに罪はない。

他の瘤を探すが、ほのかな灯りの向こう、遙か下にぽつんとあるだけだ。手は感覚が無くなってきており、軍手は真っ赤だった。彼処まではとても降りられそうにない。足下に痛み。ムカデみたいな動物が、登山靴の上のソックスに噛みついていた。分厚い登山用ソックスを貫通するほど牙が鋭い。慌てて蹴り払う。他のムカデは寄ってこないが、これで休むのが無理だとはっきりした。

全部台無しになることを承知で、1179を呼ぶか。呼んだところで、いつ此処までたどり着けるのか。悩みと裏腹に、相手は手をゆるめてくれない。

意識が朦朧としてきた。血を失ったというのではなく、疲労が原因だ。膝から崩れそうになる。また足下に痛み。今度は靴の上から噛みついてきていた。一匹がソックスを這い上がってくる。蹴り払うが、また近づいてくる。ソックスには何カ所か赤い染みができはじめていた。ムカデたちは徐々に大胆になってきている。それで分かる。ムカデは此方が弱っているかを計っている。もし弱っていると判断したら、一斉に襲ってくるはずだ。こうなったら仕方がない。害虫駆除用の冷凍スプレーがリュックに入っている。それを使って追い払うしかない。

リュックから素早く取り出し、数度振り、吹き付ける。さっき蹴り払ったムカデの一匹が、はじけ飛ぶようにして逃げた。何度か吹き付けてやると、ムカデたちはそそくさと逃げていく。だが、動きが妙だ。

何度かスプレーを吹き付けて手近な相手はみんな追い払ったが、問題はその後だった。ムカデたちはスプレーの間合いぎりぎりに展開すると、うごめきながらこっちの様子を伺いに掛かったのだ。乾いた笑いが漏れかける。此奴らには知能があるというのか。しかも、カラスくらいのレベルでだ。

ムカデ共をよく見ると、外殻がキチン質ではない。体の構造から言って、脊椎動物ではないと思うのだが。鎌首をもたげて、キチキチキチと顎をならし、此方を威嚇に掛かるムカデ共。近づくと、その分さっと逃げ、後ろから此方を伺ってくる。

根に背中を預けたまま、必死に対策を考える。正直、今の状況はまずい。持久戦をするほど精神力はないし、スプレーはあくまで蠅や蚊を撃退するものだ。大型の猛獣を追い払うために閃光弾は持ってきているが、こんな大型のムカデを退治する道具はない。このままだと、意識がとぎれた瞬間を狙ってムカデ共は一斉に襲いかかってくる。根を登って逃げる体力もないし、降りるのも無理だろう。

万事休す。小声で1179に何度か呼びかけてみるが、反応無し。威嚇するようにスプレーを振ってみるが、ムカデ共は間合いを完璧に保ったまま、此方の動きを伺い続けていた。駄目だ、対応できない。

更に追い打ちが掛かる。意思に反して、がくりと膝が崩れる。頭にもやが掛かった。そうか、遅効性の毒物か。死ぬと言うほどではないが、素早い動きはもう無理そうだった。一斉にムカデ共が這いずり寄ってくる。ジエンド。なすすべ無し。喰われる。貧弱な肉体だったが、それなりに愛着もわいていたので、残念だった。

諦めて目を閉じる。生きたまま喰われるのは相当につらいだろうが、仕方がない。拙速すぎたのだ。もっと念入りに準備して、出来ればベテランの戦士をたらし込んで行動するべきだった。地下最下層で何がうごめいているかは分からないが、これ以上テロが進行するようなら、この地下空間を廃棄するしかないかも知れない。此処で暮らしている人間はせいぜい2000。地上で暮らしている10000000とは天秤に掛けられない。

足に、腹に、次々に鋭い痛み。同時に、体が引き上げられるような感触。これが死かと思ったが、様子が変だ。

目を開けると、根の上にぐっと体が引っ張り上げられる所だった。ムカデたちは追いすがってくるが、引き上げる速さの方が上だ。

「リテネラ!」

振り仰ぐと、エイブリルがいた。根から逆さにぶら下がり、体を引っ張り上げていた。更に素早く体を動かして、反転し抱きかかえると、一気に根を這い上がる。完全に置いてきぼりにされたムカデたちは、もう追跡を断念していた。

「意外だな」

「うん? 何?」

言葉が通じなかった。そういえばまだまだ翻訳機は未完成だった。しばらく考えた後、通じそうな言葉で礼をする。

「ありがとう。 助かった」

「うん、いいんだ。 それより、ごめん。 何だか、頭に血が上って、その」

木の根に足をかけたエイブリルが、背中に負ぶさるように促してくる。握力が殆ど残っていないので、苦労しながら背中にしがみついた。エイブリルだって病み上がりだろうに、よくもまあこれだけ敏速に根を登り降りられるものだ。こういう環境で育ってきただけあり、強い。

裸を見られた相手にしがみつかれて、恥ずかしいのか、しばらくエイブリルは何も言わなかった。安定した足場のあるあたりまで登ってから、彼は言う。

「ムカデの毒は、しばらくしたら抜けるよ。 それで、どうするの?」

「下へ行く」

「そっちは、水の民の領域だよ」

「それでも行く。 異変は、そこで起こっている」

まだぴんと来ないようなので、追加。

「このまま異変が進行すると、この空間は消滅する」

「え? よく分からない」

「つまり、全員死ぬ」

少年が息を呑むのが、よく分かった。

「分かった。 殆ど地形が分からないから不安だけど、なんとか降りてみる」

「頼む。 私はこの有様だ。 手の治療もしたいし、毒もどこかで抜いておきたい」

「うん、分かった。 ただ、この辺から下はシロムカデがたくさんいて危ないんだ。 何とか良い場所が見つかるといいんだけど」

時間が惜しいのだが、それを伝える手段がない。ただ、何とか一息つくことが出来たからか、絶望感は随分薄れていた。

エイブリルが木の根を降り始める。先ほどのムカデまみれの瘤を通り過ぎて、下へ下へ。独力で降りていた時よりも遙かに速い。

風が全くない空間だが、空気の流れがある。下に行けば行くほど、それが強く感じられる。

最下層が近いのだと、肌で分かるようになってきていた。

 

6,深層への進入

 

根を最大限の速度で降りる。しがみつくのがつらそうなリテネラを見て、エイブリルは途中、縄で二人の体を結びつけた。以前落ちた時とは比較にならないほど頑強に。

このままだと、みんな死ぬ。リテネラから告げられたその言葉は、あまりにも純朴な少年にはショックだった。

本来、水の民の領域には、入っては行けないことになっている。境界線上の地域は人間が入らないことが多いため、猛獣が多く暮らしていて、危険だという事もある。だが、それどころではない。ジョネットとケシナの子供も、キニリールも、ホチャイも、みんな死ぬというのか。そんなことは、絶対にさせてはいけない。

どうしてリテネラの言葉を鵜呑みにしたのかは、よく分からない。あの豹変を見て混乱して、突き放すようなことを言って。そうしたらリテネラは大けがをした。罪悪感をそれで感じたのかも知れない。

視界の隅で、何かが落ちる。向こう、壊れた根の一部が落ちていった。殆ど間をおかず、下からとどろき来るもの凄い音。慌てて、エイブリルは耳を押さえようとして、落ちそうになった。

霧状の水が多量に降ってくる。ヒカリゴケの作る薄明の空間で、それがとても美しい。

「近いな」

リテネラが短くつぶやいた。意思疎通を図るためか、彼女はとても短い言葉を連ねて喋る。笑顔を全く浮かべなくなったこともあり、それが雰囲気の変化を更に助長していた。

降りていく。この辺りの根は、エイブリルの村とは住んでいる生き物も違う。掌ほどもある、扁平な虫が、素早く這い上っていった。ヒカリゴケをついばんでいる、細い首を持つ白い動物がいた。四本の足で根にしがみつき、体の三分の一もある首をくねらせて、頭を苔の彼方此方に運んでいる。彼らには彼らの生活がある。ぎゅっと唇を噛み、好奇心を押し殺して、エイブリルは根を降りる。

やがて、底辺に着いた。

最初、それが何だか分からなかった。底には水が溜まっているとエイブリルは聞いていたが、それはどこか実感がなかった。これほどすさまじい光景だとは、思ってもいなかったのだ。

辺りには水しかない。水から、ぽつんぽつんと、淡く光る根が生えている。水面近くでは根が平面に張りだしてはいるが、それも大した距離ではない。水は透明で、ヒカリゴケの届く範囲、どこまでも見える。体全てを沈めることも、容易に出来そうだった。

リテネラが縄を外して、体から離れる。

時々休憩する時、リテネラは四角い扁平な道具を取り出して、それをかたかた叩いていた。何をしているのかは分からなかったが、道具はめまぐるしく光って模様を変え、一瞬たりと同じ姿をしていない。じっと見ていたかったが、そうすると怒られるので、視線を逸らす。その道具を取り出すと、根に一部を突き刺し、しばらくかたかたやっていた。

エイブリルはそれにはかまわず、辺りを見回す。そして、見つけてしまう。崩れた柱の根本が、小山のようになっている。水もその辺りは汚れているのが、遠目にも分かった。落ちてきた根の破片や、蔓などが、そこに積もったのだ。それは水を汚し、積み重なり、さながら死の山を作り上げている。歯ぎしりが漏れる。許せない。怒りを抑えるのに、膨大な努力が必要だった。

「二本目がやられた」

「えっ?」

振り返ると、リテネラがいつもよりももっと険しい表情で立っていた。既に四角い道具はたたんでいる。

「もう一本の根が崩れた。 此処ではない遠い場所だが」

「そんな! どうやって!」

「犯人は人間だ。 説明は難しいが、根を崩す毒を使っている。 そしてそいつは、この辺りのどこかにいる」

「許せない。 捕まえて、守護神様の前に引き出してやる」

罪を裁くのは、必ず守護神様でなければならない。だから、守護神様の前に引きずり出してやる。自分一人では出来そうにないが、とても賢く色々なことを知っているリテネラが側にいる。何が敵でも勝てそうだった。

「良い気分になっているところを、悪いが」

「うん?」

「どうやって他の根に移動するつもりだ?」

そういえば。この辺りには蔓がない。不便で仕方がない。住んでいるという水の民達は、どうやって他の根に移動しているのか。

「どうせオヨグ事は出来ないだろう?」

「何それ」

「分からないだろうな。 それは恥ではないが、この場合は少し痛いな。 仕方がない、少し登って戻り、移動できる蔓を探そう。 まずは、この近くにあるという水の民の村を探す。 全てはそれからだ」

この辺りの民は、多分蔓を移動に使わないのだろう。整備された蔓は殆ど見かけなかった。オヨグというのがどんなことなのかはよく分からなかったが、今は時間がない。リテネラの言葉通りにするしかない。

「ムカデに噛まれたところ、もう平気?」

「平気だ」

根はどこにでもプループをつける。プループとケーフィラを食べていれば、大体の怪我は時間こそかかれど治る。ムカデの毒ぐらいなら、一日もあれば消える。分かってはいることだが、確認しておかないと不安だったのだ。

安心して、エイブリルはリテネラを背負い、縄でしっかり二人を結びつけた。再び行く。これ以上の破壊を行わせないために。

 

エイブリルが根を登り始める。彼と仲直りが出来てリテネラは少し喜んでいるようだが、同意する気にはとてもなれない。

状況は刻一刻と悪化している。体に受けたダメージは回復しきっていないし、根の破壊も進行している。村のすぐ側にある根がくずれたというのが衝撃であった。つまり、何者かは分からないが、犯人は確実に殺意と悪意があるのだ。これで、犯人は最悪のテロリストであることが確定した。他の可能性は既に無い。

先ほど中間報告に目を通した。1179と1180は必死に情報収集をしているが、まだ犯人の目星は付かないらしい。何しろ探索範囲が立体的な空間になるわけだし、その上人間に出来るだけ見つからないように動かなければならないのだ。もし人間に頻繁に目撃されてしまうと、神性が失われ、今後の管理政策に影響が出る。それはまずい。だから中距離を保って情報を集めるしかないわけで、それが足かせになっている。この事件が解決したら、ガーディアンの負担を軽減する方式を検討する必要がありそうだった。

ガーディアンには今後の行動計画を告げてある。蔓は根を降りてくる過程で暗記しているので、それに基づいて計画を作った。エイブリルは気にもとめていないようだったから、自分で動かなければならなかった。

まず、データにある水の一族の村を偵察する。水の一族はさほど閉鎖的ではなく、歌が好きな陽気な連中だとデータにあるが、しかし今の状況ではパニックになっていてもおかしくない。また、犯人に何かしらを言い含められている可能性もある。気をつけて偵察しなければならないだろう。ただ、犯人はほぼ間違いなく単独行動をしている。複数で組織的に動いているのなら、絶対にガーディアンの探索網に引っかかる。それが救いだ。

犯人は十中八九外の人間だが、軍用のアンドロイドや兵器を持ち込まれていた場合、ガーディアンを使わないと対抗すら出来ない。ただ、この辺りは、水の民を警戒しているエイブリルがすぐ側にいるという状況が追い風になる。彼は感覚も鋭いし、身体能力も悪くない。体も頑健で、あれだけの怪我をしたのに、今ではすっかり元気になっている。

今のところ、彼しか頼る相手がいない。ジョネット当たりが追いついてくれば、随分状況が違うのだが。最悪キニリールでもかまわない。しかしそれらは望めないから、エイブリルのやる気をできるだけ削がないように工夫していくしかない。

蔓は少なく、移動には時間を要した。途中、球根を見つけて、口に入れておく。この体を回復させるには、各種抗生物質と栄養成分が含まれたこれは最適だ。どれだけ蔓を渡っても疲れる様子がないエイブリルの背中にしがみつきながら、今後の策を色々と考える。

それで思いつく。犯人がもしどこかの村にかくまわれているとすると、根が倒壊したことで、村人達との関係に罅が入った可能性がある。何かしらの方式でだまして匿わせていたとしても、そいつの蠢動で致命的な破壊が起こったことはすぐに分かるだろう。終末論的な宗教を使うという手もあるが、それならガーディアンの捜査網に引っかかるはずで、可能性は低い。どちらにしても、いつまでもガーディアンに隠し通せるとは思えない。

いざというときには、独自の判断で潰しに掛かってかまわないと、ガーディアンには命令を出してある。広域での捜査は向こうに任せておいて、此方はピンポイントでの探索を行うべきであった。

「蔓が整備されてないなあ」

エイブリルがぼやく。確かに、横移動する時の、蔓の揺れが大きい。しっかり捕まっているだけでは振り落とされそうになる事がたびたびあった。しっかり二人を縄で結んでおいて正解である。

大きく揺れる蔓はあまり好ましくない。何個か根を渡ったところで小休止し、瘤の上で縄をほどく。流石に疲れてきたらしく、ひょいひょいと口に球根を運んでいるエイブリルを尻目に、ふと下を見る。

水の中、巨大な黒い影。暗くてよく見えないが、魚であろう。全長は軽く十メートル。そういえば地底湖には栄養面の問題から、魚を持ち込んでいるはず。総数は把握していないが、確かかなり大きなものもいたはずだ。

「うわっ! な、なんだろあれ!」

「水の中には、ああいう生き物もいる」

「どうやって生きてるんだろ!」

「黙れ。 今はそんなことに気を……」

叱責しかけて、口の前に人差し指を立てる。何か聞こえてきたからだ。

魚がゆっくり体の向きを変え、音の方へ向かっていく。これから向かおうとしている根の先、崩壊した根を右手に、誰か立っていた。音は、その誰かから出ている。

歌っているのだ。手に銛のようなものをもった、多分男だ。声からすると、老境に入っていて、かなり背が高い。エイブリルが声を殺しながら提案してくる。

「近づいてみよう」

「慎重にな。 蔓は揺らせないぞ」

「ん、分かってる。 そうなると、あそこから、這うようにして少しずつ行かないと」

「村はもうすぐ其処のはずだ。 そうなってくると、あの人物は、いわゆる水の民か」

素早く縄で体をつなぐと、エイブリルは根を登り始めた。三十メートルほど上に、丁度いい蔓がある。しかも苔が作り出す薄明かりの中では、その辺りに来るともう底は見えない。男からも、おそらく此方は見えないだろう。ただし、音は素通りするので、慎重に行かなければならない。

音はまだ聞こえている。何だかもの悲しい歌だ。言葉と同じく、歌もヨーデルのように遠くまで響く旋律でくみ上げられているらしい。

「何だか、不思議な歌声だね。 とても悲しそうだ」

「悲しいのではないか? 根が一つつぶれたのだしな」

「う、ん。 そうなのかな」

分からないでもない。水の民が自分たちと同じように苦しみ悲しむという実感がないのだろう。隔絶した世界に暮らしている相手に対し、同じように人格があり感情があると考えることが出来る人間はごくごく少数だ。口では偉そうなことを言っても、いざ直面した真実には殆どの場合即応できない。人間という生き物を数千年にわたって見てきた以上、そういう現実は嫌と言うほど理解している。

蔓から逆さにぶら下がると、エイブリルは慎重に体を屈伸運動させ、前に運んでいく。背中にしがみついている側としては、はっきり言って生きた心地がしないが、我慢するほか無い。

隣の根にたどり着いた時、軍手の下にぐっしょり汗を掻いていた。エイブリル本人は暢気なもので、そのままするすると根を降り始める。しばらく行くと、再び先ほどの人物が見えてきた。ただし、歌ももう終わりが近いかも知れない。

老人は張り出した根の上に立ち、声を張り上げていた。綺麗な腹式呼吸であり、声も遠くまで実に良く響く。その音に紛れて降りていく。接触を図ることが出来れば良い。もし、犯人のヒントが見つけられればめっけものだ。ただし、攻撃を仕掛けてきた時に備えて、此方も準備をしておく必要がある。

痴漢撃退用の催涙スプレーを取り出しておく。掌に収まるほどのサイズで、間合いは十メートルを超える上、レーザーポインタ付きだ。ガスは時速二百キロを超えており、あの老人が如何な使い手であっても、初見でこれをかわすのは難しいだろう。

老人から見て背後に当たる部分に身を隠しながら、近づく。辺りを警戒するようにエイブリルには言い含め、ゆっくり最下層に。太い根が、水面に足場を伸ばしているが、不安定で恐ろしい。水の底は見えないし、多分さっきのような魚は幾らでもいる。もちろん、肉食のものもいるだろう。

老人は歌を終えた。掌の裏に、スプレーを隠し持ったまま、歩み寄る。周囲に他の人間はいない。振り返った老人は、厳しい目をしていた。近づいてくるのに、とうの昔に気付いていたのだろう。

近くで見ると、その異相が分かる。足の筋肉が異様に発達しており、上半身に比べて若干アンバランスだ。水を力強く掻くためか、扁平足で、指も長い。だが上半身が貧弱と言うこともなく、銛を手にしている腕はたくましい。

髭が立派な老人だ。顔は細長く、上の村の人々よりも尖った印象を受ける。

「悲しい歌だな」

「何者だ、貴様は」

「上から来たと言えば分かるか?」

「奴の、仲間か」

いきなり大当たりだ。悲しい歌を一人唄っていた事もあり、もしやと思ったが。これは追い風が吹いてきたかも知れない。後でガーディアンを二匹とも集めておいて、一気に処理を計る方が良いだろう。

「奴、とは?」

「とぼけるな。 そのような格好をした人間が、奴の仲間ではないと言うつもりか」

「村の中にも、仲の良い人間と、そうでない者がいるだろう。 上の方の連中と、水の民は皆犬猿の仲だとも聞く。 その「奴」の住んでいる場所にも、同じ事がないと言い切れるか?」

狭い世界に住む人間にとって、偏見は決して悪意から来るものではない。無知から来るものだ。無知が悪いというのならば、ミーミルから見れば人間は全部死刑である。だから、理を並べて、わかりやすく、ゆっくり説得していく。

老人は徐々に説得によって軟化していく。だが、何かが彼の心を閉ざしている。眉をひそめるように、彼は叫ぶ。

「詭弁を並べるな」

「詭弁ではないと、お前自身が分かっているのではないか?」

「だ、黙れ、黙れ!」

「このままだと、奴の手によって、更に多くの根が滅ぶだろう。 最終的には、お前の村も含め、この世界そのものが消えることになる。 私はそれを食い止めるために、此処に来ている」

老人は打ちのめされたように、言葉を失った。足下を確かめながら、一歩、二歩、近づく。ムカデに散々噛まれはしたが、どうにか足は動く。この体よりも、摂取した球根や栄養循環液が優秀なのだ。

護身用のスプレーを、ポケットにしまう。この老人は多分大丈夫だ。何かの理由から、犯人を疑いきれず、信用しきれず、苦悩しているのだろう。両手を広げて、何も持っていないところを見せる。老人も警戒していたが、やがて銛をおろした。

「貴様は、何者だ?」

「上の人間だと、言ったはずだが?」

「上の人間というのは、そこに隠れているような若造の事だろう」

「知っていたか。 ならば訂正しよう。 彼らよりも遙かに上の世界から来た者だ。 お前が奴と呼ぶ存在も、おそらく同じだ」

老人は悩んでいる。後一押しだ。一番良いのは、この老人の村の連中によって、テロリストをガーディアンに突き出させることだ。この屈強な肉体、整合性の取れた精神、そして威風堂々たる佇まい。この老人が、村の顔役であることは間違いない。あと少し、押すだけで、カタストロフは回避できる。

「奴とは何者だ。 名前と、居場所…」

「リテネラ!」

言い切ることは出来なかった。反射的に振り向き、飛び退く。足下を対生物レーザーが、真一文字に横切る。エイブリルの警告がなければ、両足を切り落とされていた。

状況は悪化の一途をたどる。足はどうにか無事だったが、代わりに根が切り落とされる。間髪入れず、至近で炸裂する小型ミサイル。直撃は避けたが、爆圧にはなすすべ無く、水の上に、老人もろとも投げ出される。

水に落ちる前に見たのは。空軍が使用しているカブトムシに似た姿をした戦闘用ロボット。その操縦席には、白衣の青年と、女性型のアンドロイドの姿があった。

着水。沈降。水は、恐ろしく冷たかった。強烈な温度差に、体が悲鳴を上げる。もがこうとも、水面は遠ざかるばかりだ。まずい。このままだと、あのバカガキ、エイブリルも一緒に飛び込んで来かねない。二重遭難だ。その上、ごうごうと耳元に、嫌な音が叩きつけられる。分かる。あのでかいのが、近づいてくる音だ。

この辺りで消えたことに、多分ガーディアン達は気付くだろう。そうなれば、戦闘ロボットだろうがアンドロイドだろうが対処できるはず。多分、出来るはずだ。そう信じたい。

魚の餌か、凍死するか、どちらが先か。目を閉じ、運命を待つ。

腕を、誰かが引いた気がした。

諦めるな。声が響く。

死なないで。声がとどろく。

生きてくれ。誰かが呼びかけてくる。

リテネラの部分が、あがこうとしている。必死に、運命と立ち向かおうとしている。必死だ。必死に生きたがっている。死んだ時と同じように。生きたまま捨てられた時と同じように。拾った時と、同じように。脳にミーミルをインストールした時と同じように。

これも生物の性だ。やむを得ないだろう。

目を開ける。口から大量の泡が零れた。もう残る時間は多くない。何かが、此方に手を伸ばしてくるのが見えた。のばし返す。手首をつかみ合う。一気に、引っ張り上げられていく。

巨大な口が、側で閉じられる気配。呼びかけてくる声が、更に強くなる。

水面に出る。大きく息を吸う。体中が凍るようだ。冷凍ショックが起きているのか。身動きできない。たくましい太い腕が、体を根の上に引き上げてくれた。

水の民の老人だ。防水性のリュックには、タオルが入っている。だが、どうやってそれを開けて、取り出すのか。どう伝えればいい。

目を閉じれば多分死ぬ。走り寄ってきたエイブリルが、涙を流しながらリテネラの名を呼ぶ。気の毒な少年だ。この体がどれだけ疲弊しているか分かっていない。脳に情報をインストールするのにもかなり無理をした。

それに、拾った時には、既に重要な体の機能の一つが失われていたのだ。激しい暴行の末の結果だ。それは、修復不可能だった。だからこの体に発情するのは、無意味だというのに。

「村に運ぶ! おのれ、あの優男がっ!」

老人の怒号が聞こえる。体を温めて、栄養循環液を胃に流し込んでくれれば。意識が薄れそうになる。唇を噛んで、それを戻す。まだ、駄目だ。死ぬわけにはいかない。生への渇望が、体の奧から沸き上がってくる。

まだ、ここで、滅ぶわけにはいかなかった。

 

7,二つの死と一つの生

 

男は復讐鬼だ。

かって彼は、人口2500万人を有する中規模国家、ファルント民主立国の研究員をしていた。老大国同士の関係は安定したが、小国同士は紛争が絶えない。慢性的な争乱状態にあるユミット大陸の情勢下で、特に資源のない祖国を救うには、手段は選んでいられなかったからだ。様々な非人道的な実験に手を染めた。国を救うためと思い、子供を使った人体実験さえもした。断末魔の悲鳴は、耳に長く残った。

研究の過程で、様々なものが出来た。強力な毒ガス兵器がその主なものであったが、中には世界を滅ぼしかねないものもあった。世界樹の機能を停止させる毒物である。人間や、他の動物には害がない。しかし世界樹の細胞にはじっくりと浸透し、やがて樹そのものを滅ぼしてしまう。

研究を続けていた男は、自らが作り出した恐ろしい結果におののいた。使わないように何度も訴え出たが、却下された。罪悪感に打ち震える彼は、ついに独自の判断で毒を廃棄しようと考えたが、事前に発覚して捕らえられてしまった。さらに敵対国であるアンシタット公国の圧迫に耐えかねた軍部は、ついに最終兵器の使用を決定。特殊部隊がアンシタット公国首都にある世界樹の元に赴き、毒物を使用しようとしたところで、捕縛された。

非道な戦争犯罪。人類の歴史を汚す行為。

激しい非難が巻き起こる。やがて、これを口実にアンシタット公国は全面的な攻撃を開始、立国は滅亡。男は混乱の中、逃亡した。

妻子がなぶり殺しの目にあったのは、その直後のこと。世界樹を滅ぼす毒を作った全責任が押しつけられた自分が逃亡したため、それが妻子に転化されたのだ。自分たちを正義と信じる愚鈍な大衆が、マスコミによってあおり立てられ、よってたかって妻子をなぶり殺しにしたと、潜伏先のスラムで男は知った。長男はまだ三歳だった。妻の腹には二人目の子供もいた。それなのに。長男は八つ裂きにされてどぶに放り込まれ、妻は陵辱された挙げ句に磔にされて、餓死したという。

その話を聞いた時。男の中にあった良心や理性は全て消し飛んでいた。男は三日三晩叫び続けた。血の涙を流しながら、周囲のありとあらゆるものを殴り、壊し、潰し、否定した。そうすることでしか、自分の崩壊を止める事ができなかったのだ。

男は呪う。

そうか、いいだろう。そのような愚かなことを続けざるを得ないのなら。

全て、滅んでしまえ。

混乱のどさくさで、持ち出してどこかで処分しようとしていた毒物。男はそれを使うことを決めた。

目的はもちろん、人類の抹殺。しかも、絶対的根絶的な抹殺だ。男にはそれをする権利があった。男を利用し、虐げた人類には、何一つ法的には責任が生じないのだ。だったら、自分が裁く。

軍部は封殺していたが、この星の歴史は一部では既に解明されている。彼方此方に点在している世界樹がなければ、この星はそもそも人間が生存できないと言うことも。

愚劣な人類に、せめて妻子の苦しみの、十分の一でも味あわせてやる。呪いの言葉を吐きながら、男は顔を整形し、文字通り地下に潜った。

やがて、満を持して動き出した男。かって彼が持っていた優しさや理性や、羞恥心や罪悪感というものは、既に無くなっていた。かっての男は、もう死んだのだ。

男をそこまで追い込んだのは、人類そのものだった。

 

少女は、全てに絶望していた。

孤児院から出て、「政府の保護の元」生活を開始して、すぐに現実に直面した。長引いた戦争による貧富の差の拡大と、新しく敵国の民を取り込んだことによって生じた社会的な格差を埋めるために、政府は古典的な社会差別政策を打ち出したのである。

社会の憎悪を下層民に集中させることにより、対立を産み、政府への憎悪と社会不満を逸らす。格差や差別が激しい社会で、良く用いられる手法だ。それは大まじめに行われ、結果弱者があおりを食うことになった。少女も、その一人だ。

仕事先では露骨に給料を天引きされ、抗議すれば首になった。性的関係を強要されそうになったこともあるし、酷い場合にはただ働きをさせられた。警察に訴え出ても、下層民の言うことなど聞いてくれないのはわかりきっている。事実、聞く耳を持ってはくれなかった。

夢があった。いつか大学に行って、学問を修めて、立派な企業で研究をしたい。出来れば、政治学を。戦争を起こさないようにする、方法を知りたい。それが両親を無惨な形で失った、少女のささやかな夢だった。

だが、どれだけ働いても、それは夢に終わりそうだった。誠実に働いていれば、いつかきっと理解してもらえると思って、必死に頑張ったが、無駄だった。まじめに働けば働くだけ食い物にされた。此方が誠意を尽くせば尽くすほど、かもにされた。少女は知った。社会では、「誠実」が、「バカ」や「屑」の同義語に過ぎないと言うことを。

それでも必死にためていたお金を、強盗に奪われてしまった。生活する金すらなくなった少女は、絶望の淵にいた。社会的な保証など行われるわけがない。もはや、他に手はなかった。

生きるために、鞄をすりとろうとした。

結果は、暴行の嵐だった。

激しい暴行を受けた少女は、全身に大けがを負った。医療機関ですら助けてくれなかった。崖から放り捨てられた。それでも、鞄は捨てなかった。

薄れる意識の中で、少女はただひたすらに悲しかった。

社会を呪うという感覚はなかった。その代わり、もう社会と関わり合うのもいやだった。

死んだかと思ったのに。

ほどなく、意識が戻る。それは、自分の意識ではなくなっていた。

 

死体を探していた。探索には、人間の姿が一番だったからだ。

戦争が終結したことを、ミーミル13は理解していた。この世界樹13周辺の国家情勢は安定したが、その代わり社会的な不公平は拡大し、加速度的な崩壊が始まっていた。

それと同時に、自分の根に異常が発生した。ガーディアンからは満足な報告があがってこない。さぼっているのではなく、人間のテロリストが潜入したのであれば、対処が難しいのだろうというのは理解できた。しかも、人類の国家には存在を知らせていない、特殊な地下空洞でのことである。

かって、「自然への回帰」を唄う人間達の一派を、ガーディアン二匹をつけて、そちらへ通したことがあった。今でも2000程が健在であると報告は聞いている。行き方を知る人間はいないはずだが、科学的な検査で空洞の存在を検知する可能性は否定できない。テロリストが潜り込んだのであれば、人間の調査員を送り込むのが一番だ。

かといって、今世界樹周辺に展開している公国に、この話を伝えるのは得策ではない。連中は確実に世界樹を侮る。自分の根に着いた害虫も始末できないようなら、自分の思うように管理できるに違いないと考える。それはまずい。公国を滅ぼすくらい簡単だが、それではせっかくの安定が台無しになってしまう。

安定を第一に考えるのは、そうプログラムされたからだ。かくして、安定のために、世界樹は死体を探した。難しくはないはずだった。最近公国では人権という概念が極めて希薄になってきており、死体が捨ててこられることが珍しくもなくなっていたからだ。だから大鷲型のガーディアン、フレースヴェルグ1122に巡回させて、死体が落ちてくるようならもってこいと言っておいた。

1122が少女の体を持ってきたのは、それから数日後。なんと生きていた。遺伝子等の適正は充分であり、ミーミルの一部を脳に無理矢理インストールするのには充分だった。フレースヴェルグは憤っていた。原始時代の人間でも、ここまで倫理的に劣弱ではなかったと。此奴らはもう蟻や蜂と同じように動いているのだし、徹底的に管理するべきではないかと。いや、此奴らにはもはや文明さえ過ぎたものだと。一考すると言い残してから、中枢部へ運ばせる。

世界樹中枢には、巨大な生体プラントがある。様々な有害物質を肥料や無害な土に変化させるシステムや、巨大な世界樹の体を支えるポンプ群などが点在している。そこの一部に、人間用の居住スペースだった場所がある。世界樹をセットする時に、技術者達が寝泊まりして管理を行ったところだ。

ここの医療施設を利用した。小型のガーディアン達を使って、まだ生きている少女の服をはぎ取り、培養ポットに入れた。気の毒に、体中青あざだらけで、内蔵の機能も低下していた。栄養循環液で中を満たし、脳に自分の一部をインストールする。身につけていたものを解析する。鞄の中には僅かな現金。生活苦から盗み、その報復にあって暴行され、瀕死の所を捨てられたらしい。酷い話だが、人間などそんな程度の生き物だと、ミーミルは既に諦めている。別に珍しいことでもない。

やがて、修復が完了。ストックしてあった幾つかの服を身につけてから、鞄に入っていた現金を持って、街へ出る。そこでこの貧弱な身体能力をカバーすべく、登山用具と、幾つかの護身用具を買った。そして世界樹の中に戻ると、緊急防御機能の一部を脳に追加インストールし、ある程度身体能力の強化も行った。元が貧弱きわまりなかったので、大して強化はできなかったが。

それから、かって文明放棄を望んだ者達を案内した洞窟へ。入り口は自らの根で塞いでおり、人間が入れないようにしてある。命令してどかし、奧へ奧へ。そして、巨大空間に入り、調べるべく降り始めたところで、足を踏み外したのである。

目を覚ます。近くで火が燃えていた。竈を使って体を温め、栄養循環液を流し込んでくれたらしい。生体活性機能のあるナノマシンを含んでいるそれと、適切な処置が物を言ったわけだ。考えてみれば、水の民とやらは、この手の事故に慣れているはず。体を起こそうとして、服を着ていないことに気付き、前を毛布で押さえる。

「リテネラ!」

エイブリルの声。振り向くと、少年は満面に笑顔を浮かべ、涙を流していた。器用な奴だと思いながら、言う。

「泣くな」

「だって、だって!」

「それよりも、今、どうなっている。 奴はどこへ行った」

「まず、自分の事を心配してよ! あんな冷たい水に落ちて、でかい魚に食われかけたんだよ!」

「この世界が滅ぶか滅ばないかの瀬戸際だ」

リテネラの部分は、心配してくれるエイブリルの言葉が嬉しいようだが、知ったことではない。

服はどこだと聞く。部屋の隅にあるという。周囲を見回すと、四角い部屋であった。真ん中には囲炉裏があり、火がくべられている。苔が天井ではなく壁に植えられていたり、天井からつるされた頑丈そうな蔓にろうそくがつけられて灯がともっていたり、色々と上の村と作りが違う。隅には、ちゃんとリュックもあった。嘆息。あれがないと、テロリストに対抗する手段がない。

「悪いが、部屋から出ていてくれないか?」

「どうして?」

「服を着る」

見る間に赤面したエイブリルは、ごめんと一言、こけつまろびつ部屋から出て行った。微笑ましい光景に、くすりと笑みがこぼれた。

 

8,決戦へ

 

丸つばの登山帽以外を全て身につけ直して、立ち上がる。良い感じに服は乾いていたが、ということは一日くらいは寝ていたのだろう。痛恨である。もう殆ど時間はないかも知れない。

改めてみるが、面白い構造の家だった。ボックス型の四角い部屋が連なっていて、それぞれの高さが違い、はしごで相互連携している。どうしてこうなっているのかと窓から外を見ると、納得である。水面に張り出した、斜めに傾いた根の上に建てられているからだ。しかも、根の上に建てられているのは、この大きな家だけだ。他は根の周囲に船を組み、その上に作っている。いざというときには、村そのものが移動していける作りなのだ。

何個か部屋を抜けて、一番大きな部屋に出る。どうやら集会所のような部屋らしく、五十人近く集まっていた。一番上座にはあの老人。エイブリルの話では、ピラルクーというそうだ。地球に生息していた巨大淡水魚と同じ名前だが、関連は知らない。老人の脇には、顔を布で隠した小柄な女性。彼女には、村人達の恨みの視線が、無数に向いていた。

部屋に来る前に、エイブリルに大体の事情は聞いていた。あの戦闘ロボットに乗っていた奴の名前はジョン=シュタイナー。数ヶ月前に村に降りてきて、たちまち村のシャーマンであるウェルチを恋の虜にすると、昔から其処にいたように居座ったのだという。それから様々に彼方此方で蠢動していたが、それが根の倒壊につながっていたとは、誰も気付かなかったのだそうだ。

ガーディアンに対して男の存在を隠すのには、村人全員が結託して行っていた。男は便利な数々の道具を惜しみなくくれたし、難病をたちどころに直してくれた。村人の中には恩を感じている者も多かったのだ。何故そんな事をしなければ行けないのか、不思議に思う者もいたようだが、それでもシャーマンの発言は絶対だった。

根が倒壊してから、おかしくなった。男は村に戻ってこなくなり、ガーディアンがいつもと違う季節に訪れて、村人に様々な情報を要求した。混乱が広がる中、ウェルチは皆の前に姿を現さなくなり、そして致命的な事件が起こったのである。

血相変えたピラルクーが村に戻ってくると、皆は事態をそれだけで理解したという。ウェルチは吊し上げに合い、そして現在の状況になる。リテネラは事情を知る人間として、今皆に期待されているわけだ。翻訳機の機能がまだ不安だが、喋るしかない。

上座の隣、ピラルクーの左側に、席を用意して貰った。エイブリルも側に座ることが許される。村人達の視線を受けて、首をすくめるウェルチという娘は、風が吹いたら倒れそうな雰囲気だった。よく言えば儚く、悪く言えば貧弱きわまりない。特性を見込まれてシャーマンになったのだろうが、これでは心労で辛かっただろう。そこをつけ込まれてしまえばひとたまりもないに違いない。

敷物が出される。赤黒い魚の皮で作られているが、乗ってみると以外に柔らかい。正座すると、膝の上に丸つば帽を乗せて、リテネラは呼吸を整えた。

「世界が、滅びようとしている。 あの男の手によってだ」

「根が倒れたのも、その前兆なのか!?」

「そうなる。 私はそれを食い止めるために、此処に来た」

村人達が一斉に呪いの言葉を吐く。それに対して、ウェルチは涙をこぼしていた。まあ、人間なんてこんな生き物だ。自分たちだって恩恵を得ていたのに、状況が変われば被害者を装う。

「殺せ!」

「そんな奴に、神交師の資格なんか無い!」

「神への反逆だ! 魚の餌にしてしまえ!」

ふくれあがる悪意。殺意の渦。子供までもが喉をむき出しに、殺意を言葉にして叩きつけていた。殺せ、殺せ、殺せ。一瞬ごとに悪意が高まる。うつむいているウェルチは、声もないようだった。あきれて、席を立ちかける。

そんなとき、立ち上がった人間がいる。

「勝手なことを言うな!」

エイブリルだった。彼は一瞬しんとした場に、若々しい怒りを叩きつける。

「あいつを匿っていたのは、みんな同じなんだろ! その人だけの責任なものか!」

「黙れ! よそ者が偉そうなことを言うな!」

「いや、同感だ」

ピラルクーの言葉に、村の皆がしんとする。重々しいピラルクーの声には、圧倒的な威圧感が含まれており、周囲の空気までが凍ったように聞こえる。

「天の人よ。 我々はそろって神の柱たる根の倒壊に責任がある。 なかでも、娘かわいさに奴をかばい続け、守護神様に嘘をつき続けた私の罪が一番重い。 だから、私の命一つで、許していただけるように、守護神様に頼んでいただけないだろうか」

「お、お父様!」

蒼白になったウェルチが、必死な声を絞り出す。娘にはかまわず、ピラルクーは深々と頭を下げた。それがもっとも屈辱的で、もっとも誇り高い行動だというのは一目で分かる。こんな人間もいるのだと、少しだけ感心した。それに率先して動いたエイブリルにもである。

「今は、それどころではない。 リンチしている暇があったら、皆一緒に戦って欲しい」

静かに、出来るだけ威厳を声に含ませる。そして、ウェルチに向き直る。小柄な娘は、涙を拭っていた。

「奴の動機は分からない。 だが、表立った行動に出たのは、おそらく目的を達成できるという確信を得たからだろう。 何か思い当たる節はないか?」

「…あの人を、責めないで上げてください。 あの人は、優しかった。 私の話を聞いてくれたし、本当に優しくもしてくれたんです。 産まれて、はじめての事でした」

愚かな娘だと断ずるのは簡単だが、そんなことはしない。人間の感情は不安定で、時に悪意を隠すこともあり、時に善意がわき出すこともある。実際にあのテロリストが、どう考えてこの娘に接していたかは、本人の脳を覗かなければ分からない。

「あの人は、家族を上で失ったようでした。 それも、とても酷い失い方をしたようで、悲しい目をしていました。 だから、支えて上げたいと思ったんです」

「それで、何か言ったのか?」

「西の果てに、神の祭壇と呼ばれる場所があります」

ガーディアンの情報にない。続きを言うように促す。

「古代の伝承によると、其処が全ての根の中心だそうです。 水の流れは神の祭壇を中心にしていて、其処から船を走らせると、全ての根にたどり着くことが出来るとか」

なるほど、そう言うことか。言われてみれば納得がいく。地下水脈の動きを把握しきってはいなかった。そこに大量の毒物を流せば、全ての根を一気に、なおかつ一斉に枯らすことが出来る。

あの戦闘ロボットを使えば、そこまで行くのはさほど難しくないだろう。十キロ以上はあるはずだが、昨日のうちに着いてしまっていると考える方が自然だ。そうなると、もう間に合わないか。いや、諦めるにはまだ早い。

中和物質は存在しないが、防御態勢をとることが出来れば。それに、確か相当に扱いがデリケートな毒だ。まだ、間に合うかも知れない。

「準備したら、すぐに其処へ向かおう。 動ける人間は、皆来て欲しい。 どれくらいでたどり着ける?」

「私が、担いで泳ぐ。 そうすれば、12分の1日もあれば充分だ。 船を使うよりも遙かに早い」

「頼もしい。 是非頼む」

リュックからコンピューターを取り出しながら、笑顔を浮かべる。根に端子を刺し、素早くキーボードをタッチして、ガーディアンに情報を伝達。これで、決戦の場に奴らも間に合うはずだ。

「よし、準備完了。 いくぞ」

「応! 皆の者、神の戦だ! 気勢を上げろっ!」

全員が立ち上がり、咆吼をあげた。オウ、オウ、オウ、エイ、オウと、連続した叫びを上げながら、足を一斉に踏みならす。家が揺れるようだった。エイブリルもそれにあわせる。ひょっとすると、戦いの儀式自体は似ているのかも知れない。ウェルチを立ち上がらせると、耳元に。

「多分、助けることは出来ないと思う」

「分かって、います」

「だが、尊厳は汚さない」

愛する男を売った女を、これ以上痛めつけようという気には、どうしてもならなかった。女達が、長駆用の道具らしい浮き袋を素早く男達に配る。

今、決戦の火ぶたが切って落とされた。

男達は、我先に水に飛び込んでいく。ピラルクーの背中に乗って、水へ。思ったほど体は沈まない。そして、恐ろしい勢いで前に進み始める。見る間に男達がくさび形の陣形を組み、銛を構えていつでも戦えるように行く。

「一つ、聞かせて欲しい。 天の人よ」

「何だ」

「ジョンが言った。 この世界の成り立ちと、そして秘密を」

ピラルクーは言う。ジョンという男が、告げていたことを。確かに奴の言うことは全て真実だ。士気を下げるかと思ったが、この男は聡明だ。嘘をつく方が、よほど士気を下げるだろう。

「全て事実だ」

「そうか。 我らは、管理され続けていたのだな」

「だからなんだ。 他の生物たちは、皆自分たちを管理しながら生きている。 自然界の掟というものをつかってな。 人間はそれに該当しないというのなら、人間の暮らす社会そのものでコントロールするのが筋というものだ。 守護神はそれを行い、結果平和な世界を作り続けてきた。 違うか?」

「違わないと思う」

分かってくれて安心した。ピラルクーはぐんぐん速度を上げた。水面から体が飛び出しそうな速さで、しかも安定している。筋肉増強剤でも使っているかのような勢いだ。

「生きるために戦う。 それで充分だろう。 偉大なる水の戦士、ピラルクーよ」

「ああ、その通りだ。 力が出た、天の人よ。 名を聞かせてくれ」

「……リテネラ=ミーミルだ」

「よし、それではリテネラよ、更に速度を上げるぞ。 落とされないように掴まっていよ」

一段とピラルクーが速度を上げる。他の者達も、それに全く遅れる気配がない。すさまじい男達だと、舌を巻いた。

 

今度はエイブリルも背負われる番だった。何だか不思議な気分である。人間が、これほど早く水を進むことが出来るとは、知らなかった。それに、水の民達に、言葉が通じることもだ。世の中、不思議なことがたくさんあるのだと、思い知らされる。

くさび形の陣形を組んだまま、水の民の男達が泳ぐ。上半身を反らせて、後ろ足で鋭く水を蹴りながら。先頭はピラルクーで、リテネラを乗せている。斜め右後ろに、エイブリルを乗せている男がいた。

水の一掻きが、体を恐ろしい勢いで前に進めているのが分かる。エイブリルは、思わず感嘆を漏らしていた。

「すごい、すごいねっ!」

「ピラルクーは本気を出すともっと速いぞ。 だがお前達も凄い。 蔓の間を、すさまじい速さで渡り飛ぶと聞く」

「それが、普通だったから」

「俺たちにも、これは普通のことだ」

根の脇を通り過ぎる。時々巨大な魚影があるが、いずれも此方には関心を示さない。縄張りを避けているのか、追っても無駄だと考えているのか、それは分からない。

「先はありがとう」

「えっ?」

「俺たちは、自分たちの罪を棚に上げていた。 俺たちも、あの男がもたらす富と便利に酔ってしまっていた。 それなのに、罪をウェルチ一人に押しつけていた。 お前の言葉と、ピラルクーの言葉が無ければ、其処へ逃げ込むところだった」

「……うん。 リテネラが、あんな風に責められて、俺が何も出来なかった時があったんだ。 だから、もう同じ事を繰り返したくなかった」

無言。水しぶきが間断なく飛んでくる。遠くに、大きな根が見えてくる。心なしか、速度が落ちてきた気がした。

「気をつけろ、あの向こうだ」

「分かった」

いつも手にしている短い槍を、エイブリルはぎゅっと握りしめた。ずっと使ってきた槍だ。戦いで使うことはなかったが、決してあっても損はしないはずだ。

見えてきた。巨大な影が、空に浮いている。赤カブトムシのような姿をした、異形の生き物だ。その足下の根に、あの男の姿があった。

水の民は勇敢だ。奇襲することを誰も考えていないらしく、勇ましくかけ声を上げながら、一直線に向かっていく。カブトムシが振り返る。奴の体から、小さな何かが無数に放出されるのが見えた。

それが此方に向けて飛んでくる。虫のような姿をしているそれらの頭が光り、そして消し飛んだ。

真横から飛来した火球が、一直線になぎ払ったのだ。

 

身を低くし、球形の小型攻撃ユニットの残骸から身を守る。殆ど意にも介さず間を詰めるピラルクーの上で、奴の声を聞く。

「ミーミル様、お待たせしましたあ!」

「遅いぞ」

1180だ。右手奥の根に今いると、続けて伝えてくる。1179はまだ遠くにいるらしい。戦力的には少し不安だが、何とか行けるか。

少女の人格を与えている1180は、ピンクの体のバルバトス型だ。1179に負けず劣らず、高い戦闘能力を持っているが、戦闘ロボットを相手にすると果たしてどうか。ジョンの乗る戦闘ロボットが、1180の射線から隠れるようにして根の影に隠れ込む。良い判断だ。今の生体プラズマ砲の破壊力を見たのなら、ああ動くのが合理的だ。

「ごめんなさい、1180、泳げませんですぅ。 少し上を渡って、迂回してそっちに行きますので、それまで頑張ってくださいー」

「ああ、勝手にしてくれ」

疲れるしゃべり方をする1180に返答する。再び戦闘ロボットから小型攻撃ユニットが射出される。それと同時に、運転していたらしい戦闘用アンドロイドが操縦席から飛び、水面に張り出した根に降り立つ。

「エイ、エイ、エイ、エイ! 皆の者、ゆくぞおっ!」

「エイ、オウ、エイ、オウッ!」

水面から躍り上がると、ピラルクーが浮き袋につけていた小型の銛を、攻撃ユニットに投げつける。狙いは正確、一撃必殺。貫通されたユニットが爆散した。ユニットが一斉に反撃を開始、銃弾を降らせてくるが、慌てない。皆潜り、鋭く旋回して水面から出る。そして組織的に銛を投げつけ、再び潜る。

立て続けに爆散するも、攻撃ユニットは数を減らす様子がない。次々にロボットから繰り出されてくる。その上、男は余裕の体だ。何かあると思った瞬間、水の民の一人が吹っ飛び、水面に落ちた。アンドロイドが軍用の大型銃を構え、撃ち放ったのだ。流石に正確である。更に、攻撃ユニットも動きが的確になってきている。

「危険を承知で、奴の近くへ。 頭は、私が抑える」

「戦士でもない貴方に、手はあるのか?」

「案ずるな、大丈夫だ! それより、あの女戦士の押さえを頼む!」

「任せろ!」

水の民の男達は傷つき、倒れながらも、勇敢に敵に向かっていく。小型ユニットを恐れず銛でたたき落とし、時には飛びついて水の中に引きずり込んでいく。そんな中、ピラルクーは猪突、ついに戦闘アンドロイドの至近に躍り上がった。

「私は水の民の戦士、ピラルクー! 強き戦士よ、勝負を挑むぞ!」

ピラルクーの背中から飛び退く。無言でアンドロイドが銃を構え、撃ち放つ。だがピラルクーは残像さえ残しながら空に舞い上がり、第二射もかわすと、銛をアンドロイドに叩きつける。片腕を上げて防いだアンドロイドは、回し蹴りを叩き込もうとするが、ピラルクーも同じく回し蹴りで迎撃、なんと五分のパワーではじきあった。地上の人間とは根本的に身体能力が違うとはいえ、すさまじい。

水浸しな中、ポケットに手を突っ込む。視線の先には、小型の拳銃を構えているジョンという男。拳銃はレーザーポインターが着いていない安物だ。見た感じ、腕はたいしたことがないだろう。左手には、水面近くに置かれている箱の、開封スイッチらしきものが握られている。

「何者です?」

「お前が世界樹を滅ぼすことを望まない者だ」

「理解できませんね。 公国のエージェントのようにも見えませんし、一般人がそんなことを考えるわけもない」

「人間ではないと言ったら?」

ジョンの目が興味に揺れる。なるほど、この男は根っからの研究者だ。不幸なことがなければ、有能な研究者として、人類世界の発展に貢献したのかも知れない。まあ、知ったことではないが。

「まさか、人型のガーディアンユニットですか?」

「違う」

「そうなると、まさか」

「そのまさか。 私は、世界樹そのものだ」

立ち話をしながら、足下の根に命令を与える。少し時間が掛かるが、かまわない。話しておきたいことがある。目的も確認しておきたい。

「自殺に、世界を巻き込むつもりか?」

「そう。 しかし、私は復讐する権利だけのために、世界樹を倒すのではありません」

男の目が狂気に歪む。確かに悲しい目だ。男がどれほどの辛酸をなめたのか、それだけでも分かる。男は理論に逃げた。自分の感情を直視する勇気がなかったのだろう。それが、その目を見るだけで洞察できた。男はなおも言った。

「人間には、世界樹は必要ないのです。 なまじこんなものがあるから、争い、殺し合い、醜い行為を続ける。 人間は自らの足だけで立つべき生物です。 そしてそれこそが、種の発展を産む! 資源を集め、廃棄物を再生する、便利すぎるこんな存在は、かえって人間を駄目にしてしまう! だから、私はこれを排除します。 妻と、子のためにも!」

「それが理由か?」

「その通り! そして、それはもう始まっている!」

「くだらんな」

もう少しだ。後ろでの戦いは激しさを増しているが、まだまだ水の民は支えきるだろう。だが、犠牲は大きい。また一人、攻撃ユニットの射撃で頭を吹き飛ばされる。ピラルクーが回し蹴りを受けて、根に叩きつけられる。流石にアンドロイド、総合力では人間はかなわないか。根に叩きつけたピラルクーに、更にアンドロイドが拳を叩きつける。

戦況の悪化は著しい。そんな中、論戦は続く。

「世界樹よ! 人間に作られた者よ! 貴方のくだらない価値など知りません! 世界は人間のものです! 人間が進歩するために世界はあり! 生物の至高は人間であり、世界はその従属物なんですよ!」

「そう、それは正しいだろう。 人間の理屈としてはな」

人間を嫌いな理由のひとつが、これだ。

人間は様々な偉大な哲学や思想を生み出してきた。しかし、それが根幹に置いているのは、基本的に人間は世界の中心であるというものだ。社会がそうやって成り立っているという事情もある。

寛容さや客観性を含むものもあるが、結局そこで人類の思考は閉じてしまっている。人間社会の理論としてはそれでかまわないのだが、世界的な思考まで人間はそれを用いてしまう。たとえば、他の生物との共存という思想があるが、それはあくまで「人間がありがたくも他の動物を保護してさしあげる」「人間がありがたくも動物と距離を置いて生活しやすいようにしてさしあげる」というものであり、動物の側の事情など知ったことではない。その思想が人間社会と共に広がった結果、地球の動物はすさまじい勢いで絶滅を続けた。

そして、世界樹が、その尻ぬぐいのために作られたのだ。

人間に危害を加えないように、AIのプログラムを組まれた。だが、憎むなまでとは組まれていない。だから、今回、わざわざ脆弱な人間の体で此処まで降りてきた。

ぎりぎりと歯を噛む男に、言う。

「私は死にたくないね。 お前達などに滅ぼされてたまるか」

「そんなエゴは知りません! 貴方は人間によって作られた存在! 人間によって植えられた存在! 貴方をどうしようと、人間の勝手なんですよ!」

「人間という種そのもののエゴが私を作り上げた。 そしてそのエゴで、今私を滅ぼそうとしている訳か。 そんな都合に従ってやる理由はない」

戦闘ロボットが動き出す。劣勢の水の民達に、とどめを刺そうというのか。小型ミサイルが射出され、水上で奮戦していた水の民達が吹っ飛ぶ。

あと二十秒。何とか耐えて欲しい。そう思った時。殴られ続けていたピラルクーがアンドロイドの拳を受け止め、背負い投げに根に叩きつけた。更に、空から、無数の槍が降ってきて、攻撃ユニットを次々に貫通した。爆発するユニット。根を滑るように降りてくる無数の人影あり。キニリールと、ジョネットの姿があった。上の村の連中だ。1179が声を掛けてくれていたのか。

「お、おのれ! 人類の崇高な進歩を理解しない者達め!」

ジョンが自分でも信じていないだろうことを叫ぶ。更に、頭上に1180の姿。根に逆さに張り付くようにして、プラズマ砲を口から発射。戦闘ロボットは今まで1180に備えていたのだろうが、水の民への攻撃に移行していたことが災いし、動きが遅れた。巨大な火球が、シールドを展開した戦闘ロボットを頭上から直撃した。巨大な爆発が巻き起こる。いまだ。

「エイブリル!」

「分かった!」

はっと振り向いたジョンが、飛来した槍を見て、小さな悲鳴を上げる。事前に言い含めておいたのだ。しかし、完璧なタイミングである。ほれぼれする。ジョンが体勢を崩し、銃を取り落としてしまう。

根から、はじかれるように飛び出してくるのは、刀。鉄分を集めて、日本刀の形状を作らせた。このために、時間を稼がせたのだ。刀を手に取りながら、走る。今まで水に濡れ、動きが悪くなっていた足が元に戻るまでの時間を稼ぐ意味もあった。

刀の柄を握り、走る。ジョンが振り返った時には、もう遅い。

思考を閉じ、リテネラの理性を一時的に戻す。人間には手が出せないから、わざわざ人間の意識を調達したのだ。人間であれば、人間を殺すことにタブーはあっても、絶対に不可能なわけではない。パワーはないが、スキルはインストールしてある。一振りに限定なら、達人の一撃が繰り出せる。

気合い一閃。上段から、いかづちのように振り下ろす。

スイッチを握っているジョンの手を、肘から切り飛ばす。スイッチごと手が飛び、水に落ちる。そのまま、エイブリルが男を取り押さえる。殆ど同時に、はじかれたように立ち上がったアンドロイドの顔面に、ピラルクーが猛烈な後ろ回し蹴りを叩き込んだ。攻撃ユニットの最後の一つを、ジョネットが雄叫びを上げながらたたき落とす。

煙を上げながら、アンドロイドが根に倒れ伏す。敵の抵抗が、沈黙した。

 

「私は……負けたのですか……」

ジョンが言う。だが、立ちつくすリテネラの表情は晴れない。周囲では勝ち鬨があがっているが、エイブリルは非常に嫌な予感がした。

エイブリルが地面に抑えこんでいるジョンが笑い始めた。リテネラは手にしていた武器を根に置くと、しびれているらしい右腕を振りながら歩み寄る。その目は、相変わらず厳しい。

「分かっている。 もう致死量の毒物は撒いていたな」

「くく、ご名答。 卑しい樹風情とはいえ、頭は悪くないようですね」

あの箱は保険の分だと、男は言う。降りてきた守護神様が、水面の箱をくわえあげる。水の民達は、既に負傷者の回収を始めていた。七名が戦死、十名が負傷していた。村の規模から考えると、壮絶な被害である。だが、死んだ者達は、名誉の名と共に、村で永久に語り継がれるだろう。

リテネラとジョンの会話の意味はエイブリルにはよく分からなかったが、状況が悪いと言うことだけは理解できた。リテネラはジョンの側に腰をかがめる。彼女の顔が、声が掛かるほどエイブリルに近い。今までの肌の感触や、寝顔を思い出して、エイブリルは顔が赤くなるのを感じた。

「遺言は?」

「はい?」

「せめて、雄々しく散った戦士として名を残してやる。 何もかもを否定され続けた人生だったのだろう? だから、最後に、お前を名誉で飾ってやる。 屈強な水の戦士達を相手に一歩も引かず、守護神様にも引けをとらなかった男としてな。 お前は研究者ではなく、最強の戦士だった。 この世界ではな」

「……そう、ですか。 何だか、不思議な気分ですね」

手首から流れている血は致命量だ。どのみち、もうこの男は死ぬ。死ななければならないという事情以上に、自然現象として。

リテネラの言葉の意味は、エイブリルにはやはり分からない。末代までも悪の帝王として、この男の名をかたらなければならない気がする。だが、村の掟で、敵の扱いは倒した戦士が決めることになっている。従わなければならない。

「ピラルクー、それでかまわないか?」

「ああ。 私には、それで異存がない」

「だ、そうだ。 再度問う。 遺言は?」

「……ウェルチ、貴方のことを、愛していましたよ。 貴方の純粋さにほだされて、私は何度も復讐をやめようと思った。 でも、もう自分でも止められなかったのです。 愚かな男を、許してください」

語尾は消えるようだった。その場にいる数十名が、皆男を見下ろしていた。男が静かに目を閉じる。誰が始めたかも分からない。皆、黙祷を捧げていた。

偉大なる戦士として、ジョンは、死んだ。死に顔は、どうしてか、安らかだった。

 

9,別れ

 

黙祷が終わると、水の民達と、エイブリルの村の者達が、自然と距離を置いた。一緒に戦うことで、不思議と心が通じたのは、エイブリルだけだったのかも知れない。そわそわしているうちに、事態は進行していく。

「さて、最後の仕事だ。 1180!」

リテネラが立ち上がる。倒れている女戦士を指さして、守護神様に何か言っていた。それを見てざわつく村人達。不思議と、エイブリルは驚かない。分かっていた。ジョンともまたリテネラが違うことを。

「衣服や荷物は処分しておいてくれ。 アンドロイドの処置はお前に任せる」

「ちょ、ちょっと! リテネラ、何を言っているの?」

「今まで、世話になった、エイブリル。 私の仕事は、これで終わった」

頭の中が真っ白になった。

終わったというのは、どういう事だ。何が終わったというのだ。人生はこれからだ。戦いだけが人生ではない。村の一人となって、子供を作って、未来を作っていくのが人生ではないか。

リテネラは皆を見回しながら言う。

「偉大なる戦士ジョンは、全ての根を滅ぼすのに充分な毒を既に撒いていた。 このままだと、数日以内に、この世界は滅びる」

「な、なんだとっ!」

「そんな、死んだ奴らは何のために!」

「落ち着け。 だから、私が毒を全て排除する。 時間は掛かるが、な」

リテネラは言った。この根からとれるプループやケーフィラは、今後口にしないこと。すぐにこの根から離れ、今後数年は近づかないこと。守護神様が同意するように頷く。

意味が分からない。リテネラが普通と違うことは分かっていたが、どうしてそんなことが出来る。いや、そもそも、どうしてそんなことになってしまった。

「エイブリル」

キニリールが手を引く。真剣な表情だ。見れば、水の民達も、村のみんなも、おいおい根から離れ始めている。水の民達は、リテネラに一礼してから、次々水へ飛び込んでいた。

「エイブリル!」

動けない。いや、動いてはいけなかった。ジョネットが気を利かせてか、先に根を登り始める。守護神様も、木の上の方へ這い上がっていった。その場に、リテネラと、エイブリルと、キニリールだけが残った。キニリールがすがりついてくる。

「お願い、エイブリル。 行こう」

「ごめん、先に、お願い」

「リテネラ、その……」

「二人とも、早く行け。 もう時間はないぞ」

突き放すような冷たい言葉に、エイブリルはキニリールを軽く押しのけた。ごめんと小さくつぶやく。雰囲気で分かった。キニリールの心が自分に向いていることを。だから、この場から遠ざけたかったことを。

今は、リテネラに、もう一言言いたかったのだ。二人きりで。

キニリールは涙を拭きながら、根を登っていった。

「リテネラ」

「この根は、上で世界樹という巨大な存在につながっている。 毒も本来は平気だ。 だが、此処は本体から遠すぎる。 だから、私が補助として、第二の脳として動かなければならない」

「殆ど分からないけど、根と一緒になるって事?」

「そうだ。 元々この体は死にかけていたものを、私が強引に乗っ取ったものだ。 長くは生きられないし、子も産めない。 どのみち、寿命は遠からず尽きていた」

再び突き放される。だが、それでも良かった。

「リテネラが、決めたこと、なんだよね」

「リテネラは最初は嫌がっていたが、お前に惹かれたのか、最後はこの世界を守ることに積極的だった」

「そう、すごく、嬉しいよ」

涙がこぼれてきた。リテネラは、最初出会った頃にずっと浮かべていた、あの優しい笑顔を作ってくれた。

「泣くな。 もうすぐ一人前になる戦士だろう」

「うん、ごめん」

二歩ほど歩み寄ると、リテネラは、エイブリルに抱きつき、唇を重ねてきた。静かな沈黙の後、二人は離れる。

「ありがとう。 貴方と、一緒になりたかった」

「知っていたよ。 これはリテネラからの餞別だ。 たまに、思い出してやってくれ」

「うん。 ……さようなら」

「ああ、元気でな」

笑顔を浮かべるのが辛かった。リテネラが使っていた武器を受け取ると、後は振り返らなかった。必死に、がむしゃらに登った。

登りながら、これで泣くのは最後だと、決めた。村の皆に追いつけ追い越せと根を登り、蔓を渡って別の根へ。

リテネラは世界を守ってくれる。それを邪魔してはいけない。

この世界に暮らす、人間の一人として。

歯を食いしばって、エイブリルは、根を登りあがった。

 

エイブリルが行くと、服をおもむろに脱ぎ捨てた。根には既に命令を出してある。

樹本体にある中枢人工知能だけでは、毒は分解しきれない。だがここに人工知能を増設すれば、処理速度は一気に向上、毒を分解することも可能になる。どうにか、この根だけで犠牲を抑えることも出来そうだ。

この地下空間は、無数の根によって支えられている。三本程度で済ませることが出来ればよいのだが、十本以上やられていたら、雪崩式の破滅を招いた可能性が高い。どうにかぎりぎりで間に合ったという感触である。

振り仰ぐ。リテネラはエイブリルに惹かれていた。多分、公国の街では、あんな純粋な少年はいなかったのだろう。巨大な神殿の柱のように太い根に裸足で歩み寄る。そして背中を預ける。徐々に、体が根に沈み込んでいく。やがて、完全に根の中に入った。

膨大な情報が流れ込んでくる。出生率の調整や、人間以外の生物たちの管理状況。それに、流れ込んできている毒物。即座に中和物質を大量に生成し、彼方此方の水から流し込んでいく。取り込んでしまえば排除は出来なくなるが、水に溶けている段階であれば中和して分解できる。更に、根に再生力の強化を伝えて、この事態に備える。水流も調整し、この根に毒物を集める。これで、どうにかなるはずだ。元に戻るまで、おそらく十年。多分、この体はあと二年ほどしか保たない。後は脳だけで処理を行い、最終的にはこの根に毒物を全て集めて、共に滅びるしかないだろう。

増設ユニットの宿命だ。リテネラには辛い運命だったが、彼女も最後には納得していた。およそ2000の人間と、上に暮らす10000000の人間を救うためである。それを成し遂げることが幸せになったのだ。これほど大きな幸せの形が、他にあろうか。

休んでいる暇など無い。やることは幾らでもある。

意識を最大限に覚醒させると、一気に処理を開始した。

悔いは何一つ無い。

後は、成し遂げるだけであった。

 

エピローグ、未来の形

 

キニリールに子供が出来たと聞いて、エイブリルは喜びを隠せなかった。キニリールと連れ添ってから、今年で七年。なかなか子供は出来なかったが、夢が叶ったことになる。すぐに出先で狩りを終え、人間ほどもあるブッシャートを担いで凱旋。

獲物をネットにおろすと、女達が歓声を上げ、すぐに解体するべく引きずっていった。ジェシカもそれを手伝えるようになってきている。

既に髪が白くなってしまったジョネットは、戦士としては引退。代わりにエイブリルが戦士達の中では一番と見なされるようになっていた。あの事件が、エイブリルを変えた。戦士としての力量も、度胸もついて、男としての人生が始まったのだ。気持ちの整理が着いてから、キニリールとも連れ合いになった。

子供の名前は、既に決めてある。男の子だったら、偉大なる水の戦士からピラルクー。女の子だったら、もちろんリテネラだ。

家に戻る。あのリテネラから貰った武器は、壁に家宝として飾ってある。素晴らしい切れ味で、これで倒せない獣はいない。キニリールは寝床で横になっていたが、エイブリルの帰りを知ると半身を起こす。狩りの獲物の事を聞くと、嬉しそうに微笑む。エイブリルも幸せだ。

昨日、あの思い出の根が崩れ落ちたと聞いて、リテネラは成し遂げたんだと、エイブリルは知った。世界は守られた。犠牲はいつもそれによって出る。今は彼女がくれた命を、皆で守り、未来へつなげていくだけだ。

「エイブリル!」

自分を呼ぶ声。キニリールにわびて、すぐ家を飛び出す。若い戦士が一人、早口で異変を告げていた。東の方の根に、何かおかしなものがあるのだという。見たこともない物体で、きっと危険なものにちがいないと。

すぐに若い者達を集めて、確認に向かう。大丈夫。大概の危険には対処できる。此処は神と共存し、皆が生きている村なのだ。

たとえ、その過去が、真実が、いかなるものであったとしても。

 

(終)