落ちた星の夜明け
序、モスクワの夜
ロシア人は酒好きだと思われている。実際、その通りの部分も多い。
ロシアで特に好んで飲まれる強烈なウォッカの事は、誰もが知っている。そして、その悪いイメージも。
だが、必ずしも、全てのロシア人がそうではないのだ。
星が降るような、美しい夜空の下で。だが同時に、体中を切り刻まれるような、おぞましい寒さの中で。
コートに身を包んだ影が、大通りから外れた裏道を歩いていた。暗い闇の中を一人歩く、小さな影。襲われても文句が言われないほど治安が悪化したモスクワの街の中で、それは一人孤立しているようにも思えた。
案の定、その影を狙ってわらわらと群れてくる捕食者。
体制が崩壊し、KGB崩れのマフィア達が跳梁跋扈し、中華資本が持ち込まれて国内が荒れに荒れている今のロシアでは、人命など路傍の小石ほどの価値もない。だから、弱い奴は、弱い事自体が悪いと、多くの人間が考えるようになっている。
雪が降る中、小柄な影が、足を止める。
そして、それが降り注いだ。
悲鳴を上げて逃げ散る捕食者達。彼らは、一様に訳が分からないものを見たと、顔に書いていた。
小柄な影が顔を上げる。
周囲には、痕跡が残っている。惨状は凄まじく、さながら爆撃したかのような有様であった。
「また遅くなったな」
影が呟く。そして、再び歩き出したのだった。
裏路地の左右にある煉瓦造りの家の窓が閉じた。関わり合いになりたくないというのだろう。小柄な影が殺されたら、少しでも死骸を漁って金にでもしようと思っていただろうに。
勝手な話である。だが、影にとって、それはどうでも良いことであった。
雪が降り出した。
モスクワの雪は、死に直結する危険なものだ。マイナス五十度にもなる気候で降り注ぐ雪は、肺を簡単に凍らせる。地獄から来る灰である。
だから、急ぐ。
何度か角を曲がっていく内に、路地裏の中でも更にくらい場所に。マンホールをどかして、地下下水道に入り込んだ。
下水道は、不思議と温かい。地下だから、かも知れない。
鼠が足下を駆け抜けていった。ホームレスも、モスクワでは下水道に潜り込むことが多い。恨めしそうに逃げていく鼠を見つめるホームレスの顔は、髭だらけだった。
「恵んでくれんかね」
声が掛かる。
だが、影は相手にしなかった。弱々しい呪いの声が飛んできたが、足を止めることもない。
下水道の、更に奥深くへ、ただ歩いていく。
やがて、塵だらけの一角に出た。整備がろくにされていない下水道である。塵が詰まって、用を為していない水路は幾らでもある。大量の蠅が飛び交い、鼠が御馳走に舌鼓を打つ中。影は壁に手を掛けた。
そして、その壁が吹き飛ぶ。
吹き飛んだ先には、また暗い空間が広がっていた。
「テトリス」
呟く。
そして、闇の中へ、踏み出す。幾らでも先はあるぞと、示すようにして。
1、テトリス
凍土の地に存在した、共産主義の牙城。ソビエト連邦。
既に存在しないその国は、歴史的に大きな意味を持つ存在であった。その中には、多くの負の意味が含まれていた。
かってソビエト連邦は、アメリカ合衆国に勝つために、ありとあらゆる手段を模索した。宇宙開発に力を注ぎ、強力なアメリカ海軍に対抗するために数々の戦術を編み出した。その名残の一つが、アメリカ軍が開発したイージス艦である。アメリカの艦隊に対して、ソビエト軍は対応しきれないほどのミサイルを四方八方から撃ち込むことで対抗しようとした。
それを事前に捕捉し、精密きわまりない電子的連携と射撃によってたたき落とす。イージス艦は、そう言う目的で建造されたのだ。
宇宙開発でさえ、アメリカに対する対抗意識もあって進められた。やがて技術力の地力の差が出てくるのだが、それでもどうにかしてアメリカに勝とうと、ソ連はあらゆる手を尽くしたのだ。
経済や、軍事だけではない。
その中には、無論吐き気を催すような闇の要素も含まれていた。
人間という点でも、ソビエトはアメリカに対抗すべく、様々な事を行った。その一つが、半ば公然の秘密とかしている、超能力部隊である。一時期ソビエトは、絶望的な経済力の差を覆すべく、あらゆる手を模索した。そして、最終的にオカルトに辿り着いてしまったという点で。
彼らが憎み嫌い抜いたナチスと、同じ路を通ってしまったのだった。
ヘリから降りたクレア博士は、明らかに非好意的な視線を向けているロシアの高官達を一瞥すると、護衛を促して歩き出す。洋風の名前だが、これは変人だった父によって名付けられたのだ。
白衣の上にコートを纏ったクレアは生粋のアジア人。しかも、日本人である。先祖代々の江戸っ子だ。当然髪の毛は真っ黒。白人から考えると、信じられないような童顔と小柄な体型。ただし、日本でもクレアはちびだと散々言われた。
このけったいな名前のおかげで、子供の頃は随分虐められた。もちろん、恵まれなかった背丈のことも、虐めには大いに関係した。ただ、クレアには闘争心があった。頭に来たので、必死に勉強をして日本を抜け出して、アメリカの大学に入って。其処で主席で卒業して、故郷の連中を見返してやろうと思った。
以降、元々希薄だった友人関係は全て遮断。全てを勉強に注ぎ込んだ。
自分をチビだ変な名前だと見下ろしていたアホどもを、逆に社会的地位で見下ろしてやる。そして屈辱に打ち震える連中を、鼻で笑ってやるのだ。
暗い動機だったが、勉強は楽しかった。いつの間にか、勉強をすること自体が面白くなっていたのだ。
有名な高校から声が掛かり、推薦で進学。親がそこそこ裕福だったこともあり、学費については文句を言われなかった。そのままマサチューセッツ工科大学に浪人せず進学することが出来た。
主席を取るまでには行かなかったが、マサチューセッツ工科大学で上位の成績を残して卒業して、学術的にも色々な成果を上げた。しかし、故郷の反応は、目を疑うようなものだった。
故郷の誇りだとか、昔から君の才能には注目していただとか。好き勝手なことをほざき回る周りの連中に、クレアは怒る気さえも失せ、何もかもがどうでも良くなった。家族も似たような反応であり、クレアの失望は極限に達した。結局クレアは故郷の荷物をことごとく処分し、アメリカに永住することに決めた。
日本自体が嫌いなわけではない。ただ、彼女の周辺にはカスしかいなかった。そう、クレアは思っている。
そして、今。
研究の内容が内容であるからか、今度は極寒の地であるロシアに来てしまっている。
小さくくしゃみをして、毛皮のコートをかき寄せる。マスクをした方が良いとか言われていたが、さもありなん。息を思い切り吸うと肺が凍るという地獄である。睫毛が凍るという話も、あながち嘘ではない。
後ろでロシア人達が何か言っている。筒抜けだと気付いていないらしい。
「あれで二十三? 十三の間違いじゃないのか」
「アジア人は小さいて聞いているが、本当だな」
「悪かったな。 私の身長が平均に届いていなくて」
そのままロシア人に言い返してやる。鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしたロシア人どもに、指で拳銃を作って、ばーんと言ってやる。
立ちつくしているロシア人を残して、さっさと先に。慌てた護衛が付いてきた。
「困りますよ、クレア博士。 貴方は確かに国賓待遇で来てますけれど、相手だってロシアの高官なんですから」
「知るかっ! この腑抜け茄子!」
護衛はのっぽの白人で、ナスタレーシュというどういう意味かよく分からない名前である。図体はでかいし、腕っ節も良い。特に射撃の腕前は警察をやっていた時メダルを取るほどだったそうなのだが。
どうもヘタレで弱々しくて、厳しい言葉を掛けがちになる。腑抜け茄子というのも、クレアが付けたあだ名だ。
へらへらしながら、茄子はそれでも怒らない。
「此処、本当に危ないんだから気をつけてください。 博士みたいにキュートだと、人さらいに連れて行かれちゃいますからね」
「キュートってお前なあ! 私は愛玩動物か!」
あまり日本で知られてはいないが、cuteというのは動物のかわいらしさを示す言葉であり、決して人間を褒める言葉ではない。ナチュラルに失礼な呆け茄子は、わざとせかせか急いでいるクレアに、平然と追いついてくる。
火事と喧嘩は江戸の花という。
だが、相手が怒らないのでは、喧嘩のしようがなかった。
ヘリポートを出て、ビルにはいる。もちろん屋上からだ。ロシア側の護衛も結構な数がいるが、どれもクレアではなく、茄子を護衛対象だと思っているようだった。クレアは娘か何かだと考えているのだろう。
コートを脱いで、茄子に渡す。下に着ているのはおきにの白衣である。昔からの癖で、これが一番落ち着くのだ。
「お待ちください、クレア博士」
慌てて忘我から立ち直った高官達が追いかけてくる。一瞥すると、エレベーターのドアを目前で閉めてやった。
「私の機嫌を損ねたことを、後悔するがいい!」
「そう言う所がキュートなんですよ」
「黙れ!」
臑を蹴るが、長い足にもかかわらずひょいと避ける茄子。頭に来る。慣れないハイヒールなので、自分が転び掛けたくらいである。
エレベーターは二階で止まり、空調の効いた廊下に出た。ヘリの中で既に寒かったので、温かいだけで安心できる。ただし空調機の性能はあまり良くないらしく、湿度が露骨に過多だった。
会議室にはいると、さっきのアホ高官達が追いついてきた。秘書官が書類を並べる中、クレアは最上座に堂々と座る。高官達はそれを見て、秘書官に何か言っていた。
「お飲み物は?」
「コーヒー。 ブラックで」
「かしこまりました」
それにしても、秘書官は見上げるようだ。ロシアの女性は非常に背が高いとか聞いていたが、小柄なクレアから見みると本当に大きい。プラチナブロンドの彼女は顔立ちもかなり彫りが深く、しかも胸も腰も性的魅力の塊のようだった。
何喰ったらこうなるのだろうと思っていると、茄子が余計なことを言う。
「もう、今更遅いですよ」
「やかましいわ呆け茄子! そんな事より、狙撃されたりしたらただじゃすまさないからな! しっかり見張れ!」
「ご心配なく。 今の時点で、クレア博士に危害を加えようって言う勢力は周囲にいないみたいですから」
気味が悪いことを言う護衛だ。
だが此奴は、何だかんだ言っても腕利きである。だから今回は失礼な言動を散々されても我慢しているのだ。
此処がとても危険な場所だと言うことくらい、分かっている。
軍国主義に腹まで浸かっている首相に、不満が爆発寸前の民。経済も大混乱を続けていて、いつ壊れてもおかしくない状態だ。
コーヒーは自分で砂糖とクリームをこっそりぶち込んで飲み始めた。だが信じられないほど苦く熱く入れられていたので、思わず噴き出しそうになった。そろそろ腹の虫が限界かなとか思い出した頃に、老人が一人、会議室に入ってくる。クレアは立ち上がると、枯れ木のような老人に歩み寄り、手を差し出した。
「初めまして、イワンコフ博士」
「おお、君かね。 マサチューセッツの天才は」
「私のは天賦のじゃなくて努力です。 まあ、フツーの奴よりは才能もあるかも知れませんがね」
天才に天才と呼ばれてちょっと気分が良くなったクレアは、ふんぞり返って大笑いした。そのまま後ろにすっころびそうになるが、どうにか持ちこたえる。このハイヒールというのは、どうも苦手だ。
一応化粧もしてきてはいるが、濃くしても気味が悪いだけなので、最小限である。クレアの胸を一瞥したイワンコフ博士は、美しい長身の女性に手を引かせて、さっきまでクレアがふんぞり返っていた最上座を制圧した。まあ、これくらいは別に良いだろう。
その隣に、クレアが座る。
他にも、かなりの高官が入ってくる。中には国連で活躍している人物や、国籍が違う人物も何名かいた。
普通であれば、偉そうにふんぞり返って話を聞いているような、大狸が司会進行をしている。それだけでも、この会が、そして集まっている人間達が如何に重要な存在なのか、よく分かるというものだ。
「それでは、テトリスについて、説明を始めさせていただきます」
スクリーンには、小柄な影が映し出されていた。
テトリス。それは呪われた存在である。
かって東側は、アメリカに対抗するために、無数の超能力者を育成しようとした。一般的なサイコキネシスやテレパシー、それに更に進化した所だと発火能力であるパイロキネシスや、物体の記憶を読み取るサイコメトリーなど。
様々な超能力が研究された。
一部については、実際に発動もした。世間的には失敗して成功例はなかったとされているのだが、クレアが知る限り五指以上の超能力者が、この過程で誕生している。殆どはもう生きてはいないが。そして、研究はソ連の崩壊直前くらいに完成した。
そして当然のことながら、それは国家機密の美名の下、人道的とは言い難いやり方を伴った。
「様々な研究の結果、当時の超能力研究の権威達は、こう結論づけました。 超能力は、脳によって引き起こされる、と」
その通りだ。
クレアも超能力については研究を進めたから知っている。そして、その研究の過程で、何が行われたか、もだ。
幾つかろくでもない映像を見たことがある。脳によって超能力を引き起こすという証明のために、手足どころか内臓までも切り取られ、ホルマリン漬け同然の姿にされた子供。自慢げに実験対象について語る初老の博士の顔を、今でも良く覚えている。
もっとも、超能力についての研究は、アメリカでも行っていたと聞いている。そうなると、これと大差ない悪事が行われていたことに間違いはないだろう。
淡々と実験の歴史について語った後、司会の男はにこやかな笑みを保ったまま、フードを目深に被った小柄な影の説明に移る。
「此方が、テトリス。 旧KGBが超能力部隊のプロトタイプとして受け取った、超能力兵士の一人です。 念入りに経歴が消されておりまして、年齢は愚か、性別も分からない有様です」
写真を見るのは、初めてだ。
少し前から、クレアもテトリスについては色々な話を聞くようになった。旧KGBが関与していた大型の犯罪組織を、僅か二日で皆殺しにしたという。兎に角あまりにも破壊力が凄まじ過ぎるので、絶対に交戦を避けるようにと米軍の特殊部隊に命令が下っているそうである。
少し考え込んだ後、クレアは挙手する。
「それで、他には?」
「移動経路と、被害状況をこれから説明させていただきます。 あなた方には、それでテトリスを倒すか、捕縛して欲しいのです」
「デッドオアアライブいうには、ちょっと情報が少ないね。 狙撃銃でパンって頭を一発、出来ないの?」
出来ないと、司会は言う。
既に試しているそうなのだが、テトリスはかなり特殊な超能力者だ。旧KGBでも、能力は不明などと書き残しているという。
分かっているのは。
「奴は何かを操作していると言うことだけです。 見てください」
映像の中で、後頭部を向けて歩いているテトリス。狙撃。
だが、ライフルの弾は、何もない虚空で弾かれていた。それも、鉄板にぶつかったかのような弾かれ方である。
「凄い角度だね。 呆け茄子、後で資料もらっといて」
「はいはい、了解しました」
呆け茄子が肩をすくめる。
そのほかにも、色々と映像を見せて貰った。
「ふうん……」
興味深い。
テトリスが攻撃をしている映像が幾つかある。血をしぶいて人間が倒れているのだが、どうも「何かを操作している」感触がないのだ。これは或いは、事前にどうなるか、分かっているのかも知れない。
一度などは、まだ生きている敵に背中を向けて、歩き出したりしている。
そして敵が銃口をテトリスに向けた途端。頭が半ば吹き飛ぶようにして、死ぬのだった。
今の映像は、ちょっと気になった。後でしっかり分析しようと思いながら、クレアはもう一度挙手した。
「声は拾えてるかな?」
「僅かながら、ですが」
スピーカーが拾っているテトリスの声は、意図的に低く抑えられているように思えた。多分男の子だろうと思うが、女の子でも不思議ではない。
声は低く沈んでいて、命乞いをする相手に容赦しないことを宣言していた。その後、何かが潰れる音。
何が起こったのかは、全く見えなかったにも関わらず、一目瞭然だ。
「ふうん、なるほど、ね」
「どうにかなりそうですか」
「やってみないと分からないけどな」
様々なことがあって、クレアはこの手の事象の専門家、と認識されている。あながち間違ってはいないから、別に構わない。にやにや見ている呆け茄子を一瞥する。相変わらず、何を考えているかよく分からない奴である。
活発な議論が、周囲で交わされている。
資料を見る限り、テトリスは今のところ、かって自分に関わった人間を片っ端から消しているように思える。大規模なテロを実施しているわけではないのだが、確実に、痕跡を残さずに消していくのだ。
大規模な殺しを行う場合は、必要だと判断した時のみ。
しかも、関係者だけを消していて、不要な殺しに手を染めてはいない。
意外と、自分なりの美学を持っているのかも知れなかった。
此処で問題になるのは、美学があるから人を殺して良いとか、そう言うことではない。美学があると言うことは、何かしらの精神的な芯があり、それにつけ込むことが出来るという事である。
強靱な精神は、大体の場合強い支柱によって支えられている。そう言う意味では、建物に近い。
つまり、支柱をへし折ってしまえば。
意外にあっさり、壊すことが出来るものなのだ。最小限の労力で、である。
ビルの爆破も、ビル全体を粉々にするのではない。支柱を破壊することによって、自壊させるのだ。
それに近い作業だとも言えた。
「一旦研究室に引き上げる。 四階だったっけ」
「ご案内いたします」
「資料も持ってきてくれる? 自分で吟味したいからさ」
一瞬躊躇した秘書官だが、高官が忌々しげに頷いたので、言葉に従ってくれた。
会議室を出る。クレアが抜けたことで、議論も一時沈静化した様子だった。中には、テトリスを捕らえた時の権利関係について話している奴もいて、失笑ものである。あの映像を見て、簡単に捕らえられると、本気で思ったのか。狸の皮算用にも程がありすぎる。
この建物は高級ホテルに偽装しているが、旧KGBの所有物であることは、事前に調べが付いている。連中にとっての客をもてなす一方、地下では拷問や暗殺も行われてきた闇の施設だ。
どんな仕掛けがあるか知れたものではない。多少は歩く時緊張するが、呆け茄子は平然としていた。
「怖がらなくても大丈夫ですよ。 今は何もありませんから」
「じゃかあしい!」
やっぱり心を見透かされている気がして、気分が悪い。
豪奢な、踊り場で曲を描いている上り階段を上がって、四階に。下を見ると、さながらダンスホールのようだ。冗談のように豪勢なシャンデリアが飾られていて、きらきらと空虚な光が満ちている。
客は殆どいないが、それでも照明を入れているのは。国家的来賓を、多く迎える日だからなのだろう。
部屋はロイヤルスイートだった。少なくとも、帝国ホテルのロイヤルスイート並の豪勢さである。
豪華なマンションを思わせる無意味な広さに、用意されている馬鹿馬鹿しいほどの調度類。経済的に悲惨なことになっているのに、まだこんなものを維持する金が残っているのだと思うと、呆れてしまう。
とりあえず、ベットの上でぽんぽん跳ねてみる。やっぱり相当に柔らかい。さぞや気持ちよく眠ることが出来そうだった。
寝室も一つだけではなく、奥にもう一つ。つまり入り口は護衛である呆け茄子用というわけだ。まあ、これくらいはボディガードの役得というものだろう。実際此奴は、それだけの待遇を受けるだけの仕事を、いつもしているのだ。
居間に荷物を置くと、秘書官は下がった。
クレアは膨大な資料を並べながら、愛用のノートPCを取り出し、電源を入れる。充電器をコンセントにさしている間にOSが起動。今回はスタンドアロンにして、ネットワークとはつながない。
部屋に入ってから、急に口数が減ったのは、もちろん理由があってのことだ。
作業をするクレアの後ろで、さかさか動き回っていた呆け茄子が、手に山盛りに見せてくれたのは、盗聴器である。声を出さずに、口だけを動かす。唇を読む。
「この様子だと、天井裏や床下にも、高精度の集音マイクがたくさんありますよ。 カメラの類は沈黙させましたが」
「そうか。 こっちもうっかりネットワークになんかつなごうとしてたら、あっという間にハッキングされただろうな。 手癖の悪い連中だよ」
元の組織が組織だから、モラルもひったくれもありはしない。
以降は、更に口数が減った。これで相手も、監視カメラの類を全て沈黙させられた上に、盗聴器にも気付かれたと判断しただろう。
今の時点では、それで充分。
無言でクレアは、情報を整理し続けた。
三時間ほどで一段落したので、一旦クレアは呆け茄子と一緒に二階の会議室まで降りてみた。
呆れたことに、酒が出始めていた。赤ら顔のおっさん達が、楽しそうに色々と会話をしている。高級キャビアを盛った料理が、所狭しと並べられている。立食スタイルで、豪勢なことである。
それだけ、この仕事を依頼してきたクライアントが、金を掛けていると言うことだ。余程テトリスを恐れているのだろう。
素性については、事前に調べてある。KGBの元高官で、どうもテトリスを引き取った連中の一人であるらしい。つまりそのままだと殺される可能性が高く、なりふり構っていられないと言うことだ。
今までも裏では散々色々な手を試したのだろう。ヒットマンを雇ったり、犯罪組織をけしかけたり。
それらがことごとく返り討ちにされて、ついに業界の権威を、金に糸目を付けずに集めたというわけだ。クレアもそうして呼ばれたのは光栄だが、しかし殺されて当然のゲスを守るために命を賭けるというのも、何処かで馬鹿馬鹿しかった。
高官がご機嫌で歩み寄ってきた。手にはウォッカの大瓶がある。
「プロフェッサークレア、如何ですか」
「ウォッカは苦手。 ワインは」
「用意させましょう」
秘書官がすぐにフランスのブルゴーニュワインを持ってきた。気が効くことである。
何度か口にしてみたが、確かに芳醇濃厚で、非常に味わいのあるワインだ。一口含んでみるが、兎に角味わいが深い。安物のワインだと薬っぽかったり味がくどかったりするのだが、そんな事もなく、するりと喉を滑り落ちた。
世界的な権威と言っても、実際に口にしてみると微妙という例は幾らでもある。だが、このワインに関しては、確かに最高峰と言われるだけのことはある。
「これは素晴らしい」
「でしょう。 我々としても自慢の一品……」
爆発音。
これは、ひょっとしたら来たかも知れない。周囲のSP達がさっと顔を引き締め、此処に来ている連中も慌て始める中。呆け茄子を連れて、クレアは会議室を飛び出した。爆発音に続いて、銃声まで響き始める。
「情報が早いなあ。 判断も間違ってない」
「この国のセキュリティはどうなってるんですか」
「筒抜けだってことだ。 モラルなんかないんだから、当然だよな」
此処にいる警備員が、情報を売ったのだろう。この国のモラル低下は目を覆うばかりの有様だが、国家公務員や、それに準ずる人間も例外ではない、と言うことだ。あの盗聴器の情報も、横流しされているかも知れない。PCは頑丈なジェラルミンケースに入れて呆け茄子に持たせているが、やはりしばらくはスタンドアロンで動かした方が良さそうだ。
下の方で悲鳴。
呆け茄子がデザートイーグルを抜く。かなり大きな銃で、弾丸が当たれば小柄な人間なら一発で行動不能に出来る。もちろん着弾地点によっては即死だ。階段を悠々と上がってくるのは、小柄な影。全身を雨合羽のようなフードで隠しており、人相も伺えない。体型も、男女か、或いは大人なのか子供なのかさえも判断できない。ぶらりとぶら下げた両手。そして、フードには返り血が飛んでいた。
間違いない。
テトリスだった。
2、小手調べと撹拌
前に出ようとする呆け茄子を片手で制すると、クレアは一歩進み出る。テトリスは無反応である。
「お前が、テトリスだな」
既に、クレアは相手を観察し始めている。僅かに見えている肌からすると、白色人種である。ただし肌の状態は世辞にも良いとは言えず、ろくなものを食べていないだろう事は遠目からも分かった。
激しい音がして、二人の間の床が砕け散る。
にやりと、クレアが笑う。そして、長くなってきていてちょっと煩わしい髪を掻き上げた。あんまり格好良くは決まらなかったが。
「私を殺そうとしたな、アホたれ。 でも、そんな事は、やらせない」
「……お前、何者だ」
「クレア博士と言ったら分かるかな」
「噂に聞くジェノサイドゼリーか」
テトリスは、初めて声に感情を見せた。顔の動きから、視線を判断。
なるほど、そう言うことか。
少しずつ、テトリスの事が分かってくる。此奴はかなり面白い相手だ。捕縛したとしても、旧KGBどもに渡してしまうのはもったいない。米軍に特殊部隊の派遣を今から要請していた方が良さそうだった。
通路は前後に長く、テトリスの背後には階段。
それに対してクレアの左右に遮蔽物は何一つ無い。射撃戦であれば、格好の的となる状況だ。
再び、テトリスが動く。ほんの僅かだけ、身じろぎする。
だが、結果は同じ。
激しく壁が損傷し、内部の鉄骨が露出した。錆が浮いているのを見て、クレアは眉をひそめる。
典型的な欠陥だ。このクラスの高級ホテルで、このような欠陥工事が行われているとは。怒るを通り越して呆れてしまう。しかも此処は元国家施設だ。元々の施設を流用しているとなると、なおさら唖然としてしまう。
今度は先にクレアが仕掛ける。指を鳴らすと同時に、テトリスが巨大なはえたたきで押しつぶされたかのように地面に叩きつけられる。空中で鈍い音がして、床に縦横に走った罅の中、テトリスが立ち上がる。此方を一瞥する目。灰色をしていた。
激しく床にたたきつけられたにもかかわらず、それほどダメージを受けているようにも見えない。身を翻すと、テトリスが撤退に掛かる。背中を撃とうとする呆け茄子を制止。
「止めとけ、弾の無駄だ。 それに、今日はこれだけでいい」
「へえ。 甘いこってすね」
「違う。 戦略的な判断があっての……」
前に進み出ようとしたクレアは、床の罅にヒールを引っかけ、思いっきり前のめりに転んでいた。
顔面から床に激突したクレアは、強か鼻の頭を打ち、しばし丸まって悶絶する。起き上がった後、無言でハイヒールを捨てて、放り投げた。壁にぶつかって跳ね返るハイヒールが、雨を予告するかのように横倒しになって転がった。
「ええい、こんなんで歩けるか! スリッパ! スリッパもってこい! ホテルなんだからスリッパあるだろ!」
「えー?」
「良いから早くしろこのおたんこ茄子! 給料半分にするぞ!」
「我が儘なお姫様だなあ。 全く」
ぶつぶつ呟きながら、もこもこのついたスリッパを持ってきてくれる茄子。意外にも兎さんをあしらった可愛らしいスリッパである。何処にあったのか疑問だが、まあこれでいいだろう。ウェットティッシュで顔を拭き拭きする。汚れがもの凄く付いていて、うんざりした。
ようやく此処で、わらわらと会議室に群れていた狒々どもが降りてきた。国連の高官が最初に来たが、旧KGBの連中は一番最後である。
「プロフェッサー・クレア、何がありましたか」
「見ての通り、テトリスが来た。 様子見だったから、軽くじゃれただけだ」
「この有様で、軽くじゃれた、ですか」
辺りは凄まじい有様である。重火器でも撃ち合ったかのようだ。
クレアの知り合いでもある国連の高官は苦笑したが、まあこれくらいはいつものことである。
筋金入りの変人として、クレアは知られている。別にこれくらいは珍しいことでもない。
髪の毛を掻き上げると、やっぱりあんまり決まらない。白衣の埃を落としながら、クレアはちょっと照れ隠しに、激しい言葉を使った。
「幾つか分かったことがある。 おい、そこの狸! 旧KGBで拷問と謀殺が得意だったお前だ! 今回の黒幕はお前なんだろ、ニコラエフ=ジュクリアス!」
写真を見てデータを把握しておいた男を指さす。流石に真っ青になる男に、つかつかと歩み寄ろうとして、クレアは失敗した。なにしろ兎さんスリッパなので、ぴこぴこと鳴ってしまうのである。
しかも、腰に手を当てて側で見上げると、まるで巨人のような巨体だ。呆け茄子と比べても、少し大きいのではないのか。
「盗聴器のない部屋用意しろ。 今、テトリスと交戦して、色々分かった。 それをちょっと気合い入れて分析したい」
「あ、貴方の部屋には、最初から盗聴器などありません」
「ふざけんな! じゃ、これは何だよ!」
投げつけてやるのは、さっき山ほど見つけた盗聴器の山だ。ぴこぴこ音を立てながら盗聴器を踏みにじる。
「ざっと探しただけでこれだ! 床下にも天井裏にも集音マイク仕掛けてただろ! その上ネットワークにはワームがうようよ! スタンドアロンじゃなきゃ、危なくてPCだってつかえやしない! こんな環境で、まともに考え事なんか出来るか!」
「き、気性の荒いお嬢さんだ。 しかし世の中のルールをわきまえた方がいいのではないのかな」
「ふーん、そーゆーことを言うか。 じゃ、帰ろうかな。 呆け茄子、準備しろ! 帰るぞ!」
別にクレアにしてみれば、テトリスと「こんな奴を守るために」命がけで戦う理由なぞない。本来ロシアに来たのはテトリスと戦うためだが、此奴の徴募に応じたのは報酬に釣られただけであり、しかも別にその程度の金なんか惜しくもない。まだ若いが、色々と副業があるため、金なら唸るほどあるのだ。ついでにいうと、ロシアでのコネなんぞ別に惜しくもない。
とどめに、此処でクレアが帰れば、ニコラエフはほぼ死が確定だ。
口の端をつり上げながら、引きつるニコラエフ。黒スーツにサングラスの部下が怒りで蒼白になる彼をどうにか宥め、そしてクレアにあたまを下げる。
「プロフェッサー、ご無礼をいたしました。 それではVIP用に用意しました部屋に移っていただきますが、よろしいでしょうか」
「今度盗聴器があったら、帰るからな。 集音マイクや隠しカメラもだ。 私のPCに悪戯しようとしても帰る」
「ご安心を。 各国の王室を迎えることを前提とした部屋でございます。 もしもそのようなものがありましたら、帰っていただいて結構ですので」
流ちょうな英語で喋るそいつを一瞥すると、鼻を鳴らす。
「お前、結構できるな。 そんな古狸じゃなくて、私の部下にならないか?」
男は薄く笑っただけだった。
案内された部屋は、さっきとあんまり変わらないように見えた。早速呆け茄子が調べて回るが、確かに盗聴器の類は見あたらない。盗聴器を探知する道具まで使っていたが、一つも見つからなかった。
「ふうん、なるほど。 どうも本当みたいですよ」
「連中も国内が荒れてる状態だからな。 VIP相手に国際的な信用まで無くしたくはないんだろ。 ま、私にはどーでもいいことだがな! 酔い覚ましになんかくれ。 オレンジジュースは? あ、アレが飲みたい!」
「この国にはないでしょう、ラムネなんて」
「探してこい」
無茶苦茶を言うと、クレアはPCを立ち上げる。
侵入対策に使っているOSはLinuxである。単純な構造の分堅牢なLinuxは、クレアのお気に入りだ。こう言う所ではもっとも信頼できる。
GUIを立ち上げて、さっとデータを撃ち込む。
さっき、テトリスは威力偵察のつもりで此処に来たのだろう。だが、奴は随分色々なデータを落としていった。
これから叩きつぶすには、これらのデータが大きな武器になってくる。
「茄子、ラムネはいいから、さっきの男について調べろ」
「ああ、あいつですか。 やけに気が効く」
「多分あれがニコラエフの黒幕だ。 油断だけはするなよ」
茄子が表情を引き締める。
ネットには繋がないまま、クレアはデータを整理し続けた。
夜。
部屋を出たクレアは、茄子を伴って地下に降りる。KEEPOUT(わざわざ英語だった)の張り紙が何カ所かにしてあったが、クレアの顔を見ると調査していた連中も黙って通してくれた。
イワンコフ博士がいた。腰が曲がった老博士は、曲がった鼻で嗅ぎ回るようにして、辺りを徘徊していた。クレアに気付くと、何度か頷く。孫を見る祖父のような顔をしていた。
「おう、クレア博士か」
「何か手がかりは見つかりましたか?」
茄子や狒々どもに向けているのとは、まるで別の表情で、クレアは応じる。
クレアは老人に対して、務めて優しくするようにしている。色々昔にあったからである。子供も嫌いではない。
「お前さんとテトリスが戦った辺りを除くと、痕跡の一つも残っておらんな。 侵入経路は、多分其処のボイラー室だろうが」
言われたまま入ってみる。
かなり大きなボイラー室は、防爆構造になっていて、いざというときは崩壊することで爆発の威力を殺す仕組みだ。ざっと見回すが、堅牢な天井と壁に傷はなく、代わりに床に大穴が開いている。
下からは酷い匂いがした。多分下水道とつながっているのだろう。
「追撃を出すには、連中も手が足りんようでな。 守りを固めるので精一杯のようじゃて」
「テトリスもどうしてまた、国外に出ないんでしょうね」
「分からんな。 愛国心が強いのか、革命でも起こしたいのか」
よたよたと歩いているイワンコフ博士の杖になるようにして、一緒に行く。
戦闘が行われた辺りまでの壁には、転々と血の跡があった。先にテトリスと戦った兵隊達の運命は明らかであった。
戦闘が行われた地点の検分は、既に済ませた。だから、もう別に見るものはない。
イワンコフ博士が嗅ぎ回るのに任せていた。
「それにしてもお前さんのその能力、いつ使えるようになった」
「ごく最近ですよ。 大学の研究室時代には使えるようになってましたが、それでも五年て所です」
ちなみに、クレアを調べた科学者達は、そろって素質ゼロと言い放った。
頭に来たので、努力で身につけたのだ。
いわゆる、超能力を。
「そういえば、日本人としては珍しく飛び級でマサチューセッツ工科大学に入ったとか聞いているが」
「へへ、褒めてくれると光栄です」
茄子がまるで怪物でも見るかのように、照れ笑いをするクレアを見つめていた。
会議をするとか、例の黒服が言い出したので、博士を伴って立食パーティをした部屋に。この間の面子はあらかた揃っていたが、警備兵が若干減っている様子だ。多分、見栄を張っている様子もないのだろう。
外様どころか、場合によっては商売敵であるクレアにまで助けを求めるほどの状況である。この組織が、テトリスにどれだけの被害を出しているかは、一目瞭然であった。
監視カメラに写っていた映像が、皆に公開される。クレアがテトリスと戦っているシーンもあった。
「これだけで、皆様にはテトリスが如何に大きな脅威かおわかりかと思います。 一刻も早く打ち倒すために、皆様のお知恵を拝借いたしたく」
「そもそも、クレア博士。 貴方はジェノサイドゼリーと呼ばれていると聞くが、どうやってあのテトリスの不可視攻撃をはね除けたのだ」
「企業秘密」
即答。一刀両断。
ニコラエフが蒼白になり、ぎりぎりと歯を噛むが、無視。
此奴はいずれ敵になる可能性も低くない相手だ。能力だの何だのの骨子を、ぺらぺら喋るのは危険すぎる。
だが、このままでは話が進まない。だから、ある程度情報を公開する必要がある。
「私の能力はともかくとして、テトリスの奴は何かをとばしてる」
「とばして、いる? ですか」
「そしてとばした先のものを削り取ってる。 これに関しては、ほぼ間違いない所だ」
他にも幾つか分かったことがあるが、此処では敢えて言わない。
銃弾や他の攻撃を弾いているのも、その何かの仕業だ。クレアが押しつぶした感触によると、どうもブロックのような、かくかくした形状をした存在である。それが、相当な速さで襲いかかってきていた。
展開する速度もかなりのものだ。ただし、見たところ、一つ弱点がある。
そして、その弱点についても、大体見当が付いていた。
「で、これからどうする?」
不意に発言したのは、中国から来た劉という男だ。いわゆるアジア系とは外見が随分違い、雰囲気はむしろ中東系に近い。混血なのかも知れない。
筋骨隆々としていて、豊富な髭を蓄えており、毛も縮れている。着ているのも、ダークグレーのオーダースーツだ。
「我らとしては、先ほどの映像さえ見ることが出来れば充分だ。 独自の行動をさせて貰いたいのだが」
「それなら、此方も好きに動きたいな」
もう一人、発言したのは。カンボジアから来た、チェチェイという男だ。
此方は小柄だが、目に宿った光が異常である。クレアも下手な力を手に入れてからやばい業界の人間は見るようになったが、典型的なそれだ。多分人殺しに快感を覚えるタイプの人間だろう。
他にも様々な国籍の人間が呼ばれている。
ニコラエフは、資金はそれなりに豊富に持っている様子だ。だがしかし、その一方で人員はテトリスに片っ端から削り取られたらしく、駒が殆ど無いのが見て取れる。部下ではなく、協力者として此処にいるクレアのような人間もいる。
此処には、まとめ役が存在していないのだ。
「では、報酬は一番最初に奴を仕留めた人間に、と言うことで」
「やむをえん。 だが、ある程度の人数は此処に残ってくれ。 必ず此処に奴はまた現れるだろうからな」
「……」
鼻で笑うと、劉は如何にもカタギではない部下達を連れて、会議室を出て行った。クレアの見たところ、どれもが歴戦の傭兵ばかりだ。チェチェイもそれに続く。奴は単独だが、多分生粋のテロリストと見た。一人の方が、むしろ戦いやすいのだろう。もしくは、部下を此処に連れてきていないのかも知れない。
イギリスから来たらしい民間軍事会社の面々は、作戦会議をすると言って、会議室を出て行く。
クレアは欠伸を一つした。青ざめているニコラエフは、此方を見もしなかった。
「クレア博士?」
「一旦自室に戻るぞ」
「はあ。 良いんですか?」
「あいつらじゃ勝てん。 動き回るよりも、むしろ待つ方が効率がいいんだよ」
しばらくぶらぶらさせていた足で、今度は歩くために床を踏む。スリッパのおかげで、ぴこぴこと音がした。
クレアの見たところ、連中はかなりの手練れで、殺しのプロだ。だがテトリスは更に修羅場を潜った経験で上を行っている。しかもばらばらに掛かって、それぞれ返り討ちにされるだろう。
そして、此方の戦力が減ったと見たところで、またここに来る。
ニコラエフの側に控えていた黒服は、じっと身じろぎせず、皆の動きを見つめていた。その中で、ぽつんと孤立するように黙り込んでいるイワンコフ博士が、不意に口を開く。
「今出て行った連中を呼び戻した方が良いぞ」
「話を聞くような連中に見えますかな、イワンコフ博士」
「ならば死ぬだけだ。 お前さんとしても、戦力を削られるのは本意ではないのだろう」
「そう言われてもね。 まあ、仕方がないか」
ニコラエフが、追加の兵員を手配するように、黒服に囁いているのが見えた。クレアは結構耳が良い。
それにしても、どうしてテトリスはこんな狒々爺に躍起になっているのか。
それが分からない内は、まだ危険が大きい。勝てる自信はあるが、生きたまま捕らえるのは難しいかも知れない。
「呆け茄子、早めに特殊部隊の手配しとけ」
「はいはい。 それで、勝ち目はあるんですか?」
「……そうだな。 生かして捕らえられるかという点で言えば、今の時点で五分五分だな」
目の前をごきぶりが通り過ぎたので、小さく悲鳴を上げて呆け茄子に登る。
クレアの手で視界を防がれた茄子は、呆れたように薄笑いを浮かべていた。
3、パズルのイメージ
下水道を、ひたすら歩く。にもかかわらず、距離は開かない。
的確に、追っ手が着いてきている事を、テトリスは悟っていた。
多分テトリスの熱の痕跡を追尾してきている。かなりの装備を投入した部隊だ。旧KGBの連中が雇った猟犬とは根本的にものが違う。多分話を聞きつけて、何処かの政府が直接送り込んできた捕獲屋だろう。
今でも、超能力者の需要は多い。
兵士としても、実験材料としても、だ。
今、雑念を抱くのは自殺行為だ。無言でただ敵の位置把握と、距離の確保を急ぐ。時々流れている汚水を渡ったが、敵の追跡は相変わらず精確だった。
二キロほど、ニコラエフのビルから離れた頃だろうか。
声がした。話がしたいと、ロシア語で言ってきている。
この辺りはテトリスにとってホームグラウンドだ。不意打ちを受ける可能性はない。パイプの何処がどう詰まっていて、どうすれば汚水が溢れてくるか、全て把握している。
油断するわけではない。相手の出方を見る意味でも、話を聞く事自体は無駄ではなかった。
足を止めて、影に隠れる。
程なく。五つほどの足音が近付いてきた。
姿を見せているのは、大柄な中東系の人間。だがどうも見た所、アジア系の血も混じっているように見える。
口元に蓄えた髭と、浅黒い肌。それに何より、残忍そうな光を放つ目が特徴的だった。テトリスと同じく、ろくな人生を送ってきていない手合いだ。
だが、頭はそれなりに良いようである。ジェノサイドゼリー同様、多少訛りはあるが、綺麗なロシア語で喋り始める。
「初めまして、旧ソ連が造り出した傑作超能力者、テトリス。 私は劉光安。 中国政府から派遣されたエージェントです」
「それで?」
「貴方、私の国、中国に来ませんか?」
ずばり、いきなり核心に入ってくる。此方の姿が見えないにもかかわらず、余程潤沢な資金を用意でもしてきているのか、劉は自信満々である。
「今、世界でもっとも登り調子の我が国に来れば、君は夢のような待遇で生活することが出来ますよ。 いにしえのハレムのごとく女を侍らせることも、世界中の美食を食べ尽くすことも、思いのままだ」
「興味がない」
「このような崩壊しかけている極寒の国にいて、何になるのです。 温かい南国に別荘も用意しましょう。 何、金なら幾らでも用意して上げますよ。 人民元が嫌なら、アメリカドルでも、日本円でもね」
話している間に、劉の部下達は散って、的確に狙撃の準備を整えている。単に保険のつもりもあるのだろうが、もちろん交渉を拒否したら撃つ気なのだろう。
狙撃なら、テトリスを仕留められると思っているのか。いや、思っていないだろう。そうなると、恐らくは。
「去れ。 交渉する気はない」
「それならば、力づくで来て貰うことになりますが」
「戦うつもりだと言うことか」
返事はない。
劉という男、随分自信満々に立ちつくしている。既にテトリスの攻撃範囲内だと言うことは、理解した上で、だ。
つまり罠と言うことか、或いは何かしらの狂信に基づいている。そして腕利きのエージェントとして此処に来ている以上、後者と言うことはないだろう。
頭がおかしい手合いは幾らでも見てきた。自分自身がそうだし、何よりも育ての親である博士だってそうだったのだから。この劉と言う男も、十中八九間違いなくその手合いの一人だ。
しかし、頭がおかしいことと、頭が悪いことは一致しない。さっき交戦したジェノサイドゼリーなどは、頭が良くて頭がおかしい手合いである。そう言った連中を見分けることも、テトリスは出来る。
劉は、間違いなく、頭がよい方の異常者であった。
飛び退く。
閃光弾が、周囲で炸裂した。
なるほど、こういう事か。何処から飛んできたか全く分からなかった。位置的に、恐らく伏せている狙撃手達ではないだろう。すぐ左手にある排水管に身を躍らせる。其処は多少水があるが、通る事自体は可能な場所だ。
走る。
この辺りは、目を閉じていても走れる。後ろから着いてくる。だが、次の瞬間。
とっさに前に力を展開しなければ、衝撃で叩きつけられて、意識を失う所だった。
「捕らえろ」
劉の声がする。
振り返ると、テトリスはイメージする。
博士の声を。
「良いか、ヨシュア。 この形を、出来るだけ早く組み立てて、箱の中に納めてみなさい」
優しい声。
渡されるのは、L字だったり、十字だったり、長い棒だったり、四角だったり、或いは折れ曲がった棒のようだったり。
それを順番に渡されて、箱の中に入れていく。
次に何を渡されるかは見えている。納めるべき方向も定められている。
何よりも、制限時間も、だ。
これは知能を計るゲーム。上手に出来ない奴は、次々と施設から連れ出されていった。今になって思えば、消されてしまったのだろう。
でも、それはそうとして。幼い頃のテトリスは、この遊びが大好きだった。
だからいつの間にか、稲妻のような速度で出来るようになっていた。
頭の中で、ブロックをくみ上げる。ブロックのイメージは、適当な順番で。一区切りとして、横一線が揃えばいい。
そうすることで、己の中に、力が沸き上がるイメージを造り出すことが出来る。
迫ってくる足音。テトリスは目を閉じたまま、相手に向けて手を突き出す。
悲鳴。
一つ、二つ。頭を纏めて削り取る。
大量の鮮血が噴き出す中、明らかに敵がひるむのが分かった。もう一つ。更に一つ、次々に刈り取った。
「ふん、使えない兵隊どもだな」
劉の声。
地金が出たのか、中国語だ。そして何より、声に動揺が含まれている。
後ろから殺気。手を向けて、防御の力場を造り出す。攻撃の力場の応用で、とばすだけだが。
衝撃波。吹き飛ばされ、地面に叩きつけらる。
なりふり構わず、手榴弾を使ってきたか。真っ暗な下水管の中が一瞬閃光に満たされ、床を転がりながら、テトリスは呻く。
やはり間違いない。奴も超能力者だ。
ニコラエフの豚が、恐らく呼び寄せたのだろう。跳ね起きると、走る。もう大体手は分かった。
飛び出し、目を開ける。至近。
劉がナイフを抜くのと、ブロックをくみ上げるイメージは同時。
だが、劉の体は浅く傷ついただけ。下水の高い天井が、抉れて吹き飛んだ。
「無駄だ! 手品の種は割れている!」
「それならば、これはどうだ」
ブロックを頭の中で高速でくみ上げて、わざと端だけ開ける。
劉が集中しているのが分かる。
此奴の能力は、間違いなくテレポート。しかも物質を転送するタイプだ。閃光弾も手榴弾も、そしてテトリスの攻撃を防いだのも、それの応用だろう。
イメージの中で浮かんでくるブロックは、基本的に定まらない。自分にとって、都合の良いブロックは来ない。そういう風に、自分で訓練したからだ。そうすることによって、初めて強力な超能力を、更に強大に仕上げることが出来た。
「死ね!」
劉がナイフを突きだしてくる。相当に訓練しているらしく、稲妻のような突きだ。
その手の上で、力場どうしがぶつかり合う。ナイフが掠めた瞬間、劉の上半身は、消えて無くなっていた。
数歩進み、勢い余って下半身だけが下水に墜ちた。
血の匂いが漂い始める。
「奥の手だ。 リスクが高いから、何度も使えないがな」
テトリスは吐き捨てると、ナイフに毒が塗られていたことに気付く。一度戻って、闇医者の知り合いに掛かる必要があるだろう。
他の敵チームは、まだいない。
追撃は、一旦断ちきった。
テトリスとの交戦後。およそ七時間ほどして、チェツェイが戻ってきた。イギリスの民間軍事会社の傭兵達は、街に散ったきりである。クレアは最初から期待していなかったが、やはり手ぶらだった。
と思ったのだが。
部屋に訪ねてきたチェツェイは、劉の履いていた靴を、机上に置いた。にこにことしながらも、茄子はその一挙一動を油断無く見張っている。
「劉、やられた。 下半身だけが下水に残ってた」
「まあ、そうだろうな。 気配から言って、彼奴も手練れの超能力者だったんだろうが」
「意見を聞きたい。 上半身のない死体の写真だ」
「レディに何見せるんだよ」
呆れてぼやくが、チェツェイは反応しない。髪を掻き上げるが、やっぱり上手には決まらなくて、ばらけた髪が目に掛かって却って邪魔になった。
死体の状況を検分する。チェチェイはかなり細かいことまで正確に覚えていたので、状況を頭の中で構築するのが簡単だった。一通り状況を纏めて、結論する。
やはり、予想通りだ。だが問題は、クレアが見た攻撃よりも、効果範囲が相当に大きいと言うことである。吹き飛んだと言うよりも、上半身そのものが、綺麗に消えて無くなっている。
「周囲の交戦状況は」
「脇にある下水道の中に誘い込まれて、劉の手先は全滅してた。 閃光弾と、手榴弾を使った形跡が」
「なるほど。 流石に手練れだな。 簡単には勝たせなかったが」
恐らく、クレアの見たところ、手傷も負わせているはずだ。これは多分切り札の発動である。其処まで追い込んだのだろう。
頭のおかしい奴だったが、数少ない超能力者だったことに間違いはない。残念な話である。まあ、戦わずに済んだのは良いことだ。
「お前なら、勝てるか」
「現状の戦力分析をする限りは、五分かな」
嘘である。実際には八割強という所だ。
ただし、これだけ連戦を重ねて、戦闘経験値を積み上げている相手である。面倒な切り札を二枚や三枚有していてもおかしくない。実際、切り札の一つは結構面倒な技だと言うことがよく分かった。
「そうか。 お前が嘘をついていることはよく分かった。 お前の実力なら、まず間違いなく勝てる。 違うか」
「ノーコメント」
無言でチェチェイが立ち上がると、部下達と一緒に出て行った。
さて、今の会話だけで、何を掴んだのかちょっと興味がある。或いは何か秘策でもあるのか。
茄子の携帯が鳴った。多分、用件はあれだろう。
「増援の承認が出ました。 恐らく明日以降に、民間軍事会社から手練れが十人来ます」
「一個分隊か。 装備は」
「対テロリスト用のものを一式。 相当な重装備を揃えてきます」
「別に重装備でなくてもいいんだがな。 まあいい」
ベルを鳴らして、黒服を呼ぶ。
仏頂面の黒服に、ちょっと格好を付けながら、クレアは言った。
「コーヒーくれ。 もちろんブラックだぞ」
「分かりました。 直ちに手配させます」
実は、砂糖は後でこっそり鞄の中に入っているのを入れるのである。ついでにミルクもだ。
「見栄張っちゃって。 ブラックコーヒーなんて飲めないのに」
「じゃかあしい!」
「彼奴、鼻で笑ってましたよ。 バレバレですって」
「何っ! そうなのか!」
それはちょっとショックだ。
そういえばどうしてチェチェイにあっさり嘘がばれたのかも、気になる所だ。ポーカーフェイスにするようには気をつけているのだが。
コーヒーが来た。
もの凄く苦くて、やっぱりそのままでは飲めそうになかった。
翌日、イギリスの民間軍事会社の連中が戻ってきた。ダーティな手まで駆使して彼方此方から情報を漁ったようなのだが、成果無しらしい。ニコラエフの方からも情報を提供していたと言うから、これは彼らの能力不足というよりも、テトリスの潜伏が上手だと言うことだ。
とりあえず、ニコラエフが潜んでいるこのビルで待ち伏せるという方針にしたらしい彼らと入れ替わりに、カンボジアの連中は出て行った。何かしらの目星が付いたのかも知れない。
いずれにしても、セキュリティとか、信頼とかは、そもそも存在しない現場である。クレアは部下が来る十三時まで、イワンコフ博士と話でもしようと思い、一階に下りた。博士が其処にいることは、黒服に聞いていたからだ。
一階は吹き抜けになっていて、手抜き工事の割には若干見栄えがいい。下には花壇もあり、そこそこに手入れもされていた。
屈んで花壇を見るクレアの上から、杖を突いたままの博士が声を掛けてくる。
「花は好きかね」
「人並みには」
「そうか。 それは良いことだ。 テトリスについては、私もあまり良くない話ばかり聞いていてな。 心を痛めていた所だ」
話がなぜそうつながるのかが不思議だが、まあそれは別に構わない。側にカフェがあったので、其処でお茶にする。
観光客もまばらには見えたが、それだけだ。
彼らは、少し前に此処で銃撃戦が行われ、挙げ句の果てに人が死んだなどとは知らないのだろう。
「テトリスの個人的な話を、教えて貰いますか」
「ああ。 お前さんになら、良いだろう」
側で控えていた茄子が、すっと眼を細める。この辺りだと、盗聴の危険があると言うことなのだろう。
モラルが低下すると、人間の思考は一本化する。だまされた方が悪い。取られる方が悪い。以上だ。
だから、そういった低下モラルの餌食にならないように、工夫をする必要がある。
昨日のうちに徹底的に茄子に調べさせた自室に戻る。床下にも天井裏にも集音器や盗聴器はなかった。新しく侵入された形跡もない。
「それで、テトリスの話だったか」
「ええ」
「儂は色々な罪を犯してきた。 政府が言うままに人体実験を行って、多くの子供達が死ぬのを見てきた」
知っている。
この博士は、それを大々的に世間に暴いたのだ。今、彼が殺されないでいるのは、豊富な人脈を西側に持っているのと、更に多くの資産に複雑な利権が絡んでいること、何より死んだら公開するようにと言われている資料が、あまりにも危険すぎるから、というのが上げられる。
それに、今ロシアにいる超能力研究の第一人者と言うこともある。人体実験をしないようになってから研究の効率は著しく落ちたとか言う話だが、それでも今の方が幸せのようだ。
「テトリスは儂の知り合いの科学者が面倒を見ていた子でな。 本名や出身は良く分からんが、アフガニスタン辺りの孤児だったんじゃないかという話は聞いたことがある」
「アフガニスタン、ですか」
現在、世界最悪の紛争地域の名前が挙がってきた。
文字通り利権の巣窟であり、地獄の戦場である。あらゆる意味で紛争の解決の糸口が見えない、この世の悪夢。紛争が解決した暁にはノーベル平和賞間違い無しだろう。
其処から来たのか。強いのも頷ける話だ。
しかし、見た感じ白色人種に見えた。確かアフガニスタンはアジア系の人種が多いはず。そうなると、混血なのかも知れない。不幸な生い立ちしか、思い当たらない。
「テトリスはずば抜けて優秀な子でな。 脳内に造り出す独自のイメージを、見る間に習得した。 超能力を使えるようになったのも、かなり早かったらしい。 実戦で使える初めての超能力兵士になるのではないのかと、彼方此方から期待が寄せられたそうだ」
「あの力量なら、無理もない話です」
「だが、そうはならなかった。 面倒を見ていたクライチェン博士が、暗殺されたからだ」
どうも、学内での派閥抗争の結果らしいと、イワンコフ博士が言う。
元々腐りきっていた組織に招聘されていた、科学者達である。モラルの汚染は広がるものなのだ。
成果を上げようとしている人間を、ダーティな手で引きずり落とすことくらい、昔から日常茶飯事である。どの業界にしてもそれは同じ事である。何も政治闘争だけの話ではないのだ。例えば、米国でも、執拗なダーティワークで知られたエジソンが有名だ。彼はマフィアまで動かし、己の覇権を脅かす人間に圧力を掛けた。
科学者や研究者も人間であり、悪事に手くらいは染めるのである。
クレアも、その実例は散々見てきた。
「クライチェン博士は、暗殺を察知していた。 死ぬ前に、どうにかテトリスだけは逃がしたようだ。 恐らくテトリスは、育ての親が惨殺されるのを目の前にしながら、逃げるしかなかったのだろうな。 悲しいことだ」
「やはりあの子も、犠牲者なんですね」
「……だが、大勢の人を殺し、今も手に掛けようとしている事に代わりはない。 止められないのであれば、やむを得ぬのかも知れんな」
イワンコフ博士が、コーヒーをすする。
静かな部屋の中に、闇が出来たようだった。
大学としては最高峰に位置するマサチューセッツ工科大学でも、学閥は存在した。幸い、多民族国家である米国でクレアは受け容れられやすかったが、それでも苦労は尋常ではなかった。
だから人の十倍努力した。
学業を修めるのにも、超能力を得るのも。
そして、やっとクレアは今のところに立った。反動として、一般常識やら何やらが、著しく欠けているようだが。現在の地位とは、とても比べられない。
今のクレアは、その気になればペンタゴン上層にさえ話を付けられる。それだけの実績を上げてきたからだ。
「何とか、私がテトリスを捕らえて見せます」
「無理はするな。 死んでしまっては元も子もない」
「このジェノサイドゼリー、プロフェッサークレアの約束です。 大船に乗った気でいてください」
皺だらけの老いた顔に、僅かに笑みが差す。
クレアは少しやる気が出るのを感じていた。
故郷で、クレアに優しかったのは祖父母だけだった。だからかも知れない。今でも、老人に対してだけは態度が変わるのは。子供が嫌いではないのは、多分本能からだろう。
イワンコフ博士を部屋まで送る。まだ介護は必要ないが、そろそろ足腰が危ない様子だ。それにしてもこの人が老人ホームにはいることになったら、さぞや凄まじい利権の奪い合いが周囲で起こることだろう。目を覆うばかりの惨状が、今から目に浮かぶようだった。
空っぽになった自室に戻る。
丁度、時間が来ていた。
ヘリの音がする。屋上に部下が来たらしい。着っぱなしの白衣は、ちょっと汚れが目立ち始めていたが、迎えないわけにも行かない。
「呆け茄子、コート」
「自分で着てくださいよ」
「このコート、袖が長すぎて上手に着られないんだよ。 全く、誰も彼もがこんな服が似合う図体してると思ってからに」
「キッズ用のコートにすれば良かったじゃないですか」
無言で肘を脇腹に叩き込んでやるが、ひょいと避けられた。ひょいひょいと着せられる。元の動物が何かは知らないが、兎に角ふかふかで温かい。
「で、誰だっけ、隊長は」
「キース・ハワードですよ」
「げ。 あいつか」
「先に資料渡したじゃないですか。 見てなかったんですか?」
忘れてた。それにしても、よりにもよって、キースが来るとは。
これは作戦に、もう一波乱があるかも知れなかった。
顔を上げたテトリスは、夢を中断されたことに苛立ちながら立ち上がった。
此処は下水道ではない。モスクワ郊外の丘にある小屋だ。ネット関係の情報は全く通っていない。ポケベルを使っても、運が良ければ使えるかも知れない、というレベルの電波事情だ。電車どころか、バスさえも通らない場所である。
この丘の上からは、小さくクレムリン宮殿が見える。昔、護衛付きだったが、博士が連れてきてくれたことがあった。博士は背が高くて、もう老人だったが、体つきはとても力強かった。
皺だらけの手で渡された双眼鏡で、クレムリン宮殿を見た。
その日は奇跡的に良く晴れていて、とても綺麗に宮殿が見えたものだ。全景を見回して、幾つかある建物を順番に見て。そして最後に聖ワシリイ大聖堂を見た。とても美しい宮殿で、タマネギのような屋根が印象的だった。
あの美しい思い出の日を夢に見ていたのに。
ちなみに、双眼鏡は。博士と一緒に壊された。腸が煮えたぎってくるが、抑える。此処は冷静に動くべきだ。そうしなければ、勝てない。
どうやって此処を突き止めたかは分からないが、追っ手が来ている。しかもこの小屋にテトリスが一人でいる事まで突き止めている様子だ。
生体的な痕跡は残していない。
そうなると、此奴も超能力者か。面倒なことだ。
劉に受けた毒は、どうにか拡散を止めた。だが闇医者は、あまり激しく動くことは奨めないと言った。表に出ない上に、地下のネットワークからさえも隔絶しているような医者だから、此処から足が着いた可能性はない。
「テトリス。 いるのは分かっている。 出てこい」
劉に比べると、最初から高圧的だ。
無言でテトリスは、床にある板を剥がして、地下に身を躍らせる。この小屋は、かって旧ソ連が作った地下軍用路とつながっている。既にプロジェクトは凍結し、一部しか作られなかったトンネルだが、身を隠すには充分な長さがある。此処の他にも、何カ所かに出口があった。
闇の中に身を躍らせてから、ハッチを閉める。潜水艦のものと構造が似ていて、外から開けることは不可能だ。防爆性能も高い。
梯子を伝って、トンネルの底に。
戦車も通れるようにと作ったはずなのに、下のコンクリはひび割れていて、それどころか漏水が溜まっていた。これでは、仮に敵が攻めてきても、とても役には立たなかっただろう。
崩壊寸前の頃、この国は酷い有様だった。
その混乱の中で、こういう無駄がたくさん作られた。そして忘れ去られ、幾つかは遠い未来、過去の遺物として発見されるのだろう。
トンネルの中を走る。
後ろで爆発音。どうやら痺れをきらして、小屋を吹き飛ばしたらしい。気が短い手合いである。
無言で走り続ける。だが、後ろで。人が水の溜まった地面に降り立つ気配があった。
「にがさん」
その声は、確かに聞こえた。どういう事か。あのハッチをこの短時間で発見したのか。
走ってくる。近付いてくる。
テトリスは覚悟を決めると振り返る。ばしゃばしゃと、威圧的に迫ってくる足音は四つ。いや、六つか。二つ、妙に音の小さい足音が混じっている。
頭に痛烈な痛み。
同時に、突撃銃の射撃音が響き渡った。
トンネルは三十メートルほど幅がある。まだ、頭の痛みは治まらない。
壁を作り、銃弾を防ぎながら下がる。これは、頭に直接干渉してくる能力か。いわゆるテレパシーである。
「気付いても遅い。 ほう、貴様の能力は」
言われる前に展開。突撃銃を構えて走ってくる奴の部下が一人、頭を失って横転。銃撃の中、また能力を展開する。今度は両足を失った奴の部下が、絶叫しながら倒れ、フレンドリファイヤした。隣にいた奴の部下が、巻き込まれて蜂の巣になる。
泥水の中もがいているもう一人は後回しにして、もう一人に容赦なく能力を叩き込んだ。銃弾をはじき飛ばしながら飛んだ力場の塊が、突撃銃ごと敵を真っ二つにする。二つに千切れた敵が声もなく悶絶するのを確認してから、足を失ってもがいていた敵にとどめを刺す。
残ったのは、一人。
小柄なアジア系だ。昨日倒した劉よりも、更に危険な目をしている。殺し慣れている上に、殺しそのものが大好きという感触だ。
ゆっくり近付いてくる奴の姿が、二つに、三つに分裂して見える。
「その能力、使うのに高度な集中が必要らしいな。 随分と狙いからずれているではないか」
仲間の死体を踏みにじる小柄な男。明らかな嗜虐が、その目には宿っていた。
この業界には、こういう異常者が幾らでもいる。拷問に対する訓練とかも受けてきたが、サディストという連中は情報を引き出すことよりも、苦痛を与えることを優先することが多いのだ。
力場を展開。とばす。
男は左に飛び退いた。何もない空間を抉った力場は、コンクリ床に着弾。汚い水しぶきが飛び散った。
男が銃を抜き、撃つ。小型拳銃なのは、多分殺しを楽しむためだ。
力場を展開して防いだはずが、弾丸は腿に突き刺さった。呻いたテトリスの肩に、脇腹に、次々と着弾。たまらず横転した。
「どうした、痛いのなら悲鳴を上げて良いのだぞ」
「黙れ異常者」
「それは違うな。 俺の信仰するカリは、殺戮を守護する女神だ。 俺はその神の寵愛を受けている。 だから、どれだけ殺しても良いんだよ。 むしろカリは生け贄を欲しておられる」
なるほど、異常信仰の類か。
宗教関係者は精神修養によって痛みなども遮断していることが多く、何より死を恐れないので、非常に面倒な相手だ。何度か交戦したことがあるが、全滅するまで一歩も引かない相手もいて、兎に角始末が悪かった。
「そろそろ神の御許へ行け。 可愛がってくれるぞ」
「お前がな」
ジャミングの中、準備はしていた。わざと、頭の中でブロックをくみ上げやすい形に並べておいたのである。
連続で、小粒な力場を四方八方に展開する。辺り中の壁床が吹き飛んでいく中、悲鳴が上がった。
左手を失った小柄な男が、壁にもたれて呻いている。さっきまで見えていたのとは、随分場所が違う。だが、これでクリーンヒットだ。
「き、貴様!」
「俺の能力は、確かに発動まで面倒なイメージをこなす必要がある。 だが、この能力と何年つきあってきてると思ってる」
常人では、目にも止まらないほどの速さで、テトリスはブロックを組むことが出来る。
このブロック組みは、博士と過ごした時間の結晶。
例えどれほど博士が罪を犯したとしても、テトリスにとっては優しい親だったのだ。
既に、力場の連射をするのに充分なブロックが揃っている。敵が銃を此方に向ける前に、テトリスは力場を全力で展開していた。
ホテル一階のカフェで紅茶をすすっていると、色々と聞こえてくる。どうやらチェチェイも殺られたらしい。
イギリスの民間軍事会社のリーダーが、部下達と話しているのが聞こえた。クレアは自分で耳かきをしながら、それ見たことかと内心呟く。
劉とチェチェイが協力すれば、かなり良い所までテトリスを追い詰められたはずだ。多分チェチェイも手傷くらいは負わせたはずだが、それでもテトリスにはまだ余裕があるだろう。
面子だの何だののために命を捨ててどうするのか。何だか滑稽で、そしてそれ以上に気の毒だった。
「クレア博士、まだ出ないのか」
ぬっと側に立ったのは、増援に呼んだキースである。米軍の特殊部隊にいたこともある男で、呆け茄子よりも更に背が高く、体格が良い。スラム出身の黒人で、目には愛想どころか、感情さえ無いように見えた。
特殊部隊を引退したのは、裏側の仕事に専念するためだとか聞いている。
要するに、ペンタゴンが飼っている筋金入りの殺し屋。それがこの男だ。今までに殺した人数は優に百を超えるとも聞いている。国内の過激派、海外のマフィアのボス、麻薬密売組織の頭領、錚々たる面々をキースは仕留めてきたのだ。
噂によると、CIAのエージェントとも犬猿の仲で、時々殺し合い寸前にまで行くこともあるそうだ。
「まだだ。 待ってろ。 お前も茶を飲むか?」
「いらない」
「此処では私がリーダーだ。 ほら、茶が駄目ならコーヒーでもどうだ」
「いらない」
毒を盛られる可能性があると、キースは言う。
まあ、確かにその通りかも知れない。それでいながら、紅茶を飲むクレアを止めない辺りが、この男の性格を示しているとも言えた。
「新しい情報が来ましたよ」
茄子が歩み寄ってくる。こうも図体がでかい男どもが揃うと、むさ苦しくて仕方がない。どちらかというと茄子は甘いマスクの持ち主だが、クレアにとってはどれも同じだ。
「ニコラエフが、増援を手配しました。 百三十人ほど、ここに来るようです」
「数だけ揃えても意味がないだろうに」
「それが、今度のは質も高いようです」
どう高いのか知らないがと思っていると、茄子がリストを見せてくる。ざっと目を通すが、確かにこれは凄い。錚々たる面々がリストに名を連ねている。中には以前クレアと刃を交えた者や、国によっては逮捕状が出ているような者までいた。
共通しているのは、いずれ劣らぬ強者揃いと言うことである。クレアもこの面子が守る真ん中に攻め込む勇気はない。ましてや手負いになっているだろう今のテトリスには、なおさらだ。
「これ、地下に情報を流してやれ」
「え?」
「そうすれば、奴は出てこざるを得なくなる。 まだ勝ち目がある内に、ニコラエフを仕留めないと、文字通りの終わりになるからな」
ニコラエフも馬鹿ではない。此処で勝負に出てきたというわけだ。財産を相当に失っただろうが、それでも死ぬよりはマシと言うことなのだろう。問題はあの黒服男の思惑だが、それが分からない。
「キース、喜べ。 多分近いうちに、奴と戦えるぞ」
「別に喜ばない」
そう言いながらも、キースは若干嬉しそうだった。
意外に分かり易い奴である。クレアは紅茶をもう一杯注文すると、ジャムと砂糖とレモン汁をたっぷり入れた。
「あーあー。 そんなに入れたら、味がおかしくなりませんか」
「良いんだよ、これで」
どうせ高い紅茶の味なんか分からない。ワインはある程度善し悪しが分かるが、味の相性の問題なのか、どうも紅茶の判別は苦手なのだ。
もしも必要になったら、努力して味の判別が出来るようになる。
だが、今は不要だ。だから努力もしない。
さて、ニコラエフか、或いはあの黒服か。どっちが考えたかは分からないが、いずれにしてもこれで王手だ。後は、テトリスを倒し、連れて帰る方法をしっかり頭の中で固めておくだけだった。
4、落ち行く先
テトリスは、深傷を受けたにもかかわらず動き回っていた。
再び、モスクワの中心部のアジトの一つである廃モーテルに逃れると、まずは弾丸を摘出した。傷口の近くを布で縛り、ピンセットで弾丸を引き抜く。あのテレパス、わざわざ体の中に残るように弾丸を撃ち込んできていた。
一つ抜く度に、絶望的な痛みが全身を駆けめぐる。特に止血しようがない脇腹のは痛烈だった。
傷口を消毒して、止血を済ませる。どうにか化膿はしていなかったが、今後どうなるか分からない。手強い敵手だった。
ネットに接続して、情報を探る。ニコラエフが増援を手配したと流れてきている。しかも、錚々たる面々を呼び寄せて、一気に片を付けるつもりらしい。
罠だ。
それも、見え見えの。
十中八九、あのジェノサイドゼリーだろう。此方が勝負に出ざるを得ない状況を造り出し、誘い出すつもりだ。しかし、現在ニコラエフの周囲の戦力が目減りしているのも事実である。勝負を挑むのであれば、今しかない。
だが、劉に仕込まれた毒のせいで、体中が重い。
その上、この傷だ。集中力も減退しているし、万全の状態で待ちかまえているだろうジェノサイドゼリーに勝てるとはとても思えない。
此処は引くべきだ。戦士として、長年培ってきた勘は、そう告げていた。
だが、逃げ切れるのか。
あのジェノサイドゼリーがいると言うことは、他の手練れ達は、後顧の憂い無く追撃に掛かってくるだろう。先に倒した劉やテレパスと同等かそれ以上の手練ればかりが、群れを成して襲ってくる。
深傷を受けたこの体で、とても逃げ切れるものではない。
ならば、死中に活を得る他無いではないか。
決断が一秒遅れるごとに、勝率は落ちる。
やがて、テトリスは熱っぽい体を引きずって、立ち上がった。一度フードを脱ぎ、新しい服に着替える。
地下から行く方法は、もう使えない。
それならば、別口のやり方で、敵中に攻め込むだけだった。
そろそろ来る。
自室で、クレアは確信した。
イワンコフ博士に聞いて、テトリスの性格分析は充分に進めた。その結果である。数少ない情報からも、クレアは的確な解を割り出すことに成功していた。
多分、テトリスは。
「監視カメラに映像。 来ました」
正門近くの映像である。紳士然とした老人の側にいる女の子。ロシア人の少女は造作が美しいことが多いが、はっとするほど顔立ちが整っている。身なりもしっかりしていて、コートも靴も上品だった。
普通だったら、気付かないだろう。
だが、間違いない。あれだ。
「目を離すな」
「分かりました。 老人は」
「あっちは多分雇われただけだろう。 放っとけ」
煎餅を囓る。部屋に避難させているニコラエフが、右往左往しながら叫ぶ。
「ほ、本当に大丈夫なんだろうな!」
「ぎゃあぎゃあ騒いでると見つかりますよー。 まあ、その方が私としちゃ対処が楽でいいけどな」
「な、何という無責任な! 貴様には大金を払っているんだぞ!」
「別にそんな金、惜しくもないっての。 おい、黒服。 五月蠅いから黙らせろ」
ニコラエフの後ろに控えていた黒服が、苦笑しながら何か主人にささやきかける。青ざめたまま、ニコラエフは奥の寝室に去った。
机上にある監視カメラの映像が切り替わる。老人はチェックインを済ませると、一階の部屋に。遊びに行くように見せて、女の子は一人で行動を開始した。当然、誰も彼女に注目していない。たまにすれ違った男が振り返るくらいだ。
「階段には目もくれませんね」
「……さて、どう出る?」
女の子が。
テトリスが、監視カメラを見た。次の瞬間、クレアは全身が総毛立つのを感じた。
「いかん、伏せろ!」
爆音が、ホテル全域を揺るがした。
激しい揺れと軋みの中、部屋が傾く。何をしたかなど、言うまでもない。
欠陥建築であることを利用して、柱にダメージを与えてきたのだ。そうなってしまうと、もはや対応策がない。
なるほど、考えたものだ。もちろん、生き埋めになる覚悟がなければ、出来ないことだが。
悲鳴を上げて、部屋からニコラエフが出てくる。ヘリを呼べとか叫んでいるが、この状況では無理だ。傾いたヘリポートにすれすれに滞空できる程の腕前のパイロットなど、いないだろう。
カメラを見ると、パニックが始まっていた。既に客の避難が始まっている様子だが、どう見ても巧く行っているとは言いがたい。
「女の子の姿が、監視カメラから消えました」
「あいたたた、やってくれたな。 すぐ来るぞ、準備しろ、呆け茄子! キースの奴は」
「予定通り、外で待機しています」
それならば、いい。
部屋からでないように黒服に指示すると、呆け茄子と一緒に部屋を飛び出す。
だが、その判断は間違っていた。部屋から出た瞬間、至近で轟音が轟いたのだ。しかも、真後ろである。
どうやったかは分からないが、テトリスは即座にニコラエフの位置を把握したのである。超能力か、或いは協力者かは分からない。しかし、部屋の下の床をぶち抜いて、直接部屋の中に攻め込んできたのは間違いのない所だ。
部屋の中に飛び込もうとして、瓦礫に蹴躓き、すっころぶ。
見ると、ワイヤーを使って部屋に入ってきたテトリスが、此方に冷たい目を向けている所だった。
なるほど、こういう展開方法もあるというわけだ。ただし、あくまで応用だが。
白衣の埃を払って立ち上がる。しばしにらみ合いが続くが、黒服が妙に平然としているのが気になる。その後ろに隠れているニコラエフは、発狂しそうなほどに怯えているのに、である。
不意に、ニコラエフの前の床が爆算する。
力場を向けたので、クレアがたたき落としたのだ。
「私を無視して攻撃とは、良い度胸だなあ」
「お前には関係のないことだ」
「そうはいかないの。 それは一応今回のクライエントだし、何よりあんたがこれ以上人殺しをすることを好まない人がいるんだ」
「イワンコフ博士のことか。 余計なことを言う老人だ」
声は、低い。
或いは女装か。
見掛けテトリスは十五歳くらいだろうか。本来だったら男装女装がかなり難しくなってくる年頃である。
だが、テトリスの女装は見事だ。いや、これは、或いは。
思い出す。花壇で、イワンコフ博士がどういう風に話をつなげたか。なるほど、そう言うことだったか。
「は、早く殺せ!」
「黙ってろ、禿げ狸」
「な、何だとっ!?」
「今話の最中だ。 お前なんか、クライアントだから守ってるだけで、気に入らないと思ったらいつでテトリスの前にも放り出すからな」
黒服の反応は、相変わらず無い。ずっと腰を落として拳銃をテトリスの胸に向けている茄子が、小声で言う。
「様子がおかしいですね」
「ああ、そうだな。 やっぱり何か企んでいた、と見るべきか」
「プロフェッサー・クレア。 脅威の排除を」
初めて黒服が喋る。ニコラエフはその背中にすがりつくようで、まるで知らない相手を怖がる幼児のようだった。KGBでやりたい放題に悪逆を重ね、今も暗黒街で恐れられる男だとはとても思えない。
いや、これはやはり。
飛んできた力場を、たたき落とす。テトリスが本気になったという事だ。飛来した力場も強力で、あまり手加減は出来なかった。
「テトリス。 お前はどんなイメージで力を発現させてる?」
「教えると思うか」
ゆっくり、黒服の前に歩く。茄子が飛び込んできて、数発発射。その全てをテトリスが弾く。
時計回りに歩きながら、力場を展開。押しつぶすつもりだったが、逃げられる。下がった先に向けて、茄子が拳銃を連射。テトリスの前で弾かれる。
自分の開けた穴を盾代わりにして、テトリスが動く。壁に、床に、そして天井に。次々、罅が、亀裂が入る。吹き飛んだ壁の破片が飛び散り、辺りに粉塵を充満させた。クレアは眼を細めて、咳き込みながら右手をテトリスに向ける。
左手をテトリスが向けてきた。
中間点で、何かが弾ける。飛び散ったそれは、大量の冷気をまき散らしながら、消えていく。
「大体分かった。 お前の使っているのは、巨大な水風船のような何かだな」
「ご名答。 ぷよぷよと、私は呼んでる」
そう。
クレアの能力は、不可視壁の具現化。密度は自由に操作することが出来るが、基本的にそれは、重力を操作する力だ。重力のイメージが、巨大な水風船状の何か得体が知れない形状を伴い、攻防共に作用する。
だから、上から下にしか作用できない。
その代わり、可変性は凄まじい。
テトリスの力場をはじき返す。二度、三度、連続して飛来するが、今のクレアの前にはそよ風も同じだ。
既に動きは見きった。
「降伏しろ、テトリス。 悪いようにはしないからさ」
「断る」
「この国を立て直すつもりなのか? 革命でも起こすとか」
「そんなつもりはない」
やはりそうか。
多分この子は。今でも、育ての親の敵討ちをしているのだろう。誰にも理解されず、理解させる気もない。
自分のことではない。多分、博士の弔いのつもりなのだ。
この子を育てた博士の人柄は聞いた。多分、そんな事をしても喜ぶことはないだろう。だが、それをテトリスに言っても、多分納得はしない。それに何より、家族どころか共同体そのものに忌み嫌われて育ったクレアには、よく分からない。祖父母は優しかったが、それも多分肉親の情とは違うと感じる。
飛来した力場をたたき落とす。
「まあ、説得は専門家にさせるか」
「おい、巫山戯るな! 早くその狂犬を……」
「黙れ」
声は、意外な所から来た。
そして、場が凍り付いた。
テトリスの肩に、羽の付いた小さな矢が突き刺さった。キースの仕業ではない。いや、奴以外には考えられない。しかし、狙撃のタイミングも位置もおかしい。どうやって、硝子にまだ守られている室内を狙撃した。タイミングを計って、茄子が硝子を射撃して割り、其処から狙撃させるはずだったのだ。
ニコラエフが、床に転がって血を流している。一目で分かる。死んでいる。
そしてその後ろにいる黒服も、同じように血を流して死んでいた。どういう事だ。此奴が黒幕ではなかったのか。
無言で、テトリスが床の孔に飛び込む。
クレアは孔を覗き込んで、唖然とした。
逃げ去るテトリスは、もういなかったのである。
テレポートか。呟くが、どうも状況が不審すぎる。
超能力は、基本的に一人に一つ程度しか備わらない。複数備わる場合もあるが、いずれもが超一流と言うことはあり得ないのだ。しかも、テトリスを狙撃したあの矢、明らかにテレポーターがいるとしたら、その技によって突き刺さった。
どういう事だ。
テトリスを手引きした奴がいるのだとしたら、なぜ不利になるようなことをする。
「とりあえず、この建物から出ましょう。 外で護衛の部隊と合流して、今後のことを決めないと」
「ああ、そうだな」
「急いでください」
ぼんやりしているクレアを見かねてか、ひょいと茄子が抱え上げた。しかもお姫様だっこである。
だが、あまりにも体格差がありすぎるので、荷物か何かを運んでいるようにしかみえないのだった。
「ちょ、何する」
「まず、急いで此処を出ましょう」
ホテルの傾きが酷くなってきた。確かに急がないと危ないかも知れない。
既に、中に残っているのは、クレア達だけだった。
元々欠陥建築である。一度傾き始めると、ダメージの蓄積もあってか、一気に崩壊が始まった。
天井に罅が縦横に走る。窓硝子が内側から粉々に砕け、飛び散った壁床の破片が辺りの視界を遮っていく。恐ろしい音がしているのは、何処かの天井が抜けたのだろうか。
時々力場で防御しながら、クレアは生きた心地がしなかった。
「イワンコフ博士は」
「今日はこの建物にいないって話です。 いたとしても、もう脱出していますよ」
「念のためだ」
PHSから聞いておいたアドレスに掛けてみる。返事がない。
何だか、非常にいやな予感がした。
一階のホールは既にがらんとしていて、職員さえいなかった。既にみな脱出したと、好意的に解釈したい。この崩壊を招いたのがテトリスだとしたら、脱出する時間はきちんと作ったと言うことだけは評価できる。
既に入り口の硝子ドアは粉々に砕けており、それでいながら飾られていた高そうな絵画はあらかた持ち去られていた。こんな時でも逞しいことである。悪い意味で、であるが。
ホテルを飛び出す。
上から大量に硝子の破片が降ってきたので、力場を展開して防ぐ。頭上の攻撃の対処は若干苦手だが、傘のように力場を展開することで、避けることくらいは出来る。無言で走る茄子の後ろで、凄まじい音を立ててベランダ部分か何かが落ちた。一瞬遅れていたら、助からなかった。
一応、念のため。
近くにある銀行の貸金庫に、荷物類は預けていた。今日テトリスが来る可能性が高かったからだ。それだけが唯一の救いである。
下ろして貰う。兎さんスリッパのまま、コンクリの地面に降り立った。コートを着せて貰った後、辺りを見回す。
辺りは野次馬だらけだった。
崩壊し始めたホテルを、呆然と見つめる。何だか、とんでもない考え違いをしているような気がしてならない。
もしも、内通者がいるとしたら、目的は何だろう。
パズルが、クレアの頭の中で、順番につながっていく。
不意に、思い当たった事がある。無線を取りだし、キースに繋ぐ。
キースは出ない。他の部下達に掛けてみるが、全員出た。無事だという。と言うよりも、キースを見た者が誰もいないというではないか。
「おかしいですね、プロフェッサー・クレア」
「なあ、呆け茄子。 最後にキースを見たのは何時だ」
「今朝ですが。 一緒に朝食を取りました」
背筋を寒気が這い上がる。
どうやら、何が起こったのか、少しずつ見えてきた。どうやらクレアどころか、此処に集められた全員が、そもそも掌の上で踊らされていたらしい。
完全に一本取られた。
「部下達を集めろ。 多分キースの奴は来ない」
「倒されたって事ですか」
「いや、違う」
最初から、そんな奴は此処に来ていなかったのだと、クレアは呟く。流石に怪訝そうに、茄子は眉をひそめた。
肩に刺さった矢に、強力な睡眠薬が仕込まれていたことは、テトリスも認識していた。だから少しでもジェノサイドゼリーから距離を取ろうと思った。どういうわけかニコラエフは死んだし、相性が最悪で勝ち目がほぼ無いジェノサイドゼリーと命がけで戦う理由など無いからだ。
だが、薬が体に回るのは、予想以上に早かった。
目が醒めると、其処は暗い部屋だった。水滴が落ちている音が聞こえる。両手にはそれぞれ手錠が掛けられ、鎖でつながれている。両足もだ。体を起こせないほどきつく、壁に床に拘束されていた。
「やあ、お目覚めか」
「イワンコフ博士……」
視界に、急に入り込んでくるのは、父の唯一の理解者だったというイワンコフ博士だ。だがこの状況。
とても、博士が味方だとは思えなかった。
その後ろには、空虚な目をした巨漢もいる。もっとも、その体は薄く透けていたが。
「何を、した」
「さてはて、何だろうね」
「とぼけるな!」
声を荒げるが、気付く。この白衣のような服、あの悪夢の研究施設で、いつも着せられていたものだ。
くつくつと、博士は笑う。
「研究をしたと言うことは、仕組みを理解したと言うことだ。 そして今、わざと泳がせておいた研究素材を、回収しただけよ」
「わざと泳がせていた、だと」
「キリーフ、アンジェラ、グライ、レーネン」
急に博士が挙げていく名前を聞いて、蒼白になる。
そいつらは。
そして、そいつらの影が、博士の後ろに、ゆっくりと形を取っていく。いずれもが、半透明の人型として。
「ま、まさか。 全部あんたの掌の上だったというのか」
「そうだ。 これらも私の能力で作り上げた」
だとすると、その奇怪な能力は何だ。テレパシーでもテレポートでも無い。しかも、精度としてはどう見ても超一級だ。
テトリスでさえ、気付かなかったのだから。その存在が、偽物であるのだと。
「運び出せ」
「くそっ!」
力場を展開しようとするが、出来ない。何か得体が知れない薬でも投与されているのかも知れない。
それに、博士は弱々しい老人にはとても見えなかった。歩き方もしっかりしているし、喋り方もだ。或いはこの男、老人を装っているだけなのではないのか。
縛り上げられたまま、搬送用のベットに乗せられる。そして、暗い中を移動した。
ずっと協力者だと思っていた連中が、全部案山子だったとは。政府を転覆させたいとか、自由が欲しいとか、彼らが言っていたことは全て絵空事だったのか。熱く語っていた信念は、全て嘘だったのか。
長年作ってきた友情は、全て偽物だったのか。
疑心暗鬼が渦巻く。
イワンコフ博士は、良心的な科学者として知られている人物だったはずだ。育ての親であるクライチェン博士が、頼りになるといつも言っていた。
だとしたら、この博士は何だ。
本当に、イワンコフ博士なのか。或いは、気味が悪い偽物なのか。
「混乱しておるようだな」
「あ、当たり前だ!」
別の部屋に出た。薄暗い照明で、辺りには実験器具が所狭しと並べられている。鋏やメス、まち針も置かれていた。
全身に寒気が走る。
「さて、まずは生体サンプルだ。 髪の毛だの皮膚片だのは幾らでもあるからな。 血を採るとしよう」
小さな含み笑いを挙げながら、博士は太い注射器を取った。背中を怖気が駆け上がる。明らかに、動脈から採決するつもりだ。しかもあの注射器の内容量。それが、何本も転がされている。
「お前に元気よく暴れられても困るからな。 一リットルほど採血しておこうか」
「こ、この外道っ!」
「外道? 何だ、暴行して欲しいのかね」
意識が遠のきかける。
施設を逃げ出して、しばらくは力も巧く使えなくて。生きていくためには何でもやった。
テトリスは特殊な事情の持ち主だったが、逆にそれが良いという客もいた。色々と、怖気が走る事をさせられた。
そうしなければ、生きていけなかったからだ。
あらゆる点で、世間を恨んだ。
貧困層の子供達は、みんなそんな目にあっていることは分かっている。それでも逞しく生きていることも。実際に自分の目で見てきたし、たくましさだって知っていた。
だが、なおそれでも、テトリスは周りを恨んだ。
いつの間にか博士で貰った名前で、自分を認識しなくなっていた。テトリスと、コードネームで自分を呼ぶようになっていた。
そうすることで、殻を作った。
心が、漏れ出さないように。溶けて、死なないように。
無意識だったのか、或いは最初から意識してやっていたのか。それは分からない。分かっているのは、絶望の中、テトリスを救う者など誰もいなかったと言うこと。自分一人で、生きるための技を身につけたと言うことだ。
そして、力を得てからは。
徹底的に復讐した。それこそが、テトリスの全てになっていた。
いつか、クライチェン博士は言った。憎しみを捨てろ。暴力で報いようとするな、と。
だが、テトリスは、その言葉を受け容れられなかった。
呼吸が荒くなってくる。博士の周囲には、複数の人影が揺らめいている様子だ。さながら、博士の狂気を示すように。
一瞬だけ、イワンコフの姿が揺らめき、世にもおぞましい何か得体が知れないものが見えた気がした。
それは、無数の人間をつなぎ合わせて、つぎはぎしたかのような巨人だった。顔は両側でずれていて、歯は唇からはみ出し、まぶたも半分取れ掛かっていた。いにしえの小説に出てくる、フランケンシュタインの怪物のようだ。
だが、それも一瞬のこと。
博士はすぐに元の老人に戻っていた。
注射針が迫ってくる。
だが、その時。
おぞましい部屋に、光が不意に差し込んだ。
5、対決の刻
扉を蹴り開けて、入り込む。
閉まろうと勢いよく戻ってきた扉は、茄子が受け止めた。そうしないとクレアは顔面を強打されて、尻餅をついていただろう。普段通りの白衣に、足下は動きやすい女性向けスニーカーだ。
「何だ、此処は」
思わず、呻いてしまう。
あまりにも其処は異常だった。
壁、床、天井。いずれもが、まともとは言えない彩色で塗りたくられている。壁に飛び散っているのは、ペンキか。いや、血の染みに見える。一緒に部屋に飛び込んだ茄子も、唖然としていた。
劉が残した熱探知装置を使って、すぐに後を追った。意外にも、テレポートを使った形跡はなく、すんなり後を付けることが出来た。不可解だったのは、明らかに複数の足跡があったことだが、そんな事は気にしてはいられなかった。
連れてきた部下達にも熱探知装置を手渡して、手当たり次第に探した。そして、此処を見つけ出したのだ。
モスクワ郊外の、廃軍基地。
立ち入り禁止になっていたが、こっそり忍び込んだ。と言っても、警備もまばらで、入ることは難しくなかったが。
そして、その中の一つ。
コンクリで作られた、小さな棟の、そのまた地下。其処で、この光景を発見したのである。
部屋の奥。二つの人影。
一つは白衣一枚にされて、担架に縛り付けられているテトリス。遠くで良くは見えないが、多分クレアの予想通り。
もう一人は。
誰だ。分からない。イワンコフ博士と言われればそうも見えるのだが、どうも違うように思えてならないのだ。
「イワンコフ博士!?」
「違う。 私は、キース=ハワードだ」
「そうではない。 私はイワンコフ博士だ」
他にも、複数の返事が返ってくる。それが最後に、けたけたという気色が悪い笑い声に変わった。
元々それほど広い部屋ではない。全体に反響しているその声は、おぞましい狂気を誘発するかのようだ。
吐き気をこらえながら、クレアは一歩進み出る。
「何をしているんですか、博士!」
「さあ、何だろうね」
「そういえば、君もサンプルとしてはとても優秀だ、ジェノサイドゼリー。 どうだね、一緒に私の実験材料とならないか」
「極上の苦痛と悲鳴を約束するよ」
けたけたと、狂気に満ちた笑いを博士らしき輩が挙げる。その口は耳まで裂けていて、舌が胸の辺りまで垂れていた。もはや人間の形相ではない。髪の毛も真っ白だったのに、いつの間にか黒くなっていた。
頭がくらくらする。
だが、大体能力の把握は出来た。
「貴方は、認識を阻害させる能力者だな。 多分テレパスの一種だろう」
「クレア博士、どういうことッすか」
「要するに、此奴は他者に好き勝手なものを認識させられるって事だ。 テトリスと戦った部屋での不可解な出来事も、妙に口数が少なかったキースも。 或いは、もっと他の多くのことも、此奴が造り出した幻だった、ってことだ」
ひやりと、頬に触れる手。
慌てて払いのける。全身に沸き上がる嫌悪感を後押しするように、イワンコフ博士が付け加える。
「幻覚などと言うちゃちなものと比べて貰っては困るなあ、ひよっ子。 今、お前は私に触られたと錯覚しただろう?」
クレアは小さく頷く。
勝ち誇ったかのように、注射針を構えたまま、得体が知れない男は言う。
「もう分かっただろう? 勝ち目など無いことが。 悪いことは言わぬから、さっさと消えた方が良いぞ、ジェノサイドゼリー」
「そうも行かない事情がありましてね。 てか、もう貴様に敬語なんか使う必要もないか」
「おや、老人を労る主義ではないのかね」
「ああ、その通りだ。 だが、お前は老人じゃあない」
喋り方で、分かった。
前までは、巧妙に偽装していたから見抜けなかった。と言うよりも、相手が老人だという固定観念が、理解を阻害していたのだ。
或いは、此奴は何か得体が知れない存在で、本物のイワンコフ博士は、既に鬼籍に入っているのかも知れない。いずれにしても、この化け物は、今此処で、クレアがどうにかしなければならなかった。
「茄子、全力で戦う。 お前は隙を見て、テトリスを解放しろ」
「こんな狭い部屋で、全力ですか?」
「そうでもしないと、奴は倒せん」
白衣を脱ぎ捨て、放り捨てる。
下に着込んでいるのは、黒いタートルネックのセーターである。両手を左右に拡げ、イメージ開始。
同時に、メスが飛んできた。気付いたのは、至近。
だが、極限の集中状態にあるクレアは反応。即時にたたき落とす。
たたき落としたメスは、コンクリの床に、持ち手まで突き刺さっていた。とんでもない、異常な切れ味だ。
「ほう、かわしたか」
「……」
これも、認識阻害かも知れない。いずれにしても、油断は出来ない。
再び、至近に何か得体が知れないもの。椅子や机、さらには鉛筆や分度器、コンパス。いずれも違った部分を向けて、クレアに飛んでくる。片っ端からたたき落とす。潰れて消えるそれらは。
クレアにとって、見覚えがあるものばかりだった。
この名前のせいで、特に小学校時代は酷いいじめを受けた。机には落書きを散々されたし、私物は殆どが盗まれたり隠されたりした。靴に画鋲などは可愛い方で、ミミズを入れられていたこともあった。
「どうした、顔が青いぞ」
「黙れ外道」
「その外道の本性を見抜けなかった尻の青い小娘に、さらなるプレゼントだ」
イワンコフが指を鳴らす。
地面に転がったのは。
腕や耳をもぎ千切られた、熊のぬいぐるみ。一気に蒼白になる。
小学校時代、一度だけ同級生が遊びに来たことがあった。その頃は無邪気だったので、新しい学年に入ったばかりと言うこともあり、遊びに来たいという相手の言葉を素直に信じてしまったのだ。
結果は最悪だった。
大事にしていた、唯一の友達とも言える熊のぬいぐるみがずたずたにされているのに気付いたのは、散々菓子を食い散らかしたそいつらが帰宅してからだ。泣いたが、両親には相手にもしてもらえなかった。
多分、その日からだろう。
周囲の人間達に、致命的な嫌悪感と憎悪を抱くようになったのは。
必死に勉強を開始し始めたのは、その時から。一秒でも早く、其処から離れたかった。不良になるくらいだったら、そうした方が建設的だと思ったのだ。アメリカに留学する話が出たのは、中学に上がった頃。
栄光の階段にも思えるかも知れないが、クレアにとってはトラウマだ。
至近。額にメスが飛んできた。
飛びついてきた茄子に押し倒されて、間一髪逃れる。茄子が呻く。背中に、今のメスが切り裂いた跡があった。
「お前、テトリスを」
「隙が無くてどうもね。 そんな事よりも!」
慌てて手を突き出し、迎撃する。たたき落とし、更に今度は此方から仕掛ける。憎悪が煮えたぎる。
それは、確実に集中を乱した。
普段は百発百中の大型攻撃が、博士の側の床に炸裂する。つまり、イワンコフには当たらない。
呼吸が乱れてくる。茄子に引っ張り起こされた。
「こ、こっちはいい! 早くテトリスを助けろ。 連携しないと、勝てる相手じゃない」
「……どうしても、戦う気ですか」
「くどい!」
「じゃあ、仕方がない。 僕も本気を出すか」
青ざめたまま、そんな強がりを言う茄子。歯を噛む。茄子の至近に飛んだ得体が知れないものを、たたき落とす。
「大体理解した。 お前は重力使いだな」
「……」
「何かの形をイメージしている様子だが、結局上から下へしか力を働かせることが出来ていない。 それは、重力を操っているからだろう」
「だったらどうする!」
イワンコフに、全力で力場を向けて、力を叩きつける。
かなりの広域攻撃だ。これなら。
激しい、肉と骨が砕ける音。一瞬だけ見える、おぞましい肉の塊。まるでフランケンシュタインの怪物のような。
次の瞬間、横殴りに飛んできた一撃に、吹き飛ばされていた。
クレア博士の小柄な体が吹っ飛んで、悪趣味な色の壁に叩きつけられる。
そのまま、ずり落ちた。
その時既に、ナスタレーシュは、テトリスの側まで来ていた。
これでも、昔は特殊部隊にいて、慣らしたこともあるのだ。敵の注意がこっちに向いているか、そうではないかくらいは判断できる。背中の鈍痛に我慢しながら、ナイフを振るう。テトリスを拘束していた革ベルトを切り裂く。だが、手錠と、鎖だけはどうにもならない。
デザートイーグルを取りだし、鎖を撃つ。
だが、千切れる気配はなかった。
次は針金だ。何度か手錠に差し込んでみて、形を微妙に変えながら弄ってみる。
時間は、一秒が惜しい。
「何をしている。 速く逃げろ」
「黙ってろ、坊主」
「何っ!?」
「クレア博士が、お前のために体を張ってるんだ。 男の俺がしっかりしないで、誰がしっかりするんだよ!」
壁際で、クレア博士は必死の防戦をしていた。
イワンコフが何をして、クレア博士が何をしているのか、さっぱり分からない。見えないからだ。
だが、途轍もない力がぶつかり合っているのはよく分かる。
そして、クレア博士が、防戦一方だと言うことも。
護衛をするようになってから、クレア博士の戦闘能力には、何度も舌を巻いた。特殊部隊にもいたことのあるナスタレーシュだが、武力という点でこれ以上の相手は見たことがなかった。
それは、イワンコフを見るまでは、更新されないだろうとさえ思っていた。
はっきり言って、怖い。
恐怖を持つことは恥ずかしいことではない。感情はそれぞれが必ず意味を持っている。しっかり恐怖とつきあえない奴は、戦場では必ず死ぬ。
此処から逃げろと、ナスタレーシュの動物の部分は、さっきからずっと警告を続けている。それが恐怖という形で現れているのだ。
だが、それでもナスタレーシュの指は、作業を誤らない。これでも、潜ってきている修羅場が尋常ではないからだ。だから、国からあのクレア博士の護衛兼監視役を任されているのである。
手錠が、外れた。
「針金で、この軍用手錠を」
「動けるか」
テトリスの細い手首を掴んで、立ち上がらせる。弱々しい体だ。女か、そうでなくても体格は極めて脆弱だろう。
「博士、助けました! もう良いですよ!」
「入り口まで走れ!」
途端。
部屋全体が、ぐにゃりと歪んだ。
気付く。イワンコフが、此方にその恐るべき力を向けてきたと言うことに。
「させるかっ!」
もの凄い一撃を、クレア博士が、イワンコフの頭上から叩き込んだ。部屋が激しく揺動し、中央部分がクレーター状に凹んだくらいである。
重力を操作していることは、何となくナスタレーシュにも分かっている。
今のは一体どれだけの重力を掛けたのか。地球上の十数倍ではきかないだろう。だが、部屋の異変が収まる様子はない。
「それは私が十年掛けて育て上げたのだ。 お前達などに渡すか!」
声に、僅かな怒りが含まれていることに、ナスタレーシュは気付く。此奴は今、本音で喋っている。
多分それに、クレア博士も気付く。
そして、テトリスも。
無言で、テトリスがイワンコフに手を向ける。
そして、博士が、攻勢に転じた。
「これでも食らえ、化け物っ!」
部屋が歪むほどの力場。超能力など無いナスタレーシュにも感じ取れるほどだ。
部屋が崩壊を始める。
軋んだわめき声を上げながら、殺到する瓦礫に埋もれていくイワンコフ。一瞬だけ、あまりにもおぞましいその素顔が、ナスタレーシュにも見えた気がした。
瓦礫をはね除けて、ナスタレーシュが立ち上がるのが見えた。体の下にテトリスを庇っていたらしい。頑丈な奴だ。自分と同じくらいの大きさの瓦礫をはね除けていたから、筋肉も相当である。
或いは、何かしらの理由があって、ちゃらんぽらんの振りをしているのかも知れない。まあ、クレアの知ったことではないが。
部屋から何とか抜け出したが、転んで膝をすりむいたクレアは、憮然としていた。凄く痛いし、不愉快だ。研究棟らしき建物は崩壊。急がないと、見張りの兵士が集まってくるだろう。
だが、逃げる前に。
イワンコフの死を、確認しておかなければならなかった。
「呆け茄子、テトリスは」
「無事ですよ、ほら」
女の子の格好をしているが、テトリスの性別はちょっと見た目には分からない。ただ、既に確信はあるし、何より男装だったとしてもずいぶんと綺麗である。美少女と言っても問題ないほど造作は整っていた。
もっとも、話を聞く限りのテトリスの経歴だとすると。このルックスでは、余計に苦労しただろう。フードを被って人相を隠していたのも頷ける話だ。
「俺の戦いは、全部彼奴の掌の上で転がされていただけだったのか」
ロシア語で、テトリスがぼやく。
気持ちは、分かる。クレアだって、思えば心の奥底で、故郷の人間達に認めて欲しかったのかも知れない。
それなのに、最初はおかしな名前だからと言って馬鹿にしていた連中は、今度は人間扱いしなくなった。失望が絶望に、悲しみが怒りに変わるまで、それほど時間は掛からなかった。
「まずいな。 もたついてると兵士が集まってくる」
「逃げましょう。 こんな所にいても、何にもなりませんって」
「そうはいかん。 あの化け物が死んだか確認しないと、おちおち昼寝もできんわ。 なあ、テトリス。 お前もこれだけコケにされて、黙っていて良いのか? あーゆーのを、本当の悪と言うんだ。 しっかり悪を潰しておかないと、お前の未来も何も無いぞ」
「……」
実は違うことくらい、クレアにも分かっている。だが、人を奮起させるには、怒りが一番だと思っているから、そう言う。
だが、理解は出来ているはずなのに。
テトリスは、一言も発しない。
戦ってみて分かったが、此奴の能力は、研究が進んだ超能力の中でも、特にシンプルなものだ。だからパワーはあるが、卓越した頭脳がなければとてもいかせるものではない。
でも、それでも。上には上がいた。
やはり、それがショックだったのだろう。
クレアもジェノサイドゼリーなどと呼ばれ、超能力関係の掃除屋として重宝されてきた。人を殺すことには抵抗ももう無い。だが、今でも破りたくない最後の一線というものはあるし、助けの手を伸ばせる相手には伸ばしたい。
米国に雇われて汚れ仕事をしている今でも、心まで闇に染まりきってはいないつもりだ。
だから、そのためにも。
恐らくロシアの闇の世界で蠢いている邪悪を、今此処で確実に葬っておかなければならなかった。
精神を集中する。
いっそのこと、瓦礫をもう一度、徹底的に押しつぶすのが早いと思ったからだ。テトリスは俯いたまま動かない。彼奴の手当は後でしてやらなければならないだろう。国に帰ったら、多分あまり良い待遇はないかも知れない。原初の超能力者だから殺されるようなこともないだろうが、多分一生自由はないだろう。
だが、今よりはマシだ。たまにクレアも会いに行ってやるし、他の超能力者のネットワークにも働きかけてみても良い。
テトリスは動かない。
だから、クレアだけでとどめを刺そうと思って、力場を展開しようとした瞬間。
全身が、総毛立つのを感じた。
ダイナマイトでも爆発させたかのように。瓦礫の山とかしていた研究棟が、真下から吹き飛んだのは、その瞬間である。
そして、「それ」が、姿を見せた。
本当に、そいつが元人間だったとしたら。一体どれだけのおぞましい研究の結果、作られたのか。
今、クレアはやっと奴の能力がどうして認識阻害であったのか理解できた。
其処にいたのは、背丈にして三メートル以上は軽くある、巨大な肉のつぎはぎだった。頭だけでも十個以上が視認できる。腕が足が彼方此方から生えていて、ぼろぼろの服を拘束衣のように纏った巨体からは、おぞましい腐臭が漂い出ていた。
ホラー映画を見ていて楽しいのは、その場に自分がいないからだ。
こんな化け物を、まさか至近で目撃する機会が来るとは、思わなかった。
「イワンコフ博士……!」
「おのれ……! ジェノサイドゼリー! お前が口を突っ込まなければ、私はまだ寿命を気にせずにも済んだのに!」
複数の声色が重なり、怒声となって発せられる。
そして、クレアにも、今この化け物が、テトリスを育て上げていた理由が分かった。
これは、恐らく超能力者の融合体だ。かって、超能力の研究が最初に行われた時。誰もが悩んだのが、その微弱な力だった。今ではある程度超能力の開発プログラムが実用化されているが、当時は素質と才能が全てで、しかもあったところで大したことは出来なかったのである。
其処で、こんな怪物が作られたのだろう。一人で足りなければ、数を継ぎ合わせれば良いと言うことだ。
人格が分裂気味だったのも、それで説明が付く。そして、テトリスを求めた理由も。
もう、寿命が限界なのだ。育て上げたテトリスの肉体を取り込むか、或いは移植するかして。ただ、生きたかったのだろう。
怪物にされ、己の姿も晒すことが出来ず、そしてただ朽ち果てようとした。その無念、如何ほどだろうか。
だが、だからといって。この怪物を、逃がすわけにはいかない。
テトリスは青ざめたまま立ちつくしている。
闇の中を生きてきた彼奴も、此処までの非常識に直面するのは初めてだったのだろう。
「イワンコフ博士! まさか貴方、自分でその体になったのか!」
「そうだ! 私こそは超能力研究の開祖! 多くの子供達をモルモットとして死に追いやった悪の元凶! だからこそ、研究は必ず完成させなければならなかった! 己がどうなってもだ!」
「現在、超能力の研究はある程度まで進んでいる。 才能も素質もない私が、ジェノサイドゼリーとか言われるくらい成長するまでにだ。 貴方は、ただ死にたくない。 それだけ、なのだろう」
呻き声。そして絶叫。
辺りを、力場の嵐がなぎ払う。本気で来たか。
あの姿からして、本気となると、あらゆる種類の超能力を使いこなすと見て良いかも知れない。
お気に入りのセーターが、彼方此方破けた。防御しきれるものではない。吹き飛ばされないようにするだけで精一杯だ。
「茄子、頭を撃て! それで弱体化できる!」
「て、戦うつもりですか!? 逃げましょうよ!」
「テトリス、お前喰われて死にたいか!? いやだったら私と一緒に戦え!」
走る。
すっころびそうになる。辺りは瓦礫だらけだ。嘲笑と共に、巨大な力場をぶつけてくるイワンコフ。至近に、力場を複数展開させて防御。力の向きを変える。
だが、変えきれない。
まるで放り投げられた人形のように吹っ飛び、地面に叩きつけられる。
流石だ。途轍もない。
ロシア語。どうやら兵士達が集まってきたらしい。だが、悲鳴を上げて喚き散らしている。逃げろ。ロシア語で叫び、力場を展開。兵士を潰そうとしていた力の奔流を逸らす。足下が大きく抉れたのを見て、兵士達はカラシニコフを乱射しながら、逃げ散る。流れ弾で傷つかないといいのだけれどと、クレアは思った。
「何なら、お前でもいいか!」
イワンコフが、巨体を引きずりながらこっちに来る。茄子が腰を落として射撃。頭の一つが、血を拭いて吹っ飛んだ。かなり口径の大きな銃を使っている。
イメージ。
無数の色の、ゼリーの塊。それを上から落として、積み上げていく。色が四つ揃えば消える。これが、力を発動させる時のルール。そう、自分で決めた。
これを利用して、連続して消せば消すほど、強力な力場を展開できる。
一般的に、余計なリスクが大きいイメージの方が、能力も強力になる。多分、超能力研究の根幹にある、意識の統一にそれが関係しているのだろう。複雑な関門をクリアすることによって、能力のためを効率よく行い、より激しい放出に変えるのだ。
だが、当然のことながら、大技にはそれに相応しいためがいる。連続攻撃に向いているテトリスに比べて、此処がクレアの弱点だ。年の功でこの間の戦いでは凌いで見せたが、実際には長期戦になれば不利だった。長期戦になどさせはしないが。
今、クレアに出来るのは。
伸びた振りをして、一気に力をためること。だが、イワンコフは、クレアを嘲笑うように、見えない手を伸ばして、クレアを空中につり上げた。
「お前のイメージが何だか知らんが、首を締め上げられて集中もあるまい!」
「博士を離せ、この巨大ゾンビ!」
茄子が絶叫して、更に頭を一つ撃ち抜いた。
だが、鼻で笑うイワンコフ。
「それはもう寿命だったからな。 失っても惜しくない。 今、欲しいのはテトリスだけだ。 いや、このジェノサイドゼリーでも!」
「11,12,13,14……」
緻密に計算して、連鎖の数を積み上げていく。
此奴を潰すには、極限の技を叩き込まないと無理だ。首を絞められて、つり上げられて。意識が遠のく。だが、それでも。クレアの中には、くっきりとイメージが浮かび上がっている。
負けるか。
そう決めて、ずっと戦ってきた。
だが、意識が、心が折れそうになることもあった。そんなときに思い出したのは、自分を馬鹿にした連中だ。馬鹿にされっぱなしでいいのか。そう思うと、心も燃え上がった。
「しぶといな。 ほそっこい首の癖して」
更に茄子が頭を撃ち抜こうとするが、無造作に振るわれた腕が伸びる。鞭のように撓った腕が、茄子を吹き飛ばした。無惨に地面に転がる茄子。意識が飛んだか。
立ちつくしているテトリス。
動けないか。無理もない。今までの、全てを否定されたのだから。
16で、ついに頭が働かなくなる。しかし、分かる。16で、此奴が展開する力場の壁を、突破することは出来ないだろう。あと少し、あと少しなのに。
地面に転がっていた茄子が、小さな口径の拳銃を発砲した。イワンコフの腕に、赤い華が咲く。
一瞬だけ、隙が出来る。
テトリスが、顔を上げた。
目が、燃えている。
そして、その手が、ゆっくりと上がった。
怪物の腕が、一本吹き飛ぶ。
イワンコフの顔が、無数にある顔が、違う表情を浮かべた。
驚き。怒り。困惑。
「おのれ……。 まだ逆らう気力があったか!」
テトリスが走る。走りながら、力場の塊を連続して投げつける。だが、不意打ちではない状況、イワンコフの防御壁は完璧だった。どれもが軽々弾かれる。
キャタピラの音。戦車か。
多分、軍基地の連中が、引っ張り出してきたのだろう。どのみち、このままでは詰みだ。テトリスは、クレアの言葉を聞いていた。だからこそ、今動かないといけないと思った。色々と、心は整理できていない。
だが、今動かなければ。
今まで生きてきた事に、本当に意味が無くなる。そんな気がするのだ。
イメージの中で、ブロックを高く高く積み上げていく。
隅だけを、開けて。
狙うは、四連続での必殺攻撃。都合良くイメージが出来るかは分からないが、これが連続して決まれば、イワンコフの防御網であってもただではすまないはず。ましてや奴は、今クレア博士からの攻撃を警戒して、力を割いている。
無数に生えているイワンコフの頭が、額に血管を浮かべながら吠える。
辺りの地面が、重機が掘り返したかのように抉れ、吹っ飛ぶ。もろに巻き込まれたテトリスは、痛いと思う前に。
だが、快哉の声を挙げていた。
吹き飛ばされながらも、両手を挙げて、力場の塊を作る。
そして、四回連続。
イワンコフの体の中央に向けて、力を投げはなっていた。
「良し、上出来だっ!」
クレアが叫ぶ。今の隙に、多分最高の攻撃を準備していたのだろう。イワンコフの防御力場を、四連続で打ち据えた。壁に、罅が入るのが分かった。
そこへ、真上から。
とんでもない量の力場が。小さな塊状の力場が降り注ぐのが、テトリスには分かった。
「十八連鎖、喰らえ!」
怒濤の中で、イワンコフは。
怪物の頭達は。潰されながらも、どうしてか。
最後に、安堵の表情を浮かべていたようだった。
6、その先に
フードを被って、スラムの一角に座り込む小柄な影。
其処に歩み寄っていったクレアは、オレンジ味の炭酸飲料が入ったペットボトルを手にしていた。
「テトリス」
「あんたか」
顔を上げたテトリス。吹き飛ばされた時に出来た傷で八針縫ったのだが、治療が終わるとすぐに病院を抜け出した。探し出すのに、随分苦労した。
ジュースを差し出すと、無言で受け取って飲み始める。
あれから、色々と分かった。
イワンコフの造り出した認識阻害の影によって、ニコラエフはずっと操作されていたと言うこと。あの黒服がそうだった。
それだけではない。
イワンコフは他にも多くの人間を、影によって操っていた。米軍にもその影は紛れ込んでいたという。
複数の影を、彼方此方に造り出し、しかも操作することが出来る。
そんな恐るべき能力者が、あの異形の正体だった。キース=ハワードも影の一人で、それで不死身とか言われていたのだそうだ。
クレアもあの後、いろいろあった。
どうにか軍基地を脱出したが、やっぱりその後でこってり絞られた。本来の目的はテトリスの確保だったのに、ロシアの闇世界の支配者を潰してしまった上に、軍基地で大騒ぎを起こしたからである。
しかし、実績は実績。
しばらくは、この仕事を続けることになりそうだった。それに、大物が消えたロシアの裏側はしばらく混乱が続く。米国としても、付けいる隙がおおきくなるという意味で、有意義であるらしかった。
ジュースを飲み終えると、テトリスは腰を上げる。
「世話になった。 あんたがいなければ、俺は今頃イワンコフの一部にされてただろう」
「最後はああなったが、気の毒な人だったんだろうな。 罪悪感に押しつぶされて、最後は身も心も化け物になった」
「そう、だな」
テトリスは、アフガニスタンにいくという。
故郷を見てみたい、と言うことだ。
気をつけろ等とは言えない。クレアも、色々と非常識なほど危ない所に足を運んでいるからである。
「その後はどうするんだ、テトリス」
「この国を、もう少しはどうにかしたい」
「そうか」
名刺を渡しておく。世界的に人気がある絵本の主人公である兎さんのマークが入ったものだ。
一瞬ぎょっとしたようだが、きちんと受け取ってくれた。
「あんた、こんな趣味だから、子供だと間違われるんじゃないのか」
「ええい、私の大好きなキャラクターにケチをつけるな! それにリアル子供に言われたくないわ!」
「俺は子供じゃない。 年齢が合わないだろう」
頭を掻いて、溜息をつく。
確かにその通り。ソ連が超能力研究を行っていたのは、ずっと昔のことだ。完成したのは崩壊寸前ともきいているが、いずれにしてもテトリスがその時期の人間だとすると、確かに年齢が合わない。
恐らく、研究の過程で、年を取らないようになってしまったのだろう。少なくとも、クレアよりは年上の筈だ。
「じゃあな、ジェノサイドゼリー。 敵として会わないことを祈るよ」
「困った時には、いつでも言ってこい。 力になる」
テトリスは片手を挙げると、スラムの闇に消えていった。
クレアはコートをかき寄せる。いつの間にか、後ろに茄子が立っていた。あれだけぼこぼこにされたのに、すっかり元通りである。サイボーグかなにかじゃないのかと、一瞬疑ってしまうほどだ。
「クレア博士、あの子結局、女の子だったんですか?」
「想像に任せる。 もっとも、女の子、てトシじゃないけどな」
呆け茄子が何か言う前に、クレアは身を翻し、戻ることにした。
長居するには、此処は寒すぎる。
一旦ホテルに戻って、あまーいあまーいココアを飲みたい。そう、クレアは思った。
(終)
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