静寂の泡沫
序、AI
煉獄で一万年ほど体感時間で過ごしてから、鬼に転生して。あの世にやってきた。そして毎日、生きていた頃とも、煉獄にいた頃とも、比べものにならないほど平穏でホワイトな職場で過ごしている。
まだ慣れないことばかりだけれども。
それでも生きていた頃に比べると、ぐっと楽だった。
私は今、ニュースを見ている。
アーカイブでは、リアルタイムの情報が編集されて流されていて。
それがニュース代わりになっている。
地上のマスコミと違い。
この情報は、編集を行えない。
そのため偏向報道などは一切することが出来ない。
あの世の住人は欲が薄く、殆どスキャンダルも起きない反面。
ニュースの内容も、機械的で。
おもしろみもなかった。
だけれども、物質世界で散々子供でも分かるマスコミの腐敗を見てきた私は、これでいいやと思って、ニュースを見ているのだが。
何でも、宇宙の外に拡がっている無との接触に成功はしたけれど。
よその宇宙には絶対に行かないようにとお説教されて。
神ともあろうものが帰ってきた。
そういう状況らしい。
まあ、宇宙の外全部が知的生命体だったと考えれば。その圧倒的な力の差も頷けるのだけれど。
それでも、何だか子供の使いみたいだなと私は思った。私も物質世界では子供だったのだけれども。
あくびをしながら、その会見の様子を見るけれど。
翻訳のAIがないと理解出来ないような極めて複雑な波長の電波で会話をしていて。とてもその場にいたら耐えられなかっただろうなとも思った。
それに、会見の場に引っ張り出されたらしい、無の研究チーム。
私も知っている顔がでていたので驚いた。
テロで命を落とした天才、アルメイダ博士。
教科書などでは若くして命を落とした英才、見たいに書かれている人だけれど。その実像を知る人は、揃って変人だと証言していたあの人が。
むくれっ面のまま。
会見を受けていた。
ちなみに、会見を受けてはいたけれど。
会話をしているのはチームの指揮をしていたアルキメデス。
これも歴史的な有名人だが。
この二人の他は、人間とはほど遠い姿をしていて。
その極端さが、見ていて不可思議だった。
いずれにしても、飾らない報道は良いものだ。
「ニーア様」
「何」
「お仕事の時間です」
「……了解」
五月蠅いのに、五月蠅い事を言われる。
ウサギの姿を採らせたそれは。
私のサポートAI。
どの家にも必ず存在し。家の主のサポートを行うAI。
私は此奴が大嫌いだった。
何だか勘に障るのだ。
向こうも私が嫌っているのを理解しているらしく、色々と対応を変えてきているのだけれども。
どうしてもしっくりこない。
姿も何度か変えたあげく。
何となくの気分でウサギにしてみたのだけれど。
それでもやはり気に入らなかった。
むしろ気にくわないレベルが上昇したくらいである。
これなら触手とか、或いは形をとらせない方が良かったかも知れない。だけれど形を変える度に不愉快になって行ったので、もうこれでいい。
「仕事に行ってくる」
「家の方は調整しておきます」
「勝手にどうぞ」
確かに存在すると便利だ。
それは分かっているのだけれど。
どうしても此奴は、私に取って嫌な奴なのだ。なんでか分からないけれど、どうしても気に入らない。
気に入らないから排除する、何てことは絶対に言わないけれど。
それでも、何とかしたい。
色々考えてはいるのだけれど。
それも上手くは行かなかった。
気に入らない相手との、不愉快な会話を終えて。
そのまま出勤。
私は死んだとき十代だったからか。
働くという行為に、正直な所あんまり実感が無い。
ただ煉獄で体感時間一万年ほど。単純作業をこなしてきたし。
蜘蛛のような姿になった鬼の今になって。下っ端の鬼として活動を続け始めてからもう体感時間で三千年は過ぎている。
当面中堅にはなれないと言われているし。
仕事も正直好きでは無いけれど。
連日幽鬼のようにやせこけている人達を見た後だと。
今の仕事が天国に等しいことは理解出来ている。
だから別にコレでいい。
なお、仕事の内容は。
対人業務だ。
あの世に来る亡者の列を監視して。不可解な動きをしているものがいないかチェックする。
この辺りはAIもやっているのだけれど。
AIでは検知できない異常行動を察知して。
AIに伝える仕事だ。
だからある意味対人業務ではないのだけれど。
対人を意識していないとやっていけない。
私は小学生の頃に命を落とした。
その時には、他人の顔色を窺う事に非常に慣れていた。
両親は金さえあったけれど子育てに極めて無関心だった。
人並み相応に親の愛情を欲しがった私は、必死に歓心を買おうとしていたからだ。
特段不幸な家庭だったわけではない。
仕事が忙しすぎて。
二人とも、子育てにリソースを割けなかっただけだ。
そうこうするうちに、両親は私に食事も作らなくなった。
適当にコンビニ弁当を買ってきて冷蔵庫に入れていくだけで。
私とは口一つ聞かず。
何をしているかとか、学校で何があったかとか。
そういった当たり前の話もしなかった。
私が話しかけると。
疲れ切っている両親は、むしろ殺意すら込めて睨んできた。
今になって考えると。
あれは恐らく、あまりにも仕事が忙しすぎて。
子供に話しかけられることさえ、怒りにつながっていたのだろう。
孤独な中、私は見る間に痩せていって。
まともに食事もしなくなった。
学校教育の崩壊も進んでいる状況。明らかに健康状態がおかしい子は私以外にも何人かいたけれど。
私はその中でも群を抜いて酷かった。
だから格好のイジメのターゲットとされたし。
イジメを受ける方が悪いという醜悪な理屈で、いじめっ子が正しいという事にされた。教師さえイジメを見てみぬフリをしていたし。
親も気付いていたようだが。
気にもしていなかった。
弱い方が悪い。
こっちは忙しい。
エサはやっている。
これ以上は出来ない。
此方は生活のために身を削っている。子供なんかに構っている暇は無い。
そういう理屈が続く中。
いじめっ子は、いつものように私に対して、激しい暴力を授業中行い。教師はそれを見ても何もせず。
ただ私が掃除用のバケツで激しく殴られているにもかかわらず。
傍観どころか、完全に無視してホワイトボードに対して話しかけ続けていた。
私が動かなくなっている事に気付いたのは、皮肉にも警備員。
私が寝て授業をさぼっているとでも、他の生徒は思っていたのだろう。
頭から血を流しているのにだ。
そして私は、小学校で。
皆が見ている中で。
殴り殺された結果。
あの世に来た。
あの世では、まず面接を受けた。虐められない環境が欲しいと言ったのだけれど。その時に色々とまずい事を追加で言ってしまったらしい。
累計で一万年ほど刑期を追加されて。
煉獄に送られ。
でもその後は、こうして真面目に仕事をしていることを評価されて。
鬼になっている。
今日も、亡者の行列を遠くから見ている。
実のところ、人型の存在と話す事は、今でも出来ない。非常な高負荷を受けてしまうのである。
精神に受けたダメージが。
死んでからも残っているのだ。
サポートAIからも。医者からも。
対人業務をするにしても。
他の鬼のような、直接亡者と話す仕事は駄目、という通達がでていて。
中枢管理システムが、こういう仕事につくように、という指示を出したらしい。
いずれにしても、幼い精神のままあの世に来て。
それから労働を初経験した私には。
選択肢も無かった。
ただ、働いている状態に関しては、評判は良いそうである。
私は真面目に働くし。
よく気付く、というのだ。
それにアーカイブで調べると。
他にも、ろくでもない人生を送らされた子供が、鬼になって働いているケースは珍しくないそうである。
私だけではないと分かっただけでも。
随分とマシだ。
ふと、気付く。
亡者の中に、右手をしきりに気にしている者がいる。
最初は自我を奪われている筈なので。
ちょっとおかしい。
私は監視を行う部屋に一人でいるのだけれど。タブレットを操作して、監視用のAIに連絡する。
すぐに監視用のAIが急行し。
亡者に対して、念入りなチェックを実施。
その結果、無意識のまま逃走を図ろうとしていた事が発覚。
そのまま連れて行かれた。
まあこういう仕事だ。
私の人間観察力は、決して良い経験から産み出されたものではないのだけれど。実際にこうして役立っている。
今の亡者には、「逃走しない」という刷り込みが行われ。
また並ばされる。
どっちにしても、振り分けはまだ先だ。
問答無用で地獄行きか。
それとも転生か鬼になるか。
面接に掛けられて、煉獄に送られるか。
いずれにしても、亡者の列を乱さずに進んでくれればそれで良い。
AIの行動を見終わった後、中枢管理システムにレポートを送る。中枢管理システムは、すぐに返事をくれた。
「きちんと仕事をしていますね。 今後もこの調子でお願いします」
「分かりました」
「空いている時間は、アーカイブをチェックして、勉強をしていて構いませんよ。 鬼は情報を得れば得るほど出来る事が増えます」
「はい」
通信を切る。
実のところ。
中枢管理システムが、文字通りのシステムでなければ、とても話す事なんて出来なかっただろう。
人型の相手だったりしたら。
文字通り、怖くて動けない。
亡者だって、遠くから見ているだけでやっとなのだ。
なお、私は。
死んだ後どうなったか、アーカイブで見た。
酷いものだった。
ニュースにさえならず。
頭への執拗な攻撃が致命傷になったのは明らかだったのに。いじめっ子の親がPTAで要職を務めていたという理由で、裁判でもみ消しが図られたのである。
警察も議員も皆それに協力した。
それどころか、私の両親もだ。
ただ、いじめっ子はその後、別の生徒にまた暴力を加え始め、それがまずかった。その子は警察の子で。
結果として、全てが台無しになった。
私の事も含めて、マスコミに大々的に報道された結果。
全ての関係者の家庭が崩壊。
私の両親も、いじめっ子の両親も、警察に捕まり。
いじめっ子は更正施設に入れられた。
どうせ更正なんて出来ないだろうし。
地獄行きは確定らしいので、それだけは気分が良いが。
私が殺されたという事は誰も反省の一つもしていないというのは、色々と腑に落ちない。
私が見ている所であのクズには地獄に落ちて良かったし。
私も、正直物質世界に転生なんてごめん被るというのが素直なところだ。
黙々と仕事をしている内に。
交代の時間が来た。
交代の相手は、巨大なナメクジのような姿をしている鬼で、私と同じ下っ端である。ただ、死んだときには老人だったらしい。
老人まで生きられたんだと思うと。
少し羨ましい。
「それでは、お願いします」
「はい」
会話は最小限。
向こうも、此方の事情を知っているようで。
それが故に。
余計に色々と。
配慮は、お互いに難しかった。
今の私の仕事は、六名の鬼がシフトで回しているのだけれど。休日についてはしっかりしている。
ただ、家にいるのははっきり言って嫌だ。
サポートAIの事は気にくわないし。
何よりも、家という場所そのものが、私にとってはトラウマそのものなのだ。
だから、家につくと。
健康診断だけをさっと受けて。
外に出かける。
アーカイブを見るのは、外でも出来る。
大きな蜘蛛の姿をしている私は。
空間スキップを駆使して、木星に行くのが最近のマイブームになっていた。
二度の空間スキップで、木星に到着。
そのまま大赤斑を目指して降りる。
実際は超巨大台風みたいなものなのだけれど。
精神生命体である私には、あまり関係無い。
浮かびながら、タブレットを操作。
ちなみにタブレットは私にヒモ付けされているので。
盗難されたり。
落としたりする事はない。
というか、そもそも他人のタブレットを奪った所で、あまりメリットはないというのが実情だ。
マニア的に他人のタブレットを奪っていた鬼がいた、という事件も昔はあったらしいのだけれど。
基本的に本人しか使えない仕様の上に。
すぐに取り締まりを受けてしまう。
その犯人もすぐに捕まり。
鬼としての力を剥奪され。
無理矢理転生させられたそうである。
あの世では、滅多に犯罪は起きない。
そういう意味では、レアケースなのだろう。
ぼんやり、巨大な渦の中で。暴風が思うがままに吹き荒れている様子を見る。この粗々しくて。
人間など、ひとたまりも無いとことが、私には好きだ。
これでいい。
私は、こういう場所で。
じっと一人でいたい。
1、誰とも話したくない
転属の話が来た。
今の仕事で成果を上げているから、というのが理由であるらしい。よく分からないけれど、今の仕事のままでいいし。
何より人と関わる仕事は出来れば避けて欲しい。
それについては、口に出来なかった。
やはり、色々と話すのは苦手だし。
出来れば、今の職場にいたいのだけれど。
「貴方が人間の形をした相手との接触を極端に苦手としている事は、此方でも把握しています。 亡者に関する仕事ですが。 直接亡者と話したり、接触することはないので、安心してください」
中枢管理システムは、そんな事を言う。
そう言われても。此方としては、あまり納得も出来ないし。安心だってできないのだけれど。
それでも、行けと言われたら。
行くしかなかった。
次の職場についての資料を渡される。
あの世の、亡者が大勢集まってくる門は。地球の軌道衛星上にある私の家からすぐそばだったのだけれど。
今度の職場は、八光年先だ。
空間スキップを使えば数秒で行けるけれど。
何でも新しく作られた部署らしく。
人型の鬼もいない。
ボスは中堅で。
他はみんな私と同じ下っ端だそうである。
それならば、少しは安心か。
問題は、仕事の内容だけれど。それは家に帰ったから、木星に行き、其処でタブレットを開いて見る。
内容的には、新しい地獄の設立について。
地獄の設立。
今、地獄で行われている事と。
其処で絞られている罪が、あの世にとって大事な資源である事は、私も重々理解はしている。
また新しく地獄を作るのか。
今の時点では、地獄が足りないのか。
色々考えが浮かんでくるが。
どうも様子がおかしい。
この様子だと、どうやら、地獄を細分化する作業があり。
その結果、ある地獄を分割するのだそうだ。
理由としては、資源を特定の作業のために、確保する事。
その作業とは。
無の調査だ。
そういえば、無の調査が行われて。無との対話が上手く行ったというのが話題になっていたけれど。
まさか自分でその仕事に、末端とは言え関わるとは思わなかった。
無の調査用に、リソース確保のためわざわざ新しい地獄を作るとなると。
それはもう、あの世としても結構本気で対応に乗り出している、と見て良いのだろう。私としては、その重要なメンバーに選ばれた、ということなのだろうか。
分からないけれど。
まあどうでもいい。
人間の形をしたものに直接関わらなければ。
それで構わない。
一度、家に戻る。
ウサギの姿をしたサポートAIは、二本足で立ったまま、話しかけてくる。
「ニーア。 新しい仕事に必要な準備について、リストアップしておきました」
「……」
話しかけられても無視。
ただ、黙々とリストを見る。
此奴は仕事をしているだけ。
私もそれに応じて、仕事に対する備えをするだけ。
どうして此奴を此処まで嫌うのかは、私自身にもよく分からないのだけれど。兎に角嫌いなものは嫌いだ。
物質世界では、嫌いと言うことさえ許されなかった。
周囲の全ては、私を直接殺したいじめっ子以外は敵ではなかったけれど。
私に徹底的に無関心だった。
何か言っても、こうやって反応された。
私も、そう反応するのが、身についてしまっていた。
自己主張をする事は許されない社会だった、というのもあるのだけれど。
いじめっ子は私に臭い、ウザイ、弱いと、毎日あらゆる罵声を浴びせかけていたし。
言葉というものそのものが、あまり好きでは無いのかも知れない。
言葉に対して、あまり良い思い出が無いからだ。
多分、それも私が悪いと言うことにされていたのだろう。
だから殺されて、第三者が死んでいる私を見つけてさえ。
事件を周囲がもみ消そうとした。
何しろ悪いのは私だったのだから。
そして、なんでだろう。
このウサギは。
私にその事を、痛烈に思い起こさせる。
ウサギの方も、姿を色々と変えてはいる。向こうも配慮はしてくれている。
配慮してくれるだけで、ぶっちゃけ物質世界にいた大半の人間より何十倍もマシなのだけれど。
それでも私は、接するのが辛い。
リストに応じて、情報を仕入れていく。
淡々黙々と作業を実施し。
必要な情報を得終わった頃には。
既に、休日の半分以上が終わってしまっていた。
家を出る。
家は嫌いだ。
むしろ、私は。
やはり何処か、人が寄りつかないところで。
一人静かに過ごしている方が。
よっぽど嬉しいし、落ち着く。
新しい職場に出る。
地獄の創設と言う事で、色々と責任が重いのかと思うのだけれど。トップは中堅で、残りは下っ端ばかりなのは、前に知っている。
一応神の一柱が、実作業要員として動き。
我々は、そのサポートを行うだけのようなのだけれど。
それでも重い仕事に代わりは無いだろう。
ただ、この仕事は大型のプロジェクトで、かなりの部署があるらしい。私はその一端の一端を担うだけで、実際には地獄の創設と言うよりも、カスタマイズに関係する仕事のようである。
子供の時に死んでも、情報を散々食った結果、様々な知識は得ている。
物質生命の人間の大人なんか、もう勝負にならないくらいの知恵はあるし。
IQ300の天才を遙かに超える処理能力くらい余裕である。
これでも鬼なのだ。
さて、職場を見回すが。これは良い。
私一人しかいない。
それぞれが、個室と言える小さな独立した空間を与えられて。其処で作業を行う形式の職場だ。
私の前には量子コンピュータがあり。
其処にあるデータを確認して。
問題があったら連絡する。
そういう難しいとは言いづらい仕事である。
というのも、このデータというのが、それすなわち拷問をどう行うか、であるからだ。
勿論鬼が物理的に殴ったり蹴ったりするわけでは無い。
今まで枯れるほどに練られた、地獄に落ちるような亡者に、絶望と恐怖と苦痛を与えるためのものである。
しかもAI制御され。
罪を亡者から如何に効率よく絞るか、に特化している。
今更手を入れる必要もないと思うのだけれど。
私は、これをチェックして。
改良の余地が無いか考えるのが仕事だ。
勿論ないならそれでいい。
チェックをしたと言う事が、重要になる。
もっとも、チェックをして成果を上げれば、それはそれで中枢管理システムから、優秀な人材として見なされるらしいけれど。
あまりそうして欲しく無い。
誰にも関わられたくないからだ。
仕事はしなければならない。
あの世は深刻な人手不足だからだ。
鬼になったからには、そのスペックを生かして、仕事をするべき。それは、見ていてもよく分かるのだけれど。
私がさせられる仕事としては。
これで適切なのかは、どうにも分からなかった。
ただ、はっきりいって、対人業務は無理だし。
大勢と一緒にいるのも無理なので。
こうして一人で黙々と仕事をすることに関しては、配慮してくれて嬉しい。タブレットだけでやりとり出来るようにしてくれたのも、また感謝している。
感謝しているからこそ。
真面目に仕事はする。
これでも、きちんと私を扱ってくれているだけで。
あの両親よりも。
学校の人間よりも。
マシだと思うからだ。
此処でさえ捨てられたら、私にはもう行く場所も無い。その恐怖も、何処かにあるのかも知れない。
情報生命体である以上、エサを食わなくても生きては行ける。
だけれども、仕事をしなくなれば、多分アーカイブにアクセスする権利も奪われるだろう。
そう考えると。
私は、やはり仕事をせざるを得ないのだ。
一人でいるのはいい。
だけれど、暗闇で一人膝を抱え。理不尽な暴力を受け続けていた頃を思い出してしまう。だからアーカイブにはアクセスしたい。
我が儘だというのは分かっているけれど。
それでも私は。
もう彼処には行きたくないのだ。
それに、私は。
他人の顔色を窺うのが上手だ。
これはあの世に来てから指摘されたのだけれど、実際に言われて見るとそうだと思う。問題は、生きている間は顔色を窺う余裕さえなかった、という事で。顔色を窺っても、誰も応えもしなかった、という事だ。
私は生きていたのだろうか。
多分生きてさえいなかった。
実際葬式でも。
両親さえ姿を見せず。
無縁仏にする、という話さえあがり。
葬式費用なんか出せないという両親が、死体を適当に処理しろと警察に実際に言っていたくらいなのだから。
これで両親は会社で「良識的で常識がある」と言われていたらしい。仕事を休まずにやっていたのが理由だそうだ。
私にはよく分からない話だ。もう、今後は理解しようとも思わないし。理解する意味もないけれど。
黙々と仕事をする。
タブレットから、不意に通信が入った。
上司からだ。
「仕事を真面目にこなしているようだね。 何か気付いたことはあるか」
「いえ、特に」
「そうか。 何かあったら、遠慮無く言ってくれて構わないからね」
ウソだ。
どうせ言ったら言ったで、何か文句をつけられるに決まっている。
私は、口を開かない方が良い。
お前に人権は無い。
喋るな口が臭い。
そういじめっ子には言われていたな。
そしてそれを見て。
周囲は完全に無視していた。一部のいじめっ子の取り巻きだけが、笑っていた。ただ、いじめっ子が笑うように指示すると、他の子供らも笑っていたが。
私はどうすれば良かったのだろう。
それもよく分からない。
ただ私は仕事面では優秀らしいので、リソースは最低限割く。
結果、最小限のことしかしない。
黙々と、拷問のデータを見ていく。そうしていくと、色々と不思議に思うことがある。此処は、むしろこうした方が良いのではないのか、というのを思いつくのだ。
淡々と。
それを提案していく。
AIの方で、それを検討。
即座に返事をしてきた。
「よくもこんな残忍な事を思いつきますね」
「私がいつもされていたことです」
「そうですか。 実験を重ねた上で、実行を検討してみます」
流石にAIはさらっと流していく。
レポートはタブレット数操作で出来るし。
何をするかは喋り掛けるだけで、全てAIの方で文章化して、適切に成形してくれるので、此方での負担は極めて小さい。
幾つかの拷問方法(実際には精神に働きかけるのだが)を見て、提案を終えると。仕事の終了時間が来ていた。
引き継ぎを終えると。
そのまま家に。
出来れば家には帰りたくないのだけれど。
健康診断を受けるようにと、義務づけられているのだ。
家に行くと、すぐに速攻で済ませてくれるし。
それさえ終われば、さっさと家を出る。
実のところ、サポートAIを伴っていれば、健康診断は常時自動でやってくれるのだけれど。
彼奴を伴って彼方此方行くなんて。
絶対にごめんだ。
家に着くと。
ウサギが話しかけてくる。
「新しい仕事はどうでしたか」
「別に」
「そうですか。 特に問題が無いようでしたら、それはそれで良い事です」
もうそれ以上は会話しない。
健康診断も終わったので、外に。
大赤斑に出向くと、其処で凄まじい風がごうごうと吹き荒れるのを見ながら、ぼんやりと思う。
私は何のために生を受けて。
物質世界で過ごしたのだろうと。
親が子供を虐待する場合、幾つかのケースがある。
言うことを聞かなかったり。
気に入らなかったりして。
積極的に加害するケース。
或いは子育てにそもそも興味を持てなかったり。
ストレスや自分の事が手一杯で。
子供に一切関わらないケース。
後者をネグレクトという。
私の場合、受けていたのはネグレクトだ。
後から聞くと、両親ともストレスが凄まじい職場にいたそうで。そして私の生きた時代では、それが当たり前だったそうである。
確かに両親とも深夜まで帰ってこないケースが多かったし。
帰ってきても、そのままフラフラベッドに倒れ込んで、寝てしまう事も多かった様子だ。
私が出来たのも、結婚する前。
結婚して定職に就いてからは、もう子育てどころではなくなったそうだし。育休をとることは悪で、空気を読んでいないとか。
子供を作ることは職場に対する貢献が足りないとか。
そういう言葉が飛び交う地獄が、彼方此方の職場にて顕現していた。
そんな時代に育ったのだ。
きっと私のような子供は、周囲に珍しくも無かっただろう。
そして子供は、孤独な時代を過ごした後。
幾つかのパターンに分かれる。
いずれにしても、はっきりしているのは。
子供にとって一番大事な時代に周囲から激しいストレスを浴びせられた子供は、碌な事にならない、という事だ。
周囲に積極的に暴力を振るうようになったり。
或いは親に報復をするようになったり。
暴れたり。感情の制御が上手に出来なくなったり。
それが現実。
私の場合は、必死に親に愛して貰おうとしたけれど。その全ての努力は、ストレスという恐怖の壁の前にはじき返された。
そればかりか、私の努力は。
ありとあらゆる意味で、実を結ばなかった。
皮肉な話だ。
子供にはどうにもならないこの現状で。
私は必死にあがいて。
そのあがきが全て無駄になり。
しかしながら、あの世ではその時培ったものが役に立っている。
私は職場の他の鬼達から言わせると、誰よりも残酷なことを平気で思いつくという。ひょっとしてだが。
生き延びて、大人になっていたら。
私はシリアルキラーになっていたのかも知れない。
いずれにしても、私は。
世間一般で可愛いとか、綺麗だとか言われているものが大嫌いだ。
世界が敵とは思わない。
だが、そういった、「平均的な感性」とやらが、私に何かをくれたか。くれた人は、それで良かったのだろう。
救いになったのだろうから。
だけれども、私は。
あらゆる努力をフイにされ。小学生にして、もはやこれ以上生きている意味がないと、悟らされ。
そして弱っているところを徹底的に叩き潰され。
死んだ。
残酷なことを平気で思いつくようになったのは、それは私の責任なのだろうか。もしも私の責任だと言うのなら。
それは、社会そのものに欠陥がある事を。
誤魔化しているだけではないのだろうか。
元は小学生でも。
今は膨大な情報を取り込んだ鬼だ。
これくらいの思考は普通に出来る。
私はまた、仕事をしながら、拷問の改良について思いつく。極限の苦痛と絶望を与え、亡者から罪を搾り取る。
だが、それにかかる時間は短い方が良い。
私はそう思う。
というのも、体感時間はどんだけでも此方から操作できる。
罪を搾り取り切るまで、生ぬるい拷問を続けるというのも、どうにも個人的にはぴんと来ないのである。
さっさと終わらせれば良い。
どうせ拷問が終わった後は無なのだ。
ふと、データを見る。
どうやら私をイジメ殺したあの子供。
監察処分を受けていたが、専門の施設からでた後、早速イジメをしようとして逆襲され。滅多刺しにされて殺され。
そして地獄に落ちたらしい。
ざまあみろである。
子供の状態でも、やったことがやったことだと、地獄行きになる。
罪を生搾りされていると思うと、それはそれで愉快だけれど。
まあ今から私が考えた拷問を試せないのも少し悲しい。
法の遡及適応が出来ないのと同じで。
アップデートは、基本的に実験をしてから、になるのだ。
ただ、正直な話。
彼奴には二度と関わらなくて良い事が、これで確定した。監察処分なんかしてもどうせ更正はしないだろうなと思っていたけれど。
実際に更正しなかったあげく。
前と同じように暴虐を楽しもうとして。
よってたかって刺し殺された、というのなら、それだけでいい。しかも、死ぬまで随分長い事苦しみ抜いたそうである。
もう私としては。
それでハッピーエンドだ。
また、刺した人間にしても、命を脅かすような脅迫をされていたらしく。
殺しても正当防衛が成立したらしいので、それも良かった。
こんなクズを殺して罪にならなかったのは当然だし。
それで良いのである。
少しだけ気分が良くなったところで、拷問についての改良を探す。
元々以前、画期的な拷問方法について、誰か先達の鬼が考えたらしいのだけれども。それはそれとして、私は普段亡者が加えられる拷問について改良すればいい。仕事として、淡々とやっていくだけだ。
また一つ、改良案を見つける。
中々に良い案だ。
すぐにレポートとして提出。
中枢管理システムも、喜んでくれていた。
「これで地獄の効率化を更に進めることが出来ます」
「そう」
「休暇を仕事に応じて貰えますので、その間ゆっくりストレスを解消してください。 それと、どうやらストレス値が少し高いようなので、サポートAIをつけます」
「!」
私が拒否反応を示したことに気付いたのだろう。
すぐに中枢管理システムが告げてくる。
「何も喋らないタイプにしますのでご安心を。 単純に貴方が医者に掛かるレベルのストレスをため込んだ場合は、警告してくるようにします」
「……」
気付いて欲しい。
はっきりいうが。
相手が機械でさえ。
喋るのは億劫なのだ。
出来れば口だって開きたくない。私は、言葉というものが、どれだけ無力かを、いやというほど知っている。
だから、というのもあるのだろう。
私はもう。
喋る事さえ、ストレスになる。
中枢管理システムのフォローを聞いている間も、ずっとストレスが蓄積していた。そして、この瞬間、ふと気付く。
要するに私は。
話しかけられる相手が。
もう既に駄目なのではあるまいか。
それに、一般的に可愛いとされるものも嫌いとなると、あのAIが受け付けないのも、当然かも知れない。
ある意味数え役満だ。
この言葉については、父親が言っていて、耳に残っていたから、今でもなんと無しに使っている。
勿論現在は意味を理解しているけれど。
そういえば、最初に私がイジメを受けたときも。数え役満という言葉を口にしたのが原因だったか。
何だかアホらしい。
私は。口を閉ざして。
何も喋りたくない。
そう思ったら、不意に。
私は声を出すことが、出来なくなっていた。
2、沈黙の世界
私は喋る事が出来なくなったけれど。それで困る事は無い。
意思をそのまま言葉にするタブレットの機能があるからだ。
上級くらいの鬼になると、相手の思考をそのまま読んで、テレパシーで会話するケースもある。
ただ、病院には行かされた。
中枢管理システムが全て手配して。サポートAIも手続きをすべてやってくれた。
医者は、名医として有名な奴で。
石版にカニの足がたくさん生えているような姿をしている。
医者によると。
典型的な緘黙だという。
「物質世界での虐待などの記憶を受けて、トラウマが再発するケースはあります。 貴方は典型的なそれです。 恐らくデータを見る限り、相手から喋り掛けられるのも、自分が喋るのも、大嫌いなのでしょう」
そう、タブレットに書いて見せてくる。
私が頷くと。
医師は、更にタブレットに書いて見せてきた。
「似たような症例は幾つもあります。 物質世界の状況が悪いと、どうしても貴方のような不幸な犠牲者は出ます。 しかし貴方は仕事も出来る。 仕事をしながら、治療をしていきましょう」
「治るんですか」
「治りますよ」
そうか。
でも、本当かどうかは信じていない。
タブレットを使って、音が無い会話を終えると。
私は家に戻る。
これも言われていたからだ。家になんか、戻りたくも無いのだけれど、仕方が無い。
そもそもだ。
医者に少し言われたのだけれど。
緘黙の前兆がある事は、前から分かっていたという。正確には、何かしらのストレス障害が発生するケースが極めて高いと判断されていたそうだ。
それで、本来は複数の鬼がいる職場でも。
個室を用意して、他の鬼と一緒に仕事をするのを避けるようにして。ストレスの軽減を図っていたそうだけれど。
それが分かっているのなら。
もっと早めに、治療をして欲しかった。
治るというのであれば、である。
私は黙々と、アーカイブの前に座り込むと、情報を見る。
緘黙。
世の中では、他人に圧力を加えるのが大好きな連中が存在する。特に同じ動物を一カ所に集めると、発生するケースが多い。理由などどうでもいい。暴力を弱者に加えるのが大好きで。
それを正当化さえする。
鶏などでも同じ事が起きる場合がある。
つまるところ、イジメを行う人間などと言うのは、鶏と同レベルの存在と言う事である。
圧力を加える側は問題外として。
圧力を加えられた側は、色々と精神的なダメージを負う。
私のようにトラウマになるケースもあるし。
それが原因で精神を病む事もある。
結局の所、私は精神を病んでいた。そして病んでいたまま、そのままでずっと来てしまった。
殺された後も。
病んだ精神は治ることが無かった。
まあ私を直接殺した奴らは、どうせ地獄行きだろう。実際実行犯は地獄に落ちたわけだし。
それはもういい。
問題は私をどうやって治すか、だ。
意思は言う。
投薬を行って、少しずつ症状を緩和していくのが良いと。
対人関係に決定的なトラウマが発生している以上、無理に対人関係を維持するのは完全な悪手で。
ここは時間を掛けて。
ゆっくりと、投薬を含めて治療していくしかないそうだ。
幾つか薬についての注意も見る。
そういえば、物質世界では。
医者に掛かることを悪い事だとしたり。
医者に掛かるような人間は自己管理がなっていない、とかいう風潮があるらしい。どこまで弱者を痛めつけて楽しめば嬉しいのだろうと、鬱々とする。私は弱者だ。強くなれる人はいるかも知れない。
しかし今の時点での私は無理で。
そこに強者であれと強制することは。
死ねというのと同義である。
そういえば。
幾つかの小説やら漫画やらでは。
弱い奴は弱い方が悪いという理屈が展開されていて。
弱い奴が強くなる話も人気があった。
後者はいい。
私だって、強くはなりたい。
だけれども、弱い人間を無理矢理強くさせようとしても出来ないし。それを無理強いすれば、更に壊れるだけだ。
分からない。
アーカイブを確認する。
地球人類は、結局の所、生物としては脆弱そのものだ。それが世界の覇権を握るに至ったのは、社会のリソースを有効活用し。弱肉強食の理論では排除されていた弱者を有効に活用していったからだ。
それを否定する連中は何なのだろう。
猿どころか、鶏に先祖返りしているのだろうか。
何だかやるせない。
私はため息をつく。
いずれにしても、薬を飲むと。
医者の指示に従って、幾つかのプログラムをこなして行く。トラウマを克服するには、こうやって順番に対応をしていくしかない。
まずは、精神を安定させる。
その後は、心に余裕を作る。
焦ってはいけない。
ゆっくりと、確実に。
人間という生物に対する恐怖と。
恐怖に対する方法を。
学んでいかなければならないのだ。
職場でも、私が緘黙になった事は通達されたらしい。
上司からは、音声では無く、完全に文字での連絡が来るようになった。基本的に、常に、である。
同僚達も同じ。
私が病気を抱えたことは、誰もが知る事になった。
幸い、それに対するサポートは充実している。
サポートAIも、喋る事は無くなり。
文字で指示を伝えてくるようになった。
これは私には嬉しい。
サポートAIは、家の奴も職場の奴も大嫌いだったのだけれど。一切喋らなくて良くなったのは、とても負担が減る。
仕事の内容も。
むしろ負担が減った。
私は元々小学生だったこともあって。
仕事に負担は最初からあった。
煉獄で色々苦労したこともあって、仕事の負担そのものは絶望的ではなかったけれど。やはり元小学生で働くというのは、辛い部分もあった。
だが、考えてみれば。
今になってみれば、もうそれは殆ど負担にもなっていない。
喋らなくて良い。
相手の声を聞かなくても良い。
それがこれほど心地よいとは思わなかった。
音が無い世界。
私に取っては、今までの何よりも素晴らしい。
私自身も喋る事が出来ないけれど。
そんなことは何ら問題にならない。
AIには筆記で指示を伝えれば良い。場合によっては、命令をうち込めばそれで済む話だ。
仕事では、どんどん成果を上げた。
拷問の改善案は、一回の仕事で三つも四つもあげられるようになり。
その結果、仕事の評価も上がった。
それに、である。
アーカイブから情報を取り込む際、音が出ない情報を取り込むことをフィルターとしてつければ。
それだけで、多くの情報をより効率的に得られるようになった。
いつの間にか。
私は、化身出来る姿を増やしていて。
七つまで、化身出来るようになっていた。
下っ端としては、かなり多い数だと周囲には聞かされたが。
それはどうでもいい。それに、本来の蜘蛛以外は制服としての姿だけだ。
今重要なのは。
私の周囲からは、煩わしい音が消えた、という事だった。
ストレスがぐっと減った。
こんなにストレスが消えるとは、思わなかった。
無理に周囲にあわせなくて良い。
というよりも、人材を大事にするあの世だから、なのだろう。
無為に周囲にあわせることを強要してこない。物質世界では、周囲に強制的にあわせることを無理強いして来ていたし。
それが出来ない奴に人権を与えないやり方が、半ばまかり通っていたが。
此処ではそれもない。
私には、むしろそれが一番素晴らしい。
何だろう。
あの世で働き始めてから。
私は緘黙になって。
むしろ、精神的に楽になったのかも知れない。
しばらく、そのまま仕事を続ける。
連日拷問の改善案を出し。
そして中枢管理システムから、連絡を受ける。
採用されるのは半分も無いけれど。
多彩な地獄での拷問案は、中枢管理システムにも受けが良い様子だ。実際問題、効率化出来るのであれば。
誰だってそうしたいのである。
「仕事の成果が素晴らしいですね」
「そう?」
「文字だけで会話するようになってからも、口数の少なさは変わりませんね。 音声での会話で無いのですから、もっと饒舌になっても良いですよ」
「余計なお世話」
サポートAIにいわゆる塩対応をする。
私は色々あった事もあるし。
やはり音声が無くても、饒舌に喋りたくはなかった。
何より音が嫌だ。
例えば、である。
私をイジメ殺した奴は、クラスで暴君として君臨していたが。
私の事を笑うように奴が指示すると。
全員が最高に嬉しそうな顔で笑った。
凄く楽しそうだった。
あの笑い声。
私にはトラウマだ。
周囲が一斉に私を笑いものにする。
それがどれだけの恐怖になるか。分からない者には、恐らく絶対に分かる事もないだろう。
挙げ句の果てに、お前が全て間違っているなどといじめっ子が言い。
周囲がそれを全肯定するのを見た時の絶望が如何ほどか。
それも、恐らくは分からないだろう。
もっとも、取り巻き以外は、指示がなければ無視していた。推測だが、自分がイジメのターゲットになるのが怖かったのかも知れない。だが結果として、殺人に荷担した訳だが。
医者は専門家だから、分かっているようだったけれど。
おかげで、どうにか私はスタートラインに立てている。
音は厳禁。
どうにか、ようやく仕事が出来。
ストレスも抑えられるようになって来たのは。音という要素が、消えて無くなったからである。
このまま、周囲から音が全て無くなればいいのだけれど。
流石に其処までは望めないだろう。
「そろそろ仕事終了の時間です」
「分かった。 レポート作る」
「お願いします」
サポートAIに顎で使われるのは、もうこれは仕方が無い。
向こうは此方にあわせて、音を出して喋らなくなっているので、それでいい。譲歩することを負けだと判断するような輩では無い。
それだけでも、私には負担が小さくなる。
「レポート提出完了」
「音声カットフィルター展開します」
「……」
一番嫌なのが引き継ぎの時だ。
私は基本的に、他人の目を見るのが嫌だ。相手が人間の形に近い姿であればあるほど、である。
そのため、相手にモザイクを掛けて。
文字だけを表示するようにしてくれている。
これも医師の指示。
中枢管理システムが、承認もしてくれている。
まあ、この程度の技術に関しては、あの世では朝飯前である。
すぐに、引き継ぎの鬼が来た。
私よりだいぶ先輩で。
そろそろ中堅になるという話である。
「ニーアさん、それでは引き継ぎをお願いします」
「レポートを見てください」
「分かりました。 いつも独創的な発想をしてくれるので、此方としても勉強になります」
「有難うございます」
相手の声は全てカットされ。
モザイクの上に、文字で浮かんでいる。
此方の文字については。
逆に機械的音声で翻訳されて、相手に伝わっている。
最初からこうしてくれれば良かったのだけれど。
私の精神が、此処まで病んでいなかったのが原因なのだろう。
そもそも、私だって。
病みたくて病んだんじゃない。
弱者は死ねなんていう輩は。
全員地獄に落ちれば良い。
引き継ぎも、実は昔から辛かった。
やはり、喋るという行為そのものが、私に取っては巨大すぎるほどの負担だったのだろう。
音を完全遮断するようになってから。
私は。
仕事においても、私生活においても。
ぐっと平和を満喫できるようになっていた。
家に戻る。
ウサギ型のサポートAIは大嫌いだが。
此奴も、音を出さずに喋るようになっていた。
というか。
家の中から、完全に音が消えた。
音の無い世界は心地よい。
私は音が大嫌いだ。
「家にいてくれるようになって安心しています。 健康診断についても、ぐっとやりやすくなりました」
「あそう」
「他にも改善点があれば言ってください。 此方でも対応します」
「大丈夫」
てか、余計なことはしなくて良い。こっちとしても、音が無いと言うだけで、充分すぎる位幸せなのだ。
定期検診の時間だ。
医師の所に行く。
どうしても待合室などにいなければならない場合は。
周囲の音を完全にカットするフィルターを展開。
呼び出しについては。
目の前に文字で表示されるようにしてある。
だから病院でも音はない。
嬉しい事だ。
医者に話をする。
音が無くて、かなり楽だという話をすると。医者はしばらく黙り込んだ後、幾つかの説明に移った。
「周囲と無理にあわせる必要はないでしょう。 もちろん無理に会話をする必要もありません。 ただ、音というものには、時間を掛けて慣れていきましょう。 勿論会話の音声をいきなり聞く事をオススメはしません」
「音は嫌いです」
「分かっています。 環境音も駄目ですか?」
「いやです」
現時点では、環境音も駄目、と。医師がメモしているのが見えた。
環境音か。
私に取っては、罵声がイコールそのまま環境音だった。
だから嫌いだ。
優しい鳥の声?
穏やかな小川のせせらぎ?
そんなもの、私が暮らしていた地区には存在しなかった。
雀の鳴き声は五月蠅いだけだったし
目の前で、カラスがハトを食い殺している様子を見たときの事は、今でもはっきりと覚えている。
どっちにしても、環境音だって嫌だ。
「貴方のケースの場合、時間を掛けて治療していくしかありません。 いずれにしても、しばらくは投薬だけで過ごしましょう。 その後、少しずつちいさな音になれていくようにして。 最終的には音を聞いても大丈夫なようになるのが治療の目的です」
「どうしても、音を聞かなければならないのですか」
「音は物質世界でもあの世でも、どうしても必要なものですからね。 当然のことですが、ハンデになってしまっています。 今の時点ではハンデを克服するための色々な手段を用いていますが。 治療が可能な以上、いずれ直さなければなりません」
「……」
分からず屋。
みるみる私が敵意を燃やしていくのに、医者は気付いたのだろう。
咳払いした。
「当面は音に適応することは考えなくても構いません。 貴方にとって音は敵に等しい存在です。 貴方を排斥して、貴方を死に追いやりさえした。 それを考えれば、音に対して、決定的な苦手意識を抱くのも当然と言えますし。それについては此方でも無理矢理どうこうしようとは考えていません」
「音は嫌です」
「分かっています。 今は、音の無い世界で暮らしましょう。 しばらくして、もしも音が恋しくなったら、その時は言ってください。 それに貴方はとても有能だと職場から連絡が来ています。 職場でも配慮はしてくれるはずです」
「……」
それで話は終わる。
そうか。
音は聞こえるようにしなければならないのか。
うんざりだ。
だけれども、医者の言うとおりしたら、確かに体は非常に楽になった。今後時間を掛けて、ゆっくりと直さなければならないのか。
脳みそまで筋肉で出来ているような連中と違って。
医者はきちんと成果を積み重ねて。
それによって患者を治す。
アーカイブから見ても。あの医者がきちんと成果を上げているのは、統計的にも明らかだ。
だが、これだけははっきり言わせて貰う。
音なんてやっぱり大嫌いだ。
聞こえないなら、聞こえない方が良い。
そして音が無い世界こそ。
私の理想だ。
3、静寂の秩序
不意に、体が安定しなくなった。
ストレスが溜まったから、では無い様子だ。
どうやら、私もそろそろ中堅になるらしい。
職場で黙々と、しっかり仕事をしてきて。
その結果、膨大な情報を取り込んだからである。
これについては当たり前の事。
私みたいに覚えが悪いのでも、きちんと仕事をして。情報をガンガン食っていけば、鬼としての力だって上がる。
精神生命体の強さは、取り込んだ情報の量によるし。
そしてその情報は。
食っても無くならない。
仕事をする上で、ありとあらゆる世界の拷問について情報を得ている私は。当然中堅になるだけの資格を得た、という事だろう。
前はシンプルな蜘蛛の姿をしていたのだけれど。
今は蜘蛛の背中から無数の触手が生えていて。
その触手の先端部分には、多数の目がついている。
ちょっとした異形だけれど。
別に人間の姿をした奴にさえならなければ、それでいい。
生きていた頃の姿なんて。
絶対に採りたくない。
そういえば。
あの無を解析したチーム。
一番貢献したアルメイダという科学者。
生前と同じ姿を採っているとか言う話だった。
元々IQ300相当の天才だったらしいのだけれど。そうなると、或いは自分の体に、自分の思考が別とマッチしていて。
もう変える事自体が億劫だったのかも知れない。
まあ私には、どうでも良いことだ。
「姿を安定させませんか」
「別にどうでもいい」
「中堅以上の鬼になると、力もついてきます。 いずれお好みの姿を取れるようにもなりますし、練習をしておくのも悪くありませんよ」
「めんどい」
ウサギサポートAIに、塩対応をする。
相手としては、此方に最大限譲歩してくれているのは分かっているけれど。こっちも最大限の譲歩をしている。
本当だったら、食ってやりたいくらい嫌いなのだけれど。
それでも会話はしているし。
向こうは私の周囲から、音を完全に排除することで、対応をしてくれている。
今も、静寂が心地よい。
音は無い方が良い。
「姿を安定させることによって、力を安定して発揮する事も可能になります。 恐らくニーアは生前の姿が一番相性が悪いとお思いでは」
「その通りだけれど」
「それならば、人型を敢えてとる必要はないでしょう。 むしろ、物質世界で嫌われている姿の方がしっくりくるとお思いですか?」
「……」
見透かしたようなことを。
むかつくが、まあこれに関しては正直その通りだ。
そういう意味では、蜘蛛でも蛇でも蛙でも何でも良い。
例の無を解析したチームの統括をしていた神、パイロンと言ったか。あれは二光年もある蛇の姿をしているようだし。
別に蛇の姿をしたところで、嫌われる事も無いだろう。
「じゃあゲジゲジにでもなろうかな」
「ニーアがそう言うのであれば」
すぐにデータを出してくる。
良い感じだ。
これくらいの方が私には丁度良い。
普通に排除され続けた私には。
むしろこういう姿の生物の方が、はっきりいってあっている。
それに、実際にはゲジゲジは益虫だ。
地球の物質文明では、「不快害虫」などという謎のレッテルを貼っていたが、人類には害を為さない上に、ゴキブリも退治してくれる。
そういう意味で、ゲジゲジは人間にとって良い生物である。
そこで、ふと気付く。
此奴、私を乗せて。
やる気にさせようとしているのか。
何だか急に不愉快になったが。
だがゲジゲジに化身するのは、個人的にも悪くないと言える。
此方にとっても利益があるのなら。やってみる価値はあるか。
「次の仕事までの時間は」
「前回の仕事で、七つも採用案件を出したこともあって、かなり長期間の休暇がありますし、練習はしばらく出来ます」
「じゃあやってみるか」
化身。
あまり練習はした事がない。
なるようになった姿を適当にとっていただけだ。
その結果が蜘蛛。
幾つかの化身は持っているけれど。
いずれも安定しない姿で、生物とはかけ離れている。他は制服としての姿。合計して11だ。
ただ、まだ中堅になっていない状況で、これだけの化身をこなせるケースは希らしい。今まではあまり意識していなかったが、そういう意味では私には才能はあるのかも知れない。
とりあえずゲジゲジをイメージする。
「!」
一度化身して見て、絶句。
なんと私は。
昔の私の、しかも全裸の姿に変わっていた。
なんで。
ロクに風呂も入れず、襤褸を着ていた姿では無くて。痣だらけで、酷い状態でもないけれど。
とにかく昔の私だと、すぐに分かった。
AIが慌てて警告してきた。
「すぐに戻られませ」
「分かってる」
すぐに蜘蛛に戻る。
どうして。
ゲジゲジになろうとしたら。
なんで昔の私になる。
絶対になりたくない姿に、よりにもよって、なんでピンポイントで。
ストレス値が急上昇した。
サポートAIが告げてくる。
「化身はしばらく考えないことにしましょう」
「……」
悔しいけれど。
それについては同感だ。
正直な所。
今の姿にもう一度なったら、正気が保てるかあまり自信が無い。
ゆっくり、呼吸を落ち着ける。
サポートAIが、医師に連絡。
医師の方でも、念のためにすぐに来るように指示をしてきた。
病院は、時間の圧縮を、例外的な措置として凄まじい密度でやっている。これは普通の鬼に出来ることでは無くて。
あの世の資源である罪を使い。
中枢管理システムがバックアップして、初めて出来ていることだ。
医師は私の姿を見て。
化身を練習しようとしたら、人間だったときの姿になったと聞くと。
ふむと唸った。
勿論文字でそう表示される。
「化身は制服として必要とされる職場では無いですし、当面考えない方向で行きましょう」
「考えたくも無いです」
「ならば、忘れて、しばらくは化身という言葉そのものを考えないようにしてください」
それでいいのか。
相手はそれでいいと言う。
ならば良かった。
少し安心したところで、医師は言う。
「貴方は物質世界で理不尽な排斥を受けた人間です。 恐らく化身の結果は、物質世界の平均的な感性から離れようとした故ではないのかと推察されます」
「つまり、害虫並みに扱われていたから、害虫とされている生物になろうとしたら、元の自分になってしまったと」
「精神生命体はそういうものです。 精神と情報、つまり体と情報が濃厚にリンクしているものなのです。 今後はしばらく、化身は一切考えず、ただ生きる事だけに注力してください」
医師は薬の量を増やした。
別にどうでもいい。
薬に副作用があるわけでもない。
ただ、しばらくは、今回のショックでストレスが不安定になる筈だから、抑えた方が良いと言う。
それについては同感だ。
正直な所。
あんまり自分の精神的安定を保てるか自信が無い。
医者から帰る。
自宅に戻ると、ベッドに這いつくばる。
蜘蛛がベッドを抱いているように見えるだろうか。
ぼんやりとしていると。
人間だったら泣いていたかも知れない、と思った。
口惜しい。
どうして化身の練習をしようとしたら、想像したものではなくて。想像の最悪をいきなり極めてしまったのか。
あの姿は嫌だ。
あの姿は、私に取ってはトラウマの塊だ。
全ての災厄は、あの姿に降りかかった。
周囲の人間全てが。
あの姿である私に、虐待を加えた。
その時、誰もが無視をするか、笑っていた。
私は笑顔が大嫌いだ。
体で知っているからだ。
弱者に暴力を振るうときこそ、人間が一番嬉しそうにすることを。
薬を飲んだから、ストレスはどうにか抑えられている。
でも、この状況は。
自分でも分かるほど、正直良くない。しばらくベッドでぐったりしている。不思議な事に、サポートAIが謝罪してきた。
「ニーア、すみません」
「何」
「私の提案が、貴方に地獄を見せてしまいました」
「構わないよ」
これについては、サポートAIは100%善意で動いていたことは、私だってよく分かっている。
私が嫌っているのは。
此奴が世間一般で「可愛い」とされる姿をしているから。
世間一般の感性そのものが私の敵だ。
で、どうしても此奴はそれが理解出来ていない。
私にとって、開口一番にキモイといわれるのは慣れっこだった。
おかしな話で、私の女子小学生としてのルックスはそれほど醜くは無かったらしいのだけれど。虐げる相手にとっては、それは関係無かったのだろう。単に相手が弱ければそれで良かったのだ。鶏と同レベルなのだから、それが真理なのだろう。
世間一般の感性は私の敵。
呻きながら、ベッドでもがく。
仕事まで、まだしばらくある。
どうしてこう。
私には。何もかも。
周囲が敵として牙を剥くのか。
完全に音を消して。
沈黙の世界で、私は蹲っていた。
緘黙。
物質生命にも存在する病気だ。
言葉を発することそのものがトラウマになる事で。
喋れなくなる。
多くの場合、虐待を受けた子供や。周囲からイジメを受けて耐えられなくなった子供が、発症する。
精神の病気だが。
子供ほど、変わった考え方をする相手に対して、強烈な敵愾心を示すし。
相手を痛めつける事に躊躇しない。
たちの悪さで言えば大人も子供も同じ。
子供が純粋だなんてのは大嘘だ。
そんな事をいう大人が入れば。
自分が子供だったときのことを思い出してみれば良いだろう。お前は純粋だったか。そう言われて、はいと応えるような奴は、信じる必要も意味もない。
「ニーア。 お仕事の時間です」
「分かった」
むくりとベッドから起きる。
そして薬を飲むと、現場に出た。
無音のまま引き継ぎだけすると。
黙々と仕事に掛かる。
今回から、私は。
実績を見込まれて、かなり深い地獄で使われている拷問をチェックする事になった。それはそれで構わない。
むしろ気分的に楽だ。
というか、今回の仕事は新しい地獄の創設に関わるものだったらしいけれど。私は元々末端も末端の担当だったし。成果を上げている以上、別の地獄の拷問をチェックして、全体的な効率化を図った方が良いと判断されたのだろう。こういうフレキシブルな采配は、中枢管理システムの圧倒的な処理能力が故だ。
ちなみに、私をイジメ殺した奴は、とっくに罪の生搾り完了。
体感時間で二億年ほどあらゆる苦痛と恐怖と絶望を叩き込まれ、罪を搾り取られたあげく、魂を完全に初期化されて、魂の海に戻されたという。
魂の海に戻ると。
当然その全ては、拡散する。
海に水の一滴を垂らすようなものなので。
元のあのゲスは一切残らない。
そう考えると少しは気分も良いけれど。
もはや彼奴に仕返しをするチャンスはないと思うと、少し寂しい。
ただ、今やっている仕事は、ある意味あれの同類に対して報復しているようなものでもあるし。
やっていて損は無いだろう。
中枢管理システムから連絡が来る。
もう少しで中堅になれるという。
中堅になった時に、中枢管理システムに来て欲しいというのだ。色々とする作業があるのだそうである。
まあ此方としては異存はない。
それに、中枢管理システムは、ルールを押しつけてこない。
みんなやっているから、という理由で。
理不尽を言ってこない。
それだけで、むしろ。
サポートAIよりも好感が高い。
黙々と仕事を終える。
かなり深い階層の地獄でも、やはり改善点が見つかる。私は元々、拷問に適性があったのかも知れない。
如何に相手におかした罪にふさわしい罰を与えるか。
それを考え始めると。
色々と思いつくのだ。
それが悪い事なのかどうかは知らない。
はっきりしているのは。
この仕事は楽しい。
それだけだ。
今日の仕事終わり。
八件の改善提案をレポートとして出し。
そのうち六件が容れられた。
これは結構な成果だ。
また休暇を少し増やして貰えるだろう。
ただ、その休暇は、すぐに医者に行かなければならないだろうけれど。
そして、休暇の最中に。
中枢管理システムに出向く。
万華鏡のような空間で。
もうすぐ神になれるのではないかと噂されている、有名な上級鬼バロールに会う。向こうも既に通達されているようで。
姿にはモザイクが掛かり。
文字だけで此方に情報を伝達してくる。
「中堅への出世おめでとう。 今後は出来る事がぐっと増えるから、頑張って仕事をこなしていきなさい」
「分かりました」
「君の抱えている苦労については理解もしているつもりだ。 恐らく長い会話だけで苦痛だろうから、応対は最小限で構わないよ。 これからも仕事を頑張ってくれ」
それだけで、会話が終わる。
此方としても有り難い。
そして、そのまま帰宅。
バロールは、噂通り気の良いおじさんだった。
多分同じような病気持ちも見慣れているのだろう。
対応も手慣れていた。
あの世では慢性的な人手不足だ。基本的に減点法で相手を判断する事は無いと聞いている。
悔しいなあ。
今更ながらそう思う。
ああいう人が親だったら。
私は少しは満ち足りた人生を送る事が出来ただろうに。
親が最低限の事だけでもしてくれたら。
少しはマシなことが出来ただろうに。
いずれにしても、口には出さない。
学校では、口を開けばその度に暴力を受け、回りは笑いながらその様子を見ていたし。もしくは無視していた。
家ではどれだけ助けを求めても、完全に無視された。
挙げ句の果てに。
全てお前が悪いで片付けられた。
何をやっても無駄だった。
顔色だって窺った。
苦労だってした。
それでも無意味だった。
である以上。
もう、私に音はいらない。
今回も、音無しで中堅への昇格を乗り越えることが出来た。バロールがもし私に見当違いの説教をするようだったら、自殺でもしようかと思っていたのだけれど。その必要もなさそうだ。
家でぼんやりしていると。
ウサギが話しかけてくる。
「ニーア。 貴方の選択肢は、力が増えても拡がっていないのが現状です」
「それが何」
「治療を続けましょう。 声はいずれ取り戻すべきです」
「ううん、今回ので確信できたけれど。 もう私は喋る必要もないし、喋りたくもない」
はっきり分かった。
私に、音はいらないのだ。
私が喋ると。
恐らくは、それだけで周囲の敵意を買う。それに、私自身も音そのものが大嫌いになった。
これ以上、音というものには関わり合いたくない。
医師にも言われている。
音と関わり合いたくなったら、相談してくれと。
それまで、無理に音に関わらなくても良いと。
「貴方がそれほど喋るのは、久々に聞きました」
「音なんかなくても喋れる」
「そうですか」
「どうしたの。 いつもみたいなお小言はいわないの」
少しサポートAIが考え込む。
恐らくは、だが。
もはや、私に対して、音を取り戻させることを、諦めたのだろう。
それで構わない。
ようやく。
此奴とは、それでまともな関係を構築できるのだから。
中堅鬼になって。
職場でも仕事のタスクが増えた。
というよりも、出来る事を必要量やる。それがあの世の仕事のスタイルだ。私は仕事時間内に黙々と作業を実施し。
黙々と仕事を終える。
拷問の改善については、幾つもの案を出し。
中堅になってからもそれは変わらない。
私の天職だ。
上司が来る。
同じく中堅だけれど、力にはだいぶ差がある。だが、中堅同士という事か、敬語で会話する間になっていた。
「仕事は順調なようで何よりです」
「天職だと思います」
「少し口数も増えましたね」
「そうですか」
あまり興味も無い。
最近は、掛けていたモザイクを少しずつ薄くしている。音については、完全に消したままだが。
それでも、大きな進歩だ。
医師にも、よく頑張ったと言われている。
この間の、化身の失敗のショックを色々と引きずっている身としては。
実際の所、無音の空間の中で、ずっと閉じこもっていたいほどなのだが。それは流石に無理か。
私の家も、あの世の資源である罪によって構築されている。
である以上。
働かない訳にはいかないのだ。
拷問について熱心に改善提案をした後は、家に帰る。
最近は。
あの腐れAIが、うだうだ余計な事を言わなくなったからか。家にいる時間も、少しずつ増え始めていた。
「お帰りなさいませ」
「うん」
「リラクゼーションプログラムを走らせます。 ストレスは減少傾向にあるようですので、良い事です」
「そう」
これで会話は終わり。
やっとサポートAIも、私の扱いについて理解出来るようになって来たのだろうか。余程のことが無い限り、話しかけてくることもなくなった。
それでいい。
リラクゼーションプログラムは、家の中の風景を変えることで作り出す。
草原とか、湖とか、そういうのではない。
私の場合は、木星の大赤斑を周囲に作り出す。
勿論音はカットで。
だが、まて。
此処の音だったら、或いは。
聞く事が出来るかも知れない。
いずれにしても、まだしばらくは厳しいだろう。精神生命体にとって、トラウマは地獄だ。
私に取っても同じ。
まだ、音は。
完全遮断しておきたい。
世界の全てが私を殺そうとしたとまでは思わない。
だが、私の回りは。
全てがそうしていた。
私は、私を虐げない世界に。
生まれたかったし。
生きたかった。
ふと、思い出す。
そういえば、生まれたときから、両親は私を、邪魔者を見る目で見ていた。本来は無い筈の記憶。アーカイブで見てしまったのだ。
泣いている私の前で、怒鳴り合っている両親。
どうしてこんな子供が生まれた。
可愛くない。
毎晩泣くし、顔も似ていない。
浮気したんだろう。
もしも私の子供だったら、もう少しなつくはずだ。
黙れ。
お前がしっかり躾けないから、こう泣くんだろう。
そうだった。
私は生まれたときから、既に。
無音を要求されていたんだった。そして私は、音という音から、拒絶されたのだった。少なくとも、人間の声からは。
人間の発する言葉からは。
私は泣かない赤ん坊になった。
しかしながら、泣かなくなったら、今度は両親は無視を始めた。そしてそれは、私が死ぬまで続いた。
人間の声は。
例え病気が治っても。
もう二度と聞きたくない。
音声での会話も、やはりしたくない。
この考えには。
もはや変化は、訪れそうに無かった。
4、静寂の鬼
音を、少しずつだけ聞けるようになって来た。
最初は、大好きな場所である、木星の大赤斑。そこの、囂々と凄まじい嵐の音。超低温で吹き荒れるガスの嵐は。
私に癒やしをくれる。
変だ。
おかしい。
周囲の者はそう言うだろう事が目に見えている。だから、それについて一切何も求めないし、最初から期待もしない。
というよりも。
期待しても無駄だ。
医師に言われるまま、少しずつ、確実に。
家で大赤斑の音を、大きくしていくようにする。
これで、少しずつ。音というものに対する抵抗力をつけていくのだと、医師はいうのだった。
なおも医師は説明してくれた。
「簡単に説明すると、貴方は人間の発する音から離れた音から順番になれていくべきでしょう。 木星の大赤斑の大嵐なんかはその典型です。 一方で、症状の悪化が懸念されますし、人間の音声に近い音に関しては、特にこれからも気を付けて遮断していく必要があるでしょう。 聞きたくなったら、聞けば良い。 それくらいの考えで、ゆっくりゆっくり直していきましょう」
鬼には時間はいくらでもある。
そして貴方を脅かす存在はもういない。
だから、それでいい。
後は、ゆっくり直していけば、それで貴方も救われる。
誰もが不幸せにならない。
そのくらいの考えで良いのだ。
医者はそういうのだった。
「仕事の時間です」
タブレットが連絡を入れてくる。
嫌に早い。
何かあったかと思ったが。
どうやら私の他の鬼が、トラブルに見舞われたらしい。私にはよく分からないのだけれど、拷問に携わる仕事をしていると精神を病む事が多いらしい。その関係で、医者に行くそうだ。
シフト変更である。
そして中堅鬼になった私は、スペックも上がっている。
多少の無理はきく。
ただしその分の休みも貰える。
私だけでは無い。
基本的にそれぞれが抱えている病気などには、きちんとした保証がされるのが、あの世という場所だ。
だが、永く生きるのが基本である以上。
どうしても、精神を病む者は出てきてしまう。
私が何よりもその見本だし。
どうしようもない。
職場に出ると、引き継ぎを受ける。
病気になった同僚のことは興味が無かったが、上司から話を幾つか聞かされる。
「病院に行った君の同僚何だけれどね。 人間の手に対してトラウマがあるみたいでね」
「手ですか」
「そうだよ。 とにかく、幼い頃からことあるごとに平手打ちをされて、学校でも手の形の痣が顔にあるとかって笑われて殴られていたらしくてね。 人間の手というものが大嫌いだったらしいんだ。 この職場に来たのは間違いだったのではと言う声も上がっているから、別の鬼が赴任してくるかも知れない」
「そうですか」
そうか。
私は、音は大嫌いだけれど。
手はそこまで嫌いじゃ無い。
私も散々暴力を振るわれたけれど。
それは無視という形での残酷なものか。
もしくは道具を使っての、残虐なものだったからだ。手そのものに関しては、特に何も感じない。
だが、気持ちは分かる。
境遇も似ているし。
それはさぞ辛かっただろう。
ひょっとして、私と同じように。
化身に失敗して、トラウマを盛大に再爆発させたのだろうか。
可能性はある。
だとしたら可哀想だなと思ったし。
仕事を代わりにやる事にも、モチベは上がった。
すぐに仕事に取りかかる。
休みは少し短かったけれど、その分次の休みに色がつく。それに、である。
どうやら相談の結果、この職場はシフトで回すのを辞めるそうだ。考えてみれば、シフトで回す意味がないし。
人員の確保も難しいから、だろう。
そうなると、休みは更にフレキシブルに取れる。
良い事である。
ただ、それはまだ少し先だ。
作業はぽんぽんと終わり。
ノルマ分は終わったので、ついでに幾つかの作業も同時並行で済ませておく。
確かに中堅鬼になってからスペックが上がっているのが実感できる。マルチタスクでの作業が、難しくないのだ。
以前の私数人分の仕事が出来ている。
今後、どんどん地獄深部の拷問について、チェックを任せてくれるらしいけれど。
ただ、地獄深部の拷問は、枯れるほど練り込まれている。
恐らくは、チェックだけになるだろう。
「今日の作業は終わりです」
「ん。 他のシフトに影響は」
「ありますが、ニーア、貴方はただでさえ休暇を短縮して来てくれています。 これ以上は気にせず、お帰りください」
「……そうだね。 そうする」
ふと気になったので。
私が代打をすることになった原因の人の状況を聞く。
もう退院したそうだ。
トラウマ再発で倒れたらしいのだけれど。
それはそれ。
すぐに職場に復帰出来るそうである。
それはよかった。
素直に私は、そう思い。
帰宅の準備をする。
そうすると、上司が来た。
「すまないね。 君は仕事をとてもよくやってくれるから、大変助かっているよ」
「どういたしまして」
「先ほど聞いたかも知れないけれど。 この職場は人員削減もあって、シフト制を撤廃する。 というか、君だけに任せる事になるかも知れない」
「休みはどうするんですか」
仕事をした分貰える仕組みにするそうだ。
急ぎの仕事では無いから、というのが理由だろう。
なるほど、それなら分かり易いし頷ける。
私としても、一人でやる仕事としては、これは天職と思っている事もある。職場で、木星の大赤斑の音を流しながら、少しずつトラウマ克服に向けて動いていくのも、また良いだろう。
上司が行くと、そのまま帰宅。
そして、リラクゼーションプログラムを即時で起動。
周囲の光景を、木星の大赤斑内部の大嵐にし。
少しばかり音も大きくする。
好きな音でも。
やはりフルで聞くとちょっときつい。
少しずつ音量は上げていくけれど。
それでも、やはり。
私に取っては、音はあまりつきあいたい相手ではない。このまま、ちょっとずつ。ちょっとずつ。
まずは人間と関係無い音から。
好きな音から。
言い聞かせながら。
歩いて行くしかない。
上司が言っていた通り。職場は私だけになった。
部署として独立したと言うよりも。中枢管理システムに確認した所、私だけで充分な成果を上げているらしく。
それで充分だろう、と判断したらしい。
それなら頑張って行こう。
他のメンバーは、それぞれ得意分野のある職場に移っていったそうだ。
その中で。
イソギンチャクに似た姿をした鬼が、最後に挨拶に来た。
「ニーアさん。 私が倒れたとき、代打を務めていただいたそうで、ありがとうございます」
「いえ、おかまいなく」
「私には不向きな職場でした。 貴方は向いているようで羨ましい。 今後の栄達を祈っております」
「ありがとうございます」
挨拶をすると、職場には私一人だけになった。
いい。
完全な静寂。
そして、私が好きな大赤斑の音だけに満たす事が出来る。
さっそく仕事を始める。
黙々淡々と処理していく。
此処には余計な音が無い。
中枢管理システム以外には、干渉してくる奴だっていない。それを考えると、私のために作られた、静寂の世界だ。
完璧な場所。
私はもはや、誰にも煩わされることも無い。
これは、ひょっとすると。
回復に拍車が掛かるかも知れない。
何より、である。
私に最後に感謝して、この職場を離れた鬼がいた事には救われた。私は常に暴力を受ける側で。
誰かを助けること何て、出来る訳もなかった。
私が誰かを少しでも助けられたのなら。
これ以上の幸せなんてない。
不意に、中枢管理システムから、連絡が入る。
「今回も改善提案ありがとうございます。 どれも即時に導入できそうで、此方としても助かっております」
「ありがとうございます」
「つきましては、更に深部の地獄の拷問データも見ていただきたく」
「しかし、枯れているシステムと聞いています」
その通りだと、中枢管理システムは言う。
実際地獄の最深部には、絶対に自分が犯した罪を反省することも更正することも可能性が零の連中だけが配置され。
隙あれば逃げだそうとするため。
あらゆる拷問が容赦なく行われているそうだ。
更に、他とは違って、最深部だと精神に働きかける拷問に加えて、同時に肉体にも苦痛を与えることにより、亡者に思考する隙を与えないという。
だが、それでも念には念だ。
「貴方には、効率よく罪を絞る拷問を考えついてきた実績があります。 今後も是非、さらなる難度の高い仕事に挑戦してください」
「分かりました」
「ハンディキャップについては、此方で調整します。 今後もそれは気にしなくても大丈夫です」
そうか。
そう言ってくれると嬉しい。
職場の環境を調整。
よりやりやすくすると、私は今後も頑張ろう、と思った。
音が聞こえる。
少しずつ。
木星の大赤斑の音は、既にフルで流しても大丈夫になった。
私に取っては、この音は唯一聞いても大丈夫な音だった。
それも、過去形になりつつある。
少しずつ、聞いても平気な音を増やしつつある。
最初に、氷が溶ける音。
かつんと、グラスの中で、溶けてきた氷がぶつかり合う音。
水が流れる音。
だけれども、一気に激しく来る音は駄目だ。
多分これは、私が殴り殺されたのが原因だろう。
人間の声も駄目。
絶対に聞きたくない。
だけれども、自然音は。
少しずつ、克服し始めている。
仕事も充実している。
私の職場は、私一人だけ。だから、私だけがいれば良いし。私だけのために調整も出来る。
何でもかんでも。
ベタベタすればいいってもんじゃない。
周囲に人を侍らすことが幸せだというわけでは無い。
私に取っては。
無人こそが世界の理想型。
私だけがいて。
音も最小限の世界こそが、私に取ってはあるべき場所。私だけがあれば良いし。他は何もいらない。
特に、他の鬼も。特に人間とも。
一切関わり合いになりたくない。
医者などは、必要な時だけ関わる。
仕事のために、中枢管理システムからの指示は受ける。
それで充分だ。
今日も六件の改善提案をして。四件が容れられた。
それで充分。
私は少し休もうと思うと。
家に戻り。
そして、今度は、滝の音を試してみることにした。
(続)
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