とてもたのしい異世界転生
序、面接
気がついたら此処にいた。
薄暗い廊下。
それまで何があったのかよく覚えていない。ただ、少し前まで、ウェブで小説を読んでいた気がする。
並んでいるのは、白衣を着せられた人間が多いけれど。
中には外出着だったり。
或いはスーツだったり。
パジャマの場合もあった。
いずれにしても、100人以上はいるだろうか。それが薄暗い廊下で並ばされているのである。
皆、何も口にしない。
それはそうだろう。
見たことが無い顔ばかりだ。
列の前の方では声がする。
「はい、貴方はこのまままっすぐ進んでください。 次の廊下で、また案内がありますからね」
「……」
モニタが廊下には点々とあって、今の声の主が映し出されていた。審査をしているのだろうか。審査をしている奴は、スーツを着ていて。張り付いたような笑顔を浮かべていた。
黙々と、それに従って歩いて行く奴。
後ろ姿からすると、大柄な男性だったけれど。
殆ど裸で。
でも、それを恥ずかしがっている様子は無かった。
ぼんやりとしか、周囲の事を把握できない。
よく見ると、廊下はコンクリと言うよりも土壁で。
床も同じ。
天井の灯りは蛍光灯では無いし、LEDどころか電球も使っていない様子だ。何だか分からないけれど、ひょっとして灯籠だろうか。
なんだろう。
どうしてこんな所に自分はいるのだろう。
そもそも、自分は。
何処の誰だ。
ふと手を見ると、ぐしゃぐしゃに潰れていた。
左腕の肘から先辺りが、ごっそりと潰れて、拉げてしまっている。
ああ。
何だか分からないけれど。
壊れているなあ。
そうとしか、思えなかった。
列が進んでいく。
いつの間にか、自分の後ろにも並んでいる人間がいた。自分より少し年上っぽい女性だけれど。
兎に角血の気がなくて。
顔が青ざめていた。
「はい、貴方は此処でおしまい。 審査するまでもありません。 では」
前の方で声がして。
すっと、並んでいた奴が消えた。
床に穴が開いて、落とされたらしい。穴はすぐに塞がったけれど。何だか穴が塞がるまでの間に、何か気色の悪いうめき声のようなものが聞こえていた。
列が進む。
「貴方は、ああ手違いですね。 このまま、廊下を戻ってください。 この整理券を渡せば、すぐに帰る事が出来ますよ」
前の方にいた奴が、何か切符のようなものを渡されて、戻っていく。
列に並んでいる奴が何人かそれを見たけれど。
何も口にしない。
自分も、ぼんやりと、見ているだけだった。
戻っていったのは、自分よりだいぶ年下の女の子に見えた。何だか不機嫌そうだったけれど。
理由はよく分からない。
というよりも、感情がある事がとても異質にさえ見えた。周囲の奴らは、何も考えていないように見えるし。
そもそも今だって。
自分が誰で。
此処が何処で。
何をしているか。
自分でも分からないのだから。
列の先頭が近くなってくる。また、誰かが落とされた。穴の底から聞こえて来る凄まじいうめき声が、より鮮明に聞こえたけれど。それはそれだ。何とも思わないし、怖いとも感じない。
一体何なのだろうとは思うけれど。それだけだ。
「はい、次。 前の人と同じく審査の必要さえなし。 さようなら」
連続して、数人が落とされた。
列の先頭が更に近くなってくる。
前にいた老人が、ふらふらと歩いていたけれど。不意に背筋がしゃんとしたので、ちょっとだけ吃驚した。
でも、すぐに驚きは収まったが。
「これだけ長いこと生きてきて、随分と真面目に暮らしましたね。 貴方も審査の必要はなさそうです。 良い意味でね。 通路をまっすぐ行って、受付にこれを渡してください」
整理券を渡された禿頭の老人は、何か何処かで見たような動作をしていた。敬礼、だろうか。よく分からないけれど。そんな動作だった。
もう、間近に迫っている整理のスーツ男。
近づいてくると分かってきたけれど。
その男の額にはもう一つ目があり。
頭には角も生えていた。
自分の肩を叩きながら、スーツ男が、奧に呼びかける。
「ノルマ達成。 交代お願いします」
「うっす」
代わりに出てきたのは、ホットパンツにスポーツ用らしいシャツを着込んだ、若々しい女性だ。自分と同じか、少し年下くらいかなと思ったけれど。実際はよく分からない。
その女性も、頭に角が生えていたけれど。スーツ男は一本なのに対して、女性は頭の頂点に一本と。耳の上辺りに一対。合計三本生えていて。その代わり、額に目はなかった。肌も浅黒く、見るからに体育会系だ。非常に健康的で。どうしてか、それが妙な嫌悪感を心の奥底からわき上がらせる。
「またそんなラフな格好で」
「どうせ亡者はこの段階では自我を奪われてるし、関係ないっしょ。 スーツ着てるのも先輩くらいじゃないですか」
「周りは周り。 実際問題、いい加減な判断をして、不適切に亡者を扱ったら、それだけで不祥事ですからね。 後仕事場では敬語」
「へいへい、分かってます。 仕事はきちんとしますよ」
活動的な女性に交代すると、スーツ男は何処かに消える。
さて、待たされていた自分の番だけれど。
一瞥だけすると、活動的な女性は言う。
「まっすぐ進んで、其方で待っている担当に話を聞いてください」
「はい」
返事も、それだけしかできなかった。
歩いて行くと、ふらり、ふわりと、足が妙に軽い。
そして、今更ながらに気付く。
左足が、ぐちゃぐちゃに潰れている。
左手と同じだ。
と言うか、体の左半分が、こんな感じなのか。
それなのに、どうして動いているのだろう。
痛みもまったく感じないし。
不思議だ。
それに、体も勝手に動かされている感じだ。自分で自分の体を動かしている感触がまるでない。
歩いているのも、勝手にやっている雰囲気で。
実際問題、何度か左右に通路があったのに。
それを完全に無視して。
行くべき方向に、勝手に体が進んでいた。
ほどなく。
非常に大柄な男性が立っていた。全身真っ赤で。頭の上には鋭い角が二本。顔中に無数の目があって。口は人間なんかひと呑みにしそうだった。無茶苦茶に怖い顔の筈なのに。特に何も感じない。
「まーたここに来たか。 確かに判断しづらい経歴だが。 まあ良い。 面接はやったことは?」
「いいえ」
「そうか。 まあ正直に体が全部話すようになっているから、気張らなくていいからな」
部屋に入るように言われる。
中には、テーブルと椅子。
テーブルには、三人ほど。色々な風袋の人物が座っていた。
一人は何だか凄くカラフルな服を着た人。東洋系の服で、非常にいかめしい口ひげを蓄えたおっさんだ。手には何か錫だかを持っていて。
冗談など言っても、にこりともしそうにない。
もう一人は、寡黙そうなサラリーマン風の男性。さっきのサラリーマン風と違って、眼鏡を掛けていて、顔も人間そのものだ。
若々しいけれど。真ん中に座っているという事は、この人が何か質問とかをしてくるのだろうか。
面接については、やったことはないけれど、存在は知っている。
あまり良い印象は無い。
どうして知っているのかは。
よく分からない。
最後の一人は、子供だ。
退屈そうに足をぶらぶらさせている。テーブルが、袖がないタイプだから見えるのだ。とはいっても、現代的な服装ではない。
江戸時代くらいの、着物か何かだろうか。
それに退屈そうな雰囲気で。
小さくあくびをしていた。
不意に、サラリーマン風の男が笑顔を作る。
気持ちが悪いくらいの変化だった。
でも、だからといって、何も感じなかったが。
「それでは座ってください。 これでは転生面接を行います」
「はい」
「まず君の名前は」
「分かりません」
相手は笑顔のまま。
実際分からないのだから仕方が無い。
くすくすと、サラリーマン風の男は言う。
「分かりました。 貴方の名前は吉田啓介のままでよしと。 これから貴方は、異世界に転生する事になります」
「はあ」
異世界。
なんだそれ。
読んでいた、ウェブ小説にそういうのがあったけれど。
何だか都合が良い能力と立場を貰って、異世界に行って。其処で現地の人達に神のように崇められながら好き勝手をする。
この世に余程不満がある人が多いのか。
出版社が食い荒らすようにして書籍化したりアニメ化したりして、一定層のファンもいて。
それらに対しての反発運動も起きていたりして。
最近では自粛活動まで始まっている、あれか。
よく分からない。
それにしても、名前。呼ばれて思いだした。僕は吉田啓介だ。でも、なんで呼ばれるまで思い出せなかった。
「何かご希望は」
「少しはマシな目に会いたいです」
「マシな目?」
「僕、学校は中学校までしか行っていません。 喧嘩が弱くて、イジメを行う連中に目をつけられて、それっきりでしたから。 高校は在籍だけしていて、それも完全に席だけで、二回しか行きませんでした。 丁度中学で虐めをしていた奴が同じクラスにいて、高校初日からホームルームの間に、殴られて、ビデオに撮られて、ネットに流されて」
それがSNSで拡散。
虐めをしていた奴は少年院送りにされたけれど。
その仲間が、復讐に来た。
家に火をつけられ掛けたり。
家の周囲で、騒がれたり。
警察は何もしなかった。
親も仕事を辞めて。
引っ越した先でも、高校に行く気に何てなれなくて。
そして気がついたら此処だ。
喧嘩が弱いという事。見かけが気弱そうだと言う事。この二つが、人生を大幅に地獄へ傾けた。
だから、もし異世界転生なんてものがあるとしたら。
少しはマシな思いをしたい。
「そのマシな目というのは、具体的にはどのようなことですか」
「両親には迷惑を掛けたくありません」
「ふむ」
「いいか」
不意に、子供が口を開く。
サラリーマン風が黙り込んだ所からして。この子供の方が上役と言う事なのだろうか。しかもしゃべり方が高圧的で。
しかも高圧的なのに、不自然さがなかった。
見かけだけしか子供では無いのか。
「要するに強い体で生まれたいと言う事か」
「出来れば」
「どのような強い体が希望か」
「いじめっ子くらい簡単にひねり潰せる体が」
鼻を鳴らす子供。
そして、カラフルな服を着たオッサンが、代わって口を開いた。
「今、君達の世界では、異世界転生ものとやらが漫画だの小説だので流行しているだろう」
「はい」
「読んだことは」
「ありますが、暇つぶしにしかなりませんでした」
正直だなと、そのまま苦笑いされた。
苦笑いされても困る。
これでも、家に引きこもるようになってから、本はたくさん読んだ。父が読書家と言う事もあって、家には蔵書がたくさんあったし。
何よりも、今はウェブで小説が幾らでも読める時代だ。
話題になっている小説はたくさん読んだ。
ブームはそれこそ年単位で代わり。
ブームを追う事に必死になっている人達は、それに沿って薄っぺらい作品を血眼で書いていたし。
一方、ブームなんか一切気にせずに、好きな作品を書いている人もいた。
自分は特にこだわりもなかったから、話題性のある作品を適当に読み散らかしていたけれど。
異世界転生ものに、これといって感銘を受けたことはない。
「まあこんな所だろう。 それでは、面接は終わりだ」
「良いのか。 随分と判断が早いが」
「まあ良いでしょう。 どちらにしても、ここに来た割りには、比較的軽めでしょうしね」
おっさんが一番えらくて、次に子供。そして最後がサラリーマンか。
何だかよく分からない人間関係だ。
部屋を出るようにと言われたので、言われたまま席を立つ。
なんだったのだろう。
よく分からないけれど、チートが欲しいとか、ハーレムにしてくれとか、その世界最強の存在になりたかったとか。
そういう事を言えば良かったのだろうか。
相手が無知な世界で。
凄い科学技術を見せびらかして、神のように崇拝されたり。
自分の事を無条件に慕ってくれる、個性豊かで可愛い女の子達に囲まれて。
何の苦労もない人生を送ったり。
そういう願望は、正直な話よく分からない。
それこそ、虐めを受けて、人生を滅茶苦茶にされなければ、それだけで良かった。もし転生できるとして。
それ以上の事は望まなかった。
部屋を出る。
其処は、廊下では無かった。
一瞬、立ちくらみがして。
そして気がつくと。
いつの間にか、囚人のような縞々の服を着せられて。体が全て元に、健全な状態に戻っていた。胸の所には、バッチがつけられている。
其処には、3022と数字が書かれていた。
十列ほどに、合計百人程度が整列させられているのだけれど。
足下は、石が無数に散らばる川辺。
奥の方では、川がさらさらと、綺麗な音を立てて流れていたが。
空は禍々しいまでの黄昏色だ。
「はい、みなさん、注目」
不意に、手を叩く音。
同時に。
足に激痛が走った。
小石を踏んでいるのだから当たり前か。
妙に頭がクリアになってもくる。
自分の事も。さっき面接で聞かれたときと違って。随分とクリアに思い出せるようになっていた。
さっきは、面接の質問に、適切に答えるべく体が動いていた、と言う感じで。名前も相手が口にして、始めて認識したのだけれど。
今は確固たる存在として、その名前が身についている。
顔を上げると。
其処には、全長十メートルは軽くありそうな。
全身真っ青で。
顔が馬になっている巨人がいた。
頭からは、鋭い角が生えていて。どうしてか、流ちょうに人間の言葉を話している。本能的に悟る。
これに逆らってはいけない。
「面接が終わってここに来た皆さんには、残念なお知らせです。 此処は皆さんが暮らしていた世界とは別の世界ですが、皆さんが想像していたような、妖精とかエルフとかいるようなすてきなファンタジー世界とか、素晴らしい科学技術が発展した未来世界とか、自分の薄ら浅い知識を垂れ流しただけでみんなワッショイしてくれるような都合が良いテキトウ世界ではありません。 此処は煉獄。 地獄とこの世の境にある世界です」
煉獄。
聞いた事がある。
これでも、一応色々な知識は囓ったのだ。
気がつくと、横にも後ろにも、巨大な人影がいて。
それはどれもこれも、顔が人間ではない上に。全長も十メートルを超えているような化け物ばかりだった。
「では、順番に説明していきましょう。 混乱しているひとも多いでしょうからね」
馬の巨人は。
にやりと、悪意にみちみちた笑顔を浮かべるのだった。
1、異世界へようこそ
周囲に並ばされている人々は、僕とあまり変わらない年頃から。老人まで様々だった。ただ、さっきみたいに、体が欠損している人はいない。また老人は非常に少なくて、若い人が多かった。
そして、バッチだけれど。
書かれている数字は、まちまち。
万単位の人が殆どで。
中には数千万、或いはそれ以上の数字が書き込まれている人もいた。
「まず、どのような異世界に行きたいか、希望を述べた人について、話しておくとしましょうか。 この世界は、何かしらの理由で死んだ人間の内、明確に地獄行きではなく、かといって天国にも行けず。 そのまま新しい生命として転生するわけでもない人々を、選別する面接に出て、不的確、と判断された人間が来る場所です」
「おい、ふざけるな! 俺はチート能力を持って、ハーレムつ……」
わめき掛けた、いかにも不真面目そうな男が、いきなり破裂した。
ぼんと、気持ちが良いほどの音だった。
悲鳴を上げて逃げようとする人々だが。
静かに、と声が掛かった瞬間。
誰もが直立不動の姿勢に戻る。
そして、死体は、少しずつ再生していく。再生するときに、凄まじい痛みのうめき声を上げながら。
「説明は順番にしていきますよ。 我々はいわゆる鬼。 まあ貴方たちが面接を受ける前にも指示を受けていた存在も鬼ですが、地獄やら煉獄やらで公務員として勤務している、人間世界で言う看守みたいな存在だと思ってくだされば結構です。 貴方たち亡者は基本的に不死ですが、我々鬼は、思考するだけで貴方たちの肉体を破壊することも。 思考していることを深層意識まで読み取ることも許されています。 今のように、露骨に反抗的な態度を取ると、一瞬で全身爆裂して、苦しみながら元に戻っていくことになるから、気をつけてくださいね。 なお、集合して相談するのも禁止です。 そういった場合も、全て思考は筒抜けになっています」
がくがくと足が震える。
なんだよこの世界。
誰かが呟いているのが聞こえた。
俺、もっと良い世界に行こうと思ってたのに。
面接だと、行かせてくれるって言ってたのに。
ウソだったのかよ。
どうして。美男子に囲まれて、逆ハーで、愛されライフだったはずよ。
そんな都合が良い言葉が聞こえてきている。
だけれど僕は、怖くてそれどころではなかった。
「故に、逆らうと大変に苦しい思いをする事になりますよ。 もしも極端に反抗的な場合は、煉獄から地獄にそのまま送って良い権限も貰っていますからね。 其処では、我々の比では無い、もっと怖い鬼達が待っています。 それをよく覚えておきなさい」
震えあがっている周囲の様子が分かる。
それはそうだろう。
話を聞く限り、あの面接で、皆好き勝手なことを言ったに違いない。そして、面接では、うんうんと二つ返事で許可を貰った。
だけれど、うきうきしながら……いや、あの面接の様子では、みんな僕と同じように、ただ考えている事を吐露しただけなのだろうけれど。いずれにしても部屋を出たら、こんな悪夢みたいな場所が待っていた。
そういえば、思い出した。
地獄の牛頭馬頭とかいって。牛とか馬とかの顔をした鬼がいたはず。
これが、実物なのか。
「では、皆さんが聞く体勢に入ったところでもう一度。 この煉獄についてですが、先ほども言ったとおり、罪人でも天国に行くべきでも、それとも普通にまた転生していくわけでもない、中途半端な人々が来る世界です。 必ずしも苦行を課されるわけではないのですが、貴方たちは面接で醜態をさらした」
ナンバープレートを見るようにと言われて。
見る。
それは、刑期だと、馬頭の鬼は言う。
「簡単に説明しますと、そもそも転生というのは、人間として修行が足りない場合に、やり直してこいともう一度人間世界に叩き落とされることを言います。 異世界に転生、ましてや実在もしないゲームやらアニメやらの世界に転生して、好き勝手にキャラクターを食い散らかすなんて、都合が良いことは起きえません」
蒼白になる何人か。
そういう願望を口にしたのだろう。
確かにそういう小説を喜んでいる層はいた。ネットでは幾つかSNSをやっていたけれど。
そういう場所では、そういう層が。別の嗜好を持つ人間に対して、極めて攻撃的な言動をしていたのを思い出す。
僕は正直どうでも良かったから、話題作をテキトウに読み摘んでいたけれど。
それでも、時々強烈な外れを引くことはあったし。
そういう外れ作品の感想には、もの凄く痛々しい人達が沸いていることが多かったっけ。
僕の暮らしていた時代は、あまりにも苦しい時代だった。だから、そういう作品が流行るし。一定層が喜ぶのも理解は出来る。けれど。確かに、そんなうまい話、あるはずも無い。それは何となく分かっていたから、距離を置いてはいたのに。
何だか、苦笑いが漏れてくる。
僕は、少し強い肉体が欲しい。
そう思っただけだけれど。
それでも、考えてみれば。
他力本願でそんな事を願う前に。何か別に、するべき事はあったのではないのだろうか。そう思えてくる。
馬頭は続ける。
「面接は、基本的に全てフェイクです。 貴方たちは面接を受ける際に自我がない状態で、願望を全てさらけ出すようにされていた。 だから色々と口走ったはずですね。 その結果が、此処での待遇です。 人間世界にもう一度放り出すには、ちいとばかり業が深すぎるし、何よりも身勝手すぎる。 故に、此処に貴方たちは来たのです」
非常に事務的な説明だ。
さっきの悲惨な爆裂の末路を見ていると。
もはや、何も反論はできないだろう。
見たところ、僕と誰も彼も似たような境遇に見えてくる。それでは、あんな本物か、それ以上に恐ろしい全身爆裂と、其処からの苦しみ抜いての再生を見せつけられて。
それで逆らおう、何て勇気、湧いてくるはずがない。
今だって、ちびりそうなくらいなのだ。
馬頭の言葉は非常に淡々としていた。
もう、それこそ。
事務仕事を、機械的に片付けていくかのように。
「貴方たちはね、自分たちの身勝手な欲望をさらけ出したのがまずかったんですよ。 例えばチートって言葉を口にすると、それだけで一万年の刑期が追加されるようになっています。 チートって貴方たちの世界では流行っていますが、意味を正確に理解していますか? ズルって意味ですよ。 ズルをしてまで、他の人達を押しのけて、好き勝手な生活をしたい。 そういう浅ましい考えをしているから、ここに来たのです。 同じように、ハーレム、最強などの言葉も、NGワードになっています。 いずれもが、一万年の刑期追加につながっています」
そういえば。
プレートに、三万代の数値が書き込まれた奴が妙に多いと思ったら。
それらのNGワードをフルコンプした連中だったのだろう。
馬頭が言うには。
このほかにも、自分に都合が良い異世界と口にするだけで何年。ユニークスキルと口にすると何年。具体的なユニークスキルの内容を口にするだけで何年、という形で、機械的に刑期が加算されていくらしい。
なるほど。
この世は地獄だったけれど。
あの世も同じ。
そういえば、SNSではよく見かけた。
何処何処の国では、人権が完璧に整備されていて。差別を行うと、罰せられると。科学技術がとても進んでいて、まるでこの世の楽園だと。
ウチの国のような後進国と違って。
あの国は先進国だと。
何となくだけれど。
それらの全てが大嘘だと、今よく分かった。
この世は何処まで行っても。
同じだ。
そればかりか、あの世に行ってまでも。
「では、皆さんはこれより数字に合わせて、煉獄の部署に行って貰います。 そこで、刑期を縮めるための労働をして貰う事になります」
刑期を縮める。
希望が見えてきたかな、と思ったけれど。
馬頭の今までの言動からして。
そんなものがあるとは、とても思えない。
名前を読み上げられる。
十人くらいずつ、順番に連れて行かれるようだ。恐怖で失禁してしまった者もいるようだけれど。
誰も笑わなかった。
夢の異世界転生ライフが送れると思っていたら。
強烈すぎる現実で、いきなりハードパンチされたのだから、当たり前だ。ボクシングのヘビー級のプロボクサーに殴られたようなものだ。
「はいはい、順番に。 あなた方の刑期は、あくまで体感時間ですからね。 具体的な労働についても、それぞれの部署で違います。 面倒ですので、恐怖でへたり込んだりしないでくださいよ。 爆発させて、元に戻すと、それだけで手間暇掛かるんですからね」
馬頭の言葉は冷酷だけれど。
むしろ、こんな奴らをどれだけ世話すれば良いんだというような、あきらめにもにた面倒くささも含んでいて。
何だか、僕は。
少しだけ同情した。
僕は3000年程度で済んでいるけれど。
億まで刑期が行ってしまっている人達は、完全に顔が土気色をしている。どんな要求をしたのだろう。
怖がっている人も多いけれど。
既に行列は崩れている。
ひそひそと、話をしている者も目立っていた。
興味本位に、聞いてみる。
どうせ此処では、何もできはしないだろう。
「あの……」
「なんだよ」
冷たい返事。
というよりも、そいつは。
僕より痩せていて。
そして背も低かった。
何だか卑屈な目。
僕の目を見ようともしない。
何だか僕と話しているようだなと、ちょっと親近感が湧いた。相手も、僕が自分と同類だと言う事には、すぐ気づいたのだろう。
「随分短いな」
「虐めを受けていて、ちょっと強い肉体が欲しいって言ったらこれだったから」
「そうか……」
「一体何を望んだの」
少し悩んだ後。
最強神になりたかったと、億年単位のプレートをぶら下げている奴は答えてくれた。
そうか、それでは無理もない。
チートとか、ハーレムとか。
そういう次元では無い。
宇宙の全ての法を律し。
あらゆる全てを自由自在にし。
森羅万象を思いのままにして、宇宙の全てを好き勝手に出来る。そんな神になりたい。そこまで言ったら。この数字になるのも頷ける。
「固有スキルを一万個くらい言ったかも知れない」
「一体どうして其処まで」
「俺、生きているときは、何もできなかったんだよ」
悔しそうに、そいつは口を振るわせる。
周囲に溶け込むどころか。
生まれたときから、親にも兄弟にも虐げられていた。
複数いる兄弟は、全員が自分を馬鹿にしきっていて。熱を出したときも、看病さえしてくれなかった。
学校は地獄。
文字通りの底辺校。
授業をする気どころか、ただ黒板に対して喋っているだけの教師と。怒号と笑い声が飛び交う教室。
その中で、クズ共が好んでやっていたのは。
そいつを、痛めつける事だった。
学校に行きたくない。
そう口にすると。
今度は家族からの虐待が始まった。
食事も出されなくなり。
空腹のまま外をうろついて、草を口にして。そして気がついたら、車道にフラフラと出ていたという。
「後は、此処にいた。 多分車に轢かれたんだろうな」
「みんな壮絶だね……」
「弱いって事が、そんなに悪いって事なのかよ」
「……多分違うと思う」
さっき、馬頭はウソを言っていなかったように思うのだ。
実際問題、社会からはじき出されたり。
弱かったりしたり。
そういったことを、馬頭は一切糾弾していなかった。
むしろ、面接までして、此方を見極めようとしていた。
それは結局の所。
本当の意味で公平に、性根を見極めるためだった、のではないのだろうか。
しばらく、億年単位のプレートをぶら下げていた奴は、口をつぐんでいたけれど。やがて我慢できなくなったのか。
鬼の一人。
牛の頭の奴に食ってかかった。
「なあ、聞きたいんだけれど、いいか」
「内容次第ですが」
意外に丁寧な反応だ。
恐ろしい地獄の鬼にしては、問答無用という雰囲気では無い。もっとも、何かしら不遜な態度を取れば、即バン、だろう。
実際さっきも、逃げだそうとした奴が、即座に破裂するのを見た。
鬼達は、人間が勝てる相手では無いし。
全て見透かしているというわけだ。
「その、俺を虐げていた奴ら」
「貴方の父は焦熱地獄、母は大焦熱地獄。 兄弟達も地獄行きが決まっています。 クラスメイト達も、それぞれ地獄行きですよ」
「……」
「貴方は煉獄だから、それよりマシです。 地獄での時間感覚は、此方と違ってむしろ長引いて感じるように設定されています。 現実世界とは法則が全く違っているので、貴方たちが転生する先は、遠い未来、というわけではないのですがね」
それだけで、何となく分かった。
結局僕達は。
浅ましい欲望を振りかざした結果。
チャンスをフイにしてしまったのだと。
「そ、その。 面接で、刑期が出なかった奴も、いるのか」
「いますよ。 そういう人達は、ごく普通の人生をやり直しです。 ただ、面接を行う段階で、九割がた此方に来ますがね」
「……そうなんだ」
「真面目に働きなさい。 それぞれの部署で説明されますが、真面目に働けば刑期も短縮されていきますし、真面目に働けば働くほど、その後には良い事も待っていますよ」
丁寧な対応だ。
頭を下げて、そいつと一緒に場を離れる。
名前を聞くと、聞くに堪えない気の毒すぎる名前だった。いわゆるDQNネームと言う奴だ。
何となく、だけれど。
此奴の生まれ育った環境が。
それだけで分かる気がした。
七番目くらいに、声が掛かる。
周囲のプレートの数字はまちまち。むしろ、僕のプレートの数値は、少なすぎるくらいだった。
あの億年単位の奴は、二回目の招集で行った。更に言うと、次のグループらしき人影が、遠くで整列を始めている。
そうか、僕も。
あんな風に整列をしていて。
そして説明が始まる前は、無表情でいたのかもしれない。
「はい、君達は、第133煉獄に移動して貰います。 案内に従って、此方に進んでくださいね」
馬頭の指示に従って。
馬頭よりずっと小柄な。だけれど、背丈だけで四メートルはある鬼が来る。これも、顔はムシみたいで、とても怖かった。
全身も鎧状で。
手には巨大な槍を手にしている。
怖いけれど、従うしかない。
逃げようと思ったら、その瞬間ボンって行く事は、何度も見ているのだ。実際、さっきから、三度ほど逃げようとした奴がいた。結末はいずれも同じで、苦しみながら再生していく様子を見るのは、本当にきつかった。
「此方です。 ついてきてください」
ムシの鬼も、言動は丁寧だった。
逆らったり、手を煩わせたりしなければ、暴力は振るわない様子だ。でも、その部署とやらで何をされるか分からない以上、怖くて体がすくみ上がるばかりである。
小石だらけの河原を歩く。
足の裏がとても痛いけれど。
傷はついていない。
というか、傷がついても、すぐに治っているようだ。
「その、どんなところに行くんですか」
「私はただの引率です。 現地で説明します」
とりつく島もない。
それにしても、お役所仕事だ。ただ、そう思っても、いきなりボンってされないということは。
多少此方が相手に対して不快感を覚えたくらいでは。
鬼は実力行使に出ない、という事か。
でも、だからといって。
怖いと言う事には代わりは無いが。
周囲を見ると、同じグループは十人ほど。
男女比は半々くらい。
若い人が多かったけれど。
ただ、本当に若いのかはよく分からない。
亡者になると、若返るのかも知れないし。
というのも、先ほど話を聞いていると、露骨に年代があわない話をしているケースが目立ったのだ。
サブカルにしてもなんにしてもだけれど。
ブームってのは数年ごとに大きく違ってくる。
ひょっとすると、みんな相当に年齢層が違っているのかも知れないけれど。それについては、聞けなかった。
死んだときの年齢は幾つかなんて。
聞くのは失礼だっただろうし。
ただ、極端に酷い名前の奴は、比較的若いのだろうと言うことだけは何となく分かる。
「そういえば、一つ聞いて良いですか」
「なんですか」
「面接で、最初に名前を聞かれましたが、あれは……」
「ああ、あれは願望として、違う名前を望んでいるかどうか、ですよ。 冗談抜きに異世界転生して好き勝手したいと考えている人間の中には、自分の名前は本当はかくあるべきだ、と考えている場合がありましてね。 面接するときにも、それを引き出すと、後がやりやすいんですよ」
なるほど。
思い当たる節があるらしく、何人かが青ざめたが。
僕は正直、なるほど、としか思えなかった。
ただ、気持ちは分かる。
親にアクセサリ感覚でDQNネームをつけられたりした場合。そんな風な名前を考えるのも、あるかも知れないからだ。
だから、責める気にも、笑う気にもなれなかった。
引率されて、ひたすら石の河原を歩く。
川がすぐ側に来た。
後は上流に向けて歩いて行くと。船が見えてきた。
手こぎの船かと思ったのだけれど。
意外にも、モーターボートだ。
「この船に乗り込んでください。 後は、船の到着先で説明があります」
みな、嫌々ながらという風情で乗り込んでいく。
だけれど、僕はそれほど嫌じゃなかった。
というのも、石を踏むのが痛くて、辛かったからだ。
実際、ボートに乗ると。
石をもう踏まなくて良かった。それだけは、助かった。
ちなみにボートの操縦席は無人。
全員が乗り込むと。不意に、ボートを虹色の何かが包む。多分、川に飛び込むのを防ぐ処置なのだろう。
意外にハイテクだ。
それに先ほどから。一緒にボートに乗った引率のムシ鬼も、タブレットっぽい何かを操作していた。
意外とこの煉獄という世界。
ハイテクなのかも知れない。
2、おしごとをはじめよう
ボートが着いた先は、孤島としか言いようが無い小さな島。というか、敢えて孤島である事を示すように。ボートはその周囲を敢えて一周した。
なんでそんな事をするのかは。
上陸してみて分かった。
また小石だらけの、歩くだけで痛い場所。
此処で管理をしているのは。
やはり、十メートルは上背がある、とても巨大な鬼だった。ちなみに顔はもう何だかよく分からない。
複数の顔が重なりあっていて。
目も口も何十とあるようだった。
だけれど、恐ろしい顔に反して、口調は丁寧だ。とても優しくさえある。ただ、その目つきは、慈悲に満ちたものではなかったけれど。
「はい、新しく来た亡者達。 これより仕事を説明します」
鬼が指さしたのは、棒だ。
二メートルほどある、何の変哲もない棒。
言われたままに手にしてみると、結構重い。なんというか、ぎっちり木が詰まっているから、だろうか。
少なくとも、物干し竿よりは重い気がした。
「其方を見てください」
言われるまま、見ると。
先達らしい無数の亡者が、真っ黒い壁に対して、棒を突き立てて。そして、棒で掻き回しているのだった。
何をしているのだろう。
そう思ったけれど。
鬼の方が、先に説明してくれる。
「これから皆さんには、可能性の揺らぎを調整して貰います」
「可能性の揺らぎ?」
「この宇宙には、様々な可能性があります。 地球もそうですが、無数に存在する星々にも、可能性を少し調整することで、破滅的な未来を免れたり、或いは生命が生まれたりといった、+の出来事が起きるのです。 神々はマクロ的にこの可能性調整をしているのですが、貴方たちはそれをミクロ的にする。 そんな感じです」
「意味がわからねーよ」
嘲りの声を上げた瞬間、そいつがはじけ飛ぶ。
どうやら此処の鬼は、口調は優しくても、今までの鬼に比べるとかなり気が短いらしい。実際問題、今の言葉には、痛烈に反応した。
「あなた方が仕事内容を理解出来るような脳みそを持っていない事など、最初から知っています。 今までの優しい鬼達と私は違いますよ。 ぶしつけな言動をすれば、即座に破裂させられると知りなさい」
時間を掛けて、悲鳴を上げながら再生していく、破裂させられた男。
僕は恐怖で戦慄したけれど。
鬼は咳払いした。
「なお、仕事は強制ではありません。 指示をしたときに仕事をすれば、刑期を短縮することが出来ますが。 気が乗らなかったり、或いは疲れが溜まっていたりするときは、仕事をしなくても大丈夫ですよ」
「え、えっと、すみません。 いい、ですか」
挙手したのは。
ぐるぐる眼鏡を掛けた女の子だ。
僕と同じくらいの年に見える。
結構な人数が乗せられていたし。皆若かったから、あまり声を掛ける気にはならなかったのだけれど。
こういう子もいたのか。
「自由作業と言う事ですが、仕事をしない場合は……」
「刑期の分だけ、此処にいる事になります。 それと、ペナルティがありますよ」
「ペナルティ、ですか」
「貴方たちは既に死人です。 既に分かっているとは思いますが」
そんな事は、まあ分かっている。
僕も意識が戻ってきてから、何となくなんで死んだかは思い出してきているけれど。正直、何も良いことがない人生だった。
あのまま、強いからだが欲しいとか願っていなければ。
もう新しい世界で、少しはましな生活が出来ていたのだろうかと思うと、少し悲しくなってくる。
鬼は、続ける。
「仕事を真面目にすればするほど、次に生まれ変わったときに、マシな境遇になる可能性が高くなります。 ずっとさぼっているような場合は、まあ基本的に人間には生まれ変われない可能性が高いと理解してください。 良くて虫ですね。 ハエとかゴキブリとか、それも意識が残ったまま転生させられます。 汚物を食べながら生きる事になりますし、死んでも死んでも同じ虫に転生することになりますので、その辺は考えながら仕事をしてくださいね」
ぞくりと、背筋に恐怖が走った。
なるほど、自由ではあるけれど。
それは、人間としての尊厳を捨てる自由でもあるわけだ。そして、真面目に仕事をしない奴は。
実質上、もう人間に転生もさせない。
この世界、思ったよりずっと良く出来ている。
ナンバープレートの数字をもう一度見る。
自分は3000くらい。
これを縮めきるのに、どれくらいの仕事をしなければならないのだろう。殺されても生き返るとしても。
それはむしろ。
更に仕事を過酷にするのではないのか。
「そ、その、食事は」
「今までここに来るまでに、おなかがすいた人は?」
「? あれ」
「亡者には不要な欲はもうありません。 地獄に落とされた亡者には、敢えて強烈な欲が与えられる事もありますが。 それはそれです。 ここに来るような亡者には、食欲も睡眠欲も性欲ももうありませんよ。 女性も安心してその辺で寝転がっていても大丈夫です」
そういえばだ。
みんな囚人服とはいえ、周囲は若い女の子もいるし。綺麗な子だっていないわけじゃない。
それなのに、どぎまぎするようなこともなかった。
そうか。
本当に、死人として働かされるためだけに、此処にいて。
その働き次第で、今後どうなるか決まるんだな。
がっかりはしなかったけれど。
あのトラップ面接で、色々吹いた奴は、今頃どうしているんだろう。
ちょっとだけ、心配になった。
質問には、鬼は丁寧に答えてくれる。
だけれど。
いきなりまた一人、破裂した。
鬼は、にこりともしない。
「話を聞いていないとこうなりますよ。 思考も読んでいることを理解してくださいね」
「……」
皆が青ざめている中。
僕は、仕事は真面目にやろうと思った。
考える時間は、多分いくらでもある。
前は、思い出すのも嫌なほど、ろくでもない世界でくらしていたのだ。此処で少しは真面目に働けば。
もうちょっとはマシな境遇で生まれられるかも知れない。
そう思えば、少しはやる気だって出る。
解散、と鬼が言うと。
皆、めいめいの方向に散って行く。
なお、水辺の方には、見張りらしい何か形容しがたい恐ろしい生物がたくさんいて。水辺から逃げる事は、許して貰えそうにもなかった。
棒を手にすると、とても重い。
しかも、水平に構えるとなると、なおさら酷く重かった。
死人になっても。
貧弱な体はそのまま、というわけだ。
そう考えると、とても辛い。
でも、元々僕は喧嘩も弱かった。暴力で無理矢理な理屈を通す奴が多い小学校では、僕は底辺だった。
小学校では、足が速い奴がもてる。
腕力が強い奴がえらい。
単純な理屈だ。
強い奴は、弱い奴に何をしても許される傾向が多い。むしろ普通の人間は、弱者が痛めつけられるのを見て大喜びする。
近年では、弱い方が悪いという理屈も、広がりつつある。
教師がまともだったら、そうはならなかったかも知れないけれど。
僕の学校では。教師はやる気もなかった。
学校に行くのは、苦痛以外の何者でも無かった。
「何人か此方に来てください」
呼びかけがあると。
仕事が終わったらしい何人かが、ぞろぞろと行く。
彼方此方に黒い壁があって。
其処に棒を突っ込んで、ぐるぐると回すのだ。
ちなみに今僕は、かなり大きな黒い壁に、棒を突っ込んで掻き回しているけれど。時々指定が来る。
「吉田君。 もう少しゆっくり回してくれるかい」
「はい」
この場に、吉田は僕しかいないらしい。
そういえば、此処には。
虐めをするような奴はいない。
ひょっとして、僕みたいな弱者ばかりが集められているのかなと思ったけれど。とにかく、言われたとおりに棒を動かし続ける。
真っ黒い壁は。
棒を突っ込んでも、波紋が拡がるわけでもないし。
かき混ぜても、渦ができるわけでは無い。
可能性の揺らぎってのはなんだろう。
よく分からないけれど。
時々気まぐれにか、鬼が説明をしてくれる。
「人間の世界ではバタフライ効果などと言いますがね。 少しばかり数式や代入する数字を弄るだけで、結果が最終的に大きく変わってくることがあります。 今皆さんがやっているのは、その微細な数字を弄る作業です。 黒い壁には、基本的に何の未来もないのですが、様々な数字をそうやって操作する事で、絶望を希望に変える事が出来る可能性があるのです」
「……」
手が、重い。
もの凄く疲れてきた。
欲はないし。少し休むと回復するけれど。
それでも、凄く腕力がいる仕事だ。
へとへとになりながら棒を動かしていると、退屈しないようにと言う配慮なのか、鬼が色々と含蓄のある話をしてくれる。
「今貴方たちが動かしているのは、アンドロメダと地球で呼ばれている星の集合体の中にある、一つの星。 地球型惑星と言われているものの、原始の海です。 可能性次第では生物が生まれる可能性があるので、せっせと調整をしています。 今の時点では、生物が生まれる気配はありませんが」
「す、すみません。 そろそろ休憩します」
「どうぞ」
僕の隣で働いていた女の子が抜ける。
ふらふらしていたが、大丈夫だろうか。
僕はもう少しやっていけそうだけれど。
それでも、そう遠くない時間で、限界が来た。
手が動かなくなる。
休憩しなさいと鬼に言われて、そのまま棒を抜くと、ふらふらとその辺に。みんな疲れた亡者は雑魚寝している。
中には、もう仕事をするのを諦めている奴や。
最初からやる気がない奴もいるようだった。
蠅やゴキブリになるのはいやだし。
働こうとは思うのだけれど。
それでも、もう嫌だと思って、投げてしまう者もいるのだろう。
何しろ単純作業だ。
鬼が色々教えてくれる。
それはとても面白い話もあるのだけれど。
それでも、退屈だと思う者が出ても、仕方が無いとは、僕も思う。
ぼんやりと、空を見る。
黄昏の空。
何の希望も湧いてこない。
余計な事さえいわなければ。
こんな所に行かずに済んだのだと思うと。ちょっとでも余計な事を考えてしまって、馬鹿だなと思った。
でも、地獄とは、どういう所なんだろう。
此処よりも酷いのは確実だとして。
其処は、僕が生きていた世界と、何が違うのだろう。
いつの間にか、眠っていて。
気がつくと、また目が覚めて。疲れも取れていた。
棒を手にして、さっきの所に戻ると。別の人が仕事をしていて、僕は必要ないと言われた。
「すぐに他から声が掛かりますよ。 其方に行ってください」
「分かりました」
ふと、気付いて、ナンバープレートを見る。
愕然とする。
ナンバープレートの年月は。
一年も減っていなかった。
これでは、万年単位で仕事をしている人達が、おかしくなるのも無理はない。このままだと、どれだけ棒で掻き回せば良いのだろう。
流石にくらくらしたけれど。
声が掛かる。
「此方に何人か来てください」
言われるまま。
痛い地面を踏んで、歩く。
生理反応が起きないから、水も欲しく無いし。何も食べたいとは思わない。傷もすぐに治る。
でも、痛いのはそれとは別だ。
そこにいたのは、若々しい女性の鬼で。背丈も僕達とあまり変わらない。
あの顔が一杯ある鬼は、多分此処の管理者なのだろう。
清楚そうな見た目の、スーツをぴっちり着込んだ優しそうな鬼だったけれど。額から伸びた角がねじくれていて。それだけで、人間ではないのだと教えてくれるのだった。
「はい、では此処での作業をお願いします」
随分と広い黒い壁だ。
この島の広さは、どうにもよく分からないのだけれど。何千人かが動いているのは、ざっと見るだけで分かる。
ひょっとすると。
この世ではない場所なのだし。
広さはあまり意味がないのかも知れない。
とにかく、めいめいそれぞれ。
集まった僕を含む亡者達は、棒を突っ込んで、掻き回し始める。円を描くように、ゆっくりと、と。女性の鬼には指示をされた。
ぼんやりと、棒を回し続けると。
不意に、棒に手応えがあった。
かちりと、何かにぶつかった気がする。
「あれ?」
「はい、吉田さん。 当たりです」
「えっ」
「そのまま棒を引き抜いてください。 可能性調整で、良い結果が出ました」
女性の鬼が周囲に呼びかけると、わいわいと鬼達が来る。
働いていた他の人達も、少し手を休めて、その様子を見ていたが。すぐに、追い払われた。
「どうやら生物が誕生する可能性がぐんと上がったようですね。 ここから先は、神々が直接対応することになります。 このボードは神々の所へ。 別のボードを用意してください」
「分かりました」
あの恐ろしい顔の鬼が指示をして。
他の鬼達が、いそいそと作業をする。
ホワイトボードを片付けるように、黒い壁を移動させていく様子はちょっと滑稽だったけれど。
僕が何かして。
それが良い結果に結びついたというのなら、良かった。
女性の鬼はその場で、次の黒い壁を用意していたけれど。何が起きたのか聞いてみる。
「あの壁は、宇宙に存在する高熱のガス雲で、殆ど生物が誕生する見込みはなかったんですけれどね。 吉田さんがたまたま、可能性操作で生物が誕生する可能性を引き当てたみたいです。 後はどんな生物が誕生して、どういう風に変化していくか、神々が操作していくでしょう」
「難しくてよく分かりません」
「正直でよろしい。 知ったかぶるよりも、分からないと素直に言う方が立派ですよ」
次の仕事があると言われて。
言われるままに、別の壁に行く。
何だか、ちょっと面白かった。
僕は生きている間は、それこそ何一つ出来た試しが無かった。
周囲には基本的に何もかもを否定されていたし。
何かあれば。
それは皆から笑われる時だった。
彼奴は痛めつけて良い。
家族も、家族でない奴も。
みんなそう認識していた。
何かあった場合。
それは全て僕のせいにされた。
殴られることも珍しくなかったし。それが誤解だったとわかったとしても、お前が悪いという理屈で、殴った奴が謝ることは一度もなかった。
今回が、始めてかも知れない。
褒められたのは。
何だか、少しだけやる気が出てきた。
すぐに、次の仕事の呼びかけがあったので、行く。
多分、同じようなラッキーは何度もないだろうけれど。それでも、初めてだと思う。褒めて貰ったのは。
それだけで、少しだけではなく。
モチベも上がった。
嬉しかった。
今度は、比較的小さな黒い壁だ。同じ人と仕事をすることは殆ど無かったけれど。基本的に僕は無口で仕事をしたし。周囲も同じだった。
鬼が色々とうんちくを話してくれることはあったけれど。
亡者同士で話す事はまずない。
それがむしろ、やりやすい。
無理矢理集団に溶け込むことを強要されたり。
それが出来ない事を異常者呼ばわりされたりすることもない。
どれだけ、僕のような人間に、それが楽で、有り難い事か。結局生きている間は。理解されなかった。
多分僕が死んだ後も。
悲しむ者は、誰もいなかっただろう。
両親にも迷惑を掛けたと思っているけれど。
両親は最初から僕を邪魔者としか思っていなかった節がある。両親にとっては、僕は疫病神だっただろう。
死んだときには、せいせいしたに違いない。
既に、縁は切れている。
子供が可愛くない親なんていない、なんて言葉はウソだ。
それだけは事実として知っている。
今は、誰にも迷惑を掛けず。
むしろ、初めて褒めて貰う事さえできた。
それがどれだけ幸せなことか。多分、生きている間、僕の周囲にいた人間達には、理解も出来ないだろう。
理解するつもりもないだろう。
それでいい。
僕は彼奴らとは二度と会うことも無いだろうし。
それだけでいい。
壁を掻き回していると。しばらくして、やっぱり限界が来た。疲れ果てて、断ってから、その場を離れる。
代わりに来たのは、僕より一回り体つきが大きい、ガタイが良い青年だった。力強く棒で掻き回し始めるけれど。
もっとゆっくりやれと、怒られていた。
どうにも加減が良く分からない。
僕はそれを横目で見ながら、苦笑いしていた。
3、おしごとのせいかをみよう
ここに来てから、どれくらい経ったのかは分からない。
たまに、同じ人と仕事をすることもあったけれど。
多分何千人もいる同じような亡者だ。
それに、基本的に無口な者も多い。
誰かと喋る事はあまりなかった。
バッジの番号は、20年ほど減っていたけれど。それでも最初の1%弱だ。これからまだまだ、散々働いていかなければならないだろう。
そう思うと、楽では無かったけれど。
それでも、20年は減った。
諦めて寝ているよりは、ずっと良い。
体感時間については、昼も夜も来ないので、もうよく分からない。疲れたらその場を離れて、眠る。
起きたら、テキトウに伸びをして。
仕事の声が掛かったら、棒を壁に突っ込んで回す。
それだけだ。
当たりを引いたのは、あれから二回だけ。
興味があったので、その度に話を聞いたけれど。
どうやら、生命を誕生させるだけでは無くて。
生命の進化を促したり。
或いは、生命の滅亡を食い止めたり。
そういったこともしているらしかった。
不思議な仕事だなと思うけれど。
嫌な仕事じゃない。
僕だって、これでもネットとかで、現在の仕事がどれだけ過酷かはよく分かっているつもりだ。
消耗品として使い捨てられる毎日。
過酷な仕事で心身を壊し、電車に飛び込んでしまう人。
そういう人達に比べると。
自分のペースで仕事ができる此処は、天国に思える。
実際、鬼に反抗したり、逆らったりしなくてもいいし。
何より、隣の人と無理矢理話をしたり。
話をさせられたりもしなくていい。
言われたままに足を運んで。
棒で壁を掻き回していればいいだけだ。
人は基本的に適性人数しかいない。
たまに、鬼に話を聞くのだけれど。
同じような島は、それこそ何千何万とあって。地球の人間だけでは無い、他の種族なども、同じようにして働いているのだという。
中には、もう他に転生などしたくないから、ずっと此処で働きたいと願う変わり者もいるとか。
そういう人は、志願すれば。
バッチを取りあげて貰って、此処でずっと同じ仕事ができるという。
勿論、その気になれば、バッチを返して貰う事も出来るそうだ。
また、鬼になる人もいると言う。
仕事が特に熱心だったり。
或いは、特に真面目な場合。
いっそのこと、人間なんかに転生するのでは無くて。
あの世の公務員である鬼になってしまった方が良い、と言う場合もあるそうだ。
ただし、鬼になるには、色々と審査が必要だとかで。
基本的に、生きている間に悪行の限りを尽くしていたり。他の人間を虐げていたり。好き勝手なことばかりしていた者は、審査にさえ通らないそうである。
審査か。
そういえば、あの廊下で並んでいたとき。
審査するまでもないとかで、落とされていた人達もいたっけ。
あれは多分、地獄に落とされていたんだろうなと思うと、何だかやるせない。きっとろくでもない人達だったのだろう事は容易に想像できるけれど。
それでも、本当に、無造作な仕事だったからだ。
「此方、何人か来てください」
声が掛かったので、出向く。
すぐに黒い壁の前に並んだけれど。
今までで、一番大きな黒い壁だ。うわっと、思わず声が出た。なんと足場が組んであって、三階くらいまで作業場がある。
この足場。
鬼達が、手も触れずに、そのまま念じるだけで作ったらしい。
たしかに亡者を念じるだけで爆裂させることが出来るのだ。こういうことが出来ても、不思議では無いだろう。
ぞろぞろと、亡者達がテキトウに並んでいく。
そして、指示と同時に、棒で掻き回し始めた。
これは何をしているのだろう。
そう思ったけれど。
まずは、仕事をする。
自分にできる限りは。
真面目に仕事はしておきたい。
この永遠とも思える仕事が終わったとき。
何に転生するのかはわからないけれど。
それでも、悔いがないようにしておきたいからだ。
この黒い壁。
普段と少し違う。
掻き回し始めて、すぐにそれに気付いた。
大きさもそうなのだけれど。
棒を突っ込んで回していると。波紋が沸き立つのだ。普段は、黒い壁には何の変化もないのに。
手応えもかなり大きい。
掻き回すのには。
かなり力が必要だった。
脱落者がどんどん出てきて。
代わりが並んで、棒を突っ込んで、掻き回していく。何をさせられているんだろうと思ったら。
監督役の鬼が、教えてくれた。
「これは星を作っているんだよ」
「星を作る!?」
「恒星ってのはな。 その最期で爆発して、いわゆる超新星って奴になるんだ。 その後に、ガスやら何やらが集まって、新しい恒星になる。 今やってるのは、その恒星を作る作業だ。 恒星は難しくてな。 大きすぎても小さすぎても安定しない。 ましてや、生物が誕生するような恒星系を作るとなると非常に難しい。 神々は、宇宙に生命が溢れるようにしたいって考えてるからな。 恒星を作るときは、いつもこうやって、凄いたくさんの人数で、可能性を掻き回して、当たりになるように頑張らせるんだよ」
素朴な口調の鬼は。
振り返って見ると、もの凄く怖そうな形相だった。
丁寧語で喋るのが普通の鬼だけれど。
どうやらこの鬼は、古株中の古株らしい。
他の鬼は、丁寧に接しましょうとか言っていたけれど。よくその辺りは分からない。例外なのか、それとも。
ともかく、星を作るというのは壮大だ。
ちょっとやる気も出てきた。
力の限り、頑張って掻き回す。
可能性をこうやって少しずつ変化させる事によって、少しでもマシな結果が出て。その末に、何か良いことが起きるなら。
それは、僕が生きた証になるのではないだろうか。
勿論生きている間には、何もできなかったことは分かっている。
でも、何となくだけれど、知っているのだ。
この仕事が終わったら。
どうせ何も残らない。
転生したとして。
今の記憶は全て、綺麗さっぱり消えて無くなっているだろう。
それだったら。
せめて、僕が何かした証を残したい。
そうも思うのだ。
気がつくと、周囲の人は全て交代していた。今回の黒い壁は、本当に大作業らしい。次々と交代要員が投入されている。
何千もある島で、こういう作業をさせられているとすると。
きっと他の島でも。
こんな風に、大型プロジェクトが動いていたりするんだろう。
呼吸を整えると。
更に、頑張る。
だけれど、流石に限界が来た。
腕が動かなくなる。
残念だと思って、棒を引き抜いた。
当たりは、引けなかった。
そういつも当たりはでないか。それはそうだろう。今回の作業も、ずっと続いている所を見ると、多分誰も当たりを引けていない。
それとも、ちょっとやそっとの当たりでは、全然話にならないのかも知れない。
何だか厳しいなと思ったけれど。
それも仕方が無い。
星を作るとなると。
場合によっては、その後には、惑星も出来て。その惑星には、生命も育つのだ。それは凄い大作業だろう。
手が凄く重い。
横に転がる。
石の上で眠るのにももう慣れてきた。
ふと、バッチを見るけれど。
やっぱり、そんなに劇的には減っていない。
刑期三千年。
それは、まだまだ、当面終わりそうにもない。
疲れ果てていたからか。
すぐに眠ることが出来た。
夢も見ない。
深く眠っていた証拠だ。
ぐっすり眠って、起きてみて。気がつくと、船が島に来ていた。何人かが呼ばれて、連れて行かれている。
ひょっとして、刑期が終わったのか。
いや、そうとは思えない。
というのも、僕より刑期が長かった人が、その中にいたからだ。
「あの、すみません」
「どうしましたか」
鬼の一人を捕まえて、聞いてみる。
そうすると、すぐに、快く答えてくれた。
「ああ、あれは別の島に移動するだけですよ」
「移動、ですか」
「亡者にも仕事場の相性がありましてね。 あの人達は、此処の島での可能性を効率的に揺らがせることが出来ない、と判断されました。 別の島で、可能性の揺らぎに関わる事になります」
「僕は……」
君は優秀ですよと、意外な事を言われる。
一度褒められた事はあったけれど。
優秀だと言われたのは、驚いた。
どうしてだろう。
涙まで浮かんでくる。
そんな事。
生きている間は。
一度だって、言われた事は無かった。
「今、審査中ですが。 君には鬼になってくれないかなという意見が出ています。 まあ、もう少し働いて、実績が上がったら、声が掛かるでしょう」
「鬼、ですか」
「勘違いされやすいですが、鬼と言うのはあくまであの世の公務員です。 昔話で悪役として登場するのは、獄卒としての恐ろしいイメージが伝わったからであって、あくまで皆ただ神々の手足として働いているだけですよ」
そう言われると、そうなのかも知れない。
亡者に舐められないようにするためにも。
恐ろしい容姿と。
恐ろしい能力は必要だ、という事なのだろう。
しかし、鬼がいると言うことは。
神々もいるのだろう。今までは話半分に聞いていたけれど。それは実感できた。
何だか不思議な気分だ。
生きている間は、そんな話は与太にしか思えなかったのに。この島で、こんな仕事を続けていると。
とてもそれがウソだとは思えなくなってくるのだから。
仕事に戻る。
鬼になるのは、楽しいかも知れない。
復讐したいとか、そういう事は考えていない。
ただ、虐げられない立場にはなりたい。
強い肉体が欲しいと願ったけれど。
結局の所、鬼になれば、それはかなう。
だけれど、余計な事を考えたから、僕はここに来た。それは、結局悪い事だったのだろうか。
まだ、巨大な壁は、作業が続けられている。
また声が掛かったので。
休憩に入った人の代わりに、僕が入る。
棒を突っ込むと。
ゆっくりと掻き回し始めた。
ちょっと棒に纏わり付く波紋が、大きくなっている気がする。これはひょっとすると、皆で掻き回している可能性の揺らぎが。
少しずつ、効果を示しているのかも知れない。
だとすると凄い。
星が、生まれようとしていていて。
それが、生物をはぐくむものになろうとしているのだとすれば。
凄い事だと、僕は思う。
例え、直接当たりを引くことが出来なかったとしても、だ。
手応えがさっきより強くなってきた。
何だか、可能性の揺らぎを作るのが、難しくなっているのかも知れない。鬼達が、三階建てだった足場を、四階建てに改造している。かなりの数の亡者が、動員されているようだった。
ただし、それでも。
もう何もかも諦めて、隅っこでゴロゴロしている連中もいる。
ハエやゴキブリになってもいいのだろう。
そういう人達は、そういう人達だ。
僕は別に。
今更そういう人に、説教しようとも思わないし。
それが悪いとも思わない。
更に悪夢みたいな状況に落ちたかったら。
そうすれば良いだけのことなのだから。
誰かが当たりを引いたらしい。
鬼達が、わっと集まって、何か話をしている。それはそれとして、僕達は、作業を続けさせられた。
「コアの安定が予想以上にいいですね」
「ちょっとこれは、神々に連絡して、向こうからも手を入れて貰いましょう」
「ひょっとすると、地球型惑星としては完璧な環境が出来るかもしれない。 ハビタブルゾーンの事も考えて、かなり気合いを入れるべき案件です」
「銀河中央部の巨大ブラックホールとの位置も理想的なのが嬉しい所ですね」
難しい話が交わされているけれど。
いずれにしても、当たりを引いた人はおめでとうと、僕は心中で呟いていた。きっと凄く刑期が短縮されたことだろう。
それはそれとして。
僕は真面目に働くことにする。
この仕事が。
楽しくなりつつあった。
それに、だ。
同じような仕事が、また来るかも知れない。
その時には、当たりを引ける可能性もある。
今までも、二回当たりを引いているのだ。
三回目の当たりだって、引けてもおかしくない。
その時には。
きっと。
また、褒めて貰えるに、違いなかった。
船が来た。
僕が呼ばれたので、ちょっと驚いたけれど。何でも、移動するのでは無くて、面談だという。
面談。
ひょっとして、審査かなと思った。
鬼にして貰えるかも知れないと言う話が上がっていたのだし。その審査の可能性はあり得る。
バッチの刑期は。
いつのまにか、2800まで減っていた。
随分頑張ったのだなと、少しだけ嬉しくなる。
だけれど、悪い事を言い渡される可能性もある。
どうしても僕は憶病だ。
悪い事も、どうしても本能のように、考えてしまう癖は抜けなかった。
船は前と同じくモーターボート。
小気味の良いモーター音で、海のように広い、何か分からない水の上を走っていく。なお、乗せられている亡者は僕だけ。
そして、僕が水に落ちるのを防ぐためか。
触手が一杯生えた、よく分からない生物も、一緒に乗っていた。目がたくさんあって、非常に気持ちの悪い姿だったけれど。
でも此方に対して危害を加える気配はなかったし。
何より鬼達の中にも、凄まじい異形はいたので、別に今更気にならない。もっと自分の今後の方が、不安だし、怖かった。
「面談って、その……」
「前に誰かが話したかも知れないが、君はどちらかというとあの島での仕事と非常に相性が良い。 だから今後鬼にして、管轄して貰おうかという話が出ていてね」
「あの世の公務員のようなものだと聞きましたが」
「その言葉の通りだよ」
ちなみに話してくれているのは、よく分からない触手生物だ。
そうなると、この人?も鬼なのだろうか。
思考を読んだのか。
うねうねと触手を動かしながら、その人はいう。
「いかにも私も鬼だ。 鬼にも色々階級があるのだけれど、私は君達の世界で言うと課長クラスくらいになる」
「課長ですか」
「そうだよ。 君の仕事も確認させて貰ったが、このまましっかり最後まで務めれば、ちゃんと良い次の生を用意できるだろう」
それでも、なお鬼にスカウトに来た。
それは名誉なことなのだろうか。
時に鬼は恐ろしい。
亡者を破裂させて、言うことを聞かせることもあった。
それでいながら、基本的に丁寧に接してもいた。
鬼から仕事を強要することはなかったし。
逆に言うと、もう諦めている亡者に対して、手をさしのべることもなかった。
どちらかというと。
別の世界や。
此処では無い何処かのために。
監視をしながら。
少しずつ調整をして行く仕事。
それが鬼だと、僕は解釈していた。実際、僕が疲れ果てて休む事を告げても。それで怒る鬼はいなかったし。
仕事が雑だとか。
下手だとかで。
殴る鬼もいなかった。
僕以外にも、そういう事をしている鬼は見たことが無かったし。実際、逆らいさえしなければ、鬼は非常に丁寧に応じてくれていた。
ただ。亡者になってから、色々な欲もなくなった。
それが故に、見方も変わったのかも知れない。
そういえば、この触手だらけの人は、丁寧語で接してこない。或いは、今後同僚になるから、だろうか。
船が止まる。
海原の真ん中だと思ったけれど。
違った。
其処に、不意に大きな桟橋が現れる。
「さて、足下に気を付けて。 この海は、前には説明しなかったけれど、魂で出来ているからね。 一度落ちると、回収するのが大変なんだよ」
「分かりました。 魂の海、なんですね」
「そうだよ。 疑うことを知らないんだね」
「いや、鬼の人達が、不誠実なことをした事を、一度も見ていませんから」
そうかそうか。
からからと、触手の人は笑う。
そうしたのだろうと、何となく分かった。
桟橋は長い。
足下はそこそこに整備されていて。
ささくれになっている場所もなかった。
だから踏んでも痛くないのは嬉しい。
石だらけのあの島は。歩いているだけで痛かったし。何よりも、どうしてもそれには慣れなかった。
どうやら、亡者になってからは。
少なくとも肉体は成長しないらしい。
足の皮が厚くなるようなことも。
髪が伸びるような事もなく。
ずっと仕事を続けていたから。それは何となく分かっていた。
ただ、新陳代謝もないのだから、それはごく自然なことなのかも知れない。知識だけは、散々増えていったが。
桟橋の先に、何か見えてくる。
蜃気楼のようだと思ったそれは。
やがて、大きな門だと言う事がわかってきた。その門は、島の入り口で。桟橋にも、ちらほら人影が見え始める。
「彼方此方の島から、補充要員が来ているんだよ。 皆、引率の鬼と一緒だ」
「本当ですね……」
人影とは、何かが必ず一緒にいる。
それらは例外なくヒトの形をしていない。
あるものは肉食恐竜そのもの。
またあるものは、まるで巨大なクリオネのよう。
食われてしまいそうで怖かったけれど。
ただ、鬼が不当に亡者を虐げているところは、見たことが無かった。多少気が短い鬼でも。亡者に馬鹿にされたり、逆らわれたりしなければ、基本的には何もしなかったし。鬼が仕事を強制する場面はなかった。
あくまで自主的に仕事をして。
出来るだけ仕事をすれば、それで誰も何も言わなかったし。
仕事をしない亡者達に対しても、説教するようなこともなかった。
ただ、雑な仕事をしていると、指示が飛ぶことはあったけれど。それも、やんわりとだった。
だから、恐怖と同時に。
不思議な信頼もあるのだった。
「ええと、吉田君は17番面談郷か。 此方だよ」
「はい」
面談か。
結局社会人になる事はなかった。
だから、面談というのは、実は二回目に受ける事になる。死んでから受けた面接が、最初の一回目。
面接と面談を別だと考えると、一回目か。
名門になると。
幼稚園やら小学校やらでも、面談をすることがあるとか聞いた事があるけれど。そういうお受験とは縁がなかった。
それに、今は。
もう、あまり生きていたときのことは、恨んでいなかった。
建物に入る。
中には、カラフルな東洋風の服を着た人が、席に着いていて。錫を手にしていた。おぼろげに覚えている。
最初の面接の時に座っていた人だ。
その人は。席に着くように促すと。
さっと経歴書を見るのだった。
「ふむ、もう200年も刑期を縮めたのか」
「かなりあの島と相性が良いようです」
「それもあるが、可能な限りきちんと働く事もしているな。 立派なものだ」
褒めて貰える。
それだけでも、随分と嬉しい。
そういえば、誰かが褒めて延ばす教育、とか口にしていた気がするが。僕の周囲では、そんなものは見たことが無かった。
むしろ伸びないのはクズ。
弱い方が悪い。
その理屈だけが、まかり通っていた。
「刑期を終えたら、鬼に就職する選択肢を提示しました」
「良いだろう。 鬼と言っても色々な仕事がある。 吉田君には丁度良い仕事も準備しておこう。 ただし」
「!」
「きちんと刑期を終えるまで頑張りなさい。 結局、余計な欲を掻いたことで、君はしなくてもいい労働に身を落とす事になった。 人間性は正直だ。 それにね」
何処かで聞かされたような話をされる。
転生というのは。
人間という生物として、もう一度やり直してこいと、人間社会に叩き落とされることをいうのだという。
元々魂は昇華するために、様々な苦難に立ち会う。
其処で腐り果てる魂もあるし。
磨き抜かれた誇り高い魂へと変じていく場合もある。
やがて、神へと変わっていく魂さえもあるという。
だが、たった一度の生で、全てを判断してしまうのも、それはそれで傲慢な考えだと、神々は考えた。
だから、転生というシステムが世界中で作られ。
地獄とこの世の間に。
中途半端な魂を働かせ。
そして魂を研磨し、浄化する仕組みも作り上げたという。
それが煉獄。
一神教に古くからあった考え方だが。
今はあらゆる地域のあの世で、採用されているものなのだそうだ。
そして、この世だけではなく。
同じような世界が、重なりあうようにして、たくさんある。
それらから来る無数の魂が。
煉獄によって受け入れられ。
新しい生のため研磨されていくのだとか。
「君は幸い、美しい輝きを持つ魂を持ちうる存在だ。 このまま最後まで、気を抜かずに頑張り続けなさい」
「はい。 分かりました」
「良い返事だ。 シャガクシ、連れて戻るように」
「分かりました」
触手の人に連れられて、桟橋に。
桟橋で、ふとすれ違う。
鋭い目つきをした女の人だ。背は僕よりもずっと高くて、それにしなやかな筋肉の持ち主だった。
「何だか強そうな人ですね」
「ああ、扱いが難しいタイプだね。 元軍人だよ」
「!」
「仕事として人を殺さなければならない軍人は、扱いが色々と難しい。 自分の好みで捕虜を虐殺するような外道は論外として即座に地獄行きだけれど、人を殺さなければならない仕事の中で、葛藤しながら生き抜いたような人は、煉獄に来るケースもあるし、或いはそのまま転生する場合もあるね。 天国に行けるケースは、他の職業よりも少ないようだけれど」
軍人か。
どこの国の軍人だったのだろう。
自衛隊という組織が僕の国にはあったけれど。色々な圧力に曝されて、予算も減らされて。とても気の毒だなと思った事がある。
そういう目にあっていなければいいのだけれど。
モーターボートが見えてきた。
そういえば、あの島にどうやって帰り着くのだろう。
ちょっとだけ疑問に思ったけれど。
シャガクシと呼ばれた触手だらけの人は。
それには答えてくれなかったし。
島に着くまでに。
それほど時間は掛からなかった。
4、さあひかりのむこうへ
面談の後。
随分気持ちが楽になった。
亡者だからだろうけれど。どれだけ重い棒を持って、頑張って仕事をしてみても。体が鍛えられる事は無かった。
でも、慣れた。
何となく動かし方は分かってきたし。
何より、どうすれば効率よく回せるのかも、何となくコツが分かってきたからだ。
可能な限り働いて。
効率が落ちると思ったら、休む。
黙々と、そう過ごしていった。
たまに、喧嘩をする亡者がいた。
欲は殆ど取り去られているのに、何を争う必要があるのだろう。そうぼんやり見ていることもあったけれど。
だいたいの場合、喧嘩をしている二人を鬼が連れて行って。
何かして。
その後は、黙々とまた仕事をするようになっていた。
あれはきっと説教だとか洗脳だとかではなくて。
ただの調整なのだろう。
ここに来た時点で、僕もかなり頭の中を弄られていることは分かっている。欲がなくなった時点で、人間では無いという考えも出来る。
結局、僕のしている事は正しいのだろうか。
それについては、正しいと断言できる。
鬼達は嘘をつかない。少なくとも、あの面接だけを例外として、他で嘘をついているのは見たことが無い。
だから、こうして可能性の揺らぎを操作する事で。
何処かで誰かが幸せになったり。
新たな命が生まれ出る。
掻き回す壁は大きかったり小さかったり。
色々違ったけれど。
どうしてだろうか、どれだけ巨大な壁でも。島にはすっぽり入りきる。やっぱりこの島は、空間としても色々と普通じゃないのだろうと、僕は仕事をしていて思うのだ。
だけれど、それは関係無い。
もしも、だけれど。
こうして可能性の揺らぎを操作して。
僕みたいな不幸な人生を送る人が減るなら。
それはとても嬉しい。
こうやって、掻き回し続ける事で。
何か良いことが、誰かに起こるのなら。
それはもっと嬉しい。
どれくらい、時間が経っただろう。
刑期が1500を切ったときには。
やった、と思った。
刑期が1000を切って。
もう少しだ、と思った。
僕よりバッチの刑期が少ない人もいた。
かなり背が低い女の子で。髪が凄く長くて。いつも目の下に隈を作っている女の子だった。
刑期は、僕が来た時点で1900年くらいだったけれど。
僕と同じくらいは働いていたし。
滅多に同じ人と仕事をしなくても。
これだけの長い時間仕事をしていると、どうしてもたまに顔を合わせる。
話をする気は無いけれど。
何となく分かるのだ。
ああ、面談に行ってきたんだな、とか。
コツを掴んだのかな、とか。
ただ、話そうという気にはどうしてもならない。これは、多分。亡者同士で関わりを持つことが良くないから、かも知れない。
欲は取られている。
男女の間でも。
亡者は、あまり互いを気にしない。
ただ、少し心配することはあったけれど。
何しろ、格好が格好だ。
僕もそうだったけれど。
親から放置されて育ったのは明白。
多分死んだのも、僕よりずっと早かったのだろう。それに、体に対する無頓着さも、どれだけ親の関心が薄かったのかを、悟らせるには充分だった。
僕の刑期が500を切った頃には。
その子はいなくなった。
連れて行かれて、転生したのか。
それとも鬼になったのか。
それはよく分からない。
真面目に働いていたし、地獄に落ちることは無いだろう。
それだけは確信できた。
転生が、魂の研磨が足りないからこの世でやり直してこい、という事だとするならば。あの子は、少しはましな親の所に生まれられるといいなと、僕は思う。
僕自身は、今は。
鬼になりたいと、思っていた。
何度目か。
当たりを引く。
多分、これで三十回目くらいだろう。かなり大きな壁で当たりを引いたのは、二回目。滅多にないことだ。
だから、とても嬉しかった。
あの、顔が重なりあった、凄く怖い鬼に褒めて貰った。
古株らしいあの鬼も、手放しで絶賛してくれる。
「これは凄いぞ吉田。 この星はあらゆる条件で、生物がほぼ発生し得ないだろうと考えられていたのに。 お前は拡張性が高く、過酷な星でも生きていける生命体を産み出したんだ」
「あ、ありがとうございます」
「これでお前の仕事はラストだ。 ほれ、バッチを見てみろ」
今ので、一気に残りの刑期が消し飛んだらしい。
バッチの数字は0になっていた。
どうすればいいのだろう。
そうすると、シャガクシさんが、来るのが見えた。顔がいっぱいある人とは、敬語では無く対等に話している。
「十面鬼、これは最後に大当たりだったな。 私の予想よりかなり早い」
「ああ、此奴が真面目に頑張ってたからな。 神々も少しは贔屓してくれていたんだろうよ」
からからと笑いあっている二人。
不思議だ。
ずっとあった不安は。
もう無くなっていた。
すぐに、モーターボートに乗せられる。
そして、魂の海原に出た。
「今度は、何処へ行くんですか」
「まず、君の意思を確認したい。 転生するつもりなら、君はかなり良い条件で転生することが出来る。 ああ、いわゆるチート能力とか最強とかハーレムとか、いい加減な条件じゃなくて、生物として暮らしやすいいい場所に生まれられる、という意味だよ。 鬼になるつもりなら、まずはヒラの鬼からだ。 鬼にも階級があるけれど、時間の流れが違うとは言え、色々な宇宙と連携している以上、地獄や煉獄はいつも優秀な人手を欲しがっているからね。 鬼となりたいなら歓迎するよ」
「鬼になりたいです」
「即答だね。 でも、まずは面談を受けて貰うよ」
そうか、また面談か。
やがて、大きな島に着く。
桟橋もない。
モーターボートは、砂浜の近くで碇を降ろして、停泊。其処から、魂の海にザブンと入った。
腰くらいまでの深さしかない。
そのまま、シャガクシさんに手を引かれて歩く。
大きな島には、もの凄く大きな建物がある。
話を聞くと、地獄でもかなりえらい人が、直接僕を見るそうだった。煉獄はあくまで地獄の亜種というか拡張版みたいな扱いで、地獄にいる鬼の方が偉いらしい。その辺の説明も、途中で聞かされた。
そうか。
市役所面接なんかと同じなのかな。
そんな印象を受けたけれど。
ただ、不安は無い。
鬼達は嘘をつかない。あのフェイク面接のような例外を除けば。
それだけは。今は、確信できているのだから。
ふんわりとした、何か知らない世界。
気がつくと、僕は違う生命体になっていた。
人間に角が生えた鬼らしい鬼ではない。
なんというか、とても異質な存在だった。
巨大な肉の球体に、多数の目がついていて。
たくさんの触手がある。
その触手は、タコのそれのように吸盤とかぎ爪があって。そして、体の上部には、複数の輪が、重なるようにして浮かんでいた。
「鬼の世界にようこそ」
下の方に、シャガクシさんがいる。
僕は、喋ろうとして、上手く行かなかったけれど。その内、すっとコツが分かった。喋るのじゃなくて、念じるのだ。
そもそも、僕自身。
どうしてこの姿をしていると認識出来た。
そう。
もう、人間とは、あらゆる意味で違っているのだと、それだけですっと理解する事が出来た。
「何か違う名前を名乗るかい?」
「いいえ、吉田啓介のままで大丈夫です」
「いいのかい、あんな親につけられた名前でも」
「それでも、ずっと一緒にある名前です」
そうか。
シャガクシさんが、ついてくるように言う。僕は空中に浮かんだまま。ゆっくりと、タコが泳ぐようにして、移動する。
鬼と言っても色々あるんだな。
そう思いながら。
「鬼の仕事も色々あるのだけれど、まず下っ端のすることは、亡者と直接触れることじゃあない。 神々の大まかな指示を受けて、それを適切な場所に割り振ることだ」
「僕がいた島に、あの壁を送るような感じですか」
「そうそう。 君には、lkadshasfhfjghという神の配下に入って貰って、ある銀河系の確率変動についての仕事をして貰う」
「今度は、僕が働く指示をするんですね」
そうだと言われた。
頷くことはもう出来ないけれど。
いずれにしても、人としての姿になんて、もう未練はない。
建物に案内されると。
これでお別れだと、シャガクシさんに言われた。何とも形容しがたい、巨大な土まんじゅうみたいな建物だ。
「引率は此処までだ。 中にいる奴は、みんな鬼としての調整を受けているから、虐めを受けたり、派閥争いで足を引っ張り合ったりすることもない。 心配しないで、仕事だけをこなしていくといい」
「分かりました。 今まで、有難うございました」
「最初から鬼としてスカウトされる子もいるんだけれどね。 君の場合は、ちょっと回り道だった。 それだけだ。 それじゃあ、新しい世界に生まれ出る生物たちのために、頑張ってくれ」
握手だろうか。
触手同士を絡ませあうと。
それで別れた。
しばしじっとしていたが。
体を慣らす意味もあって。
土まんじゅうに入る。
中は空間が複雑に組み合わされているようで。僕が出向くと、先輩らしい鬼が来た。これまた、複雑な形をした鬼だ。
無数の四角いブロックキューブが重なりあって。それぞれから、棘が生えているような姿をしている。
そして、体の下部から、大量の発光した触手が伸びているのだ。
何となく、理解出来た。
あの子だ。
髪の長い、僕より年下で。目の下に隈を作っていた。
「平沢七々子です。 よろしく」
「吉田啓介です。 よろしくお願いします」
「あの島にいた後輩ですね」
「分かりますか。 時々、一緒に仕事をしましたね」
なんだろう。
亡者ではなくなったからか。
ようやく、自己紹介が出来た。
仕事について、教えられる。
それも、一瞬で終わった。鬼になったから、人間とは違って、意思伝達なども瞬間で出来るのだろう。
自分用の場所に僕は移動。
さっそく、色々な仕事が来ていた。
情報を把握しながら、割り振りを始める。亡者達が、これを処理することで。少しでも、管轄する地域が良くなるようにしていかなければならない。
僕は、決して幸せな人生を送らなかった。
人としても、あまり良い存在であったかは分からない。
だけれど、今は。
これで幸せだ。
黙々とタスクを処理しながら、思う。
ようやく。
安住の地が得られたと。
(続)
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