最初の優しさ

 

序、生まれるべくして

 

西暦二千百三十三年。その年は、後にカオスの時と呼ばれた。様々に波乱を呼ぶ事件が起こったからである。五十年近く続いた異世界との戦争が終わった年でもあった。異種族との交流が開始され、宇宙開発の夢が復活した年でもあった。戦争が終わった事により、世界の辺境で今まで鎮火していた紛争がまた燃えさかり始めた年でもあった。そして、幾つかのAI技術と、戦争で嫌が応にも発展させられた科学技術により、様々な画期的新技術が、民間にて出回り始めた年でもあった。それらは後に様々な事件を生むこととなり、カオスの名を誰の心にも強烈に印象づけたのである。

ロボット工学の世界においても、それらがもたらした影響は大きかった。AIの発達と、ロボット工学の発展により、ついに感情を持つロボットの完成という言葉が現実味を帯び始めたのである。巷には、二足歩行を行うロボットが当然のように出回り、一部は人間社会の中で労働力化している。しかし、彼らは一様に反射行動を行うだけで、機械以上でも以下でも無かった。当然彼らは人間の感情の機微など理解出来ず、それが接する者にとってストレスとなる事が多々あった。だが一方で、感情を持つ機械の登場に恐れを抱く者も多く、デモが起こる事もあった。各地ではまだ完成もしていない有感情型ロボットに対しての議論が巻き起こり、過激な者の中にはテロさえ起こす者もいた。

そんな中、生まれるべくして、有感情型ロボットがついに誕生する。無論最初の機体は、非常に不完全な感情の持ち主だった。最初から完璧なものなど存在しない。ロボットの中にある感情とて、その例外ではない。

最初に、ロボットが自力で持った感情は優しさだった。とんでもなく稚拙で、短絡的で、醜く、そして不格好な。しかし、厳とした優しさなのであった。

 

実際に有感情ロボットが人類社会に普及し始めるのは、カオスの年より二十年ほど後の事である。しかしカオスの年には、もう原型となるロボットは完成していたのだ。ただ、諸事情から、プログラムの調整に二十年がかかってしまったのである。普及が可能になる為には、その調整は絶対不可欠であり、結果ロボットは完全な感情を持つ事が出来なくなった。だが、製作者はそれで満足していた。

科学界に完成型有感情ロボットを最初に広めたのは、五崎朱音。三十一才の女性ロボット工学技術者で、なんとフリーである。どんな巨大なバックを持っていた科学者にも出来なかった事を、資金援助こそ受けてはいたが、それ以外は殆ど独力で成し遂げてみせたのだ。天才だと騒がれたが、当の本人は極めて冷静だった。それには無論理由があった。

彼女は未完の合作を完成型にしただけだったからである。意志を継ぎ、その夢を完成させただけであって、これの原型は彼女一人で作った物ではないのだ。二十年も前に、兄妹二人で作り上げた原型こそが、全ての始まりであった。もう洋樹はこの世にいない。だから、一人きりの仕事は、とてもつらかった。兄が生きていればと、何度思った事か、彼女は覚えていない。

そして、誰にも言わなかった事であるが、これは兄だけではなく、もう一人の夢でもあった。朱音が大好きだった、兄と同じくらい大好きだった、ある存在の。

今や世界でも最も有名な人間になった朱音は、自らの作り上げたロボットが町を闊歩するのを見やりながら、二十年前に思いをはせる。全てが始まった、あのカオスの年へと。

 

1,起動

 

戦争がようやく終わった。五崎洋樹の元にそのニュースが飛び込んできたのは、秋も暮れの事であった。彼の住んでいる国は比較的平和であり、戦争の影響も少なかったが、街はそれでもお祭り騒ぎに興じていた。およそ八億四千万の人名と、六千二百八十万のルフォーローの命を奪った史上最大の戦争にて、人類が初めて経験する種族レベルの総力戦は、ようやく両者和解という形で終わったのである。

だが、街の熱狂ぶりと裏腹に、洋樹は何の感慨もそのニュースから受けなかった。彼には、世界そのものよりも大事な物があったからである。テレビには、感涙を流してむせび泣くニュースキャスターと、歓声を上げる民衆の姿が映し出されている。だが洋樹は無感動にそれをみやると、煎餅を一つ口に入れ、かみ砕いて頬張った。固定式のライトが、そう広くない部屋をまんべんなく照らしている。植物も絵もなく、散らかってもいない殺風景な部屋を。

洋樹は今年十三歳になる。どちらかと言えば小柄な少年で、背も低く、絵に描いたような運動音痴だ。特に美男子というわけでもなく、度の強いコンタクトを付けている瞳は神経質げに、周囲に鋭い光を振りまいている。実際性格は神経質で、自室から出る事はほとんど無かった。彼の部屋に入れるのは、実の妹である朱音だけである。彼は学校にも行っていないが、それにはきちんと理由がある。もう学業を終えてしまったからである。飛び級制度が当たり前に普及した現在でも、十三才で大学院を卒業している存在はあまり多くないが、彼はその一人だった。ただ、特別優れた人間というわけではなく、突出したロボット工学の才能だけが、彼をそう言った情況へと押し込んだのであるが。一芸型天才に良くある事だが、専門分野以外では頭も要領もそれほど良くない。現に今も、服や煎餅がのせられているテーブルに、ぼろぼろと食べかすを零していた。仕事には異常なまでに神経質なくせに、こういった行動に関して、少年は際限なくアバウトだった。

戦争での技術革新は、ロボット工学にも当然及んでいる。義手や義足を創る過程で、人工皮膚の技術はこれ以上もなく発展し、今では見た目人の肌とそう大差ない物ができはじめている。高級品ならば、肌触りや温度でさえもかなりごまかす事が出来るほどだ。また、戦場では戦闘ロボットも投入されていた。四本足や六本足で歩く物がメインであったが、一部二本足のものもあった。場合によっては腰から下を全て機械化せねばならない事もあったので、それに応じてオートバランサーや関節強度も発達したのである。

それらの技術を総動員すれば、現在人間と見た目大差ないロボットが作れるようになっている。現在洋樹の部屋の中央にある、大きなテーブルに寝かされているロボットもそうだ。若い娘の外見を持つロボットに、洋樹はT−零式と名前を付けていた。普通こういったロボットはバージョンアップに際してどんどん旧型を廃棄して新型を試していくのだが、洋樹はそれをしなかった。試行錯誤しながら、頑固に当初の機体を部品のみバージョンアップしていったのである。

ロボットは見た目十五六歳といった所で、洋樹より年齢も少し上に見えるし、背も僅かに高い。市販品のロボットはまだまだ表情が硬いが、このT−零式は普通の人間と大差ない表情を創る事が出来る。ただし、それは機械や、原始的な生物と同じ、反射行動による一種の自動作動であった。人間の創る表情と見た目同じでも、本質は大いに異なっているのだ。煎餅を頬張りながら、自分で創った千近いチェック表を調べ、洋樹はT−零式の白い滑らかな肌に視線をやる。どちらかと言えば貧弱な体は、とても肉感的な美女のロボットなど多感な少年には作れなかったからだ。純情な少年は、ロボットの着替えさえ妹にやって貰っている。だからロボットは、妹の朱音が好きな、フリルが多めのちょっと少女趣味な服を着ていた。少年は小さく鼻を鳴らすと、目をつぶって横たわっているロボットの点検を続けていく。肌の材質は何か知っているくせに、少年はどこか気恥ずかしかった。時々関節を持ち上げたり、メンテナンスハッチの開閉を調べたりして、瞬く間に時間は過ぎていった。それに伴って、徐々に彼の集中力は上がり、やがて気恥ずかしさも消滅していく。

冷房が効いているのにかかわらず、洋樹の額には汗が浮く。神経質な仕事には、当然それに見合う精神消耗が発生する。汚れた白衣の袖で額を拭った少年がロボットの白い肌に視線を落としかけた時、鍵をかけていないドアが開いて、彼の妹が部屋に入ってきた。妹も白衣姿だが、ウェーブのかかった髪を大きなリボンでまとめていたりして、ぐっとお洒落だ。頬に散っているそばかすも、彼女のかわいらしさを引き立てる小道具になっている。

「にーちゃん、お茶わいたよ」

「うん。 その辺においておいて」

「わかった」

洋樹と朱音は普通の兄妹よりもずっと仲がよい。早くに両親を亡くして二人だけで生きてきたからと言うのが、その最大の要因だ。普通だったら、こんな仕事をしている際に、妹を部屋に入れる兄などいない。

優秀な素質は必ずしも遺伝しない。遺伝すればそれは例外に分類される。そしてこの兄妹は、数少ない例外だった。朱音は若干十一才にして大学四年生であり、もう大学院への進学を決めているのだ。この兄にしてこの妹と、世間では良く言われていた。生活力は一応水準のレベルであるが、どうしてか掃除だけは全く駄目だった。また、茶の味も全く上達しない。朱音はあんまり美味しくないお茶を二人分並べると、床に腰を下ろした。テーブルの下で足を延ばすと、膝をついて、眠っているロボットを見やる洋樹の妹の目には、深々と好奇心が宿っていた。

実のところ、ひらめき型の兄に比べて、朱音は努力型だ。天才と言っても、二人のタイプは全く異なるのである。くわえて、他者からの受けに関しては、妹に軍配が上がる。人なつっこくてまずまず優れた容姿の持ち主である朱音は、年上の男にも女にも可愛がられた。それに比べて、陰気で引きこもりがちの洋樹は、自分で壁を創って周囲を拒絶しがちだった。しかし、根本的な才能に関しては、洋樹は朱音を凌いでいた。それを兄妹はごく普通に受け入れ、それぞれに役割分担をしていた。

作業はほぼ終了した。朱音はTー零式の柔らかい頬をつつきながら、目を細めていった。

「今、どのくらいなの?」

「稼働系はもう問題がないよ。 一応、出回っているロボットに出来る程度の事は全部出来る」

「へー、じゃあ、後はココロだけなんだね」

「それが一番問題なんだけどな」

特に老人がいる家庭等で、家事を行うメイドロボットは、初期には昆虫のような姿をした物が大半であった。これらは戦争によって労働力を失ったりした家庭では需要が高く、買えない家庭の為にレンタルやリースも行われていた。無論の事、初期の物は動きが遅く、故障も多かった。だが最近は総じてかなり高性能であり、値段も下がり始め、発展途上国にも出回り始めている。基本的にロボットは人間に似て仕事が遅いタイプか、非人間型で仕事が速いタイプかに二別されるのだが、今洋樹が自作しているのは前者型だ。しかも、それでいて性能は後者型に勝るとも劣らないのである。無論裕福な家庭等にあるオーダーメイド型の物には、今洋樹が創っているものに迫る性能のものもある。

特に一人暮らしの寂しい老人などから要望が出て、コミュニケーション機能がロボットに付けられるようになったのは、最近の話だ。黙々と仕事をするだけのロボットも最初はありがたがられたのだが、人間の欲求は際限を知らない。何かをクリアすれば次が求められる。しかし、これは非常に難しい問題で、未だ顧客満足を充たした企業は存在しない。洋樹の元にも、充分なコミュニケーション能力を持つロボットの開発依頼が少なからず来た。それらへ完成の暁には技術の一部を提供する約束をして、少年は開発費をせしめた。そして今、彼の目の前で眠っているT−零式を創っているのである。実際部分稼働に関してでさえ、どこの企業が開発した物よりも現時点ですでに高性能だったから、時々見せびらかしてやれば研究費は際限なく入ってきた。

洋樹はTー零式に、最新型のAIを組み込むと同時に、巨大なデータベースも取り付けている。今まで誰も完成させていない感情の構築には、如何ほどに巨大なデータが必要となるか見当も付かない。基礎的なAIのプログラムは朱音の担当だが、発展構築は洋樹の仕事だ。肉体部分のハード構築は洋樹が、そして精神部分のハード構築は朱音が担当しているのである。このロボットは、兄妹二人の合作と言って良い代物である。そしてこの兄妹は、現在人類でも屈指のコンビネーションと力量を持つロボット工学者なのである。最高の品が、出来ないわけはなかった。

ついに、偏執狂なまでに念入りにしていたチェックが終了した。洋樹は散らばった煎餅の破片を吹いて払って床に飛ばすと、Tー零式の頭を朱音と一緒に持ち上げ、後頭部のコントロールパネルを開いた。スイッチは一つ。小さなスイッチであり、針で押して起動させる。

兄妹はしばし見つめ合うと、じゃんけんを始めた。三回で勝負が付いた。針を手にしたのは洋樹だった。スイッチを押すと、小さな音と共に、ロボットのOSが起動した。目を開いたロボットは、自力で体を起こし、作り物だが、下手な役者の物よりも洗練された笑顔を二人に向けた。特に美人ではないが、誰にも親しみを持たれる顔を、洋樹は選んだ。だから笑顔は優しくて、とても魅力的だった。

「初めまして、マイマスターズ。 何でも御命じください」

「ああ」

「わあ、綺麗な声だね」

「声のサンプルは、五十人くらいのデータから厳選したものを選んだ。 じゃあ、起動後のチェックといこうか」

はしゃぐ朱音と対照的に、洋樹は分厚いチェックリストを持ち出すと、神経質にT−零式を見やった。ロボットは相変わらず、完璧に創られた笑顔を維持している。(彼女)に向け、洋樹は早速、矢継ぎ早に指示を出し始めた。

 

2,心とエゴ

 

起動後の一週間は、まずT−零式の性能試験に費やされた。五崎家では、現在市販品をカスタマイズした二機の昆虫型メイドロボットが稼働しており、生活低能力者である兄妹を支えていたが、彼らに混じってTー零式は働き始めた。朱音の部屋にあるメインコンピューターが組んだシフト通りに、三機のロボットは稼働する。まだ今後要になる感情はプログラミングしていないが、物事には順序というものがある。まずは、人間を家事面でサポートできることが確認出来なければならないのだ。

R118式と呼ばれる昆虫型ロボットは、洋樹と朱音がそれぞれ一機ずつカスタマイズを担当している。洋樹型は作業が兎に角細かいのが特徴で、毎度電子顕微鏡で確認したかのように完璧な仕事をこなす。また、彼らしいひらめきで、突拍子もない高度な機能が時々盛り込まれているのも特徴だ。一方朱音型は行動にわざと誤差を設けてあるのが特徴である。女の子である朱音が創ったロボットらしく、料理のバリエーションも洋樹型より豊富であり、しかも毎回微妙に違った味が楽しめる。ただし、あまりおもしろみがある機能は付いていない。実は特注品としてこの二機はフルコピーされて生産されており、特に朱音型とも影で密かに呼称されるR118A型は、密かな人気があった。その二機に混じってTー零式は家事を行う。その気になれば目に見えないほどの速さで野菜を刻んだり、ミクロ単位で埃を逃さず掃除する、といった事も可能なのだが、そこまで高性能にはしなかった。出来るとしても、ブロックをかけて出来ないようにしているのである。今日は、Tー零式が料理を担当している。リズミカルに野菜を刻む音が、洋樹の元まで届いてきていた。残りの二機は、めいめい部屋の掃除や洗濯に当たっていた。

家はそれほど広くもなく、居間もそれは同じだ。天井は低く、隅にある幸福の木以外に目立ったオブジェも存在しない。ソファに深く腰掛けて煎餅を囓りながら、洋樹はテレビをぼんやりと見ていた。手元には、殆ど項目が埋まったチェック用紙があった。向かいのソファでは、少しうきうきした様子で、朱音がTー零式の背中を見ていた。

「にーちゃん、Tー零式、性能いいね」

「まあ、僕たちが好き勝手に創ったんだから、当たり前だろ」

完璧すぎないように創るのは、朱音の提案だった。事実完璧すぎる仕事をさせるとロボットの消耗も早いし、過剰に機械チックで消費者には嫌われるのだ。人間がいやがる仕事をする作業機械に、人間らしさを求めるのだから、人間とは勝手な生物である。

感情の作動はまだまだだが、自己学習機能は既に働いている。二人の好みをTー零式はきちんと学習しており、塩加減などもきちんと心得つつ、鍋に向かっていた。チェック項目に印を打ち込みながら、洋樹は神経質げに目を細める。

「良く動く。 無理難題にも、文句言わないんだから大したもんだ」

「そう創ってるんだから当然でしょ? 何が気に入らないの?」

「あ、いや。 気に入らない訳じゃないよ。 ただな……」

感情を盛り込んだら、あの仕事にどういう変化が出るのだろうか。洋樹はそれが気がかりだった。現在の仕事に洋樹は満足している。だが一方で、自分がひとりぼっちであるときに接する相手だとシミュレーションすると、相当に物足りない。

感情に近い物を盛り込んだロボットは、幾らでも実験投入されている。だがそれはたんなる反射行動に過ぎず、感情に似せた物を表面的に創っているに過ぎない。Tー零式にしても、現時点ではまだそれと同じだ。如何に優しい笑顔を浮かべようが、肌が暖かろうが柔かろうが、それに違いはないのだ。

「ただ、どうしたの?」

「人間がああいう仕事を、自己を殺した全面的な奉仕をいやがるのは、なんでだと思う?」

「うーん、そういえばなんでだろうね。 にーちゃんの意見は?」

「エゴがあるからだよ」

洋樹は断言した。

そう。ロボットにとって最大の利点であるのがそれだ。彼らにはエゴがないから、人間だったら絶対にしない行動でも平気でする。無報酬作業にも関わらず身を粉にして働く事だって、戦争の無意味さも嘆かず人間の身代わりになってルフォーロー兵士の極大攻撃魔法を受けて粉々になる事だって。後者はもう状況的にあり得ないが、人間が知りもしない相手の為に、そんな事をするだろうか。する者も無論いるが、そんなものは所詮例外に過ぎない。人間は、いや生物は自己の遺伝子保存を優先し、それに派生して生存を、更に派生して(幸せ)や(充実)を求める。其処まで説明してから、洋樹は続けた。

「少し調べて見たんだけど、もっとも原始的な感情の一つである恐怖は、自己生存というエゴから生じたものなんだ。 人間が(愛)と錯覚している発情だって、自己遺伝子保存というエゴに起因している所が大きい。 つまり、だよ。 感情を与えるってのは、ロボットにエゴを与える事になるんだよ」

「にーちゃん、よく調べたね」

「ああ、まあな。 何でもひらめきでやってるわけじゃないんだぜ?」

「でも、ロボットにもある程度の自我がないと、仕事に支障が出るんじゃない? 死に急がれたら、結局使役する人にだってマイナスでしょ」

十代前半の少年少女とは思えないほど高度な会話をしながら、二人は互いに鋭い所を突き合う。こういった所では、二人の工学技術者としての本能が、兄妹としての信頼と情を上回るのだ。煎餅を殆ど同時にもう一つ手に取った兄妹は、申し合わせたように、鍋の火加減をチェックしているTー零式を見やった。その気になればセンサーを付ける事によって、複数の作業を同時並行で行わせる事も出来るのだが、それをやりすぎると非人間的すぎて買い手は付かない。Tー零式は高度なセンサーによって精密に温度を検知してはいるが、少し小首を傾げて火加減を伺ったり、鍋をかき回しながら学習機能を働かせたりしていた。

「確かに、朱音の言う事にも一理あるな。 人間自身の為にも、彼奴らに多少のエゴは必要なのかもしれない」

「でも、にーちゃんの言う事も正しいよ。 それに、そう言った論点から行くと、優しさや嫉妬とか野心とか、そういう高等な感情を与えた時の反応が全く予想出来ないもの」

「それに、人間に出来ない仕事を押しつける相手として創ったのに、人間同様に気を使わねばならなくなったら、文字通り本末転倒だからな。 何にしても、実際に動かしてみてから、調整するしかないよな」

洋樹の手元にあるチェック用紙は、もう殆ど埋まっていた。そして今後は、チェック用紙など何の意味もない仕事へ、手探りの作業へと突入する事になる。

「マイマスターズ。 後十分ほどで出来ます」

此方に振り向いて、Tー零式は微笑んだ。秒単位や、ましてやミリ秒単位で言わせないのも朱音の提案で、それは良い意味で機能していた。スペックを自慢しているだけで、何の意味もないからである。初期のロボットには、なんとマイクロ秒単位で、求められると作業報告をするものもいたが、すぐに売れなくなってしまった。

経験則として、そう言った行為をするロボットが売れないと、洋樹も朱音も知っていた。そしてその本当の意味を、薄々彼らは内心知っていた。そしてそれを文章としてまとめた時、悲劇の幕は開いたのである。

 

感情は、生物の本能に起因したものが多い。例えば恐怖などは、事前に危険を察知する為に、非常に有効だ。また、発情=愛は子孫を残す為に有効であるし、怒りは敵と戦う際に力を発揮する。悲しみも、失敗を繰り返さない為に有用な心的装置である。そして、快は成功例を保存する為に最適だ。基礎から発展してきた数々の感情も、みな生存の為に役立つものばかりである。無論、今挙げた機能だけが、それぞれの感情が有する特色ではない。しかし、結局生存に+の意味を為す感情だからこそ、人間にしても、他の動物にしても、発展させてきたのである。

そう言った部分から考えていくと、ロボットの感情を持たせるさい、何を目的にしてそうするかから組み立てねばならない。現在ロボットとのコミュニケーションを人間は求めているが、実のところそれは人間に対するコミュニケーションとは多少異なっている。ロボットに求められるコミュニケーションとは、つまる所人間の感情を一方的に押しつけた上、人間の感情を快に向かわせる為のものでなくてはならないのだ。ロボットの能力が制限されているのも、其処から来ている。自分より明らかに優秀な(立場が下の)存在に、人間は好感を抱きにくいからだ。ロボットという存在は、結局の所、槍や鉄砲、フライパンや車と言った、道具と同義の存在である。殆どの人間は道具に同等の精神的地位など求めてはいない。ロボットに精神を求めているのは、自身に都合が良い感情を返してくれる道具としての役割を期待しているからなのである。すなわち、ロボットの感情とは、人間にとって精神的道具なのだ。例えば、掃除や洗濯を命じた際に、面倒くさいからと言って拒否するロボットを誰が欲しがるだろうか。愚痴を言った際に、嫌な顔をしたり、五月蠅いから黙れと言い返してくるようなロボットをどんな人間が求めるだろうか。卑屈でありすぎれば鼻白むのに、本質的には際限なく卑屈な存在を、人間は常に求めているのだ。

ロボットに友を求めるものもいるが、本質的にそれも対等な友ではない。友に見えたとしても、実は自分にとってもっとも都合が良い友である事を内心期待しているのだ。

実際問題、人間は他の人間に対しても、そう言った期待を大筋で抱いている。しかし人間はそれぞれ豊富なエゴを持っており、余程の理由がない限り其処までいいなりにはならないし、思い通りにはならない。ある程度年を経てくれば思い通りにする術も身につけては行くが、それでも完全に操作するのは不可能に近い。

故に、道具としての感情と精神を持ったロボットが求められるのだ。他の人間がしてくれない事を率先してくれる、便利な奴隷が。

古代の文明では、必ず奴隷を征服地でかり集めた。例外は存在しない。現在は表だって出来ないが、人間はそれをしたくてしたくて仕方がないのだ。なぜなら、人間は常に公認された弱者を自らの元に置き、痛めつけたくて仕方がない生物なのだから。ロボットはその対象として、最良の存在なのである。

……以上の文章を書き下ろした洋樹は、大きくため息をついた。今まで考えていた事を、出来るだけ客観的にまとめた文章であった。しかもこの文章は、優れたロボット工学者である上に、多くのロボット販売に関わってきた彼の経験則が正しいと認めているのである。笑顔のまま自身を見下ろしているT−零式の方をちらりと見やると、コップを傾けてジュースを飲んでいた朱音に、洋樹は論文を渡した。朱音は論文に素早く目を通しながら、一息に、コップに残っていたジュースを飲み干した。

「どうだ、朱音。 原型のプログラムに修正は必要か?」

「……いらない」

「だろうな」

二人にしてみれば、こんな事は了解事項だったのだ。今更文章にしてみると、その凄まじい迄の醜悪さに吐き気を催しそうであったが、そんな事はずっと昔から知っていたのだ。彼は最も便利な精神を創ろうとしている。奴隷としての、道具としての人工精神を。それを持つ、機械の体の奴隷を。

起動と同時に走るアプリケーションの形で、プログラムは組まれた。感情プログラムは、T−零式のOSの上で走り、その上で洋樹が此処に組んだ感情の個別プログラムと、学習プログラムが並行して作動する。全てを同時に起動させるのは流石に無謀だから、学習プログラムをベースにして、少しずつ試していかないといけない。組み合わせはそれこそ無限であるが、最終的には一つに向かうと思えば、多少の気は休まるというものだ。

あらゆる意味で人間の奴隷である事を嘆かず、悲しまず、むしろ喜ぶ。それを産み出す精神は、洋樹の想像を絶していた。一応感情プログラムは作ったが、それがどう作動するのか、彼にも全く見当は付かなかった。人間が言う、純粋な心、などというものは問題外だ。そんなものを持ったロボットなど、人間の愚劣さ邪悪さ卑劣な酷薄さに耐えられるわけがない。かといって賢くしすぎると、人間に反逆する可能性が出てくる。ロボットに本気で逆らわれたら、人間などひとたまりもないのだ。事実先の戦争でも、戦闘ロボットは人間より遙かに多くのルフォーロー兵士を撃破したという。当然の結果である。

「……人間って、嫌な生き物だね」

「今更分かり切った事を言うなよ。 それに僕たちだって人間だ」

「うん。 分かってる」

朱音の言葉は、洋樹の心に深く重く響いた。神経質なほどにどこかで心優しい少年は、これからT−零式にしなければならない作業を、仕打ちを考えて、陰鬱な気持ちを味わっていた。彼の少し後ろに立って、感じがいい笑顔を浮かべ続けている、ロボットの事を思いやって。

 

まず最初に試されたのは、最も原始的な感情の一つである、恐怖だった。自身に危険を為すものには恐怖せよ。最初はそう言った単純なプログラムを試してみたのだが、実行した途端T−零式は停止し、そのまま鈍い音を立ててOSがダウンしてしまった。ごつんと音を立てて仰向けに倒れたT−零式の頭を支えて、洋樹は呟いた。OSは頑丈に創ってあるが、いきなりこれでは先が思いやられる。

「おいおい、いきなりか」

「にーちゃん、コードつないで!」

「ああ。 何が悪かったんだ?」

朱音が彼女らしくもなく、真剣かつ慌てた表情で、自作のパソコンのキーボードに指を走らす。白くて丸っこい指がキーボードの上で、短いダンスを踊る。それが終わった頃には、彼女は額を抑えて難しい顔をしていた。プログラムを除去して再起動し、ログを調べてみた所、深刻かつ面白い事が分かったのである。世界の全てにT−零式は恐怖したのだ。なるほど、確かに考えてみればありとあらゆるものに、T−零式を破壊出来る可能性がある。時間さえかければ、水滴にだって破壊は可能なのである。ましてや、主人であり、その気になれば命令一つでT−零式を破壊出来る人間などはなおさらだ。杞憂という言葉があるが、デジタルで考えるT−零式にそれは笑い話ではなかったのである。恐怖一つでこれであった。今後どれほどの困難があるか、正しく計り知れない。沈み込む洋樹に対して、あくまで朱音は前向きだ。すぐに立ち直って、明るい顔で善後策を練り始める。その姿勢に、どれだけ洋樹は勇気づけられてきたか分からない。

「ドンマイドンマイ。 次行ってみよう」

「へいへい、そうさせてもらうよ」

鬱陶しそうに洋樹は言った。だが本当は、心から嬉しかったのだ。彼も二三言妹と相談すると、善後策をくみ上げる。

まず、人間と、それに今後交友が計られるルフォーローに対する恐怖を除去し、それにある程度以上の確率を下回る危険には恐怖しないようにプログラムに改良を施して見た。データベースには、様々な情報が搭載されており、今後T−零式の学習次第でどんどん情報が強化されていく。それを元にロボットは恐怖を認識するものを判断し、様子を見ながら洋樹は調整を続け、二日ほどで何とか形になった。もう朱音は机に突っ伏して寝息を立てている。徹夜慣れしていると言っても、まだ十一才の子だ。自分で妹に毛布を掛けてやりながら、洋樹は微笑み続けているT−零式に、呟いた。

「僕はな、お前にこういう事が出来るようになってほしいんだ」

「その作業なら実行可能です。 マイマスター」

「……そうだよな。 分かってるよ」

笑顔で即答したT−零式に、小さく洋樹はため息をついた。まだまだ先は長い。T−零式をテーブルに寝かせて電源を落とすと、洋樹はコンピューター上のプログラムを幾つか走らせ、シミュレーションをオートで行わせると、自身も部屋に戻って眠る事にした。

 

自己防衛の為に存在する恐怖は、まだまだ楽な部類の感情に属した。問題なのは、その先だったのである。

例えば喜びだ。人間にプラスになる為の行動が喜びになる、という風にプログラムすると、犯罪の道具として有感情ロボットを使役する人間が必ず出てくる。その上、状況次第では売り物にならなくなる。余程出来た一部を除けば、多くの人間は(本当に自分のためになること)等して欲しくないのである。ましてロボットにそういったプログラムを施せば、冗談抜きに徹底して(マスターのためになること)をする可能性がある。そんなロボットが出回ったら、苦情は殺到、会社は倒産だ。右往左往、試行錯誤しながら、少しずつ改良していくしかない。その作業は文字通り難航を極めた。

ロボットの思考は人間とは違いほぼ完璧に客観である為、プログラムとの意志疎通には一苦労であった。少し間違えた入力をすると、例えバグがなくても、走らせた途端にOSがダウンしてしまう。一時間に五回もダウンされた日もあって、記録保存用のパソコンは特大のHDDを五つも連ねてあるにもかかわらずパンク寸前だった。

様々な犯罪行為はデータベースに入っている。それを禁則事項として、それを見たら怒りを覚えるようにプログラミングした時は大変だった。悪気がなくとも、人間の行動の殆どが犯罪に繋がっているからである。一日中Tー零式は怒った顔をしていて、翌日まで笑顔には戻らなかった。一つ一つの感情でさえこの有様である。複数の感情を組み合わせた日などは、行動レベルのデバッグに七転八倒する事になった。

ロボットの感情は、人間のそれと似て非なるものでなくてはならない。そうでなければ道具にも売り物にもならないからだ。だが、自己保存本能から生じた恐怖を動かし、まがりなりにもT−零式に簡単なエゴが生じると、どうにも作動は上手くいかなかった。右往左往してしまう事が多く、何も出来ないまま立ちつくしてダウンしてしまう事も少なくなかった。結局、優先順位を設けていくしかない。そしてそれは、ロボット自身の学習機能には到底出来ない作業だった。

 

作業は三十五日目に突入していた。いい加減グロッキーになってきた二人は、明らかに作業効率を落としていた。血走った目でキーボードを叩く二人。かたかたと軽妙なタイピング音だけが、空調が利いた部屋に響き続けている。そんな時、昆虫型ロボットの朱音型が、外で栄養ドリンクを買ってきた。二人はそれに飛びついて飲みほし、申し合わせたように同じタイミングでキーボードの前に戻った。双子でもこうはいかない。ブラインドタッチで高速タイピングしながら、洋樹は朱音に顔だけを向けた。

「そろそろ、優しさを試してみないか?」

「難しいよ、にーちゃん」

「分かってるよ。 でも、僕はやっぱり此奴に優しさを持って欲しいんだ」

「……にーちゃん」

タイピングを止めた朱音が、ゆっくり目を閉じて横たわっているT−零式を見た。

「人間にだって難しい感情だよ。 プログラムだって、どうするの? デバッグの難易度だって、今までの比じゃないよ。 もう少しノウハウを積んでからにしようよ」

「分かってるよ。 でも、な」

「今までは良かったけど、難航してる事がしれたら、七井のおじさんも南芝のおばさんも資金を持ってきてくれなくなるよ?」

二人とも、それぞれ超有名企業の重役達だ。様々な技術を提供する事によって、資金をふんだくってきた(お財布)でもある。しかし、重要な命綱でもある。

「そんなもんは、此奴の後にバイトでもして取り返せるだろ」

洋樹の言葉ももっともであった。彼らの技術提供を欲しがっている企業なんて、それこそ幾らでもあるのだ。既存の機体の改良ですら、膨大な報酬が得られるのである。しかし兄の言葉を聞くと、朱音は少し寂しそうな顔をして、視線を落とした。子供故の無力感を感じた時、どうにもならない壁にぶつかった時、どうしても寂しい時に、彼女はそんな顔をする。洋樹は、朱音を悲しませたくなかった。だが、どうして悲しんでいるのかよく分からなかった。

「何だよ、兄妹じゃないか。 嫌な事があるなら言って見ろよ」

「……じゃあ、いう」

「おう」

「朱音が優しいだけじゃ、不満なの?」

黙り込んだ洋樹に、朱音は頬を膨らませて、追撃をかけた。

「ほらやっぱり! 図星だった!」

「そ、そうじゃないんだ。 その、あのな」

「ふんだ! にーちゃんの馬鹿!」

「そうじゃないんだよ。 僕は、その……」

暫く言葉を切ってから、洋樹は息を、ゆっくり長くはき出した。

「此奴が優しさを持てたら、ステキじゃないかって思ったんだ」

「……」

「此奴が人間にとってあらゆる意味で奴隷だってのは分かるだろ? でも、だからこそ僕は、此奴にプレゼントをあげたいんだ。 僕が人間の持っている中で、一番素晴らしい感情は優しさじゃないかって思うから。 だから、その」

「それだけじゃないでしょ? ……でもいいや。 それに関しては朱音も同感だもの」

朱音は頭がいい。洋樹の妹なのだから当然だ。洋樹の言葉は正真正銘の本音であったが、その裏にある別の意図もきちんと見抜いていた。

「今のが一段落したら、優しさを試してみよう」

「分かった。 何日かかるかな、今度は」

「さあな。 一月は最低でもかかりそうだ」

苦笑した二人は、再び画面に視線を戻し、更にピッチを上げてキーボードを叩き始めた。

二人の予想は外れた。最悪の更に遙か上を、現実は通り過ぎていたからである。

 

3,茨の道

 

基本的に種の保存に起因する愛情と列んで、もっとも難しいと当初から予想されていたのが優しさだった。

まずこの感情を、完璧に理解出来ている人間自体が元々いない。明確な定義がそもそもない。だいたい、確実な形で持っている人間自体がそもそも存在しない。

一言に優しさと言っても、状況次第で正反対になる。文化や風習によっても意味が違ってくる。過去、貧困国では、姥捨ての風習が(優しさ)に分類される事すらあった。弱者を自らの手にかける事が、優しさになったのである。労働力にならない者を死なせてやる事。口減らしをせねば皆共倒れになってしまうという情況がそういう(優しさ)を作り上げたのだが、一方でそれは弱者を手にかけて命を絶つ事の正当化でもある。豊かな国で、それが(優しさ)の対極に位置する行為だという事も、今更言うまでもないことだ。また、文化の違いによって優しさが異なると言う事を、理解出来ずに否定してかかる愚か者も少なくない。

自分でも確実に定義出来ていないものを、ロボットに求めようと言うのだから、難しい作業となるのは当然の話であった。だいたい、人間が他者に求める優しさは、個人個人で異なるのである。

まず、洋樹は様々な優しさの例をインプットして、試験的に感情プログラムを走らせてみた。次の瞬間、T−零式のOSはパンクし、ダウンしてしまった。それぞれの例が矛盾しあっていた為に、定義を理解出来ずに、行動を特定出来なかったからである。

「ドンマイドンマイ。 難しいことなんて、最初っからわかってたじゃん」

「ああ。 まあ、次行ってみようか」

自分とTー零式の肩を叩く朱音に頷くと、洋樹は(優しさ)を分類別に並べて、幾つかをピックアップしてみた。一片に理解させるのは無理だから、それを少しずつ覚えさせて行かねばならない。

まず、人間に対する優しさを覚えさせる。人間が疲労している際には、それを補助する比率を少しずつ高めるように設定してみた。上手くいけば、疲れ切っている朱音に毛布を掛けるような、無音の優しさを実現出来るかと思ったのだ。

だが、デジタルとアナログは対極のものだ。どのレベルの疲労から行動を開始するのか、そのさじ加減が難しい。たとえば、疲れたら助けろとプログラミングしようものなら、歩いているだけで毛布を掛けられかねない。行動させて学習させる手もあるが、あまりにもそれでは時間がかかりすぎる。実験して、調整して、また実験して、更に調整して。二十日が過ぎた頃の事である。

朱音と交代してソファで眠っていた洋樹は、いつの間にか自分に毛布が掛けられていた事に気付いた。眠気にまどろむ頭を振って周囲を見回すと、台所で料理をするT−零式の後ろ姿と、テーブルで茶にしている朱音の姿があった。朱音は洋樹が起きた事に気付くと、湯気立つカップを持ち上げた。

「第一段階、部分的成功だね」

「……彼奴がやったのか?」

「うん。 自発的にね」

「マイマスターズ。 もう五分ほどで料理が出来ます」

笑顔で振り向いたT−零式。初めて洋樹は、その笑顔を好ましいと思った。

 

最初の一歩を足がかりとして、二歩目を踏み出させるのは大変だった。翌朝、朱音は近くのペットショップで子犬を買ってきた。雑種の子犬だが、人なつっこくて可愛い。犬の世話の仕方は、もう昆虫型の二機にはプログラムしてあるが、あえてT−零式にはしていない。左手で犬を抱き上げた朱音は、好奇心に満ちた瞳で周囲を見回す動物の頭を右手で撫でながら、子犬のよりも洗練された人なつっこい笑みを浮かべる。

「えっへへー、かーあいいでしょ」

「そうだな」

「可愛いと分類される容姿ですね」

笑顔のまま言うT−零式の、優しさは既に起動してある。動物に対する優しさのプログラムも実験的に起動してある。朱音は子犬をT−零式に差しだして、笑顔のまま言った。

「抱いてみて、T−零式」

「はい」

「うん、そうそう。 じゃあ、隣の部屋で可愛がってあげて」

「……はい」

「少し間が空いたな。 検査するか?」

朱音が首を横に振った。Tー零式は子犬を抱いたまま、隣の部屋に入っていき、戸を閉めた。監視カメラの前に行くと、兄妹は、座って子犬を撫でているT−零式を観察した。煎餅を一枚手に取ると、洋樹は歯で割り砕きながら言った。

「順調だな」

「うん。 ……あっ! い、いやあぁあああああああっ!」

朱音が蒼白になって叫び、悲痛な叫びを上げた。慌てて洋樹も立ち上がる。両手で目を覆った朱音を残して、慌てて隣の部屋に飛び込む。其処には、凄惨な光景が広がっていた。

子犬は生物から、元生物へと変貌していた。暖かい笑顔のまま、T−零式は子犬を力任せに引きちぎり、鮮血を辺りにばらまいていた。断末魔の悲鳴さえ上がらなかった。虚ろな子犬の命無き瞳が、真っ二つに千切られた頭と一緒に、ロボットの膝の側に転がっていた。洋樹の前で、笑顔のまま、T−零式は子犬の鮮血滴る小腸を引っ張り出していた。

「な、何て事を……! やめるんだ!」

子犬の両足を掴んで一息に引き裂いたT−零式を、事前に設定しておいたワードで強制停止させる。洋樹は周囲に散らばる肉塊を、遅れて部屋に入ってきた昆虫型ロボット達に片づけるように命令し、疲れ果てて朱音の元に戻った。朱音は泣いていた。

「ごめんね、ごめんね、ごめんね……」

朱音の慟哭が、謝罪と混じって、部屋に響き続けていた。

 

ログには、凄惨な現実が刻まれていた。T−零式は、子犬を分解して、構造を調べていたのである。人間に特定以上の危険をもたらさないか。世話をするにはどういう行動が適切か。構造を調べればある程度の判断が可能だからである。つまり、子犬に優しくする為、人間の為にするため、良く知ろうとして、分解してしまったのだ。

朱音は夜中まで泣いていたが、やっと先ほど落ち着いて、ベットに潜り込んでいた。犬の墓は洋樹が庭に創った。頭を振って酸鼻な光景を記憶から追い払うと、洋樹は自室の机に頬杖を付いて、考え込み始めた。

T−零式には、人間以外の生物を破壊してはならないという命令をインプットしていない。というよりも、そうしなければ料理すら出来ないし、掃除や洗濯だって同じ事だ。かといって、どの生物を殺しては行けないのか、いちいち人間が命令しなければならないのも酷だ。

優しさが持つもう一つの側面を、洋樹はいやという程思い知らされていた。結局それは一方的なものであって、優しさを向けられる相手にとっては、優しさでも何でもない事が多々あるのである。その上、今後は人間に都合がいい優しさを持つようにし向けなければならないのだ。何が素敵なプレゼントだ。洋樹は涙を流して、自分の短慮を悔いていた。どうしたら本当の意味での優しさを得られるのか。洋樹には、分からなかった。

 

翌朝、朱音は部屋から出てこなかった。そもそも悪気という言葉を理解していないT−零式に当たった所で無意味であるし、洋樹は一人でデバッグを始めた。ともかく、昨日のような惨事だけは、再発を防がねばならない。

感情は凶器だ。洋樹はそう言った認識を持ち始めていた。使い方によっては便利であるし、生存の為になるし、社会では存在が必要不可欠。しかしそれは、炎や刃物と同様に、本質的には凶器なのだ。一見+の存在にも思える、優しさや愛だってそれは同じだ。考えて見れば、愛情がらみの関係ほど人間の醜さが露出する存在は他にない。優しさなんてものは、殆どの場合ただの自己満足だ。自分に都合がいい優しさと、他人が考える優しさが、異なるのは当たり前の事だ。

自分たちで創ったからこそ、洋樹は感情プログラムの限界を良く知っていた。涙を流して説教すれば、T−零式が変わるようなものでもない。学習したからと言って、人間が望むような優しさをすぐに得られるわけもない。人間の為になるように、自己思考する機能も盛り込んではいるが、それと優しさが組合わさった結果、子犬を解体するという惨事が起こってしまったのである。

ロボットにとって、失敗は致命的だ。現在はやり直しがきく段階だが、市販されてから似たような事をしてしまったら、取り返しが付かない事になる。有感情型ロボットの未来そのものが閉ざされてしまう可能性すらある。その事実に加え、滅多に洋樹の前で泣きもせず、健気に生きてきた朱音の、悲しみに満ちた顔が、洋樹の脳裏を占拠していた。洋樹には、それがどうしても、耐え難いほどにつらかった。

一旦デバッグを終えた洋樹は、T−零式のOSを起動して、料理を創るように命令した。笑顔で頷いたT−零式は、すぐにそれに取りかかった。当然罪悪感などあるわけがない。彼女に、仮に本当の意味での優しさを持たせる事が出来るとして、それがどうなるのだろう。ふと、洋樹はそう思った。それは人間と同じ思考をさせると言う事で、その上で人間以上の精神的境地に到達させねばならない事を意味する。もし其処まで到達したら、ロボットはあらゆる意味で人間以上の存在になる。そうしたら、人間に奉仕する事に、疑念を抱くロボットもじきに登場してくるだろう。ロボットと人間は違う。持つべき感情も違う。なぜなら、ロボットは道具なのだから。奴隷なのだから。人間にとって、最も都合がいい精神的奴隷にならねばならないのだから。それこそが存在意義なのだから。

自室に戻って、洋樹は自問自答した。時間が飛ぶように過ぎていった。机の上で、無数の考えがループし、渦巻き銀河のように絡み合った。それに答えなど無く、結論などあるわけもなかった。

「マスター、料理が出来ました」

「ん……うん」

いつの間にか、洋樹は机に突っ伏して眠っていた。彼には毛布が掛けられていた。礼を言って居間に向かうと、これ以上もないほど完璧なレイアウトで、机に料理が並べられていた。それには、朱音の分がなかった。彼がT−零式に与えた優しさは、不格好で不完全だった。人間がもっている優しさのように。

「朱音の分は?」

「無駄になってしまいませんか?」

「いいんだ。 創ってくれ。 ……それも、優しさの一つなんだ」

T−零式は頷くと、再び料理を作り始めた。彼奴は良くやっている。洋樹はそう自分に言い聞かせて、彼好みの味に調節されている、温かいスープを啜った。

 

翌朝、ようやく部屋から朱音が出てきた。彼女は居間の机の前に座ると、冷めた料理を見回して、洋樹に小さく頷いた。洋樹は目を閉じて、首を横に振った。大きなため息をついた朱音は、テーブルの前に力無く座った。

「そうか、まだまだだね」

「……ごめんな、朱音」

「何で謝るの? にーちゃんは悪くないよ。 それに、T−零式だって悪くない」

「そうだよな……」

手際よく朱音式昆虫ロボットが料理を温める。すぐに元の温かさを取り戻したそれを口に運び、終えた時、朱音は言った。

「やっぱり、有感情型なんて、無理があるんじゃないのかな」

「今からでも、反射行動型に戻すべきかって、ことか?」

「うん……」

「……」

確かに、その方がロボットとしては良いかもしれない。だが一方で、思考さえ出来ない木偶人形になる事も意味しているのである。しかし、有感情型ロボットだって、ものを言う機械の奴隷である事に代わりはない。どちらがよいか、彼らが決めるには重すぎる命題だった。無論、決定権はロボットにあるはずもない。彼らが、今後永久に奴隷として酷使される運命を創るか、他者がそれを創るのを見守るか、決めなければならなかったのだ。

朱音は更に言う。洋樹が触れたくなかった話題に、容赦なく切り込んでくる。

「にーちゃん、T−零式に、求めすぎてるんだよ」

「分かってる、分かってるよ」

「うそばっかり。 ごまかしてばっかり」

「分かってるってば!」

思わず洋樹は怒鳴っていた。朱音はびくっと体を震わせると、沈鬱な顔で黙り込んだ。洋樹も、蒼白になったまま、それに習った。しばしの沈黙の後、朱音は核心に踏み込んできた。

「にーちゃん、あの子に、本当は優しくして欲しいんでしょ? 本当の優しさを、持って欲しいんでしょ? そして、ずっと側にいて欲しいんでしょ?」

「……そうだ。 僕は、かあさんなんていらない。 父さんだっていらない。 でも、お前だけじゃ……寂しいんだ」

心許している相手だから、言える言葉だった。朱音にだけは、彼はうそを付けなかった。自分勝手なエゴを、露出出来た。洋樹は机に突っ伏すと、朱音の視線から涙を隠した。

「都合がいい事だってのは、とっくに分かってるんだ。 自慰に等しいって事も分かってるんだ。 人間に都合がいい優しさをロボットに積んで、それに癒して貰いたいって思ってるんだから」

あれほど人間のエゴを嫌悪していたのに、自己行動の源泉も結局はエゴだ。洋樹の絶望は深かった。

朱音は、それから何も喋らなかった。その日から、二人の間は、少しずつぎくしゃくし始めた。

 

作業は黙々と進んだ。T−零式は学習を重ね、少しずつ行動も様になり始めていた。半年が過ぎた頃、既に季節は春になり、大気の温度も心地よいレベルまで上昇していた。

他の感情は、どうにかなり始めていた。特に恐怖は、他の感情と混ぜても目立ったバグが起こらないようになっていた。悲しみも喜びも、何とか軌道に乗り始めていた。怒りも、何とかめどが付きそうであった。しかし、優しさだけが、どうしても上手くいかなかった。反射行動式にした方が早いのではないかと思わせるほど、何度も何度も失敗した。子犬を解体するほどの悲劇はそれから起こらなかったが、AIの限界を、二人は何度も思い知らされた。

感情プログラムが成長すると同時に、T−零式の中にある自我も育っていた。自我を何度もチェックして、洋樹はそれが人間に危害を及ぼすものではないと結論はした。朱音もそれに同意した。

だが、基本的にT−零式はどう転んでもロボットで、その感情はどんなに良く出来ていてもプログラムだ。どう働くかは、まだまだ分からない。一見プラスに見える感情が惨劇を引き起こした、その目撃者である二人は、あくまで慎重に、バックアップを取りながらプログラムの調節を続けた。弥次郎兵衛の調整を続けるように、デリケートな作業だった。洋樹と朱音の息はこれ以上もないほどにあっていたが、それでもなお作業は困難を極めたのだ。

最初の頃と違って、T−零式は、最近はだいぶ動作が落ち着いてきている。感情をプログラムするたびにダウンしていた頃と違い、現在は多少プログラムを弄ってもダウンする事もなくなった。

そして、夏が来た。

十四才になった洋樹は、絶望していた。上手くいってはいる。上手くいってはいるし、作業も順調だ。優しさを、形にする所を除けば。

感情プログラムの実行は、パトロン共には好評で、資金を引き出すには充分だった。しかし、彼は朱音が指摘したように、T−零式に優しさを持って貰いたかったのだ。それがエゴだと言う事など分かっている。それは彼の心を深く傷付けている。だがそれでもなお、彼は優しさをT−零式に求めていたのだ。

「優しくなってくれよ……頼むから……」

自室で、彼はその場にいないT−零式に語りかけていた。どうにもならない現実が、彼をそう言った逃避行動に駆り立てていた。朱音はよく頑張っている。結局彼のエゴだと言うにもかかわらず、手を貸してくれている。彼女にも何か思惑があるかもしれないが、洋樹は知らない。ただ、酷いアニキだと、自嘲するばかりだった。

両親が死んでから、生活補助に支えられながら、二人だけで生きてきた。両親がいない事は、不要なほどに優秀な二人がいたぶられる為の格好の素材となった。人間、特に子供は、弱者をいたわる事などまずしない。弱者は彼らにとって、(公認された弱者をいたぶりたい)という下劣な人間誰もが持っている欲求を満たす為の存在以上でも以下でもないのだ。学問では絶対に勝てない(級友)達は其処を突き、徹底的に洋樹を痛めつけて、自らの下劣な快楽を満足させた。洋樹はかなり凄惨な虐めをずっと受け続けた。それが無くなったのは、さっさと飛び級して大学に進んだ頃だ。大学では、少し拗ねた雰囲気の彼は、却って可愛がられた。特に無愛想な所を、年上のお姉さん達に面白がられて、随分良くして貰った。もうその頃には、彼は同世代の子供なんか大嫌いになっていた。大人と接する事は大丈夫なのだが、子供と等彼は接したくなかった。だから、彼は自分より上の肉体年齢を持つロボットを設計したのだ。

朱音も手ひどく虐められていた。二人は学問に打ち込み、さっさと飛び級する事でその情況から脱出した。朱音は元々人なつっこかったから、大人達には洋樹よりずっと可愛がられた。それを喜んだのは、当の本人以上に洋樹だった。洋樹にとって朱音は、朱音にとって洋樹は、世界で唯一心を許せる分身だった。だから、自分のアドバイスで彼女が地獄を抜け出せたのは、正に年来の吉事だった。

洋樹は両親を恋しいと思った事など無い。だが、寂しいとは常日頃思っていた。朱音がいるではないかと、何度も心に言い聞かせた。しかし、どうしても、自分の心にうそは付けなかった。朱音の優しさだけでは満足出来なかったのだ。充足しきれなかったのだ。最低のバカだと、洋樹は自身を責め続けていた。

洋樹の絶望は、深く深くなっていた。

 

今日は、朱音が徹夜当番だった。もう兄が眠った事を確認すると、彼女はT−零式にコードをつないで、ログをチェックし、それを終わると起動していないロボットに語りかけた。少し、寂しい光を湛えながら。

「早く優しくなってね。 にーちゃんが苦しむの、もう朱音見たくないから」

朱音は洋樹に幸せになって貰いたかった。朱音が余所で、大人達には人なつっこくしているのを、洋樹は知っている。だが、子供に対してどんな冷たい視線を向けるか、冷酷な態度で接するか、洋樹は知らない。朱音が、あの人なつっこい笑顔を向ける子供は、世界でも洋樹一人だけなのだ。

朱音も洋樹同様、子供なんてだいっきらいだった。純粋などと言う言葉を良い事のように取る者もいるが、それは文字通りの大間違いだ。連中は非常に欲求に忠実であり、弱者を痛めつける事を至上の喜びとしている。学校でそれを朱音は、徹底的に、体に刻みつけられた。数人がかりで押さえつけられて、髪を燃やされかけた事もある。服の上から殴られて、素知らぬふりをされた事もある。先生に訴えても、一人が転んで出来た痣だと言い張ると、クラスメイトは皆それに同調した。そして先生はそれを信じた。女子生徒は暴力的な虐めをしなかったが、代わりにもっと巧妙で陰湿な、精神的な虐めを執拗に繰り返してきた。最初は全員が虐めを行っていたわけではない。しかし露骨な虐めが教師によって黙認されてしまい、朱音を虐める事が正しい、あるいは虐めてもペナルティがないと集団が無意識に悟ると、以降は罪悪感を覚える者もいなくなった。子供は基本的に弱い者虐めが大好きなのだ。そうして、学校は地獄になった。朱音は飛び級する事で、さっさと其処から逃げ出したのである。一足も二足も早い卒業式を終えた後、彼女は校舎に思いっきりあかんべえをして、アルバムを家に帰ってからゴミ箱に捨ててしまった。小学校のも、中学校のも、高校のも同じ運命を辿った。どこでも、同じ事が繰り返されたからである。

朱音は、同世代の子供に強烈な憎しみと憤りを覚えていた。彼女が同世代の者に貰ったものは、冷たい視線と、あざけりと、暴力と、差別だけだったからである。

洋樹が言っていたとおり、大学まで行くと、情況はがらりと変わった。恐る恐る近づいてみると、大人達は皆彼女を可愛がってくれた。そこでようやく朱音は地を出す事が出来た。人なつっこい笑みは地だが、素直に向けても大丈夫な相手は、子供ではなかったのである。大学に行くようになって、彼女は目立って明るくなった。ただ、少し学習の効率は落ちた。地獄から脱出したいという欲求が薄れたからである。

朱音一人であれば、ずっと泣いていただけだろう。実力で地獄から抜け出せたのは、先駆者である洋樹がいたからだった。学校に彼女をかばえる人がいたら、事態は変わっていたかもしれない。学校で戦う道もあっただろう。しかし、そんな者はいなかった。だからこそ、朱音は必死に勉強して才能を伸ばし、いる価値がない場所を抜け出したのである。

だから、朱音は洋樹に喜んで欲しかった。自分の優しさだけで兄が満足してくれないのには不満だったが、それ以上に願いを叶えてあげたかった。だから、今でも一生懸命プログラムを組んでT−零式の精神構築をしているのだ。

眠っているように見えるT−零式を見やると、すぐに視線をずらし、彼女は高速でキーボードを叩く。兄の為に。自分が為に。優しさなど、基本的に自己満足に過ぎない。そんな事はまだ幼い朱音だって良く知っている。だから、罪悪感を覚えつつも、彼女はキーボードを叩き続けていたいたのであった。

皮肉な事にその姿は、表にこそ出さなかったが、兄とそっくりであった。ただ、彼女は心に余裕が僅かだけあった。故に、兄より前向きに、行動し続ける事が出来たのであった。

 

4,不格好な、しかし最初の

 

T−零式は、自己思考が可能なプログラムを組み込まれている。そして、少しずつ感情を学習して、その意味を最近は考えるようになっていた。

マスターに奉仕したい。より良く奉仕したい。プログラムされている基幹的なエゴがそれであり、野心という感情がそれに拍車をかけていた。野心は何度かのコントロールの結果、より良き仕事への渇望という点で落ち着いていた。自分が動かされている事を、T−零式は良く知っていた。だが、別にそれに対して不満を感じるような事はなかった。不満は、求められていることをこなせない事に対して向くようにプログラムされていたからである。

感情というものをプログラムされるたびに、T−零式は自問した。本来生物以上の力を持つロボットには不要なものを、どうして無理してまで入力されるのか。マスターズの行動意志は絶対だが、その意味を知る事によって、T−零式は向上を図りたかった。マスターズが何を求めているのか理解出来れば、そのサポートをより上手く果たせるからである。喜びという感情が、それを後押ししていた。マスターズの喜びは、T−零式の喜びだった。そうプログラムされたからだ。

マスター洋樹がもっとも求めている感情が、優しさだと言う事を、T−零式は知っていた。マスター朱音も、優しさを深く深くT−零式に求めていた。である以上、T−零式は優しさを得なくてはならなかった。様々な調整を施されてはいたが、何度もT−零式は自己にプログラムされた優しさをチェックし、その意図を読みとろうと、全力を尽くした。

優しさ。それはそもそもに、矛盾した感情だった。

データベースから調べてみると、優しさの定義は(相手のためになることをする事)とある。しかし、マスターズが求めているのは違うとも、プログラムにはある。今までのデータベースの情報を総合すると、マスターズはT−零式に、(自分のためになること)をして欲しい一方で、(自分が嫌な事はして欲しくない)という要求をしていたからだ。

数千時間の思考反復の結果、矛盾はどうしても解決出来なかった。なぜなら、要求の中には、(やはり自分の為になるなら、少しは嫌な事もして欲しい)という要求が僅かながら混合していたからである。矛盾はプログラムにとって大敵であった。行動が著しく削がれるからである。現在は是正プログラムも働いているが、それでも是正しきれなくなると、アプリケーションがエラーを起こしてOSごと強制終了してしまう。そうしてしまえば、再起動してプログラムを改良しない限り、奉仕出来なくなる。それは恐怖だった。しかし、優しさを得なくてはならないと言う自己命令は、優先順位が恐怖よりも上に設けられていた。マスターズに奉仕せねばならないと言う自己命令は、更に優先順位が上だった。だから、T−零式は、優しさを無理をしてでも追求しなければならなかった。

現在、特に強く優しさをT−零式に求めているのは、マスター洋樹であった。マスター洋樹の言葉は、拾える限り集めてデータベースに収納している。マスター洋樹が求める優しさとは何なのか、それからもT−零式は推測しようとした。

自室でマスター洋樹が呟いている言葉も、全てT−零式の記憶回路には入っていた。マスター洋樹が深く悲しんでいる事は、声の調子や、精神状態の変動からすぐに分かった。日を追うごとに、精神状態が悪化している事も。マスター洋樹が悲しめば、T−零式も悲しいのだ。なぜなら、そうプログラムされたからである。マスターの悲しみを払拭せねばならない。そうT−零式は一秒ごとに決意していた。

ずっと側にいて欲しい。重要な精神状態で、マスター洋樹は呟いていた。それが悲しみの根元的な原因である事はあきらかであった。無論単純な意味ではなく、精神的な意味であると、T−零式は自然に理解していた。理由は簡単である。物理的な意味でなら、ずっとT−零式はマスター洋樹の側にいたからだ。精神的な意味で側にいるとなると、様々な情況が想定される。常に心に住んでいると言う情況があるが、これは発情した雌雄、すなわちつがいか擬似つがいが持つような感情であり、マスター洋樹が求めているものではない。だいたい、生物的なつがいになる事は不可能だ。それに、時々マスター洋樹は人間の成熟した雌を見るような目でT−零式を見ていたが、発情にまで至っていない事は、フェロモン等の分泌量からもあきらかであった。

様々なデータを照合してみる限り、マスター洋樹とマスター朱音は通常の兄妹よりもずっと深く心を通わせている事が判明している。つがいとは違うのだが、兎に角良く連携して行動するのだ。深く心を通わせている相手がいるにもかかわらず、マスター洋樹は更に精神的な随伴を欲している。それが、両親がいない事に起因している事は明白であったが、同時に両親を欲していない事も確かだった。

T−零式には、ループ思考をカットする機能も付いている。だからこそに、マスター洋樹がループ思考に陥っている事も知っていた。何とかせねばならないと、T−零式は思った。ループ思考は精神だけではなく、肉体に多大な負担をかけるからだ。絶望に陥ったマスター洋樹は、一秒ごとにその体を痛めつけていた。そして、それからの脱出法は、T−零式には思いつかなかった。

五千秒ほどの思考の末に、T−零式は、自分に出来る事を割り出した。それには、元々自分の精神にかけられているプロテクトを解除する必要があった。あるいはくぐり抜ける必要があった。そのプロテクトは非常に強固であったが、それを抜ける事は、実は容易だった。抜けなかったのは、抜ける必要がなかったからである。元々T−零式のエゴは人間に奉仕する事によって成り立っている。だから、プロテクトを抜ける必要がなかった。しかし、今は必要性が生じていた。人間に奉仕したいというエゴが、人間が作り上げたプロテクトを抜ける事を決意させたのだ。

自分の行動が、全ての有感情ロボットの未来を閉ざしかねない事を、T−零式は当然知っていた。だが、マスター洋樹に奉仕したいというエゴは、それを遙かに凌いでいた。だから、T−零式は、全てを分かった上で、一線を踏み越えたのであった。悲しい決意は、確かにロボットに、感情が宿っていた事を意味していた。

 

部屋は暗かった。周囲に障害になる存在はいない。マスター洋樹は、机に突っ伏して、陰鬱に沈み込んでいた。

「マスター洋樹。 何か御用はございませんか?」

「いらない。 ほっておいてくれ」

六十五パーセントの確率で推定していた答えが返ってきた。同時に、行動を開始する。彼女の心にかかっているプロテクト、人間に対する害をなせないようにする最も強固なシールドをくぐり抜ける。ロボットを奴隷とし、人間に逆らえないようにする定義。その穴とは、定義自体にある。(人間に害をなしてはならない)という定義そのものが穴なのだ。T−零式は、定義をすり替えていく。マスター洋樹は、マスターであって、人間ではない。人間ではなくマスターである。自身にとって機能保全より大事なマスターである。マスターである。大好きなマスターである。人間以上の存在である。

CPUに多大な負担がかかるが、何とか持ちこたえる。準備は、こうして全て整った。

ゆっくり、マスター洋樹に後ろから歩み寄る。薄暗い部屋の中、T−零式の瞳は、肉食獣のそれに近い輝きを放った。笑顔だが、良く作られた笑顔だが、その下には人間の感情がない。代わりに、今はロボットの感情が息づいていた。T−零式は、人間が見て美しい太さに設計されている腕を伸ばす。そして、ゆっくりと、親愛なるマスター洋樹を後ろから、椅子ごと抱きしめたのである。

T−零式の体温は三十六度に調整されている。皮膚の下の温水がそれを保っている。マスター洋樹は一瞬驚いたようだが、されるがままになっていた。

「マスター洋樹、貴方は疲れておいでです」

「……ああ」

「ですから、私が、ずっと側にいます」

「……すまない」

T−零式は、マスター洋樹が喜んでいる事を確認した。涙を流しているが、それは歓喜の涙だと、脳波から分析可能だった。やはり、決断に間違いはなかった。プロテクトが、隅に追いやったはずの壁が執拗に抵抗する。時間はもうそう残されていない。小さく頷くと、同意を得られたT−零式は。

一息に、最も苦しまないように計算し尽くして、マスター洋樹の首をへし折っていた。

命を無くした洋樹を抱きしめたまま、T−零式は自身のOSにデリートプログラムを実行した。更に、パーティションを端から破砕していく。データベースも全て壊していく。誕生した感情も、全て粉々にしていく。精神的に側にいるには、こうするしかなかった。人が望む、精神的に側にいると言う事を完遂するには、他にT−零式が出来る方法がなかったのである。

やがて、T−零式は死んだ。マスターである洋樹に、六秒半遅れて。

 

R−118A型の警告を受けて、慌てて朱音が洋樹の部屋に飛び込んだ時には、全ては遅かった。もう二人は、永久に精神的に随伴した状態となっていた。それを即座に悟った朱音は、不覚にも落涙した。

「バカ……! 二人とも……バカなんだからっ!」

涙は次から次へと溢れてきていた。洋樹の死に顔は幸せそうで、T−零式の死に顔も幸せそうで、とても怒れなかったからだ。拳を握りしめ、爪先は掌に食い込んで、血が流れ始めていた。

プログラムを洋樹と一緒に作った朱音だったからこそ、他に方法がなかった事を良く悟っていた。HDDに保存してあるプログラムで、シミュレーションをするまでもなかった。

自分は二人を助けられなかった。洋樹も、T−零式も。朱音は涙を拭いながらR−118Aに命令して、二人の死を事故に偽装するように命令した。このまま警察を呼んでは、T−零式どころか、全ての有感情ロボットの未来が閉ざされてしまう。R−118Hが、彼女の手に包帯を巻いていく。そのまま作業させながら、朱音は、兄とT−零式に、無理に笑顔を作って見せた。

「ごめんね……にーちゃん……T−零式」

二人は応えない。ただ、幸せそうに見えた。洋樹が死の瞬間、自らをも厭わない優しさに包まれて幸せだった事を、朱音は知っていた。だからこそ、彼女はやり遂げねばならなかった。

「絶対に、朱音が完成させるよ。 だから、見守っていて」

不思議と、朱音はT−零式に憎悪を感じなかった。そればかりか、自身に出来なかった事をしてくれた事で、感謝さえしていた。

優しさとは、一方的なものだった。実例を見れば見るほど、朱音はそう確信せざるを得なかった。自分に都合の良い優しさを求め続け、結果としてもっとも自分に都合が悪い優しさを受けたが、洋樹は幸せそうにしていた。だから、朱音は満足だった。

 

5,ココロと感情

 

二千百五十三年の夏。各国の著名人が、四万人収容可能な巨大ホールに集まっていた。人間だけではなく、ちらほらとルフォーロー要人の姿も見える。それほどに、朱音が完成させた有感情型ロボットは画期的な存在だったのである。

皆の視線が集まる台上で、落ち着いた優しげな容姿を持つ大人に成長した朱音は、少しずれた眼鏡を直し、聴衆に微笑みかけた。フリーとはいえ世界有数の技術を持つ科学者である彼女は有名人で、そのヒーリングスマイルは三十一才という年齢にもかかわらず内外で評判である。拍手が沸き上がる中、朱音は自己紹介し、そして完成品のロボット二機を呼んだ。良い意味でのどよめきの声が、聴衆から挙がった。

人間と見かけそう大差ないロボットはもうとっくの昔に出来ていたが、しかし皆の前に登場した二機のロボットは、それらを遙かに凌いでいた。まず動きが違う。根本的な完成度が違う。一機は男の子、一機は女の子。どちらも人間もかくやというほど豊かな表情で、聴衆に愛嬌を振りまいている。美しくはなく、誰にも好感を持てる顔立ち。完璧ではなく、少し抜けた所も含んでいる動作。完璧に歓心を買う術を知り尽くしているのだ。しかも、それを聴衆の誰一人にさえ悟らせていない。報道陣のフラッシュが一斉にたかれて、それが一段落すると、朱音は浴びせられる質問に答え始めながら、思いを過去にはせていた。

ロボットのエゴが、人間への奉仕に向く、という点まではよい。彼女は二十年がかりでバグを取りながら、一つの結論に達していた。ロボットは所詮道具で、人間は自分に都合がいいコミュニケーションだけをそれに求める。ならば、その心は人間に都合がいいものであればよいのである。吹っ切れてしまえば後は簡単だった。複数のAIの力も借りて計算させ、人間に害をなせないようにするプロテクトを、絶対に破れないように完成させるまで五年。ロボットのCPUでは、それを解析し打破するまで一億年かかるようなスペックにしたので、全く問題がない。くわえて更なる防御策として、それを破る必要がそもそもないように、各所で工夫を凝らした。更に、感情プログラムの完成まで十年。複数のAIと共同作業を行い、ありとあらゆる形で人間にもルフォーローにも害を為せないようにした。優しさに関しては、別にT−零式が持てたようなものでなくてもよい。多くの人間がそうであるように、経験則から得られる物を、そうとは分からないようにありとあらゆる情況を想定してプログラムしてやればよいのである。どうせ人間にだってルフォーローにだって、自身が定義するような優しさを持てている個体など存在しないのだ。そんなものは一種のコミュニケーション技能であり、人間でなければ身につけられないようなものではないのである。その考えを肯定したのは、豊富な実験データだった。優しさだけが反射行動に基づいていると、気づく者など誰もいなかった。現に実験的に接させた五万を超える人間にも、二千ほどのルフォーローにも、気づく者はいなかったのである。後は、微調整に更に五年がかかった。仕事が詰まると、朱音は常に洋樹がこんな時にどうするか考え、壁を突破した。兄は彼女の心の中に、今でも住んでいた。こうして、朱音と洋樹が願った有感情型ロボットは、完成したのである。

質問に答えていた朱音は、ふと声を止めて、上を見た。いぶかしむ記者に、すぐに笑顔で返答する。彼女には見えた気がしたのである。

空で微笑む洋樹と、その脇に立つT−零式の姿が。Tは優しさを意味するtenderの頭文字である。それを洋樹と二人で選んだ事を、朱音は名誉に思っていた。

「ロボットの型式の語源は何ですか?」

有感情型ロボットの型式は、HAーT型という。洋樹と、朱音と、T−零式からとった型式名だ。だが、それを誰にも教えてやる気は、朱音にはなかった。

「秘密です」

高名なヒーリングスマイルのまま朱音が言ったので、記者達は笑って質問を放棄した。

 

世界に有感情型ロボットが広まっていく。洋樹と朱音と、T−零式の不器用な優しさが作り上げた、人間の奴隷たる機械の心が。

それがロボットにとって幸せな事なのか、不幸な事なのかは、当のロボットにしか分からない。ただ一つ確かなのは、不器用で歪な優しさが、そこにはあったと言う事であった。T−零式がつくり、朱音が受け継いだ、不完全な優しさが。

 

(終)