朱い手紙
序、最初の手紙
紙はいつの時代も、言葉以上に不思議な存在感を持っている。紙に墨をもって書かれた文書が、千の年を超えるように。
結果的に、その手紙が届くのは遅すぎた。あまりにも遅すぎて、すでに対処のしようが無かった。
誰にも失敗談はある。どんな絵画の名人だって、いつも傑作を作り出せる訳ではない。どんな名警部だって、必ず犯人を捕らえられる訳ではない。どんな名将だって、常に戦に勝てるわけではない。
夏のある日。蝉がとてもうるさかったその日。
東北地方の山奥で、小さな集落が一つ。
この世から消えた。
空から降ってくるのは、アブラゼミたちの声だった。求愛のために発達させた体の機能を総動員して、木に壁に草にありとあらゆるものにしがみついて、彼らは鳴き続ける。人間にはうるさいだけだけれど、彼らにとってはとても神聖な行為なのだ。邪魔をしてはいけない。
体をこんがり小麦色に焼いた少女が、木の下を歩きながら、そんなことを考えていた。麦わら帽子をしていても、お日様はじりじりと熱を投げかけてくる。亜熱帯圏に入る島出身の少女にはどうというほどのものでもなかったが、世間は猛暑だ酷暑だと騒ぎ続けている。家に帰ってテレビのチャンネルを変えてもその話題ばかり。正直飽きた。島から出てきたばかりの頃は、テレビが物珍しくて仕方がなかったのだが。
師匠に頼まれた買い物の帰り道。何もかも退屈で仕方がない少女は、小さくあくびをし、伸びをした。食肉目を思わせるしなやかな体が、弓なりに空に伸びる。ぺたぺたとビーチサンダルで、熱せられたアスファルトを踏んで、再び歩き出す。
あまりに野性的すぎるので目立たないが、少女の手足はすらりと長く、贅肉のかけらもない。細い体だが、要所要所には筋肉が無駄なくついていて、その潜在力の高さは一見で明らかだ。いわゆる戦士の肉体というものである。ただし、年頃の少女らしい細やかな体に対する気配りはかけていて、ショートの髪には寝癖がついているし、爪の中にはわずかに垢が入り込んでいる。それが瑞々しさ以上に、粗野さを周囲に見せつけてしまうのだ。
手にした買い物袋を左右に揺らして帰路を急いでいた少女は、下宿先のポストからはみ出す白い影に気づいた。
ダイレクトメールかと思って引っ張り出すと、以外にも住所と師匠の名前が書いてある封筒だ。引っ張り出すと、カラフルな紙が一緒にたくさん引きずり出されてきた。こっちは本物のダイレクトメールである。後で庭で燃やして焼き芋でも作ろうかと考えて、少女は門扉を開けて家にはいる。
「うーっす、師匠、帰ったよー!」
返答なし。ついでに気配もない。留守電が三つはいっていた。
二つは先物取引の勧誘と、出会い系サイトの宣伝であった。しかし三つ目は師匠の声が入っていた。
「私です。 桐です。 志乃、そこにいますか? 大島さんから連絡が来ています。 まだ少し不安ですが、あなたに対処してもらおうかと思っています」
「…! やった!」
「詳しくは、もう届いている手紙を見てください。 何かあったら、すぐ私に連絡するように。 旅費は渡している小遣いから出して、後で請求してください。 ごまかしたらただではおきませんよ」
直接いわれたわけでもないのに、志乃と呼ばれた少女は反射的に首をすくめていた。いわれなくとも、師匠にごまかしが効くなんて、一度だって思ったことがない。優しそうなあの人は、観察力がとても鋭いし、怒るとものすごく怖いのだ。怒ったときのことは、正直思い出したくない。警察や探偵では解決できない、人界の常識外の事件に対応するのが師匠の仕事。志乃もその手伝いをさせてもらってはいるが、まだまだ師匠の足下にも及ばない。
師匠はお仕事先から頼まれて、こんなふうにふらふらでかけていくことが多い。一緒に連れて行ってもらうこともよくあったが、現場では指示を受けてはその通りに動くだけだった。どうもあの「戦略的思考」というのが志乃には苦手で、頭になってくれる人がいるととても楽なのだ。しかし、それを吹き飛ばすほど、今回の件はうれしかった。一人で対処するのは初めてだし、わくわくする。
買い物を地下倉庫に放り込むと、出かけるべく準備をする。分厚い記事のズボンとシャツを着込み、紫外線対策の帽子と、バックパックを引っ張り出す。鉈の刃を新聞紙で丁寧に包んでねじ込んで、後はいろいろ生活用品と着替えを順番に詰めていく。着替えはあくまで服がだめになったときのために持って行くのだ。後は丁寧に顔と手を洗って、頭も洗って寝癖を直しておく。短いのに癖っ毛な志乃の髪は、しぶとく寝癖を直そうとせず、ずいぶん時間をロストしてしまった。
出かける準備をあらかたすませてから、手紙を見る。外側の封筒は大島さんという人からきている。師匠によく仕事を持ってくるお得意さんだ。びりびりと手でちぎって中身を出すと、いきなり目に悪い色が飛び込んできた。真っ赤な手紙だった。
「うわ、気味が悪いなあ…」
志乃はぼやく。赤は苦手だ。正確に言うと、血がだめだ。もう一通白い手紙が入っていたので、そちらから目を通す。非常に繊細な字が、きわめて丁寧な字間で、しかも手書きで書かれていた。事前に師匠に状況は説明されていたらしく、挨拶や社交辞令は抜きに、いきなり本題に入っている。
「この手紙がS村から届いたものです。 S村から去年離れた人物から通報があり、発覚しました。 今までもS村には不穏な噂があり、何度か警察が調査に入っているのですが、村人の非協力的な態度、悪辣な立地条件も重なり、不審な点は発見されていません。 当地には非常に古い宗教的儀式が息づいているという噂もあり、調査を有します。 緊急性があるとは限りませんが、できるだけ急いで、現地に向かって隠密調査を行ってください」
なんだか大変そうな話だ。少し考え込んでから、志乃は外でもインターネットに接続できるように設定済みのノートパソコンをバックパックにつっこみながら、今後どうしたらいいのか思惑を練る。というよりも、思い出す。師匠が出かけるときに、何をしていたか。
最初は模倣でいいと師匠は言っていた。まず最初に師匠が行うのは、調査だ。図書館に出かけたり関係者に話を聞いたり。この場合は、大島さんというひとに直接連絡するのがいいだろう。まだまだ不慣れな携帯電話を引っ張り出しかけて気づく。こんな時師匠は、自分でできる調査を全部やってから他人の話を聞いていた。まず最初にできるのは、やはりこの赤い手紙をみることだろう。気味が悪いが仕方がない。封筒から引っ張り出してみると、それは全てがまんべんなく赤く塗られた気色が悪い封筒であった。丁寧にのり付けの部分までもが赤くなっている。これをびりびりにちぎるのがそもそもいやだったので、志乃はせっかく寝癖をとった頭を無意識にかき回しながら、はさみを探してきて、先端部分を切り落とした。
中から出てきたのは、また真っ赤な紙である。よく郵送されたものだ。気色が悪くて仕方がない。封筒には住所が書いてあったが、みたこともない地名だ。これも出かけるまでには調べておかなければならないだろう。そして、切り落としてから気づく。封筒の逆側に、開けてから丁寧に張り直した跡があることに。頭を抱える。師匠がこの場にいたら、注意力が足りませんと怒られて、げんこつが飛んできているところだ。
髪の毛をくしゃくしゃにかき回しながら手紙を引っ張り出す。手が思わず止まった。凄惨なまでの赤地に、大書きに深海のような青で三文字だけ。こう、書かれていた。
「助けて」
思わず呼吸が止まっていた。
たっぷり数秒間沈黙してから、志乃は封筒に手紙をつっこみ直す。みなかったことにしたいが、そうも言っていられない。一瞬しかみていないが、文字からは切実な救援依頼の意志がにじんでいた。助けられるものなら助けなくてはいけない。しかも警察の目を欺き抜くのだというのなら、それこそ師匠や志乃が動くしかないだろう。
師匠は最近忙しい。不意に出かけていっては、傷だらけになって帰ってくることが珍しくない。緊急性はないと判断したのか、もっと大事な仕事が入っているのかわからないが、任された以上志乃がどうにかしなければならない。
S村に一刻も早く向かわなければならないだろう。そのためには準備を一瞬でも早く整えなければならない。
携帯電話を開くと、大島さんのアドレスを探す。師匠のお得意先と言うことで、確かアドレスはあったはずだ。見つけた。呼び出すと、三コールで大人びた女性の声が返事する。志乃は呼吸を整えると、事態を聞きに入った。
1,二通目
A県S村。山間の小村であり、人口は五十名に満たない。ただし、周辺の村に大きな影響力を持ち、ここ数年間にも何人も県会議員を輩出している。そのため家々はどれも大きく、しかもよく近代化されている。山奥の村だというのに、麓のA市よりもインターネットの普及率は高いほどだ。車で向かうのにも一苦労する山奥の離地だというのに、である。
それが数時間の調査と、大島女史の説明によって判明した、S村の姿であった。不可思議な村である。
孤児院に入る前、志乃は小さな離島に住んでいた。そばには大きな密林があって、変わり者の両親と一緒にそこに住んでいた。島にあった小さな村は、非常に排他的な場所であり、よい思い出が一つもない。だからといって、村に対しての知識が希薄なわけでもない。背も伸びて年もとり、師匠の元で様々な経験を積んだ今では、村の仕組みやしきたりの意味、なぜ自分たちが村八分の目に遭ったかはうすうすわかる。だからこそに、余計にこのS村のあり方は不思議であった。
新幹線でその日のうちにA市に到着した志乃は、山々の連なりをみてげんなりした。志乃は森こそ好きだが、どうもこの山というやつは苦手なのだ。故郷が非常に平坦な土地だったというのが一番大きい。それに、村もあまり好きではない。というよりも、人間の集団集落自体があまり好きではないのだ。
キヨスクで買ったガムを口に放り込みながら、インターネットで印刷した地図を見る。手を挙げてタクシーを呼ぶも、なかなか捕まってくれない。さすがに高校生になったばかりの志乃が一人でふらついているのをみて、親切になろうという気も起きないのだろう。そう志乃は判断した。
仕方がないので、とことこ歩き出す。サンダルの方が足の指が外気に触れて好きなのだが、何しろ山に出かけるのだし、分厚い靴下と頑丈なスニーカーを履かなければならないのが面倒くさい。だてに密林で産まれ暮らしていない。皮が厚いので、多少のヒルくらいはへっちゃらなのだが、師匠にきつく言われているし、山自体に警戒感もある。仕方がないので、さっさと村へ向かう。本当は手紙を受け取ったという人物にも会っておきたかったのだが、電話は通じず、結局話は聞くことができなかった。
もう夕方だ。だが隠密潜行にはむしろ丁度いい。人気が無くなると、さっさと森に入り込む。町を抜けて、道を外れると、もうそこは昼なお暗い森の中だ。植生はずいぶん今下宿している場所とは違うが、それでもわかりやすい。目を閉じて風を感じる。故郷のような暖かさはなく、鋭く冷たい風が全身を撫でていく。
コンパスを取り出して方角を把握。落ち葉を蹴散らし、一気に走る。生まれが生まれだけあり、志乃は通常の人間よりもずっと身体能力が優れている。最大速度まで上げようかと思ったが、師匠の言葉を思い出す。何があるかわからないのに、力を使い切ってしまってはいけませんと、師匠はよく言っていた。確かに、目的地に着いたときには力を使い果たしてしまっていた、では笑い話にしかならない。
山の傾斜がきつい。傾斜自体は故郷の森でもさんざん経験していたのだが、それが一方へずっと連なっているのが好きではないのだ。階段も嫌いな志乃には、この地形は悪夢に近い。いやだないやだなと思っている内に、いくつかの集落の横を抜けて、どんどん山奥へと入っていく。人の気配があらゆる意味で無くなっていく。その方が志乃には、むしろ都合がよかった。
夕焼けの空を、鳶が飛んでいた。鳴き交わす声に聞き耳を立てる。鳶は無意味に鳴いている訳ではなく、常にその声には意味がある。なんだか興奮している。警戒を強めていて、村の方へ近づかないよう促しているようだ。木の幹にぴったり張り付き、気配を消しながら、さらに鳴き声に耳を立てる。すごくいやな予感がする。
馬鹿だと自嘲する志乃は、事実学校の成績がものすごく悪い。特に英語の成績は悲惨を極めており、テストをみて師匠はいつも眉をひそめる。ただし生物だけは常に学校トップだ。生態にも詳しい。鳶のこともよく知っている。もし村が彼らにとって嫌なところなら、縄張りの広い猛禽類は熟知しているはずだ。しかも今飛んでいる鳶は決して若鳥ではない。ならば、なぜ今わざわざ警戒の声を上げているのだ。
結論は一つしかない。たった今、もしくはついさっき、目当てのS村に、鳶が何かを感じたのだ。
まだS村は遠い。体力には自信のある志乃だが、慣れない山歩きはかなり消耗を誘っていた。鳶に代表される猛禽類は目が非常によく、それが感じた危険は信頼できる。バックパックからスポーツドリンクを取り出すと、サプリメント食を口に含み、木の根元に座り込んで体力回復に入る。目を閉じて周囲に対する警戒を残したまま、全力で休憩。一気に消耗したエネルギーを回復させる。音も、臭いも、危険なもの以外は全部感覚から遮断。頬を蟻が這い上っていったが、志乃は微動だにしない。目や鼻や耳に入られない限り、放っておく。
山の向こうに月が落ちて、志乃は目を覚ました。立ち上がって尻についた土埃をはたき落とすと、全身をチェック。疲労は残っていない。筋肉の状態も万全。携帯を取り出し、師匠に状況を伝達しようとメールを打つが、圏外で通達できないと出る。舌打ち。そのまま気配を消してS村へ入り込む。森を抜けると、山奥とは思えない光景がそこにはあった。
閑静な住宅街だった。舗装道路はもう無くなっていたのに、村にはいると再び復活していた。しかも丁寧に整備されている。たぶん村の人間に都合が悪いものが入ってくるのを避けるためだろう。歩いていくと、家々にバイクや小型車がおいてあるのがわかる。村の中にしか道路がない状態では、行き来が不便で仕方がないから、村の人間だけが知る隠し道路があるに違いない。
歩いてみると、わかることがいくつもある。舗装道路は微妙に広さが足りず、たぶんヘリは着陸できない。ヘリが着陸できるような広場も見あたらない。ここは想像以上の難所だ。全身が緊張する。何があるかわからない。師匠に話がくるほどなのだ。噂に聞く、人間以外の何かがいる可能性も低くはないのだろう。もし警察がくるとなると、村の人たちが知っている道を使わせてもらえるとは思えないから、道無き山を通ってくるか、ヘリで上空まできて、そこからロープか何かで降りてくるしかない。
家は新しいものから古いものまでさまざまだ。ショールームでパンフを配られるような家から、瓦葺きで土壁のような古き日本家屋まで。共通しているのは、どれもよく整備されていることである。ざっと数えてみるが、戸数は情報より若干多い。一人で複数の家を持っているのか、あるいは情報が間違っていたのか。それはこれから探っていくことになる。
日本の家屋は塀で囲まれていることが多い。これは無断進入を拒む精神的な防壁になる反面、犬や何かを飼っていない場合、不審者が隠れる絶好の盾にもなってしまう。それを利用させてもらい、少し大きな家の塀を乗り越え、そろそろ山の向こうに消えつつある陽光から身を守る。鳴き声はしないし、気配もないから、犬はいない。
潜り込んだのは、かなり大きな家だった。しんとしていて、気配が全くない。嫌な予感が増幅されていく。
壁に張り付いて、外側から念入りに家の中を探っていく。外からの視線や、中からの視線も考慮しなければならないから大変だ。茂みと塀でできる死角を利用して、慎重に作業を進める。ふと気づく。もう夜だというのに、明かりがついている家が一つもない。猛烈に背筋に寒気が走る。感じたのだ。
血の臭い。しかも、動脈からの血。それも、腐敗しかけた血だ。
勝手口の鍵は開いていた。開けて、中に忍び込む。中は非常にこぎれいで、老人ばかりの集落だとは思えない。お手伝いさんでも雇っているのだろうか。血の臭いはますます強くなっていった。
明かりをつけるのはまずい。もし住人に見つかったら謝ろうと考えながら、そのまま靴で。はいずるようにして、家の奥へ。台所を通り過ぎる。まな板に、腐った魚が放置されていて、蠅がたかっていた。かなり大きな鰤の切り身だ。もったいない。異臭を放ったそれは今やウジ虫の御馳走と化している。わんわん、わんわんと蠅の羽音がやかましい。自分の方にも飛んできたので、手で払って、さらに奥へ。
水音がする。すぐそばのトイレではないだろう。台所は今確認した。廊下の奥に、闇が凝縮しているかのようだ。心臓が高鳴る。昔の、師匠に助けられたときの悪夢を思い出してしまう。
血の臭いは、水音と同じ方向から漂ってきていた。考えられるのは、風呂場しかない。小さな物音がして、思わず首をすくめてしまう。怖くて振り返ることができない。首筋に冷気が這い上ってくる。
意を決して振り返る。
ネズミだった。しっぽの先が見えた。一気に全身の力が抜けた。
壁になついて床に崩れそうになる。呼吸を整え直して、風呂場に向かう。暗いので、懐中電灯をつけた。ビームライトが外から見えないように、明かりを向ける方向を工夫しなければならないのがやっかいだ。
大きな蠅が飛んできた。風呂場からだ。
長い廊下が無限にも思えた。長いと言っても、ほんの数メートルだろうに。進むたびに、ぎしり、ぎしりと音がする。壁にできるだけ密着するようにして進みながら、風呂場のとと平行に、壁に張り付く。戸に指をかける。開けてはいけない、開けてはいけない、開けてはいけない、開けてはいけない。本能の警告を無視して、ゆっくり、戸を、開けていった。
ライトを奥へ向ける。ぴちゃり、ぴちゃり。水音がする。その中、それはあった。
思わず飛び退いて、壁に背中をたたきつけてしまった。大きな音がするが、気にしている精神的な余裕はない。手が震える。懐中電灯の明かりが、めちゃくちゃに揺れて、壁を、天井をたたいた。必死に腕をかむ。そうしなければ、悲鳴を上げてしまっただろうから。
洗面所の壁には鮮血が飛び散っていた。
その下には、首が半ばちぎれかけた、和服の老婆の死体が転がっていた。浴槽の中には、体を半分お湯につっこんだ死体があった。こちらも和服で、体を折るようにして浴槽につっこんでいる。水音は、蛇口から水滴がこぼれ続けていることによって、生じていた。
浴槽の死体は背中を一文字に切られており、浴槽全体が血に染まっている。あり得ない角度に首を曲げた老婆の目元には蛆が集っていて、異臭がし始めていた。糞尿の臭いもひどい。必死に這うようにして、家から飛び出す。そして、今更のようにして思い出す。台所の腐った魚を。そして。
明かりがついていない、村のありとあらゆる家のことを。
まさか、全部、こうなって、いるのか。
「はあ、はあ、はあ、はあっ」
落ち着け、落ち着け、落ち着け、落ち着け!
塀のそばの茂みに飛び込んで、そこで頭を抱えてうずくまる。森で育った志乃は、植物の中にいる方が心を落ち着かせることができる。
何があったのか、考えろ。考えるんだ。何も村の人間がみな死んだと決まったわけではない。そうだ、いくら何でも、それはおかしい。電話はどうした。何かあったのなら、手紙などという手段ではなくて、電話を使うはずではないか。それなら警察が動くはずで、わざわざ師匠に話がいくこともはいはずだ。それに、あの死体、人間の手によるものとしか思えない。警察、まずは警察、警察、警察、警察!早く警察に!
必死に携帯電話を引っ張り出して、ダイヤルをプッシュする。ふるえが止まらない。たった三文字を打つのに、四回も間違えてしまう。噛んでいる腕に鋭い痛みが走る。皮膚を噛み破ってしまったようだった。携帯電話からは、圏外だからかかりませんだとか、無情な音声ガイドがながれてくる。高度なインターネット網が確立しているのでは無かったのか。携帯が通じないというのはどういう事だ。
「こ、このっ!」
役立たずと罵ろうとして、やめる。
不思議なものである。師匠の元で鍛え上げられて、修羅場をくぐったことも何度かある志乃なのに。こうも人間の作った闇と、死体が怖いのだから。だが、そんな不思議を感じている暇など無い。肩をつかんで、必死に思考を整理。家の中で、そういえば電話を見かけたか。あるはずだ。普通電話があるのは玄関のはずだ。しかし、風呂場に行く途中、玄関に電話は見かけられなかった。
元々志乃は暗闇が苦手だ。というよりも、閉鎖空間に作られた暗闇が苦手だ。この国に連れてこられた時の体験がトラウマになっているのだと頭では理解できているのだが、それでも苦手なものは苦手なのだ。
ようやく落ち着いてくる。腕が痛いなと、志乃は思った。顔を上げると、やはり闇への招き戸を作った勝手口が存在している。今するべきは、連絡手段を探すことだ。
ほかの家は、ひょっとすると状況が違うかもしれない。あるいは、電話が見つかるかもしれない。電話線が切られていたらお手上げだが、志乃一人なら、数時間がかりで山を下りることは難しくない。
茂みから顔を出して、周囲を伺う。
ふと、探査範囲に気配が入り込んできたのは、そのときだった。
バックパックから鉈を引っ張り出す。新聞紙で作ったカバーを乱暴に引きはがす。
先手必勝。ぶち殺す。
もし犯人が一人なら、それで解決だ。あれが事故とは思えない。
不意にひらめいた天恵に、志乃は感謝していた。
無警戒にライトが周囲を照らしている。懐中電灯を持っているらしい。歩調もおかしく、修羅場を経験した人間とは思えない。大量虐殺犯だろうが関係ない。確実に殺れる。塀の前で足が止まる。ライトが勝手口を照らす。しばらくそこで右往左往する。
その隙に、さっさと塀を乗り越えて、後ろに回り込む。もうすっかり陽が落ちた現在、周囲を照らしているのは星明かりだけ。しかも、人間は何かに集中していると、気づくものにも気づかない。
人影が動こうとする瞬間。志乃は無言で、後ろから躍りかかった。そのまま組み伏せて、口をふさぐ。必死に逃げようと暴れる人間は、女だった。関係ない。このままのどをかっ切る。
そこでようやく、志乃はこの人間が犯人ではない可能性に思い当たった。それに、まだ集落が全滅しているかはわからないではないか。完全に手足を押さえ込んでいるから、逃げられる可能性はない。できるだけ声を低くして、志乃は言う。
「質問に答えて。 この家の人を殺したのは、あんた?」
女は首を横に振る。必死に、必死に振る。涙を両目からこぼしながら。演技かもしれない。指の一本でも切り落とした方が静かになるだろうか。師匠はこんな時、どういうだろうか。少し考えてから、志乃は少し口を押さえる手の力を弱めた。
「電話を使いたい。 どこかに電話はない?」
蒼白になった女は、必死に首を横に振る。意味がわからない。眉をひそめた志乃は、叫んだら殺すと前置きしてから、手を口から離した。のどに突きつけられた鉈に震えながら、まだ若い、十代半ばから後半と思われる女は言う。
「昨日から、使えなくなっていて…」
「…まずい、な」
舌打ちが漏れる。これでは師匠に状況報告もできないではないか。
「誰か、生きている人は?」
志乃の問いに、それこそ女は絶望しきった口調で言った。
「ま、まだ誰もみていません! ごめんなさい! お昼寝から起きたら、こんな、こんなになってて、その、私!」
そのままわんわん泣き出す。途方に暮れた志乃は、泣きたいのは自分だとぼやいた。
鉈は便利な刃物だ。密林歩きの時にも便利だし、刃が肉厚で重いので、破壊力も強烈だ。さらに言えば、見かけが恐ろしいために、その威圧効果も大きい。事実女は抵抗の意志を完全に捨てて、おびえきった目でしゃくり上げながら志乃をみている。
「悪いけど」
「えっ…?」
女の声と意識がとぎれる。首筋に手刀を一撃入れ、気絶させたのだ。バックパックからロープを取り出し、後ろ手で縛り上げる。昔から日本に伝わる、本縄というやつだ。師匠に教わった結び方で、実際にやってもらったときにどうやっても抜けることができなかった。つまり、こんな戦闘経験も無いようなやつには絶対に抜けられない。
気絶させてからボディチェックはした。口の中にも、髪の中にも、手の届く範囲に刃物は持っていない。単に頭が緩いだけの女なのか、それとも冷徹非道な殺人犯なのか、まだ判断がつかない。後者だったら拷問してでも情報を引っ張り出したいところだが、前者だったらそんなことをしたら取り返しがつかなくなる。
恐怖から反転、思考が落ち着き払っているのに、志乃自身が驚いていた。志乃は戦いが好きだ。師匠にもさんざん鍛えられたし、いろんな道場にも連れて行かれて、技を見せてもらった。それがこういう調査作業よりずっと好きだった。恐怖の中、好きな状況に入って、かえって心が落ち着いたのかもしれない。しかしそれももう終わってしまった。後は途方に暮れるだけだ。
女を担ぐ。ものすごく軽い。運動どころか、懐中電灯より重いものを持ったことがないのではないか。さわってみてわかるが、典型的な都会型人間の骨格だ。この村の出身では無いのかもしれない。いや、この村の異常な環境を考えると、皆こんな状況なのかもしれない。しかし、都会型の女は性格が自己中でどう猛だというイメージが志乃にはあるので(ちなみに田舎型は偏狭で排他的だと考えている)、この女の言動は意外だった。それにしてもなんて細い体だ。ちょっと力を入れたら、ボキャとか言って粉々に折れそうだ。
一端森の中へ戻る。慎重に周囲を伺いながら、さっき休んだ木の下へ。空では白々しく月が輝いていて、志乃の苦悩をあざ笑っているようであった。
森の中へ入ると、ようやくリラックスすることができた。村の中にはいるのはあまり得策ではない。夜中になっても明かりがつく様子はないし、どこを殺人鬼がうろつき回っているかわからない。
あの女は木の上に担ぎ上げ、猿轡を噛ませて幹に縛ってきた。二重に縛り上げた訳で、これならたとえプロレスラーでも脱出は無理だろう。痕跡は残していないから、殺人鬼がすぐにあの女を見つけて殺害に及ぶという可能性も少ない。それに森の中なら、志乃に一日の長がある。何か入ってきたら、動物の反応ですぐにわかる。殺人鬼だかなんだか知らないが、あの女を狙って森にのこのこ入ってきたら、鉈で頭をかち割ってやる。念のため、拠点近くにはいくつか簡易トラップを作ってきた。
村の周囲を回る。山の中腹にあるこの村、やはり連絡路が見あたらない。地形が複雑で起伏も多く、そばには川も流れていた。複雑に連なった山脈の一角、山に張り付くようにしてこんな閑静な住宅街があるのは不思議だった。いくつか見かけた集落は、いずれも小さく、家も近代的とはいえない作りであったのに。この村は異質すぎる。
三時間ほどかけて周囲を調べ回って、地形を頭に入れていった。そばに川が流れていて、これはありがたかった。水筒の水がつきたら、ここに汲みに来たい。着火器具は持ってきてあるから、後は鍋などの容器が必要になってくるが、それでもここの清水はおいしそうだった。魚もいるらしい。状況が許せば、釣りをして師匠へ土産にしたいところだ。ただ、山に流れる川にしては少し規模が大きい。川幅も十メートル以上はあるだろうか。もっとせせらぐような小川を想像していたのだが。しかも、川に下水が流れ込んでいる様子はない。こんなところまで下水管を引いているのか、あるいは浄化槽を各家に配備しているのか。しかしそうなると、くみ取り車がどうやってここまできているのかがわからない。村の中にトンネルか何かあるのか。
やはりなんだかよくわからない村だ。一度拠点に戻って、資料にもう一度目を通した方がよいかもしれない。全体的な情報は新幹線の中で頭に入れてきたが、見落とした点がないとは言い切れない。
村を外側から観察しつつ拠点に戻る。途中、ポストを見かけた。すばやく忍び寄って、中を調べてみる。手を伸ばして奥を探ってみると、一枚手紙が入っていた。
引っ張り出す。すぐに森の中へ戻る。拠点に戻ってから調べてみようと思う。足が自然と速くなっていた。
女は無事だった。それほどひどく延髄を打った訳ではないから、すぐに目を覚ますだろう。やつが持っていた懐中電灯を使って、手紙を照らす。思わずうめく。真っ赤な封筒だったからだ。宛先は、例の手紙が届いた家。
ハサミで切って中身を出す。出てきた手紙はまたしても真っ赤で、青字で不可解な三文字が躍っていた。
「かった」
「? かっ…た?」
意味がわからない。
勝っただとすると、これは殺人犯が投函したものの可能性がある。しかし同音異義語はそれこそ腐るほどある。あるいは分の中の一部かもしれない。いずれにしても、全くというほどに意味不明だ。なんだこの手紙は。
気色が悪い。なんだかとても嫌な予感がする。一度戻るか、それとも探索を続けるか、思案のしどころに志乃はたたされていた。
2,三通目
寝袋にくるまり、木に背中を預けて、うとうとする。時々体をはい上がってくる虫を無意識で払い落としながら、志乃は昔の夢を見ていた。
志乃はこの国の生まれではない。東南アジアの一国で産まれた彼女は、変わり者の両親と一緒に村はずれに暮らしていた。両親のどちらかが日本人だったらしいのだが、詳しくは知らない。そのうち事故だかなんだか覚えていないが、両親がそろって死んだ。そして日本から親族だとか言う大人がきて、この国に引っ張られてきた。
それから畳とか言う敷物が詰められた部屋に閉じこめられて、来る日も来る日も過ごした。大人が近くの部屋に集まって日本語で言い争いをしていたが、半分くらいしか理解できなかった。そうこうしているうちに、自分の名前の書き方だけは知った。そして孤児院に入れられた。志乃は狭くて暗い部屋から出られたことを喜んだが、その反面部屋から出たときに。大人たちから浴びた侮蔑と嘲笑の視線を忘れることができない。
知恵がついてきた今は、だいたいの事情がわかっている。志乃は話によるとかなりいいところのお嬢様だったらしく、一族の鼻つまみ者だった両親のどちらかが、駆け落ちして作った子供だったらしい。そして両親の死に伴い財産分与の件で連れ戻されて、親族が協議を重ねていたのだそうだ。結局、最終的に、志乃には財産を分与しないという話し合いが一族の中でまとまったらしい。理由はまさに笑止で、死んだ親の面影がみられない、というものなのだそうだ。つまり、一族らしさがないので、財産を分けてはやらないのだという。
後から師匠に聞いた話だと、一族はその方が安くなると判断し、役所に金を握らせたのだそうである。ちゃんとした役所ならそんなばかげたことは起こらなかったのだろうが、閉鎖的な村の悪所が生きている田舎だったのが災いしたという。一族は政治的にも大きな影響力を持っていて、役所の上役もみないいいなりだったそうだ。もっとも、志乃はあんな「家の一員」になどなりたくなかったし、それについては恨んでいない。
孤児院で過ごした志乃は、そこでも孤立していた。人種的には日本人とほぼ変わらないはずだが、それでも様々な違いが生じてくる。言葉の壁や習慣の壁。まして志乃は故郷でも村八分にされていたような一家の娘だ。異国の地の孤児院で、とけ込むことなどできるわけがない。孤児院の先生はとても親切で優しい人だったが、同年代の子供たちは敵だった。常に食物や持ち物の心配をしなければならなかった。
幸い森の中で育った志乃は身体能力に優れていて、同年代の誰にも武力ではひけをとらなかった。その代わりオツムの出来はいまいちだったから、会話で和睦を図ったり、コミュニケーションを円滑にとるのが苦手だった。それでも年下の子供はかわいがったし、日本語は必死に覚えて、小学校の半ばには日本人と変わらずしゃべれるようになっていた。
中学生にあがった頃に、師匠に引き取られる話がきた。それから人生が俄然楽しくなった。怖い目にもさんざんあったし、非常に厳しいしつけには辟易したが、それでも志乃は師匠が好きだし、今の生活も好きだ。
師匠は認めてくれた。志乃の能力を認めて、それを最大限引き出すことを一緒に考えてくれた。うまくいったときにはケーキを買ってきてくれたし、何より真剣に志乃の話を聞いてくれる。おっかないし怖いけれど、人間として志乃をみてくれたのは、孤児院の先生と師匠だけのような気がする。
志乃はケーキが大好きだ。特にレアチーズケーキが好きだ。クリームをのせて、舌の上で溶けるケーキが大好きだ。
夢なのに、思考は働く。今回の仕事は大変なことになってしまっている。師匠に助けを求めるべきなのか。しかし、師匠はいつもものすごく大変な仕事をしているらしく、怪我をして家に戻ってくることが珍しくもない。だから、できる限りは自分でやってみたい。警察を呼ぶのは、状況がはっきりしてからだ。
朝日が照らしているのに気づく。体が覚醒していく。目を開けた志乃は、山の稜線から顔をのぞかせた朝日をみて、一人つぶやく。
おはよう。今日もがんばろう。
木の上に縛ってきた女はすっかり目を覚ましていた。というかよほど怖かったらしく、志乃が木を上っていくときもずっとぶるぶる震えていた。枝に足がつかないようには縛らなかったのだが。
木から下ろして、座らせる。そしてできるだけ笑顔を作りながら言う。苦手な作業だ。
「わかってると思うけれど、私はあんたが殺人事件の犯人かもしれないって思っているし、犯人がこの近くにいるかもしれないって思ってる。 ええと、だから、騒いだら鉈で頭をたたき割る。 逃げても頭たたき割る。 状況から言って、これ正当防衛だから。 ついでにこの森の中はもうだいたい把握してる。 トラップも仕掛けてある。 ここで私から逃げられると思うなよ?」
ずらりと長い鉈の刃を見せると、女が気を失いそうになる。そういえばそろそろトイレに行きたい頃だろう。さすがに犯人では無い場合、その場で漏らさせるのはかわいそうだ。猿轡を外してあげる。空をみると、鳶が旋回している。周囲に人間はいない。鉈を一振りして、空を切ってから、女の顔をのぞき込む。
「名前は?」
「石島達子(いしじまたつこ)、です」
「よろしい。 私は菅原志乃。 達子、あんた仕事は、どこで、何をしている?」
「三年前から、ここで、家政婦してます。 そ、その、私ぐずで、就職先が見つからなくて、近所の人に紹介してもらって」
達子と名乗る女は、がくがく震えながら、一言ずつ言う。時々顔をしかめているのは、尿意があるからだろう。
朝日の光の下でみると、目の下に泣きはらした跡があるものの、モデルか何かのように、異様に整った顔の女だ。ぱっちりした大きな目は若干たれ気味で、実に色っぽい。唇は少し厚いが、卵形のあごも、形が整った鼻も、男だったら思わずよだれを垂れ流すほどに綺麗である。志乃はあいにく女なので、そんなのはどーでもいい。ポニーテールに縛った髪も柔らかくて、さぞ手入れが大変なのだろう。同じくどーでもいい。髪なんぞ長くても邪魔なだけだ。
手紙を出す。気色悪くてさわるのは嫌なのだが。達子も同じ印象を受けたようだった。
「ひいいっ! な、なんですかそれっ!」
「麓の人にこれがきて、調査に私がきたの。 警察は何度か調べたみたいだけれど、何も出てこなかったみたいで。 で、私みたいに、非公式に調査ができる人間が派遣されたってわけ」
師匠の代理だとか、半人前だとか、相手を侮りへ駆り立てるようなことは言わない。ここはできるだけ堂々としているべきだ。
「これ、あんたが書いたんじゃ、ないよね?」
「違います違いますちがいますっ!」
「一回でいいって。 で? 昨日は何をしてたか話してくれる? そうしたら、トイレに行かせてあげる。 ていっても、その変の茂みでだけど。 紙はその辺の葉っぱで」
後ろ手で指さすと、また泣きそうになる。何という脆弱な。志乃なんて、水洗トイレの存在を知ったのはこの国にきてからなのだが。
達子という女は、恐怖で失神しそうになりながらも、いろいろと話してくれた。
このS村で、達子は佐上(さがみ)という、村の長老格の家で、住み込みにて働いていたのだという。この村は変わったところで、都会並みの設備がある反面、人々の考え方は非常に閉鎖的で、うっかり話を聞いてしまっただけで打擲されたこともあったという。インフラ整備がどう行われているのはわからないそうで、時々ゴミ収集車やくみ取り車はきていたものの、どこからきていたのかはわからないという。
それなら、達子自身はどうやってこの村にきたのか。くる途中に目隠しをされ、きてから外されたのだとか。恐るべき隠蔽体質である。そうまでして、いったい何を隠そうというのだろうか。ただ、車に乗せられてここまできたという話は参考になった。
状況が狂い始めたのは三日前からだという。
元々この村は相互の交流が少なく、互いの家にはほとんど行かないという。しかしそれでも目立って通行が減り始めた。妙だと達子は思ったらしいが、探ることは許されなかった。そして昨日。日中の作業が終わって、疲れていたこともあり、つい自室で昼寝に入ってしまったのだという。そしてそのまま寝入ってしまったそうだ。
普段だったら仕事時間になっても起きてこなければ、蹴られるぶたれるのお仕置きが待っている。しかし起きてきて、謝りながら居間にはいると、そこにあったのは佐上家の人たち、老夫婦の変わり果てた姿だったのだという。悲鳴を上げて卒倒しかけて、警察に電話したのに、電話線が切られていて通じない。携帯電話はこの村に来てから通じたためしがない。隣の家に飛び込むと、そこも似たような有様。
さんざん右往左往する内に、もう夜になってしまっていた。だから怖いのを我慢して、懐中電灯を持ってあちこちの家に助けを求めて回っていたのだという。
それがだいたいの話の要点だった。
縄をほどいてやる。話に矛盾があるとは思えないし、それにこいつなら不意を突かれても対応できる。身体能力は完全にこちらが上だし、武器だってあるし地の利もある。縛られた手首をしばらく達子はつらそうにさすっていたが、トイレに行っていいと言われて、尿意を思い出したらしい。そそくさと茂みに駆け込む。
もちろんそのまま逃げる可能性もあるから、そばの木に背中を預けて、達子の背中を横目で見ながら問いかける。
「この集落には五十人くらい住んでいるって話だったよね」
「はい。 その、みんな生きていれば、ですけれど」
「…もしそうなると」
もし全員死んでいたとしたら。かの悪名高き津山三十人殺しをも超える、国内史上最悪の連続大量殺人事件になる。
悔しいけれど、これは警察の仕事だろう。達子一人では下山できないだろうし、一端戻って警察を呼んでくるしか対処のしようがない。それにしても、いったい犯人は誰だ。それを判断するには、村のことを知らなさすぎる。トイレを済ませた達子が、ちょっとすっきりした顔で茂みから出てきたが、蒼白になっていきなり叫ぶ。
「あっ! そうだ、緋雪(ひゆき)ちゃん!」
「うっわ! びっくりしたっ!」
考えていたところにいきなり不意を突かれた志乃は、危うく鉈を振り回すところだった。それをみて完全に怯えきっている達子に詰め寄る。
「馬鹿っ! 殺人犯が近くにいたらどうする!」
「ご、ごめんなさいっ!」
「…はあ、もういいよ。 それで、誰? 同僚?」
「その…最初は私も逃げようとしたんです。 でも、佐上家の人で、一人姿が見えないのき気がついて」
志乃が眉を跳ね上げる。生き残りがいると言うことか。不覚。知っていれば、のんきに寝ているなどと言う失敗はしなかったものを。
「それが、緋雪?」
「はい。 そ、その、まだ小学生くらいの女の子なんです! でも、頭がよい子だったから、きっとその、あの、うまく逃げたんじゃないかって思って、探してたんです! きっと怖い思いしてるんじゃないかって、泣いてるんじゃないかって思って!」
そんな小さな子だというのなら、犯人だという可能性は低いだろう。今もまだ、生きている可能性はある。拉致監禁されているのなら、却って好都合だ。助けるチャンスがある。考えてみれば、こんな臆病な女がこんな状況でふらついていたことを、不可思議に思うべきだったのだ。
もしこのまま帰ったら、失敗の上塗りだ。それに、助けられる可能性があるなら、全力で助けるのが当然のことだ。そして、師匠にいつもいわれていた。失敗を的確にリカバリーできてこそ、プロフェッショナルだと。なら、志乃もプロの端くれとして、ここを放っておく訳にはいかない。
どうやら、一度戻って警察に任せるという選択肢は、完全に無くなったようだった。
緋雪という子は、丁度市松人形のような容姿をしていて、普段から和服を着ていたのだと言う。おかっぱに切りそろえた髪はカラスの羽のように黒く、声は鈴を転がすように綺麗で、肌はとてもすべすべしていたのだと、うっとりした様子で達子が語った。母性本能垂れ流しに、なかば陶然とした様子で、いかに緋雪が可愛いか語る達子を横目に、志乃はその子の身体的特徴を覚え込んでいった。
たぶん森に隠れたということは無いだろう。それにこの状況、身を守る手段がない場合、下手に動き回る方が危険だ。
達子をつれて、村へはいる。おいておくのは危険すぎるから仕方がない。うかつに頭を上げて歩かないこと、視線には常に注意することを言い聞かせたが、きちんと理解しているかはわからない。死体のことを思い出すと気が重いが、やらざるを得ない。
事前に地図を広げて、どこに入ったかを聞いておく。死体がいくつあったかもカウントしておいた。それによると、志乃がみた分と併せて、すでに十五人以上が命を落としているようだった。ならば、まだ生きている可能性がある家を巡る方が効率的である。
端の家から順番に回っていく。ほとんどの家が鍵もかけて折らず、防犯装置のたぐいもない。というか、防犯装置があったのなら、わざと鳴らしてみるという手も考えたのだが、それも無理そうであった。
最初の家から凄惨な亡骸が転がっていた。一つ目の死体は階段にもたれるようにして。二つ目の死体は、居間で頭をたたき割られていた。驚いたが、感覚が麻痺し始めていて、最初の時のようにパニックになることもなかった。そういえば、達子からみれば、志乃が犯人の可能性もあるわけだが。一緒についてきている家政婦は、そんな可能性など全く考えていないようだった。もっとも、女は化ける生き物だ。猫をかぶっている可能性もある。いざというときは、殺られる前に殺るまでだ。
死体は老夫婦だった。最初のものとおなじで、抵抗した形跡がない。誰かが隠れそうな場所も当たってみたが、誰もいない。ネズミや、蠅ばかりだ。
二つ目の家も同じだった。死体はあるいは後ろから、下を向いたところを一撃されている。というよりも、これは。観察力の無い志乃でもわかる。
内部犯だ。しかも物取りの反応ではない。
信頼した相手に背中を向けた瞬間、一撃でばっさり。たぶん犯人は男だろう。それも村中に面識がある人間だ。
三つ目の家も空振りだった。回る課程で下水や物陰もみているが、緋雪らしい影はない。これは、まずい。斬るときにほとんど躊躇していない。それにしても、血の臭いも、鼻が麻痺するほど嗅ぐと慣れてしまうものなのだなと思う。覚悟はしていたとはいえ、しかし死体を何個もみるのはやはり気分が悪い。
この村は全滅だ。全部見回る前にそんな風な考えが浮かんでくる。しかも救えないことに、たぶんそれは正しい。志乃がくる前には全滅していた。手遅れだったのだ。
四つ目の家。かなり大きな家であった。ここはほかとは違い、犬を飼っていたらしい。というのも、えさを食べている途中に頭をたたき割られたらしく、死骸が庭に転がっていた。いったい何人殺せば気が済むのか。人間の方も死体になっていた。居間に二つ転がっていた。一つは頭をかち割られて脳みそが出ていて、もう一つは首筋を後ろから切られていた。さらに奥の寝室でもう一つ。中年の男性が、首をかっ斬られて死んでいた。布団に大量の鮮血が飛び散っていた。気分が悪い。
達子がトイレに駆け込んではき始める。ずっと真っ青な顔をしていたのだが、ついに耐えきれなくなったのだろう。しかも一人で回っていたときと違い、気もゆるむ。トイレで激しく嘔吐する彼女は放っておいて、物置を探る。誰も、いない。
あきらめてはだめだ。頭を振って、全滅という単語を追い払う。涙をぬぐいながらトイレから出てきた達子に、心当たりを聞いてみる。首を横に振るばかりだ。これでは時間の浪費だ。こいつがせめて一人で山を下りられれば話は全く違うのに。悔しい。もう一つ体がほしい。
外に出て、高山の気持ちがいい空気を吸い込んだ。頭がおかしくなりそうだ。早く犯人をぶち殺すか、緋雪を見つけてこんな村からはおさらばしたい。青い顔でふらつきながら出てきた達子が、封筒を持っていた。赤い封筒だ。
「あの、居間の机の下に落ちてました」
「何なんだろ、一体…」
中身を引っ張り出すと、また青文字だ。
「なんで」
意味がわからない。こんどはなんで、か。何に疑問を抱いているのか。というよりも、今度はどうして被害者宅にこのはがきが落ちている。
まだこの家は調べる価値がありそうだった。入るのは嫌だが、時間は一秒でも惜しい。手が足りないのが歯がゆい。達子はいざというときに多分何の役にも立たないから、情報タンクとして活用するしかない。
「この家って、どういうところ?」
「佐守さんですか? ええと、確か二番目に偉い人だったような気がしますけれど」
「村人の序列って、どうなっているの?」
「え? ええ、はい。 佐上さんが一番、佐守さん一家が二番。 後は佐人家って家が四軒あって、そのほかはみんな同格だったはずです」
地方の村には、序列が異常にはっきりしているところは珍しくない。これは社会を円滑に動かすために必要な仕組みとして作られたものが、いつの間にか形骸化して、固定化してしまったものであることが多い。ほとんどの場合、村人たちでさえ、家による序列の意味を理解していない。流石に当主の家には、情報が継がれていることが多いようだが。
師匠だったらどう考える。情報は少ないが、いくつかわかっていることはある。死んだ犬を触れずに棒でつついて調べながら、志乃は言う。
「妙な風習とか、祭りとか、無い?」
「え? ええと、お祭りとか、習慣…ええと…」
発言を待つ。達子の頭が緩いのはもうわかっている。即座に情報を引き出せなくてもよい。
「特にお祭りってものはありません。 ただ、その…」
「その?」
「みなさんとても長生きです。 百歳を超えている人も三人や四人では無かったような気がします」
怒りが頭の中で沸点に達しそうになるが、我慢する。考えてみれば、こんな異様な閉鎖環境にすんでいて寿命が皆長いというのは妙だ。空気はいいし、多分日常的な運動も豊富にしているはずだ。しかし近親交配によって生物的に弱体化しやすい閉鎖村落では、寿命はそう長くはなりえないのである。
「外から来た人とかは?」
「時々いましたけれど、みんなとても馴染んでいる感じでした」
「…なんだろう。 なんだかおかしな村だね」
「そうですか? 全然気になりませんでしたけれど」
鈍いのだかアホなのだかわからない達子が小首をかしげている。そういえば、なぜ大量殺人犯はこの女を見逃した。襲ってくれと言っているような行動を続けていたわけだし、その機会はいつでもあったはずだ。死体をみると、新しいものでも昨日中には殺されている。ならばこんなとろい女が、わざわざ見逃されるのには何かしらの理由があるはずだ。
戦略の切り替えだ。このままではわからないことが増えるばかりである。それにしても、一人で動いてみると師匠がいかに頭がよいのかよくわかる。手際が悪くて自分にいらいらする。どうにかして、まだ生存者がいるのなら助けたい。そのためには、悔しいが回り道をせざるを得ない。
「当主の家に行ってみよう」
「ふえ…どうしてですかー?」
ものすごく嫌そうに達子が言ったので、頭をたたき割りたくなったが、我慢である。説明する。これが明らかに内部犯の犯行だと言うこと。おそらく怨恨による犯行だと言うこと。それには多分この村の奇妙な状況が絡んでいると言うこと。そして達子が犯人ではないのなら。
「ひどい! わ、私、犯人じゃありません!」
「いいから話を聞くっ!」
パニックになりかける達子に、頭に血が上りかけている志乃も怒鳴りかけて、あわてて声を潜める。
この村の異常な風習が犯行の背景にあるのなら、犯人の行動をそれから割り出すことも可能なはずだ。だから、この村の中心であった、佐上家を探る必要がある。
犯人が持っているのは刃物だというのはわかっている。それ以外の得物も持っているかもしれないが、扱いにはそれほど習熟していないはずだ。ただ、かなり切れ味が鋭い刃物のようだし、躊躇がないのが恐ろしい。こういう場合、相手が素人だというのが却って怖い。襲いかかってきたら、躊躇無く叩き殺すくらいの気持ちを持っていないと、修羅場をくぐったことのある志乃でも危ない。
道に出る。それにしても、誰もいない住宅街というのは静まりかえっていて恐ろしく不気味だ。不意に塀の影から、血まみれの殺人鬼が現れそうな気がする。羽音がいきなりしたので、思わず振り返ると、電柱にカラスが留まっていた。腐臭をめざとくかぎつけたのだろうか。カラスが鳴き声を交わしている。意味は理解できる。簡単だ。彼らはこういっているのだ。みんな来い、えさがあるぞ、えさがあるぞ、えさがあるぞ。もうすぐ腐って食べ頃になるぞ…。
彼らに罪はないが、背筋に寒気が走る。一歩間違えば、自分だってそうなるのだ。背中からたたき割られて、転がった自分の死体が、腐っていき、蛆がわき、カラスにつつかれる光景を想像すると、意識が遠のきそうになる。
今日中に片付けて、さっさと下山したい。下山できなくとも、師匠に連絡を取って、警察も呼んで、物量作戦で証拠を調査してほしい。その前に、早く緋雪の安否を確かめないといけない。頭が変になりそうだった。
犬が一匹でも生きていればずいぶん役に立ったのだが、先ほどから姿はない。人間は無力だなと、志乃は実感した。
佐上家は村の中でも一番大きな家だった。洋風の離れと、和風の本宅が混在していて、家の周囲には延々と土塀が張り巡らされている。不可思議な空間だった。屋根の色は濃紺に統一されているのだが、それでも違和感を消し切れていない。切り妻の屋根にはすでにカラスが何羽か留まっており、えさ場に突入する機会をうかがっているようであった。
もう遠慮する必要もないので、正面から入る。この方が、地形から言って却って奇襲しづらいし、何より自分でもあまり怖くない。家の中はこざっぱりしていて、瓦葺きの和風住宅とは思えない。半ば軟禁されていたあの「実家」も、中はずいぶん雑然としていた記憶がある。死体があるという居間に入ると、達子の言葉通り、死体が転がっていた。一つは背中から。もう一つはのどをかっ斬られていた。だが、これは今までのものとは違っていた。
倒れているときの体勢から言って、手を挙げて、攻撃を防ごうとした跡が見受けられるのである。つまり、一瞬では殺されなかったのだろう。眉をひそめた志乃は、隅っこで頭を抱えてうずくまり、震えている達子に問いかける。
「何も物音は聞かなかったの?」
「わかりません! 怖いです! もう出ましょうよおっ! それとさっきから言いたかったんですけど! その鉈、怖いからこっちに向けないでくださいっ!」
「…その緋雪ちゃんって子の部屋は?」
「へえっ? は、はい。 離れです」
妙な返答が帰ってきた。なぜ、そんな年端もいかない子供を、離れに?
部屋の中を見回すが、祭壇や儀式道具のたぐいはない。金庫や戸棚を探るのは警察が捜査するときのことも考えて、最後の手段だ。テーブルの上には、赤い封筒があった。今度は封が切られていて、中身が出されている。中にはやはり赤い手紙があり、青字で大きく書かれている。
「くれな」
なんだか妙な感じだ。音程がずれた曲を聴いているような、一段とばしで構築された階段をみているような。ここは何かがおかしいのだ。師匠だったらどう考える。日本の風習で、その地方の風俗が露骨に出るものといえば…。
天啓が来る。そうだ、あれがあった。
「そういえば、神棚は?」
「え? 神棚、ですか?」
「そう、神棚。 古い家だとよくあるでしょ?」
「ええと、それは…知りません。 今まで気がつきもしませんでした」
ため息が漏れかけるが、これは仕方がないかもしれない。神棚なんてものをまつる習慣は、志乃だって結構最近知った。若い世代にはなじみがないらしいという話も聞く。せっかくの天啓も、流れて消えてしまった。これでも師匠について、いろんな家に調査に行ったことがある。どんな信仰があるか、神棚や飾り付けられたものをみればある程度は判断できたのだが。これではそれも難しい。
というよりも、この村は老齢化が進んでいるのに、異常に近代化しすぎなのだ。そして近代化には、外部の協力が不可欠なはずだ。つまり、外部からの協力を取り付けられる秘密がここにはあるはずなのである。外部からの協力を取り付ける秘密とは何だ。人材の派遣か?何かの資源か?
達子の部屋も見せてもらうが、収穫なし。乙女チックでピンクでひらひらで、目が痛くなるような部屋だった。わら靴やらなまはげやらが飾ってある自分の部屋とは大違いである。あこがれるようなことはない。これが平均的な女の部屋かと思って、ふーんとつぶやいただけである。
離れに歩きながら、思惑を進める。考えてみれば、寒村のごたごたに、わざわざ師匠に仕事を頼んでくるような人から話が来るというのも変だ。池では鯉がぱくぱくと口を動かしていた。かわいそうだが、しばらくは我慢してもらうしかない。
離れは洋風の一軒家だった。敷地が異常に広いので、普通の大きさなのに、積み木のおもちゃのように見えてしまって、どこか滑稽だった。二階建ての、どこにでもありそうな洋風住宅だ。ご丁寧に玄関には表札もかかっている。佐上緋雪とだけ書かれている。
周囲を回る。どこかに何か隠れているかもしれないからだ。とりあえず気配はない。カラスもこの辺りには集まってきていない。玄関の鍵はかかっていなかった。
中に踏み込む。モデルルームのような、異様な清潔感のある家だった。6LDKで、風呂場までもが妙に清潔である。達子は料理だけは達者らしく、キッチンはずいぶん綺麗に使っていた。鉈の背中で肩を叩きながら、目を細めて周囲を見回す。緋雪の部屋も含めて、生活の気配がなさ過ぎる。達子以外の誰かがいたとは想像できない。床には埃一つ無く、足跡を追跡するのは難しそうだった。
緋雪の部屋は殺風景で、病院のように何もなかった。一通り回って気づく。間取りがおかしい。
「地下室ってある?」
「ふえ? 知りません」
「! 多分そこだ! 小麦粉ある?」
警察には悪いが、強硬手段を執るしかない。達子が出してきた小麦粉を、周囲にばらまく。咳き込む達子に動かないように言うと、目を細めて周囲を伺う。これで埃の分布が見えてくる。あった。一室の物置に、嫌に足跡が集中している。開いて床板を調べると、巧妙に引き戸が隠されていた。キーロックもあったのだが、外されている。
何かがここであったのは、間違いなかった。
手が足りない。もし達子が犯人だとすると、先に降りるのは自殺行為だ。近くに犯人が潜んでいた場合も同上である。考えたあげく、志乃は鉈を振るって、キーロックと、入り口を粉砕した。激しい破砕音に、達子が頭を抱えてうずくまる。さらに予備の懐中電灯をしかけ、戸を閉めてロープで取っ手を巻いて、簡単なトラップを作った。窓ガラスの方は、頑丈な強化ガラスだから、気にしなくていいだろう。天井裏や、床下に何かがいる気配はない。そちらは気にしなくても大丈夫なはずだ。
「私に続いて、すぐに降りてきて」
「は、はいっ!」
鉈の背をくわえて、闇の中へ降りていく。下に犯人がいたら、即座に奇襲を仕掛けてくるはずだ。飛び道具を持っていないというのは、可能性に過ぎない。敵意を示したら、即座に叩き殺すくらいの覚悟がいる。それはすでにできている。
はしごを下りる。静かに降りる。闇の中、しずしずと降りていく。風の流れはない。つまり、奥は行き止まりだと言うわけだ。
足が地面につく。むき出しのコンクリートだった。
近くにブレーカーがあったので、操作する。家とは独立した電気系統が通っているらしい。電気をつけると、小さなトンネルの中に、白熱電球がともったようだった。薄明かりの中、無音の空間が続いている。もたもた降りてきた達子は、それをみてひいっとわかりやすい悲鳴を上げた。本気で怯えきっている。
畢竟というやつだ。正気と狂気の境にある世界。背筋がぞくぞくする。わかる。この先はやばい。何かある。何か、この連続殺人のきっかけとなった、狂気の源泉が。
方向から行って、トンネルは母屋の地下へ延びていた。かなり長いトンネルである。もし前から銃火器を持った犯人が現れたら、ひとたまりもない。しがみつくようにしてついてくる達子も邪魔だ。気絶させて、入り口においてきた方がよかったかもしれない。
「やだー! もう、帰りたいですー!」
「ここはあんたの家だろうがっ!」
「ええーっ!?」
「ええーっ、じゃないっ!」
何とか黙らせたいのだが、黙ってくれない。仕方がないとあきらめてはいる。
弱者を守るというのは、基本的にこういうことだ。弱者は身体面のことだけではなく、精神面のことでもある。そういった人間を守ると言うからには、様々な苦労がのしかかってくるのである。なにやら格好いいこととされているこの行為だが、実際にやってみると泥臭い苦労が伴うのだ。
天井は低い。白熱電球に達子が頭をぶつけてしまったため、それが揺れて、影が左右に散らばった。ますます雰囲気が怖くなり、以降はもう涙目でしがみついてついてくるだけになった。うるさくないだけましだと思うべきなのか。複雑である。
トンネルの最深部には、部屋があった。戸にはロックがかかっていない。ゆっくり開けて、開くのを確認。中へ飛び込む。
まず視界に飛び込んできたのは、ベットだった。無個性なパイプベットで、布団が敷かれているが。
血に汚れている。血に汚れた包帯を無理に引きはがした跡。血のついた包丁。瀉血皿。
床にも血が飛んでいる。八畳間ほどの広さがある部屋は、赤錆に覆われていた。ほの暗い照明が、音もなくそれを照らしている。狂気が、根本からせり上がって来る。コンクリに散った赤の残滓が、照明と混ざり合い、最大限の恐怖を作り上げている。
「な、なに…ここ…!」
もう悲鳴をあげる余力もないらしく、達子が腰を抜かしてしまっていた。
布団が不自然にめくれている。恐怖からか、手元がおぼつかないが、まさぐってみると手帳が出てくる。手帳を引っ張ると、枕が落ちた。その音でさえ、すくみ上がるには十分だった。
手帳を開く。日記、だった。持ち主の欄には、かわいらしい文字で、緋雪と書かれていた。
3,畢竟の世界
失神しかけている達子を背負ってトンネルを抜けて、外に出て。周囲に誰もいないことを確認したときには、全身の力が抜けるかと思った。怖かった。恐ろしかった。人間が作り出す恐怖の方が、どんなクリーチャーよりも上回るのではないかと、志乃は思う。
うすうす、犯人が志乃の中で特定されつつある。あらゆる状況証拠がそれを告げている。だが、わからないことも多い。日記は分厚く、よく読めばそれを解析することができそうだった。
一度、ベースにまで戻る。ひょっとすると、もうこの探索は無意味かもしれない。しかし、それでも無事な人間がいる可能性は捨てきれない。
安全になったとわかったとたん、達子がまた泣き出す。泣きたいのはこっちなのだ。こっちなのだが、こっちだって。もう誰か、どうにかしてくれないものなのか。どーでもいいけど、造作がいいと泣いていても様になるものなのだと、達子をみていて思う。志乃みたいな不細工が泣くと、それは無様なものなのだ。それをネタに、「親族」にもさんざんいびり倒された。
木に背中を預けて、空をみる。現実逃避していられないとわかっているのだが、すぐに心を立て直せそうになかった。ぼんやりと空を眺めながら、手帳を開く。いきなりハードな内容だった。
「三月七日。 斬られた。 絞られた」
足下から、無数の血みどろの手が這い上ってくるような、おぞましい恐怖。反射的に日記を閉じたくなるが、それでは意味がない。頭を振って恐怖を追い出し、ざっと日記を巡ってみる。背筋へ冷たい手がはい回るようだった。
日記には三年分の記述があるようだった。全体的に、三文字ずつ区切られている。嫌な予感は的中してしまった。外堀がどんどん埋められていく。
「達子が来た。 頭が悪い男だ」
「痛い。 痛い痛い痛い痛い痛い。 苦しい。 七日は嫌いだ。 痛い痛い痛い」
「赤い。 気持ち悪い。 ベットのある部屋嫌い」
「女になってから、苦しいことばかりだ。 もういやだ」
ざっとページをめくるだけでこの有様だ。濃厚な、重厚な、そしてぎらぎらとした狂気が充ち満ちている。唇を噛む。肩を抱く。呼吸が乱れる。心拍まで乱れる。誰かが見ている気がする。そんなはずはないのに。
気が狂っている。読み進めると、狂気に浸食されていく。一体何が、あそこでは行われていたのだろう。最初のページに戻ってみる。なんだか、字も柔らかくて優しい。
「花を持ってきてもらった。 チューリップというらしい。 綺麗だった。 でも、すぐに枯れてしまった」
「外に行きたい。 蝶蝶が飛んでいる。 一緒に飛びたい。 でも、泣いてもじいは許してくれない。 もうすぐ女になる大事な身だからって、許してくれない」
「じいに刺された。 すごく痛かった。 女にこれでなるのだと言われた。 女ではなかったから、これで一人前になったのだと思うと、少しうれしかった」
だが、進むと、すぐに狂気は頭をもたげてくる。
「痛い。 苦しい。 気が狂いそうだ」
「女になったのは、この苦しみを永遠に味わい続けるためなのか」
「頭がぼおっとしてくる。 体中から全部何もかも絞られていくようだ」
「痛い。 手首が痛い。 おなかが痛い。 足が痛い。 女なんていやだ」
統合性が見いだせない。どういう意味だ。どうも女という言葉に違和感がある。最初は強姦されたのかと思ったが、それも違う。これはどうもおかしい。
さっき担いできてわかったが、達子は間違いなく女だ。性転換したという可能性もあるが、それにしては骨格が柔すぎるし、筋肉の付き方もおかしい。この狂気の日記を書いた人物は、そんなこともわからなかったのか?それとも…。
やっと落ち着いて来た達子は、ハンカチで目元をぬぐっていた。目元をはらしたその姿は、多分男だったら保護意欲をかき立てられるのだろう。志乃にはどうでもいい。
「身分証明書、ある?」
「え? はい、ありますけれど」
「…いや、いいや」
ポカンとしている達子を放っておいて、思考を進める。達子なんて名前の男がいるわけがない。達子という名前のまま、一時期性転換していたという極小の可能性もあるが、排除しても問題がないだろう。もし、可能性があるとすれば。
日本に来てから、思ったことがある。多分それが正解なのだろう。
「質問。 あのさ、緋雪って子が、外を歩いているのって、みたことある?」
「ええ? その…そういえば…」
文句を言ったら打擲されるような環境だ。気の弱いこの女が、絶対的主君に逆らってまで、何かできるとは思えない。観察力も妙に少ないし、気づきもしなかったのかもしれない。もし黙ってこっそり緋雪を連れて外出できたり、秘密を共有したり、かばってあげたり、理解することができる人がそばにいたのなら。
外に出してあげることだって、無理だっただろう。出ることができたとしても、屋敷の中まで。そうなると。
この瞬間、結論は出た。
手帳をめくる。
「見た。 みんなで輪になって、絞った赤いのを啜ってた。 おいしいおいしいって啜ってた。 みんなで笑いながら啜ってた。 緋雪の体の中を全部啜ってた。 怖い気持ち悪い苦しい。 一ヶ月に一度、あんな事をしていたのか。 いやだ、いやだいやだいやだいやだいやだいやだ」
犯人は、緋雪だ。
日記の最後には、こう書かれていた。
「もういやだ。 赤いのいやだ苦しいのいやだ暗いのいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだ。 そんなに赤いのが好きなら女が好きなら苦しいのが好きなら暗いのが好きなら。 みんな、女にしてやる」
そして、この日記の記述癖から、あの意味のわからない手紙のこともわかった。なぜあちこちに分散していたのかはわからない。だが意図ははっきりした。あの手紙は、助けなんか求めてはいなかったのだ。順番を並び替えれば一目瞭然。緋雪はおそらく、犯罪実行を決意すると同時に、こう吐いていたのだ。
「なんで助けてくれなかった」
それは、救助の依頼などではなかった。
憎悪のこもった、恨みの手紙だったのである。
手紙はどういう訳か届けられず、その憎悪ばかりが村の中で漂った。そして悲劇は起こってしまったのだ。
手帳を見る。これは手帳じゃない。日記でもない。書物でもない。
形になった、憎悪だ。
謎はまだいくらでもある。だが、これ以上のミスをするわけにはいかない。緋雪が村のアイドルなりご神体だった可能性は高い。だから皆油断した。刃物は人斬り包丁、それも切れ味から言って、鉄製のものではなく、チタンなどの特殊合金のものだろう。
やりきれない。
できるだけ早く村の様子を確認しきってから、山を下りよう。そう志乃は決めた。後は警察なり自衛隊なりの仕事だ。百人でも二百人でも連れてきて山狩りをするしかないだろう。更に、緋雪はほとんど外を出歩いたことがないはずで、警察犬による誘導が非常に効果的なはず。
腰を上げかけた志乃は、最後にとんでもないフレーズを目にした。
「みんな女にしたら、こんな村、焼き尽くしてやる」
時間は、もうそうそう残っていないのかもしれなかった。
達子をどうするか少し迷ったが、もうこの娘が犯人ではない、それに犯人の協力者ではないこともはっきりしている。身体能力から言っても、後れをとる可能性は低いだろう。気絶させた時にボディチェックはしたし、さっき背負って村から出るときにも一通りさわって調べた。何も隠していない。ならば、保護の対象だ。
そしてあのトラップで守ったベースでも、置いておいたら安全とはいえない。だから連れて行く。もう一人自分と同等の能力の人間がいたら、つれて下山してもらっていたのだが。手が足りないというのは、とても悲しいことだ。
出る前に、事実を告げる。達子は蒼白になり、ついで鬼のような顔で怒った。この顔は知っている。情が通った親が、子供を守ろうとする時のものだ。故郷の密林で、草食獣をしとめるとき、何度もみた。
「緋雪ちゃんが犯人っ!?」
「そう」
「違います! 絶対に違いますっ! 緋雪ちゃんが、犯人なんて、犯人なんてっ!」
手帳を突きつける。強烈な狂気に満ちた文章が、何よりの説得力を持っていた。錯乱しかける達子に、志乃は現実を突きつける。
「五十人も殺した相手だ。 私はこれでも修羅場をくぐったことがあるけれど、それは刺されたり斬られたりしても死なないって意味じゃない。 不意を突かれたら、鉈じゃどうにもできないかもしれない。 だから、敵意を向けてくるなら、その場で殺す」
「いやあああああああああああっ!」
「…まだ、村に生き残りがいるかもしれない。 こうする間にも、その人たちが殺されてるかもしれないんだ。 急ぐよ」
「駄目っ! 何かの、何かの間違いです! 絶対にあり得ません! お願い、やめて! やめてええっ!」
ため息をついた志乃が歩き出そうとすると、その進路に立ちふさがった達子が、手を広げてきっとにらみ付けてきた。志乃の中にも、徐々に怒りが浮かんでくる。
「達子、あんた緋雪を可愛いと思ってたみたいだけれど、一度だって親身に接したことがあった? 外に出してもらえないのを、疑問に思ったことがあった?」
「そんなの、関係…」
「誰か一人でも、悲しみを理解できる人がそばにいたら、こんな事件は起こらなかったかもしれないよ。 あんたのせいだとは言わない。 でもね、あんたに緋雪を語る資格が、本当にあるの?」
うつむく達子。これ以上の議論は時間の無駄だ。村に入り、まだ確認していない人間を全部確認し次第、脱出。山を突っ切って、麓におり、そこから大島さんに連絡。師匠にも連絡。それでミッション終了だ。
吐き気がこみ上げてくる。何がどうして、こうなってしまったというのだ。元からこの村には、生き血をすする異常な風習があったのか。それがこの妙な発展の源泉となっていたというのか。
それらを知るのは後でかまわない。今はただ、生きている可能性がある人間を、一人でも救い出すことだった。その後は時間との勝負になる。緋雪がガソリンでも撒いて火をつけたら、取り返しがつかないことになる。山林火災にでもなれば、被害を受けるのはこの村だけでは済まないだろう。それも、だいぶ時間がたっている現在、いつ始めるか全くわからない。
うなだれている達子を引きずり、まだ確認していない家を回る。死体ばかりだった。人数を確認していく。そして、七つ目の家を確認し、外に出たとき。
志乃の視界の隅を、黒い影が通り抜けた。
4,業火
一気に全身を緊張が駆け抜ける。もう夕方になりつつある無人の村の中、鉈を構えて、志乃は振り返った。沈み込んでいた達子も、顔をはじかれたように上げた。
「緋雪、ちゃん?」
「下がって!」
一瞬のことであったが、確かに影はとらえた。野生の動物ではない。
「まだ何軒か残ってるのに…こんな時に!」
「もう、誰も残ってはいないよ」
くすくすと笑い声がする。腰を落として構えをとる志乃。
「みんな、女にしてやった。 そしたら、みんな死んだ」
「君が、緋雪、だな」
「…さっさと出て行け。 おまえたちは女にする理由がない」
「あいにくだけれど、私もそこの達子も、女だよ」
返事はない。くすくす、けたけたと笑い声だけがする。どこからするかもわからない。音が反響して届いている。
理解できないのではない。自分の観念内では間違っているから、あざ笑っているのだ。徐々に笑い声が大きくなっていく。思わず達子が耳をふさいだ。わかったはずだ。緋雪がいかに深い狂気にとらわれているか。
「聞かせてくれる? 何で村の人たちを殺したのに、達子は殺さなかったの?」
「いいだろう。 緋雪を女にしてから、村の連中はみんな喜んで緋雪を啜った。 女を啜るのが、あいつらは好きだった。 だから、あいつらも女にして、同じ苦しみを与えてやっただけだ。 達子は緋雪を啜らなかった。 だから殺す必要はなかった」
「犬も、君から啜ったのか?」
「ああ、犬はかわいそうなことをしたね」
可哀想だなんて思ってもいないくせに。奥歯を噛む。心理戦に持ち込めればしめたものだが、志乃にはそこまでの自信がない。今もっとも現実的な作戦は、怒らせて引きずり出す事だ。近接格闘戦に持ち込めれば、勝てる可能性が、高い。
「この人殺し…!」
「人殺し? それがどうかした?」
「やめてっ! 緋雪ちゃんを悪く言わないでっ!」
「近づくんじゃないっ!」
駆け寄ろうとした達子の眼前に、鉈を振るって牽制する。目を細めた志乃は、冷然と言い放つ。
「私は、嘘つきは信じない」
「…!」
「最初からおかしいと思ってたんだ。 この殺戮はおそらく三日から五日にわたって行われたはず。 その間うろついていたにしては、体が綺麗すぎる。 達子、あんた私と同じ日にこの村に来たんだろう? 多分、村人しか知らない通路なり道路なり使って。 それに…。 手紙の宛先、あんただね。 通報するだけじゃあ不安だったから、自分で来たんだろ」
「…」
達子が泣いているのが、気配からわかった。さめた声が、どこからか響いてくる。
「もういいよ、達子。 緋雪をかばってくれたのはあんただけだった。 助けに来てくれただけでも嬉しかった。 だけど、遅かった。 遅すぎたんだ」
「投降する気は無い?」
「無いね。 もう啜られるのも、斬られるのも、ごめんだ」
「ならば、斬るしかなさそうだ」
振り返る。相手の位置は、しゃべっている間に特定できた。使ったのはカラスだ。奴らは腐臭や血の臭いに敏感で、それを仲間と教えあって鳴き声をあげる。それを解析すれば、後ろに回り込まれたことくらい、すぐにわかった。位置を特定されたと気づいたらしい緋雪が、けたけたと笑いながら言った。
「へえ? 君人間? すごいね」
「非常識だろ」
「非常識も何も、常識が何かも知らないよ」
「…そう。 なら教えてあげる。 そんなもの、この世には無いよ」
達子に危険はない。ならば、一定距離を保つだけでよい。
路地裏へ歩きかける。しかし、眉をひそめて足を止める。カラスの鳴き声がおかしい。これはひょっとして。
路地裏に飛び込む。息をのんだ。
切断された生首が、蛆の集った赤黒い固まりが、袋小路の塀の上に放置されていた。
瞬間、真上から、殺気が降り注いできた。横っ飛びに離れるのと、コンクリを鋭い刃物が痛打するのは同時。追撃の切り上げが来る。必死に横に転がり、跳ね起きながら鉈を振るいあげる。火花が散って、得物がはじきあった。
電柱と塀を利用して隠れ、生首を陽動に志乃をごまかし、奇襲をかけてきた本人。緋雪の姿がそこにあった。
黒い和服を着ている。なんて言う和服なのかはよくわからないが、黒字に赤い花が無数に散った高そうな着物だ。髪はおかっぱに切りそろえ、顔の造作は人形のように綺麗である。確かに肌も綺麗だが、青ざめていてどこか病的だった。それに、これは。
多分、こいつは、女ではない。
手にしているのは、刃渡り六十センチほどの日本刀。だが色合いがおかしい。予想通り、鋼鉄ではなく、チタン合金だろう。さっきの手応えからしても相当に重いはずだが、軽々と振り回しているのは、もうオツムの大事な線が何本か切れてしまっているからだろう。体の方も相当にどうかしてしまっているはずだ。あまり長く振り回させると、腕が二度と使い物にならなくなる可能性も高い。
悟る。服の花、あれは多分最初は赤ではなかったはずだ。浴びたのだ。さんざんに、返り血を。刀には真っ赤なさび色がこびりついている。ゆらりゆらりと、歩み寄ってくる緋雪は、半月の笑みを形作っていた。目には狂乱の輝きが宿り、狂気を伝染させようと迫ってくる。
「さあ、殺してよ。 殺されてあげないけど」
きけけけけけけけけけけと、奇怪な笑いがあがった。電線に集まっていたカラスが、怯えて逃げ散る。目が光っていた。どう猛なまでな狂気が、目に彼岸の向こう側の光景を映し出させている。
「啜られて、啜られて、切られて、啜られて。 せめて最後は、斬り返してやる!」
踏み込みざまに袈裟懸けに斬り落としてくる。想像以上の太刀筋だ。受け損ねれば、鉈ごと切り伏せられる。半歩下がりながら鉈で横殴りに一撃を外すが、力任せに脇の下から肩口へ抜ける筋で、切り上げてくる。下がるが、胸の前を浅く切り裂かれた。遠慮がないから、太刀が重い。更に横殴りに一撃を放ってくる。腹を軽く割かれて、鮮血が塀へ飛んだ。変な臭い。血ではない。飛び退く。更に追撃してくる大上段の一撃を、弾き退ける。だが全く緋雪はひるまない。その無茶な精神状態は、容易に力量の差を埋めて逆転の状況を作りかねない。危険だ。
「さっき、おもしろいもの見つけてね」
「ガソリン、でしょ?」
「察しが早くて嬉しいなあ。 達子よりずっと賢い男だね、君は」
「男じゃ、ないっ! 悪いけれど、その定義、間違ってる!」
右に左に繰り出される剣筋は、とても素人のものとは思えない。だが、それでも、やはり実戦経験者の志乃から見れば、まだ甘い。二度、三度、容赦のない一撃が迫ってくる。腕が、足が切り裂かれる。だが、致命傷は外している。そして、ついに好機が訪れる。踏み込みつつ、首筋を狙って振り上げられた一撃を交わさず、そのまま当て身を食らわす。軽い緋雪はもろに吹っ飛び、地面にたたきつけられる。体に当たった感触でわかる。やはり、この子は女じゃない。そして、男でもないのだろう。達子が叫ぶ。
「緋雪ちゃん!」
「うぐっ!」
悲鳴を上げたのは志乃の方だった。当て身を食らわせた瞬間、チタンの刃が脇腹に突き刺さっていたのだ。とっさのすさまじい機転だった。緋雪の奴、多分格闘戦闘の才能があるだろう。傷は内臓には届いていないが、浅くもない。そのまま緋雪に飛びつき、押さえつける。だが暴れる緋雪は、信じられない腕力を見せて、押し返してくる。マウントポジションへの移行が一瞬遅れ、脇腹に蹴りが入る。もろに傷口に突き刺さったそれに、さしものの志乃もひるむ。そして一瞬の隙を見て、右腕にかぶりついてきた。鈍痛が走る。緋雪の歯が、肌に食い込んでくる。
そのまま、食いちぎられる。目の前に、星が走った。
大量の血が、緋雪の白い顔にかかった。緋雪はしらけたように言う。
「まずい。 こんなのの、何がいいんだろう」
くっちゃくっちゃと、噛んで、食いちぎった皮膚と、肉の一部を咀嚼する緋雪。涙がその目からこぼれ落ちた。
おかしくもなる。目の前で、搾り取られた血を、こんな風に啜られたら。毎月毎月、よってたかって啜られたら。
顔をつかむ。指がしびれて力が出きらなかったが、それでも十分だった。緋雪が、悲しいことを言った。
「殺してよ」
「駄目。 そんなこと、してあげない」
両手を重ねる。掌底を重ね合わせて、爆発的な打撃を浴びせる技だ。渾身の力を込めて、アスファルトに、頭をたたきつけていた。
緋雪が静かになったのと同時に、焦げ臭い煙が漂い来る。緋雪自身から、ほのかに香っていたガソリン。どこかで撒いていただろうそれに、火がついたのだろう。爆発音。何かが吹っ飛ぶ音。相当な量のガソリンが、気化した状態で、引火炸裂したのだ。
予想以上に頭のいい子だ。時限式の発火装置を、どうにかして工夫したのだろう。縛らないと危険だというのはわかっているが、時間がない。緋雪を抱き上げる。思ったよりも、ずっと軽かった。命の次に大事な鉈を腰に差す。何もできず、無力感に包まれている達子に、言う。
「脱出路、どこ?」
達子は煙の上がる方向を見て、絶望したように首を振った。おそらく、あの煙の上がっている方だろう。ならば仕方がない。山を下りるしかない。時間は、ほとんど無い。
幸い、派手に煙が上がっているし、麓の住民も通報してくれるだろう。だが、緋雪を抱いたまま、達子をつれて山を下りるとなると、火から逃げ切れるかどうか。悩んでいる暇はない。川沿いに降りるしかない。
二次爆発が起こった。更に、三次爆発、四次爆発。どうやら本当に緋雪は、この、村を焼き尽くすつもりだったようだ。見つけた限りのガソリンを、多分何軒かの家の中に充満させ、延焼に従って連鎖爆発を起こすように仕掛けておいたのだ。家そのものを密閉容器として使った時限爆弾である。
疑念がわく。放っておけば、この村を滅ぼすことは容易だったはずだ。逃げることだって。ならば、なぜわざわざ姿を見せた。しかも、退路をふさいでまで。
唇を噛む。ろくでもない可能性に思い当たったからだ。そしてそれは、多分当たっている。
「走って! 早く!」
炎が上がる。なめるように、周囲の住宅に回っていく。自動車が爆発、炎上した。路地の狭さもあり、この分だとこの村落は全焼する。
想像以上に煙の回りが早い。全速力で逃げたいところだが、保護対象がいる以上そうも言ってはいられない。達子を立たせて、叱咤して、走らせる。
「ほら! 早くしないと、バーベキューになる!」
「でも、その…」
「いいから来る! 大丈夫。 この子に関しては…師匠に頼んでは見るから」
師匠にだってできないことがある事は百も承知。今はそういうしかない。それに、それに志乃も賭けてみたい。ぐずりながらもついては来る。村の外へ抜け出したとき、振り返ると、もう十数軒に延焼しているようだった。煙がすさまじい。多分、これなら空から見える。
自分が仕掛けたトラップに気をつけて、走る。川に飛び出す。煙は容赦なく後ろから追ってきた。達子はもう咳き込み始めている。煙の中倒れたら、まず間違いなく死ぬ。川を渡れば、少しはましになるはず。あるいは、この状況、ヘリが来てくれるかもしれない。最悪なことに、風は追い風だ。どうにか風上へは逃れようとしているのだが、方向が、少しずつ、わからなくなりつつある。
森がわからない。あんなに仲良く過ごしてきたのに、煙が入ると別の存在のようだ。更に、風が不規則に乱れている。火事の影響か。
「ごほん、ごほんっ!」
吸い込んでしまった煙が、肺を痛めつける。達子はもうふらふらで、よくついてくれたものだと感心するような状況だ。急げ、急げ、急げっ!混乱する鳥達の、悲鳴が周囲でやかましい。上昇気流に炎が巻き上げられ、逃げ遅れたカラスの断末魔がとどろく。この村が、終わろうとしている。
ついに後ろで、達子が倒れる。右手に、左手に、二人担ぎ直して、ハンカチをくわえて、一歩、二歩、歩く。背中から吹き付けてくる風が恨めしい。
「師匠…!」
弱音が零れてしまう。腕がちぎれそうだ。意識が吹っ飛びそうだ。
更に後方で爆発音がとどろく。
石を踏んだ。森を抜けて、川に出たのだ。だが真っ黒い煙が、視界をクリアにはしてくれない。じわじわ濃くなっていく煙が、志乃をあざ笑うようだった。川へ、踏み込む。川風があるから、少しはましになるとは思ったのだが、どうにもならなかった。川の流れに足を取られそうだ。
まだだ、まだ死ぬ訳にはいかない。前にくぐった修羅場は、こんなものでは無かっただろう。言い聞かせる。こんなところで死んだら、黒髪をなびかせた師匠が地獄まで目を光らせながら追いかけてきて、殴り倒される。それは絶対に嫌だ。
水が足にからみついてくる。水ってこんなに重かったのか。水の流れって、こんなに鋭かったのか。今更に、知った気がした。
必死に頭を使うことで、意識を保とうとしたが、限界はどうしても来る。
川を渡りきったところで、志乃は力尽き、前のめりに倒れる。
わずかに煙が薄れたようだった。
地面近くの、冷たい空気がおいしい。目を閉じる。意識が、真上に抜けていくような感触があった。
どこかから、ヘリのロータリー音が聞こえた。
5,ラスト・メール
目覚めたのは病院だった。食いちぎられた腕の傷や、体中の刀傷には処置がしてある。鉈を探して周囲をまさぐったが、無かった。白くて清潔なベットが、白いカーテンが、少し目に痛い。
助かったんだという安堵と、一緒にわき上がってくるのは、助けられたのかという疑念。抱えていた二人は無事だったのか。煙に巻かれて死んでいないか。それに、重要度は落ちるが、鉈は大丈夫なのか。荷物は燃えてしまわなかっただろうか。村は、全部燃えてしまったのだろうか。
清潔な白衣を着せられていて、体のあちこちがスースーする。点滴の針がくっついていて、引っこ抜きたくなるが、我慢。ベットに身を沈めて、蛍光灯の明かりを見やる。ため息一つ。結局、志乃は誰かを救うことができたのだろうか。
終始達子は何の役にも立たなかったが、それは要救助者としては普通の事だ。志乃のように特殊訓練を受けていない人間が、あんな状況で何かできる方がおかしい。緋雪は、遺留品や何かから、もう犯人だとわかっているだろう。マスコミが無能だ腐敗していると騒ぎ立てている日本の警察は、世界的な水準から見れば非常に優秀な部類にはいることを、志乃はよく知っている。故郷の警察は、人さらいに子供がさらわれても、捜査さえしないような連中だった。
師匠にどう説明したらいいんだろう。次はそれが頭の中を巡る。今から考えてみると、非効率的な行動があまりにも目立ちすぎている。恐怖をもっと押し殺すことができていたら。もう少し論理的な分析ができていたら。死体の状態から言って、志乃が村に着いたときには、皆殺しになっていた可能性は極めて高い。だがそれでも、もっと事態は改善できたはずなのだ。
腕時計もとられてしまっていた。窓のそばに置いてある時計では、今の日にちは分からない。看護婦が来たら聞いてみようと思いながら、志乃はぼんやり窓を見つめた。
戸が開く。振り返ると、師匠が立っていた。相変わらず黒ずくめだ。髪をかき上げながら、涼しげな瞳を持つ長身の美女はのたまう。
「目が覚めましたか?」
「師匠、ごめんなさい。 その、私…」
「話は後です。 今は体を休めなさい」
師匠は全身黒ずくめだから傍目には見えないが、多分あちこち怪我をしているはずだ。というのも、志乃にも分かるほど違和感がある。志乃のいた場所などとは比較にもならないほどに、ひどい場所で仕事をしていたのだろう。
嘘をついてもすぐにばれる。怒られるのを覚悟で、全部話すしかない。そのためには、今は体を休めることだった。
あの日から、三日が過ぎていた。助けた二人の内、達子は無事だったという。一方で、緋雪は病院に収容されたものの、二日後に脱走、姿を消したのだそうだ。大量殺人の容疑者として、今警察が必死に追っていると言う。非常に危険な精神状態である事が想像される上に、身体的にも危険なために、一刻も早い発見が望まれる。
自分の行動と判断ミスを全て伝えると、師匠はしばらく考えてから、すでに分かっている真実を話してくれた。用意されている椅子に座ると、彼女は髪をかき上げる。長い黒い髪が、さらさらと流れた。
「あの村は、S村に住む人々は、不老長寿の秘薬を生成している一族だったんですよ」
「不老長寿って、そんな」
「そして質が悪いことに、それは現実にある程度の効果を示していた」
そういえば。達子が言っていた。長寿の人間が村には多いと。
現代の日本においても、百歳の壁を越えるのはとても難しいことなのだ。本人が相当に健康である場合や、ストレスを軽減する何かしらの手段を持っている場合を除き、達成がきわめて難しい。それなのに、あの村では長寿が当たり前だった。
S村は、そもそも秘湯を守る一族だったのだという。それも、さほど歴史が古い一族ではない。最初にS村が成立したのは、おそらく室町時代末期。逃散農民や食い詰めた木こり達が集う山奥の秘村が、S村となったらしい。場所的な問題からそのまま生きていくのは困難を極め、生活には支援が必要だった。それには権力者に阿る必要があったのだ。計算高い権力者に保護してもらうには何かしらの利点が必要だった。そこで彼らは、延命と長寿の秘法を必死に研究した。権力者の歓心を買うには、それが最適だったからである。
幸い、近くにわいていた秘湯がある内はそれを使っているだけでよかった。事実かなり泉質がよい湯であり、権力者達に愛用されたと記録にある。幕府中枢の人間ですら訪れた記録があるそうだ。だがその秘湯も、江戸時代半ばには尽きてしまった。そのままでは周囲の村と同じように、厳しい年貢の取り立てが始まり、山奥で産業もない村は窮地に立たされてしまう。ただでさえ、叩けば埃が出るような出自の村なのだ。場合によっては、村自体の消滅もあり得た。そこでS村の住人達は、新たな延命法に着手しなければならなかった。
「秘湯は発見された当初から湯量が少なく、それが尽きるのは村の人間達にも予期されていたそうです。 彼らは湯がある内に必死に研究を重ねました。 不要になった人間を容赦なく人体実験に使い、旅人がその近辺で消息を絶つことはしょっちゅうだったそうですよ。 東北地方の伝承に残る人さらいを行う妖怪の正体の一部に、S村が関与しているのではないかとさえ、私はにらんでいます。 場合によっては、罪人を藩から買い取って人体実験をしていたかもしれませんね」
「そうまでして、長くいきたいんですか? 人間って…」
「つらく苦しい人生を送り、必死に築いてきた何かが、死によってすべて無に帰してしまう。 それがどうしても耐えられない人間はいるんですよ。 それが恥ずかしい事なのかどうかは、同じ状況になってみないと、論じる資格はないでしょうね」
どこか悲しそうに師匠は言った。不老不死の人間を、知っているかのようだと、志乃は思った。
S村は権力者に保護されている事もあり、裕福だった。彼らは漢方や呪術、時には海を渡ってきた錬金術や西洋の魔術の知識まで漁っていたという。それでありとあらゆる手段で、不老長寿を試した。
それ自体は、世界中のどこの国でも行っていることである。人間の考える事など、世界のどこでも同じだからだ。同じではなかったのは、S村の住人が、ある程度効果がある方法を、偶然見つけてしまったことであった。
師匠は少し考えてから言った。
「人間には免疫機構があるのを知っていますね」
「はい。 病気やばい菌に抵抗するあれですよね」
「私が大学図書館から見つけてきた資料によると、S村では、たまたまそれを強めに宿す人間を、どうにかして見つけてしまったらしいですね。 そして数十年がかりで村全体との混血を行い、更にそれを他者にも適用する方法を開発することに成功した。 時期から考えて、それから十年ほどで、温泉が尽きたのでしょう」
村の人間達は必死だったのだ。
周囲の村々が搾取にさらされ、飢饉の度に大勢の死者を出し、子供を交換してむさぼり食うような地獄絵図。年貢を納められず子供を売り払い、獄につながれては無惨に死んでいく。そんな有様を見ていたのだから。かろうじて権力者に保護され、周囲の村々からも天狗や妖怪の一種としてではあるがあがめられる体勢は、長寿を実践するシステムが無ければ成り立たないものだったのだから。
「それが、生き血を啜る事なんですか?」
「あの子、緋雪が何で女、女、っていっていたと思うんですか?」
「?」
「あの子が生まれる前、先代までの長寿媒体が啜られていたのは、経血ですよ」
目の前に電光が走った。吐き気が瞬間的にのど元まであがってきた。思わず布団に口を埋めてしまう。
おぞましい、おぞましすぎる。人間という生き物は、ひょっとしたら、長寿のためなら糞便だって平気で口にするのではないか。
師匠は淡々としている。正確には、経血だけではなく、それに様々な薬湯をくわえて加工したものを使っていたのだそうだ。そしてそれは確実な長寿効果をもたらした。S村を幕末まで管理していた譜代のM藩では長寿の藩主が続き、家老達も軒並みそうだった。様々な加工をくわえた後、赤黒い液体になるのだそうである。そして明治以降、それは国が管理することになった。だから、山奥にあのような近代集落が誕生したのである。噂によると、GHQによって、長寿媒体の何人かが連れて行かれたというものもある。だがこれは確認できていない。嘘かもしれないし、本当かもしれない。
だから、あのような小さな山奥の村に、移住したいという人間が大勢いたわけだ。
その後の展開は、志乃にさえ容易に予想できた。
「無茶な近親交配によって長寿媒体の血脈は大事に守られてきましたが、長年の遺伝子的な過剰負担がたたって、強力な長寿媒体ほど、子供が生まれない事態になりました。 緋雪は一族の中で、最後に残った長寿媒体でした。 ほかの長寿媒体の一族のうち、女性はもう皆子供が産めない体になっていたようです。 更に、緋雪も生まれつき、子供を作れない体であったようですね」
つまり、それ、は。
「検査結果で分かりましたが、緋雪は、男の子です。 正確には、幼い頃に性転換を試みられ、失敗して男にも女にもなりきれなかった可愛そうな子です」
ため息しか出ない。
だから、緋雪は大事に育てられた。誰も知らなかったことから、緋雪は周囲には女の子とされ、男だというのは秘中の秘だった事実が浮かび上がってくる。一族内で、長寿媒体としての力が弱いが繁殖能力を持つ人間の中では必死に新世代の長寿媒体の作成が試みられる一方、当座の凌ぎとして、ある程度の体力がついてから、血を搾り取り続けられたわけだ。
焼け残った佐上家の跡地から、地下室が発見され、消火に当たった自衛隊の特殊部隊がすでに調査を終えたそうだ。それによると、だいたい一回当たり一リットルほどの血液が抜き取られていたらしい。致死量ぎりぎりであり、さぞ苦しかっただろう。しかも、毎月である。それだけ抜き取られると、毎月の生活はほとんど造血のための準備期間とかしていただろう。まさに悪夢のような生活だったはずだ。血を搾り取られるために、生きていたわけだ。その上、緋雪は見てしまったのだろう。
搾り取った血を、さも嬉しそうに啜り飲む一族の姿を。
それでは、おかしくなってしまう。緋雪がやった事に同情はできないが、ただただ気の毒だとは思った。
男でも女でもない、それらの定義が自分の体で分からない、教えてくれる人間が周囲にいない緋雪にとって、「女」という定義は、「定期的に血を絞られる者」か、「血を他者の手で奪われる者」だったのだろう。隔離され管理された生活をしていると、どうしても言葉の定義が周囲とずれてきてしまう。緋雪の悲しい理解は、仕方のないことだったのだ。妙な文字の書き方の癖も、それに基づくものだろう。
「村の特異な地形は、人体実験を繰り返していた頃からの名残でしょう。 特異な地形を作ることで、限られた人間にしか出入りを許さず、捕まえた人間の脱出も防いだ。 調べてみましたが、ある家屋の地下駐車場が、廃トンネルにつながっていました。 規模から言って、何十年もかけて江戸時代に作ったものであることは間違いなさそうです」
「ひょっとして、あの手紙は…」
「S村ナンバーツーの佐守家は、手紙の配達を含め、外部との伝達を担当していた節があります。 彼らによって検閲が行われていたのでしょうね。 だから一通目、三通目、四通目は相手に届かなかった。 多分緋雪ちゃんは、その手紙をとがめられて、犯行のトリガーにしてしまったのでしょうね。 どうして二通目が届いてしまったのか、散り散りになっていたのかまでは、分かりませんが」
それで、携帯電話が通じなかったわけだ。インターネット環境でも、多分相当高度な監視体制がとられていたはず。高度に発達した社会だったのに、自由などほとんど無かったのだろう。
平和な豊かな生活には、犠牲がいるのだ。
S村では、一人の男にも女にもなりきれなかった可哀想な子供から生き血を搾り取る事で、それが成り立っていたのだ。
何かが壊れるのはいつも一瞬だ。志乃は、誰も恨むことができず、憎むことができない今回の事件を。ただ悲しいとだけ思った。
「失敗した分は、唯一の生存者である達子ちゃんを助けたことで大目に見ましょう」
「ありがとうございます」
「ただし、修行面ではペナルティを課します。 まだまだ判断力と決断力と観察力が甘い」
師匠は立ち上がると、椅子を片付けながらそういった。容赦のない修行がこれから行われると気づいて、背筋に寒気が走った。
一週間もすると、退院することができた。健康すぎて手当のしがいがないと、お医者さんがぼやいていた。それでいい。自分の取り柄は、それだけだ。
外の空気が涼しい。この国は平和だが、それを保つためにどれだけの犠牲が生じているのか、考えているのはごく少数だ。
師匠はすぐにまた出かけた。今回の任務もまた、志乃を連れて行けるレベルではないそうである。早く師匠の役に立てるようになりたい。
家に戻る。相変わらずよく整頓されている。埃を拭くだけで掃除が終わってしまう。まあ、師匠はあまりここに戻ってこないのだし、仕方がないだろう。修行は師匠が戻ってきてからだ。
達子からメールが届いていた。順調に回復していて、来週には退院できるそうである。志乃も明日からは高校へ行く。スカートは足がひらひらして気持ち悪いから好きではないのだが、我慢するしかない。文句を言うなら、せめて好成績をたたき出してからだ。達子は謝っていた。嘘をついてごめんなさいと。もう、それを憎んではいない。もし脱出路の存在を知っていたとしても、達子が緋雪をおいて麓へ逃げることはあり得なかっただろうし。
ひどいことを言ってしまったが、途中で分かった。達子は緋雪の境遇にある程度気づいていた。そして外に出そうとして、発見され、打擲されたあげく、追い出されたのだろう。達子本人宛に手紙を出さなかったのは、それだけで届かなくなることが明白だったからだ。それを含めて、こちらからも謝る。しばらくは、互いに謝りあうことになりそうだった。
夕食の買い出しのために外に出る。そのとき、携帯にメールが来た。連続してどんどん来る。タイトルだけの不可解なメールだった。
「この前」「はあり」「がとう」
全身が瞬間的に総毛立った。どうやって、この携帯の番号を知った。名前はないが、誰からのメールかは一目瞭然だった。
ひょっとして、携帯の使い方を、最初から知っていたのか。いや、そんなはずはない。考えられる可能性は一つしかない。
荷物から離れているときに、携帯をいじられたか、あるいは寝ているときに。
緋雪の手のひらの上で、ずっと踊らされていたというのか。ベースのトラップは全て見切られていたのか。位置まで特定されていたのか。それとも。
病院の中で、何かされたのか。その方は可能性が高い。得体が知れない。怖気が走る。
足が止まってしまう。恐怖にすくんで動けない。まだ、まだまだメールは来る。
「達子が」「無事に」「逃げら」「れてよ」「かった」「きみに」「感謝し」「ている」
メールは来る。どんどん来る。どんどん来る。とまらない。
「緋雪は」「逃げる」「もうつ」「かまら」「ないよ」「逃げる」「もう斬」「られな」「い誰に」「も啜ら」「れない」
携帯を取り落としてしまう。腰が抜けてしまう。
ひょっとして自分は、とんでもない化け物を逃がしてしまったのではないか。悲劇によって誕生した怪物は、野に放たれてしまった。
頭を抱える。携帯が鳴り続ける。緋雪がなにを送ってきているのか。バイブ音が、心臓がきしむ音に思えた。
視線。顔を上げると、路上に一瞬だけ、狂気をたたえて艶然と笑む緋雪の姿が見えたような気がした。目をこすって必死に見直すと、そこには誰もいなかった。
携帯の振動が止まる。
中身を見る勇気は、志乃には無かった。甲高い嘲笑が、聞こえた気がした。
(終)
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