より高い場所

 

序、強迫観念

 

登らなければならない。

そう幼い頃から仕込まれていた。

叩き込まれたのは勉強と言う名の拷問。

徹底的に仕込まれて。

そして他の人間は全て敵だと教え込まれた。

その結果、幼稚園から始まるお受験コースに乗り。そして今、世界でも屈指の、米国の大学に入った。

其処で今思い知らされている。

故国で学んだ勉強法が、何の役にも立たないことを。

丸暗記で突破出来る勉強など此処には無い。

手が震えている。

こんな点数をテストで貰ったのは初めてだ。0ではないが、限りなく0に近い点数である。

「君は補修だ」

教授から、英語で言われる。

この国の大学は、入るのより出る方が難しい。

それは知っていた。

だからこそ、備えて来たつもりだった。

だが、国内では無敵だった学習法は。そう、あらゆるお受験コースで叩き込まれてきた学習必勝法は。

この国では、何の役にも立たなかった。

登らなければならない。

お受験に勝ち抜き。

他のあらゆるものを捨ててまで、ここまで来たのに。それなのに、何だこの結果は。自分は勉強以外何も知らない。

それなのに、どうしてこんな結果がテストで出てしまうのか。

震えは、手だけでは無い。

顔中真っ青になっているだろう。

「お前のやってきた勉強についてはそのテストでよく分かった。 定説の組み合わせでしかない。 というか、あらゆるテストに決まった回答があって、思考力より記憶力をはかっていた様子だな」

教授の言葉が、ぐわんぐわん頭の中でひびく。

ずっと独占してきた頂点は。

今、崩れた。

 

補習を受ける。

そして、今まで蓄えてきた定説が、全て間違っている事を、思い知らされた。

それは所詮、学校で点数を取るための勉強。

実際に学会の最前線にある学問ではない。

私は医師になるつもりでここに来たが。

知ってはいた。

自国の医療技術は、最先端であるドイツより一世代遅れていると。この国にも遅れを取っていると。

様々な薬品開発では最先端を行く部分もあるし。

一部の大学では、非常に優れた発見もしている。

だがやはり、全体的には遅れている。

その理由は分かっていなかった。

単に医師が無能だから、だろうと思っていた。

違ったのだ。

医師になるために叩き込まれてきた勉学が、この有様。何の役にも立っていない。実際に最先端の医学は、まるで別物。

何より、今まで覚えてきた知識が。

全てドブに捨て去られるような感覚。

それは、恐らく。

高みから叩き落とされた者が味わう、喪失感だろう。

黙々淡々と追試を受ける。

それは、今までの学問が全て無駄だと叩き込まれる特訓であり。今までの学問が拷問に過ぎず、何の役にも立たないと教え込むものだった。

これから、本当の学問をやるのだと。

私は教え込まれた。

考えてみれば、おかしかったのだ。

何でもかんでも取りあげられ。

教師に徹底的に。

親にも徹底的に。

何もかもを許されず。

ひたすら暗記。

勉学。

それだけを繰り返し。

そして最終的にここに来た。

高みに立つためだという事だったけれど。高みに立った後、どうすれば良かったのだろう。

医者は仁術と聞くけれど。

親が聞けば、鼻で笑っただろう。

医者は金を最も稼げる仕事だ。

社会的地位も高い。

他の人間を見下せる。

だから医者になれ。

そのための勉強をお前の体に叩き込んでやっているんだ。お前が勝ち組になり、搾取する側に廻るために。

偉大なる勝ち組であり、金を出してやっている私達に感謝しろ。

そうしてただひたすら勉強しろ。

頭に詰め込め。

そして勝ち組になれ。

見下ろして、そして勝者になれ。

お前は勝つために、他の全てを近づけるな。言われた事だけをやれ。言われていないことは一切目に入れるな。

ただひたすらに言うことだけを聞け。それ以外は全て害悪だ。文化などと言うものは、全て毒だ。摂取はするな。

言うことだけを聞いていれば、それでいい。

そういえば、兄は。

そんな親の言葉に反発して、荒れに荒れ。そして高校の頃には、もう家を出ていった。今は何処で何をしているやら。

妹もそうだ。

散々荒れて、中学の頃には薬に手を出していた。

今は少女少年院にいる。

殺人未遂をおかして、挙げ句の果てに警官を刺したのだ。

懲役は10年。

今の時代は、昔と違って、模範囚での短期出所も殆ど見込めない。妹は娑婆に出てきた後も、どうせ碌な人生を送れないだろう。

私もそれは同じか。

それでいながら、両親は兄と妹を無視。

私がエリートコースに乗ったので誇らしいと周囲に話しているらしい。

馬鹿じゃないのかと思うのだが。

金だけバカに持たせると、こういうことになるのだろうと、今更ながらに気付かされる。それまでは、自分で思考することさえ許されなかった。

私には。

脳を持つ事も、ある意味では許されていなかったのかも知れない。

それくらいに、何も考えていなかった。

ひたすら詰め込むだけだった。

そしてその結末が。

これだったのだ。

他の学生は、何となく事情を悟っている様子だった。うちの国から来る学生の中で、お受験を抜けてきた者は、何だか勉強に対する感覚がおかしい。そればかりか、色々と歪んでいる。

それは何度も聞かされた。

学閥に入るために、国内の大学に行く奴はまだいい。

というにも、そこでは「常識」が形成されていて。

レールに乗ってきた奴らが、それぞれ勝手にまたレールに乗って。以降は官僚候補や政治家候補、或いは医者や弁護士として出荷されていくからだ。

以降、意思も何も無く。

「常識」に従って。

ただ搾取していくマシーンの完成である。

私も危うくそうなるところだった。

そして私自身も、今更ながら目が覚めたが。

下手をすると。

自分の子供に、同じような事をしていたのではないのか。

同じようなレールに乗ってきた人間と結婚させられ。

完全に歪んだ視線で周囲を睥睨しながら。

子供に虐待を加える未来の予想図。

勿論この国でも色々問題はあるが。エリート教育については一日の長があると聞いている。

結局の所、私は。

何も知らないまま、ここまで来てしまって。

そして初めてそれを思い知らされた、という事だったのだろう。

追試を受けて。

そしてそれでも良い点数は出ない。

応用を身につけろ。

そう言われた。

といわれても。

今まで応用として知っていたものとは、根本的に違う。

本当に、何も知識が無い状態から、結論を導き出していくものだ。これは昔教えられていた、応用とは別物。

あれは、応用といいつつ。

基本的にこれにはこうしろ、というのが決まっていて。

それに沿ってやるものだった。

此処で言っている応用は。

何もない状態から自分で考え。

そして結論を組み立てなければならない。

お受験で叩き込まれてきた知識詰め込みと、その延長とは根本的に違う。これが学問だったのかと。

今更ながらに私は。

思い知らされていた。

散々追試で絞られて。

駄目出しされて。

家に戻る。

家から、連絡が来ていた。

テストの結果を家で監視しているのだ。凄まじい罵倒が、メールの本文に書かれていた。

お前もか。

お前もクズだったか。出来損ないだったのか。他と同じ、存在する意味がない奴だったのか。

仕方が無い。

もう一人作る。

優秀な遺伝子で作ってやった子供なのに、親に対して不幸をしたな。もうしらん。死ね。

お前はそっちで勝手にやっていろ。

仕送りは打ち切りだ。

メールの文章はそれで終わり。

どうやら、大学には。

以降はもう、行く事も出来ないようだった。

メールを読み終えると、着信拒否にする。

どうやら私は。

高い所に登らなければならないというルールからは解放されたようだけれども。

以降の全てからも。

解放されたようだった。

 

その日のうちに、あらゆる荷物をまとめて帰国することにする。

この国では、保険を一とするあらゆるものが、金持ちに対する仕様になっている。病院でも、貧乏人は治療さえ受けられないのが普通。どれだけの重病でも、金がなくなれば病院を放り出されるものだ。

幸い、ポケットマネーを全てかき集めれば。

どうにか帰国費用は作れた。

大学には、退学届を出す。

コレを出すと、教授は一回の失敗で云々と言おうとしたが。

親から来たメールを突きつけ。

現実について話すと。

流石に口ごもった。

「これは、本当のことか」

「うちの国では、失敗が許されません。 基本的にレールから外れると、もう取り返しはつかないんです。 私は親から失敗作と見なされました。 普通の家庭だったら兎も角、いわゆる勝ち組であることを約束させられていた私は、これでおしまいです。 支援も打ち切るそうです」

「国に帰ってどうするつもりだ」

「どうにもならないでしょう。 就職しますが、それも高卒では上手く行くかどうか」

行った所で。

どのみち地獄は確定だが。

今、自分の国は、総ブラック化とでも言うべき状況に陥っている。

誰も彼もが心身をすり減らして働いている状態だ。

しかも高卒。

大学中退。

周囲は、いわゆるお受験コースから脱落した私を、ゴミ同然に扱うだろう。それはそうだ。むしろ嘲笑のターゲットにするのは間違いない。

何より、である。

私は何も知らない。

医者になるために頑張って来たが。

親からの援助が打ち切られた以上、その道も断たれた。以降は、何をするのもできないだろう。

ホームレスになるか。

上手く何処かに潜り込めたとしても。

コンビニのバイトが精々か。

それにしても、両親は新しく作ると言っていたが、二人とももう50近い。これから新しく子供を作って、更にその子供にお受験という虐待を加えるのか。

何だか乾いた笑いが漏れてくる。

あのテストの結果を見て。

私はあらゆる暗闇から、目が覚めた。

その結果として、楽園を追放されたが。

それは本当に楽園だったのだろうか。

とにかく、退学届は出した。受理は見届けている暇が無い。あの冷酷な両親だ。見捨てた私には、もう興味を失っているだろう。

すぐに帰国の手続きをして。

飛行機を取る。

大学のクラスメイト達とは、短いつきあいだったが。

もう話す事も無い。

そのまま、飛行機に乗って、帰国。

そして、空港から、手荷物だけを持って出た。

所持金は十万を切っている。

飛行機代などで、色々と取られたからだ。

両親とはもう連絡するつもりは無い。

あの両親のことだ。

兄と妹の時のように。

業者を呼んで、もう部屋をまっさらにしているだろう。部屋に置いていたもの全てを捨て、まっさらにするのだ。

存在していなかったように。

両親は両方とも、お受験に乗っかって。

レールに乗って生きてきた人間だ。

どちらも学閥に所属し。

そして勝ち組である事を誇ってきた者だ。

だから許せないのだろう。

優秀だと信じて疑わない自分の遺伝子から、失敗作が出たことが。

そして、失敗作が出たと言うことは。

自分の遺伝子のせいではない。

失敗作が悪いのだ。

だからその失敗作の痕跡を、あらゆる全てから消滅させる。そして以降は、一切関わらないようにする。

さて、どうするか。

私は、まずはハローワークに足を運ぶ。

これからどうするにしても。

まずは、収入を得なければならない。

多分、既に家からは勘当を食らっている。

最悪の場合。

生活保護を受けなければならないだろう。

いや、それも厳しいか。

あれは色々と審査が面倒くさくて、大変だとも聞いている。特に最近は、いわゆる貧困ビジネスのせいで、殆ど生活保護は特定の人間が独占してしまっており、実際に困っている人間が何もできない状態だとか。

さあ、どうするか。

人生は恐らく詰んだな。

そう、天を見上げて。私は思った。

 

1、もう一度、登ってみよう

 

ハローワークで紹介された仕事は、悉く話にもならなかった。まず高卒というのが致命的。

しかも親から縁を切られている、というのが更に致命的だった。

正社員どころか、派遣や契約も無理。

そういう結論が出るのに、時間は掛からなかった。

そうなるとバイトしか無い。

そして思い知らされる。

現在は、バイトでさえ、簡単には受からないのだと。

生活の仕方がまず分からない。

焦る内に、持っている金はどんどん無くなっていく。

文字通りホームレス状態で、連日駅の軒下で雨露を凌いでいたが。それも四日目で、警察に声を掛けられた。

駅は変えていたのだが。

「何をしているんだね。 まだ若い娘さんが。 酒に酔っている様子も無いが」

「いえ、もうお金が無くて、帰る場所も無いので」

「自宅は」

「両親から勘当されているので、帰れません」

唖然とした警官。

兎に角署に来るようにと言われて。

そのままついていく。

まだ若いのに、数日風呂に入っていないが。

実は受験勉強の頃は、風呂なんか入る暇があったら勉強しろと親に言われて。数日風呂に入らないのはザラだった。

食事も基本的に極めて雑。

両親ともエリートだと言うこともあって。

まともな食卓を囲んだことも無い。

基本的に女中が作る適当な食事を、適当に食べていただけ。

自炊をする能力も無い。

「この所持金じゃ、あと一月ももたないだろう。 どうするつもりだったんだ」

「生活保護を申請していましたが、悉く蹴られました」

「……」

「ハローワークで仕事の申請もしていたのですが、どの会社もそもそも面接も受けさせてくれませんでした」

ひょっとすると、だが。

激怒した両親が。

各社に裏で手を回しているのかも知れない。

それに親に勘当されている、という事は、多分書類審査の段階で判明するはずで。要するに、その時点でも私は詰んでいる、言う事だ。

警官は呆れたように頭を掻く。

そして、しばらく考え込んでから。聞く。

「友人や恋人は」

「いません」

「あんたまだ若いし、頼れるような相手は。 恩師とかでもいい」

「いません」

いるわけがない。

お受験に全てを割り振っていたのである。それでこういう結末になったのだ。

学校での同級生は全て敵。

全員を蹴落とせ。

この思考回路については、周囲も同じだった。

弱い奴は、即座に蹴落とされた。

あらゆる手段が使われた。

私は参加しなかったが。

自分より勉強ができる奴に、散々精神的な攻撃を加えて、学校から追い出していた同級生もいた。

ただしそいつは調子に乗って、自分よりも親が格上の官僚の子供に同じような事をしようとした結果。

一家もろとも失踪した。

それから誰もそいつのことを口にしなかったことから。

多分殺されたのだろう。

学校でも、そいつのことを口にするのは、タブーになったし。

ほぼ間違いは無い。

警官達が話をしている。

「明日生活保護課に連絡するしかないか。 それまでは宿直室を貸してやれ」

「良いんですか」

「このままだと、外で餓死するしか無いだろう。 もしくは犯罪するかだ」

金が無いのだ。

だとすれば、選択肢は二つ。

餓死するか。

奪った金で生き延びるか。

その二つに一つしか無い。

結局の所、私は。

こんな所で、人生を使い潰していたのだと、今更ながらに思い知らされる。そして、警官達は比較的親切だけれども。

それはあくまで犯罪を起こされると面倒だからで。

手に余しているのは、露骨すぎるくらいだった。

とりあえずシャワーを借りる。

数日ぶりのシャワーだ。

警察に両親の電話番号を聞かれたので、一応答えたが。向こうは先手を打っていて、既に番号は変えられていた。

名前と住所についても話したが。

相手は大蔵省と厚生省の大物官僚。

警察としても迂闊に手出しなど出来ない。

マスコミに話を出しても完全に無視だろう。

彼奴らは、弱い者いじめをする事しか出来ない。仮にニュースになったとしても、ちょっと流れてすぐにおしまいだ。

これが、人間か。

今更に。

色々と知識を得ていく自分がおかしい。

こんなに何も知らなかった自分が。

医者になろうとしていたのだ。

それも、医者になった後は。如何に患者から搾取するかを考えろと、両親に言われていた。

患者は金づるだ。

どれだけ絞り上げるかだけを考えろ。

お前は勝ち組だ。

負け組は消耗品だから、どれだけ使い潰しても良い。

両親は口を揃えてそう言っていた。

警官の一人が、青い顔をして、同僚と話している。

耳だけは良いので、内容は聞こえた。

「そんな子供はうちにはいないし、いたとしても関係無いと言っていますね。 両親揃って」

「本当か……」

「しかもうちの署長の名前を出されましたよ。 しつこいようだと、其処から圧力を掛けるって」

「露骨すぎるな」

本当に、両親は私を消すつもりだ。

それだけの事を私がした、ということで。

両親にとっては、もはや殺しても飽き足らない相手、という事なのだろう。

多分生活保護も取ることはできまい。

要するに両親は。

本気で私を殺すつもりだ。

なるほど、兄が家を出るわけだ。というか、ひょっとすると兄は、「家の恥」とか、「自分の遺伝子から出た恥」とかで、本当に両親に殺されているかも知れない。

親の愛なんて物は幻想だ。

それは夢から覚めてよく分かったけれど。

なるほど、これは。

私は兄と同じ未来をたどろうとしているのかも知れない。

しかも、この手持ちの金では。

もう海外に逃げる事も出来ないだろう。

ましてや生活保護も。

翌日。

警官が説明に来た。

生活保護を取るのは難しい、という説明だった。

まず体が頑健である事。

それに、手続きを踏んでいないこと。

それらから、生活保護の対象にはなり得ないという。

そして、言われる。

出て行くように、と。

これも多分、親から圧力が掛かったのだろう。

警察で保護しているという話が、親の所に行ったのだ。

この署のキャリアに、話が行き。

追い出せ、という話になったのは間違いない。

「つまり死ねということですね」

「……」

「いえ、結構です。 貴方に責任はありません」

シャワーだけでも使わせてくれただけでマシだ。

それにしても、あの両親。

私が一度でも学校で何か失敗していたら。

その時点で、妹のようにされていた可能性も高かった。

そうか。

これが勝ち組の現実か。

そういえば、どこぞの雑誌で。年収二千万以上の人間を特集すると、みんな警察に捕まってしまうので、記事を取り下げなければならない、なんて話をしているとか聞いた。さっき警察署で。

あくまで聞いただけだが。

それも頷ける。

これだけ腐ったモラルが横行し。

しかもモラルが腐った人間ほど、社会の上位にいる世界だ。

両親も例外では無く。

むしろその狂ったモラルの中では、「常識人」という事なのだろう。

私の方が悪い。

この世界のルールでは。

外を歩く。

雨が降ってきた。

着た切り雀の服は、容赦なく濡れる。

そして、私は。

いつの間にか、堤防に出ていた。

空の様子が良くないから、海は荒れている。

このままでは、バイトにすらありつけず。住む場所さえも無く。仕事が仮にできても親に潰されるだろう。

本気で殺しに来ている親の様子は。

もはや自分の子に対するものでは無い。

いや、自分の子だから、か。

出来損ないだと分かった途端に、殺意が爆発したのだろう。

自分の子だからがゆえ。

許されない。

そういう事なのだろう。

乾いた笑いが漏れる。

そうか、それもそうだ。

そして私には、もう出来る事も一つたりとてない。ひょっとすると両親は、今頃市役所に手を回して、私の戸籍を抹消しているかも知れない。

もう既に。

私には死ぬ以外の道は無かった。

 

気がつくと。

どうやら、海に身を投げて、既に命を落としていたようだった。

体がふわふわする。

もうどうしようもない状態で。

海に身を投げた。

栄養失調状態だったし。

何もできることは無かった。

出来る事があっても、全て潰されていただろう。

死ぬか。殺すか。

そのどちらかしか無かったのだ。

多分、よその国のエリート層は、気に入らなかったらもっと直接的な手段を採っていただろう。

ずばり、そのまま殺していたはずだ。

ぼんやりと私は。

空を見上げる。

私は自分の体が半透明で。

そして、海の上に浮かんでいるのに気付いた。

私の下には。

醜く腐敗して、膨らんだ死体があった。

どうやらこれが私の成れの果てらしい。

検死が始まっている。

だが、そもそも戸籍が無いだとか。

そういう話が飛び交っていた。

「手持ちの身分証明書が、戸籍に見つかりませんね。 偽装で入ってきた海外の人間でしょうか」

「どっちにしても、無縁仏だな」

「そうですね。 他殺の線も無さそうですし」

何を言っても仕方が無い。

事実上の他殺だけれど。

反論してもどうにもならない。

実際問題、警察が親の味方についているのだ。というか、はっきりいって、警察署内で親が私に暴力を振るって、そのまま殺害したとしても、もみ消されたのでは無いかと、私は思う。

今頃親は高笑いだろう。

出来損ないが消えた。

我々の素晴らしい遺伝子から出てしまった役立たずがこの世から消滅した。

新しく作ろう。

そして、今度こそ、遺伝子の正しさを証明しよう。

我々は優秀だ。

そう言っているのは、容易に想像できた。

人間とは、そういう生物だったんだな。今、私は思い知らされている。死ぬまで分からなかったのだから、本当に私はバカだったんだ。いや、死んでも分からなかったのかも知れない。

どうしようもない生物だ。

人間は。

今更ながら。

私は、人間だったことが、恥ずかしくなってきた。

こんな生物だったのか。

そして、こんな生物の言われるままに、お受験と言う名の拷問を受けて。そしてレールに載せられて。

一瞬でもレールから外れたら。

役立たずとして消去される。

そうか。

そうだったんだな。

そんなだから、この世界は、此処まで狂ってしまったのか。

勝ち組と言われている人間達が、どうして此処まで色々おかしいのか。考えもしなかったが。

両親のような人間が「常識的」で「まとも」とされているのなら、納得も出来る。

いずれにしても、醜く膨らみ腐敗した自分の元入れ物に、もう用は無い。

自分が幽霊なのか悪霊なのか妖怪なのかは良く知らないが。

いずれにしても、どうするべきか。

浮遊して移動出来るのは便利だが。

それはそれ。

ものをすり抜ける事も出来る。

しばらく辺りを見て回る。

ちなみに服装は。

死んだときのままだった。

眼鏡もある。

これも、過剰な勉強で目を悪くした結果掛けるようになったのだけれど。その時両親は、私が目を痛めたことを喜んでいた。

「これで知的に見える」

気付くべきだったのかも知れない。

その時、異常性に。

目が覚めてから、やっと分かり始めてきた。この世界では、「常識的」とされている人間の方が危ないのだと。

だが、それはあまりにも遅すぎた。

既に兄と妹という犠牲者がいた。

それなのに。

いつの間にか。

最後に立ち寄った警察に出向く。

どうやら警察では、私を一時保護したという記録そのものを抹消している作業らしかった。

キャリア様のご指示らしい。

ちなみにその後尊顔も見に行ったが。

両親と嬉しそうに話をしていた。

「例の件ですが、痕跡も残さず消しておきましたよ。 身投げしたようですが、戸籍は消してあるので、無縁仏として処理されるでしょう。 ええ、まあお言葉の通り、役立たずのゴミですし、この世から消えて正解ですね。 ははは」

そっかあ。

なら、こういうことは出来るのかな。

私は今。

高い所にいる。

キャリア様の首に手を掛けると。不意に、体温が急激に奪われていくのが分かった。というか、私に力が吸い上げられていく。

太った豚のようなキャリア様が。

見る間に青ざめていく。

電話を取り落とした。

そのまま、全て吸い尽くしてやる。

口から泡を吹き始めたキャリア様が、そのまま息を止めるまで、時間も掛からない。更に、である。

その死体から出てきた何かを、私はそのまま取り込んだ。魂を包んでいる外側らしい。魂そのものは、何だか地面の下に落ちていった。

何だろう。

力がわき上がってくる。

今、私は確かに喰った。

何かを。

それは命そのものか何かだろうか。

それとも。

よく分からないけれど、単純に力が倍増したのは確実だ。

電話の先では、両親らしい声が聞こえる。

「おい、増田! どうした!」

さ、次は。

両親を始末するか。

礼はさせてもらわないといけない。

せめて、今までされたことを、全て返すくらいのことはしなくてはならないだろう。

というか、正直な話。

この世界そのものに。

復讐したい。

今、高い所から見ている私には。

それが出来る力が備わっている。

 

自宅に戻る。

家では、祝杯を挙げた跡があった。役立たずを始末した事を、両親でそろって喜んでいたのだろう。

そうかそうか。

ちなみに母はいない。

父だけが、ベッドで眠っていた。

首に手を掛ける。

そうすると、あのキャリア様と同じようにして、力を見る間に吸い上げていくことが出来る。

うぐっと、父が声を上げ。

もがき始めるが。

どうでもいい。

そのまま全て力を吸い上げると、父は死んだ。そしてその死体から出てきた何かを、そのまま取り込む。

また、力が増した。

何だか力が強くなって行くのは心地よい。

体も少しずつ、半透明では無くて、はっきりしてきた。

昔の私は、それこそ身繕いにまったく興味が無いから、髪もぼさぼさ。女子らしい魅力も零だった。

それについては今も同じだが。

何だか全身からどす黒いオーラが立ち上っている。

そうか。

多分私は、怨霊とか悪霊とか、そういうものになったのだろう。

ついでに母も殺しにいこう。

勤め先は分かっている。

母は実の子供を殺したというのに、鼻歌交じりで仕事をしていた。しかも、どうやって部下をいびり倒して。

痛めつけるかを、嬉々として考えているようだった。

仕事も殆ど部下に押しつけ。

ブラック労働寸前の部下が、死にそうになっているのを見ながら。自分は女性向けポルノサイトを見ている。

これが勝ち組様の現実か。

そして私は、此奴がどれだけの年収を貰っていて。

更に言えば、負け組には何をしても良いと言っている事も知っている。何しろ、そう仕込まれてきたのだから。

そうだ。

此奴が死ぬ前に。

散々恥を掻かせてやるとするか。

まず、PCをフリーズさせる。

何となくだけれど出来る。

ニヤニヤしながらポルノサイトを見ていた母が、ふっと我に返り。キーボードを叩き始めるが。

フリーズしたのでは仕方が無い。

電源を強制的に落とそうとする母だが。

そうはさせない。

そのまま、首に手を掛けて。

力を吸い上げる。

悲鳴を上げた母が、泡を吹いてもがき始めた。なお、吸い上げる速度は、前の二人の時よりも、更に速くなっている。

すぐに母は事切れた。

周囲が騒ぎ始める。

そして、警察が来る。

勿論PCは、ポルノサイトを表示したままフリーズ。警察は笑いを堪えるのを必死になりながら。

無様すぎる格好で、失禁して死んでいる母の死体を、調べ始めていた。

これは、痛快だ。

だけれど、正直な所。

これ以上殺そうという気にはならない。

後は妹を救ってやろうか。

そう思って、ふと気付く。

母のデスクを警察が調べているのだけれど。なにやら書類が出てきている。

代理出産の書類だ。

自分で子供を産むのが面倒だから。

「優秀な遺伝子」を「借り腹」で掛け合わせて、子供を作ろうと考えていたらしい。

ハハハ。

どうしようもない。

母親にとって、出産がどれだけ負担になるかよく分かっているだろう。そして子供を作りたいなら、今の母なら別に立場的に育児休暇くらい取れるはずだ。というかいなくても、部下は困らなかっただろう。

それが。

上から使ってやると言う理論で。

日本では禁止されている代理出産をさせ。

あげくにそれを育てて。

自分の遺伝子の優秀さを証明しようとした。

つまり、DQNネームを子供につけて、アクセサリ代わりにしている親と同じではないか。

自分の遺伝子の優秀性を示したい。

そのためだけに。

此奴らはどれだけの人間を不幸にすれば気が済むのか。自分の子供でさえ、おぞましい自尊心を満たすための道具でしか無く。他の人間に至っては、その全てが踏み台でしか無い。

そしてそんな考えの人間が社会の上層に立ち。

周囲からは「セレブ」だの「勝ち組」だのと崇められている。

どんな国も似たような状況。

狂ったこの世界には、光など差し込んでいない。

何しろ、それに異議を唱えると、異常者扱いされるのが今の世なのだから。自分自身が、それに気付かされて。

本当に恥ずかしかった。

まあいい。

殺したし、後はどうでも良いか。

こんな世界、もうどうにもならないだろう。どれだけの偉人が出て改革をしても、もはや無駄だろうし。

ふと気付くと。

数人の子供が、私を見上げていた。

いずれもが、生きているとは思えなかった。

何しろ、皆が貧しい格好で。

誰も彼もが。

半透明に透けていたからだ。

「なあに」

「いいなあ。 その力、ほしいなあ」

「誰か殺したいの?」

子供達が頷く。

それならば、もう少し、色々延長してみるか。

「手を出しなさい」

手を伸ばしてきた子供を、そのまま取り込む。

他の全員も。

そうさな。

この子供達を不幸にした連中も、全員まとめて。

食らってやるとしようか。

 

2、また登ってみよう

 

気がつくと、私は。

真っ暗な場所にいた。

そうだった。

確か、数十人ほど食らったのだ。

あの子供達を不幸にした連中を手始めに。基本的にサラ金関連の輩や。ヤクザ関係のクズ共だった。

全部まとめて食らった後は。

もう何でも良くなって。

手当たり次第に殺して行った。

そうしたら、いつだっただろうか。

いきなり地面から無数の手が伸びてきた。真っ黒い手だった。

それに捕まると、身動きが取れなくなって。

浮かんで移動していた私は地面に引っ張り降ろされて。いや、地面より更に深い場所に引きずり下ろされていった。

そして、周囲を見回す私の前に。

ぼっと音を立て、赤い光が点った。

光は奧まで続いている。

ずっと浮かんで移動していたのに。どうしてか、歩くことしか出来なくなっている。仕方が無い。

歩いて行こう。

ただ、力は落ちている感じは無い。

多分だけれど。

人間に触れれば、また喰らう事が出来るだろう。

歩き。そして灯りの終着点。

其処は、東洋風の、巨大な屋敷だった。

左右に控えているのは、赤黒い肌を持つ、巨人。手には棍棒を持っている。

「入れ」

「あなた方は」

「見て分からぬか。 鬼だ」

「というと、此処は地獄?」

鼻でせせら笑う鬼。

そうか。私も地獄に落ちたのか。

まあ手当たり次第に食らったし、それも仕方が無いのかも知れない。別にどうでも良いことだけれど。

「一つ聞きたいのだけれど、いい?」

「なんだ」

「私の両親、あれって死んだら地獄行きだったの?」

「当然だろう。 間接的に三十人以上、二人とも殺していたからな。 お前に生命の力を全て吸われて死んでから、ここに来た。 天国に行けるはずだとか喚いていたが、滑稽極まりなかったな」

そうかそうか。

では、地獄に落ちて当然の奴を、地獄は死ぬまで放置していたという訳か。

権力と法が味方についていた。

それだけで彼奴らは「常識的でまとも」とされ。

あらゆる暴虐を好きなようにしていた。

そんな世界をどうにかするのが先だろうに。

とにかく、今逆らっても意味がない。

建物の中に進む。

其処には式服を着た巨大な人がいて。私を睥睨すると、死後の罪について、幾つも詰問された。

私はそのまま答える。

「意外によどみない応えだな」

「自分が何をしていたかは分かっています」

「そうか。 では地獄に行くのも異議は無いな」

「私に関しては」

私が取り込んだ子供らは。

それについて聞くと、それらはもう摘出して、天国に送ったそうである。

ならば別に良いか。

「ならば結構です。 地獄でもなんでもどうぞ」

「焼けばちだな」

「興味がもうありませんので」

「……」

式服の人は頭を振ると。

私を連れて行くように、側に控えていた鬼に指示。

私は言われるままに連れて行かれる。

行き先は、何だかかなり深い地獄らしい。

悪霊になってから、殺した人数が多すぎる、と言うのが原因だそうだ。

なお、両親も同レベルの地獄に落ちているそうで。

それを聞くと、若干かちんと来た。

あれと同じレベルの地獄とは。

随分不愉快だな。

「彼奴らよりはマシだとは思いますがね」

「ああ、途中まではな。 途中からは無差別殺人に切り替えたのがまずかった」

「それは説明したとおり、半分無意識でやっていましたが」

「情状酌量の余地は無い」

そうかそうか。

いずれにしても、よく分かった。

死んでから介入するのでは遅すぎる。

実際問題、現世は悪くなる一方では無いか。

現世が悪くなれば、それは地獄にはたくさんたくさん人だって来るだろう。まず、どうにかして。

現世をよくするように働きかける。

それが大事なのでは無いのか。

案内された地獄。

其処では。極めて原始的な拷問が行われていた。

焼いたり切ったりすりつぶしたり。

しかも、殺した先から亡者は再生している。

私は悪霊だから、同じか。

関係無いね。

そのまま私は、何の躊躇も無く、燃えさかる凄まじい炎の中に踏み込んだ。全身が瞬時に丸焼きになるが、どうでもいい。

何度も何度も。

数え切れないほど丸焼きになる。

鬼に、炎の中から引っ張り出される。

「お前、頭おかしいな」

「生憎何も知らないもので。 それで、次は切り刻むので?」

「あれだ」

巨大な臼があった。

すりつぶすらしい。

躊躇無く、私はそれに飛び込む。

一瞬でミンチになるが。

そのミンチになる瞬間、凄まじい痛みが全身を襲う。

でも、どうでもいい。

すぐに元に戻って、臼から排出される。

そういえば、ズタズタにされても、丸焼きにされても。服は一瞬で元に戻っているものなのだな。

苦笑した。

何度も臼に飛び込んでいると。

鬼が止めた。

「駄目だなこれは」

「何がですか。 どんどんやってください。 此方としては、さっさと何もかも終わらせたいので」

「お前は何もダメージを受けていない。 亡者は此処で精神をすり減らして、それから真っ白になって輪廻の輪に戻っていく。 お前はダメージをまったく受けないから、精神をすり減らすも何も無い」

「そんな事を言われても困ります。 拷問をするのが此処のルールでしょう」

待っていろ。

そう言われると。

私はいきなり檻に放り込まれた。

周囲は阿鼻叫喚。

悲鳴を上げる亡者が、凄まじい拷問にさらされている。

面倒だな。

とっととあれと同じ拷問を加えて終わりにしてくれればいいのに。

 

ほどなく。

凄まじい巨大な鬼がやってきた。

話を聞くと、もっと深い地獄の鬼だという。

「この者か」

「はい。 まったく此処での拷問が意味を成しません」

「どれ」

その巨大な鬼が指を鳴らすと。

私の全身を、一瞬で青い炎が包んだ。

今までとは比べものにならない痛みが全身を覆うけれど。

だからなんだ。

即座に再生する体。

平然としている私を見て。巨大な鬼は、呆れたように口を開けた。

「本当のようだな」

「無間地獄に連れていきますか」

「いや、それでは意味がない。 そもそも地獄という場所は、亡者に適切な罰を与えて、輪廻の輪に戻すための施設だ。 それが出来ないのでは意味がない。 恐らく拷問以外の手段で、精神を削るしか無いだろう」

「何かマニュアルは」

困り果てている鬼達。

巨大な鬼が、何かの装置を使って、連絡を開始。

私は半笑いで、その様子を見ていた。

何だか滑稽だなと思ったからだ。

此奴らは、地獄というものさえ、まともに廻せていないことになる。私がおかしいというのもあるのだろうけれど。

たかが罪人一人。

きちんと裁けなくてどうするというのか。

私自身も、無実を主張するつもりはない。

実際問題、両親に関してはまったくの無実だと思うが。それ以降については、確かに罪ではあると思うからだ。

無差別殺戮はまずかったなと、今になってみれば自分でも思う。

だが、それならそれで。

さっさと罰を与えてくれればいいものを。

それさえ出来ないのは、見ていて歯がゆいを通り越して、強い苛立ちさえ感じる。

さっさとしてくれないかな。

ぼんやりとやりとりを見ているが。

やがて巨大な鬼が、連絡を終えたようだった。

「お前はいっそのこと、システムに組み込んでしまう方が良いという話になった」

「システムですか?」

「簡単に言うと、運命を使い果たした人間の命を、現世と切り離すシステムだ」

「死神みたいなものですか?」

その通りだと言われる。

それはそれで良いかもしれない。

ただ、ルールに従って、死神としての仕事をしなければならないとかで、色々精神をすり減らす仕事だという。

どんな善人でも。

どんな状況でも。

指示に従って殺さなければならないのだ。

私は、鼻を鳴らした。

どうでもいいからである。

「構いませんよ。 それを受けます」

「……化け物だな、お前は」

「誰がこんな化け物を育てたんですか」

自分が化け物だと言う事は自覚している。

というか、後天的に化け物になった。

狂った世界と。

それに何もしない世界が。

私を作り上げた。

それも短時間で。

結局の所、私は一人だけでは無いだろう。こういう狂った存在は、これから幾らでも出てくるのは間違いない。

そして世界は終わる。

別にこんな事、わざわざ口に出して言うことでもない。

予言ですら無い。

規定の未来だ。

世界が終わったとき、この地獄とやらはどうなるのだろう。

どっと地獄行きのクズ共が押し寄せて、一瞬でパンクするのか。

それとも、それらを処理し終えたら、もう仕事が無くなるのか。

どっちにしても、私にはどうでもいいか。

檻から出されて。

連れて行かれる。

勿論抵抗するつもりは無い。

ちなみに拷問そのものは、体感時間で100年くらいは受けていたけれど。実際に経過していた年月は、数分だとか。

数分で見切りをつけるくらいの判断力があるのなら。とっとと現世に介入して、少しはマシにしてくれ。

私は、地獄を管理している奴に、そう面罵してやりたかったけれど。

それが出来るほどの地位のある奴は、今の時点では目にしていない。

あの巨大な鬼だって、公務員としての一人に過ぎないだろうし。

式服のおっさんだって、そんなには偉くは無いだろう。

要するにそういう事だ。

暗い道を、鬼に連れられて歩く。

周囲には、苦悶の声や。

絶望の声が満ちていた。

「何ですか、此処」

「地獄から吸い上げた力を、此処で返還して、現世に戻している」

「そうですか。 その割りには、現世は地獄より酷いですね」

「それは人間の努力が足りないからだろう」

そうですかそうですか。

随分と勝手な話だ。

人間なんぞ、石器時代からオツムの中身が変わってないだろうに。努力したってどうにかなるものかあんなカス生物。

人間の進歩なんて信じているのか。

数十人を食らってよく分かったが。

此奴らは、基本的に技術だけ奇形的に進歩しただけで。古代から脳みそなんて何一つ変わっていない。

そんな無駄な生物の努力を促すこと何て。

それこそ無駄だ。

他の生物が迷惑するだけだろうに。

やがて、辿り着いたのは。

前より偉そうな式服のおっさんがいる屋敷。

色々と説明を受けている間。

私は跪いて頭を垂れていたけれど。

それが何だと言わんばかりに。

式服のおっさんは言うのだった。

「それくらい壊れている方が、死神としては適任だろう。 まともな精神の持ち主には耐えられぬ仕事だ」

「分かりました。 ただし、監視をつけるという形で」

「そうせよ」

「……」

鬼が下がる。

私は、首に何かわっかをつけられて。

そして別の施設に案内された。

指示されたとおり、人間の命を運命から切り離せ。それだけが、お前がするべき事だ。そう言われる。

死神も神だろうに。

その割りには随分と不自由だ。

姿は今までと同じで構わないそうである。

それは要するに。

面倒くさい事極まりないけれど、何も知らないで親の引いたレールに載せられて。親の自己満足の餌食だったヒョロヒョロ女のままでいろと言うことか。せっかく神とかになったのに。

何だそれ。

その方が、私にはよっぽど屈辱的だが。

まあそれも罰の一つなのだろう。

自分は潔白だとか。

正しいとか、思った事は無いし。

これが罰なら甘んじて受けよう。

むしろ、その方が。

私としても納得がいく。

実際問題、大量虐殺は、今になってみればちょっと反省もしているのだ。罰を受けろというのなら受けるし。

罪があると言われれば、その通りと答えるだけだ。

 

数日の講習を受ける。

死神はとてもストレスフルな仕事で。それぞれが、やはりどうしても命を絶ちたくなくなるケースが多発するため。

人材はどこからでも募集しているという。

やり方はとても簡単。

切るべき状態になった運命は提示されるので。

その場で切る。

それだけだ。

渡されたのは、サイズとかの鎌ではなくて。

えげつなく巨大で。

鮮血に塗れていそうな、鋏だった。

これは何というか、死神によって渡される武器が違ってくるのだという。

長柄の鎌が渡される死神もいるし。

私のようなえげつないのが渡される死神もいるそうである。

服装については、ちょっと代わった。

全体的にうっすら発光している、翠色の、着物みたいな奴である。これが制服になるらしい。

とはいっても、だ。

その制服も、死神によって違うそうだ。

私の場合は、元罪人を示す制服だそうで。

そのうち、実績を上げていけば。

服を自分で好き勝手にすることも許されるとか。

まあどうでもいいが。

とにかく、指示された地域に出向く。

家に入り込むと、既に虫の息の老人。見えている、糸。この糸が、運命か。

周囲には、悲しんでいる家族。

私は、淡々と。

糸を切り取った。

ばちんと、思ったより大きな音がした。

そして老人の魂は、自分から、地面の底へと沈んでいった。

渡された手帳を見る。

一人目に、赤いマークがついた。

処置完了、という意味だろう。

とりあえず、次々。

次は。道ばたで歩いているカップル。

別にそれそのものは良いが。

後ろから、トラックが。凄まじい勢いで突っ込んできている。トラックに乗っているおっさんは。どうやら徹夜で走っているのか、船を漕いでいた。

あっと思った時には、もう遅い。

歩道を歩いていたカップルは、一瞬にして吹っ飛ばされ。

男の方はタイヤに巻き込まれてミンチに。

女の方は、上下真っ二つになって、上半身はコンクリート塀に突っ込んで其処でぐちゃぐちゃになった。

淡々と死体の側で糸を切る。

ばちん、ばちん。

二つ分の糸を切ったので、結構大きな音がする。

そして周囲を見るけれど。

本当に誰も此方には気付いていない。

ちょっと面白いなと、私は苦笑したが。

それより先に、さっさと仕事を進めていくのが任務だ。それにしても、この程度の事。何がどうしたら精神を病むのか。

次。

冬空にたたき出された子供が、素足で歩いている。

親による典型的な虐待。

服も汚れきっていた。

雪が降り始めている。

それなのに、親は躾と称して、子供を外にたたき出したのだろう。

うちの親と同レベルの輩だ。

そして、これらの行為は。

児相に相談しても、解決しない事が大半だ。

それについては、死んでから、色々食らっている間に知った。私が食らった子供らは、みんな児相に相談したが。

親に縊り殺された者達だったし。

それに相手が金持ちの場合。

児相は相談されても動く事は無いだろう。

実際問題、うちでは三人兄妹が、全部まとめておかしな事になっているのに。警察が捜査どころか、児相も全く動かなかった。

そんなものだ、この世は。

子供は、やがて力尽きたのか。

自分からふらりと、どぶ川に落ちて。

そのままドブンと音がした。

急激に体が冷え込み。

そして命が尽きる。

糸をバチンと切ると。

子供の魂とやらも。地面にしみこむようにして消えていった。

また次だ。

順番に、黙々と。

命を絶ちきっていった。

 

3、それでも登ってみよう

 

淡々黙々と仕事をし。

ノルマ通りに命を絶ちきっていた私は。

不意に呼び出しを食らった。

何か問題でも起こしたか。

小首をかしげながら、出向くと。

最初に、死神になった時。私に対して、接してきた、式服の巨大なおっさんのデスクだった。

どうでもいいので、早々に用事を済ませて欲しいと言うと。

頬杖をつきながら。

式服のおっさんは言う。

「死神としての成果は大したものだが、まったく罰になっていないな」

「そうですか? 私としては、あんな恥ずかしい服着せられて、あんな恥ずかしい生きていたときの姿のままうろうろしているだけで、充分に苦しいんですが」

「そんな程度が罰になるか!」

「はあ」

一喝されるが。

そんなもの、文字通り蛙の面に小便だ。

呆れたように頭を掻くと。

式服のおっさんは、書類を放って寄越した。

おっさんからみれば豆粒ほどの小さな書類だろうに。正確に私の所に届くのだから、大したものだ。

「辞令ですか」

「直接拷問は効果無し。 罪悪感を覚える仕事も罰にならない。 そうなると、単純に汚い作業が良いかという結論になってな」

「はあ。 躍起ですね」

「それが私の仕事なのでな」

苛立ち紛れに。

式服のオッサンが言う。

まあ分からないでもないか。私は恭しく、書類を受け取ると。その「汚い仕事」をするべく。指示された場所に向かう。

死神は死神で面白かった。

人間の運命を見下ろしながら。

黙々淡々と刈り取っていく。

多分コレは、完全に汚れ仕事の筈だが。

それ以上に汚い仕事というと、何だろう。

むしろわくわくする。

単純に汚泥か何かの処理か。

それとも、もっと汚い仕事にでもなるのか。

別に汚いものが問題ない事くらい、向こうは分からなかったのだろうか。何しろ私は。恐らく人類世界の中でももっとも汚辱に塗れた世界にいたのだ。自分を「勝ち組」と称して、「何をやっても良い」と考えている親の元に生まれ。周囲を全部敵と見なし、周囲を踏み台にしろと子供に教えるような親の所で育ち。

一回の失敗だけで殺された。

そんな所にいた人間が。まあ今は元人間だが。

汚物の処理くらいで、音を上げると思ったのか。

さて、辿り着いたのは。

悪霊の処理施設。

これはウケル。

私も悪霊そのもの。というか、今ではもはや邪神とでもいうべきだろうが。それでもこういう仕事が来るのか。

まあ下位とは言え邪神だから。

悪霊の処理には手慣れている、とでもいうのか。

それとも、邪神でさえ鼻をつまむものを処理する、最悪の仕事、とでもいうのだろうか。ふふ。

どっちにしても過小評価だ。

中に入ると。

真っ青な顔をした鬼達が、仕事をしていた。交代制のようだけれど。相当に精神が参っているらしい。

所長らしい人物に会う。

辞令を見せると。

鷹揚に頷く。

「地獄なんてのは、天国だ。 此処は本物の地獄だ。 それだけは知っておけ」

「望むところです」

「……仕事の内容だ」

ざっと目を通す。

要するに、悪霊が見てきたこの世の業を浄化する施設なのだ。私のように捕獲された悪霊は、その後色々と行き場が別れるのだけれど。

もう正気を完全に失っていて、地獄に送っても意味がない悪霊は、此処に放り込まれるらしい。

なるほど。

大体分かってきた。

奧の処理施設に行く。

其処では、無数のガラスシリンダがあって。

その中に、大量の人型が蠢いていた。

いずれもが、人にして人に非ず。

頭が複数あったり。

全身が触手の塊だったり。

狂気の塊みたいな形をしていた。

なるほど、悪霊として、正気を失って暴れていると。いずれこういう姿へと変わっていくのか。

これは悪霊と言うよりも。

もはや妖物の類だ。

私もこうなっていれば良かったのになあと、素直に感想が出る。勿論口にはしないけれども。

機械的な処置をして、業を抜いていくのだけれど。

その時、悪霊達が呪いの言葉を垂れ流す。

鬼達は、それを聞いて、精神を痛めつけられているようだった。

悪霊達は、いずれもが、死ぬまでにこの世の地獄を見てきた連中だ。私が実際に行ってきた地獄なんて。

この悪霊達が見てきた地獄に比べれば。

天国と言うも生ぬるい。

そしてその地獄が、垂れ流される中、作業をするのだ。

硝子ケースみたいなものには、防音措置らしいのがされているようなのだけれど。悪霊達も、相当に頭に来ているのだろう。色々と、怨念を垂れ流し。凄まじい形相で此方をにらみつけながら、色々と言う。

私は、にっこり笑顔。

こういう職場を待っていた。

凄まじい汚泥に満ちた言葉。

だが、そんなもの。

私がいた場所に比べれば、ぬるま湯に等しい。

黙々淡々と処理をして。

ノルマの二倍の作業を、初日から完遂。完全に業を抜き去ると、悪霊は人型に戻って。そして魂になると、また現世で新しい命に宿るべく戻っていく。手を振って、それを見送る私。

所長は、苦虫を噛み潰していた。

「さあ、明日からもこの仕事を任せてください」

「……」

「天職です、これ」

「化け物め」

吐き捨てられる。

なんでだろう。

私が化け物だとしたら。

今、現世で跳梁跋扈している連中は。

社会の上層を独占している連中は。

何なのだろう。

邪神か。

それとも、名前を呼ぶことさえはばかられる存在か。

そういう連中を好き勝手に横行させたのは誰だ。今、昼寝している神ではないのだろうか。

「化け物なんて可愛いものになれるんなら、どんどんしてください」

「……考えておく」

それから、此処での仕事が始まった。

 

朝早くから。

私は、三人分の仕事をする。

他の者達は、大体が地獄の鬼だが。相当に神経が参っているようで、病欠も珍しくない。

何より此処があまりにも職場としてきついと聞かされているからだろう。此処に好んで来たがる者もいない。

というわけで。

私が滑り込んで。

三人分働くようになり。

嬉々として仕事をするようになると。

この職場では、私は完全に必要なパーツとなった。これでいい。面倒な他の仕事に、わざわざ移らなくても良くなる。

私は、再び。

高みから見下ろせる場所に陣取った。

これは良い気分だ。

まず、出勤後、悪霊達の様子を見に行く。死神を一度経験しているくらいだから、人間なんて比較にならないスペックで移動出来る。

十万を超える悪霊の様子をチェックした後。

淡々と。

作業を進めていく。

業を浄化する作業開始。

他の鬼達は、みんなそれを見ると、さっと部屋から出る。私が躊躇無く、全部の悪霊の業を浄化し始めるからだ。

当然、その場には凄まじい憎悪と恐怖、怒りと絶叫がみちる。

悪霊達が、いずれもが、呪いの言葉を叩き付けてくる。

その中にはスラングや、性的な罵倒も混じっている。

だが、それがなんだ。

結局私は性的な経験がないまま死んだが。

そんなもんどうでもいい。

何より、である。

おぞましい姿で、汚泥に満ち。

此方に、あらん限りの呪いをぶつけてくる様子が、心地よくて仕方が無い。

私は死神を経て。

今や邪神と呼ぶべき存在になっているのだろう。

舌なめずりしながら、憎悪と呪詛。

怨念と怒り。

全てを真正面から受け止めていく。

むしろこれほど心地よい賛美歌はないだろう。賛美歌なんて、生きている間に聞いたことも無かったけれど。

それは断言できる。

ああ。

これぞまさに、至福のひととき。

やがて、業の抽出が終わる。

三ヶ月分の作業を一日で終わらせた私は、肩を叩きながら。満面の笑顔で部屋を出る。鬼達は、さっと私に道を譲った。

所長の所に出向く。

「全部の悪霊の業を浄化しておきましたよ」

「全部だと……」

「102987体全部。 お代わりを入れておいてください。 明日全部処理しますから」

「……分かった」

所長も青ざめている。

他よりずっと図体がでかい鬼だろうに、情けない。

自宅として提供されているアパートに戻る。

ちなみに途中の移動は歩きだけれど。

マッハ16万くらいで歩けるので、何ら問題ない。一瞬で家に着くと、鼻歌交じりに、生前できなかったことをする。

まずはスマホで、いろんなSNSを見る。

地獄にもSNSはあって。

いろんな鬼達が、職場の愚痴を言い合っている。

神々もSNSには参加している。

人間世界をどうするかで紛糾しているのだけれど。

いっそのこと、全部消し飛ばしてしまえば良いだろうに。私はそれで大賛成だ。直径三十キロくらいの隕石でも落とせば一発である。確か太陽系には幾つかそれくらいの小惑星があるので。

そいつらを地球にぶつけてやれば良い。

それで人類は全滅。

綺麗に全ての片がつく。

更に言うと、あの世というのも、宇宙全土でつながっているらしく、地球なんか無くなったってどうでもいいらしい。

それならさっさと消してしまえば良かろうに。

面白くなってきたので、SNSに色々書き込む。

人類の抹殺方法について。

隕石を落としたり。

天然痘をばらまいたり。

手はいくらでもある。

特に天然痘は、まだ奥地で眠っている変種がいる可能性がある。これがまた再感染しはじめると、人類は滅ぶ可能性が高い。

それらを嬉々として書き込むと。

周囲の連中は戦慄していた。

「お前、地球の出身者だな」

「その通りですよ」

「だろうな。 その狂気に満ちた思考回路、地球人そのものだ」

「お褒めにあずかり光栄です」

一通り楽しんでから、眠ることにする。

天職にはありついたし。

何もかも好き勝手に出来るようにもなった。

個人情報も何も。

私にはそもそも、最初から失うものが一つも無い。

昔はあったかもしれない。

それも両親が全て奪い去って行った。

だからどうでもいい。

今の私は。

ただひたすらに、白刃の上で舞い続ける、狂気の塊だ。

そして芸事というものは。

それが頭がおかしいほど。

周囲からは面白く見える。

私としても面白い。

狂った芸事を続けるのは、こうも楽しい。なお、炎上しているのを見ると、とても愉快だ。

相手が義憤に駆られて怒っているのはよく分かる。

だが、私は知っている。

地球人なんぞ。

義憤に駆られるような価値のある相手では無い。

だから、そんな相手に本気で怒っている様子が、滑稽でならない。

石器時代からまったく進歩せず。いや進歩しようという気さえ持たない滑稽な肉の塊の群れ。

それこそ本当に。

隕石でも落ちて滅びれば良かろうに。

散々楽しんだ後。

寝ることにする。

そういえば、今の私は、やはり公式には邪神なのだろうか。

良いだろう。

大いに結構。

地球の価値観で邪神というのなら。

それはもはや、むしろ光栄というものだ。

 

職場に出る。

同僚達が、私を露骨に怖れているのがよく分かった。彼奴は超ド級にいかれてやがる。そんな声も聞かれた。

いいねえ。

もともと、まともと自称する連中こそ、狂気の塊だった世界から私は来たのだ。

いかれていると言われるのは、むしろ大歓迎。

もっといえ。

むしろそれらの言葉は。

私に取っては、褒め言葉にしかならないのだ。

今日も出ると。

補充されていた大量の悪霊を、一気に浄化する。

勿論凄まじい呪いの声が周囲から飛んでくるが。

むしろ心地よいそよ風だ。

私に取っては、気持ちいい。

呪詛も。

怒りも。

呪いも。

ただの気持ちの良い交響曲第九番。

よだれを拭う。

何度か、実際にそうしていた。

生きている間に、これをやりたかったな。人間を手当たり次第に捕まえて、あらゆる拷問を行い。

そしてその悲鳴を聞く。

あの両親から生まれた子供なのだと。

今更ながらに私は悟らされる。

言うまでも無いが。

あの両親も、多分同じような嗜好の持ち主だっただろう。

それにもかかわらず。

社会では「優れた人材」とされ「常識人」を自称し。「負け組」を虐待する事を正当化し。

自分たちを「リアリスト」と称していた。

私は、それらの結晶。

ああ、なんと心地よいのか。

これならば、私は。

それこそ、いつまでも、此処で働きたいくらいだ。

仕事完了。

もう此処で、私一人で作業を全て終わらせてしまえる。というか、物足りないくらいである。

所長の所に出向く。

どうしてか、私の足下は。

ふわふわと弾むようだった。

所長は私を見ると、鼻白む。

「ものたりません。 もっと追加して貰えませんか」

「自分を見てみろ」

「はあ」

鏡を見せられる。

そして、おうと、思わず喜びの声を漏らしていた。

既に私の下半身は。

人のものではなくなっていた。

タコとでもいうのだろうか。

無数の触手が絡み合い。もはや形容もしがたい形状となっていた。

「短時間で呪いを浴びすぎたからだ。 お前は、地球で騙られる邪神に、ますます近づいて来ている」

「地球にいきたいですね。 そして人間共を皆殺しにしてやりたい」

「思考回路も完全に邪神に落ちたな。 もはや、お前を此処で働かせる訳にはいかないな」

「天職というか、私が此処にいると、作業が凄く効率化しますよ」

皮肉めいて肩をすくめると。

所長は怒りに顔を青ざめさせた。

「確かに効率は上がるだろう。 だが危険が大きすぎる。 お前は狂った環境で育った、狂った怪物だ。 もはや何処かに閉じ込めておくしかないのかもしれない」

「閉じ込める? 良いでしょう。 地獄でも、タルタロスでも、何でもお好きなように」

「連れていけ」

鬼が数人、私の周囲を囲む。

あれ、何だろう。

此奴らくらいなら、畳める気がする。

だけれど、抵抗しようとは思わなかった。

此奴らに抵抗しても意味がないし。

何よりも、「閉じ込められる」という行為が、それはそれでとても楽しそう、だと思ったからだ。

そのまま連れて行かれる。

途中、話を聞く。

「時に貴方たちは、地球での実情は知っているんですか?」

「知っている。 大体の連中は、地獄に落ちる時代になったな。 地獄の者達が、皆過重労働だと悲鳴を上げている」

「だったら、いっそのこと、全部まとめてすりつぶしてしまえば良いのでは? どうせ更正の見込みなんてないでしょう」

「お前と違って、我々は最後まで更正の可能性を考える。 地球人類と一緒にしないでもらおうか」

くつくつ。

笑いが漏れる。

確かに此奴らは地球人類とは違うか。

地球人類は此奴らとは比べものにならないほど残虐で愚かだ。地獄の鬼が、青ざめて引くほどに。

でも、私くらい狂っている奴なんて。

他にも幾らでもいる筈。

そうだ。

自分を常識人だとか称している連中は、大体私と同レベルか、それ以上に狂っているではないか。

そんな連中が私のようになって暴れ始めたら。

どうなるのだろう。

それはそれで面白そうだ。

連れて行かれた先は。

地獄の最深部。

豪奢な建物には。

恐らくだが。閻魔大王と思われる奴がいた。

情報は、この体になってから急激に吸収している。閻魔大王は、何人もいる地獄の裁判官の中で、一番偉い存在。

地球でいうなら最高裁の裁判官だ。

最初に死んだ人間で。

神話上では、それが故に死者の中で一番偉いとされている。

まあどうでもいいが。

とにかく、その巨大な閻魔大王は。

式服を着て、とにかくでかい机について。私を見下ろしていた。

私を連れて来た鬼達は。

私を汚物か何かのような目で見ながら離れていった。

まあそうだろう。

気持ちは良く分かるよ。

怖くて仕方が無いだろう。

「地球の文明は、かくもおぞましい怪物を作り出してしまったか。 そろそろ終焉を引き起こすときかも知れないな」

「終焉を引き起こすなら、私にやらせて貰えませんか? 人間だけ駆除すれば良いのなら、私がやりますよ」

「黙れ。 そなたは何もない闇だけの世界に幽閉する」

「ふふ、それも素晴らしい。 じっくり自分だけで、色々と考える事が出来る。 これは素晴らしい事ですよ」

私が心底喜んでいる様子を見て。

閻魔大王は、あきれ果てて頭を振ったようだった。

また、叩き落とされたが。

私は別に何ら痛痒を感じていない。

叩き落とされても、叩き落とされるほど。

私は強くなっている。

今度は闇だったか。

それはそれで面白い。

闇の中で、周囲に誰もいないのなら。

それは私が。

其処で文句なしのナンバーワンであり。私だけが最高の場所に立っている事を意味しているのだから。

 

4、何度でも登るよ

 

私が幽閉されたのは。

本当に闇の中。

いや、これは無とでもいうべきなのか。

音もないし。

光もない。

そして私は、そもそも人間としての形を失いつつあり。現在進行形で、その姿は変わりつつあった。

情報はいくらでもある。

私の中に。

だからそれを循環させ。

幾らでも楽しむ事が出来た。

短時間だったが、大量の情報を取り込んだのだ。あの悪霊達から。

膨大な負の思念は。

私に取ってはごちそう。

それと同時に。

私の中には、無数の悪意と。

おぞましい邪悪が蠢いていた。

だけれど、それこそが人間だ。

よく分かっている。既に私は、完全に理解している。今のこの姿こそが人間の精神そのもの。

私は深淵そのものとなった。

神々でさえ名前を呼ぶのを嫌う存在。

名前さえ隠された存在。

だから私は「私」であって、それ以外の何者でも無い。元が人間だったかも、正直疑わしい。

お受験とか言うレールに載せられ。

親の自尊心を満たすためだけに金をつぎ込まれ。

いらないと判断された途端に、あらゆる手段で殺された。

それが私だ。

人間の業が集約された存在。

故に地獄はむしろ楽園。

そればかりか。

汚泥と汚辱は、むしろ私に力ばかりを与えた。

その結果、人間としての形状は失ったが、そんなものはどうでもいい。元からそんなもの、周囲の誰も見ていなかったし。

人間として何て。

誰かが私を扱っていたか。

実の親でさえ、人間として扱っていなかった私だ。

深淵として君臨するのは。

自然な流れと言えるだろう。

しばらく、まどろむ。

ぼんやりとしていると。

やがて声が聞こえた。

「深淵の偉大なる神よ!」

ほう。

私を呼ぼうというのか。

誰だろう。

誰が私を呼ぼうとしているのか。

そういえば、どれくらい時間が経った。情報を循環させて、この何も無い世界を一人で楽しんでいたのだけれど。

ちょっと体内での時間経過を調べて見ると。

なんと120000年も経過している。

コレは面白い。

呼んでいる声に耳を傾けていると。

地球から、のようだった。

「我等に力を!」

「ほう」

声のする方に耳を傾ける。

どうやら地球の人間共は、私のいる場所をどうやってか探し当てたらしい。地獄でももてあまして、こんな空間に幽閉したのに。

人間の知恵は。

やはり悪い方向にばかり進むものだ。

その声を頼りに。

無を出てみる。

暇つぶしだ。

そして、私は、降臨する。

歓喜の声で私を呼ぶゴミクズどもを。触手を一振りして、全部まとめて薙ぎ払う。当然、何が起きたかも理解出来ず、全部即死した。

しかも触手の一振りで、半径十キロ以上が消し飛んでいた。

そして、残骸を食らった。

さて、周囲を、無数の目で見回すと。

おお、これはこれは。

どうやら文明は一度消滅したようだ。まったく前の文明の痕跡が無い。違う文明になっている。

核戦争でもやったのだろう。

まあどうせもたないだろうと思っていたが、たかが120000年程度でこうなったのか。

そして、私を喚ぶような連中だ。

120000年経っても。

結局頭の中身は、一切進歩しなかった、という事だろう。

あははははははははは。

嗤う。

心の底からの快笑だ。

私の考えは間違っていなかった。私を産みだした人間こそ、本物の化け物だったのだ。この結末は当然だとも言えた。

結局、神々は人間を信じた。

その結末がこれか。

浮き上がると、情報を収集。

どうやら地球には、人間達が自分で一度宇宙コロニーを叩き込んだらしい。対立勢力同士の抗争の結果だ。

その結果、氷河期が到来。

人類の99パーセントが死んだ。

更に、宇宙に出ていた人間達も、環境の急激な変化に対応出来ず、絶滅。文明は崩壊した。

それから環境が戻るまで10万年。

そして20000年掛けて。

石器時代からやりなおした、という結末らしい。

そうかそうか。

資源だけ無駄に食い潰し。

自分たち以外の種族を散々巻き込んだあげく。

地球レベルでの環境破壊を引き起こして。あげく最初からやりなおし。

人間賛歌とは何だったのか。

むしろ、深淵を崇拝していたのでは無いのか人間達は。

不意に声が聞こえてくる。恐らく、この世界の最高神の声だろう。抗しがたい圧倒的な力を感じる。

「汚辱の塊よ! どうして深淵より出ている!」

「喚ばれたから」

「戻れ」

「分かっていますよ。 ふふ、でも覚えておいてください。 私を喚び出したのは。 その辺で散らばっている人間共だと言う事を。 そして何度でも此奴らは、同じ過ちを繰り返すと言うことを」

相手は問答を無用と判断したのだろう。

私を強制的に封印に掛かる。

まあ別に良い。

私自身、外の世界にも。

人間がどれだけ腐っているかにも。

あんまり興味は無い。

というか、人間がどれだけ腐っているかも。進歩もしないかも。こうやって、自分自身で確認できた。

今薙ぎ払った連中の魂は一瞬で食らったが。

此奴らは自分の栄華のためだけに。

無数の生け贄を捧げ。

私を喚びだした。

つまり、そういうこと。

結局の所、この時代でも。

社会の上層に立つ存在は、自分の事だけを考え。弱者を虐待し。「勝ち組」が「負け組」を虐待する事が当たり前で。

それをやる人間が「常識人」とされる。

そういうことだ。

闇に戻りながら、私は嘲笑する。

これならば、私は今後更に増え続けるだろう。

手を下すまでも無い。

すぐに第二第三の私が現れる。

そして私の手は。

すぐ側へと、さしのべられるのだ。

 

暗い部屋の中。

閉じ込められている子供が、虚ろな目で天井を眺める。

両親に売られて。

ここに来た。

裸にされて、滅茶苦茶にされて。

抵抗したら、殴られて。

知らない言葉で罵倒されて。

そして閉じ込められた。

外では多分、殺そうという相談をしているのだろう。糞便も垂れ流し。食糧も得ていない。

もう随分。

水さえ飲んでいない。

ぼんやりとしていると、流れ込んでくる。

それは喚ぶ声。

こちらにおいで。

でも、それを聞いて、子供はせせら笑う。

そして、答える。

いくまでもない。

声は嗤った。

そうかそうか。ならば、其処で高みに登るが良い。私と同じように、闇そのものになるがいい。

人間として、「常識人」を気取る者達が作り出した化け物よ。

世界そのものに復讐してやれ。

分かっている。

そのつもりだ。

次の瞬間。

死にかけていた体は爆ぜ割れ。閉じ込められていた家そのものを吹き飛ばし。家にいた人間を瞬時に皆殺しにすると。

ふくれあがっていく体で。

元子供は高みに向けて絶叫した。

復讐だ。

何もかも殺してやる。

掴んでやるぞ。

全ての高みを。

逃げようと逃がすものか。

何処にいようと殺してやる。

金なんぞどれだけもっていようと関係無い。むしろ、持っている奴から殺してやる。悪行を為すのが人間だというのなら。

自分こそが人間だ。

雄叫びを上げる、ふくれあがる肉体は、見る間に山ほどにまで巨大化し。周囲の全てを食い尽くしていく。

それを見て、さらなる高みから。

いや、さらなる深淵から。

誰かは笑い続けていた。

さあ、登ってこい。

登ってこい。

 

(終)