無敵伝説の終焉

 

序、大規模包囲網

 

清で可先と合流した連白は、八万に膨れあがった軍を率いてそのまま南下。明の国境線に入った。

山霊がいる。

ただし、山霊だけだ。

周嵐はまたしても明にて蜂起した法悦を追って各地を転戦。

于栄は龍剣とともに宋へ。

官祖は周を守っている。

後は聞いた事もろくにないような小物の武将ばかり。ただし、それらを山霊が率いていることが脅威になる。

山霊の軍は一万から一万五千程度だが、此方が八倍だからと言って舐めてかかれない。

相手は山霊。

いつも的確な助言を龍剣にしており。

もしもその助言を龍剣が聞いていたら。とっくに中の世界の趨勢は定まっていただろう、優れた戦略眼と識見の持ち主だ。

張陵が敵の布陣を見て戻ってくる。

石快も連れていたと言う事は。

これから仕掛けると言う事か。

連白はまず報告を聞く。

張陵は頷くと、報告をしてきた。

「これは攻められませぬ」

「詳しく」

「敵は恐らく相当前から備えていたのでしょう。 陣は一見するとただの野戦陣地ですが、陣には複雑な防御設備が多数見受けられ、城と同じにございまする」

「城だとすると、八倍の兵力差でも油断できないな」

頷く張陵。

城攻めには三倍の兵力が最低でもいると言われている。十倍なら囲めというのは七国時代の軍師の言葉だったか。

いずれにしても、敵よりだいぶ兵力が多く無ければ、囲んではいけない。

韓新のような規格外なら兎も角。

連白はそこまでの司令官では無いのだから。

「それで、手をこまねいて見ていると」

「いえ。 龍剣が間もなく敗れまする」

可先の言葉に、張陵が応える。

思わずえっと声が出たが。

張陵は薄く笑うばかりだった。

「韓新から細作が来ておりまする。 無敵伝説を終わらせる時が来たと」

「勝てるのだな」

「間違いなく」

「そうか……」

溜息が漏れる。

連白は多くの兵士達をこのために死なせてきた。

だから、韓新が勝ってくれなければ困る。

困るのである。

いずれにしても、張陵は確信がなければこんな事は言わない。韓新もそこは恐らく同じだろう。

ならば、安心して持久戦をすればいい。

ただでさえ敵は宋を失って穀倉地帯を喪失している。

敵が養える兵力は全てで八万と計算が出ており。

唐に配置しなければならない守備兵などを換算すると、恐らくこの戦線を突破すれば勝ちは確定。

しかしながらそれを見越して山霊は備えている。

ならば、山霊と戦わなければ良い。

それだけだ。

持久戦の備えをしろと指示。

兵士達はてきぱきと作業を始める。

可先は不満そうだったが。

相手は山霊である。

まともに戦っては、多くの兵士を無駄に死なせるだけだ。

そう説得して下がらせた。

事実小手調べに先の戦いでは可先に三万の兵を任せ可先と戦わせてみたのだが。

山霊の率いる二千程度に翻弄され、撃退されてしまった。

可先が弱い訳では無い。

歴戦を重ねた将である。

要するに、山霊が優れているだけだ。

伊達に七国の時代から八十戦以上を生き抜いていない。

文字通りの古強者である。

そんな敵を相手にして。

馬鹿みたいに兵力を消耗しても仕方が無い。

何より兵士は生きた人間だ。

無駄死にはさせられない。

勿論要所では死んで貰わなければならないが。

指揮官の誇りだの何だので死なせてはいけない。

当たり前の話である。

連白はそのまま、張陵に指揮を任せて様子見。

山霊は予備兵をかき集めて来たらしい。細作の報告によると、一万五千で兵力は確定のようだ。その一万五千で守りを固めたまま、全く動く様子は見せない。細作が敵陣を調べているが、敵はいる。兵力を誤魔化してはいない。

張陵が鍛えた細作と、山霊が鍛えた細作がかなり激しくやりあっているようで。

連日被害が出ているようだった。

勿論山霊も此処で足止めをするだけが能では無いだろう。

何か仕掛けてくる可能性は高い。

山霊の恐ろしさは連白も分かっている。

故に、兵士達は無駄に死なせる訳にはいかない。

一週間ほど対峙が続く。

その間、法悦から定時連絡が入る。

何処で反乱を起こした。

これから起きる。

そんな報告ばかりだ。

徹底的に後方を荒らし回っているが、それが法悦の戦略価値である。龍剣が明を滅茶苦茶にしなければ、絶対に成功しなかっただろう行動である。

それにしても、本当に根っこから賊なんだなと思う。

連白にとっても。

正直な話、嬉々として畜生働きを自慢する法悦は、危険だとしか言いようが無いのだった。

そのまま対峙が更に続く。

連白としては、山霊を引きつけておく必要がある。

だから細作を使って激しい情報戦を敵と繰り広げるし。

時々攻撃するフリをして、敵を動かす必要もある。

こういう場合、手数が重要になるので。

数が圧倒的に少ない敵は、対応せざるを得なくなると、動きが鈍くなる。

夜襲は敵が攻めてきた夜に、というような話もあるが。

今回はそもそも可先が先に軽く侵攻作戦を掛けていることもあり。

至近に清の前線だった城もあり。

補給路が断たれる怖れもないので。

此方は悠々としていられるし。

警備も万全。

それに対して山霊は補給が怪しい明の地で。

後方で必死に反乱鎮圧をしている周嵐と連携しつつ。

此方の主力部隊を抑えなければならない。

此処で賭に出るとは思えない。

山霊は用兵家としては中の世界でも最上位に食い込む人間だが。

だからこそ、此処で冒険には出られないのだ。

いずれにしても、穀倉地帯である宋を失った敵を、こうやって引きつけているだけでも充分に意味がある。

連白も油断するつもりはないが。

もはや戦略的に勝った。

だから、静かに締め上げていけば良い。

問題は龍剣だが。

龍剣については、既に宋方面に出向いた事が分かっている。

明で法悦を一度追って。

それから反転して、一気に宋に入り込んだ様子だが。

十倍に達する韓新の軍に押さえ込まれ。

動きが取れずにいるようだ。

持久戦なら、何年でもつきあう。

龍剣はそれが出来ないからだ。

天幕に戻ると、軽く周囲に戒める。

「酒は控えるように」

「分かっております」

「兵の一部は後方の拠点にて休ませている。 そなた達も休暇がほしくなった場合は、申請を出すように」

将が一人や二人抜けた程度では。

別にこの軍勢にほころびなど出ない。

ただ数で平押ししているだけだが。

兵の質が尋常じゃ無いし。

何よりも張陵が鍛え。

龍剣と戦い。

鍛えに鍛え抜かれている。

龍一の軍は、敵を油断させようとして怠けて見せたが、それが本当に兵を怠けさせてしまい。

敗北につながった。

だが龍一の軍は、そもそも練度が足りなかったのだ。

結末と言えば妥当であり。

残念な話だが。

此方とは状況が違う。

張陵が来た。

「との」

「如何したか」

「何名か将軍を集めてください。 山霊が動きを見せています」

「此方に対する攻撃か」

違うと張陵は言う。

軽く会戦をして、此方の対応能力をみるつもりではあるのだろうが。陣を開けても大丈夫かどうか、判断するつもりのようだという事だ。

短期決戦に切り替えたのでは無い、と断言する。

張陵がそういうのであればそうなのだろう。

連白に反論するつもりはないし。

反論する材料もない。

二万ほどを出すと、敵も陣から三千ほどが出て来た。

山霊が率いているのが見える。

兵力差は七倍だが。

この間、可先が率いる三万を二千で撃退した山霊である。

油断など出来るはずが無い。

しばらく距離を詰めた後。

両軍が撃退した。

普通だったら、七倍の戦力差だと勝負になどならない。

だがここは野戦陣地の目の前である。

敵は大量の矢を備えている訳で。

下手に近付くと、陣地から大量の矢が飛んできて横撃され、思わぬ被害が出る可能性もある。

それどころか、陣から伏兵が湧いてくる可能性もある。

故に、攻めは慎重にならざるを得ない。

「敵陣に山霊を確認!」

「影武者の可能性は」

「いえ、ありえません」

「……分かった」

連白は後方で、戦いの推移を見守る。

山霊は見事な用兵を見せ、二万の軍に対して一歩も引かない。

攻め手には張陵もいる。

戦術家としての手腕は大して変わらないはずだ。

それでも見事に攻撃を凌ぎきって見せると。

此方の軍の一角を軽々突き崩し、陣に戻ってみせる。

攻めかかろうにも、整然とした陣からの矢による反撃を受けて、足を止めた味方は。

文字通りすごすごと逃げ帰るしかなかった。

張陵が来る。

連白は話を聞かせて貰う。

「想像以上の手腕です。 今まで山霊は参謀に徹していましたが、間違いなく龍剣麾下最強の将である事は疑いありません」

「龍剣が山霊先生と慕っているのも道理だな」

「はい。 龍剣が剛の究極なら、山霊は柔の究極と言えましょう」

ですが、と張陵は付け加える。

山霊は一人しかいない。

龍剣も一人しかいない。

既に劉処と鯨歩を失った以上。

龍剣の麾下には、山霊の後は周嵐、于栄、官祖の三名しかこれといった将がいない。

それは致命的な事だ。

何しろ、龍剣はただでさえ人望に疎く。

戦線が複雑化してくると。

もはや支えられる場所などなくなるのだから。

「それでどうする。 山霊は此処に釘付けに出来ると思うが」

「恐らくですが、そろそろ兵糧攻めの効果が出てくるかと思います」

「敵が撤退すると」

「いえ、勝負に出てくるでしょう。 龍剣が韓新に挑むか、一転して此方に来るか、どちらかになる筈です。 龍剣が来た場合は、韓新が宝に攻めこみます。 我が軍は、ただ持ち堪えれば良い」

持ち堪えろと言っても。

精鋭五万が蹴散らされた錐水での事を思い出す。

連白としても、あの戦いの結末は見ている。

敵にも大損害は与えたが。

此方も龍剣を倒すためなら死ぬと集まってくれた兵士達を、文字通り壊滅させてしまったのだ。

二度とあんな作戦は繰り返してはならない。

「持ち堪え、られるのか」

「お任せを」

「……分かった、信じよう」

「有り難き幸せ」

張陵が戻る。

石快が、側で言った。

「相変わらずですな。 白姉貴は、良くあんなバケモノを信頼出来るなと感心し通しでさ」

「信用はできるさ。 信用は」

「何だか含みがありますな」

「張陵は頭が良すぎる。 信用は出来るが、それ以上が出来ないのも事実だ。 それにしても、本当に手段を選ばないな張陵は」

嘆息する。

張陵が時々提案してくる非人道的な作戦に関しては。

連白が泥を被ってやらなければならない事もある。

連白については、皆が慕ってくれるから、それである程度は帳消しになるし。

何よりも、戦っているのがあの龍剣と言うこともあって。

連白に期待せざるを得ない人々も多いのだろう。

龍剣がいなくなったあとは。

また色々大変になってくる。

人々は多くを連白に求め。

それに答えなければならないだろう。

それだけではない。

何人か、「功臣」も処分しなければならない。

筆頭が法悦だが。

その他にも、動き次第では処分しなければならない者が出てくるはずだ。

色々と気が重い。

そもそも、龍剣だって話し合えるならそうしたいのだが。

そうもいかないだろう。

戦いの後は、また対峙に戻る。

簡庸には予備兵力がまだまだ幾らでもいるが。

全軍を一度に出す必要はない。

兵力の逐次投入は愚の骨頂だが。

現時点では、この戦場には充分過ぎる戦力が出ている。

これ以上兵を出しても意味がない。

兵糧については、気を抜くなと諸将に何度も言っている。

補給線を突かれたら、洒落にならないからだ。

だがその怖れもなく。

やがて、不意に山霊が陣を引き払い、後退を開始する。

追撃をすべきだという諸将の声を抑える。

張陵に偵察をさせる。

張陵はやがて戻ってくると、首を横に振った。

「どうやら山霊は、本格敵に持久戦に持ち込むつもりのようですね」

「詳しく頼めるか」

「この先に行くと、三つの城が存在しています。 其所に分散して兵を置くつもりのようです。 それに対して、我が軍はこの先にある小さな平原に押し込まれる事になります」

拠点としては極めて不利。

敵は三つの城で連携しながら、此方に対応が容易に出来る。

法悦による攪乱も、山霊がどの城にいるか分からない状態では難しいだろう。

「それでは進めない、というのか」

「無理に進んで、其所に龍剣が現れた場合対応しようがありません。 敵が戦略を使って状況を動かしてきたのなら、相手の有利な場所で戦う必要はありません」

「ならばどうする」

「矛先を転じます」

頷く。

張陵は机上にある地図で、周の東に指先を動かした。

「可先将軍、周の城攻めに入ってほしい」

「分かりました」

「残りの部隊は……」

張陵が、明の入り口付近を要塞化する案を提示。

諸将を工事などに割り振っていった。

この手際。

山霊の手を読んでいたのだろう。

勿論山霊も、張陵の手を。

激しい知略戦に、連白は口を出す気はない。

任せればきちんと仕事をするのが張陵だ。

例えそれが。

あまりにも後ろ暗いものであっても。

 

1、長期戦

 

鯨歩と緊密に連携を取りながら、龍剣と韓新は対峙していた。韓新の手元には十万。鯨歩には三万が預けられている。

これに対して龍剣麾下は一万三千。

くだんの八千と、五千の援軍が入っている。

援軍の将は于栄だという報告があり。

韓新は頷いていた。

龍剣の破壊力は報告書で張陵から散々聞いている。

十万の軍であっても、油断すればあっと言う間に喰い破られる。

それほどの武勇の持ち主だ。

あまりにも非常識すぎるが。

虎を単独で苦も無く狩るという時点で。

人間に分類するのは止めるべきかも知れない。

いずれにしても、龍剣自身が、いつ飛び出してきてもおかしくない。

此方は後方に淮南の城があり。

流曹が手配してくれた兵糧と。

「解放」されて喜んでくれている宋の民が納めてくれる兵糧があるから持久戦は幾らでも出来るが。

逆に言えば、敵が短期決戦に出てくる可能性も高い。

ただでさえ厄介なのに。

死ぬ気で短期決戦に臨んできたら。

此方としては対応に本腰を入れなければならないだろう。

敵陣を見ていると、細作が来る。

「鯨歩将軍から連絡です」

「何か」

「自分に任せていただければ、龍剣を打ち破ってみせると」

「策の内容を」

話を聞いてみると。

鯨歩は龍剣に対して、決死の覚悟で戦いを挑み。

打ち破るという話だった。

即座に却下する。

精神論で勝てる相手ではない。

龍剣に対して、あの石快でも一合で斬り捨てられると断言しているのである。

部下を無駄死にさせるわけにはいかない。

そう答えておく。

鯨歩は不満そうだったが、引き下がる。

まだ連白麾下での立場が怪しい事や。

何よりも、確かにどれだけ気迫を込めても、龍剣には勝てっこないことを理解しているのだろう。

それでいい。

今は、ただ敵の兵糧を消耗させ。

焦らせていく。

それだけで充分だ。

しばし様子を見ていると。

やがて敵に動きがあった。

龍剣がさっと引いていく。

恐らくだが、連白のいる軍を狙いに行ったのだと見て良い。

だが、それはあくまで平均的な将の考える事だ。

これは恐らく、反転に見せかけて。

追ってきた韓新と鯨歩の軍を叩くつもりだろう。

鯨歩には即座に作戦を伝え。

韓新も、作戦に沿って動く。

まず、軽率に陣を出たようにして、鯨歩が飛び出す。

三万の軍が、放たれた矢のように龍剣の軍最後尾、于栄の軍を狙って突貫する。

だが、その時。

やはり龍剣が動いた。

八千が一丸となって、突貫してくる。丁度鯨歩の軍を横撃する動きである。

その気になれば龍剣が大将狙い、力任せの敵軍粉砕以外に戦術を幾らでも駆使できることを韓新は知っている。

勿論龍剣にも好みがあるだろうが。

この場合龍剣は。

まずは弱いところを叩くべく。

焦って飛び出してきた鯨歩を狙って、突貫してきたという事である。

それが、当たり前の考えである。

だから、韓新も対応する。

鯨歩に預けていた軍が、どっと崩れる。

調子づいた于栄の軍が、崩れる鯨歩軍に襲いかかるが。

龍剣が暴れていて、違和感を感じたのだろう。

それはそうだ。

鯨歩に預けているとは言え。

その麾下にいる三万は、そもそも韓新が鍛えた兵である。

目付役として赤彰も入れている。

鯨歩が勝手に動こうとしても言う事など聞かない。

あの軍は、事実上韓新の別働隊だ。

連白にも話してあるが、鯨歩は誇りが人の形をしているような男だ。その誇りはあらゆる意味で歪んでもいる。

だからこそ、しっかり鎖をつけておかなければならない。

龍剣は何故宋に鯨歩などを置いたか。

人材がいなかったからだ。

それだけの話である。

龍剣に対しては勝負を挑まず、逆に于栄に対しては軍を粘り強く支えて耐える。

そうこうするうちに、背後に猛進した韓新の軍が迫り。

一気に敵全軍を包囲する態勢に入る。

龍剣がとって返そうとするが。

その手前に、どんと置かれたものがあった。

戦車隊である。

しかも馬を外して、箱だけがその場に残されている。龍剣は何かを感じ取ったらしく、足を止める。

直後。

箱が、盛大に燃え上がった。

燃えやすい枯れ木や草に油をぶちまけておいたものである。

これに火をつけたのだ。

劫火である。

流石の龍剣も抜ける事は出来ない。

大体戦車に見せて、実体はただの木の箱。

この間、淮南を攻めた大量の船を削り直し、作り直しただけの簡単な箱だ。

龍剣の足を止めるには、人力では無理。

だったら人力以外のものを使う。

それだけだと、韓新は既に悟っていた。

矢を射掛けさせる。

機動力を武器にしている龍剣は、こうなってしまうと脆い。

于栄もろとも完全包囲された状態で矢を浴びせられれば、龍剣だってどうにも出来ない。

更にさっき龍剣が引っかき回していた鯨歩軍には、兵を送って補給しておく。

包囲網をじりじりと縮めながら、兵を削り取って行く。

何度か突貫して突破を狙って来る龍剣だが。

残念ながら、多数の細作に高所から監視させ。

太鼓を叩かせて、その動きを読ませている。

もはや、完全に龍剣は韓新の掌の上だ。

包囲の突破はさせない。

だが、その時。

不意に于栄が、川に飛び込んだ。

此方だ。

叫ぶ于栄。兵士達がそれに続く。虎川の端の浅い所を無理矢理突破するつもりか。まあ良いだろう。

韓新は部下達に指示、

横殴りに矢を浴びせさせる。

龍剣と麾下八千は驀進するように川の浅瀬を行ききり。

突破して抜ける。

だが、于栄軍は悲惨だ。

兵の質が決して高くないし、何よりももろに殿軍になる形になったからである。

龍剣を逃がした。

まあいい。

于栄に集中攻撃。

韓新は容赦なく指示を出し。

それは龍剣を憎んでいる兵士達によって、指示した以上に容赦なく実施された。

龍剣はこれを言えば怒るだろうが。

今までの所業が、部下達にまでその怒りを向けさせる結果になっている。

ばたばたと倒れて消滅していく于栄の軍勢。

于栄はそれでも最後尾で味方の撤退を援護し続けている。

それを見て、龍剣はとって返そうとするが、再び戦車隊が来るのを見て、二の足を踏む。

今度のは本物の戦車隊であり。

下手に近付くと、大量の矢を撃ち込まれて身動き取れなくなることを察したのだろう。

この辺りは、流石は戦神。

戦場の申し子だ。

だが残念ながら、それでもどうにもできない状況を作ってしまえば良い。

それが韓新のやり方だ。

やがて、針山のようになりながらも、それでも味方の残存戦力を逃がしていた于栄を見つける。

最後の数人をどうにか逃すと、于栄は此方に壮絶な目を向けてくる。

良いだろう。

来るが良い。

于栄は雄叫びを上げながら突貫してくる。

其所に、今までに無い高密度の射撃が浴びせられることになる。

第一射に、それでも耐え抜く于栄。

韓新は感心したが。

それはそれである。

第二射。

恐らく数十本の矢が、于栄を追加で貫いていた。

なおも数歩歩いた于栄だが。

それが人としての限界だった。

前のめりに倒れ。

そして消えていく于栄。

于栄は何も残さなかった。きっと、最後の派手な行動で、十分に注意を惹くことが出来たから。

悔いがなかったのだろう。

嘆息する。

流石は挙兵当初から龍剣にしたがっている古参の将だった。

随分と粘り強い戦いであり。

それには感心させられた。

兵をまとめ上げる。

そして、一度淮南に戻って、再編成をする事にする。

敵はおよそ四千を喪失。

そのうち五百ほどが龍剣の軍。残りは全て于栄が率いて来ていた、なけなしだろう機動軍だった。

淮南に入ると、既に鯨歩が待っている。

鯨歩は追撃を主張したが、韓新は一笑にふす。

「不要だ」

「しかし、今が好機にございましょう」

「宝には恐らくまだまだ敵がいる。 それに宝を狙えば、今度はあの八千が死にものぐるいで反撃をしてくるだろう」

「……」

鯨歩が黙り込む。

此奴。

自覚はしていないが、龍剣と同類か。

自分の意見が全面的に受け入れられる事だけを望む輩。

それで一度完全失敗したのに。

懲りない輩だなと思った。

「敵には兵糧が足りていない。 ましてや龍剣自慢の精鋭が、今回は我が軍の防御壁をついに破れなかった。 衝撃は小さくない」

「確かに、それはそうですが……」

「だから一旦兵の再編成を行う。 これで敵は、もはや迂闊に此方に仕掛けては来なくなるはずだ」

まずは韓新は、勝利の報告を大々的に出す。

事実なのだから、別にこれでかまわないだろう。

龍剣が見ても、悔しいが勝利だと言う程の完勝である。

龍剣を討ち取れれば話が早かったのだが。

流石にそれはいくら何でもムシが良すぎる。

韓新も、そこまでは出来るとは思っていなかった。

兵をまとめると。

味方の被害も、五千近いと言うことが分かった。

敵の損害より多い。

それだけ龍剣の破壊力が凄まじいと言うことである。

徹底的に足を封じてこれだ。

腐敗していたとは言え央軍が敗れ。

張陵が指揮していた連白の軍が何度やり合っても勝てないわけである。

韓新も初見だったらどうにも出来なかっただろう。

徹底的に研究したからこそ。

勝つことができた。

それだけの話だった。

一度兵の再編成を行う。

追撃しても効果は薄いことを皆に説明した後、悠々と最出撃の準備に入る。

何、兵糧が尽きる心配はない。

それだけ、中の世界のめぼしい穀倉地帯を全て抑えている事の強みは大きいのだから。

 

龍剣が敗残の兵を連れて宝に引き上げる。

明確な負けは始めてかも知れない。

何度も溜息が漏れた。

こんな屈辱は。

本当に、生まれて始めてである。

于栄まで失った。

山霊先生に言われて、配下に加えに行った日が懐かしい。

宝に到着。

まずは皆に労いの言葉を掛け、一度休ませる。

守備隊もいるし。

敵の追撃もない。

今は、休ませる。

問題は麾下の精鋭だ。

今回死なせたのは、この間錐水の戦いで失った兵を補充した。その補充分の兵士ばかりだった。

五百ほどが戦死し、ほぼ同数が身動きできなくなった。

政庁に出向く。

龍剣の煤汚れた姿を見て、驚いた者は多かったようだが。

平然と龍剣は、報告を求めた。

震えながらも、文官が報告を出してくる。

「明にて、山霊将軍は善戦を続けておりまする。 八万の連白軍を相手に、一万五千の訓練も少ない軍で、互角以上に渡り合っております」

「流石だな……」

今はそれを素直に認められる。

だが、それだけで報告は終わらなかった。

「しかし支えるのが精一杯なのも事実です。 既に連白軍の猛攻を見て、山霊将軍は前線を下げて、敵を誘いこむ動きに出ていますが、上手く行っているとは言いがたい所があります。 敵は誘いに乗っていません」

「ふむ……」

「更に敵は新手を繰り出し、周北部に攻撃を開始しました。 官祖将軍が対応に当たっています」

「……分かった」

この場合、出るのは周だ。

一日だけ休んだ後、精鋭を連れて一気に宝を出る。

官祖の相方である于栄を死なせてしまった。

溜息が漏れた。

兎も角、敵の別働隊を叩き、速攻で引く。

山霊先生は大丈夫だ。

だが官祖は大丈夫では無いだろう。

故に、である。

七千に目減りしているが。

精鋭を引き連れて出陣する。

全軍で周の北東を目指し。

攻めかかってきている敵は、龍剣軍の到来を見ると、それだけで引いていった。

少し追撃するが。

敵の動きが組織的である事。

明らかに誘っていることを即座に看破。

そのまま撤退した。

周の城は幾つか落とされたが。

それだけで被害が済んだのは僥倖だ。残念ながら取り返すことは出来なかったが。

官祖は無事だった。

于栄の戦死を告げる。

元々無口な官祖はそれを聞いて呆然とした後。

俯いていた。

「あいつは、どのようにして死にました」

「立派であった。 最後まで味方を庇い続けてそれで倒れた」

「あいつらしい」

「于栄は今のそなたと同じく、何処に出しても恥ずかしくない武人だ」

元々賊をしていた于栄と官祖だが。

法悦のような鬼畜とは全く違う。

今では完全に武人である。

だからこそ、失った事はあまりにも痛かった。

溜息が零れる。

そのまま、官祖にこの場を任せる。

山霊先生にも伝令を出した。

山霊先生の話によると、明の国境は問題ないらしい。だから即座に引き上げるように、と言う事だった。

宝を落とされる事を危惧しているのだろう。

分かったと答え。

すぐにその場を後にする。

宝に戻る。

そして、味方を解散し。

一度休む事にした。

もう、駄目なのかも知れない。

少しずつ悩みが不安が大きくなってきている。

劉処に続いて于栄も失った。

それだけではない。

鯨歩も自分の所から離れて敵についてしまった。

山霊先生が言う通り、韓新にもっと気前よく地位を与えておくべきだった。奴の能力は、山霊先生が認めるほどのものだったのに。

連白を殺しておくべきだった。

己の誇りに沿って生きてきたが。

それが故に、何もかもが裏目に出てしまっている。

だが、今更引き返すことなど出来ない。

どうして連白に皆つく。

民草は連白を歓迎する。

最近では、宝を歩いていても。

連白に来て欲しいと言う声を聞く事が増えた。

耳が良いから、どうしても聞こえてしまうのだ。

それが何故か分からない。武人として、当たり前の事をしているだけ。龍剣にとっては少なくともそうなのに。

屋敷に戻る。

酒量が増える一方だ。

宝が落ちたら、唐もすぐに落ちるだろう。

唐は豊かな土地では無く、兵として動員できそうな者も探し出すのは難しい。

ついに敗戦まで経験した今。

もはや龍剣には。

最後の何かが、折れてしまった気さえしていた。

 

2、攻勢

 

宋にて韓新が龍剣を破った。

その報告を受けて、連白はむしろ冷や汗を拭っていた。

もしも張陵の言葉が嘘であったら、あの兵士達の犠牲が全て無駄になってしまう。それだけは、避けなければならなかったからである。

ともかく、張陵の言葉通り。

韓新は勝ってくれた。

今はそれだけで満足しなければならない。

本当に、良かった。

多数の兵士達の死を思うと。

連白は、それだけで一旦力が抜けた。

周に対して攻勢に出ていた可先が、一度龍剣に追い払われたものの。

損害らしい損害も出していない。

皆、龍剣のあしらい方を学び始めているのだ。

その対応法を編み出すまでに。

本当に時間が掛かってしまったが。

しかしながら、対応策さえ分かれば。

ある程度は対応出来る。

後は丁寧に。

少しずつ締め上げていけば良い。

周に対して攻勢を掛けつつ。

山霊の隙を探る。

法悦も暴れているが、周嵐が現れる度に法悦を叩き潰している。だが叩き潰しても叩き潰しても、法悦はまた現れる。

これは龍剣が音を上げたのもよく分かる。

周嵐も今頃相当疲弊しているだろう。

気の毒な話だった。

ただ、流石に法悦も部下は無限では無い。

現在は、張陵が法悦の側に細作を多数配置し、その活動を助けさせている。

コレは要するに、そういう事だ。

用済みになったら消す。

まあこれについては、連白も反対しない。

法悦は平和な時代が来たとしても、王などのうのうとやっていられる器では無いだろう。

昏帝は文字通りの暗君だった。

だが暗君どころか、法悦は暴君になる事確定である。

またしばらく対峙していると。

張陵が来た。

書類を処理してから、話を聞く。

「山霊の動きをまとめてきました」

「ふむ。 兵の増強は……していないようだな」

「恐らく出来ないのでしょう。 現在龍剣が養える兵は、全てまとめて八万が限界です」

「この間の敗戦もある。 龍剣の所に兵を回していて、それもかなり無理をしてと言うことだな」

頷く張陵。

少し嬉しそうなのが、色々と度し難い。

ため息をつくと、次にどうすべきか訪ねる。

張陵は、ずばりと案を出してきた。

「山霊と龍剣の仲を裂きまする」

「そのような事、上手く行くのか」

「行かせて見せましょう」

「……分かった、任せる」

頷くと、張陵は部屋を出て行った。

山霊を失ったら、もはや龍剣は終わりだ。ただでさえ、劉処と鯨歩を失った事で弱体化しているのである。

山霊は優れているが、他に参謀にこれといった人物がいない。

一応山霊が育てた文官や参謀達がいるが。

いずれもが小物ばかりである。

山霊がいるのが前提で動いている。

それほどに山霊が傑出しているのだ。

様子を見ていると、講和の準備をするべく、暦域に声を掛けていた。

全てを任せると言ったので、別にそれはかまわない。

連白は任せ、そして待つ。

講和でも何でも良い。この戦いに勝てるなら。

犠牲を減らす事。

連白の基本思想は。

今でもそれに変わってはいない。

勿論、必要な場合には手を下す。

犠牲だって出す。

それはこういった世界にいる以上、仕方が無い事だ。殺さなければいけない時はどうしてもあるのだ。

だが、それでも。

可能な限り犠牲は抑えたい。

それには、手段は確かに選んではいられないのだ。

どれだけ唾棄すべきものであっても。

暦域が出立する。

その間に、山霊への散発的な攻撃を続ける。

一度に全軍は動かさず、三つある拠点に対してひっきりなしに嫌がらせの攻撃を続けさせる。

主に夜襲を主体にやっていく。

敵も勿論出てくるが。

此方は基本的な数が違う。

交代をさせながら夜襲に備えさせ。

隙を見せない。

まずは韓新から連絡。

張陵の策、承ったと言う事だ。

こういった横の連絡はとっておく必要がある。

連携が取れていないと、無駄な死人を出してしまうことが珍しくもないからである。

昔、破落戸達の親分格をしていた頃も。

喧嘩になるのは、良く聞いてみると行き違いが原因なのが殆どだった。

現実でもそれはそうだ。

ちゃんと話し合っていない場合は多い。

ただ、話し合っていてもわかり合えない場合もまた多い。

それでも、解決できる場合があるなら解決しておく。

それだけの話である。

暦域につけておいた細作が来る。

どうやら宝に到着したらしい。

此処からは論客の本領発揮だ。

出来れば暦域の危険は減らしたいが。

相手は龍剣である。

どうにもならないだろう。

暦域の舌先三寸、という奴を信じるしかない。

連白は敵陣を見る。

全くもって、攻める方法が見つからない堅固な陣である。

山霊と言う人物の、隙のなさを示しているかのようだ。

山霊は部下にほしかったな。

そう連白は思う。

龍剣は多分制御出来ないと思う。

だが、山霊は恐らく厳しいだろうが、それでも天下太平の為に動いてくれただろう。最初から味方であったのなら。

今はどうにもならない事だが。

何度目かも分からない攻撃も、隙が全く無く断念。

すごすごと引き返してきた可先をねぎらうと、休ませる。

他の将軍を出して、攻撃をさせるが。

時々油断しきっているところに猛烈な逆撃を加えてきて、手痛い損害を受けることがあった。

山霊も、周北東部にちょっかいをだしつつも。攻撃をして来ている此方の行動について。

攻めがぬるいという不審があるのだろう。

ひょっとしたら、不安定になっているだろう龍剣の精神をついてくる事を、察知しているかも知れない。

だが山霊は一人しかいない。

そこを徹底的に突くだけだ。

程なく、暦域が戻ってくる。

龍剣と、話がついたと言う事だった。

意外なほどあっさりな話である。

後は、山霊に使者を送ってやる。

これだけで張陵によると、全てが瓦解するという事だ。

信頼する他無い。

兵を引く。

不満そうにしている者もいるが。

周の北東部の制圧した城からも、兵を一旦引き上げる。同時に物資も全て回収していくが。

これらについては別に良いだろう。

不審そうにしながら、守勢に回っていた官祖が、周の城を取り返す。

そして、龍剣の率いる八千。いや、韓新との交戦で削られたからか、少し目減りして七千くらいだろうか。

いずれにしても、龍剣麾下の精鋭が姿を見せる。

緊張の瞬間ではあるが。

それでも、山霊と龍剣が来る所を。

野戦陣地で、待つ事にした。

 

予想通りだが。

山霊は青ざめるほど怒りに満ちているようだった。

暦域はこう話をしたという。

現在、連白は攻勢に出ているものの決め手に欠けている。

明と周の守りが堅く、簡単に落とせる状態ではないからだ。

宝にも龍剣がいて、すぐに落とせるほど話は簡単ではない。

簡庸の経済力があるといっても、限度がある。

これ以上の損害は望むところでは無い。

故に周東部、明、唐については龍剣のものとし。

商、宋、周西部、清、旧央は連白のものとし。

これにて講和を行いたい。

以上である。

龍剣は驚くべき事に、それなら良いだろうと話に乗ってきた。

そして、今ここに来ている。

龍剣は圧倒的な力を周囲に見せつけているが。

やはり予想通り覇気が薄れている。

韓新によって、初の敗戦を経験したからだろうか。

その敗戦も、そもそも連白が何度も何度も、龍剣を倒せるなら死んでも良いと言う兵たちを犠牲にし。

彼らの血を持って得た情報によるものだ。

龍剣は文字通り古今無双の武芸を持つ怪物だが。

その限界をやっと見極め。

それによって得られた勝利だ。

連白としては、講和をする理由がない。

だが、龍剣としては講和は願ったりである。

そしてそもそも、連白は裏切らない。

これについては、今までの数々の経験から、龍剣も分かってはいるのだろう。

剣を履いて出て来た龍剣だが。

連白は丸腰である。

机を挟んで向かい合う。

龍剣の隣には山霊が。

連白の隣には張陵が。

書状を出すと。

張陵と山霊がそれぞれ目を通し。山霊は龍剣に耳打ちする。

龍剣は、いつもとはまるで覇気が違っていて。

それを聞きはしたが。

首を横に振るのだった。

「山霊先生、これはやはり好機です。 話は聞いておきましょう」

「龍剣っ……!」

「此方は異存ない。 兵を互いに引き、休養するとしよう」

「此方もそれは同じです。 それでは、調印を」

連白が先に笑顔で印を押す。

龍剣もそれを見て、印を押した。

攻め手に欠いていたのは事実だ。

だが、それならば山霊を除いてしまえば良い。

そんな邪悪な陰謀を此方が巡らせているとは。

龍剣はどうしても思いつかないようだった。

印を押すと、龍剣は戻ると言う。

調印式は拍子抜けするほど簡単に終わる。

ため息をつく連白だが。

張陵に言われた。

「まずは清の安定を図ると称して、清王のいた城に仮住居を作ってお移りください」

「山霊は動きを見ているのでは無いのか」

「その通りです。 あえてわざとらしく動きます」

「何だか山霊に対して気の毒な話ではあるな。 山霊も厳しい事は事実だが、この中の世界の平和を願う英傑であるだろうに」

張陵は静かに笑う。

そして言うのだった。

「間が悪かったのです。 山霊が引きこもった山の庵が、唐では無く清にでもあれば……或いは殿の配下にはせ参じるという事もあったのでしょうが」

「そうあってほしかった」

「劉処や于栄など、優れた将を何人も死なせてきました。 それについても、全て同じだと思いますが」

「……そうだな。 山霊だけに限った話では無い」

頷くと、連白は張陵が言う通り、五万の手勢を連れて清王がいた城に籠もる。

同時に、清の治安を改善するべく動く。

更に同時に、指示を出した。

法悦に、である。

しばらく表だっての破壊活動は停止。

その代わり、戦力を明、周にて増やしておけと。

法悦については、その代わりに莫大な宝と卑をくれてやる。

大喜びした法悦は、潜伏と戦力強化に努めるのだった。

韓新の所からは、鯨歩を呼び出す。

宋の事は嫌っているようだったので、代わりに清を任せる。

この辺りの話は韓新から聞いていた。

だから、宋から商、商から簡庸を経由して、わざわざ鯨歩を呼び出したのである。

鯨歩とは前にもちょっとだけ直接会った事があるが。

清の軍事権を事実上任せると言うと、静かに俯いて、言う。

「王にはならない方針でもよろしいでしょうか」

「ああ、それでかまわない。 歴戦を重ねた鯨歩将軍の手腕に期待している」

「分かりました。 可能な限りやってみましょう」

「頼むぞ」

期待している、と言う言葉に。

鯨歩は深く俯いていた。

色々と掛け間違いが起きなければ。

鯨歩も、龍剣が龍剣なりに期待している事に気付けていたのだろうと思うのだろうけれども。

誇りがヒトの形をしている鯨歩は、ついにそれに気付けなかった。

連白はその辺りは分かる。

分かるものなのだ。

だから、あくまで誇りを傷つけない方向で、仕事を任せる。

そして鯨歩も、やっと宋から解放され。

更により広く、戦の臭いがする清を任されたことで、喜んでいるようだった。

それでいい。

後は扱いさえ間違わなければ、裏切るような事もないだろう。

韓新は赤彰と翼船を両翼に、宋の守りを万全に固め始めている。

周の西に関しても、まだ数人いた独立領主を降伏勧告を送って麾下に取り込み。

完全な統治体制を作り上げた。

かくして、龍剣と連白の間に、一時の平穏が訪れた。

疲れきった龍剣と。

最後の戦いに備えている連白との間だから。

その平穏も、見せかけに過ぎなかったが。

手配をした後、清王の城に入る。

何というか、悪趣味な城である。

宝もかなり蓄えられているが。

これは各地から略奪してきたものだろう。

連白は金の使い方が汚いと言われているが、一方で自分が金を蓄える事にはほぼ興味が無い。

清王をはじめとする大半の人間は違う。

連白にとっては、その辺りは強みだ。

自分にとってどうでも良いものを活用する事で。

大多数の人間を動かせるのだから。

せっせと宝は簡庸に運ばせ。

流曹に管理を任せる。

流曹が価値を見定めた後。

国庫に納め。

民に対する保証をしたり。

武将達に対する褒美にしたりと。

色々に振り分けて貰う。

余剰分の金は、振り分けてしまって良い。

そう事前に連白は指示を出してあるので。

流曹もその辺りは動きやすい、と言う事だった。

そのまま膨大な金が動き。

第一線で活躍していた将軍達や、戦い続けて来た兵士達に一時金が支払われる。

現在連白の軍は、韓新の別働隊も加えると、全力で動かすと機動軍二十万の規模に達している。

各地の防衛部隊も加えると五十万に達し。

昔の央軍の全規模にも匹敵するが。

これらの兵の中には、清軍や、宋にいた鯨歩麾下の防衛部隊のうち、にっちもさっちも行かなくなって韓新に降伏した者なども含まれる。

またこの兵士を支えられるのも、穀倉地帯を上位三つとも抑えている事。

何よりも、簡庸を龍剣による破壊から守りきった事が大きいだろう。

五万の兵の指揮を鯨歩に任せた後。

連白は状況を見る。

可先は一度簡庸に戻し、兵の再編成を任せる。

細作は常時明、周、それに唐に潜り込ませ。

龍剣の動きを探らせた。

半年、こうして平和が続き。

その間。

国力の差は、開く一方となった。

 

苛立ちながら山霊が書状を見る。

龍剣が国政を見ない。

仕事はするが、基本的にいつも酒の臭いがしている。

部下からの報告があったのである。

明の国境地帯をせっせと要塞化し。

官祖にも、周を固めさせている。

山霊が出来る事は全てしているが。

同時に分かってもいる。

連白は、山霊と龍剣の間を割く気だ。

龍剣はこの間負けた。

ついに韓新に敗れた。

その結果、何処かで自信を喪失したのだろう。故に、普段から酒浸りになり。そして政務も雑になっている。

今怒鳴り込むのは逆効果だ。

そもそも清に鯨歩率いる五万がおり。

更にこの五万に加えて、簡庸ではほぼ同規模の戦力を可先が整備している。

宋は少し兵が減ったようだが。減った分はただ簡庸に移動しただけで。

恐らく連白が今動かせる兵は機動軍だけで二十万と見て良い。

それも、清王が率いていたような数だけ揃えた軍では無い。

韓新や張陵が鍛え上げ。

最盛期の央軍にも匹敵する精鋭中の精鋭だ。

龍剣への対処方法まで知っている。

敵はいつでも戦える状態を整え。

更に戦うための準備を徹底的に行っている。

状況は悪くなる一方である。

それなのに、龍剣がやる気を無くしてしまっては。

勝ちの目が消える。

如何に優れた敵軍といえど、山霊が指揮して龍剣が動けば、撃破出来る自信はある。

だから今は失った劉処や于栄に代わる人材を育成し。

敵が内紛なり何なりをおこし戦力を減らすのを待つ。

それが最善手だというのに。

平和に溺れて牙を抜かれたか。

歩き回りながら、山霊は思う。

龍剣は優れた人物だ。

これについては、今愛想を尽かし始めている山霊ですら思う。

もう少し違う世界への現れ方をしていれば。

こんな風に、中の世界全てに恨まれるなんて事態は避けられただろうに。

何もかもがままならないものだ。

周嵐が来た。

周嵐には法悦を探させている。

見つけ次第殺せ。

そうも指示してある。

だが法悦は、隠れ潜む事に関しては天才的だ。

明の何処かにいることだけは分かっているのだが。

それ以上は分からないし。

何より明の民が非協力的である。

探し出すのは、色々と絶望的と言っても良かった。

「山霊車騎将軍」

「周嵐、どうした」

「良くない噂が広がって来ております」

「何だ、何でも良いから聞かせよ」

周嵐は頷くと、そのままずばり言った。

「山霊車騎将軍が、裏切りを画策している、と言う事です」

「私が裏切りだと」

「はい。 長年丞相と山霊車騎将軍の間が良かったようには兵士達には見えていませんでした」

「事実良くなかったからな。 だが私が裏切りを働くような者に見えるか?」

それはわかっていると、周嵐は言う。

ちょっとだけ安心した。

周嵐は、分かっているか。

他の将軍はかなり怪しい。

今はもう、他に信頼出来るのは官祖くらいだ。

「恐らくですが、細作による情報工作か、或いは法悦が噂を広めているのかと思われます」

「くだらぬ手だ……。 だが丞相の耳に入る前に対策が必要だな」

「車騎将軍。 此処はもはや、一度庵に戻ることを丞相に打診しては如何でしょうか」

「何を言うか」

周嵐の言葉に目を向く山霊だが。

周嵐は首を横に振る。

「丞相は車騎将軍を先生とまで呼びながら、その献策を残念ながら殆ど採用してきませんでした。 一度距離をおいて、存在のありがたみを思い知らせるのもありなのではないかと思います」

「馬鹿なことをいうではない」

「恐らくこの時期に流れ始めたこの噂。 車騎将軍を貶めるための罠かと思いまする」

「……」

周嵐の言う通りだ。

あまりにもわざとらしすぎる。

確かに罠を疑う状況である。

そしてもしも龍剣がこれを聞いたら。

疑心暗鬼に陥っている龍剣は。

文字通り何をしでかすか分からない。

冷や汗が流れるのを感じた。

別に敵と戦って敗死するのはかまわない。

七国の時代から、各地の王に招かれて勝利をもたらし。

央軍を何度も打ち破ってきた。

だがその度に疎まれ。

讒言を受け。

嫌気が差して、辞職して庵に戻った。

十倍の敵を破る事七度。

勝ち目がないと思われた戦いをひっくり返した事二十度。

七十戦以上を七国時代に各地で転戦し。

央、その前の段階である秦に。最大限警戒された山霊という闘将は。

今、戦い以外の場所で。

死に近付こうとしている。

龍剣が癇癪を起こしたら、何をしでかすか分からない。

山霊に怖い者なんてない。

死だって例外では無い。

こんな世界では、死が救済ではないのかとさえ思うのだ。

だがそれでも。

裏切り者扱いされて死ぬのだけは、体のあらゆる全てが全力で拒否しているのが分かるのだった。

張陵も汚い手を使う。

勝つためにはどんなことでもする輩である事は知っていた。

だがこれは。

龍剣を孤立させるために、山霊を奪うか。

確かに手としてはありだ。

損害を減らす事にもつながる。

それにしても、何というか。

もう少し、誇りとか、そういうものはないのか。

龍剣や鯨歩のように、誇りや自分の考えが最優先される生き方はそれはそれで問題だろう。

だが此処まで手段を選ばないやり方をしていれば。

いずれ全て帰ってくるぞ。

そう山霊は、内心で吐き捨てていた。

「周嵐。 私がいなくなったら、恐らく丞相に諌言できるのはお前だけになるだろう」

「……」

「だから私はいなくなるわけにはいかぬ。 仕事は忙しくなるが、此処の守りは任せるぞ」

「分かりました」

山霊は宝に急ぐ。

その途中で聞かされる。

周。周の西部。山岳要塞地帯に、王遼が入ったという事だ。

簡庸の守りの要である衛を守り抜いた闘将である。

連白の所にはせ参じた将であるのだが、どうも経歴がよく分からない。

いずれにしても何度も戦いに敗れた連白を守り抜いた落ち着いた用兵を行う武将であり。

龍剣も侮れない相手だと何度か口にしていた。

王遼か。

敵はどの前線にも、充分過ぎる将軍を配置し。兵力も十全に準備できるな。

そうぼやく。

絶望的な状況は何度でも見てきた。

七国時代からしてそうだった。

無能な王達。

目の前に央(秦)の精鋭が迫っているのに、自分の保身しか考えていないクズ共。

兵も殆ど訓練を受けておらず、賊と何ら変わりが無いような輩である事も珍しく無かった。

そんな状況でも、請われて出向いて。

負け戦をひっくり返し。

その後は厭われて出ていき。

出ていった後に、すぐに国が滅びた事が何度もあった。

今回は、まだ兵士が強く。

龍剣という七国時代にも滅多に見なかった怪物がいるだけ、ましな状況ではあるのだけれども。

どうしてだろう。

悲しくて仕方が無かった。

戦車に乗って、黙々と行く。

やがて宝につく。

山霊が来た事を知って、驚いた様子の官僚達。

最大限に嫌な予感がした。

 

3、引き裂かれる主従

 

連白は鯨歩が訓練をさせるのを見ながら、張陵とともに状況の推移を見ているだけで良かった。

勿論張陵が放った細作は、山霊が育てた細作と血みどろの戦いを続けているのだろうけれども。

それでもそもそももう国力が違う。

諜報戦で相手に遅れを取るとは思えなかった。

鯨歩は宋を任されていた頃は、破落戸時代の仲間を周囲に侍らせ、贅沢が出来ない事に文句ばかり言っていたらしいが。

今は無心に兵を鍛えている様子で。

将軍として、あるべき所に落ち着いた印象がある。

一度何もかもを失い。

自分の器を理解したからかも知れない。

器にない場所に入ると人は不幸になるだけだ。

それは連白も。

幾つもの事例を見て、知っていた。

やがて、伝令が来る。

張陵は毎回、うきうきしている様子で。

あらゆる伝令に対して、目を輝かせている様子が分かる。

張陵は、個人的な悪意を殆ど見せない。

部下に嫌がらせをしたりだとか。

抵抗できない相手を痛めつけたりとか。

そういった平均的な人間が喜ぶ醜悪な行為には殆ど興味を見せない。

その一方で、ぞっとするような邪悪な陰謀を、眉一つ動かさずに実施してみせる。

そういう人物だ。

訓練の時の機械的な様子も恐ろしかったが。

張陵という存在は、ある意味龍剣以上の怪物なのでは無いかとさえたまに思う。

だが勝利に貢献しているのも事実。

だから、連白は大事にする。

それだけの話である。

伝令の話は連白も聞く。

内容は、やはりろくでもない代物だった。

「宝にいる細作より情報がありました。 山霊が、龍剣と大げんかをした模様にございまする」

「大げんか、とは」

「山霊が庵に戻ると言い出した模様にございまする」

「穏やかでは無いな」

連白が知るだけでも数回、山霊が凄まじい勢いで龍剣を面と向かって詰っている。その時、龍剣は申し訳なさそうにしていた。

先生と山霊を慕い。

失った龍一の代わりのように、親のように慕っていた山霊である。

山霊もそれを理解しており。

何よりも、龍剣に欠点が多いからこそ。

あえて厳しく接しているだろう事は、連白も見ていて分かった。

だが、それでもだ。

山霊が、龍剣を見捨てるそぶりはなかった。

何があったのか。

「詳しい話は分からないか」

「自分には何とも……」

「ふむ。 分かった、引き続き情報を集めよ」

「はっ」

すぐに伝令が行く。

張陵が、伝令の背中を視線で追いながら預言した。

「数日以内に第二報が来るでしょう」

「平和が終わる時か」

「そうですな。 半年で皆の傷は癒えたと思います。 勿論龍剣も兵を整え直したでしょうが、そもそも穀倉地帯を此方が全て抑えておりますし、兵力の増強は不可能です」

「……」

現時点で、流曹から報告が来ている。

現状、機動軍として二十万を動かす事が可能。その他防衛用の兵力の上限は三十万。合計五十万の兵を養えると。

二十万の機動軍を動かす場合。同時に全てを動かすと、継続して二年間は兵を飢えさせずに稼働させられる。

そういう事らしい。

二十万の機動軍というと、央攻めの時以来の規模だ。

そして皮肉な事に。

今度その兵が向けられるのは。

央攻めの最初の地である。

歴史は繰り返す。

悪い意味で。

「張陵。 そなたは、山霊に何が起きたかもう分かっているのだな」

「はい。 すぐに殿にも分かるかと思います」

「……不愉快な話でなければいいが」

「山霊はいずれにしても邪魔です。 取り除かなければ、天下統一が十年は遅れるでしょう。 既に半年足踏みしているのです。 この足踏みの期間だけでも、大幅に天下統一と泰平までに要求される犠牲が増えています」

分かっていると答える。

連白は無駄な死人を出したくない。

そう常に公言している。

だからこそ、張陵はそれをついてきている。

それも分かっている。

ただ、それでもだ。

ちょっとやり過ぎでは無いかと思ってしまうのである。

予言の通り、数日で伝令が来た。

山霊に何が起きたか分かった。

要するに、こういうことだった。

龍剣の所に、非常に芳醇な酒が届いた。

龍剣は最近は不快感からか酒ばかりを呷っているという話だったが。その酒はとてもいいもので。龍剣は久々に機嫌が良さそうにしていたという。

ところがだ。

その酒について、立て続けにろくでもない情報が入った。

まずその酒が、龍剣では無く山霊宛てのものだった、ということ。

届けてきた者の行方は分からず、どうしてそうなったのかは良く分からないと言う。

それだけではない。

その酒が盗品であり。

あまつさえ周王の秘蔵品だと言う事がわかったこと。

それらが、龍剣の機嫌を悪くした。

更に、である。

先の講和の際にも、既に罠が仕込まれていたという。

「殿は講和の際、龍剣も山霊も不快そうだったのを覚えていますか」

「ああ。 だがそれは当然にも思えたが」

「実は龍剣は、講和の話を聞いて最初は喜んでいたのです」

「何……」

ここのところ、立て続けに部下を失った事。

何よりも、初の敗戦を味わったこと。

酒に溺れていること。

これらが龍剣の心を容赦なく傷つけていた。

それについては何となく分かる。

そこに講和の話が来た。

どうも敗色が濃厚になってきていた時期である。

如何に明で山霊が奮闘していると言っても、兵力が違いすぎる。

十倍の兵を破ったと聞いても、所詮は二線級の相手だと、心も動かなかったらしい龍剣だそうである。

余程参っていたのだろうなと、連白は軽く同情した。

そこに講和の使者が来たのだが。

其所でおかしな事が起きたのだという。

「正確には起こしたのですが」

「何の話だ」

「山霊の使者とも龍剣の使者ともやりとりはしましたが、両者の間にあからさまな差を設けました」

「……」

絶句。

なるほど、そういう事か。

そして、後からそれを知ったのだろう。

客人のように扱われた山霊の使者。

それなのに、まるで敵のように扱われた龍剣の使者。

それぞれは、扱いをそのまま主君に告げたのだろう。

山霊は笑ってくだらぬと流しただろう。

だが、それらの情報は、全て龍剣の所にも行く。

結果、何が起きるか。

ただでさえ深酒続きで判断力が鈍っている龍剣は。

ついに疑ってはいけないものを疑ってしまう。

後は、その猜疑を大きくしてやれば良い。

法悦を使い、幾つも情報を流してやる。

山霊は明王になる代わりに、龍剣を売るつもりだ。

そんな噂をである。

勿論そんな話、山霊が聞くわけがない。

だが疑心暗鬼が膨らんでいる龍剣は、細作を通じてその噂を聞かされる訳である。

龍剣の周囲に、まともな武将がいれば。

そんな愚かな噂は聞くに値しないと、一喝して退けることが出来ただろう。

だが周嵐は法悦への対策に追われ。

官祖は周の守りに精一杯。

肝心の山霊は明の防衛線を要塞化する作業で手一杯。

何しろ、南北から二十万の精鋭がいつ攻めこんできてもおかしくない状態だ。

山霊としては、少しでも勝機を作るために、休んでいるヒマなどなかったのだろうから。誰だって、この「講和」が一時しのぎのものに過ぎないことくらいは分かる。そして如何に山霊といっても、あまりにも忙しければ頭が鈍るのだ。

人材の致命的な不足。

それが山霊を、最悪の事態に追い込む決定打になったのだ。

かくして山霊が噂を聞きつけて、慌てて宝に駆けつけたときには。

全てが遅かった、と言う訳だ。

龍剣は山霊に噂を問いただし。

山霊はくだらぬと一喝したという。

普段なら、それで良かっただろう。

だが、龍剣は、どうしても歯切れが悪かった。

龍剣の判断力を、酒が鈍らせていたのだ。

事実山霊を呼び出したときにも。龍剣は酒が残っている様子だった、という報告まである。

龍剣自身の無敵伝説が終わった事で。

もっとも傷ついていたのは龍剣だった、というわけだ。

口論は半日近く続いたそうで。

それは多くの兵が目撃しているという。

張陵の細作含め、である。

そして山霊は。

最後にこう言ったそうだ。

「若造が! 貴様の地位を追うつもりだったら、私はいつでもそれが出来た。 それをしなかった意味は分かるか!」

「分かりませぬ!」

「そなたをこの中の世界の覇王と見込んだからだ! この世界に新しい秩序を作れる英傑と買っていたからだ! お前も私がそう考えていることを理解していると思っていたのに!」

血を吐くような言葉だったという。

一度庵に戻ると吐き捨て。

山霊は車騎将軍の印を返して、庵に戻ったそうである。

使用人だけを連れて。

龍剣は、それを呆然と見送ることしか出来なかったらしい。

さもありなんと、連白は思った。

素直に感想が口から出た。

「張陵。 そなた恐らく地獄に落ちるだろう」

「かまいませぬ。 仮に地獄があったとしても、この世界を可能な限り犠牲少なく平和に導けたのなら本望にございまする」

「……そうだな。 それにそなたを用いたのも、献策を用いたのも、策を任せたのも私だからな。 恐らく地獄行きは私も同じだろう」

「殿には楽土なりなんなりに行って貰わなければ困りまする。 民もその方が安心いたしましょう」

溜息が漏れる。

この張陵の恐ろしいズレ方は。

あらゆる意味で、連白には相容れない。

だがそれでも、この世界のためには必要だ。

連白は多数の民と一緒に暮らしてきた。

破落戸たちに慕われていたから、そちら側の人間と勘違いされる事も多かったのだけれども。

実際には結果的にそうなり。

自分の立場なら、行動次第で世界中の悲劇を少しでも減らせる。

そう判断したから動いているだけのこと。

根は、誰にも幸せになってほしいと考えているし。

だからこそ、犠牲は出来るだけ少なくなってほしいとも考えている。

勿論舐められるから表には出さない。

だが連白は、ずっとその考えで代わっていない。

「山霊はどうしている」

「庵に引きこもったままにございまする」

「そうか……」

「現状は山霊の育てた部下達が仕事を代行していますが、著しく作業が滞っているようです。 龍剣はますます酒に溺れていて、それにさえ気付いていない様子ですね」

くつくつと張陵が笑うので。

連白は辟易した。

講和などもはや必要なし、というのだろう。

だが、連白の方から攻める気はない。

少なくとも今はまだ。

この様子だと、龍剣はもう体制を立て直せないだろう。

何かしらの理由で、自壊が始まるはずだ。

それからでかまわない。

そう張陵に告げると。

張陵も頷いていた。

「流石の見識にございまする」

褒められたって何も出ない。

そもそもこういうのも、張陵のやり方を見ていて覚えたのである。

それに、こんなやり方は覚えたくなかった。

「どうせそなたも、それを待っているのであろう」

「はい。 もはや龍剣の部下達の人材は決定的に不足しており、将軍達の中には脱走を企てている者もおりまする。 更に山霊が育てていた細作達は、山霊を失った事で身動き取れない状態です。 此処からは、内乱の噂を適当にでっち上げて、龍剣の耳に入るようにしてやれば良いでしょう」

「任せる」

「ははっ……」

張陵が行く。

代わりに石快が来た。

石快は最近はもう、張陵に対する嫌悪を隠さないようになっていた。

張陵は涼しい顔をしているが。

石快だって、破落戸の親分格とは言え。

連白に言われて悪い事は控えるようになり。

民の中で暮らしてきた人間である。

張陵が見せつけてくる桁外れの悪意には。

それは思うところがあるのだろう。

「外道が。 ついていけやせんぜ」

「そういうな。 我が軍は張陵と韓新が策を練り、流曹が物資を送ってくれているからやっていけている。 時々簡庸にも戻った時、民の笑顔だって絶えていない。 三人の誰か一人でも欠けていたら、こんな状態はなかったのだ」

「それは認めやすがね……」

「ともかく、もう少しだ。 龍剣は両翼をもがれ、山霊も失い、力を半減させてしまっている。 後は……」

龍剣は、殺さなければならない。

あえて口に出す必要もないことだ。

龍剣は生きているだけで乱の原因になる。

打ち破った後、仮に降伏してきたとして。

何処かの土地を与えたら。

きっと龍剣軍の残党が其所に集まり。

一大勢力を築き。

やがて反攻作戦に出るだろう。

先頭にあの龍剣が立つ。

それだけで、どれだけ被害が出るか分かったものではない。

龍剣が彼処まで我が強くなく。

独自の理論を他人に強要せず。

逆らう相手に容赦がなさすぎる性格がなければ。

共存の路はあったのかも知れない。

だが、恐らく龍一が生きていたとしても。龍剣を使いこなせたとは思えないのである。それだけの規格外。

あまりにも、人間の中で暮らすには無理がありすぎる存在なのだ。

討ち取らなければならない。

連白としても、犠牲は減らしたい。

だが、それでも龍剣は生かしてはおけない。

それだけは、譲れないことであるのだった。

「白姉貴、講和がこのまま続くのであれば、もう良いんじゃないんですかい」

「残念だが講和なんか続かない」

「……」

「戦いの準備はしておいてくれ。 機会があり次第、総力を挙げて周、明、そして唐を一気に攻め落とす」

周は既に残っているのが東半分のみ。

明は龍剣が破壊し尽くして、再建がまだ途上。

唐は元々豊かな土地では無い。

既に戦力差は六対一。それも実数では無く戦力の差で、だ。

龍剣が如何に強くても、連白が負ける事はない。

それでも連白は苦戦を覚悟していた。

龍剣の破壊的な強さは、何度も目の当たりにしてきたのだから。

 

清を見て回り、各地の慰撫を続ける。

戦いになるのだから、兵は鍛えておかなければならない。

連白は兵の訓練は可先と石快に任せつつ。

鯨歩を連れて、清を見回っていた。

連白は各地で、何か問題が無いか民に聞いて周り。

自身でも、各地を直接見て回った。

有力者に話を聞くだけでは駄目だ。

幸い連白は、冠だの何だのをつけなければ、偉そうには見えないので。

民に話を聞くには丁度良い。

その過程で、悪徳官吏などを相当数摘発。

清王の暴政で疲弊しきった民を慰撫しつつ、各地を周り。

やがて新しく清の拠点に定めた、明に近い城である業に居を置いた。

護衛役としてついて来ていた鯨歩はずっと困惑していた。

「連白どの」

「どうしたのだ」

「貴方は俺と同類だと思っていたのですが、民草に対して随分と甘く接しているのですな」

「破落戸は舐められたら終わり。 そういう思想から来ている考えだな」

図星を指すと、別に困惑するでも無く鯨歩は頷く。

素直なことである。

この間決定的に負けてから、鯨歩は一皮剥けた様子である。

自分で一度死んだと思ったのかも知れない。

それに宋は嫌だという要望を聞いて、連白が直属の配下に置いた。

それについても、感謝しているのかも知れなかった。

「私は破落戸のつもりはないし、舐められてもいない。 そして民草が荒んでいるように見えるだろうか」

「いえ。 法悦のような輩を配下にしているのだから、もっと荒んだ治世を想像していたのですが」

「法悦はやむを得ない。 だが、私の目が届く範囲内では、こういう光景をもっと広げていきたい。 それだけだ」

世界の規模はそれほど大きくない。

だからこそ、出来る事ではあるのだろう。

そう連白は思っている。

よく千里四方とかいうのだが。

実際にはこの世界。

張陵が探してきた、央時代の調査によると。

南北二千五百里、東西三千里ほどであるそうだ。

一里は二百歩ほどなので、かなり狭いと言える。

平和が続くと、ほこらから現れる人で、世界は一杯になってしまうのかも知れないが。

今は各地で人がいない集落が点々としていて。

獣狩りの人数すら足りていない有様である。

当面は、そんな事は気にしなくて良い。

宮殿に入る。

宮殿といっても、大した規模じゃないのは他と同じだ。

政庁に出ると、張陵が先に書類を用意してくれていた。

鯨歩には訓練場で兵士を見るように頼む。

鯨歩は頷いていた。

「分かりました。 決戦に備えます」

「頼む。 頼りにしている」

「……分かりました」

頼りにしていると言うだけで、鯨歩は少しだけ嬉しそうにした。

前には、龍剣は心が通じていると考えて。

鯨歩の誇りを踏みにじるようなことばかりしていたのだろう。

だから、龍剣の所を追われてから、嬉しそうにしている。

やはり鯨歩は。

負けたときに、一度精神的に死んだのだと見て良い。

実の所、唐王を殺した直接の下手人は鯨歩であるという報告も入っているのだけれども。

それについて責めるつもりも無かった。

龍剣の指示では仕方がなかっただろうし。

何よりも、それで亀裂が決定的になったのだろうから。

政務を終わらせると、さっさと屋敷に戻る。

横になってあくびはするが。

酒は飲まない。

龍剣が浴びるように飲んで体を壊しているという報告を聞いている。

悪い真似をする事はない。

酒を飲む日についても、今日飲む分、というのを事前に使用人に告げておき。

それ以上の酒は絶対に出さないようにと、素面の内に言っておく。

また泥酔しない量を事前に決めておく。

使用人達もそれは心得ている。

連白は酒癖が悪い方ではないのだが。

それでも、酒は人を変える。

だから、そうして予防線を張っておくのだ。

酒の肴を適当に用意して貰う。

獣肉を料理したものだ。

鹿かな。

食べながら思った。

鹿だって、獣狩りの専門家でないと仕留められない。

苦労しただろうなと思いながら、ちゃんと味わって食べる。

心地よく飲んだところで、適当に寝る事にする。

ずっと悪事を見逃している。

これだけで、地獄に行くのは確定だろうと連白は思っている。張陵がやっている事は、とても人に許される所業では無いし。その所業を認めているのは連白なのである。つまり連白の責任、と言う事だ。

である以上、連白は悪事を直接行っているのと同じ。

それなら、覚悟を決めておかなければならない。

もう少しで、戦いが終わる。

そう思いたい。

兵の準備は整っている。

後は、龍剣が何かしらの問題を起こすのを待つだけ。

横になって、それを待つ。

今は、余計な事はしない方が良い。

それは、連白も分かっていた。

 

4、隠者の苦悩

 

無念だ。

山霊はそう呟いた。

周嵐は、頭を下げて話を聞いている。

山霊自身は、もう庵から出る気が無いと言ったが。

それでも、出て来てほしいと周嵐は思っている。

龍剣は命にかけても説得する。

そう言ったのだが。

山霊は、首を横に振った。

「龍剣はもはや私の言う事など聞かぬ」

「丞相は最後まで、山霊車騎将軍に対して丁寧な言葉遣いでした。 今も敬意は失っていないと思います」

「敬意は失っていないかも知れないな。 だが、そもそも龍剣は私の言う事を半分も聞かなかったのだ」

「……」

そう言われると、周嵐には反論も出来ない。

周嵐はたたき上げだ。

元々将軍として地位も低かった。

龍剣が出世させてくれたのだ。

だからこそ、龍剣が独自の考えをもち。

その考えは龍剣の中で絶対であり。

周囲とも相容れない。

それはよくよく、実際に自分の目で見て確認していた。

それでもだ。

「私は武人として、龍剣丞相を支えたいと考えています」

「それは意地からか」

「いえ、武人としてあるべき姿だからです」

「そうか。 そなたも結局は龍剣と同じなのだな」

山霊は首を横に振る。

そして、古い話を始めた。

「私はもう随分と長い時間を生きてきた。 七国の時代には、こんな隠者気取りの生活もしていなかった。 真面目に将軍をしていて、各地で転戦して、勿論負けたことだってあった。 最初に仕えたのは、七国がまとまった頃には存在していなかった国だ」

「山霊車騎将軍が負けたのですか」

「驚くことはない。 今だって負けた結果庵にいる」

「それは……」

確かにそうかも知れないが。

周嵐は、まだ負けを認めていない。

此処から巻き返せる。

そう信じている。

「ほこらから現れた人間をすぐに戦場に駆り立てていたような時代だ。 戦場にはそれこそ場合によっては子供ですら武器を持たされ立たされていた。 毎回たくさんの人が犬死にし、それでも王を気取る輩は偉そうにしていた。 私の献策が当たっても、讒言して私を貶めようとする輩はそんな時代からいた」

「昔から、人は変わらないのですね」

「そうだ。 だから私は統一がなったときには驚いた。 そしてしばらくは央の治世も見てみようかとも思った。 その結果は失望であったがな」

央の武帝は何を考えていたのか、昏帝を跡継ぎにした。

山霊は強く失望した。

世が乱れるのは目に見えていたからだ。

今でも理由はよく分からない。

ただ分かる事もある。

央の治世はもたなかったのは事実だと言う事だ。

「周嵐。 何があっても生き延びる覚悟はあるか」

「はあ……」

「各地に央の役人がまとめた書類が隠された。 戦禍を逃れるためだろう。 それらの一部は見つけてある。 それをお前に託しておく」

「!」

そうして連れて行かれる。

蔵があった。

蔵の中には、大量の竹簡があり。

それをそのまま引き渡される。

勿論一人で持って行ける量では無い。

特に龍剣には見つからないようにと言われたので。

周嵐は部下達を呼び。

数日を掛けて、書類を引きだしていた。

竹簡の量は膨大だったが。

いずれもが、研究の結果を記したものだった。

すぐには読めない。

だが、周嵐の部下も動員して、中身を読んでいく。

中の世界についての詳細な記録。

広さなどの正確な測定。

更には、四方に広がる霧について。

霧に近付くと姿を見せる龍について。

今まで噂でしか聞いていなかった事が、詳細な情報として遺されている。

ほこらについても、知らない事が幾つも記されていた。

それだけではない。

技術的には出来るが、作っていないもの。

それらもたくさんある。

なるほど、作れば病になる。

央は人材が枯渇していた。

だから、次世代に託したと言う事か。

武器などの改良案。

たたらなどの技術についても改良案がたくさん載せられている。

勿論あくまで改良案だ。

実際に試行錯誤して見ないと、何が本当に役立つかは分からない。

央は出来る事を優先順位を確認しながら実施し。

国力を消耗しきる前に、出来る事だけをやったのだろう。

その成果がこれだった、というわけだ。

龍剣には見せられない。

龍剣が見たら、猛り狂って全てを焼くはずだ。

全てを確認した後、蔵をそのまま埋めさせる。

そして、信頼出来る部下達に言い含めた。

「いずれ我が軍は滅びる」

「不吉なことを言いなさいますな」

「いや、山霊車騎将軍を追ってしまった時点で、我が軍の命運は尽きた。 機動軍は二万、質を落としてせいぜい三万用意できれば良い方の我が軍に対して、敵は精鋭を二十万は繰り出してくる。 そればかりか、それを率いているのは劉処将軍を破った韓新だ。 あの龍剣丞相ですら、韓新を破る事はできなかったのだ」

部下達が悔しそうに俯く。

分かってはいるが。

事実は事実として認めなければならない。

「私はもう少し山霊車騎将軍を説得してみる。 龍剣丞相もだ。 それで斬られるかも知れない。 また連白が攻めてきたら、最後まで私は戦い抜くつもりだ。 その時も、斬られるかも知れない。 いずれにしても、そなた達は宝を離れよ。 任務で外に出すという事で、書類は私が作る。 清に潜伏し、宝が連白の手に落ち、私が死んだら……連白の所に出頭し、この書類のことを伝えてほしい」

「ははっ。 命に替えましても」

「うむ。 では行ってくれ」

部下達は泣いていた。

だが、周嵐は一緒に泣いている訳にはいかない。

やる事がある。

まずは龍剣だ。

屋敷に出向く。

今日も酒を浴びるように飲んでいた。

使用人は一人もいない。

当たり前だ。

凄まじい殺気と怒りが充満している。

余計な事を言えば、一瞬で殺される。龍剣は酒を気を紛らわせるために飲んでいるのではない。

あらゆる怒りが、酒を飲ませないと精神を狂わせてしまう。

だから酒を飲んでいる。

いや、酒に逃げているのだ。

周嵐は凄まじい酒の臭気の中行く。

そして、酔眼を向けられながらも跪いた。

「山霊車騎将軍に会って参りました」

「……先生はなんといっていた」

「無念だと」

「……無念か。 そうだろうな」

がぶがぶと、酒を飲む。

高い酒だろうに。

何て飲み方だ。

龍剣は酒臭い息を吐きながら言う。

「周嵐。 私は……山霊先生を信じたい」

「信じてください。 山霊車騎将軍は、裏切るような真似は絶対にいたしませぬ」

「だが、私の中の信念がどうしても山霊先生を信じられないのだ。 私の中には、鉄のような信念が息づいている。 その信念は、周囲を傷つける。 それは分かっているのに、私はそれをどうにも出来ない」

「丞相!」

分かっていたのか。

龍剣の中にある信念が、あまりにも鋭すぎると言う事は。

だが、分かっていたとしても。

もはやどうにもならない。

どうにもならないのである。

「周嵐。 一つ指示を出しておく」

「何……でしょうか」

「周王を殺しておけ」

「!」

周にて確保してある周王。

あの林紹に担ぎ上げられた各地の王の一人。

勿論無能で何の役にも立たない存在だが。

それはそれとして、旗印に担ぎ上げられると面倒な存在でもある。

法悦辺りに奪われると、更に反乱が加速するだろう。

「別に殺した事は喧伝しなくても良い。 殺すだけで良い」

「丞相、生かして使う事は出来ないのですか」

「あいつに関してはできない。 恐らく連白でも殺す事を選ぶだろう」

「……唐王もそう思って殺したのですか!」

周嵐は、思わず声を荒げていた。

相手の逆鱗に触れたら殺されると分かっていても、である。

龍剣は、怒らなかった。

寂しそうに笑うだけだった。

「唐王と周王は状況が違う。 私の中に住んでいる虎、龍、なんでもいい。 とにかくどうしようもない信念という怪物が唐王を殺した。 周王は生きているだけで周囲に害悪をばらまく輩だ。 実は山霊先生に早めに何かしらの手は打っておけと言われていた。 それを実施してほしい。 それだけだ」

「……分かりました。 周王については私が手を汚して参ります」

「頼むぞ」

「しかしながら、山霊車騎将軍については、迎え直してください。 心の中に住んでいる怪物など、最強の武勇でねじ伏せれば良いではないですか」

龍剣は出来ない、と言った。

大きくため息をつくと、周嵐はその場を後にする。

酒に逃げるしか無くなった龍剣は。

もう、未来の姿を暗示しているかのようだった。

 

(続)