落日の刺青

 

序、敗戦

 

鯨歩が声を張り上げる。五千の兵が、それに続いて突貫する。

冷静に劉処はそれを受け止める。

勿論もう陣頭での一騎打ちなど受けない。

義理は通してくれた。

だから、劉処には恨みは無い。

鯨歩は荒れ狂う。

ついてきただけの雑兵達も、それを見て興奮し、暴れ回った。

だが冷静な用兵の前に、弾き返されるばかり。

せめて兵力が互角ならば。

やがて、疲れきったところに。

周嵐が此方の背後に回り。

どっと、鯨歩の率いる五千に十倍する、劉処の軍が動き出したのだった。

そうなるともはや戦いどころでは無い。

押し包まれると、今までの興奮など消し飛ぶだけだ。

恐怖が兵士達の心を一色に塗りつぶし。

右往左往するところを叩き潰されてしまう。

城を守るために編成される兵士はまだいい。

やる事が限られているからだ。

野戦を行うために編成される兵士は、ありとあらゆる訓練を受ける。

一人一人での武勇で勝っていても、集団には絶対に勝てない。

そういうものである。

瞬く間に押し潰されていく鯨歩の軍。

必死に血路を開いて逃げに掛かるが、周嵐の動きが嫌みな程的確で、兎に角囲みを突き崩せない。

そんなとき。

不意に、横やりが入った。

一閃される劉処の軍の一角。

何処かの軍が、極めて鮮やかに突き崩したのだ。

その隙に、逃げる。

だが、鯨歩が挙兵した頃からつれていた部下達をはじめとして。

兵士は殆ど包囲を抜けられなかった。

脱出できた兵は二百名程度。

五千の兵の内大半は降伏。

残りは討ち取られたようだった。

命からがら逃げ出す鯨歩は山の中に逃げ込み、周に入り込んだ。あの軍、五千ほどだったが。

一閃するように劉処の軍を薙ぎ。

そして戻っていった。

呼吸を整える。

知らない兵士ばかりしか周囲にいない。

これは、挙兵した頃の部下は全滅と見て良い。

悔しくて、歯ぎしりする。

鯨歩は山の中で死ぬのかと思ったが。

怒りが、死への衝動を抑え込んだ。

兵士達をまとめる。

もう行く場所もない兵士達だ。戻っても龍剣は気むずかしい。鯨歩を殺したと言って降っても、殺される可能性が高い。

それは事前に話してある。

だから、誰も逃げ出すことはしなかった。

周の山深い中を歩いて行くと、要塞地帯に到着する。

周は今、幾つかに別れている。韓新の配下に抑えられている要塞。中立を気取りつつ実際には韓新に従っているも同然の独立勢力が抱える要塞。それと于栄と官祖の軍に抑えられている要塞の、三種類である。

今目の前にある要塞がどれなのか、すぐには見分けがつかない。

無能かも知れないが。

それでも、鯨歩は必死に宋で政務をしていたのだ。

身内で争い始める文官達を働かせ。

二線級の兵で宋を守ってきた。

その果てがこの仕打ちだ。

怒りで胃が焼けそうな中、部下を見回す。見てこいとはもう言えない。部下達も疲れ果てているのだ。

そんな中。

不意に知らない声がした。

「鯨歩将軍」

「誰だ」

「細作にございます」

木の上にいた。

いつの間に。

韓新が使っている細作か。

それとも張陵か。

いずれにしても、どちらかがごそごそしていたことは分かっている。鯨歩をはめたのかもしれない。

いや、そうとも言えないか。

どちらにしても、鯨歩の破滅は決定的だったのだから。

今になって思えば、宋を与えられたことだけで満足しているべきだったのかも知れない。

明らかに欲を掻いたのだ。

そして欲は際限なく肥大化する。

自分でも、いつかそれに気付けていなかった。

だからこうなった。

代償が大きすぎた。

昔の仲間はみんな死んだ。

「これより城に案内します。 ついてきてください」

「……わしを殺すつもりか」

「殺すつもりなら幾らでも好機はありました」

「それもそうだな。 それにもうどうでもいい。 好きなところにつれていくが良い」

頷くと、細作はひょいひょいと木の上を移動していく。

その後をついていくと。

要塞の前で、礼をして誰かしらが待っていた。

「魯湾と申しまする」

「連白どのの武将だな」

「いかにも。 此方へ」

「……」

案内されたのは静かな部屋だった。

しばらく休めというのだろう。

そうさせてもらう。

それに、もう行く場所なんて何処にも無い。

殺されるのなら。

それはそれで、仕方が無い事だと鯨歩は思った。

鯨歩は昔から問題ばかり起こしてきたが、そもそも親が決定的だったと思う。

酒ばかり飲んでいるろくでなしで、早々に鯨歩はそいつを見限った。

色々とあって問題ばかり起こしている内に。

体中刺青だらけになっていった。

結果が鯨歩である。

元は違う名前だったのだが。

もうそれはどうでもいい。

今は鯨歩だし。

死ぬのも鯨歩としてだ。

少なくない兵士を巻き込んだが。三万いた兵のうち、二万五千は鯨歩に従うのを拒んだ。流石にあの者達は殺されないだろう。

考えてみればあの二万五千。

恐らく仮に劉処に勝てたとしても。

その後に来るのが龍剣だと悟って、逃げたのは間違いなかった。

溜息が漏れる。

悲しい話だった。

どうにもならない話だった。

だから、もう今は焼け鉢になっていた。

しばらく眠る。

寝ている間に殺されてしまえば良い。

そうとさえ思った。

鯨歩という人間は、この時。

何かを捨てたのかも知れない。自分ですら、そう思った。

しばらく眠ってから起きだす。

食事の準備が出来ていると言う事で、出向く。毒入りかも知れないが、まあそれはやむを得ないだろう。

酒宴の準備がされていた。

最後の酒宴かも知れないな。

そう思う。

酒宴にはかなり贅沢な料理が出たが。ぼんやりとそれを食べる。美味しいとは思うが、それだけだ。

宋の事実上の指導者として過ごしていた頃。

周りは小うるさい文官だらけで。

実際問題、贅沢なんて許されなかった。

文官共は収入として得た卑をどれだけ龍剣に送るかだけを考えていた。

文官達が贅沢をしていたのなら、鯨歩も文句を言えただろう。

だが文官共は何が楽しくて生きているか分からないような禁欲的な連中で。

影で贅沢をしているというような事もなかった。

調べさせたのだ。

結果としては、山霊に徹底的に教育された文官達で。

そういった禁欲的な生活をする訓練をずっと受けていたことが分かった。

鯨歩は閉口した。

破落戸どもを束ねていた頃の方が、まだマシな生活をしていたかも知れない。

事実部下の元破落戸も。

時々鯨歩に文句を言いに来る事があったのだ。

あいつらにも。

少しは贅沢をさせてやりたかったな。

そう思って、虚しい宴を見やる。

生き延びたわずかな兵士達も、宴は楽しめてはいるようだが。

酒に逃避してケラケラ笑っている一部を除くと。

後は皆、呆然としていた。

酒宴が終わるとまた休むように言われ。

護送突きで、商に移動する事となった。

韓新がいる所か。

護衛と称して、魯湾がついてきている。

まあ実際に獣も出そうな山だ。護衛や道案内がいるのも事実だろう。

ほどなくして、山の頂上に出て、麓を見渡せる。

狭いながらも。

そこそこ豊かそうで、人も集まっている場所が鯨歩の目に映った。

あれが、商か。

始まりの地。

混乱の中七国が出来ていく中。最初に国の体裁が整えられた場所。

確かに周囲全てに同じ距離を保ち。

更に要塞とも言える土地だ。

だがそれが故に、交通の利便は決して良くない。

商が七国時代。

終始「最弱」だったのも。この土地を見れば分かる気がする。

軍だけなら宋よりはマシだったらしいが。

経済力を考えると。確かに第三の穀倉地帯を抱える宋とは、勝負にすらならなかっただろう。

促されて、そのまま商へ。

屋敷に案内されると、連白がいた。

鯨歩はそのまま跪く。

眠そうな目をした小柄な女。

その言葉を聞いた破落戸は、何故か悪さをしなくなるとは聞いていた。

破落戸の間の情報網はかなり広く。

鯨歩の所にも、その噂はあったのだ。

変なのがいる。

どんな悪辣な破落戸も、其奴の前に出ると大人しくなって悪さをしなくなる。

それでいながら別に破落戸を否定するような事もなく。話もしてくれるし、一緒にもいてくれる。

破落戸以外の者にも優しく。

誰にも慕われている。

連白が無名の時代から、そんな噂が鯨歩の所まで来ていた。

当時は笑い飛ばしていたが。

連白が簡庸をあの龍剣より先に落とした時。

笑いは一気に引っ込み。

薄ら寒さが逆に背中を這い上がったのを覚えている。

当時は龍剣の武将として、劉処と肩を並べていたっけ。

「鯨歩将軍、援軍が間に合わず済まなかった」

「いえ、錐水の戦いでの大敗で、それどころではなかっただろうに。 囲みを突破してくれたこと、感謝しております」

「そうか。 だが鯨歩将軍はこの間用意した宴でも疲弊しきった様子だったと報告を受けている。 無理はしなくても良い」

「……」

何だか、声を聞いているとクラクラしてくる。

何だこれ。

声そのものに仕掛けがあるのか。

いや、そんな事はない。

普通の声だ。

実際連白に従っている奴は、例えば法悦の配下のような。心を弄くられて、木偶になっているような連中とは違う。

顔を上げて連白を見る。

威厳なんかない。

人間として完成形に見える龍剣と違って。

連白は、ごく当たり前に。その辺で何をしているかよく分からない輩に見えた。

だが此奴があの龍剣の軍と何度も戦い。

討ち取られていないと聞くと。

確かにそれも頷けるのである。

不思議な話だった。

「これより韓新将軍が、宋を攻略する」

「!」

「その後、宋の守備を任せたい。 宋王になってもらいたいとも思っている」

「……いや、王は分不相応だとわかりましてございまする。 以降は麾下の将軍として、働きとうございます」

宋の守備はいい。

だが、宋にずっといるのは正直もういやだ。

それに関しては別の将軍を派遣してほしい。

そう言うと。

後は言葉に甘えて休ませて貰った。

宋は、嫌だ。

破落戸時代から一緒にいた仲間を皆失った。龍剣のよく分からない思想に振り回されて、汚れ仕事を散々させられた。

それでいながら誇りを粉々にへし折られ。

挙げ句に勝手に失望したとまで言われた。

龍剣は自分が世界の中心にいるとでも思ったのか。

もう、何もかも忘れたかった。

屋敷を貰ったので、其所で休む事にする。

ついてきた兵士達も、皆死んだように休んでいた。

石快が来る。

確か、連白の護衛をしている強者だ。

武勇はほぼ似たようなものだが、一目で分かった。

若干向こうの方が強い。

だが、兵を率いての戦いなら、鯨歩の方が強い自信がある。

だから、それで良い。

「鯨歩将軍」

「石快どのか」

「俺も負け戦には慣れている。 何か愚痴があるのなら何でも聞くぜ」

「そうか。 だが今は一人にしてほしい。 ただ酒と……」

酒と、何だ。

よく分からない。

ともかく酒を浴びるほど飲みたかった。

酒を飲んで、しばらく過ごして。

頭がはっきりしてくると、外が騒がしい事に気付く。

韓新が鍛えた兵が出陣していく、と言う話だった。

商で徴募したものだけではないらしい。

いずれにしても、のぞき見したが。

想像を絶する統率が取れた軍だった。

これは龍剣が率いている精鋭を除けば。

恐らくこの中の世界においても最強の軍では無いのだろうか。

最強時代の央の軍より強いのではあるまいか。

そうとさえ見えた。

軍は規律だけでは無い。装備もしっかりしている。

攻城兵器部隊もいることを考えると、宋を一気に落とすつもりなのだろう。よく分からないが、民も連れている。

何だろうあれは。

興味を持って、貰った屋敷から這い出てみる。

周囲で歓喜の声を上げている民がいたので、話を聞いてみると。

どうやら土木工事をするための民で。従軍することでかなりの金を貰えるのだという。

軍の編成としては妙な気がするが。

護衛として部隊がついているようなので、恐らくは軍に組み込まれているものではないのだろう。

それに、民も嫌がっている様子は無い。

あれは命知らずなのでは無い。

韓新についていけば勝てるという、圧倒的な信頼があると言う事だ。

この間の錐水の戦いで、連白が連れていった軍、清軍、ともに壊滅的な打撃を受けたというが。

龍剣の率いる八千の精鋭も、今までに無い大きな被害を受け。立て直しには最低数ヶ月かかると聞いている。

その数ヶ月を使って、あの韓新は宋を固めてしまうつもりなのだろう。

龍剣が宋に立て直した軍をつれて攻めこもうとしたときには。

既に宋は、要塞国家に生まれ変わっているに違いなかった。

恐ろしいな。

そう鯨歩は思う。

連白が負けたことは、恐らく全て想定内。

その中で、負けたときにどうするかを考えて動いていたのは確実だ。

そうでなければ、ここまで完璧に兵を整え、出陣など出来ないだろう。

なるほど、少し間違えていれば、この軍勢と戦わされていたのか。

鯨歩は軽く笑いが漏れてきた。

そして悟る。

龍剣は、負けるなと。

 

1、雪崩

 

宋に駐屯した劉処から報告が来る。

商の韓新が南下を開始。軍は最低でも機動軍三万。四万を超える可能性も高いと言う事だった。

すぐに援軍をと思ったが。

しかしながら、龍剣の率いている精鋭八千は再編成の途中だ。

この間の錐水では、今までに無い強力な敵を相手に、流石に多くの被害を出した。

勝ちではあったが、完勝では無かった。

今龍剣は動けない。

明は山霊が。

商は于栄と官祖が守ってくれている。

だから、方法は一つしか無い。

周嵐を呼ぶ。

宋から戻って来ていたばかりだが、やむを得ない。

周嵐は手堅く仕事が出来る将だ。

他の誰からも信頼されていて、用兵の力量も確かである。

龍剣に正論を躊躇無く叩き込んでくる事を除けば、龍剣としても評価が高い将軍だ。

言う事がとにかく正しいので、反論できず。

そういう意味では山霊先生に似ていて。

嫌いでは無いが。

苦手な相手だった。

宮殿に来た周嵐は、すぐに礼をする。

頷くと、龍剣は指示を出した。

「宋に敵が侵入を開始した。 兵は三万とも四万とも聞いている」

「分かりました。 ただちにとって返し、劉処将軍を救いまする」

「うむ、話が早い。 すぐに行って欲しい」

「ただ問題なのは、機動軍のうち無事な部隊が多くありませぬ」

この間、鯨歩を討つのに使った機動軍は、そのまま宋にいる。

五万ほどのこの機動軍が、龍剣の軍における機動軍のほぼ全てだ。

残りのうち五千ほどが周嵐の麾下にいて。

戦いが終わると同時に、一緒に宝に帰還した。

これは、各地の部隊が防衛用の部隊ばかりだからで。

機動軍が枯渇していたからである。

如何に龍剣の精鋭八千が、この軍を支えていたか明白だった。

「五千を連れていきますが、もしもの事があれば我が軍の機動戦力は壊滅してしまいまする」

「ふむ……」

「如何いたしましょう」

「分かった、それならばいざという時のために、再建時に中核となる兵が必要となるだろう。 三千を連れていけ」

頷くと、周嵐は三千を連れて、宋に向かった。

相手は韓新。

商をあっと言う間に制圧し。

要塞山岳地帯だった周の西半分も瞬く間に制圧した。

昔龍剣の配下だった者。

その頃は醜聞がゆえに相手にもしていなかったが。

山霊先生からは、高く用いるようにと言われていた。

今になって後悔するばかりである。

山霊先生は言い方こそ厳しいが。

確かに正しい事を言っていたのだ。

もし宋を韓新が守っていたら。

こんな事にはなっていなかったのだろうから。

何だかおかしな事になっている。

この間、錐水で連白の軍を壊滅させてやったはずだ。それなのに、いつのまにか守勢に回っている。

周にも明にも、攻勢に出られる余裕のある軍など存在していない。

これは本当に、どういうことなのか。

龍剣は混乱するばかりだった。

政務を切り上げると。

屋敷に戻る前に、細作を集める。

山霊先生が鍛えた細作だ。

皆腕は確かである。

「そなた達は、皆宋に出向き、戦いの結果を見て参れ」

「分かりました。 直ちに」

「うむ……」

韓新がどうやって勝っているのかには興味がある。

商や周で実績を上げているのは確かだ。

龍剣も用兵家としては興味がある。

劉処が敗れるとは思わないが。

もしも敗れた場合には。

その時には、脅威と認識しなければならないだろう。

やがて、開戦したという報告が入る。

兵の再編成を急がなければならないと、龍剣は思った。

 

劉処の率いる五万に、急いで駆けつけた周嵐の三千。

これが、韓新の軍およそ三万から四万を相手に、にらみ合う。

何故数が曖昧というかというと、よく分からないから、である。

韓新はどういうわけか土木工事か何かをする部隊を連れていて。

それが背後に控えている。

その中に戦闘部隊がいる可能性もある。

もしいた場合を考慮すると、一万程度の振り幅を想定しなければならなかった。

広大な穀倉地帯を抱える宋には、会戦が出来る平原が幾つもある。

穀倉地帯を踏み荒らして、大事な卑を駄目にしてしまっては心苦しい。

そういう事もあるのだろう。

昔から、会戦を行うことを想定したらしい平原が幾つか意図的に開けられていて。

そういう場所には田も畑も作られていなかった。

にらみ合いが続く中。

周嵐が来る。

周嵐は信頼出来る武将だ。

武勇という観点では劉処や鯨歩に及ばないが。

それでも安定して全ての能力が高い。

何より寡黙な劉処には、必要な事を臆せず龍剣に言える胆力が頼もしいと感じられていた。

周嵐は敵陣を見ながら言う。

「劉処将軍、どう思われますか」

「不審だ。 そもそもあの兵力だと不利なのに、どうして仕掛けて来た」

「……韓新本人に、丞相のような武勇があるとは聞いておりませぬ。 そうなると、兵を動かす戦術家戦略家としての将軍でしょう。 商や周の電撃的な攻略作戦から、恐らく戦術家としての手腕がまず第一なのだとは思いますが。 戦略家としても相当であるかと思われます」

「その通りだ」

だから不審なのだ。

どうして出て来た。

周嵐も其所が不審らしい。

戦略というのは、そもそも戦場の外で行われるもの。

戦いを勝ちやすくするための技術のことだ。

兵を集める。

補給線を確保する。

大規模な観点で兵力配置を行う。

そういったことで、戦場の外で勝敗を決めてしまう。

だが今の時点で韓新は、宋を締め上げているとは思えない。

確かに龍剣丞相が出てこられない状況はある。

だが、あの程度の数で、五万の精鋭。

それも劉処が率いる軍にどう勝つつもりだ。

韓新が勝ちに奢った愚か者だったら、苦労はない。

だが商と周の西部をあっと言う間に落とした手腕を劉処は過小評価しない。そのまま、対陣して様子を見る。

韓新はそれを嘲笑うように。

じっと軍を動かさずにいた。

程なくして、劉処は判断した。

「敵は連白の援軍を待っている可能性が高い」

「連白の援軍、ですか」

「そうだ。 連白はこの間の戦いで大敗したが、そも簡庸を抑えている連白の軍はあんな規模ではないはずだ。 本命の軍を引き連れ、大攻勢に出る可能性が無視出来ない」

「確かにその可能性はあります」

ならば各個撃破する他無い。

そう劉処は判断し。

周嵐もそれは否定しなかった。

劉処は矛を振り上げる。

同時に、周囲の軍が、一斉に雄叫びを上げた。

突撃。

「殺!」

兵士達が吠える。

ドラがならされ、全軍が突貫を開始。

まずは数に者を言わせて猛攻を仕掛けてみる。

それで勝てるならそのまま押し切る。

勝てないのなら、何かしらの策があると見て良い。

突貫した劉処の軍は、文字通り一丸となって、沈黙したかのように黙り込んでいる韓新の軍に迫り。

そして接触した。

壁にぶつかったかと思った。

何というか、強烈な抵抗である。

敵陣があまりにも頑強すぎて抜けない。敵はごく当たり前に矛を揃えて迎撃してきているだけなのに。

その練度が尋常では無いのだ。

集団戦のやり方は、山霊車騎将軍が徹底的に仕込んでくれているが。

集団戦の手腕が互角の場合。

兵士の武芸についての熟達がものを言い始める。

敵の兵士はどいつもこいつも恐ろしく戦慣れしている。攻めこんでいる筈なのに、むしろじりじりと押されている程だ。

劉処が前線に出る。

そうすると、流石に前線を押し込める。

敵を押しながら、少しずつ進むが。

それでも抵抗は猛烈だ。

少しでも気を緩めると、一瞬にして陣を喰い破られかねない。

不安を感じながらも、徹底的に丁寧に兵を進め。

夜になるまで、苛烈な戦いを続けた。

陽が落ちたので、一旦兵を下がらせる。

味方の被害が大きい。

敵にもそれなりに損害は与えている。

その筈なのだが。

しかしながら、これはどうしたことか。

味方が完全にへばってしまっている。

敵の頑強さに苦しめられたのは劉処だけでは無い、と言う事か。

呼吸を整えながら様子を見る事にする。

「一旦兵を交代で休ませ……」

「敵襲です!」

「何だと!」

敵だって一日中戦っていたのは同じだ。しかも敵の方が実戦に出ていた兵力は少ないはずだ。

それがどうして。

ともかく対応に出るが。

夜間と言う事もある。

何が起きたのか分からない内に。

敵は姿を消していた。

味方の一部の陣が焼き払われており、蹂躙された後だった。

おのれ。

劉処は歯がみするが。

いずれにしても、ともかく兵を交代で休ませなければならない。

こんな事をさせていれば、相手はすぐに息切れするはずだ。

どれだけ兵糧を持ち込んでいようが、体が保つはずがない。

そう判断して、休むが。

だが、夜襲はひっきりなしに一晩中、小規模に続いた。

翌朝すっかり参っている兵士達を見て、これはまずいと劉処は判断。そして敵を見る限り、まるで平然としている。

そればかりか敵の後方では、なにやら土木工事が開始されている。

何をしているのか。

「細作を放て」

「既にやっていますが、一人も生還しません」

「おのれ……!」

苛立ちながらも、劉処は考える。

敵はあれだけの兵を苛烈に動かして、何故平気なのだ。

そもそも何だあの土木部隊は。

細作はどうして戻ってこない。

混乱する中、周嵐が来る。

精鋭を率いて、周囲を見て回っていたらしい。

「劉処将軍。 兵を一旦下げた方が良いかと想います」

「説明してくれ」

「敵の小部隊をかなりの数見つけました。 そもそも正面に展開している兵は、見せかけだけの可能性があります」

「どういうことだ」

頷くと、周嵐は敵の数は想定よりずっと多いのでは無いのか、という話を始める。

展開している三万だか四万だかの兵は、ただの囮。

本命は多数に散って、周囲に伏せており。

戦闘が行われるとしれっと本軍に混ざり。

そして疲弊すると、周囲に潜伏する。

「そうでなければ、あの異常な頑丈さには説明がつきませぬ」

「……」

「一度此処は下がり、敵の兵力をしかと見極めましょう」

「そうだな、分かった」

劉処も気味が悪いと思っていたのだ。

此処で無意味に戦って、敵の全容が分からないうちに負けるのは避けたい。

韓新が手強いことは想定していた。

引く位は、別に恥でも何でも無い。

一旦距離を取り、別の平原に移る。

この辺りは、穀倉地帯として使っていないものの一つだが。

同時にかなり宋の首都である淮南に近い。

城を背後にすればかなり気は楽になる。

一度負傷兵などを城に下げて敵の出方を見る。

敵はすぐに前進してきたが。

その様子を見て、味方からは恐怖の声が上がった。

「敵の兵力、十万を超えています!」

「……」

劉処も絶句せざるを得なかった。

そういうことか、異常な頑丈さの秘密は。

個々が強いだけじゃない。

十万の兵がとっかえひっかえ戦っていた、と言う事だ。

それで劉処の猛攻をいなし疲弊させ、そして後退に追い込んだ。

しかも兵士達は、昨日の異常な敵の動きを見て怖れ始めている。

これはまずい。

「劉処将軍、籠城戦に移行を。 援軍は自分が要請してきます」

「う、うむ。 しかしこれは」

「気を確かに。 敵は劉処将軍を惑わし、まずは心から踏みにじるつもりでありましょう」

「わしの心を……」

劉処は呻く。

韓新という奴が、あの要塞まみれの周の西部を落としたやり口が何となく分かってきた。

この虚実何だか分からない用兵。

敵を恐怖させることに特化させている。

兵が強いだけじゃない。

兵の強さを十全に引きだし。

まず敵の心を折る。

兵の強さは、敵の心を折るための道具であって。

兵の強さで敵を圧倒するつもりは最初から無い。

確実に勝つために、心をへし折りに来る。

それが韓新という者だ。

劉処は、踏みとどまる。

これはまずい。

このままでは、籠城しても負ける。援軍はどうせ当面来ない。しかも穀倉地帯の宋とは言え、淮南に蓄えられている兵糧なんてそれほど多くは無いのだ。何しろ龍剣丞相の所に殆ど送ってしまっているのだから。

「周嵐、突撃するぞ」

「し、しかし!」

「このまま籠城戦に移っても、味方の兵士は心が折れ掛けている! これは絶対に一勝は上げておかないと駄目だ。 総軍、我に続け!」

「……っ」

何か言いたげにしたが。

劉処の判断も正しいと考えたのだろう。

周嵐も従う。

突撃。

声を掛け、全軍で敵に一丸となってぶつかる。

十万と推定される敵軍は、それを余裕を持って受け止めてくる。

コレは恐らく読んでいたな。

激しい戦いの中、敵と渡り合いながら劉処は思う。

韓新は昔見た事がある。

山霊車騎将軍が、取り立てろと龍剣丞相に言っていて。

故郷での醜聞を理由に、龍剣丞相は報償を渋った。

そうしたら、むしろあっさりという程に韓新は出ていった。

あの時、韓新は。

龍剣という人物を、見限ったのだ。

そのつけが、今出て来ている。

まるで長城のようだ。

そう思いながら、必死に劉処は敵陣を攻めるが。文字通り敵は変幻自在。攻めても攻めてもまるで手応えがなく。

引こうとすると凄まじい勢いで矢を射掛けてくる。

守りは柔らかく。

攻めは鋭く。

これは、龍剣丞相の、圧倒的な怒濤の攻めとは相性が最悪なのではあるまいか。

呼吸が乱れる中、また丸一日戦うが。

敵を突破するどころか、被害を増やすばかり。

一度引いて兵をまとめる。

想像以上に味方の被害が増えていて、愕然とさせられた。

「周嵐! 周嵐将軍!」

返事がない。

戦死したか。

不安になったが、程なくして周嵐が現れる。胸をなで下ろす。

周嵐は、だが恐ろしい報告をしてくる。

「被害が五千を超えています。 これ以上野戦での継戦は……」

「五千! それほどか」

「これ以上は軍が瓦解します」

「分かった、籠城しよう。 ……もう少し早く決断するべきだった」

項垂れるが、もう遅い。

ともかく淮南に入る。周嵐には、援軍を呼ぶべく宝に向かって貰う。三千の兵を連れて来て貰ったが。

周嵐も一日中戦っていたのだ。

その兵は既に二千七百を割り込んでいた。

敵は周嵐の兵には興味が無いように、淮南の城を囲む。そして、周囲で何やら作業を始めた。

そういえば、ずっと作業をしていた。

何をするつもりか。

兵士達を休ませる。

劉処自身は、敵の動きを見極めなければならない。

体が限界を訴えていたが。

だが、眠るのは敵の動きを見てからだ。

「何だあれは……」

誰かがぼやく。

この世界では、新しい事を始めれば病になる。

だから、誰もが見た事がない作った事がないというものは殆どないし。

あったとしても広まるまで時間も掛かる。

衝車や投石機という攻城兵器にしても、戦場に当たり前に登場するようになるまで数十年掛かったと聞いている。

その間、多くの者が病で倒れたとも。

劉処は目を凝らす。

そして見た。

水だ。水が来る。

あの工事は、水を引き寄せていたのだ。

慌てて兵士達を城壁の上に上がらせる。

淮南からは別の街に事前に民は避難させてはいたのだが。

それでもこれは。

見る間に、城が水没していく。

城の備えが、全て駄目になっていく。

これはまずい。

劉処は、思わず呻いていた。

淮南が落ちる。

それも、貴重なる五万の機動軍もろとも。

もしそうなったら、龍剣丞相は当面身動きが取れなくなる。

宋が落ちた上にそんなことになったら。

もはや龍剣丞相は。

巻き返しが不可能だ。

 

2、水を使い水を生かす

 

韓新はそもそも、今回の宋攻めを始める前に、宋という土地を徹底的に調べ尽くしていた。

章監からもたらされる情報を元に詳細な地図を作り。

こう動けばこう敵が対応するというのを徹底的に考え。

そして兵を配置した。

劉処は正当派の用兵をするまっとうな将軍だ。

配下に置いておくにはもっとも良い、使い勝手の良い人物だが。

残念ながら総司令官には向いていない。

どちらかといえば、きちんとした参謀と組むことで戦力を発揮できる将軍で。

その実力は高いが。

はっきりいって、鯨歩と同じく。

一つの土地の守備を任せるには向いていない。

将軍として優れている事と、統治者として優れている事は別だ。

韓新にしても、文官の仕事は文官に任せている。

連白の圧倒的な人材が、韓新を支えてくれている。

それに何より、流曹が送ってくれる物資が大きい。

韓新は殆ど背後を気にせず戦えるのだ。

故に、今回の策を取った。

まずは劉処を消耗させる。

淮南に追い込む。

そして淮南に追い込んだ後、動きを封じる。

以上だ。

これで終わり。

実際、実の所水を使った工事によって、敵の城を水没させた例は存在している。

故に新しい事では無い。

これは過去、偶然起きたらしいのだが。

誰かが過去にやっているのなら既に病にはならない。

人夫はこのために連れてきた。

そしてもはや、淮南は水没。

すぐに船を作らせる。水上から攻撃するためである。

船を作らせる所は、敵からも見えるような位置で行う。

遠矢を当ててくる可能性を指摘してきたのは翼船だ。

韓新が独立行動を開始したときに、連白から借り受けた将軍の一人。

今は赤彰と並んで、韓新軍の将軍の双翼となっている。

だが、笑って返す。

仮にそれが出来る将がいたとしても、劉処だけ。

劉処一人には戦況はひっくり返せない。

むしろ一人や二人劉処が此方の兵を射貫いて見せたとして。

盾か何かで雑に防ぐ態勢を作られたら、むしろ敵の絶望を加速させることが出来る。そうなれば此方にとってはむしろ思うつぼだ。

冷酷なものいいに赤彰も翼船も言葉を無くしたが。

戦いとはそういうものだ。

徹底的に冷酷に。

徹底的に相手の心を折る。

ただし、戦いが終わった後は話が別。

相手には丁寧に接し。

捕虜を殺すような事があってはならない。

この辺りを龍剣は分かっていない。

龍剣は勇敢に戦った相手を遇することはするが。

その後は勝ったのだから当然とばかりに傲慢な行動を押しつける。

鯨歩に対しての話も聞いている。

鯨歩に対して、戦場で嬲り者にするような真似をしたという龍剣。

その後龍剣は、鯨歩に対して地位は与えたが。

名誉に関して、回復出来るような事はしなかった。

それが隙を作り。

結果として決定的な亀裂を産む事になったのである。

水がどっと流れ込み続け。

淮南の周囲は水位が上がる一方だ。

如何に元が高い城壁であろうと。

これでは意味がない。

「唐蛮」と唐が呼ばれていた七国時代。

宋は軍隊が弱く。

民を守るために、堅固な城塞を作って対応するしかなかった。唐による略奪を防ぐために、城壁はどんどん高くなり。中心都市であった淮南は、民を安心させるために、過剰なほどに城壁を厚く高くした。

それでも、周囲が堤防になり。

虎川の幾つかの支流から水を引いて流し込んでいる今。

もはやその城壁も役に立たなくなった。

七国を制した央軍は、この城壁を力尽くで攻略したらしいが。

それは完全に勝敗が決まった後だから出来た余技であって。

そもそも当時の宋軍は既に戦える状態ではなく。

この城壁があっても、まともに央軍に対応出来なかったらしい。

今は違う。

劉処の率いる強兵が入っている。

だからこそに。

容赦は出来ないのである。

「船が揃いました」

「よし。 分乗して城に近付き攻撃開始」

「攻撃開始!」

唱和する。

そして、兵士達が動き出した。

文字通り一糸乱れぬ動きである。

敵からすれば、凄まじい巨大な生物が動いているように見えるかも知れない。

船に分乗した兵士達は、大量の矢を放ちはじめる。その鏃には毒物を塗ってある。

蛇から取れる毒で。

即死させるほどの殺傷力はないが。

荒野で人を襲う獣らしく、人間を長時間掛けてゆっくり死に至らしめる。

体力がある状態なら助かる場合もあるが。

弱っている兵士には致命的になる。

勿論敵は撃ち返してくるが。

城の防御施設は大半が浸水しており、城壁の上に兵士達は追いやられてしまっている。

恐らくは劉処が最悪の事態を考慮し。

先に民は逃がしてあったのだろう。

多少籠城戦が長引くかも知れないが。

そんな事はどうでもいい。

いずれにしても。

龍剣は間に合わないし。

龍剣が来た所で。

韓新なら勝てるからである。

手の内と、龍剣の戦闘力の具体的な上限が分からなかった昔だったら、不覚を取ったかも知れないが。

今はそれもない。

商で準備した大量の矢を叩き込んでいる内に、見る間に敵の被害は増えていく。

五万の機動軍も、城に押し込まれ。

身動き取れずに矢で討たれ続ければ、士気だって下がる。

勿論反撃はしてくるが。

此方は好き放題水上を動き回りながら矢を放てるのに対し。

敵は満足に動けず浸水している城内を見ながら、限られた物資で抵抗してくるしかないのである。

三日掛けて敵をなぶり殺しにしていく。

反撃はあり、思ったより被害が出るが。

それでも想定の範囲内だ。

韓新は戦闘で出る被害は、常に想定していて。

その想定を上回ったことは一度もない。

商、周と転戦してきて一度も、である。

恐らく今後もだろう。

腕組みしてじっと様子を見ている内に。

敵の継戦能力がなくなったことが分かった。

もう充分だろう。

一旦兵を下がらせると、武芸に自信がある赤彰に、矢文を打ち込ませる。

劉処に対してのものだ。

兵は逃がしてやる。

その代わり出てこい、というものだ。

事実上の降伏勧告である。

劉処は物静かな男で、余計な事は一切口にしない。

援軍など来ないことは、ここしばらくの戦いで思い知っただろう。

それに既に淮南周囲の城も落とし、守りは固めている。

仮に援軍が来たとしても。

其所で迎撃するだけだ。

淮南には近寄らせもしない。

返事を待つ必要もなく。

一日、更に容赦なく攻撃を加える。

情け容赦ない攻撃で、敵は相当数の犠牲を出しているのが分かる。

勿論此方も犠牲は出るが。

想定の範囲内である。

やがて、矢文が打ち込まれてきた。

内容を確認すると、話を受ける、と言う事だった。

頷いて、包囲網の一部を開けさせる。

他の武将なら、自分も逃げ出すかも知れないが。

劉処はそうしなかった。

もしも劉処が現れなかった場合。

情け容赦の無い追撃が行われ。

疲弊した麾下の軍は文字通り全滅する。

それを悟っていたからだろう。

もはや戦う事すらせずに勝つ。

その結果がこれだ。

劉処自身は、屋内の水没した建物のうち、何とか使えそうなものを使って作った粗末な船で此方に来た。

他の兵士達は、似たようにして作った船で、少しずつ逃げ出して行っている。

劉処は疲弊の色が強く。

何より死相が出ていた。

矢を浴びたのだろう。それもたくさん。

兵士達を庇って。

出頭してきた劉処は、約束は守って欲しいといい。

韓新は頷いた。

彼処まで叩き伏せておけば、再編成には当面時間が掛かる。

山霊が鍛え。

歴戦を経験してきた兵士達だろうが。

一方的に嬲られて、心を折られてしまった今は。

もはや雑軍に等しい状態だ。

再訓練を受けても復帰出来る兵士は半数もいないだろう。

そして何より。

三万程度にまで数は目減りしてしまっている。

それだけ容赦の無い攻撃を受けたのである。

あれはもう。

軍の残骸だった。

人を逃がすために。

生かすために。

劉処は、己が犠牲になる事を厭わなかった。

劉処は斬るように、と言った。

韓新は答える。

「貴殿ほどの責任感のある勇将を無意味に死なせる事はしたくない。 是非、我が軍に入って連白どのに仕えてほしい」

「気持ちは有り難いが、二君には仕えぬ」

「龍剣はそなたの武勇に答えたか。 答えておるまい」

「……それは事実だ。 だがそれでも、私はあの方に仕えると決めたのだ」

これは、駄目だな。

章監のように、そもそも央に仕えていたわけであって。龍剣に心服したわけでもない。

ずっと龍剣の麾下で地味に確実に戦歴を上げてきた勇将は。

如何に報われなくても、それでも最後まで殉ずることを選ぶか。

ため息をつく。

韓新は、劉処に矛を渡すように指示。

赤彰を立ち会わせる。

劉処は喜んだ。

「ありがたい。 では、いざ」

「劉処将軍、お相手いたす!」

「おおっ!」

劉処が赤彰に打ちかかる。

怪我と疲弊でどうしようもなくなっているだろう体だろうに。それでも、凄まじい気迫が周囲を圧した。

赤彰はかなりの豪勇の持ち主だが。

それでも、圧倒的な最後の気迫には、一合二合と、本気で打ち合っていた。

だが、気力だけではどうにもならない。

人間は気力だけでは動けないのだ。

やがて赤彰が押していく。

当たり前の話だった。

矛が劉処の頭をたたき割る。

倒れた劉処は、何か口を動かしたが。

聞き取ることは出来なかった。

死体は消えていく。

劉処という人の心を示すように。

一振りの剣だけが残っていた。

 

龍剣は愕然とした。

周嵐の援軍要請を受けて、兵をかき集めていたところだった。麾下の八千が再編成途中だと言う事もあり。その軍をつれて援軍に出向く予定だったのだが。

既に宋は落ちたと報告が来た。

それだけではない。

程なくして、逃げ帰ってきた劉処の軍。

五万は三万にまで目減りし。

それどころか、殆どの兵士が使い物にならないほど、心を痛めつけられてしまっていた。

「何があった!」

「……」

殆どの兵士が虚ろな目をしている。

龍剣が胸ぐらを掴もうとするが、それを周嵐が制止した。

やがて、一人。

劉処につけていた武将が声を上げる。

まだ、それなりに口が利けるようだったが。

それでも疲弊しきっていた。

「韓新に敗れ、淮南に追い込まれた我が軍は、水攻めを受けました」

「水攻め、だと」

「恐らく川から水を引いてきたのだと思います。 淮南の堅城の周囲には堤防が作られ、水が流し込まれました。 後は城内が浸水し、高き壁も意味を成さなくなり。 見せつけるように船を作った韓新は、水上から一方的に身動きが取れなくなった此方に矢を放ってきました」

怒りに震える龍剣の前で。

その武将は屈辱に満ちた声で言う。

「恐らく矢には毒が塗られていたらしく、兵士達はばたばたと倒れていきました。 卑もつき力も出ない兵士達を必死に叱咤していた劉処将軍でしたが、劉処将軍も毒矢を多数浴びておられて……」

「おのれ、卑劣な……」

龍剣は呟くが。

戦闘そのものに卑劣もなにもない。

戦場では勝った者勝ちだ。

それについては龍剣だって分かっている。

だが、そう呟かないと。

心を落ち着かせる事が出来なかった。

続きを聞く。

「我が軍は半減し、生き残りも動ける状態にはなくなりました。 其所へ敵から、劉処将軍の命と引き替えに、兵は助けると申し出があったのです」

「情けなくもそれを受けたのかっ!」

「劉処将軍は、兵士達を助けるために、我等に兵を率いて戻れと。 我々将は責任を幾らでも受けましょう。 しかし兵達には寛大な対応をお願いいたします」

「……よく吠えた」

龍剣は怒りに全身が震えるほどだったが。

それでも、何とか押さえ込む事にした。

屋敷に大股で戻る。

すぐには判断しない方が良いと思ったからだ。

機動軍が事実上の全滅。

想像を絶する損害だが。

そもそも龍剣麾下の部隊も、この間の錐水の戦いで半減している状態である。再編成がまだ終わっていない。

戦える状態ではない。

防衛用の部隊は周にも明にもいるし、何より宝だって錐水の戦いの教訓を経て。兵をまとめている。

防御態勢はしっかり固めているが。

それだけだ。

後は清を落とされたら。

いよいよどうにもならなくなる。

何より、穀倉地帯である宋を落とされてしまったのだ。

今後、兵の規模を拡大するのは不可能。

唐本土を守るのも無理だろう。

苛立ちに歩き回る。

使用人は怖れて、屋敷を出て行ってしまった。

龍剣が本気で苛立っていること。

そんなときの龍剣が、何よりも恐ろしい事を知っているからなのだろう。

しばらく酒を飲んで、気晴らしをする。

呼吸を整えて考える。

劉処が敗れた。

最大の部隊を与えたのに。

確かに韓新が手強い相手であることは分かりきっていた。

だがそれでもだ。

それでも、あの劉処が敗れたのはどうにも信じがたい。周嵐までつけたというのに。一体どうしてだ。

そもそも、どうして韓新は連白の所に行き。

連白はあんな奴を評価した。

韓新が強い事は認めるが。

それでも、勝つためにはどのような事でも平気でするような輩だ。

理解出来ない。

理解出来ないぞ。

龍剣は苛立ち混じりに酒を飲んだ後も歩き回り。

しばらく怒りに満ちた目を周囲に向け続けたが。

やがて、頭も冷えてきて。

どうするべきか考えた。

まずは山霊先生に戻るように指示を出す。

兵をどうにかしなければならない。

守ってだけではいずれ敗れる。

劉処を失った以上、新しく武将を補充しなければならない。

今のところ、味方には各地を転戦している于栄と官祖。それに周嵐の他には、山霊先生くらいしか、一線級の武将がいない。

山霊先生が側にいれば百人力だ。

韓新が相手でも。

張陵が連白の側にいても。

負ける事はあり得ないだろう。

だが、山霊先生の言う事を自分は聞いていたか。

やはり何度も言われているように。

半分程度しか聞いていないではないか。

酒のせいか、思考が混濁している。

だからか、普段だったら湧いてこないような思考が出てくる。

山霊先生への不信。

山霊先生は、こんな自分を見限るのでは無いかと言う不安。

普段だったらありえない不安が。

どうしても胸の内に湧いてくる。

目が覚める。

苛立ちは収まらない。

いつの間にか、柱を背に寝てしまっていたらしい。

まずは政庁に出る。

酒が抜けきっていないが。

指示を出すしか無い。

「山霊先生を明から呼び戻せ。 兵の再編成が必要だ」

「分かりました。 直ちに」

「明は周嵐、そなたに任せる。 守に徹するように」

「承知」

すぐに周嵐が出ていく。

嘆息しながら、周囲を見る。

小粒な将ばかりだ。

連白の所に鯨歩が行き。

劉処を失った今。

武将の数はどんどん減っている。

龍剣自身が出れば、誰が相手でも勝てる自信はあるが。ただそれだけだ。他の戦場はどうにもならない。

それが今回の件でよく分かった。

錐水の戦いでは勝った。

だがその代償のように宋を失った。それに、連白のことだ。このままで終わらせる訳がない。

山霊先生が戻る。

険しい顔をしていた。

龍剣に小言を言うのかと思ったが、違った。

「清に連白が侵攻を開始した。 兵力は五万を超えておる」

「何ですと」

「簡庸の経済力のなせる技だ。 そなたが簡庸にいれば、このような事にはならなかったのにな」

「……」

あんな軟弱な場所。

故郷に宝を飾らずしてなんとする。

そう思って、後にした簡庸。

それが間違いだったと、今更ながらに思い知らされる。

山霊先生は、厳しい口調で言う。

「劉処を失ったそうだな」

「はい」

「やむを得ぬ。 劉処より韓新が上手だった、と言う事だ。 もはやそれを言っても仕方が無い」

「何かここから打開策はありますか」

首を横に振る山霊先生。

そうか。

この人を持ってしても、この状況の打開は不可能か。

「清は恐らく落ちる。 この間の大敗で、清王は麾下の軍を消滅させた。 連白は余力を残しながら常に戦っているが、清王は違った。 五十幾つあると自慢の城も、次々に連白になびいている。 そして此方は、それを指をくわえて眺めるしかない」

「今は、兵を再訓練し、再編成するしかありませぬか」

「そうなる。 まず宋を奪還したいところだが……」

状況的に厳しいと、山霊先生は言った。

商にて兵を集め続けた韓新の軍勢は十万。しかも宋を抑えたことで、更にこれが増える事は確定だ。

宋は宝に近く、いつでも韓新の精鋭が攻めこんでくる事を想定して動かなければならない。

それだけではない。

清が完全に陥落したら、明に連白が入ってくる。

要塞国家である周ならともかく。

明は各地の街を、まだ山霊先生が復興したばかりだ。

こんな場所では。

文字通り、何も対応がしようが無い。

連白が来たら、それこそ雪崩を打つようにして。連白にどこの街も兵士達も、なびいていくことだろう。

周嵐は優秀な武将だが、それでもどうにもなるまい。

どうしてか、龍剣には。

今はそれが理解出来ていた。

「もし乗ずる隙があるとすれば、韓新と連白の間に亀裂が生まれる事だが……」

「そのような事が起きましょうか」

「韓新は元々上昇志向が高い。 唐の一つでもくれてやると話をすれば、或いは」

山霊先生が歯切れが悪い。

なるほど、どうしようもないという事か。

頷くと、一応使者は送ってみる。

だが、すぐに使者は送り返されてきた。

「貧しい唐など必要ありませぬ。 龍剣丞相においては、是非首を洗って我が軍の到来をお待ちいただきたく」

龍剣に対して極めて挑発的なその書状を。

嘆息しながら山霊先生はちぎり捨て、踏みにじった。

韓新を手放した理由になったのは、龍剣だ。

それを、山霊先生はあえて口にしなかった。

「もういい。 ともかく兵の再訓練を行う。 そなたの麾下八千を再編成しなおしたら、明での決戦になるだろう。 私も失った機動軍を再編成する。 前ほどの規模には出来ないが、一万……出来れば二万は用意したい」

そういうと、山霊先生は練兵所に向かう。

もう龍剣は。

その背中に、掛ける言葉を見つけられなかった。

 

3、清が落ちる

 

清の城は、もはや抵抗力を残していなかった。

清王の手下である役人が、次々と縛られて、街の住民から差し出される。

連白はそれを張陵に任せ。

再編成した機動軍を進めるだけで良かった。

可先がぼやく。

「手応えがありませんな」

「疲弊しきっていて動けないんだな」

「……」

それはそうだ。

無尽蔵に兵を繰り出しているように見えた清だが。

もともと清王はあの人柄である。

挙げ句の果てに、各地では恐らく無茶な徴兵をしていたのだろう。

相当な恨みも買っているようだった。

まあ清から簡庸に逃げてきた民の話で、清王の横暴については聞いていたが。

それでも、これは酷いなと連白は思った。

兵を進める。

やがて、清の王城を包囲することとなった。

多数の城は案山子に過ぎず。

味方に加わりたいという兵士も多く。

それらの兵士は全て後方に送り。

簡庸で再訓練を受けさせた。

雑兵ばかりであり。

たまに抵抗する城もあったが。それも抵抗は長続きしなかった。

王城も静まりかえっている。

清王が青ざめている様子が手に取るように分かる。

暦域が進み出る。

「私が説得して参りましょう」

「いや、暦域。 そなたには別にしてもらうことがある」

「ほう」

「龍剣どのを倒した後、唐の民を説得して回ってもらいたいのだ。 そのためには、このような所で命を捨ててはならぬ」

連白はこの間の件で分かった。

論客は本当に命がけの仕事だ。

そして武勇で身を立てられない者が。

身を立てるための手段である。

危険度は戦場に立つのと大差ない。

何しろ相手の機嫌を損ねたら、斬られてしまうのだから。

可先に指示。

「降伏勧告を」

「分かりました。 大した規模の城ではありません。 仮に抵抗されたとしても、すぐに打ち破る事が可能でしょう」

「……そうだな」

さて、清王をどうするかだが。

まあ決まっている。

生かしておく訳にはいかない。

多くの民を無意味に死地に送り続けてきた者だ。

自分だけは安全な場所にいて。そして部下に死を強要し続けていた。

そんな輩を生かしておく理由がない。

清王には死んで貰う。

これは仕方が無い話である。

だがその部下達が問題だ。

清王の手下として、多くの民を徴兵しては戦場に送り込んでいた連中については、罰が必要だろう。

だが、どうにもおかしいのだ。

どうして清がこれだけの戦力を動員し続けられたのか。

それを調べる必要がある。

張陵はにやにやしているだけなので。

嫌な予感がするのだが。

ともかく、最終的に処刑するとしても。

清王は抑えなければならなかった。

やがて城門が開く。

前に破落戸の親分だったとき。

ここに来たことがあった。

その時とは立場が逆だ。

連れ出されてくるのは、清王とその取り巻き達である。いずれも名の知れた破落戸達である。

そして、連れ出してきたのは。

法悦だった。

何で此奴が此処にいるのか。

張陵が耳打ちしてくる。

「現時点で龍剣は攻めに出られず、法悦どのには不利な戦場となっています。 其所で清において裏工作を担当して貰いました」

「……分かった」

戦車から降りる。

石快が護衛についた。

歩いて行くと、ひっと悲鳴を上げる清王。

偉そうにふんぞり返っている法悦が、自分の手柄を自慢した後、後は如何様にもと離れる。

此奴は、本当に調子が良い奴だなと思う。

やり口も何もかもが気に入らないが。

勝つためには必要な人材だ。

だから何も言わない。

まず清王と部下達を連れて行かせ。

兵を入れて、先に城内を徹底的に調べさせる。

罠などがある可能性が高いからである。

張陵が耳打ちしてくる。

「罠があった、ということにしておきますか」

「必要ない。 そもそも清王は充分に死に値する。 唐王と違ってな」

「そうですな。 だが、何かしらの大義名分は必要でしょう」

「それならばこうすればいい。 多数の民を無意味に死なせ、搾取を繰り返した」

本来はそれだけで充分だ。

やがて兵が戻ってきて、報告を受ける。

降伏した兵は二千程度。

いくら何でも少なすぎる。

道中で降伏してきた兵士達も含めると、清が今まで動員してきた兵士達の供給源がおかしいのである。

民には徴兵を受けていたとしか聞いていない。

勿論この世界唯一の人間の供給源であるほこらもおさえているが。

それらのほこらから、人間を無理に連れ出していた様子も無い。

小首を捻りながら、城内の調査を終えさせる。

兵士達にも聴取をするが。

皆清王には忠義がないのか。

すぐに話をしてくれた。

「それが我々も、よく分からないのです。 毎度戦の時には、兵士がいつのまにか集まっていて……」

「訓練は誰が見ていた」

「いえ、それも……。 私などは、矛の振り方だけ教わったら、すぐに兵士にされましたので」

なんだそれは。

張陵は分かっているようだが。

どうにも分からない。

いずれにしても、清はこれで制圧した。

一旦兵を城外に出す。

民を安心させるためだ。

そして各地の城と街に守将を配置。

兵も分厚く配置していく。

これは清を恒久的に固めるためだ。

人材は幾らでもいる。

張陵と二人で抜擢してきたからである。

残念ながら韓新ほどの当たりは滅多にいないけれども。

それはそれ。

一つの街くらいを守らせる事が出来る武将なら幾らでもいる。

今連白の配下には。

中の世界の人材の、八割から九割が集まっているはずである。それだけ、龍剣が嫌われていると言う事も意味しているが。

連白が、戦功に応じて褒美をくれるというのが広まっているのが大きい。

「制圧完了しました」

「うむ。 可先将軍、では一旦清は任せる。 清王を連れて簡庸に戻るので、それまで持ち堪えるように」

「分かりました」

清は直轄地にする。

それは決めていたことだ。

法悦が不満そうにしているが、法悦には話を今のうちにしておく。

呼んだ後、法悦には言った。

「これから明を攻める。 龍剣との決戦になるだろう。 明攻めのあと、明王を任せたいが、受けて貰えるだろうか」

「おお、それは有り難い」

法悦はにやにやと笑う。

法悦に取っては、明は多数の手下が潜んでいる地だ。

文字通りの古巣と言っても良い。

要するに法悦に取っては地元の王になるようなもので。

地盤を貰えることを意味している。

もっとも、連白もそこまで甘くない。

法悦がどういう輩かはよく分かっている。

いずれにしても、法悦に関しては監視をし。

場合によっては即座に討伐する事になるだろう。

法悦は、本人が恐ろしいのであって。

法悦の部下は、法悦がいなくなれば離散してしまう程度の存在に過ぎない。

それは、本人を見てよく分かった。

一度簡庸に凱旋。

これで龍剣の麾下にある領地は、周の東半分。明、それに唐だけになった。

いずれも豊かとはいえない土地で。

更に二枚看板であった猛将、鯨歩と劉処を龍剣は失っている。

最大の問題は山霊だが。

その山霊についても、龍剣が今後使いこなせるとは思わない。

簡単に勝てる相手では無いのも事実だが。

一旦ここで、一息つけるのもまた事実だろう。

張陵の言葉を、連白は疑っていない。

張陵は、龍剣を見きったと言っていた。

出来る事を把握したと判断していた。

ならば判断を任せて良い。

張陵の進言が間違っていた事はなかったのだから。

 

龍剣の所に報告が入る。

清が陥落。

清王は連白に捕らえられ、簡庸に護送されたという。近いうちに処刑されるだろうとも追記があった。

嘆息する。

どれだけ攻めても落とせなかったのに。

どれだけ攻めても兵が湧いて出て来たのに。

どうして連白が攻めれば、一発で陥落するのか。

清王にしたって、戦場で何度も打ち破った。

それなのに捕らえられなかった。

龍剣が直接戦って叩き潰したことも何度もある。清王はそれでも生き延びてきた怪物のような存在だ。

それが何故に、連白に一発で捕まった。

これが分からない。

兵の再編成はまだ終わっていない。

かろうじて直衛の八千は揃えたが。

訓練はまだだ。

錐水の戦いで消耗した分は数だけは補ったが。

補った兵の質が低すぎる。

龍剣と一緒に戦うには、あまりにも心許ない。

大事にしろ。

そう言われたことを思い出すと、とても胸が痛む。

それに、八千の兵は全て龍剣は名前も顔も覚えているのだが。

新しく加わった者達を考慮し、改めて見直すと。

知っている顔がかなり減っていて、更に心が痛んだ。

山霊先生が来る。

連日兵を調練して立て直しを図ってくれているが。そもそも卑がそれほど取れるわけでもない周と明。それに唐である。

多くの兵は養えない。

試算が出たようだが。

その話を聞いて、龍剣は口をつぐまされていた。

「八万……」

「防衛用の部隊も含めての数字だ。 それ以上の兵は養えない」

「防衛用も含めて」

「そうだ。 卑はそれしか生産できないと言う事だ」

宋を取り返すしかない。

そう口にするが、山霊先生は首を横に振った。

既に宋は固められている。

劉処と周嵐の五万三千を軽く破った韓新にだ。

龍剣の精鋭はまだ半壊状態。

再建が出来たとして、攻めこんで簡単に落とせるとは思えない。そればかりか、そもそも唐が既に安全圏ではなくなっている。

最悪、宋に攻めこんだ龍剣の精鋭を韓新が引きつけつつ。

別働隊が唐を蹂躙するという最悪の予想も出来る。

昔、唐は唐蛮と呼ばれる程、宋を侵略し物資を強奪していた。卑だけではない。物資はあらかた。場合によっては人さえも。

宋の人間は、唐のことを良く想っていない。

唐を叩きつぶせると聞けば、韓新に喜んで味方する可能性も高い。

ましてや求心力が高い連白に対してはなおさらだ。

そう説明をする山霊先生は。

冷静に告げた。

「戦略的に負けた。 そういうことだ」

「何か逆転の秘策は」

「秘策などない。 連白は現在、あの法悦すら制御している。 やがて明で法悦が暴れ始める。 私でさえ、民の蜂起を抑える事は難しくなるだろう」

「……」

山霊先生はなおも言う。

軍師がいるからと言って、奇策が簡単に出てくるわけでは無い。

戦略はそもそも勝つための技術。

戦略で負けると戦いには基本的には勝てない。

龍剣のような、戦略的不利をひっくり返せるような場合も希にはある。

だがそれは希だ。

そしてどれだけ戦略的不利をひっくり返せるとしても。

それには限界があるのだと。

「だが、それは連白にも言える。 現時点で連白は驚異的な求心力を見せているが、それにも限界があるはず。 今できるのは、守りを固めて相手の隙を伺うことだけだ」

「……鯨歩は裏切りました。 他にも裏切り者が出る可能性は」

「鯨歩を裏切らせたのはそなただ」

「戦士としてあるべき事をしただけです」

龍剣の言葉に。

山霊先生は、やはり同意してくれなかった。

「宋が落ちたのにまだそんな事を言っているのか」

「宋を取ったのも中の世界を取ったのも私の武勇によるものです」

「ああそれはそうだな。 だが同じ事が何度も出来ると思うな。 前は腐敗しきった央軍が相手だったから出来た。 しかし今度は連白が相手だ。 連白は戦術こそそれほどすぐれてはいないが、央の武帝以上の求心力を持っている。 このままだと明も周も落ちるぞ」

「……」

ため息をつくと。

大股に山霊先生はその場を後にする。

その場に書類を残して。

目を通す。

軍の縮小が必要になる。

そういう冷酷な事実が。

竹簡には記されていた。

八千の精鋭は何とか維持するとしても。

今後は縮小された軍で、連白が繰り出してくる十万、下手をすると二十万以上の軍勢を相手にしなければならなくなる。

しかも兵を率いているのは韓新と張陵だ。

今までの雑魚とは訳が違う。

錐水の勝利など何の意味もなかった。

武勇は何の意味も持たないのか。

龍剣は、震えながら。

竹簡を握りつぶしていた。

それから、ろくでもない報告が幾つも届いた。

まず清王はやはり処刑された。話によると、各地の民をどんどん兵士に仕立てて、ろくな訓練もせず龍剣に立ち向かわせていたという。

道理で弱かった訳だ。

しかし、何故民は反抗しなかったのか。

疑念が浮かぶが、それにも追記で報告があった。

清王に不満がある者は、どんどん連白の下に流れていた。

そういうことであったらしい。

思わず口をつぐむ。

連白が攻めたとき、清はろくな抵抗もできなかったようだが。そもそも清の民は、連白の到来をまっていたのかもしれない。

今、続々と清には民が移動し。

軍も各地の城に配備されつつあると言う。

防衛用の部隊だけでも五万。

それも韓新が訓練した精鋭だ。

韓新の鍛えた兵の強さは、龍剣自身が戦って良く知っている。

はっきりいって兵の質は法によって管理されていた央よりも上だった。

その五万は先発隊で、更に増える予想だという。

それが五十を超える城を固めるのである。

龍剣も、それらを即時で蹂躙できるとは思えなかった。

そこまで馬鹿じゃ無い。

無能な清王が率いていてさえ、清を落とす事はついに出来なかったのである。

それをあっと言う間に。

青ざめているだろうな。

龍剣は自嘲していた。

更に報告が来る。

宋に鯨歩が入ったそうである。

鯨歩は三万の機動軍を預かると、宝を狙う配置についたそうだ。

鯨歩は劉処とほぼ同等の能力を持っていた。

これについては山霊先生も認める事だ。

今後、対策が必要になる。

防衛用も含め、軍は養えて八万が限界。

そうなってくると。

とてもではないが、迂闊に龍剣は精鋭を動かす訳にはいかなくなる。

誰が宝を守るか。

それに、唐に虎川を渡って直接敵が侵攻してくる可能性もある。

可能性は、極めて大きい。

戦略的な不利を受けるというのはこういうことか。

そうか。

山霊先生の言葉の重みが、龍剣には分かる。

故に歯がゆかった。

ともかく、直属の兵を訓練する。

厳しい訓練を続ける。

今までの兵とは明らかに質が違うことが分かった。

今までは山霊先生が基礎を訓練し。

その中から選び抜いた精鋭を麾下に加えていた。

だが錐水の戦いで、その内四分の一が戦死。同数が兵士としてはやっていけない状態に落ちた。

更に劉処が破れた事で、五万三千が事実上消滅。

鯨歩との内輪もめで削られた兵を考えると、味方の損害は致命的だ。

今までのように、兵を選抜して精鋭に加えるのでは無い。

そもそも、兵を選んでいる余裕が無くなってしまった。

もう麾下の精鋭ですら、信頼出来なくなっている。

そう判断して良さそうだ。

龍剣の険しい顔を見て、新しく配備された四千はあからさまに怯える。

だが、手加減をしている余裕は無い。

徹底的に訓練を重ねる。

訓練を怠ければ死ぬ。

今までとは訳が違う厳しい戦いにこれから臨むことになる。

死にたくなければ訓練をしろ。

そう、龍剣は必死の形相で訓練を続け。

それで兵士達が奮起はしなかった。

脱走者が出始める。

勿論追える範囲では追い。

捕らえる事が出来たものは捕らえた。

だがそれを斬ろうとすると、あからさまな反発の視線を感じるようになった。

龍剣は肌で悟る。

流れが変わったことを。

龍剣の圧倒的武勇で、全てをねじ伏せていた今までとは状況が違う。

そもそも清王さえ打倒出来なかったのだ。

韓新と張陵が前面に出て来て。

穀倉地帯である宋を丸ごと失った今。

龍剣の圧倒的暴力には、どうしても制限が加わってしまう。つまり、龍剣はもはや無敵ではない。

訓練場に周嵐が来る。

どうしていいか分からない龍剣を見て。

周嵐は、訓練を受け持とうかと申し出てくる。

混乱した龍剣は、しばらく悩んだ後、聞き返す。

「そもそもどうして此処にいる。 守りはどうした」

「山霊車騎将軍が、恐らく丞相が混乱しているだろうと」

「何でも山霊先生はお見通しなのだな」

「山霊車騎将軍はそれだけの知恵者にございます」

何も言い返せなかった。

今、龍剣は。

誰かが裏切るのでは無いかと思い始めている。

もしも山霊先生に裏切られたらおしまいだ。

山霊先生は誰もが認める程の知恵者。

張陵や韓新に対抗できる者は、もはや龍剣麾下には山霊先生しかいない。龍剣自身は一人しかいない。

龍剣なら勝てるとは思うが。

残念ながら、敵は龍剣との直接対決には乗ってくれないだろう。

今まで連白と戦って、連白を討ち取る事が出来なかった。

同じ戦術を使ってくるはずだ。

いや、もうそもそも、あんなまどろっこしいやり口はとらないかも知れない。

「訓練を、任せても大丈夫か」

「少しお休みください」

「……」

頷くと、龍剣は屋敷に戻る。

何日ぶりに戻ったのか、覚えていない。

ずっと働いていた。

それに、今更気付いた。

卑を使用人に料理させ、腹に突っ込む。それから酒を浴びるほど飲んだ。どれだけ酔っても足りなかった。

龍剣の武は。

今でも中の世界最強だ。

それは絶対だ。

揺るがない事実だ。

自分にそう言い聞かせながら、酒をどんどん体の中に突っ込む。それなのに、どうして中の世界を従える事が出来ない。

目が覚める。

いつの間にか酔いの挙げ句に眠っていたか。

影に乗って、外に出る。影の足すら鈍っているように感じた。

影が怖れている。

まさか。

どれだけの大軍を前にしても怯むことがなかった勇猛な馬だ。

怯むはずがない。

どんな馬でも影には及ばない。

そう自負している筈の馬なのに。

まさか乗り手の。つまり龍剣の引け目か。

龍剣の心の迷いが影に伝わっているのか。裸馬を乗りこなせる者は少ない。だからこそに龍剣は分かる。馬は乗り手の心に敏感だ。それ故に、龍剣が今どういう状態か、理解している事も。

しばらく走り回る。

無心になろうとしたが、どうしても出来なかった。

無心になれないなんて、初めての経験だ。

龍剣は屋敷に戻る。

訓練は周嵐が続けているようだが。

龍剣自身は、それを不安にずっと思い続けていた。

 

数日我慢してから、訓練場に足を運ぶ。

周嵐が兵士達の様子を見ている。

龍剣が様子を聞くと、周嵐は言うのだった。

「どれほど無理をさせたのですか。 そもそも兵士達が怯えきっています」

「生半可な訓練では死ぬだけだ」

「……今までの直属精鋭には、そのような接し方をしていなかった筈です」

「前とは状況が違う」

龍剣の言葉に、周嵐は反論してくる。

そういえばこいつだけだったか。

山霊先生の他に、龍剣に正論をぶつけてくる者は。

「今までの精鋭のように顔と名前を覚えていますか」

「いや……」

「覚えてやってください。 それだけで、こんな無茶をさせなくなる筈です」

「今がどういう状況か分かっておろう」

周嵐はそれでも、と言う。

正論だと言う事は分かる。

確かに言われる通り、今までの直属精鋭にはこんな接し方はしていなかった。

「分かった。 兵士達を呼んでくれ。 今日中に覚える」

「出来るのですか」

「やるしかあるまい。 兵士達だけに、負担を掛ける訳にはいかない」

数日悩みに悩み抜いても、結局結論など出なかった。

愛馬の足が鈍るほどだ。

このままでは、どうせ駄目だ。

ならば、正論に耳を傾けるべきだろう。

一人ずつ呼ばれて、兵士達が前に出る。名前を呼び、顔を覚える。

四千の兵を呼び、顔を覚える頃には、一日が終わっていた。

一人ずつと話し、経歴を聞き。

それで記憶に結びつける。

それをやってのける龍剣を見て、驚異的だと周嵐は言ったが。

別に出来る事をやっているだけ。

この程度は他にも出来る者がいるだろう。

龍剣にだけしか出来ない事。

この中の世界最強の武勇を振るって、敵を蹴散らすことは。

この精鋭達を鍛え抜かないと、その真価を発揮できない。

名前と顔を覚えると。

確かに今までのような、高圧的な訓練は出来なくなった。順番に話を聞き、一人ずつを人間として認識したからかも知れない。

兵士達の怯えを見ると。

何となく、龍剣がまずい事をしていたことが分かった。

だから訓練の質も変える。

訓練が変わった事を見ると、周嵐は持ち場に戻ると言う事だった。

ある程度進めてはくれていたので。

後は龍剣が直接訓練をすれば良かった。

だが、敵は待って等くれない。

直属の精鋭がやっと何とか動けるようになってくると同時に。

明で反乱が勃発。

法悦が主導していることは、確実だった。

 

4、軍神衰えず

 

明で燎原の火の如く反乱が燃え上がる。

山霊先生が鎮圧に向かっているが、呼応するように連白軍の可先が兵を率いて明の国境に出現。

機動軍三万を超えていた。

既に鯨歩の三万の兵が、宝を直撃出来る状態にある。

もはや、全ての戦線に兵を派遣できる状態ではなくなっていた。

だからだろう。

可先の対応に向かった山霊先生の背後を、好き放題に法悦は引っかき回そうとした。

その鼻先を。

龍剣が打ち砕いていた。

「我が軍に配置になってからは初の戦いだ。 私とともに戦え。 私が先頭にいる事を忘れるな!」

「応っ!」

兵士達が吠える。

ぎりぎり、間に合った。

実の所、錐水の戦いで失った兵士達に比べると練度ではまだ足りていない。

しかし、龍剣の兵であると言う自覚を持たせることは出来た。

周嵐の言う通りだった。

顔と名前を覚えることで。兵士達に接する事が出来るようになったのだ。前と同じようにである。

この八千を大事にしろ。

そう言われたことを思いだし。

龍剣は、我が物顔に街を荒らす法悦の手下どもに襲いかかっていた。

まさか龍剣の直属精鋭が来るとは思っていなかったらしい法悦は慌てて逃げ出す。その背後を追って、反乱軍を蹴散らした。

山霊先生はそのまま可先の軍を寡兵ながら撃退。

山霊先生も、見事に仕事をしてくれた。

だが、反乱に荷担した街は多く。

山霊先生が復興したことが、却って徒となった。

山霊先生と合流する。

まずは、寡兵で敵を退けた事を褒める。

だが、山霊先生は険しい顔だった。

「反乱の首謀者達は」

「皆殺しにしましたが」

「そなたは……いつになったら生かして使う事を覚えるのだ」

「覚えました。 直属の部下達は皆見違えるようでしょう」

そうではない、と声を荒げた後。

山霊先生は、静かに嘆息した。

「一度宝に戻れ。 どうせ法悦は取り逃がした。 奴は次の攻撃……恐らく敵が本腰を入れる攻撃に呼応して、また我が軍の後方を掻き回しに来る」

「その本腰とやらには私が当たりましょう」

「……そうだな」

可先が出て来たと言う事は、様子見だ。

連白が次は出てくる。

どうせ可先も最初から明に本格的に侵攻するつもりなど無かったのだろう。どれくらいの対応力が龍剣に残っているか、見定めようとしたのだ。

それは法悦の行動からも分かった。

ただ、山霊先生がしっかり見ていたのに。

やはり法悦の扇動にあっさり乗った明の民は許せない。

城壁を復興したりした山霊先生に対する恩知らずな行動は、万死に値する。

いずれにしても、一度宝に戻る。

そして報告を聞いた。

細作が情報を集めて戻って来ていた。

「連白が簡庸を出ました。 機動軍およそ五万。 可先の三万と合流し、明になだれ込む動きです」

「八万か……」

「敵将には張陵の姿もあると言う事です」

また細作が報告をしてくる。

宋方面の話だ。

「韓新はまだ動いておりませぬ。 その代わり、兵を徴募しております。 現時点で五万を超える民が徴募に応じたとか」

韓新は確か、十万程度の機動軍を動かせる筈。

これに五万が加わるのか。

それとも、五万を各地に配備して、最初からいる十万を使うのか。

いずれにしても、鯨歩が牙を研いでいる以上、これを無視する訳にもいかない。ならば、弱い方から各個撃破する。

張陵は恐らく今回、主力としての行動をしていない。

そう龍剣は判断した。

兵力が少なすぎる。

恐らく本命は韓新の軍だ。

そうなると、明は山霊先生に任せ。

龍剣は韓新を相手にする。

劉処を破った将だ。

自分で追い出したとは言え。

その実力を見極められていなかったのは痛い。

ともかく、此処で潰す。

明は守に徹するように。

韓新は龍剣が倒す。

そう使者を出し。

更に油断しないように、周の東を守る諸将にも書状を送る。

そして、法悦を蹴散らして意気が上がっている八千と。

かろうじて用意できた機動軍五千を連れて、龍剣は宝を出た。

合計一万三千で、数は劉処の軍に比べてだいぶ少ないが。

今回は直接龍剣が指揮する。

まずは鯨歩を血祭りに上げる。

韓新はその後だ。

宋へ侵攻を開始。

鯨歩は機動軍三万を率いている上に、龍剣に恨みを抱いていると言う事だ。さっぱり分からないが、それなら出てくるはずである。

だが、龍剣の予想とは裏腹に。

鯨歩は出てこなかった。

前線基地に閉じこもったまま、鯨歩は出てこない。

補給を断つことも出来ないだろう。それに三万を無視して進むのは危険すぎる。

何度も補給線を遮断されて後退を余儀なくされた龍剣である。

補給線を斬られることの危険性は、流石にもう理解していた。

今回、五千を連れて于栄も来ている。

于栄は、相方である官祖がいないからか少し不安そうだったが。

それでも聞いてくる。

「如何なさいますか」

「此処で相手をするだけだ」

「韓新の軍は十万。 鯨歩も三万を率いていると言う事です。 十倍になりますが……」

「かまわん。 丁度良い機会だ。 本物の武勇というものを見せつけてくれる」

そのまま布陣し、敵の出方を待つ。

やがて、韓新が出撃してきたという話が来る。

細作によると、兵力は五万程度と言う事だった。

兵を出し惜しみしたのか。

それとも劉処の時のように伏兵か。

いずれにしても、此処は小細工など出来ない。

まとめて血祭りに上げてくれる。

布陣して待つ。

韓新を倒したら、後は小細工しか出来ない張陵だ。それに韓新を倒せば、宋も奪還出来る。

戦略的な不利を。

圧倒的な武でねじ伏せてくれる。

そう自分に言い聞かせ。

龍剣は迫り来る韓新の軍を待つのだった。

 

(続)