底が割れる

 

序、接触

 

龍剣が動きを止めた。連白は報告を受けて、頷いていた。

清に法悦が入った事。

更にはそれを恐らくは連白が支援していることに気付いたのだ。清王も勢力も盛り返している。

もう一つの理由として、山霊がどうも明での復興作業を行っているらしく。龍剣との連絡に時差が生まれているらしい。

其所をつくべきだ。

そう張陵に進言を受けた。

つくと言っても、具体的にどうすれば良いのか。

龍剣の戦闘に関する研究はまだ足りていない。

韓新が今、対抗戦術を考えているらしいのだが。

それも恐らくは途上だろう。

動くには早い。

残念だが、決死隊を揃えて、龍剣と戦い続けるしかない。それが非情な現実なのである。そしてその作業は、他人には任せられない。

そう告げると。

張陵は静かに笑った。

この笑顔が、少しずつ怖くなってきている。

だが、部下を使いこなしての主君だと、連白は自分に言い聞かせる。王なんて柄では無いが。

それでも連白は皆の指導者なのだ。

主君なのである。

「いえ、何も殿に動いて貰う必要はございませぬ」

「どういうことか」

「来るが良い」

此方に来たのは、人が良さそうな老翁である。腰も曲がっているが、この世界での実年齢は分からない。

ほこらから現れてから姿は誰も変わらないからだ。

暦域というらしい。

昔、論客という存在が各地にいた。

七国の時代、王の代理となって、相手の国に出向き。外交行動をする事を、専門としていた者達だ。

央が統一した後、論客は必要なくなったのだが。

現在、連白と龍剣の二大勢力が台頭している状況である。

論客はまた需要が出て来ている。

「暦域にございまする」

「論客という事だが、誰をどのように説得するのか」

「宋の鯨歩を。 独立するように促しまする」

「!」

なるほど、そう来たか。

鯨歩に忠義がないことは、既に報告を受けている。張陵の報告だし、まず間違いはないだろう。

細作を通じて接触したようだが。

多分連白が思っている以上にやりとりをしているとみて良い。

「鯨歩は誇りが人間の形をしているような男にございまする。 其所をくすぐってやれば、自分を搾取するための宋に据え置いた上に、恨みもある龍剣に対して、反旗を必ず翻しまする」

「しかし、張陵、大丈夫か。 気が短そうな相手だが」

「暦域、どうだ」

「心配していただけるのは光栄の極みにございまする。 しかしながら、死など怖れていては論客はやれませぬ」

そういうものか。

腕組みして、少し考えてから、幾つかの話をしておく。

「分かった。 もしも独立した場合には、韓新が援軍をいつでも出せるようにすること、宋の土地は引き続き任せる事を伝えよ」

「随分な厚遇にございまするな」

「宋は中の国でも三番目に豊かな土地だ。 昔執拗に侵略を受けた程に」

元々破落戸の親分だった連白でも知っている事だ。

一番と二番を抑えている今。

三番目を抑えれば、事実上勝負が決まる。

ただ連白には懸念もある。

「そんな男を従えるには、やはり危険も大きいのでは無いのか」

「問題ございませぬ」

「……というと」

「鯨歩に殿は恥を掻かせておりませぬ」

そんなものなのか。

腕組みする。

鯨歩は国を預かっている身だろう。

宋王ははっきりいって王の器でもなんでもないタダの案山子。実質上の権限は鯨歩が全て握っている。

文官などの任命権も許されているはずであり。

たまに山霊などが監査に出向いているようだが。いずれにしても権力を両肩に載せている事には間違いが無い。

頂点ではないとしても、宋という地域を預かり。

穀倉地帯の管理をし。

それらの管理をしている民を獣や他の国の軍から守る役割もしている。

だったら、責任は重大なはずだ。

そんな責任より誇りを重視するのか。

暮らしている民の事は何とも思わないのだろうか。

連白は昔、毎日破落戸達と連んでいたが。

まず最初にするのは、悪さをしないように諭す事。

不思議とそれを破落戸達は必ず聞いた。

そして民は、それで連白を信頼した。

民は安寧と平穏を求める。

指導者はそれを補償する義務がある。

それが出来ないのなら。

鯨歩も、はっきりいって宋を指導する器では無いのかも知れない。そう、ちょっと残酷なことを連白は思った。

ただ、自分がその器かと言えば苦笑いするしかないし。

恐らく鯨歩を釣るには、宋をエサにするしかないだろうが。

「準備は整っているのだな」

「はい。 ただし、あの山霊が敵にはいます。 どのような対策を立てているか分かりません」

「……分かった。 覚悟はしておこう」

「それでは、吉報をお待ちください」

暦域が行く。

それを見送ると、張陵はふっと笑った。

「殿。 暦域も納得していることですので話しますが、論客は基本的に命を捨てなければ出来ない仕事にございまする」

「……どういうことか」

「今回の本当の目標は、鯨歩にたいする謀反心の噂を決定的にする事にございまする」

暦域もそれを目的に、わざとらしい動きをするという。分かった上で、だ。

勿論細作が護衛するが、生きて帰れる保証は無い。

それは、残酷だなと思ったけれど。

話は最後まで聞く。

「七国の時代、論客は各地で活躍しました。 戦争を止めたり、或いは強敵に対して連合を組ませたり。 秦時代の央は一度、他六国の連合による総攻撃を受けた事があるのですが、その時も主導をしたのは論客です」

「暦域もその生き残りと言う事か」

「志を継ぐ者、でしょうか。 ただし論客は、文字通り何も持たない者が、口先だけで天下を取るという仕事でもあります。 その作業には、大きな危険が伴うものなのです」

「……」

勿論、何か大きな事をするためには、危険が伴うことは分かっている。

だが連白は、無駄な犠牲は出したくないのである。

実は龍剣に対する決死隊は既に充分な数が揃っている。

それだけ龍剣が恨みを買っているからだ。

明から逃げ込んできた民も多い。

清や周からもだ。

それらの民の中には、龍剣を殺せるなら何をしたって良いと口にする者も珍しくは無く。無抵抗な自分を最後まで斬ろうとしなかった龍剣を知っている連白としては心が少し痛む。

確かに龍剣は恐ろしく、逆らう相手には微塵も容赦はしないが。

心がない存在ではなく。

信念は強く心に宿している。

問題は考え方が決定的に周囲と違う事で。

それが周囲との摩擦を産んでいる。

最も接している山霊とも上手く行っていないのだ。

連白だって、龍剣が側にいたら、上手くやっていける自信はない。

武に対して余りにも真摯すぎて。

他の事は気にもしないだろうから。

ため息をつく。

「危険は可能な限り排除してほしい」

「細作を多数配備しております。 しかしながらそれでもいざという時はありますので、覚悟はしてください」

「分かった。 他に方法は無さそうだ」

眠そうだと称される目を擦ると、連白は一人にしてくれといって自宅に籠もる。

飲める方ではないが、軽く酒を入れる。

ぼんやりとしている内に、思う。

家族は清から連れては来たけれども、ずっと別居状態だ。食事を作ったりするのは、張陵が一度身辺調査した使用人にやらせている。

他人と接することが苦にならない連白だが。

事実上央の領地を乗っ取って、そこの指導者になってからは。

清濁あわせ呑む事が辛くなってきていて。

たまにこうして一人で飲むことがあった。

幾ら破落戸達と接する事が平気とは言え、それでも限度がある。

破落戸達も、放置しておけば最悪の罪を犯すこともあり。

そういった者は、指導者として処刑はしなければならない。

法悦にしても本来はその手の輩で。

状況に応じて立ち回って、上手く今の立ち位置にいるだけ。

それを考えると、とても辛いのだ。

深呼吸をすると、連白は酒を止める。

好きでも無いので、軽く酔う状態を維持することは出来る。

恐らくとても良い酒なのだろうが。

はっきりいって美味しくもなんともない。

横になって転がっていると、連白はいつの間にか眠っていた。

夢は、見なかった。

 

起きだしてから、政庁に出る。

宮殿も兼ねているが、所詮は何か新しい事をしようとすれば死ぬ世界。やはり大した規模では無い。

元々の、央帝が使っていた宮殿は、龍剣が壊してしまったから。粗末なものを使っているが。

連白にしてみれば充分過ぎる規模だ。

それを見て、民草は連白を質素で慎み深いと考えているようだが。

実際には金に興味がないだけである。

人を引きつける力がある事は分かっている。

自覚的にそれを使って、悪党を改心もさせている。

だが、それでもだ。

時々周囲との評価の差が嫌になる。

龍剣も其所は同じなのかも知れない。

同じだとしたら、何というか気の毒な話だった。

黙々と書類を片付ける。

張陵が大体決済までは片付けてくれているので。印を押すだけである。

たくさんある竹簡を処理していくのは相応の手間ではあるけれども。午前中には終わる。時間はあまるので、一つずつの書類にはきちんと目を通していく。

その中の一つ。

鯨歩への工作を成功させるために、また出陣してほしいと言うものがあった。張陵は既に出立しているという。

嘆息すると印を押す。

既に衛には二万五千の兵が集まっている。決死隊希望の者達ばかりで。いずれもが逃げるのを嫌がるほどの者達だ。

要するに龍剣からもう一度逃げるくらいなら死にたい、と言うわけである。

それほど恨みが積もっているのだ。

だが、訓練も同時に受けている。

最終的に龍剣に勝つため、戦いでは負けても死ぬな。

そう言い聞かせて、彼らの命は保ち。

軍としての規律も保つ。

可先が来た所で出陣する。

張陵が、可先に言い聞かせている。

「今回も頼みますよ」

「分かっている。 殿には指一つ触れさせん」

「……」

そうはいうが。

既に龍剣は、軍の中核を狙って粉砕し。

後は蹂躙に任せるという必勝法を持っている事はほぼ確定している。

それを可能にする武勇を持っている上。

龍剣を引きつけるためには、連白が少なくとも龍剣が追えると思う位置にいるしかないのである。

出陣した二万五千は規律がしっかりしていて、略奪の類は絶対にしない。

これは、龍剣という悪い例を見ているからだろう。龍剣は略奪はしないだろうが、殺戮をするので。

同じになりたくは無い、と言う事だ。

「龍剣といつ会敵してもおかしくない。 気を付けて進軍せよ」

張陵が言う中、戦車に乗った連白は。小さく口を押さえてあくびをした。

今回は張陵の腹心である魯湾が来ているが。

他にも何名か、訓練の段階で見いだされた将軍が来ている。

死ぬかも知れない。

だが、それでも龍剣の戦のやり方を学ぶ必要がある。

だからだろう。

細作が戻って来て、張陵に耳打ち。

張陵が此方に来る。

「殿。 良い報告があります」

「聞かせてほしい」

「山霊は今、明での慰撫に全力を注いでいるようです。 龍剣と一緒に出てくる事はないでしょう」

「明の民が少しでも楽な状況に置かれると良いのだが」

張陵は薄く笑う。

今の状況の方が望ましい。

そう言っているのと同じだった。

「龍剣の軍は捕捉できないか」

「出撃したら恐らくすぐ反応するはずです。 一週間以内には遅くとも出くわす筈です」

「あまり突出しないようにせよ。 周辺の城や街などを落としたら、すぐに撤退の準備を整える」

「分かっております」

張陵がまた陣列に戻る。

近場にある城や街は廃墟になっているか、連白が来ればほぼ無抵抗で戸を開けるので、攻城戦の類は必要ない。

清王の権威はもはや清の東にしか及んでおらず。

五十ほどあると噂にある城も、殆ど綱紀が行き届いていない様子だ。

完全に独立国となって好き勝手をしている様子だが。

明から清に逃げた民の多くが。

連白を慕って、簡庸に逃げてくる。

それだけで、どれだけ清王がまずい治世を敷いているかは一目瞭然とも言えた。

四日後。

伝令が来る。

どうやらお出ましだ。

やはり八千を率いて、龍剣が迫っているという。ただ今回はいつもと違い、後詰めに一万二千をつれているという。

恐らくは龍剣自身が実戦訓練のために連れてきた兵だとみた。

張陵が頷く。

「今回は、ひょっとしたら勝てるかも知れません」

「聞かせてほしい」

「殿は龍剣の気を引いてください。 魯湾」

「はっ」

前に出てくる魯湾。

ひ弱そうな張陵に従っている大男というのは、不可思議な者である。

前は連白に従う石快を不思議に周囲が見ているのを、どうもぴんと来なかったが。

別の実例を見ると、何となく腑に落ちる。

「それでは、作戦行動を開始します。 具体的には……」

頷く。

可先が主力を率い、動く。

石快も今回は来ているが、連白の側についての護衛役だ。矢などが当たりそうになった時に防ぐためである。

それだけ、龍剣はどう対応しようと思っても危険なのである。

兵が別れて動き始める。

場所はかなり広めの荒野だ。龍剣にとってもっとも得意な戦場だろう。此処で大丈夫か少し不安になったが。

張陵を信頼し、布陣する。

程なく、龍剣が出て来た。八千の精鋭が先行し、一万二千は遅れている。伝令がまた来た。

「一万二千を率いているのは広壮の模様!」

「広壮というと……」

「あの酒宴の席で、剣舞をした」

「ああ」

そういえばそんな人物がいた。

だが連白から見て、それほどすぐれた武将だとは感じなかった。

これは一万二千には大きな被害が出るな。

総合的には、勝ちになるかも知れない。

そう連白は思いながら、布陣して後続の到着を待つ龍剣と、かなりの空間を置いて相対する。

小さくあくびをする連白を見て、兵士達は頼もしく思っているようだが。

此方は内心冷や冷やものである。

作戦自体も、かなり厳しいものだからだ。

如何に情報を集めるため。

韓新を勝たせるためとは言え。

多くの兵が死ぬ事実も変わらないのだ。

やがて、会戦が始まる。

後続の一万二千が到着。二万となった龍剣軍が、突貫を開始したのだ。

連白は即座に指示を出し。

味方が逃げ始める。

もう、様式美と言って良い光景だった。

 

1、必ずしも最強だけに非ず

 

殺到してくる龍剣麾下の精鋭八千は、相変わらず勝てる気がしない。即座に逃げながら、戦車隊から後方に矢を放たせる。

龍剣は矛を振るって飛んでくる矢を弾き飛ばしながら、突貫してくる。

裸馬に乗ってこれである。

異次元の馬術と言う他無い。

秦時代の央にも、これが出来る部隊が存在したらしいのだが。

それは二百騎ほどで、一万に匹敵する戦果を上げたという。

それはまた、凄まじい話である。

「龍剣に矢を放つのは無駄だ。 他の兵に矢を集中せよ」

「追いつかれます」

「速度をもう少し上げろ」

御者に指示し。連白は悠然と座って最後尾にて龍剣を見つめる。

隠れる事もなく最前衛にいて、突貫してくる龍剣。

男女の性別が何故あるのか良く分からないこの世界。龍剣は男女などと言う何故かあるものの枠組み関係無く、人間として完成形に見える。

それが鎧を着込んで突貫してくる事、この上もなく凄まじい。

まるで噂に聞く龍。

確かに龍に例えられる訳だ。

矢が多少敵の兵力を削るが、それもあまり関係は無い。当然敵も突貫しつつ矢を放ってくる。

此方にも被害が出る中、連白の頬先を矢が掠めた。

石快が併走しながら、危なそうな矢は打ち払っているが。

それ以外は気にしないから、時々ひやっとする矢が飛んでくる。

連白がするべきは。

平然としている様子を見せ。

最後尾にいる事。

それだけだ。

ほどなく、作戦地点に到達。

荒野を抜け、山に入り込む。

追いつかれそうでひやっとしたが。

韓新が訓練し。

そのやり方を受け継いだ張陵が新兵を訓練している今。

遅れる者はいない。

負傷者も、即座に戦車に乗せて可能な限り助ける。龍剣は吠えながら、突貫してくるが。

山の中で陣列が伸びきった瞬間。

一斉に伏兵が湧いて出た。

ただし、龍剣の率いる精鋭が狙いでは無い。

後方の一万二千に襲いかかったのである。

張陵が魯湾に渡した別働隊である。

兵力は五千ほどだが、山の中。しかも隊列が伸びきってしまっていてはどうしようもない。

しかも訓練は受けていても実戦経験は無い。

優れた武将でも、七回くらいの戦いまでは、戦場では頭が真っ白で考えている余裕なんてなかったという証言をしている。

そういう場所なのである。

ましてや大半の兵士は。

元々破落戸が荒々しく争う鉄火場を何度も見て、仲裁をしていた連白である。

闘争には元々耐性があったのだと思う。

だから平然としていられるが。

他はそうではない。

後方の苦戦を知っただろう龍剣が動く。

いきなり急加速して、此方に迫ってくる。

石快が危険と判断し、即座に前に出て連白を守る構えに入るが。

龍剣は膨大な矢をまとめて薙ぎ払うと、不意にきびすを返し、後方に突貫を開始。

滅茶苦茶に蹂躙されている味方を救出すると、そのまま後退していき、さきの荒野に布陣し直した。

此方も山を抜けて一度再集結する。

魯湾は。

少し不安になったが、かなり手傷を受けつつも何とか生還した。

ただし五千の兵は三分の一になっていた。

「やられました。 広壮は討ち取りましたが、敵を蹴散らしている途中に龍剣の本隊が現れまして」

「敵の動きについて、もう少し詳しく知らせてほしい」

「はい」

魯湾が説明を開始。

何名かいる細作が、それを丁寧に書き取っている。

また、魯湾につけていた武将達も、それぞれ証言を始める。

話を聞く限り、龍剣は山の中でも問題なく機動戦が出来るようだ。山の斜面や木々など、問題にもしないのだろう。

此方の被害は三千を超えたが。

敵の被害もほぼ同数。

しかも敵将の一人である広壮を討ち取り、龍剣が実戦を積ませようとして連れてきた新兵に多大な被害を与えている。

また敵の精鋭八千にも、二百程度の被害は与えたようだった。

今回は引き分けという所か。

だが、伝令が来る。

大打撃を受けた新兵部隊を撤退させつつ、龍剣が猛然と再追撃に入ったという。連白は引くべきだろうと思ったが、張陵は可先に指示を出す。

「丁度良い。 頭に血が上っている龍剣は、いつも以上に直情的になる筈です。 また、敵の精鋭にも更に被害を与えられるでしょう」

「しかし、此方の被害も……」

「最終的に出る被害から考えれば少ないと考えてください」

「分かりました」

しぶしぶと可先が持ち場に戻る。

連白もため息をつきたくなるが。

しかしながら、やるしかないだろう。

負傷兵を先に戻らせ、再編成を済ませる。

山を突破した龍剣が、文字通り長蛇の列となって突貫してくる。普段は八千が一丸となってくるのだが。

今回は本当に頭に来ている様子だ。

張陵がほくそ笑んでいるのが分かる。

「よし、後退を開始してください」

「後退!」

連白も、馬車にて後退を開始。龍剣は凄まじい形相で、もう少しで追いつきそうな勢いで突貫してくる。

味方は一種の方陣を保ったまま後退し、何とか相対距離を保ちながら逃げる。だが冷や冷やものだ。

誰かが転びでもしたら、助ける方法がない。

車輪ががくんと揺れて、ひやりとしたが。

石を踏んだだけらしい。

程なくして、張陵が指示を出し。

味方が一斉に矢を放ちはじめる。

同時に、龍剣が不意に動きを変えた。

龍剣自身が速度を落とし。

麾下の精鋭がばっと散ったのだ。そして、拡がりながら、方陣を包むように動き始めた。

こんな指揮も出来たのか。

冷や汗を掻きながら、張陵の指示を待つ。

張陵は一瞬だけ動きを止めたが、即座に指示を出し直し、全力での退却に切り替える。

かなりギリギリまで敵が迫ったが。

御者は選び抜かれた精鋭だ。

かろうじて連白の戦車が敵の矛に引っかけられることはなかった。

だが矢を射掛けられながら逃げるのが精一杯で。

とてもではないが、反撃どころではなかったが。

丸一日逃げて、衛に辿りつく。

敵も当然追撃を掛けて来ていたが。

被害はこちら側が更に拡大。

追加で二千以上の被害を出していた。

二万五千を出して二万を割り込んだのだ。

最初の勝利が帳消しになったと言える。

衛の分厚い城壁の上に出る。すぐに冷や汗をどうにかしたいくらいだが、出来るだけ平然としていなければならない。

連白が見下ろすと。

龍剣は、こっちをじっと見ていた。

城壁越しに、連白が何処にいるのか、ずっと捕捉できていたかのように。

相変わらずだなあ。

そう苦笑する連白に、龍剣は吠えるように言った。

「また逃げるか!」

「何度でも」

「……引き上げるぞ!」

龍剣が、影と呼んでいる黒馬の腹を蹴り。撤退を開始。

追撃などする余裕は無かった。

連白は負傷者の手当を指示し、そして張陵を呼んだ。

「何か分かったか」

「はい。 今回龍剣は本気で怒っていました。 それにより、今まで見せてこなかった手の内を見せてきました」

「あのような用兵をしてくるとは想定外だった」

「はい。 龍剣は恐らくですが、一つの戦場においては最強であるかと思います。 個人の武勇など、関係無いでしょう」

それでは手の打ちようが無い。

そもそも国を挙げての攻勢を、あの麾下の精鋭八千だけでねじ伏せて回るような怪物である。

戦場の外で勝ってしまえば、後は戦場では何もしなくても勝ちが転がり込んでくる。

そういう話もあるのだが。

実際には龍剣はそれをひっくり返してくるのだ。

「考えを改めなければなりません。 龍剣にとって、あくまで敵中枢を一撃して、勝負を決める戦術は手段の一つ。 その気になれば、龍剣は戦場において幾らでも好き勝手に勝つことができると言う事でしょう」

「それでは今まで兵士達は無駄に死んだのか」

「いえ、龍剣に本気を出させ、手の内を引き出させたのです。 もしこれを知らなければ、韓新でさえ勝てなかったでしょう」

「そうか……」

これは大きな発見だと、張陵は喜んでいるが。

多くの兵を死なせて、ようやくこれしか分からなかったのだと思うと、連白は暗澹たる気持ちになった。

だが、これで勝ちに近付いたのもまた事実だ。

今回の戦いで、張陵は敵の陣形を伸ばしきり、その後伏せておいた兵で一気に各個撃破するつもりであったらしい。

だが龍剣はそれを見抜き。

あのような手に出た。

確かにそんな手を引きだした事は大きいが。

既に龍剣との交戦で死んでいった兵士は数万に達している。連白麾下だけで、である。

それを思うと、決して今の状態が良いとは思えなかった。

「張陵、まだまだ多くの兵士を死なせなければならないか」

「はい。 残念ながら。 ただ、後一回、決定的な作戦をしとうございまする」

「決定的な作戦」

「清と明を巻き込み、宝を一度無理攻めで落としまする」

それはまた、無理な話だ。

だが清と話をつけ。

現在各地で諜報をしている章監と連携すれば。

或いは上手く行くのかも知れない。

「恐らく決戦場は錐水の地になるでしょう。 作戦に動員できる此方の機動軍は五万を超える筈。 それを一戦場に集めまする」

「五万を死なせるのか」

「戦乱が長引けば、死ぬ人数はその二十倍を軽く超えるでしょう。 やがてほこらから現れた人間を、そのまま武器を持たせて殺し合わせる、七国時代でももっとも酷かった時代の再現が始まりまする」

「……分かった。 五万、か」

王遼が来たので、話をする。

そうすると、流石に渋い顔をした。

だが、五万の兵を死なせる事について、疑念を持ってくれる者が他にもいたことは嬉しかった。

龍剣に本気を出させ、戦術の限りを尽くさせるには手段がない。

そして龍剣が新しく都に定め、「宝」とまで名付けた地を奪取すれば、それは相手を本気で怒らせることだって出来る。

張陵の言葉は間違っていない。

だが、明らかに其所には情が無いとも言えた。

敗残兵をまとめて、衛から戻る。

衛には五万の守備兵を残したままである。

簡庸に辿りつくと、溜息が漏れる。

今回も守りきってくれた石快に礼を言うが。石快は、あまり機嫌が良さそうでは無かった。

「軍師殿は確かにいてくれて本当にありがたいんですがね。 あの方は本当に人の心があるんですかね」

「そういうな。 それに人の心がなくても、使いこなしてこその主君だ」

「はあ。 白姉貴は本当に尊敬しますぜ。 俺は今回の一件で、あの人が本当に人なのか分からなくなった」

魯湾が側にいるのに。

余程頭に来ていたのか、魯湾にまで石快は話し始める。

「お前はどうなんだ。 軍師殿が怖いと思わないか」

「怖いに決まっているでしょう」

意外な答えである。

そして連白の前で、とんでもないことを言い出す魯湾。

「私はあの方を尊敬していますが、怖くない筈は無いです。 そういう意味では、皆と同じでしょう」

「そうか。 何だか俺の心が狭かっただけみたいだな」

「いえ。 ただ好き嫌いで相手を判断していたら、龍剣と同じになってしまうでしょう」

「その通りだ」

連白の部下達も皆人間だ。

特に石快や魯湾は後ろ暗い人生も送ってきている。

だからこそ分かる事も、分からない事もある。

そういう意味では、張陵もそれは同じだろう。

連白は少しだけ安心すると、自宅に戻ると言って、先に戻る事にした。

大きな被害が出た。

それは分かっている。

だが簡庸では、もはや仕方が無いと言う空気が流れ始めている。そしてその空気は、負け続ける連白への憤りではなく。暴虐を尽くす龍剣への怒りで一致していた。

簡庸の民には、各地から逃げてきた者も多く。

その中には龍剣に故郷を焼かれた明の民も多いのだ。

事後処理は張陵がしてくれていたので。

翌日の政務で、あらかた片付くことは片付いた。

そして、その政務が終わった時に。

張陵が来た。

満面の笑みである。

嫌な予感しかしないが、話を聞く事にする。

「殿。 動きがありましたぞ」

「聞かせてほしい」

「暦域がやってくれました」

「詳しく」

暦域の目的は、鯨歩に対する不信感を煽ること。

そのために今回、五千以上の兵士を死なせたのだ。

龍剣は感情を優先させる傾向があり。また余人とは決定的に異なる自分の信念を優先させる傾向もある。

その結果何が起きるか。

それは早い話が、鯨歩に対する「正当な懲罰」の執行である。

勿論誇りがヒトの形をしている鯨歩がそれを受け入れるわけがない。

戦争になる。

「現時点では噂の段階ですが、既に味方の細作も動いております。 間もなく、鯨歩は龍剣麾下ではいられなくなるでしょう」

「鯨歩に真相を知らせるのか」

「鯨歩に交渉に出向いた暦域の話では、そもそも鯨歩は龍剣の愚痴しか言わなかったそうです。 別に暦域で無くても、論客は誰でも良かったでしょう」

得体が知れない論客に対して、龍剣の愚痴を散々口にしたのか。

鯨歩は見た事があるが、腹芸の類が出来る者には思えなかった。

そうなると、余程鬱屈がたまっているとみて良いだろう。

更に、である。

龍剣が宝に戻った後、怒声を吐き散らしているという情報も韓新経由で入ってきたそうである。

どうやら鯨歩の話を聞いたからだろう。

さて、此処からは血の雨が降る未来しか見えないが。

それを引き起こした張陵は嬉しそうにしている。

魯湾ですら怖れている理由がよく分かる。

張陵のような知恵者は。

何処かで人としての基本が壊れているのだろう。

「細作を放って状況を確認するように。 それと、あまりにも非道なことはしてくれるな」

「分かっております」

「では、政務に戻る故」

「はい。 此方も仕事に戻ります」

連白は書類仕事をさっさと終えた後。

今日は昼からでもいいから寝てしまおうと思った。

何というか、非常に気分が悪い。

龍剣が無茶苦茶を続けるからこの状況が来ている。

それは分かっているが。

だとしても、いくら何でもこれはないだろうと思うのだ。

この世界はどうしてこうなっている。

七国の時代はもっと酷かったと聞いているが。

それでも、今だって充分に酷い。

それに分からない事が多すぎる。

統一という事は、央の武帝が先にやってくれた。だからもう統一を躊躇う事は無い。

だが問題はその後だ。

この世界の謎を、どうにかしないとまずいだろう。

この世界は何というか、悪意によって作られているように連白には思えてならないのである。

新しい事をすれば病になる。

この仕組みのせいで、ずっと建物は何百年も造りが変わっていない。

武器などもそうだ。

統一のために膨大な人材が病に倒れた。

結果統一だけは出来るようにはなったが、それ以外の事が何もかもがちぐはぐだ。

話によると、理論だけは出来ているものはたくさんあるらしい。

作り出す事が出来れば、戦争を変えるような兵器も幾つもあるとか。

だが、それらを実際に作って見ればどうなるか。

作るのに関わった者達が皆病で死ぬだけだ。

何もしなければ死なないだけに、余計に死は恐ろしいものなのである。

戦争で死ぬのも同じ筈なのに。

それなのに、戦争は一向にやまない。

おかしな話だ。

戦争なんてものを最初に誰かが始めた時。それこそ誰もいなくなるくらいに人が死ななかったのだろうか。

政務が終わったので、自宅に戻り。

昼間から寝た。

不愉快さが腹の中で渦巻いて、どうしようもなかった。

武帝にはなれない。

それは良く、連白も分かっていたが。

どうも今の時代では。

まともにこの中の世界を統一出来る者が、他にいそうもなかった。

 

2、凶行

 

鯨歩は激怒したまま、宝に出頭してきた。

龍剣は既に話を聞いている。

連白の手の者と鯨歩が会っていたというのである。

その時に、複数の証言が上がったのだ。

鯨歩は龍剣の愚痴ばかり口にしていたと。

そもそも最初には、そのものが連白の手の者だとは分かっていなかったらしい。不思議な知恵者がいるという事で、鯨歩は面白がって会ったらしい。

だが家臣達の前で、鯨歩は巧みな話術に載せられたとは言え。

龍剣に対する愚痴を聞かれてもいないのにボロボロと零したそうだ。

そのものが戻ってから。どうやら連白の手の者だったらしいと分かったが。

そもそもである。

龍剣の愚痴を、何処の者とも知らぬ相手にこぼすとは何事か。

しかも鯨歩は激怒したまま龍剣の前に現れ、跪く。

龍剣は、玉座についたまま、冷え切った声で問う。

「鯨歩。 私に不満があるそうだな」

「ございまする」

「言って見よ」

「そもそもこの鯨歩めは丞相にとって生命線にあたる宋を任される身。 それが愚痴くらいで召還され、かのような辱めを受けている事が不満にございまする」

それだけではないという。

鯨歩は余程頭に来ていたらしく。

ぶちぶちと言い始める。

最初に戦った時も、衆人の前で辱めた。

以降も汚れ仕事ばかりさせる。

今だって戦場に出ることも出来ず、宋の守りをまかされるばかり。

自分だけが、他の武将と違って、くだらない仕事をさせられつづけている。

こんな事をいつまで続けなければならないのか。

そもそも丞相の評判のせいで、逃げ出そうとする民が多数いて。引き留めることだって難しい。

家臣達も、独立しろと口にする者が一人や二人では無い。

そればかりか、そんな様子だから、家臣達がいくつもの派閥に別れて制御も出来ない。

ひとしきりまくし立てた鯨歩は、目が狂気じみていた。

龍剣は呆れ果てると、手を払うようにして言う。

「なら私と戦うか」

「……いえ」

「鯨歩、忠誠を示せ」

「忠誠ですと……!」

示していると言いたいのだろう。

だが龍剣は、そもそも今の愚痴は全て不遜だと考える。

そもそも武人同士で戦って勝負を付けたのに、それにいつまでも不満を口にする。

汚れ仕事は誰だってしている。

宋の守りを任せているのは信頼しているからだ。

部下が派閥抗争しているのは、鯨歩の力量が足りないからだ。

そんな状態で呼び出されると言う事は、それほどに鯨歩を心配しているからだ。

それらを述べた後。

龍剣は言う。

「宋王はどうしている」

「宮殿の奥に放り込んでありまする」

「無抵抗なままなら無能だろうと別に私は怒らぬ。 免官して終わりだ。 まあ王ともなるとそうも行かないだろうがな。 ただあの者、このような事をしていたようでな」

竹簡を放る。

山霊の調べた宋王の行動である。

それによると、確実に張陵が放った細作と接触している。

宋内部での派閥争いも、宋王の仕業で間違いない。

「本当なら私が首をねじ切りに行く所だが、今回は兵の建て直しが先だ。 鯨歩、そなたが代わりにねじ切ってこい」

「……はい」

「では戻れ。 私は忙しい」

鯨歩は顔を真っ赤にしたまま、戻っていった。

余程不満だったらしい。

あれは駄目だな。龍剣は失望していた。

何故悪いのか理解も出来ていない。

前は鯨歩に対して相当の評価をしていた。

なぜなら矛を交えた相手だからだ。

だからこそ、龍剣の心も理解してくれると思っていたのだが。

思い違いのようだった。

そして失望した瞬間。

龍剣は、鯨歩に対する興味を一切失っていた。

「宋王を殺すのを見届け次第、何名かの文官を入れて、鯨歩の監視にあたらせよ」

「はい」

此処に山霊がいない今。また周嵐もいない今。

龍剣に逆らえるものはいない。

少しだけ止めた方が良いのではないかと、戻って来ていた于栄が視線を向けてきたが。口にすることは無かった。

ほどなくして、宋王を殺したという連絡が鯨歩から入る。

元々いるだけで無意味だった王だ。

だが、鯨歩は更に龍剣を失望させる事を連絡してきた。

「宋王はいなくなりました故、この鯨歩めを宋王にしていただきたく」

「愚か者めが」

完全にこの瞬間、龍剣は鯨歩に対する無興味から、憎悪へ心が切り替わるのを感じた。

そもそも鯨歩には最後の機会をくれてやったのに、このような愚かしい真似をするとは何事か。

劉処を呼び戻す。

そして、宝にて機動軍五万を預ける。

基本的に現在周と明には、防衛用の部隊しかおいていない。

この機動軍は各地を転戦してきた野戦用の部隊だ。

この間連白との戦いで壊滅した敗残兵も混じっている。

劉処は何事かと言わんばかりに戻って来たが。

五万の兵を与えられ。

そして宋国境に展開するように指示を受けて、愕然とした。

「お待ちください丞相」

「何も待たぬ」

「これは鯨歩を殺すと恫喝しているようなものです」

「そのつもりだ。 あの愚か者は全く道理を理解出来ておらぬ」

劉処は苦しそうに顔を歪めたが。

だが、何も言わず、項垂れた。

そして、五万を引き連れて、国境付近に展開した。

龍剣の見る所、鯨歩と劉処は用兵家としては互角である。武勇も恐らくほぼ互角と見て良いだろう。

実際に訓練所で戦う所を何回か見たことがあるが。

劉処の方が、強いていうなら武芸では少し上。

用兵としては鯨歩の方が若干上だろう。

だが鯨歩が率いる事が出来る兵力は三万。しかもこれは機動軍では無く防衛用の部隊である。

しかも監視を以前からつけていて、訓練も余計な事はしないように指示をしてある。

これから軍備を増強しようと計った場合は即座に攻めこめ。

そう劉処にも指示はした。

不満そうだったのは劉処もだが。

龍剣としては、別に指導者として、当然の指示を出しただけだった。

明の復興があらかた終わったらしく、しばらくして山霊先生が戻ってくる。

山霊先生は、不機嫌極まりない龍剣を見て、即座に何かあったのか察したらしい。

話を聞いてくるので、鯨歩の話をした。

そうすると、山霊先生は、大きくため息をついた。

「権力を割くためにつけた文官を即座に引き上げよ」

「何故です。 奴にはこれ以上の権力など必要ありませぬ」

「そうではない。 鯨歩に確実に殺される」

「……分かりました」

鯨歩を王にしろとか言い出したら流石に我慢ならなかったが。

部下を無駄死にさせるなと言うのなら、それは聞くしか無い。

使者をやって、監視役の文官達を引き上げさせる。

いずれにしても、これで鯨歩は手足をもがれ、監視され続けているも同然の状態になった。

元々兵を心服させられるような者でも無い。

反乱を起こすにしても、三万の兵は士気が極めて低いだろう。

山霊先生はため息をつくと、何か手を打つべく明に戻ると言う事だった。

止めない。

龍剣も、用事があるからだ。

宋王が片付いたことで、実権を持っている面倒な王は残り二人。まだ商王と周王はそれぞれ生きているが。商王は連白の所で飼い殺しにされているし。周王は何の実権もなく、監視されている中で怯えて生きている。

そんな状態の王どもには興味は無い。

清王はいずれ叩き潰さなければならない。だがどうせ法悦が邪魔をしに来る。

おかしな話で、清王と法悦が組んでいるという話はない。

だが相互に利害が一致しているので、連携して邪魔をしてくる、というわけだ。

そしてもう一人の邪魔が。

唐王である。

唐王は今宝に置いているが。

たまに顔を見せに行くと、小言ばかりを口にする。

龍剣に対して余計な口を利くし。

はっきり言って邪魔だ。

逆らわないし無抵抗だから殺していない。

ただそれだけである。

だが、それもそろそろ限界だと思っていた。

唐王の所に出向く。

唐王は、どこから聞きつけたのか。

既に宋での変を知っていた。

「丞相よ。 宋王を殺させたというのはまことか」

「は。 色々と悪さをしていた故に、誅伐を加えました」

「なんということを」

「あの者は元々あの林紹めに担ぎ出されただけの、得体が知れない素性の者に過ぎませんし、死んだところでなんの影響も無いでしょう。 その上、王などと名乗りながら、実体は宋を私物化しようとしていただけの愚か者。 斬る事には何の問題もございません」

唐王は悲しそうに龍剣を見る。

何だその目は。

養ってやっているのは此方だ。

立場をわきまえろ。

口にはしたくは無いが。龍剣の中に怒りが燃え上がる。

不満はいくらでもある。

だが一線を越えていないのは、此奴が抵抗しないからだ。

「唐王陛下。 各地の王は既に名前だけの存在になっており、有名無実の存在となっております。 そこで陛下は、唐の地にお戻りになり、周囲に目を光らせていただきたく」

「丞相が望むのならそうしてみよう。 だが目を光らせるとは具体的に何をすれば良いのだ。 民政を見るのか。 それとも民を慰撫して回れば良いのか」

「ただその場にいるだけでかまいませぬ」

「それは、此処にいても同じでは無いのか」

そうかそうか。

此方の指示に逆らうか。

だったらもう良い。

「同じではございませぬ。 きっと唐の民も安心いたしましょう。 此処宝は元々明の地にございました。 虎川の南にある唐では、きっと陛下の帰りを待つ民がおりましょう」

「そうか……分かった」

項垂れる唐王。

更に、余計な事を口にする。

「結局余はそなたの暴虐を止める事が出来なかった。 以降は辺境で大人しくするとしていよう」

「……」

今、完全に。

龍剣はキレた。

それに、山霊先生の言葉もある。

だから、もう一回だけ機会を鯨歩にくれてやる事とする。

政庁に戻ると、細作を呼ぶ。

指示は、単純だった。

「これを鯨歩に渡すように」

細作には中身を知らせていない。

山霊先生が鍛えた細作は頷くと、すぐに鯨歩の所に向かった。

書類の中身は簡単である。

最後の機会を与える。

唐に戻る唐王を処分せよ。

以上だった。

 

章監は仮面を被り、細作達を指揮しながら、虎川周辺を見張っていた。

張陵から指示が来ていたのだ。

この辺りで凶行が行われる。

それを見届けるか、出来れば止めよと。

出来れば止める、か。

余程の事が起きるのだろうと章監は思ったが。

最近宋王が殺されたと聞く。

宋王はずっと鬱屈した毎日を過ごしていたらしく。其所に暦域が細工をしたらしい。その結果、鯨歩に隠れて火遊びをするようになり。

すぐに山霊が鍛えた細作達にばれた。

まあ宋王については自業自得だろう。

張陵の陰湿な陰謀には少し閉口したが。

だがそんなものに。分をわきまえずに乗る方も悪い。

そもそも王とは責任がある立場だ。

それがあからさまな甘言に乗り。

身を滅ぼすとあれば。

それは王の器では無いと言える。

それにしても鯨歩と龍剣の関係が、此処まで短時間でこうも冷え切るとは。

勿論鯨歩も、もし龍剣が出て来たらひとたまりもないことは理解しているだろう。

故に、相手が大嫌いで。誇りをずたずたにされつつも。

それでも何とか関係を修復したいとは思っているはずである。

章監が伏せていると。

部下達が、無言で合図を送ってきた。

どうやら船が来たらしい。

そこそこに大きな船だ。くりぬいた木に、揺れないように左右に木をつけてある簡素なものだ。

船というものは殆ど進歩していない。

もっと優れた船が作れそうなのだが。

作れば病で死ぬからだ。

貴人が乗る船ですらあの程度である。

あまり水上で戦が起きたという話は章監も聞いた事がないのだが。

それにはあのような船しか存在しない事も、理由にはあるのだろう。

「あれは、唐王の船か」

「恐らくはそうかと思います。 ……章監様」

「まずいな」

すぐに船を用意せよと口にしたが。

だが、部下達が船を用意してきたときには遅かった。

わっと数隻の船が群がると。

瞬く間に、唐王の船を火に包んでしまったのである。

炎の中、覚悟して座っている様子の唐王が。

鯨歩に斬り殺されるのを、確かに章監は見た。

なんということを。

これを張陵が予想していたのなら、事前に知らせてほしかった。

鯨歩を足止めするなり、幾らでも手は打てたのに。

唐王は各地の王の中でも唯一と言って良いまともな王で。

章監としても、敵意は感じていなかった。

たびたび龍剣に対して諌言したという話も聞いている。

それもあって、鬱陶しがられていたのだろうか。

だからといって斬るとは。

とうとう一線を越えたな。

そう、章監は判断した。

いずれにしても、これは許せる話では無い。

証拠隠滅とばかりに、燃やした船を崩して、虎川に沈めてしまう鯨歩。だが、元々木とは浮くものだ。

下流に出向いた章監は、周囲を探索。

見つける。

唐王の冠だった。

粗末なものだ。

元々担ぎ上げられた存在という意味では、唐王も同じである。

最低限の冠しか貰っていなかったのだろう。

だが、これが唐王のものであること。

唐王の船が、あからさまに龍剣の指示を受けた鯨歩によって焼かれたことは、章監には一目で分かったし。

別に章監でなくても即座に分かっただろう。

だから、細作達に指示した。

「周辺の民にこのことを伝えよ」

「それは……民に危険が及びませんか」

「だから念押ししろ。 安易に反乱には絶対に走るなと。 殺されるぞともな」

「分かりました」

細作が散る。

人の口には戸は立てられぬ。

そもそも明での大量虐殺。清での無差別攻撃。いずれもが龍剣の悪名を天下に轟かせてしまっている。

更に此処で、咎がない唐王を殺した。

龍剣には龍剣なりの信念があり。

その信念に何かしら抵触する行為を唐王が取っただろう事は章監にも分かる。

だがそんな信念だか何だかで、人を安易に殺すのがおかしいのだ。

確かに信念は重要だろう。

しかし、その信念を絶対視し。

他人にまで押しつけて、あまつさえ命まで奪うのは。

章監には理解出来なかった。

頭を振る。

細作達に数日間作業をさせつつ。別働隊に、何が起きたかを韓新と張陵に知らせる。これから大規模な作戦を行うらしいが、恐らくそのために必要な作業となるのだろう。

大勢の人が死ぬことは確定だ。

それ以上に、あまりにも血を欲するこの世界に、章監は嫌気が差し始めていた。

 

連白の所に、張陵が来る。

表向きは沈痛な顔をしていたが。恐らく策が上手く行ったのだろう事は、一目で分かった。

連白も、張陵が策士であり。

自分には欠かせない貴重な軍略家である事は理解出来ている。

だが張陵のやり口には、時々ついていけない。

それでも受け入れる。

上に立つというのはそういう事だと思っている。

嫌悪で人を殺してはいけない。

連白にとっては、それは大事な事だった。

「訃報が届きました」

「訃報か。 一体誰が」

「唐王にございまする」

「!」

流石に唖然とする。

唐王は連白も悪い印象を抱いたことが一度もない。

担ぎ上げられた存在ではあるが、温厚で良識的な人物だった。むしろ、他の王が揃いも揃ってろくでもなかったので。唐王のまともさが際立つほどだった。

それが、死んだ。

そもそも龍剣が、手元に置いていた筈。

何があったのか。

具体的な話を張陵が始める。

「そもそも唐王は、龍剣の行う非道に心を痛め、たびたび諌言をしていたようにございまする。 それが龍剣の勘に障っていたようでして」

「勘に障っただけで人を殺すのか」

「龍剣の場合、恐らくですが逆らわれることが許されざる行為なのだと思います。 殿が以前あの酒宴で殺されなかったのは、無抵抗であった事が故でしょう」

「馬鹿な。 唐王だって無抵抗だっただろうに」

龍剣はそう感じなかったのだろうと、張陵は言う。

そして張陵がこうも早く情報を持ってきたと言う事は。

読んでいたのだ。

今各地で諜報活動をしている章監辺りが持ち帰った情報とみて良い。

いずれにしても、頭が痛くなる話だった。

「唐王は、良い人物だった」

「はい。 しかしながら、龍剣を止めることが一度も出来ませんでした」

「そのような事は誰にも出来ないだろう。 あの山霊の言う事さえ、半分も聞かないような存在なのだぞ龍剣は」

「分かっております。 しかしながら、それでも止めてみせるのが王の仕事なのです」

ならば王になどなりたくない。

連白は思わず本音を零すが。

張陵は、じっと待つ。

言葉を撤回するのを、だ。

連白はため息をつく。

分かっている。

他にやる者がいない。仮に清王辺りが次代の覇権でも握ったら、それこそこの中の世界は地獄と化す。

「何か遺品は」

「冠が届いております」

「見せよ」

すぐに出向く。

この世界では、人は死ぬと消滅してしまう。

身につけているものも多くは消えてしまうのだが。たまに残るものがある。

今回は冠が残った、と言う事だ。

冠を実際に見る。

間違いない。

唐王がつけていたものだ。

唐王はあまり人前に姿を見せなかったが、何度かだけ見たことがある。その時に被っていた冠に相違なかった。

「間違いない。 唐王のものだ」

「……では、国葬を行いましょう」

「そうだな。 そうしてほしい」

嫌に手際よく、国葬が行われる。唐王が死んだ事が、これによって中の国中に拡がった。

恐らく山霊はますます龍剣に失望するだろう。

何もかもが、張陵の筋書き通りに進んでいる。

それに、少し嫌な予感がする。

少し前に宋王が死んだが。

そもそも、張陵がそれを悲しむ様子も無かった。だいたい張陵が宋王を殺させたようなものである。

宋に仕えていたという話だった筈だが。

張陵自身は、或いは宋にさえ興味が無いのかも知れない。

流石に薄ら寒いものを感じるが。

知恵者というのはそういうものだ。

張陵は連白を見込んだ。

そして連白を天下の主にさせるために、今あらゆる手管を尽くしている。

そう考えれば、つじつまは合う。

張陵のことは、疑ってはいない。

その辺りは分かる。

だが、流石にこの世界は、何処かで少し何か変わるべきなのかも知れない。

今はまだ死ねない。

もう少し落ち着いたら。

病になるのを覚悟の上で、何か変える必要があるのかも知れなかった。

七国の時代には、もっと酷い状況があったとも聞くが。

今も、それには大差ない。

連鎖する悪夢だ。

そう、連白は思った。

白々しく行われた国葬に参加する。

各国で、龍剣に対する怨嗟の念が一気に燃え上がった。

これを利用したのが清王である。

まあ清王としては、何か理由が必要だったのだろうが。

今まで龍剣の攻撃に耐えながらかき集めていたらしい兵力を、出し惜しみせずに明との国境に展開。

兵力は十二万とも十五万ともいう話だった。勿論かなりの誇張が入っているだろうが、少なくとも大軍が展開しているのは事実だと細作から報告が来た。

案の定怒り狂った龍剣が、機動軍を率いて討伐に向かう。

まずは清王を潰し。

それから、此方というつもりだろう。

しかしながら今回は、先手を取らせて貰う。

連白は国葬が終わると、すぐに用意されていた四万五千の機動軍を引き連れて、そのまま南下。

山中を通って、商に出る。

商では韓新と会ったので、軽く話をする。今回の作戦は、絶対に失敗する。だから、情報を可能な限り収拾する必要がある。

張陵もつれていくが、ひょっとしたら足りないかも知れない。

だが、此処で勝負は必ず付けておきたいのだとも。

韓新は頷く。

「分かりました。 退路は確保しておきます」

「頼む」

大きな犠牲が出る。

それは覚悟の上の作戦だ。

韓新から五千の兵を追加して借り受け、機動軍五万となった連白の軍は。周の南部を通り。

宋との国境ギリギリを通って。

宝になだれ込んでいた。

 

3、龍剣激怒

 

戦略的に、誰もが動けない状況を作る。

それが張陵の今回の策だった。

まず宋にいる鯨歩と龍剣の関係を悪化させ。兵の大半を其方に割かせる。

明側は清との交戦状態を作り出し、龍剣を其方に引きつけさせる。

そして出来た空白地帯に、一気になだれ込み。

龍剣が何より大事に考えている、宝の都を奪取する。

五万という大軍が、事実上からになっている宝を襲撃したが。それでも龍剣の部下である于栄と官祖が迎撃に出て来た。

戦力規模は一万ほど。

何より急な攻撃である。

機動軍はあらかた出払っている。防衛用の訓練しか出来ていない部隊だから、守備が精一杯。

それも五倍の精鋭に急襲されたとなると、迎撃できただけでも大したものである。

少しの間もみ合っただけで、于栄と官祖の軍を蹴散らす。

この二人も龍剣の配下としては古参だと聞くが。

それでも、数の暴力には抗しようがない。

本来数の暴力にはどうにもならない。

それが普通なのだ。

宝郊外での戦闘で勝利した後、連白は宝に入る。

別にそれほど豊かな都市、と言う事もない。

それに、龍剣に心服している様子も無い。

元々明の南部の都市だったのだ。

唐から出て、故郷に威光を示すために作られた都である。

元々住んでいた民にはありがた迷惑だろうし。

そもそも龍剣の暴虐に触れ続けて、愛想が尽きたというのも事実なのだろう。連白の軍を驚くほど静かに迎え入れた。

さて、此処からだ。

まずは兵を放って周囲を調査させる。

一番良い会戦場が何処になるか、調べておいた方が良い。

今回龍剣は恐らく本気で来る。

その全力を見るのが今回の目的だ。

そして全ての手の内が分かれば。

韓新が勝ってくれる。

兵士達は皆壮絶な覚悟でここに来てくれている。

劉処や山霊が戻ってくるとかなり厄介だが。

劉処はそもそも鯨歩の監視で動けないし、万が一の時は韓新が横やりを入れてくれることになっている。

山霊は今までに無い規模での清の「蜂起」で、明から離れられまい。

山霊に対しては明の民は憎しみは無いだろうが。

何しろ龍剣が恨みを作りすぎたのだ。

持っている軍を総動員して、守りを固める必要があるだろう。

周については、そもそも周にいる韓新の部隊とにらみ合っている状況で、駐屯している軍は動けまい。

だがそれでも念のため、という事もある。

元々今回は補給線も伸びきっているし、退路も狭いのだ。

戦いに勝てることはまずないだろう。

だがそれでも、一人でも多くの兵を逃がしてやらなければならないのである。

其所で法悦と連絡を取り。

周で破壊活動をして貰っている。

これで周の守将。恐らくは周嵐だろうが。周嵐は身動きが取れなくなる。

全力で、龍剣との戦いに集中できるというものだ。

兵士達は龍剣への憎悪で煮えくりかえっている。

何かあるとまずいので、宝の都には入れない。

場外に布陣させて、敵の到来を待つ。

元々粗末な生活には慣れていた連白だ。

野宿を続けるくらい、何でも無かった。

一月も掛からなかっただろう。

伝令が飛んできた。

「伝令っ!」

「何事か」

「龍剣軍が現れました! およそ八千! 率いているのは龍剣に間違いありません!」

「清軍はどうした」

話によると、戦闘を挑んだ野戦軍十万は、八千の龍剣軍に文字通り木の葉の如く蹴散らされ、蹂躙され尽くしたという。

この戦闘の様子も、細作が全て記録したそうだが。

まあ十万というのは誇張としても。

それでも一方的な戦いだったのだろう。

すぐに各将に連絡を送る。

「今までにない勢いで龍剣が来るぞ。 出来るだけ被害を抑えつつ、その手の内を全て引き出せ」

さて、此処からだ。

張陵はむしろうきうきという様子で、側に控えている。

連白は少し呆れたが。

それでも、やらなければならない。

五万の軍を五段に展開し、敵を迎撃する陣を敷いて待つが。

龍剣の軍が現れると、少なからぬ動揺が味方に走る。

それはそうだろう。

龍剣の軍からは、凄まじい何か得体が知れない威圧感が迸っていたからである。

恐らくあれは、龍剣一人が放っている怒り。

ただそれだけで、周辺全てが揺れている、と言う事だ。

見えたと殆ど同時に、接敵する。

張陵が事前に想定していた通り。錐水の地で、決戦が始まった。

 

龍剣にまともに戦いを挑むな。

それは何度も行われた会戦で、各将が骨身に刻んでいる事である。

距離を取りながら、一斉に矢を放ち打ち込む。だが今回は、あまりにも龍剣の動きが速すぎるのだ。

第一陣に接触すると同時に、盾を構えて守りに入った兵士達が、文字通り消し飛ばされる。

訓練も何も無い。

文字通り、災害が突っ込んできたのと同じだ。

喰い破られた防衛線は良い。八千の精鋭を包み込むようにして兵が動くが。龍剣に続いて、猛烈な勢いで突貫してくる精鋭はどうしようもなく、第一陣に続けて第二陣が即座に喰い破られる。

連白はまずいな、と思ったが。

第三陣に入る前に、龍剣が咆哮を上げた。

第一陣と第二陣の間に、深く広い掘りが作られていたのである。

掘りを挟んで、第三陣が一斉に矢を放つ。足を止められた龍剣軍が、一気に包囲にさらされるが。

龍剣は其所で、またしても怪物ぶりを見せつける。

矛を振り回すと、地面を抉り飛ばしたのである。

ふっとんだ膨大な土砂が、地面にまき散らされる。

あれが、本当に同じ生物のやる事なのか。

戦慄する兵士達の前で、何度か矛が振り回される。派手に地面が抉られて、雨のように土が降り注ぐ。

掘りが、埋まる。

第三陣に突貫してきた龍剣。

掘りを無理矢理剛力で埋めて、そのまま突撃してきた、と言う事だ。

連白はこれはまずいと判断したが。張陵は冷静にそのまま指示を出す。

今の猛烈な土煙の中、包囲は維持されている。

其所に火のついた油壺を、徹底的に放り込ませたのである。

少しでも被害を出させる。

龍剣と敵の精鋭を引き離す。

それが目的だ。

第三陣が喰い破られた。

第四陣が前進し、第三陣と合流する。包囲は維持したまま、龍剣を必死に防ぎつつ、敵に可能な限り被害をあたる。攻撃は手段も選ばない。

宝から持ち出して来た投石機まで使う。

大量の巨大な石を、包囲網の内側に打ち込むが。

果たしてどれほど効いているのか。

わっと、ついに味方の陣が喰い破られる。

人間をちぎり飛ばしながら、龍剣が突貫してきた。バケモノだという声が上がるが、事実なので仕方が無い。

張陵が言う。

「充分に情報が取れました。 引きましょう」

「よし、全軍撤退!」

連白が最後尾に残り、少数の戦車隊とともに南に逃げる。龍剣はいつものように乗ってこない。

だが石快が矢を放つと、龍剣は矛でそれを叩き落とし。そして此方を見た。

ぞっとするような、怒りの目だった。

勝手なものだなと連白は思う。

今龍剣は怒っているかも知れないが。

周囲に殺戮をばらまいておいて、勝手な話である。

乱戦が続く中、味方は多大な被害を出している。だがその中で、張陵が放った細作が、情報を集めている。

それでいい。

龍剣が突貫してくる中、連白は戦車をまっすぐ南に走らせる。

石快と張陵だけが従って、戦車隊が走る。

いつもより龍剣が更に早い。追いつかれるかもしれない。

そう思った瞬間だった。

伏せていた、城攻め用の投石機の部隊が、龍剣に向けて大量の大岩を投擲したのである。

龍剣はその岩を巧みな馬術で避けつつ、避けられないものは拳で粉砕してしまう。

人を潰すような岩を拳で。

呆れかえる話だが、これもまた事実。

これくらい出来なければ、それこそ此処までの無敵は誇らないという事でもあるのだろう。

正直勘弁してほしい所だが。

それでも、流石に龍剣も追撃が鈍る。

なお投石機部隊は、事前に石を放ったらすぐに逃げるようにとも指示はしてある。特に問題は無い。

そのまま迂回するようにして、周の国境に到着。

わざわざ遠回りしたのは、龍剣その人を引きつけるため。

他の部隊が逃げる時間稼ぎをするためである。

途中には、一月の街時間を利用して、色々な罠を仕掛けておいたのだが。火だろうが岩だろうが落とし穴だろうが、龍剣を止めることは出来なかった。

油を撒いておいて着火しても、龍剣が矛を振るって文字通り炎を吹き飛ばしてしまう。

投石機で飛ばせる岩程度は素手で砕かれてしまうし、大岩を落とす仕掛けにはそも乗ってこない。

落とし穴なんて事前に見抜かれるか埋められてしまう。

呆れかえりながらも、とにかく逃げ回り。

伝令が来るのを待つ。

途中、人型を落とす。

その度に龍剣は状況的に反応せざるを得ないが。

それっぽく木で作り、服を着せただけの人形だ。

これも時間稼ぎのために用意していたのだ。

程なく伝令が来る。

裸馬を乗りこなせる特別訓練した兵士だ。怪我をかなりしているが、精神力だけで持ち堪えているようだった。

「可先将軍より伝令! 味方の撤退、終わりました!」

「よし、引くぞ!」

「待て連白! 今日こそ討つ!」

「悪いが捕まるわけにはいかない」

龍剣に突き放すように言うと。

連白はそのまま、戦車を周に向けさせる。

途中散々罠を駆使して龍剣一人を足止めしながら、周の山中に逃げ込む。

後は要塞地帯である。

流石の龍剣も追ってこられない。

要塞地帯に入ったことをみると、龍剣は其所で追撃を諦め。味方の被害も大きいことを思い出したように、戻っていった。

要塞に入って、一段落する。

可先が待っていたので、報告を聞く。

被害は、覚悟はしていたが。

想像以上に大きかった。

「戦死および助かりそうにない者、復帰出来そうに無い者合計およそ二万から二万五千という所です。 ほぼ壊滅といって良いでしょう」

「そうか……」

覚悟はしていたことだ、

目を閉じて、黙祷する。

可先もかなり精神的につらいようだった。

「張陵、必要な情報は得られたか」

「はい。 申し分ありません。 龍剣が出来ること、その麾下八千が出来る総力を見極める事が出来ました。 後は韓新が勝ってくれます」

「本当だな」

「間違いなく」

頷く。

出撃前に、今回出る五万の兵士達は、全て名前を記録しておいた。

生還した者には褒美を与える話もしてある。

それは死者に対するたむけでしかないのも事実ではあるのだが。

いずれにしても、もう龍剣と直接戦わなくてもいいのだと考えると、それは楽ではあった。

連白にしても、あの龍のごとき怪物と、何度もやり合うのは本当に大変だったのである。どうにか勝ちの目が見えた。そう張陵が口にした事で、やっと肩の荷が下りた印象であった。

ともかく生存者の手当をさせる。

三万の生き残りの内、軽傷者を優先させる。助からないものは、場合によってはとどめを刺す。

可先から聞いたところによると、敵の精鋭八千も、二千以上を失ったという。

まあそうだろう。

韓新が鍛えたこの五万。

全盛期の央武帝が率いた央軍よりも強いだろうから。

それでも二千を削るのがやっとだった。

そういうことだ。

手当が終わるまで、此処で連白は龍剣の攻撃に備える。敵も損害が大きく、追撃どころでは無い事は分かっているが。

はっきりいって、此処で先に戻ったら兵士達にあわせる顔がない。

怪我が浅い者から、順次簡庸に戻らせる。要塞の城壁の上から宝の方を見ていると、張陵が来た。次の策、と言う事だろう。

連白が見た所、張陵は恐らく今まで龍剣の底が見えずに苦労していた節がある。

だからこそ、今回勝てたことで、今後の戦略の策定が決まったのだろう。

底が見えたと言っても、生半可な指揮官では何をやっても勝てる相手ではないのだけれども。

それでも張陵や、それに韓新なら。

どうにかなるということなのだろう。

「次の手を打ちまする」

「我が軍の被害は大きい。 特に機動軍は相当な損害を受けた。 矢継ぎ早に動いて大丈夫なのか」

「大丈夫でございます。 我が軍の損害などすぐに埋まるほど、兵士の志願者は来ておりまする」

「そうか」

残酷な話をされて、連白は嫌な顔はしない。

だけれども、何だか悲しいとは思った。

張陵は全てを数で見ている。

軍師としてはそれで正しいのだろうとも思う。

だが、龍剣憎しで兵士になる者達も。

龍剣にぶつけられる兵士達も。

気の毒でならなかった。

「そも次は我が軍の兵士を使うのではありませぬ」

「どういうことか」

「今回の件で、我が軍は宋の一部を通り、それを鯨歩はほとんど意図的に見逃しました」

「……」

なるほど。

少し分かった気がする。

にやりと、張陵が静かに笑う。

嫌みでは無いが。

恐ろしい笑みだった。

「現在鯨歩は極めて危険な立場に身を置いておりまする。 錐水の攻防戦を凌いだ龍剣は、恐らく間違いなく鯨歩を糾弾するでしょう。 鯨歩にしても、最大限の譲歩をしているところで糾弾されては、もはや我慢がならないでしょう」

「龍剣の配下となると、確か劉処が鯨歩に向けて兵を配備していたな」

「はい。 鯨歩の軍は防衛用の部隊が三万程度。 これに対して劉処の軍は野戦も想定した機動軍が五万に達しまする。 両者の力量は互角程度ですので、勝つのは劉処にございましょう」

「それで我が軍はどうする」

鯨歩を受け入れる準備をする、という。

そういうことか。

「元々龍剣は配下は黙ってついてくるものだという風に考えている節があり、逆らったり裏切ったりした者には容赦しません。 恐らく鯨歩が逆らった事によって粛正が行われ、龍剣の軍は疑心暗鬼に包まれるでしょう」

「内側から切り崩すのか」

「そうなりまする。 ただし鯨歩は誇りがヒトの形を取っているような者。 長くは必要ありませぬ」

溜息が漏れた。

人間をもの扱いか。

それもただ、龍剣の率いる軍の内部を乱すために。

更に、張陵の策略は悪辣を極めた。

「更にもう一つ、決定的な後押しをいたしまする」

「何……」

「唐王の件にございまする。 唐王を龍剣が殺させたことは分かっていますが、下手人は鯨歩である事を突き止めましてございまする」

「そうか。 恐らく最後の機会だとでも言われたのだろうな」

連白は鯨歩に同情した。

そもそも最初からして、龍剣に圧倒的な武勇でぶちのめされ。

以降も屈辱を抱えながら生き。

そして今に至っては、怪物達のエサにされようとしている。

「龍剣は今回の件では、宝にて直属精鋭の再編成と再訓練を行うために当面は動けないでしょう。 鯨歩を潰せば、後は山霊さえどうにかすれば……龍剣はもはや、我等が掌の上にございまする」

「分かった、任せる」

「任されまする」

張陵が行く。

溜息が漏れた。

側に来た石快が、張陵の背中を見ていた。

「あいつの方が余程バケモノじみていやすな」

「石快」

「白姉貴?」

「分かっていると思うが、ああいう人材が必要なんだ。 確かに時々ぞっとするような事を言うが。 そもそもこの世界が色々おかしいからな」

石快は頷く。

ずっと姉貴と慕ってくれているこの忠実な猛者は。

何があっても、連白を裏切る事はないだろう。

鯨歩は違う。

敗残の身になって此方に来ても、場合によっては確実に裏切るはずである。

そうなったら、処分しなければならない。

それは、きっと心苦しい判断になるだろう。

だがやらなければならないのだ。

連白は多くの命を預かっているのだから。

兵の簡庸への移送が終わる。

負け戦、と言う事だったが。

連白を責める者はいなかった。

龍剣の兵を大きく削った。

それを張陵が喧伝してくれていたし。

だんだん龍剣との戦いで、戦況が良くなって来ていることも実感してくれてはいるのだろう。

毎回死ぬ思いをしているのだが。

それでも、確かに連白は龍剣に対して、徐々に有利になって来ているのである。

それは間違いの無い処だ。

一旦簡庸に戻る。

張陵はこの場に残った。

鯨歩に対する嫌がらせのような策の、陣頭指揮を執るのだろう。

細作達をまとめて動いている章監と、連携を密にするのかも知れない。

いずれにしても、当面は張陵が側にいなくても大丈夫、と言う事だ。

周には韓新が駐屯しているし。

何よりも国内は安定している。

誰もが安定した生活を送っていて。

不安がないからだ。

こう言う状態では、反乱など起こりようがない。

そういう事である。

簡庸に戻ると、韓新からの文が来ていた。

さらっと書かれていたが。

結構とんでも無い内容である。

「鯨歩が敗れ次第、宋に攻めこみまする」

「!」

「恐らく劉処との決戦となるでしょう。 その間に、更に兵をお蓄えください」

竹簡をじっと見つめた後。

連白はやるせないなと思った。

兵はどんどん回復している。

錐水の戦いで壊滅した五万を補うように、新しく精鋭が組織され。訓練も連日続けられている。

数ヶ月もしないうちに戦力は回復するだろう。

相手が龍剣だから。

それでも安心は出来ない。

ただし、龍剣は此方ほどの回復力はないはず。恐らく宋に援軍を送る余裕は、あまりないだろう。

もしも張陵がいうように、龍剣の力の底が見えた、というのであれば。

それは龍剣の無敵時代が終わることを意味する。

ただでさえ、宋は恐らく落ちる。

清も落ちるのでは無いかと思う。

韓新が以前文を送ってきていたが、清の各地の街は。清王も龍剣も嫌っている節があると言う。

それはつまるところ。

連白が龍剣が動けない間に進軍すれば、どうしようもないという事を意味している。

唐は元々豊かな土地では無い。

現在必死に山霊が復旧作業をしている明も同じだ。

周の東半分を龍剣は抑えているが、これもとても豊かとは言えない土地である。

いずれにしても、中の世界第三の穀倉地帯である宋を抑えれば。

それで勝負の趨勢は決まる。

それは連白にだって分かる。

じっと見ているだけでかまわない。

そう言われて、事実その通りだと分かっているが。

苛烈な陰謀が行われているのを目の当たりにし続けていると。

何処かがおかしくなりそうだった。

酒は殆ど飲まないが。

時々酒を入れないと、やっていられなくなりつつあった。

 

4、勝利した筈なのに

 

龍剣を怖れて屋敷に兵士さえ近寄らなくなっている。

それを聞いた山霊は、明での民心慰撫を切り上げて、宝に戻って来た。

宝を一時占領され。

それを一瞬で占領し返した龍剣の武勇については聞いている。

だが山霊は見抜いていた。

恐らく張陵は、龍剣の力を計るために、軍を動かした。

そして龍剣の力を見きった。

ここから本格的に動いてくる。

ただでさえ、唐王を殺すという凶行に出てしまった龍剣は、もう歯止めが利かなくなっている。

此処で抑えなければ。

負けは確定だ。

屋敷に出向くと、龍剣は酒を飲んでいた。

ぼんやりと山霊を見上げるので、山霊は怒るのではなく。静かに問いかけた。

「唐王を殺したそうですな」

「宋王ともども用済みであったので斬らせました」

「なんということを」

「いずれ殺さなければならなかったでしょう。 所詮林紹やその辺りの破落戸どもに担ぎ上げられた者達です。 王など不要でしょう」

思わず声を荒げそうになるが。

もう仕方が無い。

唐王は確かに無能だった。

だが良心的な性格もあって、誰からも慕われていたのだ。

それを指摘する。

龍剣は、酒も入っているからか。

どうもぴんと来ていない。

「無能な王など邪悪なだけです」

「ああそうだな。 だが飾りとして存在する王の場合、その性格が良心的である事を知られていれば、民の信望を集める。 結果としてお前があらゆる意味でやりやすくなる」

「私はずっと苦労ばかりしています」

「それはお前が……いやよそう。 まずは現実的にどうするかを考えよう」

山霊も、もう怒るのは止めた。

龍剣は怒っても話は聞いてくれはする。

だが確実に疎み始めている。

それではまずい。

龍剣は唐王を殺したことで、完全に枷が外れてしまった。

今までは丞相という肩書きに収まっていたが。

それももう、王がいなくなった以上。

それこそ、「ただの龍剣である」とでも言い出しかねない。

それでは残念ながら、誰もついてこない。

馬鹿馬鹿しい代物だが。

権威というのは、必要なのだ。

「まず宋だが、どうするつもりだ」

「連白の大攻勢を退けた今、もはや鯨歩は必要ありません。 劉処に処分させます」

「やめよ」

「鯨歩はこのままでは、宋ごと連白に降りましょう」

それについてはその通りだ。

だが、それを食い止める手がある。

龍剣はぼんやりしていて、何だか話を聞いていないようだが。

此処はどうあっても、聞かせなければならない。

「連白はどんどん人材を増やしている。 特に韓新は危険だ。 この間の錐水での戦いの記録を見たが、恐らく張陵はお前を見極めた」

「私を?」

「そうだ。 今後お前が出来る限界の先を行く戦略を採ってくる。 その一つが、宋での鯨歩確保だ」

「あのようなもの、くれてやりまする」

怒鳴りたくなるのを我慢する。

龍剣は確かに欠点が多い。

だが一代の英雄である事も事実なのだ。

実際問題、龍剣がきちんと親身に接している精鋭は裏切る可能性を一切見せない。

ただ龍剣は。

身内にしか優しく出来ないのだ。

そういう性格なのである。

山霊もそれを分かっているからこそ、丁寧に話していかなければならない。

「そなたは張陵の掌の上で転がされて嬉しいか」

「嬉しいわけがありませぬ」

「ならば鯨歩を明王にでもしてやれ」

「鯨歩をどうしてそう許してやろうとするのですか」

貴重な人材だからだ、という。

それに、鯨歩は誇り高い男だ。悪い意味でも、だが。

王の肩書きは貰えれば嬉しいはず。

明の民心はどうにか慰撫に成功した。

此処に据えてやれば、多分上手く行くはずだ。どうせ今後、主戦場は明になるのだから。

それを聞くと、龍剣は驚いたが。

山霊は、何を今更と指摘した。

「劉処に守らせても同じだ。 既にそなたが唐王を殺した事はかなり広まっている。 特に元々宋の民は、そなたにあまり良い感情を抱いていない。 恐らく宋は陥落する事になる」

「……」

「次に落ちるのは清だ。 そもそもあのような無能な清王の下に兵が集まるのは、敵がそなただからだ。 もしも連白が親征でもしたら、清は落ちる。 それも早々にな」

「だったら、全部私が蹴散らすまで」

それが出来ないのだと、山霊は根気強く話す。

だが、龍剣は、自分への圧倒的自信からか。

やはり耳はかさなかった。

ため息をついて、一度屋敷を出る。

鯨歩はこの様子だと駄目だ。

劉処が勝つのはまあ大丈夫だろう。劉処には、先に手を回して周嵐を援軍に送った。ほぼ間違いなく勝てる。被害もそれほどでないだろう。渡してある兵の質が違うからだ。

だが宋の民を敵に回している上に。

宋には恐らく韓新が大侵攻を掛けてくる。

そして気を抜けば、確実に明でまた法悦が暴れ始める。

山霊が見張る必要があるだろう。

周は于栄と官祖に守らせる。

人材が足りない。

鯨歩がせめてこんな状態でなければ。

引っ張って来て、明に据えてやるのに。

そうすれば、少しは状況もマシになる。

少なくとも、壮絶な同士討ちは避けられる。

今後動かせる兵は減る一方になる。

龍剣とその直属精鋭は動かせるだろう。一つの戦線では勝てるかも知れない。

だが、連白は確実に今後多方面作戦を仕掛けてくる。

それも龍剣が来た場合は持久戦に持ち込み。

それ以外の場所では積極的攻勢に出てくるはずだ。

糸を後ろで引くのは張陵。

それに対抗できないのが口惜しくてならない。

更に張陵は、鯨歩の後は劉処。劉処の後は山霊を片付けに来る筈だ。

手口は分かっている。

だが肝心の龍剣があの有様では、どうしようもない。

それが口惜しくてならなかった。

小さな屋敷に出向く。

山霊の屋敷だ。

使用人は、山奥の庵にいた頃から面子が変わっていない。

彼らに、順番に手紙を渡しておく。

山霊が死んだ後、どうすればいいか。

身の振り方についてだ。

誰の性格も熟知している。

どうやって行けば良いかも分かっている。

山霊は全ての作業を終えると、どうにかしてまだ逆転の目がないか、丁寧に考えて行く。

だが、恐らくだが。

それも無理だ。

此処まで状況が悪化すると、もはやどうしようもない。

頼みの龍剣の精鋭も、この間の戦いで勝ったとは言え大きく傷つき、すぐには動かせない状態だ。

被害を可能な限り抑えなければならない。

だが、山霊の権限では。

出来る事が、あまりにも限られていた。

 

章監が手をかざして見ている先で、ついに劉処の軍が動き出した。

想定よりも多い。

五万五千というところか。機動軍としては凄まじい規模である。

龍剣の麾下の精鋭を除いた、多分龍剣軍の機動軍全てだろう。

まっすぐ西に向かっている。

勿論、鯨歩を処理しに行くのだ。

ここのところ、鯨歩に対する凄まじい叱責の書状が送られた。鯨歩はそれらを見て激怒した。

主に宋の国境を連白軍が通ったことに対する叱責だが。

それ以外にも、惰弱だの、仕事をしていないだの、無茶苦茶な罵倒が書状には書き連ねられていた。

正直章監も同情するほどの内容だった。

いずれにしても、あの五万五千は鯨歩を拘束するために動いている。

鯨歩も、当然抵抗しに掛かるだろう。

血の雨が降るのは確定だ。

すぐに韓新に使者を出す。

鯨歩は負ける。

負けた鯨歩の保護。

そしてその後、駐屯したばかりの劉処の撃破。

この二つが、次に韓新がすることだ。

それらを円滑に行うために。

可能な限り、不確定要素は排除しなければならない。

細作を活発に行き来させ、情報を探る。

案の定、堪忍袋の緒が切れた鯨歩は、出陣。

ただし三万の兵の内、従ったのは五千ほどに過ぎなかった。戦場に出向いて、状態を確認する。

雑軍だな。

そう冷静に、章監は判断していた。

元々鯨歩は優れた統治者では無い。

派遣されていた文官達が、穀倉地帯の管理はしていたのだが。

それも最近鯨歩が追い出してしまった。

結果残ったのは。酒に溺れる暴君である。

搾取は苛烈を極め。

街に出ては狼藉を働く兵士も増えた。

元々鯨歩はそれほど褒められた出身では無い。

最悪の意味で、それが出てしまったとも言える。

兵達も、五千は従ったが。

それも、所詮は鯨歩に心酔している訳では無く。

何となく、状況が混乱していてわからないからとりあえず鯨歩に着いていった。そんな者達だった。

ほどなく、五万五千と五千が対峙する。

元々兵の質が違う。

その上兵力差が違いすぎる。

鯨歩に勝ちの目なんて万が一にもなかった。

鯨歩が吠える。

かなり酒を飲んでいるようで、焼け鉢になっているようだった。

「劉処はおるかぁ!」

「此処にいる」

劉処が前に出る。

生真面目な性格だと聞いているが。

普通こんな状況で、一騎打ちなんて受けない。

それでも、恐らくだが。

劉処は鯨歩の状況に、同情しているのかも知れない。

だから、こうやって義理を通している。

悲しい義理だが。

「わしはもう許せん! あの暴君に一撃食わせないと気が済まぬ!」

「鯨歩、山霊どのからの伝言だ」

「軍師どのからの……」

「もう良いから下れ、とのことだ。 丞相には、山霊どのが一緒に頭を下げてくれるとのことだ。 だからもういい。 こんな戦いは止せ」

正直な話。

張陵のやり口は、ついていけないところがある。

章監だって、いつこんな風に消されていてもおかしくない。

連白が許しはしないだろうが。

それでも、張陵だけならやりかねない。

溜息が漏れる。

しばらく、凄まじい形相をしていた鯨歩だが。それでも、

「……そうか、軍師殿は最後まで義理を通してくれるのだな。 だがわしはもう決めたのだ」

「分かった。 気が済むまで相手をしてやる」

「応っ!」

焼け鉢になった鯨歩が、裸馬を駆って躍り出る。

同じく劉処も、躍り出た。

大将同士の一騎打ちか。昔、七国の時代。戦争が小規模だった頃は、時々実際にあったと聞いている。

だがもう時代が違う。

動いている軍の規模も。

例えば龍剣のような異次元の強さを持つなら、己自身を巨大な戦力として数えることも出来るから。自身が一騎打ちに赴くのも選択肢に入る。

だが鯨歩も劉処も、どちらも強いとは言え龍剣のような怪物では無い。

激しい戦いになったが。

どちらも力量は互角。

100合ほど矛を打ち合ったが、勝負はつかず。肩で息をつきながら、鯨歩は一度陣に引き上げた。

明日、合戦と言う事だ。

だが、それはもう、蹂躙されるだけである。

すぐに細作を飛ばす。

壊滅する鯨歩の軍から、鯨歩を救い出さなければならない。

鯨歩自身にそこまで価値があるわけでは無い。

龍剣軍の幹部である鯨歩でさえ受け入れる。

そういう姿勢を周囲に見せること。

それ自体に価値があるのだ。

 

(続)