その世界に平穏はない

 

プロローグ、戦いが続く世界

 

その者達は、自らを「中」の世界の住民と呼んでいた。

その「中」の世界は今。600年にわたる戦乱からついに解放され。その戦乱を終わらせた人間が今、傲然と胸を反らし、高い台にいる。

古くから存在する昔話。

三人の偉大なる「皇」。

五人の勇猛なる「帝」。

この二つをも超えたと称する存在。「皇帝」として。

その存在は己を皇帝と称していた。

中央を意味する黄色の服に身を包み。周囲に黒い軍団を従え。喚声を挙げる民草にゆっくり手を振るその長身の屈強な男は。戦場に出ることは近年はなかったが。それでも政に関してはこの中の世界における随一。

故に法治主義をこの世界に取り込み。

多くの学者を周囲に呼び寄せ。

国の制度を整えて。戦乱の中他の国々を次々に屠り去って行った。黒い軍団は、自分達の活躍に答えてくれるこの主君に最大限に答えた。

戦いだけが主。

民は所詮戦いを支えるためだけの存在。

そのあり方を変えてくれたこの者に対して、皇帝と呼ぶ事を誰もが躊躇わなかった。

皇帝の横に、痩せこけた老人が出てくる。

だがその老人は、決して弱々しい者では無かった。

声を老人が張り上げると、皆がぴたりと静まる。

「皆、静まれい」

黙り込む民草。

老若男女がこの城に駆けつけてはいたが。その全てが、静かになった。それだけ、老人の言葉には力があった。

「これよりこの国は、中そのもの。 そして中の中ということで、「央」と称する!」

「央……!」

誰かが呟くが。

それさえ、この静謐の中では大きく聞こえるほどだった。

「今まで戦乱を起こしてきた清、明、唐、宋、周、商の全ての国々は滅びた! これよりは央の新しい時代が始まる! これまで同様新しい法により、皆が平等に裁かれる世界が来る! この法は我々高官は勿論、皇帝陛下ですら縛られるものである!」

厳格なる法治主義。

それがこの国を強くした。

先代の時代には、既に他の国々が壊滅しているほどには。

故に今。

央は覇者となったのだ。

「これより皆には、民としての責務を法に従って果たして貰う。 以上!」

わっと、喚声があがり。

そして誰もが平和の到来を喜んだ。

その平和が、長く続く訳も無いことを知らずに。

 

この世界では、人は文字通りほこらから生まれてくる。

戦うためだけに。

各地にあるほこらからは、人が毎年現れる。このほこらの周囲には、獣すらが寄りつかない。

そしてほこらから現れる人は、その姿のまま年老いる事も無く。また育つ事もない。だから幼いものが現れると外れだと思われる。

一方老人が現れれば知識を期待されるし。壮年の者は戦場での活躍を期待される。

期待されない者達は田畑を耕す。

ほこらは文字通りの穴。

小ぶりの山に穴が開いていて、そこから不意に人が現れるのである。そして穴の内側からは風がふいており。中に入れば入る程強くなる。例外はなく、山の形も基本的に同じなので、遠くから見ればほこらだと一目で分かる。

このほこらの奥に何があるのかは分からない。また、ほこらの周囲では、どんなに身を闇に落としても争いをしてはならないとされている。

中の世界には、このほこらが二百以上はあると言われていて。

基本的にほこらから現れる人はその国や地域にとって重要な存在でもあるため、必ず。例えどれだけ戦乱が酷い状態でも。

役人が常駐し、誰が出てこようと必ず確保する。

この世界には、虎をはじめとする獣が多い。

例え戦乱がない奇跡的な時代でも。

それら獣は減る事がない。

ほこらの近くには獣は現れない。

だがそれ以外の場所では必ず獣がいる。

最も恐ろしいのは虎だが。

それ以外の獣も充分に人間を殺傷する。

故に役人は例えどれだけ役に立たないものであってもほこらから現れた人間を確保し。そして役所に引き渡されなければならないのだ。

年を取ることはないこの世界の人々だが。

病には罹る。

病はどうすることも出来ない。

この世界に現れた人達は、最初そういった説明を受け。

やがて、それぞれが馴染んで行く事になる。

だが悲しいかな。

馴染むと言う事は。

この世界が戦乱の世界で。どれだけ苦労しても、結局すぐに戦乱が訪れることを意味しているのである。

つまり、体が戦乱に馴染んでしまう。

それを意味していた。

そんな世界に、二人の人間が。

それぞれ別のほこらから現れた。

その事が、やがて大きな事件を産む。

この詰みきった世界にて。

その事件は、世界を変える事となる。

ここは元々「清」があった土地。

清とは、央が天下を統一する前に、中の国北方に割拠していた国である。東の一部は海に接しており、いわゆる「天下七国」の中でも国力は上から二番目の国だった。理由としては豊かな穀倉地帯を有しているからで。その勢力は最大時には北部一帯だけではなく、西部の山岳地帯にまで及んでいた。

強い兵士はこの山岳地帯から供給され。

そして食糧は穀倉地帯から供給される。

そんな国だったのだ。

央の国。正確にはそう名を変える前の「秦」が圧倒的最強だったのだから、二番と言うだけでも充分に凄い。

凄いには凄いのだが。

元秦、つまり央の国の台頭にあわせて勢力の西半分をむしり取られ。それによって戦力が四半減。

穀倉地帯も奪われた事で、真っ先に滅びていくことになる。

強兵の産地と強力な穀倉地帯を奪取した央は、元々強かった戦力を更に補強。

一気に他の国々への圧力を強めていくことになった。

元秦の、先代王の時代に、この穀倉地帯までの奪取が行われた。

いずれにしても、今は此処も清では無い。

元清と言うべきか。

その一角で。

いかにも頼りなさげな、小柄な女が大あくびしていた。

この世界では技術は作っても作っても戦火に踏みにじられてしまう。特に民が暮らすための技術は特に、である。

しかも特異な病気によってその傾向は加速し。

技術は基本的に受け継がれることは無い。

故に女は麻の服を着て、世話が終わった畑の縁でぼんやりとしていた。

麻でなら服は誰でも作れる。

この麻による服は。ずっと戦乱の中ダラダラ生きている連中によっては、何百年も着ている事がある。

死にたくなければ新しいものを作るな。

どうでも良いから世界を変えたいと思っている奴に従え。

そういう考えで、ダラダラ生きている奴は、少数ながらこの世界にいる。

そういう奴らはとにかく新しいものを怖れる。

病が怖いからである。

病が怖いか。

もう一つ、頼りなさげな女はあくびをした。眠そうな目。背は低い。この世界では、性別はあまり関係無い。

子供はほこらから来るし。

そもそも性別がなんのために存在しているのかも分からない。

強い奴は男女関係無く強いし。

なんのために機能として性が存在するのかが誰にも分からないのだ。

それを調べようとする奴は、みな病におかされるし。

必死に記録を残しても、戦火に焼かれてしまう。

一方で、何も知ろうとしなければ、一切病には罹らない。

何処かで誰もが違和感を感じているこんな世界だからこそ。退屈だと女は思っていた。

女の名前は連白。

古い時代には字というものがあったらしいが、それは随分昔に失われた。

だから名前は連白だけである。

ほこらから現れたのは、二十年ほど前。

丁度央による政権が成立した頃である。

今となって見れば、統一政権を作る何て無謀だなあと思う。そして案の定、央の王は病んでいるそうだ。

名前か。

これも、役所に連れて行かれたとき、適当に選ばされた。

中には自分から名乗る変わり種もいるそうだが。

連白には、そういうこともなく。結局適当に、周囲に迎合しそうだから名字は連。何も持っていなさそうだから名前は白と。極めて安直につけられた。

別にそれでいい。

この何というか。

臭う世界。

勘としか言いようが無いのだが。

何かがおかしい世界だ。

それこそ、名前なんてどうでもいい。

「おーい、白姉!」

「うっさいな。 何だよ快」

「まーたさぼってるのかよ」

「そうだよ。 大体今は冬だ。 畑だって休ませなきゃいけないだろ」

後ろから来たのは、連白と真逆の姿をした男だった。屈強で、麻の服も腰に巻くようにし。剥き出しの筋骨たくましい上半身を晒している。

少し連白より後にこの世界に来た男で。名前は石快という。

石のように強く、豪快であるからというのがそれぞれ名字と名前の由来だ。名前については大いに気に入っているという。

力は強いが頭は余り良くない。

ただ、とにかく力が強い。

それで周囲が持て余していたのだが。連白は躊躇無く、世話役を買って出て。丁寧に何から何まで教えた。

それが故か、白姉と慕われて色々面倒くさい。

ただ此奴がいれば、大概の荒事には勝てるので、重宝はしていた。

これでも役人ではあるのだ。

下っ端の、しかも閑職だが。

法律に従って言われた通りに動くだけの仕事。

今はその仕事もないのでぼうっとしている。

だが役人として動く時には、用心棒がほしい。だから、石快については重宝していた。

「皇帝が視察に来るらしい!」

「へえ……」

「見に行こう! 法でも禁止されていないんだろ!」

「……そうだな、聞いた事はないな」

誘われるまま、歩く。ひたすら歩いて、山の上に出る。

あまり近付くと、どんな難癖をつけられるか分からない。前に皇帝暗殺を目論んで、捕まった奴がいる。だから皇帝の親衛隊はぴりついているのだ。

遠くを見ると、大きな戦車が来る。周囲を、いわゆる黒い軍団が固めている。規模は千五百という所か。

戦車とは箱を馬が引く道具で。古くからずっと使われている戦いの道具だ。二頭立てのこの殺戮兵器は、歩兵だと基本的にどうにも出来ない。速度も装甲も攻撃能力も段違いだからだ。一方で狭い道や山に入る事も出来ない。馬に使う道具を工夫しようとした奴はいたらしい。誰もが一人で乗りこなせるように、だ。

だがそれは結局上手く行かなかった。それでより簡単な戦車が今でも使われている。

「はー、すごい戦車だな」

「病気だって話なのに、視察か。 法が行き渡ってるか心配なんだろうな」

「法か。 確かにそれが出来てから、便利にはなったんだが」

「その代わり、あの皇帝はもう長くはもたないよ」

連白の言葉に、石快はぎょっとしたようだが。

これは事実だ。

引き返すことを告げると、石快は素直に従う。この従順な部下だけが。今は連白の家族であり。財産でもあった。

 

唐の国。元々、この中の世界の南部に割拠した国家である。勿論もはや存在していない。国力は昔の秦、清に続いて三番目だった。

南部に広く割拠していた国家で、この中の世界を流れる大いなる川「龍川」の水運を利用し。

それで発達してきた国だ。

簡単な造りとは言え雑多な水軍を多数展開して、高速で敵地に浸透するのを得意としていて。

他の国を積極的に脅かしては、人をさらい。金を奪い。作物も奪う。そんなやり方を得意としていた。

それ故に特に隣国である宋からは「唐蛮」等と呼ばれていたのだが。

その龍川の流れを逆に利用され。

山岳部から一気に攻め降ってきた秦軍に蹂躙された。

元々攻めを主体とする国であった事や。

国王に据えられていた当時の人間が、病を怖れて何もしなかったこともあって、殆ど一方的に国土は蹂躙された。

それどころか、そんな状況になっても。周囲の国々は助けなかった。

それだけ「唐蛮」に対する恨みは深かったのだ。

侵攻は三度行われ。

そのうち全てで唐は敗北。二年ほどで滅ぼされた。他の国にも秦は一斉攻撃を掛けており。

唐の壊滅が決定打となり。やがて秦から央が誕生する事になる。

さて、そんな龍川のほとりにて。

屈強な男が立ち尽くしていた。その隣には、何もかもを憎みきった目をした長身の女がいる。

男の名前は龍一。ほこらから現れたのは、まだ秦が央を名乗る前。戦に散々に負けて、唐の軍が壊滅していく中。かろうじて生き残り。十把一絡げに降参して、雑に許された者だ。

なお龍川にちなんで、この名前を貰った。一というのは、一が良いと何となく思ったからである。つまり自主的に名前を選んだ珍しい一人だ。

その隣にいるのは、龍剣。

ほこらから現れたのはごく最近である。

鋭い目つきと、何より想像を絶する力の持ち主だ。武芸についても教えたら、病を怖れずにすぐに学び。戦術も戦略も、可能な限りと言ってどんどん覚えていった。

それどころか、裸馬まで乗りこなす。

馬に乗る事が出来る人間は希だ。殆どの人間が戦車を使うのは、裸の馬に乗ることが極めて難しいからである。

この世界には、獣がどこからか幾らでも湧いてくる。

虎のように害を為すものは退治しなければならないし。馬や牛のように有用なものは捕まえなければならない。基本的に育つ事もなければ老いることもないのは牛や馬も人と同じである。

ともあれ、この者の名は剣しかない。そう役人として、龍一は思い。そして龍剣も、それを大いに気に入った。

以降は親子として過ごしている。

龍一は少し老けているが。

これは別にほこらから現れて時間が経過しているからでは無い。

最初からだ。

龍剣は強いが、これについては後から身につけたものだ。

病を怖れる事無きその心を。龍一はとても頼もしいと思っていた。

こんな世界でも、恨みはある。

龍一は、家族全てを央の皇帝に奪われた。

奴も、病を怖れず法による統治をこの世界に敷いたという点では評価できる。だがその過程であまりにも人を殺しすぎた。

この世界で人が如何に安い存在だからと言って。

誰にでも心はある。

誇りはある。

唐を焼き払い。仲間を皆殺しにした「皇帝」を龍一は許さない。

今、偉大なる龍川を下っていくのが、その皇帝の船団だ。

この船も、結局大きくするだけで。仕組みを変えることは一切出来なかった。新しい船を作ろうとする技術者はみんな病に罹ってしまう。

誰もが死にたくはないのだ。

結果、誰でも作れる船が重宝される。

故に、船団は規模は大きいものの。

何処か滑稽なほど単純で。

見ていると、黒い軍団も操船に苦労しているようだった。

唐が喰い破られた時、黒い軍団に唐の兵士達は恐怖した。いつも奪う側だったから、奪われ斬り伏せられるのが恐ろしかったのだ。

そういう意味では、唐は呪われた国であり、滅びて当然だったのだろう。

しかしながら、それでも不愉快なものはある。

仲間はみんな殺された。

その仲間の中には、良い奴だってたくさんいたのだ。

「剣、皇帝をどう思う」

「私があれに取って代わる」

「あれ、か。 皇帝をあれ呼ばわりするとは、相変わらず剛毅な事よ」

「ふん」

龍剣は兎に角気性が激しい。

役人として多くの者を養っている龍一だが、龍剣は強さにおいても頭の回転においても別格だ。

ほこらからたまにとんでも無い奴が現れるが。

龍剣はその見本のような存在だろう。

恐らく、器量は皇帝と同等。

或いはそれ以上と見た。

そして、このつまらん世界をひっくり返す原動力となる存在になるかもしれなかった。

「戻るぞ。 蜂起のために、戦力を集めなければならん。 それには出来るだけ多くの者と出会い、多くの事を知る必要がある」

「病になるぞ、父上」

「ああ、分かっている。 だが俺が病になったら、この志はそなたが継いでくれ。 剣よ、そなたは名前の通りこの世界を切り裂く剣だ」

頷く剣。

だが、分かっているのだろうか。

剣は切り裂くことは出来る。しかしながら人を治める事は出来ない。

だからこそ、龍一は焦っているのだ。

剣を支える事が出来る大器を見つけ出さなければならない。

ただでさえ、現状龍剣は龍一の言う事しか聞かない。

何度も注意しているのだが。信頼に値しないというだけだ。筋金入りの頑固者なのである。

その一方で、自分より弱い相手には。逆らわない限り絶対に手を上げない。この辺りは、褒めるところではあるのだろう。ただ逆らった場合、相手が何だろうと一切容赦もしないのだが。

龍剣を促して、街に出向く。龍川の流れを生かし。皇帝が整備した街だ。多くの人が、今のところは獣狩り以外では怯えることなく暮らしていられている場所。

一刻も早く。切れ味が鋭すぎる剣を抑えられる者を。見つけ出さなければならない。

それが、龍一の心残りであった。

 

1、病

 

法治主義を、この争いが永遠と続く世界にもたらした皇帝。だが、誰もが知っていることがある。

この世界では、何かを為そうとすれば病に罹るのだ。

皇帝も例外では無い。

秦は、ずっとずっと前にいた皇帝が。その運命に逆らうと決めた。

だからほこらに優秀な役人を配置し。

次世代を担う存在を見つけ出しては次々に召し出させ。有能な皇帝を選出させるようにしていた。

皇帝候補はいずれも最初は将軍や文官から始め。

実績を上げたものから出世し。最終的には皇帝として抜擢される仕組みがとられ。

それは現在。

秦が央になった今も変わっていない。

なぜなら、病がどうしても身を蝕むからである。

皇帝、央帝は咳をする。

咳には血が混じる。

黄色い衣を身に纏った頃には、既にこの咳は出ていた。歴代の王でも驚異的と言われる精神力で必死に体を持たせてきたが。皇帝になってから、体の衰えは加速した。どうしてもそれが限界に近付いていることを、央帝は理解していた。

央帝は背が高い屈強な男で。

戦場でも政治でも大きな実績を上げてきた。

先代王が崩御すると、遺言から即座に即位し。

そしてこの中の世界を統一した。

現在は中の世界の仕組みをまとめつつ。その外側を調べているのだが。

基本的に中の世界の外側は、東は海。それ以外は切り立つような山に覆われており。

その山や海を越えると、霧が掛かっていて先に進めない、と言う事しか分かっていない。

それらの記録を、彼方此方に残し。書き写させ。分散して残させている。

この世界は、分かっている限り何千年も進歩していない。

その進歩しない時代を、記録を残すことによって終わらせるのだ。

同じ試みをした者は幾らでもいた。

だが皆病で容赦なく殺されていった。

この世界そのものに、である。

故に央帝たる自身がやらなければならない。

央帝になった時に、元の名前は捨てた。

また咳が出る。

どんどん血が酷くなっている。

病は心を蝕んでいるが。

それ以上に心配なことがある。

まずは法が悪用されることだ。

央帝はある程度以上の知性があった。軍事でも政治でも、大きな成果を上げてきたのである。当たり前の事だ。

だが、だからこそ分かってしまうのである。

人間とは。

法があったら悪用する存在だと。

どれだけ厳格に法を作り上げても、必ず悪用される。

それが分かりきっていたから、必死に悪用しようとするものを周囲から取り除こうとしていた。

続いての心配は、跡継ぎの不在である。

どいつもこいつも、次の皇帝になるには器量と覚悟が足りない。

各地を見て回ったのは、これはという跡継ぎを探すためでもあった。

だが、何処のほこらからも。

跡継ぎたり得るものは現れなかったし。

部下の中にも、とてもではないが。この世界を変えるための苦痛に耐えられるものはいなかった。

焦りが心を蝕む。

そうすると、それを悟ったように、更に病魔が強くなる。

机の前で執務をしていた央帝が、鈴を鳴らすと。

竹簡を文官が取りに来て、礼をするとすぐに出ていった。

ため息をつく。

鈴か。

これももっと改良できないものか。

今の時代の鈴は、器である。それを叩く事で音を鳴らす。

その程度のものしか作れないのである。

改良しようとすれば病に罹るから。

誰もが怖れて、やろうとはしないのだ。

央帝自身は、これ以上病を抱える訳にはいかない。

この世界を変える。それだけの事でも、これほどの負担が体に掛かっているのだ。これ以上病を増やしたらすぐにでも死ぬだろう。

そして最後に。

一番央帝が不安に思っているのは、黒い軍団の弱体化だった。

獣と戦わせることで、一定の練度は保っている。

だが、今の黒い軍団は、長く続いた平和で戦いを忘れている。

時々自身で調練を見たりもするが。昔、新人の兵士達を鍛えたときのことを思い出してしまうほどだ。

これは予言でも何でも無いが。

央帝が死んだら、絶対に各地で蜂起が起きる。

その時、頼りない新しい皇帝は何もできないだろう。

黒い軍団が鎮圧しなければならない反乱は、何カ所で起きるのか。それが分からない。

誰もが楽な方が良いに決まっている。

だから法治主義なんて、誰も望まない。

この世界を変える事よりも、己の命の方が大事なのだ。

とくに何もしなければ、幾らでも生きる事が出来るこの世界なら、なおさらである。

それが、央帝には許せない。

人とは、命を燃やしてこそではないのか。

勿論他者には強要しない。

だから自分だけで背負って来た。

しかしながら、それも限界が近いかも知れない。

また咳き込んだ。

そして、央帝は鈴を鳴らす。

現れた文官に告げた。

重臣を集めるように、と。

重臣が集まるまで、少し時間が掛かる。それまで寝台で横になる。

驚異的な精神力で体をねじ伏せてきた央帝だが。秦国を央統一帝国に変えた頃には、既にガタが来始めていた。

最近はもはや、眠る事すら不安定になって来ている。

眠ったら起きないのでは無いか。

その不安は、ずっと央帝を蝕んでいた。

分かってはいる。それは真実だと。

近いうちに、央帝は死ぬ。

眠った後に、安らかに死ねるかなど分からない。知っているが、病に罹ったものは、いずれも苦しみ抜いて死ぬ。

病から逃れる事は出来ない。

一度病になると、もはやどうしようもない。

逆に、何か新しいものを作り出そうとしない限りは、病には絶対に罹らない。それも知っているから、尻込みする者達の事も分かるのだ。

一眠りする。

悪夢ばかり見る。

二人の子供が争っていた。争っている理由は、日輪だった。

一人はとても強そうで。もう一人はとても弱そうだった。

争いは一方的で。強そうな子供が、弱そうな子供を一方的に嬲っていたが。

しかしながら、弱そうな子供が一撃殴ると。

強そうな子供は、それだけで死んでしまった。

日輪を抱えて去る子供。

目を覚ます。

呼吸を整えると、央帝はまた命をつないだかとぼやく。こんな夢ばかりを見る。怒りを感じる前に。

こんな意味が分からない夢を見ても何処かで恐怖を感じている、弱くなった自分に情けなさを感じるのだった。

文官が来る。

時間通りか。

日時計を使うしか、この世界では時間を知るすべが無い。時を知るための仕組みを作ろうとしたものは何人もいたが、皆病で死んだ。

強い武具を開発しようと、鍛冶を改良しようとした者もいたが。それらも皆、病で死んでいった。

この世界を良くしようと、少しでも行動すると。

誰もが死ぬ。

恐らくだが、この世界は。小規模の勢力に別れて、殺し合う事だけを望んでいる。

今の時代が異例なのだ。

だから央帝を徹底的に排除しようとしている。

この中の世界が何なのかは分からない。

はっきりしているのは、この世界に可能な限り抗おうとしない限り。永遠とほこらから供給される人間が。永遠に殺し合いを続けると言うこと。

そんな不毛は許されない。

いずれこの世界の仕組みを変えなければならない。

恐らく央帝はもうもたない。

だから、次の世代に託すしかないのだ。

起きた後は、口をゆすぐ。大量の血がたまっている。激しく咳き込む。どんどん血が増えている。

それこそ昔は数日の徹夜にも平然と耐えたこの体だが。

もうもたない時が来ていた。

それは分かっているから。

今、皆を集めたのである。

この宮殿。大した規模では無いが。宮殿の一角に、重臣達を集める。

皆青ざめている。

何を話されるかは、分かっているからだろう。

そして此奴ら全員が。

皇帝にはなりたくないのだ。

それはそうだ。

死にたくないのだから。

「その様子だと、皆分かっているようだな。 今日ここに呼んだのは……」

激しく咳き込む。

ここ最近、皇帝が死んだという噂が流れ始めている。

本当に死ぬ前に。

何とかしなければならない。

「朕はもはやもたぬ。 そなたらの中から、皇帝を指名する」

「し、しかし陛下は……」

「そなたらも知るとおり、病におかされた時点でこの世界では絶対に助からぬ。 朕もそれは例外に非ず」

「……」

黙り込む重臣達。

先代の時代。

他の六国を痛めつける段階で、志あるものは次々に病で去った。

法を作り上げる段階でもだ。

今生きているのは、その残りカスばかり。

この国は、皇帝が死ねば崩壊する。

病になってでも、志を継ぐ者は、ついに現れなかったのだ。

咳払いをした後、冷酷な事実を告げていく。

「朕が死ねば、央の国は滅ぶであろう。 どうせ跡継ぎになりたがるものはおらぬし、継いだ所で何もせぬだろうしな」

「……」

「そこで、命じる。 先人が命と引き替えに作り上げた法を、各地に隠せ。 そしてそなた達は、身を隠せ」

数名を指名。

命を賭けて皇帝になるほどの気概は無いが。

忠義については、疑う余地がない者達である。

既に準備は整えてある。この辺りは、ぬかりなくやっている。

「新しい皇帝には、胡全がいいだろう」

「えっ……」

「見栄えだけはいいからな」

胡全。

何の取り柄もない若者である。

見栄えは確かにいいが、それだけだ。皇帝になって見たいと、以前無邪気に宣った事がある。

それを央帝は忘れていなかった。

つまり。既に央はもたない事を。央帝は理解している。

少しでも先延ばしにするための人事だ。

将軍達の名を呼ぶ。

いずれも、全盛期の秦に比べると小粒になってしまった者達ばかりである。

「そなた達には各地の守りを命じる。 どうせ反乱が起きるであろう。 その場合、勝ち目がないと判断したら早々に降伏せよ」

「しかし、陛下……」

「もしも戦乱の時代に戻るのであれば、法は隠せ。 統一の志を持つ者が現れた場合は、法を託せ。 黒い軍団が下手に抵抗すれば、統一の志を持つ者が病に倒れるまでもたぬかもしれぬ」

皆が素早く視線を交わし合う。

もはや、央は終わりで。

それを皇帝も理解している。

察知したのだろう。

だから、今後どうやって身を振るか。必死に考えている。別にそれでかまわない。

央帝も。此奴らには、一切合切期待などしていないのだから。

「文官達よ」

「ははっ」

「新しき覇者が現れるようなら素直に従うように。 それまでは、あの無能な胡全を支えよ」

「……ははあっ」

皆がひれ伏す。

頷くと、央帝は満足した。

後は、幾つかの手を打てば終わりだ。

皆を下がらせると、ぼんやりとする。体が冷えてきたのが分かった。どうやら、気が抜けたことが決定打になったらしい。

終わりだ。

目を閉じる。

ずっと戦って来たな。

将軍として五十二戦五十勝。二回だけ負けたが、それも致命的な負けになるような事はしなかった。

文官としては法整備に精力的に取り組んだ。

病が出始めたのは、いつだったか。

先々代の王の時だったか。

病になると、普通は数年ともたない。

だが央帝は、数十年もたせた。

その結果、この中の世界を統一するという、偉業を達成することが出来た。他の誰にも出来なかっただろう。

心残りはそれこそいくらでもある。

跡継ぎはついに見つからなかった。

これからまた戦乱が起きる。

それらは許せない。

まるで、この世界に平穏を作り出した央帝を痛めつけるように次々と現れた災厄。それらは、悪意を伴っているとしか思えなかった。

弱体化していく黒い軍団。

無能な文官ばかりになってしまった。

人材の育成を怠ったつもりはなかった。

だが、出来る奴ほど、病になって死んでいったのだ。

自分より先に。

後からほこらから現れた奴でも。

どうしても、央帝より長生き出来なかった。

目を開ける。

まだ死んではいない。

しかし、もうやるべき事はやった。

鈴を鳴らし、文官を呼ぶ。

武官を呼ばせて、外に出る。もう歩くのも辛かった。

この世界では、陽が存在する。

陽は東から昇って、西に沈む。

あれが何なのかも分からない。

ただはっきりしているのは。あれが古くから信仰の対象であること。恐らく、人間をみくだしていると言う事だ。

光をもたらす以上、撃ちおとすわけにはいかない。

だが、あれがあるかぎり。

きっと何も変わることはないだろう。

それが事実であり。

どうしようもない現実でもあった。

大量に吐血していた。

文官が、悲鳴を上げる。

情けない事だ。昔はもっと肝が据わった文官が多かったのに。みんな先に、逝ってしまった。

病気になった者の末路は決まっている。

いや、基本的にこの世界で、死ぬとどうなるかは決まっている。

まず、全身が砂のように細かくなっていく。

風に吹かれて散らばっていく。

やがて欠片も残さず。

服すらもなくなってしまう。

自分が崩れ始めたのを感じて、央帝は死を悟り。

目を閉じて、呟いた。

一矢は報いてやったぞこの世界を作り上げたものよ。この後に何が現れるかは知らぬ。だが、無軌道な殺し合いがいつまでも続く世界になると思うなよ。

世界に法を。

法の種は世界中に撒いた。

それを増やすようにも指示もした。

もしも新しき覇者が現れた場合、朕の命と引き替えに作り出した法の種が芽吹く。病になるものは減る。法を更に改良しようとしない限りは、病にならない。法さえ守れば、それでいいのだから。

人々を殺し合わせようとしている者よ。

そなたが何者かは知らぬ。

蚩尤か。

それとも何か別の神域のものか。

だがそれでも、いつまでも人が望み通り殺し合うと思うな。きっと、きっと。

其所までで、央帝の意識は途切れた。

後は、何も残らなかった。

 

二、混乱の時

 

央帝崩御。

諡は武帝。

そして遺言通り、胡全が新しい皇帝に即位した。

誰もが知っている。

胡全はとにかく見た目だけは良いが、それ以外には一切取り柄がない男であると。そして、昔からホラばかり吹いて、何も建設的なことはする事がなかった。取り巻きもろくな連中では無かった。

ただ何もせず。

金だけはほしい。

そんな事を呟いている男だった。

取り巻きも同類。

政治中枢を固めている実務家達とは比べものにならないほど愚かで。何の能も無い者達ばかり。また、実際の権力も一切無かった。

だがそれ故に極めて胡全は無害な存在でもあり。

皇帝になると、無邪気に大喜びし。

文官達が与えたオモチャを見て狂喜。オモチャの数々と取り巻き達と一緒に遊ぶ事だけで満足し、大きいとも言えない宮殿から取り巻き共々出てこなくなったのだった。

央帝の予言は当たった。

各地で反乱が始まるまで、三月と掛からなかった。

別に央帝の統治に恨みがあった訳では無い。

法は厳格に守られ。

不正は絶対に許されなかった。

だが。そもそも、支配されると言う事を、まだ誰もが受け入れられなかったのだ。

それぞれがもっともらしい理屈をつけて、暴れ始めた。

だが、これはまだほんの序の口である。

地獄は。これから始まるのだ。

それを、央帝が後の事を話した文官も武官も。全員が理解していた。

法の種を託された者達は、既に各地に潜伏した。後はひたすらに竹簡に法の種を写本していくだけである。

忠義だけは評価された者達だ。

仕事をさぼることは無いだろう。

問題は他の者達である。

これといった文官はいない。法が効く中でなら動ける。だが、志あるものは病で皆死んでしまった。

央帝より先に、である。

だから彼らは、事態が分かっているし。知らされてもいたのに。何もできず、右往左往するばかり。

黒い軍団を率いる将軍達も似たようなものだった。

各地の反乱が小粒なうちは良かった。

黒い軍団の戦闘力は圧倒的だった。

どれだけ腑抜けになっていても、それでも訓練された軍隊だ。訓練を受けていない素人よりは遙かに強い。

装備も練度も桁外れだ。

だからこそ、最初の内は良かったのだ。

だが、央帝の時代に、黒い軍団を鍛え抜いた将軍達は。これもまた、皆病で倒れ果てていた。

統一。

そういう志を抱いてしまったのが、陽の怒りに触れたのだろう。

そんな声も上がるほどだった。

凡庸な将軍達は、作業的な殺戮に、どんどん精神を病んでいった。やがて、あからさまに武装蜂起していない民にまで手を掛けるようになっていった。

反乱を起こすかも知れない。

そう恐怖が妄想を引きだし。

その恐怖がどんどん周囲に連鎖していった。

これらの行動が周囲に伝わると。反乱は鎮静化するどころか、激化する一方になっていった。

央帝の予言は全て当たった。

誰にもどうにも出来なくなった。

どんどん反乱の規模は拡大化し。

更に反乱が発生する地域も増えていくと。

もはや黒い軍団といえども、対応は出来なくなりつつあった。

それでも、昔の六国。清、唐、宋、明、周、商。

これらの国で起きる反乱も、あくまで限定的。

黒い軍団が現れれば、鎮圧されるものに過ぎなかった。

凶暴化していく黒い軍団が恨みを買う一方。

まだ、世界を動かすほどの問題にはなっていなかった。

 

連白が役所に出所する。

本来は畑の管理をする役人である連白であり。しかも交友関係が原因で、非常に評判が悪い。

ならず者の見本のような石快だけではない。連白は妙に人気があり、店に入ればどっと人が押し寄せる。

そして白姉貴、白姉貴と、皆でメシを奢ったり。何か情報を伝えたりするのだった。

いい加減な奴なのに、何故か周囲に人が集まる。更に言えば、人が集まるから耳も早く、情報も良く知っている。

それが故に、上級の役人には蛇蝎の如く嫌われていた。

今日も実務を適当にしている連白だが。

不愉快そうな顔の上司が来たので、顔を上げる。

別に今日は間違いなどしていない。

机について、実印を竹簡に押していただけだ。

木っ端役人には、それくらいしか出来る事がないのである。

「連白、少し良いか」

「はあ」

「はあ……だと」

上司は口元を引きつらせる。

いかにも厳格そうな、筋骨たくましい男だ。

それが故に、正反対の、しかも不真面目そうな連白のことは大嫌いな様子で。

いつも何かにつけて、文句をつけてくる相手だった。

苦手と言えば苦手だ。

だが連白としても、この上司が連白を嫌うのも分かるので。いつも文句があるようなら聞いてやることにしていた。

別室に移る。

別室と言っても、役所自体が小さいのだ。

奥の方にある、土壁と空きっぱなしの木窓。

この世界では、ずっとこの建築が行われている。土と木で家を作る。宮殿でもそれは同じである。

だから宮殿だろうが砦だろうが。

ある程度以上の大きさには出来ないのだ。

「そなたは街でならず者共に慕われておるだろう」

「はあ、まあ」

「今、この央を脅かす乱が各地で起きていることは知っておろう」

「……」

何が言いたい。

連白が荷担しているとでも言うのか。

連白の周囲に集まるのは、石快をはじめとして、確かに荒々しい者達ばかりだ。だが、連白が悪事をするなと言い聞かせると。しっかり悪事をやめる。

前は周囲の者を殴ってばかりだった者に、そのような事はしないようにと言い聞かせたら。

以降ぴたりと暴力を辞めた経緯がある。

そのままだと恐らく人を殺すところまでやっていただろうから、そういってやめさせたのだが。

それもまた、上司には不快なようだった。

その男は、全身に罪を示す入れ墨を入れているほどのワルで。

上司が何度言っても聞かなかったのだから。

それが、連白が適当にやめろといっただけで本当にやめた。

影響力が、上司よりも大きい。

露骨にその事が示されているのだ。

「お前はその乱の情報を掴みやすかろう。 何かあったら、すぐに知らせるように」

「それは私を慕ってくる者達を売れと言うことですか?」

「それが破落戸であれば仕方があるまい」

「……」

目を細める。

いつもやる気が無さそうな連白に、不機嫌そうにされただけで上司はあからさまに怯んだ。

どういうことかは良く分からないが。

「もしも私を慕う者から反乱の兆候があると聞いた場合は知らせましょう。 しかしながら、私が基本的に皆には大人しくするよう言い聞かせております。 それをお忘れなく」

「……ああ、分かっておる」

「それではよろしいですか」

「好きにしろっ」

上司の大人げない舌打ちに見送られて、連白は席に戻ると。

さっさと押印を終わらせる。

今日分の仕事は、明らかに昨日分の仕事より増えているけれど。

役人の仕事は分担が決まっている。

明らかに仕事が出来ない連白は、こうやって誰でも出来る仕事を押しつけられることになる。

ついでにいうと、監視の対象でもある。

破落戸達の顔役である。

それは、役人として囲い。

場合によってはいつでも抑えられるようにしておかなければならなかった。

午前中で仕事が終わるので。

少し疲れたなと思いながら、役所を出る。

兵士達の中にも、連白を慕ってくれる者はいる。

此処に駐屯している央の兵士達は、いわゆる黒い軍団に配属されているような精鋭とは違うが。

それでも各地で民を守ってきたと自負している者達である。

破落戸達とはあまり仲が良くないが。

連白が喧嘩をするなと声を掛けたら。一度で喧嘩をやめ。

以降は白姉貴の言う事ならと、喧嘩は一切しないのだった。

眠そうな目をした、小さな弱々しい体。

武芸の類も勿論下手くそ。

それなのに、どうしてか頭二つも大きい破落戸がしっかり言うことを聞く。それが、この連白の何か不可思議な魅力を示していた。

兵士達の長が来る。

赤彰という、風采の上がらない男だ。木と皮で作った鎧を着込んでいる。基本的に鉄は刃にしか使えない。

加工技術がないからだ。技術を極めようとすれば病に罹ってしまう。故に簡単に加工する事しか出来ず。鎧などには使えないのである。

手にしているのは矛。棒に刃物を十字になるようにつけた長柄である。棒で突くこともできるが、何よりも上から刃を叩き付けることで、相手の頭をたたき割ることを目的としている。

腰には剣も帯びているが、これは本当に最後の武器。基本的に矛が兵士の武器だ。後は弓だが、これはそれほど遠くまでは飛ばないので、普段の兵士は装備していない。

赤彰は、連白の友人の一人だ。ただし態度は丁寧で、連白を立ててくれる。

昔は石快とは文字通り犬猿の仲だったのだが。

喧嘩をとめて以来、妙に連白は慕われている。

連白も、慕われるのは悪い気はしない。

「連殿。 如何なさいました」

「うん? 別に」

「上役に呼び出されていたようだと聞かされていますので」

「ああ、いつものことだよ」

にへらと連白が笑うと、それだけで周囲を安心させられる。

だから、こうだらしなく笑ってみせる。

赤彰は、折り目正しい男だ。

風采は上がらないが、武芸についてはそこそこ出来る。獣を狩って戦闘経験が豊富な石快とまともにやり合えるのもそれが理由だ。

とはいっても、武芸を極めようとか考えると病に罹る。

必要な分しか出来ないのがもどかしくはある。

時間は、それこそいくらでもあるのだ。

もしもこの病に罹るという事がなければ。

この中の世界は、どれだけ発展しているか分からないだろうに。

「何だか反乱が起きていると聞いているけれども、この辺りでも?」

「いえ、この辺りでは聞きませんね。 彼方此方で小規模な乱が起きては、央の精鋭が飛ぶように急行して、すぐに鎮圧してしまうので」

「その割りにはずっと反乱の話を聞くなあ」

「……此処だけの話ですが」

耳を寄せるように言われたので、そうする。

赤彰が言うには。

反乱を鎮圧してもしてもきりが無いらしいというのである。

「平和なときが長すぎたのでしょう。 黒い軍団がやり過ぎているようなのです」

「やり過ぎている?」

「はい。 反乱を鎮圧した後、荷担したと思われる人間を、過剰に裁いているようでして……」

「それは良い事では無いなあ」

連白が渋面を作ると。

赤彰は苦笑いしていた。

「いずれにしても、現時点ではそれほど大きな乱は起きていませんし、この辺りでは話も聞きません。 問題が起きたのなら、此方でどうにかしますよ」

「ああ、頼もしいね」

「お任せを」

役所を離れる。

代わり映えのしない土の色。

華やかな場所など、この辺りには存在しない。

宮殿でさえ土と石で作られていて。飾りなど殆ど無いのである。

何かを作ろうとすれば病になる。

それは飾りなどの技術全てがそうだ。

だから何もかもが質素。

ただ質素なもの。明らかに改良できそうなものを使って。人々は集落の外で人間を狙う獣を排除し。畑仕事をし。

更には場合によっては戦に出なければならない。

飯屋に出向く。

「あっ! 白姉貴がいる!」

「本当だ!」

すぐに破落戸が連白を囲む。

苦笑いしながら、連白は飯を注文した。

この辺りでは、「卑」と呼ばれる作物がとれる。というか、卑以外は聞いた事もない。どこでも卑と、狩った獣を食べているのだろう。

卑は畑に種をまき、水をやるだけで勝手に生えてくるのだが。あまり美味しくない。

料理方法も限られていて。

粉にして焼いたり煮たり。

味付けも、獣の血などで行う事が多い。

卑だけ食べていても肉だけ食べていても体が重くなる。

それで死ぬ事はない。

というよりも、基本的に食べないことで死ぬ事はないのだが。

それでも、皆動くために食べる。

そのために飯屋がある。

連白は、金を払っていない。

入るだけで客がどっと来るからである。今日は石快はいないのかと周りに聞いてみるが、いないそうである。

「石兄貴は、虎が出たとかで何人か連れて狩りに行ってまさあ」

「虎とは大変だな」

「石兄貴なら大丈夫でしょうよ」

「……」

虎か。

もっとも危険な獣の一種。四つ足の獣だが、その大きさは、小柄な連白の背丈の五倍にも達する。

俊敏で獰猛で。ただ殺すためだけに人間を殺そうと襲いかかってくる。

中には此奴を一人で倒す猛者もいるらしいが。

流石の石快も、基本的には虎狩りの経験者と連携して倒す。

三つの目を持つ獣だが、額にある目が弱点で。これを矛で打ち砕くか、或いは矢で貫くと死ぬ。

死ぬと獣は人間と違って、死骸を残す。

この辺りの仕組みは、良くは分からない。

不満そうな顔をしながら、飯屋の老婆が飯を配膳してくる。連白が最初に箸をつけると、取り巻きも食べ始める。

確かにこれだけ取り巻きが食べるのなら、連白は金を払わなくて良いと言う理屈が成立するのも道理だろう。

一応、話を聞いておく。

「今日上役から話があってな」

「ああ、あのがみがみと五月蠅い」

「白姉貴がいうなら、消しますぜ」

「止せ止せ。 五月蠅いだけで別に悪い奴じゃない。 殺すってのは大変な事だから、できるだけやるな」

けしかければすぐに殺しに行くだろう連中だ。

そういって、きちんと釘を刺しておく。

そんな事になることは無いだろう。

あの上司は神経質なだけの男だ。

別に有害な存在ではないのだから。

「何だか彼方此方で反乱が起きているそうじゃないか。 何かお前達は聞いていないか」

「あっしが」

「おう、聞かせてくれ」

「この辺りではないんですがね、明の辺りが今酷いらしいですわ」

明か。

七国の中ではそれほど恵まれなかった国だ。最弱と言われた宋ほどではないが、存在していた位置が悪かった。

確か三番目か四番目くらいに秦に滅ぼされた筈で。

央帝、つまり武帝が秦王に即位した頃には、既に抵抗できる状態ではなかったらしい。

今の央の二代皇帝が、「昏(無能なという意味)帝」と呼ばれる程の阿呆である事は、それこそ何処の誰でも知っている。

二代皇帝になりたいという者が誰もいなかったらしい。

まあそれはそうだろう。

そもそも統一を目指していた秦の歴代皇帝は誰もが病で短命だったらしい。

武帝にしても、超人的な体力と精神力で無理矢理病をねじ伏せ続けていたらしいが。それを見て誰が真似したいと思うだろうか。

「黒い軍団が苦戦しているのか」

「いえ、苦戦はしていないんですが」

「……殺戮が酷いのか」

「ええ。 あまりにも何度も乱が起きるので、もう人を見たら殺すというくらいのやり口だそうでして。 たまりかねて明を逃げ出すものが多いそうで」

不思議な話だが。

旧七国があった土地は。今でもそう呼ばれている。

王になってから州制度というのが導入されたのだけれども。

そんなもの、誰も気にもしていない。

600年も続いた七国時代だ。

それも道理なのかも知れない。

「ちょっとばかりまずいなあ」

「白姉貴?」

「そんな事をしていれば、恨みを買う。 法治主義で人を平等に裁くという事で、今まで央は人々をまとめあげてきたのに。 明らかに不平等な死を周囲にばらまいたら、それはもうその根底が崩れる」

皆が聞いているので、咳払い。

連白は別に頭が良い訳では無い。

ただそれが事実だと知っているだけだ。

はて、誰から聞いたっけ。

何だか思い出せない。

まあ仕方が無い。

とにかく。皆には釘を刺しておくべきだろうか。

「いずれにしても、何かあったらすぐに私に知らせてくれ。 こっちでも出来る事をしてみよう。 微力だがな」

「いやあ、白姉貴がそう言ってくれれば百人力でさあ!」

「なあ!」

男女問わず、周囲の破落戸達が大喜びするので、苦笑いするしかない。

飯屋を出て、家に戻る。

家はそれぞれに与えられているが。

連白の引き取り親と、連白は仲が余り良くなかった。

今日も家に戻っても、口も利かない。

あくびをしていると、血だらけの石快が姿を見せる。どうやら、虎狩りには随分苦労したようだった。

顔を露骨にしかめると、すぐに親がその場からいなくなる。

この街でも、良い意味でも悪い意味でも。

石快は有名人なのだ。

「おお、虎狩りだったらしいな。 どうだった、虎は」

「どうもこうも、随分でかい奴で。 今役所に引き渡して来ましたよ」

「死人は出なかったか」

「どうにか。 危ない場面はありましたがね」

頭を掻く石快。

話によると、兵士の質が落ちる一方だそうだ。

こういう街では、兵士と獣狩りの専門家が連携して獣を狩る。人手が足りないから、そうせざるを得ない。

法的にもそれが正しい。

石快は専門家で。

虎狩りに関しては、確かもう三十を超える数を狩っているはず。

破落戸とはいえ、専門家だ。

兵士達も頼りにはするだろう。

虎狩りの時だけだが。

馬や牛を狩るときは別の専門家が出る。そういうのは、生きたまま捕まえなければならない場合が多い。特に馬は傷をつけるわけにはいかない。

故に専門家は別になる。

「あまり考えたくはないですが、例の反乱の噂」

「ああ、丁度上司に聞かれたところだ」

「やはり。 いずれにしてももし反乱が起きて、この街が巻き込まれたら手に負えないでしょうな」

「……」

そうか。まあそうだろう。

長い平和が悪い意味で徒になった。

精鋭黒い軍団は、戦い方を忘れてしまった。

昔、少なくともまだ央になる前は。黒い軍団は、逆らう相手には容赦しないが、降伏すれば寛大な処置をすることで有名だった。

各地の国は別に善政を敷いていたわけでも無く。

率先して、黒い軍団の到来を迎え入れた街もあったと聞いている。

それが今では、反乱を却って大きくしてしまっているのか。武王が生きていればこんな事にはならなかっただろうが。

しかしながら病がある以上、どうにもならなかっただろう。

「この後、どうなるんでしょう」

「どうもこうも、央はもたんよ」

「……」

慌てたのは石快のほう。

周囲を見回したほどだった。

石快は、連白と親の仲が良くないことを知っている。

だから、密告を警戒したのだろう。

だが、連白は別に其所まで親を愚かだとは思っていない。

仮に密告したとしても。

もし連白が国家反逆罪にでも問われたら、三族皆殺し。要するに親も殺される。親の親もだ。

うちは親の親は、統一時の戦乱で死んだから二人暮らしだが。

それでも、馬鹿なことはしないだろう。

「元々、武帝が凄かったからもっていた国だ。 統一が成立したんだ。 武帝がいなくなれば。 それはもたないのも道理だろ?」

「白姉貴、声が大きい……」

「オホン。 いずれにしても、覚悟は決めておいてくれ」

頷く石快。

連白も、ぼんやりと思う。

このままだと、恐らく反乱は更に大きくなって、この清にまで波及してくる。

黒い軍団に蹂躙されるのが先か。

反乱を黒い軍団が抑えきれなくなるのが先か。

どっちにしても、碌な事にならないのは確定と見て良さそうだった。

 

役所に出ると、この役所の長に呼び出される。

普段の上よりも、三つくらい立場が上の相手だ。

呼び出した上司は、この街には珍しい実務家であり。そして連白に対して厳しくない、珍しい人物だった。

長い髭を蓄えたその人物は、流曹という。

数字を扱うことに関しては右に出る者無しと噂があり。

連白が尊敬している珍しい役人の一人だ。

そもそも連白は人望を買われて役人になった。破落戸達を抑えるため、である。それが分かりきっているから、ハンコを押すだけの仕事を任されていた。

さて、何かあったな。

そう思ったが、ちょっと予想とは状況が違った。

「連白よ」

「はい」

「そなたの役職を変える」

「はあ」

降格だろうか。

別に金なんか無くても困らない。この世界では、その気になれば食べずにも生きていけるのだから。

それに連白は金に執着がない。

給金が安くても、別に困る事はなかった。

「そなたをこれより亭長に任ずる」

「亭長」

「そうだ。 どうも近頃物騒な事が多いからな。 この街の防衛能力を上げておく必要があると判断した」

亭長。

仕事としては、治安維持の隊長である。

軍司令官とはまた別だが。街の治安を守る重要職でもある。場合によっては二線級の軍部隊を指揮下に入れる事もある。

「この間の虎狩りで活躍した石快という男、そなたの義弟だそうだな」

「まあ義姉弟というやつです」

「あの男を始め、そなたが部下を自由に選んでいい。 その代わり、この街で諍い事は起こさせるな」

「……ははっ」

頭を下げると。

その場を後にする。

亭長か。かなりの大出世だ。少なくとも連白を目の敵にしていた連中は、これから逆に連白の部下になる。

恨みも買うな。

そう思うと、ちょっと難しい立場でもあった。

人を近づけないようにと、貰った小さな家で一日考え込む。

それから、自分を慕う破落戸全員に集まるように指示をだす。即座に全員が集まってきた。

街にいる人間は二千人ほどだが。

連白を慕い、姉貴と呼ぶものはその中の二百人を超える。

一割近くに強い影響力があるわけで。

此処に駐屯している軍が百人ほどである事を考えると(しかも常備で武装している兵士は五十名程度で、後は予備役である)、この数が蜂起したら抑えられない。

家の周りはすぐに人だらけになったので、石快の手を借りて屋根に上がる。

土と木で作った家の屋根は茅葺きで。

見栄えは良くないが、仕方が無い。

「これより、正式に皆は私の部下になって、この街のために働いて貰いたい」

「おおっ!」

「白姉貴のためなら!」

「白姉貴万歳!」

わっとわき上がる周囲。

咳払いすると、ぴたりと喧噪が止まる。

「名前を呼ぶ。 その者達には実際に武器を取って貰う」

二百人が集まって来たからといって、皆が戦闘向きな訳じゃない。

中には子供や老人もいる。

そしてこの中の世界では、誰も年を取らない。

だから見かけと実際に生きている年は全く一致しないのである。

五十人ほどを呼び上げる。

呼ばれた者は嬉しそうにしていたが、咳払いをもう一つした。

「今呼んだ者達は大変だぞ。 石快について訓練を受けて貰う。 その後は虎狩りなどにも参加して貰う」

それでも嬉しそう。

残りの百五十人だが。

全員の名前を、連白は覚えていた。

仕事を振り分ける。

武器を加工するもの。鎧を作る者。長期的にもつ食糧。つまり、兵糧を作る者などである。

これらの事は、一日掛けて考えた。

人員の割り振りも、である。

そしてまとめ役についても決めてある。

全員について読み上げをした後、少し声を落とす。

「皆知っての通り、今世が乱れている。 今後、どんどん乱れていくかも知れない」

連白の言葉を茶化すものは誰もいない。

だから、しっかり最後まで言う事が出来た。

「皆、覚悟は決めてほしい。 まずは、身を守る力を手に入れる所からだ」

もしも、黒い軍団が皆殺しに来たら、逃げ散るしかない。

だけれども、その逃げ散る事さえ今の段階では出来ないだろう。

だから、最初はこうやって準備を整える。

あれ。

何だか妙に頭が冴えているな。

そう連白は自分に訝しんだが。

いずれにしても、予算などは役所に請求して良い。物資などについても、役所がきちんと備蓄から出してくれる。

そもそも破落戸をそのまま組織化して戦力に出来る。

仮に賊が来ても、充分に撃退することが出来るだろう。

それが、連白の思惑。

まずは身を守ること。

皆を帰して、そして石快に降ろして貰って。

小さくあくびをしながら、連白はぼやく。

「ちかれたちかれた」

「白姉貴ぃ」

「普段あんなに色々やらないんだからしょうがないだろ。 それより石快、皆死なないように、がっつり鍛えてくれよ」

「それは分かってまさあ」

義弟は頼りになる。

ホンモノの豪傑だ。

そして破落戸仲間からも、連白の片腕と見なされている。

つまり破落戸達も、石快の言う事はしっかり聞くはずだ。

さて、此処からだ。

此処から世の中が良くなる未来が見えない。

だからこそ、備えをしっかりしておく。

もう一つか二つ、手を打っておきたい。

そう、連白は思っていた。

 

3、大反乱

 

各地で少しずつ起きていた反乱が、やがて一気にまとまり始めた。

過激な殺戮を繰り返す黒い軍団に対して、ついに我慢の限界を迎えた者達が、大きな蜂起を起こしたのだ。

その中心になったのは、林紹という男だった。

この男は、元々明の民の一人だった。

別に有名な人物でもなく。

明に赴任してきていた役人が反乱の頻発を受けて黒い軍団を呼び込んだときに。街の自衛部隊として徴収された兵士の一人に過ぎなかった。

ところがだ。

破落戸達で構成された反乱勢力を瞬く間に蹂躙した黒い軍団は。

何を思ったか、林紹のいた街にまで火をつけたのだった。

反乱に荷担していたに違いない。

そうわめき散らす黒い軍団の兵士達は、いずれもが林紹には魔に見えた。

ともかく必死に逃げて。

丸焼きにされ、皆殺しにされた街を呆然と見やるしかなかった。

復讐の炎が心に点ったのはその時である。

それから、各地を回った林紹は。

同じように黒い軍団の蛮行にあった者をかき集め。

そして武帝の死から五年丁度で。

大規模反乱を起こした。

今までとはまるで規模が違う反乱だった。

黒い軍団と真正面からぶつかれる程の数が集まった。それでも、黒い軍団とまともにやりあっては勝てない。

誰かが林紹に耳打ちした。

明の地理に関しては、此方が有利だ。

だから持久戦に持ち込み、奴らを引きつけ。そして兵糧を焼くのだと。

その通りに林紹は動いた。

林紹は、部下の言う事を聞く事が出来るという長所を持っていた。

だからこそ、不満が爆発したとは言え。

これほどの集団の長になったのだ。

かくして、無敵を誇った黒い軍団は、殺戮に熱中している間に兵糧を焼かれ。

大慌てで本国に引き返すこととなった。

央の役人を全てたたき出し、或いは皆殺しにし。

明は独立。

林紹は、適当な人間に「明王」を名乗らせると。

旧秦を除く残り五国にも。

反乱の炎を、燎原の火の如く広げていった。

黒い軍団は体制を立て直すと、林紹を叩きに掛かったが。林紹はとにかく黒い軍団との戦いを避けた。

彼方此方に要塞を作って黒い軍団の足止めを行い。

後方の拠点を襲い。兵糧を焼き払うことに終始した。

本来だったら、こんな戦い方は上手く行かなかっただろう。

だが、黒い軍団は恨みを買いすぎた。

故に、密告する者は幾らでも現れたのだ。

かくして、ついに反乱は制御不能な状態に陥った。

唐、宋、商であいついで「王」を名乗る者が出現。更に、少し遅れて周においても王を名乗る者が現れた。

黒い軍団は、皮肉な話だが。

各地で戦闘を繰り返すうちに、戦闘の勘を取り戻してはいたが。

文字通り民を敵に回し。

更に兵糧の枯渇が起きては戦う事が出来ない。

いつのまにか、攻守は完全に逆転。

既に、央は統一王朝とは言えなくなった。

林紹が暴れ始めてからたった半年。

ついに、清にも。

その林紹の軍勢の手が、伸び始めていた。

 

連白が亭長になってからしばし経つ。林紹の大反乱の事は既に聞いている。

相変わらず退屈そうにあくびをしている連白の所に。大柄な体に、はち切れんばかりの筋肉で内側から吹き飛びそうな鎧で身を纏った石快が来る。

まあ来るだろうなと思っていたので。

席に着いて竹簡に文字を書いていた連白は、振り返っていた。

「どうした?」

「いよいよ、林紹の軍勢が清にも入ってきたようですぜ」

「そうか……」

ついに来た、と言う所だ。

法治主義が聞いて呆れる。

各地で央の役人が民を捨てて逃げ出したり。黒い軍団が殺戮の限りを尽くしたことは、もはや誰もが知っている。

そうなってくると、窮屈な法治主義を押しつけた央への不満が爆発するのも道理だったと言える。

林紹がろくでもない人物であることは、連白には何となく分かっていた。

たまたま小賢しい部下がついただけの小物。

時代の流れに乗っただけの、文字通りお飾り。

それが林紹の実像だろう。

眠そうな目をしていても、連白は実の所人を見る事に関してだけは自信がある。林紹についての幾つかの情報はもうとっくに入ってきている。

破落戸同士の情報網は侮れない。

既に林紹が、「大王」を自称している事を、連白は掴んでいた。

話によると林紹は中肉中背のうだつが上がらない男で、喋る事だけは得意だそうである。一応部下の話を聞くこともできたそうだ。

ただしそれはもはや過去の話。

大成功に乗った林紹は、既に大王と自分で名乗るほどうぬぼれ始めている。

一度自分を偉いと錯覚すると、そいつはもう駄目だ。いずれ林紹は破滅すると見て良いだろう。

これは大乱の始まりに過ぎない。

そう連白は判断していた。

「それでどうなさるので」

「今調べているが、どうも此処の街の県令は、その「大王」に親書を送るつもりのようでな」

「はあ。 央の役人が?」

「央の役人がだ」

苦笑いすると。

頭を掻く石快。

央と言えば、厳格な法治主義で知られていたのに。内部はあっと言う間に腐って行ってしまった。

それはまあそうだろう。

だってそもそも、武帝という超人一人が支えていたのだ。

武帝の行列は連白も見た。

あれは超人だと、今になって思う。

一方で、どんな超人でも、一人で全てを支えていれば。

周囲はそれに依存してしまう。

きっと昔は武帝にも、背中を預けられる仲間がいたのだろう。だがそれらも、皆病で倒れてしまった。

命を賭けて武帝と共に歩もう。

そう覚悟を決めた者達は。

みな病に倒れたのだ。

この世界は狂っている。

何かを本気でやろうとする者は病に倒れる。あらゆる全てでそう。武帝という超人がでてやっと統一が為されたが。それも数十年しかもたなかった。後継者が見つかっていれば話は違っただろうが。

その後継者も数年しかどうせもたなかっただろう。

病は誰だろうが蝕む。

そして、600年戦乱が続いたのも。

どいつもこいつも王がいい加減な奴ばかりだったから。

秦の王族にまともな奴が出て、やっと統一に話が動き始め。武帝の手で統一が行われたが。

それも儚い夢だったと言う事だ。

更に言えば。

病になる様子も無い事から。

林紹が、ただの小物だと言う事がよく分かる。

どうせ適当に権力を得たいと思っているだけで、実際には何も考えていないだろう。

人間なんかその程度の存在で。

だからまた戦乱が噴き上がっている。

中の世界はまた戦乱に乱れに乱れるだろう。

「それで、白姉貴はどうなさるんで」

「お前はどうしたい」

「林紹の野郎はいけすかねえ」

「私も同意見だ」

ふっと、義弟に微笑む。

眠そうでうだつが上がらない目でも。こう言うときには力が宿る。

勘とかでそう判断したのでは無い。

林紹についての情報を部下達から聞き。

それで判断した事だ。

前は、林紹もこれが出来たらしい。

そう考えると、連白もいつ出来なくなってもおかしくないだろう。気をつけなければならない事だった。

「そうなると県令の野郎をどうにかすると」

「……」

そう。今回問題になっているのは、ここの役人の最上位。この間連白を亭長にした流曹ではない。

役人達の最上にいて、決定権を持つ更に上の存在。県令の黄奇だ。

黄奇は、ほこらから流れ着いたときに、見るからに強そうだと言う事でこういう名前がついたらしい。

実際ならず者達も、此奴が直接現れる時は姿を隠す。

武芸に関しては、本当に一人では無理とは言え少人数で虎を倒せるらしく。

実力はどっちが上かと、以前石快に聞いたところ。僅差で上だと答えてきたことがある。

当然、央の武官は数人周囲にいるはず。

もしもの場合は。

この武官もどうにかしなければならないだろう。

この世界では命が安い。

七国に別れて争っていたときは、子供がほこらから出た場合、即座に役立たずとしてうち捨てていた事もあった。

育たない以上子供なんか何の役にも立たないからだ。

酷い場所では食糧にしたり。

子供をわざと逃がして、誰が狩るかで遊んだりしていたそうである。

今はそういう事も無いが。

それでも子供に対する扱いは最悪である事に代わりは無い。

それにほこらは幾らでも人を吐き出す。

だから、文字通り代わりは幾らでもいる。

流石に央の武帝のような規格外は滅多に現れないとしても。普通の領域にいる人間は幾らでも湧く。

故に、命は安いのだ。

命に関する考え方は、連白にも思うところはある。

だからといって、それをどうしようとも出来ないのは事実だった。

「やるならすぐにでも?」

「……親書を奪えるか。 間違いがあってはいけないから、伝令は殺すな」

「分かりやした。 すぐに手配します」

「私は私で動く」

連白は亭長になってから、この街の軍半分を握ったのと同じになっている。

この立場もあって、前は連白を穀潰し扱いしていた奴も、見方を変えるようになっている。

中でも完全に見方を変えたのが。

流曹である。

この緻密な数字管理の達人は、連白が亭長になってからぴたりと街で悪さをする人間がいなくなった事実をしっかりみていた。

そして今では、基本的に周囲に連白を良く言ってくれている。

相談する相手なら、この流曹しかない。

今後の事を考えると。

流曹に県令を務めて貰うのが一番だと思う。

黄奇はただ粗暴なだけの小物だ。

ましてや、話に聞く無法なだけの「大王」と手を組もうなどと考えている時点で、何も考えていないのは明白。

排除を切り出せば、恐らく乗ってくる。

すぐに石快が行ったのを見送ると。

連白は自身でも、手練れ数人をつれて、流曹の家に出向く。

流曹は役所の隣に家を作っていて、其所で住んでいる。

役所に住んでいると陰口をたたかれているのを知っているが。これほど勤勉な者を連白は知らない。

男だろうが女だろうが。

いい加減な奴はいい加減だ。

黄奇だってそう。

武帝の時代に何だかちょっと手柄を立てたとかで県令になっているが、その本質はいい加減そのもので。

だからこそ、今県令程度に収まっている。

しかもそれで満足してしまっている。

「大王」とかした林紹ごときの味方になろうとしているのは。

自分に報いなかった央に見切りをつけ。

夢よもう一度とばかりに、戦乱の中に身を置きたいのだろう。

馬鹿な奴だと思う。

林紹が黒い軍団に目の敵にされ、これ以上もないほど凄惨に殺されるのはほとんど確定である。

こんな時に味方をするなんて、正気の沙汰じゃない。

流曹の家に出向く。

質素な家だ。

殆ど私物がない。

一緒に暮らしている息子も、ほこらから真面目そうな奴を引き取ったらしい。今でも、てきぱきと働いている。

流曹に話があると言うと。

控えている手練れを一瞥し。

もうその時点で、何か悟っている様子の流曹は言うのだった。

「県令の件かね」

「……」

「此方に来なさい」

頷くと、地下室があるというので、其方に。

手練れ達もついてくるが、流曹は何も言わなかった。

ここしばらくで石快が鍛え抜いた手練れ達は、街の兵士達よりもはっきり言って強い。もとが破落戸とはとても思えない。

石快には恐らく将軍としての素質がある。

だが、石快には側にいて欲しい。

あれくらい頼りになる守り手は他にいないからである。

地下室は思ったより広い。

というよりも、時間を掛けてこつこつ拡張したらしい。

こんなものを、真面目に作っていたのか。

本当に真面目なんだなと、ある意味呆れてしまった。形容しようがない顔をしているのに気付いたか、流曹は苦笑した。

「それでだ。 後ろの柄が悪いのは大丈夫かね」

「この者達は石快が鍛えた私の部下ですので」

「……信頼出来ると」

「私は彼らのために。 彼らは私のために。 そういう関係です」

そうかと呟くと。

流曹は、話をしてくれる。

「今の県令が阿呆なのは誰でも知っている。 しかしながら、実を言うともう央から指示は来ていないのだ」

「指示が来ていない?」

「黒い軍団の指示もロクに出来ていない様子だなこれは。 恐らくだが、武帝が死んだ時には、もうまともな家臣は残っていなかったのさ」

「どうしてそんな……」

言いかけて気付く。

病か。

武帝は部下達と一緒に戦い続けた。

育て上げた部下達は、世界に法治主義を浸透させるために、病になる事を怖れずに働いたと聞いている。

結果武帝もろとも。

出来る奴からみんな、病になって死んでしまったのだろう。

馬鹿な奴とは言えない。

少なくとも黄奇よりもずっと立派だとは思う。この世界のために、文字通り命を賭けたのだから。

だがその結果がこれだというのも報われない。

この世界は本当に、一体どうなっているのか。

「それで、県令を排除するのかね」

「今、石快に伝令を確保させています。 伝令を確保し、書状の内容を見次第」

「そうか。 その内容次第では、私も協力しよう」

「……分かりました」

いずれにしても林紹につく事は選択肢としてあり得ない。

すぐに地下室から出る。長話になると、黄奇に漏れるかも知れない。

そして黄奇自身は、県令として一応軍全てを握っている。

石快が如何に豪傑であっても。

この街の軍事力が二つに分かれて争えば、大勢死人が出る。

死人が出るのはこの世界の仕方が無い宿命だ。

だがそれでも、できる限り死ぬ人数は減らしたい。

今回は県令の黄奇だけに死んで貰うのが一番良いだろう。本当はそれさえも避けたいのだけれども。そうもいくまい。

幾つかの話をした後、流曹の家を出る。

これでも亭長だ。

別にこの街で政務を取り仕切っている流曹の家によっても不思議では無い。街の者の反応は極端。

連白を嫌っているものは嫌っているけれども。それでもいてくれると助かると考えてくれるもの。

連白に対して、姉貴姉貴と慕ってくれるもの。

その両極端だ。

家に戻る。最近疎遠になった父は、完全に別居状態。黙々と美味くも無い卑を粉にして固めて焼いたものを食べていると。

石快が来た。

書状を手にしている。竹簡で、獣の皮で包んだ書状は。血に塗れていた。

「殺してしまったのか」

「護衛に県令の野郎の部下がついていたので、其奴らはどうしようもありませんでした」

「……」

「伝令自体は、どこに行くかも聞かされていなかったようです。 県令の野郎、直属の部下数人しか信用していない様子で」

そうか、気の毒なことだ。

黄奇は愚かな奴だが。

きっと何処かで、愚かな事に気付いていたのだろう。

だから直属の部下数人以外は誰も信じていなかった。

故に、こんな事をして、更に戦力を減らしてしまったという事になる。

封を解いて、中を見る。封は蝋で固められていて、県令の印が押されていた。こういう書類を破くと普通は処刑なのだが。

今は街の人全ての命が掛かっているのだ。

それどころじゃない。

竹簡に書かれた内容を読む。

すぐに、眉をひそめてしまう。

これは、正気か。

大きくため息をついた。

そして、放って石快に渡す。石快も、更に周囲の部下達も読むが、見ていて見る間に顔色が変わるのが分かった。

「県令の野郎っ……!」

石快が、顔を真っ赤にして怒る。

本気で石快が怒っているのを見たのは、以前二度。

一度は連白が、上位の役人に難癖をつけられた挙げ句に、虎狩りに向かわされたとき。要するに死んでこいと言われたのだ。

その時連白が抑えなければ、石快はその役人を殺していただろう。

もう一度は、連白の親父が。連白を穀潰し呼ばわりしたとき。

もう少し止めるのが遅かったら、親父の首をへし折っていたはずだ。

あれでも連白の親父なのだ。

だから、殺すなと止めた。

それ以降、連白の親父は、連白を避けるようになった。

そんな石快が、三度目の怒りを見せている。

書状にはこうあったのだ。

黄奇と正規軍五十名、大王閣下の軍に合流する。

街については略奪勝手次第。全て奴隷にしてしまってかまわない。

特に役人については切り取りご自由に為されたし。

伝令に、中身を見せる。

伝令さえ、青ざめていた。

「わ、私もこれを届ける所だったのですか!?」

「そうだ。 最後も見ろ」

「……!」

この書状は確認次第、伝令もろとも消してほしいと書いてある。要するにこの伝令、首尾良く「大王」の所に辿りついたところで、消されていたという事である。ぐっと下を向く伝令に、これから部下になれと持ちかけると。そのまま、静かに頷いていた。

命は救うものだ。

そして、これが分かった以上、もはやときは無い。

「石快、やるぞ。 私を守ってくれるか」

「白姉貴を守るのは俺の役目だ!」

「そうか、ありがとう。 皆、仲間に連絡! 伝令、翼船と言ったな」

「はっ!」

既に部下になった翼船。まだ若いすっとした雰囲気を受ける若者である。使い捨てるような人材じゃあるまいし。

翼船には、流曹の所に、書状を届けさせる。

石快が指示をすると、すぐに部下達が散った。この時に備えて、訓練をしていたと言う事だろう。

すぐに五十名が集まる。しかも、集まるのは五十名だけに留まらなかった。

兵士達も集まってくる。

やれ即座に衝突かと思ったが、違う。

兵士達の指揮を執っている将。将軍というには率いる兵が少なすぎるが。ともかく将である可先が前に出ると、跪いた。隣には赤彰もいる。可先は赤彰の上役だ。実際に兵を指揮しているのは赤彰であり、総司令官の立場が可先になる。

「県令、いやもはや央にも我等にとっても単なる害獣と化した黄奇には従う事かないませぬ。 これより我等は亭長の麾下に加わりまする」

「んだテメー、調子が」

「止せ」

石快が不愉快そうにするが。連白が止める。

仲間は一人でも多い方が良い。

可先は央から派遣された役人の一人。

下っ端ではあるが、一応正式な軍事訓練も受けている。

そんな貴重な人材である。

使い捨てるのはもったいない。

味方になってくれるなら、有り難いと喜ぶべき相手だ。

すぐに、黄奇の屋敷を百名ほどの全軍で取り囲む。

黄奇は侮れない武勇の持ち主だ。

それに、戦争経験者でもある。

すぐに異変を察したのだろう。部下数名と共に、屋敷を飛び出してきた。腰に剣を帯び、更には矛を手にしている。

鎧を着る余裕は無かったのだろう。

背は高く、筋骨たくましい男だ。

体格だと少し石快が上回るが、侮れる相手では無い。

数名の、無言の部下達。

あれはもう人間じゃない。

完全に獣だ。

黒い軍団というのは、ああいうのなのだろうか。だとすれば、話も通じないのは何となく感じる。

「これは何事か! 我は県令ぞ!」

「その県令どのが、「大王閣下」に我等を売り飛ばす算段をしていたようですな。 全て露見しておりまする」

流曹が進み出ると、流石に兵士達もさっと下がる。

この街を本当に仕切っているのは流曹だ。

ある意味では、亭長である連白や。

破落戸を力で従えている石快よりも怖い相手だと言える。

流曹に対して、文字通りせせら笑ってみせる黄奇。

此奴は救いようが無いゲスだなと、連白は呆れていた。

「だったらどうした! この街は我の私物だ! 我がどうしようと勝手ぞ!」

「残念ながら人命は私物に非ず。 央の法にもそうありまする。 そして何よりも、央の法以前の問題にございまする」

「黙れ黙れ! この痴れ者を斬り捨てよ!」

誰も従わない。

怒りが噴き上がった様子の黄奇だが。ならばと、自ら矛を振るい上げ、流曹に襲いかかる。

目配せ。

同時に、石快が動いていた。

降り下ろされた矛に反応したのは流石だ。

もの凄い音を立てて、矛が打ち合わされる。

矛は基本的に刃だけが金属。矛の柄は木材で作られるのが普通だ。

だから時々物語をしに来る吟遊の民がするような、刃がぶつかり合う音はせず。むしろ高い音が響く。

剛力の石快の一撃を受け流したのは、技量によるものだろう。

そのまま、二度、三度と石快の一撃を受け流してみせるが。

だがしかし、実力の差が出始める。

八合打ち合った所で、ついに壁に追い詰められる黄奇。

何をしている。此奴を殺せ。部下達に叫ぶ黄奇。

だが、その部下達は、もはやよってたかって矛でずたずたにされて生きていない。連白が、事前に部下達に指示を出していたのだ。

黄奇が襲いかかって来ると同時に。

奴の部下を殺せと。

凄絶な顔を浮かべると。

黄奇は叫ぶ。

役人達の名前を。

助けないか。

だが、誰もが視線をそらした。書状の内容は、もはや連白が皆に見せた後である。こんなものを見せられては、誰ももはや従うはずがない。

叫び声と共に、二十合目でついに石快が、黄奇の矛を弾き飛ばす。

吹っ飛んだ矛は回転しながら中空に舞い上がり。刃が地面に突き刺さった。

勿論、もはや容赦する必要もない。

石快の降り下ろした矛の一撃が、黄奇の頭をたたき割る。

この世界では。

致命傷を受けた人間は、それで終わりだ。

倒れ臥すと。

霧のように消えて無くなる黄奇。

この世界での、死を迎えたのである。

嘆息する。

流曹が前に出て、皆に言う。

「悪逆の県令は滅びた! これよりこの街は、新たなる主を迎えることになる!」

そして、流曹はなんと。

連白を指名した。

きょとんとしている連白。やったな姉貴と、いきなり抱え上げる石快。慌てる間もなく、何故か胴上げが始まる。

目を回している連白に、誰も気付かなかった。

 

4、黒から死へ

 

清に侵入しようとしていた林紹の軍勢が、彼方此方で行方を断った。林紹が大王の旗印の下、小首をかしげていると。

伝令が。

血だらけの伝令が、陣幕に飛び込んできた。

「ご注進……!」

「い、如何したか!」

「清に侵入した我が軍は、突如現れた黒い軍団によって蹂躙され……各将軍は皆、命を落とされました……」

絶句する林紹とその幕僚達。

そして、その驚きがさめやらぬ間もなく、どっと喚声が湧いた。

ガン、ガンと音がする。

この世界では、金属は貴重だ。

だから軍では、大きな音が出るように、わずかなドラだけを作る。

そのドラが鳴り響くというのは。

攻撃の合図。

そして林紹の陣地に、どっと黒い軍団が押し寄せてきたのである。それも殆どが、戦車によってだ。

圧倒的な兵力を集めた。

だから、黒い軍団何するものぞ。

そう備えていたのだが。

平原に布陣したと言う事は、馬二頭が引く戦車にとっては文字通り独壇場である。

蹂躙が始まった。

数は此方が上だ。叩き潰せ。

叫ぶ林紹だが。

誰もが分かっている。

戦車に対しては、相応の兵器なりなんなりを持ち出さないと対応出来ない。馬二頭が引くこの兵器は、乗っている人間は盾で守られているし、何より突貫してくる馬そのものが脅威になる。

最悪の形で、油断しきっていたところを急襲された林紹の軍勢は、一夜もしない内に半数が死に。

残り半数も逃げ散った。

その逃げ散った中には、林紹もいたが。

残念ながら、周囲にはその部下達は既にいなかったのだ。

周囲を見ると、周りは見知らぬ者ばかり。

反乱を始めた頃の部下は一人もいない。

恐怖を感じた林紹は、慌てて部下達の名前を叫ぶ。皆、「将軍」だの「大将軍」だのになっていたのに。

それも忘れて、皆の名前をそのまんま呼んでいた。

だが、誰も答えない。

数日、逃げ続けた。

何となく、林紹は悟る。

黒い軍団は、林紹が調子に乗って。更には不満分子が集まるのを待っていたのではないのかと。

負けるフリをして調子に乗らせ。

そして効率よく狩る。

それが目的だったのではないのかと。

それに気付くと。

林紹は文字通り震え上がり、足が進まなくなった。周りが全て敵に見えるようになってしまった。

敗走する兵士達が、その様子を見て離れる。

明らかに尋常な様子ではないからだ。

既に自分用に誂えさせた馬車も失っている。歩くしかない。歩いて逃げるなんて、いつぶりだろう。

呼吸を整え、必死に逃げ惑っているうちに。

やっと知っている旗を見て、林紹は安心した。

駆け寄り、愕然とする。

旗がある陣には。もはや誰もいない。

さっきまでいた跡はある。

此処にはさっきまで林紹の部下の将軍がいて。そして黒い軍団に発見され、掃討された。そういうことだ。

馬鹿でも林紹はそれなりに実戦経験を積んだのだ。

それくらいは理解出来る。

そして、それが林紹の最後となった。

後ろから、矛で頭をたたき割られる。

倒れ臥した林紹が、地面で最後に見たのは。

ただ真っ暗になっていく、何もかもが終わる光景だった。死にたくない。そう考える事すら、出来なかった。

 

後に林紹の乱と呼ばれ。

央の平穏を究極的に終わらせた乱は、かくして林紹の死と共に終結した。

しかしながらその敗残兵は各地に散り。

より大きな反乱へとつながっていくことになる。

もはや央の命運は尽きた。

それに気付いていないものは、央の役人にさえいなかった。

真の大乱は。

これから始まるのだ。

 

(続)