赤き砂漠の向こうに

 

序、どこまでも続く砂漠

 

月の光が照らす砂漠が、遙か地平の彼方まで続いている。延々と連なる砂丘は、夜の湿気を帯びて怪しげに輝き、駱駝でさえ進むことを尻込みするほどだ。

かって、此処を通った者達がいた。

ある者は貿易のために。

またある者は、思想を確かめるために。知識を得るために。

欲が、それを可能にした。或いは信念と、屈強な肉体が。

今も、この砂漠を越える者は勿論いる。だが、それは厳重な装備をした上で、安全策を講じて進んでいるのである。

やせこけた馬に跨がった、見るからになよなよした僧。

馬の左右には、荷物がぶら下げられている。それにはさっきまでは水が入っていたのだが。

「急いでください。 このペースだと、次のオアシスまで、たどり着けませんよ」

前にいる後輩が、手を叩いて促す。

ヘルメットを直すと、砂がざらりと流れた。

この辺りの過酷な気候は、常軌を逸している。現在でも、それに変わりは無い。

「待ってくださいよ、姐さんー!」

情けない声を上げたのは、豚の顔をした男だ。野豚なら強健なはずだが、まるで家で飼われていた豚のように軟弱な体つきで、ただ肉だけが体中を覆っている。

その隣にいるのは、青黒い体をした、やせこけたカッパである。目は酷く落ちくぼんでいて、極端に無口だ。

豚もカッパも、それぞれ手に長柄の武器を持っている。だがそれは、どちらも杖以上の役割を果たしていなかった。

空から、何かが降ってくる。

かっこうよく着地しようとして、見事に失敗。

砂漠に大の字の穴を開けたそれが、呻きながら砂の穴から這い出してくる。後輩が、呆れて手をさしのべ、引っ張り上げる。

出てきたそれは、猿の顔をしていた。

「あいててて。 おかしいなあ。 いつもなら上手く行くんだけど」

「さっき、僕の前でそう言って、同じように落ちたじゃ無いですか」

「そうだっけ? あ、今日はそうだ、天体の位置が問題で、特別調子が悪いだけだよ」

けたけたと、甲高い声で笑う猿。あれだけの大穴を作ったのに、傷一つ無いのは凄いことである。

ため息をつきたくなる。

このお猿のモデルになった存在は、天界の軍勢を一人で圧倒した超越的な猛者であるのに。後ろにいる僧のモデルは、どれだけの言葉を連ねても讃えきれないほどの徳を内包した、歴史的な人物が原型となった聖僧だったのに。

原型とはあまりにも違いすぎる。

この世界が、いつまで経っても打破できなかった訳だ。後輩がそう言っていたが、納得しかけてしまう。

だが、それでは駄目だ。

「ひー。 寒いよー! もう動けねえよー!」

「しっかりしてください。 動かないと、本当に日干しになってしまいますよ」

「鬼! こんなひ弱な俺を、虐めないでくれよう」

豚が散々好き勝手に喚く。

来る途中に聞かされたのだが、この豚も、原点では欲の権化ではあるが、破壊的豪傑的な側面がある存在で、物語がある国では一番の人気を誇るという。

老人は、ずっと静かにしている。

だが、放っておけば倒れてしまいそうだ。この存在に至っては、聖僧を何度も何度も殺してその旅を強制的に中断させた、悪のカリスマであった筈なのだが。

「スペランカー先輩、ペースを上げられますか?」

「うん。 川背ちゃんは、聞くまでも無いか」

「僕だけだったら、この四十倍のペースで行けますよ」

後輩、川背は、いつもに比べて機嫌が悪い様子だ。

無理も無い。同じ原型を持っていても、優秀な同輩はいくらでもいるのだから。

体力が極端に無いスペランカーでも、この人達に比べればマシに思えてくる。ずっと機嫌が悪い川背をなだめるのにも、そろそろ疲れてきたところだ。

この、ある意味恐ろしい世界に紛れ込んでから、今日でおよそ二月。

まだ、まるで先は見えてこない。

時間の流れが外とでは全く違うとは言え、不安は募るばかりだった。

夜通し歩いて、どうにかビバークできる場所にまで辿り着く。

大きな砂丘の影に穴を掘り、そこで日差しを避けるのだ。

穴を皆で掘る。猿は大喜びで掘っていたが、他の三人は今にも倒れそうだ。馬はぼんやりと側で見ている。力仕事をするように、急かして欲しいものなのだが、三人にはそんな気は廻らないらしい。

穴が掘り上がると、川背が入るように指示。

太陽が昇りはじめると、すぐに気候が灼熱へと代わりはじめる。荷物の一つの布穴の上に広げて、直射日光を避ける。

そうしないと、本当に文字通りの意味で、干上がってしまうのだ。

体力が無いスペランカーは、何も喋らないようにして目を閉じる。川背からアドバイスをもらったからその通りにしているだけだ。

猿を除く三人は、穴の底でそれぞれがぐったりしている。

てきぱきと川背は水を手に入れるための道具を動かしていた。外から持ち込めた、外気との寒暖差を利用して水滴を集める装置だ。これで、今日の夜動けるだけの水は手に入るだろう。

「川背ちゃん、あと何日くらい?」

「このまま西に進んで、後三日という所ですね。 ただし、現実世界とこのゴビ砂漠が、どれだけ同じか分かりませんから、目安ですけれど」

「うん、それで充分だよ」

彼女は移動しながらも、星の様子をしっかり確認していた。北極星が何処かを教えてくれもした。

しっかりものの後輩がいて、とても頼もしい。

「私は良いけど、この人達が保つかな」

「この世界にも、民家の類はありますから、そこで食料と休息を得られれば。 さ、先輩も休んでください。 僕ももう少し作業をしたら眠りますから」

体力の消耗を懸念した川背に、無理に横にさせられる。

川背はてきぱきと夜に動くための作業をしていたが、やがて砂壁に背中を預けて、目を閉じる。

蒸すような気候の中、それでも寝息が聞こえはじめた。彼女は、もう十二分に、一流の名が相応しいフィールド探索者だ。先輩として、彼女のような頼りになる後輩がいる事は、とても誇らしい。

「あぢー。 水ー」

豚が出来たばかりの水を意地汚くしゃぶっている。

頭を抱えたくなるが、確かに周囲は灼熱地獄というに相応しい惨状である。豚じゃなくても、音を上げるのは仕方が無い事だ。

此処は、フィールド。

世界に出来た、現実とは異なる空間。

其処は軍でもどうにも出来ない怪物が闊歩し、専門の技術を持つフィールド探索者で無ければ、対応できない地獄。

そしてこのフィールドは、内包する空間だけなら、史上最大規模。

今までスペランカーは、完全な異世界や、大陸そのものがフィールド化した地点にも赴いたことはある。

だが、此処はそれらと比べても、広さだけなら別格だ。

問題はその密度の薄さで、本当に何も無い空間が、ただ延々と広がっているという恐ろしさなのだが。

唯一元気そうな猿が、周囲を偵察してくると、不思議な雲に乗って飛んで行ってしまった。飛ぶ際に宙返りをしているのが見えたが、すぐにそれも見えなくなる。

スペランカーは、後は川背に任せようと思い、目を閉じる。

此処は無理にでも寝ていないと、砂漠を越えることなど、出来はしないのだから。

 

1、西遊記

 

かって、ある一人の仏僧がいた。

玄奘三蔵。

中国史に実在する人物である。彼は仏教における大思想家であり、それが故に貪欲な知的収集家でもあった。天才であるが故に、彼は満足できなかった。三国時代に入ってきた仏教の発展型である、変化した思想では。

エネルギッシュな彼は、彼方此方に足を運び、仏教の思想について調査を重ねた。

田舎で徳の高い僧がいると聞けば、わざわざ其処まで足を運び、問答を重ねた。国庫から貴重な教典を引っ張り出しては、それらを貪欲に覚えていった。

やがてそれらでは満足できなくなった玄奘は、仏教の生まれた地へ行くことを決意する。そして、当時は交易路くらいしか存在しなかったインドへの道を、危険を承知でたどったのだった。

苦難の末、凶暴なまでの知識欲が、自然の猛威に打ち克つ。

玄奘はインドに辿り着き、そこで原典の仏教を学ぶことに成功した。現地の邪教集団に殺されそうになったりはしながらも、それでも多くの知識を得て、中国へ帰還。大きな文化的発展の基礎を作ったのである。

実に、十六年もの時を費やした、大事業であった。

玄奘自身は非常に欲の強い人物であったが、この功績は、歴史的に大変に大きな意義があったと言える。

やがてその功績は、一つの小説として、形を変えて知られるようになった。

それが、西遊記である。

 

ユーラシア大陸内陸部にある、巨大なるタクラマカン砂漠の一角。

其処には、確認できるだけで20年以上前からフィールドが存在している。現地の住民の話では、数百年も前からあったという話も有り、恐らく本当だろうとされている。

フィールドとは、軍隊でも入る事が出来ない、超危険地帯のことを意味している。多くの場合世界に出来た空間の歪みや、法則の歪みの中に出来、その中がちいさな別世界になってしまっている事も珍しくない。

ただし、此処は広がる可能性が無い事と、内部があまりにも特異な重異形化フィールドであることから、放置されていた存在だ。住み着いている異形の戦闘力もさほど高くはないし、外に出てくることも無いことから特に危険では無いのだが、あまりにも異常な広大さを誇るのである。

内部の一辺は、なんと十万八千里。五万キロを遙かに超える長さで有り、これはすなわち、地球を一周以上できる距離だと言う事だ。この十万八千里四方が、内部空間として広がっているのである。

スペランカーが国連軍の輸送ヘリで其処へ出向いたときも、周囲は鉄条網で覆われこそすれ、空間の歪みの穴は、異様な存在感をもって其処にあった。

今更ながらこのフィールドが攻略される事になった理由は、二つある。

一つは異星の神々の活動が活発化しはじめたこと。

彼らにこの巨大な空間を内包するフィールドを拠点にされると、大変に面倒な事になる。

今までも異星の神々の活動では、大きな被害が出てきた。この辺りは人口がさほど多くは無いとは言え、逆に言えばそれが故に異星の神々の拠点が作られると、対処が遅れる可能性が高いのだ。

もう一つは、この辺りで国境紛争が活発化する可能性が出てきたこと、である。

大国同士の小競り合いではあるが、非常にデリケートな政治的な問題が発生する可能性が高く、出来るだけ早めに対処してしまいたいというのが、国連軍の意向であった。更に言うと、紛争が始まると、此処に逃げ込もうと考える難民が必ず出る。そうなれば、多くの犠牲が出ることは避けられない。

比較的危険度が低いとは言え、フィールドとは人外の地なのだから。

最強のフィールド探索者であるMは、今回の件にはノータッチである。現在一番活発に動いている異星の邪神ハスターを押さえ込むべく準備していて、此方には来られない。そこでスペランカーは、最も頼りになる後輩である海腹川背と一緒に、このフィールドに対処することとしたのだった。

国連軍のベースの周囲を、紛争の可能性がある二国の偵察機が飛んでいる。

「先輩、覚えられましたか?」

「うーん、おおざっぱな話だけは」

「それで充分ですよ。 細かい部分は、僕がフォローしますから」

川背が大きなリュックを降ろしながら言う。

彼女が持ってきているのは、防寒具に耐熱具。更に食料と、砂漠で水を造り出す道具、寒冷地で火を素早く造り出す道具など、サバイバル系の道具類一式だ。

合計すると軽く六十キロを超えるが、小柄な彼女は平気でこれを背負って歩く。ただし、戦闘時はリュックを放り捨てるが。川背は緻密なコントロールと高い肉体能力を生かした機動戦で、一流と呼ばれるまで上り詰めたフィールド探索者だ。彼女の戦闘スタイルには、的確で緻密な判断力も必要である。その全てを、この優秀な後輩は備えている。

ただし、天才だから、ではない。

彼女がそれこそ血のにじむような苦労をしてきたことを、スペランカーは知っている。フィールド探索者としてだけでは無く、彼女の人生そのものが、苦難の連続であった事も、だ。

今回、他のフィールド探索者はいない。

二人だけで、この広大なフィールドに挑むことになる。

それにしても、この荒涼とした大地はどうだろう。地面は乾いてひび割れ、草木までもがまばらだ。

標高が高いからか空気も薄く、精鋭の筈の国連軍兵士達も何処かやる気を感じさせない。

どうしてこんな所で、戦争を起こそうと思うのだろう。国境が接しているというのは、それほど面倒な事なのだろうか。

ヘリから降りて、まずベースに入り、説明を受ける。

いつもプレハブのベースを見かけるが、ここもそれは同じだ。ただし装甲板を使っているようで、RPG7の直撃にも耐え抜くらしいと、最近知った。

ベースの前では、司令官らしい、気むずかしそうな白人の中年男性が待っていた。形だけ握手をする。大きな、ごつごつした手だ。銀色の髪の毛は角刈りにしていて、顔には深いしわが刻まれており、冗談とは終生無縁な雰囲気に思えた。

中に案内され、会議室に通される。

途中、川背は来る間に読んだという西遊記の本を、十冊以上、荷物置き場に置いていた。持っていかないと言う事は、中身を大体覚えたという事だろう。

凄い記憶力というのとは、少し違う。

彼女は最初に西遊記についてネットで調べて、概要を把握。その後は重要なエピソードに的を絞って覚えたと教えてくれた。そうすると、全部覚えるよりも、ずっと労力が少ないのだとか。

それに、西遊記自体は元から好きなのだとも教えてくれた。それならば、覚えるのもたやすいかも知れない。

「では、さっそく作戦会議を始めたいのですが、よろしいですか?」

「お願いします」

案内通りに席に着く。

資料については、事前にもらっている。川背は既に全部覚えたという事だが、スペランカーは記憶力的に無理だ。一通り目を通して、重要なところだけはどうにか頭に入れた、という程度である。

ひ弱で脆弱なスペランカーがこんな危険な仕事を続けられるのには理由がある。ある強力な能力の持ち主だからだ。

ただし、その代償は大きい。

体はどれだけ鍛えても弱いままだし、頭もずっと悪い。記憶力だって、普通の人よりもずっと劣っている。

「このフィールドは、史上幾つか存在した「西遊記系」のフィールドとなります」

まず、要点から、司令官ははじめた。

説明は淡々としていて、機能的な事しか、重視していない様子だった。

 

西遊記系フィールド。

歴史上幾つか出現して攻略されていった、いわゆる「創作世界系」のフィールドである。その中では、かなりメジャーな部類に入る。

フィールドが出現するのには様々な理由があるのだが、このパターンの場合だと、「何かしらの強い力を持つ存在」が、「人間達の思念を利用」して、作り出す事が殆どだと聞いている。

西遊記と言えば、四大奇書の一つとされる、J国でも有名な物語だ。

実際に中国からインドまで旅した僧、玄奘三蔵をモデルにして、作り上げられた妖術、妖物がてんこ盛りのエンターテイメント小説。中国文学らしい派手な誇張と、無茶なスペックの数々、それに奇想天外なストーリーで、古くからJ国だけではなく、中国の人々も魅了してきた、名作である。

中国からインドまでの距離が十万八千里(五万キロ以上)、というのが代表例であろうか。他にも無茶なスペックの羅列で、真面目に読んでいると頭が痛くなる。ただし、頭を空っぽにして読めば、これほど楽しい作品もそうそうはない。

J国の文学作品、漫画、アニメにも、これを題材とした作品は、それこそ星の数ほど存在している。あまり詳しくないスペランカーでも、幾つかを列挙できるほどだ。

こういった「創作世界系」フィールドには、一つ厄介な法則がある。

ベースとなっている物語を「終わらせること」が、消滅の条件となっている場合が、殆どなのだ。

「二十年ほど前から何度か調査が行われていますが、内部では西遊記の物語が再現され、何度となく繰り返されている様子です。 このフィールドを消滅させるには、西遊記のストーリーを完結させること、が必須となるでしょう」

「なるほど、玄奘三蔵の役割を果たす人物を、インドまで辿り着かせれば良い、と」

「おそらくはそれが条件となることと思われます」

川背が話を進めてくれる。

つまり、物語の中で五万キロ以上の道を走破させて、「ありがたいお経」を取りに行かせればよい、というわけだ。

とんでも無く時間が掛かりそうだ。

「幸い、内部では時間が加速していることが分かっています。 内部での数ヶ月は、此方での一日程度に過ぎないでしょう」

「……」

川背が腕組みをする。

会議を一通り終えると、物資を提供された。川背がそれらを選別してリュックに詰めるのを横目に、聞いてみる。

「川背ちゃん、何か懸念があるの?」

「はい。 玄奘三蔵をインドまで送り届ける仕事を手伝うことには異論が無いのですが、問題は内部の加速です」

「どういうこと?」

「もしも異星の邪神が目をつけていたら、いつの間にかとんでも無い規模での要塞や拠点が、内部に構築されかねません」

確かに、それはそうだ。

もっとも、このフィールドはとても脆弱な空間だと聞いている。異星の邪神が手を入れたりしたら、瞬く間にパンクしてしまうのでは無いかと思える。

いずれにしても、攻略する必要はある。しかも、今まで放置されていたのは、異星の邪神達の活動が活発化していなかったから、というのもあるだろう。

以前戦ったクトゥグアのような強力な邪神が此処に住み着いてしまったら、もう手には負えない。

スペランカーも荷物を背負うが、川背に比べれば随分ささやかな量だ。

覚悟を決めて、フィールドに。

体感時間で、何年も戻ってこられないかも知れないのだから。

 

空間の穴には、そのまま歩いて入り込むことが出来る。

中に入ると、不意に空気が乾燥していた。空は真っ暗で、今どこにいるのかさえ分からない。

川背が素早く星を見、持ってきている装置を動かして見比べはじめる。

すぐに、彼女が眉をひそめた。

「おかしいですね……」

「どうしたの?」

「此処、中国の東海岸、それもかなり南の方です。 ひょっとすると台湾かも」

「え……」

いくら何でも、それはおかしい。

台湾から西遊記が始まるなんて話、聞いたことも無い。だが、此処は非常識が常識となる世界だ。何が起きても不思議では無いだろう。

空間の穴自体は安定しているが、外との通信はすぐに出来なくなるだろう。此処は現実とは、全く法則が異なっている空間なのだ。

周囲は荒涼としていて、人気は無い。

フィールドなのだから当然だが、それにしても此処まで生の気配が無いフィールドは、むしろ珍しい部類に入る。

空に瞬いている星自体は、とても美しい。

しかし、どうも様子がおかしい。

「確か西遊記って、唐の時代のお話だよね」

「舞台設定はそうなっています。 もしそうだとすると、中国は史上最も広い領土を持ち、栄華の限りを尽くしていた時代なんですが……」

地面は乾いていて、生の気配が無い。草も殆ど生えていない。

それだけではない。

遠くに海があるのだが、真っ黒な海は不気味なほど静かで、波が行き来している以外、何も存在の気配が無いのだ。

死に絶えた世界。

そんな印象さえ、スペランカーは抱いてしまった。

川背の表情は険しい。恐らく、見かけ以上にこのフィールド、危険だと言う事だろうか。

「まずは、玄奘さんを探そうか」

「そうしましょう。 先輩、僕から出来るだけ離れないでください。 この状況だと、離ればなれになると救出がかなり難しいと思いますから」

「大丈夫、分かってるよ」

後は、黙々と二人で歩いた。

こういうとき、あまり話す事は無い。というよりも、無駄話をしていると緊張感が削がれて危険だ。

その辺りは、スペランカーでさえ分かっている。時々状況分析などについて話したりはするが、それだけである。

海に沿って北上し、それから西に行くことにする。

この時代、インドに行くには、かなりルートが限られていた。こんな自然環境でルートも何も無いように思えるのだが、川背は違う、という。

シルクロードというものは、過酷な環境の中で、唯一人間が通れる経路を使って出来たのだという。

もしもインドに行くのならば、その細い道を使っていかなければ、不可能だと。

しばらく歩くと、夜が白みはじめる。不意に明るくなってきたかと思うと、急激に空から星が消えていった。

一気に周囲が昼になっていく。太陽はいつの間にか、空に存在感を示していた。

気候自体は、さほど厳しくない。川背が少し周囲を見てくると言って、荷物を置いて一人で行ってしまった。

彼女は強力な伸縮能力を持つ特殊なルアー付きゴム紐を用いて、高速機動を行う。ゴム紐の伸縮力と反発力を駆使して、ぽんぽんと跳んで行ってしまう彼女を見送ると、近くの岩に腰掛ける。

悠久の地と言うには、少し静かすぎる。

そして、あまりにも無為なほどに広すぎる。どこまで歩いても、まるで先が見える気がしない。

空には雲さえ無く、鳥も全く飛んでいない。

怪物の類はいるのだろうか。此処が西遊記の世界だとすれば、多分いるはずだ。現物通りのスペックだとすると相手をするのは相当に骨だろうが、この広くて荒涼とした世界の場合は、どうだか分からない。

川背は、すぐに戻ってきた。

「どうやら、それらしい人がいました。 ゆっくり北上しているので、すぐに追いつけると思います」

「ゆっくり?」

「ええ。 とても」

それと、と川背は付け加えた。

かなりの高度から周囲を確認したそうなのだが、地形からして台湾に間違いないという話である。

滅茶苦茶にもほどがある。もしそうだとすると、中国からインドに行くどころでは無い。中国をも、最初に横断する必要があるのでは無いのか。

台湾からだとすると、かの大河長江と黄河を越えなければならないだろう。その前に、どうにかして海を渡らなければならないが。

考えると、それだけで気が重くなってくる。

「先輩、見えてきましたよ」

後ろ姿が見える。

馬に跨がった、僧形の人物。それに付き従っているのは、やたらと落ち着きが無い猿のような存在。

間違いない。あの二人だろう。

西遊記のことは、来るときに勉強した。もしも物語通りだとすると、あの馬は龍が変化した存在の筈だ。

川背が声を掛ける。勿論中国語だ。だが、彼女は最初に通じるかどうかは分からないと言っていた。

スペランカーは、そそくさと電子手帳を用意する。

翻訳機能がついた支給品である。

振り返った向こうは、明らかに此方を警戒している様子だ。川背が先行して、なにやら話しかけている。身振り手振りも交えて話しているが、通じているかは著しく不安だ。通じているのなら、よいのだが。

スペランカーが追いつくと、川背はあまり表情を和らげてはいなかった。

「先輩、此方玄奘三蔵さんです。 此方は孫行者」

「初めまして。 スペランカーです」

「変わった名前ですね。 私は、玄奘三蔵といいます」

笑顔で挨拶してきたのは、やたらなよなよした坊主である。

そういえば、西遊記がJ国でドラマ化される場合、大体玄奘三蔵の役は女性がやっていたような気がする。

スペランカーも、玄奘の話については、飛行機の中で川背に聞いた。

その当時、殆ど未知の世界であるインドまで、決死の旅をしたお坊さん。非常に優れた学僧であった反面、知識欲の権化であり、冷酷な考え方の持ち主でもあったのだとか。圧倒的な行動力とタフネスを備えていて、誰にも成し遂げられなかったインドへの思想探索に成功した。

そのエピソードからは、やはり弱々しいお坊さんは違和感しか招かない。

ただし、西遊記の玄奘は非常に臆病であるという話もあるので、そう言う意味では会っているのかも知れなかった。

そして、孫悟空。確か孫行者というのが、正しい呼び名だと言う事を思い出した。J国では孫悟空という呼び名の方が有名だが。

J国ではやんちゃで陽気なお猿の妖怪というイメージのある孫行者だが、原典ではどちらかといえば制御不能な大魔王的な存在で、激しい暴力と殺戮の権化だという。此方の孫行者は落ち着きの無い小猿という風情で、あまり強そうには見えなかった。

「おいら達は天竺へ行く旅の途中なんだが、一緒に来たいって言うのは本当か?」

猿が流ちょうな日本語で喋ったので、スペランカーは度肝を抜かれた。隣では、川背も眉根を下げている。

よく見ると、口は動いているが、言葉とは合っていない。

恐らく、一種のテレパシーだろう。この世界では、そのまま意思疎通が出来るという事だ。

「助けがいるのは事実です。 今までも、何万回と失敗しているのですから」

「正確には十六万と……いくつだったか忘れた」

けたけたと、孫行者が笑った。

それだけの回数繰り返しても、未だに天竺を目指しているというのは、立派かも知れない。

なよなよはしているが、それでもこの時。

スペランカーは、このお坊さんに、好感を持ったのだった。

しばらく北上する。一緒に話してみると、随分とマイペースなお坊さんだ。周囲の哨戒は、川背にやって貰う。しばらく過ごしてみて分かったが、孫行者は、西遊記原典とは別物と考えた方が良さそうだ。

いろいろな術は持っているようなのだが、周囲に対する警戒が甘すぎる。実力があるから平然としている、という風情では無い。そもそも戦闘力皆無の坊さんを護衛しなければならないのに、周囲を警戒していない時点でおかしい。

少し見ただけで、哨戒は僕がやると、川背が言い出したくらいである。

一日ほど、北西に進む。山を一つ越えた頃だろうか。

此処が台湾だとすると、孤島である。さて、海をどう渡れば良いのか。

それを悩んでいたとき、川背が手招きしてくる。空間に歪みが生じているのが見えた。

荒野の上に、黒い球体が存在している。周囲はスパークを繰り返していて、一目で空間の裂け目だとわかった。

球体の中には、うっすら向こう側らしい、別の場所の光景が見えている。

「天にいる観音菩薩が、海を渡る手助けをしてくださっているのです」

ありがたそうに、玄奘が拝むのが見えた。

恐らく、重異形化フィールドが、歪んだ空間同士でつながっているのだろう。そして、迷うこと無く此方に進んでいたという事は、玄奘達はこの穴は通ったことがある、という事だ。

事実は事実。玄奘の信仰を、敢えて否定することも無いだろう。この玄奘は、実在の人物に比べると精神的にも随分脆そうだし、こんな所で旅を頓挫させることも無い。

玄奘達は、平然と穴に飛び込んで行く。

どうやら、何万回も天竺を目指しているというのは、事実であるらしい。

「私が先に行くよ」

「先輩、お願いします」

こういったときは、特殊能力の性質上、スペランカーが先陣を行くべきである。腰に縄を結びつけて、向こうへ。

穴に進むと、空気が変わったのが分かる。

目を開けると、其処には、相変わらずどこまでも広がる荒野があった。

民家の類どころか、殆ど起伏も無い。地平の果てまで、荒野が広がっている。縄はつながっているが、向こうからは引けない様子だった。

何度か縄を引くと、川背が此方に来る。

通信機器を試しているが、もう使えない様子だ。すぐに、空に向けて、星を読む道具を向ける。

今は昼だが、それでも使えるらしい。

「大陸本土に出ました。 距離的には三百キロほど移動しています」

「へえ、三百キロも!」

「何ですか、その道具は。 貴方たちは、やはり神仙の類ですか?」

「いや、おいらも天界で暴れたとき、そんな道具は見なかったなあ」

脳天気な会話をしている玄奘と孫行者。

機械をしまうと、川背が先に行くように促す。そして、スペランカーの代わりに、川背が適当に、当たり障りが無い説明をしてくれたようだった。

それにしても、広大な中国とは言え、此処まで全く人気が無いのは異常だ。

この時代の唐は、中国歴史上最大の領土を誇り、それこそ西のイスラムに接するほどであったと、川背は教えてくれた。

その割に、あまりにもこの土地はやせこけてしまっている。

殆ど草も生えていない。

人々がいる様子も無く、田畑の類も見かけない。それどころか、虫や鳥の類も見かけなかった。

木々はたまに目にするが、枯れ果てていて、緑色は殆ど存在しないと言っても良い。

あまりにも異様な光景だ。

ただし、フィールドでは、今までもっと非常識な光景を目にしてきた。これくらいでは驚かない。

「長江までは、まだかなり距離があります。 北へ進むと、山岳地帯にでますが、迂回した方が良さそうですね」

追いついてきた川背が、痩せた馬に跨がる玄奘を横目に、そう言った。

 

2、苦難の旅

 

時々、川背が磁石を見て、方角と位置を確認している。地図を広げては、今いる場所を説明してくれるのだが、あまり機嫌は良さそうでは無かった。

にこにこ笑顔を浮かべて鷹揚に頷くばかりで、玄奘はなんら主体的な行動を口にしないし。孫行者は喜ぶばかりで、積極的に役に立とうとはしないからだ。

進む。

ただそれだけしか、この二人は考えていない様子である。

原典の西遊記では、様々な苦難が二人を襲ったという。喧嘩をしたり仲直りをしながら、様々な妖怪変化や恐ろしい自然現象と戦い、そしてやっとの事で天竺に辿り着いた。それが西遊記だと聞いていたのだが。

苦難とは、距離のことなのだろうかと、思わされてしまう。

レーションが、確実に減っていく。

今後、猪八戒と沙悟浄が加わってくることを考えると、更に消耗は激しくなるとみて良いだろう。

そして、恐ろしい事に。

これまで歩いていて、全く民家どころか、街にさえ遭遇することは無かった。街道の類も一切無い。

全く無人の、中国大陸。

それはとても恐ろしいほどに、広大で、人を拒否している存在にさえ思えてきた。

十日目の夜。

体力の無いスペランカーに、ずっと歩き通しの旅はつらい。ただ、今までのフィールド探索で、歩くコツは覚えている。

ある程度の速度までだったら、歩くことで疲弊は殆ど生じないのである。勿論平坦な地形なら、という条件がつくが、その条件は、この中国っぽい異空間では、完璧と言って良いほどに満たされていた。

遠くで、水が流れる音がする。

水は、どうにか補給できるだろう。しかし魚は捕まえられるかどうか。

たき火を囲んで、食事にする。スペランカーは足を揉んで、疲弊を少しでも和らげる努力を続けていた。

流石にまめが出来るほど旅慣れていない訳では無い。だが、それでも、これから更に途方も無い距離を踏破するのだと思うと、気が重い。

「玄奘さん。 一つ聞いてよろしいですか?」

「私の知識が及ぶところであれば」

「たしか、中国に仏教が入ったのは、三国時代だと聞いていますが、それで正しいですか?」

「三国時代とは? 何でしょう」

言い方が悪かったかと、川背が言い換える。

三国時代とは、スペランカーでも知っている、魏、呉、蜀(蜀漢)が争った時代のことである。

川背に道中で聞いたのだが、この時代に、仏教は中国に伝播されはじめたらしい。最初の寺も、この時代に出来たそうだ。

だが、どうしても、玄奘はその説明を理解できない。

温和な笑顔のまま、小首をかしげている様子であった。

川背がやっぱりと呟いた。

「確かめておきたかったのですが、これで確信できました。 僕が見る限り、貴方は、やはり現実の玄奘とは大きな隔たりがある存在のようですね」

「仰る意味がよく分からないのですが……」

「おいらは、玄奘様から、ありがたいお経が手に入れば、世界が良くなるって聞いたぜ」

「その通りです」

ありがたやありがたやと、玄奘は仏を拝む。その時点で、現実とは異なっている。

物語の西遊記では、乱れた世の中をただすために、インドにあると言うお経が必要になる、という出だしであった。実際の出だしは石から生まれた孫行者が各地で暴虐の限りを尽くして封印されるまで、なのだが。まあそれは良いだろう。

川背はたき火に薪を追加しながら、指摘する。

「長安の都は、知っていますか?」

「ええ。 何度か、訪れたこともあります。 悟空、どれほどの回数でありましたか」

「確か、四万回くらいだったかな。 もう少し先に豚がいるんだけど、そいつを仲間に加えて、その先だな」

とんでも無い回数を口にする猿。

だが、この中では時間の流れがずっと速いと聞いている。それに、恐らくこの玄奘一行は、旅が頓挫するとまたあの台湾に戻っているのだろう。

試行錯誤を、ずっと繰り返している、というわけだ。

「玄奘さん、西遊記では、貴方は長安から旅をはじめているんですよ」

「え……」

「様子を見てきます。 そろそろ、食料も水も補給したいですから」

川背が、たき火を離れる。

スペランカーは靴をはき直すと、彼女の背中を見つめた。

川背がどうして怒っているのか、なんとなく見当はつく。だが、その怒りが、おそらくは誰かを変えることがないことも。

住民どころか、怪物さえ現れない。

ひょっとすると此処は、難民が逃げ込むには丁度良い場所なのかも知れないと、時々思ってしまう。だが、思い返してみれば、こんな水も食料もろくに無い場所では、どちらにしても最貧民に属することが多い難民達は、生きていくことが出来ないだろう。

辺りの荒涼とした景色は、更に混迷を深めていくばかりだ。

このやせ衰えた馬は、いつ倒れるかも分からない。そろそろ長江だと聞いたが、それも本当なのか、不安になってくる。

川背が戻ってくる。

「少し北に、どうやら長江らしい川があります。 急ぎましょう」

「でも、長江に出て、どうするの? 海みたいに広い川だって聞いてるけど」

「それなら大丈夫。 御仏の加護がありますから」

やはりありがたそうに、拝む玄奘。

嫌そうに首を振る馬をなだめて、歩き出す。やはりその歩みは遅々としていて、スペランカーでさえ、この人がインドまで行って戻ってきた世界史上に残る屈指の冒険者と同一人物とは違うのだと、悟らされるのだった。

 

水が逆巻く音がする。

川に近づけば、普通大地は潤うものだ。

だが、見慣れない草が生えるばかりで、支流さえ見当たらない。水の独特の香りも、感じ取ることが出来なかった。

空気の異常乾燥も、変わっていない。

スペランカーは、今までフィールドに行くまでに、散々苦労したことが何度もある。ゲリラが出るような山道を、国連軍のジープに乗ったり、或いは歩いたりして進んだこともあった。

断崖絶壁も同然の裂け目に、ザイルだけを頼りに降りたこともあった。腕力がないスペランカーでは、道具に頼らなければとても無理だった。

だが、それらの危険をストレートに感じる行程と、今回は根本的に違う。

恐ろしいほどの冗長さ。

全く変化が見られない光景。否、台湾と多少は違ってはいるが、荒涼たる大地が延々と続いていることに変わりは無い。

生命の、息づくことがない場所。

それを、ひたすら見せられ続ける。

遠くから悲鳴が聞こえたときには、むしろ安心してしまったほどである。

だが、すぐに我に返る。慌てて目をこらすと、必死に何か鍬のような武器を振り回しながら、逃げてくる豚のような人が見えた。

全体的に小柄で、非常に体つきは弛んでいて、走ったり弾んだりするたびに肉がたぷんたぷんと揺れているのが分かる。

襲っているのは、何だろう。

空を飛ぶ怪物、であるのは違いないだろう。しかし、速度がどうにも遅く、しかも妙に直線的だ。

川背に声を掛けようと思ったが、彼女は無言でスペランカーを制止する。

「まず、対応力を見ましょう。 いざというときは、僕が助けに入ります」

「え、でも」

「この先、まだまだ長い旅が続くとすると、敵に対してある程度抵抗できないようでは、話になりません。 戦略を根本的に変えなければなりませんから」

確かに、それは川背の言うとおりだが。

しかし、どうも容認しがたいものがある。何だか分からないが、川背はスペランカーから見て、ちょっと理不尽な怒りをずっと抱いているように思えるのだ。いつも頼りになる後輩だから相談には乗ってあげたいのだが、その理由が分からない。

豚は悲痛な悲鳴を上げて、空から妙にゆっくりたどたどしい動きで襲い来る怪物から逃げ回っている。まるで鷹に嬲られる鼠だ。

近くまで、小走りで行く。

怪物の姿が見えてきた。羽が生えているカバというか、そんな姿をした存在だ。笑顔のような顔かたちをしているが、口元からは鋭い牙が生えていた。数は全部で三体。

一匹が、炎をはき出す。

おしりを焦がされた豚が、悲鳴を上げて飛び上がった。

「ひえええええっ! 助けてくれよう!」

「待ってろ、八戒っ!」

孫行者が出る。

まっすぐに敵に飛びかかっていくと、まずは手にした棒で敵を打ち据える。ただしその動きは、大上段から非常にわかりやすいモーションで、下に向けて殴りつける、というものだ。

孫行者の武器、かの名高い如意棒は。行く途中に川背に聞いたが、元々水の深さを測る目的で作られた魔術的な道具で、重さは実に八千トンとか言う設定であるらしい。しかも、孫行者が可哀想な竜王を脅して、強奪同然に取り上げたものなのだそうだ。

だが、殴ったときの音を聞く限り、そんな異様な重さがあるとは思えない。

そして、棒自体も赤く塗られた普通の代物で、不思議な力を秘めた人外の存在とはとても思えなかった。

近くで見ていると、孫行者の力自体は、圧倒的だ。

瞬く間に怪物を一体打ちのめし、もう一体を圧倒している。火を吐く怪物が、右往左往している間に、棒が一体を叩き潰す。

そして、火を吐く怪物と、孫行者が相対した。

全身の毛を逆立てて威嚇する孫行者は、猿のようである。此処だけは原典に忠実なのかも知れない。

だが、怪物は逃げない。

炎が、視界を赤く染める。思わず片手で顔をかばったスペランカーだが、多分川背は今までの戦いで、炎の届く範囲を見切っていたのだろう。かわそうともしなかった。

噴き出した炎を飛び越すと、大上段から孫行者が、怪物の脳天をたたき割る。

ちいさな悲鳴を上げて、怪物が消えていく。

同時に、周囲に満ちていた殺気が、消失していった。

見たところ、孫行者は若干動きが遅いものの、さほど弱くは無い様子だ。問題は、豚の方だろう。

正直戦闘には向いていないと判断するほか無い。

護衛対象が、玄奘一人から二人に増えたとみるべきだろうか。

「た、たすかったよ、兄貴……!」

「てめー、これで五万二千回目だぞ」

豚が情けない声を上げて、孫行者にすがりつく。猿は鬱陶しそうに一瞥すると、スペランカーたちに言った。

「紹介するよ。 おいらの弟分、猪八戒だ」

「……猪悟能では?」

「ん? なんだそれ」

「あ、それ、俺の名前っすよ! どうして知ってるんすか?」

川背が、目を細める。好意的な表情ではない。

スペランカーにも、何となく分かった。今、猿は豚を猪八戒と紹介した。今までの会話の流れからするに、それは本名ではない。本名以外で紹介する風習があるのかも知れないが、問題はそこでは無い。

川背は本名を指摘したが、よりによって兄貴分が、それを知らなかったのである。

この異常な荒涼と言い、やはり大きな歪みがある事は間違いなさそうだ。

ひょっとして川背が怒っているのは、それが理由だろうか。

「それにしてもお姉さん、ふくよかなお胸ですねえ。 うへへへへへ」

「……」

豚が、川背の胸を、とても嫌らしい目つきで見て、よだれを流しているのを見て、スペランカーはげんなりした。

ただ、新しい発見もある。猪八戒というのは知っていたが、本名は聞いたことがなかったのだ。

「猪悟能?」

「その方の本名です。 僕が知る限り、ですけど。 有名な猪八戒というのは、一種のあだ名です」

「へえ。 相変わらずあんた博識だなあ。 おいらも長生きしてるのになあ」

陽気にそういう孫行者を、スペランカーは嫌いではない。

一方で豚は、川背に興味津々である。

童顔で小柄な川背は、色気匂い立つというタイプではない。確かに胸は大きいが、顔立ちはそこそこ整っている、という位で、絶世の美人と言うには無理がある。スペランカーの個人的な意見からすれば可愛いと思うが、しかし川背が男の人にもてるかというと、話が別だ。何しろ、色気よりもかわいらしさ、それもどちらかというと未成熟な、を感じさせるタイプなのだから。

つまりこの豚が、それだけ無分別、という事だろう。

玄奘が豚を呼ぶ。豚は素直に、そちらに向かった。

猪八戒が、玄奘に拝礼をしている。無条件に尊敬している、ということなのか。

「またお世話になります、お師匠様」

「無事で何よりです。 後は悟浄ですね」

多分沙悟浄の事だろうなと、スペランカーは思った。

 

長江らしき川に近寄ると、其処の異様さは際立っていた。

水がごうごうと渦巻きながら流れている。確か、以前見た長江は、汚れてはいたがもっと雄大な流れを讃えていたはずだ。

川背が捕捉してくれる。

「J国では考えられないような規模の水害が、昔はこの国では何度も起こりました。 その度に長江も黄河も流れが大きく変わったのですが、それにしてもこの位置は少しばかり妙ですね」

「おーい、姐さんたちー! こっちだー!」

豚が、ぴょんぴょん跳ねて叫んでいる。調子が良いことである。どうやら川背と仲良くしたいらしく、ポイントを稼ごうというのだろう。

あれから、二度怪物による襲撃があった。

豚はぱたぱた走り回るだけで何ら役に立たず、玄奘を逃がそうともしなかった。スペランカーが馬の手綱を引いて、怪物がいない方へと玄奘を誘導している間。きゃあきゃあ悲鳴を上げながら、走り回っていただけである。

J国の創作でも、西遊記の猪八戒はムードメーカーのイメージがある。だが、怪物をルアー付きゴム紐で地面にたたきつけ、仕留めた後、川背は教えてくれた。

「西遊記原典の猪八戒は、失敗こそ多いですが、その分魅力的な破壊的豪傑として書かれているんですが……」

「へえ……」

見ていると、とてもそうとは思えない。あれでは、ただの頭が弱くてお調子者のマスコットキャラクターだ。

川というと、河童だ。

或いは此処に沙悟浄がいるのかと思ったが、猿や豚の様子を見る限り、違うのだろう。

川のすぐ側に、洞窟がわざとらしく口を開けている。あまり深い洞窟にも思えなかった。中は蝙蝠も飛び交っていない。それどころか、つるんとした壁で、水が滴っている様子も無かった。

露骨に深さも足りない。これでは、あの大河の下を通れるとは思えない。

だが、中に入って進んでみると、すんなり大河の下を通り抜けることが出来たのである。一種の空間の歪み、と考えるべきだろうか。

洞窟を抜ける。

やはり、どこまでも荒涼とした大地が広がっている。川背が手早く位置を確認して、地図を示してくれた。

中国の丁度中程だ。つまり、中心地点である。

歩きながら教えてくれたが、今までいた辺りは、かって中国でも巨大な生産地帯として栄えていて、膨大なお米が毎年収穫されていたという。当然人々も途方もない数が行き交っていた、その筈なのだが。

そしてこの辺りは、中原と言われ、文字通り中心部だったそうである。

勿論、戦乱で荒れ果てた時代もある。

だが、唐代は違う。玄奘がいた頃の唐は世界的にも栄えていて、国の内部に色々問題を抱えてはいたものの、それでも発展は揺るぎなかった。この時代は、文字通りの世界国家だったのだ。

「カッパはこの北だ。 確か長安の少し先にいるはずだぜ」

「急ぎましょう」

といいつつも、玄奘はゆっくりのったり進む。

馬も、主人の命ずるままに、ただひたすら、あくびが出るような速さで動き続けていた。カッパと聞いて、川背はまた眉をひそめていた。

きっと、沙悟浄が現れたら、疑問に答えてくれるだろう。

 

数日間無心に北上して、ようやく民家を見つけた。

その間、猪八戒はずっと川背に纏わり付いているか、と思ったら、そうでも無かった。何度かあった怪物の襲撃で暴れ回った川背を見て、急に一歩を置くようになったのだ。或いは、戦ったら勝てないと思ったのかも知れない。

本来の西遊記では豪傑だと聞いているから、違和感が大きい。

中には人気が無く、ただ食料と水だけが置かれている。民家はぽつんと一つだけであり、置かれている食料も、いわゆる干飯だけであった。水も瓶に入れられているが、蒸留した様子も無い。すぐには飲めないだろう。

これだけの荒野の中の一軒家である。罠を疑う所だが、何度も来ているらしい玄奘も孫行者も、何も備える様子が無かった。

「ありがたい事です」

玄奘が、仏様に感謝する。

干飯は、かなり膨大な量だ。長江で魚が全く見られなかった事もあって、川背はあれからますます機嫌が悪くなっていた。素潜りまでして川の様子を探ったのだが、汚れているばかりで、魚は一匹もいなかったのだという。

一度などは、大岩をゴム紐の伸縮を利用して放り投げ、水面にたたきつけたのだ。

ダイナマイトなどで漁をするやり方があると聞いているが、それと同じである。衝撃波で魚を気絶させて、其処を取る方法だ。

だが、これでも、魚は一匹も浮いてこなかった。

それどころか、水面の汚れと逆巻く水が、ますます酷くなったようにさえ思えたほどだ。

水は取れたが、かなり念入りに濾過しないと、飲める状態にはならなかった。その上、独特の金属の味がして、かなり硬い水だった。

何だか、げんなりする。

一応、玄奘達の足取りは、少なくとも方角に関してはしっかりしている。

何万回も繰り返してきたというのなら、道はある程度分かっているのだろう。ただし、移動速度は、相も変わらずスローモーであったが。

「天竺の近くまでは行ったことがあるんですか?」

「そうですねえ。 唐を出たことは確か……」

「微妙なのを入れると、五千七百回くらいかな」

「そうそう、それくらいです」

猿に補足されて、鷹揚に玄奘が頷く。

万から、単位が一つ小さくなった。

「最初の内はまっすぐ天竺を目指したのですが、岩山と海に阻まれてしまいましてねえ、どうしても先に進めませんでしたよ」

「ええと、こういうルートで行ったんですか?」

地図上を、直線的にインドに向けて指を走らせる。

小首をかしげている玄奘に代わって、孫行者がこくこくと頷いた。

「そうそう、こんなルートだったよ。 おいらが雲に乗って見た限りは、な」

「一度などは、悟空の雲に乗って、一緒に天竺を目指しましたっけ」

「え、そうだったの? 兄貴、次は俺も!」

「あの時どうなったか知ったら、同じ事は口にしなくなるだろうよ」

彼が言うには、天竺が見えたかくらいの位置で全身が瞬時に燃え上がり、焼き払われてしまったのだという。

何でも、火焔山という恐ろしい場所が有り、其処が猛烈な熱気を発して、天竺の周囲を守っているのだそうだ。

「おいらが調べてみたけど、どうやら天竺の周りは、海も含めてこの火焔山から出た熱がずっと覆ってるみたいなんだよな。 どこかから入れるとしたら、多分まっとうな道を歩いて行くしかないんだと思う」

「ええと……?」

「火焔山自体は、実在しています。 本当に燃えているわけではなくて、周囲の気候が非常に厳しいのに加え、山自体が炎のように揺らめく形をしているから、そう名づけられています」

さすがは川背。即答してくれる。

なるほど、そう言うルールがあって、その熱の壁を突破しなければ、天竺には行けない、というわけだ。

問題はそれをどうするか、だが。

しばらく考え込むと、川背は孫行者に聞く。

「鉄扇公主という女性を知っていますか?」

「誰だそれ」

「それでは、羅刹女という名前は?」

「ああ、そいつなら噂に聞いたことがあるな。 牛魔王って大妖怪の妻だよ」

また川背が大きく嘆息する。

そして、後で教えてくれた。

他の皆が休んでいる間、話を聞くと、川背は細かい内容を説明してくれた。

牛魔王は西遊記原作でも人気の登場人物の一人だという。確かに、スペランカーも聞いたことがある。

彼に関連するエピソードは知名度がかなり高い。また、孫行者の最大の敵としても牛魔王は有名で、圧倒的な力の持ち主としても知られているのだとか。

「牛魔王は、孫行者が暴れていた頃の悪仲間で、義兄弟にまでなった間柄です。 あんな他人行儀の発言をするはずがないんですが」

「そうなんだ。 それで、鉄扇……なんとかさんは?」

「公主っていうのは、皇帝の娘、或いはお姫様というような意味です。 鉄扇公主はJ国では羅刹女として知られている登場人物で、火焔山の炎を消せる道具を持っているんですが」

「なるほど、それでまずはその人を」

ただし、川背に聞くまでもなく、前途は多難だ。

まず羅刹女の夫である牛魔王を、義兄弟の筈の孫行者が知らないという。その時点で、いる場所も分からないとみるべきだろう。

更に、「この世界」で、羅刹女が火焔山をどうにか出来るかどうかも、未知数である。

苦労して探したあげく、何ら解決にならない可能性さえある。

「まずは、カッパさんを探そうか」

「それもおかしいんですよね……」

「どういうこと?」

「カッパの原型になった妖怪は、中国から伝わりました。 それは事実なんですが、沙悟浄はカッパじゃありません」

沙悟浄のモデルには諸説あるが、揚子江河海豚であったり、揚子江鰐であったりと、いずれにしてもカッパではないという。

西遊記はJ国と中国で大きく認識が異なる作品だが、その最たるものが、この沙悟浄の認識差だと、川背は言う。

更に、彼が住んでいた「河」は流砂の可能性が高いそうである。

それらの話をするたびに、川背は不機嫌そうになる。

まだ、その理由がスペランカーには分からなかった。

 

3、旅の本番

 

河からぬっとわき上がるようにして、カッパが現れる。

長江を更に北上して、黄河を抜け、川背が言う河北に入り、更に其処から西へ進み始めたあたりの事だ。

その間に長安の都があった。あったのだが、壁に囲まれただけで、中には人もおらず、ぽつんとただ建物だけがあったのだ。しかも内部はその建物一つだけで、人っ子一人どころか、鼠さえいなかった。

川背が言うには、位置もおかしいという。本来はもっとずっと南西にあるのだとか。だが、それ以上に、長安というこの時代世界屈指の筈の都が、張りぼてであることに、スペランカーはこれ以上もない違和感を感じるのだった。

無言のまま、都を後にして。

その少し先にちいさな河があって、そこでの出来事だった。

孫行者が、少し前からこの辺りにカッパがいるとは言っていた。しかし、姿を見ると、本当にJ国のカッパそのものである。手には長柄の武器を持っているが、それ以外には腰布しか身につけていない。

くちばし、頭には皿。

体つきは全体的に黒く、そして細い。蝦蟇のように、全身には斑点状の模様が突いていた。

「悟浄、久しぶりです」

「また、お世話になります」

「お前とはまだ八千回ぶりくらいだなあ。 まあ、よろしく頼むぜ」

鷹揚に頭を下げるカッパ。

非常に無口らしく、無言で列に加わる。猪八戒は沙悟浄を無視しているのが露骨に見て取れた。

性格的に正反対だから、合わないのだろう。

「こんにちは、沙悟浄さん」

「貴方は?」

「スペランカーです。 こっちは後輩の川背ちゃん」

「よろしく」

握手の手をさしのべた川背と、その後ろにいるスペランカーをしげしげとちいさな目で見つめると、沙悟浄はそれきりついと視線を背けてしまった。

怒らせることをした、と言うわけでは無さそうだ。かといって、恥ずかしがっている様子も無い。

玄奘への素っ気ない挨拶からも、恐らく他人とコミュニケーションを取る気が薄いのだろう。

「玄奘さん」

「何ですか、川背さん」

「沙悟浄さんと殺し合ったことは?」

いきなり川背がとんでもない事を聞くが、これについては事前に聞かされている。

沙悟浄は。

原作では、玄奘にとって世代を超えた、転成の枠を超えた天敵だったのだ。

西遊記の玄奘は、何度も転成を繰り返しながら、天竺へ経を取りに行こうと旅を続けていた。

その度に沙悟浄に襲われ、喰われてしまったのだ。

原作の沙悟浄は首に髑髏のネックレスをしているのだが、これは喰われた三蔵法師のものなのである。

カッパの沙悟浄はと言うと、首からは何もぶら下げていない。

「悟浄は無口ですが、気の良い男です。 そのようなことはありません」

「でしょうね。 失礼しました」

諦めた面持ちで、川背が頭を下げる。

不快感を刺激されたかと思ったのだが、意外にも沙悟浄は冷静である。

それから西に進んでいく内、三日ほども過ぎた頃だろうか。たき火を囲んでいるとき、川背に話しかけた。

「どうして、あのようなことを聞いた?」

「この世界では、貴方は気の良いカッパの妖怪だと確認したかったからです」

「他にも世界があるのか」

じっと、川背が沙悟浄を見つめ返す。

猪八戒は興味が無さそうに、たき火の脇でぐうぐうと寝こけていた。孫行者は川背と話し合った結果、交代して見回りに行っている。

この辺りまでのルートを確立するまで、孫行者は相当に苦労したのだという。

だが、その先に行くのに、想像を絶する苦労を重ねて、結果天竺に行くのには未だに一度も成功していないのだとか。

「むしろ、この世界が、仮の存在だとは思いませんか?」

薪が爆ぜる。

たき火の中で揺らめく炎に顔を照らす川背。彼女は緻密な動きを見せる戦士だが、それを支えているのは、やはり根本的な賢さなのだと、スペランカーは思う。

カッパは。

沙悟浄は、しばらく無言で揺れる炎を見つめていた。

「前から、おかしいとは思っていた。 この世界には、あまりにも命がなさ過ぎる。 それなのに、俺たちは生きている」

「それに、倒れても倒れても、やり直せる」

「そうだ。 それもおかしい。 俺は都合八千回以上死んだが、その度にあの河に引き戻された」

何かがおかしいと、沙悟浄は言う。

この人は、寡黙なだけではない。沈思黙考出来るタイプの人だ。

「本当の世界とは、何だ」

「この世界の外側には、もう一つ世界があります。 貴方たちは、その世界の思念が生み出した、仮の存在です」

「ほう……」

中国では、古くから哲学が発展していた。

胡蝶の夢。

眠ったとき、自分は夢の中で蝶になっていた。

淡々と、川背が説明してくれる。

世の中のことは、本当に起きているか分からない。或いは自分は、誰かが見ている夢の中で生きているのかも知れない。

沙悟浄はそれを知っていたのだろう。

「俺は、外の世界にいたのか」

「物語の登場人物です。 ただし、後に現実世界でも、神々の一人として崇拝はされています」

「……そうか」

薪が、また一つ爆ぜた。

長い沈黙が来る。沙悟浄は、見かけと裏腹に、賢者と呼んでも良い存在なのかも知れない。

少なくとも質問は知的で、言動にも常に冷静さがある。

「お前が不機嫌そうにしているのは何故だ。 猪八戒が役立たずだからか? お前は優秀な戦士に思えるが、偏狭な性格には見えない」

「……」

川背は答えない。

思ったよりも、ずっと沙悟浄は鋭い。恐らく、あの時沙悟浄が視線を背けたのは、川背が考えている事を、敏感に察知したからなのだろう。

その夜は、それ以上話は進展しなかった。

交代で眠ることにした。スペランカーは先に堂々と寝ている玄奘の様子を一度見てから、自身も横になった。

このままだと、少し危ないかも知れない。

川背が何だか意固地になっているように思えるのだ。

彼女は歴戦の戦士だし、とても賢い。だが、そう言う人が、妙なこだわりから、意固地になってしまうという事を、スペランカーは知っている。

しょうが無い部分は色々あるにしても、猪八戒は悪人ではない。孫行者はそれなりに優秀な戦士で、フィールド探索者としてもさほど悪くない。沙悟浄は冷静で、戦闘では役に立つか分からないにしても、邪魔になる事は無さそうだ。問題は玄奘だが、護衛対象と割り切れば良いだろう。少なくとも人当たりは悪くないので、話していてストレスは感じない。

このフィールドは、見かけよりもずっと厄介だ。

協力をしっかりできないと、攻略できない可能性も高い。

どうしたら、みんなと仲良くして貰えるだろう。眠ろうとして横になっていると、ごそごそと猪八戒が起き出すのが見えた。

此処はフィールドだ。彼のように戦闘力が低い人が単独で移動すると、非常に危険な場所なのである。

「どこへ行くんですか?」

「ひいっ!」

「まーた女でも漁りに行くつもりか?」

起きていたのか、戻ってきた孫行者が、目をつぶったまま指摘する。

ばつが悪そうに、情けない笑顔を作った猪八戒が、寝床に戻る。こんな荒野では、女性なんていないだろうに。

結局、川背が戻ってくる明け方まで、何も怪物は現れることが無かった。

明け方になってから襲撃があったが、それも退けることは、難しくなかった。

 

数日間西に歩いて、今までの砂漠が緑潤う大地に見えてくるほどの、荒涼たる地獄が見えてきた。

砂漠。

それも、岩石砂漠ではない。

砂だけが見える、目印も無い、地獄のような砂漠だ。延々と連なる砂地は、どこまでも人間を拒否しているように見えた。

手をかざして向こうを見る。

「なあ、スペランカー」

「どうしたの?」

孫行者は、ため口で話したいと少し前から言ってきている。

だから、スペランカーも、それに応じることにしていた。最初、もの凄く不愉快そうに川背はしていたのだが、なだめた。

「実はなあ、この辺りから、行くべき道が良くわからねえんだ。 悟浄から聞いたが、あんた達、外から来たんだろ? それなら、何とかならねえか」

孫行者は、恐らく本能的に知っている。

川背はスペランカーの後輩だが、それ以上に精神的な依存度が大きいという事を。

彼女は、スペランカーを完全に目上の存在として認識している。慕ってくれているという事はとても嬉しいのだが、こういう環境だと、それが特に大きく出る。彼女がとても寂しい人生を送ってきたという事が、その要因だろう。

不思議と、スペランカーがいない環境で、川背は単独でなんら問題なく動けると、何度も一緒に戦った歴戦の猛者ジョーから聞いている。

今回も、動く事自体は、問題ない。

後輩という立場で接してくれているのも、とても嬉しい。

だが、意固地になっているのを、先輩としてはどうにかしてあげたいのである。

「川背ちゃん、この辺りの位置と、行くべき方角は分かる?」

「そうですね。 出来れば砂漠は迂回したいのですが」

「何度も試したが、無理なんだよ。 此処を抜けないと、変な風に迷い込んじまうし、何より酷い場合には、火焔山の熱風に直接突っ込むことになるんだ」

頷くと、川背は地図を皆に見せる。

その細密さに、誰もが驚いているようだった。

「これ、姐さんが書いたんすか?」

「いえ、外にある技術で作られたものです」

「素晴らしい。 一刻も早くこの世界にも、このような地図を作り出せる楽園を作り上げたいものです」

ありがたそうに、玄奘が拝礼する。

その台詞を聞いて、悲しくなる。外の世界は楽園でも何でも無い。かって、未来世界を天国のように描写する風潮があったと聞いているが、これはまさにその古き例ではないのだろうか。

「ちょっとこれ、借りても良いか? 周囲を見てきたいんだが」

「良いですよ。 ただし、火焔山の熱風には気をつけてください」

「ああ、分かってる」

孫行者が、雲に乗って飛んでいく。

ずっと黙っていた沙悟浄が、頷く。

「来たぞ」

「!」

砂漠の向こう。

数体の影が見えた。怪物である。

岩が歩いているような姿をしているが、一体違うのが混じっている。筋骨たくましい、牛のような怪物だ。

「先輩、玄奘法師の護衛をお願いします」

「分かった!」

後の二人は、最初から戦力と見なしていないらしい。

川背は跳躍すると、ルアーつきのゴム紐を振るった。砂漠では明確な足場がないが、彼女の身体能力は、多少の無理程度なら余裕を持ってクリアする。牛の怪物が気付いたときには、その顔面に、川背の靴底がめり込んでいた。

吹っ飛んだ怪物の頭上に躍り上がると、川背が容赦なく首を蹴り折る。

岩の怪物がゆっくり振り返ったときには、その体にルアーが引っかかっており、一瞬だけ置いて残像を残した川背が、ドロップキックを叩き込んでいた。

戦力差がありすぎる。

ただし、孫行者がいるときも、大体同じ展開になる。この世界では、孫行者だけに過剰な戦力が与えられていて、他は守るべき存在となってしまっているのだ。

周囲に、無数の火焔が着弾する。

後ろ。他にも怪物がいたのだ。

スペランカーが見回すと、全部で七匹から八匹という所か。岩のような怪物ばかりだが、その中に一匹、とても大きいのがいる。

それが、口から炎を連射してきたのだ。

「ひええっ! 兄貴はっ!」

スペランカーが、急いで玄奘の馬を急かして、距離を取る。川背も気付いたようだが、岩の怪物が案外頑丈で、手間取っている。

また、無数の火球。

空から流星雨のように降り注ぐそれが、地面で着弾し、馬から玄奘が投げ出された。

慌てて助け起こすが、背後。

岩の怪物が何匹か、もうすぐ側まで来ていた。走って。叫ぶが、玄奘はもたもたしていて、中々立ち上がれない。

岩が、真横から突っ込んできた。

ぐしゃりと、骨が砕ける音。

スペランカーの意識が飛ぶ。目が覚めたときには、周囲には地が点々としていて、岩の怪物が半ばからえぐれて死んでいた。

これが、スペランカーの能力。

不死の呪いだ。

貧弱な身体能力しかないスペランカーが、修羅の世界に等しい地獄に飛び込める理由でもある。

幼い頃、ある理由からスペランカーは邪神の呪いを受けた。その結果、十代半ば程度で肉体年齢は固定し、死なない体になった。正確には、死んでもすぐに蘇生するようになった。欠損が生じれば周囲からそれを補填。悪意ある攻撃によって欠損が生じた場合は、攻撃者から補填する。

その分のリスクも強烈だ。頭はいつまで経っても悪いままだし、身体能力は極めて貧弱。日常生活でも、死ぬ事がままあるほどである。

頭を振りながら、立ち上がる。

瞬時に、意識が飛ぶ。どうやら、今度は後頭部に、岩の怪物の体当たりを受けた様子だった。

次に起きたときは、ヘルメットが吹っ飛んで、転がっていた。多分頭がもげたのだろう。いつものことだ。別に驚くことは、ない。

周囲を見回す。

砂漠に大量にぶちまけられた血の跡。正確には、それによって出来た、無数の不自然なくぼみ。

頭を抱えて震えている猪八戒。必死に長柄を振り回して、玄奘を守っている沙悟浄。

全身が少しだるい。

心なしか、蘇生の負担が、いつもよりも少し大きい様子だ。

岩の怪物が、更に周囲から集まってきている。血の臭いをかぎつけたのだろうか。

大きな岩の怪物が、鬱陶しそうに手を振るう。ちいさな手がついているのだ。それによって、沙悟浄が見事に吹っ飛ばされる。

「逃げてっ!」

川背が、やっと最後の一匹を仕留めたが。彼女の足を、砂漠から生えてきた手が掴む。

砂の下から、また岩の怪物が現れたらしい。

玄奘の至近まで迫った岩の怪物が、大きく息を吸い込む。至近から、火炎弾の直撃を浴びせることで、確実に仕留める気か。

何度も砂に足を取られそうになりながら、走る。

普通の人が走るよりも、吃驚するほど遅い自分の足。

玄奘は震えるばかりで、逃げようとしない。或いは、もう今回は駄目だと思って、諦めてしまっているのか。

岩の怪物が、けたけたと笑っている。

炎がはき出されようとした瞬間。

スペランカーが、間に入ることに成功した。全身が、瞬時に焼き尽くされるのが分かった。

 

目を開けると、川背が側に立っていた。

呼吸を乱しているが、彼女自身には対した怪我はない。足首が少し青あざになっているが、それは怪物に捕まれたからだろう。

辺りには、ずたずたにされた怪物達の残骸が転がっている。

彼女の能力は、空間転送だ。普段は伸縮自在のルアー付きゴム紐を使っているが、背負っているリュックで限定的な空間転送を実施できる。分かり易く言えば、川背は切り札として、相手の体を削り取る力を持っているのだ。この力は相手が邪神レベルでも、しっかり発動する。

大物相手にしか、普通はそれを使わない。川背はよほど怒っていたのだろう。彼女らしくもないと、スペランカーは思った。

「先輩、ごめんなさい。 支援が遅れました」

「いたたた……。 私は大丈夫。 それより、みんなは?」

「俺は多少怪我をした程度だ」

沙悟浄が挙手する。

猪八戒は。見ると、恥ずかしそうに顔を背けた。或いは、おしっこを漏らしてしまったのかも知れない。

あまり怒る気になれないのは、フィールド探索に出てきた新人を、何人も見てきたからだろう。

実戦を最初に経験すると、どんなに気が強い子でも、動転する。

相手を殺したりすると、吐いたりすることも多い。

これでもスペランカーはベテランだ。だから、そういった状況を経験もしているし、今更責めようとは思わない。

服はかなりぼろぼろになってしまっているが、問題は全身の虚脱感だ。

「たった三回」死んだだけなのに、妙に気だるいのである。川背が異常に気づいたらしく、脈を取る。

そして、顔を弾かれたように挙げた。

「これは、まずいです」

「どうしたの?」

「先輩の力自体が、弱まっているみたいです。 一時的なのかどうかは分からないんですが……」

スペランカー自身、体内にある呪いが弱まったようには感じない。

そうなると、おそらくは、力がこの世界に圧迫されている、というのがただしいだろう。いずれにしても、厄介な状況だ。

「体の中にある力は、あまり弱まってないように思えるんだ。 そうなると、多分一時的だね。 このフィールドの影響だとは思う」

「分かりました。 とにかく、先輩に可能な限り無理はさせないようにします」

「私は良いよ。 それよりも」

戻ってきていたらしい孫行者が、スペランカーの視線の先で玄奘を助け起こしている。玄奘に怪我はないようだが、彼はとても臆病だ。原典の西遊記でも臆病で気弱な人物だというが、そこだけは一致しているのだろうか。史実の知識欲の怪物のような玄奘とは、だいぶ違うか。

それは、ひとまず置いておく。

あまり賢くないスペランカーにも、はっきり分かることがある。

今回の件は、隙を突かれたと言うよりも、連携が取れていないことが、被害を増やした最大の要因だ。

猪八戒が最初から役に立たないことは、わかりきっている。

玄奘も、戦い慣れしていないのだから、仕方が無い。

川背は、主力の振り分けを誤った。それを、スペランカーも指摘しきれなかった。更に、戦略ミスがはっきりしてからも、戦術的なフォローが出来なかった。

特に、後者が痛い。

「川背ちゃん、お願いがあるんだけど」

「何ですか?」

肩を借りて立ち上がりながら、ストレートに用件を伝える。

スペランカーは、喋るのが得意ではないから。あまり大仰な演説は出来ないし、人の心を打つような名文だって書けない。

「みんなと、仲良くして」

「え……」

「川背ちゃんが、どうしてか分からないけど、みんなにすごく怒っているのは感じ取れるよ。 あの人達、欠点はあるけど、そんなに許せない人達かな」

世の中には、酷い人が多い。それは事実だ。

スペランカーの母だってそうだった。育児放棄して、飢餓地獄の中で、既に不老不死だったスペランカーを何万回と餓死させた。それでいながら、容色がすっかり衰えた今でも、男漁りに精を出している。

地獄のような紛争地帯で、悪魔が驚くような外道とも出会ったことがある。テロ組織の首領であったあの男は、鬼畜という言葉でも、語り尽くせないほどの存在だった。絶対に許すことが出来ない相手であった事に間違いは無い。

ああいう連中に比べて、この人達はどうだ。

確かにげんなりさせられることは多い。

だが、憎むほどの相手なのか。

川背は不快そうにうつむいていた。一度、話をしっかり聞く必要があると、スペランカーは思った。

 

孫行者が偵察に行っていたことは、決して無駄にはならなかった。

方角を確認しながら、砂漠を抜ける。時々砂丘の影でビバークしながら、夕方から明け方までを利用して、ひたすら歩いた。

昼の砂漠は灼熱地獄。

夜の砂漠は極寒地獄。

このうち、極寒地獄の方がまだマシなのは、言うまでも無いことだ。厚着さえすればある程度はどうにかなるのだから。

問題は、不平不満の噴出が止まらなかった事だろうか。

歩いている間中、ずっと猪八戒は疲れた疲れたもう歩けないと、文句ばかり言っていた。その度に切れそうになる川背を、随分なだめることになった。

スペランカーも体力がないが、その代わり歩き方のコツは知っている。要はある程度以下の速度だと、基本的に疲れは溜まらないのである。それを猪八戒に何度も教えて、歩き方も工夫してもらったのだが。彼の場合は、不平不満を言う間に、疲れが溜まってしまうようなのだった。

「こんなに疲れるの、はじめてだあ! 休みたい! 休みたい−!」

「いい加減にしろ」

沙悟浄が、猪八戒を引きずり起こす。

何か説教しているようだ。体力がないスペランカーでも、黙々と歩いているのに、お前は何だとでも言っているのだろうか。

猪八戒は、最初性欲丸出しの目で、川背を見ていた。

だが何度かの激しい戦闘での川背の暴れぶりを見てからか、最近怒られてばかりだからか、すっかり萎縮して、今ではむしろ怖がっているようである。

それでは駄目だ。

川背に、みなと仲良くするように言ってから、あまり進展がない。

明確に怒ることはなくなったが、却って不満は溜まっているようなのだ。

やっと砂漠を抜ける。

だが、やはり広がっているのは、永遠と続く荒野だ。小川はたまに見かけるが、水自体が殆ど無い。掘り返せばそれなりの水を取得できるのだが、念入りに蒸留しないと、とても危なくて口には出来なかった。

幸い川背がちまちまと砂漠の寒暖差を利用して水を作ってくれたので、しばらく分の水はある。

馬の左右にぶら下げてある革袋に入っている水がそれだ。最悪の場合、孫行者に、黄河まで水を取りに行ってもらう手もある。当然のことながら、蒸留しないと飲むことは出来ないが。

問題は、食料だ。

砂漠の中に民家が一つだけあった。中には幽鬼のような生命感のない住民がぽつんといて、此処がゴビ砂漠である事を教えてくれたきり、貝のように口を閉ざした。

食料はくれたが、干し肉と干飯がほとんどだった。

小魚の干したのを少しくれたのが嬉しかったが、栄養のバランスは最悪である。野菜を食べたい。

そして、砂漠を出てからも、相変わらず動物は全く見かけない。草花も、殆ど生えてはいなかった。

「もう歩けねえよう」

また、猪八戒が蹲る。

無言で沙悟浄が引きずり起こす。それも、体力の消耗につながると、理解してもらうのは難しい。

平気な顔をしているのは、唯一孫行者だけだ。

「孫行者、この辺りまで来られたことは、あまりないの?」

「おいらは見覚えがないな。 殆ど来たことも無い筈だぜ」

「此処までたどり着けなかった理由は、殆どの場合、迷子?」

とはいっても、此処にいるのがが正しい道筋の結果だとは、スペランカーも断言できない。

少し考え込んだ後、孫行者は言う。

「まず、偵察に行けないのが痛かったな」

「やはり、そうなんだ」

「ああ。 悟浄はそこそこに戦えるが、豚はあの有様だ。 お師匠はまったく戦いに関しては駄目だし、馬の奴もなあ」

思い出す。

そういえば、川背に教えられたのだが、玄奘が跨がっている馬は、龍が化身したもののはずだ。

戦闘時の様子を見ている限りそうは思えないのだが、本来は頼りになるはずなのである。逃げるだけなら、中空に浮かぶだけでも、かなりの数の敵を回避できる。襲いかかってくる怪物は、他のフィールドに比べて、手強いとは思えない。耐久力は高めだが、動きは遅いし、邪神の配下達のようなえぐい戦術も使ってこない。

「だから、迷いやすかったと」

「おう。 今回はあんたたちが手伝ってくれるから、本当に助かるぜ」

「後は、みんなの心を、少しでもまとめることが出来れば……」

「もうやだー! 歩けないー!」

ぎゃいぎゃいと猪八戒が騒いでいる。

玄奘はそれに対して、何も言わない。川背が完全に薄笑いのまま、表情を固めた。まずい。

今までに何度か見た事があるが、本気で切れた時の表情だ。

面白い事に、いずれも見たのは戦場以外で、である。一度は非常にまずい定食屋に入ったとき、厨房で馬鹿笑いしているシェフの声を聞いて切れた。もう一度は、子供を野外で蹴っているモンスターペアレンツを見た時。

どちらも、止めるのに本当に苦労した。モンスターペアレンツの方は止めようとした老人に危害を加えようとしたので川背が二秒で畳んで制圧し、その後の処置は警察に任せたが。放っておいたら腕くらい折っていただろう。

「川背ちゃん、待って!」

「止めないでください、先輩」

川背の目を見て、猪八戒はその場で漏らしたようだった。

震え上がるばかりで、逃げることも忘れてしまったかのように固まっている。戦士の挙動ではない。

「分かったよ、私が説得するから。 だから、抑えて」

「先輩……!」

「まずいよ、このままだと」

戦力的には、決して劣っているわけではないのだ。

どうしても先に進めないのは、みなの行動指針がまとまっていないこともあるかも知れないが、何よりも明確な集団行動が出来ていないこと。

子供向けの漫画だったら、絆が仲間がどうのと言う台詞が出てきたかも知れない。

現実の戦場を見てきたスペランカーだったら、こう言う。連携が取れていない。川背もそれが分かっている筈なのに、どうしても皆と協調できていない。

喋るのは苦手だが、スペランカーがやるしかない。

話さなくてはならないとは思っていたが、それを先延ばしにしてしまっていた。やるべきは、今だ。

「玄奘法師、少しよろしいですか?」

「はい、何でしょう」

「少し足を止めて、話をしましょう。 このまま進むより、その方が有意義なはずです」

しばらく考えた後、玄奘はその意見に同意した。

恐らく心弱い彼も、彼なりに苦慮していたのだろう。万を超える回数、旅が上手く行かなかったことを。

 

居心地が悪そうにしている猪八戒。

説教をされるのかと思っているのだろう。川背が素直にスペランカーに従っているのを見て、内心怖れているようだったから。

沙悟浄は対して、非常に落ち着いている。

おそらくは現在の集団に、問題があると思っているからだ。

円座を作って、皆で向かい合う。

今までもたき火をそうやって囲んできたことは何回か合った。だが、今回は、最初から空気が違った。

「玄奘法師。 貴方の目的は、ありがたいお経を天竺にもらいに行くこと、ですか?」

「はい。 それによって、乱れきった世の中を少しでも良くすることです」

「分かりました。 孫行者、貴方は?」

「おいらか? そりゃあ観音菩薩に言われて、お師匠を護衛することだよ」

一応その設定は生きていたか。

大魔王のように暴れ回り、世界の全てを敵に回して、封印された孫行者。

その封印を解除した玄奘の手助けをして、天竺へ行くことを義務づけられた。本来は制御できる存在では無い孫行者を押さえつけるために、頭に填められた輪のことは、あまりにも有名だ。

「それでは、猪八戒。 いいえ、猪悟能、貴方は?」

「おれ? ええと、その……」

やはり。

露骨に、八戒の目が泳ぐ。怒られると思って、怖がっているのだろうか。

「目的なんて、ないんだよね?」

「ひっ……」

「いいの。 怒ったりしないから、言ってみて」

「……はい。 姉御の仰せの通りで」

川背がもの凄く怒っているのが分かる。

だが、スペランカーは、別の気持ちだった。

「貴方は、どうしたい?」

「え……」

「いつも言っているように、歩くのを止めて、その辺で好きなように過ごしていたい?」

「い、いや、そんなことはないっす! そんなことはないっすよ!」

いやいやと、太い首を振る猪八戒。

この人は、決して悪い人では無い。だが、こういう人は結構多い。目的意識がないから、どうしても己に指標を作る事が出来ず、ただ目の前の快楽に流されてしまう。

意志が強い人ならば、それでも生きていける。

だが、命のやりとりも行わなければならない戦場で、精神のもろさは致命的だ。

壊れるのを避けるには、何かしらの目的意識を作るか、狂気で心に鎧を作るか、そのいずれかしかない。

「何か、したいことはないの?」

「お、おいらは。 美味しいものをいっぱい食べて、きれいな女の子に囲まれて、それで」

「猪八戒?」

玄奘から、柔らかいが、それでも確実な叱責の声が飛んだ。

川背に声を掛けて、席を外してもらう。彼女のことを、猪八戒は本気で怖がっているからだ。

「それじゃあ、八戒」

「な、何ですか、姐さん……」

「今のままだと、貴方は役立たずだよ。 それでもいいの?」

「……」

嫌だと、しばらく時間を掛けてから、八戒は言った。

それならば、充分だろう。

沙悟浄にも、同じ質問をする。彼はわずかに顔を上げると、言う。

「俺は、今のままの俺が嫌だ。 だから、何かが代わるのであれば、この旅に同行したいと思っている」

「今のままというのは?」

「俺にとっては、ちいさな河が全てだった。 そんな俺は、小さいといつの間にか思えるようになっていた」

それが悪いことだとは、スペランカーは思えない。

たとえば、サラリーマンとして働いている人達はどうだろう。家を守る事が、全てになっているのではないのか。

それを卑小だとか卑近だとか言えるのか。

言えないと思う。そういう人が多くいることで、世の中は動いているのだから。或いはもっと小さく、技術が全てだったり、文化が全てだったりする人もいるだろう。

頷くと、スペランカーは、川背を呼びに行く。

彼女には、別に話したかったからだ。

川背は、近くの岩場で座り込んでいた。目を閉じて、精神を集中していたらしい。

「川背ちゃん」

「先輩」

隣に座って、一緒にお星様を見る。

やっと、分かったことがある。何日も何日もかかってしまった。

「ねえ、川背ちゃんは、西遊記が好きなんだね。 どうして?」

「……昔、料理人としての修行をして、各地を廻っていた頃です。 義務教育もろくにこなしていない僕でしたけど、料理の修業以外の数少ない娯楽が、本でした」

ゲームなんて出来る経済力はなかった。

だから、時々地元の図書館に行っては、適当な本を借りてきて、それを読んでいたのだという。

「その頃は能力者としても未熟で、フィールド探索者として食べていける目処もありませんでしたから」

「でも、此処にいる人達は、その本の中の人達じゃないよ」

川背が、凍り付いたようだった。

分かってはいたのだ。

彼女にとって、西遊記がどれだけ大事な存在だったのか。豪傑的だった西遊記の人物に比べて、この世界の人達はあまりにも軟弱すぎる。

「先輩、分かっていたんですか」

「私、馬鹿だから。 気付くまで、随分時間が掛かって、ごめんね」

川背は、膝を抱えて、顔を隠した。

誰にも、顔を見られたくないときはある。しばらく川背が落ち着くまで、スペランカーは待つことにした。

川背にとって、孤独な時代は長かった。料理を人生の基幹に据えるまで、思春期の頃は、随分葛藤だって合ったはずだ。

如何に超一流まで腕を上げた今でも、心までは完璧ではない。

何処かに、やはり弱点はある。

今回はたまたま、それが直撃で、一致してしまったという事だ。

一時間ほども、待っただろうか。

「もう、大丈夫です、先輩」

川背は落ち着きを、取り戻してくれた。

頷き合うと、スペランカーは立ち上がった。誰も悪くはない。だが、話はしっかりしておかなければならないのだから。

 

「さ、みんなで話そう。 大体、問題点は、見えてきたよ」

川背の手を引いて、円座に戻る。

ここからが、本番だ。

「玄奘法師、貴方は慈愛に満ちた人だと思います。 でも、どうして皆を主体的に導こうとしないんですか?」

「え……」

「貴方は皆を見守っていてはくれています。 しかし、このメンバーの中に、誰かを引っ張る人はいないんです。 貴方はお経を天竺に取りに行くという目的があるはず。 経験が浅くても、たとえ無能であっても、貴方が音頭を取って、皆を導くべきではありませんか?」

「ちょ、スペランカー!」

慌てた様子で孫行者が言うが、これはまず第一の条件だ。

リーダーの不在。

それが、彼らの旅が、上手く行かなかった最大の要因なのだから。

「私が……皆を……」

「いいですか、貴方が旅の中心なんです。 確かに戦うのは孫行者の仕事ですが、それ以外のことをするのは、貴方なんです」

「……」

見る間に落ち込む玄奘。

だが、きっと分かってくれると、スペランカーは思った。

孫行者と沙悟浄は良い。

まず孫行者については、非常に楽天的という性格もあって、恐らく玄奘の制御さえ効けば、充分に動いてくれるようになる。

沙悟浄は冷静で、物事の本質が見えている。何回か話してみたが、スペランカーとの会話の中で、何がまずいのかは的確に把握してくれている様子だ。だったら大丈夫だと判断できる。

問題はもう一人。

「八戒、貴方は、いつまで逃げ続けるの?」

「それは……その……」

「逃げるのは、仕方が無いときもあるよ。 でも、逃げてはいけないときもある。 貴方は、逃げてはいけない時にも、逃げてしまってる。 それは、とても悲しい事なんだと、私は思う」

怒りは、正直な話、沸いては来ない。

弱いという事を怒るのは、スペランカーの流儀に反する。

自分に厳しい川背は、だからこそ「原作と違う」、弱さと強さが混在していないこの猪八戒に怒りを感じていたのだろう。

むしろ、この人の場合は、負のスパイラルを作ってしまっている事が問題なのだ。

虚言癖について、以前聞いたことがある。

調子が良い嘘を一度ついてしまうと、それが癖になってしまう。やがてどんどん嘘を積み重ねるようになり、嘘のために嘘をつくようになる。

逃げることも、それとまた同じ。

逃げれば、また逃げてしまう。

大事なときにも。

苦しいときにも。

逃げなければ死んでしまう事は、確かにある。それを見極めるのも、大事なことだ。そうしなければ、生き残れない地獄を、スペランカーは何度も見てきた。

だが、猪八戒は、違う。

逃げるべきでは無いときに逃げることで、己の中に負の連鎖を作り上げてしまった。

「お、俺、だって、弱いから」

「貴方が逃げて、玄奘さんが死んでしまったことは、何回ありましたか」

「っ……」

「確か百八十回くらいかな」

となりで、孫行者がぼそりという。

それは、つらかっただろう。

「逃げることで、どんどん苦しくなりませんでしたか?」

涙をこぼしはじめる猪八戒。

腰を落として、抱きしめる。肩を撫でながら、諭した。

思ったよりも、ずっと硬い肩だ。この人は、弛んだ体の中に、きちんと戦士としての筋肉を持っている。

「苦しくなった……」

「次は、頑張ってみましょう。 私も、支えてあげますから」

精神論では駄目だ。

少しずつ、逃げ癖を何とかしていかなければならない。

スペランカーはこの世界で、いつもよりも能力の展開の負担が大きくなっている。

「孫行者、貴方も、八戒が逃げることを前提にしていなかった?」

「まあな。 そいつ、よわっちいし」

「なら、私が側につくから。 出来るだけ、八戒が逃げないことを前提に、動いて貰えないかな?」

「あんたがわざわざかい? まあ良いけど、無理はするなよな。 川背から聞いたけど、あんたのその不思議な力、かなり負担が掛かるんだろ?」

それくらいは平気だと言うと、恐らく意図を察してくれたのか。

孫行者は、分かったと言ってくれた。

「玄奘法師、これからどうしますか」

「ええと……」

「決めるのは、貴方です。 分からないなら、分かりそうな人に聞いて、それで判断してください」

いきなり全てをコントロールするのは無理だろう。

だが話したことで、少しずつは変わってくれるはずだ。

そう信じて、スペランカーは、任せた。

此処から、変わらなければならない。

 

4、変わりゆくこと

 

いきなり、何もかもが変わる訳ではない。

それを、スペランカーはよく知っていた。

砂漠の出口辺りで、遭遇した巨大な怪物。人間の姿をしていて、全体的に青みが掛かった、古めかしい中華風の鎧を着込んでいた。背丈はスペランカーの七倍か八倍、いやもっとあるだろう。

文字通り、雲突く大男だ。

しかし、中華風の鎧が違和感を誘う。

スペランカーは仕事でチベットや蒙古の辺りも訪れたことがあるが、それらの国では、中華とはだいぶ違う風習が常識となっている。

既にこの辺りは中華文明圏から離れているはずだが、それは原作も同じだと、川背に聞いている。

インドに近づいているはずなのに、長安近辺の風俗に起因するような話しか出てこない。荒唐無稽な冒険譚に隠されてはいるが、それが西遊記の最大の問題点だ、と。

だが、川背はこうも言っていた。

豪快な勢いだけで押し切るのが、中華の大衆文学の特徴だ、とも。

「俺は銀角大王! 此処を通すわけにはいかない!」

「てめえと戦うのは、これで確か、四十七回目だな!」

孫行者が、雲を出現させ、それに飛び乗る。

震えている猪八戒の肩を、スペランカーは叩く。

「私が、側にいます。 逃げないで戦えますか?」

こくこくと頷く猪八戒。

沙悟浄はそれを一瞥だけして、玄奘に。

「お師匠。 どうする?」

「孫行者。 お待ちなさい」

「ん? ああ」

玄奘の言葉に、血の気が多そうな孫行者が、即座に動きを止める。

川背はゆっくりと砂丘を利用して、敵の斜め後方に廻りつつある。彼女の戦術的な行動は、玄奘にも見えているはずだ。

「銀角大王と言いましたね。 貴方は、何を目的で、私の道を阻むのですか?」

「え? それは……」

「答えられないのですか? もしも、漠然とした目的だというのなら、通していただけませんか? 貴方たち妖怪にも悪くない世界のために、私は天竺へ向かっています」

「……」

いきなりアイデンティティを木っ端みじんにされた銀角は、青ざめたまま立ち尽くしている。

さっきまでの威勢は、もう無い。

不意に、背後に殺気。無数の怪物が、しかも孫行者とそっくりの猿たちが、砂漠を突き破るようにして飛び出した。慌てたように制止する銀角の言葉だが、届かない。

「ま、待て、お前達!」

「ふん、どうやらまずはそいつらを潰す必要がありそうだな!」

きびすを返した孫行者が、猿たちに向かって雲を切り替える。

逃げ出そうとする猪八戒の肩を掴む。今こそ、逃げない時だ。

今までは、怯えるばかりだった玄奘。

しかし、少し前から、彼は変わりつつある。ゴビ砂漠の次に入ったこの砂漠で、彼は何かを見つけたのかも知れない。

「悟浄! 八戒! 私を守りなさい」

「承知っ!」

沙悟浄が飛び出し、殆ど地面と水平に、奇声を上げながら飛び込んできた猿を受け止める。

激しい激突音の中、更に数匹が飛び出してくる。

そのうち一匹が、不自然に首を曲げ、あらぬ方向に吹っ飛んだ。更にもう一匹に、川背がドロップキックを叩き込み、吹き飛ばす。

着地した川背が、ルアー付きゴム紐を構えて立ちふさがる。スペランカーから見えるその背中が、実に頼もしい。

だが、攻防の間に、一匹が抜ける。

迫る猿。孫行者は、間に合わない。

後続は、川背が片っ端から排除している。あの子、わざと一匹行かせたな。スペランカーはそれを悟るが、それは後輩らしいかわいらしい意趣返しだろう。気にすることも、ない。

「うきゃあああああああっ!」

寄生を挙げたのは、猪八戒だった。

後ろで、玄奘が無様に怯えることもなく、馬上で立ち尽くしている事もあるのだろう。涙を流しながら、凄い形相で、長柄の武器をふるって猿に打ちかかった。

意外にも、一撃で猿を砂漠にたたきつけ、バウンドさせてはじき飛ばす。

やはり、パワーはあるのだ。

「はひーっ! ひーっ! ひーっ!」

涙とよだれを垂れ流しながら、猪八戒が血震いする。

今、玄奘が、変わった。

畏れを押し殺して、逃げずに動いてくれた。こうまで上手く行くとは思わなかった。実際、話をしてから数度の戦いでは、怯えて逃げ回っていたのだ。

それは猪八戒も同じ。

だが、少しずつ、逃げないようになってくれた。

そして、今。

逃げないことで。些細な指示を出すだけでも。

少しずつ、歯車がかみあいはじめていた。

川背が踵落としを叩き込んで、猿の一匹を砂漠に沈める。

そして、ついに玄奘の側まで、孫行者が戻ってきた。その時には、彼そっくりな猿の怪物は、既に駆逐されていた。

「へへっ! スペランカーの言うとおりだったな!」

「これでも、たくさんの世界を見てきたんだよ」

「おいらは出る幕も無さそうだ。 おーい、銀角の! お前、どうする! 戦う理由もないんだろ!」

呆然と立ち尽くしていた銀角。

彼は肩を落とすと、砂漠に胡座を掻いた。

「何だか俺は、何のために此処で待っていたのか、分からなくなった。 なあ、玄奘法師、あんたはどうなんだ? 目的があるのか?」

「私は、天竺に、この世界をよくするためのお経を取りに行かなければなりません」

「ああ、さっきそう言ってたな。 そうだったんだな。 ……天竺は、あっちに行って、火焔山を南下すれば行ける。 ただし、あの熱波をどうにかしなければ無理だけどな」

指さした先を見て、川背が地図をチェックしている。

恐らく、まだまだ砂漠を越えなければならないのだろう。

「見た事も無いんだが、そっちには兄者がいる。 よろしく頼む」

銀角は、部下の非礼をわびるようにして、頭を下げた。

 

旅が、ずっとスムーズになった。

一回上手くいったからといって、それから完璧に出来るわけではない。何度もスペランカーは、逃げようとする猪八戒の肩に手を置いて、なだめた。

怯えながらも、少しずつ猪八戒は、その場にとどまれるようになっていった。

元々腕力はそれなりに強いようなのだ。

そして、玄奘も猪八戒も無秩序に逃げ回らないようになった事で、川背も孫行者も、ずっと上手に立ち回れるようになった様子だ。

二人で話し合って、ディフェンスとオフェンスを切り替える。

それだけで、実に効率よく怪物を排除できている。取りこぼしも、沙悟浄と猪八戒で処理可能。スペランカーは時々来る流れ弾に備えるだけで良くなった。

「逃げる怪物は追わなくても構いません。 逃がしてあげなさい、孫行者」

「わったよ、お師匠。 いやー、しっかしまあ、やりやすいなオイ。 今までの苦労が嘘みたいだぜ」

棒を振るいながら、満足そうに孫行者が陽気な笑みを浮かべる。

ぶるぶる震えながらも、猪八戒はその場に立っている。川背はそれを一瞥して、ルアーを手元に戻した。

孫行者と川背の足下には、怪物の群れが散らばっている。既に息はない。

二人だけで蹴散らしたのだ。後は、少しばかり、此方にも。いずれも、沙悟浄と、猪八戒で、対処が出来た。

怪物の数は、増える一方だ。

しかしそれに反比例するように、対処は簡単になりつつあった。

「これなら、この旅が失敗しても、次で超えられそうだぜ」

「油断は禁物だよ。 火焔山を守る熱の壁を、どうにかしなければならないんだから」

「流石にあんたは慎重だな。 分かってるよ」

砂漠を、抜ける。

やはり荒野と、山ばかりの土地。

海の近く、川の近くと、全く変わらない荒涼たる大地。既にぼこぼこになってしまっているヘルメットを脱ぐと、スペランカーは額の汗を拭った。

裸になる前に、火焔山にはたどり着けるだろうか。

既にこのフィールドに入ってから、川背が言うには三ヶ月半が経過している。しかし史実では往復十六年掛かったことを考えれば、まだマシな方だろう。

ただし、この世界の距離感はおかしい。外部からの測定で五万キロ以上の広さがあるのだから、三ヶ月程度で進めるわけがない。

川背によると、星の位置を測定する限り、数日に一回くらい見つけている空間のひずみを通ることで、短くても千キロ、多い場合は五千キロくらい、一気に転移しているらしい。それならば、どうやら半分以上の距離を踏破できているのも、納得がいく。

川背の機嫌は、だいぶ良くなっている。

このままなら、きっと行ける。まだ不安な部分は多いが、それでも、きっとどうにかなる。

少し前、金角大王という怪物に出会った。

だが、銀角と戦っていないことを話すと、道を通してくれた。そして教えてくれたのだ。「羅刹女」が、芭蕉扇を持っていると。

その芭蕉扇を用いれば、火焔山の熱波に対処が可能なのだと。

「その羅刹女という方とも、話をしてみましょう」

玄奘は、そう言う。

それで良いと思う。基本的に原作の西遊記では、妖怪に会えば殺し合いばかりをしていたようだが、そうでない西遊記があっても良いではないか。

猪八戒は相変わらず歩いていると、不平不満ばかり口にする。

苦しい。

もう歩きたくない。

水が飲みたい。

おなかがすいた。

それをなだめながら、玄奘が歩くように促す。やはり、玄奘に決断して皆の中心になるように言ったのは、正解だった。

川背が戻ってくる。

隣を並んで歩きながら言う彼女の服も、ここに入ったときに比べれば、かなりぼろぼろになってきていた。

他のフィールドに比べればマシとはいえ、怪物との交戦は既に三十回を超えているのだ。歴戦の猛者であっても、当然の結果である。

「先輩、疲れていませんか?」

「平気だよ。 むしろ八戒が文句を言う頻度が減ったから、気疲れしないかな」

「ああっ、酷いっす!」

「ほらほら、前を向いてあるこう」

促して、歩く。

そろそろ、火焔山の近くにまで出る。タクラマカン砂漠も、少し前に越えた。

後は、どうやって熱波のバリアを破るか、だ。

此処からは、精神論でも、絆の力でも、先には進めないだろう。

「此処が、最後の壁だな」

足を止めて、皆で見上げる。

確かに、空に揺らぎが生じていた。

 

5、旅の結末

 

ただの廃屋が、荒野にぽつんと建っていた。

孫行者が、熱のバリアの周囲を偵察していて、見つけたのである。

ただでさえ、民家さえ殆ど無い世界である。

何かあると見て良いだろう。少なくとも、水と食料くらいは得られるはずだ。

それにしても、だ。

フィールドは出来るとき、必ず何かしらの理由がある。このフィールドは、どうして出来たのだろう。

この内部の荒涼たる有様は、一体どうしたことなのだろう。

恐らく、天竺まで行かなければ、それは分からない。

雲から降りながら、孫行者は言う。

「此処から西に三日って所だ。 岩の間を通っていくから、怪物に襲われると面倒だぜ」

「うん。 川背ちゃん、岩山の上の方で、早期警戒をお願いできる?」

「やってみましょう」

奇襲と聞いて猪八戒が顔色を変えたが、先にスペランカーが手を打つ。

玄奘はその辺りのやりとりには介入しない。

ただし、最後に言う。

「それでは、その廃屋に行ってみましょう。 羅刹女さんという方が、ひょっとしたら潜んでいるかも知れませんから」

「ああ、ぶちのめしてやるぜ」

「これ、孫行者。 乱暴はいけませんよ。 まずは話をしてみましょう」

皆に来るよう促す玄奘。

銀角を倒して、ほぼ一月。きっと彼は悟ることが出来たのだろう。今までとは、全く旅の手応えが違うことを。

岩山が見え始める。

しばらくは、入り組んだ地形をひたすら西に行くことになるという。

孫行者は常に空で見張り。これは奇襲を防ぐための措置だ。

川背は最後尾。最前列は猪八戒とスペランカー。沙悟浄は玄奘の側にいて貰う。玄奘はというと、今が危険地帯だと分かっているのだろう。無口のまま、黙々と進んでいた。

孫行者が降りてくる。

「少し戻ってくれ。 その先は行き止まりになってる」

「岩山がふさがっているんですか?」

「ああ、上から見ると、まるで迷路だ」

「止まってください」

玄奘が、不意に声を張り上げた。あまり大きな声ではないが、不思議な存在感がある。おそらくは読経で鍛えているからだろう。

「川背さん。 何か見えますか」

「いえ。 奇襲の気配はありません」

「……どうも嫌な予感がします。 孫行者、少し先まで見てきて貰えますか。 皆は、警戒を密にして」

「何だかいやだなあ」

縮こまって震える猪八戒。

だが、スペランカーは笑顔のまま、彼の肩には触れない。

もう逃げないと分かっているからだ。

しばらくして、孫行者が戻ってきた。かなり興奮している様子で、顔がいつも以上に赤黒い。

「師匠、下がった方が良い! 前の方に妖怪どもが、かなりの数待ち伏せしてやがった!」

「どうして気付かなかったのですか?」

「こっちが空にいることを知ってたらしい! 上手に岩壁に擬態したり張り付いたりしてやがったんだ」

しかも、一部の妖怪が、後ろに回り込みつつあると言う。

「どうする?」

「そうですね。 どうしたら良いと思いますか?」

「後ろに回ろうとしている敵をたたいた後、追撃して、本隊に強襲をかけましょうか」

最も過激な案を出したのは川背である。

それに対して、猪八戒はおどおどしながら反論する。

「お、おれは。 怖いから、戦いたくない」

「てめえ、まだ……」

「孫行者、大丈夫」

「……分かってる。 スペランカーもこう言ってるけど、信じて良いんだろうな?」

猪八戒はこくこく頷いた後、指さす。

「さっき、地図見たんだけど、此処を無理に北に抜けちゃえば、少し大回りになるけど、岩山から出られるんだろ? お師匠様と馬さえあにきが運んでくれれば、それでいけると、おれは思うよ」

「本当ですか?」

素早く地図を広げて、川背とスペランカーで確認。

確かに間違いなさそうだ。ただし、多少強行軍になる。

「分かりました。 僕が殿軍を引き受けます」

「無理はしないでください。 では、みなさん」

玄奘が手を叩いて、馬を走らせる。皆、それに続いた。

遠くから、怪物の走る音が聞こえてくる。いろいろ、雑多な怪物がいるようだ。川背は戦いたいようだが、今回は玄奘の意見を尊重する。消耗を避けるためにも、玄奘の意見が正しいと、スペランカーも思う。

岩山を、駆け上がる。玄奘を雲に乗った孫行者が引っ張り上げ、抱えていち早く山の向こうに。

狭い道を這い上がるようにして、猪八戒が。その尻を叩くようにして、沙悟浄が続く。

猪八戒が稜線の向こうに消えたのを見計らって、孫行者が戻ってくる。

かってだったら、絶対に出来ない行動だ。

「スペランカー、手を!」

「うん!」

スペランカーを引っ張り上げる孫行者。

最後まで残った川背は、無数の怪物相手に仁王立ちしている。此処は砂漠ではない上に、ルアーを引っかけられる場所が無数にある。まさに彼女にとっては独壇場だ。

ただし、相手の数が、いささか多すぎる。

鎧を着た人型が、無数の弓矢を放ってきている。川背はそれを的確にかわしつつ、敵との距離をゼロにし、或いは首を蹴り折り、他の怪物を盾にして矢を受け、激しく渡り合っていた。

沙悟浄が、稜線を越える。

それを見計らった川背が、下がってくる。だが、その時。

背中に矢を一本受けた。

川背が合流したとき、無言で矢を引き抜く。鏃の構造が稚拙なので、そのまま抜けたと彼女は言うが。

しかし、血が噴き出すように流れた。

岩山の向こうで、悔しそうな敵のうめき声が聞こえる。対して、川背は矢を抜くときも、眉一つ動かさなかった。そのまま戦えとスペランカーが指示したら、躊躇無く敵の中に飛び込んで行くだろう。

「早く西に向かいましょう」

「貴方の手当が先です。 貴方が時間を稼いでくれなければ、とても逃げ切れませんでしたから」

玄奘の判断を横目に、馬に移していたリュックから、医療キットをスペランカーが出す。

川背は苦笑すると座り、手当を受け入れた。

まず消毒をして、傷口を確認。縫う必要は無いだろう。血止めの薬を塗って、ガーゼを当てて、上から包帯を巻く。

手当をしながら、川背に言う。

猪八戒が、ずっと玄奘の側で、護衛をしていたことを。

「もう、大丈夫だね」

「どうでしょう」

「認めてあげようよ。 もう、逃げたりは、きっとしないよ」

「先輩は甘すぎます」

視線をそらして、川背は言う。

怪物の群れは、追撃を諦めたらしい。上空にいる孫行者が知らせてくる。

すこし大回りになってしまうが、それならばある程度は安心して先に進めるだろう。もうすぐ、怪しい廃屋に着く。

川背の包帯を巻き終わると、彼女は立ち上がった。

彼女も、複雑だ。だが、それでも受け入れてくれている。これならば、きっと障害を突破できるはずだ。

 

どうにか迷路のような岩山を突破して、西に抜ける。

既に川背が言うには、星の位置からしてインドの北辺りの地域に入っているという。中華を完全に抜けて、現在で言うアフガニスタンやチベット辺りにいるそうだ。

此処から南下して、現在で言うパキスタンの辺りから、東にインドへ入る。つまりインドの北を西に縦断して、其処から南下、更に東に進むことでインドへ侵入するというわけだ。

既にこのフィールドに入ってから、体感時間で五ヶ月ほども過ぎている。

アトランティスに残してきたコットンが、さぞ寂しがっていることだろう。そう思ったが、考えて見れば外では数日しか過ぎていないはずである。お風呂には随分長い事入っていない。まずは外に出たら、シャワーが浴びたかった。過酷なフィールド探索はいくらでもやってきたが、ここのはまた、今までとは違う。

川背の傷は、もう回復している。跡が少し残っているが、手当が早かったこともあって、化膿もせずに綺麗にふさがった。後は帰ってから、お医者さんに見てもらうだけで大丈夫だろう。

迷路岩山の北部荒野を完全に抜けた辺りからだろうか。

いよいよ、地形が厳しくなってきた。

砂漠ではないが、砂だらけの土地。空気は乾燥しきっていて、しばらく全く木を見ていない。

幸い河はたまに見かけるので、そこで水は補給できる。また、時々人がいる家も見つけたが、中にいる人は食料と水さえ分けてくれるものの、何を聞いても要領を得なかった。ただ、一人だけ、天竺はもうすぐだと教えてくれた人がいて、嬉しかった。

この世界に入ってから見かけた人は、どれだけいるだろう。

フィールドだから、本来は人間を見かけなくて当然だ。だが、そうなると、玄奘はどうなる。

今まで見てきた人もそうだったが、世界がちぐはぐなことと、関係があるのだろうか。

「どうやら、着いたみたいだ」

孫行者が足を止める。

川背が無言で偵察に行く。廃屋の周囲には、木や草さえも茂っておらず、ただぽつんと廃屋があった。

毎日孫行者が雲に乗って偵察をして、やっと見つけてくれた場所だ。何かあると信じたいのだが。

川背が手招きする。

中に人がいるという。正確には、人型の何かが、だが。

旅の途中で、川背に聞いた。

原典の西遊記では、妖怪達は玄奘を執拗に狙った。理由は、その肉を食べれば不老不死が得られるから、だ。

だがこの世界では、銀角や金角を見る限り、その設定はない。

というよりも、玄奘を襲うと言うよりも、旅を単に邪魔しているという雰囲気が強い。

最初にスペランカーが部屋に入る。

正座をした女性がいる。今まで見てきた人間は、誰も彼もが粗末な衣服を着ていたが、この人は比較的しっかりした身なりをしていた。

「こんにちは。 お邪魔します」

「何者か」

「スペランカーと言います」

「玄奘でなければ用は無い。 帰れ」

いきなりの発言である。険のある美人である彼女は、目を開けることもなく、完全にスペランカーを拒否した。

玄奘を招く。

側では、油断無く孫行者と猪八戒が構えていた。猪八戒は美しい女性が相手でも怖いらしく、震えていた。

「何者か」

「玄奘と申します。 貴方が、羅刹女ですか」

「いかにも我が羅刹女だ。 私の持つ芭蕉扇を求めに来たか」

「はい。 天竺へ赴くために、それが必要なのです」

女が目を開ける。

思わず声を上げそうになったのは、瞳孔が二つあったからだ。たったそれだけで、非常に非人間的な容姿になる。

天井近くまで、ノーモーションで羅刹女が飛び上がった。

「ならば死ねえええっ!」

手に伸びた鋭い爪を、振り下ろしてくる。

無言で孫行者が対応。横殴りに振るった棒が、羅刹女の顔面を、真横から張り倒した。

廃屋の横壁を貫通して、外に吹き飛ばされる羅刹女。

「へっ!」

余裕を見せて、即座に追撃に掛かる孫行者だが、追おうとしたスペランカーを、川背が制止。

悲鳴。孫行者のものだ。

今度は逆に、吹き飛ばされた孫行者が、廃屋の中に飛び込んでくる。

受け止めて、外に出るよう玄奘に叫ぶ。慌てて廃屋を出ると、外にはとんでもないものがいた。

巨大なサソリである。

全身が真っ赤で、まるで燃えているかのようだ。人間としての姿はもはや残っておらず、その尾は針ではなく、巨大な団扇状になっていた。

なるほど、あれが芭蕉扇という訳か。おそらくは、あの怪物を殺さないと、手に入れることは出来ないだろう。

「気をつけろ、手強いぞ!」

「羅刹女さん。 協力していただけませんか? 貴方たちにも、決して悪くない世の中を作るためです」

「シャアアアッ!」

話を聞く雰囲気では無い。即座に人間以上もある巨大なはさみが飛んできた。孫行者はまだ廃屋の中だ。川背が動く。玄奘を抱えて、飛び退くが、しかし残像を残してサソリが回り込んでくる。

即応した沙悟浄が、五月蠅そうに払われたはさみに、横殴りに吹き飛ばされた。川背が跳躍し、尻尾にゴム紐を絡ませ、頭上から強烈な蹴りを叩き込む。

地面にクレーターが出来るほどの一撃だが、サソリは止まらない。川背を激しく動いて振り払うと、ついに玄奘に向けて、はさみを振り下ろす。

間に入ろうとするスペランカーも、間に合わない。

廃屋から飛び出してきた孫行者も。

金属音。

はさみを受け止めたのは、猪八戒だった。

「速く逃げて! お師匠様!」

「八戒!」

「よくやったあっ!」

水平に飛んできた孫行者が、サソリの至近で着地、飛び上がりつつ棒を振るい上げる。

サソリの、左側のはさみの下半分が、鋭い音を上げて砕け散った。

更に川背が、右側のはさみにゴム紐を引っかけ、遠心力を駆使して一気に引っ張り上げる。はさみの上半分が、むしり取られて引きちぎれる。

体液をまき散らしつつも、サソリは数歩蹈鞴を踏み、しかし口を開けて、視界を紅蓮に染めるほどの炎を吐く。

狙っているのは、あくまで玄奘。

だが、今度はスペランカーが間に合った。玄奘を突き飛ばす。瞬時に、全身が焼き払われるのが分かった。

気がつくと、サソリは炭の塊になっていた。呪いによるカウンターを受けたのだ。

ただし、その、団扇のような尾だけは残っていた。今のダメージは強烈で、スペランカーも中々立ち上がれない。コートをかぶせてくれる川背に、酷い脱力感を押し殺しながら聞いてみる。

「どれくらい、意識がなかった?」

「丸一日、てところです」

「……っ」

それでは、スペランカーの切り札であるブラスターを使ったときに匹敵するほどのダメージではないか。

だが、まて。何処かがおかしい。

やはり、体の中の力が弱まっているような気配はない。そうなると。

川背が声を低くして言う。

「ひょっとして先輩に働いている海神の呪いだけ、時間が外と同じ感覚で流れているんじゃないですか?」

「! そうか、なるほど。 それならば、このダメージも説明がつくね」

「もしそうだとすると、まずいです。 色々調べてみたんですが、入ったときよりも、更に時間の加速が酷くなっている可能性が高いです。 早く天竺にこの人達を連れて行かないと、最悪この中でおばあちゃんになってしまいます」

スペランカーは大丈夫だろう。

だが川背がそうなってしまっては可哀想だ。

何度か失敗して、立ち上がる。孫行者達も、丸一日休んで、それなりには回復したようだ。

「おう、助かったぜ。 その団扇、さっそく試してみるか」

孫行者は嬉しそうだが、あの熱波だけが、天竺への道を阻んでいるとはとても思えない。このちぐはぐな世界の事だ。

きっと、まだ何かある。

その嫌な予感は、殆ど時間をおかずに、適中することになる。

 

羅刹女の廃屋から南下すること、一週間ほど。熱のバリアの辺縁に到着した。

確かに空気が揺らいで見えるほどの熱だ。地面は常に焦げ付いていて、近づくだけで全身の水分を奪われそうである。なるほど、これは強行突破をはかれば、即座に丸焼けになってしまうだろう。

だが、今は。必殺の対抗策がある。

熱のバリアの中に入るとき、芭蕉扇を孫行者が振り回すと、凄まじい風が巻き起こった。そして、それが治まると、もう何も熱バリアは残っていなかった。

本来のインドなら、もっと暑いのではと思わされるほどである。

火焔山の雄大な風景が、今はむしろ美しく思える。

北に火焔山を見ながら、南に。

ついに、その時が来た。

荒野のど真ん中にて、雷雲が巻き起こった。凄まじい風が石をつぶてと化し、竜巻が荒れ狂う。

空に舞い踊る稲妻が、凄まじい轟音を辺りにまき散らす。天地が割けるかと思えるほどの破壊音が、恣に自身を誇示していた。

そして、音もなく、それが現れる。

巨大な人影が、立ちはだかる。

そこにいるのは、あまりにも巨大な人間の形。鎧兜を身につけて、背中にはマントのようなものをぶら下げていた。外套でも言うのだろうか。

感じる気配が、今までの比では無い。

恐らくこの人影が、フィールドの主。周囲は、いつの間にか、完全なる闇とかしていた。

「天竺へは、行かせん」

「貴方は!?」

「混世魔王」

川背が怪訝そうな顔をする。

そういえば、牛魔王はどうしたのだろう。スペランカーでも知っている、西遊記最大の敵の筈だが。

「混世魔王と言えば、孫行者が暴れていた頃の敵の筈です。 それも、たいした力の持ち主ではなかったはずでしたが」

「ほう……詳しいな。 確かに名前を借りた存在は、取るに足りないクズ妖怪であったわ」

妙に引っかかる物言いである。

今までの怪物は、どうも様子が妙だった。それだけではない。配置されている人間達も、だ。

「ひょっとして、貴方。 能力者?」

スペランカーの言葉に、混世魔王は、にやりと口の端をつり上げていた。

別に論理的な思考の組み立ての結果ではない。単に勘で口にしてみたのだが、大当たりであった様子だ。

「良くわからねえんだが、どういうことだ」

「私達と同じ、外から来た人だって言うことだよ」

「何だと! あんななりのくせに、妖怪じゃないのか?」

「十中八九違うかな。 混世魔王さん、貴方は一体、どうしてこんな事を!?」

虚空に、白い手が浮き上がる。

危ない、と思った時には。手が、至近にたたきつけられていた。

「聞きたければ、我を倒すのだな!」

横殴りに飛んでくる手が、地面を抉りながら迫ってくる。それだけではない。口からは、熱量が高すぎて周囲の空気をプラズマ化するほどの火球を、連続して吐いてきた。

手を、猪八戒が受け止める。

地面に四つん這いになった沙悟浄が水を吐いて、プラズマ火球を中途で迎撃した。

だが、手は二つ。

虚空に浮き上がろうとした孫行者を、手が叩き落とす。

地面にバウンドした孫行者を、更に追撃の手が、叩き潰そうと迫ったが。その親指に、ゴム紐が巻き付く、一瞬の間。逃れた孫行者。手が、地面にクレーターを作っていた。

手首から先が自由に動き回り、立ち尽くしている本体は火球での猛攻を仕掛けてくる。非常に厄介な相手だ。

しかも、辺りは完全なる闇。

頭と手だけが浮き、自在に動き回りながら、連携での攻撃を仕掛けてくるのだ。

また、連続して火球が飛んでくる。

「長くは保たない」

玄奘が訴えかける。火球を上手に馬は避けていた。既に、逃げ回る情けない馬ではなかった。

「混世魔王! 貴方は何故、このようなことを!」

「このようなこと? ふん、茶番に延々とつきあい続けたのはお前達も同じだろう、人形ども!」

「えっ……!?」

なるほど、そういうことか。

おかしいとは思っていたのだ。どれだけ旅を繰り返しても、挫折することなく、同じ目的のために動き続ける人達。

村も町も作らず、点々とある家で、その人達を待ち続ける者達。

そして、申し訳程度に邪魔をしてくる、妖怪。

旅に都合が良い空間の裂け目が用意されていると思えば、天竺の周囲は強力な熱のバリアで守られている。

何もかもちぐはぐだと思っていた。

フィールドとして安全すぎると思えば、しかし攻略されないための伏線は、いくつも張り巡らせていたのだ。

「全ては。 貴方が作り上げた世界を、維持するためのルール、だったんですね!」

川背がプラズマ火球を避けて跳躍し、混世魔王の顔面にルアー付きゴム紐を投げつける。しかし、絶妙のタイミングで放たれたルアーを、顔面は残像を残して避けた。

兜で守っている顔は見えない。

しかし、相当に年老いていることは、確実のようだ。

孫行者が飛翔に成功する。ジグザグに飛びながら、何度も顔面を狙って、棒を振るう。その度に、鉄の壁でも打つような音がして、棒が跳ね返される。

「おいおい、強すぎだろっ!」

「……」

無言でスペランカーは前に出る。

恐らく、霊的存在に一撃必殺の破壊力を持つブラスターは通用しないとみて良い。如何に人間離れしているとは言え、混世魔王はほぼ確実に人間だ。人間に対して、ブラスターは極めて効き目が薄い。

だが、海神の呪いの方であれば。

「お前の厄介な力は、見せてもらっている!」

混世魔王が指を鳴らすと、四方八方から怪物が現れる。

疑似生命で押さえ込むつもりか。妥当な戦術だが、しかし。

手の一つを抑えていた猪八戒が、吹き飛ばされる。

沙悟浄が、水が切れたらしい。

両手を合わせて拳を固めた混世魔王が、高らかに笑った。

「これで終わりだ玄奘! また入り口に戻れ!」

振り下ろされる拳の鉄槌。

だが、それに孫行者が、全力で体当たりした。

拳がわずかにそれ、しかし玄奘の至近に直撃する。吹き飛ばされた玄奘が、馬ごと至近に倒れた。

前だったら、恐ろしさで身動き一つ出来なかっただろう玄奘。だが、傷だらけになりながら、叫ぶ。

「玉龍! 今です!」

馬が、輝く。

そして白い龍になり、驚愕している混世魔王の顔にかぶりつく。しかし、それは残像を残して、かき消えた。

「おおおおおおおっ!」

「もらったっ!」

かき消えた先。

川背が、高々と跳躍していた。さっき、混世魔王が呼び出した怪物達を足場にジグザグに跳躍し、回り込んでいたのだ。

回転しながらの踵落としが、直撃する。

混世魔王の顔面が、ひしゃげるのが、スペランカーにも見えた。

やはり、そうだ。外から来た存在の攻撃は、ダイレクトに通る。

回転しながら地面に直撃する、混世魔王の頭部。何度か転がりつつも、その執念は、まだ玄奘を捕らえていた。

「わ、我は! 我は!」

「永遠に生きる、ですか?」

絶句する混成魔王の目の前。

スペランカーが立ち尽くす。今、火球を放ったら、自滅になる。

奇声を上げた混世魔王。有象無象の怪物達が、玄奘に襲いかかろうとする。混世魔王が今一度玄奘を叩き潰そうと、拳を動かそうとする。

だが、拳は、猪八戒が、決死の形相で押さえ込んでいた。がたがたと揺れているが、しかし今度は振り払えない。

そして怪物達は、龍と沙悟浄が、玄奘の周りで立ち回って、近づけない。顔を動かして逃げようとするが、その時には既に、川背がゴム紐を振るい、拘束し終えていた。

上。

孫行者が、炎の塊となって、突っ込んでくる。今、川背の締め付けを防ぐのが精一杯の混世魔王に、その直撃を、防ぐ力はない。

「終わりだ、混世魔王ーっ!」

「こ、この、人形風情がああああああああああっ!」

絶叫が、爆音にかき消される。

闇が、晴れた。

 

倒れていたのは、小柄な老人だった。

道服というのか、オリエンタルな雰囲気の服を着込んでいる。色は黄色。皇帝を気取っていたのかと、川背が呟いた。

「我を倒して、後悔するなよ」

「この世界が消えるとでも?」

スペランカーの言葉に、にやりと混世魔王は笑った。

そして、死期を悟ったからか。全てを話してくれる。

かって彼は、道士と呼ばれる、道教の術使いだった。しかし、中華文明では、古代から神秘主義への風当たりが強かった。君子怪力乱心を語らずという言葉もあったように、道士という存在は、決して尊敬はされなかった。

本物の力を持つ混世魔王でも、それに変わりは無かった。

「だから、私は、力を持つ者が尊敬される世界を作りたかった」

可哀想な人だなと、スペランカーは思った。

このように、都合が良い世界を作るのには、何十年も掛かったという。

術式というのは、完璧ではあり得ない。必ずルールに従って、ものを作り上げなければならない。

擬似的な世界であれば、その世界を構成する全てが必要になる。

壊そうとする因子も。維持しようとする存在も。

つまり、妖怪達は維持を目的とした存在。玄奘達は、破壊を目的とした存在。全ては混世魔王が作り出した、夢幻の世界を維持するための、人形だったというわけだ。

「よくわかんねえが、ていうことは天竺は?」

「此処が天竺だ。 見ろ」

周囲は、荒れ果てた荒野。

けたけたと、混世魔王は笑う。そして、激しく咳き込んだ。

確か、現実の玄奘が辿り着いた頃、インドは戦乱の中にあった。その上仏教は衰退し、邪教として扱われはじめていた。

玄奘はインドで教典を得、唯識と呼ばれる概念を学んで帰還した。だが、それは後世に思想的な影響を与えはしたものの、決して理想の世など造りはしなかった。

「ありがたいお経」は、思想的には重要だったが。実際には、救った人間など、ほとんどいなかったのである。

混世魔王は知っていたのだろう。その史実を。

そして、西遊記の玄奘が、中華文学にありがちな、「理想的君主人」として、人格をねじ曲げられた存在だと言う事をも理解していたのだろう。

「西遊記を利用したのは、都合が良かったからだ。 途方もない誇張である十万八千里などと言う概念も、旅をする玄奘がどうしようもない軟弱者だということも。 実際、あの物語は、ご都合主義がなければ成立はしないからなあ。 事実、人形共は、何度挑んでも、我の世界を攻略は出来なかった」

「貴方は、間違っています」

玄奘が、悲しげに目を伏せた。

既に、周囲の世界が、ねじ曲がりはじめている。心配になったが、川背が首を横に振る。

此処は大規模だがフィールドだ。崩壊すれば、現実世界に戻るだけ。危険はない。ただし、スペランカーたちに、だが。

「どう間違っている。 己の世界を作ろうとして、何がいけない」

「見なさい。 これが、浄土です」

世界は、崩壊しない。

息を呑むスペランカー。

周囲は、豊かな緑の大地に変わりつつある。水は潤い、大地は豊かに変わる。空には鳥たち。雲は穏やかに流れ、海は静かに波を行き来させる。

人々の声も聞こえる。

動物たちも。

空には、神仙の声も聞こえるのではないのだろうか。

混世魔王から、玄奘に。世界のコントロールが、移ったのだ。

「お、おお……」

「今までの荒涼たる光景は、貴方の心、そのものだったのですね。 しかし妄執から解放された貴方の心と、力は、私を軸にして、今生まれ変わろうとしています」

「く、こ、このような。 このような!」

「認めなさい。 貴方は、本当は、永遠など求めていなかった。 貴方が求めていたのは、自分を認めてくれる、安らぎある世界だったのです」

混世魔王が、うなだれる。

恐らく、この世界が出来てから、何十万年も体感時間で生きていたのだろう。だが、孤独と独善に囚われていた彼は、ついにこのような世界を夢想できなかった。

しかしその心の砂漠は、玄奘によって、打ち砕かれた。

玄奘は、今、人形ではなくなった。本物の聖人になったのだ。

「ありがとう。 どうやら、やっとおいらたちは、目的を果たせたらしい」

孫行者が、手をさしのべてくる。

スペランカーは、その手を取った。

きっと、フィールドとしてはこの世界は破綻している。恐らく泡沫のちいさな世界として、異次元を永遠に漂い続けるのだろう。

だが、それが故に。無害だ。

邪神に乗っ取られることもないだろう。既に内部空間も、十万八千里などと言う途方もない広さではないだろうし、時間の流れも、外と同じの筈だ。

周囲の光景が揺らいでいく。

「ありがとう。 世話になったっすよ」

猪八戒が、手を振っている。

あの軟弱な豚が、見違えるように男の顔になっていた。

無言で、沙悟浄が頷く。

成し遂げた男の顔をしていた。

龍に乗った、玄奘が空に行くのが見えた。きっと、この世界の、新しい旗手となるのだろう。

史実とは違う。

だが、それで良いのかも知れなかった。

 

気がつくと、フィールドは消滅。外にはじき出されていた。

ベースのすぐ側である。

川背に助け起こされて、ベースに戻る。やはりというかなんというか、外では数日しか経過していない様子だった。

「先輩。 あれで良かったんでしょうか」

「さあ、どうだろう。 でも、分かっているのは、人形として作られた玄奘さん達が、そうじゃなくなって、あの世界は楽園になった、ってことだろうね」

スペランカーと川背が力尽くで混世魔王を倒したとしても、あの結果は得られなかっただろう。

ちいさな世界になったかも知れない。

この世界を、楽園には出来なかった。

だが、それでも。あの結果は間違っていないと、スペランカーは思う。

もう一度、振り返る。

影も形もないフィールドの跡地には、ただ虚空があるだけだ。

この世界では、未だ邪神が蠢き、各地では人間達がそれと関係無しに紛争を繰り返している。

殺戮と業の世界。

しかし、それとは違う世界も作られたのだ。

「シャワー浴びて、ご飯食べて、それから一眠りしようか」

「賛成です」

川背とほほえみ会うと、まずは旅の汚れを落とそうと、スペランカーは決めた。

殺戮だけが、世界のあり方ではない。

それが分かっただけで、大きな収穫だった。

有意義な旅だった。そう、スペランカーは思った。

 

(終)