夏の終わりと水のほとり

 

序、残暑の中で

 

空でふんぞり返り、アスファルトを焦がしている忌々しい太陽。夏も半ばを過ぎているというのに、まるで自粛しない空の帝王に、中学二年生の昼丘千佳は髪を掻き上げながら、何十度目かわからない悪態をついていた。

「太陽自重しろ」

もちろん、太陽は自重しなかった。ますます熱くなってくるようにも思えてくる。汗が蒸れて、耳の辺りがかゆい。

咥えたソーダアイスから、汗だか溶けたアイスだかわからない液が零れる。何処に向けて歩いているのか、千佳は自分でもわからなくなりつつあった。良く焼けた肌を、ハンドタオルで拭いながら、歩く。焼けた肌に、長くなってきた髪はあまり似合わないから、そろそろ本気で切ろうかとも考え始めている。

ただ、歩く。

驚くべき事に、これこそが夏休みの宿題だ。

体育の教師によると、夏休みだから日光を浴びなければならないという。其処で、外を十キロ歩くことを教師は宿題とした。殆どの生徒が自己申告だけで済ませるだろうそれを、千佳は大まじめに実行していた。

別に、楽しそうだからとか、義務だとか、思ったからではない。

単に、他にすることもなかったからだ。

据わった目。いつも低いテンション。常に不機嫌そうに寄せられている眉。

その異常に重苦しい雰囲気から、千佳は影で闇丘とかチタンとかあだ名されている。千佳とサタンを掛けているらしいのだが、どうでもいい話だ。

子供らしくきゃあきゃあ騒いでいる周囲から明らかに浮いている千佳だが、成績も運動神経も上位を常にキープしており、教師に目をつけられることもない。また雰囲気が怖いからか、いわゆる虐めに遭うこともなかった。

別に格闘技をやっている訳ではないのだが、センスに恵まれているのか、喧嘩自体も強い。以前いわゆる珍走団の女リーダーとその部下五人に絡まれた事があるが、隙を突いて金属バットを奪うと、全員の鼻の骨をへし折ってやったことがある。それ以来、千佳に喧嘩を売ろうとする不良は一人も居なくなった。

実際は結構怖かったのだが、静かに構えているだけで、周囲は勝手に勘違いしてくれて便利だ。

一昨日は近場のプールまで往復して二キロ。

昨日は隣駅まで往復して三キロ。

今日は適当に二キロ半くらい歩いて帰ろうと思い、行き当たりばったりに万歩計を付けて歩き出したのが運の尽きだった。完全に迷子になった挙げ句、この天気である。一昨日、昨日と珍しく機嫌が悪かった太陽が、今日に限っては絶好調だ。とはいっても、他の宿題なんかとっくの昔に終わらせたし、やることも特にない。今更帰っても、家で寝るだけである。

どうにか知っている所に来て、今どうしようかと途方に暮れていた所である。財布も確実に軽くなってきている。あまり無駄遣いも出来ない。

ソーダアイスを強引に食べ終える。

どうしてか、氷なのに温くなっているような気がした。最悪の気分であった。

「死ね。 ああもう、死ね太陽っ!」

本当に死んだら人類は一瞬で死滅するだろうが、それでもよいやと千佳は呟いた。残念ながら、太陽は千佳の呪い程度ではびくともしなかった。うんざりしながら、歩く。ふと、路の右手に図書館を発見。思い出し、頭の中で位置を再確認する。昔、何度か来た図書館だ。

丁度、そろそろ2キロ半。

ずっと幼い頃には、親に連れられて図書館に入ったこともあった。当時はきゃあきゃあ無邪気に絵本を読んでいれば幸せだった。もっとも、騒いで怒られることが再三で、いつのまにか連れて行ってはもらえなくなってしまったのだが。

ふらふらと、図書館にはいる。誘引器に誘われるごきぶりみたいだと、自嘲する。中はまるで別世界のように涼しい。アイスの棒を咥えたまま、奥へ。ひんやりした空気と、区切られたパーティション、それに音がないように整理された空間が、実に心地よかった。途中、ゴミ箱に棒を捨てる。幸い、図書館の人達には気付かれなかった。

明らかに浮いている雰囲気だが、別にどうでも良い、クラスでも浮くのは慣れっこだ。とりあえず、漫画かライトノベルでも適当に読むかと、千佳は周囲を見回して、意外なものを見つけた。いや、意外ではないのかも知れない。

窓際の丸椅子にちょこんと座っているのは、同じクラスの女子生徒、陽炎晃子であった。晃子は非常に分厚い本を紐解いていて、まるで周囲に結界か何かでも作っているかのような、己の世界への没入を果たしている。

やたら明るそうな名前と裏腹に、本の虫としか言いようがない物静かな子である。存在感が皆無のため、此方もどちらかと言えば暗いのに、虐めに晒されることもなく、逆に誰かとグループになるようなこともなかった。いつも周囲の喧噪を完璧に無視して、自分の世界を造っているという点では、千佳と同類だ。

自分の世界ぶりは、ファッションにも現れている。この手の文系少女は眼鏡にロングヘアと相場が決まっているが、ショートに切りそろえた髪にショートパンツと、予想される姿を完全に裏切っている。その上眼鏡も掛けていない。シャツには妙な柄が刻まれていた。蜥蜴か何かだろうか。

容姿と性格のギャップが面白いのだが、いずれにしても、普段は接点がない。故に、話したことも無かった。

あまりにも暇だったので、話し掛けてみる。

「ちわっす」

「……」

顔を上げた晃子は、無言のまま頷いた。近くで見ると、大きな、吸い込まれるような瞳だ。流石に此処は学校ではないし、周囲に可能な限り迷惑を掛けないという分別くらいはある。声を落として、話し掛ける。

「何読んでるの?」

「これ」

無言で本の表紙を見せてくれる。

ちょっと驚いた。それは、お堅い本ではなかったからである。

表紙には、三国志演義と書かれていた。

あまり知識がない千佳でも、それが歴史を元に、民間伝承を集めて作られた小説である事くらいは知っている。

そう言えば、思い出す。

夏休みの前であったか。珍しく、晃子が怒っているのを、見たことがあった。その時に、話題にしていたのが、確か三国志演義。

如何にも頭が悪い男子の誰だったかが、したり顔で、何か言っていた。具体的に誰だったかと、内容はどうだったかもう覚えていないが。その時珍しく晃子が手を出して、何か叫んだのだ。唖然とした男子と、滅多なことでは喋ることさえない晃子の大声に、クラスがしんとしたのを、千佳も良く覚えている。

流石に中学二年ともなると、読書感想文が夏休みの宿題になったりはしない。一夜漬けで終わる量でも無くなってくるし、きっとあの時のことが何かの原因となって、読んでいるのだろう。

邪魔をしては悪いなと思ったので、適当に話を切り上げて、奥へ。

まだ読んでいないライトノベルがあったので、適当に手にとって、近くのパーティションに。本の下半分が真っ白で、イラストが多めに入っている、典型的なライトノベルだった。驚くべき事に、これでさえ最近の中学生は読まない傾向が強いという。漫画でさえ読めないという同級生がいるので、千佳は驚いたことがある。その分運動をしているというのならともかく、趣味はテレビかネットが殆どだ。

元々内向きであるからか、本を読むこと自体は嫌いではない。だが、それでも。

体が冷える頃には、すっかり読み終えてしまっていた。

あまり読書家ではない千佳だが、それでも物足りなく感じる量であった。内容も決して濃くはない。

伸びをする。欠伸をしたのは、本自体が面白くなかったからだ。ライトノベル自体には面白い本もけっこうあるが、これは外れだった。さっき書架に全巻揃っていたが、この内容ではそれにも頷ける。

読み終えたので、晃子の様子を見に行く。

相変わらず彼女は、読書をする石像と化したまま、微動だにせず三国志演義を読みふけっていた。

邪魔をしては悪いと思ったので、そのまま図書館を後にする。

寒暖の差が凄まじく、図書館を出た瞬間、一気に汗が出てきた。

手で顔を扇ぐ。多分周囲の人間は、非常に不機嫌そうにしていると、思うことだろう。事実不機嫌だ。

幸いにも、路自体は覚えている。というよりも、図書館の場所は覚えているので、帰るのはそう難しくないというのが正しい。

問題は、そのまま帰ると、多分二キロ半に到達しない事だ。そうなると、また明日ふらつかなければならなくなる。

少し考えた後、千佳は諦めて、そのまま帰ることにした。

空に輝く太陽はますます元気になり、アスファルトは目玉焼きを作れそうなほどに熱くなってきている。

別に、まだ日はある。

それに、エアコンを殆ど使わせてくれない家に比べて、図書館の何と涼しいことか。喫茶店などに出いるよりも、よっぽど経済的だし、過ごしやすい。沈黙が嫌だと思う人間もいるかも知れないが、千佳は平気だ。

太陽は元気だが、夏は終わりに向かっている。

別に、急ぐこともない、それが事実であった。

 

1、歴史好きの晃子

 

何を考えたでもなく。千佳は翌日、万歩計を腰に付けたまま、朝から図書館に向かった。朝から太陽は元気満々である。灼熱地獄で植物を焼き殺し、動物たちの気力を根こそぎ奪ってひからびさせようという悪意が、ひしひしと千佳には感じられた。

歩行距離は、まだ一キロほど残っている。

今日図書館に行くと、往復で丁度それくらいになる。

そう言う意味でも、足を運ぶ意味は、確かにあった。

九時頃には、図書館に着く。さて、何を読もうかと思い、奥に足を踏み入れて。驚いた。

書架の前に、見知った後ろ姿。ショートの髪を綺麗になでつけている彼女は、まるで幽霊のように、生きている気配がなかった。

振り向く。

幽霊ではない。晃子であった。

別に顔色が悪い訳でもない。目が悪い訳でもないので、眼鏡も使っていない。相変わらず、自分の周囲に、独自の世界を造っている。曇りが一点もない水色のワンピースも、不思議な雰囲気作りに一役買っていた。

昨日のボーイッシュな姿と違って、今日は女の子らしい格好である。

「おはよ」

「おはよう」

挨拶を返される。というか、この子と朝の挨拶をするのは初めてだ。一学期中、ずっと縁がなかったこともあるので、新鮮であった。

何を読んでいるのかと聞くと、また無言で表紙を見せてくれる。今度は三国志演義ではない。水滸伝であった。

ゲームなどにもなっていることで、水滸伝は有名な作品だ。しかも見たところ、中国語の直接翻訳版である。かなりマニアックな所があるらしい。素直に感心した。

「日本人作家の奴は読まないの? 何作か出てるんじゃなかったっけ」

「大体読んだから、原典を読んでみるの」

「へえ」

そのまま、昨日と同じ窓際の席に、晃子は無音で歩いていく。足音は全くしない。本当に生きているのか、不安になった。よく見ると、ワンピースから伸びる足はスニーカーを履いている。サンダルならともかく、なぜスニーカーなのだろう。やはり不思議な感性の持ち主であるらしい。

自身は昨日晃子が読んでいた三国志演義を探してみる。よく見ると、こっちも中国語の翻訳版だ。ただし、結構エキゾチックな雰囲気の絵が着いていて、悪くない。もとより、有名な漫画は読んだことがあるので、内容は大体知っている。父が読書家で、漫画から哲学書まで何でも読む雑食なので、家には蔵書が豊富なのだ。

晃子に話し掛けるのも、本から気が散ると思ったので、奥のパーティションに。

涼しいので、アイスを食べたくもならない。兄弟がいないので静かだし、この空気自体は嫌いじゃない。

パーティションにはいると、おもむろに読み始めた。

日本では青年風に描写されることが多い劉備が、最初から豊富に髭を蓄えたおじさんとして書かれているのが少し新鮮だ。この辺りが既にライトノベルとは違う。

ライトノベルでは十代の男女ばかりだし、場合によっては老人のキャラクターでも髭を剃られていることが多い。髪がはげ上り、体型が崩れた中年男性など悪役以外に出番がない。そのほかにも大人の出演率も異常に低いし、せいぜい無精髭がファッション代わりに生えているくらいなので、気合いが入った非常に長い髭を蓄えたキャラクターが大勢出てくる挿絵はとてもエキゾチックである。文化の違い、世相の違いだが、それが露骨に現れ出て面白い。

正直、髭というものに、あまり好意は持てない。馬鹿な男子が格好を付けて年に不相応な無精髭や顎髭を生やして見せているのを見ると、ワイルドさよりも頭の悪さが目立ってしまう。かといって、近年魅力的な大人の男など、殆ど見たこともないのも事実。

絵が根本的に違うので、美形だとか、悪人面だとか、全然わからない。それもまた、面白い。若いのか、年寄りなのかさえわからない。写実的と言えば写実的だ。鎧などの書き込みは実に精密である。しかし、絵に動きが無くて、何処か醒めてもいる。

不思議である。見れば見るほど、エキゾチックだ。

絵の面白さだけで、どんどん読み進められてしまう。

話の筋はある程度知っているのだが、難しい漢字があまり覚えられないので、端役はとばして進んだ。しばらく読み進めて、愕然とする。話が吃驚するほど薄いのだ。

我慢して最初から、端役をとばさず読み進める。そうすると、今度は逆に非常に濃すぎて、満腹になりそうだった。

しかし話そのものはとても面白い。

気がつくと、昼になっていた。丁度一冊目も読み終わる。何冊かに別れているが、以前読んだ漫画版よりもだいぶ話の進みが早いように思えた。

気付くと、後ろに晃子が立っていた。

「驚いた。 結構集中力あるのね」

「あ、自分でも驚いてる。 こんなに本を長く読んでいたの、始めてかも」

「何か食べに行く?」

断る理由はなかった。

図書館の側には、小さな洋食屋があった。昔、父母と一緒に食べに来たことがある。当時は無邪気に外食なら何でも美味しく食べられた。今では、美味しくない料理は、すぐにそうとわかるようになっている。

幸いにも、この店は、昔の記憶通り美味しかった。

頭がはげ上がっているおじさんが、奥で背中を見せながらトンカツを揚げている。晃子が頼んだのだ。線が細そうなイメージがあったから、意外だった。

自分はナポリタンを頼んだ。何だかんだ言って、これが一番安心する。例えイタリアに無いとしても、だ。先に食べて良いと言われたので、美味しくいただいている。分量も充分であり、何よりとても安い。

「美味しい?」

「美味しい」

「その割には無表情ね」

「ほっとけ」

トンカツが来た。キャベツが山盛りで、皿の端に唐辛子が山盛りになっている。それを全てトンカツに付けると、店のソースを使って、晃子が食べ始める。大の大人でも残しそうな分量なのだが、結構平然と食べていった。

しばらくして、食べ終わる。

間がちょっといやだったので、本の話をしてみる。

「面白いね、あの本」

「そうね。 四大奇書の中では多分一番面白いかな」

「四大奇書?」

「中国の歴史に残る、大衆小説のこと。 三国志演義、水滸伝、西遊記、それに金瓶梅」

最後のだけは聞いたことがなかった。でも、内容については知らない方が良いと言われたので、追求は止めておく。

それにしても、歴史書ではなくて、大衆小説だとは。そういえば、さっき晃子が読んでいた水滸伝も、四大奇書にはいるのか。西遊記も入るとなると、次は西遊記を読んでいるのだろうか。

「西遊記は読まないよ」

「え? 心読まれた?」

「いや、それくらいは大体わかる」

「そうか。 で、何で大衆小説?」

少し沈黙があった。

お冷やの残りを飲み干すと、晃子はちょっと躊躇した後、言った。

「三国志演義もそうだけど、水滸伝には、歴史的に大きな意味があるの」

「歴史的に? 大衆小説なのに?」

「そう。 後、同じような意味がある作品としては、揚家将演義って作品も多分含まれるかな」

こっちは完全に聞いたことがない名前だ。しかし、晃子はとても有名な小説なのだと、付け加えた。向こうでは、三国志演義と人気を二分するほどなのだという。

食事が終わった後、晃子はまたてくてくと図書館に歩いていく。

少し気になったので、聞いてみることにした。

「そういえば、十キロはもう歩いた?」

「ええ」

即答。

ただ、暇つぶしにやっている千佳と違い、此奴の場合はきっと大まじめなのだろう。それは聞き直すこともなく、確信が持てた。さっきの歴史的に意味がある云々も、とても中学生の言葉とは思えない。一体何があって、此処まで図書館に足を運んでいるというのか。不思議である。

何だか、興味が出てきた。

今まで他人に殆ど興味がなかったのに。この幽霊みたいに存在感のない女に、よりにもよって興味が湧いてくるとは、不思議な話であった。

別に帰ってもすることがない。ゲームは弟に占領されているし、何より遊びたいタイトルがない。かといって読む本がある訳でもないし、パソコンを弄ってもすることがない。料理を作るには少し時間が早い。勉強は一応済ませてあるし、何より何かをしようという気力もあまり湧かない。

図書館の中はやはり涼しかった。さっきの続きの巻を手に取り、読み始める。

英雄達が生き生きと動き回っていた。

 

結局夕方までみっちり三国志演義を読んでしまっていた。しかも、内容的にはまだ半分にも達していない。

こんなに長く本を読んだのは、生まれて初めてかも知れない。人間の集中力は二時間で切れるとか聞いたことがあるが、ずっと本に集中していた。いつの間にか三巻まで読み終えていて、気がつくと晃子に肩を叩かれていたくらいである。

その後、無言のまま、二人で帰る流れになった。

同じ中学に通っているとはいえ、帰る方向は違う。それでも、途中の三百メートル程までは一緒だ。だから、聞いてみた。

「なあ、さっきの話だけど」

「え?」

「小説が、歴史に大きく意味を持っているってやつ」

「ああ、それはね。 三国志演義って言う作品は、民間に伝わる伝承とか、他の三国志の物語を集めて、最終的に三国志という形で纏めた作品なの。 主に各地の村を回る講談で、育てはぐくまれた作品なのよ」

「そうなのか」

民間伝承を集めたもの。それは知っていたが、詳細な成立過程については意外だった。

史実とはだいぶ違う所も多いという話は聞いていたが、そんな成立経緯があったとは。民間伝承も多いとなると、荒唐無稽だったり、劉備が変にいい人にされているのも頷ける話である。

晃子が首を横に振る。

やはり、心を読まれているとしか思えない。

「荒唐無稽なのは史実とされている三国志の正史も同じ。 大体はまともなことが書かれてるけど、神様が出てきたりとか、仙人が出てきたりとか、変な話はいっぱい載ってるんだから」

「本当!?」

「本当。 もっとも、紀元2〜3世紀の歴史書だから、無理もないんだけど」

何だか、そっちも興味が出てきた。

そして、晃子という人物にも、である。

これが男女間だったら変に意識してしまうのかも知れないが、同性なので、あまりそう言うことは考えずに済むことがありがたい。

途中で別れる。

何だか、図書館に行くことが楽しみになり始めていた。

翌日も。十キロ歩くという目的が終わったにも関わらず、朝から図書館に出る。三国志の続きを読みたいし、何より晃子の話を聞きたくなっていたからだ。

晃子も来ていた。

静かな空間にいる彼女は、最初と同じくやっぱり幽霊のように存在感も気配もなかったが。どこか好ましく見えるようになり始めていた。

挨拶を交わす。図書館だと言うことも意識して、少し声を落として、書架の前で話す。

「今日は何を読むんだ?」

「昨日話した、揚家将かな。 下敷きになる宋史や時代の解説書は、もう読んだから」

「ふうん」

まだ、晃子の意図は読めない。

だが、何か面白そうなことを目論んでいることはわかる。それを知ることが、今はとても楽しみだった。

三国志演義の続きを読み始める。

話を知っているにも関わらず、面白かった。

 

2、流れゆく歴史

 

三国志演義を読み終わった。

知っていたとおりの、暗い話。ライトノベルなんかだと、鬱展開だとか言われるような内容だった。

巨悪は倒れず、志は地に落ち、英雄は皆命を落とす。

そうして統一された晋が、瞬く間に崩壊してしまうことは、何処かで聞いたことがあった。それも併せて考えると、ちょっと疲労感が大きい。とても楽しい作品だったのだが、しばらくはもう読みたくない。

最初はエキゾチックだった挿絵も、今ではすっかり慣れてしまっている。これはこれでとても味わいがあるし、動きはなくても生き生きとしていた。髭まみれの話だったが、それもまた一興である。読み終えた頃には、不快感も無くなっていた。

ただ、わからないのは。

晃子がこれを歴史の生き証人として、どうして読み込んでいるか、だ。

フィクションが多いのは、読んでいて何となくわかった。どういって良いのか判然とはしないのだが、一定の不自然なパターンがあるのだ。

具体的にそれが何かはわからないのだが、パターンがあることは確実だった。またかと、何度か呟いてしまったほどである。しかし、呟いた後、パターンの正体には気付けず、何度かやきもきした。

書架に本を戻した後、何だか落ち着かなくて、そわそわした。肩を叩かれる。晃子だった。

「百面相してたよ」

「え? あ、そ、そうか」

「もう夕方。 帰りましょう」

そう言われて、素直に従うのは、今までの自分らしくもない。だが、しかし、それもまた良いかもしれなかった。

帰り道、並んで歩く。何だか、話すのが妙に楽しくて仕方がなかった。

途中、コンビニでアイスを買った。ソーダ味の奴だ。いがぐり頭のやたら不細工な少年が、歯を剥き出しにしている柄の絵。大きくて安くて美味しい庶民の味方のアイスで、見てくれを気にしない千佳には、これでよい。

晃子は少し悩んだ末に、バニラアイスを買っていた。若干お上品な雰囲気があるが、っしかしどっちも大して値段は変わらない。涼しくなっていると言っても、まだ暑いから、コンビニの側でさっさと食べ終えてしまう。

「太陽自重しろ」

「え?」

「何でもない」

ちゃんと分別してごみを捨てる。特に意図していることではなく、体が勝手に動く。歩きながら路にガムのごみを捨てるような輩もいるが、そんな輩は人間性も知れている。真似をする意味もない。

晃子がアイスを捨てると、歩き出す。

背は少し晃子が高いが、足は千佳の方が早い。だから、千佳が時々歩調を落として、歩く速度を合わせた。

影が、少しずつ長くなってくる。

明日も、図書館に行きたいと、千佳は思っていた。

 

朝、ラジオ体操をしている小学生達の声で目が醒める。最近では田舎でしか見られないと言うことだが、知ったことではない。

此処が千佳の家であり、周囲でラジオ体操をやっている。

それで、充分だ。

田舎だとか都会だとか、そんなものはどうでもいい。外に行けばコンビニがあるし、電車も通っている。空には飛行機が時々いて、自然も適当にあって。そんな街が、暮らしやすいと思って何が悪い。

パジャマから着替えて、歯を磨いて、頭を洗う。髪を乾かしている内に、ラジオ体操から帰ってきた弟が、生意気なことをほざいた。

「あ、ねーちゃん。 どうしたの、こんな朝から」

「髪が乾いたら出かけてくる」

「カレし?」

「意味もわからないのに、そう言う言葉は使うんじゃない」

ヘッドロックしてげんこつを眉間に押しつける。ただのじゃれあいだが、端から見ると目が据わっているためかこの時の千佳は本気で怖いらしく、外でやった時気付くと周囲で真っ青になった子供達が遠巻きにしていたことがあった。

きゃっきゃっと騒いだ後、離してやる。

弟が、また余計なことを言う。

「ねーちゃん、笑ってれば、カレしも出来そうなんだけどなー」

「死ぬか?」

「ごめん」

弟が二階に逃げていったので、放っておく。別に本気で怒っている訳でもないからだ。

外に出ると、ぐっと涼しくなっていた。早朝だと言うことを差し引いても、気持ちいいくらいである。遠くでまだ蝉が鳴いているが、日差しもどちらかと言えば柔らかいし、今日はとても過ごしやすくなりそうだった。

図書館への道を歩く。ずっと歩いていなかったからか、新しい発見も多い。まだ残っている駄菓子屋は、一度入ってみたい。コンビニよりも、ずっと魅力的に見えてくるほどだ。いつも駄菓子ばかりだと飽きてしまうだろうが、それが逆に良いのである。驚異的に安い所も、また楽しい。

小川では、虫が鳴き始めている。何の虫かはわからないが、草ぼうぼうの河を橋の上から見下ろしていると、更に涼しい。夏も此処にいると、だいぶマシかも知れない。瓦には殆ど石も見あたらず、降りればまず濡れるし汚れる。結構覚悟しないと降りることは出来ない。今日は止めておこうと、千佳は思った。

流れていく雲を見ると、夏休みが終わりに近付いている事実を感じてしまう。まだ中学生である千佳だが、時間などあっという間に過ぎてしまうことを、雲を見ていると思う。あの雲も、流れた先には、どうなるのだろうか。

無心に歩いていると、図書館に。

まだ、晃子は来ていない様子だ。書架を見て回る。三国志の関係書類だけでも、かなりの量があった。三国志の正史を見つけたので、手に取ってみる。ざっと見たが、物語性を全く考慮していない書物で、単に業績が連ねられているだけだった。なるほど、これでは人気が出ないはずである。その上言い回しが難しいので、曹操の所を読んだだけで、うんざりしてしまった。

帰ってから昨日調べてみたのだが、これでは正史を基準にした作品が出てきても、正史そのものが読まれない訳である。

三国志は好きになってきているが、これを読むのは流石にきつい。漢字も非常に多いし、挿絵も殆ど入っていない。高校か、或いは大学くらいにまで行ったら、また読んでみようかなと、千佳は思って、本を閉じた。

彼方此方見て回るが、晃子は来ていない。

朝早くだからか、人が少ない。ひんやりした独特の空気は心地よいのだが、人によっては気味が悪いと感じるかも知れない。図書館は幽霊話の宝庫だと聞いているが、これは確かに頷ける話だ。特に夜になってくると、この心地よい雰囲気が、闇と恐怖にそのまますり替わりそうである。

かといって、手持ちぶさたにしているのも嫌だ。何よりも、せっかく来たのだから、本くらい読んでいきたい。

仕方がないので、どうしようかと、歴史関連の書庫に戻った。揚家将演義というのを見つけた。そう言えば、有名な作品だと、晃子が言っていた奴だ。さっと開くと、隈取りみたいな凄い顔をした役者の写真が出てきたので、驚いた。

ざっと捲ってみるが、正史のような学術書ではなくて、きちんと物語になっている様子だ。パーティションに持っていく。その途中で、晃子に出くわした。

「あ、おはよ」

「おはよう。 どうしたの?」

「ああ、何だか楽しくなってきた」

「そう」

元々口数が少ない者同士だ。会話はあまり長く続くこともない。

晃子はまた水滸伝を探しに書架に行く。せっかくだから、つきあうことにした。

水滸伝は歴史系の書架に含まれるよりも、大衆小説の場所にあるようだ。漫画コーナーにも見かけられたのだが、そっちは表紙が擦り切れかけていて、かなり古い本だった。三国志と同じ作者らしい。素朴な絵柄で、それが故に愛されている国民的な漫画家だ。

「それ、短いけど、かなり分かり易くて、入門編には良いよ」

「これ読み終わったら見てみる」

「そう。 逆にそれは、ちょっと難易度が高いかも」

まさかと思って、聞いてみる。

「ひょっとして、歴史系の本って、此処にある奴大体全部読んでるとか?」

「まさか。 其処までの読書量はないかな」

「だ、だよな」

「でも、三国志関連は全部。 水滸伝のはもう半分くらいは見た」

それだけでも充分凄い。それほど大きくもない図書館であるが、三国志関連の本は、数十冊はあった。漫画に到っては、多分百冊を軽く超えていたはずだ。それだけ人気があると言うよりも、むしろ長い物語だから、だろう。漫画という媒体にすると、初心者が取っつきにくくなってしまうのかも知れない。

いつもの窓際の席に晃子が行ったので、自分はパーティションに。離れる寸前、晃子が言う。

「それ、前半は面白いけど、後半は多分疲れるだけだよ」

「どうして?」

「読めばわかる」

最初は小首を傾げていたが、言われたとおりの展開になった。

 

小学生の頃だったか。

千佳はずっと同じ路を行き来するのがいやだった。学校に行くと、大体集団登下校を行うものだったので、それもなおいやだった。

上級生になってからも、それに代わりはなかった。教師達と対立することも多かったし、時には一人で抜け出して、さっさと帰ることもあった。次の日に怒られることよりも、退屈の方がなお辛かったのである。集団下校がない日は、まるで天国のように感じられたものだ。

そんな日は、友人と一緒に帰った、訳ではなかった。

もう滅茶苦茶に適当に道を歩きながら、どこへいけば何があるか。どんな所に通じているのか。楽しみながら、探したものである。ただの一人で、顔を輝かせて、走り回りながら。

狭い路地を抜けると、いきなり河に出てしまったことがあった。

商店街の裏に入ったら、高架橋の下に出て、酷い匂いがしたので引き返したこともあった。ホームレスか何かがいたのかも知れない。或いは、力尽きて朽ち果てた野犬か野良猫の亡骸だろうか。

怖い目に会うこともあったが、毎回が楽しかった。全く家とは反対方向に出てしまうこともあったが、いつもきちんと家に帰ることは出来た。これでも記憶力には自信があるのだ。最悪の場合は、行った路をそのまま引き返せばいい。人気がない場所に関しては、本能的な危機感が働くので、避ける事も出来た。

常に新しい路がある、みずみずしい日々。

繰り返しではない日常。

ランドセルから手提げのバッグで投稿するようになってからも、それに代わりはない。

中学になった頃からか。学校が遠いからか、あまり帰り道に、一人で寄り道することはなくなった。それに、中学になった頃は土地勘が備わってしまって、大体何処に行けば何処に出るか、判断できるようになっていたからだ。

そう言えば、笑顔をあまり浮かべなくなったのも、あの頃からかも知れない。

きっと体が訴えかけているのだ。退屈は嫌だと。

しかし、変な分別がついてしまった今は、そうも行かなくなっていた。

一人でいる事に不安はあまり感じない。一度、無理矢理に着いてきた同級生の女子が、どんどん知らない所に踏み込んでいく千佳に尻込みし、挙げ句に泣き出してしまったことがあった。そういうのも含めて、他人は面倒だ。思えばあれが、他人に避けられ、千佳も周囲を相手にしなくなり始めたきっかけだったのかも知れない。

対人関係は内向きだが、根本的には外向的。

それが、不思議な、千佳という人間を作り上げている。

そして今、歪みは毎日大きくなってきている。子供ではなく、大人でもない。微妙な年齢が、その要因だろう。

ふと、気付く。

図書館にいた。パーティションで、開いていた揚家将に視線を下ろす。そうだ。半分を過ぎて、後半にさしかかって。最後の辺りで居眠りをしかけて、こうなったのだった。

異常な本だった。

肩を叩かれて、振り向く。微妙な表情を、晃子が浮かべていた。

「だから言ったのに」

「これ、何? 前半と後半、無理矢理くっつけたの?」

「ある意味そうとも言えるし、そうではないとも言えるかな」

頭を抱えてしまう。脳がおかしくなるかと思った。

揚家将演義。宋を舞台とした作品であり、時代的には水滸伝と近いのだと、晃子は言う。民俗学的に、宋はとても重要な時代であるとか。

民俗学というのはよくわからないが、色々な意味でカオスな時代だったのだろう。

物語は、宋という腐敗した国で、軍人達が有能な敵と無能な味方に悩まされながら戦っていくという悲劇的な話である。前半は、それでも良い。主人公である揚家将の者達が妙に強く描写されているようにも思えるが、話としては綺麗にまとまっているからだ。悲劇を否定する風潮もあるが、晃子はそれとは無縁だ。

だが、後半くらいから、徐々に話には暗雲が立ちこめ始めるのである。

「軍記物を読んでいたと思ったら、実は脳みそお花畑なファンタジーライトノベル風味の小説だった。 何を言っているか私にもわからん」

「身長が四メートルくらいで腕が八本ある人が出てきて、分身の術が炸裂する辺りで降参?」

「思い出したくない」

「ふふ。 くすくす」

晃子が静かに上品に笑う。男子だったら、心が動かされたのかも知れない。千佳は疲れが加速しただけだった。別に悪気はないし、相手は最初から警告していたのだから、怒る気にもなれなかった。

この異様な作品も、最初はとても真面目な戦記物だったのだ。

千佳も一応年頃の女子だから、戦記物より恋愛ものに興味がある。しかし、かといって真面目に書かれた作品が嫌いな訳ではない。人並みにアクション映画は見るし、男の生き様に感動することはなくても、人間として精一杯生きる姿に心は撃たれる。だから、三国志演義はとても面白かった。

揚家将の前半部分は、そう言った命のせめぎ合いが、とても強く描写されていた。特に最初の主人公である揚業の死から、その息子揚六郎が無敵の武将に成長していく辺りまでの描写は、あまり戦記が好きではない千佳も、心を震わされた。

だが、途中からおかしくなってしまった。繰り返されるワンパターンな展開。そして、ついに仙人が出てきた辺りで、それは決定的になった。早めに暗雲を感じ取って、本を閉じるのが良かったかも知れない。

しかし序盤から中盤に掛けての面白さが故に、これからまともに戻るかも知れないと考えて、ついつい読み進めてしまった。その結果起こったのは、異常に強い女性陣の野放図もない大暴れと、全く自重しない妖術の炸裂ぶりと、明らかにおかしな展開が限りなく続く地獄絵図だった。不自然ではない段階なら、強くてりりしいヒロインは嫌いではないのだが。後半を中心に揚家将を別の作品にしてしまった彼女らはあまりにも不自然な存在過ぎた上に、ことごとくキャラクターが被っていた。そして主人公らが、その割を食って弱体化していた。

妙な描写はそれだけではない。性別に関係なく、人物がリアリティを失っていたとも言える。

変なアイテムが荒唐無稽な登場の仕方をするし、件の腕が八本ある人物もその展開の一部だった。

最初の主人公である揚業、それに全体の半分以上で主人公を務める揚六郎こと楊延昭は実在の人物だと聞いて、机に突っ伏す。これではこの二人も、あの世で嘆いているのではないのか。せめて、揚六郎の次の世代当たりから、作品全体の異常が本格化したのが救いであろうか。

何だか、炎天下で彼方此方歩き回るより、遙かに疲れた。

三国志演義にも、変な話は出てきた。仙人もどきはいたし、妖怪の類の話だってあった。だがそれはあくまで脇道であって、全体的には雰囲気に違いはなかったのである。

「これが、どうして、興味深いんだよ」

「民間伝承を集めた作品だから」

「え?」

「水滸伝と同じく、民間伝承を集めて作られた作品だから。 特に、後半部分の、頭を抱えるような所が目立ちがちだけど、それ以外にも色々とね」

わからなかった。

兎に角、すぐには歩けそうになかったので、少し休んでいくことにした。ぼんやりしていると、少しずつ頭が冴えてくる。

その間、じっと晃子は向かいに座って、此方を見ていた。此方が回復するのを、無言で待ってくれている。そう思うと、少し心地がよい。今まで、孤独な生活を送ってきたからか。或いは言葉によるコミュニケーションばかりが重視されるのに嫌気が差していたからかも知れない。

「何だかさ、後半になるほど、三国志演義で時々感じた違和感が、何倍も強くなってきたんだよ。 あれが、あんたの求めるもんなのか?」

「晃子でいいよ」

「……じゃあ、あたしも千佳って呼んでいい」

「うん。 千佳」

名前で呼び合うと、少しだけ仲良くなった気がするから、不思議だ。

ぼんやりしていると、晃子はさっきまで読んでいたらしい水滸伝の背表紙を見せてくれた。これが、どうも答えであるらしい。

まだ、夏休みはしばらくある。と言っても残りはだいぶ少なくなってきているが、水滸伝を読み終えるくらいなら平気だろう。

あまり本を読まなかった千佳なのに。

今は、本を読むことが、楽しみになり始めていた。

「良し、カード作ってくる」

「家で読むの?」

「ああ。 どうせゲームは弟に取られてるし、家で本を読むのも久し振りだし。 頭の悪いあたしでも読めそうなのはある?」

学業では良い成績を残している千佳だが、あまり頭は良くないと思っている。少しだけ悩むと、晃子は本を選んでくれた。

「漫画でしっかり水滸伝が書かれているのは殆ど無いよ。 小説でも、しっかり書かれているのは殆ど無くて、そのまま話の流れを翻訳したくらいしか。 今私が持ってるこれはちょっとマニアックだから、そうだね。 あの辺りが良いかな」

揚家将を書架に戻すと、晃子が言う入門編とやらの小説をだす。

ずっしりと重い。

「重い、ね」

「重いよ。 それだけ、色々と重みのある本だって事。 大衆小説だって馬鹿にする奴もいるけれど、それは違うんだ」

「ふうん」

何だか、不思議な受け答えだった。ずっしり重いが、別に体力的に運ぶのを苦労する訳でもない。むしろ、丁度いい運動になるくらいだった。それにこの重さだと、殴れば鈍器として活用できるかも知れない。

図書館を出る。

涼しさは更に加速していた。このまま秋を過ぎると、もの凄く寒くなるのかも知れない。

空を見上げると、太陽が自重してくれたのか、日差しも随分柔らかくなっていた。疲れている脳には、これが心地よかった。

晃子と一緒に歩く。

三国志の話を振られた。好きなのは誰かと聞かれる。

やっぱり、そう言う話になるか。大人しそうな晃子でも、やっぱりこの手の話題からは逃れられないらしい。

というか、千佳も、興味がある。だから、あまり他人を揶揄は出来なかった。

「好きなやつか。 なんだか悪役でも、嫌いになれないんだよね。 逆にどんなに格好良く描写されてても、特に好きな人っていないんだよな」

「そう。 三国志自体に、愛情を感じてるのかな」

「ああ、そうかも知れない。 強いて言うなら、孔明かな」

「千佳、頭が良い男の人が好きなの?」

馬鹿よりは好きだと、千佳は言った。これは本音だ。

今まで誰かを好きになったことはないが、もしも好きになるのだとしたら、その方が良い。あまり千佳は頭が良い方ではないから、馬鹿同士で好きになったりすると、多分何か起こった時に対処できなくなるかも知れない。

それに、自分と似たような相手には、あまり興味が湧かないこともある。三国志の世界に行ったのなら、多分張飛みたいに、何も考えずに大暴れしていただろう。そうなると、多分、孔明を尊敬することはあっても、好きになることは無かったに違いない。

「そう言う晃子は?」

「私も、どちらかというとみんな好き」

晃子はそう言って、静かに笑う。年よりもずっと大人びた笑みだが、言っていることは子供っぽい。ショートカットにしているからか、焼けたら遊んでいるように見えそうだなと、ふと千佳は思った。

そう言う意味でも、この娘はとても不自然で、アンバランスだ。

多分千佳も、周囲からはそう思われているのだろう。このロングヘアも、そろそろ邪魔になってきたかも知れない。

「強いて言うなら、私の場合、多分劉備かも」

「そうなんだ」

「三国志って面白い作品でね。 最初は劉備が好かれて、読んでいくと今度は嫌われていくの」

「どうして?」

三国志演義では、劉備は完璧超人的な聖人として書かれているからだと、晃子は言う。

しかし、正史に入ると、其処には英雄よりも人間の物語が広がっている。超人的な存在ではなく、乱世を生きた群雄としての劉備が出てくるのである。生きるためにはどんな汚いことでもやり、時には人をだましたり、裏切ったりもする、えげつない部分が、である。ギャップはあまりにも大きい。

それだけ厳しい時代であったのだと、千佳は思う。三国志演義が、三国志の綺麗な部分しか描写していないことはわかる。大人ではないが、もう子供でもないからだ。だが、それが故に。

大人としての劉備に感情移入するのならともかく、嫌ってしまうのはどうなのだろうと、感じてしまう。

「何だか、変な話だな」

「そうだね。 アイドルだってトイレに行くし、イケメン俳優だって家じゃ女の子の裸をインターネットで手当たり次第に見てにやにやしてるのにね」

「あー。 それで、劉備がどうして好きなの?」

「千佳と同じ。 自分にない所があるから。 劉備は懐が広くて、何でも受け容れてくれそう。 其処がいい」

この子、口を開いたら、こんなに辛辣だったのかと、千佳は驚いていた。確かにその通りなのだが、ちょっと意外である。

三国志好きは最近増えている。だが、女子人気があるのは、周瑜だとか趙雲だとか、いわゆる「イケメン」のイメージがある連中だと聞いたことがある。晃子と同じような理由で劉備を好いている人間は、殆どいないのではないか。

「何だか、枯れてるな。 夢見てない」

「そんなの、見る暇がない」

「何かあったの?」

「千佳が思ったようなことは、起きてないと思う」

図書館に来るのは、本もそうだが、千佳と話すのが楽しいからだ。少しずつ、心の中に入ってくるのが、とても面白い。

もっとも、向こうだって、きっと同じ事を考えているのだろう。

「せっかくだから、少し出かけるか? ちょっと疲れちゃったよ」

「いいよ。 でもあまり遠くは駄目」

「門限とかあるの?」

「あるよ。 六時」

中学生に対して、随分厳しい門限である。マジでと呟いたが、本当と応えられた。マジとは言ってくれなかった。少し惜しい。

家の位置を聞いてみると、此処からほど近い。門限五時というのは、一体どんな家なのか、興味はあった。だが、それならば。余計、何処かに連れ出した方が良いのではないかと、千佳は思った。

駅前に行く。

本屋に興味を示している晃子を引っ張って、先に。映画館があるのだが、六時が門限では無理か。

安くて良い喫茶店が幾つかある。

だが、その近くにある、ゲームセンターの方が面白そうだった。

昔は不良のたまり場だったゲームセンターも、今では方向転換を果たし、すっかりポップ系の場所に変わっている。とかいう話だ。昔のことを知らないので、何とも言えない。いわゆるモヒカンとかリーゼントとかの学ランを着た目つきの悪い高校生とかが、集団で店の中を闊歩していたのだろうか。

ゲーセンで困ったことは、一応無い。たまに不良も見かけるが、絡んでくることは殆ど無かった。

「少しあそぼう」

「わかった。 何する?」

そう言って、格闘ゲームを晃子は見ていた。

口を開けば開くほど、意外性があって面白い奴だった。

対戦格闘ゲームは、大人しか寄りつかない。だから、女子中学生二人が始めたのを見て、不思議そうに見る客もいた。

対戦型の駆体がずらりと並んでいた。殆どが同じゲームで、向かい合って座って遊ぶタイプだ。最近の格闘ゲームらしく、一人でも遊べるし、乱入という形で割り込み参戦も出来る。

開始したゲームについては、一応知っている。かなり長くゲーセンにおかれている、バランスの取れた作品である。近年ではシステムが加熱しすぎて、相当にやり込んだ人間しか触れることさえ許されないようなゲームも出てきているが、これに関しては、そんな事もない。素人同士が対戦するには充分な内容である。

といっても、この知識はネットで仕入れたものなので、触った分にはよくわからない。

ゲームはRPGが中心だ。アクションも少しはやったことがあるが、格闘ゲームはあまり遊んだことがない。とはいっても、家庭用のゲームの一つや二つでなら遊んだこともある。

むさくるしいおじさんの格闘家を選ぶ。胴衣を着ていて、口ひげを蓄えて、筋骨隆々。見た目、如何にも強そうだ。派手で薄着の女格闘家は、趣味に合わないのでパス。かといって、おっさんが好きな訳ではないのだが、単に思いつきからだ。ゲームを知っていても、内容まで詳しくは知らない。

一方で、晃子はすらりと背が高い半裸の男を選ぶ。肌を黒く焼いた、かなりの大男だ。しかも選ぶ時の選択に、殆ど迷いが無く、すっと進んだ。何だかいやな予感がする。

レバーを握って、ボタン操作を確認。何度か技を出してみて、大体把握は出来た。一方で、晃子が選んだ相手は、トリッキーなタイプらしい。まるで昆虫のような動きから、リーチの長い攻撃を何度か出してきた。

此方は、一応近距離から遠距離まで攻撃は出来る。軽く競り合って、攻撃を応酬して。そろそろ攻め込もうかなと思った瞬間、連打が来た。

まるで流れるような動きで、虫男が動く。

気がついた時には、KOされていた。

二回戦めは、いきなり突貫してきた。此方の技量を見極めた、と言うことか。

気がついた時には、其方もKOされていて。勝負はついた。三十秒も保たなかった。

「何、このゲーム、経験者?」

晃子が立ち上がり、にこりと笑みを浮かべてくる。

何だか、知れば知るほど、底が知れない奴だった。

負けたのに、単純に面白かった。多分技量に差がありすぎて、完膚無きまでに負けたので、却って気持ちが良かったのだろう。

他のゲームはどうだろう。

あまり小遣いは残っていないが、遊んでみるのも面白そうだった。

 

安心したのは、帰り道のことである。

晃子も万能ではない。

少し前から、この子が優れた運動神経を持っていることは分かっていた。頭も良いし、一見すると隙がない。

だが、ガンシューティングの類は普通に苦手だったし、クレーンゲームはもっと酷かった。

覚えるのも、それほど早くない。

つまり、努力を重ねて、技量を得ていると言うことだ。頭の方も、運動神経も、多分それは同じなのだろう。

門限まで、ぎりぎりだ。途中で別れると、少し早足で晃子は歩いていた。手をかざして、帰っていった方を見つめる。それにしても、面白い奴である。ちょっと後を付けてみた。もう夏とはいえ、だいぶ涼しい。そして、夜が来るのも早くなり始めている。

大きなお屋敷でもあるのかと思った。門限は早いし、趣味は渋い。

何処までも続く柵と、ばかでかい門扉とか。執事がいて、もちろんメイドさんもいて、でかい犬を飼っているのだとか。

想像しながら、晃子が行った先に歩く。

そうしたら、武家屋敷があった。

予想したのとは随分違った。壁は土だし、瓦屋根が続いている。入り口はそれなりに大きかったが、多分ヤクザの屋敷ではないだろう。監視カメラの類は着いていないし、周囲にぴりぴりした空気もない。

何だか、面白い。

歴史が好きなのも、この家が影響しているのだろうか。

それに、方向性こそ違うが、お金持ちなのは間違いなさそうだ。それもまた、何処か面白かった。

明日も図書館に行こう。

残暑が薄れつつある夏の夜、千佳はそう思った。

 

3、水のほとりと

 

いつもよりも早く目が醒めた。外では、ラジオ体操も始まっていない。

洗い終わっている食器を棚に入れて、洗濯機から取りだした衣服を外に干していく。小さな庭にある物干し竿には、程なく色とりどりの服が鈴なりに吊された。朝の空気が気持ちいい。もうすぐ学校が始まってしまうのが惜しいくらいだ。

弟が起きてきた。お菓子を食べようとするので、取り上げる。

「駄目」

「えー」

「ラジオ体操、行ってきな」

「ちぇーっ。 何だか母ちゃんが二人になったみたいだよ」

ぶつぶつ言いながら、弟が家を出て行く。もう着替えは一人で出来るようになっているし、近所でトラブルも起きていない。何一つ、心配することはないだろう。

昨晩、晃子に言われて借りた水滸伝の小説を読んだ。

本ばかり読んでいる。だが、頭にどんどん吸収されていくので、あまり気にはならない。図書館の外でずっと話していても、ネタが尽きなくなるほどだ。

かといって、最近増えている歴女、というのもまた違うのではないかと思っている。千佳が触れているのは、あくまで歴史を題材とした小説である。かといって、文系少女というのも何かしっくりこない。

朝ご飯を食べ終わると、自分も外に。

最初、暑くて仕方がないから図書館で過ごしていたのに。もうすっかり過ごしやすい気候になり、最初の大義名分は消えていた。代わりに、晃子と接するのが楽しくなってきている。

晃子が男の子だったら、話はもう少しこじれたのかも知れない。

しかし、同性であるから、気兼ねしなくてよい。それに、晃子は見ていて飽きが来ない。喋るだけがコミュニケーションではない。相手の中身を知ることも、コミュニケーションなのではないのか。

図書館に出向く。

風が気持ちよい。抱えている水滸伝の本はずっしりしているが、運動にもいい。夏休みの宿題はもう終わっているし、後はのんびり過ごしても良いのだが、体を鈍らせるのはいやだから、最低限動かしておきたかった。

図書館に着いた。

晃子はいない。昨日もそうだったが、開館と同時に来ている訳ではないらしい。開館したので、まず本を返す。奥の書架に歩く。

全く興味がなかった歴史関連の本が、今はとても輝いて見えた。

あまりにも難しい本は流石に読めないので、入門書らしいものを見繕う。宋について解説している本があったので、手に取ってみた。

パーティションに持っていく途中で、晃子が来た。

「おはよう。 早いね」

「うん。 色々話したかったから」

「水滸伝、楽しかった?」

「まあまあかな」

正直な話、三国志の方が、千佳には面白かった。

水滸伝は宋の時代を舞台に、腐敗した政府に、民間の英雄を中心とした「好漢」達が立ち向かう話である。

話は完全に支離滅裂。

以前にも聞いていたが、民間伝承を集めて作られた作品だと言うことはある。揚家将演義よりも酷い。

主人公は一定せず、どの話もオムニバス方式で継ぎ合わされたと思ったら、急に宋江という人物が現れる。そしてとてもではないが、反政府勢力の主を務められそうにないこの男が周囲からちやほやされ、梁山泊という要塞に立てこもる。周囲の人間達は皆宋江が大好きで、全ての行動が肯定される。そして、話は戦記物になっていくのである。

いずれのエピソードも別々の作品としか思えない内容で、現在との倫理観の違いもあってか、不快なシーンも幾つもあった。また、仙人の類も出てくるが、これは最初からエンターテイメントに徹しているせいか、此方に関してはあまり不快感はなかった。途中から無茶な方向転換をした揚家将とは随分違う。

ただし、全体的には独自の魅力があって、味のある作品だ。多分、ごった煮故の不思議な混合効果なのだろう。

やがて、深く皇帝に忠義を誓っていた宋江は、部下達と共に降伏。宋を乱す反乱勢力や外国を、片っ端からやっつけていくのだが、最後には自滅するような形で滅んでいくのであった。有名な108星が全滅する訳ではないのだが、司令部は全滅して、勢力としての梁山泊は壊滅してしまう。

それと、ようやくこれを読んで、もやもやが晴れたような気がする。

「何だか、すっきりした。 やっとわかった」

「何が?」

「みんなそうなんだけど、外国よりも、国内の腐った役人が、一番の敵なんだな」

「そう。 それが、現実」

中国の大衆文学の特色が、それだった。

そもそも中華圏は、遊牧民族によるジェノサイドレベルでの侵略を何度も受けている。また、近年に発生した対外的な国策もある。だから、勘違いしている人間も多いのだ。彼らにとって、悪は全て外から来ているという思想があるのだと。

大衆の心を現した文学を見ていると、それが間違いなのだとよくわかる。

良い例が揚家将演義だ。この作品では、何度も何度もしつこいくらいに繰り返される。外国から国を救った英雄が、腐敗役人によって貶められるのだ。それこそ、もう飽きて頭がくらくらしてくるほどに。

最初読んだ時には、何でこんなに繰り返すんだろうと思った。

水滸伝を読んで、よくわかった。

それだけ、古くから民衆が、腐敗に泣かされてきたのだと。

英雄達が、腐敗に殺されて、血涙を流しながら死んでいったのだと。

「勘違いしている人が多いんだけど、今はともかく、昔の中国の人達は知ってたの。 外国が攻めてきただけじゃ、国は滅ばないって。 国を滅ぼしてきたのは、いつも内部の腐敗した人間達なんだって」

「宦官と、外戚だっけ? 詳しくは知らないんだけど、どういう人達なの?」

「宦官は、宮廷の女の人達を世話するために、ちょんぎった人達のこと」

何を斬ったのだろうと小首を傾げたのだが、五秒ほどで気付いて、みるみる真っ赤になってしまう。

くすくすと笑う晃子。

「もう!」

「可愛い。 でも、静かにね」

図書館だったことを思い出して、口をつぐむ。晃子は落ち着いたのを見て取ると、言葉を続けた。

「外戚って言うのは、皇帝に妹とか娘とかを差し出して、権力を得た人達のこと。 どっちにしても共通しているのは、国のガンになったって事ね」

「よくわからないんだけど、どうしてそんな酷いことになっていたんだ?」

「一番の理由は、多分出世の近道がそれだったから、だと思う」

皇帝に自分の妹や娘を差し出すか。

或いは、皇帝のお気に入りの女性を世話する係に、生殖機能を喪失する引き替えになるか。

それによって、権力の中枢に、直接潜り込む事が出来たのだ。

もし皇帝や、そのお気に入りの女性に近付くことが出来れば、後は贅沢三昧が待っている。膨大な金銀が賄賂と一緒に流れ込み、軍事力も経済力も手に入れることが出来た。努力して出世してきた人達は一瞬で捻り潰され、専門家でもない人間が国を滅茶苦茶にしていく。

だから国は傾く。

そして、分裂と、異民族による一斉侵攻を招く。

「酷い話だね」

「だから、民衆もみんな怒ってた。 私、それを確認したかったの」

「え?」

「お父さんの受け売りなんだけど、大衆向けの文学って、そのまま大衆の心を示しているものなんだって。 水滸伝も三国志演義も揚家将演義も、それは全部同じなの。 だから三国志演義では民衆を大事にする劉備がひいきにされるし、水滸伝では悪が滅びることなく話が終わるし、揚家将演義では悪しき役人に英雄達の血涙が踏みにじられ続ける」

「あっ……!」

そうか。

やっと、わかった。

民衆が大衆文学に託していた、真の感情。

それは、願望と、絶望だったのだろう。

理想の英雄達が、自分の代わりに悪しき存在と戦ってくれる。三国志演義では劉備が民衆の希望を反映し、「悪の象徴」である曹操と戦い続ける。しかし、最終的には、敗れる。そして、滅びる。

他の大衆文学も、それは同じだったのだ。

もっともそれがくどい形で出てしまったのが、揚家将演義の、終盤部分だったのだろう。

そう思えると、何だか悲しくなってくる。

英雄達が血涙を流す物語では。

民も一緒になって血涙を流していたのではないのか。

「暮らしてる国は違っても、人間は人間なんだなって、こういう本を読むと思う」

「そういうのがわかってるんだったら、どうして繰り返して読んでたんだ?」

「……秘密」

わかったことは面白いが、晃子は肝心な部分を教えてくれなかった。

それからは水滸伝談義をした。

やはり、好きなキャラクターは、二人で見事に食い違った。

 

宋の歴史の本を読み終えた頃には、夕刻になっていた。

晃子はまるで図書館の一部になったように本を静かに読み続けていたが、千佳が席を立つと顔を上げた。一応、此方には気を配ってくれていたのかも知れない。今まで完全に静物と化していたのに、動くと生気を帯びるのだから面白い。

「帰るの?」

「もう夏休みも終わりだし、一緒に何処か行かないか? 明日辺り」

「明日?」

小首を傾げる。少しずつ無防備な部分を見せてくれている晃子は、いちいち全ての動作が楽しかった。

「せっかく色々教えてくれたし、お礼もしたい」

「別に良いけれど。 明日だけなら」

「そうか、良かった」

「?」

夏休みの思い出に、晃子は色々くれた。

さっき、大衆文学の秘めるものに気付いた時には、衝撃的だった。多分これを知っていたからこそ、晃子は覚えが悪い千佳に、念入りな誘導をしたのだろう。そのままの言葉では、伝わらないと思ったから。

恐らくは最も良い形で、千佳はそれを理解することが出来た。

だから、お礼をしたいのだ。

「何処か、行きたい所とか、あるか?」

「何、おごってくれるの?」

「割り勘」

「そんな事だろうと思った」

笑い合い、図書館を出る。カードは作ったが、次に借りるのは多分かなり先になるだろう。歴史にはとても深い興味を得ることが出来たが、夏休みが終われば学校だ。それからは、忙しくなってくる。

結局晃子は特に行きたい所もないという。

一つ、良い所を思いついた。

だから、それに決定する。

「明日、水着とサンダル持って、隣駅に集合。 そうだな、朝八時半」

「意外と早起きなのね」

「油断すると昼まで寝ちゃうからさ」

それなら、出かけた方がまだ建設的だと言うと、全面的に同意だと言われた。

隣町は、海の近くだ。

一度、忘れがたい思い出が出来た場所でもある。

別れて、自宅へ。一度だけ振り返ったが、昨日のように、家を見に行ったりはしなかった。

 

駅から電車に乗る。赤と白がツートンカラーになっている、柔らかい雰囲気の地方線だ。乗ってくる人数も少ない。ましてや今は夏休みの朝だ。

リュックに水着とサンダルと、最低限の装備だけ詰め込んできた千佳と違い、晃子はバスケットも持ってきていた。昼飯のつもりだろうか。それならそれで面白い。

二人とも、今日は動きやすさを重視してパンツルックだ。普段着はパンツ系が多い千佳は、今日は白系統で固めてきた。それに対して、晃子は以前見た変なシャツに、ショートパンツだ。ボーイッシュな格好だが、既に胸のふくらみは隠しようが無く、むしろ色気の萌芽を感じさせる。

「何で晃子って、ショートにしてるの?」

「長いと邪魔だから」

「うわ、タンパク」

「本当は、夫となる人間以外に媚びを売る必要はないって、言われてて。 歴史は好きだし、伝統も重んじたいんだけど、こればっかりはちょっと最近少し頭に来てるかな」

本音がぽろりと出たので、好ましい。

それにしても、それはちょっと錯誤的な思想だ。着飾りたいと思うのは女子の本能であって、それによって満足する部分も多い。自分を綺麗にすることは、単純に楽しいのである。もちろん男を誘うために着飾るような奴もいるだろうが、それはよほど男に飢えているか、或いは例外だ。

「お母さんとか、味方してくれないの?」

「もういないから」

「ごめん」

「いいってば。 離婚した訳じゃないから」

そうなると、若くして無くなったと言うことなのか。それは気の毒な話である。母が邪魔に思えて仕方がない時機も確かにあったが、もう反抗期らしきものは終わっている。今では、家庭に必要な存在なのだと、素直に理解も出来ている。

だから、同情心も湧いてくる。

隣で、晃子がすらりとした細い足を揺らしている。後何年かすれば、隣を通りがかった男の殆どが視線を釘付けにされてしまうだろう。それほど蠱惑的だ。髪を短くしていて正解かも知れない。元々晃子は顔の造作も整っている。女らしくしていたら、それだけでナンパが鬱陶しくて仕方がないか。

電車に揺られること、十分。

目的地に着いた。

何処までも広がる水平線。既に海水浴の時期を過ぎているので、クラゲだらけで泳げたものではないが、それでも美しい海だ。東京近郊の、ごみだらけの海とは根本的に違う。とはいっても、海に汚れが全くない訳でも無く、所々ゴミが散見された。

駅から降りると、すぐに海水浴の観光客を集金源にした街に出る。もっとも、既に時機は終わっているので、今は若干閑散としている。二人並んで歩いている千佳と晃子は、たまにすれ違う通行人の視線を集めていた。

この辺りは大陸棚が遠くまで続いていて、海水浴にはとても適している。

だが、その一方で岩場も多く、その辺りは海棲生物の宝庫ともなっていた。アメフラシやイソギンチャクも棲息していて、時には鮹を見かけることもある。

水着に着替えてから、砂浜に降りる。

ワンピースタイプの白い水着を着ていた晃子は、すらりとした体のラインがくっきり出ている。一応ビキニにしてきたのだが、ちと羨ましい。

何処までも続いている砂。点々としている煙草の吸い殻や空き缶。時々ボランティアが掃除しているが、それでも追いつかないのだろう。これでもモラルは世界的に見て高い方だというのだから恐れ入る。

並んで、しばらく無心に歩いた。

日光は心地よい。暑すぎず寒すぎず、肌にも穏やかな日差しが気持ちよかった。

反復する波の音。油断すると、眠くなってしまいそうだ。

「何処に行くの?」

「こっちだよ。 満ち潮は丁度今だから、多分これ以上潮が来ることもないし」

麦わら帽子とか似合いそうだなと思ったのだが、晃子はショートの髪を何度かなでつけながら、無心に歩いてきた。

「歩きにくい。 御爺様が近くにいたら、怒られそう。 歩法がなってない、とか」

「御爺様?」

「うちの当主だから。 今でも、様を付けなきゃいけないの」

「面倒だね」

歩法というのもよくわからないが、拳法か何かの関連だろうか。いずれにしても、あまり興味が持てない事だった。

素足の方が歩きやすいかとも思ったが、捨てられている割れた硝子瓶を見て考えを改める。怪我をしてしまっては元も子もない。何処の世の中にも、心ない輩はいるものである。

間もなく、岩礁が見えてきた。

砂浜にせり出すようにして、小さめの山がある。周辺は磯になっていて、その奥に、ちょっとしたものがあるのだ。

少し休んで、潮が引くのを待つ。

まだやっていた海の家があったので、焼きもろこしを買ってきた。露骨に不味いカレーやラーメンよりは、焼きたてのこれの方がましだ。しばらく防波堤の側に座って、二人で無心に焼きもろこしを頬張った。あまり美味しくはなかった。

時季がはずれているからかも知れないと、千佳は思った。

しばらく無言のまま、潮が引くのを待つ。

ほどなく、良い感じに岩礁が顔を見せ始めた。下手なプールよりも壮大な、水たまりもある。逃げ損ねて狭い水たまりの中で窮屈そうにしている、中型の魚もいた。イソギンチャクは、まるで梅干しのように縮んで、次の潮を待っている。小魚たちは慣れたもので、磯の中ですいすいと泳ぎ回っていた。

もろこしの芯を近くのゴミ箱に捨てる。芯はかなり囓り残しがある千佳に比べて、晃子のはとても綺麗に食べきられている。芯にも性格が出て面白い。

思う所があったか、晃子はその辺りのゴミも一緒に捨てていた。無言で、千佳もそれに加わる。どうせ暇だし、一緒に何かすると面白いからだ。

一時間くらい、辺りのゴミを一緒に片付けた。硝子の破片とか、危ないのも結構あった。多いのはアイスの棒や忘れ物らしい何かの切れ端とかで、分別すると結構な量となって、驚いた。

愚痴っても仕方がない。今、少し綺麗になったので、それで良しとすべきか。

「怪我はしてないか?」

「大丈夫」

「じゃ、行くか。 岩が滑るから気をつけてな」

「わかってる」

磯に行くのは初めてなのか、若干おっかなびっくりしているのが可愛い。磯に出ることが滅多にないというのも、珍しい話だ。近所に海があるのに、行かせてもらえなかったのだろうか。

フジツボがびっしりある岩を踏んで、奥に。赤い蟹が、岩の隙間からこっちをじっと見ていた。晃子が触ろうとしたが、すっと引っ込んでしまう。まあ、無理もない話だ。蟹から見れば、人間など恐竜も同じ。接触を避けるのは当然である。

「逃げられちゃった」

「ははは。 こっちだよ」

「待って」

手を引いて、岩の上に引っ張り上げる。

大岩が至近に聳え立っていた。ここからが、ちょっと面倒である。腰をかがめて這い蹲ると、ゆっくり降りる。潮が満ちている間は、この辺りは水没しているのだ。濡れているから、当然危ない。

だが、昔ほど危険を感じないのは、なぜなのだろう。

昔はもっと絶望的な高さで聳え立っていたようにも思えたのだが。多分、背が伸びたからなのだろう。

「膝、すりむかないように気をつけてな」

「わかってる」

下に、着いた。

雨上がりのように、浅い水たまりが点々としている。かと思うと、奥の方には其処がどす黒くて見えない深い水たまりがあったりして、ちょっとどきりとする。あれだけ大きくて深いと、何が奥に潜んでいても不思議ではない。

晃子もおり終えて、周囲を不安げに見回した。

「お、ちゃんとある」

「何が?」

「こっち」

岩の影。穴が開いている。

一応、大人が入れることは、以前確認した。まだ大人になっていない千佳と晃子なら、充分だろう。だが、少し手狭だ。

「潮が満ちてくると大変だから、急いで」

「うん。 中、水があるね」

「だから水着」

ひんやりとした水が、孔の中には溜まっている。膝の辺りまで水があって、ちょっとした探検気分だ。所々岩の上の方に穴が開いているので、懐中電灯は必要ないが、夕方くらいになるとかなり中は怖いことだろう。

ずっと前。

弟と一緒に此処に来たことがある。

その時は、満ち潮のタイミングを見誤って、大変だった。

今は満ち潮のタイミングもわかっているから、大丈夫だ。しっかりネットで昨日のうちに調べてきた。過信は出来ないが、ある程度は信用できる。引き潮のタイミングに関しては、完璧だった。

水が減ってきた。やがて、水から上がる。

一番奥に。

それはあった。

 

小さな洞窟の一番上。昔は背を伸ばしても届かなかった其処に、鎮座しているものがあった。

今も昔も変わらない。

幼い頃は手を伸ばしてもどうにもならなかったのだが、今なら触ることが出来るかも知れなかった。

後光。いや、違う。上の方に何カ所か孔が開いていて、其処から光が差し込んでいるのだ。

晃子は何も言わない。

「久し振りに来たなあ、此処にも」

「あれは?」

「さあ。 よくわからないけど、人工物では無いみたい」

それは、仏像にも見えた。

三角錐の、岩の塊。だが、顔のようなものもあり、体に思える部分もある。何より、座禅を組んでいるとしか思えない形が、素晴らしい。一つの芸術品として、それは確実に価値のあるものだった。

上から落ちてくる水滴が、岩の一部を少しずつ削って、出来たものなのだろう。

鍾乳石は形が変わるのに、気が遠くなるような年月が掛かると、何処だったかで聞いたことがある。

この辺りの石がどのような材質なのかはよくわからないが、それでも十年や二十年で出来たものではないはずだ。

しばらく、無言で石仏を見つめる。

それは、偉大な存在感をもって、其処にあった。

波の音が遠くに聞こえた。

この石仏は、闇の中で、何を見てきたのだろう。

こんな他の人間には知られない場所にあったからこそ、手が入らず、無事であったのだとも言える。

しかし、水滴が確実に形を変えていく中、石仏も不変ではいられない。

いずれ、溶けて消える運命だ。

晃子はずっと、石仏を見つめていた。

千佳は、晃子が満足してくれたらしいことを悟って、自分も嬉しかった。

どれくらい、静かにしていただろうか。晃子の腕をとって、促す。

そろそろ、潮が満ち始める時間だ。此処に閉じこめられると、かなり面倒なことになってくる。

外に出た。さっきは膝までだった水が、腿まで来ていた。外の水たまりも、かなり広がり始めている。深い闇の底を思わせる一番大きな水たまりは、倍以上に面積を拡大しているように見えた。

急いで登る。

何カ所かあった危ない所を登り終えると、既に下は一面の海になっていた。水たまりが全部つながったのだ。

石仏は水没しない。したとしても、別に何ともない。

だが、人間が水没したら死んでしまう。ちょっと緊張する瞬間であった。

ようやく安全な所まで出る。満ち潮時ほどではないが、かなり海が磯を侵食していて、イソギンチャクは元気に触手を伸ばしていた。さっき小さな水たまりに閉じこめられていた魚はもういない。さっさと広い水たまりに移ったのだろう。海まで行ったのかも知れなかった。

さっき、もろこしを食べた場所に戻って、座った。

「どうだった?」

「綺麗だった。 凄く」

「そう。 良かった」

短い会話だったが、心は伝わった。しばらく無言でいたが、やがて晃子から喋り始めた。

「夏休みの前ね、私が男子と喧嘩したの覚えてる?」

「ああ。 いつも何も喋らないのに、不思議だなと思ってた」

「歴史なんて、どうせ嘘ばっかりなんだろ、って言われてね」

したり顔で、そいつは言ったという。

為政者が適当に作ったのが歴史で、今伝わっているのは嘘ばかりなんだろうと。そんなものを知っていた所で、何の意味があるとか。

まあ、それでは晃子が怒るのも無理はない。

その男子の寝言は、最近流行りつつある考えだが。流行など、如何にくだらないかよくわかる言葉でもある。

そのように言う輩は、どれだけ歴史を知っているというのだろうか。千佳も不快になるくらいである。歴史に思い入れが強い晃子が、どれだけ頭に来たかは、わざわざ頭の中を覗かなくても明らかであった。

晃子は言う。歴史研究は多角的に行われるのが普通のことで、遺跡、遺構などの物証に加え、いわゆる正史と呼ばれる政府発行の歴史書だけではなく、当時の人間が書いた日記なども重視される。もちろん民間伝承や、時には民俗学まで協力し、真実に迫るのが、歴史学という学問なのだ。

それは素人が、嘘だ偽物だと一笑できるような代物ではない。そう言う連中は、学問の苦労を知らないだけだ。

正史に、権力者によるバイアスが掛かるのは当然の話だ。

だから、様々な側面情報から、その精度を上げるのである。

まあ、納得できる話だ。図書館で見ていた、晃子の真摯な読書と、それから得られる分析を見ていると、どう考えても彼女の方が正しい。膨大な下敷きがあってこそ、彼女の考えは支えられている。

良く本で囓った知識とかいうが、それさえない人間があまりにも無いのではないのだろうか。中途半端な知識は怪我の元だが、ゼロは死を招くだけである。情報弱者とは良く言ったものだ。

それを一切考慮せず、知ったかぶって歴史は嘘ばかりだとかほざくような輩は、まあ確かにひっぱたかれても文句は言えないだろう。確かに政府や愚かな思想の連中に金を貰って、阿るような屑学者は実在するだろう。だが、それは一部だ。

「でも、わからなくなってたんだ。 頭には来てたけど、本当にそれだけなのかって」

「え?」

「歴史の真実は、大衆文学にさえ残ってる。 でも、それはあくまで大河の一滴に過ぎなくて、ひょっとしたら全然別の出来事の結果を見ているんじゃないかって。 実際、研究の結果、定説がひっくり返された事なんて幾らでもあるんだもの」

父さんも、そうだったって、晃子は呟いて、膝に顔を埋めた。

何となく、わかってきた。

多分晃子は、歴史を馬鹿にされたことよりも、志半ばにして、研究していた定説を覆されてしまった父に対する侮辱を憤っていたのだろう。

だが、歴史的定説がひっくり返されたと言うことは、それだけ危うい部分もあるという事だ。

世間一般で、それを嘘と言うことも、あるのかも知れない。それで、晃子は苦しんでいるのだろう。

千佳も少し悩んだ。

だが、結論は、最初から決まっていた。

「パズルだな」

「え?」

「嘘じゃなくて、迷路みたいなパズルなんだよ。 だから、違う筋道に入っちゃって、結果として間違いに辿り着いちゃうこともあるんじゃないのか。 で、凄く複雑なパズルだから、解法もいろいろあって、時にはズルしたり、簡単な解釈を強引に試みようとしたりする奴も出てくるんじゃないのかな」

「面白いこと言うね」

それぐらいしか、千佳には思いつかなかった。

だが、この夏に。

ふとした切っ掛けで出来た友人は。それで、少しは溜飲が下がったようだった。図太いようで、意外と繊細な所もある。話していて、やはり飽きなかった。

波の音が、気持ちいい。

「ね、お願いがあるんだけど」

「何?」

「さっきの石仏、写真を撮りたいな。 明日、また一緒に来てくれる?」

「いいよ、そのくらい。 おやすい御用」

笑いあう。

夏の終わりは、もう間近に来ていた。

だが、晃子にとっての水のほとりのささやかな物語は、まだ続くのだろうと、千佳は思った。

それは自分にとっても同じだ。

夏が終わり、秋が来る。それは、歴史の流れの中で、ただ確実な未来として存在する出来事であった。

 

4、夏の終わり

 

大きく伸びをして、ベットで身を起こす。目を擦りながら、また長くなってきた髪をかき上げる。手入れが面倒だから、またすっぱり切っても良いのだが、しばらくは伸ばしていてもいい。周囲が五月蠅くなってきたのだ。子供っぽく見えるから、あまり短くするなと。

話によると、髪質も良いらしい。千佳には、別にどうでも良かった。また漠然と、手入れが面倒だなと思う。

ベットの脇の資料を押しのけて、眼鏡を取る。少し前から視力が落ち始めていて、これが必須になっている。無くても見えるのだが、本を読むには眼鏡がないとどうにもならなかった。

カレンダーに目をやる。

もう九月も終わりだ。明日からの授業に備えなければならない。最初の授業は、単位取得のためのもので、あまり好きではない。だが、好きなことばかりやっていられないのも辛い所だ。何しろ学費は親が出してくれているのだから。その辺、まるでわかっていない同級生が多くて、そのくせそう言うのがもてたりするので不思議である。同級生は子供っぽすぎて、あまり興味をもてない。かといって、周囲に魅力的な大人がいないのも、事実であった。

それなりの身繕いをして、外に出る。落ち着いた淡い水色のワンピースを着て外に出ると、気持ちがとても良かった。

日差しが柔らかいのだ。絶好の秋日和であった。

勉強に明け暮れた大学二年の夏休みが、終わったのだと、この時感じた。

晃子に影響を受けたからか、千佳はあれから歴史の道に進んだ。高校時代にも交流は続き、勉強も教えて貰って、国立の大学に無事合格。今では歴史学を中心に勉強を続けて、将来的には大学に残って研究を続けようと思っている。

夏休みも、大学の図書館に入り浸っていた。

流石に、国立大学の図書館は格が違う。一級資料だけでも膨大な量があり、発掘されていない文書も相当に多い。学生はとくだ。こんな優れた資料を見たい放題なのだから。本好きが高じて、特に最近は、日本の戦国時代の資料集めに凝っている。各地の博物館に足を運んでは、地元の名士が書いたような日記の原文に目を通すことが多くなっていた。

中学を終えた頃には、気がつけば、すっかり歴史にはまっていた。

今では歴史と生活を切り離すことなど、考えられない。

もう、これで飯を食っていきたいものだと、本気で考えているくらいである。それを後悔したことは一度もない。

晃子は千佳より少しランクが上の大学に通っていて、精力的に勉学を進めている様子だ。この間、一緒に遊びに行った時、懐かしい石仏の話をしてくれた。既に、酸いも甘いも知り尽くした親友である彼女は、静かな林道を一緒に歩きながら、とても面白い話をしてくれた。

「あの石仏って、象徴的だなって、今になると思うの」

「どういう意味で?」

「ただ、其処にあるって事で」

闇の中、人間には殆ど知られず佇む石仏。

接するは僅かな空気と、ささやかな光。

誰も知らない洞窟を通って、石仏と接した、千佳と晃子の行動。それは、歴史の真実に、無数の枝道を通って迫っていく作業に、とても近しいものが、確かにあるかも知れない。今でも大事な思い出だ。

多分、あの石仏に触れることは、さほど難しくない。

だがその手段は幾らでもある。科学的な調査もあるし、時には精神学的な論点からも見ることが出来るだろう。

それは歴史そのものだ。

相変わらず髪を短く切りそろえている晃子は、すっかり綺麗になっている。髪を長くすれば、さぞ男達の視線を集めることだろう。穏やかな雰囲気なのにボーイッシュな格好という不思議なセンスは未だに変わっておらず、大学の中ではそのギャップで有名だという。

「ただ、其処にあるものに、触れようとする学問か」

「お互い、難儀なものに惚れてしまったものね」

木々の間から、木漏れ日が差し込んでいたのは、ついこの間。八月の終わり。

不思議と、千佳はいつも夏の終わりに、印象的なことに会う。

そして、今も。

明日から大学。せっかくだから、何処かに出かけよう。

歴史は、いつも側にある。

それを教えてくれた、あの図書館に行くのもいい。

夏は終わった。

だが、まだ、不思議な時間は続いているのかも知れないのだから。

 

(終)