ファースト・コンタクト

 

序、選出者

 

地球人類が、ついに超光速宇宙航行技術を開発し、星の海に乗り出してから、およそ2000年の時が流れた。宝石のように輝いていた栄光の開拓時代からも1300年弱が経過している。宇宙進出すれば人類は精神的に進歩できるのではないかという楽観的な考えが、この時には既に消滅していたのは当然であったとも言える。

資源の消耗と人類の発展のどちらが速いか。そんなチキンレースにも近い状況に支えられた開拓時代が、資源惑星の効率よい発見方法と更なる長距離宇宙航行技術の発展によって終わってからというもの、人類は再び己の愚かさを競うような時代に突入している。歴史=戦争という時代である。銀河系に広く散らばった人類は無数の星間国家を建造し、他の生物などそっちのけで、時には星をも砕くような戦いを飽きることもなく始めた。やがてそれらの国家は徐々に統合していき、七つの強国が残った。状況が安定していくと、戦争ばかりしている国だけではなく、平和に包まれた国も誕生してくる。フォルトレート民主立国もその一つであった。

十三の惑星を抱えるフォルトレート星系。その第四惑星アルヴィナを首都星としたこの国は、最大の軍事力を持つ北部銀河連合と、斜陽の時を迎えながらもいまだ侮れぬ力と最大の版図を持つ地球共和国と親密な関係を結んでおり、永世中立国として他の国家のいずれとも友好関係を確保している。それを為している原動力は、二百五十億に達する七国家随一の人口と、何よりも豊富な資源である。

戦略的にもフォルトレートは有利で、どの大国も単独では極めて攻めにくい位置にあった。後は軍事的に油断せず、何カ国かが連携してこの国を攻めようとすることだけを警戒していればよい。何代か有能な総理大臣が続いている事もあり、誰もが認める最盛期に、この国はあった。

そんな平和な国だが、国民全てが豊かに暮らしているわけではない。人類の歴史上、貧富の差という物が途絶えた試しはないが、この平和な国でもそれは例外ではない。有名な辺境であるパズ星系第二惑星には広大なスラム街があるし、首都星アルヴィナにだって貧しい人は幾らでも住んでいる。

その一人が、現在密かに政府によって最重要人物としてマークされている十六歳の少女、タチバナ・S・キャムティールである。この人物こそ、人類とファーストコンタクトを果たしたエイリアンと、人類が共存できるか否かの実験として、もっとも重要なプロジェクトの実行要員として選び出された者であった。

 

1,貧乏少女の一日

 

いつもキャムは、ひもじい寝心地の中で夢を見る。その内容は決まっている。お腹一杯ご飯を食べるのだ。

年頃の他の少女はみんな好きな男の子の夢を見るとか聞いているが、キャムには食べ物が今のところもっとも恋しい。もし沢山喰わせてくれるのなら、男が居てもいい。男なんぞ、そんな程度の認識しかない相手だ。勿論、食べ物の次に恋しいのは、金だ。

今日も夢だと分かっているのに。とても虚しい行為だとどこかで分かっているのに。お腹一杯ご飯を食べる夢を、キャムは楽しんでいた。

あり得ないサイズの茶碗に盛られた白米のご飯を、もしゃもしゃと口に運ぶ。四口くらい食べた所で辺りを見回すが、食卓には彼女以外だれもいなかった。その代わりに、左右に立ち並ぶのはごはんごはんごはんごはんごはんごはん。湯気を立てる、粒がそれぞれ立った、絶品の白米ご飯の大軍団であった。

満足げに頷くと、ほっぺにご飯粒をつけたまま、キャムは更にごはんを口に掻き込む。味は全然しない。夢だと分かっているのだから、かも知れない。

茶碗一杯のご飯を丁寧に食べ終えてしまうと、次の茶碗に移る。ごはんごはんごはんごはんごはんごはん。幾らあっても足りない。せめて、夢の中では一杯一杯食べたいのだ。徐に二杯目のごはんを口に掻き込み始めたときに、夢が唐突に終わった。

頬に跳ね返る水滴。夢の内容を瞬間的に忘れてしまい、薄ぼんやりとした意識で天井を見る。また、雨漏りしていた。

ネコのように伸びをしてゆっくり体を起こす。継ぎ接ぎだらけのブルーのパジャマ。ちょっと体を起こしただけでぎっしぎっしと鳴るふるーいベット。目覚まし時計は、規定時間の五分前を指していた。ベットに腰掛けたまま、しばらくぼんやりしているも、じきにそれどころではなくなる。

「うひゃあっ!」

特大の水滴が、ただでさえ手入れが行き届いていない頭を直撃したのだ。目も一発で覚めた。ため息も出ない。雨なんて嫌いだと、キャムは思う。だが思う時間はほんの少しだけ。すぐに現実的な思考が頭を支配していく。

一軒家があるだけましじゃないか。そういい聞かせて、ベットを飛び出すと、ぱたぱた走る。茶碗を出してきて、雨漏りしている箇所の下に並べる。いつも同じ所で雨漏りするから、もうすっかり場所は分かってしまっている。

昨日のバイトの疲れは大体取れている。後は義務教育のハイスクールだが、日々溜まっている授業料を考えると気が重い。今後正社員として仕事に就くことが出来たとしても、その借金がずっと付いて廻るのだから当然だ。バイト代からも授業料が引かれているし、噂によると五十前にやっと義務教育の滞納金支払いが終わった者もいるという。学校なんて行きたくないけれど、この国で学歴がないということは仕事を見つけられないことに直結する。今はまだバイトがあるが、後何年もすればその口もなくなる。だから、今のうちに、必死に学校へ行っておかないといけないのだ。頬を叩いて完全に目を覚まし、早朝の戦い開始。

安売りで仕入れたトーストを加熱機にぶち込んでスイッチオン。歯車のような稼働音を背に洗面所へ走る。必要もないけど、兎に角走る。

割れた鏡の前で歯を磨く。二年前に買った古ぼけた歯ブラシで、水だけで。歯磨き粉などたまにしか使わない。自慢ではないが、今だ虫歯などやったこともないほどに、キャムの歯は健康そのものだ。水だけで、しかし丁寧に歯を磨き抜くと、お湯でぱつんぱつんにはねている髪を洗ってドライヤーで乾かして、さっとリボンで結ぶ。反発の強い髪は、束ねるとリボンに逆らうように、びょんと音を立てて、弾けるように広がった。タワシ頭と言われる所以だ。顔を洗ってタオルで拭く。割れている鏡に、元気いっぱいの自分の顔が映る。大きな瞳で丸い、美人とはとても言えないが、生命力溢れた顔。もうちょっと唇が薄いといいなと普段から思っているのだが、整形する金も、化粧品を買う余裕もないから、仕方がない。ちなみに、ニキビはない。ニキビが浮くほど、食べることが出来ないのだ。

狭い居間に飛び出す。三足しか持っていない靴下から選んで丁寧に履くと、素早く学校の制服に着替える。棍のブレザーで、目が覚めるように赤い大きなタイがチャームポイントだ。スカートは若干短めだが、これは何年か周期で長くなったり短くなったりしているそうである。不思議なことに、地球時代からずっと変わらず。

トーストが焼き上がる。安物のマーガリンを塗って、さっさと口へ放り込む。パンくずが付いた手指の先を舐めながら、少し汚したナイフをキッチンの水場に容れておく。ここで紫外線殺菌機でもあれば家事の手間がだいぶ省けるのだが、そうもいかない。今や家庭の八割に普及しているというそれも、キャムのお財布事情ではとても手が届かない高級品なのだ。

キャムが通っているのはアルヴィナ北極大陸にある第九十三国立ハイスクールで、生徒数はちょうど二千。どちらかと言えば貧しい境遇の子が多く、学費を滞納している子も少なからずいるのが、キャムにとって救いだった。同じ境遇の相手は理解しやすいし、友達にもなりやすいからである。ただ、キャムのように実の親と別居していて、生活費を全部自前で稼いでいる程の貧乏人には、いまだ会ったことがないが。

玄関から外へ。キーに指を押しつけ、黒い瞳をセンサーに見せて認証しロック。傘立てに一本だけ差してあるパステルブルーの傘を手に取る。背が低いキャムに併せた、小さい傘だ。悔しいのだが、ミドルスクールの二期生からキャムは殆ど背が伸びていない。結局今ではクラスでもっとも小さい。

振り返って、家を見上げる。積み木と言うには少しごつい作りの灰色の家だ。一般的な官給住宅で、所有だけは認められているが、勝手に売り買いすることは出来ない。このため、家は持っていても貧乏な人間が、この国にはわんさかいる。この国の有り余った経済力を使ってホームレス層を救済する政策が採られたことがあり、その名残だとか、キャムは聞いている。

屋根はセラミックの耐年トタン。耐年というわりには、もう雨漏りを始めている安物だ。赤い塗装も剥げ掛けていて、黒い中身が所々で見えている。壁は旧式のハーフセラミックコンクリート。何カ所かに蔦が巻き付いている。窓硝子は中強度ガラスで、二世代前の型式である。これがキャムの唯一の財産にして、孤独な住処。情婦の家に住み着いている父と別居を始めてからは、立体式の電子表札には一人分の名前しかない。即ち、タチバナ・S・キャムティール。

ミドルネームのSはスノウと発音し、この星間国家随一の富豪であるスノウ家と同じであるが、どうやら関係はないらしいとキャムは父から別居するより前に聞いたことがある。立花という名字からも日本人を先祖に持っているらしいと言う事も聞いてはいるが、自覚はない。というよりも、この時代の人間には、もう地球時代の先祖の国籍など、ほとんどどうでもよい代物に成り下がってしまっている。姓と名が逆転してしまっている例も少なくない。事実、キャムの友達の一人は、安藤という名前である。姓として使う方が一般的な文字だと、キャムは最近知った。

エメラルドブルーと言うには少しくすみすぎている髪の上で傘を広げると、キャムは学舎へ向かう。門扉を出るときには、もう明るく可愛い、過剰に元気の有り余った少女が其処にいる。

ハイスクールまでは坂道だ。道路の排水機能はフルに活動しているため、靴が濡れる以上の水は周囲にない。

外脇にずれればベルトウェイになっているのだが、体力を付けるためにもあえてキャムは車道ギリギリを歩く。健康志向のためにキャムと同じ事をする者もいるが、その殆どが中年から老人になる。事実、キャムの前にいた女子生徒も、ベルトウェイで悠々と学校へ向かっていた。しかも自動浮遊式のオートマティック傘に雨を遮らせ、自分は読書などしつつ、である。オート傘は世間一般の水準からは決して高級品ではないのだが、キャムにとっては手が届かない品だ。もっとお金持ちになってくると、遮雨フィールド発生装置を使って、晴れの日のように悠々と行く者もいる。

「おーっす、佳子! 今日はあいにくの天気だけど、元気かなっ!」

「おはよう、キャム。 その骨董品みたいな傘、まだ使っているの?」

「お金がないから仕方がないっしょ! んで、今日もまた読書? 何読んでるの?」

「今日は吉川英治先生。 結構面白いんだ」

ひょろりとした長身痩躯の佳子は、キャムの同級生だ。言葉の節々にさりげなく毒が混じるクールな文系少女で、読書が趣味である。好物は地球時代の歴史書らしく、特に日本史が好きらしい。本好きがたたって、今ではコンタクト無しでは外も歩くことが出来ない有様である。本と見れば歴史書からファッション雑誌まで見境がないため、年間三百冊以上読むという噂もある。

「そうかっ! 佳子は本の虫の中でも女王級! 例えるなら、メガネウラくらいの大きさがある本の虫だねっ!」

「ありがとう。 意味が良く分からないけど嬉しいよ」

八重歯をむき出しににこにこ笑うキャムに対して、佳子は殆ど笑顔を浮かべない。といよりも、表情を殆ど見せない。佳子の幼なじみであるジュンがそれについて一切口を開こうとしないので、キャムは深く追求しないことにしている。

二三下らない話をしているうちに、学校へ到着。コの字形をしたクリームホワイトの校舎で、へこみの部分に正門がある作りだ。何処にでもある、普通の学校である。

二千の生徒を抱える学校はこの国に無数にあり、「二千校」と陰口を交えて呼ばれている。理由はこの星に移民したての頃、都市計画の一端として政府が量産した教育施設であるためで、全く同じ作りの学校が全土に散在しているからだ。

そういうわけで、学校の設備は何処も同じである。体育館は三層で、球技階、水泳階、体操階に別れ、図書室の在庫は何処でも六万冊。校庭を掃除するアンドロイドまで同じデザインだ。このためかって校庭を掃除する目的で採用されたアンドロイドは、「二千校ロボ」と影で蔑称を付けられている有様である。

学年ごとに教室は18ずつ、必ず四階建てで、コの字の端っこに職員室があることでも共通している。転校した後も、学校で迷わないのが、唯一の利点であろうか。敢えて差別化を図る場合、教育に寄るしか方法がないため、教育自体は何処も評判がいいのが救いだ。

門番代わりに立っている警備アンドロイドに学生証を見せて入る。入り口のガラス戸は自動ドア化しているものと、手動で開閉するものが二通り用意されていて、キャムは手動ドアを、佳子は自動ドアを通る。ただ、十中八九自動ドアの方が混雑しているので、素早い行動を求めて、手動ドアを通る生徒も少なくない。

親指を指紋認証システムに押しつけて下駄箱を開け、上履きに履き替える。遠赤外線で殺菌されている上履きは、適度に暖められていて気持ちがいい。ただしこの遠赤外線殺菌式下駄箱を使う費用も、しっかり借金に計上されているため、キャムは素直に喜べない。

教室は2−F。ドバンと派手に音を立てて引き戸を開けると、キャムは有り余った元気を炸裂させる。

「おっす! 諸君っ! 今日も質が悪い天気だねっ!」

「おーっす」

「おはよー」

まだ席は三分の一しか埋まっていなかったし、そのうちの更に何分の一だけしかキャムに応えてくれない。だが、別にそんなことはどうでもいい。元気と愛嬌をばらまきながら窓際の自席に座って、指紋を隅の認証装置に押しつける。認証がすぐに終わり、ハンディコンピューターのウィンドウが立ち上がり、机引き出しのロックが外れる軽妙な音がする。

最初にすることは、いつも決まっている。机に設置されているハンディコンピューターを操作し、自分の管理下にある隣の窓をクリアモードにするのだ。どんより曇った空と、絶え間なく降り注ぐ空が映った。最初に窓をクリアにするのは、学校に来てからのいつもの日課だ。これはキャム本人にも作業の意味が分からない。単なる習慣である。

続いて、家計簿のチェック。今月の家計も、やはり厳しい。学校と官給住宅を比べると、若干学校の方が電気代が安いので、学校のパソコンでこういう作業をいつもしているのだ。

それもすぐに終わらせて、伸びをして天井を見つめる。睡眠学習が今日あるので、憂鬱である。兎に角効率的に覚えることが出来るのは良いのだが、この睡眠学習、終わった後に物凄く疲れるのだ。バイトで鍛え上げているキャムでさえそうなのだから、体力のない生徒などは熱を出してしまう事もある。だから週に一回しか行われず、中には睡眠学習を嫌がって仮病で休んでしまう生徒さえいる。だが、憂鬱さなど表には一切出さない。

にこにこしているキャムを見て、隣のおとなしい女子生徒、アン・ミラーが声を掛けてきた。キャムの次に背が低い、引っ込み思案で気力がほとんど無い子である。色素が薄目のブロンドも、気が弱そうな雰囲気を後押ししている。

「キャム、どうしてそんなに元気が有り余ってるの?」

「元気? そうだねー、おまいを頭からばりばりと喰うためだっ!」

「えー。 それ、赤ずきんでしょ? 怖いなーもう」

「えははははははー、ばれたか。 そうだねー、元気の秘訣は朝のごはんとバイトで鍛えた肉体と、何より愛と努力と根性かなっ! そこに返しきれないくらいの借金を加えると、このわたし、借金美少女キャムティールが誕生するのだっ!」

「あははははは、自分で美とかいっちゃだめだよ」

最初の方は結構キャムのガトリングガントークに反応して面白がる生徒が多かったのだが、最近は結構皆慣れたものである。周囲の数人が面白がっているばかりだ。そうこうするうちにおいおい生徒が教室に揃い、やがてチャイムが鳴った。先生が入ってきたときには、全ての席が埋まっていた。どうやら、今日は睡眠学習を嫌がって逃げた生徒はいなかったらしい。頭が禿げ上がった、97歳に達するユキルド先生は、朗々と声を張り上げた。今の時代、誰もが体に入れている医療用ナノマシンの効果で、元気満々だ。外見も、昔で言う六十代くらいに見える。

「朝礼を始めるぞー」

 

宇宙史と国史の授業が終わった後、いやーな睡眠学習の授業が始まる。睡眠学習とは、具体的には一週間分の授業の補填として行われる作業である。高速で睡眠状態にある脳へ、一週間分の学習を刷り込み直すのだ。これによって、生徒の学習の遅れは出にくいのだが、秀才肌の授業をきちんと把握し続けている人間以外は、かなり厳しい時間となる。脳の疲労が半端ではなく、終わった後には頭がぐらぐらするのだ。

連れだって皆で睡眠学習室へ歩く。それはどの二千校でも必ず決まって三階の隅にある。スキップさえしているキャムを除くと、どいつもこいつもみんな憂鬱や不満を隠そうともしていない。しかもこれを怠ると将来に露骨に響くので、嫌でも逃れられないのだ。一種の拷問に近い。

「いぃっちばあああんっ! とーちゃくっ!」

元気を炸裂させながらドアをドバンと派手に開けるキャム。教室の電気が自動でつく。

宇宙戦艦に積んである脱出用救命用に似た人体ギリギリサイズの睡眠学習ポットが、まるで墓場のように均一に並んでいる。周囲の照明は抑えられていて、湿気もほとんど無い。鼻歌を奏でながら、自分用のポットへ歩くキャムだが、内心はおかしくも何ともない。こういうときは有り余る自分の元気と火力に感謝しっぱなしである。

最後に来た先生が、話し込んでいた生徒達を教室へ入れ、戸を閉める。手を叩いて使用上の注意と、作業自体が監視されていることを説明する先生。はーいとやる気のない返事。それが終わると、皆嫌々ながらも、おいおいポットへ潜り込む。勿論キャムも、内心は嫌々ながら、表向きは元気にポットへ滑り込んだ。

ポットの中は本当に狭い。周囲はふわふわしていて柔らかいのだが、全身が入ったことを確認するとすぐにポットの戸が閉まって、辺りは闇へと代わる。赤い非常灯がつき、もぞもぞと体を動かしてヘルメットを被ると、アナウンスが流れる。

「体を楽にしてください」

「はいはーい、楽にしてまーす。 てゆーか、これいじょう楽にはできませーん」

ちくっと右腕に微痛。睡眠導入剤が注射されたのだ。昔は注射針等という恐ろしげなモノで血管にクスリを直接ぶち込んでいたらしいが、今ではスタンプ式の薬品投入が可能なため、痛みはほとんど無い。

クスリの効果は強烈で、殆ど一瞬で眠りに落ちる。目覚めるのも一瞬である。ポットの戸が上がる。そして頭はシェイクでもしていたかのように激しく痛い。この時ばかりは、流石のキャムも空元気を振り回す余裕がない。半身を起こして、しばしぼんやりしていると、他の生徒達もおいおい起きあがってきていた。

時計が一時間進んでいる。頭の中には、知識ががんがんに詰め込まれていて、耳の奥が気圧が代わったかのように鳴っている。青ざめた女子の一人が、トイレに駆け込んでいった。一方、平然としている子もいる。きちんと普段から勉強している秀才組だ。羨ましいなあなどと雑念を零したのがまずかった。立ち上がりかけたところでバランスを崩し、べしりと顔面から床に着地。だがバイトで鍛えているため、平気だ。柔らかく頑丈な体の持ち主であるキャムは、平然と顔を上げて這いずりながら立ち上がった。

長期記憶に刷り込まれたため、こんな程度では押し込まれた知識は消えない。トイレでげーげーやってる子だってそうだ。やはりこれは一種の拷問に違いない。しかし、これのお陰で人類の知的水準は種族レベルで向上し、そのため大いに発展したというデータに裏付けられた歴史的事実があるため、誰も文句は言えないのが現実だ。

アンは真っ青になっていてカプセルにもたれかかり、その隣で全然平気そうな佳子が文庫本を取りだして目を通し始めている。睡眠学習の後は昼休みが三十分延長されるというのが不文律になっていて、どうにか歩けるようになった生徒から順々に教室を出ていく。アンに肩を貸して、キャムが最後に教室を出た。扉をバタムと音を立てて閉めると、オートで鍵が掛かった。

「ごめんね、キャム」

「いいってば。 そ・れ・よ・り・も! いよいよ昼休みッ! 昼休みだっ! 憩いの時間ッ! 心のオアシス! 時のエルドラドッ! 今日は何のメニューがあるかな! 楽しみだねっ! わたしはもう腹が減りすぎて、今にもティランノサウルスとなって学校中の人間を食いつくしそうだっ!」

もうテンションが戻り始めているキャムは、アンを引っ張るようにして食堂へ急ぐ。食道の脇には六ヶ所に解凍装置があり、いずれもに行列が出来ていた。まあ、それほど長い行列でもないし、解消されるのもまた速い。四ヶ月前から全国的に配備された解凍装置は、給食用の大量生産冷凍食品を五秒半で元の状態へと戻す。生徒がやるのは、六種類用意されたメニューの中から選んで、解凍装置のスイッチポン。後は装置が勝手に全部やってくれ、五秒半後にトレーに乗ったほかほかの料理を生徒が手にするだけである。

ちなみにこの料理、原型となるものはきちんと手作りする。そしてそれをベースに色々な機械の手を経て全く同じものを増やすのだ。もっと小さかったときに、キャムも工場へ連れて行かれて、見学したことがある。料理が出来た横から、同じモノがぽこぽこ出来てくるのは、結構壮絶な光景であった。

一番右の列の最後に並ぶ。すぐに列は減っていくので、もう順番が来た。メニューの中から一番安いホワイトソースハンバーグを選んだキャムは、後ろに並んでいるアンに問う。

「アーンー。 今日は何にするー?」

「私はシチューで」

「ほいほーい、二人前ねー。 いつもながら、フタバスズキリュウのようによく食べるなっ!」

意味が良く分からないキャムの台詞にも、アンはにこにこし通しである。

穏やかなくせに、アンは物凄い大食娘である。給食は必ず毎回二人前頼むし、しかも肉類が大好きだ。食べ盛りの男子も驚くほどの速さで、しかもお上品にそれらを平らげる技術については、いつかキャムも真似したいと考えている。ついでに運動せずあれだけ食べてプロポーションを保つ技術も、である。キャムもその気になれば同じくらいは食べられるのだが、太るからやらないのだ。

肉類が大好きなアンに対して、キャムは殆ど食の好みがない。強いていえばご飯の方がパンよりも好きなくらいだ。だが、憧れるものは多い。とくに山盛りのご飯というモノは、夢に見るほどに好きだ。中華料理店系のバイトは、ご飯のまかない食が出る可能性が高いので、お気に入りである。一度財布や体重を気にしないで、思う存分食べてみたいと、キャムはいつも考えている。

「アーメン」

「いただきまーす」

向かい合って座ると、それぞれの形式で作り手に敬意を表して食事を開始。悲惨な開拓時代を経て、人類は食への感謝を取り戻しているのだ。ナプキンを汚してしまうキャムに対して、やはりアンのテーブルマナーはしっかりしている。ちなみに、佳子は此処にはいない。弁当を持ち込んで、いつも屋上で食べている。

テーブルの中央にあるモニターが不意に立ち上がる。重要な知らせの時などに、こういった連絡手段が執られることがある。今までほとんど見たことがなかったので、思わず手を止めるキャム。動きが止まった彼女を、モニターに映りこんだ、モノクロームを掛けた痩躯の老婆が叱責した。腹の底から響くような、恐ろしげな声だ。

「キャムティール!」

「ひいっ!」

周囲の生徒達も何事かと此方に視線を向けてきた。鬼婆とあだ名される校長は兎に角恐ろしい人として知られていて、逆らう事など思いも寄らない相手だった。さまざまなバイトをしてきたキャムも、いまだこの人より怖い人には会ったことがない。

どうにか震える声を絞り出したキャム。長口上は、勿論怖いからに決まっている。

「な、なんすか校長先生! 何だかゴキゲン斜めのようで、わたしが何か不始末でもしでかしやしたかっ!?」

「重要な話があります。 食事を終えたら校長室に来なさい。 それと、頬に付いている汚れはみっともないからすぐに拭きなさい!」

赤面してナプキンで顔を拭くキャムの前で、モニターは軽妙な駆動音と共にテーブルに沈み込んでいった。にやにやしながらこっちを見ている男子生徒の何人かを、視線で威圧。背は低いものの、天性の高い運動能力を持つ上に、バイトで幼い頃から鍛えているキャムは、ロースクールミドルスクール時代にさまざまな伝説を作ってきた猛者だ。喧嘩慣れしているし、そこそこ度胸もあるので、男子の殆どは怖がって近づいてこない。むすっとしてハンバーグに戻るが、ちらりと視線を向けると、もうアンは二つ目のシチューに取りかかっていた。

「アン、結構大きくなりそうだよねー」

「えー? もう流石に無理だよー」

「ナノマシンの影響で、三十くらいまで背が伸びた人もいるんでしょ? きっと今より二メートルくらい大きくなるに違いないっ! そして学校の天井をこすりながら歩いて、顔に電球をぶつけて悶絶したりするのだっ!」

「無理に決まってるでしょ? もー、滅茶苦茶なんだからー」

恐怖を押し殺すための軽口だと分かっていて、アンは付き合ってくれている。それを悟ったキャムは、心の中で親友に礼を言いながら、残りのハンバーグを旺盛にむしゃむしゃ平らげたのであった。

 

校長室の戸をノックすると、監視カメラが駆動音と共に動いて、顔を向けてくる。軽く黙礼すると、キャムは言った。

「あ、あの、きゃ、キャムティールです」

「入りなさい」

校長のドスが利いた低い声に、再びびくりと身がすくむ。

此方をちらちらと伺っている生徒が何人かいたので、視線で追い払い、戸を開けた。キャムには母の記憶はなく、その代わりになっていたメイドロボットも父について情婦の家に行ってしまった。それが故にかどうかは分からないのだが、年上の女性がとてつもなく苦手なのだ。特にこういうおっかない女性には、畏怖を感じてしまう。未知の物に対して感じる恐怖なのだろうと、キャムは自己分析しているが、当たっているかどうかは自分自身にも分からない。

校長室は手狭で、奥に校長の執務デスクがある。其方に座っている校長。それに見知らぬ方々が計六人いる。黒服の強面のおじさん達で、姿勢と言い、視線と言い、明らかにカタギではない。二重に吃驚して一歩退くキャムに、校長は眼鏡の奥の落ちくぼんだ目を容赦なく光らせた。

「この方達が、貴方に用があるそうです」

「ひいっ! いったいなんですかっ! わたしやくざ屋さんになんて何もしてませんってばあ! 殺さないでえ! コンクリ詰めにして宇宙に捨てないでえっ!」

落ち着きなさい!

炸裂した言葉に、真っ青になって硬直するキャムは、汗をだらだら流しながらはいと一言だけ応えた。大きくため息をつくと、校長は言う。

「この方達は、犯罪組織などではなく、政府の特務組織の方々です。 立派な公務員ですよ」

「は、はあ」

「貴方に用があるそうです。 今日の放課後、裏門で待っていてくださるそうなので、其方へ行きなさい。 バイトについては、わたしの方から断りの電話を入れておいてあげました」

「は、はい」

今、生活に関わるようなことをいわれた気がしたのだが、恐怖で真っ白になっていたキャムは、その半ば以上を聞き逃していた。どうにか理解出来たのは、兎に角、放課後に裏門に行かないと殺されると言うことだけだ。

そして校長室を後にして、教室で真っ白になっていたキャムは、いつのまにか放課後が来ているのに気付いた。隣のアンが、心配そうに声を掛けてくる。佳子はと言うと、冷酷に一瞥だけしてさっさと帰っていった。多分何か悪戯でもして怒られたと思っているのだろう。

「キャムー、大丈夫?」

「はい。 大丈夫じゃないような気がします」

「しっかりしてよー」

「はい、しっかりしてます」

かくかくと人形のように頷くキャムに呆れたのか、先に帰るねと言い残して、アンは去っていった。彼女は学校から出て家が真逆の方向にあるので、キャムとは帰れないのだ。キャムは一人になった。孤独になった。

家以外では、もう涙一つ零れない。ぼんやり沈み込んでいたキャムは、誰も見ていないのを確認してから、大きなため息をついた。こんな時は、いつもの空元気も、出てこなかった。

 

2,遭遇

 

いつの間にか、雨は止んでいた。都市に整備された排水機能によって、もう土は常時と代わらず乾いている。

本能とは恐ろしいもので、無意識のうちに足は裏門へ向いていた。教職員用の車が点在している中、明らかに異質な黒い車がある。見たところ防弾装備まで施されていて、しかも周囲に散って警備に当たっている黒服のおじさん達は、十人や二十人殺してそうな顔をしている者ばかりであった。恐いもの知らずのキャムだが、校長先生は怖い。本当は近寄りたくないが、従うしかない。

キャムが歩み寄っていくと、おじさん達はすぐに反応した。一斉に全員が振り向いたので、そのまま回れ右して逃げ出したくなった。校長先生に対する恐怖が、著しくキャムの思考を制限していた。本来だったら逃げるとか色々柔軟に考えられただろうに。本能的な恐怖を喚起されると、人とはこうも脆くなるのだ。

「あ、あの……」

「乗れ」

「はい、すいません。 乗らせて頂きます。 はい」

ぺこぺこ頭を下げながら、黒車の後部座席に。おじさん達もおいおい乗り込み、リニアモーター式の車体が僅かに浮き上がる。流石に政府の車両。音も衝撃も全くない。内側から見回すと、ガラスは予想よりも更に分厚いし、車体も重厚だ。結果、内部は案外狭い。その代わり、ミサイルでも跳ね返しそうな雰囲気である。

車が走り始める。殆ど同時に、右隣に座っていたごっついおじさんが布を取りだしてキャムの顔に巻き付けて、視界を封じた。更にヘッドホンを被せて、聴覚も封じる。キャムには分かる。逆らうなど思うも寄らない相手だと。だから身動き一つ出来ない。逆らうことだって出来ない。冷や汗をだらだら流すキャムの耳に、ヘッドホンからおじさんの声がした。

「行く場所を知らせるわけにはいかないのでな。 少し不便だが、我慢しろ」

「……本当に、わたし殺されないんですか?」

「態度次第だな」

いちいち怖すぎるドスが利いた声。もう全身分の水分を冷や汗にして流しきってしまったような気さえした。錯覚だと言い切れない。少し堅めのクッションが、より恐怖感を煽る。

何でこんな事になっているんだろう。自問自答が虚しく空に流れた。

必死にバイトして、少しでも生活を楽にしようとして。家事を補うために、メイドロボットか執事ロボットを置いているのが当たり前の現在、何もかも自分でやっているキャムのような人間は殆どいない。メイドロボットに代表される家庭用補助ロボットは値段が非常に安くなっていて、中古ならお金を貯めて高校生でも手に入れる事が可能な時代なのだ。

ホームレスがこの首都星で絶滅種になってから久しい。豊かな立国といえども、辺境に行けば幾らでもまだまだホームレスはいる。だが少なくとも首都星からは、「家を持たない貧民」は消えた。だがそれでも「貧民」という存在自体は消えることが無く、キャムはその一人だ。生活だけは出来ているが、それは巨大な借金に支えられていて、社会的に自立してからは延々と返済に追われる日が待っている。上級の将官か閣僚クラスの公務員、或いは中規模以上の企業役員にでもならなければ、返済できる金額ではない。父の分の借金も背負わされているのだから。こうやって何世代分もの借金を負わされる貧乏人は、一般には官給住宅チルドレンと言われる。官給住宅から一生逃げることが出来ないからだ。

ずっと貧しい生活は続く。逃れる術はない。希望というものが、キャムには無いのだ。それなのに、何でこんな怖い目に遭うのだろうか。酷い目に遭わなければならないのだろうか。

キャムは久しぶりに、恨みという感情が沸き上がってくるのを感じた。邪魔だからと言う理由で、キャムを置いて情婦の家に転がり込んだヒモの父に。父が所有者だからと言う理由で、キャムを見捨てて付いていったメイドロボットにも。必死に働くことで、無闇なテンションを保つことで押し殺してきたどす黒い感情が、涙と一緒に零れてくる。それは行き場が無く、自分の心の中で循環しながら、全てを腐食させていくのだ。

ヘッドホンからは、地球時代の無難なクラシックが流れ続けている。確かビバルディだったか。膝の上で固めた拳を、ぎゅっと握り込んでいるキャムは、必死に唇を噛んで叫び出しそうになるのをこらえていた。

不意に音楽が止まる。

ヘッドホンが外されて、視界を覆っていた布が取り去られる。涙を悟られないように、慌てて目を擦った。促されて車から降りると、其処は見たこともないビルの前だった。まるで墓石のような個性のない外見のビルで、見上げるほどに高い。芝生が一面に植えられた広大な敷地には帯銃した護衛兵がうろうろしていて、ビルの周囲を囲んでいる塀はずっと遠くに見える。身を隠すような場所も少なく、辺りには対空砲や対人レーザーまで設置されていて、走って逃げても百%蜂の巣にされる。塀にも多分電気ショックとかの仕掛けが施されているはずだ。おじさん達のリーダーらしい黒色人種の一番ごつくて怖そうな人が、警備兵のリーダーらしい人と敬礼して何か話し合っている。状況は悪くなる一方だった。これから何をされるのか見当も付かない。

生体兵器にでも改造されるのか。新薬の実験台にでもされるのか。頑強なだけが取り柄の自分の体を恨む。父だけでなく、自分の体や、今はそのへんの芝生にまで憎悪を感じてしまう。

ビルにはいる。中も警備兵だらけだった。銃を構えた警備兵三人と、黒服おじさん達に囲まれて、エレベーターに。九秒ほどで三十階に着き、長い廊下を歩いて小さな部屋へ。その間ずっと警備兵達は無表情だった。

部屋の中は程良い照明が気持ちよく、若干暖かめに室温が調整されている。俯いているキャムの背を軽く押しながら、おじさんの一人が言う。

「連れてきました」

「また、随分怖がらせてしまったようですね。 可哀想に」

「極秘任務ですので」

「相変わらずですね、マッケンリー大尉。 では、外に出ていてください。 命令あるまで待機」

「イエッサー!」

おじさんがキャムを一瞥して、すぐに部屋を出ていった。優しそうな女の人の声に顔を上げると、其処には何人かの人達と、デスクに着いている黒色人種の軍服のお姉さんがいた。随分と綺麗な人だ。綺麗と言っても色々な種類があるが、少なくとも安心できるタイプの美貌で、キャムは少し肩の力が抜けるのを感じた。

「其方に座って。 大丈夫よ、貴方には何もしないから」

流石にその言葉を頭から信じられるほどに、キャムは阿呆ではない。かけるように言われた椅子はちょっと背が高くて、少し苦労して座り込むと、改めて周りの人達を見る。

右側に男が二人、左側に女が二人。右に立つのは、やたら背が高い黄色人種系のお兄さんと、上品に口ひげを生やしたおじさん。どっちも何かの作り物かって思えるほど目鼻立ちが整っていて、感心してしまった。左側の子は多分キャムと同年代か。少し気が強そうなつり目の、ブラウンのカールが掛かった髪の女の子だ。他が皆正装なのに、どういう訳かこの子だけはフリフリの変なドレスを着ている。或いはこれが正装なのかも知れない。隣に立っているのはスーツを着た、如何にもキャリアウーマンと言った感じの女性で、縁のない眼鏡が綺麗である。

これが、今後数年間に渡ってキャムが振り回される相手、スキマ一家との出会いであった。

 

何が何だか分からない内に挨拶を済ます。家族らしい四人組は、それぞれ丁寧に挨拶すると、感じの良い笑顔を浮かべて部屋を去っていった。女の子などは、スカートを摘んで嫌みなほどに上品な礼をしていった。恐縮するばかりである。

後には女性の軍人と、キャムのみが残る。

キャムは高校を出てから軍属になることを、進路の一つとして考えていた。だから、少しだけ軍に対する知識もある。女性の胸に光っている蛇の勲章は佐官を示すもので、かなり高位の軍人である。平和なこの国で、若くして佐官になるのは大変なことだ。今の時代、どの国でも当たり前のように能力主義が取られている。その反面人の寿命は平均で百四十歳まで延び、更に老化による能力低下をサポートするシステムが発達している。それを考慮すると、若くして出世するのは本当に難しいのだ。年老いてからも衰えない人が多いので、経験の差がものを言うである。

「最初から説明しましょう。 まず、貴方はエイリアンについてはどう思いますか?」

「え? 何ですか、いきなり……」

「どう思いますか?」

「……わたしの知る限り、そんなのいません。 聞いたこともありません。 映画の中にしか、存在しないんじゃないですか、そんなの」

「ふふ、そうね。 それが普通の返答ね」

少しずつ心が持ち直してきたキャムは、この人の言動が、勘に触るものだと思った。見下しているとか、バカにしているとか、そう言うことではない。自分には知らない何かを知っていて、其処へ導こうとしているのが腹立つのだ。

睡眠学習システムが発展した現在、学問は決して庶民に手が届かない存在ではない。頭があまり良くないと思っている文系のキャムでさえ、十六歳現在にて微分方程式を軽々暗算で解くことが出来る。それが古代の人間にとっては、かなりの俊英に位置することを、キャムは把握している。頭が良い生徒に到っては、この年で超弦理論を数式レベルから理解している者だって少なくないのだ。末端まで浸透した豊富な知識と独創性を上手く利す事で、人類はロボットと職の棲み分けをしているのである。

だからこそ、分かる。エイリアンと人類が接触したことは、今までの歴史上、少なくとも公式にはない。さまざまな生物が宇宙では発見されてきてはいるが、最高のものでも犬程度の知性しかなく、エイリアンと認識はされていなかったはずだ。まさか、あの四人が、エイリアンだとでもいうのか。

「へえー。 驚いたわ、結構勘が鋭いのね」

「っ!?」

「失礼だけど、もう少し頭の可哀想な子だと思ってたわ。 ごめんなさい、認識を改めさせて貰うわね」

何も言っていない。何も言っていないのに。

キャムは恐怖と憎悪が同時に沸き上がるのを覚えていた。頭の中を読みとられたのかもしれない。軍の特殊な装備なのか、それとも噂に聞くサイキック能力者なのか。噂には聞くサイキックは、映画や小説の題材に良くなるものの、全人類併せても十人いないとかで、しかも実際に戦況に影響を及ぼすような力は皆無だと聞いているが。

「面白い子ね。 ただ顔色を読んだだけだから、安心して。 貴方の精神的なプライバシーまで侵す気は無いわ」

「……むー」

「機嫌を悪くしないで。 じゃあ、最初から順番に説明しましょうか」

「先に、名前教えてくれませんか? 名前が分からない状態だと、話しにくくってしょうがないですし」

「あらごめんなさい、キャムティールさん。 私はレイミティ中佐。 レイ中佐って略して呼んでくれて構わないわよ。 貴方を学校から護衛した特務小隊の指揮官をしているわ」

それだけで、さっきのおじさん達が如何におっかない人達なのか再確認できる。普通の小隊指揮官に佐官を当てることなどまずない。佐官と言えば、下手をすれば戦艦の艦長をするようなポジションで、数百名が属する連隊指揮官やおよそ二千名が属する旅団指揮官が普通だからだ。

レイ中佐がリモコンを操作すると、デスクの上に立体映像が出現する。学校の教材になるような立体映像とは比較にならない精度で、緻密で音質もいい。まだ少しふてくされていたキャムだが、やがて映像に取り込まれていった。

 

最初に映し出されたのは、地球の映像であった。地球は資源を乱用する必要が無くなった現在も、戦略上の重要な拠点であり、キャムも映像レベルでは何度も見たことがある。メルカトル図法で示された地球地図に、色分けがなされ、説明が始まる。

人類の歴史に、異文化レベルでの接触は何度もあった。その殆どが同じ人類同士での異文化接触であったが、結果はいつも同じであった。強い方による弱い方への侵略行為である。異文化を持った存在に、人類が種族レベルで敬意を払ったことは一度だってない。畏怖や物珍しさを感じることはあっても、である。

いわゆる大航海時代だって、貿易と、それ以上に金品の略奪行為が目的で始まったのだ。地球時代の、異文化接触の例が幾つか立体映像で示される。いずれも侵略、暴虐、虐殺、惨殺、搾取に殲滅、経済的破壊。既存の知識ではあったが、やっぱり何度見ても気分が悪い内容だ。人間は基本的に、異質な存在に敬意を払うという行為が、どうしても出来ないのである。

人間同士ですら、その有様なのだ。どうにか資源が尽きる前に超光速宇宙航行技術を開発し、星の海に乗り出した地球人類。だが異文明と接触したとき、侵略行為が起こるのは目に見えていた。エイリアンとの殲滅戦が起こることを危惧する学者は何名もいて、一時期何処の国の宇宙軍でも、そう言った場合の対処マニュアルが標準装備されていたのだそうである。中には有事における全国家の連合方式や、精鋭部隊を投入して敵の主星に核ミサイルを撃ち込む場合のマニュアルなどもあり、物騒な内容にキャムは早くも嫌気が差し始めていた。

キャムはこれでも平凡主義者だ。バイトでお金を貯めているのは、少しでも借金を減らして楽に暮らすためで、別にこの国の頂点に上ろうとか、人類の覇権を宇宙に確立する礎になろうとか、そんな事は一切考えていない。

映像が切り替わる。幸いと言うべきか、宇宙進出してから幾つかの星で生命が発見されてはいるが、そのいずれにも知的生物は含まれていなかった。知性を持つ生き物は何度か発見されているが、いずれもが文明を築くにはほど遠い存在で、人類は畏怖を感じることも殲滅する必要もなく、せいぜい研究材料として実験生物化するのがオチであった。土着の殺傷力が高いウイルスにだけ注意を払っていれば問題ない。今までは、少なくともそうだったのだ。

ここまで来れば、もうすでにキャムにも確信が出来ていた。どうやってエイリアンと人類が接触したのか。

映像が移り変わる。立国の辺境部はいまだ開発地域であるが、その少し先。とある星雲に足を踏み入れた調査船が、驚くべき信号をキャッチしたのである。それは地球人類式の、接触を求める信号であり、しかし何処の国の電波帯域とも違っていた。すぐに特務宇宙艦隊が派遣された。厳重な警備の元で、国内有数の学者達と精鋭部隊を載せた調査船が、電波の発信源に向かった。

こうして、ファーストコンタクトが為されたのである。

地球人類が扱うのとは大分形式が違う戦艦と、調査船がドッキングする。向こうは人類の言葉を既に調査把握済みのようで、翻訳の必要はなかったそうである。ただ、調査チームを驚かせたことが一つあった。

唖然と口を開けたままのキャムの前で、映像が途切れる。レイ中佐は同じような笑顔を保ったまま、言った。

「これが二十七年前の事。 侵略行為が起こらなかった最大の要因は、双方が欲する資源が違いすぎるって事だったの。 地球人類が求める資源はエイリアンの星系にはなかったし、エイリアン側も地球人類の領域に踏み込む理由がなかった。 それに彼らの科学力はかなり高い水準にあって、わざわざ戦争をしてもリスクばかりで、何の意味もない。 しかも彼らとは技術の体系が違いすぎて、地球側の技術にすぐに反映できるようなものでもない。 その上、そもそもどちらも資源には困っていなかった。 更に運がいいことに、軍事力で一二を争っていた法国と連合との決戦が行われ、法国の宇宙艦隊が壊滅的な損害を受けて各勢力の力が安定拮抗した時期だったという事もあった。 全ての条件が良いように作用して、五年ほど入念な調査と慎重な対話の結果、不幸な事態はどうにか避けることが出来たの。 そして他の六国の代表者も交えて協議した結果、選抜された人間を互いにホームステイさせる事が決まったのよ。 人類が本当の意味で初めて行う、究極的な所での異文化交流が、こうして始まったの」

レイ中佐の話は更に続く。かなりの話し上手で、キャムは全く退屈すると言うことがなかった。事の重大性が良く理解出来たという理由もあるだろう。

最初は双方重厚な監視の元で、事故が起こらないようにトップクラスの社会的地位を持つ人間同士が交流を図ったという。まず責任感の強さで知られる立国の総理大臣一家が最初にステイを受け入れた。エイリアン側も同じように立国の総理大臣一族のステイを受け入れた(具体的に一族の誰がホームステイしたかまでは、資料には無かった)。

三年間のステイが知らしめたのは、エイリアン側のモラルの高さである。郷に入れば郷に従えと言う言葉を完璧に実行し、自己文化の押しつけに近い行為は一切しなかったという。ただ、食文化を始めとする、どうしても克服できない溝も幾つかあって、それらを埋めるために更なるステイによる、実験的交流が必要だと双方の話し合いで決まった。

少しずつステイの数を増やし、徐々に社会的地位の低い人間同士での秘密裏ステイが開始された。今は第六期のステイが行われているのだという。何しろ生態のレベルで完全に異なる種同士のステイである。どんな事故が起こるか分からないし、監視には万全を期す必要がある。面従腹背的な隠蔽的侵略を危惧する学者もまだまだ多く、ステイは積極的かつ、慎重に重ねる必要があった。

そうしてキャムに白羽の矢が立ったのである。勿論第六期という事もあり、キャムだけがステイの相手として選ばれた訳ではない。他にも何組かの人間がステイ対象として選ばれているのだという。

キャムが選ばれた理由は大体分かるような気がする。兎に角タフだし、借金が多いし、一人暮らしをしているため束縛と監視が容易だ。その上学校以外での個人的な交友関係の密度が若干薄い。もし此処で別の家族がいる人間だと、そちらから情報が漏れる可能性が大きい。キャムに関しては、その恐れがない。

一通りの説明が終わった所で、キャムの前に紙が出される。読むようにと言われて目を通すと、色々なことが書いてあった。

ステイ期間は予定では三年。ただしキャムの家に住むのではなく、隣の空き官給住宅にさっきの一家四人が越してくる。もっとも、社会的な横のつながりが非常に薄い現在、キャムが積極的に関わらなければ彼らは誰の目にも触れないだろうから、ステイには充分な意味がある。

キャムの仕事は、彼らと友達として接し、同時に監視もすること。キャム以外にも、さっきの怖いおじさん達が常日頃から遠隔監視を行っているため、危険は少ないとか書いてある。さあ、どうだか。キャムは心の中で毒づく。むしろ問題は、一部学者によるテロだとか書いてある。事実未遂が何度かあったそうで、しかしいずれも特務部隊が実行前に阻止しているそうである。

任務のために、バイトは減らすこと。その代わり、キャムはこれより特務小隊の一員扱いとし、公務員として給金が支払われる。呈示されていたのは信じられない金額で、バイトを止める分の埋め合わせは充分だ。

その代わりと言ってはなんだが、家には何カ所かに監視カメラが設置される。ネット等のアクセスも全て監視される。だが任務が完了した暁には、キャムにかなり有利な条件で、軍若しくは公務員への就職斡旋を行う。ざっと将来的な予想給金を見ると、抱えている莫大な借金を返せる計算だ。

最大の重要事項は、誰にもこの任務を話さないこと。もしもこれを破るようなら、抹消措置を行う可能性があると資料には書かれていた。要は殺されると言うことだ。確かにキャムの任務の重要性から考えると、無理もない事である。

拒否する権利などあるわけがない。一種の洗脳によって記憶を消すことは可能だが、それも完全ではない。さっきのおじさんの言葉が脳裏に甦る。態度次第では殺さない。つまり、態度次第では殺すという事だ。

今まで、人生の岐路に立ったことは二度ある。母の病死と、父の家出だ。そのいずれもで、キャムは何一つすることが出来なかった。そして今、三度目の人生の岐路がキャムの前に広がっている。今回も同じだった。キャムは何もすることが出来ずに、運命の大きな奔流に押し流されるばかりではないか。

エイリアンの一家がどんな人達なのかはまだ分からない。分からないけれど、キャムは憂鬱だった。自分の非力と無能が悔しかった。社会的に半自立している以上、キャムはもう自分がガキではないと思っている。お金を自力で稼いで、生活だって全部自分でしてきた。少しは人間的に成長したとも思った。

それなのに。どうしてこうなるのだろうか。

社会的に半自立した状態だからこそ、絶対に逆らえないのが良く分かった。親の庇護化にいるハイスクールスチューデントだったら、プライドに死ぬと分かっていても啖呵を切って断っていたかも知れない。だが労働による金銭の授与という事の重要さを知ってしまっている今、社会的上位にいる人間の命令の重さを感じ取ってしまっている今、キャムの中に、逆らうという選択肢はなかった。

国の借金に支えられて生きているのが、キャムの現実だ。もしこれ以上借金が増えると、将来はすり切れるまで食事のためだけに働くことになる。恋愛ごっこなどしている暇はないだろうし、人生から娯楽そのものが消え失せる。低層高給職の内容から言って、三十まで生きることが出来ないだろう。

死にたくない。キャムは生命維持の大変さを良く知っているからこそに、そう思う。悲しいし、悔しいが、逆らうことは出来ないのだ。

話が付いた。

帰りは再びアイマスクとヘッドフォンを被せられて、学校の裏門へと帰される。エンジン音もなく走り去っていく車を見送ると、キャムは暫く空を見上げていた。

大人になったら、自分の道を選ぶことが出来ると思っていたのに。

だから必死に背伸びして、テンションも跳ね上げて、頑張ってきたのに。

全てが一度、折れてしまった気がした。

涙がこぼれる。ぐしぐしと乱暴に目を擦って、キャムは身を翻した。

 

3,新しい日常

 

嫌みなほどにさわやかな朝だった。家の中にもう一つ気配がなければ、もっと気分良く起きることが出来ただろうに。目が覚めてからも暫く朝日に当たってぼんやりしていたキャムは、いつものように張り切って一日を送ろうという気にもなれず、もそもそとベットから這い出す。最悪なことに、今日は土曜日で、学校は休みだ。しかもバイトは残らずキャンセル済みである。

パジャマのまま居間に出ると、キッチンに向かって作業をする背中が見えた。黒い髪の、エプロンを付けた後ろ姿。すらりとした長身。

政府から支給されたメイドロボットだ。名前はまだ付けていない。任務のためには家事の負担を減らす必要があると向こうが判断したために、昨日の内にもう送り込まれてきていたのである。当然、監視の意味もかねているだろう。

キャムはメイドロボットが大嫌いである。人間のように見えても、所詮ロボットだからだ。口に出しはしなかったが、内心母と慕っていたメイドロボットが「所有者権限」に従ってキャムを置いて去っていった事は、トラウマになって心に焼き付いている。しかも奴は、それ以来顔を出そうともしない。このメイドロボットの所有者はキャムになっているし、以前のようなことはもう起こらないとは分かっているが、それでも不愉快なのは仕方がない。

「おはようございます、マスタータチバナ」

「うん、おはよー……」

テーブルに料理を並べていくメイドロボット。見るからに美味しそうである。少し苛立ちを覚えながら、ずっと動かしていなかった家庭用コンピューターに手を伸ばして、振り込まれた金を確認。今後は学校で家計簿を弄らなくとも、一番安いご飯を頼まなくても大丈夫なくらいの金額が振り込まれている。コンピューターを落として、メイドロボットの顔を見て、二重にうんざり。

またしてもうんざりした理由は簡単だ。このメイドロボット、物凄く美人なのである。

キャムをオガサワラオオコウモリだとするとこのロボットは満天に輝くカニ大星雲位の美しさだろうとキャムは頭の中で計算した。意味不明な計算だが、事実それくらいの差があるのだ。出る所が出て引っ込む所は引っ込んでいて、目鼻立ちは作り物を感じさせない程度に整い、睫は長いし、髪は異様に艶やかだ。動作も表情も洗練されていて、大人の色気が全身から漂っていた。幼さが抜けきれない上に寸胴短足のキャムとは比較するのがそもそも間違っている。

セクサロイドをかねるメイドロボットもあると聞いてはいるが、それに近い容姿である。多分キャムが年上の女性を苦手だと調査済みで、無言の威圧を与えるためにこういった容姿のメイドロボットを用意したのだろう。悔しいが、何十枚も相手の方が上手である。

しゃくしゃくと音を立ててご飯を口に運ぶ。もの凄く腹立たしいことに、充分に美味しい。

キャムが手作りした方がまだまだ美味しい自信はある。これでも、中華料理屋でも洋食屋でもバイトしている身だ。だが、充分に食べられるほどに、メイドロボットの作った料理は美味しい。だからこそに、イライラは収まらない。むしろ今この瞬間も、ふつふつふつふつと湧きだしてくる。

学校の授業でも今は教えていることだが、ロボットというものの仕事は、人間が嫌がる事、若しくは実行しづらい事を代行することだ。ロボットの存在が普及してから、人類は有史以来続いた人身売買という悪習からようやく解放された。そして奴隷の忍苦はロボットによって代行されるようになった。つまり、人類は科学的に進歩し、能力的にもぐっと向上したが、精神的には数万年に渡って全く変化していない。単に嫌な仕事を積み上げた科学技術に押しつけてきただけなのだ。

最近の家庭用メイドロボットは性能が向上したため、あらかた人型であり、生体パーツで作られているものも少なくない。そして共通しているのは、暴力に対して抵抗もしないし、耐久力も高いと言うことである。ストレス発散用の道具としても計算して作られているのだ。暴力を振るわれた場合、わざわざ「痛そうな」動作を計算し尽くして行動するものまである。そしてロボットに対する暴力の公認が、人間同士の暴力を減らしているという統計もある。

勿論この美人のメイドロボットにも、暴力に耐える機構はついているだろう。昔、社会そのものに滞留する悪意のはけ口となっていたのは被差別民や仮想敵国だったが、今ではそれすらもロボットが一部代行しているのである。

そんな存在だからこそ、キャムはイライラする。そしてそのイライラは、きちんと目の前のロボットに伝わっていた。

笑顔を浮かべたままの「彼女」は微動だにしない。恐らく、無数のマニュアルを高速で反芻し、対応策を練っているに違いない。気むずかしい者や、暴力を嗜好する人間がマスターになることは珍しくもないし、そう言ったときに身を的確に保存し機械寿命を延ばす苦労がロボットには求められるからだ。当然作り手もそれを考慮して、膨大な対人コミュニケーションマニュアルをAIに組み込むのが普通だ。

考えるのも疲れてきたので、キャムは掌をふってロボットに言う。

「いいよ、家事だけしてくれれば。 わたしは君にそれ以上の、同居する人間としての仕事は要求していないし、ね」

「そうなのですか?」

「うん」

「日中は簡易業務を行って、ある程度収入を得ておくことも出来ますが、其方はどうしましょうか」

そういえばそうだった。最近の家庭用メイドロボットは、殆どの場合、時間が空いている日中に法で決められたロボット用の業務を行って維持費くらい自分で稼いでくる。基本的なスペックが高いので土木でも塗装でも配管でも何でもござれだ。だから工事現場などでは、幼い女の子の容姿を持つメイドロボットが鉄骨を担いで働いていたりする。勿論、マスターの意志があればの話だが。

「其方はお願い。 業務は適当に任せるよ。 ただ、稼ぐのは本当に維持費だけでいい」

これは、意地だ。女性に寄生し娘に借金を押しつけてのうのうと生きている父と同じ存在になりたくないのである。学校ではお茶らけてばかりのキャムだが、その一方で「肉親」に対する憎悪は海より深く溶岩よりもなお熱い。

政府に無理矢理仕事を押しつけられたとは言え、今後も生活費そのものは、自分の能力で稼ぐつもりだった。

「了解しました。 マスタータチバナ」

「あ、そうだ。 名前、忘れてたっけ」

妙な造語センスを持ち、意味不明な例えを瞬時に作り出すキャムだが、この時は珍しく逡巡した。

このメイドロボットを家族にはしたくない。だからタチバナやスノウという字を名前に入れるのは論外。名前も自分と似たのは嫌だ。だが、あまり気の毒な名前を付けるのも嫌だ。このメイドロボットが、「メイドロボットである」という事自体にキャムは不快感を感じているので、非人間的な名前も却下。ロボットには分かりやすくするため単語の名前を付けることが多く、それを排除する。しばらく考え抜いた挙げ句、キャムは言った。

「じゃあ「フォルトナ」ね。 これからフォルトナって呼ぶから、よろしくお願い」

「分かりました。 マスタータチバナ」

「んー」

適当に受け答えながら、キャムは洗面所に入って、服を脱ぐ。シャワーのスイッチを押して、程良い熱さのお湯を浴びながら、壁面に設置されたコンピューター端末に手を伸ばす。早くいつものテンションを戻さないといけない。どうにか最初のハードルは片づいた。しかし、これからもっと大きな懸案事項が待っているのだ。

今日は土曜日であり、向こうは首を長くしてキャムの到来を待っているだろう。或いは光栄にも歓迎してくれるつもりかも知れないが、どっちにしてもある程度の覚悟は必要になってくる。

よそ行きの服なんて上等なものは持っていないので、振り込まれた給料から予算を見積もって、ある程度ちゃんとした服を捜す。これでも余所でいつも働いているキャムだから、どんな格好が「普通」だとか「ちゃんとしている」だとかはきちんと判断が出来る。サイズを併せて注文。生活費を素早く頭の中で計算しながら、キャムはついでに靴下を何足かついでに注文しておいた。

お湯を止める。何とか頭はさっぱりした。そういえばバスタオルも殆どがすり切れかけていたのを思い出して、そっちも注文しておけば良かったと、キャムは思った。

 

一時間もしない内に届いた衣類をフォルトナに受け取らせて、自室でパジャマのままぼんやりしていたキャムであったが、時間を見て出かける事にした。朝十時になっている。話によると、生活時間はもうこの星の中流家庭の一般的常識に併せてもらっているそうなので、今から行っても食事中に鉢合わせという事はないだろう。

新しいニーソに足を通して、買ったばかりのシューズを履く。新しい靴特有の、いい匂いがした。膝上少しの短めの赤いスカートと、袖周りが綺麗なクリームレモン色の上着。どっからみても元気で機動力のありそうな女の子だ。鏡に映して、キャムは満足した。ギガノトサウルスと対峙するスティラコサウルスくらいには決まっている。どうにかテンションを保てそうである。外に出ると、昨日の天気が嘘のように、さわやかに晴れていた。不愉快だ。これなら、まだ土砂降りの方が気分がいい。

ドアの鍵を閉じかけて止めた。そういえば今日はフォルトナがいる。ああいうメイドロボットは防犯用の能力も備えていて、キャムよりはマシに家を守り抜くだろう。やっぱり不愉快だ。小石一つ落ちていない家の前の道路に出ると、隣の家を見上げる。キャムの家の両隣の内、片方は公園になっていて、隣と言えばエイリアン一家の家しかない。しかも今時、引っ越して近所に挨拶回りなどする人はいないから(気が利いたところでメイドロボットに廻らせるくらいか)、多分エイリアン一家が住み始めたことに気付いた近隣住民などいないのではあるまいか。

意を決して歩き出そうとしたキャムの隣を、通行人が通り過ぎた。帽子を目深に被っていたが、よく見ると昨日の怖いおじさん達の一人だった。負けるものか。テンションを振り絞って、無理矢理腹の奥から元気をひねり出すと、小走りで隣の家へ。スキマ一家と表札が書いてある立派な門扉を開けて、チャイムを押す。はーいと甲高い返事が返ってきた。声を聞くのは初めてだが、多分あのフリフリドレスの女の子だろう。ぱたぱたと走ってくる音がする。キャムは笑顔を作って、ドアが開いたときの印象を良くしようと思ったが、失敗した。

ドアを開けたその子は、ピンク色の染み一つ無いきめ細かい肌に、真っ白な下着だけである。同性のキャムでも見る間に真っ赤になるほどエロい。本来の姿を知っているとしてもだ。

「あら、おはようございます。 随分早かった……」

「……。 ちょ、ちょ、ちょっとぉっ! 服、服ッ! 服着てっ! 今すぐっ!」

「服? これって室内着ではありませんの?」

「違うッ! 早く、ドア閉めてドアっ!」

「あん。 何ですの? もう」

家に押し込むようにして女の子を押して、後ろ手で慌ててドアを閉める。通行人を装っていたあのおじさんが、視界の隅で苦笑していた。床にへたり込んで唖然としていたキャムを、膝を抱えて覗き込みながら、女の子が無邪気に宣う。

「地球人類の文明で体表面を晒すのを避けるのは、異性に無意味に性欲をかき立てさせるからだと学習しましたが、何故貴方が真っ赤になっていますの? 或いはこの衣服の付け方が間違っていましたでしょうか」

流石にその受け答えを聞いて、キャムは気が遠くなるのを感じていた。だ、だめだ。これは予想以上にダメだ。頭の中でそんな声が反響する。

まさか男性陣や母親もこんな格好なのかと思い、真っ赤になる前に真っ青になったキャムが顔を上げると、其処には父親らしいヒゲのダンディーなおじ様が。問題はない。休日の自宅なのにどーゆーわけかスーツ姿をガチガチに固めている、その不可思議を除けば。一体どういう地球文明に関する説明を受けたのだろうか。

「どうしたのだね、キャムティール君。 そのような場所に蹲ったりして」

「あら、エルデアルデ。 玄関に出たら、突然この有様ですのよ。 立体映像の通り付けてみたのに、何かまずかったのでしょうか」

「さあ、僕には何ともいえないねえ。 キャムティール君に聞くしかないだろう」

「それが、不意に黙り込んでしまわれまして」

あーでもないこーでもないとキャムの頭上で為される会話。考えてみれば、彼らに罪はない。異文化交流を行った時に、摩擦が生じるのは当たり前だ。悪いのは、ステイをする際に、きちんとした説明を行わなかった政府だ。

折角高めたテンションが、どこかへ飛んでいってしまった。

 

居間の長いソファに向かい合って座る。悶着の後、少女にちゃんと上着を着て貰って、キャムは一安心した。昨日と同じフリフリドレスだが、それはもういい。ちなみに少女の母らしい人は、これもどういう訳なのか黒のイブニングドレスらしいものを着込んでいる。眼鏡が似合うバリバリのキャリアウーマンっぽい容姿の人がそんなものを着ていると、妙な違和感があるが、別にそれは良い。それは良いのだ。問題が別にある。

少女の姿をした方の名前はフィルアルドスルススルーフさん。ルーフさんと呼んで良いかと聞いたら、あっさり承諾された。何でも「十九の世代を重ねた偉大なる母胎」という意味の言葉だそうである。ダンディーなおじ様はさっきも名前をちょっと聞いたが、エルデアルデフォートさん。「年若き三世代を重ねた伸び盛りの心」という意味なのだそうだ。フォートさんと呼んで良いかと聞いたら、エルさんにしてくれと言われたので、そうすることにする。付け加えられた所に寄ると、フォートは名前の中でももっともどうでも良い部分なのだそうである。

イブニングドレスを着ている母親らしい人の名前はククルームルさん。「まだ若き二世代目の月」という意味だそうである。ルームルと呼んで欲しいという事であった。

ルーフさんが身振り手振りを併せて、自分たちの説明を始める。彼らは名前を自分の素性に合わせているため、場合によっては年ごとに名前が変わる。そこで名前の一部だけは不動とし、それを「ユーツ」と呼ぶ。そのユーツを呼び合うのが一般的な習慣なのだそうである。そして関係が近しいほどに、ユーツ以上に長い部分を呼び合うのだそうだ。フルネームで呼ぶことを許すのは恋人だけなのだとか。

そこまで言われて、スカートを抑えながら思い当たる。

「あれ? ひょっとすると、そうなると……」

「そうなると、どうですの?」

「ひょっとして、ルーフさんが一番年上?」

「年上も何も、わたくしが今部屋中で寝ているシャルハフォートラの妻で、この子達の親ですわ」

ぐらり。意識が音を立てて揺れる。

流石にこれは効いた。意識が遠のきかけるが、どうにか揺り戻しを利用して定位置に立て直す。

そして、発作的に気付いた。幾ら何でもこれはおかしい。こんな状況が来る可能性は一つである。頭に血が登る。流石にこれは、聞き直しておかないと気が済まない。膨大な怒りが沸き上がってくる。それが恐怖を心の隅へと押しのけていく。たがが外れる。頭の中の、怒りという名の火山が水蒸気爆発した。

スキマ一家に断って、床を出来るだけ踏まないようにして家を出る。自宅に飛び込むと、教わっているレイ中佐の電話番号をプッシュ。三コールででたレイ中佐は、頭にタオルを巻いていた。シャワーでも浴びていたのか。

「どうしたの、こんな朝っぱらから」

「どうしたも何もっ! よくもわたしに大事なことを隠してたなああっ!」

「どういう意味だか良く分からないのだけれど、言ってご覧なさい?」

流石に若くして佐官を務めているだけあり、夜叉が如きキャムの形相にも動じない。激高していても変な表現が口から飛び出すキャムは、相手に反論の隙を与えぬほどの勢いでまくし立てた。校長が相手では無いという状況も、彼女の勇気を萎えさせない要因の一つであった。

「いわせてもらう! 今だからこそいわせてもらうぞっ! 殆どステイに必要な文明レベルでの予備知識をスキマ一家に渡してないだろっ! わたしにも彼らの知識を渡してないっ! しかも意図的に! わたしたちで、実験するつもりだなっ!」

「あら、気付くのが結構早かったわね。 貴方、将来は多分実力で結構高い地位まで昇り付けることが出来るわよ」

「……っ!」

「まずは落ち着きなさい。 今が六世代目のステイ交換だっていう話は最初にしたでしょう? 今回のステイは、予備知識がない相手同士で交流がきちんともてるかどうか、という実験の前段階よ。 勿論双方の政府が承諾済みの、ね。 貴方に渡している給料が多めなのも、それに参加する負担を考えてのことなの」

あっさり認めたレイ中佐は、ステイの概要を話した瞬間にスキマ一家は目的を理解したとも付け加えた。怒りのぶつけどころが見付からないキャムは、レイ中佐の笑顔を見ながら、呆然とするばかりだった。

「彼らと交流しなさい。 これは上司命令よ。 貴方は常に監視されていることを忘れないように。 交流時間を計算して、もしもサボっているようなら、給料からある程度さっ引くこともありますからね」

そして、確実に急所を突いてくる。急に止めた以上、しばらくバイト先は無いだろうし、もしこの任務から外されたら、キャムは更に多額の借金に押しつぶされることになる。レイ中佐はこれ以上追い討ちする必要はないと悟ったのか、向こうから電話を切った。テレビ電話の立体画面が消え去り、やり場のない怒りは頭の中でしばし右往左往していた。

「キャムティールさん?」

「ひいっ!」

いきなり窓の外から飛んできた声に、振り返ったキャムは悲鳴を上げていた。玄関側の大窓に逆さに張り付いたルーフさんが、怪訝そうに此方を見ていたからだ。反重力でも備えているのか、ひらひらのスカートは破れ傘状態になっておらず、おみ足にしっかり張り付いていらっしゃる。

「大声を出していたので、心配して見に来ただけですのよ。 何かわたくしの顔についていまして?」

大人の事情に晒されて育ったキャムは嘘を聞き分けるのがとても上手だ。だからこそ分かるが、この人の言葉に嘘はなく、本音から心配してくれている。多分この人はいい人なのだろうと、キャムは思う。でも、どうしたら説明できるのか、良く分からなかった。

がりがりと頭を掻く。爪に血が付くほど強く掻く。耳が焼け付きそうに熱い。視界が真っ赤に染まっていく。心労が重なり、やり場のない怒りがたまり、精神のコントロールを失った肉体もまた調整しきれなくなる。何時の間にか壁に背中を預けていた。呼吸が荒くなってくる。分泌しすぎた脳内物質が処理しきれなくなり、ついに意識の線がきれた。

どんな暑い日に外を遊び回ってもびくともしなかったキャムなのに。あっさり意識を手放していた。視界が下に強制移動し、それっきり何も分からなくなっていた。

 

4,夕闇

 

ベットの上で意識が戻ると、夕方だった。この星の夕日は地球と同じ紅蓮で、観光の目玉にもなっている。血色に染まる一瞬の夕方は、確かに美しい。ベットに寝ていたと言うことは、多分フォルトナかルーフさんが処置をしてくれたのだろう。頭がまだ痛い。ベットの隣に座っていた彼女が、計算し尽くした優しい笑顔を向けてくる。作り物だと分かっていても、どうしてか胸が熱くなる。目の下の泣きぼくろが綺麗だ。

やっぱり知らないものに対しては怖い。同時に憧れてもいるんだ。自覚させられる。

「マスター、お目覚めになられましたか」

「……ルーフさんは?」

「下の部屋でテレビを見ていらっしゃいます」

所詮はロボットか。キャムは少し冷酷にそう考えた。助けてくれたのはフォルトナなのかルーフさんなのか、と聞いたのだが、直接的な表現でなければ通じなかったか。だが、フォルトナがルーフさんに上がって貰った事だけは評価できた。今よりももっと融通の利かない昔のロボットだったら、追い返していただろう。

爪を見ると、綺麗になっている。血が出るくらい強く掻いたし、髪の毛が爪の間に挟まる感触があったのだけれど。こういう所はロボットらしく芸が細かいなと思いながら、体を起こす。背中が少し痛い。足を動かしてみるが、僅かにしびれがある。少しためらってから、フォルトナの方を見ないで言った。

「肩、貸して。 階段降りるから」

「まだ寝ていた方が良いと思います」

「いいから」

「……分かりました」

何でルーフさんがテレビを見ているのか、事情が理解出来た現在は、大体分かる。見たところ、彼女が今回のステイのエイリアン側リーダーだ。だから必死に人類を勉強しているのだ。色々間違ってはいるが、それは仕方のないことである。同じ状況に置かれた場合、キャムだって似たような失敗を幾らでもするだろう。

思えば、エイリアンの種族名さえ知らされていない。キャムの方こそ、彼らに失礼なことを散々している可能性が極めて高いのだ。それに対して、彼らは吃驚することさえしたが、失礼なことは一つもしていない。それどころか、ある程度勉強して出てきてくれているのではないか。キャムは急に任務を押しつけられて、気が動転していたという事情もあるが、言い訳にならない。そればかりか、心配して見に来てくれたルーフさんの挙動に吃驚して、気絶するとは。無礼千万と言われても仕方がない。

階段を下りきると、フォルトナから肩を外して、歩き出す。部屋にはいると、体はテレビの方へ向いたまま、ぐるりと音を立ててルーフさんが顔だけこっちを向いた。エイリアンの特色だけは知っているキャムは、どうにか驚かずに済ませることが出来た。

首を戻すと、立ち上がってスカートを摘み、大げさに礼をするルーフさん。誠意は痛いほど伝わってくる。

これは、自分に出来る限りに、もっとも敬意を込めて返礼するしかないだろう。

「大丈夫でしたの? 思考中枢に大きな負担がかかっていたようですけれど」

「……」

「?」

「……あははははははは、だいじょーぶじょぶじょぶ。 それよりも、色々ごめんなさい、ルーフさん。 わたし、色々勘違いしてたみたいで。 魚を強奪するグンカンドリみたいに非礼だったよ。 ホントごめんなさい」

「……それはわたくしもおなじですわ。 さあ、もう頭を下げないでくださいな」

びしっと音を立てて踵を揃え、45°の綺麗な礼をしたキャムに、ルーフさんはそんな暖かい言葉を返してくれた。大人だ。地球人類から見ても、この人は立派な大人だ。

向かい合って座ると、フォルトナに紅茶を入れて貰う。それにしても、生態を少し知っているとは言え、二人の子持ちとは思えない。

「地球人のことならなんでもきいてね。 わたしの知識の及ぶ範囲内で、なんでも応えるよ。 後、何か困ったことがあったら何でも言ってね。 出来る限りの手伝いはするよ」

「本当ですの? それは本当に助かりますわ。 それでは早速……」

ルーフさんはフォルトナを指さす。

「わたくしもメイドロボットと執事ロボットが一台ずつ欲しいですわ」

「? 政府に言って貰わなかったの?」

「それが、一機だけなら貰いましたのですけれど……」

ルーフさんは大げさすぎるほどに肩を落として、本当に残念そうに言った。テレビか何かで覚えたのだろうが、演技が掛かりすぎだ。

「プロテクトが強固に掛かっていて、何も教えてくれないのですわ。 義務的教育に三分の一以上の時間を裂かれるキャムさんに始終くっついて貰っているわけにも行きませんし、テレビに全部情報を頼り切るというのも不安ですし。 人間の基本的な動きや思考方法を研究するためにも、人間を補助するために作られたロボットがもう一二台ぐらい身近に欲しいのです」

「なるほどねー」

レイ中佐から聞いた話を総合すると、それも無理がない事なのだと分かる。あくまで人間同士のコミュニケーションがどれだけ上手くいくかというのが今回の半人体実験の主要な目的だからだ。ただし、こっちに来てから人間の手助けを受けて、コミュニケーションの円滑化を図る分には問題がないはず。メールをレイ中佐に送ってみる。オッケーと言われる。

「予算はどれくらい?」

ルーフさんが口にした金額は、想像以上に少なかった。断って、向こう側の現状資金を見せて貰う。かなり状況は悪い。此方での生活を整える過程で殆ど使い切ってしまっている状況で、予算の金額だけでも多すぎる。このままだと、食費は確保できても、光熱費が厳しい。医療はどうなっているのか分からないが、この手の計算をし慣れているキャムは即座に暗算を済ませて無理があると結論を出した。

「分かった。 わたしの方に少し余裕があるから、中古で良いのがないか探してみるよ」

「中古で大丈夫ですの?」

「うん。 多分、大丈夫のはずだよ」

何故大丈夫かは思い出したくもないので、くわしくは説明しない。そう、中古でも品質が保証されるように等級が分けられていて、それは信頼できる。信頼は出来るのだ。嫌と言うほどに。

後はお茶会になった。先ほど倒れたとは思えない勢いでキャムは色々と話し込み、もう謝ることも気遣うこともなく、ルーフさんは話しに応じてくれた。

この人がエイリアンであっても仲良く出来そうだと、キャムはこの時思った。例えクリップのような微少な生物が無数に集まり、「マザー」と呼ばれる画鋲に似た中枢の数体に支配されて動く、非常に高度な知性を持つに到った擬態生物としてもだ。

渡されている数少ない情報の一つがそれである。彼らエイリアンは、幼生の段階では長いひも状なのだが、やがて中枢部に直径二ミリほどのくびれが出来、それに絡まるようにしてクリップに似た形状になる。こうなると数百体がマザーを中心にして群体生物となり、擬態を可能とするようになり、知能も持つようになるのだ。年を重ねるごとに擬態は上手くなるそうで、自らのコピーを作りながら年を経ていく。ただ、始終擬態出来るわけではなく、疲れた場合は群体を解いて寝る。さっきルーフさんの家に伺ったとき、彼女の旦那のイケメン青年は部屋一杯に擬態を解いて広がっていた。

彼らの寿命は長い。一世代辺り大体十年くらいだそうで、寿命は普通一群体で四十世代ほどだそうである。長いものだと六十世代は生きるそうだ。

個体同士が交わって新しい個体を作り出す、いわゆる生殖の方法も地球人類とは当然違う。群体の中に混じる生物には生殖用のものがいるそうで、成熟した群体だと四つの姓の内二つを通常抱えているそうである。そして他の三つとであればなんでも交配できるとかで、かなり交配の効率がいい。時期が来るとそれらは群体を離れて一カ所に集まり、めいめいに交尾して産卵する。

昔は群体が構成した群れや国家レベルでの集団交配が行われていたそうだが、文明が発達した今では恋人に相当するパートナーを決めてそのものの群体とだけ交わらせるのだそうだ。そして孵化してからは、擬態化が出来るようになるまでめいめい個体の生物として暮らすそうである。群体生物と言うことがあり、性による個体の能力差があまり無いことから、生殖の効率化が進んだらしい。そのため、地球人類とのコミュニケーションで、一番苦労したのはその相互理解だそうである。

だから地球人類で言う男女の概念は彼らにはない。極端な話、このルーフさんは、男の格好をして出てきてもおかしくなかったわけである。

「ところで、ルーフさんっ! 気になることが、あるんだけどさっ」

「はい? なんですの?」

「どうして子供の格好なの? ルーフさんって、わたしとかから見たら考えられないくらい年を重ねている訳でしょっ!?」

単純計算で十倍以上となる。人間に直しても、多分キャムの親世代になるはずだ。その指摘を入れると、何故かルーフさんは実に誇らしげに目を輝かせた。相も変わらず、芝居がかった動きである。

「それはですねえ」

「……?」

「わたくしたちの間では! より小さく! より緻密に! より美しく! 擬態することが最大のステータスシンボルとなるのですわ!」

後ろでファンファーレが鳴りそうな勢いで、ルーフさんが凛々しく美しくガッツポーズを決めた。始めてキャムは、この人が自分の同類であり、テンションにて遅れを取ったことを悟る。このままでは負けてしまうだろう。

不思議と、それだけで苦手意識は何処かへ飛び去っていた。

「そ、それで子供ッ!?」

「ふふん……貴方の様子からしても、充分に美しすぎるはずですわ。 わたくしの実力は見ての通りですのよ。 おほほほほほほほほほほ!」

高笑いなされるルーフさん。確かに間違った意味で激しく美しい。さっきの下着姿と来たら、ボディラインと言い、肌の質感と言い、セクサロイドも真っ青な代物だった。何もキャムと同世代の容姿でそんなものに凝らなくても良いような気がするのだが。男子の実験協力者がいたらまさに生殺しではないか。……反重力でも使ってるのかと思えるようなスカートの中身や、ぐるりと一回転する首の仕組みは、微妙に想像したくないとしてもだ。

そう答えると、ルーフさんはやはり目をぱちくり。かなり賢い人だと思うのだが、それが故に思わぬ所から直球を飛ばしても来る。

「はて。 どうしてですの?」

「どうしてって……」

「あなた方人間の芸術は半分が暴力で半分が性で構成されていると説明を受けておりましたし、自身でも芸術を見た分では事実だと確認できていますわよ? 一番美しいと感じるからこそ、構成要素が高いのではありませんの? しかし暴力をわたくしの体に盛り込むのはあまり好ましくありませんし、なによりわたくしはとても暴力が苦手ですの。 だから性美を最重要視したのですわ」

理論的には反論不能。悔しいが、人類という種に関してはそのとおりだ。

昔のロマンチストが多かった時代と、教育が深く浸透した今は違う。キャムにだってそれくらいのことは分かる。

それにしても、一度よそから見てしまえば、人間が築き上げてきた美の歴史も形無しだ。ただ、キャムの立場からも反論することがある。動物と違って、別にセックスアピールのために、女性は着飾るわけではない。自分が楽しいから自身を装飾するのだ。それは性に起因はしているが、性交には直結していない。

だが、それを説明するのはまだまだ難しい。キャムの語彙力は不足しているし、女性の中にはもてたいと思って着飾っている者だっているのである。そういった言葉の妙な格差を、どう埋めていけばいいのか。歳月に頼るしかないだろう。

どちらにしても、テンションで負けるわけには行かない。常軌を逸したテンションを保つことこそが、心に深い傷を受けているキャムが、まともに他人と接することが出来る秘密なのだ。

こうなったらキャムの土俵に引きずり込むのみ。力業で、無理矢理分からせる!

「ちっがーう! とにかく、それはちょーっとちっがーうっ! ナガスクジラとシロナガスクジラくらいちがーう!」

「おお。 キャムさんが立ち上がりましたわ」

「美装、それは乙女の夢! きれーなおよーふくで自分を良く見せるのは、何かをしたいからではなくて、男にもてたいからでもなくて、自分が素敵に美しくなりたいからなのだっ! だから少女達はかわいい服に憧れる! 自らを飾ることに快感を覚えるっ!」

「そういう生物的本能があるのですわね?」

乗ってきた。乗ってきた乗ってきた乗ってきた!思わず心中で快哉を叫ぶ。土俵にて四つに組んだキャムは、得意のガトリングトーク攻撃に持ち込む。

「本能って言うよりも、夢っ! ド、リーム! 乙女の夢っ! それは愛にして、オリオンのベルトにして、希望にして、ナ・ル・シ・ズ・ム!」

「興味深いですわ。 続けて続けて。 というよりも、オリオンのベルトってなんですの?」

「オリオンはギリシャ神話に登場する凄腕だけど女に手が早い猟師の名前っ! つまりそのベルトはとっても緩いのだ!」

「さ、流石に、意味が分かりませんわっ!」

困惑するルーフさん。土俵際に追い込んだにも等しい。ここで一気に寄り切るのが勝負の駆け引きというものだ。このまま圧倒し、一気に勝負を付ける。

「そもそも女の子はデコレーションした姿が一番美しいっ! ケーキを分解してスポンジとクリームだけで食べても全然面白くないのに、ケーキそのものとして食べればとってもハッピーなのと同じ理屈ッ! その舞い上がる心は、深海の熱水噴出口ブラックスモーカーがごとしっ! せくしーさはあくまで女の子のスパイスであって、美しさの絶対価値ではないっ!」

感心して頬を染め、こくこく頷いているルーフさん。芝居がかったその動きが、キャムには嬉しい。寄り切り一本!キャムの大勝利!やはり、ガトリングトークを成功させてしまえば、キャムに敵はない。

何処かに置き忘れてきた自信が戻ってくるような気がする。同じような相手に、自分を理解して貰うと言うことが、これほど強烈に精神に影響を与えると言うことを、始めてキャムは知った。凄く嬉しい。今まで散々テンションを高めて話しても、こんな風に嬉しいと思ったことが、一度でもあっただろうか。

「地球人類の女性に関する美的感覚は何となく分かりましたわ。 それでは、もう一つ聞きたいのですけれども」

「何々、何でも言って? 今のわたしの舌は、ガソリンエンジンのタービンよりも高速回転するよっ!」

ルーフさんは問う。人類の社会について、文明について、文化的思想について、戦争について、男女について、宗教について。真夜中まで愉快に話し込み、さんざんルーフさんに間違っていたり間違っていなかったりする知識を吹き込むことに成功。ルーフさんも喜んでくれていた。

色々失敗はあった。誤解もあった。だけれども、これできっと上手くやっていける。そんな希望をキャムは抱く。夜中になって帰っていったルーフさんを見送り、キャムは始めて感じた。希望という感情を。

今まで、そんなものは無かった気がする。将来は借金を返すために働き続けるはずだった。両親はもうおらず、多分一生孤独だと思っていた。友達はいるし、結婚だって出来るだろうとは思っていたが、何か光がそれらで見えるとは、一度だって思っていなかった。

夜風が気持ちいい。

キャムは、父が母代わりのメイドロボットを連れて出て行ってから、何処かに自信を置き忘れてきてしまったのだ。人類と全く違うエイリアンと友情を暖めることが出来れば、それも取り戻すことが出来るような気がする。後ろから、フォルトナがマフラーを無言でかけてくれた。もう此奴は分かっているかも知れない。キャムが誰よりも親を欲しがり、それがために歪んでしまったことを。

異常なテンションに頼らなければ、まともにコミュニケーションが取れない現状も、改善できるかも知れない。かけて貰ったマフラーをぎゅっと握って、キャムは空を見上げた。オリオン座はないし、はくちょう座だってない。北極星だって動いている。此処は地球ではないのだから。しかし、空には無数の星が瞬いている。美しさに代わりはなかった。

さて、明日も休みだが、寝る前にやっておくことがある。宿題だって片づけなければならないし、スキマ一家に頼まれた執事とメイドも探しておかないといけない。一応ネットワークの使い方くらいは分かるから、どうにかなるだろう。

「ホットミルク入れてくれる?」

「分かりました。 甘めにしますか?」

「そうだね、砂糖は少し多めにして」

脳細胞を活用するには糖分を放り込むに限る。光差さない夕闇の中、やっておくべき事は幾らでもあるのだ。光の中に出るときのために。

フォルトナに礼を言おうかとも思ったが、まだそこまでの気分にはなれない。いつかでいいから、この家を補修するか、或いは自分でお金を貯めて小さな家を何処かに買いたい。そんなささやかな夢が、この時キャムの胸に宿ったのであった。

 

5,未来への砂利道

 

学校の自席で、キャムは頬を膨らませていた。手にしているのは写真。思わず頬杖をついてしまう。

分かってはいた。分かってはいたのだ。プロジェクトの性質から言って、さまざまな人材をスキマ一家の周囲に配置していることは。コミュニケーション対象の人間も、キャムだけではないだろうとも思っていた。しかし、実際にその人材を見てしまうと、複雑である。

どうみても、そんな任務に適した奴だとは思えないのである。

「あれ? キャームー!」

「うひゃっ!」

後ろからクラス一の恋愛マニアであるジェシィリーンが、ものすごーく嬉しそうな声と共に抱きついてきた。女子同士では親愛の表現としてスキンシップは良く行われるが、この子はちょっと度が過ぎている。

「何、なになに? カレ? カレシ?」

「まっさかあ。 わたしの彼になるには、三億八千万年くらい早いねっ! そうだなあ、宇宙空間で十年くらいデブリ拾いした後くらいなら、カレシ候補に入れてやることを考えてやってもいいかなー」

「えー、そうなのー?」

ジェシィリーンが離れる。キャムの口調から、脈がないことが良く分かったからだろう。胸ポケットに写真を入れる。この学校の下級生であり、来年スキマ一家とのコミュニケーション要員となる事を予定されている被名島賢司だ。写真を見ても、全く生気が伝わってこない、細面の少年。顔の造型は優れているが、体の中には筋肉が入っているのか疑わしい。キャムも噂を聞いている軟弱少年で、おどおどした言動がいじめっ子の勘に障るらしく、何度か虐めのターゲットになりかけた事があるそうだ。ただ、母性本能を喚起するらしく、一部の女子には密かにもてるそうである。

キャムとしてはあまり生理的に好きな相手ではないし、ただでさえスキマ一家の面倒をみなければならない身でもある。此奴を監視して、一般人としての所感をレポートにしろと言われても困る。ただ、特務軍人扱いであるし、給料を貰っている以上逆らえない。

昼休みを利用して、一階へ大股で歩く。ストーカーが如く影からこそこそ伺うのは性に合わない。一年生の不良男子が、キャムを見て慌てて避ける。口でも腕っ節でも勝てないと感じさせるオーラで全身を覆っているキャムは、ミドルスクールロースクール時代の武勇伝も相まって、男子の恐怖の的である。

ターゲットの男子の教室へ到着。ドカンと派手に戸を開けると、据わった目で部屋を見回す。

いた。

隅っこで細々と弁当箱を抱えて、ご飯を食べている。浮いているような空気からの剥離感が同情を誘った。たまたまキャムは異常なテンションを保つことで同年代の女子からは嫌われていないしむしろ頼られている。一方もしこの陽気さとテンションがなければ、最凶の不良として怖れられていた可能性が高い。

ド派手な登場をしたキャムは、早速畏怖の視線に迎えられる。不良グループがこそこそと逃げだし、女子達もひそひそと話し込み始める。同級生には好かれるキャムも、下級生の女子には立派に怖がられているのだ。部活でもやっていれば話は違ったかも知れないが。或いは、キャムの愉快な言動が、下級生の目には触れないからかも知れない。キャムほど学年ごとの印象が異なる生徒はいない。二年生女子の中には、キャムが一年から怖れられているなどとは思っても見ない者がいて、噂を聞いて驚くことがあるのだ。

被名島も、少し遅れて気付き、噎せかけていた。そして視線を逸らそうとして、キャムの視線が自分を刺し貫いている事に気付いたらしい。真っ青になる。キャムは犯罪組織に入っているとか常に電磁警棒を持ち歩いているとか一部で噂を立てられているらしく、特に力がない生徒には怖がられること自然災害の如しだ。以前など、廊下でぶつかった生徒が財布を無言で差しだしてきたことさえある。もちろん突っ返したが。

使命感で恐怖を押さえ込んだ学級委員長らしい男子生徒が、キャムの行く手を遮るようにこっちに来た。太陽級戦艦の行く手を遮ろうとする駆逐艦のように頼りない。

「じょ、じょ、上級生が、何の御用ですか?」

「うるさい。 じゃま」

恐怖に固まった学級委員長を視線だけで横に退かせると、キャムはクラスの状況を確認した。横のつながりがある奴は、基本的に助け合って逃げていく。被名島は女子に人気があると言うことだが、彼を庇ってキャムの前に立ちはだかろうという人間は一人もいない。状況は良く分かった。「人気がある」というのは彫像としてだ。単にミーハーな年頃の女子達が、影のある様子にきゃーきゃー言っているだけである。これはキャムの勘だが、生の彼が好きな女なんて、多分この世にはいないのではないか。

こういった場合、なかなか引っ込みが着かないものだが、用件は済んだし、キャムは帰ることにした。そのまま扉を閉めて、すたすたと自室へ戻る。途中、一年の教室から鈴なりになってその背中を見送っていたが、足を止めるとさっと全員引っ込むのが面白い。少し遊んでいこうかと思ったが、これ以上悪名を広げるとレポートを書くのも難しくなってくる。だからほどほどにして切り上げる。

その中途。二年生教室につながる、階段の踊り場にさしかかった時だった。

「あ、あのっ!」

「ん?」

声の主は分かっていたが、少しキャムは驚かされていた。被名島が青ざめながらも、後ろから声をかけてきていたからだ。ちゃんとそういう事が出来る勇気があるとは、思っても見なかった。

「ぼ、僕に、何か用ですか?」

「用って程のことでもないけどね。 噂に君の話を聞いて、死ぬほどヒマだったからちょっと見に来ただけだよっ。 じゃ、そゆことで」

シュタッと音を立てて片手を上げ、軽く挨拶すると、キャムはさっさと自分の教室に入り込む。すぐにレポートの文面を頭の中で練り始めるが、被名島に対する評価には、若干の手加減が加えられていた。

 

家に戻る。帰る途中にレポートの文面は考えて置いたので、一時間ほどで書き上げることが出来た。後はオート校正ソフトに誤字脱字を取り除かせ、更に体裁調整ソフトに流し込んで論文完成。与えられている特殊回線を使ってレイ中佐にメールすると、すぐに電話が掛かってきた。前置きもなく、挨拶もなく、レイ中佐はいきなり本題にはいる。

「少し見せて貰ったけれど、素材としては使えそうね」

「そうなんですか? わたしの見たところ、ほっそい指で楽器とか絵筆とかいじってそうな脆弱な芸術系少年、て感じですけれど。 まあ、そう言う子にも魅力があるとは思いますけど、仮にもこれは軍務なのですし、いいんですか? 向いていないと思いますよー」

辛辣なキャムの言葉に、レイ中佐は眉一つ動かさない。

「案外勇気があると、貴方も内心では思っているんでしょう? 来年にはその子とコンビを組んでスキマ一家とコミュニケーションを取って貰うんだから、今の内から必要があるなら貴方がその子を鍛えておきなさい」

「イエッサー。 んー、それにしても、どうしてあの子なんすか?」

「三世代目の官給チルドレンで、操作が容易だからよ。 それに非常に誠実な性格で、任務をこなして貰うには問題がないわ。」

「あははははははー、そうしてまた犠牲者を増やしていくわけですか」

「そう言うことになるわね。 さて、無駄話は終わりよ。 次の仕事に移りなさい」

電話が切れた。多少しゃらくさい口なら聞いても許されることが、ここ数ヶ月のぎりぎりの駆け引きの中でも分かってきている。それにしても、祖父の世代から借金を受け継いでいる状態とは。少し気の毒になってきた。卑屈になるのも仕方がないのかも知れない。だいたいこの任務に狩り出されると言うことは、両親はまともな生活能力が無いに違いない。

さて、軍への定時報告が終わったら、今度はスキマ一家とのコミュニケーションだ。購入したメイドロボットと執事ロボットはかなり癖のある奴らで、何とかトラブルは起こしていないものの、あれが普通だとスキマ一家に思って貰っては困る。その意味でも、ますますキャムの負担が増えてきている。互いの文化を学習するというのは難しい。いつかエイリアンとの完全交流状態が発足したときのためにも、キャムは頑張らなければならなかった。

フォルトナがコートを着せてくれたので、袖に腕を通しながら言う。

「行って来るよ。 晩ご飯は向こうで食べてくる。 防犯だけは気を使って」

「はい、マスター」

流石に最新型のメイドロボット。キャムの癖をもう把握して、気分が悪くならないように配慮した行動をマスターしている。

外に出ると、雪が降り出していた。寒い日だとは思っていたが、その理由が良く分かった。ベルトウェイの左右から、温熱フィールド発生装置が触覚を伸ばす。雪が積もりすぎないように、それが地上で温度を調整するのだ。

タイミングぴったりというか、偶然は恐ろしいというか。キャムと同時に、ルーフさんが家を出てきた。一時期はキャムの言葉を真に受け、地球古代時代の王侯貴族が如き衣服に身を包むことを自己ブームにしていたようだが、今は若干落ち着いている。それでもド派手なフリフリドレスに、羽毛たっぷりの扇を持ち、ハイヒールはアホみたいに高い。まあ、最近のハイヒールは強度も安定性も、昔のそれとは比較にならないのだが。一方で、衣服にはご執心なのに、化粧品を買っている様子はない。表皮くらいなら簡単に擬態化できるのだろう。

「どうしたの、ルーフさん」

「ええ。 少し夕食の材料が足りなくて、買いに行く所ですのよ」

「そっか、それじゃわたしもついでだし、手伝うよ。 今日は何を作るつもりなの?」

少し考え込んでから、ルーフさんはぱちりと音を立てて扇を閉じ、案外庶民的な言葉を口にした。

「そうですわね、カレーにしましょう」

「わお。 わたしね、カレー大好きだよっ。 カレーと言ってもシーフードとか焼きカレーとか野菜カレーとか色々あるけど、何にするの?」

「今日はシーフードの気分ですけれど、エビにするか貝にするかは、実際に材料を見てから決めましょう。 エスコートしてくださいまし」

「うん!」

雪は降り続いている。まだまだ、通るべき道は険しい。

しかし以前と違い、キャムの胸には希望があった。雪の中でもほのかに灯る、小さくだが確実な希望が。

 

(終)