七つの思惑

 

序、人類の現況

 

フォルトレート民主立国現大統領は、表向きは温厚な人物として知られている。内外でもその篤実な性格が評価され、星間ネットの投票では、もっとも好感が持てる国家元首に、何年も連続で選ばれ続けている。今年の大統領選挙でも、選ばれることはほぼ間違いないと言われていて、国民の熱烈な支持が伺える。

だが、決して温厚なばかりではないことを、彼に仕える特務秘書官達は、誰もが知っていた。長年この国の大統領として君臨し、あまたの国家的危機を乗り越え、百戦錬磨の他国の外交官達と渡り合ってきたような人物である。「温厚なる好人物」というだけでは、とてもでは無いが苦難の山を乗り越えることなど出来はしないのだ。

新任の特務秘書官である里山ベイツは、十四才で最高位の国立大学をトップクラスの成績で出た俊英で、数年の勤務を経て特務秘書官に就任した人物である。長身の青年だが、少し目が大きすぎて、美男子とは言い難い。灰色の髪も若干パーマが掛かっていて、それが彼の悩みの一つとなっていた。

彼は俊英だ。現在二十三才だが、経験も能力も、他の秘書官には既に劣らないものを持っている。彼はその辣腕を買われ、表には出せないような任務ばかりを押しつけられる日々が続いていた。対外的にはトップシークレットとなっているKVーα人との交流計画を含め、帝国の反政府勢力への接触や、連合との軍事同盟計画などについても、である。いずれも情報が漏れたら即座に消されるようなものばかりで、毎日緊張が絶えず、胃薬が手放せなかった。

ベイツの胃を痛めつけるのは、任務の苛烈さばかりではない。今日も、朝早くから大統領に呼ばれたベイツは、何人かいるメイドロボットに念入りにネクタイやスーツの状態をチェックさせた。自害用のカプセル薬を忘れていないことを確認すると、官僚用の宿舎から小走りで首相官邸に急ぐ。十五分ほどで到着すると、既に大統領は机に向かい、恐ろしい速さで政務を片付けている所だった。既に初老だというのに、キーボードを叩く指の速さも、モニタを追う目の動きも、常人離れしている。

「ベイツ、ただいま参りました」

「座りたまえ」

此方を見もせずに、大統領は言った。喉を鳴らさないように気をつけながら、護衛の軍用ロボットが差し出した椅子に座る。大統領は書類を決済しながら、流れるように言った。その表情は鋭く険しく、優しい人格者であると言われているよそ行きの顔とはかけ離れていた。

大統領は社交辞令も言わない。そのまま、必要なことだけを言っていく。機械を相手にしているのではないかと、時々思ってしまうほどだ。だが、同時に思う。この人は、ベイツとは次元が違う存在だ。

「KV−α人との交流は上手くいっているようだな。 若干の問題は起こっているようだが、今回はそれも想定の中だ。 このまま続けてくれたまえ」

「はっ!」

「帝国内部の切り崩しに関しては、全くほめられたものではないな。 予算をもっと有効に活用しろ。 マニュアルがないことに関しては、経験者のサポートを頼め。 お前は優秀な若者だが、万能とはほど遠い」

「申し訳、ありません」

事実、帝国内部の反政府組織の構築に関しては、あまり上手くいっていなかった。あの速度で政務を処理しながら、大統領は全ての事象を頭に入れていると言うことになる。これが、もう一つの、胃薬を手放せない理由だ。大統領は、能力が高すぎる。猛獣の前に出て、恐怖を感じない小動物がいるだろうか。

「後は、連合との折衝だが、後五%は交渉の余地があるはずだ。 今回に関しては譲歩するな。 次に何かあった時、もっと大きな要求をされる可能性がある」

「分かりました。 早速手配します」

「大統領閣下、そろそろ時間です」

「ん。 分かった。 そうだ、ビルト国務大臣に連絡しておけ。 間違いメールが三通混じっていたぞ」

護衛の戦闘ロボットが頭を下げる。大統領はPCを落とす時間ももったいないと言わんばかりに、処置を護衛のロボットの一機に任せて、さっさと執務室を出て行った。立ち上がり、頭を下げるベイツの方など、見てもいなかった。

あのマシンのような大統領が、これから幼稚園を訪問する。その時には、いつもの優しそうなおじいさんに戻っているはずだ。人が持つ、いくつもの顔。しかし彼処まで徹底してそれを使い分けることは、とてもベイツには出来そうになかった。

 

一旦家に帰ると、ベイツは資料を整理に掛かった。大統領の本来の意味での秘書は、戦闘ロボット達が問題なくこなす。彼のような特務秘書官は、大統領の手足となり、活動しなければならない。大統領のスケジュール調整に関しては、他の秘書官が主に担当している。彼は汚れ仕事が基本だ。

ベイツの頭には、現在の七国家の様子や、その戦力関係などが、全て頭に入っている。特に水面下での緊張状態が続いている帝国に関しては、この国の他の誰よりも詳しいだろう。

メイドロボットが持ってきた資料を吟味。自分の端末に飛んできているメールに返事。幾つかの支援ツールを用いて、グラフ化実施。結果とにらめっこをする。大統領が言ったとおり、帝国での工作は無駄が多い。予算も残り少ないし、抜本的な対策が必要だ。幾つかの策を練るが、上手くいかなかった。だから大統領が言ったとおり、内務省の友人にメールを出す。良い案が、これで出てくるかも知れない。

メイドロボットが茶を持ってきたので、遠慮無くいただく。見上げると、彼が最近気に入っている一体だった。豊かな胸が何とも言えない情欲をそそる。自宅であるし、若干時間にも余裕がある。だからそのまま伽をさせようかと思ったが、まだ昼だと思い、考え直す。そのまま机に向かい、メールを処理し続ける。それが終わったら、執務が幾らでもある。こなしていかなければならない。

彼が使っている八体のメイドロボットはいずれもオーダーメイドのものである。変わっているのは、容姿を統一していない事だろう。男性型の執事ロボットさえいないが、中年の母親のような年のメイドロボットから、娘みたいな年の子供型まで、色々取りそろえている。背丈も様々である。幾つかにはセクサロイドも兼任させているが、年齢関係無しにどれも黒髪のストレートヘアなのは、彼の歪んだ欲望の表れであろう。だが、別にそれで良い。ロボットの仕事は、人間に出来ないことをすることだ。もちろん、歪んだ欲望を受け入れることも、その一つになる。

しばらく仕事を続けて、一段落したのは昼過ぎだった。メイドロボット達に、適当に昼食を作らせる。仕事の様子を見ながらメイドロボット達は調理をしていたので、すぐに食事は出てきた。恭しく差し出されたカルボナーラスパゲッティを無感動に胃に放り込みながら、一旦メールソフトを閉じる。そして広域戦略に頭を切り換える。

ベイツが仕えているフォルトレート民主立国は豊かな国だ。今、帝国が狙いを定めてきていることは分かる。だが。フォルトレートを狙う国は他にもある以上、広域に目を向けていないと、足下を掬われる可能性もある。また、帝国の侵略が思わぬ動機から為される可能性も高い。ベイツのやっているような仕事は、グローバルな視点を持った人間でないと成り立たないのだ。この仕事をしているというエリート意識が、それによって満足できる。一方で、ストレスのたまり方も尋常ではない。

カルボナーラを食べ終えると、さっとメイドロボットが皿を持っていった。ナプキンを差し出されるので、口を拭き、渡す。今日は外出の予定はもう無いから、気分転換以外で外出することもない。ベイツは無駄が大嫌いだ。

PCに、七国家の最新の情報を並べて提示する。

一番上に表示されているのは、地球連邦。言うまでもなく、人類発祥の地である地球を中心とした国家である。資本的には旧南北アメリカが中心となっており、現在でも侮れない力を有している。また、多くの美術品を要していることでも有名であり、芸術の復興も地球連邦が一番早かった。

地球連邦は多くの名士を有していることでも有名で、戦争などが起こると調停役に収まることが多い。保有する宇宙艦隊には旧式兵器が多く、実質的な戦闘能力はさほど高くない。しかしこうやって恩を売る事により、各国とのパイプを確保している姿には、人間のしたたかさを感じさせる。

この国に限らず、開拓時代の混乱の中、多くの民族が混血を激しく繰り返した結果、「純粋な」血族的存在はいなくなっている。あくまで「何とか系」程度の血筋しか無く、他の国家群も中心民族はどこ、と言う程度のより分けしかできない。反動的な民族主義を掲げる団体も存在はするが、今時純粋な血筋など天然記念物に等しく、殆ど意味を持たないのが事実である。

地球連邦はデータ的にも見るところが少なく、しかも最近は復興のために幾つかの新規開発惑星に力を注いでいる。艦隊もそちらに多くが集まっていて、危険性は少ないと判断できる。

その隣にあるのは、氾銀河央制永世法国。此方は旧ロシアをはじめとする、東ユーラシア地域の住民が中心となって成立した国家だ。兎に角タフなことで知られるスラブ民族が中心となっている事もあり、非常に打たれ強く、侵攻意欲も旺盛である。連合に木っ端微塵に敗れて多くの領土を失った今でも、侮れない力を有しているこの国には、何処も重度の警戒を続けている。

法国はしばらく前まで皇帝を頂点にした帝制を敷いていたのだが、これが崩れる可能性が高いと昨今の分析ではでている。特に今の皇帝は、いつクーデターで殺されてもおかしくない程に不安定な状況下にいるらしく、それが再侵攻の引き金にならないか、各国がやきもきしているのが現状だ。

その隣が、憎き帝国。正確には、中心銀河帝国。旧中国とヨーロッパ地域の中でも主にドイツ系が中心となって設立された国家だ。かっては新生ドイツ王国と名乗っていたのだが、幾つかの国が統合する過程で、現在の名前に切り替わった。

不思議な国である。復古的大艦巨砲主義の見本とされたグレート・ガルガンチュアは、この国の前進となった新生ドイツ王国の艦であった。独自の技術は多く、今でも謎に包まれている部分が多い。政治的なことも謎が多いが、分かっていることもある。神聖皇帝と呼ばれる人物の元で立憲君主制が行われており、六年に一度選挙を行い、首相が交代する。ドイツ系と中国系が交互に首相になることが暗黙のルールとして決まっている他、様々な独自の不文律がある。

帝国に関しては、ベイツも知らない情報が多く、各国の諜報員も躍起になっている。この国の情報が高く取引されるのも、如何にそれが難しいかの指標の一つとして上げられよう。

中央に表示されているのが、北部銀河連合。現在人類国家最強の軍事力を持ち、最強の用兵家アシハラ・ナナマ元帥を有する国家だ。フランスを中心とした旧ヨーロッパ系とアフリカ系が中心となって設立された国家であり、今のところこの国が七国の中で最強の実力を有している。しかも、アシハラ元帥は強化ナノマシンが普及した現在、まだ壮年といえる年代にあり、衰えもない。しばらくこの優位が動くことはないと各国は判断しており、連合とぶつかり合うことはどこもが避けているのが現状である。

この国は、史上空前の規模を誇った法国の侵略艦隊を完膚無きまで粉砕し、その領土を三割ほどむしり取ることにより、人類世界最強の座を得た。このため、もともと極端な軍事政権ということもなく、経済力から考えてもさほど圧倒的ではない。このため、アシハラ元帥が何かしらの形でいなくなれば、すぐに最強の座から転落するとも言われている。このため、連合は暗殺を防ぐために細心の注意を払っている。アシハラ元帥は身体能力も低く、格闘技も苦手らしいので、いざ襲われたら自分の身を守るのも難しいだろう。今では、乗艦に30人以上のSPが乗り込んでいるという情報もある。

右下に表示されているのは、新時代創立連盟。通称新盟である。しばらく考えた後、この国は警戒する相手から外しても良いかとベイツは思った。

新盟は地球時代の小国群、アフリカの最貧地帯や、オセアニアなどの住民達が中心となって設立した国家である。領土は現在全人類国家群の中でも最大を誇る。これは全人類国家の中でも、もっとも辺境開発に力を入れているからだ。その代わり、全領土の殆どが辺境と言って良いほど発展が進んでおらず、宇宙艦隊も旧式もものが非常に多い。軍事力を補う工夫として、強力な防衛能力を持つ宇宙要塞を多く抱えることでカバーするという方式を利用しており、他にも独自の国家戦略が多い。

兎に角治安が悪い国家で、少なくとも四つの星系が、独立問題で揉めているほどである。そのため、外部に侵出する余裕など無く、軍部隊のほぼ全てが防衛専門という状況だ。一応領土は接してはいるが、危険性は少なく、国境の戦力も互いに少ない。経済的にも、軍事的にも、国内のことで手一杯の状況なのだ。侵略を警戒する必要性は、殆ど無い。

左下にある立国は飛ばす。地球時代で言うと日本とイギリスを中心とした旧ヨーロッパが中心となった国家である。言うまでもなく人類社会最大の経済力を持ち、もっとも安定した国家でもある。

最後の国家は、通商邦名商業組合。通称邦商である。

主にユダヤ系の財閥を中心に、アメリカ、日本、ヨーロッパ、中東などの財閥が複数融合することによって誕生した、商人達の組合から発展した国家である。領土は全国家の中でも最小で、軍事力もしかり。その代わり、各国の流通関係の殆どを抑えているとさえ言われており、その潜在能力は非常に高い。そう、言われてきた。

現状はいささか異なる。かっては広範囲に張り巡らせたコネクションを駆使して各国を裏から支配してきたとさえ言われた邦商だが、圧倒的な資金にあぐらをかき続けた事が、失敗につながった。いつの間にか各国の商業組合は必死に独自の経路を開発し、邦商の支配と搾取から逃れていったのだ。邦商の内部も歪んだエリート意識から腐敗を続け、今では見る影もなく衰えきっている。商業組合も腐敗が酷く、かっての力はない。各国に張り巡らせていたコネクションもずたずたに切り裂かれているのが実情だ。

七国家の中でも、もっとも最初に脱落する可能性が高いと言われている国こそ、この邦商である。しばらく前に、立国に経済力で追い抜かれた時に、この運命は決まっていたのかも知れない。

それら七国家が、現在地球人類の勢力の全てである。外宇宙に進出する余地はどの国家も持っており、それぞれが独自の開発競争を繰り返している。しかしながら開発を行いすぎて内部がおろそかになっている新盟のような国家もあるし、今回の、KV−α星人との邂逅を代表例としてエイリアンの存在も考慮する必要がある。人類の文明は、また大きな岐路に立っているのだ。

基礎データを比較したところで、腕組みして考え込む。何度も練り上げた思考だが、もう一度最初から作業を行う。こうすることにより、今までと違う発見があるかも知れないからだ。

今のところ、立国と対立する理由があるのは、帝国と法国、それに邦商だろうか。

連合は今の優位を崩す気がないらしく、軍部の反対もあって侵略戦争には乗り気ではないという。この情報は信頼できる。何しろ連合の軍はナナマ姉妹がほぼ掌握していて、その性格からしても侵略を良しとはしないだろうからだ。極論から言えば、油断さえしなければ連合は今の地位を保つことが出来る。冒険的な行動をせず、他国の動向に注意を払いながら、経済力と軍事力を蓄え、ほどほどに新規開拓をしていけばいい。法国から豊かな資源を持つ星系を幾つもふんだくったこともあるし、今は攻めの時期ではないのだ。

地球連邦は既存の経済網に喧嘩を売る気が無いらしく、新規事業の開拓に躍起になっていることからも、軍事的な攻勢を仕掛けてくる可能性は低い。立国の経済力を目の敵にしているのではないかという意見も聞いたことがあったが、ベイツは違うと考えている。

地球連邦は、新しい経済圏を作り、人類社会の中で半独立的な存在になろうとしているのではないかと、ベイツは分析している。その分析からすると、連邦の危険性は著しく下がる。下手な刺激を避ければ、それでいい。もちろん、諜報員を潜り込ませて、情報は取得しておく必要があるが。

新盟に到っては、侵略可能な艦隊がそもそも存在しない。何しろ、現在宇宙空間での戦闘における花形とも言える太陽級戦艦が、わずか三十隻しか存在しないのだ。商業国家である邦商ですら百隻前後を保有している事を考えると、この少なさがどういう意味を持つかよく分かる。

人口が最大だと言っても、攻撃用の艦隊がいなければ意味がない。艦隊を製造している経済的な余裕もないだろうし、独立したがっている辺境を押さえつけるので精一杯だろう。足下の火を踏み消すことに躍起になっている国家が、立国に手を出してくる余裕はない。

経済的な攻撃を仕掛けてくるという可能性も考えたが、すぐに棄却した。新盟の経済力では、立国と資本戦をするのにはあまりにも不足だ。

その上、この国は地球連邦と様々な黒い噂があり、内部の人脈にまで食い込まれていると聞く。其処から考えると、連邦の動きを中心的に見張っていけば、新盟の動きも比較的簡単に予想することが出来るだろう。

後の国は、それぞれに立国を侵略する理由がある。帝国は覇権主義の固まりのような国家であるし、経済力の割に軍事力が若干低い立国を狙ってくるのは分からない話ではない。法国もそれは同じだ。法国の軍事力に、立国の経済力を併せれば等と考えてもおかしくはない。そして邦商だが、立国はまさに目の上の瘤だ。何かしらの方法で、立国の経済に打撃を与えようと画策していてもおかしくない。

戦略的な位置的有利が働くとはいえ、現状は決して良いとは言えない。有能な大統領が続いてはいるが、この国が置かれている状況は厳しい。七国家の中で最初に脱落するのが此処ではないと、誰が言い切れるだろうか。

幾つかの情報を整理した後、帝国に送り込んでいる諜報員に、ある程度の増員を決める。やはり帝国が今後は中心になって、この国に仕掛けてくる可能性が高い。次は邦商だ。邦商にも、諜報員の増援を行う。それに法国だが、念のために監視の人員を増やして置いた方が良いだろう。信頼できる諜報員に、資金的な強化を行う。

一通りの作業が終わると、日が暮れていた。肩を回すと、メイドロボットに今後のスケジュールを聞く。21:00から、政府高官との夕食会がある。今後のためにもでておかなければならない。その後には、また仕事だ。睡眠は三時間ほど取れれば良い方だろう。

まだまだ、眠れない日が続く。ベイツはもう一度時計を見ると、キーボードに指を走らせた。

 

1,炎の体育祭

 

かっては、その行事は嫌で嫌で仕方がなかった。体力的に劣る賢治は足手まといにしかならず、出る度に自己嫌悪に陥った。だが、今は違う。

やっと、平均値に追いついた体力。空手部で鍛えた筋力。どっちも試してみたい。本格的に開始された美術部で、作った色々な小道具。幟も作ったし、入場門もである。どの作業も楽しかった。ルーフさんと立花先輩と、肩を並べて作った。これから、それを使うのだ。わくわくする。

早朝、いつもより早く目が覚めた。パジャマを脱ぎ捨てて、ジャージに着替える。走り込みが、楽しくて仕方がない。やっと平均値に追いつけたこの体、今日は何処まで通じるか、試してみたい。

歯を磨いて、頭を洗って、外に出る。帰ったら、静名に精がつくものを作ってもらおう。外に出る。昨日降っていた雨が、彼方此方に水たまりを作っていた。

今日は、体育祭の日だ。コンディションはベストとは言い難いが、それでもいい。

筋肉を温めるために、賢治は走り始めた。

 

秋も深まってきた。ルーフさんが登校を始めてから数ヶ月が経ち、完全に学校にとけ込んだのを確認してから、シャルハさんの登校訓練が本格的に始まった。美術部も本格的に始動し、賢治と、立花先輩と、ルーフさんと、後十五人の生徒が入部した。しかしながら、八人の生徒はすぐにやめてしまい、残っているのは十人だけである。その上二人は幽霊部員であり、いつやめてもおかしくない。

状況は決して楽観を許さないが、しかし美術部は楽しい。先生は丁寧に教えてくれるし、何より今までには感じられなかった、不思議な横の連帯が透けて見えるのが面白い。みんなで林さんの中華料理屋に食べに行ったり、楽しいことは尽きなかった。

朝は走り込みの後、空手部で訓練。昼は勉学。夕刻からは美術部。それが終わったら、レイ中佐に報告のメールを出す。休日はルーフさんのお供。場合によっては、一緒に美術部に顔を出す。

はっきり言って、忙しい。毎晩仕事のために日付が変わるまで起きていることも珍しくないし、それでも早朝には目を覚まさなければならない。だがしかし、それを補ってあまりあるほどに、充実した毎日である。

家に戻ると、静名が朝食を用意してくれていた。仏頂面の静名が見守る中朝食を採ると、学生服に着替える。今日は一日体育祭。教科書の代わりに大きめの弁当が必要となってくる。

運営委員の一角に名を連ねている蛍先生は、もう学校にいるはずだ。ルーフさんは立花先輩と一緒に、そろそろ出かける頃だろう。最近は朝一緒に行く人間として、美術部に入った地味な同級生が加わっている。既に身辺調査はしているのだが、問題ないそうで、安心する。地味だとはいえ、周辺に信頼できる。

流石に今日は空手部には行かないので、少し時間的な余裕がある。携帯端末からテキストエディタを起動して、体育祭のプログラムを今の内に確認しておく。念入りに確認しておくことで、行き当たりばったりの事態を避けるのが目的だ。

体育祭は、紅白に分かれてポイントを競う単純な仕組みが採用されている。紅が女子で、白が男子である辺りも、オーソドックスである。強化ナノマシンの普及で男女に身体能力の差が無くなってきているため、こういう形式が普通になってきているのだ。

全体参加のプログラムは三つ。最初は、開始後二時間ほどしてある100m走だ。年齢の若い順に走るため、賢治は一番最初に出る可能性がある。これに関しては、真ん中くらいの順位が採れればいい。立花先輩とかち合うことはないので、とりあえずの不安は無い。立花先輩とかち合ったら、勝てる訳がないからだ。これは単純に、客観的な事実である。

次の全体参加プログラムは障害物競走になる。これはどんな障害が用意されているか、実際に走るまで分からない厄介なものだ。事前に予想が立てられない分、それぞれの創意工夫が試される訳で、実に楽しみである。藤原先生はこれに関わっていたらしく、数日前から楽しそうに準備室で何か作っていた。これに関しては、戦い方次第では、賢治も上位を狙える。気合いを入れるとしたら此処である。

最後は走り幅跳びである。自動計測装置を使い、五人ずつ測っていく。終盤と言うこともあり、これはかなり周囲の人間がだれていそうだ。この種目に関しては、純粋な飛距離が試されるため、賢治にはほぼ勝ち目がない。誰とかち合おうがマイペースに戦えるという点が面白いが、それでも総合飛距離で見れば立花先輩をはじめとする何人かの強豪にはとても勝ち目がない。ルーフさんも、これはかなり得意そうだ。

他の種目は、それぞれが選択していく形式を取っている。

100m走の二つ後のマーシャルアーツトーナメントは、立花先輩がもっとも楽しみにしていた競技だ。トーナメント形式で戦っていき、最終的に4位まで決定し、ポイントが加算される。4人まで採点しないためか、加算ポイントは大きく、最初にこれで一気にスタートダッシュを仕掛けることが出来る。ついでに、マーシャルアーツと銘打っているが、基本的に使う格闘技は何でも良いというアバウトなルールで、それが故に人気も高い。かなり殺伐とした競技だが、昔から大衆に好まれるのは荒っぽいものだと相場が決まっている。一時期、芸術が姿を消しかけた時期でさえ、荒っぽいスポーツは健在だったのだ。

優勝候補としては、三年の何人かと、空手部主将、それに立花先輩の名前が挙がっている。生徒達も、皆楽しみにしている。去年は一年だった立花先輩が、見事優勝したらしい。今年もそうなるだろうと、賢治は思う。

他にも玉転がしや棒倒しがあり、賢治は参加を決めている。体育館側では球技も行うのだが、クワイツが此方に中心的な参加をするそうだ。また、プールでは水泳も行われる。女子の水着姿を見に行くと息巻いていた男子が何人かいたが、賢治はあまり興味がない。水着の女子そのものにはもちろん興味があるが、それはそれである。今回は体育祭に全力投球したいのだ。

鞄に弁当を詰める。後は応急手当用の携帯キットも持っていく。もちろん運営委員サイドでも用意はしているだろうが、念のためだ。包帯を入れると、後はビニールシートである。これは今回のために新調した。抗菌機能付きの結構立派な奴だ。

最近貯蓄額を見て驚いた。色々不自由なことは多いが、それに見合うだけの給金が支払われている。この金額が、自分の仕事の対価だとすれば、求められるものが大きいのも致し方がない気がする。貧乏だからこそ、お金の価値は知っている。今後は大事に使っていかなければならない。

携帯端末で、これから学校へ向かう旨を、立花先輩とレイ中佐に連絡。

新調したスポーツシューズを履くと、駆け出すようにして外に出た。今日、この時。今まで蓄えた力を爆発させる。

それが楽しみでならなかった。

 

学校に着くと、すぐに体育着に着替える。それぞれの携帯端末に、参加スポーツと、スケジュールは既にダウンロードされている。賢治は事前の調査通り、グラウンドでの競技が主体だ。

体育祭と言っても、最初は教室で皆集まり、教師から安全上の注意を受ける所から始まる。先生の話を聞いて、念のためにメモを取っておく。最後に教卓に映し出された校長先生の挨拶を聞く。相変わらず厳しそうなお婆さんだ。立花先輩も恐れているという話であり、賢治はその眼光で射すくめられると、背筋が凍る思いをする。

十分ほど体育祭の意義を挨拶として校長が語ると、これで朝礼は終わりとなった。後はめいめい、自分の参加競技を行う場所に向かうこととなる。体育館にもグラウンドにもプールにもカメラがあり、それぞれの様子は携帯端末の立体映像投影装置でいつでも確認できる。もちろん、校舎をミラー化している今日は、そちらの大立体映像で見ることが主体になる。

廊下を急ぎながら、ルーフさんと合流。今日もとても綺麗だ。下は小豆色のジャージのズボン、上は半袖の体操着というスタイルだが、造作が良いとやはり似合う。時々クリップ型の群体が集合して、擬態化して人間の姿をしていることを忘れそうになる。それくらい、最近のルーフさんの擬態は巧みだ。

「おはようございます」

「おはようございます。 キャムさんは、既にグラウンドですわよ」

「はい。 急ぎましょう」

ルーフさんは今回、陸上競技を中心に出ると言う。これは接触が少ないからで、なおかつ一瞬にかかる力も小さめだからだという。格闘技は流石にもってのほかとレイ中佐に言われたそうで、仕方なく陸上競技で我慢したのだそうだ。隣を並んで歩いていると、視線が痛い。二年生の間では、噂の美少女転校生だそうで、立花先輩が側に着いていなければ男子に引っ張りだこだっただろうと、賢治は聞いている。

途中、クワイツからメールが飛んでくる。早速バレーボールで試合だそうだ。紅白で八チームほど作り、総当たりで順位を競うのだという。下駄箱からグラウンドに出ると、外はもうすっかり青空が見えていた。天気が悪かった面影は、もう無い。グラウンドの乾燥化も、既に終了していた。

立花先輩はグラウンドの真ん中辺りで、ストレッチをしていた。一番最初の競技は長距離走だ。四十人ほどの選手が出場して、順位を競う。距離は4キロ。立花先輩には、それこそ朝飯前の距離である。

「おはよう。 来たか」

「おはようございます」

「さっきぶりですわ、キャムさん」

「うん。 被名島、あたしはこれ参加するから。 分かっていると思うけど、いざというときのフォローは頼むよ」

笑顔の立花先輩に鋭く釘を刺されて、賢治は頷く。楽しみな体育祭であると同時に、重要なKV−α人との交流プログラムでもあるのだ。多分軍の人たちは、既に所定の位置に着いて、じっくり監視を行っているはず。賢治だけ楽しんでしまっていては、彼らに申し訳が立たない。

グラウンドの前の方には、運営委員のテントがある。ワカメみたいなウェーブヘアの蛍先生と、藤原先生が談笑しているのが見えた。グラウンドの入り口の方には、皆で作った入場門がある。もっとも、ただの飾りでしかない。昔は全校生徒をグラウンドに集めて入場式みたいなことをやったらしいのだが、今では廃れて門を作る風習だけが残っている。他にも、色々形骸化したものは多い。

「長距離走を開始します。 ランナーは集まってください」

「ん、行ってくる。 サバンナを走るインパラがごとく走り回って来るよっ」

「頑張ってください」

「行ってらっしゃい」

アナウンスに、立花先輩が腰を上げた。ルーフさんと二人、先輩を見送る。

長距離走のコースは、グラウンドを二周してから学校の外に出て、周囲の道を回り、それから戻ってくるものとなっている。事前に相談して、ルーフさんの側に常にどちらかがいるような体制を整えている。今もスケジュール的にはそうだ。全員参加の百メートル走まで、まだしばらく時間がある。

その間に、体を温めておこうと思って、賢治はストレッチを始めた。ルーフさんはそんな必要もないだろう。ストレッチをしながら、校舎に映るバレーボールの試合を二人で一緒に見る。丁度、クワイツのチームが攻撃中だった。大きくトスしたボールに、クワイツが飛びつく。強烈なスパイクを叩き込む。しかし、三枚張られたブロックにスパイクは敢えなく弾かれて、思いっきりアウトになっていた。

続けて、敵チームの攻撃。何と天井サーブだ。鋭い回転を掛けて落ちてきたボールに、クワイツは反応しきれず、もろに落としてしまう。そのまま連続で四点。残念だが、相手のチームとレベルが違う。見る間に点差が開いていく。やがて、最後の攻撃が来た。相手チームのキャプテンが、鋭いスパイクを叩き込む。クワイツは何とかレシーブしたが、ボールは大きくそれて体育館の壁に激突。ゲームセット。1セットマッチと言うこともあり、早々に決着がついた。

球技はどうやら紅組が強いようだ。元々女子の方が、強化ナノマシンに対する感応率は高い傾向があるが、今回に関しては、それは関係がないだろう。たまたまこの学校に、球技が上手な女子が揃っているだけである。

15分もすると、バレーのトーナメント戦は一巡して、二回戦が始まっていた。残った白組は1チームだけである。

長距離走の実況も始まる。放送部の男子が、先頭で爆走している立花先輩の事を熱っぽく解説していた。立花先輩は陸上部の三年女子とデッドヒートを繰り返しており、後続をかなり引きはがしていた。

クワイツが戻ってきた。賢治を見つけると、手を振りながら歩いてくる。

「おーっす、どんな様子だ」

「立花先輩が、デッドヒートしてるよ。 ほら」

「うわ、すげっ。 相変わらずの魔王ぶりだなあ。 どうして美術部に入ってるんだよあの人は。 あ、こんちわっす」

「こんにちは」

急に佇まいをただして礼をするクワイツに、くすくす笑いながらルーフさんが応じる。ほどなく、立花先輩がグラウンドに戻ってきた。此処からは、トラックを二周する勝負になる。三年の陸上部の人と、相当ムキになって争っている。向こうも運動部と言うこともあって、引くに引けないのだろう。最後は猛烈なスパートを掛けて、互いを引きはがそうとしていた。だが、それでも食いついていく。

ゴール。二人ともほぼ同着だったが、僅かに立花先輩が及ばなかったようだ。

「一位、三年陸上部。 フライト=スティ。 二位、二年美術部。 立花・S・キャムティール」

美術部が二位にはいるというシュールな光景だが、失笑する者は殆どいない。特に一年生は、戦々恐々としていた。三位から六位までは男子が続き、七位から九位まで女子、十位は男子だった。得点は総合で女子が少しだけ多くなったが、まだ大きな差はついていない。

喚声が上がった。テニスコートの方で行われていた試合で、女子テニス部の部長が負けたのだ。まさかの一回戦敗退である。相手は、無名の二年生男子。おとなしそうな男子は、申し訳なさそうにぺこぺこ謝っていた。彼は二回戦でも三回戦でもテニス部を負かし、そのまま優勝してしまった。

波乱づくめの始まりだ。テニスでの奮戦で、白組が僅かにリードした。まだまだ、体育祭は始まったばかりである。賢治は今からわくわくしていた。

 

2,闇の奥底で

 

通称拷問部屋。軍本部ビルの最下層、地下二十七階に作られた部屋の別称である。一般の兵士には、存在さえ知られていない、秘密の場所だ。十メートル四方ほどの狭い部屋で、各種の自白剤と拷問道具が取りそろえられ、隅には洗面所もある。壁には、無数の血痕。多くの人間が、此処で死んだ。或いは廃人となった。

呻き声を背に部屋から出てきたシャレッタは、血だらけの手を洗面所で洗った。生きたまま腹を割いて内臓を取り出してみせると、憂国の士を気取っていたテロリストは、たちまち自分の素性を白状した。人類の曙を名乗っていたが、実情は違った。ただの小組織の、頭に血ばかり上った若造だった。

「死なないようにはしてやりなさい」

「はい」

助手の軍用ロボットに言い捨てる。

人道的配慮などという上等なものではない。まだ使い道があるかも知れないからだ。だから、死なないようには処置しておく。最悪の場合は脳みそを直接弄ることになる。廊下の左右には、牢が幾つか。捕らえたテロリストを入れている。シャレッタが通り過ぎると、悲鳴を上げる者がいた。何人かは、完全に狂気を発している。いずれ解剖して、ホルマリン漬けにするだけだ。

秘密のエレベーターに乗る。これから何個かのエレベーターを介して戻る。中には普通の部屋に偽装しているものもあり、極めて面倒くさい。一緒に着いてきている護衛の軍用ロボットから香水を受け取ると、適当に吹きかける。血の臭いを消すためだ。

特務部隊の専用フロアに到着。そのままレイミティの部屋に向かう。数日前、やっと夕食を一緒に食べることが出来た。貸し借りを残しておくのは面倒くさいので、ようやくという感触であった。

レイミティの部屋の前で、フランソワ大尉とすれ違う。敬礼をかわし、レイミティのことを聞くと、部屋にいるという。無駄足にならなくて良かったと思いながら、執務室のドアをノック。すぐ側で仕事をしている事が多いのに、互いに滅多に遭う暇もないほどに忙しい。

「はーい」

「シャレッタだ。 入るよ」

「どうぞー」

部屋にはいると、レイミティはコーヒーをすすっていた。幾つか点灯している立体モニターには、奴が担当しているスキマ一家のルーフと、参加中の体育祭が映し出されていた。所詮高校生の体育祭だ。大したレベルではない。周囲で監視任務に当たっている軍の者達の動きは、シャレッタから見ても問題はなかった。

「なかなか良く訓練されてるな」

「これに関しては、私よりもシノン少佐の腕がいいのよ。 毎回提出してくる警備の計画書も、訂正箇所が見つからないし。 私の負担も大きく減るってものだわ」

肩を叩きながらレイミティは言う。奴もそうだが、一番大変なのは狙撃班だ。この大人数の中、どこかに妙な動きをする奴が混じっている可能性がある。いざというときには即座に仕留めなければならず、色々と面倒くさい。

「それで、何の用?」

「ご挨拶だね。 ちょっと時間が出来たから、顔を出しただけだよ。 一応、情報も持っては来たけれど」

「どんな情報?」

「……実はな。 帝国の工作員が、近々首都星で行動を起こすって話だ。 相手はプロの諜報員、特殊訓練を受けていて、殺人も破壊工作も非常に高いレベルでこなす。 結局は素人の人類の曙とは相手が違うぞ。 あたし達も警戒網をもう張ってはいるが、お前達も気をつけろ」

それは、まだ確定情報ではない。この間捕縛した人類の曙の下っ端を拷問して得た情報だ。レイミティは口を手で押さえると、しばし考え込む。此奴が考える時に、良く採るポーズだ。

「ちょっとそれだけでは、警戒が難しいわね」

「ああ。 こっちも必死に調査はしているんだがな。 内務省の連中から上がってくる情報が少なすぎる」

「彼らも決して無能ではないのだし、そうなると敵がずば抜けて優れているという事かしら」

「確かに、いまだに下っ端一人さえ捕まえられないからな。 面倒くせえ。 捕まえたら、ありとあらゆる自白剤ぶち込んで、ロボトミー手術してやる」

吐き捨てはするが、シャレッタにも自信はなかった。帝国は内紛もことごとく闇に葬るような国で、表向きはテロも発生したためしがない。これらは秘密警察化している特殊諜報部隊がもみ消しているからだ。連中は文字通りの殺人マシーンだ。平和慣れしているこの国の特務部隊で、何処まで敵対できるのか。

時間が来た。時計を見て、舌打ちする。

「悪い、時間だ。 邪魔したな」

「いいえ。 また時々食事に行きましょう」

「安請け合いするなよ。 それと、気をつけろよ」

「分かっているわ」

部屋を出ると、自室に向かう。途中、将官クラスの軍人にあったので、敬礼。自室に着くと、ベットに身を投げ出し、空中に携帯端末から情報を表示させた。重要なメールだけ見繕うと、身を起こして、処理に掛かる。それらが全て片付いてから、重要度の低いメールを順番に処理していく。

体育祭をやっていた子供達が、巻き込まれることがないと良いのだが。作業をしながら、そう思う。敵には容赦しないシャレッタだが、しかし未来を作る子供達に対する愛情はきちんと持っている。もちろん美少年型のセクサロイドを使っているからも分かるように、歪んだ愛情もあるが、純粋なものだってあるのだ。

デスクに向かい、メールを片付けると、部下達に招集を掛ける。一時間ほどで戦力が揃う。それまでにシャワーを浴びて、仮眠を取っておく。内務省から、やっと情報があがってきた。これから、首都星にある幾つかの場所に摘発を掛ける。新しく調達した戦闘ロボットの性能を見るにも良い機会だ。実戦で力をためさせて貰おう。

地下駐車場に出ると、部下達一個小隊が勢揃いしていた。戦闘用ロボットも十二体が整列している。そのうち二体は、人間型ではない。多脚型の殲滅戦闘用ロボットである。廃工場に巣くっていると推察される敵戦力を粉砕するために、今回特別に呼び寄せたものだ。外観はオサムシのような肉食性昆虫に似ていて、小型ミサイルをおよそ150発、対重装甲チェーンガン四機、大口径レーザーライフル二機、遠距離狙撃用レールキャノン五機を搭載している、歩く要塞だ。全長8.5mと若干小型だが、火力は前世代型を遙かに凌いでいる。今回の任務は性能実験に丁度いいだろう。

今回の任務では、敵の皆殺しが許可されている。ストレス発散に丁度いい任務だ。舌なめずりを一つすると、シャレッタは車を出すように、運転席の軍用ロボットに命じた。車が発進すると、心地よい興奮が体を満たす。何だかんだ言っても、人間は暴力が大好きなのだと、こう言う時に実感する。

そしてそれが故に、そう簡単に異種族とは仲良くできないと言うことも。

 

体育祭最初の目玉である100m走が、いよいよ開始された。

コースに10人ずつ並び、順番に処理されていく。現在、強化ナノマシンの効果もあって、高校生の平均は11秒程度だ。だから、最初から10秒台で走る人間が多く出てくる。アナウンサーをしている放送部部長の興奮しきった声が、賢治の所まで届いてくる。

「おおーっと、10秒26! これはまた速い! 一年生のニードヘッグ=ブラーくん、なかなかの好成績です! 今調べたところ、彼は陸上部の中ではそれほど速くないほうなのだとか! 今年のレベルの高さが伺えますね!」

賢治は、ようやく平均に並ぶことが出来たかどうかだ。だから、勝ち負けはあまり気にならない。12番目に開始されることが通知されたので、早めにコースの後ろに着く。再び、10秒前半が出た。グラウンドが湧く。今度は女子生徒だ。賢治のクラスの、隅っこの方にいつもいる地味な子である。見たところ、あまり本気を出しているようには思えない。もし本気ではないとすると、大したものである。

賢治の番が来た。呼吸を整え、集中する。クラウチングスタートの体勢をとり、眼前の立体映像を注視。光のテープと言われているそれが消えた瞬間、スタートをするのだ。

無限とも思える一瞬が過ぎ去ると、最初から何もなかったかのように、テープがかき消えた。

体を、前に押し出す。走る。早くも前に出てきた生徒がいる。関係ない。今はとにかく、自分に出来るだけのことをするだけだ。走る。ただひたすらに、走る。スピードが乗ってきた。昔と違い、殆ど疲労は感じない。周囲の生徒達が顔をゆがめながら走っている。賢治も同じようなものなのだろうなと、ふと思った。

どんどんゴールテープが近づいてくる。昔と違い、これも光のテープをもした立体映像だ。前を走っているのは、四人。絵に描いたような平均位置だ。兎に角今することは、彼らと順位を競うことではない。ベストの能力を発揮して、走りきることだ。

また一人に抜かれる。一切気にしない。走り方もしっかり勉強した。何度も練習した。とにかく、平均値でもいい。自分に出来るベストを。それだけを考えながら、ただひたすらに、走る。

ゴールテープを、切った。

爆発的な動悸が、今更ながらに襲ってくる。だが不思議と、回復は早かった。すぐに呼吸が元に戻り、歩きながら自分のタイムを見た。

11秒フラット。平均を0.02秒下回っていた。だが、それでも充分だ。天を仰ぐ。満足だった。これだけ分かり易い成果があるだろうか。今まで走り続けてきたことは、無駄ではなかったのだ。

これからも走ることが楽しくなるだろうと思って、皆の待っている辺りに行く。以前立花先輩と争った男子生徒が、8秒98を出していた。以前よりも遙かに速くなっている。彼もあれから、必死に努力を続けたのだろう。

「頑張ったね、被名島」

「ありがとうございます、立花先輩」

「努力の成果が出たようですわね。 まだ平均値には及ばないようですけれど」

「すみません、まだ遅くって。 でも、いずれ平均値は超して見せます」

いや、必ず超すのだと、心中で賢治は言い直した。かならず超えられるはずだ。

興奮するアナウンサーの声。いつのまにか、2年生の番が来ていた。立花先輩が、ルーフさんと一緒に100m走のラインに向かう。

やはりというか、何というか。立花先輩は、圧倒的に速かった。8秒29である。2位はルーフさんで、9秒05だった。これも強化ナノマシンを入れていない事を考えると、驚異的な数値だ。

「素晴らしい! 二年の魔王と言われる立花・S・キャムティールさん、8秒29をたたき出しました!」

わっと喚声が巻き起こった。やはり立花先輩は凄いなと、賢治は思った。

立花先輩が戻ってくる。うっすら紅が差した首筋の辺りに浮いた汗を、タオルで拭いながら。背こそ低いのだが、こう言う時には健康的な色気を感じる。この人が異性だと認識する一瞬である。

「流石ですわ」

「いや、褒めても何も出ないよ。 それにまだベストじゃないから」

謙遜しているのか自慢しているのかよく分からない立花先輩。賢治はただ単純に、凄いなと思った。

その時、レイ中佐から、少し遅れて蛍先生からメールが入る。立花先輩にも同時に、である。不安に駆られたが、丁度立花先輩の級友が話しかけてきたので、見ることが出来なかった。立花先輩が目配せして来たので、賢治はトイレに立つ振りをしてグラウンドの隅へ。其処で、メールを開封。

本文に目を通す。二人のメールはほぼ同一内容だった。

「本日、急にテロリストの掃討作戦が決行されることになりました。 極秘任務であり、なおかつ此処とはかなり離れていますが、報復行動をテロリスト共が起こす可能性があります。 貴方たちには指一本触れさせはしませんが、万が一の時には、対処をお願いします」

「……以上がレイ中佐からのメールです。 相互に注意し合って、テロがもし発生した時には迅速な対処をお願いします」

見なければ良かったと一瞬思ったが、そうも行かない。立花先輩の友達は、眼鏡を掛けているおとなしそうな人だ。立花先輩だけではなく、ルーフさんにも話しかけている所を見ると、共通の友達だろうか。

何か名案は無いかと思いながら歩くうちに、もう立花先輩の所に戻ってきてしまっていた。さてどうするか。困り果てている賢治は、立花先輩の友達が体育館へ歩き去っていったのを見て、胸をなで下ろした。

状況を説明する。小さな手で口を押さえて考え込む立花先輩は、数秒で結論を出した。

「とりあえず、どちらかがルーフさんの側に常時いる事に関しては今までと同じ。 テロがもし起こった時は、合流地点を決めておこう。 学校内部で対処できそうな場合は、体育館裏。 あそこからなら、駐車場にすぐ抜けられる。 学校から出ないと危ないような場合は、ルーフさんの家に向かって。 あそこなら、常時かなりの戦力が護衛についてるはずだから」

「分かりました」

「それと、これを渡しておく」

渡されたのは、ペンライトだった。ただし、妙に重い。

「これは軍用のフラッシュライト。 そのボタンを長押しすると、閃光弾として使えるから、いざというときはそれを使う。 使う瞬間には、目を閉じないと駄目だよ」

「先輩も持ってるんですか?」

「あたし? あたしに喧嘩を売るような奴は、地獄で後悔するだけだよ。 兎がライオンの心配してるんじゃない。 自分の身を守ることを、最初に考えて」

正論である。ルーフさんは形の良い眉をひそめた。

「少し大げさじゃありませんの?」

「大げさであってくれればいいんだけれどね」

「蛍先生と、それにレイ中佐には今の決定を回しておいて。 此方の避難経路が分かっていれば、向こうでも対処しやすいだろうから」

「分かりました。 僕がメールを書いておきます」

アナウンスが流れる。続いての競技についてのものだ。そういえば、この二つ後くらいで、昼休憩になる。食堂は今日も開放されているし、屋上という手もあるが、せっかくだからグラウンドでビニールシートを引いて食べたい。

「今日、グラウンドでビニールシート引いて食べようと思って、昼食を少し多めに作ってもらいました。 二人も一緒にどうですか?」

「あたし達だけじゃなくて、他の子も来るよ?」

「それは別に構わないです。 あまり五月蠅いのは好きじゃないですけれど、先輩の友達はみんなどちらかと言えば静かですよね」

「何だか面白そうですわ」

朗らかな笑顔をルーフさんが浮かべたので、賢治は少し安心した。テロが起こることは、万が一にもないだろうが、緊張を解いたらおしまいだ。後で立花先輩に殴り倒されるくらいでは済まないだろう。

メールを入れると、すぐに返事。レイ中佐の方が少し早かった。

レイ中佐によると、駐車場はもともと警備が厳重で、すでに二機の戦闘ロボットが重点的に見張りをしているという。いざというとき、此方に来ると対処がしやすいとの事であった。また、蛍先生は、自車のナンバープレートを教えてくれた。いざというときには乗せていってくれると言うことなのだろう。

次の競技が始まる。200m走だ。このくらいの時間から、水泳も行われ始める。さっと着替えた水泳担当の生徒達が、プールに次々と飛び込み始めた。自由形にバタフライ、平泳ぎに背泳ぎと、これから順番に競技をこなしていくことになる。

立花先輩は、念入りに体を温めている。いよいよマーシャルアーツトーナメントが近づいてきたからだ。やがて、200m走が終わった。業務用のロボットが、グラウンドに素早く競技用シートを敷く。

肩を回しながら、立花先輩が歩き出す。ある意味、今日のメインイベントである。同時に、グラウンドでは空いているスペースを使って棒高跳びも行うのだが、此方を見ている生徒は殆どいないだろう。

立花先輩が体力を消耗しすぎないようにと、賢治は密かに祈った。もしもの時、立花先輩が動けないと、意味がないからである。

「キャムさん、勝てると良いですわね」

「多分勝てますよ。 ただ」

「ただ、なんですの?」

「いえ、何でもありません」

何だか、波乱の予感がする。負けるとは思わないが、簡単に勝てるとも思えないのである。

賢治の予感は、程なく、的中した。

 

巨大な炎が吹き上がり、工場が中から炸裂した。火だるまになって、悲鳴を上げながら人間が飛び出してくる。戦闘ロボットが即座に飛びつき、首筋に無力化薬を注射して確保した。

念入りに中を調べ、違法武器が製造されている事を確認したシャレッタは、即座に砲撃を指示した。戦闘ロボット二機は合計40発のミサイルを、躊躇無く目的の廃工場へと叩き込んだ。

その結果が、この地獄であった。前線には、人間が焼ける良い香りが充満している事だろう。

シャレッタ自身は、二百メートルほど離れた路上、指揮車を止めてその中で状況を確認していた。前線指揮官が、測定結果を送ってくる。どうやら内部に残っていた人間は全て死んだらしい。外に出てきた何匹かだけが、生存者というわけだ。何度か誘爆が起こり、攻撃が正しかったことを裏付けてくれた。

民間人は遠ざけてあったから、問題は何も起こっていない。だが、妙に嫌な予感がするのだ。前線の部隊が、消火弾を撃ち込む。すぐに火が消し止められ、内部から濛々たる煙。数体の戦闘ロボットが、工場に入っていった。それに続けて、兵士達がガスマスクを付け、工場に突入する。

思わずシャレッタが身を乗り出したのは、人間型戦闘ロボットの一体が吹き飛んだからだ。

激しい銃撃音。叫び。前線指揮官が吠えるようにして報告してきた。

「工場内に残存戦力! 火力防御力極めて大! 対処不能! 増援願う!」

「了解した。 α、突入せよ。 β、周囲の観察と支援」

多脚型戦闘ロボットに指示を飛ばす。この状況で生きていると言うことは、相手はロボットだろう。帝国の軍用ロボットという最悪の可能性を考慮し、シャレッタは多脚型を投入した。αが無数の足を蠢かせながら、いまだ煙が吹き出し続けている工場へ突入していった。βの背中が左右に割れ、狙撃用のレールキャノンがせり出してくる。

多脚型が突入すると同時に、銃撃戦の音が、更に激しくなった。兵士が何人か飛び出してくる。その背を火線が追った。一人が万歳をするような格好で飛ぶ。脇腹を大きく抉られ、内臓が飛び出していた。

ミサイル数十発が廃工場に叩き込まれる。奥に入っていった多脚型が、激しい格闘戦をしている音が、シャレッタの所まで響いてくる。念のため、更に増援を要請。二個小隊を、此方に回して貰うべく手配する。

燃え上がる工場の中から、人影。よろめきながら歩いてくるそれは、戦闘ロボットらしい。頭は髪の毛が全て燃え落ち、肌は彼方此方が敗れて金属の骨格が剥き出しになっており、右手はそれ自体が銃器になっている。唖然とした様子の兵士達に、銃口が向く。誰も、反応できなかったその時。人間と一緒に工場から逃れ出ていた戦闘ロボットが、奴に飛びついた。銃口が空を向き、悲鳴にも似た乱射音が辺りに飛び散る。そして、その腹から、長大な刃が生えた。

燃え落ちる工場の中から、酷い損傷を受けた多脚型が這いだしてくる。その肩から、長い刃が生えていた。近接戦闘用のニードルランサーだ。ランサーに貫かれても、まだ戦闘ロボットは動いていたが、やがて機能停止した。

「人工頭脳を取り外して。 念のため、対爆シールドを展開しなさい」

「は、はいっ!」

後処理に掛かる兵士達を見て、シャレッタは舌打ちしていた。この人型、とんでもない性能であった。最新式の軍用多脚型と五分以上に戦いをし、完全武装の一個小隊を一機で圧倒して見せた。

指揮車から降りる。護衛の戦闘ロボットを引き連れて、戦場へ。工場の敷地にはいると、既に解体作業が始まっていた。間近で見ると、駆動系のレベルから見たことがない技術が使われている。帝国の戦闘ロボットに間違いないだろう。独自の技術を発達させているとか言うが、とんでもない話だ。他の文明圏の最新型兵器に、まるで引けを取らない。発達させているなどと、上からの目線で見ることが出来る相手ではない。

多脚型の前に立つ。足を二本失っており、幾つかの武器は稼働不能になっていた。分厚い装甲も何カ所か貫通されている。予想以上に損傷が激しい。この人型と、正面からつぶし合った結果だろう。普通多脚型の戦闘ロボットは、人型よりも能力が高い傾向にある。それなのに、此奴に対しては互角だった。いや、向こうの方が若干有利でさえあったはずだ。そうなってくると、帝国の最新多脚型戦闘用ロボットは一体どれだけの性能を持っているのだろうか。

想像するだけで、怖気が走る。

工場の敷地から出た。小隊長が追いすがってきて、被害を報告してくる。死者三名、重傷者七名。敵は捕縛した四名を除いて全滅。その中には、人類の曙のナンバー4が含まれていた。戦果としては悪くない。だが、死んだ部下が帰ってこないのもまた事実だった。

携帯端末を開いて、上層部に連絡を取る。シャレッタの隊はかなりの精鋭だ。それがこうも被害を出すほどの相手である。予想していた相手の能力を、遙かに上回っている。人類の曙などはアマチュアに過ぎなかったのだと、思い知らされる。これだけの実力があるロボットを潜入させてくる力があると言うことは、下手をすると、大統領の直接暗殺を狙ってくるかも知れない。

携帯端末に出た、大統領秘書のベイツに状況を説明。ベイツはシャレッタと地位的にはほぼ同格であるが、大統領との取り次ぎという事もあり、中佐級の人間の中でも、下手に出る者は多い。だが、シャレッタはあくまで同格として接するようにしている。説明しながら、自車に乗り込み、運転席の戦闘ロボットに運転するように目配せした。ベイツは今回の戦果に不満そうな声を上げたが、すぐに声を落ち着かせた。

「うちの最新鋭多脚型ど、五分以上に戦った、ですって?」

「ああ。 部下に死人も出た。 正直洒落にならん」

「確かに貴方の隊の評価から考えて、尋常な相手ではありませんね。 より慎重に、これからは帝国への内偵を進めます」

「それもいいがな、もっと予算を割いてくれないか。 最新型をもっと普及させないと、もし中隊レベルでの争乱を起こされると大変なことになるぞ」

電話を切ると、シャレッタは自身でも考え込む。敵の能力が高いのは当然のことだが、しかしこれほどのロボットを持ち込むのは並大抵の事ではないはずだ。すぐに、法国と帝国との戦闘の記録を、あるだけ集めるように、傍らの戦闘ロボットに命じる。法国も確か、帝国と全面戦争をした時に、内部からの攻撃をかなり受けたはずだ。どうやってそれを凌いだのか、知っておきたい。

しばらくはまた徹夜の日々が始まりそうだった。

 

唖然とする賢治の前で、喚声が上がった。信じられない。アナウンサーをしている放送部の部長が、興奮した声でまくし立てる。四試合が同時に行われているのだが、他には殆ど目もくれていない。

「攻めきれません! 優勝候補の立花さん、一回戦から、一年生に思わぬ苦戦です! 相手の一年生は、ええと、ブロンズ=リーさん。 部活は、部活は。 ええと、茶道部、です。 ええっ!? 茶道部!?」

立花先輩と向かい合っている相手は、一年の目立たない女子である。中肉中背で、まるで目立つことのなさそうな、物静かな雰囲気の女子だ。賢治も知らない相手である。携帯端末で調べてみると、八組である事が分かった。

二人とも、かなり激しく組み合っているのに、まだ息も上がっていない。立花先輩は上体を揺らしながら、孤を描くようにして立ち位置をずらしている。それに対し、相手は全く動こうとしていなかった。

この体育祭は、波乱が多いなと賢治は思った。

最初から立花先輩は、激しく攻め立てていた。懐に入ってからは拳のラッシュを入れ、逃れようとしたところを回し蹴りを叩き込んだ。しかしどれも水を切るように手応えが無く、逃れられていた。三回ほどコンビネーションを駆使して攻め込んだ立花先輩が、ことごとくそれらをいなされると、試合は膠着状態に陥ったのだ。

「相手の人、キャムさんを学習しようとしていますわ」

「学習、ですか?」

「ええ。 一回ごとに、動きが良くなっています。 キャムさんの動きの癖を見切るために、わざと攻撃を受け続けているようですわね」

嫌な予感がする。そんなことをしなければ行けない理由がよく分からない。まさか、何かしらの目的で、立花先輩と戦わなければならないと言うことか。帝国のスパイではないのかと思ったが、しかし試合に割ってはいる訳にも行かない。立花先輩は、かなり本気で相手と戦っている。水を差したら、後で恨まれるだろう。

試合時間の終了が迫ってきている。他の三試合では、既に勝負がついていた。残り、十秒。

立花先輩が動く。

正面からの突撃。引きつけていた右拳を、胸中央めがけて繰り出す。同時に、ブロンズという女子が動いた。体を半回転させ、拳をいなしながら、肘を立花先輩の側頭部へ叩き込みに掛かる。

良かったと、賢治は思った。

立花先輩が空いていた左手で、肘を受け止めていたのだ。クールに戦っていたブロンズの顔に、初めて動揺が浮かんだ。肘を弾く。体勢を崩すブロンズに、容赦なく回し蹴りを叩き込む立花先輩。今度こそ、完璧に入る。思い切り吹っ飛んだ相手選手が、マットに叩きつけられた。

喚声が上がる。クリーンヒット、一本だ。回し蹴りがもろに側頭部に入った一年の女子生徒は、頭を抑えて呻いていたが、自力で立ち上がる。蛍先生が駆け寄って、保健室に連れて行く。強化ナノマシンの普及した今、おそらくあのくらいなら死ぬことも後遺症が残ることもないだろう。

ただ、不安も残る。立花先輩は、今の試合でかなり本気で戦っていたように見えた。次の試合に向けて休憩に入った立花先輩の元へ、ルーフさんと一緒に走り寄る。他にもクラスメイトの女子が、何人か側にいた。

「立花先輩、大丈夫でしたか?」

「……あいつ、あたしの技と動きを全部見きろうとしてた。 最後のも、強引に出されたって感じだった。 勝ったけど、技を幾つも見切られた。 耳元飛んでる大ヤブ蚊みたいにいらつく」

「あんたがそこまでマジになるのって珍しいわね」

「悔しいけど、今まで戦った相手でも、五本の指にはいるくらい強いね。 多分、普通のヤクザの用心棒くらいなら実力で退けるよ。 あたしの好きなタイプの強さじゃないけど」

落ち着いているように見えて、立花先輩は静かな怒りを心中で沸騰させているようだった。クラスメイトらしい、眼鏡を掛けた女子生徒が、背中を撫でてなだめていた。異性である賢治には、多分出来ないなだめ方だ。

この後も、波乱が続くような気がしてならない。一応、今の試合の結果と、相手の生徒の姓名をレイ中佐にメールしておく。蛍先生から連絡。今簡易CTを掛けたが、ブロンズという女子生徒には、特に異常は見つからなかったそうだ。

第二試合が始まる。立花先輩は、賢治がいつも世話になっている空手部主将と対戦し、九秒半でマットに沈めた。結局、そのまま立花先輩が最後まで勝ち抜いた。だが、試合は最後まで、盛り上がりに欠けた。

事実上の決勝戦が、第一試合に来てしまったからかも知れない。アナウンサーも副部長と交代し、休憩に入った。彼らはかなりの激務であるために、体育祭への直接参加を免除されている。

昼食の時間が開始される。グラウンドにシートを敷いて食べる生徒はやはりかなり多いようだった。もちろん、食堂に行く人間も多いようだ。クワイツは食堂に行った。賢治は早めに木陰に良いポイントを確保していたので、そちらでみんなで食べることにした。立花先輩のクラスメイトが三人加わったので、女子ばかりの中に男子一人だけという事になり、賢治は少し気まずかった。何より、立花先輩のクラスメイト達の興味津々の視線が痛い。任務上の同僚だと言うことも出来ず、かなり肩身が狭い。

立花先輩が、最初に弁当箱を取り出す。結構大きめの弁当箱だ。ただし、中身はかなり不格好だった。卵焼きは焦げているし、ウィンナーは若干生焼けっぽい。眉をひそめる立花先輩の級友。さっきのクールな眼鏡の人だ。

「ねえ、キャム。 まさかあんた、自分で作ったの?」

「悪い?」

「悪くはないけど、メイドロボットにやらせればいいのに。 よほどのスキルがない限り、それが自然でしょ」

「いいの、たまにはね」

ひょいとウィンナーをつまむと、口に入れるルーフさん。相変わらず人間とは感覚が違うせいか、何の躊躇もないので、賢治の方が不安になった。咀嚼し、飲み込む。一連の動作は、不自然なことが無いように、外部からは見えた。

「若干生のようですけれど、食べられますわ」

「そ、そう」

「それより、被名島は?」

「僕ですか? 僕は静名に作ってもらいましたから、特に工夫はないですけれど。 一応、いつもより多めに作ってあります。 先輩も食べますか?」

弁当を開くと、色とりどりな料理が外気にさらされた。卵焼きは綺麗に焼けているし、魚のフライは良く揚がっている。漬け物類は食べやすいサイズに切り分けられ、ライスは寄らずに隅で白い島を形成している。

家庭用メイドロボットほどではないが、静名にもこれくらいのスキルはある。ロボットのスキルは、基本的に人類が作り上げてきた叡智の結晶だ。だがら上手なのは当たり前である。特に驚くこともない。

立花先輩の眉根が寄ったので、賢治は思わず精神的に退いた。何で怒っているのかがよく分からない。

それから、互いの弁当箱のおかずを交換しながら、雑談に入った。立花先輩の級友の一人は、美術部でも一緒になっている人だ。確か名前は樋村さん。ルーフさんと良く喋っている事が多い。美術部のメンバーとしては、一同の中でもっとも繊細な絵を描く。賢治と同じく、技術的にはまだまだ拙劣だ。ただ、彼女は非常に熱心で、藤原先生が教えることをぐんぐん吸収している。賢治よりも学習速度も意欲も上なので、すぐに追い越されることだろう。

ルーフさんの様子を時々伺いながら食事をする賢治に、立花先輩の級友の一番普通そうな雰囲気の人が声を掛けてきた。確か、アンさんと言う人だ。優しそうな人だが、恋愛ごとには興味津々な様子で、賢治のことを色々噂しているようだった。

「ね、ね。 被名島君って言ったよね。 キャムと一緒にいることが多いけど、どういう関係なの?」

「どういう関係って。 ええと、そのですね」

「使えそうだから部下にした。 それだけだよ」

さらりと立花先輩が言い、弁当箱を傾けて胃に食物を掻き込んだ。さっきの死闘で消耗したエネルギーは相当なものであったようで、賢治の弁当箱をじっと見てくる。視線が痛い。

「お腹すいたなあ。 そうだね、山羊呑んでから一週間したアナコンダくらい、今お腹がすいてる」

「た、食べますか?」

「うん」

ちょうど獲物を襲うアナコンダのように伸びてきた立花先生の手が、弁当箱を強奪。唖然とする賢治の前でがつがつ。まだ半分も食べていなかったのに、その後全てを食べられてしまう。これで背が伸びないことも、ついでに太らないことも信じがたい。賢治などは静名に消費カロリーを緻密に計算して貰って、体重を気にしながら食べているほどなのだ。それなのに、立花先輩と来たら。

体のつくりが基本的に違うのだろうなと、まだ物足りなさそうにしている立花先輩を見て、賢治は思った。

「キャムって、二人きりの時はどんな感じなの?」

「いつもと同じです。 僕とは根本的な作りが違う人なんだなって、思うことが多いですね」

「ふーん、何だか色気がないなあ」

「すみません」

色気もなにも無いのは事実だから仕方がないことだ。それに、賢治は立花先輩が選んだ人員ではない。レイ中佐が選んで、立花先輩の下に付けた人員だ。実際問題、レイ中佐の判断がなければ、今頃立花先輩とは何の関係もなかった可能性が極めて高い。賢治など、そんな程度の人物なのだ。

劣等感を感じた賢治は、ふと学校の外を見た。あちらでは、軍の人たちが万一に備えて、こちらを見守っていることだろう。自分にそんな価値があるのだろうかと、賢治はもう一つ寂しく思った。

 

食事が終わると、体育祭が再開される。賢治は陸上競技中心の参加なので、午後一番の玉おし競争ももちろん参加する。

玉おし競争は、棒を使ってサッカーボールを転がし、ゴールまで運ぶものである。三学年混合で行われる。

単純な競技だが、難易度は高い。足は一切使ってはいけないこと、かなりのボディバランスが必要になること、集中力も使うことなどから、体育祭でここしばらく推奨されている競技だという。事前に行われた説明でそう賢治は聞いた。

棒は各人に対して用意されるのだが、基本的に垂直に立てて、やっと地面につく程度の長さでしかない。このため、若干前傾姿勢気味にボールを押さなければならないため、負担も大きい。幸い百メートルだけだが、全力で走り抜くより体力がいるかも知れない。二回事前にシミュレーションとして走ったが、どちらもゴールするのが大変だった。

競技開始。この競技は五人ずつ走る形式だ。賢治は一番端の五番コースからスタート。いきなり隣の人がコース外にボールを弾いてしまったりと、波乱の展開である。

ボールを押し込むようにして進む。先に走っていた数チームを参考にしての走り方だ。先に走っていた二人がコースアウトしてしまったので、賢治がトップに躍り出た。アナウンスの声が、さっきより若干甲高い。副部長に切り替わったからだろう。

「おおっと、玉おし競争ですが、此処で一躍一年がトップに! ええと、一年三組の被名島賢治君! おお、賢治君は、あの二年の魔王立花さんの部下だそうです! いけ、魔王の部下!」

何だかいきなり恥ずかしい紹介をされて、賢治は顔から火が出そうに恥ずかしかったが、どうにか集中力を保つことには成功した。後ろが追い上げてくるのが分かる。だが、焦ったら負けだ。あくまでマイペースに、ボールを前に送り続ける。細い棒は、ほんの少しでも油断すると、たちまちボールをコースアウトさせてしまう。だから、気は抜けない。気を引き締めて、前に前に。

「魔王の部下被名島君、驚くべき集中力です! 二年の山田君、三年のジョネさんが追い上げていますが、しかし、これは追い切れない! 流石は魔王の部下! やれいけ魔王の部下! 君の勝利は目前だぞ!」

それにしても、魔王の部下などと言う言葉は、どこから出てきたのだろう。ゴールまであと10mと言うところで、ついに集中力がとぎれた。ボールがコースアウトしかける。その隙を突いて、後ろの二人が一気に追い上げてくる。此処で焦ったら終わりだと、言い聞かせる。

気配が追い上げてくるプレッシャーは、尋常ではない。だが、これでも毎日走り込んで鍛えているのだ。それに、いつも緊張を強いられてもいる。昔とは比べものにならないほど胆力も鍛えられているはずだ。

並ばれた。だが、直後に、並んできた三年の先輩が、ボールを弾いてしまう。今だと、最後の一押し。ゴールテープを、切った。

「魔王の部下被名島君、一位で完走! やりましたー!」

アナウンサーの興奮しきった声を聞いて、賢治は少し心配になった。良く喉がもつものだ。参加を免除されているのも無理がないなと思った。

運営委員の蛍先生が駆け寄ってきて、他の生徒と一緒にボールを持っていく。賢治の後ろでは、もう次の玉押し競争が開始されていた。

自分の一勝は、小さなものでしかなかったのだと、こう言う時に思う。だがしかし、それでも初めての一勝だ。

立花先輩は、丁度今玉押し競争と並行で行われている砲丸投げに参加中である。こっちも学校記録レベルの飛距離をたたき出しており、その身体能力の高さが分かる。ルーフさんもこれには参加する。賢治の見ているところ、かなりの飛距離を稼いでいた。喚声が上がる。ひょっとすると、これは立花先輩よりも飛んだか。

惜しい。残念だが、わずかに及ばなかった。それでも二人揃って学校記録レベルである。賢治にはとても真似できそうにない。

「噂の転校生、ルーフさん、惜しくも魔王立花さんには及びませんでしたが、それでも見事な記録です! 惜しみない拍手が送られています!」

思い出した。さっき、魔王の部下というのは、立花先輩がぽろりと出した言葉が元になっているはずだ。そうなると。

運営委員のテントを見る。アンさんが、ぺろりと舌を出していた。やはりあの人か。苦笑する。だが、不快ではなかった。かっては、周囲からのアプローチはそんなものさえ無かったのだ。マスコット扱いされ、つまりは人間だとは思われていなかった。周囲の男子は気色の悪い視線を向けてきていたし、女子達も酒の肴代わりに噂のネタにくらいにしか考えていなかった。

だが、今では一応人間として見られているような気がする。

立花先輩が戻ってきた。運営委員のテントの方を見ながら、立花先輩はどすが効いた声で言う。

「アンの奴。 後でフルコースだな」

「な、何のフルコースですか!?」

「内緒。 それよりも、さっきの」

「はい。 こちらです」

砲丸投げが行われているグラウンドを背中に、立花先輩は先ほどから続いていたレイ中佐とのやりとりをチェックする。チェックがかなり速い。賢治が一生懸命描いたメールが、すぐに読まれてしまうのは少し複雑だった。

「何だか、きな臭いな」

「確定情報では無い様ですけれど、死人まで出ているそうです」

「相変わらず物騒ですわね」

「ごめんねルーフさん。 地球人って、本当に殺し合いが好きな動物だから」

本当に申し訳なさそうに立花先輩が言った。賢治も申し訳ない。小走りでアンさんがこっちに来たので、すぐに口をつぐむ。

「キャームー」

無言で立花先輩がヘッドロックを掛ける。もがくアンさんに、立花先輩は沈みきった声で言った。

「フルコースね」

「ひっ! ご、ごめん! 放送部にさっき強引に取材されて、キャムのこと聞かれて、それが漏れたみたい!」

「いい訳はそれだけかあっ!」

「おおっと、これは場外乱闘か!? 二年の魔王立花さん、同級生にヘッドロックをし掛けています! ああっと、此方を見ました! こっちを睨んでいます! ああ、こっちに走ってきます! 凄い形相です! 火を吐きそうな雰囲気です! みなさん、どうやら私は此処までのようです! ああ、みなさんさようなら! さような……」

雑音。放送中断のテロップが、校舎一杯に映し出される。なぜ立花先輩が怒ったのか賢治にはよく分からなかったが、今の姿は魔王と呼ぶに相応しいものだと思った。放送部が見る間に壊滅していく。文字通り、為す術無く。これがフルコースか。恐怖のあまり、賢治は生唾を飲み込んでいた。暴力のフルコースと言うよりも、恐怖と絶望によって作り上げられたものであろう。

立花先輩がフルコースを実施している様を唖然と見守る賢治の肘を、ルーフさんが小突いた。

次の競技が始まる。賢治も参加するものだ。二人のどちらかがルーフさんの側に着くというのは確定事項である。

ちなみに、運営委員の蛍先生は、止めに入らなかった。自業自得だと思ったからだろう。賢治が頭の上で手を交差させて、遠くから立花先輩に告げる。目を回している放送部の副部長を離すと、立花先輩は本当に五月蠅そうな様子で、戻ってきた。

まだまだ、祭は続く。障害物競走に出ようと身を翻しかけた賢治は、呼び止められて振り返る。

「あ、そうだ。 被名島」

「はい?」

「さっきは一位おめでとう。 頑張ったね」

「……ありがとう、ございます」

凄く嬉しかった。涙が出そうになった。

次も頑張ろう。賢治は気合いを入れ直すと、障害物競走のスタート地点に走る。今日はまだまだ、幾らでも頑張れそうな気がした。

 

3,祭りの地下で

 

恰幅の良い中年男性であるヴァルケノス=フォーンは舌打ちした。人類の曙に貸しておいた何機かの戦闘ロボットのうち、二体の通信がとぎれたからである。直前の通信から言って、事故ではない。立国の攻撃で、沈黙したのだ。一機は遠距離からの狙撃で潰され、もう一機は自爆プログラムを動作する前に潰された。

立国は本腰を入れてきているらしく、思ったよりも強力な鎮圧部隊を繰り出してきている。最新鋭の軍用ロボットが相手でなければ遅れは取らないと本国の研究者共は豪語していた。ヴァルケノスもそう思っていた。つまり、敵は最新鋭の軍用ロボットを投入してきたのだろう。

すぐに本国とのつなぎに使っている諜報員に連絡を取る。人類の曙は損耗率が高く、悲鳴を上げ始めている。そろそろ切るか、或いはさらなる増援が必要になってくる。それらの判断をするのはヴァルケノスの仕事ではない。本国にいる上層部や、シミュレーションチームの仕事だ。携帯端末に、一見意味を成さない情報を流す。見た目には、夕食の献立にしか見えないが、立派な暗号だ。これを、数人を介して情報変換し、最終的に星間ネットに流す。それを見て、本国が判断をするのである。

情報を流し終えると、本国産の葉巻の先端部を切り、火をつけてくわえた。帝国は数少ない喫煙文化が残る国だ。外で見せてしまうと一発で素性がばれるので、隠れ家でしか吸えないのが億劫である。ひとしきり葉巻の香りと味を楽しむと、携帯灰皿に捨てる。そして、潜んでいたワゴンから出た。その間、運転席で雑誌を読む振りをしていたサポート要員は、身じろぎ一つしなかった。

ワゴンの外は公園である。のどかな光景。ボールを追いかけて、きゃあきゃあ遊んでいる子供達。公園維持用の監視ロボットが、道路にボールが飛び出したりしないように、無言でそれを見守っている。今時コンピューターと連動した安全装置が車にもついているものだが、それでも念には念を入れて、だ。民を守るための、最大限の努力がなされている。この平和な国をこれから踏みにじろうというのだから、心が痛む。だが本国のためだと思えば、ヴァルケノスは我慢することが出来た。

ヴァルケノスは帝国の特殊工作員である。立国では偽名を使い、来るべき大侵攻に備えて様々な活動に従事している。表向きの仕事は配管工事の業者であり、ダミー会社も立ち上げている。

この国は豊かだと、ヴァルケノスはワゴンに背中を預けながら思った。多少歪んではいるが、それでも首都星にホームレスはいない。国は基本的に豊かで、腐敗もしていない。民衆の声は明るく、文化の発展も著しい。本国とは、偉い違いだと、何度も思わされた。

しかし、この国の経済的システムを取り込むことが出来れば、本国だって変わるはずだと、ヴァルケノスは思う。本国のためだと考えながら、今まで数々の非道に手を染めてきた。人だってたくさん殺してきた。

死ぬ時は、それこそ完全な無が待っている。存在そのものが抹消され、ありとあらゆる悪罵が浴びせられることだろう。それが諜報員の宿命だ。時々虚しくなる。だが、これが自分の仕事なのだと言い聞かせて、非道を続けていく。いつしか、感覚も完全に麻痺していた。

ワゴンに乗り直す。携帯端末からメールが来た。妻を装っている諜報員からの返事だ。本国が返答を寄こしたという。一見夕食の献立に対する注文に見えるが、その内容は恐るべきものであった。運転席に頷く。雑誌をしまった助手は、すぐにワゴンを出した。

立国は既に、帝国が本格的な侵攻を計画していることに気付いている。もちろん、介入のタイミングを失敗すれば、連合のアシハラ元帥と正面から戦うことになる。そうなれば、侵攻どころではなくなる。帝国にも優れた将帥は多いが、あのアシハラ元帥と真っ正面から戦って、一方的な勝利を収められる者などいない。立国の軍も侮れない。戦いに勝っても、しばらくは大きな傷が残るだろう。

諜報員に自分は向かないのかも知れないと、ヴァルケノスは何度か自嘲する。だが結局、人殺しに躊躇は無い所を見ると、単なる不満らしいとも思う。

これから、また人を殺さなければならない。心の中で渦巻く雑念と葛藤は、収まる気配も見せなかった。

 

障害物競走のコースに連なっているハードルが、実にカラフルに彩色されていた。一つとして同じものはなく、実に独創的な色遣いである。

なるほど、これが藤原先生の工夫か。賢治は苦笑いしながら、美しく塗りたくられたハードルを見た。昔と違い、現在のハードルにはカラフルなものも多い。だがこれほど遊び心がこらされたハードルは、あまりないだろう。

本当に彩色を楽しんだ様子が、一目で分かる。芸術家としての藤原先生は、既に完全復活しているのだ。ハードルの向こうには平均台とマット、それに借り物競走の台が置いてある。一番奥には、パン食い競争の反重力制御台があった。オーソドックスな構成だ。一番手強いのは、借り物競走だろう。

既に競技が開始されており、何組かはもうコースの向こうに着いていた。放送部の副部長は保健室に去り、代わりに部長がまたアナウンスを始めていた。

「さて、ハプニングはありましたが、順調に体育祭は続いております。 中盤の山場、障害物競走が開始されております」

この競技も、学年ごとに別れて行う。もう一年生は半分くらい終わり、次の次が賢治の番だ。爆走していたクワイツが、トップでゴールした。マイペースで走っていた幸広が、苦笑いしながらビリでゴールする。悲喜こもごも、色々である。

賢治の番が来た。この競争では、クラウチングスタートは取らず、前傾姿勢から走り出すように指示がされている。障害物競走は、あくまで走る速さではなく、それぞれの創意工夫が試されるものだからだ。

光のテープが消える。同時に六人が走り出す。

ハードルを乗り越え、乗り越え、走る。藤原先生が一生懸命彩色したハードルだ。倒したりしたら失礼に当たる。もちろん耐久ペンキを使ってはいるだろうが、これは心意気というものだ。見る間に抜かれていく。やはり賢治は身体能力的に、まだまだ並の域を超えていない。今回は、周囲に強豪が揃っていたと言うことだ。

ハードルを乗り越えると、後ろには一人だけになっていた。そのまま平均台に飛び乗る。此処からは急ぐと却って良くない。落ちるとまた最初からやり直しになるからだ。

両手を拡げて、バランスを取りながら一歩、また一歩。前の一人がバランスを崩して、短い叫びと共に落ちる。彼はしぶしぶ最初に戻っていった。大幅な時間のロスだ。呼吸を整え、確実に、着実に進む。先頭を行っていた一人が、平均台を抜ける。向こうは向こう、此方は此方だ。焦らない。平常心を保ち、慎重に行く。

バランスを崩しかける。深呼吸。足がもつれかける。一旦とまる。冷や汗が流れるのを感じながら、どうにか突破。胸をなで下ろす。そして、再び走り出す。体力的な疲弊はあまり感じていない。

次の障害はマット。ランダムで様々な受け身を要求されるポイントだ。賢治は前周り受け身を要求される。すぐに前周りで受け身を取る。側にいた警備ロボットが、オッケーの判定を出してくれた。伊達に空手部でしごかれていない。何とか受け身も人並みには出来るようになってきた。再び走り出す。後ろには三人が追走してきている。さっきの平均台で抜くことが出来たのだ。

借り物競走の台に到着。此処が正念場だ。飛びついて、紙を開く。時間制限は30秒。それまでに発見できなければ失格となる。賢治が開いた紙には、女物のリボンと書かれていた。

素早く左右を見回す。蛍先生がいた。でも、先生はワカメみたいなウェーブヘアーを降ろしていて、リボンを持っているとは思えない。他にも、リボンを持っていそうな知人はルーフさんか。タイムリミットは間近である。走る。ルーフさんがいた。此方に気付き、手を振っているところに駆け寄る。呼吸を整えながら、紙を見せる。

「すみません。 リボン持っていませんか?」

「髪留めで良ければ、貸しますわよ。 あ」

「どうしました?」

「ごめんなさい、リボンではなくて、髪ゴムでしたわ」

肩が落ちる。隣にいた立花先輩が、ポニーテールに結っていた髪をほどく。肩先まで伸びている髪が、ばらけた。

前に同居した時に、髪を下ろしている先輩は見たことがあるが、髪をほどくところを見たのは初めてだ。ちょっとどきどきする。立花先輩はそんなことを知ってか知らずか、素っ気ない。

「ほら、すぐ返してよ」

「ありがとうございます」

一礼すると、すぐに戻る。先輩のリボンを見せると、許可が出た。手に握りしめて、汗がしみこんでしまっては大変だ。胸ポケットに入れると、再び走り出す。前を走る人数が、一人増えていた。パン食い競争の反重力制御台につく。

反重力制御台の隣には、それぞれ用のスペースがある。押し合いを避けるためだ。そのスペースの円内で、浮遊しているパンを、手を使わずに口で捕らえなければならない。台は固定されているので、勢い余って倒すこともない。またパンは上下に不規則に浮遊しており、かなり捕らえるタイミングが難しい。

最初に台に到達した生徒が、一生懸命パンに飛びついていたが、かなり苦戦していた。最初に抜けたのは、借り物競争で賢治を抜いた人だった。そのままゴールしていく。賢治は慎重にパンの様子を見る。

やがて、届く位置まで、パンが降りてきた。だが、まだ待つ。動きが、ゆっくりになっていく。食いつく。一発で成功した。

走り出す。前にいるのは二人だけ。すぐ後ろで、パンをキャッチした女子生徒。一気に追い上げてくる。デッドヒートになる。残り、わずか。上手くいくと、三位でゴールできる。欲が出てこない訳がない。だが、その瞬間、足がもつれた。転ぶのは避けるが、抜かれてしまう。

三位を取られた。賢治は四位でゴールした。

どっと疲れが襲ってきた。とぼとぼと、立花先輩の所にリボンを返しに行く。クワイツが追いついてきた。

「惜しかったな」

「うん。 ちょっと悔しかった」

「でも、いいんじゃないのか? 今までの万年ビリとは雲泥の差じゃんか。 さっきは一位だったし、今のも良い勝負だったぜ」

「うん、そうだよね」

クワイツの言うとおりだ。変な欲を出してしまったから、今は破れたのだ。あの女子生徒が勝ったのではない。賢治が自分に負けたのである。

クワイツはそのまま体育館へ向かった。体育館では、これからバスケットボールの試合がある。クワイツのチームが何処まで勝ち抜けるか、賢治にも興味がある。上位まで行けるといいのだが。

立花先輩は、腰に右手を当てて、賢治を待っていた。リボンを取り返すと、すぐに髪を縛り直す。二年生の障害物競走は、これからすぐだ。戦場に向かう二人を見送ると、鳴っている携帯端末を取る。

レイ中佐からだった。ボイスオンリーで電話が来ている時点で、とてつもなく嫌な予感がする。

「何でしょうか」

「そちら、体育祭は順調かしら」

「何とか上手くいっています」

「そう。 とりあえず、今のところそちらに危険はないわ。 今の内に、ある程度の現状を伝えておきます」

そして、確定情報が伝達された。

レイ中佐の同僚が、先ほど人類の曙の拠点を潰し、戦力を大きく削り取ったという。敵の拠点規模はかなり大きく、打撃は効果的であったそうだ。しかし、その戦いで此方も被害を受けたという。

幾つかの情報を総合する結果、人類の曙に、即座にテロを行う余力はない。少なくとも、首都星では動けない。それだけ、しっかり特務部隊が彼らを押さえ込み、叩きつぶしてきたからだ。

ただ、問題が一つある。彼らを支援している存在があることが、今回の戦いではっきりしたというのだ。

「その支援者の規模から考えると、何かしらのテロ行動を起こす可能性は極小ながらも否定は出来ません。 一応学校には対爆シールドを展開するように伝えてあります。 また、シノン少佐をはじめとする戦力が周囲に展開はしています。 いざというときにも、最悪生徒達が逃げる時間くらいは稼げるでしょう」

なかなか壮絶な話だが、賢治は覚悟していた。もう一度逃げる場合の経路を打ち合わせし直す。それから、レイ中佐は携帯端末での電話を切った。

立花先輩が、猛然と走り、周囲を蹴散らすようにして障害物競走を蹂躙していた。我流とはいえ武術をしているだけあり、バランス感覚も優れている。平均台を平然と走り抜けると、華麗に受け身を決めてみせる。ただし、その次で躓いた。

借り物競走で、右往左往。賢治を一瞬だけ見たが、すぐに視線を外す。何人かに抜かれ、やがてタイムオーバー。がっかりした様子で、ルーフさんの所に戻っていった。今日、立花先輩が参加した競技で、初めてではないだろうか。

次はルーフさんだ。いつの間にか、さっき立花先輩にヘッドロックを掛けられた、アンさんが隣に来ていた。

ルーフさんは立花先輩ほど速くはないが、それでも充分だった。平均台は立花先輩よりも速いくらいである。ボディバランスが人間離れしているのだと、賢治には分かった。無理もない話である。強度は人間に比べて瞬間風速的に劣るのかも知れないが、しかしその分決定的に柔軟という訳だ。

受け身も綺麗に決めたので、おおと賢治は思わず声を出していた。多分散々事前に練習してきてくれたのだろう。ルーフさんは真剣に地球人との交流を図ってくれている事が分かる。アンさんが、興味津々の様子で賢治を見た。

「お、被名島君。 ひょっとして、ルーフちゃんにも興味津々?」

「え? いや、そんなことは」

「両手に花かあ。 羨ましいなあ。 青春だな、このこの」

「いえ、そんな無茶な」

肘で小突かれる。苦笑いしか浮かんでこない。この人は、本当に恋愛ごとが好きなんだなと、賢治は思った。年頃の女の子はそんなものだと聞いてはいるが、ベクトルが違うとこんなに困ることだとは思わなかった。それに恋愛そのものに不信感のある賢治は、どうしても素直に照れたり困ったりすることが出来ない。

ルーフさんが、借り物競走をすんなりこなした。どうやら靴だったらしく、蛍先生の靴を借りてきていた。なんか変な仕掛けがしてありそうな靴だが、それでも規格から外れる訳ではない。

そのままパン食い競争へ。首を伸ばしてパンをゲットしたりしないか不安だったが、一応人間の可動範囲内で動いて、パンをゲットしてくれた。二年の陸上部エースが一緒に走っていて、彼がパンを一瞬速くゲットした。最後はデッドヒートになる。ゴールは殆ど同着となった。

陸上部の人が肩で息をついていたのに対し、ルーフさんはだいぶ力を抑えていたようだった。だが、それも本当はどうだか分からない。これ以上の力を出してはいけないと、レイ中佐に言われているのかも知れない。

「ところで、被名島君。 キャムは何で被名島君を子分にしたの? どんな風に出会ったの?」

「いや、それはよく分からないんです。 不意に選ばれたっていうか」

「へえ。 キャムって君みたいな、女の子みたいな綺麗系のが好みなのかな」

「そんなこともないと思いますよ。 自分より弱いのはいやだって言っていたような気がしますから」

男女で大して身体能力差が無くなっている現在としては、それは非常に古典的で珍しい考え方なのだと、賢治は知っている。だが、それは考え方というものだ。別に、社会的に害毒になるものでもないし、特に何とも思わない。

ルーフさんは一位になった。今日初めてのトップゴールである。アナウンサーが興奮した声で、噂の転校生が一位を取りましたとか騒いでいる。立花先輩が、ゴールのところで合流して戻ってくる。これから、三年が走る。スタートラインに立っていた空手部の主将が、賢治に気付いて手を振ってきた。

アンさんが、よく冷えたスポーツドリンクを、立花先輩とルーフさんに差し出す。さっきはあれほどじゃれていたのに、立花先輩も怒っている様子がない。何だか不思議な交友関係だ。

「お疲れー」

「うん。 ちょっと疲れた」

「キャム、残念だったね。 ルーフちゃん、一位おめでとう」

「ありがとうございます。 でも手加減してしまったようで、相手の方にちょっと申し訳ないですわ」

さっと青ざめる賢治に、ルーフさんは手加減はしていませんけれどと、付け加えてくれた。フォローしなくてもミスをカバーしてくれたので、安心一つ。群体が死ぬことを覚悟の上で本気を出したら、ルーフさんは多分立花先輩以上の能力があるはずだ。だが、それをやってはいけないと事前に釘を刺されている。きちんとそれを守ってくれているルーフさんは、とても真面目な人なのだなと賢治は思った。

アンさんが離れた。僅かな隙に、さっきのレイ中佐の連絡を伝える。立花先輩は、大きくため息をついた。

「そうか。 何だかよく分からないけれど、また戦争が起こるのかな」

「この国は平和だと聞いていましたのに。 余所の国はもっと酷いんでしょうね」

「残念ながら。 社会に余裕が出来て、芸術が復興すると同時に、地球人どうしで戦争も起こるようになりましたから」

「戦争なんて、ただの資源の無駄使いですわ。 何千年も繰り返せば、それくらい分かるような気がしてならないですのに」

ルーフさんの言葉に、糾弾するような響きはなかった。

ただ、不可解なことに対する、疑念だけが其処にあった。

 

4,祭りの終わり

 

帝国の大使館から、抗議声明が出たのは、15時過ぎのことであった。

工場での戦闘で、帝国製のロボットが回収されたことに対するものではない。帝国国境に、立国が艦隊を集結させようとしている事に対するものであった。声明は激烈な口調で立国の行動を非難しており、回答次第では宣戦布告も辞さないと息巻いていた。

ベイツは自宅でその声明を受け取り、すぐに大統領府に向かった。大統領は会食を早めに切り上げて戻ってくることが、既に決定されている。ベイツが大統領府に到着すると、続々と他の秘書官達も集まってきていた。その中の一人、もっとも年齢が上のアーク秘書官が、ベイツに話しかけてくる。

「里山くん、見たかね」

「はい。 相変わらず身勝手な言い分で腹が立ちますな」

「そんなことはどうでもいい。 あの第四帝国が身勝手なのは、今に始まったことではないからな」

第四帝国というのは、一種の俗称である。かの有名なる独裁者、アドルフ=ヒトラーが立てたナチスドイツが、無敵の第三帝国と自称していた事を起源とする揶揄だ。特に老齢の人間ほど、帝国をこう呼んで嫌悪する傾向がある。帝国で行われていた非人道的な数々の行為が、よく知られているからである。

アークはすっかり髪が白くなり、体の動きも鈍くなっているが、頭の働きに関しては衰えていない。大統領の個人的な友人でもあるこの秘書官は、まだ駆け出しだった頃の大統領を知る、数少ない人物だ。

「君は帝国の目的を、どう見る」

「やはり、侵略が目的でしょう」

「そうだろうな。 だが如何に帝国の最新鋭艦隊といえども、我が国の防衛線をそうやすやすと突破は出来ないと言うことだ。 奴らはどのような作戦を立てているのだ。 それだけが、これから大統領を交えた会議での焦点となるだろう。 君はどう思っているのかな」

「そうですね、私は……」

説明する。ベイツが睨んでいるのは、短期間での一点集中指向だ。戦線を電撃的に突破し、短期間で首都星を直撃するというものである。それで立国政府から和議にかこつけて多くの領土をむしり取り、勢力を拡大する。オーソドックスなやり方だ。

それを成し遂げるには、ごく短期間に、立国の要塞を幾つかと、宇宙艦隊の主力を撃破する実力が必要になる。既にシミュレーション班が試算を立てている。帝国の宇宙艦隊の内、侵攻に当てる余裕がある戦力は、総力戦体制を敷いたとして、およそ38000隻。実際には28500〜30200隻程度であろうと言われている。何にしても、想像を絶する大艦隊だ。何カ所かの国境に割いている防衛部隊も結集しなければ、とても太刀打ちは出来ない。

これだけせっかちな行動を帝国がしてきていると言うことは、戦争に勝つ自信があるのだろう。更に、帝国以外にも、地球連邦や法国の動きにも気を配らなければならない。一応友好国となっているが、もし隙を見せたら、国境に殺到して来かねないからだ。連合には、すぐに打診を飛ばしている。アシハラ艦隊が到着するのがいつになるか分からないが、それがはっきりすれば、戦略も立てやすくなる。

ああでもないこうでもないと話し合っている内に、大統領が戻ってきた。秘書官達がさっと左右に分かれて、礼をする。大統領が自席に座ると、不機嫌そうに左右を睥睨した。

「第四帝国の戦争狂どもが、宣戦布告に近いしろものを出してきたそうだな」

「御意にございます」

「あの独裁国家は、法国の酔っぱらいどもと一緒で、いつも戦の元となる。 周囲にしてみれば、良い迷惑だ。 そろそろ、此方も非戦主義などと言ってはいられなくなってきたな」

大統領の機嫌は相当に悪い。これからの数時間が相当に厳しくなることを、ベイツは肌で感じていた。

 

体育祭は、いよいよ終盤にさしかかっていた。

紅組と白組は得点面でもデッドヒートを繰り広げ、文字通り一進一退の攻防が続いていた。立花先輩のような得点ゲッターが確実に勝てる訳ではない辺りが、この大会の一筋縄ではいかない所を良く表している。

賢治は藤原先生に呼ばれて、美術部が作った道具類の運び出しを行っていた。最後に行う退場のために、みんなで作った道具である。立花先輩も文句を言いながら一生懸命作った。ルーフさんは楽しそうに作っていたが、残念ながらあまり上手には出来なかった。絵はそこそこに上手だったが、やはり得手不得手は誰にでもある。

藤原先生のメイドロボットと一緒に、長い棒をかつぐ。そのまま、グラウンドへ運ぶ。全部運び終えた頃には、流石に疲れていた。藤原先生が、ボールが一杯入った最後の箱を持ってくる。楽しそうに、ずっと笑顔を浮かべていた。

「藤原先生、お疲れ様です」

「あ、クリスパー先生、こちらこそお疲れ様です」

運営委員の蛍先生が来たので、藤原先生が笑顔で応対。以前はほとんど同僚とも口を利かなかったというから、驚くべき進歩だろう。藤原先生は、他の大人とも、最近は良く喋っている。男性教師達とも、以前とは違い、普通に接しているようだ。

「被名島君はもういいわよ。 あとは私たちでやっておくから」

「あ、はい。 ありがとうございます」

退場門は、この体育祭の締めとなる重要な設備だ。殆どの生徒は意にも介していないのだろうが、賢治にとっては大事なものである。此処しばらくは殆ど立体映像でまかなっていたらしいが、今回は実際に作った門だ。此処をくぐって体育祭を終わると思うと、感慨深いものがある。入場門は、既に片付けられ始めている。壊すのではなく、一旦解体して、来年にでも再利用するのだ。学校の予算は、決して無限ではない。藤原先生のメイドロボットが、素手でひょいひょいと釘を抜いているのが、遠目からも確認できた。

既に夕方近い。昔あった大きな事故のせいで、後夜祭という行事は廃止されて久しい。これが終われば、今日の祭りも締めである。

グラウンドの人口密度はかなり高くなってきていた。最後の全体競技である走り幅跳びのために、体育館やプールに行っていた生徒達が、集まってきている。事前に合流場所を決めておかなければ、立花先輩を捜すのは難しかっただろう。

周囲を見回すと、疲れている生徒が目立つようだった。バスケットボールなどの、体力を激しく消耗する競技に出ていた者に関しては仕方がないだろう。不思議と、賢治はあまり疲労を感じていない。さっき障害物競走で四位になった時は疲れたような気がしたが、今では平気だ。よく分からない話である。

立花先輩は、難しい顔をして、携帯端末を弄っていた。ルーフさんも隣で、残念そうに眉をひそめていた。

「お、戻ってきたか」

「どうしたんですか?」

「終わったらみんなで林さんところに行こうかって話をしてたでしょ。 今レイ中佐から連絡が来て、無理だって」

それを聞いて、大体の事情が分かる。何かあったのだ。それで、ルーフさんを危険にさらす可能性がある、林さんのお店で打ち上げというプランは流れてしまったのだろう。

「帝国が、宣戦布告でもしてきたんですかね」

「もしそうなら、今頃もっと大騒ぎになってるよ。 多分、それに近いことは起こったんだろうけど、まだ情報規制が掛かってるんじゃないのかな」

「なるほど。 しかし、林さんのお店に行けなくなるのは、残念ですね。 創作料理とかピータンはちょっと苦手ですけど、美味しいお店なのに」

「だから、あたしの家で出前を取ることにした。 フルコースは注文できないけど、ラーメンと炒飯くらいなら大丈夫だってさ」

やはり林さんのところでも、ラーメンをやっているのだと思うと、賢治はこの間調べたことを思い出してしまう。

ラーメンは地球時代の日本で高度かつ複雑に発達した麺料理だと賢治は聞いた。もっとも、近年では中華料理屋でもその完成度を見込んで、メニューに盛り込むのが当たり前だという。だから今は原理主義的な思想を持つ一部の中華料理屋でなければ、何処でもラーメンを味わう事が出来る。

料理人としてのプライドと、人格は別の問題だ。林さんは面白くて楽しい人であったが、一方でかなり料理人としてのプライドが高そうだった。だからひょっとしたらラーメンはないのかも知れないと、賢治は思っていた。

「私たち三人の他には、アンさんと、佳子さんと、後は樋村さんが来るそうですわ」

「僕はクワイツ呼んでも良いですか?」

「別に良いけれど。 そうなると、9人前か」

「まだ他に来るんですか?」

立花先輩は携帯端末を開きながら、あたしが三人前食べるのだと、普通のことのように言った。

クワイツを見つけたので、呼ぶ。一応説明すると、断られてしまった。何でも、今日は他の男子と一緒に、打ち上げに行くのだという。クワイツは彼女こそいないが、男子を中心に交友関係が広い。そうなると、一人分余ってしまう。

ちょっと言いづらかったが、林さんに電話を終えた立花先輩に、その事情を説明する。立花先輩は普通のことのように、言った。

「だったらあたしが四人前食べる」

「大丈夫ですか?」

「今日の消費カロリーから考えると、それでも少ないくらいだよ」

やはり普通のことのように、立花先輩はそう言った。賢治は返す言葉もない。

賢治が呼ばれる。一年が順次、走り幅跳びを始める。今日参加する最後の競技だ。賢治としても、今日は優勝を一つすることが出来たから満足だ。変に欲をかかずに、可能な限り自分の力を引き出したい。

数人ずつ並び、機械で測定していくから、ペースは速い。やがて、順番が来た。

 

幸広は賢治の少し後ろに並び、結果を見ていた。笑顔を保ったままだが、内心では大きく舌打ちしていた。

また、結果をのばしやがった。毒づく。地面をけりつけたい衝動に襲われるが、どうにかこらえた。

賢治はこの体育祭で、どの競技においても、今までの自分の記録を更新している。幅が小さかった競技も確かにあったが、しかし全てで力を伸ばしているというのは尋常ではない。特に障害物競走では、強豪と呼べるメンバーの中で、冷静に己の立ち位置を見失わず、健闘と言って良い結果を出していた。

やはり、不快だ。

20才を過ぎればただの人というのは、天才に対する揶揄として使われる言葉である。幸広はそれを強く意識していた。幸広も、いまだ能力が成長し続けている。強化ナノマシンの補助もあるが、それを抜いても、充分なほどの成果だ。しかし伸びの衰えも感じている。このまま行くと、本当にただの人になってしまうかも知れない。

神童と呼ばれた。天才とも呼ばれた。特に幼い頃は、周囲の誰もが幸広にはかなわなかった。だからこそに、己のプライドは高い。そして限界が見え始めた今、プライドは足かせになり始めていた。

順番が来たので、わざと平均値の結果を出して飛ぶ。運動神経は普通と言うことでキャラクターを作っているのだ。変に平均離れした結果を出すと、いぶかしまれる可能性が高い。何人か女子が世話を焼きに寄ってくる。適当に笑顔を振りまきながら、場を離れた。二年生の結果が出るのを待ってから、携帯端末を起動し、用意しておいたテンプレに結果を貼り付ける。それをメールしてから、同時にレイ中佐に連絡を取る。

「総合的な結果が出ました。 今、転送します」

「今見ている所よ。 へえ。 賢治君、また成長しているわね」

「ルーフさんも、よく自己制御していますね。 不自然な記録は一つも残していませんから。 チームリーダーの立花さんも、見事な結果を残していますし」

「カゲ一家のカニーネさんはまた子分達ともどもトラブルを起こしていたみたいだから、それから比べると立派なものだわ」

実際問題、スキマ一家はキャムティールや賢治の努力により、ステイ家族の中でも手が掛からない者達にと急速に変わりつつある。

その結果も、また幸広にはいらだたしかった。

通話を切ると、三年生の走り幅跳びが終わるのを確認。閉会式を行うというアナウンスが流れ始めていた。別人のように変わった藤原が、クリスパーと一緒にてきぱきと準備を行っている。生徒達は、おのおの校舎に散り始めていた。近年の体育祭では、閉会式が終わったら、それぞれが退場門をくぐることで祭りが終了となる。翌日は基本的に休みになるので、まだ体力が余っている若人は、打ち上げに行く場合も多い。

歯ぎしりがこぼれる。悔しくて仕方がない。何だあの成長速度は。このまま成長を続ければ、高校を出た頃には一体どうなっているのか。まさか、自分が追い越されるようなことになるのではないか。

賢治の成長速度に隠れてはいるが、あの立花もかなり成長してきている。恐らく、賢治に引きずられているのだろう。レイミティの選別眼は正しかったのだ。幸広が主体ではなく、あくまで補助要員になるべきだという判断もだ。

退場門から出る。帰路に就く生徒達を見送る先生達の笑顔がまぶしい。体育のアレクセイが、藤原と賢治の噂をしていた。うちに欲しかったなどとほざいている。

「ゆーきひーろくん」

「何ですか?」

肩を叩かれて振り向くと、女子生徒がいた。クラスメイトではない。あの立花相手に、かなり良い勝負をした女だ。ブロンズと言ったか。茶道部所属だとかで、もっとおとなしい女かと思っていたのだが。作り笑顔で見返す幸広に、ブロンズは言った。

「悔しそうだね」

「え? 何にですか?」

「同級生の被名島賢治君をずっと見ていたよね。 賢治君がここのところぐっと成績を上げてきているのを見て、悔しそうにしていたよね」

ブロンズの笑顔が消える。周囲に、他の生徒達はいなかった。

「あんた、あの子に何の用?」

「やだなあ。 考え過ぎじゃないですか?」

鋭い音がした。頬を張られたのだと、一瞬置いて気付く。憤怒がせり上がってくる。我慢しろ、我慢しろと言い聞かせる。この女は、あの立花と五分近い戦いを見せた化け物だ。幸広では、勝ち目が薄い。殺すつもりでなければ。

「正直さ、まとわりついてるのは、あの魔王だけで充分なんだよね。 あんた邪魔。 二度と私の賢治君に近寄らないでくれる?」

「ははは、怖いなあ。 一体、何ですか貴方は」

「……次にまとわりついてたらぶち殺すわよ。 あの子を手に入れるのは、魔王じゃなくて、私なんだから。 何のために努力してると思ってるのよ。 これ以上障害が増えるなんて、許せないわ。 許せないっていってんだろおっ!」

もう一撃、頬を張られた。更にもう一撃。膝蹴りを鳩尾に叩き込まれる。ブロンズとか言う女の目には、燃え上がる炎のような狂気が宿っていた。去っていくブロンズと言う女は、ぶつぶつ呟きながら、人気のない道を行く。時々けらけら笑っていた。

しばらく、頭がまともに働かなかった。呆然と突っ立っている幸広を見て、クラスの女子が駆け寄ってくる。心配して何か色々耳元で言っていたが、頭に入らなかった。

巫山戯やがって。巫山戯やがって。巫山戯やがって!

ゴミごときが、どこまでバカにしたら気が済む!

この時、幸広の頭の中で、何かが弾けた。

それは、彼の人生に、大きな影を落とし続けることとなる。

 

5,後片付け

 

みんなで作った退場門を後にすると、もう外は暗くなっていた。立花先輩の友達と、連れだって向かう先は決まっている。立花先輩の家だ。

林さんが、そろそろ来るはずだと、立花先輩は言っていた。大体の時間を指定して、出前を頼んだのだという。もし余った場合は、ルーフさんの家族にお裾分けすればいい。何しろお隣さんなのだから。

ぞろぞろと居間に入る。一番最初に口を開いたのは、佳子さんだった。

「思ったより綺麗にしているわね」

「いつもフォルトナに掃除させてるからね」

「フォルトナです。 よろしくお願いします」

一礼するフォルトナに、返事をする者は誰もいない。これが普通のことである。礼を返したのは、賢治だけだ。

最初にテーブルに着いたのは立花先輩だった。他の人たちも、順次テーブルに着いていく。最後にゲストであるルーフさんが、樋村さんの隣に座った。賢治はルーフさんの、逆側の隣に座る。

チャイムが鳴る。林さんが来たようだ。立花先輩が、フォルトナと一緒に料理を取りに行った。出前は、以前は家の中まで入って貰うのが主流だったという。現在のマナーでは、家の外で家長が料理を受け取るのが普通になっている。この場合は、立花先輩が取りに行くのがマナーという訳だ。

炒飯とラーメンが運ばれてくる。空の容器は、明日の朝に取りに来てくれるという。それほど良い器ではない。ありふれた耐久陶器だが、それでもよく使い込まれている感じがして、暖かみがあるなと賢治は思った。

全員分が配られた。立花先輩のテーブルだけ四人分並んでいるという異常事態だが、誰もそれを口にはしない。

食事に感謝する風習は、今は誰もが持っている。樋村さんが、クリスチャンとしての祈りを捧げていた。賢治は頂きますと言って箸に手を付ける。ルーフさんは箸とレンゲを見比べていたが、眉をひそめて賢治に言う。

「ええと、これは」

「麺を食べるのに、箸を使ってください。 スープ類はそちらのレンゲで」

「これほどスープの多い麺類は始めて見ましたわ。 少し温度も高すぎるようですし」

「麺に息を当てて、冷ましてから食べるのが普通です。 少し熱めですけれど、とても美味しいですから、挑戦してみてください」

以前三回目の会食をした時、チーズフォンデュが出た。初めて食べる料理に賢治は舌鼓を打ったが、その時ルーフさんはあまり熱すぎる料理は苦手だと言っていた。群体がダメージを受ける可能性があるからだ。今回は事前に許可を得ているとはいえ、ルーフさんには少し難しいのかも知れない。

ルーフさんはしばし考え込んでから、まずレンゲを手に取った。炒飯は前にも食べたことがあるからだろう。レンゲで崩して、さくさくと食べ始めている。しばらく炒飯から食べてから、ラーメンの麺を、箸で掴んで持ち上げる。しばらく小首を傾げていたルーフさんだが、やがて息を長く吹きかけて、しっかり冷めた分だけ口に入れた。そしてまた長く息を吹きかけ冷やして、食べる。

随分神経質な食べ方だ。隣で樋村さんがくすくすと笑っていた。

「ルーフさん、ラーメン食べるのは初めて?」

「ええ、初めてですわ」

「ほら、あちらの立花さんみたいに、最初息をかけて冷ませば、後はつるんと飲み込むことができるわよ」

「……」

困り果てた様子で、ルーフさんが賢治を見た。人間の舌とは構造が違うのだと言いたいのだろう。

実際問題、そのやり方だと舌は慣れるかも知れない。だがルーフさんの場合、厳密には舌どころか歯さえも無い。体内に落とし込んだら群体が分解し、栄養として輸送配分するのである。だから栄養価と刺激で食物を判断している。味など二の次である。最初はあまりにも不気味すぎて怖かったが、今は慣れた。

だいたい、ルーフさん達KV−α人にとっては、本来なら群体を栄養に落とし込み、個別に摂取させる方式が主体なのだ。ただでさえ無理がある食べ方を今はしている訳だ。ルーフさんから見れば人類に合わせて食べているわけで、そう言う意味では、最近は申し訳ないと感じることが出来るように賢治はなっていた。

「と、とりあえず、慣れるまでは冷ましながら食べるのがいいかと思いますよ。 ただ、時間が掛かりすぎると伸びてしまうので、気をつけてください」

「伸びると、どうなりますの?」

「美味しくなくなります」

「そうですか」

ルーフさんは困り果てて、考え込んだ。どうしようもなくなり、右往左往するこの人は、妙に可愛いところがあった。

わいわいと周囲の食事は進んでいる。立花先輩は既に一人前を平らげ、次に取りかかっていた。意外と食べるらしいアンさんが、立花先輩に続いて一人前を平らげ、もう一人分を食べ始めている。立花先輩も、それについては何も言わない。ひょっとすると、多めに取ったのは、これが目的だったのかも知れない。

賢治は試行錯誤しながら食べているルーフさんに気を使いながら食べていたので、どうしても時間が掛かった。ごちそうさまでしたという言葉に振り仰ぐと、一番小食そうな佳子さんが食べ終わっていた。立花先輩に到っては、三人前に取りかかろうとしている有様である。

ラーメンが伸びてしまう。案の定、林さんが作ったこのラーメンはとても美味しいので、伸ばしてしまってはもったいない。ふと見ると、コツを掴んだのか、或いはラーメン自身が適度にぬるくなったためか、ルーフさんも順調に食べ始めていた。賢治も慌ててラーメンを平らげに掛かる。チャーシューにとても良く肉汁がしみこんでいて、美味しい。スープまでしっかり飲み終える。周囲では、お片付けが始まっていた。

「フォルトナ、手伝って」

「かしこまりました」

「メイドロボットにやらせておけばいいじゃない」

「いいの。 うちでは、こういう風にやってるの」

立花先輩が腕まくりをして、食器を洗い場に。フォルトナと協力して、汚れを落としに掛かっている。食洗機にセットしては、次の食器を洗う。洗い終えた頃には、乾燥が終了した最初の食器がリジェクトされていた。

やっと炒飯を食べ終えた賢治は、苦労しながらスープを飲んでいるルーフさんに言って、炒飯のお皿を奧へ持っていった。手を泡だらけにしながら皿を洗っている立花先輩に耳打ちする。

「ルーフさん、随分苦労しながら食べていましたよ」

「分かってる。 だから、被名島を側に置いていたでしょ」

「え?」

「被名島ならそれなりに的確なアドバイスをするって思ったから、放置してたの。 あたしが彼処で口を出したら、不自然でしょうが」

少し苛立った様子で立花先輩は、賢治が差し出した炒飯皿をひったくった。信頼を受けていると感じて少し嬉しかったのと同時に、気恥ずかしくもある。ルーフさんを一人にしてはいけないと思って、席に戻る。かの人は丁度、何とか、ラーメンのつゆを飲み干した所だった。

「群体へのダメージは大丈夫ですか?」

「何とか。 器に触れて、熱を吸収して分散することで、どうにか冷やしましたわ。 この熱量であれば、群体がダメージを受けることもありません」

「そんなことも出来るんですか?」

「かなり疲労が激しいですけれど。 私ならこのくらいが限度でしょう。 うちの文明のトップエリートになると、群体のダメージなしで、風呂桶の熱量を吸収し尽くすくらいできますわよ」

それはまた凄い話だ。苦笑いしている賢治は、苦労させたせめてもの償いにと、ラーメン椀を受け取り、立花先輩の所に持っていった。ルーフさんはかなり疲れている様子で、樋村さんがハンカチを出して額を拭いていた。偽装がばれることは無いと思うが、ちょっと冷や冷やする。

「疲れたの? 横になる?」

「いえ、大丈夫ですわ」

心配そうに言う樋村さんに、笑顔で応じるルーフさん。だが、賢治が見たところ、確実にその動きは鈍くなりつつある。

ルーフさんの家が隣だと言うことは、樋村さんには知らせない方が良いと言う点で、既に結論は出ている。樋村さんはかなり寂しがり屋で、家を教えると押しかけかねないからだ。シャルハさんはともかく、まだ二人の子供は人間に会わせられる状況ではないので、それは望ましくない。

それから、流れ解散になった。アンさんが佳子さんと連れだって帰る。二人はタクシーを利用したようだった。最後まで残っていた樋村さんが引き上げると、賢治はどうにか一息ついた。ルーフさんが自分の肩を揉みながら言う。何カ所か、体の色が不自然に変わっていた。

「流石に今日は疲れましたわ」

「そうみたいだね。 ルーフさん、明日は休みだから、じっくり休んで」

「そうしますわ」

立花先輩が肩を貸すようにして、隣の家にルーフさんを連れて行く。フォルトナがそれに付き従った。賢治は立花先輩の家に一人置き去りにされて、しばしぼんやりしていた。少しの間だが、此処で一緒に暮らした。だが今日はまた、別の家に来たようで、緊張した。

ふと気付くと、顔を立花先輩に覗き込まれていた。

「もうルーフさんも帰ったよ。 後はあたしがやっておくから」

「あ、すみません。 僕にも何か負担できる分はありませんか?」

「体力的に限界なくせに、何を言ってるかな。 もう良いから、帰って体を休めて。 明日、シャルハさんの朝練につきあって貰うから、その時に疲れが残ってると困るでしょ」

そう言われると、返す言葉もないのが事実だった。

一人、夜道を帰る。タクシーを使おうかと思ったが、歩いて帰ることにした。帰ったらシャワーを浴びて、ゆっくり寝ようとも思った。

携帯端末が鳴る。メールが来たのだ。レイ中佐からだった。

「お疲れ様。 一つ、良くないお知らせがあります」

その先は、賢治を戦慄させるに充分だった。

「ここしばらく、賢治君をストーキングしている人間がいます。 まだ調査中のため、名前などは明かすことが出来ませんが、気をつけるようにしてください。 嫉妬がルーフさんに及ばないように細心の注意を払うこと」

思わず後ろを見てしまった。流石にぞっとしない。賢治などをストーキングして一体何の利益があるというのか。

それからは、早足で家に帰った。静名に念入りに警備をするように言い聞かせると、シャワーを手早く浴びて、ベットに潜り込む。

その晩は、悪夢を見た。だが、起きた時には思い出すことが出来なかった。その代わり恐怖だけが残っていて、寝起きは最悪だった。

どうやらまた一つ、賢治は乗り越えなければならない壁に直面してしまったようであった。

 

一通りメールを処理し終えると、レイミティはフランソワに後を任せて、仮眠室に向かった。体育祭が終わって、どうにか一息つくことが出来る。大変な一日だったが、カゲ一家の担当をしているクラップ隊などは七転八倒の有様だったと言うから、まだましだろう。そう言い聞かせて、精神的な衛生を保つ。汚いやり方だが、効果的だ。

ぼんやりとしながら、現況を整理する。状況は、加速度的に悪くなりつつある。どうやら帝国の侵攻が、ほぼ確実なものとなったらしい。KVーα星からは、既に打診が来ているとも言う。ステイ計画を余所の国家に委託しても良いというものである。だが、今のところ、大統領は動きを見せていない。

帝国は貪欲な国家で、政治もあまり評判が良くない。だがこの国の辺境でも、経済的格差を理由に様々な反社会的行為に走る者は少なくない。やっと人類は滅亡の危機を逃れたというのに、再び過去と同じ過ちを繰り返そうとしている。

考えることをやめると、ベットに潜り込む。シャワーは起きてからでいい。目を閉じると、すぐに眠ってしまった。強化ナノマシンの働きがなければ、確実に肌荒れして見苦しい状況になっていただろう。だが、人類は己の叡智をもって、脆弱さを克服した。レイミティに関しても、それは同じだ。

夢を見た。

幼い頃の夢であった。

絵に描いたようなエリートである現在だが、幼い頃からそうだったわけではない。7才くらいまでは、レイミティも特徴のない子供だった。少し物静かではあったが、甘いものとおままごとが好きで、所有する人形に名前を付けているような、何の変哲もない子供だった。

生まれが多少特殊であっても、不自由を感じたことはなかった。

IQが高いことが分かり、国立の進学校に進んだ。英才教育を受けて、常人より遙かに多い教育を受けた。欲求をかなえることが出来なくなったのは、いつからだろう。それになれていったのは、何歳からだっただろう。

夢の中でも、レイミティはずっと勉強をしていた。勉強が終わると、今度は仕事だった。今の幸広よりも更に若い頃から、レイミティは仕事をし続けていた。それだけが、毎日の構成要素だった。

目が覚めると、もう休憩時間は終わっていた。部屋の外にいた警護ロボットに、命令を一つ出すと、目を擦りながら執務室へ。フランソワがうつらうつらとしながら、必死にメールを処理している所であった。

引き継ぎを受ける。大統領府の混乱が、かなりフランソワの負担を増やしているようだった。兵をかき集め、連合の援軍を取り付ける作業に必死になっているのだ。しかもこの機を突いたテロに備えるためにも、最大限の兵員を動かさなければならない。幾つかのテロ組織も、野放しには出来ない。だから、混乱が産まれる。

フランソワの目の下に隈ができている。眠って良いと言うと、ほとんど夢遊病者のように、ふらつきながら寝室に消えた。

先ほど命令を出したロボットが戻ってくる。手には、山ほどのケーキ。軍本部ビルの近くにある、「評判の店」のものだ。

半分を部下達に配るようにと、命令。ポケットマネーから出したものだから、文句を言われる筋合いはない。このくらいなら、法と照らし合わせても、賄賂にはならない。ロボットは適当にケーキを見繕うと、前線に出ている兵士達の元へ、それを運んでいった。

残り半分をてづから冷蔵庫に。悩んだ末に、レイミティ自身は、特徴のないショートケーキを手にした。口に入れると、生クリームの甘みが一杯に広がる。酷使している脳に染み渡るようだった。イチゴの酸味が、また素晴らしい。良いアクセントになっている。

無駄な命令を下したことは殆ど無い。だが、たまにはそれもいいものだと、レイミティは思った。会食とはまた違う旨味がある。友達と食べるのも楽しい。だが、一人で美味しいものを食べるのがこんなに楽しいとは、思っても見なかった。

半ばテーブルマナーさえ無視して、ケーキを胃に流し込む。一度食べ始めると、とまらなかった。更にモンブランを冷蔵庫から出した。栗の渋い甘みが素晴らしい。ロールケーキも食べた。実に美味しい。練り込まれているチョコクリームが、短いが確実な幸せをもたらしてくれる。切り分けながら、食べる。スポンジの柔らかさも丁度いい。これは確かに評判になるだけある。美味しい。

貪るようにケーキを食べ終えてしまうと、それで楽しい時間は終わりだ。冷静なエリートが、戻ってきていた。残りのケーキを冷蔵庫に戻すと、作業に戻る。自分に打てる手は、全て打っておく。

来るべきXディがあるとしても、備えておけば結果は変わってくるはず。そう言い聞かせて、レイミティは最善と思える手を、打ち続けた。

根本的なところで、レイミティは仕事が好きなのかも知れない。ケーキの甘みが残る中、レイミティはそう思った。

 

(続)