学校の階段

 

序、学校

 

灰色の部屋に籠もっていたルーフが目を開ける。肌の擬態に異常なし。椅子か立ち上がると、監視カメラにウィンクする。

「時間ですわ。 開けてくださいます?」

「はい、ただいま」

応えたのは恐らくフランソワだろう。少し前から、レイ中佐に権限を拡大されて、直接ルーフに受け答えするようになっている。いつも腰が低くて、接しやすい人だ。地球人にしては、好戦的ではないとも思う。

ドアが開く。ドアは壁と一体化していたため。開くまでまったく見分けがつかない。地球人の技術は凄いなと思う。部屋を出ると、待っていた夫に高圧縮栄養ドリンクを貰う。擬態の維持の訓練は、いつも骨が折れる。一息に飲み干すルーフに、夫が賛嘆の声を上げた。

「流石だな。 この長時間、擬態を問題なく維持するなんて」

「これから毎日8時間程度はこんな空間にとどまることを考えると、ようやくというレベルですわ」

「でも、大したものだよ」

「ふふ、ありがとう」

話しているうちに、フランソワが小走りで来た。一緒に軍医も来る。すぐにバイタルサインなどをチェックされて、問題ないことを証明しなければならない。人間のバイタルサインとは根本的に違うため、検査方法も異なる。白いベットに寝かされたルーフは、人間の手に当たる部分や頭に当たる部分に、伸びてきたフレキシブルアームを見た。しばし、体内の全てをスキャンされる。やがて、検査は終わった。大柄な、チョコレート色の肌をした軍医が、結果を持ってくる。

「死亡群体無し。 ただ、疲労がかなり激しいようですので、気をつけてください」

「ご心配なく。 すぐに回復しますわ」

「それは分かっていますが、人前で死んだ群体をこぼされると困りますから」

適当に二つ返事で応えると、白くておもしろみのない服の上に、コートを被る。人間の実用服はどれもこれもおもしろみがないのに、儀礼用や求愛用の服はどうしてこうも面白いのか。そのギャップに、時々ルーフは困惑させられる。

ここしばらく、ルーフは学校に通うための、最終チェックを行っていた。学校の壁や天井などの変化のない風景の中で、如何に擬態を保つかというものである。そして、訓練の結果、毎日十五時間程度の擬態なら問題なくこなせるようになってきた。

この分なら、今までの例からも学校に問題なく行くことが出来ると、太鼓判を貰った。キャムのことが好きなルーフとしては、学校に通うことは楽しみでならない。しかも、美術の教師を向こうで用意してくれると言うではないか。来月初頭から登校が決まっているが、楽しみだ。

まだ子供で、家長でも無かった頃に、ルーフも学校に通った経験がある。ただそれは、地球人類の通うものとは根本的に違うものだ。だから、もう一度学校へ行くことは、あまり苦痛ではない。今から非常に楽しみでもある。

着替え室で、此処に来た時に着てきた服に替える。フリルが一杯ついた、お気に入りの一つだ。キャムに案内して貰って、洋服屋で買った一着である。店員がお似合いですよとほめてくれた。どうやらお世辞ではなかったようで、人間のオスが時々此方に視線を向けてくる。

降ろしていた髪を縛り、靴下を穿く。靴を履き終えた時には、もう外に迎えが来ていると、フランソワから連絡があった。建物を出る。軍の施設の一つで、表向きは老人用保養センターに偽装している。時々別のステイ家族にも会うので、かなり広域に活用されている施設なのだろう。

車を運転しているのは、シノン少佐だ。夫と二人車に乗り込むと、すぐに発進させる。スムーズな運転で、容姿とは裏腹に非常に丁寧である。運転の時、シノンは殆ど口を利かない。無駄が嫌いなのだろう。それでいて、世間話を振ればきちんと応じてくるのだから、よく分からない。

特にシノンに振るような話題もないので、携帯端末を弄る。キャムと賢治が、状況を心配しているのだ。すぐに通話がつながる。今日は人間の学生達にとって、休暇に当たる日だからだ。確か、この国が出来たとか言う記念の日だそうである。

「ルーフさん、検査はどうだった?」

「全く問題ありませんわ。 来月から、学校に行くことが出来るそうです」

声が少し弾んでいる。地球人が嬉しい時には、こういう反応が出ることを、キャムは学習している。それを反映しているのだ。

「良かった! 後は学校へ行くための基礎知識だけだね!」

「それはまだ不安ですし、キャムさんと賢治さんに聞くことにしますわ。 頼りにしていますわよ、先生」

笑いあう。それから少し雑談をして、電話を切った。シノンは無言でその様子を見ていたが、高速道路を降りた辺りで不意に言う。

「分かっていると思いますが、周辺には気をつけてください。 周囲には護衛を付けていますが、それでも何かあったらすぐに我らを呼ぶように。 悲鳴を上げるだけでも結構ですから」

「分かっていますわ」

最近シノンの部下が増えたことを、ルーフは知っている。今までいなかった若者がちらほら見られるようになったし、見たことのない多脚型の戦闘ロボットが時々護衛につくようになったからだ。恐らくレイ中佐の部隊が、拡張されたのだろう。手が足りないとぼやいていたフランソワも、最近は少し余裕が出てきたようで、笑顔が増え始めた。

家に着く。出迎えたアレックスにコートを預ける。奧で食事にしていた子供達が、地球人には聞き取れない音域で歓迎の意を伝えてくる。同じく地球人には聞き取れない音域で応えながら、土産を夫から受け取る。保温テーブルの上にのせると、子供達がざわざわ音を立てながらやってきた。

この間から、家族全員でケーキにはまっている。今回もケーキだ。しばらく色々な店で、一番奥が深いというショートケーキを頼んでいたが、今日はモンブランである。しかもチョコを混ぜた凝ったケーキである。味は全く分からないので、刺激で判断するのは皆同じだ。

「ほら、地球人形態をとりなさい。 食事はそれからですわ」

「家の中なんだし、いいじゃないか」

「いいえ。 この子達もそろそろキャムさんと賢治さんと交流して貰うことになるのだし、そろそろ人間形態の長期保持が出来るようにならないといけませんわ。  外で形態変化を解いてしまったら、レイ中佐にももみ消し仕切れないですわよ」

甘いことを言う夫をたしなめる。ルーフがもう一度少しきつめに言うと、しぶしぶといった様子で、子供達が人間形態を取り始める。服ごと偽装しようとしている娘に比べて、息子は体のみ偽装していた。これは、外でやられると困る。早く服を着るように言って、アレックスに持ってこさせた。

正しいか、合理的かは問題ではない。一番重要なのは、地球人類との関係は非常にデリケートだという事だ。地球人類は基本的に自己を絶対正義と考える種族である。友好関係を築くには、彼らの文化を「正しいもの」として譲歩しなければならない。此方の容姿でさえ、彼らの観念からは「気色が悪い」ため、隠蔽しなければならないのだ。

もし、逆の立場であったら。地球人は「誇り」とかいう概念を持ちだして、絶対に交流を拒否しただろう。彼らには分からないことが多い。だが幸いにも、今地球人類とは交流をしうる環境が整っている。それならば、慎重に戦いを避ける方向へ、物事を誘導していくのが建設的なやり方だ。

「もう少し、地球人類の事を教えておかないといけませんわね。 やはりテレビだけでは、情報が偏りますわ。 それにしても何というか、地球人のメディアって、精度が低くて困りますね。 文化はこれほど面白いというのに」

「まあまあ、最初はみんなそんなものさ」

「また、そんなことを。 貴方は子供達に甘すぎますわ」

息子に服を着るように言うと、テーブルに着く。

アレックスが全員分のフォークを配り、ケーキを分ける。小さな食べ物だが、栄養価的には充分だ。

問題があるとすれば、ルーフも始め、まだ食器の使い方がぎこちないことだろう。故郷では一切使うことが無かったので当然とも言えるが、こればかりは根本的な文化の違いを感じざるを得ない。面倒くさいし、非効率的だ。本当は食器でさえ必要ない気がするのだが、それは地球人類の身体構造から言っても仕方がないと我慢せざるを得ないだろう。

ケーキを食べ終えると、携帯端末が鳴った。レイ中佐からだった。

配置されるクラスが決定したという。予想は出来ていたが、キャムと同じ教室である。キャムの実力は、既に並の軍人を凌駕していると、シノンが言っていたのを、以前ルーフは聞いたことがある。体の良い護衛というわけだ。

それでも、ルーフには丁度いい。キャムのことは好きだし、孤独になることも無いからだ。それに、キャムの護衛能力には信頼感もある。生半可な相手では、キャムを倒すことは出来ないだろう。

ケーキは瞬く間に無くなった。子供達は、まだ咀嚼という表現を上手くできていない。やり方を良く見せながら、ルーフは思う。楽しい日々が来そうだ、と。

 

1,無数の蛹

 

屋上に幸広が出ると、風に吹かれながらキャンバスに向かっている女性がいた。夕方の、朱に染まった屋上で、白い服を着たその人は、一つの絵になっていた。

ただし、キャンバスはまだ真っ白だ。パレットにもまだ絵の具が置かれていない。腕組みしているその人は、小首を捻るようにして、何度か距離感を測っていた。何を書こうとしているのだろう。

歩み寄る。周囲に他の人はいない。特に妙齢の女性をだましやすい人たらしな笑みを浮かべながら、幸広は近づく。

「藤原先生、こんにちは。 何を描こうとしているんですか?」

「まだ決めていないわ」

「そうでしたか」

幸広は慎重に観察する。今回、この人の背後関係をしっかり洗い、危険性が無いことを確認するのが、幸広の仕事なのだ。

藤原ののか。二十五才。独身。

美術高校出身で、無気力に過ごしたという短期大学でも美術専攻。デザイン系には進まず、クラシック美術を本業にもしきれず。結局デザイン系の副業を細々とこなしながら、学校で美術の教師をしている。人生の負け犬であり、幸広にはもっとも忌むべき相手だ。エリートである幸広とは、永久に相容れない相手だとも思う。酷使し、搾取する以外に、使い道がない相手だとさえ思う。

だが、この負け犬の描く水彩画が、不思議と評価が高い。星間ネットなどでは筆を折って数年経ついまでも根強い人気がある。細々とこなしているデザインの仕事の方も、実は影でブランド化しているとさえ言われている。様々な評判があるが、一致しているのは途中精神的な挫折がなければ、今頃この国を代表する絵師の一人になっていたのではないかというものだ。現在の没落を嘆く絵画ファンも少なくないという。

藤原はつい最近まで、非常に野暮ったい格好で学校に出てきていた。精神的にも廃人同様で、キッチンドリンカー寸前の生活をしていたという噂も聞いている。しかし、それは過去の事だ。最近はこざっぱりして、ほどほどの化粧をし、充分見ることが出来る姿になって登校してくるようになった。酒の気配もない。眼鏡も牛乳瓶の底のような分厚い奴ではなく、ファッショナブルな朱いものを付けてくるようになっている。まるで別人のように、藤原は「綺麗に」なったのだ。

あまりの変貌ぶりに、男子生徒達の間では騒ぎになった。元々顔の造作は整っていて、それなりの格好さえすれば美女に分類されるのだ。大人の色気には致命的に欠けるものがあるが、その笑顔は実にさわやかで、見栄えがする。

男子生徒達の噂は現在彼女を中心としている。恋をしたのだとか、復縁したのだとか、言いたい邦題だが、幸広にはあまり興味がない。それらは事実とはほど遠かったし、後で統計でも取って一瞥すれば済むことだからだ。子供の心理状態など、いちいちまともに請け合うことさえばかばかしい。自分だって子供であるくせに、幸広はそんなことを真面目に考えている。

腕組みして唸っていた藤原は、しばらくしてようやく絵筆を手に取った。後は見事と言う他無かった。下書きさえ必要とせず、絵筆を生き物のように動かし始める。乱雑に色が置かれていたと思われた絵が、徐々に形を作っていく有様は、まさに圧巻だった。

縦横に動き回っていた絵筆が、動きを止めた。キャンバスには美しい風景が描かれていた。

空はあくまで青く、吸い込まれるようである。今は夕刻なのに、これはどういうことか。学校の屋上も、微妙に違う。今は無人なのに、笑顔でフェンスに背中を預けている女の子が、一人描かれている。この学校とは違う制服。屈託のない笑顔。何だか純真で、思わず足を止めて見入るような絵だ。

最後に、藤原は絵筆を取ると、その中に書き加えた。屋上の片隅に、植木鉢が一つ。不自然ではないが、目立つ色彩のそれは。

青い薔薇だった。

現在でも、青い薔薇は実現が成功していない。寓意は明らかだった。

そう。実在、しないもの。

「こんなものかな」

「綺麗な絵ですね」

「克服するべき過去よ。 でも、何とかこれで、克服できたかな」

ガレットからキャンバスを外す。後は絵の具を乾かすだけだ。手慣れた動作だが、それでも服や手には絵の具が散った跡が見られた。

そろそろ、日が沈む。テロ事件は一段落したとはいえ、夜まで無駄に学校にいることは、不審を買う原因となる。幸広はあくまで「幼い容姿をした可愛い男の子」を演じているのだから、他の視点を他人に持たせるとまずい。今は警戒されない行動を積み重ねていかなければならないのだ。

「ところで、こんなところで何をしているの?」

「いやあ、今日の催眠学習が凄く疲れたので、リフレッシュしようと思ったんです」

「ふうん」

藤原の返事は素っ気なく、そして僅かな非難を含んでいた。笑顔を保つのが大変だった。一瞬で嘘だと見抜かれたことに、幸広は気付いた。この負け犬、こんなに素の能力が高かったのかと、内心舌を巻く。意識が変わっただけで、人間はこうも能力が変わるものなのか。

いや、意識が変わったと言うよりも、今までずっと眠っていたのだろう。それが目覚めた。おそらく、切っ掛けはあの被名島賢治だ。一体どんな手品を使ったのだ。将棋を使って相手の心理を探り出すことを得意とする幸広だが、これは畑が違うこともあり、全く分からなかった。

「それじゃあ、リフレッシュも出来ましたから、失礼します」

「うん。 遅くならないようにね」

「分かっています。 先生こそ、気をつけてくださいね」

「はいはい」

屋上のドアを開けて、階段室に。一瞬だけ背後を伺う。だが、藤原はもう、此方に興味を無くしたようだった。

最近、被名島の携帯端末アドレスを教えて貰った。本当はずっと前から知っていたのだが、これで遠慮無く発破を掛けたり、さりげなく探りを入れたり出来る。最初は友達になったばかりだと言うことを考慮して、内容を厳選していかなければ行けないのが面倒くさい。いつの時代も、情報戦には時間が掛かるものだ。

早速メールを入れてみた。藤原に何を仕掛けたのか知りたい。返事が来た。思わず足を止めてしまった。驚愕と言うよりも、怒りを感じた。怪訝そうに他の女子が見ていたので、笑顔で誤魔化す。乳臭いこの年頃の女子には、適当にだましやすい外見を作っておかなければならない。面倒くさい話である。怒りも示すことが出来ないのだから。

メールには、本当に巫山戯たことが描いてあった。自宅であったら、携帯端末を床にたたきつけていたかも知れない。

「ただ、今の先生の絵が見てみたいって、言っただけだよ」

これだから芸術家と言う奴は嫌いだ。心底から、幸広はそう思う。精神構造が理解できない。意味が分からない。分析が出来ない相手など、気色が悪くて仕方がない。滅ぼしてしまった方が良いのではないかと、一瞬本気で考えてしまった。

欲望が強い人間ほど操りやすい。だが、それは欲望の方向性が一致しているからだ。根っからの芸術家は違う。全く精神の方向性が違う。欲求も異なる。今、それを幸広は思い知らされていた。

ただ、今の絵が見たいだと。それだけで、立ち直るというのか。時間は確かに掛かった。だが、何の薬の助けもなく、様々な精神治療プログラムの補完もなく、奴は立ち直ったというのか。

幸広は、被名島賢治を侮りすぎていたのかも知れない。そして藤原ののかも、である。

レイ中佐に連絡。藤原は信頼できるとメールを入れた。後は、帰ってからレポートを書く必要がある。監視役の仕事としては別に問題ない。だが、負け犬ごときが信じがたい方法で立ち直り、クズごときがそれを手助けしたという事実が不愉快で仕方がない。今更に、エリートである自分の尊厳が鎌首をもたげてくる。殺意がそれに伴っていた。

学校は面白い。だが、それも過去形になるかも知れない。ベルトウェイを急ぎ足で行きながら、幸広は今後のことを考えていた。

 

夕刻、絵の具が乾いたことを確認したののかは、裏手にある駐車場に向かった。背筋も伸び、一ヶ月前とは、見違えるようにしっかりした足取りだ。途中すれ違う生徒が、皆驚愕と共に此方を見る。視線を気にする余裕が出来てきてから、その変化の観察は趣味の一つになっていた。

今の、先生の絵が見たい。そう言われてから、不意に体が動くようになった。今まで自分を縛っていたのは、トラウマだけではない。その時感じた、誰も自分を必要としていないという現実だったのではないか。しかし、その現実も、今は崩れた。事実、自分の絵を見たがっている生徒が出てきたのだから。

数日で、気力が沸き上がってきた。絵筆を掴むことが出来てからは、奔流のように、眠っていた芸術への欲求が噴出してきた。絵を描く。絵を描く。もっと絵を描く。休日だったのが幸いした。文字通り寝食を忘れて、ひたすらに絵を描いた。そして、今日、過去を克服したのである。

駐車場に到着。自分の車である、パステルブルーの軽自動車の前に立つ。車にはクラシック美術用の画材がかなり積んである。画材は高級品だから、盗難防止のために、昔奮発して上級防犯機能を備えた車を買った。見かけは小さな軽自動車だが、実はバズーカ砲にも耐え抜く、強力な防御能力を備えている。大事な仕事道具の一つである。美術高を出た頃は、経済的にも余裕があったが、この車を買うことでほとんど吹っ飛んでしまった。だから心神喪失状態だった時期も、この車は大事にしていた。

網膜認証と指紋認証を済ませると、バックドアが開く。画材類を入れて、肩を叩きながら車に乗り込む。運転にはあまり自信がないので、オートで設定。欠伸をして栄養ドリンクのストローを咥えながら、さっき話しかけてきた幸広の事を思い出していた。

あれは少し前から、不審だと思っていた。どうして不審なのか、論理的な説明は出来ない。強いて言えば直感である。動作にしても言動にしても、全てが不自然に感じるのだ。女子生徒達は可愛い可愛いと喜んでいるが、腹に何かとんでもないものを抱えているような気がしてならない。

しかし、考えすぎだろうとも思う。此処は普通の二千校で、何か陰謀が入り込むような余地はないはずだ。

雨が降り出した。さっきまであれほど綺麗な夕焼けだったのに、野暮なことだ。西の方を見ると、夕焼けの残りを薄い雲が包み込みつつある。雲の流れが速い。携帯端末を操作してみると、これから夜半に掛けて本降りになるのだそうだ。

もう一つ欠伸。最近様々な意味でフルパワーで活動していたから、反動だ。人が見ていないところではつい欠伸を多くしてしまう。ここ数日、充実して仕方がない反面、疲労も凄まじい。頭を使うせいか、兎に角甘いものが欲しくて仕方がない日が続いている。眼精疲労も激しいので、帰ってから視力回復用の治療薬を目に差している。

途中、アイスクリーム屋で停止させる。ラムレーズンのアイスを買う。コーンから工夫しているアイスが魅力の店だ。此処にあるのはチェーン店で、ここ数年急激に勢力を伸ばしてきている。何にしても、美味しいアイスが食べられるのは良いことだ。遮雨フィールドを閉じて、車に再び乗り込む。ワイパーが左右に行き来している車の中で、無心にののかはアイスを貪った。

コーンまで綺麗に食べ終えた頃、丁度家に着く。メイドロボットが傘を持って車庫まで出迎えに来た。遮雨フィールドは展開すると結構電気代を食うので、こういう配慮をしてくれると嬉しい。

このメイドロボットには、色々恥ずかしいことをした。今でもしたことの数々を思うと、赤面してしまう。それでも無言で仕えてくれるのがロボットというものだとはいえ、何時か何かしらの形で補填をして上げたいと、ののかは考えていた。

家に道具類を運び込み終えて、ようやく一段落。携帯端末を立ち上げると、メールが来ていた。学校からだ。

校長に申請していた、美術部の件。許可が下りていた。今の時代、部活は基礎になる形を教師が作り、生徒が運営する形が一般的になっている。この学校でも同じである。メールには、特に拒否する理由もないと、校長のコメントが入っていた。さもありなん。

元々今通っている学校は、美術関連があまりにも弱すぎると、苦情があると聞いている。しかも虎の子であるはずの、ののかが半廃人となっていて、どうにも改善できない状況が続いていたのだ。ののかがやる気を出せば、二つ返事でオッケーを出してくれるのは、自然の成り行きとも言える。

さて、部活を作った後は、部員をどうするかだ。保温テーブルに作り置きされていた夕食のサンドイッチを口に運びながら、ののかは考える。

最近空手部に混じって体を鍛えているという、あの被名島賢治君は是非欲しい所だ。美術には興味があるみたいだし、今の年頃は何をやらせても伸びる。他にも何人か、目を付けている生徒はいる。勧誘は早めにやった方が良いだろう。

学校のイントラネットに情報広告を出しておく必要がある。テンプレートは用意されているので、それに基づいてデータを貼り付ける。本来なら、作業は一時間と掛からない。しかし、設立するのは美術部なのだ。此処は是非懲りたい。

あれから、絵筆をしっかり握り直すまで、二週間以上掛かった。少しずつリハビリを続けて、今日ようやく過去を乗り越えることが出来た。昔取った杵柄だから、技術面での衰えがなかったのは幸いだった。っそいて、意欲さえ復活すれば、後は描くだけであったのだ。

埃を被っているコンクールの絵に並べて、今日の絵を置く。その隣には、ここ数日で描いた何枚かの水彩画がある。

それを立体映像スキャナに取り込んで、部員募集のサイトに貼り付ける。立体映像作成ソフトは使わない。あくまで、自分で描いた絵をそのまま取り込むのだ。携帯端末から伸びたレーザー光が、激しく動きながら絵を解析している様子を見ながら、ののかは思惑を巡らせる。

美術部と言っても、入ってくる生徒に絵の具を使ったクラシックスタイルの美術を押しつける気は無い。不思議と頭は冴えていて、妙なこだわりは消え失せていた。他の人間がどんな芸術をやろうと勝手ではないかとさえ思う。あれほどクラシックスタイルの美術にこだわっていたというのに。

そのこだわりは、最後に残った己のプライドを守ろうとする、防衛本能の一つに過ぎなかったのかも知れない。芸術に対する欲求を取り戻した今では、不要な防波堤に過ぎないのかも知れない。

ただ、自分自身が地球時代のクラシック美術を中心に活動するという点では、今後も絶対に譲らないだろう。もしその技を引き継ぎたい人が出てくれば教える。そうでない人には、普通の美術を教える。それでいいと、ののかは思えるようになっていた。

作業が終わると、深夜になっていた。流石に疲れた。元々それほど体力に恵まれている方ではないのだ。素早くシャワーを浴びると、パジャマに着替えてそのままベットに倒れ込んで寝る。へとへとに疲れていたからか、却って気持ちよく眠ることが出来た。

かっては悪夢と同衾ばかりしていたのに。眠ることがこれほど気持ちいいのは何年ぶりだろう。目が覚めると、早朝。凄く気持ちがよい寝覚めだ。すぐに顔を洗って歯を磨き、着替えて出勤の準備をする。

これから、全てが上手くいくとは思っていない。高校時代から時が止まっていた。今、やっと動き出した。だが、動き出した時が、良いように進むとは限らない。時の変転を楽観視できるほど、もう子供ではない。挫折を味わった今、世の中が如何に悪意に満ちているかは理解しているし、子供が純真などとほど遠いこともしっかり経験している。だから、今後多少挫折したくらいでは、心は揺るがない。それくらいのことでは、もう心は砕けない。

さあ、今日も頑張ろう。ののかは静かに、そう決意した。朝食を口に入れる。とても美味しかった。

 

賢治が登校して学校のイントラネットにつなぐと、更新履歴に驚くべきものが上がっていた。美術部開始の連絡である。それも、クラシック美術だけではなく、他のものも扱う予定だと言うことだ。藤原先生は、完全復活した。しかも、妙なこだわりも消えているようだ。

すぐに立花先輩に連絡する。メールを入れてからチャットプログラムを起動すると、すぐに立花先輩は入ってきた。賢治が雑談のためにチャットを起動しないことを、立花先輩も知っているのだ。挨拶を済ませると、すぐに本題にはいる。

「藤原先生、完全にやる気になったみたいですね」

「うん。 確認したけれど、正直な話今も信じられない。 そんなに被名島の一言が効いたのかな」

「というよりも、先生は誰かに少しでも認めて欲しかっただけなんだと思います。 極端な話、僕じゃなくても良かったんじゃないかと、今では思えますね」

「あー、それは確かにそうだけど。 それにしても、こればっかりは最大サイズのイリエ鰐みたいに凄いわ。 まあ、これで計画は先に進むから良いけどさ」

チャットを切る。他の生徒が教室に入ってきたからだ。

賢治だって信じられない。というよりも、今回はたまたま上手くいっただけだろうと思う。

藤原先生に対する下調べは、静名に入念に行って貰った。その結果、先生が必要とされない悲しみに包まれている事は洞察できた。藤原先生の時間が、恐らく美術高を卒業する近辺で止まってしまっていると言うことも。孤独に耐えられる作家も芸術家もいる。だが、それが全てではない。評価されない苦しみから発狂してしまった作家は幾らでもいる。藤原先生は、その一人だったのだろう。

気の毒な話だが、藤原先生は社会的な評価など欲しがってはいなかったのだろう。ただ身近な人に、ちょっとだけでもいいから必要として欲しかったのだろう。だが、高校時代の痛ましい事件で、自分が客寄せに利用されていただけだと知ってしまった。だから、壊れて、凍り付いてしまった。事件の具体的な詳細は、今でも分からない。だが、概要だけでも、それが如何に痛ましいものだったかは分かる。完全な無気力と、人間不信に陥るには充分だったはずだ。賢治だって、同じような目に遭っていたら、重度の人間不信になったかも知れない。

それらが分かったから、時を動かすように、ああいう仕掛けをしてみた。ただ一言の鍵を心に挿してみた。そうしたら、氷が溶けて、戸が開いた。まさか此処まで上手くいくとは思ってもいなかった。一月近く時間は掛かったが、しかしそれでも成功は成功だ。ルーフさんは美術部に入りたがっている。部活に入っていない立花先輩も、恐らく監視をかねて入るだろう。もちろん賢治も入るつもりだ。こうしてみると、壮観である。エキセントリックな美術部になりそうだと、今から苦笑せざるを得ない。

レイ中佐にも連絡を入れる。お疲れ様というメールが帰ってきた。向こうもこれで、工作費をかなり削減できるはずだ。後は藤原先生の背後関係の洗い出しが残っているが、それも大体終わっているはずで、かなり負担を減らすことが出来るだろう。

自分が、複数の人の助けになることが出来た。それを賢治は理解した。理解はしたが、実感はしていない。実感することは、不遜だとさえ思う。それどころか、怖いとさえ思える。

藤原先生を、賢治は利用しようとしている。それは事実だ。だが、藤原先生の絵がすてきだと思ったのも本当である。何よりも、藤原先生の今の絵を見たいと思ったのも、正真正銘の本音である。

真相を知った時、藤原先生はどう思うのだろうか。また壊れてしまわないだろうか。自分は途轍もなく巨大な罪を犯したのではないか。そういう恐怖が、賢治の中で渦巻いていた。

先生が教室に入ってくる。HRの時間が来た。頭を切り換えると、情報整理用のテキストエディタを起動する。特に目新しい連絡は無いが、幾つかはメモをしておく必要があった。授業のスケジュールを起動する。今日は二時限目から体育で、最後に美術の時間がある。

どうした、胸を張れ。自分に言い聞かせる。最近は百メートルを十二秒台で走れるようになってきた。もう少しで平均に追いつく。藤原先生だって、賢治が放った一言で立ち直ることが出来た。これは誇るべき事なのだ。

打算のない行動など無い。それは分かっているが、しかし罪悪感が胸を刺す。いつか、天罰を受けるのではないかと、得体の知れない恐怖が渦巻く。

結局自分は小心なのだなと、賢治は思った。それは全くの事実だったので、苦笑さえ起こらなかった。

一時限目が終わると、当の藤原先生からメールが入っていた。賢治を直接指名して、美術部に入ってくれないかというものであった。特に反対する理由もない。かといって、すぐに食いついても不自然だと思われる可能性が高い。

今日の体育は、悩みながらすることになるだろうと、賢治は思った。これもまた事実だったので、感慨は何もなかった。

結局、体育の時間中悩み抜いた後、藤原先生には少し考えさせてくださいとメールを返した。最後の授業まで、しばらく時間がある。その時にはちゃんとした形で返答しようと、賢治は考えていた。

だが、その考えは甘かった。時間はあっという間に過ぎてしまうものなのである。

ふと気がつくと、昼休みは既に終わり、午後の授業も順次終わって、美術の時間が来ていた。今日は実技である。男子生徒達が、以前と違って積極的に美術室へ行くのを、賢治は脇で見ていた。この間からちゃんと身繕いするようになった藤原先生は、確かに綺麗だ。発情期である同級生達の行動は分からないでもないが、賢治は一緒にはとてもなれなかった。最後に、女子達と混じって最上階の美術室に向かう。やはり、気は重かった。それを悟られないようにしないと行けないので、ますます気は重い。

今の時代、美術の授業に道具類はいらないことが殆どだ。携帯端末にソフトをインストールして、それを用いることになる。学業用に開発された立体映像着色ソフトを使うのだ。流石に触覚までは再現できないが、かなり凝った仕様である。これを使って作った絵は芸術として認知されており、専門の作家まで存在している。だが、賢治には才能がない。絵が死ぬほど好きな訳でもない。とてもではないが、そんな作家にはなれそうもない。

「被名島、さっさと行こうぜ」

「え? うん」

一緒に最後まで残っていたクワイツが言った。最近、クワイツとつるんで行動することが多い。立花先輩は、同級生の友達がいることは良いことだと言っていた。賢治もそう思う。

「クワイツ、綺麗な女の人好きだったよね。 藤原先生を見に、他の男子みたいに急がないの?」

「お前、ストレートだな。 結構腹黒い?」

「なんだよそれ」

「わはははは、冗談だよ。 ていうか、藤原先生が美人だなんて、周知の事実だろ。 今まで野暮ったい格好だったけど、そんな事くらいじゃ美人は霞まねえよ。 前から知ってたことだし、今更何とも思わねえって」

驚かされた。ひょっとして、案外凄い奴なのかも知れないと、賢治は今の発言を聞いて思った。他の男子が誰も気付いていなかった事を、前から知っていたとすると、なかなか大したものだ。それに、二人で行けば、藤原先生の顔も見られないと言うことはないだろう。

生徒達の殆ど最後尾で、クワイツと一緒に行く。クワイツはどの女子がいい、どの先生がいいという話を、声のトーンも落とさずにしていたが、ふと賢治は気付いた。クワイツはいつも軽薄な話をしているが、それはいずれも本気ではないような気がするのだ。事実軽口には、重みがない。

クワイツの真意を疑うのには、もう一つ理由がある。本当に女子が好きな場合は手当たり次第に口説いたり、実際にカップルになったりする。性欲が何事にも優先するような、発情期の高校時代にはなおさらだ。それなのに、特にルックスがまずい訳でもないのに、クワイツにはその気がない。噂も聞かない。立花先輩も、クワイツの異性関係の噂は聞いたことがないと言っていた。

美術室に着く。白衣を着た藤原先生は、前と違って随分しっかりした格好をしていた。少し癖が強い髪の毛は、しっかり手入れされていた。眼鏡も赤くてお洒落な下半分のみのフレームが着いたタイプを使っている。化粧は薄いが、それでも綺麗だと思う。ただ、大人の色気は気の毒なほどにない。

にこりと笑顔を向けられたので、出来るだけ丁寧に目礼を返した。人は、こんなに変わるのかと、驚かされる。ちょっと意識が変わっただけだろうに。毎日綺麗になっていくと男子達が噂しているが、それも無理はない。

相変わらず機械類の操作が苦手な藤原先生だが、最近は授業もスムーズだ。詳しくは分からないが、支援ソフトを使っているらしい。蛍先生のようにメイドロボットを授業の支援に使う方法もあるのだが、そうしないのはなぜだか分からない。黒板に投影された絵一体映像は、分かり易い立体映像着色ソフトの使い方である。賢治が見ても、実に分かり易い。

授業開始。幾つか注意事項を話した後、藤原先生は教壇の上で少し身を乗り出すようにして言った。

「操作方法に関しては、機械音痴の私でも分かり易くて使いやすいと思える図を星間ネットで探してきました。 みなさんは、大丈夫ですか?」

調子の良い男子が何人か、大丈夫でーすとか言った。苦笑する何人かの女子。賢治も彼女らにあわせて苦笑してしまった。全く現金で、正直な奴らである。かっては気持ち悪くて嫌で仕方がない同級生達だった。今では魂胆が見えてきて、却って微笑ましいと思えるようになってきていた。

各自の机の上に、無色透明な立体の映像が浮かび上がる。積み木らしい。四角錐や、三角柱の様々なサイズの積み木が、重力を無視してアクロバティックにくみ上げられている。前に何度か見たことがある。それぞれの色彩センスを見るために、良く使われる教材だ。ランダムに立方体を組み合わせた映像を作り出し、それを彩色する。今回の教材では、立体が十を超えている。今まで作業した中では、最大級のサイズだ。

彩色用の道具類は色々準備されており、絵筆からスプレーまで様々だ。賢治は絵筆が好きだが、クワイツはスプレーで豪快に着色する。女子の中には、霧吹きを使うものもいるようだ。上級者になってくると、色鉛筆を使ったりするのだが、噂でしか聞いたことがない。また、色は十億種類程度用意されているので、彩色に困ることはない。

「今日は少し工夫をしてみましょう。 ベースになっているその映像を、こうやって動かします」

藤原先生がちょっとぎこちなく携帯端末を操作すると、積み木の山がぐるりと回転した。天地が入れ替わり、上下が真逆となる。生徒達もそれにならい、映像をひっくり返した。もともとアクロバティックな立体の積み重ねが、さらに壮絶なものとなった。

「それで、光源は下にあると考えて、着色してください。 少し暗い色彩の絵になるかも知れませんが、その辺りは各人で工夫してみてくださいね」

何だか、口調までが以前とは違う。前はいわゆるダウナー系で、美術史を喋る時以外は、兎に角退屈そうだった。今は違う。背筋は伸び、口調ははきはきしていて、聞き取りにくいこともない。美術史を語る時の口調が、此方にも移ってきた感じだ。柔らかい笑顔だが、瞳の奧には光があって、全てを見透かしているようにさえ思える。

藤原先生が手を叩いて、絵を描くようにと言ったので、作業を開始する。妙な拘束力が藤原先生の言葉にはあって、誰も逆らう者はいなかった。立体映像の絵筆をふるって、彩色を始める。絵筆の感触はないが、筆先の触れた部分が塗られていく手応えは素晴らしい。しばらく無心に筆を動かしていたが、やがて方針を決める。空色を中心に、全体を彩色していく。

幾つかの立体を塗り終えたところで気付く。配色のバランスが悪いような気がする。色々と配色を工夫してみるが、どうもしっくりこない。教室を歩き回っていた藤原先生が、後ろから笑顔で言った。

「被名島君、その水色は、少し薄めた方が良いと思いますよ。 全体的なバランスが悪くなりますから」

「ありがとうございます」

「それと、もう少しその立体を目立たせる工夫が欲しいかも知れませんね。 どこを中心に置くかで、絵の印象って随分変わってくるものです。 被名島君のセンスで、工夫してみてくださいね」

それだけいうと、先生はクワイツの方に指示を始めた。豪快きわまりない彩色をしていたクワイツに、全体的な彩色をスプレーでした後、絵筆と霧吹きで調整してみてはと言う。クワイツもなるほどと思ったらしく、言われたとおりに作業を始めた。豪快な中に、繊細さが混じる、見るからに良い立体が出来ていく。相当に見栄えがするので、賢治は驚いた。これは、ひょっとすると。クワイツは、才能があるのかも知れない。確か部活にも所属していないし、美術部に誘うのもありかも知れない。

凄く楽しい授業である。時々アドバイスをしてくれる藤原先生の言葉はいちいち的確で、思わずなるほどと思わされる。これならルーフさんが来た時も、過不足無く進めることが出来るような気がする。ルーフさんは根気があって粘り強いようなので、美術そのものも肌に合っているかも知れない。ただ、美術の場合、センスが全てであるから、まだ楽観は出来ない。

実に楽しい授業が終わる。次の美術で、仕上げを行うという。賢治は七割方彩色が終わったが、まだ隅っこの方が透明なままだ。オブジェを追加することも許可されているが、このまま終わらせようと賢治は決めていた。

教室への帰り道、クワイツが言う。終始もの凄く楽しそうに彩色をしていた彼は、少し上気していた。

「面白い授業だったな。 美術が楽しいって、初めて思ったぜ。 次の授業で、仕上げるのが楽しみだ」

「僕もだよ。 藤原先生の指示、的確だったね」

「ああ。 こういう授業が増えたら、もっとガッコも面白くなるのになあ」

「科学の蛍先生も面白い授業をするよね。 でも、全部こういう授業になったら、流石に少し疲れるかな」

遠慮無く話すことが出来るという点で、同性の友人は貴重だ。賢治はクワイツと話しながら、そう実感する。

美術部に入ることは決めた。立花先輩にも、メールでそれを告げた。既に内偵を進めているらしいレイ中佐のメールを見る分では、他にも何人か入りたいという生徒がいるという。既に吟味を始めているのだそうだ。

分かりきっていることだが、美術部の生徒が多すぎると、ルーフさんの護衛が大変になるからちょっと困る。静名を連れてくる必要があるかも知れない。藤原先生目当てでやってくるような男子生徒をどうにか出来れば、随分楽にはなるだろう。だがそういう生徒でも、人数は人数だ。活用する工夫が、今後は必要になってくるかも知れない。

HRが始まる。ルーフさんが学校に来るのも近い。そうなると、今までよりも更に忙しくなってくるだろう。テキストエディタに注意事項を書き込みながら、賢治は今後どうするべきなのか、せわしなく思考を働かせていた。

 

2、台風と竜巻

 

外に出る。朝の空気が気持ちいい。制服の埃を何度か入念に払うと、キャムは歩き始める。窓から手を振るルーフさんに軽く頷くと、小走りで学校へ向かう。

キャムは緊張していた。いよいよ、ルーフさんが学校へ行く日が来たからだ。

この日に備えて、しばらく前から準備をしていた。今日もいつもより更に早くから起き出して、レイ中佐と慎重に相談し、様々な打ち合わせをした。賢治も打ち合わせに混ぜたが、特にフォローが必要なこともなかった。

陽が昇った頃には、大体の準備は整っていた。軍が学校側に飼っている何人かの協力者も、準備を終えているという連絡。キャムが賢治と一緒にしなければならないことはさほど多くはないが、重要なことばかりだ。ルーフさんが襤褸を出した時にはフォローしなければならないし、友人が出来やすいように働きかけなくてはいけない。場合によっては、護衛をするだけの、軍の人たちよりも大変だ。

教室に滑り込む。一番乗りだ。早速机と一体化しているPCを立ち上げつつ、携帯端末を操作。学校に着いたことを、レイ中佐に連絡する。レイ中佐から即座に返信が来た。既に護衛部隊は、学校の周囲に展開しているという。

最近はフランソワ大尉が表に出てくることが多かったのだが、今日はレイ中佐が陣頭指揮をしている。これからも分かるように、軍は本腰で対処に掛かってきている。ミスをしたら、怒られるくらいではすまないだろう。生唾を飲み込むと、ルーフさんが来るまでに、するべき事を全てやっておく。

蛍先生からメールが来た。学校での協力者であることが知らされている数少ない人物である。当然蛍先生も、今日は駆り出されている。朝も早いというのに、お疲れ様と言わざるを得ない。

「おはよう、立花さん。 そちらはどんな様子?」

「こちらで予定していた準備は大体終わりました。 これから、他の先生とも連絡を取って、もう少し細部を詰めておこうと思います」

即座にメールを返す。蛍先生からも、即座に再返信がある。

「あら意外。 立花さん、随分しっかりしているのね」

「そりゃあ、嫌でもしっかりします」

夢の中で大盛りのご飯を食べて、毎日バイトに明け暮れていた日々が懐かしい。経済的には豊かになったが、その代わり多くのものが犠牲になった。プライバシーもその一つだ。幸せなのかそうでないのかは、よく分からない。

ふと窓の外を見ると、運動部が朝練を始めていた。この学校は、女子テニス部が強い。彼女らとは朝のランニング時にすれ違うことが多く、大会では助っ人を頼まれたこともある。何人かにはコネをつなげてあるので、いざというときは何か助けになるかも知れない。

マニュアルを整備しているうちに、賢治から連絡が来た。学校に到着したという。ルーフさんは一人で来る予定だ。もちろん念入りに特務部隊が護衛をする。賢治は今回、あまりすることもないが、場合によってはバックアップを頼むことになる。スケジュールの精査をやらせてもいいかと、キャムは思った。

チャットウィンドウを起動して、賢治にも入って貰う。いざというときには手助けをして貰うことになるので、リアルタイムで連絡できるようにしておくためだ。幾つかの書類を並行で片付けているうちに、無情なまでの速さで時間が過ぎていく。同級生がちらほら教室に入ってきた。チャットウィンドウを閉じて、肩を叩く。

「おはよう、立花さん」

「おはよ」

いつも話しかけてこない相手が、珍しく声を掛けてきた。同じクラスの、目立たない女子だ。確か名前は樋村とか言ったか。まさか此奴が何か目論んでいると言うことはないだろうが、少し緊張する。

「部活でもないのに、いつも朝早いね。 何してるの?」

「色々だよ。 こちとら毎日のように片付けなくちゃいけないことが山積みでね。 もううんざりしてるんだ」

「ふふ、その割には楽しそう」

何だか寂しそうに樋村は笑った。そういえば、樋村は誰か友達と話していることもなく、いつも教室の隅で寂しそうにしている。特に能力的に問題があるという事もないのに、なぜ一人でいるのかは、よく分からない。

「今日転校生が来るって聞いたんだけど、時々立花さんと走ってる子?」

「そうだよ。 長い名前だけど、ルーフさんってあたしは呼んでる」

「へえ。 どんな子なの?」

随分絡んでくるなと思いながらも、キャムは不快感を顔に出さないように苦労しながら、言葉を選んで応じる。既に、ルーフさんの仮の経歴は考えてある。ルーフさんの「両親」(言うまでもなく、実はお子さん)が務めている会社は、既に特務部隊が内務省と一緒にでっち上げ済みだ。

「好奇心が強い子かな。 ちょっとエキセントリックで、不快じゃない程度にわがままさんで、いつも困らされるけど」

「貴方にエキセントリックって言われるなんて、相当なのね」

「ははは、言ってくれるね」

まだ樋村は離れてくれない。笑顔が友好的な分、邪魔だとも言いにくい。元来、キャムはそれほど気が長い方ではない。既にどうやって仕事の続きをするかで、頭がいっぱいになりつつあった。

一瞬、こいつも学校内の協力者かと思った。実際問題、キャムだけではなく、このクラスに軍が協力者を確保している可能性は極めて高い。賢治にわざわざ指摘されなくてもそれくらいは分かる。目立ちにくいという特性を持っている、この樋村は適材だろう。しかし、それならば今はどれだけキャムが忙しいかは分かっているだろうに。

笑顔の奧で忙しく思惑を働かせるキャムに、樋村はなおも言った。

「私にも紹介してくれる?」

「いいけど、どうしてまた」

「それは、その。 言いにくいんだけど、私、友達少ないでしょ。 だから、寂しくて、ね」

「……そうか」

そう言われてしまうと、ルーフさんを紹介することもやぶさかではないと思う。寂しい事がどれだけ辛いかは、キャムも知っている。それに、恩を売る相手は、一人でも多い方がいい。ルーフも、最初に接する第三者地球人は、友好的な方が望ましいだろう。

低確率で、こいつがテロリストか何かのスパイだという可能性もある。その場合は、かなり危険だが、叩きつぶせば良いだけのことだとも思う。此奴の運動能力は大体把握している。本来の実力を隠蔽している様子もないし、キャムがその気になれば、数秒で首を折ることも出来る。いざとなったら、その覚悟も必要だろう。

「分かった、いいよ。 念を押しておくけど、かなり変わった子だから、其処は覚悟しておいてね」

「うん。 分かってる」

「それにしても、あたしに話しかけられるくらいなら、他の子と最初から仲良くしておけば良かったじゃん」

そう言うと、少し寂しそうに樋村は笑った。何か事情があるのかも知れないと、キャムは思ったが、追求はしない。それがマナーだと思ったからだ。もっと仲良くなってから、そう言うことは打ち明けてくれればいいのだ。

すでに教室には他の生徒達がかなり多くなっている。こうなると、どのみち作業はもう無理だ。開いていた通信ツール類を全て落とすと、教科書と、授業用のテキストエディタを準備する。

うわさ話が、嫌でも耳に飛び込んでくる。転校生であるルーフさんの事は、既に周知の事実であるようだった。もちろん、キャムが朝一緒に走っていることもだろう。そうなると話が早い。背後にいるキャムがしっかりしていることで、余計な虫が湧かずに済む。

さて、後数分。テストの前もそうだが、こういうカウントダウンは緊張する。しかもこう言う時に限って、ほどほどに緩みかけた瞬間を狙って来るのだからタチが悪い。苛立ちが徐々に高まる。チャイムが鳴る。ようやくかと思った瞬間、先生が教室に入ってきた。内心でため息が出た。ついでに、心を引き締める。

先生はルーフさんを連れている。童顔で背の低いルーフさんだが、制服が凄く似合う。金髪碧眼の彼女だが、学生服も、良く着こなしていた。流石に服が好きだと言うことはある。細かい部分まで、良く配慮が行き届いている様は、感嘆に値した。同じちび仲間のキャムなどは、いつも小学生が学生服を着ているようだとか陰口をたたかれるのに、そんな様子もない。大したものである。後は、無茶なことをしないように、側に着いていればいい。

「よーし、HRを始めるぞ。 その前に、皆に紹介する人がいる。 もう知っている奴も多いと思うが、転校生だ」

教壇で携帯端末を先生が操作すると、黒板に名前が浮かび上がった。意外なことに、フルネームだった。ひょっとしたらルーフを本名で通すのかも知れないと思っていたのだ。先生の脇に立っているルーフは、実に洗練された優雅な動作で、深々と一礼した。

「フィルアルドスルススルーフです。 よろしくお願いします。 是非、ルーフと呼んでくださいませ」

「あー、ルーフさんは会社のご令嬢だ。 色々事情があって、首都星にやってきた。 皆、仲良くしてくれ。 ルーフさん、自己紹介をしてくれるか?」

「はい、喜んで」

早くも男子生徒達が、ルーフさんの全身を舐めるように見回し始めたのを、キャムは感じた。場合によっては一人二人殴り倒さなければならなくなるかも知れない。まあ、キャムが側に着いているだけで、変なのは寄ってこないだろう。

ルーフさんの自己紹介は、事前に決めたとおりに進んだ。ダミー会社の紹介や、辺境での暮らしに軽く触れ、不自然ではないレベルで綺麗にまとめている。HRの時間はそれほど長くない。適当なところで自己紹介を切り上げると、後は授業に入る。

昔と違い、今は教科書の支援ツールがPC上に整備されているため、転校生もすぐに授業にとけ込むことが出来る。教科書は紙媒体としての補助書類に過ぎない。一時限目は数学であったが、ルーフは流石にステイに選ばれるだけのことはあり、問題なく指定された問題を解いていた。伊達にエリートでは無い訳だ。他の家族は、凡庸な能力だと聞いているが。

休み時間にはいると、案の定周囲に男子が群がってきた。別にルーフさんと仲良くするのは構わないのだが、ある程度距離を保ってもらえないと困る。それに、さっき紹介すると約束した樋村が、男子の壁の外で、右往左往していた。気弱な女子には、この時期の性欲丸出しな男子を怖がる者もいる。今時は珍しいが、その一人なのかも知れない。

たかが高校の授業をこなさせるだけとはいえ、簡単にはいかない。外にいる軍の護衛の人たちも、やきもきしているのでは無かろうか。それに、ルーフさんも地球人の子供にいきなり取り囲まれて難儀している様子である。ここはキャムが動かなければならない。

「はいはい、ストーップ。 あんたたち、群れない」

キャムが歩み寄ると、さっと男子達が散った。蒼白になっている者もいる。

同級生の女子とはおおむね友好的な関係を築いているキャムだが、男子とは必ずしもそうではない。下級生のように魔王がごとく恐れられてはいないが、それでも距離がある。以前何人か不良生徒に拳で言葉を伝えてからは、その距離は更に大きくなった。キャム自身はそれを後悔していない。こう言う時には、便利だとさえ思う。

睥睨。視線だけで辺りを制圧しながら、キャムは出来るだけ柔らかい声で、しかし威厳を含ませながら言う。

「はい、ルーフさんに質問ある人は、順番にね」

「……」

男子達は顔を見合わせ、互いに出るタイミングを計っているようだった。別にキャムは学級委員長でもなく、クラスのリーダー格でもない。だが、こう言う時には存在感を発揮できる。

「何か言いたいなら、自己紹介から始めたら?」

「わ、分かってるよ」

クラスでもリーダー格の男子が、困惑しきった様子で言った。ふと、その時キャムは気付く。ルーフさんが、袖を引っ張っていることに。

私は大丈夫だから、あまり派手に動かないで。視線でそう言っている。内心でため息一つ。まあ、釘は刺したからそれで良いかと思い直し、キャムは自席に戻った。男子達はまたちらほら集まり始める。

樋村にメールを入れる。ちょっと待って欲しいと。振り向くと、少し寂しそうに、樋村は頷いてくれた。自分は無力だなと、こう言う時思う。

授業が始まる。キャムはちょっとした罪悪感を、ずっと抱え続けていた。

 

昼休み。食堂に、ルーフさんと連れだって向かう。樋村も連れてきたが、どう喋って良いのか分からない様子だった。こればっかりはどうしていいか、キャムにも分からない。そもそも、ルーフさんが何を考えているのかも、いまだによく分からない。ぎこちなく挨拶をする樋村に、ルーフさんはいつも通りの笑顔で応えていたが、はてさて。このまま行って、友達になれるとは思えない。

そもそも友達とは何なのだろうと、キャムは思う。波長が合う人間というのは、何人か周囲にいる。毒舌の文学少女である佳子や、穏やかなアン・ミラーなどはそうだ。彼女らは時々釣るんではバカなことをするし、何日に一回かは昼食を一緒に採る。友達だとも、思う。

だが、その関係は、強固では無いとも思う。

佳子の場合、面白い本が見つかれば、キャムをそっちのけにそちらにのめり込むだろう。アンの場合は多分恋が引き金になるだろう。誰かを好きになった時、そちらをキャムより優先する可能性が極めて高い。

友達の糸などと言うのは、そんな程度のものだ。キャムはそう思っている。毎日のように一緒に行動しているルーフさんにしてもそれは変わりない。もし何かあったら。簡単に縁というものは切れてしまうのではないだろうか。無二の親友と言われた者達が、ちょっとした諍いから殺し合い、二度と交わることがなかったという例は、歴史上幾らでもある。事実、幾つかの例は習った。それらの例に、洋の東西や、国家は関係がなかった。人類の歴史上、幾らでも起こることだった。

孤独が長かった分、その恐怖はよく知っている。だから、殆ど面識がない樋村を、今回連れてきている。よく考えてみると、同情したからではない。むしろ、自身のことが気になったからだ。

友達とは何なんだろうと、もう一度キャムは自答した。だが、このような曖昧な概念に、決定的な答えなど無い。曖昧な概念である以上、各個人で、それは違ってくる。ふと、樋村に振り向く。寂しそうに笑っていた。一歩間違えば、自分もこうなっていたはずだ。たまたま力があったから、そうはならなかった。だが、もし貧弱だったらどうだったのだろう。

賢治のように、頭が良い奴はそれだけでいい。幾らでも使い道が見いだせる。だが、キャムのオツムは、お世辞にも良いとは言えない。ナノマシンによる身体能力強化は、今時誰でも行っている。キャムの場合、その効率が人よりも優れていた。だが、もし優れていなかったら。

寒気がする。色々世の中を儚みはしたが、それでも今は周囲に人が大勢いる。もし、キャムにこの能力が備わっていなかったら。やめた方が良いと思ったが、結論の導出はとまらなかった。

自分は、今後ろにいる、樋村のようになっていたのではないか。雷光のようにひらめいた結論が、己の胸を刺した。

樋村を蔑むつもりはないが、そうなっていたらと思うと恐ろしい。今の自分は存在せず、孤独で貧弱で、背も低くて見栄えも悪い子供が一人居ただけだ。それは、とても恐ろしいことなのではないかと思う。

「キャムさん、大丈夫ですの?」

「え? う、うん。 大丈夫大丈夫。 何ともないよ」

心配そうにルーフが言ったので、キャムは慌てて意識を引き戻す。今は仕事中だ。幾らまだまだガキだとはいえ、この程度のことで動揺していては、安定した生活やら豊かな将来など掴めはしない。自分に言い聞かせて、必死に震えを押し殺す。

だが、一度宿ってしまった恐怖は、なかなか消すことが出来なかった。

食堂に着く。使い方を教えると、ルーフはうんうんと頷いていた。三人で隅の机を使う。ルーフはなにやら誰も頼みそうもない、複雑な名前のスープ料理を注文していた。ちょっと不安になったので、耳打ちする。

「大丈夫? ちゃんと食べる動作再現できてる?」

「顎を動かすのも、喉を食物が通るのも、しっかり再現できていますわ。 アレックスに確認させていますもの」

「それなら安心と言いたいところだけれど、気をつけてよ。 周囲には地球人しかいないんだから」

「分かっていますわ」

額を軽くつつかれる。少しナイーブになっているかも知れない。ちょっと憮然としながら席に着くと、トレイを持った佳子が近づいてきた。

「キャム、隣座ってもいい?」

「いいけど、どうしたの? いつも此処じゃ食べないのに」

「ちょっと気分を変えたいの。 あるでしょう、たまに」

「脂っこいカルビ食べたくなったり、科学添加物まみれのお菓子を食べたくなったりするような感覚?」

そんなところ、と佳子は言った。クールな毒舌少女は、いつもと変わらない口調であった。少し安心する。佳子の毒を含んだ静かさは、キャムにとっては心地がよい。それが、どんな辛辣な内容でも、だ。

今まで、ほとんど樋村は喋っていない。ちらりと視線を送るが、どう喋って良いか、まだ分からないようだった。キャムもどう手助けしたものか良く分からない。安請け合いが、今更ながら痛い。

佳子が樋村に視線を向ける。そして、キャムが試行錯誤して、超えられなかった壁をすんなり抜けてみせる。

「樋村さん、珍しいわね。 一人でいるのが好きだと思っていたのだけれど」

「え? う、うん。 その、せっかく転校してきた人がいるから、仲良くしてみようと思って」

「ふうん。 それなら、もっと積極的に話さないと駄目よ。 ルーフさんも、どうして貴方が着いてきているのか、分からないでしょうし」

ストレートな物言いである。小首を傾げているルーフ。樋村は痛烈な言葉に一念発起したか、苦労しながらも話し始める。

「ルーフさん、私は樋村・エリシエルといいます。 できれば、友達として、今後は過ごしたいのだけれど、よろしいですか?」

「大歓迎ですわ。 丁度此方ではキャムさん以外の友達がいなくて、困っていたところですし」

「本当? 嬉しいわ」

ちょっとした言葉で、ぱっと樋村の様子が明るくなる。何だか簡単なんだなとキャムは思った。肘で小突かれる。佳子だった。

「力入り過ぎよ。 あの子が何者かは知らないけれど」

「うん、そうかも知れないね」

「いつも通りしていなさい。 貴方はそれで充分なんだから」

まだただの学生のはずの佳子に諭されるとは。キャムは苦笑した。言われてみれば確かにその通りである。少し肩に力が入りすぎていた。重要な任務だとはいえ、これでは本末転倒だ。下手をすると自分が何もしないうちに駄目になってしまうだろう。

それぞれに料理を食べ始める。様々な悩みは、まだ消えた訳ではない。だがどうにか、任務は軌道に乗ったようであった。

 

3,不倶戴天

 

世間一般的に休日であろうと、特務部隊にはあまり関係がない。

レイミティ中佐は、自室で報告書を幾つか受け取っていた。気分が優れない状態であったが、きちんと任務はこなす。ただ、気分があまりにも悪い時には、他の人には見られないように、のど飴を噛むようにしている。トイレに籠もって数分だが、それでもかなり気分は落ち着くのである。最近はフランソワの補助もあり、その時間も採れるようになってきていて、負担は減りつつある。

携帯端末から呼び出した幾つかの報告書。まず最初に目を通すのは、キャムが書いたものである。ルーフの登校計画初日は、幾つかのトラブルがあったものの、何とか終了した。自分自身の対応がまずかったとキャムは正直に書いていて、好感が持てる。それに、レイミティが見たところ、補強しきれないようなミスでもない。後からどうにもフォローが可能だし、キャムを怒る必要もない。此方は、キャムに任せておけば大丈夫だろう。

もう一つを起動する。此方は、調査中の軍から、具体的にはシャレッタから回して貰ったものである。

どうやら、人類の曙の背後にいるのは、帝国に間違いないらしい。自白剤を使った拷問の結果と、幾つかの証拠を分析する限り、この結論に変化はないようだ。

色々と気が重い話である。法国との戦いからほぼ立ち直っていると推察される帝国が本格的に介入して来るとなると、如何に豊かな立国といえども、総力戦体制を取らざるを得ない。もちろん借りを作ることを覚悟して、連合にも救援を要求しなければならなくなるだろう。宇宙最強の精鋭と言われる、連合のアシハラ艦隊を援軍に呼べれば勝機は見えてくるが、そう上手くいくかどうか。

一番厄介なのは、帝国は独自の技術体系を持つ国であるという事だ。しかも、その技術はかなり高い水準にある。

つまり、初見での戦いでは、かなりの被害が出ることが予想される。連合としても、虎の子のアシハラ艦隊を血みどろの消耗戦に巻き込みたがらないだろう。上手く援軍として出してくれるかは分からない。立国の艦隊がある程度迎撃戦で消耗してから、アシハラ艦隊がたっぷり政治的な貸しを付けた挙げ句、お出ましになるかも知れない。アシハラ元帥は公正な性格だと聞いているが、あくまで連合の軍人である。その行動は、国家の意向に従わざるを得ない。

これはレイミティが心配しても仕方がないことだ。レイミティは軍でのポジション的にも中堅どころに過ぎず、全体的な作戦行動に参加できるような権限はない。所詮悲しき中間管理職だ。だが、彼女の立場で心配しなければならないことも多々ある。例えば、独自の優れた技術を持つ帝国が敵に回るとなると、今の警備体制では足りないかも知れないのである。

不安は多い。軍の陣容は密かに強化されてはいるようだが、此方に最新装備をそう都合良く回してくれるかどうか。だが、回してもらえなければ、全てが瓦解する可能性も低くはないのだ。

他にも幾つかのレポートに目を通しておく。シノンからのレポートを見る限り、キャムは自身のレポート通りに初日をこなしたそうで、隠し事はなかったという。サポート要員への負担は軽微であったそうだ。また、今のところ、周辺に怪しい動きは無し。ルーフに近づいた女子生徒が一人居たが、既に素性は調査済み。特に問題はないそうである。

何とか初日は終わらせることが出来た。他のステイ家族の中には、既に一人ないし二人が学校や会社に顔を出している所がある。いずれも大した問題は発生しておらず、順調に推移している。そして、珍しく今日はKVーα星に行っている地球人家族のレポートが来ていた。此方も一つの家族で比較的大きめのトラブルが発生しているのを除くと、大した事はない。そのトラブルも、計画を根本的に崩すようなものではなく、派遣されている精神科医の診断では回復可能な程度のものだ。相互のステイ計画は、幾つかの問題を抱えながらも、何とか進行している。

立国でノウハウが確立されたら、今度は連合や地球連邦でも、似たようなステイ計画が予定されている。そのためにも、立国での計画は最重要だ。場合によっては、今後の人類社会の発展にも影響してくる。異星人が存在していることが分かった以上、それとの交友ノウハウが無ければ、人類の未来も明るいとは言い難いからだ。

レポートを見終わると、休憩時間が来た。携帯端末で、隣室で業務に当たっているフランソワを呼び出す。

「フランソワ大尉、休憩時間なので、後はよろしく」

「はい。 レイミティ中佐。 今そちらに行きます」

ぱたぱたとフランソワが部屋に飛び込んできた。引き継ぎの注意事項を幾つか口頭で告げると、休憩室に引っ込む。シャワーも用意されているのだが、今はいい。さっきの休憩で浴びたからだ。お医者さんから渡されている幾つかの薬を飲むと、軍服のまま布団に潜り込み、目を閉じた。今の状態なら、三時間程度は眠ることが出来るはずだ。

ふっと気を抜くと、もう落ちてしまう。そして目を覚ますと、しっかり三時間が経過していた。以前が如何に無茶な仕事だったか、これでよく分かる。シノンが指揮する実働班にも、既にシフトで仕事を回すように指示はしてある。人員が増強されたから出来ることではあるが、しかしきつい。

枕元を見る。呼び出しアラームは点滅していない。つまり、特に大きな事は無かったと言うことだ。

執務室に戻ると、フランソワが凄まじい勢いでメールを整理し、精査を行っていた。目を擦りながら、引き継ぎを受ける。今度はフランソワが休む番だ。多少ふらつきながら休憩室に向かうフランソワを見送ると、素早く彼女の仕事に目を通す。問題なし。レイミティに比べると若干劣るが、それでも留守番を任せるには充分な人材だ。メールに目を通しながら、見苦しくない程度に化粧を直す。女はこういう作業があるから面倒くさい。

ふと気付くと、深夜四時を回っていた。もう一がんばりした後、八時間ほどの長時間休憩を入れることにしよう。そう決めた。休憩を入れられる時は、徹底的に休むようにと、医者には言われている。特に、今後何が起こるか分からない現状である。今の内に少しでも休んでおかなければならない。だが、一度仕事に手が着くと、なかなか終わらせることが出来なくなる。じりじりと、時間が過ぎていった。結局長休憩は取ることが出来ず、互いに数時間ずつ休みながら仕事を処理していく。

陽が空の頂点に昇る頃、キャムからメールが飛んできた。せっかくの休日なので、ルーフとシャルハを連れてこれから出かけると言う。シノンに護衛するようにメールを出しかけて、そして緊急メールの到来に気付いた。

どうやら、休憩が無くなったらしいことを、レイミティは知った。

フランソワを呼び出す。彼女は休憩時、兎さんがプリントされたパジャマを着て、にんじんの抱き枕で寝るのだそうだ。個人の嗜好に注文を付ける気はないが、まさかその格好のまま飛び出してこないだろうなと不安を覚えた。幸いにも、そんなことはなかった。ただし、軍服はかなり着崩していた。口元には、寝涎の跡がある。

執務室に飛び込んできた、血相を変えたフランソワに、レイミティは口調を変えて言った。

「緊急事態です。 クラップ中佐から、連絡が来ました」

「はい」

「クラップ中佐が監督しているカゲ一家の家長が、交流任務を行っている二人と一緒に、消息を絶っているそうです」

「またですか!?」

フランソワがへの字に口を曲げて、凄く嫌そうに言った。無理もない話である。せっかく状況が落ち着いたというのに、あの一家のせいで、今まで四回休憩が潰れている。言動はアレだが比較的迷惑はかけないスキマ一家と違い、時々突拍子もない行動をするカゲ一家は、今一番迷惑な存在だった。

「多分遊びに出ているだけだとは思いますが、もしもの事があります。 全情報網を駆使して、捕捉してください。 安全確保には、クラップ中佐の部隊が当たります」

「はい。 もう、あの人達は」

フランソワがぼやいたのは、カゲ一家に対してか、クラップ隊に対してか。余所の隊に迷惑を掛けてしまった経験があるレイミティは、あまり彼女のぼやきを止める気にはなれなかった。

クラップ隊は新設されたばかりで、能力的にもかなり心許ない連中である。以前はベテランのガート中佐が指揮する部隊がカゲ一家の護衛任務に当たっていたのだが、負担が大きすぎると言うことで、新設されたクラップ隊に仕事が移ったのだ。だが、それが逆に災いしてしまっている。

それより、問題なのはカゲ一家の家長である。ルーフの知人であるかの人物は、能力面ではかなり高いのだが、性格面での難があるとして、ステイ計画の参加を見送られていた札付きの人物だ。過激思想の持ち主であったり、偏狭な性格である事はない。だが、異常に奔放なのだ。

社会的な地位が高い女性が、奔放でわがままである事は、地球人の社会でもままある事だ。そう言う意味では、KV−α星人でも似たような性質の持ち主がいることが分かり、親近感は持てる。しかしそれのお守りをする人間としては、ぞっとしない。その上タチが悪いことに、交流任務を行っている二人が彼女に心酔してしまっており、暴走を妨げられていないのだ。

クラップ中佐からの通信。頭を深々と下げるクラップに、かなり努力して笑顔を作りながら、レイミティは社交辞令を行った。情報交換を行い、通信を切ると、ため息一つ。胃薬が欲しい。

ぼやいていても仕方がない。幾つかの手を打つ。その中には、ルーフへの連絡もある。ルーフを異常にライバル視しているというカゲ一家の家長だ。何かしらのコンタクトを取る可能性がある。そればかりか、ルーフに関係して何かしようとしているという仮説さえ立てられる。

GPSや追跡探査装置も、今のところ役に立っていない。幾つかの方向に探査の手を伸ばしているが、どこも成果はない。やきもきするレイミティをあざ笑うように、時間ばかりが過ぎていった。

 

その三人は、非常に目立った。事実、通り過ぎる人間は、半数以上がぎょっとして振り返っていた。

一人は長身の女性である。年齢は高校生くらいだろう。ウェーブの掛かった銀髪が綺麗な、まずまず整った顔立ちだ。ただ、堂々たる長身と裏腹に、目には力が無く、不安そうに辺りを見回している。

背丈と並んで特徴的なのは、あまりに独創的なその服のセンスであろう。黒地のサマーセーターを着ているのだが、服の中央にはでかでかと白い字で「クリームソース」と書かれている。このようなデザインの服は量産品として販売していないから、特注である。クリームソースに何かしらの複雑なこだわりがあり、彼女自身が指定して服に書かせているという訳だ。

もう一人は、女性より更に長身の男性だ。此方も高校生くらいだろう。全身はちきれんばかりの筋肉に覆われており、辺りを睥睨しては馬鹿笑いをしている。金色の髪は短く刈り込んでおり、顎は四角く、顔のパーツは全てが極端に大きい。健康であると全身でアピールしているような青年である。地球時代の米国でもてはやされそうな容姿だ。

そして、最後の一人。二人の間を胸を張って歩いているのは、如何にも気が強そうな女性である。年齢はどうみても中学生程度。童顔だが、つり上がった目には苛烈な光があり、桜色の唇は不遜に引き結んでいる。如何にも自信満々という容姿であり、足下は高いヒールに固め、なぜか兎の耳をあしらったカチューシャをしている。青紫の瞳が左右に動くのは、何か面白そうなものを探しているのだろう。

「カニーネさん、やっぱりもう帰りましょうよ。 クラップ中佐も、心配しているでしょうし」

「ぐわはははははは、グレーチェル先輩は相変わらず心配性ですなあ! 何かあったらこの我が輩の! 美しき筋肉が! 正義と鉄の暴風となって敵をなぎ払いますとも! 心配はご無用!」

道のど真ん中で不意にポージングを行う青年。筋肉が服を内側から破りそうなほどに、その質感は凄まじい。あまりにも異様な光景に、通行人が数名、飛び退くようにして避けた。少女はそれを気にもせず、言う。威風堂々と表現するより、もはやそれは傲岸不遜に近い。

「ヘンデルの言うとおりだぞ、グレーチェル。 我らはただお忍びで遊びに来ているだけであるのだ! である以上、何も恥じることはない! もともとクラップ中佐は、我らを護衛する任務を有している輩だ。 それが仕事なのだ! ならば、我らがどう動こうと、護衛するのが奴の役目! 我らは気にせず、遊び回ればよい! 我らを見失ったというのなら、それは奴の能力不足! 我らが困ることではない! わははははははは!」

「その通りですな! ぐわははははははは!」

カニーネと呼ばれた少女がもう一つ高笑いすると、ヘンデルと呼ばれた青年がもう一つ馬鹿笑いする。そして再び無意味に炸裂するポージング。今度は少女もなにやら怪しげなポージングを実施。異様な息の合いかたである。

ため息をつくグレーチェル。

そう。この三人こそが、クラップ中佐の胃に穴を開けようとしている張本人。カゲ一家の家長であるキルカカニーネヴァルギルアーフと、交流要員として用意された高校生である。

グレーチェルは現在高校三年生、ヘンデルは高校一年生になる。服のセンスの異様さを除くと、気弱で常識的なグレーチェルが一応ステイ要員を引っ張るポジションにあるのだが、上手く行っているとは言いがたい。全ステイ家族でも屈指の変人であるカニーネのお守りは流石にこなしきれず、時々精神安定剤を口にしているのが実情だ。さっきも二人が長距離移動用のリニアモーターカーの中で奇行を繰り返していたので、何粒か精神安定剤を口に入れていた。

「ところで、グレーチェル。 そろそろルーフのいる場所は近いのか?」

「もう彼女の住んでいる市街に到着しましたよ。 ただ、ルーフさんの家は我らには知らされていませんから、此処からは偶然の遭遇に期待するしかありませんけれど」

「いっそ人間体を解除するかな。 そうすれば効率よく探すことが出来るのだが」

とんでもないことを言い出すカニーネを、慌ててグレーチェルが止める。服のセンスは色々とおかしいが、しかし頭の方は常識的に働くのだ。

「絶対にやめてください。 それに群体の状態だと、天敵になるような動物も何種かいますし、危険ですよ」

「そうか? 面倒くさい話だな」

「ぐわははははは、先輩、ナイスフォローですな! ここは先輩を讃えて、我が美しき筋肉を……」

「あんたは黙ってなさい! もう、それで探すのに、何かプランはありますか?」

結局の所、カニーネの暴走を止めていない辺り、グレーチェルも同じ穴の狢なのかも知れない。

「そんなものはない。 ただ、奴は我の終生のライバルだ。 半径一キロ圏内に近づけば、すぐに分かる」

「それならば、端から歩いていきましょう。 一キロ圏内の探知が出来るのであれば、こういう風に歩けば、上手くいけば数時間で発見できるはずですよ」

スタンドアローンに切り替えている携帯端末を操作して、グレーチェルが立体映像地図を呼び出す。さっと指先を地図上に走らせると、それに相応しいルートが光線として示される。

「ふむ、悪くない案だ。 しかし時間が掛かるな」

「流石にしらみつぶしでは時間が掛かりますから、市街地から順番に通るようにしています。 だから、思ったより早く見つかるかも知れませんよ」

「む、いつもながら、妙に準備が良いな。 となると、以前に調査をしていたと言うことか?」

「いえ、今日はそんな時間もありませんでしたので、リニアモーターカーに乗っている時に、プログラムを組んでおきました」

笑みを浮かべてグレーチェルは返す。満足げに頷くと、部下を引き連れて歩くどこかの王侯貴族がごとく、カニーネは歩き始めた。

 

休日とはいえ、キャムは忙しい。スキマ一家の要望に応じて、様々な事をしなければならないからだ。特に今日は、四人でお出かけである。一緒に出かける際は、何が起こるか分からないと言うこともあるし、いつも緊張する。市街地を歩いているだけとはいえ、それに代わりはない。

燦々と降り注ぐ陽の光が、白々しいほどにまぶしい。ハーフシャツから伸びている腕が、健康的にメラニンを増やしている。帰ってからシャワーを浴びる時、くっきりと袖口で肌の色が別れていることだろう。

「少し暑いですわね」

「仕方がないよ。 いつも快適すぎる天気だと、どうしても人間の体って弛むらしくてね、テラフォーミングする過程で、たまに過酷な天気の日が来るように調整しているらしいんだ。 ルーフさん、つらい?」

「いいえ。 故郷に比べればこのくらい、何でもありませんわ。 キャムさんこそ、平気ですの?」

「あたしは大丈夫。 むしろ後ろが心配かな」

振り向いた先にいた賢治が、大丈夫ですと言ったので、軽く頷く。

次に行くのは、学校指定の鞄店である。通販で取り寄せてもいいのだが、シャルハさんが是非触りたいというので、今日は訓練もかねて、直接足を運んでいるのだ。

今日はルーフさんの学校生活に必要な物資の買い出しを、賢治と一緒に行っていた。ついでにと言っては失礼かも知れないが、一緒にシャルハさんにも来て貰っている。眉目秀麗な長身の青年を装っているシャルハさんには、ルーフさん以上に、周囲の視線が集中している。変な視線がないか吟味しなければならないので、キャムは疲労が溜まるのを感じる。ルーフさんだけならいいのだが、今後はシャルハさんだけではなく、子供達の面倒も見なければならなくなる。骨が折れることである。

今日の買い出しの目的は、気分転換とか趣味とか、そういうものではない。もっと実用的な理由がある。

ルーフさんの状況が落ち着いたら、シャルハさんにも学校へ通って貰うことになる。それが今後の方針となっている。そのためには、様々な物資を入手する必要がある。学生服や教科書類もそうだし、学校生活に必要となる様々な物資もである。

街のほぼ中心部にある大型デパートではあまりいいものが揃わないので、キャムは昨日のうちに調べておいた、専門店を順番に回っていたのだ。既に路地を一つ裏側に入っているので、多少の不安はある。キャム一人なら何が絡んできても相手ではないが、ルーフさんや賢治が一緒にいることを考えると、不安はある。それに、シャルハさんがどんな行動に出るか予想がつかないので、其処も怖い。

せわしなく辺りを見回しているシャルハさんは容姿こそ優れているが、センスも常識もまだまだ地球人のものとはかなり違うので、キャムは賢治に言って、始終目を離さないようにしてもらっていた。賢治はそうやって命令を出しておくと、しっかりこなしてくれるので、信頼性が高い。さっきからもシャルハさんが女物のスカートに手を出そうとした所をやんわり止めたり、交通ルールを説明したり、しっかり仕事をしていた。

運動神経も水準に近づいてきているし、これは将来が期待できるかも知れないと、キャムは思う。しかし、考えてみれば一年しか離れていないわけだし、任務が終われば縁も切れてしまう可能性が高い。

何だか妙な寂しさを感じて、キャムは複雑だった。役立たずだと最初は考えていた。せめて同級生なら良かったのにと、何度も思った。それなのに、いつの間にか信頼が生まれ始めている。賢治が努力を続けており、一日ごとに力を付けているからだと言うことは知っている。だが、どうも実感が湧かないのである。その反面、現実主義者である自分は、賢治の成長を認めてもいる。相反する認識のずれが、賢治に対する評価を複雑なものとしていた。

「うあっと」

不意に携帯端末が鳴ったので、キャムは驚いた。呼び出しだ。賢治にハンドサインを出して、警戒態勢に移行させると、携帯端末を開いて回線をつなぐ。電話に出たのは、軍服に着替えたばかりらしいフランソワ大尉であった。ほっぺに寝涎の跡があるのは、黙っておこうとキャムは思った。

「緊急事態です。 今、ステイ家族の一つ、カゲ一家の長が、交流任務中の二名と行方不明になっています」

「! それで」

「あの人は困ったことに警備の目を逃れてはふらつく癖がありまして、今日もその可能性があります。 ひょっとしたらそちらに向かっているかも知れませんので、もし来たら連絡をお願いします」

「それなら心配ありませんわ」

不意にルーフさんが話に割り込んできたので、キャムもフランソワ大尉も会話を中断。今日は控えめの色彩のフレアスカートを穿いているルーフさんは、後ろで服のセンスがどうのこうのと話をしている賢治とシャルハさんを時々見ながら言った。

「もう近くまで来ていますわ。 すでに向こうも此方に気付いています」

「それは本当ですか?」

「我々には群体の発する信号をキャッチすることで、相手の大まかな位置を知る能力があることはご存じでしょう? 群体ごとにばらけていると探査が少し難しいですけれど、人間形態を保って群体をまとめている状態なら、一キロ程度先まで探知が可能ですわ。 護衛部隊の人たちには、はやめに連絡をしておいてくださいませ」

「もうしています。 連絡有難うございました。 すぐに向かうように手配します」

通話が切れた。ルーフさんが眉根を寄せて難しい表情をしているから、キャムは嫌な予感がしていた。果たして、予感は現実のものとなった。

「まったくあの人は、こちらでも迷惑を周囲に掛けてばかりですのね」

「知り合い?」

「知り合いも何も。 家が隣同士の、いわゆる幼なじみと言う奴ですわ」

ほとんど腐れ縁に近いですけど、とルーフさんは付け加えた。どんな奴が出てくるのか、今から身構えてしまう。

ほどなく、彼らが現れた。堂々と道の真ん中を歩いてくるその三人は、実に個性的な姿をしていた。

一人は髪を短く刈り込んだ。長身の青年である。はちきれんばかりの筋肉を全身にみなぎらせ、如何にも頭が悪そうな笑顔を浮かべている。もう一人は同じく長身だが、おどおどした言動が目立つ女性だ。キャムと年は同じくらいだろう。

そして、二人を従えているのが、その人だろうと、直感的に思った。

背丈はキャムより少し低く、ルーフさんと同じくらい。エキセントリックな性格をしていることが、衣服からも分かる。やたら高いヒールを履き、兎耳をあしらったカチューシャ。ふりふりとフリルが着いたワンピースタイプの黒スカートに、背負っている鞄はなぜか豚さんだ。

そして、表情。自信に満ちあふれ、眼中人無しという様子。どうやらKV−α人にも色々いるらしいと、この人を見てキャムは思った。賢治はぎょっとした様子で三人を見ており、それ以上に吃驚している様子なのがシャルハさんだ。

「か、カニーネ!」

「久しぶりだな! ルーフ! シャルハ! わはははははは、まだくたばっていなかったか! なによりだ!」

ぎょっとした様子で周囲の通行人が此方を見る。まずい。目立ってしまうと、本末転倒だ。辺りを護衛しているシノン少佐達もかなり慌てているだろうなと、どこか他人事のように、キャムは思った。だが、これはキャムも巻き込まれている、現実なのだ。そう考え直すと、ぞっとしない。

慌てた様子で、賢治が右往左往している。キャムもやっと脳が動いてきた。だが、それほど困惑することもないだろうと、結論し直す。別に世の中、変人は珍しくもない。この街にもストリートパフォーマーはいるし、学校にも奇抜なファッションの変人は珍しくもない。このカニーネという人も、充分存在しうるレベルの変わり者である。事実、キャムはもっと異様な風体の相手を見たことが何度もある。

静かにするように、素早く賢治に目配せ。自身は露骨に動揺しているシャルハさんの側に小走りで駆け寄ると、耳打ちする。と言っても、肌のどこからでも聞こえるはずだから、側で小声でささやくだけで良い。

「形態を保って。 此処は町中だと言うことを忘れないでください」

「わ、分かってる」

返事が小声で飛んでくる。ただし、口からではなく、肌そのものから聞こえてきたような気がした。これも習性の違いの一端だ。それほど気にすることではない。そう自分に言い聞かせながら、キャムはルーフさんの方も見た。向こうは落ち着いたもので、特に変わった様子はない。

「また貴方は、迷惑を掛けて」

「迷惑だ等と笑止! 護衛というものは、本来影から日向から存在を悟らせず、ターゲットを守るものだ! ならば我が何処に行こうと見失わず、着いてくることこそが、本来の姿であろう!」

「今は結構大変な時期だと言うことを忘れていません? 周囲の人たちの負担は、少しでも減らしてさしあげなくては、可哀想ですわ」

「相変わらず甘い奴め。 その服のセンスのように甘いぞ!」

ルーフさんの表情が一気に凍り付いたのを、キャムは見た。ルーフさんは感情を形態変化に対応させる訓練をしているはずで、本気で怒っていると見て間違いない。まずい、と本能的に悟る。

普段怒らない人ほど、いざとなると噴火するように感情を爆発させる。特にルーフさんの場合、本気で怒ったら文字通りどうなるか分からないのが怖い。何しろここは町中なのだ。群体をばらまかれでもしたら、もみ消しにどれだけの労力が必要となることか。戦闘能力そのものも未知数なのが恐ろしい。周囲に死人が出るような事態だけは、何があっても避けなくてはならない。

「貴方にだけは言われたくありませんわ」

「わはははは、それならば、ここで勝負するか!?」

「望むところ……」

「ストップ!」

慌てて間に飛び込むキャム。カニーネの背後にいる交流人員が、全く止めに入らないのを見ての、やむを得ずの行動である。どうやらこの交流人員達、見かけ通りかなりの変わり者らしい。その分、カニーネと気が合うのかも知れない。

「喧嘩をするのは止めないけれど、せめて別の場所でお願い」

「ちょ、先輩! 止めないんですか!?」

「そこ、驚かない。 だって、こうなったら二人とも、引っ込みつかないでしょ? 下手に禍根を残すより、すっきりするまで殴り合った方が良い場合もあるんだよ」

「ええー!?」

蒼白になっておろおろする賢治を見て、流石に顔を見合わせるカニーネとルーフさん。特にルーフさんは、少し熱くなりすぎたと、気付いてくれたようだ。これも計算の内である。

カニーネはしばし考え込んでいたが、やがてもったいぶりながら、指先を顎から離す。気障な行動だが、妙に似合っているのは、ルーフさんと同じく風格があるからだろう。

「ふうむ、それならば、服のセンスで我と勝負をするか?」

「そうしたいところですけれど、生憎今はお気に入りの持ち合わせがありませんの。 勝負はまた後日と言うことでよろしいですか?」

「いや、いやだ。 今、何かしらの形で決着を付けたい」

これも計算の内だ。だが、乗り切れると、キャムは確信していた。何しろ、ルーフさんがもう戦意を失っている。どちらも戦意を滾らせていなければ、基本的に喧嘩は成立しない。一方的な暴力や虐めは話が別だが。

見たところ、二人はライバルであろう。それならば、一方的に暴力を振るうという事態は来ないはずだ。こういう場合は、片方の戦意を削げばいい。キャムの人生の途上で、何度となく成果を上げている方式である。今回はよく知っているルーフさんの戦意を削ぐことで、キャムは自らの作戦を成功させた。

そう、見えたのだが。

「それならば、カニーネさん。 お金が掛からず、暴力的では無い方法で勝負をしてはどうでしょうか」

「それ、いいですね。 そうしましょうよ」

黒シャツの女がいい、事もあろうに賢治が同意した。この阿呆がと、キャムは心中で毒づいた。愛想が尽きるとまでは行かないが、はっきりいって不快だ。もう少しで、この場を丸く収めることが出来たのだから。

「わははははは、グレーチェル先輩。 何か妙案でもありますかな?」

「そういうヘンデルは?」

「自慢ではありますが、この筋肉だけしかありませんぞ!」

筋肉の美しさをフルに見せつける謎のポージングを不意に行うヘンデルとやらに、おののく賢治。目を輝かせるルーフさん。げんなりした様子でそれを見るシャルハさん。馬鹿笑いし始めるカニーネ。

ちょっと待てと、キャムはぼやいていた。グレーチェルとやら、何の案もないのに、思わせぶりなことを言ったというのか。思わず沸騰しそうになる頭を落ち着かせる。周囲が狂気の宴を行っている時こそ、自分が冷静にならなければならないのだから。

いつのまにか、周囲には人だかりが出来はじめていた。

賢治が、提案をしたのは、その時だった。

 

賢治は、立花先輩が不機嫌そうに眉根を寄せて携帯端末に報告のメールを打っているのを、戦々恐々としながら横目で見ていた。事態を収拾するにはこれしかないと思って提案したことを、そのままルーフさんとカニーネさんが受け入れてくれたので、最初は良かったと思ったのだが。どうやら立花先輩は、かなりお冠であるらしい。

向かっている先は、学校である。藤原先生は最近休日もいると言うことで、この件を提案した。問題は部外者が入る際の手続きだが、それは立花先輩が連絡した先のフランソワさんがどうにかしてくれるだろう。

それにしても、と賢治は上機嫌で歩いているカニーネさんを見た。ルーフさんとはかなり方向性が違うが、黙ってさえいればかなり可愛らしい人だ。しかしKV−α人は小柄に美しく姿を作ることがステータスシンボルになると言うから、かなりの老齢なのかも知れない。それに、恐ろしくしたたかな人でもある。デリケートな立場を最大限利用して、好きなように振る舞うというのは、気の弱い人間にはとてもできない芸当だ。

「許可、採れたよ。 これから手を回すって」

「有難うございます」

「……」

ぷいと、立花先輩が横を向く。やはりかなり機嫌が悪い。何がまずかったのかと思い直すが、賢治には分からなかった。後で謝るしかない。

そうこうするうちに、学校が見えてきた。一緒に歩いているグレーチェルさんとヘンデルさんに話してみる。今後コミュニケーションが必要になるかも知れないからだ。

「お二人とも、二千高の生徒ですか?」

「そうですよー。 私が今三年で、ヘンデルが今一年です」

「わはははははは。 賢治氏も、二千高の生徒なのですかな?」

「はい。 そうなります」

幾つか話を聞いてみる。二人の通っている二千高はスポーツが盛んで、特にアメフトは大会でかなり上位に食い込むほどの実力だという。驚いたのは、ヘンデルさんが同い年で、グレーチェルさんが年上だと言うことだ。先輩と言っていたが、後から参加したからではないかと思っていた。

二千高出身者となると、やはり貧しいところをつけ込まれて、軍に協力させられているのだろう。だがそれを聞くのは失礼に当たるし、賢治もあまり興味がない。ずっと浮かない顔で黙り込んでいたシャルハさんが、不意に賢治の服の袖を引いた。長身のシャルハさんは、ずっと不安げに状況を見守っていた。ひょっとすると、見かけとは反してルーフさんよりずっと平和的で保守的な人なのかも知れない。

「被名島君、ところでこれから何をするんだ?」

「え? ええと、今丁度僕に声を掛けてくれている先生がいて、その人のところで美術でも習って貰おうかと思いまして」

「美術というと、服を作ったりするのか? それだと、ますます血を見るような気がするのだが」

「いえ、主に絵を描いたりします。 彫刻だと刃物を使うから危ないですし、お絵かきだったら血を見ることもないでしょうから」

あのままだったら、あらゆる意味で血を見かねなかったと、賢治は思っている。事実ルーフさんとカニーネさんは、幼なじみだとか腐れ縁だとか、そんな平和的な関係には見えなかった。ライバルと言うよりも不倶戴天の仲に近いのではないかとさえ思う。格闘技で勝負だとか言い出したら、それこそどうなるか知れたものではない。総力戦にでもなったら、群体をどう活用するか分からないし、周囲の人だかりの中でKV−α人であることを隠すのも難しいだろう。

美術の勝負であれば、精神力を消耗する可能性はあるが、それでも血を見ることにはつながりにくい。その上ジャッジを下すのはプロの教師だ。権威がある人間のジャッジであれば、二人も納得するだろう。

それに、美術を勝負に提案した理由はもう三つある。一杯生徒を連れて行けば、藤原先生も喜ぶはずだ。今後の関係構築がやりやすくなる。それに二人とも、洋服が好きだと言うことは、地球人の芸術に興味を持っていると言うことでもある。つまり芸術をしっかり習得している人の側に着けば、喜びこそすれ悲しむことはないだろう。怒りを収めてくれる可能性も期待できる。

最後の一つの理由は、些細な内容だ。ルーフさんをここで連れて行けば、藤原先生に早めにそのキャラクターを印象づけさせることが出来る。今後ルーフさんが美術部にはいるとしたら、早いほうが良いはずだ。

「しかし、学校は少し苦手なんだよなあ」

「あ、そういえば」

「聞いていると思うが、まだ同じ色ばかりの壁と床と天井の中で、長時間過ごせる自信がないんだ。 出来るだけ早めに決着を付けてくれると嬉しいんだが」

「美術ですから、長丁場になるのは前提条件です。 済みません、何とか早めに終わるように工夫はしてみますが」

トイレ休憩なども入れられるように、フォローしようと賢治は思った。途中で休憩を入れるようにすれば、少しは耐えられる時間も増すだろう。

地球人に比べて、KVーα人が劣っている訳ではない。苦手な部分があるから、其処はフォローしてあげる必要があるだけだ。

学校が見えてきた。カニーネさんが、手を額にかざす。

「何だ、ここも同じ二千高か」

「そう言わないでください。 貧しい庶民の味方なんですから」

「それは分かっているが、全く同じ形ではないか。 何というかこう、もう少し遊びが欲しいな。 遊びの部分は、殺し合いで成立してきた地球人類の文明にとって、貴重なものなのだろう?」

「そうですね。 でも、僕たちも、開拓時代って言って、学習面で合理化を図らなければならない期間が長かったですから。 貴方たちが好きな芸術だって、服飾文化だって、本格的な復旧が始まったのは結構最近なんです。 でも、それと同時に戦争も始まったから、歴史の授業では、いつも教える先生の顔は複雑ですけどね。 滅亡を回避して余裕が産まれたら互いに殺し合いを始めるんですから、人間って生物は業が深いです」

賢治の説明に納得してくれたのか、カニーネさんは鼻を鳴らすと、すたすたと歩いていく。一種異様な集団を前にして、周囲の通行人の耳目が集中している。ちょっと賢治は恥ずかしかった。

カニーネさんは、地球人類を良く思っていないのかも知れない。賢治はふとその可能性に思い当たった。しかし、それを言うならルーフさんも同じ事だ。

しかし、それはお互い様ではないだろうか。地球人が、本当の意味でKV−α人と上手くやっていけるとは、とても思えない。こんな回りくどい交流計画を立ち上げて実施しているのだって、地球人の側に問題があるはずだ。

芸術を通じて、両者が交流を持てるのなら、それは僅かな希望となるはず。

入り口の警備ロボットは、すんなり皆を通してくれた。グラウンドでは運動部が休日の練習に明け暮れている。何人かは、こっちを見たようだった。問題は下駄箱だ。仕方がないので、予備の上履きとスリッパを使った。下駄箱が無い人の分の靴は、賢治とヘンデルさんが全て持った。

一階にあるエレベーターで、全員最上階に。美術部は奥だ。授業時間が終わるとさっと帰宅していたらしい藤原先生だが、最近は違う。休日まで美術部に籠もり、一心不乱に絵筆を振るっているという。今日もいるはずだ。

「そういえば、カニーネさんは、もう学校へ通っているんですか?」

「うん? ああ、まだだ。 だが我も、来月から通うことになっている。 そこのアマちゃんに負ける訳にはいかないのでな」

「分かり易い理由ですね」

「明確な理由だと言ってもらおうか」

戦争も起こったことがあるという、KVーαの文明。こうして話してみると、どこに人間との明確な違いがあるのかは、よく分からない。歴史がそのまま血塗られていた地球人類と、この人は何が違うのか。

美術部に到着。ノックすると、返事はない。ただし、中に人の気配がある。

「藤原先生?」

「はーい。 鍵は開いてるから、自由に入ってきて良いわよー」

「あ、すみません。 おじゃまします」

なぜ謝っているのかは、賢治にもよく分からない。戸を開けると、油絵の具の臭い。嗅いだのは週末以来だ。週末の授業で、藤原先生が描き方を見せてくれた。流石に現物を生徒の分だけ用意は出来なかったので、星間ネットでバーチャルプログラムを拾ってきて、それで授業を行ったが。

キャンバスに筆を叩きつける藤原先生は、此方を見もしない。凄まじい集中力だ。それにしても、激しい筆遣いなのに、絵そのものは繊細でとても優しいのだから驚かされる。この人はこんな風に絵を描くのだと知らされて、賢治は複雑な気分であった。側に控えているメイドロボットが、さりげなく周囲の汚れを払い、作業の邪魔にならないようにしている。

キャンバスには、花畑の絵が。派手さは殆ど無いのだが、色遣いがとても優しくて、よく手入れされていると一目で分かる。思わず心が温かくなる、そんな絵だ。花畑の中には、白いワンピースの、髪の長い少女がいる。誰だろうと、賢治は思った。

一つの絵で、何度も驚かされる。藤原先生の絵の描き方は、とても戦闘的だ。それなのに、描いている絵は牧歌的でさえある。しばらく絵筆を振るっていた藤原先生だったが、ほどなく振り返る。白衣に散った絵の具が、生々しい色彩を作り出していた。

「いらっしゃい。 おや?」

「すみません。 ちょっと興味があるって事で、他校の生徒とかを連れてきてしまいました」

「失礼しまーす」

何だか立花先輩の声が、少しよそよそしい。そういえば、先輩は藤原先生をあまり良く思っていなかったはずだ。

「構わないわよ。 そちらは、この間転入してきたルーフさんね。 それに、貴方は確か二年の立花さん」

「名前、知っていたんですか?」

「恥ずかしい話だけど、二週間前くらいにね。 このままじゃいけないと思って、学校の生徒全員の顔と名前を把握したの。 この年で催眠学習はちょっと大変だったけど、これも教職である以上当然のことだから」

「「っ!」」

立花先輩が露骨に驚く。賢治もだ。

教育と言えば最低限、芸術史にしか力を入れなかったこの人が、こうも変わるものなのか。この人の美術の授業は今はとても面白いものと化しているが、短期間でこうも成長できるものなのだろうか。

いや、これは違う。賢治は気付く。駄目だった人が変わったのではなく、元からこうだったのだろう。絶望により、奈落の底に落ちていたのだ。それが、此処まで這い上がった。今ではすっかり立ち直ったとも言える。

自分の行動が原因だとしたら、嬉しいことだ。

「それで、わざわざ此処に大勢で来たと言うことは、興味があるだけじゃなくて、何か用事があるんでしょう?」

「はあ、まあ。 実はそこのカニーネさんが、ルーフさんのライバルだと言うことでして、美術で勝負をしたいという事です。 それで先生に相談しようと思いまして」

「あら、ジャッジに私を選んでくれるの? 嬉しいわ」

藤原先生は喜色満面になる。メイドロボットに指示して、すぐに絵を描く準備を整えさせる。幸いガットは余っていたが、キャンバスがない。携帯端末からソフトを起動して、絵を描けるようにする。困惑しながら頭を掻いていたシャルハさんの分も、賢治は起動した。

「じゃあ、課外授業と行きましょうか」

「あの、先生?」

「絵で勝負しようにも、基礎が分からなければ何ともならないでしょう? それとも、二人とも絵描きの経験は?」

ありませんわと、ルーフさんは笑顔のままで言った。あるわけないだろうと、カニーネさんが言う。それなのに、どうしてこうも堂々としていられるのか。賢治にはよく分からない世界である。

「素人には、そうね。 描きやすい水彩画からやってもらいましょうか。 これはコンピューターソフトだから幾らでも修正が効くけれど、本来は絵の具を置いてしまうとやり直しが利かないのよ」

「へえ、不便なものですわね」

「ミスに修正が効かないというのは、正直厳しいものがあるな。 ルーフ、不確定要素がそれでは大きくなりすぎるから、ソフトのありがたい機能を使わせて貰おう」

「それがいいようですわね」

コンピューターソフトの使用方法は、メイドロボットが解説してくれる。これに関しては、長年整備されたマニュアルを復唱した方がいいので、人間よりロボットの方が向いている。すぐに全員に知識が行き渡る。ふと立花先生を見ると、素早く携帯端末を弄って、現状をメールしているようだった。普段はあまりほめられた行動ではないが、今回ばかりは仕方がないだろう。

絵筆の握り方が、藤原先生に解説される。関節が不便だとか言っていたシャルハさんはどうなるか不安で仕方がなかったので、立花先輩の目配せにあわせて隣に移動。幸い、今の時点では人間離れした変な握り方はしていなかったが、それでも自身の絵描きに集中することは出来そうもない。

「画題は何にする?」

「互いの姿にしたらどうだ?」

蒼白になる賢治を前に、カニーネさんは言った。何だか、生きて帰れる気がしないのは、気のせいだろうか。提案としては確かに公平なものなのだが、しかしこの空気の張り詰め方と来たら。

震えが止まらない。

「分かっていると思いますけれど、わざと不細工に描いたら貴方の負けは決定ですわよ」

「はん、別に貴様のツラなど、それ以上醜く描きようがないのでな。 いらぬ心配はするな」

「それは此方の台詞。 さ、はじめましょうか」

視線が火花を散らした。やはり怖い。そんな爆心地に、平然と藤原先生は踏み込む。人間の強さと脆さを、この人を見ていると同時に感じてしまう。

「何だか盛り上がっているようだけれど、似顔絵は難易度が高いわよ。 やめた方が良いんじゃないかしら」

「そうなんですの?」

「そうなのか?」

「ええ、そうですよ。 静物画の方が良いでしょう。 それなら実力がもろに出ますから、判別もしやすいですし」

長生きしていても、絵に関しては素人である。地球人と考え方は違うと言っても、其処からもたらされる結論は分かり易い。

「ならば、藤原師の言うことに従った方が良さそうだな」

「静物画というと、何を描けば良いのですの?」

「テーブルの上に、リンゴを置きますから、それをどうぞ。 あ、別に写実画でなくてもいいですからね。 キュービズムでもなんでも、好きなように描いてみてください」

「じゃあ、私も。 せっかく来たのだし」

シャルハさんも筆をとる。ぎすぎすしていた空気が、一気に冷え込んでいくのが、賢治には感じ取られた。メイドロボットが、冷蔵庫からリンゴを出してくる。静物画の定番だと聞いていたが、常備しているとはまた凄い話である。

ヘンデルさんとグレーチェルさんも、それぞれガットに向かっていた。何と平和的な光景か。最初は全員で血を見るかとさえ思ったのに。二人はこの後怒られるのかも知れないが、それでもこのひと時の平和は本物だろう。

「わははははは、先輩。 我々も描きましょうか」

「そうですね。 モチーフがリンゴ一つでは少し寂しいですけれど」

「え? グレーチェルさん、美術の経験があるんですか?」

「ありますけれど、ほんの少しだけですよ」

思わず賢治は聞き返してしまったが、よく考えればおかしな事ではない。他の二千高では、ちゃんとした美術の先生がずっといたのかも知れないと思うと、それは別に不思議なことではなかった。

皆絵を描き始めると、不意に場は静かになった。藤原先生は、自分の油絵を中断すると、皆に指導を始める。

砂時計の砂が落ちるかのように。時間が、とてもゆっくり流れていった。

 

結局、勝負がついたのは夜だった。

賢治にシャルハさんを任せていたとはいえ、流石のキャムも疲れた。シャルハさんが一番疲れているようだが、どうにか形態を崩壊させることも、肌の色をおかしくすることもなかった。時々ちらちら伺ってはいたのだが、賢治はしっかり見ていたし、キャムが口を出すことは殆ど無かった。

賢治は気付いているのだろうか。藤原先生ほどの速度ではないとはいえ、自分も立ち直り、それどころか成長しつつあることに。このままだと追い越されるかも知れないという危惧が、キャムの中で育ち始めている。先輩の矜恃を傷つけられないようにするためにも、今後は努力が必要だろう。

結果はとても面白かった。ルーフさんはまるで精密機械のように、僅かな傷まで再現したリンゴを描いた。それに対してカニーネさんは、ある意味漫画のように特徴が誇張されたリンゴを描いた。それぞれの性格を反映しているようで、実に興味深い。

芸術には思想がさらけ出されると、キャムは聞いたことがある。己の優れたところも、歪んだところも。光も、闇も。二人の絵は、その見本だった。実に分かり易く、それを再現していると言って良い。

藤原先生が品評を始めた。とても公平な品評だった。

「技術的には、若干ルーフさんの方がカニーネさんより上ですね。 ほら、此処を見てください」

教室前面の黒板に、絵が大写しになる。藤原先生の言葉通り、キャムもかなり上手いと思う。単純な意味での才能があるのだろう。キャムの描いた下手っぴなリンゴに比べると、その場で食べられそうなほどに質感も現実味も再現されている。それに対して、不思議と色遣いは少し雑だ。

藤原先生が何カ所か上手な場所を解説する。ぐうの音も出ないらしく、カニーネさんはむすっとしていた。

「続けて、カニーネさんの絵を見てみましょうか」

ルーフさんの絵と並べて、カニーネさんの絵が、黒板に映し出された。ある意味ポップ調で、親しみの持てる面白い絵である。現実的とは言い難いが、しかし絵としては面白い。この人、もし地球人として産まれていたら、スプレーアートか何かの大家になっていたのかも知れない。

考えてみれば、芸術家肌の人間は変わり者であることが珍しくもない。この人達の変人ぶりが、それに起因するとなると、納得も出来る。

「技術的にはルーフさんのリンゴに劣りますが、絵としての面白さは、カニーネさんのリンゴの方が上になります。 此処、それに此処。 見てください。 特徴の強調がとても面白いですね」

総合的に見ると、どちらも同じくらいの力ですと、藤原先生は締めくくった。あまり納得がいく締め方ではないなとキャムは思い、不安を感じたのだ。だが幸い、そうはならなかった。二人とも不満は残している様子だが、流石に講評者はプロの美術教師である。しっかり長所短所を含めた総合評価をしており、隙がない。文句を言わなかったのは、二人とも元々頭が良いだけあって、しっかり納得したからだろう。いわば、知力でねじ伏せられた形になるが、それも仕方がない。

藤原先生は。他の生徒達の絵も品評。キャムの絵も黒板に大写しになり、ちょっと赤面させられた。意外だったのは、シャルハさんの絵がとても下手だったと言うことだ。ひょっとすると、服飾文化にあまり興味を持たないのは、その辺りが原因かも知れない。

最後に、藤原先生の絵が黒板に映し出された。ルーフさんとカニーネさんが同時に息を呑むのが、キャムには分かった。上手い。というか、桁違いに素晴らしい。

大して絵のことを知らないキャムでも分かる。これは、美術教師だからとか、そういう理由ではない。単純に実力のレベルが違う。ただのリンゴだというのに、一目でこの人が描いたと分かる存在感。綿密に書き込まれた線、丁寧に配置された色、そして構図の面白さ。

才能に恵まれているというのは、こういう事を言うのだろうと、キャムは思う。そして、こんな人でも、水彩画の世界ではプロにはなれないのだと思うと、慄然とする。今の地球人類の芸術に対するペイは、あまりにも狭すぎるのではないだろうか。

「自分の絵を解説するのは、少し恥ずかしいのですが」

藤原先生はそう言いながらも、丁寧に絵を説明していった。最後に上手くいっているとは言い難いのですがと締めたが、誰もがそんなことはないと思ったことだろう。

片付けをすると、全員で礼をして、美術室を出る。ルーフさんが、小走りにキャムの側に来た。

「素晴らしい先生ですわね」

「うん。 最近まで廃人寸前だったって、信じられないでしょ。 噂によると、キッチンドリンカーに近かったって話だよ」

「なんともったいない。 あれほどの才能を、そのような形で浪費してしまっては、知的資源の無駄遣いですわ」

学校を出ると、ワゴン車が待っていた。憔悴した様子の中年男性が、キャムと賢治に敬礼してくる。この人が、カニーネさんの護衛担当者だろう。カニーネさんは悪辣な人ではないようだが、護衛をするには苦労する相手のようだった。

「あまりこういう事は言いたくないのですが、出かける時にはせめて連絡先を知らせてください」

「クラップ中佐、我は二人と一緒に、堂々と門から外に出たぞ。 確かに知らせはしなかったが、無言で尾行して警戒に当たるのがプロの仕事ではないのかな」

「確かに正門から出られたようですが、他のご家族と一緒だったではないですか。 しかも旦那さんと来たら、双子の少女に化けて彼方此方走り回る始末ですし。 とても手が回りませんよ」

「なら増員を頼め。 力が足りなければ、数で対処するのが、貴方達地球人類のやり方だろう。 それと、この二人は我の護衛をそつなくこなしてくれたぞ。 処分なんかしたら、此方にも考えがあるからな」

駄目だ、役者が違う。元々気が弱い人らしく、クラップ中佐は三人をワゴンに乗せると、此方に疲れ切った顔で敬礼して、去っていった。車の中からヘンデルとグレーチェルが手を振ってきたので、笑顔で振り返す。すぐにワゴンは見えなくなった。

色々面白い人だなと、キャムは思った。単純な殺し合いであれば地球人類の方が遙かに上なのだろうが、しかしKVーα人もかなりやるものだ。ひょっとすると、各国が侵略に踏み切らなかったのも、この辺りが最大の原因かも知れない。彼らはとてもではないが、与しやすい相手などではない。

「シャルハさん、大丈夫でしたか?」

「流石にきつかったよ。 すぐに帰って栄養を取って眠りたい」

シャルハさんは疲れ切った顔を隠そうともしなかった。道を行きながら、ルーフさんが耳打ちしてくる。

「実は私とカニーネは、若い頃、夫を取り合った間でしたのよ」

「ふえ。 そうだったんですか」

「ふふ、面白いでしょう。 もっとも、結婚してからは、ずっと私が夫の主導権を握りっぱなしですけれど」

シャルハさんが驚いた理由も、それを聞けば納得できる。三角関係の相手だったとすると、確かに気まずいだろう。ただ、不思議なのは、シャルハさんが、この強烈な二人に好かれる理由がよく分からないと言うことだ。この人も、何か凄い魅力があるのだろうか。まあ、それはおいおい知っていけば良いことだ。

携帯端末に連絡あり。出てみると、フランソワさんだった。無事、三人は家に着いたのだそうだ。そればかりか、今後は行動がある程度特定できそうだとも言っていた。それもそうだろう。カニーネさんは、藤原先生を相当気に入った様子だった。これからも、頻繁に此方に遊びに来るだろう。行く先の目星を付けやすくなる。

しばらく話し込んでいるうちに、ルーフさんの家に到着。此処で解散だ。今日は色々と楽しかった。嵐のような一日だったが、こういう内容だったら大歓迎だ。賢治とも、門のところで別れる。すぐに眠りたいところだが、これからレポートを書かなくてはならない。もう一がんばりだと、自分に言い聞かせる。

自室にはいると、フォルトナに夕食を用意するように頼んでから、端末を立ち上げる。支援ツールを幾つか立ち上げたところで、欠伸が出た。まずは温かいスープが来た。クルトンの入った、コーンクリームポタージュスープだ。ふーふー息を吹きかけて、冷ましてから飲む。立体映像キーボードに指を走らせて、面倒くさいところは音声認識ソフトを使って書き込む。今頃、あのグレーチェルも同じような苦労を味わっていることだろう。多少は煩わしいが、仕方がない。

レポートを書き終わったのは、日付が変わった頃だった。シャワーを浴びて、汚れを落としてさっさと寝る。

そういえば、賢治がこの家にこの間まで下宿していたんだった。寝る直前、キャムはそれを唐突に思い出していた。もう殆ど痕跡は残っていないが、ベットの中で、キャムは茫洋とした気持ちを味わい続けていた。

 

4,災いの先触れ

 

鋭い一撃だった。

大柄な空手部主将が放った回し蹴りは、ガードの上からでも賢治を軽々吹っ飛ばした。畳の床に転がった賢治は、叩きつけられる際の受け身を取り切れなかった。痛い。そして、戦慄する。

この人を、立花先輩は赤子扱いしたというのだから。

賢治が立ち上がるまで、空手部主将は待ってくれた。立ち上がってから、互いに礼。これで、試合終了。

「押忍!」

「お、押忍」

朝練の、最後の一コマである。三キロの走り込みがだいぶ早くこなせるようになってきたので、余った時間を実戦訓練に費やすようにし始めたのだ。生まれてこの方喧嘩もしたことがなかった賢治は、それこそ戦い方の基礎から覚えなければならない。そのためには、空手部の主将は適切な相手であった。

痣も出来たし、筋肉も痛い。だが、体をフルに稼働させることは気持ちがよい。

他の組み手を一通り見てから、朝練終了。空手部ではない賢治を快く朝練に混ぜてくれている辺り、此処は良いところだ。変な視線も時々感じるが、最近は気にならなくなりつつある。多少は、筋肉もついてきた。

大柄な空手部部長が最初に上がると、後は流れ解散となる。この間購入した道着を持って教室へ。途中まで一緒の道筋になる何人かと、一緒に行くことが多い。毎日、少しずつ話すことが多くなり始めている。

「被名島ってさ、最初はマネージャーになろうとしているんだろうって、みんな噂していたんだぜ」

「そうなんだ」

「だって、見るからにその、ひ弱じゃん」

別に怒らない。今だって女みたいな奴だと言われることは珍しくもないからだ。自分でも、最近ではそれを受け入れられるようになりつつある。

「それを言うなら、立花先輩なんてあの体格で、あの実力だよ」

「あー、それは確かにそうか」

実際に拳を交える経験をした今だから分かる。立花先輩が、体格差をものともしない凄まじい実力を持っている事を。記憶の中の幾つかの動きの常識外れぶりが、今更ながらに恐怖と共に思い出される。いわゆる天賦の才と言う奴だ。多分、立花先輩には、身体能力面では今後どれだけ努力してもかなわないのではないかという漠然とした予感がある。

午後にも参加しないかと言われているのだが、それは断っている。主将には事情を話してあるが、今でも時々他の生徒に誘われる。美術部に入るつもりだと応えると、誰もが驚く。藤原先生の評判は、それほどに悪いのだ。これからも、取り戻すのには相当な時間が必要になるだろう。

教室にはいると、レイ中佐と連絡を取る。特にこれと言ったものはなく、今までの連絡事項に少し手を入れただけで大丈夫だ。連絡をメールで入れる。返事が遅い。少し気になる。

少しして、返事が来た。レイ中佐ではなく、フランソワ大尉からだった。添付ファイルが着いている。珍しいことだ。早速開封してみて、ぎょっとした。

まず最初に、読んだらすぐに消すようにとある。慌てて周囲を見回すと、真剣に読み進める。そして、もう一つ驚かされた。

「この間、辺境で発生したテロは、他国の関与によるものである可能性が高い。 今後、特務部隊はいつ仕事が来るか分からず、君たちにも危険が及ぶ可能性がある。 いざというときのことを考えて、覚悟だけは決めておくように」

ファイルを消す。そして、背筋に這い上がる悪寒に、震え上がった。

今更ながらに、自分がいる場所に気付かされる。美術部での脳天気なやりとりや、愉快なカニーネさんや少し気弱なシャルハさんとの交流で緩んでいた気分が、一気に引き締められた。

今後は、いつ殺されるか分からない。そう覚悟して過ごさなければならないのかも知れない。

人類の曙は、残虐な犯罪行為に躊躇無く手を染めることで知られている。民間人も容赦なく巻き込む、極めて達が悪いテロリストだ。惨殺された民間人の映像も出回っている。とてもではないが、正視に耐える代物ではない。

自害用の薬を用意して置いた方が良いかもしれない。賢治は混乱の中、冷静な一つの思考を得ていた。

 

(続)