鉄の雨

 

序、辺境の闇

 

貧弱な宇宙港に、フォルトレート立国宇宙艦隊所属、木星級戦艦フクオカが着地。カタパルトが安物だけあり、衝撃が大きかった。大気圏に突入した時よりも、激しく揺れたほどだ。新聞を読んでいたため、シートで眉をしかめたシャレッタは、連れてきた護衛の戦闘ロボット達を促し、席を立つ。此処は、フォルトレート民主立国に所属する星系、シーマント第三惑星。ごく最近開発が開始された、立国の辺境である。

シーマントは十三の惑星を抱える星系であり、恒星が二重系になっているためにテラフォーミングが難しく、開発が立ち後れていた。現在では第三、第四惑星に人間が住めるようになっている。第五、六惑星のテラフォーミングが現在進行中だが、あと三十年は掛かる事が確実視されている。軍施設は民間人の移入前からあるのだが、これは逆に設備が古すぎる懸念がある。最近帝国も近くの星系に侵出してきたので、宇宙空間には防衛用の最新鋭要塞が作られているが、惑星地表部分はまだまだ開発が遅れている。

第三惑星は比較的環境が安定しているが、しかしそれでも辺境に代わりはない。戦艦から下りると、不快なほどに強烈な陽光が目を焼いた。肌がちりちりする。その上埃っぽく、遠くに見える空港のビルは煤けてさえいた。その上、迎えに車さえ来ない。しばらく歩かないと、空港のビルにまで到達できない訳だ。

軍用の空港でこれだから、民間用の空港も大した設備ではないだろう。殺風景な宇宙港を歩いていくと、前方から出迎えの士官が歩いてきた。やせこけた中年の男で、大尉の階級章を付けている。

「わざわざご苦労様です」

「ビルから随分遠いのですね」

「すみません。 本当なら連絡通路がつくはずなのですが、予算の都合上なかなか上手くいきませんでして」

辺境では、軍需物資の横流しや、予算の粉飾まで存在すると聞いている。その一部ではないかとシャレッタは思ったが、敢えて黙っていた。憶測で喋るのは、あまりにも意味がないからだ。

腰の低い大尉に連れられて、空港のビルに。三十階建てほどの、大した規模ではないビルだが、それでもこの星ではかなりの高層だ。それが証拠に、二十階にまで上がって窓から外を見ると、地平線が広がっていた。他のビルは皆軒並み背が低く、視界を遮る事が出来ないのだ。

二十階から、VIP専用のエレベーターに乗り換えて、最上階に。この星の軍を管理しているのは、リューベックと言う名の大佐だ。確か数年前の帝国との国境紛争で、巡洋艦で木星級戦艦を撃沈して名を上げた人物である。ただし、かなりの老齢で、今は司令官という激務がつとまるか少々疑問だ。老齢になった軍人は後方に下がって安全圏での補給部隊を指揮したり、或いは軍学校で教育に当たったりするものなのだが、リューベックはかたくなにこの星の司令官を務め続けている。何か裏があるのではないかという噂は今までにもささやかれており、シャレッタもそれに着目していた。

やがて、司令官室に到着。戸を開けて中にはいると、老齢の大佐は席を立ち、満面の笑みを浮かべて握手を求めてきた。老齢だが、肌の艶は良く、目にもそれなりの光がある。応接用のソファに座るように促されたので、無言のまま席に。僅かにだが、アルコールの香りが室内にあった。相手が監察官であるシャレッタだからか、大佐の腰は低かったが、目の奧には警戒心があった。

「こんな辺境に良く来られましたな」

「いえ、任務ですので」

素っ気なく応えながらも、シャレッタは相手を観察する事に余念がない。良く太っている大佐は、写真で見た数年前よりもむしろ若返っていそうな雰囲気であった。妙だと、シャレッタは思った。様々な人間が夢を求めて流入してくる辺境惑星は治安が悪い事も多く、特に最近は警察では手に負えないようなテロ事件も時々発生する。これは、暇と酒に酔って作られた脂だ。なぜこの老人は、こうもゆったりしているのだろうか。

誰かしら実務を担当している黒幕がいるのかも知れない。そう判断したシャレッタは、適当に話を切り上げると、軍の宿舎に案内して貰った。連れてきた重武装一個中隊と、対テロ特務小隊は、まだ木星級戦艦の中で待機して貰っている。現状の護衛には連れてきた四体の戦闘ロボットで充分だ。

宿舎は空港に隣接している軍基地の内部にあると言う事で、ビルを出て駐車場へ。軍用のジープに乗り込む。

テラフォーミングが完了した直後は、様々な齟齬が起こる。エアドームの取り払いなどが行われることにより、環境が急変するため、体を壊す人間も出てくる。マシン類もそうだ。急激な老朽化を起こす事例は、珍しくもない。此処でも例に漏れず基地の内部はかなり老朽化が目立っていて、空に向いている対艦大口径荷電粒子砲は、ちゃんと撃てるのか見ていて不安になった。更に言うと、移民が始まる前から設置されていたであろう、宇宙空間で見た反射衛星も整備不良が要因の老朽化が進んでいるようであったし、恐らく数値通りの防衛能力は有していないだろう。

道路の整備は行われておらず、剥き出しの土の上をタイヤ式の車で行く。何回か辺境惑星で乗った事があるが、この安定の悪さはいつになっても慣れない。運転をしている大尉は鼻歌交じりだ。無表情を作りながらも、シャレッタは一秒ごとに機嫌が悪くなるのが分かった。

軍基地の隅にある宿舎にようやく到着。早速ロボット達にネットワークを構築させる。内部は二人用の小さな部屋で、しかもそれが士官用だというのだから恐れ入る。ソファに腰掛けて護衛ロボット達の様子をぼんやり眺めているうちに、苛立ちも収まってきた。コーヒーを手ずから淹れて一服。一休みして、その間にロボット達を活動させる。

一時間もしないうちに、大体必要なデータが集まってくる。宇宙に残っている巡洋艦三隻からの情報も、ロボット達は収集していた。

携帯用PCを開いて、情報の閲覧を開始。やたらと固いソファが最初は気になったが、すぐに忘れた。それくらい、ロボット達が集めた情報は刺激的であったのだ。

まず宇宙から高々度モニタリングを用いて調査した人口だが、国の正式発表よりもだいぶ多い。これは不法入国した移民や、住民登録していない、あるいは出来ない者がかなりいるからかも知れない。続いて整備状況だが、やはり予想通りかなり悪い。駐屯している宇宙艦隊は良いのだが、地上部隊の基地はかなり老朽化が目立っており、稼働率は七割を切っているようであった。

更に犯罪の傾向だが、予想通り、発表の水準をかなり上回るものとなっていた。特にテロに関しては、首都星に広報されていないものがかなり発生している。手が足りないというのもあるのだろうが、要するにこの星の私物化が著しく進行していると言う事だ。

これではテロリストが潜伏し放題だろう。基本的に、社会の暗部にこそ、こういった連中が潜む隙が産まれる。だが、強制介入に踏み切るには、決定的な証拠が必要となる。また、実質的権力者が誰なのかしっかり見極める事も、事態解決の絶対条件だ。

この辺りは辺境の中でも帝国と国境を接しており、近くにある宇宙要塞から戦力をおいそれと裂く訳には行かない。好戦的な事で知られる帝国に軍事介入の口実を与える訳には行かないし、何より主力部隊から兵力を削って侵攻を受けたら目も当てられない事態となる。だから、兵を呼ぶなら首都星からだ。それには、徹底的な調査と、証拠の収集が必要となってくる。

宇宙からの測量や、ネットワークからの情報収集では限界がある。ある程度情報が集まったところで、データを本部に転送。それから、護衛のロボットを連れて街に出る事にした。

ジープに乗って、軍基地から出る。街まで四十キロという標識があり、流石にシャレッタもげんなりした。この星に人口五万以上の都市は十五つしか無く、450万ほどいる人口の99パーセントまでが其処に集中している。いずれも鉱山の周辺に張り付いている場所で、治安は最悪だ。スラム街もあるし、ストリートチルドレンも多い。一歩足を踏み入れれば、此処が本当に現在の街なのか、疑いたくなる光景もしばしば展開されているはずだ。何度か任務で他の辺境惑星に行ったことがあるが、思い出したくもない。

豊かな立国でさえ、辺境はこうなのだ。軍事国家で知られる帝国や、戦争に負けて再建中の法国の辺境は、一体どのような有様なのか。

今日は、ただ街を見て回るだけにしよう。そうシャレッタは決めて、ロボットにそう命令しておいた。街まで十分以上掛かった。やはりタイヤ式の車では、加速も思ったほど出来ない。リニヤ式の道路が完備されれば、利便性は著しく向上するのだが、今の開発度を見る限り、かなり難しいだろう。

街に到着。寂れたビルが林立していて、それなりの活気はあった。また、一応大都市だけあり、旧式のレールウェイが整備はされていた。だが、行き交う人々の目には力が無く、通る車もあまり多くはない。遠くに見える巨大な鉱山は穴だらけで、如何に強硬な開発作業が行われているかよく分かる。たまに、ジープを敵意を持ってにらみ付けてくる者もいた。軍での評判がかなり悪いようだと、シャレッタは思った。

あまり深入りはせず、早めに戻ろうとシャレッタは決めた。嫌な予感がしたからだ。宿舎にベースを作ったはいいが、この星の実質権力者は、足で調べないといけないだろう。そのためには、危険な場所にも足を踏み入れていかなければならない。

実際には、裏社会の支配者が強大な力を持っていることは少ない。殆どの場合、実際に権力を握っているのは、軍人や政治家だ。ただし、そういう人間を、側近が操っている事は多い。そう言う情報は、裏社会の人間の方が敏感なのだ。

なぜなら、裏社会というものは、表の社会の隙間に生じるものだからである。所詮裏社会などと言うものは、社会的な寄生虫である。寄生虫が大きくなりすぎれば、宿主ごと自滅する。だから、本能的に大きくなりすぎないように心がける。

だが、たまには中枢部分の目である、監察官のシャレッタに手を出してくるような、頭の悪い寄生虫もいる。それに出くわすような気がしてならないのである。これはあくまで勘なのだが、戦場で死線をくぐったこともあるシャレッタのそれはバカに出来ない。恐怖を知らない武人は愚か者だ。シャレッタはそうではない。危険な場所を避けるのが、一人前の人間のやり方なのだ。

そもそも今回の件は内部告発から始まっている。それも信用できるか分からない。とりあえず、姿を見せることで相手に対する警告にはなるはず。ましてや、人類の曙にはエリート教育を受けながら脱落したインテリ崩れも混じっている。あまり侮って掛かる訳にはいかないだろう。

最悪の可能性、人類の曙とこの星の支配者が結託している事も考えて、今後は調査を進めていかなければならないだろう。場合によっては、他の国が介入してきている事も視野に入れる必要があるかも知れない。何度かあったのだ。辺境の社会的な隙を突いて、他の国が戦争の口実にした例が。今のところ立国では無かったが、連合や連邦では何度かあった。確か邦商でもあったはずである。この国でも、無いとは言い切れない。

街をぐるりと見回った後、宿舎へ戻る。快適な旅とは言い切れなかったが、思惑をまとめるには都合の良い時間だった。長い宿舎の廊下を歩き、自室の戸を開ける。待っていたロボットから報告を聞こうとした、その瞬間にカタストロフが起こった。

何も聞こえなくなった。それが轟音によるものだと、分かるまで十秒以上掛かった。手を動かそうとして、失敗する。体が半分がれきに潰されているのだと、気付くのにさっき以上の時間が掛かった。

声が出せない。悲鳴も上げることが出来ない。視界が揺れて、定まらない。

「げ、えっ」

潰れた蛙のような声が漏れていた。情けないと思うより先に、空が見えた。宿舎にいたはずなのに。生存本能が、防衛本能と一緒に働く。もがく。そのうち、自分の状況が分かってきた。身動きが全く取れないレベルで、体が押しつぶされてしまっている。恐怖が突き上げてくる。

機械が動く音。左半身に掛かっていた圧迫が、不意になくなった。ゆっくり顔を向けると、見るも無惨に顔が潰れたロボットの一体が、がれきを持ち上げたのだ。全身を少しずつ動かしていく。左腕が折れている。だが幸い、内臓は傷ついていないようだった。

「シャレッタ様」

「ありがとう、なんとか、助かった」

「体に深刻なダメージがあります。 すぐに艦に戻り、手当をいたしましょう」

完全に顔が平らになっているロボットがそう言った。いい男が台無しだ。他のロボットはどうなった。セクサロイドとして使っていただけあり、それなりに思い入れはある機体達なのだ。

だが、動くものは他にはいなかった。

半身を起こす。宿舎は完全に吹き飛んでいた。辺りには人間の姿さえない。半壊した基地の中で、空に向けて伸びている対艦荷電粒子砲の巨体だけが、皮肉なことに無事だった。どうやら、ポンコツではなかったらしい。考えてみれば、宇宙空間からの戦略攻撃にも耐え抜く仕様になっているはずで、緊急時には自動で大出力のシールドも展開するはず。地上で炸裂した爆弾くらいならどうにかなるだろう。

そうだ。爆弾が炸裂したのだ。吐き気がこみ上げてきた。空から、巡洋艦が緊急着陸の体勢に入る所が見えた。すぐに戦艦フクオカからも救援の人員が駆けつけてくるだろう。視線を動かす。空港ビルが倒壊しているのが見えた。最低でも死者は数百人に達するだろう。

これは、大佐も生きてはいないな。いまだクリアにならない考。シャレッタはなぜか他人事のように、そう思った。

 

1,起伏千万

 

早朝の走り込みから帰ってきた賢治は、ストレッチを終えると、朝食を食べながらテレビを付けた。また、テロのニュースだった。

「まだ、解決しないのかな」

「軍のデータベースにはアクセスできないので、正確な情報は提示できません」

静名がそっけなくそう言った。やりきれない。最近はレイ中佐の連絡さえ途絶えがちになってきている。何が起こっているのか、賢治には分からなかった。分かっているのは、ニュースで流されている事くらいである。

シーマント第三惑星において、立国史上最悪規模の爆弾テロ発生。このニュースは、雷光のように人類社会を駆け抜けた。

辺境でのテロは決して珍しくない。だが、今回のテロは少々事情が異なる。正規軍の基地に対する直接的な爆弾テロが発生したのは、実に十二年ぶりである。その上死者は実に700人に達し、その中にはシーマント星系駐屯軍司令官であるリューベック大佐も含まれていた。一時的に防衛が混乱するのは目に見えている。

軍事に最近まで興味がなかった賢治でさえその意味が分かったほどだから、軍の混乱はいうまでもないことであった。

かってと違い、現在はテロに対する対抗技術はかなり進歩している。シールドをはじめとした、爆発物に対する防御システムは軍基地に普通に配備されている。民間でも高層ビルなどにはかなり高度な対爆防御が為されている。三十年前には、法国で数世代前の小型荷電粒子砲によるテロが発生したが、とある高層ビルに配備されていた防御シールドがそれを見事に防ぎ抜き、話題になった。現在は攻撃能力が過剰にある時代ではないのである。宇宙要塞が展開するような超重複合シールドの前には、核兵器でさえ絶対的な破壊力をもたらすことが出来ないのだ。

それなのに、だ。辺境とはいえ、軍基地を相手にこれだけ大規模な爆発を浴びせることが出来たと言うことは。

内部に協力者がいてシステムを事前に全てダウンさせていたのか、或いはそれらの防御を全て貫通したと言うことか。誰でもそのどちらかだと、容易に判断することが出来る。賢治でさえ分かるのだから、有識者であればなおさらだろう。

前者であれば軍にとって大スキャンダルとなる。後者であれば、他の国からの軍需物資が使われたか。もしくは軍そのものが最新鋭の兵器を用いて破壊活動を行ったと言うことになる。そうなれば、一種の侵略行為だ。一気に戦争に発展する可能性さえある。如何に平和思想が強い立国とはいえ、これだけの事をされたら黙っている訳がない。現在の国際情勢が根本的に覆る可能性がある。

幾つかのテロ組織が今回の事件については犯行声明を出しているが、その殆どがテロ発生から一週間ほどで摘発を受け、叩きつぶされた。それからも軍は忙しく動き回っている。数日前には、賢治のいる首都星で大捕物さえ発生した。そのためか、街もぴりぴりした空気が漂い、肌が痛いと賢治は感じることがあった。

テロ発生の翌日は流石に学校も休みになったが、今はそのようなこともない。だから、賢治も学校へは行かなければならないのだ。現在の所、二次的なテロも発生してはいない。休む理由にはならないのだ。

精神状態を反映してか、いまいち食欲が湧かない。残り物をみて、静名が軽く小首を傾げた。

「お弁当はどうしますか」

「いや、今日は学食にするよ」

「分かりました」

カレーを静名が片付け始める。小さな鍋に作ったカレーは、それなりに保つ。冷蔵庫に入れれば一週間は大丈夫だし、何より弁当には向かない。

余り物はよほど傷みやすいものでないかぎり保存し、次の食事か、その次で美味しくいただく。この家での、暗黙のルールだ。貧しいが故に、食物は大事にする。賢治の行動を見て、自然に静名は覚えてくれた。融通が利かない部分も多いのだが、これに関しては学習が早くて、賢治は安心していた。

時間だ。静名に言われる前に、出ようと賢治は決めている。鞄に教科書類を詰めて、外に出る。静名に何も言われなかったと言うことは、忘れ物はないと言うことだ。

「いってらっしゃいませ」

「うん」

ベルトウェイを無視して、走る。最近は学校についても息切れしなくなってきた。ようやく平均的な男子の体力に近づいてきた気がする。今日も快調に飛ばして、学校へ急いだ。途中、何人か生徒を追い越していく。立花先輩と今のところ通学路で一緒になることは殆ど無いが、寂しいとは思わない。

学校に到着。いつもより警備用のロボットが増やされている。何度か学生証を見せながら中にはいると、其処でも数体のロボットが巡回していた。生徒達がひそひそと噂している。あれだけ大規模なテロがあった後だから、仕方がないとはいえ、落ち着かないのも事実なのだろう。妙なものである。今時家庭用のメイドロボットを使うのは当たり前である。誰もが家でロボットをこき使っているだろうに、学校で警備がいたくらいで、何を動揺しているのだろうか。

教室にはいると、賢治は机に設置されている端末を起動した。立花先輩から連絡が来ている。

周囲に他の生徒はいない。非音声式のチャットソフトを起動して、情報を交換する。HNを使うのは常識だ。ちなみに授業中は起動できないようになっている。

万が一を考えて、先輩はBHというHNを使っている。賢治はミナザキというHNで、チャットを行う。数年間このHNは変えていない。このHNは家でしか使っていなかったから、お互いにミスをして会話を見られても、ばれる恐れはない。

「おはよう」

「おはようございます」

「今日も走ってきた?」

「はい。 ベルトウェイは使いませんでした」

軽く雑談をする。お互い貧困層で一人暮らしだから、話の合う部分も多い。つい楽しい話へ移行しかけるが、そこは先輩だ。ちゃんと話を元の方向へ動かしてくる。この辺り、一年違うだけなのに、随分しっかりしているなと思う。

「ところで、連絡事項。 今日からルーフさんの旦那さんとも会うことになるから、そのつもりで」

「どんな人ですか?」

「人なつっこいルーフさんと比べると、だいぶ猜疑心が強いかな。 これは我々地球人の行動が原因だけれどね」

「そうですか。 少し大変そうですね」

人なつっこいルーフさんでさえ、接するのはかなり大変だ。会食に行ってから、何度か楽しく交流したが、それでもかなり気を使った。

ルーフさんの話を聞くと、やはり地球人はとても好戦的な生物だと思う。他の生物には警戒されても仕方がないのだなと感じてしまう。

地球人同士の場合は、その性質を気にしなくとも良い。

だがルーフさんは地球人ではないのだ。

賢治もKVーα人の歴史はこの間見せられたが、地球人に比べると著しく平和的なものであった。戦争はもちろん何度も行っているが、回数も内容も著しく穏当である。進化が早いというのは、こうも得なのかと思わされる反面、地球人の獰猛さがよく分かる内容であった。

今後、ルーフさんにはどう接して良いのか、毎度悩むことになるかも知れない。一つ分かっているのは、地球人は間違いなく肉食獣だと言うことだ。そして、決して肉食ではない別の知的生命体と、今接触を持とうとしている。

他の生徒が来たので、チャットを切る。すぐに教科書を取り出す。この間の催眠学習の負担が小さくて、賢治は驚いた。今までは頭が割れるように痛くなったのだが、それもなく、昼食も普通に取ることが出来た。意識が完全に変わって、勉強が頭に入ってくるようになってからだ。今日も催眠学習があるのだが、それほど憂鬱ではない。良いことだと、賢治は思う。

今日の一時限目は美術。実技ではなく、美術史だ。今、もっとも力を入れている科目の一つである。服飾文化に強い興味を持つKVーα人と接するには、これが絶対に必要な事だからだ。

教科書を開き、予習部分をチェック。更にテキストエディタを開き、立体映像式のノートを出していると、隣の席のクワイツが不思議そうに言った。

「なあ、被名島」

「うん?」

「お前、そんなに真面目だったっけ? 何があったんだ?」

「特に何もないよ」

筋肉質で長身のクワイツは、前々から着替えの時とかに視線をちらちら送ってくるから、気持ち悪くて仕方がない相手だった。だが現時点ではそう言うこともなくなりつつあり、むしろ上手く距離を取るようになってくれつつある。むしろ、今ではちゃんと同格の男として接してくれる数少ない人物の一人だ。

事実今も、同世代の男子を相手にするような下世話な事を言った。

「ひょっとして、女か? 女のために格好付けようとしているとか」

「そんなところかな。 でも、クワイツが期待しているような関係じゃないけどね」

「そうなのか。 俺も女が出来たら、少しは変われるのかなあ」

釘を刺したのに聞いていない。この辺りも、年相応の同年代男子という感じがして、疲れなくて済む。

ただ、理解できない部分もある。あまり賢治は男女交際に興味が持てない。母の乱行を間近で見ているからと言う理由も大きいのだが、メリットがあるとはあまり思えないからだ。所詮賢治は社会的にも独立していない子供に過ぎない。特に生殖を前提とした男女交際は、きちんと独立してから行えば良いのだとも思う。たまにあるのだ。高校生のカップルが体外摘出した子供が、孤児院で育ち、重大犯罪を起こしたというようなニュースが。責任も取れない行動をしたツケが、第三者に被害をもたらした結果である。

「被名島、女は作らないのか? お前の顔だったら、相手なんかよりどりみどりだろう」

「遠慮しておくよ」

「ストイックな奴だなあ。 おっと、続きは後でな」

教室に先生が入ってきたから、慌ててクワイツが会話を切った。ホームルームが終わったら、すぐに美術の授業だ。今日はルネッサンスについてである。恐らく三十人以上の芸術家の名前と特徴が出てくるだろう。覚えるのはそれなりに大変だが、やるしかない。

軽く連絡事項が伝達される。テロが起こった直後は、授業を半分潰してまでホームルームで注意事項が伝達されたのだが、今は流石に落ち着いている。隣で退屈そうに欠伸をしているクワイツの脳天気そうな顔。何も考えていないという事は、何にもストレスを受けないと言うことだ。ある意味羨ましくはある。

牛乳瓶の底のような眼鏡を掛けた、美術の藤原先生が入ってくる。髪にはいつも寝癖があり、唇も乾いている。化粧気も無く、山猿と一部では噂される人だ。もっとも、眼鏡を外すと美人だとか言う話だから、世の中は分からない。

「授業、始めるよー」

眠そうに先生が言う。パソコンの操作が苦手らしく、いつもぎこちなく触って黒板にデータを表示させる。ちゃんとイタリアの映像が出てきたので、賢治は安心した。前などは行きつけの料理店の映像が出てきてしまい、生徒達の苦笑を買っていた。賢治はあまり一緒に笑う気にはなれなかった。授業が遅れれば、勉強できる量も減るからである。退屈そうに、淡々と授業を進めていく藤原先生。イタリアの歴史と、ルネッサンスの発生の過程については、特にやる気がなかった。興味が持てない部分なのだろう。

データバンクで調べたのだが、藤原先生は元々美術大学の卒業生で、プロの絵師をしている人だ。だが絵の具を使ったクラシックスタイルの芸術は、兎に角採算が取れないとかで、余程実力がある人ではないと専業は無理なのだという。更に、あまり聞いていて楽しくない余談もある。

これは立花先輩に聞いたことなのだが、藤原先生はもともと普通に小綺麗にしていた人らしい。それが今のように自堕落になってしまったのには理由があるそうだ。同期の親友に凄い才能のある人がいて、それが関係しているらしい。それ以上は、正直言ってよく分からない。

背も低めの藤原先生は、すっかり社会に絶望してしまっているのではないのだろうかと、時々賢治は思う。その証拠に。

「この時代を代表する芸術家は、なんと言ってもレオナルド・ダ・ヴィンチです。 馬を書くのにまず内部構造から確認したりと、その徹底した職人魂には、現代の私たちから見ても素晴らしいものを感じますね。 もし会うことが許されるのなら、是非一度会ってみたい人です」

好きな芸術のことを語る時には、すごく生き生きしているではないか。眼鏡に隠れて見えないが、目はとても優しい視線を湛えているのではないだろうか。そんな雰囲気が確かにある。

何かが好きだと言うことは、幸せなことなのだなと賢治は思った。どん底にいたとしても、それに触れている時だけは、幸せを味わうことが出来る。賢治には何もなかった。だからどん底にいる時は、本当に辛かった。

何か、好きになる事は出来るのだろうか。自問自答は空に流れる。誰の耳にも、届くことはない。

授業が終わる。フルに集中していたから、少し疲れた。早速今の授業の要点を、メモしていく。授業が終わってすぐに復習すると、比較的長く頭の中に残る。催眠学習の時に、かなりこれで負担を減らすことが出来る。

ざっと復習が終わると、伸びをして背中の筋肉を刺激する。催眠学習の前にもう一時間授業があり、そっちは実技の美術だ。先生は前々から油絵をやりたいと言っているそうなのだが、コスト的にとてもではないが採算が取れないらしく、泣く泣くペイントソフトを使って立体映像画布へのイラストで我慢しているそうだ。この辺りの上手くいかない現実も、先生のやる気を削いでいるのかも知れない。

美術の教室は、四階にある。一番隅の、風通しが良い部屋だ。これも元々、絵の具の臭いを抜くための名残なのだそうだ。四階の教室に行くのには、殆どの生徒がエレベーターを使う。賢治はもちろん歩く。

一番最初に教室に着いた。先生はもういて、窓側でぼんやり外を見ていた。背中が寂しい。悲しそうな雰囲気で、声を掛けられなかった。

この人は、きっと美術に全てを掛けて生き抜いてきた人だ。それなのに、才能が足りないという現実から、兼業での美術を行わなければならない。それも、本当にやりたい美術ではなく、己が好いていない別のものをだ。どんな気分なのだろう。

美術部は、この学校にはない。そうなると、この人の苦悩を理解できる人も、また少ないと言うことだ。賢治は子供だから、まだいい。この人の場合は、大人の孤独である。社会の中で一人だけ佇み、周囲には誰もいない。闇の中と評しても過言無い。

いたたまれなくなったので、賢治は一度教室から出て、廊下で他の生徒達が来るのを待った。

世の流れに取り残される人は、いつの時代もいる。それを再確認させられて、賢治はやるせなかった。

 

催眠学習が終わって、学食へ行く。今日は形があるものを食べたかったので、ホワイトクリームハンバーグにした。少し値は張るが、形はしっかりしているし、何よりお腹が一杯になるのがいい。それに、賢治はこういう柔らかい口当たりの食べ物が好きだ。子供っぽい味覚と言われればそれまでだが、好きなものは仕方がない。ハンバーグの中に混ぜてある軟骨の粒が歯ごたえが良くて、特に好きなのだ。

昔は美術の授業と言えば、絵の具臭くなって大変だったそうだが、電子機器を使って立体映像にペイントを行う昨今はそれも無い。しばらく無心に食べていると、側に幸広がやってきた。にこにこ笑ってとなりが空いているかと聞いてきたので、頷く。別に拒否する理由はない。

「今日は催眠学習でしたね。 体調は大丈夫でしたか?」

「最近は特に何も。 君は……聞くまでもないか」

「ははは、鍛え方が違いますから」

幸広の言う鍛え方は、多分脳みそのほうなのだろうなと、賢治は思った。事実幸広の体は細いし小さいし、軍務に耐えられるとは思えない。もっとも、強化ナノマシンの適合率の事もあるし、人は見かけにはよらないものだが。

幸広はカツ丼を食べていたが、最初から量を減らしてあるようだった。冷凍食品であるから、基本的に内容の融通はきかないのだが、たまに別料金で自分用に作ってもらう人がいる。裕福なのかも知れないと、賢治は思った。

「今日の午前中は、何の授業だったんですか?」

「美術だよ」

「ああ、そうなると藤原先生ですか。 あの人も色々大変みたいですね」

「そうだね。 背中が寂しそうで、声が掛けられなかったよ」

何だか視線を感じる。自分自身と、もう一人幸広にだ。誰かがこっちを見ている。しかも、かなりよこしまな視線である。

「噂によると、藤原先生って、夢破れた事があるらしいですね。 それも親友に半分裏切られるような形で、です」

「え? そうなの」

「噂ですけどね。 なんでも特待生として声が掛かっていたところを、親友に取られてしまったのだとか。 その時好きだった男の人と親友が恋人同士になる所まで見てしまって、芸術に対する興味を一時的に失うほどに落ち込んだそうですよ。 その親友が幼なじみの非常に仲が良かった人で、しかも向こうが悪い訳ではなかったから、落ち込みも半端ではなかったそうです。 噂によると、手首を切りかけたとか」

生々しい話であった。藤原先生の手首を見た訳ではないから、何とも言えないが、それでも笑い飛ばすには重すぎる話であった。

それにしても、それほど重い話を平然と話すとは。やはり隣に座っているこの少年には、何かあるとしか賢治には思えなかった。

ふと見ると、食堂の一番隅に藤原先生が。黙々と何か口に入れている。多分賢治と同じホワイトソースハンバーグだろう。人望のある先生なんかになると、周囲に生徒が集まってくるものだが、それもない。同僚も周囲には近寄らないようだった。

「誰か、藤原先生を助けられる人はいないのかな」

「そう思うのなら、自分で活動するべきですよ」

「それは、そうかも知れないけれど」

「被名島先輩も、少し前までは凄く大変だったみたいですけれど、同情されても多分嬉しくなかったんじゃないですか?」

それは確かにそうだ。だが、今賢治は大事な案件を抱えていて、他の人にまで手を回している余裕がない。

何だか無力だなと、賢治は思った。せっかくのホワイトソースハンバーグが、胃の中で煮立っているようだった。

 

夕刻になっても、気は晴れなかった。近くの公園で立花先輩と待ち合わせる。今日も護衛は静名だ。立花先輩が連れているフォルトナはバックアップをしているそうで、賢治はあまり顔を見ることがない。公園のブランコに腰掛けて足をぶらぶらさせていた立花先輩は、今日は髪の毛を右だけで縛っていた。よく分からないが、ファッションの一つなのだろう。

「今日は何処へ行くか分かってるね」

「はい。 今日はルーフさんの旦那さんと会うんですよね」

「そう。 朝にも言ったけど、少し気難しい人みたいだから、気をつけてよ」

「やっぱり、マナーとかにかなり五月蠅い人なんですか?」

ブランコから降りながら、立花先輩は違うと言った。そういう五月蠅さなら、どれほど気が楽かとも。

後ろについて歩く。立花先輩は基本的に運動が好きらしく、賢治と会った頃から、ベルトウェイを使っていなかった。今も歩道を歩いている。かなりの距離だが、気にする様子もない。

「KVーα人は進化の速度が非常に速い種族だけれど、その代わり生物としての個々の能力には、かなり低い段階で限界があるらしいんだ。 ルーフさんはかなり優秀らしいんだけれど、旦那さんは特に擬態の面でかなり到らない点があるらしくて。 それが人類に対する苛立ちにつながっているんだって」

「苛立ち、ですか?」

「そう。 皮膚の色のごまかしくらいならいいんだけれど、他には関節や見かけ上の体積の維持とか、凄く大変らしいよ。 KVーα人は元々外見を如何にコンパクトにかつ美しくまとめるかに興味が行く種族だけれど、逆に言えば能力次第で幾らでも姿を変えるらしいから。 同じ姿をずっと維持するのは、かなり精神的な負担が大きいんだって」

「そうですか。 僕たちにはどうしたら良いのかよく分からないですね」

賢治の言葉に、立花先輩は鼻を鳴らした。それをどうするのが自分たちの仕事だと、冷たくだが重い口調で言う。その通りだ。謝ると、先輩は別にいいよと短く答えた。気まずいと思ったので、話を変えてみる。

「美術の藤原先生、知ってますか?」

「ああ、あの眼鏡の」

「はい。 あまり良くない噂を聞きまして。 それで、僕からどうにかしてあげられないのかなと思ったんですけれど」

「余計なことに首突っ込んでる余裕ある? 確かに藤原先生は大変な状態にあるみたいだけれど、いい大人でもあるんだよ。 大人である以上、自分のことはちゃんと処理出来なきゃいけないの。 それが大人であることの、最低限の条件なんだから」

先輩はこう言うところでは非常に冷たい。自分が若くして、社会的な大人顔負けの生活をしてきたからだろう。相手が同性だという事もあるのかも知れない。相談した相手を間違えたかなと一瞬賢治は思ったが、先輩は嘆息すると、少し言い換えた。

「だから、自分でどうしたら良いか考えなよ。 何か名案があったら、あたしも手伝ってあげるから」

「ありがとうございます」

「良いって。 それより、そろそろだよ」

静名が油断無く辺りを見回している。何気なく通り過ぎた人が、あのシノン少佐だったので、先輩の言葉が正しいと、賢治も嫌でも悟ることになった。この辺りは、軍がかなり重度の警戒をしている。それだけでも、背筋に緊張が走る。まさか無いとは思うが、テロに巻き込まれないとも限らないのだ。

ほどなく、何という事もない官給住宅の前に到着。軍が所有している物件の一つだろう。静名が警戒する中、立花先輩が先に立って玄関に。ドアをノックすると、すぐに開いた。

アレックスだった。どうやら此処で間違いない。安心するのもつかの間、すぐに気を引き締め直す。これから、難しい仕事が待っているのだ。

「お待ちしておりました。 立花・S・キャムティール様。 被名島賢治様」

「こんばんは、アレックス。 シャルハさんはもう来てる?」

「はい。 既に来ております。 後は、ルーフ様と、レイミティ中佐も」

「分かった。 準備はもう大丈夫?」

立花先輩の言葉に、はいとアレックスは短く答える。最初賢治には意味が分からなかったが、靴を脱いで家に上がる頃には気付いた。そうだ。KV−α人が、人間の形態を維持するのには、かなりパワーを必要とするということではないか。

そうなると、今までは部屋中にあのクリップのような虫が広がって、休んでいたと言うこともあり得る。もぞもぞ壁を天井を一杯に覆って蠢く虫の姿を想像してしまう。瞬間的に、背筋に寒気が走った。

思わず、足元を見てしまった。何もいない。高鳴る心臓を抑える。すぐには直らないと分かってはいるが、それでも恐怖を感じてしまう自分がいた。怪訝そうに立花先輩が此方を見た。適当に言いつくろって、後に続く。

家の中は、何の変哲もない官給住宅だった。多分何かしらの理由で、所有者がいなくなったものなのだろう。何度か軍の人と一緒に足を運んだような場所と同じだ。ただし、中は良く整備されている。

立花先輩に続いて、部屋にはいる。紅茶をすすっているレイミティ中佐。その隣に、同じようにお上品な仕草で紅茶を口に運んでいるルーフさん。多分アイスティだろう。多分熱い飲み物は駄目なはずだ。そして一番奥には。

目を開けたまま瞬きもせず、腕組みして憮然と座っている青年がいた。背が高く、肌が浅黒い。顔の造作は整っているが、ルーフさん以上に作り物くさい。多分、瞬きを殆どしないことに加えて、微妙な部分で人間性に欠けるのが要因であろうか。年は見かけ賢治より少し年下か。ただし、背は向こうの方が高そうだ。あくまで、見かけ上の年齢、に過ぎないが。

「お疲れ様です」

「お疲れ様。 適当にその辺に座って」

最初にレイ中佐に話しかけたのは、一番親近感のある相手だからか。これではいけないと分かっているのだが、それでも体は上手く動いてくれない。歯がゆいが、すぐに己は変えることが出来ない。アレックスが紅茶を出してくれる。紅茶の入れ方は、今の時代には研究され尽くしていて、ロボットの手に掛かれば簡単に完璧なものを再現することが出来る。事実、今賢治が口に運んだ紅茶も、実においしいものだった。研究され尽くしていると言っても、インスタントは所詮たかが知れているものなので、茶葉が良いのだろう。

ふと気付く。レイ中佐の笑顔に、疲労が隠せない。いつももの凄い激務をこなしているはずだが、それを外部には全く見せない人だというのに。心配になった賢治を余所に、立花先輩が笑顔を作った。

「お久しぶりです。 以前は、レイ中佐のところで一度会ったきりでしたか?」

「そうなるね」

「あなた」

「おっと、そうだった」

低い声で応えたシャルハさんが、ルーフさんに肘で小突かれて、慌てた。どうやら視線を立花先輩に合わせていないことを注意されたらしい。視線がその後立花先輩に合わさったので、そう思った。

「はじめまして。 シャルハフォートラと言います。 以降よろしく」

「あ、はい。 被名島賢治です。 此方こそ、よろしくお願いします」

不意に挨拶されたので、声がうわずってしまった。意外と礼儀正しい喋り方だったことも、驚く要因となった。何だかぎこちない。

さて、どう話を進めたものか。賢治は慌てて考える。今まで歩いてくる途中で、色々と考えては来たのだが、全部忘れてしまった。だからこの場で何か新しく考えなければならない。趣味とかを聞いていたら、まるで慣れない若者が、見合いか何かをしているかのようだ。しかし、他にどうしたらいいのかよく分からない。

そうこうしているうちに、立花先輩が先にしゃべり出す。こう言う時は同性である賢治がしっかりしなければならないのにとへこんだ。直後に地球人での性別はあまり関係ないのだと気付いて、もう一つへこんだ。

「シャルハさん、今どれくらい人間形態を維持しているんですか?」

「ええと、丁度これで三時間くらいかな。 そろそろ肌の色の維持が難しくなってきているかな」

「こっちの賢治は、まだ人間形態を解除した貴方たちのことを見たことがありませんので、驚いても許してやってください」

「分かった。 未熟者同士、お互い頑張ろう」

「は、はい」

やっと喋れたのがそれだけ。やはり、何か共通する話題がないと厳しい。今のところ、ルーフさんの話によると、スポーツも検証段階だそうである。体を構成している群体にダメージが行く可能性があるとかで、検証が済むまでは避けたいのだそうだ。

無趣味な賢治には、最近始めた筋肉トレーニングくらいしか、他人と話せる事がない。勉強仕出しの服飾については、話しても墓穴を掘るだけだという気がして、怖くて議題に上げられない。

何だかんだ言っても、まだ賢治は弱いままなのだと、こう言う時に強く思う。

「それって、これからルーフが通うことを予定してる学校の制服ってやつだったっけ」

「はい、そうですけど」

「地球人類って、どの個体も同じ所に関節があるの? この間着てみたら、随分動きづらくて、難儀したよ」

「え? ええと、その」

返事に窮した賢治は、続くシャルハさんの言葉に完全に硬直した。

「後、人間の視界って、眼球にしか起因しないんだっけ。 この服だと僕の場合周囲が見づらくて仕方がないから、学校じゃ脱いでもいいかな? そうしないと、周囲の危険を回避できる自信が無くて」

「……え、ええと」

応える言葉が見つからない。

「事情を知らない女子は喜ぶと思いますけど、その前に淫行罪で捕まるからやめてくださいね」

「あれ? 下着付けてれば大丈夫なんじゃなかったかな」

「大丈夫じゃありません」

さらりと返す立花先輩は、紅茶を一啜り。ギリシャ神話に登場する、百の目を持つ怪物アルゴスのように、シャルハさんの全身に目が着いている様子を想像してしまった賢治は、きっと異端なのだろう。そう信じて、心を落ち着けるしかなかった。

「あなた」

「ルーフ、でもこの間見たテレビでは、地球人の若者が衣服を身につけずに水の中に入っていたじゃないか。 確か高校生の映像だったはずだよ」

「あれは水泳の授業だからですわ。 陸上では、地球人類は、オスもメスも公共の場では基本的に衣服を脱ぎません。 彼らが衣服を脱ぐのは基本的に身体の洗浄と生殖行為の時くらいです。 地球人類の服飾文化に対するレポートを、あなたも全部読みましたでしょう?」

「ううむ、読みはしたけれど、どうも腑に落ちないんだよなあ」

これは時間が掛かりそうだと、賢治は思った。それにしても、何を相手が言ってもさらりと返せる立花先輩は凄い。やっぱり修羅場をくぐると、精神的に色々と成長するのだろう。本職を相手に喧嘩をしたこともあるみたいだし、胆力はやはり賢治と比べものにならない。

悪いことばかりではない。話してみて分かったが、思ったほどシャルハさんは神経質ではない。だが、ほんの少し話しただけであり、本音はもっと仲良くならないと漏らさない可能性もある。夫婦漫才をやっている二人が、家では冷戦状態になっているなど珍しくもないと聞いたことさえある。今この場ではルーフさんが主導権を握っているが、実際にどうなのかは分からない。家では亭主関白なのかも知れない。

仲が良さそうに口論するルーフさんとシャルハさんを見ながら、ふと賢治はそんなことを思った。

 

2,不思議な同居生活

 

ついに、同僚であるアーサーマン中佐が倒れた。レイミティは自室でその報告を聞いて、来るべき時が来たと思った。

アーサーマンは既に60才を超えているベテラン士官で、今回の激務でもっとも最初に体力を喪失しきるのではないかと、レイミティは考えていたからだ。身体年齢は地球時代で言う四十代前半を維持しているし、有能な男だが、流石に今回の激務は度を超している。脳の血管を切りかけたそうで、数ヶ月は復帰できないという。人ごとではない。彼の部隊の負担は、周囲の士官達に回ってくるのだから。もちろん、レイミティも例外ではない。健康診断はずっとロボットにさせているが、常にイエローゾーンを越えていて、日に二度はレッドゾーンまで到達してしまう。

この激務の到来には、幾つか遠因がある。シャレッタがテロで大けがをして、現在首都星に搬送中だと言うこと。シーマントに立国第四宇宙艦隊が向かっており、各地の宇宙軍が厳戒態勢をしいているという事。そして、人類の曙がまだ野放しであること。テロの背後に、複雑な因果関係が絡んでいること。

それらのしわ寄せが、特務行動部隊にも押し寄せていると言うことだ。慢性的に忙しかったところに、補給までもが断たれたと言える。このままでは、戦線の全面的な崩壊が待っている。抜本的な対策が必要である。

兎に角、余所の部署の協力が得られない。軍も警察も本気で人類の曙およびテロの実行犯を潰しに掛かっており、特務行動部隊はほぼ独自の人員だけで警護を行わなければならないのだ。

現在、もっともステイ計画が順調なのは、シュラート一家である。五人構成のステイ家族である。兎に角父親が有能で、上手くステイを行っている。此処にしばらく活動を自粛して貰い、警護の負担を減らすしかない。他にもう一つ、アンテルという比較的計画が順調な家族がある。此処からも、計画の遅滞と合わせ、警護の人員を削る。

同時に、軍中枢から、応援の部隊を寄こして貰うしかない。今忙しいのは何処も同じだが、こればかりは譲ることが出来ない。しかし、人員の派遣は難しいだろう。軍用のロボットを幾つか回して貰って、当面は急場を凌ぐ他無い。しかも、最新型の譲与は難しいだろう。それらはシーマントをはじめとする、最重要地点に投入されるであろうから。流石に特務行動部隊の最新型を持って行かれる事だけは阻止しているが、それもいつまで保つか。

問題は、大統領の意向だ。大統領が有効な手を打ってくれなければ、大変なことになる。頭を抱えて、レイミティは呻いた。このまま行くと、芋づる式に士官達が倒れていくことになる。どうにか各人の負担を減らすか、大統領が英断を下してくれない限り、計画は頓挫する。

上司であるジョンソンは、今レイミティ以上に忙しいはずだ。政治的な駆け引きをしてくれてはいると思うが、過大な期待は禁物。

「さて、どうしますか?」

そう言ったのはシノン少佐である。他の幹部達も、皆疲れ切った様子で、レイミティを見ていた。

皆、限界が近いのだ。特に気の毒なのは、一番若いフランソワである。彼女は昨日目の下に隈を作ってしまい、会議に出る前に鏡を見て悲鳴を上げていた。ナンバースリーとしては頼りない所もあるが、四年も飛び級して軍に入った俊英だ。若くても、三年の軍経験があり、情報処理能力も高い。まだ「女の子」に過ぎない。だが、有能な「女の子」だ。だから使っている。

フランソワもかなりグロッキーになっているが、レイミティもだ。今までになく危険な状況だ。部下達の声が、良く聞こえない。とびとびに聞こえてくる文字を翻訳しなければならないから、余計に脳を無駄に活用しなければならない。反応も遅れてしまう。

「此方が聞きたいわ」

「そう、でしょうね」

「スキマ一家は、ようやく二人目がステイ計画に本格参戦したところで、しばらくは忙しくなる。 まだ休む訳には行かない」

「しかし、このままでは、中佐の命が危険です。 カールマン中佐のように、脳の血管を切りかけたりしたら、数ヶ月は復帰できませんよ」

フランソワが心配げにいうが、情けないことにそれさえも苛々した。疲労が、思考を完全に濁らせている。普段の半分の能力も発揮できていないのではないか。ここ三週間で、合計して三十時間ほどしか休んでいない。もう、体が限界に近いのは、レイミティ本人が一番よく分かっている。

そもそも、レイミティがなぜスキマ一家を担当しているか。それは、一番厄介なことが事前から分かりきっていたからだ。

スキマ一家は家庭内で能力のばらつきが非常に大きく、しかも長のルーフがかなりの変人である。その上ルーフの能力を見込んで様々な実験的試みを周囲で行っており、その負担が余計にのしかかってくる。だから、休む訳にも行かない。

無理なのは分かっている。無理なのを承知で、やらなければならないのだ。

「とりあえず、全員休憩を取りなさい。 二時間程度。 催眠休憩装置で」

「了解。 中佐はどうなさいますか?」

「私のことは良いの。 ……貴方たちの後に、少し催眠休憩装置を使うわよ」

まだ納得していない部下達を部屋から追い出すと、レイミティは仕事に戻る。可視ギリギリの速度でキーボードを叩いてメールを作成して、彼方此方に飛ばす。作戦指示を作り、目を通して、部下達に配布。大佐に報告のメールを出して、部下達の連絡を確認。一段落した。そう思った瞬間、何かが切れた。

目眩を感じて、後ろから突き飛ばされるようにして、机に突っ伏した。気付くと、三時間ほども過ぎていた。だというのに、焦燥感が沸き上がってこない。頬に着いた涎の跡を拭うと、メールを確認する。緊急のものが四通来ていた。中には、内務省からのものまでもがある。しかも、三時間ほど寝てしまったにもかかわらず、まるで疲労が取れていない。最重要のメールを返信。だが、手が上手く動かない。視界がかすむ。再び、からだがぐらついた。

嘔吐感がこみ上げてきたので、トイレに駆け込んだ。胃の中身を、トイレに全部ぶちまけてしまう。こんな所を見られたらどんな噂を立てられるか分かったものではないが、今はそんなことに配慮している余裕がない。しばらくはき続けて、それでも不快感は収まらなかった。

「レイミティ中佐?」

どこかから声がした。ふと気付くと、執務室に戻っていた。トイレからどうやってこの部屋に来たのか、まるで覚えていない。モニターのメールに、無意識のまま返信していた。どういう内容を書いたのか、記憶がない。

「中佐ッ!」

すぐ後ろで絶叫。五月蠅い。見ると、モニターに吐瀉物をはきかけてしまっていた。メールの文面が、汚れてよく見えない。なんと言うことだ。汚れを取らないと。机の上がよく見えない。ティッシュは何処に行った。肩を掴まれる。はじき飛ばす。可愛い悲鳴が上がった。誰だ。そうか、フランソワか。

どたどたと部屋に誰か入ってくる気配。敵か。テロリストか。銃を出さなくては。腕を掴まれる。押さえ込まれようとする。遠くから声。立ち上がりながら、投げ飛ばす。其処で限界。地面に叩きつけられる。いや、自分で倒れたのか。

闇が来た。ふつりと、意識がとぎれた。

後は、何も分からなくなった。

 

携帯端末が緊急信号を鳴らしたので、寝ていた賢治は慌てて飛び起きた。寝室に静名が入ってくる。目を擦りながら、端末を開くと、パジャマを着ていた立花先輩の立体映像が浮かび上がる。

「被名島、一大事!」

「どうしたんですか?」

「レイ中佐が倒れた! 錯乱して暴れて、シノン少佐を投げ飛ばした後取り押さえられて、今は病院だって! 意識が戻ってないらしくて、今ちょっと大変なことになってる! 何があるか分からないから、静名の側から離れないようにして!」

全身の血の気が引く音を、確かに賢治は聞いた気がした。すぐに割り込み通信がある。立体映像に出てきたのは、ショートカットの綺麗なお姉さんだった。レイ中佐は大人の美貌を感じさせるが、何だか可愛い雰囲気の人である。

「被名島賢治君ですか? それに立花・S・キャムティールさん?」

「はい、そうです。 私が立花、こっちが被名島。 貴方は?」

「フランソワ大尉といいます。 今、レイミティ中佐のお留守番として、執務室に張り付いています。 不慣れなところもありますが、堪忍してください」

少しおどおどした様子で、フランソワ大尉と言う人はそう言った。レイ中佐は敬語を使って丁寧な話し方をする反面、もの凄く堂々としていて、自信を伺わせる所があった。淑女であることが、一目で分かる人なのだ。それに比べて、この人はなんだか自信がなさげである。自信が持てない人の事は、よく分かるつもりである。バカにする気はない。急に無理な仕事を押しつけられて、気の毒だなと思う。

「僕も新入りです。 お互い頑張りましょう」

「ありがとう。 とりあえず、レイ中佐が指揮を執れるようになるまで、負担を減らすためにも、一カ所に集まって貰います。 具体的には、賢治君のおうちが、少し遠すぎるのです」

始めて聞かされる。ルーフさんのステイしている家と、立花先輩の住居は、すぐ側なのだという。しかし、この近辺は住宅街だ。都合良く軍が管理している空き家が、彼方此方にあるとは思えない。経済的に沈滞している国家ではあるまいし、殆どの家には、人が住んでいるのである。

そうなると、どうすればよいのか。

「ごめんなさい。 同年代の男女にこんな提案をするのは本当に申し訳ないのですが、賢治君。 キャムティールさんの家に、しばらく一緒に住んで貰えませんか?」

最近、硬直することが多い気がする。完全に固まった賢治を見て、立花先輩は半眼で言った。

「部屋は余ってるから良いですけれど、特別料金はもらえるんでしょうね?」

「それはもちろん。 あ、ちゃんとそれぞれのプライバシーは守られるように配慮しますから」

「被名島の家はどうするんですか?」

「管理用の、二世代前の軍事ロボットを手配することになります。 今どこも凄く忙しい状態で、やっとかり出せたのが二世代前の型式なんですよ。 本当に申し訳ありません、すみません」

まだ固まっている賢治の前で、勝手に話が進行していく。本当に申し訳なさそうにフランソワが謝るので、賢治もあまり反論できない事情はあったが、それにしても何だかむごい。自分のことが、自分の知らないところでどんどん決められていく。

やはり人権というものは、遠い世界の存在なのではないかと、賢治は思った。その証拠に、賢治の意見など、誰も求めていないではないか。しかし、今は時が時だ。大規模テロに便乗して、どんな輩が蠢いているか分からない。フランソワさんの提案は、至極まっとうなものである。

「そ、それで、引っ越しはいつすれば」

「もうワゴン車を手配してあります。 本当に申し訳ないのですが、身の回りの品だけ整理して、すぐに出てもらえませんか?」

「は、はあ」

「お願いします。 身内の恥をさらすようで申し訳ないのですが、本当に今人手が足りないんです。 人類の曙と、テロ事件が一段落したら、またおうちに帰れると思いますから、しばらくは我慢してください。 野戦陣地に比べれば、きっと楽だとは思います」

ずれた事を言うフランソワさん。何だか乾いた笑みも沸き上がってこなかった。

フランソワさんは忙しいらしく、別の電話を慌てて取って、唐突に立体映像が切れた。ため息が出てしまう。

「どうでもいいけど、変なこと考えたらぶっ殺すよ?」

「考えません!」

お約束のやりとりを先輩としながら、賢治はワゴンが到着した音を聞いた。

 

ワゴンの戸が閉まる音。ばらばらと足音。多分護衛の軍の人たちだろう。周囲に散る。外の様子を伺っていた静名が、振り向きもせずに言った。

「特務行動部隊の人たちです。 問題ありません」

「分かった。 出迎えてくれる? 僕は着替えて、身の回りのものを整理するから」

「分かりました」

静名を寝室から追い出すと、さてどうするのかと考える。まず着替類。普段着と制服。それに、端末や身の回りの品。鍵。それに教科書などの学用品。

それだけカウントすると、もう持っていくものは無くなってしまった。自分でも驚くほどに少ない。

貧しい生活をしていたと言うこともある。だが、今の時代、携帯端末があれば大体のことは出来てしまう。ゲームなどの娯楽に始まり、家庭管理や資金調整もそうだ。後は娯楽品だが、賢治は殆どそういうものを持っていない。持っていきたいものもない。

母が帰ってくる可能性も考えたが、軍がどうにかしてくれるという、レイ中佐の言葉を思い出す。もうあの女は此処に帰ってこないだろう。今更あんな女のことなど、何とも思わない。勝手にのたれ死にすればいい。鞄に必要なものを詰め込むと、それで準備は済んでしまった。実際に触ってみると何か持っていきたいものが出てくるかと思ったのだが、そんなこともなかった。

貧すると鈍するとか言う。それに近い意味で、賢治は周囲に遊びの部分がないのだと、こうして身辺を整理すると感じてしまう。今は違う。金はある。だが、それをどう使って良いのか分からない。

何度か、通信販売のサイトを覗いた事がある。お金があるなら、何か有意義な方向で活用しようと思ったからだ。ある程度の服や、身の回りのものも揃えた。だが、それ以上は金の使い道が分からない。特に娯楽品などは、何を買ってよいものか、さっぱりだった。携帯端末では実現できない高度な能力を持つゲーム機器などもあるが、それらもよく分からない。買っても埃が積もるだけのような気がする。

丁度いい機会だ。立花先輩に、向こうで相談してみるとしよう。賢治は気を紛らわせるためにも、そんなことを無理矢理考えた。女の子の家を一人で訪問するという感覚はない。いつテロリストが襲ってくるか分からないし、家の周囲は軍の人ががっちり固めているのだから。

洗面所に入って、顔を洗う。制服を着ようかと思ったが、やめた。流石に私服にした。髪を洗って整え、電源類をロックして停止する。

玄関に出ると、シノン少佐が待っていた。目が血走っていて怖い。下手なことを言うと、何をされるか分からないので、賢治は静かにしていた。レイ中佐が倒れたと言うことは、シノン少佐達も相当に酷いスケジュールでの仕事をしていたはずだ。多分、何か危険があると言うよりも、疲れて精神的な疲労が激しいのだろう。

「お疲れ様です」

「ああ。 いいから乗れ」

「はい」

会話を拒否する雰囲気だったので、短く応えた。シノン少佐が乱暴にワゴン車のドアをスライドさせる。中には何人か完全武装の兵士が乗っていて、無言の威圧感を醸し出していた。空気が痛い。皆苛立っている。静名が最初に中を確認し、続いて賢治が足を踏み入れる。しばらく家に帰ることは出来ないが、寂しいとは思わなかった。この家には、ろくな思い出がないからだ。

乱暴にワゴンが発車した。隣に座っている静名が眉をひそめたのは、感情表現ではなく、周囲を警戒してのことだろう。他にも戦闘ロボットが乗っているようだが、指揮をする人間が苛立っていては、判断を誤りやすい。基本的にロボットは人間に逆らえないように作られているが、ある程度の警告は行うことが出来る。高度な軍用ロボットであれば、判断ミスを指摘する事もあると言う。静名はおそらくそれが出来るだろう。だが、今はまだ、指摘をするタイミングではないと言うことか。

まだ明け方にもならない深夜の道を、ワゴンが行く。リニアカーだから揺れることはないが、それでも運転が乱暴だと感じることはある。シノン少佐は腕組みしたまま前を見つめていて、運転をしている若い士官はガムを噛んでいた。普通は無いことだ。相当にストレスが溜まっていて、黙認されているのだろう。

立花先輩の家に着いたのは、程なくのこと。どんな噂を立てられるか分からないから、静名に最初に周囲を探って貰った。誰もいない。表札を確認。立花と書いてあった。ため息一つ。ドアを静かにノックすると、パジャマの上からコートを羽織った立花先輩が出てきた。

「早く入って」

「はい。 お世話になります」

「いいから」

殿軍が静名になり、潜り込むようにして立花先輩の家にはいる。構造は賢治の家と全く同じだ。だが、若干劣化が激しい。この辺りは、ひょっとすると手入れの有無が関係しているのかも知れない。立花先輩はずっとバイトに明け暮れていて、家を整理する余裕がなかったと聞いている。そのため、家が色々傷んでいるのかも知れない。

居間は電気がついていて、フォルトナが客を迎える準備をしていた。賢治が一礼すると、にこりと笑顔を返してくる。この辺りは静名より出来が上だ。羨ましい。その代わり、戦闘能力は静名よりも落ちるのだろう。

「被名島の部屋は、一階の一番奥ね」

「ありがとうございます」

「後は、色々と決めておかないと」

「と、いうと?」

ワゴンが発進する音。護衛は恐らく、いつものシフトに戻ったのだろう。これで少しは負担が減らせるらしいので、彼らの苛立ちが収まるといいのだが。先輩が携帯端末を開いて、またフランソワさんと回線をつなげる。眠そうに目を擦りながら、フランソワさんはすぐに電話に出た。

「着きました、フランソワ大尉」

「急な話ですみません。 特に困ったことはありませんでしたか?」

「え? ええと、特には大丈夫です」

あまりにも申し訳なさそうに言うので、恐縮してしまった。ひょっとするとこの人、この申し訳なさそうな言動が交渉の際に武器になると判断されて、特務行動部隊に入っているのではないだろうか。賢治はそんな事を考えてしまった。能力主義の部隊だと言うし、実際にあり得ることだ。そうなると、気弱そうな外見さえも、この人は武器にしていると言うことになる。

咳払い一つすると、立花先輩が言う。どうでもいいが、パジャマを着ていると流石にいつもと雰囲気が違う。緩やかな作りのパジャマが作り出す無防備さは、気をつけないと変な方向に思考が動いてしまう要因になるかも知れない。小柄ではあるが、この人は歴とした、年頃の女の人なのだ。

視線を立花先輩から逸らす。首筋の辺りは、特に見ているとあまりよろしくないと思ったからだ。そんな賢治の努力に気付いてもいないのだろう、立花先輩はさっさと話を進める。

「それで、これからの日常生活についてですが」

「はい、なんでしょう」

「まず、外出と帰宅の時間を、二人でそれぞれずらします。 変な噂を学校で立てられると、やりづらくなりますし」

それはそうだ。 ただでさえ立花先輩と賢治は仲がよいという事で、一年生の間では変な噂が立っているのだ。同じ家に入るところでも見られようものなら、どんな噂が立つか、考えるだけでも恐ろしい。

「短期間であれば、それでしのげるとは思います。 でも長期間になってくると、はっきり言って無理が出てきます。 長期間になるようなら、近所に別の家を確保することを考えてもらえませんか?」

「分かりました。 時間と人員は足りない状況ですが、予算だったらそれなりにありますから、どうにかしてみます」

「頼みます」

嘆息。立花先輩は流石に年上だ。この辺りのてきぱきした行動は、とても賢治には真似が出来ない。変に気恥ずかしがっているだけの賢治は、やはりまだまだガキなのに違いなかった。

後幾つかの事を決めると、立花先輩は電話を切った。大きくため息。

「じゃあ、あたしもう寝るからね。 被名島も適当に休んでおいて。 明日は学校なんだから、さ」

「はい。 それで、これからの調練についてはどうしますか?」

「さっき話してたでしょ? 静名かフォルトナに聞いておいて」

眠そうに目を擦りながら、先輩は二階に上がっていく。それで気付く。早く眠りたいから、てきぱきと目の前の問題を片付けていたのではないのか。

そう思うと、立花先輩に親近感が湧いた。何だ、子供っぽいところもあるではないか。外見は子供っぽくても、内面はしっかりした大人だと思っていたのだが、案外そうでもない。立花先輩はひょっとすると、スペックの高い子供なのかも知れない。それならば、自分と共通する部分も多い。

立花先輩が寝てしまってから気付く。金の使い道に悩んでいたのだった。まあ、これからは一緒に過ごす時間も多い。後で相談すればいい。

寝る前に、静名に聞いておかなければならない。明日から、この奇妙な同居生活をこなしていくのは、しっかり状況と取り決めを把握しておく必要があるのだった。

 

3,不思議な生活の中で

 

朝、目が覚める。共同生活が始まって、もう一週間以上が過ぎた。

ぼさぼさになった髪を掻き上げながら、大あくび。ある程度身繕いしてからでないと、流石に異性の前には出られない。相手があの被名島賢治でも、だ。これは羞恥心よりも、プライドの問題である。女としては、藤原先生のようにはなりたくない。それほど身繕いには執着が強くないキャムだが、一方でプライドは高いのだ。

フォルトナがドアの外では待っていた。洗面所は開いているという。階段を下りて、洗面所へ。歯を磨いて、顔と髪を洗って。髪を梳かして、ゴムで結ぶ。今日はポニーテールにしようと、キャムは思った。四苦八苦して結び終える。これだけは、他の誰にも手を出させない。

髪を整え終わると、ジャージに着替える。パジャマを洗濯乾燥機に入れて、居間へ。静名が今日は料理当番だ。野菜を切り分けるその背中を見ながら、携帯端末を操作して、朝刊を表示する。特に目だったニュースはない。

フォルトナがコーヒーを淹れてくれた。朝に飲むコーヒーは、いつも砂糖を少なめの、苦い奴にしてもらっている。正直美味しいとか思わないし、コーヒー豆の味もよく分からないが、鷹揚に頷いて飲み干す。賢治はまだ起きてこない。生活時間帯を少しずらすようにしているので、妥当な行動である。むしろこの時間帯に顔を合わせると、却って空気が悪い。

コーヒーを飲み干すと、外に。朝の気持ちよい空気を一杯に吸い込むと、ストレッチを開始。フォルトナも一緒に出てきた。ルーフさんとこれから朝練だ。そろそろシャルハさんとも一緒に走りたい所だが、こちらはまだ許可が出ていない。やはり今の状況では、護衛対象が増える行動だけは慎まなければならないと言うことであろう。

「おはようございます。 今日もいつも通りの時間ですわね」

「おはよう、ルーフさん」

隣の家の垣根越しに、ルーフさんが此方に挨拶。こういう垣根越しの交友関係というのは、悪くない。今日はアクアブルーのジャージを着ていた。何処で見つけてきたのか分からないが、非常に高そうな「お洋服」である。庶民の味方であるジャージも、最高級品は侮れない。多分どこかのお嬢様学校とかに通うような人が着るのだろう。

最初の頃のステイ家族も、そういう学校へ行ったという。しかしあまりにもお高くとまりすぎていて、ステイしたKV−α人からは不評な部分も多かったそうだ。それらの情報はルーフさんから聞いた。ひょっとすると、レイ中佐は知らない可能性がある。そう考えると、僅かに小気味が良い。何をやっても勝てそうにないあの人に、ほんの少しだけでも先んじることが出来たのだから。

多少話し込んだ後、道路に出る。護衛をしている人が、帽子を目深に被って通り過ぎていったので、目礼。これは、いつも朝練に出る時の、必ずこなさなければならないルールだ。

ルーフさんが、玄関に入ってきた。それで気付く。足下は地球時代から続く超名門スポーツメーカーのシューズで固めている。しかもクラシックスタイルの靴である。何とも金が掛かった格好である。

「そろそろ走りますか?」

「そうする。 ルーフさん、今日は五キロでいい?」

「もちろん大丈夫ですわ」

10キロでも軽いところだが、しかし今は非常事態だ。出来るだけルートを簡略化することによって、警護の人の負担を減らさなければならない。

すぐにフォルトナがルートを策定し、立体映像に出した。ストレッチしながら、警護の人に許可を貰うように告げる。頷くと、フォルトナはデータを転送した。普段ならすぐ許可が帰ってくるのだが、今日は遅い。

「大丈夫ですか?」

「大丈夫だとは思うけれど」

数分待たされて、やっと許可が下りた。或いはこれは、レイ中佐とフランソワ大尉の能力の差かも知れなかった。それでも、許可が下りただけましかも知れない。早く朝練をすまさないと、被名島が走れなくなる。妙な部分で後輩の事を考えている自分に、キャムは気付いていない。

ルーフさんは瞬発力こそ無いが、兎に角タフだ。今まで最大で13キロ走ったが、殆ど根を上げず平然と着いてきている。ある意味、全身が随意筋で出来ているわけだから、それくらいはたやすいのだろう。

「よし、走ろうか」

「ええ」

二人、走り出す。フォルトナは基本的に後ろだ。影のように、つかず離れずついてきてもらう。その代わり、キャムの手元にある携帯端末を、音声操作で地図を呼び出せるようにしてある。GPSの機能も付けてあるので、走る時にこれといった苦労はない。道にも迷わない。

以前は早朝走っていると、近くの学生らしい集団とすれ違うことがあった。たまに非常に気合いが入った運動部があるのだ。最近は全くすれ違うことがないので、心配である。何かあったのではないかと考えてしまう。

下町の方へも以前は足を運んだのだが、今日は安全な住宅街をくるくる回るだけのコースだ。河原を通るコースがお気に入りなのだが、狙撃の可能性も高いそんな場所は、出来れば避けた方が良いだろう。同様の理由で、下町も駄目だ。今は少しでも、周辺の人たちの負担を減らさなくてはならない。

「ここのところ、同じ所をぐるぐる回っていません?」

「うん、しばらくは仕方がないよ。 我慢してくれる?」

「事情が事情ですから我慢しますけれど、しかし退屈ですわ」

ルーフさんがぼやいたので、走りながらキャムはやりきれない思いを味わっていた。自分を鍛えるためという以上に、ルーフさんに街を見て貰いたいというのがこの調練の趣旨だから、当然のことである。

三周したところで、朝日が昇り始めた。帰り際に、清涼飲料を売っている店に寄る。昼は有人だが、夜間はロボットに任せてしまっている店だ。キャムは牛乳を注文。ルーフさんは特別配合しているスポーツ飲料を。二人とも店の常連だから、美しい成人女性の姿をしているロボットもすぐに品を持ってきてくれた。

牛乳はキャムの注文通り、250ml入りの小瓶である。ガラス製であり、飲み終わった後は殺菌洗浄して再利用する。スポーツ飲料も同じだ。二人並んで朝日を浴びながら、腰に手を当ててよく冷えた飲み物を呷る。冷たい牛乳が喉を通りすぎていく感触は、何物にも換え難い。汗として流した養分が、これで一気に補給される感触だ。隣に立っているフォルトナは、無言のままロボットと情報交換を行っているようだ。どんな情報をやりとりしているのかは、キャムには分からない。

ハンカチで口の周囲を拭う。豪快に手の甲で口を拭っても良かったのだが、年頃の女の子であるし、ルーフさんの前であまり行儀の悪いことをしたら後でどんな問題に発展するか分からない。だから、多少お上品な行動に努めなければならない。

最近はルーフさんもより人間的な動きを学習してきていて、飲む時にはさほど不自然ではないように喉を動かしている。以前、怪訝そうに側を通りがかったおばさんが見ていたことを思い出す。今では誰も不審に思わないだろう。

「ふー。 おいしいね」

「栄養のバランスがいいですわ。 ちょっと刺激が欲しいですけれど」

「刺激ねえ。 そうだ、炭酸でも入れて貰ったら?」

「名案ですわ。 次からそうしてもらいましょう」

くすくすと笑いあいながら、空の容器を返す。行ってらっしゃいませと頭を深々下げるロボットに手を振ると、あと少しの距離を走り抜く。家に着いた頃には、すっかり空はあかね色に染まり、雲が空より濃い赤になっていた。

「それでは、また後で」

「うん。 また後でね」

ルーフさんが学校へ行く話は、しばらく頓挫だ。だからこそに、こうやって無理にでも一緒にいる時間を作らなければならない。そうしなければ、ステイ計画の意味がないからである。

家の中に入る。賢治はようやく起き出してきた所だった。だらしなくパジャマを着崩していて、目を眠そうに擦っている。

「おはよう、被名島」

「おはようございます……立花先輩」

「ほら、早く顔洗ってきて。 急がないと、走る時間無くなるよ」

少し暇な時間が出来るから、居間に入ってからテレビを起動。しっかりニュース関連に目を通す。携帯端末を起動して、フランソワさんと回線をつなぐ。フランソワさんも眠そうにしていたが、これは無理もないのかも知れない。慣れない激務を、しかも責任ある上司の代わりにこなしているのだから。

「これから賢治君の朝練ですか?」

「ええ。 でも、ルーフさんはもう家から出てきませんから、少しは護衛も楽になると思いますよ」

「それはそうですけれど、こちらの手が足りないばかりに、同じ所ばかりくるくる回らせてしまって、申し訳ありません」

「気にしないでください。 テロ対策で大変だろうに、暢気な朝練につきあわせてしまって、こっちこそ申し訳ないです」

髪を洗う音が、洗面所から響いてくる。短く髪を切っているとはいえ、賢治も年頃の男の子だ。寝癖が着いたまま、外を歩くのは精神的につらいだろう。幾つか打ち合わせをしているうちに、レイ中佐の話が出た。今度は髭を剃る音が聞こえてくる。今までにはない音なので、少し緊張する。

「レイ中佐は、まだ目を覚まさないんですか?」

「一応、意識は戻ったようです。 しかし、まだ意識は拡散気味で、しばらくはリハビリが必要なようですけれど」

「あんな優秀な人が倒れることになるなんて。 もっと人員を増やして貰った方が良いですよ、絶対」

「そうですよね。 でも、今はみんな忙しいですから」

申し訳なさそうにフランソワ大尉は笑った。特務行動部隊は特に忙しいのだろうが、しかし他の軍部隊もかなり負担は大きいのだろう。昨今の報道を見る限り、テロ組織の壊滅は完遂していないようだし、爆発事故の真相も調査中だと言うことだから、無理もない話である。状況が落ち着くまで、まだしばらく掛かるだろう。

ジャージに着替えた賢治が居間に入ってくる。立体映像のフランソワ大尉に気付いて、慌てて一礼する。これから朝練だと告げると、すぐに続いて入ってきた静名がコースを設定した。ほぼ今のキャムが辿ったルートと同じだが、帰りに飲み物屋の前を通らない。おもしろみのないコースだ。静名の性質を反映しているかのようである。

軍用のロボットではなくて、家庭用のメイドロボットが欲しいなとキャムは思う。この任務が終わったら、一体や二体は買う経済的な余裕が出来るはずだ。そうなったら周囲に侍らせて、少しは生活を楽にしたい。フォルトナや静名が嫌いな訳ではないが、それでも監視を兼ねているロボットは、側にいるとストレスが溜まる。気兼ねなく無茶を押しつけられる家庭用であれば、随分精神的にも楽だ。

まだ、学校が始まるまでは、少し時間がある。ストレッチを始める賢治に、壁越しに声を掛けた。

「急がないと、学校までに間に合わないよ?」

「分かってます。 先輩こそ、仮眠くらい取らなくて大丈夫ですか? かなり早くから起きていたみたいですけれど」

「先輩なめんな。 体力で、まだまだあたしに勝てると思うなよ」

「すみません。 確かにそうでした」

そう言いながらも、キャムは賢治に分からないように、欠伸をかみ殺していた。流石に此処しばらくの早起き生活は、体に少なからず負担を掛けている。

賢治が家を出ると、やることが無くなってしまったキャムは、賢治が戻ってきたら起こすようにと言って、ダイニングテーブルに突っ伏して仮眠を取ることにした。すぐにまぶたが落ちてしまう。

体は、正直だった。

 

時間も限られているので、賢治は早めに戻ってきた。がたがたと音がしたのは、何だろう。何かあったのかと思って今に飛び込むと、立花先輩が手の甲で顔を擦っていた。

少し安心した。やっぱり疲れて寝ていたのだろう。あんな風に強がっても、この人にも弱いところがあるのだ。そしてこういう所を見ていると、むしろ安心する。

「早かったね」

「はい。 三キロくらいなら、あまり疲れないでこなせるようになってきました」

「結構。 持久力はついてきたみたいだし、次は瞬発力かな」

寝癖がついた髪を手でなでつけながら、先輩は静名に向き直る。少しろれつが回っていないが、それでもきちんと言うべき事を心得ているのは流石だ。

「明日から、今度は組み手ね。 走り込みは二キロに減らして、その分組み手を入れて」

「分かりました」

深々と頭を下げる静名。賢治も異存はない。ただ、問題が一つある。

「それで先輩、僕はどこで組み手をすればいいですか?」

組み手は結構場所を取る。この居間は広いが、それでも足りないだろう。床の強度も足りない。

家には庭も用意されている。しかし、この家の庭などで組み手をするのはまずい。ただでさえ、この家に一緒にいることは、周辺に伏しているのだ。学校に出かける時も、軍用のステルスフィールドを展開して貰って、少し先で解除しているほどなのである。

ステルスフィールドは確かに便利ではあるが、激しく動き回る組み手中の人間を隠せるほど広く展開できない。更に、ステルスフィールド内に危険因子が入り込んだ時の対処も難しい。だから、何処か別の安全な広い場所がないと、組み手は無理だ。ヴァーチャルリアリティを用いて、狭いスペースでイメージトレーニングを行うプログラムもあるが、実際に体を動かすのとは随分違う。事実、立花先輩は、そんなプログラムを使ったことは一度もないという。

「空手部が学校にあるでしょ。 混ぜてもらいなよ」

「え? ええと」

空手部には苦手意識が強い。何人かの部員が、賢治を見る目は、とても気色が悪いものだったからだ。いわゆる女顔に産まれたことを、賢治は嬉しいと思ったことは一度もない。今回もそうだ。

「でも、空手部は」

「何を言ってる。 学校は全体が警護されているし、場所も広いから、何の問題もなく組み手出来るでしょ」

そう理で諭されると、賢治は反論できなかった。

藪をつついて蛇を出すというのはこういう事かと思いながら、制服を持って洗面所に。明日から空手部に混ぜて貰うにしても、今日はこれから着替えて、学校に出なければならないのだ。

顔をもう一度洗う。そのうちに、気分は落ち着いていた。どのみち立花先輩とは登校の時間帯をずらす必要がある。それに、どのみち体を鍛えなければいけないのだ。視線が気持ち悪いとか、そのような貧弱な寝言を吐くのは後で良い。今はただ、いざというときは体を張ればルーフさんを逃がせるくらいの身体能力を得ておくことが急務なのだ。だいたい空手部には、広域の大会でも上位に残るような人間が何人もいるはずで、鍛えて貰うには最適だ。

この同居生活が終わったら、庭で静名と組み手をすればいい。今は他に選択肢もないし、空手部に混ざるのが確かにベストだ。顔を洗ってタオルで拭き終えると、賢治はさっぱりしていた。

ふと気付く。鏡の下に、殺菌スペースがある。小さな遠赤外線殺菌台に刺さっている幾つかの歯ブラシ。当然、その中には立花先輩の赤い歯ブラシがある。賢治のより少し小さな歯ブラシだ。

立花先輩はああいう人だが、さっきの動作を見ても分かるように、人間的な要素も一杯持っている。きっと先輩なりに不安で怖いこともあるはずだ。如何に後輩だからと言って、いつまでもこうではいけないはずだ。

どうにかして立花先輩や、それにひいてはフランソワ大尉やレイ中佐の負担を減らすことが出来ないだろうか。蛇口から出ている水を止めながら、静かに賢治はそう考えていた。

洗面所を出ると、朝食の香り。フライパンで炒める音。スクランブルドエッグを作ってくれているらしい。新聞を読んでいる立花先輩は、台所に立っているフォルトナの様子には無関心だった。静名は外だ。多分警備の兵士達と打ち合わせをしているのだろう。

この組み手の件もそうだが、無駄を省く必要があるなと賢治は思った。少し考えれば、今の事は分かった。議論する労力も必要なかった。多少我慢すれば、他の人の負担はぐっと減った。

今まで守られる一方だった賢治だが、今後は変えていかなければならない。少し考えるだけで、或いは守る立場になることが出来るのかも知れない。

不意に楽になったので、賢治は驚く。いわゆる意識が変わるというのは、これではないかと賢治は思った。意識が変わっただけでは駄目だとも、すぐに思い直す、重要なのはどのような行動を取るかだ。立花先輩も、フランソワ大尉も、負担を減らしてあげなければならない。そしてレイ中佐が病院から帰ってきた時には、ぐっと仕事をやりやすくしてあげなければならない。

めまぐるしく思考が動き始める。

思いついたのは昼。屋上に来ていた賢治は、立花先輩にメールを送った。音声認識型のメールソフトは起動しない。立体映像キーボードを使って、文字を打ち込む。

「信頼できる人を、周囲に増やしましょう」

文面は、それだけだった。だが賢治が無駄なメールを送ったことは、今まで一度もなかったことから、立花先輩にはもくろみを理解してもらえたようだった。すぐに返事が来た。学校で、直接はなす事は殆ど無い。

「要するに、周囲の人間の信頼性を上げてそれを報告することで、軍の人たちの監視レベルを下げて、負担を落とすつもり?」

「そうです。 僕は無力ですが、これなら同じ任務に就いている大人の軍人さん達の、負担を減らすことが出来ます」

「あたしはともかく、確かに被名島は友達が少ないみたいだから、思いつきとしては悪くないかも知れないね。 冗談だけど」

賢治は苦笑した。増やす「信頼性が高い」周辺の人物は、社会的な能力のある大人のことだ。それは立花先輩も理解している。同年代の友など、残念ながら有事では役に立たない。

もともとこのために、科学の蛍先生は軍に協力をしているはずだ。そして、蛍先生を見ていて、思いついたことがある。

「能力はあっても、あまり社会性が高くない人を味方にする方がいいと、僕は思います」

「それはどういう事?」

考えをまとめながら、メールを打つ。

頭が冴えている。今まで分かっていなかったことや、漠然としていた事が、すらすら文章として吐き出されてくる。感覚的に理解することと、それを明文化することには雲泥の差がある。実際に自分でやってみると、それがよく分かる。

メールを何通かやりとりしながら気付く。賢治は人間の社会を信用していない。今回の任務を文句を言いながらも受けているのは、結局の所自分が将来生き延びるためだ。ルーフさんは嫌いではない。生理的な嫌悪感はあるが、普通しっかりした、地球人とは違うに面白い存在だと思う。その反面で、ルーフさんの背後にあるKV−α星と地球人類の関係にはあまり興味がない。そして、地球人が正義だなどと、幼稚な妄想も抱いていない。

やがて、賢治は核心部分をメールとして送った。

「社会性が高い人間は、結局理に聡い人間だと思います。 社会に適応しきれない人間は、コミュニケーションが下手なのか、或いは己の譲れぬ線が強い人物だと僕は思います」

「なるほど。 そういう人間なら、いざ仲良くなった場合裏切りもしないし、利益に釣られて変な動きもしないというわけね」

「そうです」

流石に立花先輩は聡明だ。全部説明しなくても、途中で理解してくる。一を聞いて十を知るとかいうことわざがあるが、その実例を見ているのだろうと、賢治は思った。だが、それも最近のことだと、この間倒れる前のレイ中佐に聞いた。この仕事が始まる前までは、成績もあまり良くはなかったそうだ。

賢治よりも先に、意識が変わる経験をしていたのかも知れない。そう思うと、ますます親近感が湧く。メールを打つピッチが速くなった。

「それと、蛍先生の協力レベルを上げてもらえないか、軍に交渉してみてはどうでしょうか」

「蛍先生? どうして?」

「蛍先生はエキセントリックで行動が読みにくいですけど、政治的な駆け引きには興味を覚えないと思います」

「……なるほどね。 確かに一理ある」

政治的な駆け引きに興味が無く、金銭にも執着が薄い。そんな蛍先生を縛るのは、恐らくは研究への情熱。しかしながら、ここのところは真面目に授業を行っており、以前のように不意に出かけていくと言うこともない。つまりは、研究が一段落したと言うことだ。付き物が落ちたように情熱を一段落させた先生が動くのは、今では好悪でだろう。純粋な人は、感情に基づいて選択肢を決める。つまり、一旦好きになって貰えば信頼できる。好きであることを維持して貰えれば、ずっと信頼し続けられる。

男女で性格の差は随分あるが、蛍先生のようなタイプの人間にそれは当てはまらないだろう。あの人が興味を覚えるのは面白いもの。そして面白いと思わせれば、裏切られることはない。賢治はそう分析した。立花先輩は少し考えてから、短いメールを送ってきた。

「わかった」

「後は、ステイ計画ですけど、これも僕たちの努力で少しずつ負担を減らす方向へ動かしましょう。 大人と子供では、違う方法で事態の打開が図れるはずです」

「それがいいね」

頷くと、賢治はメールソフトを落とそうとした。其処に、追加で立花先輩からメールが飛んできた。

「被名島、少し大人になった? 見直したよ」

「ありがとうございます」

社交辞令ではない。なぜだか分からないが、それは直感で分かった。先輩は認めてくれたのだ。賢治のことを、恐らく始めて。この任務が始まってから、ずっと先輩は賢治を信用していなかった。今も完全には認めていないだろう。だが、それでも一歩を踏み出すことに成功したのだ。

本当に、嬉しかった。

後は、具体的な方策を見つけなくてはならない。注意しなければならないのは、信頼できる人間であっても、漏らす情報は厳選しなければならないと言うことだ。信頼できる人間の知人が、信頼できるとは限らない。それにもう一つ。他人を手懐けるのが得意なタイプの人間には気をつけなければならない。そう言った人間に情報を漏らしてしまったら、取り返しがつかないことになる。

歩きながら、何人かの候補をリストアップしていく。後は帰った後にでも立花先輩と話し合って、リストを吟味する必要がある。完全にリストアップが完成したら、フランソワ大尉にでも見せて、許可を得る。その過程で、静名にネットか何かで人物の背後関係を洗って貰った方が良いだろう。

それからは授業に集中し、休み時間を使ってリストを作った。帰る途中にも案を練り、家に着いてからリストを完成させるのに二時間かかった。立花先輩が帰ってきたのはそれからである。鞄をダイニングに置きながら、先輩は鬱陶しそうに言った。

「襲撃を受けにくい道をフォルトナにリストアップして貰って、そこを帰ってきたんだけど。 大回りで大変だったわ。 歩くのは苦にならないけど、同じ路地を見ながら二周するとか、ちょっと面倒くさすぎ」

「お疲れ様です。 僕もそのルートで帰りますから、あとで教えてください」

「へいへい。 それで、さっき言っていたリストはもう出来てる?」

なぜ遅くなったのかは聞かない。興味もなかった。プライベートの関連であれば、聞くのは失礼に当たる。軍務であれば、聞いてはならない。どちらにしても、賢治が興味を持つ話ではない。

立体映像ソフトを起動して、テキストを出力する。今日リストアップしたのは十人ほど。先頭にある名前を見て、立花先輩は露骨に眉をひそめた。

「藤原先生って、何?」

「あの人は多分、蛍先生と同種の人間です。 立ち直るのに力を貸せれば、きっとかなり頼りになると思います」

「確かにそうかも知れないけれど」

腕組みして、立花先輩は唸った。ひょっとすると、藤原先生のことが嫌いなのかも知れない。そういえば、思い当たる節が幾つかある。でも、服飾に強い興味を持つルーフさんと今後より仲良くしていくためにも、芸術畑の人脈は必要だ。

他にはこの間世話になった中華料理屋の林さんや、他にも何名かの教師と周辺の人間の名前がある。ただ、有望な人は限られる。立花先輩は藤原先生については保留したようだが、家庭科のキリューノ先生については即座に却下した。

「キリューノは駄目」

「どうしてですか?」

「あのおっさん、外面は良いけど女子生徒を何回か孕ませたって噂なんだから。 事実見栄えが言い女子口説いてるの見たことがあるし、絶対に駄目。 外面と中身が違う奴は、こういう任務では真っ先に裏切るよ」

まさしく一刀両断である。側に控えている静名に裏付けを取るように言うと、賢治は名前の後ろに保留と付けた。確かに、服飾関連の人間としては有望だが、露骨な欠点がある場合はやめた方が良いだろう。賢治も、あまり最初から期待はしていなかった。だからリストの下位に名前を載せていた。

立花先輩は腕組みして考え込んでいたが、自分の携帯端末からコードを延ばして賢治のに接続すると、テキストにキーボードから直接名前を書き加えた。ほとんどは賢治が知らない人だった。何人かは教師のようだったが、一人は違う。職業欄に、立花先輩は技師と書いていた。

「此方は、誰ですか?」

「あたしが一年だった時に、世話になった先輩。 今でも時々やりとりはしてるんだけど、信頼できると思う」

現在は、宇宙ステーションで働いているという。デブリ拾いのような肉体労働者ではなく、IT系の技術者だそうだ。立体映像で、立花先輩と一緒に映っているものを出して貰う。ちょうどいい機会が来月にあると言うから、その時に人物を見極める必要があるだろう。

先輩がリストに追加し終えると、全部で十五人になった。この中から絞り込んでいくことになる。静名が片手を上げた。

「キリューノ氏については、キャムティール様の発言通りの経歴があります。 確かに信頼度は非常に低いと言えるでしょう」

「そうか、それじゃあ仕方がない」

リストから名前を消す。他にも何人かが、好ましくない背後関係を持っていることが分かった。いずれもリストから消していく。立花先輩は不思議な人脈を持っているらしいなと、賢治は思った。立花先輩がリストアップした人物には、それぞれ問題が発見されなかったのだ。今までの時点では、だが。

絞り込みの範囲を狭くしていく。

「金銭面でのトラブルを抱えている場合もリストからは消した方が良いね。 つけいられる隙になる」

「同感です」

静名に言って、その辺りも吟味して貰う。そうすると、立花先輩がリストアップした一名を含め、更に三人が脱落した。後は多角的に様々な方向から、リストアップされた人員をチェックしていく。そうして最後まで残ったのは五人だった。

残っただけあり、なかなかエキセントリックな人が並んでいた。美術の藤原先生はいうまでもない。中華料理屋の林さん。それに立花先輩が推薦してくれた技師のレカータさん。後は学校の先生が並んでいる。藤原先生は交友関係がとても狭いらしく、背後に問題は全く見つからなかった。問題がそもそも発生する余地すらないのだ。

今の時代、学校の教師は副業の一つとして人気がある。美術や科学など、金にならない趣味を持つ人間が、副業として選ぶことが多いのだ。蛍先生はまさにそうだし、藤原先生もしかり。つまり、エキセントリックかも知れないが、同時にエキスパートであるわけだ。エキスパートは、いざというときに頼りになる。

「後は、どうやって交流を深くするか、だけど」

「まず藤原先生から始めましょう」

露骨に立花先生は嫌そうな顔をしたが、それでも賢治はまず此処からだと思った。一番難易度が高そうな人間でノウハウを確立すれば、後がぐっと楽になるからだ。

ふと気付く。今回の件では、主導権を自分が握っている。

生まれて初めての事だった。

 

4,進歩の狭間で

 

牛乳瓶の底みたいな眼鏡と、ぼさぼさの髪の毛。背は低く、ほとんど化粧はしない。山猿と陰口をたたかれるその人物は、美術の高校教師。

藤原ののかと言う名がある。だが、下の名前を呼ばれたことは、ここ数年ない。人間が相手の場合には。それだけで、ののかの交友関係がどういうものか、よく分かる。

「ののか様、起きてください。 お仕事に遅れます」

今日も、灰色の生活が始まった。面白くもない正論を述べ立てる家庭用メイドロボットに急かされて起きる。最初は男の型式にしていたが、昔を思い出して辛いので女の型にした。頭が痛い。昨晩も遅くまで飲んでいたからだ。強くもないのに飲むのは、そうしなければ眠れないからである。

ベットの側に置いてある絵筆は、既にカチカチに固まり、キャンバスは埃を被って久しい。パレットにこびりついた絵の具は乾いてひび割れ、チューブの絵の具の蓋は、開くかどうか微妙である。

枕の側に置いてある写真には、三人写っている。そのうち二人の顔を、墨で塗りつぶしてある。真ん中には、幸せそうに笑っている自分。あの頃は幸せだった。バカだったからだ。何も考えなかったから、幸せだった。何も知らなかったから、苦しみもなかった。何よりも、疑うことを知らなかったから。

未来もなかった。

今だって、未来はない。だが、昔は幸せだった。すぐ目の前に、崖があることにさえ気付かないほどの愚か者だったからだ。

居間に出る。ぼんやり机に座っていると、メイドロボットが茶色い液体が満ちたコップを持ってきた。口臭を消し、アルコールを中和するうがい薬だ。

「此方をお飲みください」

「うるさい」

鋭く頬を張るが、メイドロボットはうがい薬を一滴もこぼさなかった。怒りもしなければ悲しみもしない。ロボットとはそういうものだからだ。

猟奇殺人鬼が激減した理由は、子供でも知っている。虐待できる手近な相手が社会的に普及したからだ。

コップを奪い取ると、一気に口に入れて、床に吐き捨てた。無言でメイドロボットが雑巾を持ってきて拭き始める。利用されているのも知らず、バカみたいに笑っていた昔の私と同じ。いや、違う。バカそのものだった私と同じだ。鏡を見ているようなものだ。そう思うと、ますます苛立ちが酷くなってきた。

こいつは頑丈だ。ののかはそれを知っている。殴ろうが叩こうがびくともしない。致命的な打撃になりうる場合は、器用に避ける。自動回復機能も備えている。ののかが留守にしている日中は仕事に出ていて、それで稼いだ金で部品を改修している。だから、ののかがどれだけ虐待しても、壊れることはない。いわゆる三原則に沿って、ロボットは動いている。自分を破壊しないようにすることも、その中には含まれるのだ。

手が痛い。乱脈な生活。狂気に落ちかけている心。そんな中でも、まだ残っている純真な思いはある。

せめて、美術がしたい。できれば、美術で食べていきたい。

だがその夢は、現実の前には、あまりにも無力だ。ペイが小さい。美術で、特にクラシックスタイルの美術で食べていける人間なんて、ほんの一握りだ。その中に、あいつが混じっている。そう思うと吐き気がする。それなのに、美術を捨てきれない。好きな美術史を語る時はうっとりしてしまう。今でも絵筆さえ握れれば、凄く楽しい。だが、絵筆を握ると、あの頃のことを思い出してしまう。

自分は負け犬だと、ののかは思っている。結局、知ってしまった真実の重みに耐えきれず、社会の底辺を五年もはい回り続けている。ロボットに暴力を振るって、それでまた自分を傷つけて。もうクラシックスタイルの美術など誰も求めていないことを、生徒の一挙一動で思い知らされて、また暴力を振るうことになる。負のスパイラルだ。そして、どうしても其処から抜け出せない。

学校で働いているのは、恐らく最後の意地だ。仕事にさえ行かなくなったら、まだ少し残っている貯金をはたいてメイドロボットをもう二体か三体買い、そいつらをこき使いながら、キッチンドリンカーになることだろう。そして最後には、アル中でみじめに死ぬのだ。

そのビジョンが、まざまざとののかの眼前には突きつけられる。深酒をして、狂気の中で精神をはね回らせながら、良くののかは夢を見る。自分が死ぬ夢を、だ。

適当に身繕いをしてから、家を出る。いつからだろう。もうどう見られても気にならなくなったのは。

このまま死んでしまえばいいとさえ、時々思う。道を行くリニアカーを見ると、跳ね飛ばしてくれないかとさえ考える。コンピューター制御の進歩により、交通事故が滅多に起こらなくなった現在、その可能性は極端に小さい。それすらが、いらだたしい。

学校に着いた。生徒は此方を見ようともしない。職員室に入る。教師達も同じだ。

パソコンを立ち上げて、今日のスケジュールを確認。また立体映像美術だ。絵の具の臭いも無く、筆の重みもない美術。確かに現在の進歩は凄まじく、完成度が高いものはののかを唸らせるほどのものもあるが、しかし気に入らない。自分で絵筆を持ち、キャンバスを塗ってこその美術ではないか。そう思うが、所詮誰も賛同はしない。そもそも、芸術に興味を持つ人間自体が少ない。

あらゆる意味で、ののかは孤独だ。必要事項を除くと、生徒に話しかけられたことさえ、此処しばらくは無い。授業の時も、生徒は誰も自分と心を通わせて等いない。所詮、ののかは今も昔も、殆ど変わっていないのだ。昔は都合の良い存在として、表向きだけちやほやされた。それを知らなかったから、幸運でいられた。今は違う。ののかは周囲の悪意が如何におぞましいものか知っている。

教室にはいる。生徒達が待っていた。一年の生徒達だ。全員が揃っていることを確認すると、授業を始める。

所詮この世は闇の中だ。気乗りしないまま、マニュアルに沿って授業をしながら、ののかはいつもそう思う。今日は地球時代以降の美術史だ。知ってはいるが、面白くも何ともないと思う歴史だ。だから棒読みになる。

「絵の具等の原料確保が難しくなったことと、開拓時代の慢性的な人手不足から、芸術の火は一事消えかけました。 しかし苛烈な労働の癒しとなりうる娯楽を基礎から支える芸術の存在は、社会の基盤として重要なものだと再認識が行われ、復興が行われました」

復興は確かに行われた。だが、新たに建造されたものは、昔の芸術とは違っていた。

まず、安定供給される原料がなかった。だから立体映像構築技術を用いた、新しい芸術が模索された。次に、時間がなかった。だから昔のように、一人前になるまでに多大なスキル鍛錬が必要になる芸術は影を潜めた。代わりに支援ソフトを用い、才能さえあればそれなりのものが作れるシステムが確立された。

絵画だけではなく、音楽や小説でもそれは同じだった。数十年がかりで、芸術というものは再び社会の中で大きな影響力を持つようになった。持つようにはなったが、時代に合わせるように、確実に違うものとなっていたのである。

状況は、何処の国でも同じだった。最初に芸術を復興させたのは地球連邦だったが、その頃は数十あったどの星間国家も、ほとんど同レベルの芸術をすぐに完成させた。優れた芸術家は望んで誕生するものではない。しかし、芸術が振興すると言うことは、社会そのものが豊かであることを意味する。どの星間国家も、新芸術を支援した。

そうして、旧芸術は歴史の影に忘れ去られていった。

授業は此処までだ。午後から立体映像芸術の授業がある。この授業をする度に、ののかは敵の軍門に降るような気がして気分が悪いが、仕方がない。授業のカリキュラムに組み込まれているし、旧芸術の授業を行うほどの絵の具もキャンパスも用意できないからだ。美術高でさえ、絵の具を準備するのには苦労すると聞いている。ましてや貧しい人間が多く通う二千高では、予算の関係からもそれは不可能に近い。

授業の準備をするべく、教室を出るののかに、後ろから声が掛かった。

「藤原先生」

「はい?」

振り返る。声を掛けてきたのは、確か被名島賢治とかいう男子生徒だ。女みたいな柔な体格と顔をしている奴。無力で、貧弱で、マスコット扱いされている点では昔の自分と同じである。マスコットは、所詮客寄せの物体だ。友達と信じていた周囲の女子生徒達が、結局男を呼ぶために自分と「仲良くしていた」事実は、今でもののかの心に深い傷を作っている。

容姿なんか、なんにもならないのだ。だから、身繕いに対する興味も失せた。ののかの冷めた視線を受けながらも、賢治は下がらない。携帯端末を操作し、立体映像を浮かび上がらせる。

懐かしいものが、其処には浮かび上がっていた。

「この絵、藤原先生が描いた物ですよね」

「ええ、そうよ」

今も、家の物置に閉まってある。美術高に通っていた時に描いたものだ。コンクールで、低めの賞を取った作品である。学校でも芽が出なかった自分が、初めて賞を取ったことで、良く覚えている作品だ。あのときは「友人」達と集まって、お祝いをした。ケーキは甘くて、とても美味しかった。

学校の屋上から見える山をモチーフにした作品。学校の屋上フェンスに背中を預けて微笑んでいるのは、一番の親友だったと思っていた女。今では、思い出すのも嫌な奴。だから、絵は物置にしまった。それが、今更になって、再び己の前に姿を見せることになるとは。

「すてきな絵ですね」

「ありがとう」

形だけ礼を言うと、身を翻す。

今になってみると、粗の多い絵だ。思い出に美化されていただけで、たいしたものではない。技術的にも稚拙な部分が多いし、パースも若干乱れがある。頭を振って忘れようとした所に、賢治が追いついてきた。

「先生、もう絵は描かないんですか?」

「どうして?」

「これ、高校の頃の絵ですよね。 今の先生の絵、見てみたいです」

「私の絵なんて、大したもんじゃないわよ」

吐き捨てると、歩調を速めた。いらだたしい。だが、何処か嬉しい自分もいる。被名島がどこからあの絵を見つけてきたのかは分からないが、己の絵について何か言われるのは久しぶりだった。

午後の授業が終わると、早めに家に帰った。久しぶりに絵筆を手に取ってみる。絵の具の汚れを落とし、パレットも洗う。それに随分時間が掛かってしまった。キャンパスをガレットに掛ける。何だか、久しぶりだ。

絵を見たいという人間が、一人でも現れた。絵筆を握っても、昔のような弾けるインスピレーションは浮かんでこないが、それでもいい。パレットや絵筆を汚したままでいるのが、嫌だと思えるだけでも進歩だ。

わずかであっても、前進する、それはきっかけとなった。

 

夕刻、家に戻ってきた立花先輩に、居間に来ていたルーフさんが片手を上げて挨拶した。賢治だけでルーフさんと会うのは初めてだったから、少し緊張した。正直な話、立花先輩が戻ってきて安心した位だ。

「こんばんは、キャムさん」

「あ、来てたんだ。 連絡してくれていれば良かったのに」

鞄をフォルトナに渡しながら立花先輩は居間のテーブルに腰掛ける。起動していた立体映像ソフトを一瞥。

「それ、藤原先生の絵?」

「ええ。 高校時代の絵です。 この絵の後に、幾つか賞も取ったそうですよ」

「何だか、純真な絵だね」

賢治も同感である。描かれている人物の笑顔は屈託が無く、何より空の色遣いが素晴らしい。澄み切った青は心を溶かすようで、見ている此方まで良い気分になってくる。あの陰気な藤原先生が書いたとはとても思えない。

技術的には稚拙かも知れないが、印象に残る絵だ。見た瞬間に描いた者が分かることが、一人前の絵師の条件だと、賢治は聞いたことがある。それならば、藤原先生は高校の時には、もう一人前の実力を身につけていたことになる。それが今では、すっかり無気力になってしまっているのは、本当にもったいないことだ。

事実賢治は、この絵を見た時に、藤原先生には立ち直って欲しいなと、心から思った。これから利用しようとも考えてはいるが、それ以上に本当の意味で親しくもなりたい。

「私にはよく分かりませんわ」

分からないといいつつも、ルーフさんは興味津々だった。

服飾と同じく、外部にこういう形で何かを残すことは、KV−α人にはなじみのないことなのだろう。自己表現で幾らでも再現できるために、却って外部に何かをする事は発達しなかった。もちろんコンピューターなどは存在しているらしいのだが、それらは実用一辺倒なのだろう。

「これらの絵画は、どのようにして作っていますの?」

「絵の具って言うものを、キャンパスって言う紙とか布とかに塗りつけて、絵を作るんだよ」

「それらの道具はどういうものですの? 触ってみたいですわ」

「此処にはないよ。 現在は、こういうクラシックスタイルの芸術を行うための道具は高級品なんだ。 今は立体映像構築用のソフトと、専用のツールを使って絵を描くのが普通になってきてるからね。 手に入れるんなら、ちょっと高くつくかも知れないかな」

案の定だが、それを聞いた上でなお、自分でもやってみたいとルーフさんは言った。藤原先生は外部防御装置として必要な人材として考えていたが、それ以上に重要な存在となりそうである。早めに軍の人たちに許可を取らなければならないだろう。学校にルーフさんが通う時が来たら、美術部を作っておきたいところだ。そのためには、今の内にもう少し藤原先生には元気になって貰わなければならない。

これは異種間交流プログラムの重要な一環だ。軍から人材を出して貰えば、また負担が大きくなる。今回は此方で人材を用意すべきなのだ。

賢治の前で、立花先輩とルーフさんは美術についてまだ色々と話し合っている。なぜクラシックスタイルの美術は衰退してしまったのか、この絵を描いた人は今どうしているのか、などなど。ルーフさんにとってはとてもエキゾチックな魅力に溢れた事なのだろう。苦笑しながらも、いちいち丁寧に説明していく立花先輩の様子が微笑ましい。

携帯端末が鳴る。立花先輩にルーフさんは任せておいて、賢治は部屋の外に出た。連絡用の携帯端末を賢治が持って出た事を、立花先輩はとがめなかった。

フランソワさんは、賢治が連絡に出たことに、少し驚いたようだった。賢治も、自然に自分で責任を負うことが出来て、驚いていた。

「あれ? 賢治君ですか」

「立花先輩は、今ルーフさんの応対をしていますので。 何か用件があれば、僕が承りますが」

「そう。 それなら貴方に告げます。 レイミティ中佐の意識が混濁状態から明晰状態に戻りました。 体力的な回復も著しく、もう点滴は外れているとか。 おそらく、二週間以内には復帰できるそうです」

「本当ですか!? 良かった!」

思わず大きな声を出してしまったので、フランソワさんはくすくす笑った。昨日、首都星にあった人類の曙の主要拠点が摘発、副司令官をはじめとする主要人物があらかた捕縛されたという情報も入った。おそらく、この奇妙な同居生活も、もうすぐ終わりだ。妙に寂しいのは、気のせいだろうか。

「人員の補強もようやく行われるそうで、やっと状況は安定します。 賢治君も、また一人暮らしに戻れますよ」

「そうですか」

「私も、これでやっとゆっくり眠れそうです。 一日23時間労働とか、もうしたくないですね。 え、いや、あの、何でもないです」

後ろでシノン少佐らしい咳払い。慌てた様子で取り繕うフランソワさん。何だか取り乱す様子が、随分可愛らしかった。不思議なのは、やつれていないことだ。あのやり手のレイ中佐でさえ、倒れる直前は露骨に疲れ果てている様子だったのに。ひょっとするとこの人、相当に体力があるのかも知れない。

何事にも、一段落がつきつつある。ただ、このままレイ中佐が戻ってきても、元の木阿弥になってしまっては意味がない。少しでもあの人の負担を減らす工夫をしていかなければならないだろう。

「フランソワさん、提案があるんですが」

小首を傾げるフランソワさんに、賢治は立花先輩と話し合って決めた計画を打ち明けた。反応は、以外にも柔らかかった。

許可が得られた。レイ中佐が復帰してから、ルーフさんの登校計画が開始される。それに合わせて、美術の藤原先生には部を立ち上げて貰いたいところだ。一念発起して貰えるように、賢治と立花先輩でプッシュしていかなければならない。

色々な目的が一片に出来て、賢治は人生が楽しくなり始めていた。居間に戻り、今のフランソワさんとの会話を立花先輩に報告。

今後も重要度が低い場合は、賢治が対応していいと、先輩は言った。

 

5,暗雲

 

現在、地球人類が定める宇宙艦隊の規格は、主に二種類存在している。

一つは地球型と呼ばれるもので、現在に至るまで地球連邦が採用している事で知られている。一個艦隊を二千隻で運用し、三個艦隊を一軍団として運用する方式である。分艦隊は二百隻を基本構成とするため、少数部隊の運用がやりやすい。軍の規模が小さくなりがちだが、その反面各方面での独立指揮運用がやりやすく、特に小国の軍がゲリラ戦を行うことに向いている。

立国や邦商をはじめとする、外部侵攻を行いたがらない国家が、この方式を採用している事で知られている。事実これらの国は何度か敵を撃退した実績を持っており、今後も画期的な戦略戦術の開発が無い限り、艦隊編成が変わることは無いだろうとも言われているのだ。

もう一つの規格は、法国型と呼ばれるものである。

此方は千隻を分艦隊とし、四個分艦隊を一個艦隊として運用を行う。そして一独立単位を、一個艦隊でまかなう。

これは大艦隊を一気に運用するのに適した方式で、敵国へ怒濤のごとく進撃するのに向いている。主に対外拡張政策に積極的な国家が採用しており、法国、帝国、それに最大の力を持つ連合がこの方式に基づいて、艦隊を編成している。特に連合は英雄アシハラ・ナナマ元帥の麾下に二万隻の機動軍を用意しており、いざというときはどの国境にもこの部隊が二週間以内に出撃してくる。これは一時期の地球における核兵器並みの軍事威圧感を周辺各国に与えており、現在の平穏はしばらく破られないだろうとさえ言われている。

今、艦橋の艦長席に座ってむっつりと黙り込んでいるフリードリーヒ・グランハウゼン中将が率いる帝国軍第十二艦隊も、その方式に基づいて編成された艦隊であった。攻撃を得意とする艦隊で、戦艦の割合が実に二割に達しており、その火力は帝国軍随一。更に傑出したフリードリーヒの指揮能力がそれに加わることにより、類を見ない破壊力を発揮すると言われている。

フリードリーヒはその雄大な名前に相応しい長身の大男である。旧中国圏の人間と、ゲルマン圏の人間が中心となって作り上げた帝国の柱石と言っても良い軍人であり、威風堂々という表現が相応しい重厚な人間でもある。

二十年前の法国との大戦でも、総崩れになる味方艦隊の中で唯一善戦し、敵の副総司令官の乗る最新鋭太陽級戦艦ナーガを撃沈して名を上げた。そのために法国は追撃を諦めざるを得ず、全戦線で敗北していた帝国は、和議の条件を緩和することが出来た。ある意味救国の英雄と言っても良い男だ。

フリードリーヒは非常に真面目な男だが、風評は決して彼に優しくない。その視野は狭く、戦闘にしかその巨大な能力は働かない。口元に蓄えられた豊富な髭が冗談で歪むところを見た人間はこの世にいないと言われている。

しかし、それらは風評に過ぎない。フリードリーヒは地球時代の日本で流行っていた落語という文学芸能をこよなく愛しており、彼の屋敷にある自室はそれ関連の書籍と立体映像ディスクでうめつくされている。彼の婦人も同じく落語にぞっこんであり、顔を隠して二人揃って古典落語の宴席に出かけていったことさえある。子供達もそれは同じであり、一家揃って落語が大好きという実に愉快な側面を持っているのだ。

その愉快な面を隠しているのは、畏怖こそが兵士達を統率するのに必要だとフリードリーヒが考えているからだ。事実彼の名を聞くだけで兵士達は震え上がり、幕僚達は襟を正す。おっかないおっさんを演じているのは、軍を効率よく統率するためだ。

だが、数ある悪しき風評の中で、事実のものもある。軍にしか興味がないというものがそれだ。

今回、フリードリーヒ率いる十二艦隊は、何のために行動しているのかよく分かっていない。立国と境を接しているブリーニヒール星系のアステロイドベルトに三ヶ月前から潜んでいるが、何のための軍事行動か、疑問に思う部下達が多かった。近くにある第十四国境要塞にさえ、存在を知らせていないのだ。

だが、彼は興味を持とうとしなかった。軍人ならば、戦の能力だけでのし上がるべきだという、彼自身の哲学に基づいての事である。家庭人としては落語一家の長という実に愉快な側面を持つ一方、こういう非常にきまじめで融通が利かない点もある事が、彼の弱点の一つと言っても良かった。だから、蠢動している特殊部隊の行動にも干渉しなかった。彼らは内務省から派遣されてきており、管轄が違うと言うこともあった。

だが、彼は決して彼らを良くは思っていない。うすうす勘づいてはいたのだ。立国の辺境で行われた非人道的なテロが、おそらくは彼らの手によるものであろう事は。軍人として、テロは忌むべき行為だ。軍人だからと言って戦が好きな訳ではない。平和な国に戦を仕掛けるような軍人には、誇り高きドイツ民族の末裔としてなるまいと、昔からフリードリーヒは考えていた。

高価なリクライニングシートで、フリードリーヒは体を揺らした。不快感を抑えるために、落語でも見たいところだ。以前見た頭山をもう一度見に行きたい。古典落語の宴席は、年に何度もない。多忙なフリードリーヒは生では殆ど見られないので、もし行けるとしたら飛び上がって喜ぶことだろう。

艦橋の入り口が開いて、目が細い男が入ってきた。チャンと言う名の特殊部隊士官だ。階級は大佐。内務省から派遣されている人物で、今回のテロを仕切った本人だと、フリードリーヒは見ていた。出来るだけ表情を作らないようにして振り返ると、チャンは薄ら笑いを浮かべた。人間の負の要素を集約したようなこの男を、どうしてもフリードリーヒは好きになれない。捕虜を拷問して薄ら笑いさえ浮かべていることがあるというチャンは、礼儀正しく言った。

「フリードリーヒ将軍。 窮屈な任務にもかかわらず、いつも見事な指揮、お疲れ様です」

「これも国防のためだ。 案ずるには及ばず」

「それはそれは。 お流石でございます」

この男の使う敬語には、好意がもてない。どうしても本来の意味である、敬意が感じられないからだ。むっつりと黙ったままのフリードリーヒに、この男は聞き捨てならない事を言う。

「これから、更に戦力が増強されます。 最終的には、およそ三万隻が、この星系に集結することになるでしょう」

「何だと?」

「閣下には、その艦隊の総指揮を執って貰うことになるかと思います」

フリードリーヒは思わず唸っていた。三万隻。それは、艦隊にして七つ半という、とんでもない大軍だ。帝国で言えば、現在の保有艦隊の半数にも達する。

再建途上にある法国方面の守備戦力を削るとしても、三万という数は尋常ではない。それほどの数の艦が、一戦場に投入された戦いは、史上十を超えない。それだけの数の艦隊を投入すれば、立国の主力を一気に蹴散らすことは可能かも知れないが、しかし。

シミュレーション上では、実質上はあり得ない兵力を率いたことはある。どうにか出来るという自信はある。他の将軍達も、何とか従わせることは出来るだろう。必至の反撃に出てくるだろう立国のゲリラ戦術も、対抗策を考えてある。もちろん、主力決戦を挑んできた場合にも、どうにか出来るとは思う。法国に破れてから、この国は秘密主義を取り、独自の軍事技術を開発してきた。中にはかなり独創的なものもあり、即座に他国が対応できるとは考えにくい。特に緒戦は、圧倒的有利に状況を進めることが出来るだろう。

しかし、気乗りがしない。元々立国は、対外進出を殆ど考えない国家で、考えるにしても人類生存圏外に植民地を築く事くらいだ。雄敵とは言い難い。侵略戦争で民間人を踏みにじるのは、フリードリーヒの望む事ではなかった。

「大義名分はどうする」

「それは既に準備してあります。 ただ、最大の難関がありまして」

「なんだ」

「英雄殿ですよ。 提督には、あのアシハラ・ナナマ元帥と、まともに刃を交えて貰うかも知れません」

戦慄が走る。ただし、それは恐怖ではなく、高揚感からであった。

総司令官である姉のルパイド・ナナマと協力体制の元、三倍に達する法国の宇宙艦隊を二ヶ月にわたって翻弄、最終的には援軍を交えて挟撃、壊滅させた連合の英雄。戦歴は既に二十年を超えていて、オルヴィアーゼを定座とすることをかたくなに貫く猛将。現在宇宙最強の用兵家と言われるアシハラ元帥は、軍人なら誰もが憧れを抱く相手である。本人は背丈に恵まれない、冴えない見かけの女だそうだが、問題は中身だ。もちろん、フリードリーヒも憧れを抱いている。

もし人類社会の中心たらんとする野心を抱えている連合が本気で介入に乗り出してくると、アシハラ元帥の機動艦隊が正面に出てくる事は間違いない。それどころか、更に援軍を加えてくるだろう。勝ち目がないと考える以前に、どう戦うべきかと思考を働かせてしまうのが、生粋の軍人のさがであった。

「立国と戦うとなると、最大の敵は経済力の格差になる。 それを崩す方法は考えているのか。 長期戦は不利だぞ」

「ご心配なく。 既に万端の手を打っております。 それに提督が戦場にしか興味を持たないことは、我々でも理解しています」

「そうか、それならいい」

それは事実であるし、怒る気にもなれない。後は、特に質問はなかった。チャンを下がらせると、部下達を集める。これから、戦略上のシミュレーションを行う必要がある。立国を踏みにじるのは本意ではないが、しかしアシハラ元帥と戦えるのであれば、これほどの喜びはない。たとえ敗死したとしても、である。

出撃前に、落語を何か見ておこうと、フリードリーヒは思った。そして妻に手紙を書く。帰ってきたら、面白い落語を見に行こうという、短い文面。それだけで充分だった。

 

レイミティ中佐の視界に最初に飛び込んできたのは、悪友シャレッタの顔であった。首都星に護送されていたという話は聞いていたが、同じ病院にいるとは思っていなかった。

少しずつ、頭がはっきりしてくる。混濁していた意識が、徐々に統一されてくる感触だ。何が起こったのかも、少しずつわかり始めてきた。あまりにも疲労が溜まりすぎて、錯乱したのだろう。

部下達には見苦しいものを見せてしまった。吐瀉物の処理をさせてしまったと思うと、赤面ものである。今までさしたるミスもしなかったというのに。何処か自分を過信してしまっていたことに、今更ながら気付いてしまう。

「レイ、目が覚めたか?」

「おかげさまで」

「華奢なくせに、働き過ぎなんだよ」

「どうやら、そのようね。 反省しているわ」

ナースコールは既にシャレッタが押していたらしい。すぐに看護師達が来て、脈やそのほかのバイタルサインを測った。幾つかの事項を質問される。立て板に水を流すように応えてみせるが、やはりいつもほどにはキレがない。

「昨日なんか、自分の名前も分からなかったんだぜ」

「本当?」

「本当だ。 ぶつぶつなんか分からないことぼやいてた」

もう一つ赤面してしまう。その場で穴に入りたいほどに恥ずかしかった。ベットの脇に座っていたシャレッタが、ロボットに呼ばれる。見れば、殆ど怪我は治っているようだ。そうなると、そろそろ仕事復帰だろう。

やがて、医師が薬を持ってきた。ひげ面の、熊のように恵まれた体躯の先生だ。インド系の人間らしい。先生は大きな手でレイミティの腕を細い枝のように掴みながら、診断を進める。雰囲気から言って、軍医だろう。ある程度の格闘などの経験もあることが、体つきを見ていれば分かる。

「強化ナノマシンが無かったら、今頃中佐殿は墓穴の中ですよ。 それどころか、精神に重大な欠陥を抱えてしまっていたでしょう」

「返す言葉もありません」

「責任のある立場だと言うことは分かりますが、もっと部下を信用しなさい。 貴方は働きすぎる」

それからもしばらく説教が続いた。退院はいつ出来るかと聞くと、先生は露骨に顔をしかめた。数日以内に出来ると、嫌そうに言ったのは、もう少し休ませるつもりだったからかも知れない。

その日の内に、シノンが訪ねてきた。数日以内に退院できることを告げ、そして状況を聞く。驚いたのは、フランソワが予想以上に良く内務省からの指示を捌いていると言うことであった。

「この際、フィルターとして、フランソワを使ってはどうでしょうか。 あれは頭はよいのですが、気弱で、前線にはとても立たせられません。 フランソワをまず通して、中佐が決済をすれば、負担は全体的に大きく減ると思いますよ」

「考えてみましょう。 人員が強化されるとはいえ、このままでは同じ事が二度三度と起こるでしょうし」

「もう、無理はなさらないでください」

「貴方たちだって、かなり無理はしているでしょう。 私だけ楽をする訳にはいかないのよ」

だが、無理を正当化してもいけないと、レイミティは思った。確かにシノンが言うとおり、負担を減らす工夫をしなければならない。

「そういえば、子供達は良くやっていますか?」

「それが、あの被名島賢治が、面白いことを考えつきました」

シノンは賢治のことを非常に嫌っていた。男らしくないとか、軟弱だとか言って、それこそ邪魔者の代名詞のように罵っていた。それなのに、「あの」という言葉には、若干の好意が籠もっていることが、レイミティには聞き取れた。

「面白い事というと?」

「何、あの若造も、中佐を案じていたと言うことです。 詳しいことは、職場に復帰していただいてから、フランソワに聞いてください」

「分かったわ。 フランソワの方は大丈夫?」

「問題ありません。 集中力が足りなくて、四時間に一度は一時間ほど催眠休養を取っていますが、今のところ仕事は全く滞っていませんので」

確かに、部下を信用するべきなのだなと、レイミティは思った。あの頼りないフランソワでさえ、しっかり部隊を支えている。情けないことこの上なかった被名島賢治でさえ、今ではレイミティの身を案じ、なにやら提案をしてきているという。

古代、名君と呼ばれた人間には、幾つかの条件があった。部下を引きつけること。そして、部下を使いこなすこと。使いこなすには、まずその優れた部分を信頼することが重要であったという。

今のところ、部下で信頼度に欠ける存在と言えば、いまいち思惑と動きが読めない幸広くらいである。全てを信頼してしまうのも考え物だが、今まで以上に部下に任せることを覚えないといけないようだった。

病室に入ってきた先生が咳払いしたので、仕事の話はこれで切り上げた。後は点滴を打って貰い、何も考えないようにして休んだ。自然睡眠が体力をもっとも回復させるのは自明の理である。しっかり体力を回復しきったレイミティは、迎えに来た部下達と一緒に、職場に戻った。

その途中、不穏な情報があった。シャレッタの部隊から流れてきたもので、信憑性が高い。それによると、シーマントで調査していた軍部隊が、国籍不明の爆弾の破片を回収したという。現在、国籍不明の技術と言えば、KV−αを除けば、思い当たるのは独自の技術開発を進めている帝国くらいしかない。思えば、法国との決戦で完敗してから二十年以上が経過している。帝国が戦力を回復するには、充分な時間だったと言える。

帝国が軍事侵攻を考えるとすれば、衰えが激しい法国よりも、経済的に優れ、力がみなぎっている立国だろう。立国の経済力を膝下に納めれば、帝国は連合以上の力を得ることが出来る。しかし、そう上手くいくだろうか。戦略的に非常に有利な位置にある立国は、軍も決して脆弱ではない。連合との関係も悪くなく、いざ戦いになれば宇宙最強を誇るアシハラ元帥の機動部隊がどう動くか分からないのだ。

何が起ころうとしている。これからは更に緻密で多角的な情報収集が必要になるだろう。それを思い、ますます駆け引きが複雑になって行くであろう事を、レイミティは感じた。

 

静名がケーキを焼いてくれた。自宅に戻ってきたというのに、賢治はあまり嬉しいという気分にはなれなかった。戻ったとは言え、家の構造は立花先輩のものと全く同じであるから、帰巣感もない。むしろ、何だか寂しくさえあった。

ただ、今日はむしろ落ち着いていた。理由は簡単である。

「今日のケーキは、どのようなものですの?」

「ベイクドケーキです。 クリームは少なめに、ビターな風味を増しています」

「それは楽しみですわ」

嬉しそうに言うルーフさん。頬杖をついた立花先輩があきれ顔で言った。

「珍しいものでもないのに」

「私には、何もかもが珍しいですわ」

「多分、KV−αに行っている地球人も、ルーフさんと同じになっているはずですよ」

賢治がたしなめると、立花先輩は苦笑して、テレビを付けた。テロのニュースはすっかり収まっており、芸能関係の情報が代わりに出てきていた。

そう、今日は立花先輩とルーフさんが家に来ているのだ。

ここしばらくの出来事で、ずっと距離が縮まった気がする。最初は怖いだけだった立花先輩なのに、実は人間味もあり、結構面白い人だと言うことがよく分かってきた。ルーフさんも、地球人とはやはり違うとしても、しかし精神的に共通する部分が多々ある事も分かってきた。

この人達となら、やっていけそうだという思いもある。学校で空手部に稽古をつけてもらい始めているが、そちらも思ったよりずっと上手くいっている。少しずつだが、賢治は進み始めていた。

「ところで被名島。 藤原先生の件は上手くいってる?」

「はい。 先生、最近は何だかずっとお洒落になってきたみたいです。 昼休みに絵を描いている姿を見た人もいるみたいですし、立ち直ってきているんじゃないでしょうか」

「そうなると、後一押しかな。 ルーフさんは、絵筆と絵の具、もう届いた?」

「昨日届きましたわ。 こんなものを使って、芸術を行うというのは、とても不思議な気分ですけれど」

最初食べ物かと思ったというルーフさんの言葉を聞いて、流石に賢治は笑いが引きつったが、そういうものだと思い直す。

レイ中佐が戻った以上、ルーフさんが学校に来るのに、そう時は掛からない。しっかり今の内に準備を整えて、レイ中佐や立花先輩の負担を減らすのが、今賢治に出来る、精一杯だった。

 

(続)