家と国

 

序、派閥

 

フォルトレート民主立国。人類社会に存在する七つの星間国家の中で、最大の人口を持つ存在である。

強みは保有人口だけではない。経済的にも豊かで、戦略的にも極めて攻略しにくい位置にある。何より周辺諸国と和平を丁寧に結んでいる事で、戦乱を避けてきた国家だ。もちろん何度かの交戦経験はあるが、人類の国家の中では、例外的にその回数は少ないと言える。黎明期には数多くの戦乱に巻き込まれたし、現在も辺境では散発的なテロが発生しているが、それでも他のどの国よりもましである。

しかし、そんな平和な国でも、膨大な金銭が動く以上、内部には腐敗も闘争も存在している。それに平和であるとは言っても、犯罪は途絶えた試しがないし、警察も軍も暇になったことがない。

特に忙しいのが、国家活動の裏側で治安を維持している、特務部隊の面々だ。あくまで秘匿的組織の特務部隊であるが、管轄は非常に多岐にわたる。国家上層部の汚職事件の摘発から対テロまで、様々な犯罪に対応している。もちろん一つの部署が全てに対応している訳ではない。内部には大企業ばりに様々な部署があり、全体で人員は500名を超える。

特務部隊の中で最大の規模を誇る部署は、対テロ特務中隊である。此処は非常に致死損傷率が高い事でも有名で、此処に配属される事を喜ぶ者はまずいない。そのためか、かなりの変わり者が集まる傾向があり、司令官もその例外ではない。

部隊を率いるシャレッタ=アマンガム中佐は、自席のデスクで大きく欠伸をした。周囲に部下はいないが、妙齢の女性がする事ではない。軍本部ビルの地下四階に、執務室を与えられている彼女は、首筋を扇ぎながら側に控えている軍用ロボットに宣う。

「後、どれくらい仕事は残ってる?」

「三割ほどです。 うち緊急性を有するのは、八件となっております」

「鬼」

「皆、シャレッタ様を信頼しているのです。 これだけの任務が回されるのも、上層部の信頼が厚いからだと、私は愚考します」

下手な世辞を言うロボットにしらけた目を向けながら、もう一つシャレッタは欠伸をした。並の人間とは比べものにならないほど鍛えていると言っても、激務は体に応えるのだ。口を開けて大あくびをしているのは、此処が個室であるからだ。流石に周囲に人間の男がいたら、彼女でも欠伸は控える。

背が高く筋骨頑強なシャレッタは、兵士達からサイボーグと陰口をたたかれる事が多い、極端な仕事の虫だ。一応自宅はあるのだが、家庭用メイドロボットに管理を三ヶ月前に委託したきり、帰っていない。目鼻筋は通っていてそれなりに整った顔立ちをしているのだが、短く刈り込んだ髪の毛や無意味にたくましい体つきもあいまって、女だと認識される事は少ない。だが、それが本人にとっては気楽だった。十代の頃には思いを寄せる相手もいたが、あまり深い関係に進展する事はなかった。

その分仕事に打ち込んだシャレッタは、今や同期の中では出世頭と言っても良い地位に就いている。比肩されるのは特務行動部隊にいるレイミティ中佐くらいである。給料も同期の人間達とは比較にならないほどに高額だ。その代わり殺人的に忙しく、ここ数日はほぼ寝ていない。せっかくの給金も、使う暇がないのが現状である。下手をすると、このまま一生使う機会が無いかも知れない。慢性的に忙しいため、休暇などとる暇がないのである。休日はたまにあるが、殆ど寝ているだけで終わってしまう。

残った件を片付けたら思う存分寝ようと思いながら、一つずつ案件を処理していく。疲労で頭がぐらついてきたので、栄養ドリンクを飲み干す。周囲に侍らせている軍用ロボットが美少年型ばかりなのは、歪んだ欲望が漏れた結果であるかも知れない。

ここしばらく忙しいのは、人類の曙との交戦が本格化したからだ。ネオナチの流れを組む人種差別思想を持つ危険団体である彼らは、想像以上に社会の暗部に根を張っており、高官の何人かがスポンサーになっている可能性が高い。そのためシャレッタのような精鋭が事態の調査に派遣されており、毎日殺人的な任務に忙殺されている。

今のところ、数カ所のアジトを摘発して潰したが、氷山の一角に過ぎない事は分かりきっている。首都星だけではなく、辺境の何カ所かにも拠点を築いている事は確実で、潰すのには相当な労力が必要だろう。いざというときには、実戦部隊の投入も依頼しなければならない。確保した人員の拷問を進めると同時に、捕縛した戦闘ロボットの頭脳解析も並行で行っている。どちらも表には出せない非人道的任務だが、誰かがやらねばならない事でもあるのだ。

「コーヒーちょうだい」

「かしこまりました」

すぐにロボットがコーヒーを持ってくる。まるで男ハーレムに鎮座する女帝だと、同期であり悪友であるレイミティ中佐に揶揄された事もあるが、気にしない。そのレイミティ中佐だって、周囲に子供型の戦闘ロボットを侍らせているのだ。趣味が悪いのはお互い様である。

そんな事より不快なのは、そのレイ中佐に優秀な部下を取られた事だ。確かに共同戦線を取らなければならない状況であるが、猫の手でも借りたい状況で、部下を引き抜かれたのは痛すぎる。

いつか逆に引き抜き返してやると思いながら、コーヒーをすする。カフェインを濃くしてあるために目が冴えるが、官級品らしく、ちっとも美味しくはなかった。技術が進歩したと言っても、所詮インスタントだ。気分を入れ替えて、再び職務に戻る。

残った仕事を処理しながらメールに目を通していたシャレッタは、眉を思わず跳ね上げていた。またしても内務省からの横やりだ。最近あまりにも目に余る。KV−α人の護衛を巡る任務については、軍と内務省が深刻な対立をしていて、互いに足を引っ張り合っている。

どちらも国を思っての事なのだろうが、現場の人間としてはたまったものではない。しかも内務省の持ってくる情報がなければテロリスト狩りも遅々として進まないし、愚痴る相手もいない。しばらく悩んだ末に、シャレッタは少し休むと言って、部屋を出た。

多少時間のロスにはなるが、此処は休まないとミスをする可能性がある。こういう時の切り替えは早い。ハンガーから取った上着を羽織りながら、大股に廊下を行く。足が長いだけあり、一歩一歩で稼げる距離は大きい。だが戦闘を想定しているだけあり、軍本部ビルは非常に複雑な構造をしていて、嫌がらせのように曲がりくねっている。一部で蟻の巣と揶揄される事もあるほどで、長いシャレッタの足でも踏破するにはそれなりの苦労が必要だ。地下にはベルトウェイもないので、兎に角歩かなくてはならない。

幾つかの曲がり角を抜けて、エレベーターホールへ。十四機のエレベーターが上下しているが、これも構造が繁雑だ。殆どのエレベーターの停まる階が決まっており、一部の階層には暗号を入力しないと辿り着く事が出来ない。中には個室を装ったVIP用のエレベーターもあるが、まだシャレッタは見た事がない。他にも待っている者がいた。皆退屈そうにしていて、中には携帯端末から立体映像を呼び出し、読書している者もいた。

エレベーターが到着する。数人の軍人が降りてきた。シャレッタの地位は中佐であり、彼らの全員よりも高位であったため、当然の帰結として敬礼された。敬礼を返しながら、いい男はいないなとシャレッタは思った。

自分は非常に「ごつい」のに、いわゆる美少年が好きなシャレッタは、あまり同僚の軍人に興味が持てない。一部からはレズビアンだと思われているようだが、そんな事はない。単にシャレッタ好みの儚げな美少年がいないだけである。もっとも、いたところで、まともに恋愛を行えるほどの暇はないのだが。

チューブ式のエレベーターが、音も振動も無くスムーズに上昇する。外側はガラス張りとなっていて、首都の整った様子が一目に把握できる。階があがる度に乗ってくる人間は増えてくるが、そのたびに敬礼をしなければならないのが煩わしい。十階で准将の階級を持つ人物が乗ってきた。その護衛をしている男はかっての部下であり、笑顔を向けてきたので、軽く頷く。シャレッタが鍛えた彼は、今では軍でもかなり期待されているらしい。しかも家庭を築く暇まで得ているそうで、三人目の子供が今奥さんのお腹の中にいるそうだ。羨ましい話である。

エレベーターが停まる。数人と一緒に降りる。地下は圧迫的な空間だが、この辺りは非常に開放的な作りになっていて、廊下も広い。天井も高く、光源も良く計算されていて、目に優しい。

ここは80階建てのビルの中層、27階。目当てはこの階層の端に存在するリフレッシュルームだ。

中央にあるプールを横目に、受付にカードを提示。ロッカーに荷物を預けて、中に入る。濃密な汗の臭いがする。少し狭いロッカールームを出ると、構造的にストレスを与えないよう計算され尽くしたリフレッシュルームに出る。

軍という事もあり、筋肉を動かすための設備が多い。中には図書室もあり、ネット経由で様々な本を読む事が出来る。ただ、シャレッタには読書の趣味はない。バーベルを持ち上げている屈強な陸戦部隊の兵士の横を抜けて、更に奧へ。

仮眠を取るための催眠装置も並んでいるが、用があるのは一番奧のサンドバックである。これがストレス発散には丁度良い。幸い、四つあるサンドバックは、二つ開いていた。

黒々とした長大なサンドバックは、四サイズ用意されており、一番大きいものの前にシャレッタは立った。ヘビー級のボクサーがトレーニングに用いるような、ごついサイズである。屈強な人間の揃う軍では、このサンドバックを用いる人間も少なくない。しばしの沈黙の後、無言で予備動作無くハイキックを叩き込む。周囲の軍人達がおののくような音を立てて、サンドバックが揺れる。更に何度か蹴りを叩き込んだ後、渾身の力を込めた拳を叩き込む。数百キロのサンドバックが、私怨が籠もった打撃の乱打を浴び、揺れに揺れた。短く叫び声を上げると、とどめに頭突きを叩き込む。周囲の軍人達は、真っ青になってシャレッタを見ていた。しばしの沈黙。

「ふう、すっきり♪」

実にさわやかな気分。やはり疲れている時はこれに限る。汗を拭いながら呟きを残すと、シャレッタはサンドバックに一礼。こういう事ばかりしているから男に縁がないのだと、本人はうすうす理解してはいるが、しかしやめられない。ストレスは綺麗に消えた。更に水着をレンタルすると、プールで一泳ぎする。自由形で75mほど泳ぐと、汗もそれで落とす事が出来た。

自室に戻る。地下に降りるエレベーターはあまり多くないのだが、待ち時間も苦痛ではなかった。帰りは高級軍人に会う事もなく、この点実に運が良かった。落ち着きを取り戻したシャレッタは、内務省からの横やりに冷静に対処。もう、完全に普段の彼女に戻っていた。

最後のメールに目を通し終えると、一旦PCをシャットダウン。そのまま自室の奧にある簡易ベットに横になる。誰か来たら起こすようにロボット達に命令。彼らはセクサロイドの機能も有しているが、とてもではないがそんな事をする気にはなれなかった。ストレスを完全に飛ばしたい時には相手をさせるが、普段は一人で寝る事の方が多い。訓練をしているから、横になればすぐに眠る事が出来る。

五時間ほど貪り尽くすように寝ると、疲労も取れた。もう欠伸も出ない。ロボットに起こされなかったと言う事は、特に何もなかったと言う事だ。喜ばしい話である。しかしながら、PCを立ち上げると、またしても大量のメールが飛んできている。うんざりするが、仕方がない。これも仕事だ。

めぼしいものだけ処理した後、風呂でも浴びようと思って、メールに向かう。幾つか順番に片付けていったが、最後に一つ、気になるものがあった。内務省からの情報だ。しばらくこめかみに指先を当てて考えていたが、ロボットにレイミティ中佐へのホットラインをつながせる。指揮能力は高いが、メカの扱いは苦手なシャレッタは、この手の作業はことごとくロボットに任せてしまう。

ホットラインはすぐにつながった。レイミティの若々しく美しい顔が、立体映像として現れる。敬礼をした後、すぐに本題にはいる。同期であるだけではなく、高校時代のクラスメイトであるレイミティとは、今でも悪友だ。だから口調もラフになる。

「内務省から、気になるメールが来てる。 あんたは知ってる?」

「どういう内容かしら」

内容を告げると、レイミティは流石に顔色を変えた。この娘は厳しいようでいて心優しいから、護衛の対象に入れ込む所がある。悪い癖だと注意しているが、直す気配はない。人間として、譲れない一線なのかも知れない。

「知らせてくれて有難う。 すぐに手配するわ」

「というか、内務省が何でそっちに情報を回さないのが気になるね。 裏に何かあるかも知れないし、気をつけなよ」

嫌な予感がするから、わざわざそう警告した。もちろん、レイミティも同じだろう。表情には、あまり余裕がない。

「分かっているわ」

「それと、情報料。 今度ブレア・フラーラでランチコースね」

「うふふふ、相変わらずね。 そのくらいなら安いものよ」

高級レストランでの食事の約束を取り付けると、レイミティはころころと笑った。この辺りは昔のままだ。一瞬、何も知らない小娘だった頃に戻ったような気がしたが、すぐに気を引き締める。

情報の内容が、笑って済ませられるものではない。すぐに部下を手配し、特務行動部隊との共同作戦に備える。

どうやら、レストランで飯を食えるのは、当分先になりそうだった。

 

1,変わりつつある日常

 

早朝。まだ陽が昇らない内から、被名島賢治はランニングを行っていた。今日から3キロに距離を伸ばす。少しずつ、体力がついているのが実感できる。走って汗を掻くのが、楽しくなりつつある。

前を走っている静名が、理想的なペースメーカーになってくれている。作ってくれる料理も、体力を付けるのに役立っている。今まで無駄にしていた時間を、有意義に使えている事が、実感できる。

早朝の空気が、肌に心地よい。ベルトウェイを敢えて通らず、アスファルトの上を走る。静名が曲がったので、着いていくと、裏路地に入った。どんな都市にも裏路地は存在しているが、此処でもそれは例外ではない。静名が先に行ってしまうので、慌てて後を追う。まだ、臆病な心は克服できない。

薄汚れた壁に挟まれた裏路地は、ゴミ箱が散乱し、野良猫が我が物顔に寝そべっていた。踏まないように気をつけながら行く。異臭が酷い。ホームレスの顔は殆ど見られないが、やはり雑然としていて、いかがわしい店も少なからずあるようだった。具体的に何をする事が分かっているからか、却ってそれが気恥ずかしい。歩調が早くなる。

路地を曲がると、大通りに出た。ほっとする。そろそろ、息が切れ始めている。体力的にはかなり厳しい。住宅街に到達。何とか自宅にたどり着いた時には、息がすっかり上がっていた。

玄関に座り込んで、静名が差し出してきたスポーツドリンクを飲む。一気に呷って、胃袋へ流し込む。喉を通るドリンクの感触が心地よい。汗を拭う。

毎日走る訳ではない。ここ数日は、一日走って、次の日は休むというスケジュールで、静名に鍛えて貰っている。戦闘用のロボットであるが故に、まるで疲労した様子がないのが凄い。汗の一つも掻いていないのは少し微妙だが。走らない日も、ぎりぎりまで寝ている訳ではない。そう言う日は、マーシャルアーツを仕込んで貰っている。といっても、まずは受け身と打撃の型から、だが。知識があるのと、実際に筋肉を動かせるのでは、大きな差があるのだ。まだまだ、実戦は早いと静名に言われている。自分でもそう思う。

「賢治様、そろそろストレッチをしてください」

「うん、分かった」

体を全部玄関の上に引きずり上げて、裸足でストレッチをする。筋肉をもみ上げる。筋肉の中に溜まる乳酸の分解は、体内に入れている強化ナノマシンがかなり促進してくれるが、それでも実際にストレッチをすると効果が出る。ストレッチのやり方も、静名にしっかり仕込まれた。

その静名は、もう厨房で料理を始めている。リズミカルな包丁の音。鍋が立てる湯の音。何の料理かは分からないが、今日も体を鍛えるために、高タンパク低カロリーのものだろう。静名の料理は美味しいのだが、たまにはもうちょっとさっぱりしたものを食べたいとも思う。しかしそんな事を言おうものなら、毎日さっぱりした料理しか出てこなくなるような気もする。

一月ほど一緒に暮らして分かったのだが、静名は融通が利かない。ネットなどで情報を集めてみると、最近の家庭用メイドロボットは持ち主の心理に配慮して、きめ細かい行動を取るのだという。その点で考えると、戦闘に重点を置いている軍用ロボットには、やはり思考プログラム上の限界があるのだろう。

汗が止まった頃には、朝食が出来ていた。もうとっくに朝日は昇っている。非常に健康的な反面、余裕がない生活だ。プライベートと呼べる時間は、寝ている時くらいしか、事実上存在しない。

向かい合って座り、食事にする。今日の朝食は魚のムニエルだった。種類は分からないが、切り身がどの部分か分からない事から考えても、かなりの大型魚であろう。白身は良く締まっていて、ナイフを入れた時の手応えが素晴らしい。骨も良く取り除いてある。これはロボットだから出来る職人芸だとも言える。

「美味しいよ」

「ありがとうございます」

礼は帰ってくるが、しかし全くの無愛想なので、わずかにストレスが溜まる。道具だと割り切る事も出来ず、それが余計にストレスを蓄積する原因となる。以降は無言で食べ終える。静名はその間、コンセントから電力を補給して、情報を外部と伝達している様子であった。

食べ終えてからテレビを付ける。昔は起きてからすぐにつけるのが日課だったのに、ここのところ毎日その時間が遅れている。テレビ自体に愛着があったわけではないし、これは良い事なのだと賢治は思う。

ニュースが流れる。しばらく前の連続テロ事件以来、特に目だったニュースはない。それでほっとする。立花先輩に、どうやらあのテロ事件は、ルーフさん達KV−α人を狙ったものだと聞いたからだ。報道はされなかったが、軍の関係者も何人か命を落としたとも聞いている。酷い話だが、賢治には今のところどうする事も出来ない。

そんな状況だから、恐らく殺人的に忙しかっただろうに、それでも笑顔を崩さなかったレイ中佐。凄い人だと、賢治は改めて思った。やがて、ニュース番組が終了。それと同時にテレビを消し、登校する準備を始める。ジャージから制服に着替えた頃には、静名が居間に戻ってきた。

「賢治様、そろそろ登校の時間です」

「うん。 分かってる」

「鞄をスキャンした所、地学の教科書が抜けているようです」

「おっと、ごめん。 ありがとう」

言われたとおり、地学の教科書が鞄に入っていない。礼を言う必要は無いような気もしたのだが、口をついて出た言葉は自然なものであったし、今更訂正する気にもなれなかった。

家を出たのは、適正な時間だった。最近は登校の際、ベルトウェイを使わない。体を鍛える事が日課になりつつあり、楽をする事を無意識から避けるようになっている。体力もぐんぐんついてきているのが分かる。だが、立花先輩に比べるとまだまだだ。せめて、自分の身くらいは守れるようになりたい。

学校が見えてきた。貪欲に強さを求め始めている賢治は、授業も少しずつ面白くなり始めていた。それに伴い、学校が以前ほどつまらなくなくなってきている。知識そのものにも興味が出始めているのだ。或いは、単純な意味での気力が増してきているのかも知れない。そして何より、以前のような倦怠感が、目に見えて減り始めている。

教室に入ったのは、HR開始のしっかり15分前。HRが開始した頃には、もうすっかり頭は授業を受ける態勢に切り替わっていた。HRが終わると、雑談する周囲に構わず、教科書を取り出す。

最初の授業は地学である。オーンという名の教師はすっかり頭がはげ上がった老人で、年は100才を超えている。現在の生体平均寿命は100才を遙か凌駕しているとはいえ、それでもかなりの高齢である。

現代の地学は、銀河系に広がった人類社会の国家情報と惑星情報を勉強するものとなっている。本日の学習は、北部銀河連合に関するものであった。人類社会で現在最強の軍事力を持つ国家である。

生徒達の机の上に、星図が浮かび上がる。北部銀河連合は、フォルトレート民主立国のもっとも有力な同盟国であり、境を何カ所かで接している。今までに国際紛争は小規模なものが二回発生しており、国境にはそれぞれの艦隊が駐屯しているが、今のところ関係は非常に良好である。双方の国家元首は親友である事が知られており、時々プライベートで遊びに来る事もあるのだそうだ。

星図のほぼ中心にある連合の首都惑星の説明を、教師が始める。この国と違い債権放棄のシステムがあるそうだが、その代わり広大なスラムが首都にあり、治安はかなり悪いのだという。

また、連合には現在発見されている中でも最大級のガス惑星と、豊富な資源を有するアステロイドベルトがある。昔は航路上の難所として知られたアステロイドベルトだが、今では資源採掘の最重要存在である。高校レベルの地学になると、有用な資源小惑星の名前まで教え込まれる。タングステンを豊富に含むものや、銅の塊になっているものがあり、それらの利権で戦争が発生した事もある。

このアステロイドベルトを防衛するために、連合は幾つかの宇宙要塞を建造し、防衛艦隊を駐留させている。その中には、この間賢治が立体映像で見た、人類史上最高の戦歴を誇るオルヴィアーゼもいるのだ。現在オルヴィアーゼが駐屯しているヴァシュナ要塞は、三個艦隊12000隻が駐屯しており、現在人類世界最強の防御力を誇ると言われている。外部への侵出傾向が強い法国がおとなしくしているのも、この要塞の実力を警戒しての事だ。

立体的な星図の中で点滅する惑星の名前を、少しずつ覚えていく。何重にもなったリングを持つ巨大なガス惑星はディーゲルと言う名前で、衛星軌道上にガス採掘基地が幾つもあるのだそうだ。メモ帳代わりのテキストエディタを開き、名前を記載していく。教師が不意に、この基地で働いた時の昔話をしてくれた。

「ええ、私は昔、この基地で働いていた事があります。 私が働いていた頃は、まだ連合の領土ではなく、法国の拠点でしたが」

咳き込みながら、教師は続ける。生徒の半数は退屈そうな表情であったが、賢治は気にせず話に耳を傾ける。

「内部は狭苦しく、労働はかなり厳しかったですねえ。 休憩時間は短く、中にはほとんど娯楽施設もありませんでした。 数ヶ月に一度は事故が起こって、何人かが命を落としていきましたが、それでも此処をすぐにやめようという労働者はいませんでしたよ」

給料がとても良かったのだと、教師は言った。

法国では労働者の権利が昔から貧弱で、地球での産業革命時代を思わせる過酷な労働が多々見られたのだという。現在でも一部の職業や、特殊軍部隊などでは過重労働があるそうだが、賢治にはあまり想像できない。

いや、側に実例がある。レイ中佐だ。あの人はきっと、それくらいの過重労働をしているのだろう。それに気付いて、賢治は慄然として襟を正した。

「私たちの楽しみは、週一回の休日と、仕事の後に配給されるウォッカでした。 周囲の労働者は皆荒々しい人ばかりでしたが、とても性根がまっすぐで、今でも一人一人の名前と笑顔を思い出す事が出来ます。 酒場でウォッカを呷って、みんなで下手な歌をがなりあげて、気がついたら何時間も経っていて。 あの頃は楽しかったです。 私が務めていたのは二年程度ですが、その間に出来た友人達は、私の宝です。 今でも何人かとは親交がありますが、もう生きている奴は少ないですね」

からからと教師が笑ったので、賢治はいたたまれない気分を味わった。この教師の年だと、死が賢治とは比較にならないほど近いはずだ。次々と命を落としていく友人達の中で、死を意識しながら生きていくのは、どんな気分なのだろう。

チャイムが鳴る。教師は己の話を切り上げると、宿題を幾つか指示して、教室を出て行った。欠伸をする生徒や、露骨に寝ている者もいる中、賢治は教科書をしまった。感慨が深い。自分が同じ立場になったらどうなるのだろうと、つい考えてしまう。

この間まで、自分の近しい未来は、教師が言ったようなものだったはずだ。それから考えてみると、悲観していた未来を、教師は乗り切り生き延びたと言う事だ。やはり自分はどこかで甘えていたのかも知れないと、賢治は思った。

気力が湧いてくると、今まで見えなかった事が、クリアになってくる。だが、落ち込んではいられない。もっともっと強くならなければならないのだ。

地学の授業が終わると、今度は体育だ。一年生の四組と、二年生の二組との合同授業である。ちなみに賢治がいるのは一年の三組である。手早く着替えると、さっさと外に出る。外はすっかり夏の陽気である。気温は30度を超えており、手で扇ぎながら、集合場所へ急ぐ。グラウンドの向こうには、もう準備をして出てきている二年生の姿があった。

出る前に端末で確認したが、今日の体育は短距離走だ。六人ずつ、百メートル走を各自五本ほど行う。一年四組は運動能力が高い生徒が揃っているが、注目はそちらではなく、二年に集まっている。二年二組には、当然のように立花先輩がいて、今走る前の準備運動をぬかりなく行っていた。一年四組の運動部に属しているシュナイターが、先からちらちらと視線を送っている。異性として気になると言うよりも、噂の立花先輩の実力を確かめようというのだろう。

賢治は自分でも、ストレッチを始めた。早くもやる気を無くして木陰でさぼっている人間もいるが、そんな事をしても成績が落ちるだけである。真似はしない。一通り筋肉を温め終わった頃に、教師が来た。名前はアレクセイと言い、屈強な肉体を持つ、いかにも体育教師という容貌の大男だ。腕も足も毛だらけで、一部の女子にはゴリラとか呼ばれている。だが結構繊細な趣味を持っているらしく、自宅のには日本風の庭園があり、しかもかなり良く手入れされているという。ちなみに、三年前にこの学校の女性教師と職場結婚。彼女は別の学校に移った。

アレクセイ先生が手を叩いて、生徒達を集める。端末を取り出すと、生徒の名前を読み上げ始めた。賢治は何とシュナイターと立花先輩と同じ組に回される。何の冗談かと思っている内に、近づいてきたのはシュナイターだった。

「君が被名島賢治くんだね」

「うん、そうだけど」

「立花先輩と仲が良いって聞いているよ。 君から見て、彼女はどんな人だい?」

きざったらしい喋り方をする奴だと、賢治は思った。

シュナイターは長身の黒人で、全身がしなやかな筋肉に包まれている。かなり良いところの坊ちゃんらしく、慇懃無礼で、だが笑顔の裏にはどうしても何か警戒を呼ぶものがあるのだった。かなりルックスは整っていて、女子が話題にしているのを何回か聞いた事がある。

「ううん、よく分からないけれど、パワフルな人だよ」

「ふうん、パワフル、ねえ」

「被名島、そろそろ出番。 出撃前の蜜蜂のごとく、さっさと準備する」

「うわっ!」

不意に呼ばれたので振り向くと、その噂の立花先輩が経っていた。彼女は口の端だけつり上げて笑うと、シュナイターに視線を移す。

「噂は聞いているよ、シュナイター・バルレス。 一年で、あたしを倒せる有力候補がいるってね」

「光栄です、先輩。 今日は正々堂々勝負しましょう」

「……いいだろう」

立花先輩は賢治を一瞥すると、ツインテールの髪をひょこひょこ揺らしながら、百メートル走のスタートラインに歩いていった。短距離走用のサングラスを掛けると、シュナイターもそれに続く。賢治は生唾を飲み込んだ。二人の間に、露骨な敵意が渦巻いているのを感じたからだ。猛獣の群れの頂点に立つ王に、若き個体が挑戦しようとしている。そんな光景を、賢治は幻視してしまった。

少しは体力もついてきたが、それでもまだ付け焼き刃だ。以前は17秒もかかった百メートル走だが、今はどうか。賢治もスタートラインに就く。クラウチングスタートの態勢を取る。一番右に立花先輩が、一番左にシュナイターがいる。まだ慣れない賢治がぎこちなく一番最後に体勢をとると、アレクセイ先生が笛をくわえた。全員が、一斉に腰を持ち上げる。笛が、吹き鳴らされた。

夏の空気を、鋭いホイッスルが切り裂くと同時に、一斉に六人が走り出す。やはり賢治は遅れたが、しかし前とは違う手応えがある。ずっと体が早く動く。だが、他の五人よりは、まだ遅かった。

走る。走る。地を蹴って、先へ進む。

一気に前に出たのが、シュナイターだ。早い。まるでカモシカのような脚を駆使して、一気に前に出る。凄い加速だ。素人である賢治でさえ、そう思った。

五十メートルを超えて、賢治は気付く。まだ体力が尽きていない。前はこのくらいの距離を走ると、もう息が上がっていたのに。ゆっくり、速度を上げていく。もう他の五人より遅れが出ているが、それでも伸びる。

立花先輩が、ここで一気に速度を上げた。その加速たるや凄まじく、アフターバーナーを吹かしたかのような有様だ。そのまま数メートル先を行っていたシュナイターに瞬く間に追いつく。ぎょっとしたシュナイターが、露骨にフォームを崩すのが見えた。それが致命傷となった。

立花先輩が、外側から一気にシュナイターを抜き去った。そして、数メートルの差を見る間に付ける。シュナイターも速度を上げるが、更に立花先輩は速度を上げて、引きはがした。

ゴール前で、立花先輩が跳躍した。ゴールラインを突破すると同時に、体を捻って、大げさなブレーキを掛けて停まる。強烈なブレーキで土煙が濛々と舞い上がり、一瞬立花先輩の姿を隠す。それから数秒以上遅れて、賢治はゴールした。

流石に息が上がった。立花先輩は体を直角に曲げて、膝に足をついて息を整えていた。首筋の辺りの汗が、妙に生々しい色気を湛えていて、賢治ははっとして視線を思わず逸らす。シュナイターは唖然とした様子で立花先輩を見ていた。やがて、歯をむき出して、鬼のような形相に変わる。

「何だ最後のブレーキは! 今まで、手を、抜いていたのか! ぼ、ぼくを、このぼくを相手に!」

「……そう言う事になるかな」

「巫山戯やがって!」

一触即発の空気が流れる。一年生が悲鳴を上げて逃げ散った。二年生は落ち着いたもので、悠然と様子を見ている。立花先輩が、生半可な相手に後れを取らない事を知っているのだろう。右往左往する賢治は、立花先輩の言葉に思わず停止する事になった。

「だったら、あたしに本気を出させてみなよ」

「……っ!」

「今まで、ろくに相手になる奴もいなかったんでしょ? でも、どんなに大きいメダカでも、一番小さい鯨にもかなわないもんだよ」

「まだ四本残っている。 悔しかったら、その時決めろ、シュナイター」

いつの間にか側に来ていたアレクセイ先生がそう言ったので、悔しそうにうつむいて、シュナイターは他の生徒達の間に戻っていった。アレクセイ先生はそれをしばし見ていたが、不意に賢治の肩を叩く。

「14秒まで縮まったぞ。 何があったんだ?」

「ええと、毎朝走ってます」

「そうか。 まあ立花やシュナイターにはかなわないにしても、まだまだ伸びるぞ。 頑張って毎朝走り込め」

「はい!」

初めて努力が認められた。それを理解した賢治は嬉しかった。

結局、その日の体育では、シュナイターは一度も立花先輩には勝てなかった。現在、星間オリンピックのトップアスリートは7秒台前半で走るという話を聞いている。立花先輩は、9秒前半で走るそうだ。しかもベストの時には、8秒後半をたたき出す事もあるという。

その日から、シュナイターの形相が変わった。女子達にマスクがどうのこうのと騒がれた、お洒落の一部としてスポーツをやっていた甘ったれは姿を消した。その代わりに全力でスポーツに打ち込む鬼が誕生した。

その一部始終を、賢治は目撃する事となった。

 

長い机が並んだ食堂で、賢治はホワイトシチューをかっ込んでいた。しっかり運動した後だからか、昼食が美味しくて仕方がない。最近は少しずつ食堂を利用する事も増え始めていて、そう言う時に立花先輩から、用件を告げられる事がある。今日もそうだった。いきなり後ろに立っていた立花先輩は、既に携帯端末を起動している。

「被名島」

「あ、さっきはどうも。 立花先輩」

「今日、ルーフさんと三人で夕食にするから。 この場所に、18時に来るようにね」

「分かりました」

携帯端末に情報を受信して一礼すると、満足げに頷いて、立花先輩は奧の方へ歩いていった。ふと声が掛かったのは、その時だった。

「隣、いいですか?」

「え? うん」

声の方に振り向くと、何ともおとなしそうな男の子が立っていた。背丈は賢治より更に低い。にこにこと笑顔を浮かべていて、平和そうな雰囲気だ。

飛び級制度は、この世界にも存在している。優秀な人間になると、十代前半で科学者になる事もあるという。この学校には優秀な飛び級学生はあまりいないが、それでも存在はしている。その一人だろうかと、賢治は思った。

すべすべの肌をしている少年で、如何にも年上の女性に好かれそうな雰囲気であった。事実、時々女子生徒が此方に視線を送ってきている。

「ええと、一年生?」

「はい。 今年入学してきました。 春坂幸広です」

「そうなると同級生だね。 僕は被名島賢治。 此方こそよろしく」

飛び級をしてくるような学生は、当然のことながら、天才である事がほとんどだ。そのため非常に扱いづらい場合が多く、賢治も警戒しながら笑顔を浮かべた。中学の時に、一度飛び級生徒と一緒になった事があり、暴虐の限りを尽くす所を見ていたからだ。この子は一応年長者に敬語を使う事が出来るようだが、それでも油断は出来ない。

「今の人って、あの魔王立花先輩ですよね。 お知り合いですか?」

「うん。 いろいろあって、良くして貰っているよ」

「彼女ですか?」

「まさか。 色々な意味でありえないって」

苦笑する。というよりも、考えられない事である。

先輩に異性を感じる事はあるが、それはそれ、これはこれだ。賢治は今高校生。生物で言う発情期にあり、異性にはまんべんなくうっすらと性欲を感じるから、その一部だろうとも思う。そもそも好きという感覚がよく分からないし、抱くとしてもそれは立花先輩が相手ではないような気もする。賢治の様子を見て、幸広は笑顔を崩さず、なおも言う。

「そうなんですか。 でも、すてきな人ですよね」

「そうかな。 すてきというよりはおっかないけど」

時計を見ると、もう時間があまり残っていない。おすすめのメニューを聞かれたので、無難なところを教えると、喜んでくれた。何だか純真無垢をそのまま形にしたような笑顔で、警戒心が削がれる。だが、それも武器の一種かも知れない。適当に話を切り上げると、賢治は席を立つ。クリームシチューの容器を清掃ポットに放り込むと、教室へ引き上げた。

長い午後が、これから待っている。あのときはルーフさんの正体を知って取り乱してしまったが、今度は同じような失敗はしない。賢治は覚悟を決めて、授業に望む。

午後の授業も、頭にすんなり入ってきた。

 

食堂から出ると、幸広はまっすぐ屋上へ向かった。ほんの少しだけ時間がある。本部に連絡を入れなければならない。

軍用の携帯端末を開くと、上司であるレイ中佐が出た。優しそうな笑顔である。餌を前にした肉食獣みたいな目で自分を見ていた前の上司のシャレッタ中佐よりも、ずっと理性的で接しやすい人だ。もっとも、この人も筋金入りの子供好きらしく、気を許しすぎるのは危険だとも思うが。

「レイ中佐、此方特に異常はありません」

「お疲れ様。 このまま監視を続けて頂戴」

「了解しました。 それと、話にあった賢治さんですが、中佐の評価よりもずっとしっかりした反応でした。 体育でも貧弱とはいえ成績をぐっと伸ばしたようでしたし、何かが切っ掛けになって意識が変わったんじゃないですか?」

「そう。 それならばいいのだけど」

他にも幾つかの細かい打ち合わせをすると、携帯を閉じた。夏の澄み渡った空の下で、影の仕事をしている幸広は、己の境遇に含み笑いを漏らした。

彼は現役の特務中隊士官である。地位は準佐であり、少し前までは対テロ特務部隊に所属していた。9才で高校を卒業し、11才で大学を出た俊英で、14才の今、調査と護衛のために高校に再びはいるという数奇な運命を辿らされている。

だが、これはこれで面白いとも、幸広は思っていた。この高校に入ってからそれほど時間はないのだが、以前いたところとは全く違う視点で色々と周囲を見る事が出来る。14才という成長期にもかかわらず、背は同年代の少年に比べてかなり低いが、それでも視点はかなり高くなったのだ。

このような配属が決まった最大の要因は、人類の曙によるこの間の広域テロだ。慌てた政府が、レイ中佐の提案を聞いて、今後ルーフの入学する予定のある高校に先行偵察要員として彼を送り込んだのである。対テロ訓練を積み、四回の実戦経験も持つ幸広だからこそ、此処に配属されたとも言える。だが、そう言う理由抜きに、幸広は状況を楽しんでいた。

教室に戻る。授業は非常に退屈ではあるが、それでも新鮮な発見もある。今の授業は、幸広がいた頃とは随分変わっているし、周囲の生徒のとの身長差も違う。何だか早足で駆け抜けてしまった高校をもう一度やり直せるようで、少し楽しかった。

教室に入る。まだ少し授業までは時間があるので、その間にこれからの護衛スケジュールを確認しておく。賢治とキャムの自宅に張り付いている護衛軍用ロボットとはリンクが取れているので、情報はまめに交換していかなければならない。それを手短に済ませると、今度は授業だ。

今日の授業も面白いものが揃っている。学校を単純に楽しめる幸広は、ただ勉学が、生まれついて何よりも好きなのかも知れなかった。

午後には派手な実験で楽しい科学の授業がある。新たに覚えるような事は殆ど無いが、授業の楽しさは折り紙付きだ。これから行う古代文学もまた楽しい授業である。今日はどんな文学をチョイスしてくるのか、目が離せない。

ふと外を見る。今日は夜から雨になりそうだ。護衛の任務はかなり大変だろう。それを考えても、今の内に楽しまなければならなかった。

 

2,夕食の一風景

 

上海飯店と大書きされた看板を見た時、賢治は背筋に寒気を覚えた。非常に嫌な予感がしたからだ。店の外装自体は、特に妙ではない。普通の中華料理屋だ。気になるのは看板である。隅の方にこっそり創作中華とか書いてある。何か、ろくでもないものを創作しているような気がしてならない。

家に帰って着替える暇など無かったから、賢治も立花先輩も制服である。周囲から見ていると、兄妹にしか見えないのだが、賢治からすれば何にも勝る恐怖の存在だ。幸い、賢治の側には護衛のために来てくれた静名がいる。

周囲は住宅街から離れている、雑然とした区画だ。一つ路地裏にはいるだけで緊張する賢治だと言うのに、此処は見た事もない路地の更に裏である。ゴミ箱には生ゴミが乱雑に突っ込まれ、それを野良猫が漁っている。我が物顔に野良犬が彷徨き周り、側で点滅しているのは卑猥な風俗店の立体ネオンだ。

もちろん此処へは走ってきた。ベルトウェイなど使う訳がない。問題は距離で、五キロほどもあったので、流石に疲れ果てた。その上地図で確認したところ、自宅までは七キロほどもある。この一帯にはベルトウェイなどと言う気が利いたものはないし、帰るには高値の有人タクシーでも呼ぶか、或いは歩くしかない。電車があるのはずっと先だ。

「あの、先輩。 ここって……」

「あたしの前のバイト先。 今はもう働いてないけど」

「バイト先、ですか?」

「借金返すための努力だよ。 せいぜいしっかりバイトもすれば、少しは借金を返せると思ったたんだけど。 オオカマキリにコカマキリをぶつけるようなもんで、殆ど無駄だったかな! これって何て言うんだっけ。 そうそう、焼け石に水!」

けらけら笑う先輩を見て、賢治は思考が停止するのを感じた。自分が同じ境遇下でただいじけていただけであった事に対する羞恥もあるのだが、そんな苦境を冗談にして笑い飛ばしている先輩の胆力にも驚かされた。

先輩が振り向いたので、遅れて賢治もそちらを見ると、ルーフさんが護衛らしい老人の戦闘ロボットと歩いてくる所だった。今日は黄金の髪をポニーテールに縛っている。相変わらず人形のように整った顔立ちだが。

あの中身は。

分かってはいる。だが、少し構えてしまう。にこにこしたまま、ルーフさんは綺麗にお辞儀した。なぜか上下共にジャージだ。配色は小豆色で、黄金のルーフさんの髪に、配色的には良く合っている。

「お待たせしました」

「何、良いって。 そちらは、ルーフさんの護衛?」

「アルバートと申します。 以後お見知りおきを」

ルーフさんよりよりしっかりした角度で礼をするアルバート。何だか、お嬢様と執事のような佇まいだ。恐らくそれを狙っているのだろう。タキシードで固めたアルバートは、まるで毛虫のような白い眉毛を持っていて、口にも豊富な髭を蓄えている。目は細くて殆ど見えず、全体的にやせ形で、絵に描いたような執事ぶりだ。

「今日は三人で食事ですか?」

「そうなるね。 ちょっと前までレイ中佐も来る予定だったらしいんだけど、鼠花火のように忙しくなったとかって連絡があってね。 急遽、我らだけで夕食を貪り食らう事になったんだ」

「怖い表現ですね……」

「じゃあ、お上品に貪り食おうか。 おっちゃん、ちわーっす!」

引き戸式の入り口をガラガラ開けて中に入る。今時自動式のドアではないので、賢治はそれだけでおののいた。中は雑然としていて、客席はまばらである。

内装は以前映像で見た中華料理店よりも更にエキゾチックで、特に赤が非常に多く使われている。床は磨き抜かれておらず、壁には埃が堆積している。食品衛生法はクリアしているのか、少し不安になりながら、立花先輩に続いて奧の丸テーブルに。一番奥にルーフさんを案内して、一番外側の席に賢治が着く。一番奥に賓客を入れて、立場的に一番浅い人間が玄関側に座る。これが静名の説明してくれた、賓客をもてなす際のマナーだ。

アジア系らしい中年男性の店主が、早速茶を運んでくる。割烹着を着ていて、一応格好だけは清潔に気を配っているようだ。テーブルの中央には回転する台が乗っている。検索してみて、すぐに正体が分かった。これに料理をのせて、回転させて皆で分け合う仕組みだ。もちろん見るのは初めてで、賢治はふーんと唸りながら早速回してみた。ルーフさんは興味津々の様子で、それを見ている。

店長は茶を配り終えると、糸みたいな目を、更に細くして立花先輩に笑いかける。ナマズのような髭が面白い。

「キャム、良く来てくれたね。 みんなお友達かい」

「へへへ、そんなとこです。 林(りん)さん、今日は、こっちのコースでお願いします」

「へえ。 それはちょっと高いけど、お財布は大丈夫なのかい?」

「それはご心配なく」

三人前、漢字が並んだ何だかよく分からない名前のコースが注文された。メニューを見ると、確かに結構な値段だ。学食のクリームシチュー定食なら、三回は買う事が出来るだろう。ただ、続けて検索してみると、中華の定食はコース料理だという。それならば妥当な値段かも知れない。

この年まで、賢治はコース料理というものを味わった事がない。そう言う意味でも興味津々だ。中華料理は単体で幾つか食べた事があるが、それも数えるほどだ。どんな料理が出てくるのか見当もつかないから、少し楽しみでもある。それ以上に、不安は大きいのだが。

ふと思う。ひょっとして両親が揃っていれば、状況は違ったのかも知れない。片親であっても、どちらかがまともな人間であれば、事情は違ったのだろうか。そう考えると、少し寂しいが、それは今更どうしようもない。

眼前では、立花先輩がルーフさんに中華料理のマナーを説明している。賢治もしっかり聞いて覚えようと、耳を象にしていた。

「いい、ルーフさん。 基本的に一周させるまでは、一人前しか食べちゃ駄目だよ。 一周したら、後は好きなだけ取っても良いけど」

「それがマナーですの?」

「そゆこと。 みんなが最低でも一人前ずつ食べられるように、って工夫なんだ。 全員で取り用のレンゲや箸を使い回すのは、ちょっと慣れないかもしれないけれど、出来るだけ守ってくれる?」

「それくらいは平気ですわ。 というよりも、あなた方の衛生観念が少し神経質すぎるような気がずっと私にはしていましたし」

厨房で料理をしている音が、此処まで響いてくる。油で何かを炒めているのだろうか。かなり重そうな音もする。相当な重労働なんだろうなと賢治は思ったが、それを代弁するかのように、立花先輩は言った。

「中華系の料理店でのバイトって、結構大変なんだよ。 鍋類は大きくて重いし、何より忙しいからね。 でも賄い飯がたくさん出るから、あたしとしてはねらい目だったんだけど」

「賄い飯とは、なんですの?」

「売れ残りの材料とか、余った分を使ったあり合わせの料理だよ。 大体は厨房に務めている人たちが、食事にするんだ。 余り物っていっても工夫すれば美味しいし、何より結構作れるからお腹は膨れるし。 細かい事にこだわらなければ、いいんだよねえ」

うっとりとした立花先輩は、そのまま涎を流しそうだ。食事時は普段と違う顔を見る事が出来ると言うが、その意味を実感する。動物にとって同じ餌を食べる事は親愛の証だそうだが、人間でもその法則に代わりはないのだろう。

「はい、それじゃあまず一品目だよ」

林さんが料理の乗った大きな皿を運んできた。茶色い寒天状の物質を細かく切り分けたものの周囲に、毒々しい卵らしきものの切り身が並んでいる。緑色のものは、恐らくキュウリだろう。

「わー。 クラゲとピータンだー」

「何ですかこれ。 卵?」

「鶏卵は本物じゃないけどね。 でも最近の合成卵は、構造的にも本物と殆ど同じだし、近い味を出せているはずだから、大丈夫だよ。 卵が天然物じゃない以外は、古来からのピータンの作り方に沿っているしね」

少し寂しそうにおじさんが言う。ピータンという毒々しい色をした料理を、嬉々として立花先輩がより分ける。今回は、素人であるルーフさんのためにも手本を見せる必要があるため、立花先輩が最初に取るという変則形式だ。立花先輩のやり方を見て、まるで抵抗がない様子でルーフさんも取る。ふと見ると、静名が油断無く周囲を見回していた。アルバートも同じである。

「危険があるの?」

「いえ。 ただ、周辺は治安がよいとは言い難い地域ですので」

「ははは、そうだね。 確かに貧しいし、物騒な事件も時々起こる。 小汚いし、色々どうしようもない部分も多い。 だけど、此処にしかない良いものもあるんだよ」

おじさんは笑いながら厨房に戻る。また何かを炒める音がし始めた。確かに、この店には独特の香りと雰囲気がある。辺りもそれは同じなのだろう。

早速テーブルを回して、料理を取り分ける。長い箸を使ってそれぞれの皿に移すのだが、素人が二人もいるので、多少立花先輩が苛立っているのがよく分かった。ルーフさんは仕方がないにしても、賢治は言い訳できない。何とかこぼさずに取り終えたが、随分と難しかった。

早速手元の皿から、箸でつまんで口に入れる。茶色い寒天状のものがクラゲだというのは驚きであったが、食べてみると歯ごたえも良く、味も悪くない。ライスが一緒に出てきたが、食が進む。

ルーフさんを見ると、そのまま箸でまとめて口に運んでいる。咀嚼はしているが、飲み込んでいる様子がない。それで、彼女らKV−α人の生態を思い出す。多分口の中の見える部分以外は、擬態を行っていないはずだ。口に入れるか、或いは体内に落とし込むと、後はよってたかって群体が分解してしまうのかも知れない。やはりその光景を想像すると、ちょっと怖かった。

何回か皿を回しているうちに、すぐに売り切れた。クラゲは美味しかったが、ピータンは色々な意味で刺激が強くて、ちょっと賢治にはあわなかった。平気な顔で食べている立花先輩。その隣で定期的に箸を動かしているルーフさんに、話しかけてみる。

「どうですか、ルーフさん」

「そうですね。 こちらのピータンと言う料理は、少し刺激が強くて面白いですわ」

「ははは、そう、ですか」

エイリアンだから味覚は違って当たり前だろうと思っていたが、予想通りの返答であった。

続いてスープが出てくる。白くて、またしても寒天状の何かが漂っているそれは、フカヒレのスープだという。此方は天然物だそうだ。この星に幾つか作られている人工海で養殖されているものだという。フカヒレという生き物がいるのかと賢治は錯覚したが、立花先輩がフォローしてくれる。

「被名島、フカヒレってのは、サメのひれだよ。 サメのね」

「ええっ!? これが、ですか?」

「そう、これが鮫のひれ。 地球産の天然物フカヒレは流石に天文学的な値段がつくらしいけど、この星のなら充分手にはいる訳。 味はそんなに変わらないって聞いてるし、地球産のはあくまでコレクターズアイテムかな。 いうなら自然界で生き延びたアルビノのくらいの価値くらいしか無いよ」

「相変わらずわかりにくいたとえですわねえ」

あっさり応えながら、ルーフさんがレンゲを口に運ぶ。賢治も口に入れてみる。非常に上品な味で、食べやすい。味付けもあっさりしていて、なかなかだ。柔らかいフカヒレも、とても凶暴な鮫の一部だとは思えない。美味しいと、賢治は思った。

「どう、ルーフさん」

「ううん、此方は刺激が弱くていまいちですわ。 栄養価は優れているようで、私の体内の群体は喜んでいるようですけれど」

「要するに、濃い味が好み?」

「濃いと言うよりも、刺激的で独創的な方が」

あまり濃い味が好きではない賢治は、立花先輩が変な事を言い出さないか、戦々恐々としていた。というよりも、今のやりとりではっきりしたが、ルーフさんには味の概念が無い。栄養を取る時の刺激くらいにしか考えていないはずだ。

恐らく、地球人が味の文化を発達させている種族である事は、ルーフさんも勉強してきているだろう。だが、根本的な面で、自分に無い事は理解できないものだ。これはルーフさんが悪いのではない。ただ文化の形が違うだけだ。

続けて麻婆豆腐が出てくる。これは賢治も食べた事のある人気料理だ。だが、いつものと違って真っ赤である。見た瞬間、とんでもなく辛い事が分かる。大盛りによそう立花先輩は、水のお変わりを注文していた。

「辛いよー。 気をつけてね」

「ふふふ、とても良い刺激ですわ」

「え、ええと。 その。 僕は遠慮しても……ごめんなさい」

立花先輩に睨まれては、退きさがざるを得ない。確かに仕方のない事だ。これははっきり言えば、立派な外交活動である。あまり失礼な事をすれば、もろに双方の関係悪化につながるはずだ。それを考えると、どうしてこんな治安や安全面で不安が残る場所で、夕食などと言い出したのだろう。

口に入れると、電気が走ったような刺激。辛いなんてものじゃない。反射的に吐き出しそうになるが、我慢してライスで中和し、一気に飲み込む。水を飲み干しても、舌が痛いままだった。平気で食べている立花先輩と、幸せそうに口に運んでいるルーフさんを見て、ついていけないと賢治は思った。だが、ついていかなければならない。レンゲを動かして、汗を拭き拭き、必死に麻婆豆腐を口に入れる。

何とかよそった分を食べ終える。心臓がばくばく言っているのは、気のせいではないだろう。既に大皿の麻婆豆腐は綺麗になくなっている。立花先輩はルーフさんと談笑していた。少し汗を掻いたくらいで、他に変化らしいものは見あたらない。

体を鍛えるだけではなく、精神をもっと練り上げないと。賢治はそう思う。だがなかなか思うようにはいかない。下げられる麻婆豆腐の皿を見送った賢治は、やはり悔しいなと思った。

続けて、なにやら運ばれてくる。麻婆豆腐に気を取られていて、直前までそれに気付かなかった。周囲の客がざわめく。それで顔を上げて、賢治は見た。

なにやら、得体が知れない料理が、テーブルにのせられていた。

「お待ちかね。 今回のメインディッシュだよ」

「わー。 何だか今回のも凄いね」

「だろ? 私の自信作なんだ。 食べたら感想聞かせてくれよ」

凄く嬉しそうにそう言うと、おじさんは厨房へ引っ込んでいった。最初に感じた嫌な予感が、現実になった事を賢治は知った。

テーブルに載っているのは、深皿の大鍋だ。その中には青緑色の液体が煮立ち、中央部には真っ赤な何かよく分からないものが盛りつけられている。香りは不思議と良いのだが、怖くて手を付けられない。

「こ、これは何ですか、立花先輩」

「創作中華。 おじさんって腕が良い料理人なんだけど、変な特性があってね。 自分で考えて作った料理は、どうしても不気味な仕上がりになっちゃうんだ。 でも夢が、いつか自分の手で歴史に残るような中華料理を創作するって事だから。 色々お世話になったし、私がお手伝いしてる訳。 何、見かけはあれだけど、毒とかは入ってないから、大丈夫だよ」

「何を怖がっていますの? とても面白そうではありませんか」

満面の笑顔でルーフさんが言う。この瞬間、自分も食べなければならない事を賢治は悟った。静名に向き直ると、既に解析を終えていたらしく、即答してくれる。

「毒物は入っておりません。 食べる事に問題はありません」

静名の言葉も半ばに、早速立花先輩が取る。盛りつけられている真っ赤な奴と、周囲のスープがセットになっている料理らしく、それぞれをレンゲでよそっている。その様子を見て分かったのだが、真っ赤なのはライスらしい。どう調理しているのかが気になる。また、スープ部分は粘ついていて、糸を引いていた。

日本産の納豆という料理を以前見た事があるが、最初に食べる時には抵抗があるだろうなと賢治は思った。異常な配色の中に浮かんでいるライスが、また酷く毒々しい。

賢治の取り番が来た。取り皿に、レンゲを使って入れ込む。さくさく音を立てて食べている立花先輩と、咀嚼しているか非常に疑問が残るルーフさんの様子を見ながら、レンゲに取る。糸を引くスープ。至近で見てみて分かったのだが、どうやら発酵食品ではないらしく、片栗粉が粘りの要因らしい。

やっぱり口に入れるのには勇気が必要だった。

 

真っ青になっている賢治の前に、堅焼きそばが運ばれてきた。今度は大皿ではなく、それぞれ用に分けられ出てきた。かなりおいしそうな料理だ。途中の創作料理や、辛すぎるのが出てこなければ、凄く美味しい店だったのに。

やはりというかなんというか。先ほどの創作中華とやらは、賢治が予想した以上の代物だった。ライス部分は火が出るほど辛く、逆にスープ部分は砂糖で作ったかのように甘く。強烈すぎる味の対比で、舌がおかしくなりそうだった。

冷や汗を流しながら全て食べ終わった時には、立花先輩もルーフさんもお変わりを実に楽しそうに平らげていた。学校とは違って、随分無邪気に笑っている立花先輩を見ていると心は和むのだが、その一方でこの後何が出てくるのか怖くて仕方がない。

堅焼きそばは温かいあんかけが掛かっていて、味付けも口当たりが良くて素晴らしい。堅焼きそばの歯ごたえがまた良くて、あんかけの中に入っているキノコ類などとベストマッチしている。確かこのあんかけは片栗粉を使っているはずだが、同じ糸を引くにしてもさっきの創作中華とは全然雰囲気が違う。

辛くて大変ではあったが、さっきの麻婆豆腐も、多分とても立派な食べ物だったのだろうと、賢治は気付く。立花先輩が慕っているだけあって、あのおじさんはとても優秀な料理人なのだろう。だが、さっきの創作中華は怖かった。やはり人間の欲求というものは、正道とはかけ離れた所にこそ、その本筋があるのかも知れない。

「被名島、美味しい?」

「ええ、美味しいです。 幾つかちょっと苦手なのもありましたけど」

「賢治さんは、ひょっとして刺激が強い料理が苦手ですの?」

「はい、まあ。 甘すぎたり、辛すぎたりするのは」

でも、このルーフさんは刺激が強い方が好きなのだろう。そう考えると、味覚的な得手不得手も、今後克服していかなければならない。

「ルーフさんのご家族も、刺激が強い料理が好きなんですか?」

「夫は私とほぼ好みが同じですわ。 娘はちょっと刺激が強いのは苦手かも。 息子は私たち夫婦より、刺激は弱い方が好きかも知れませんね」

それを聞く限りだと、好きな刺激にも個人差があるらしい。ただ、やはり人間ほど味には敏感ではないだろう。

「そういえば、この間持っていったカレーはどうだった?」

「おおむね好評でしたわ。 私も美味しく頂きましたし」

「カレーですか?」

「そう。 今回のはチキンカレー。 ちょっと奮発して良い材料使ったら、結構美味しくできたんだ」

談話に混じる事が出来て、賢治は少しほっとした。最後に杏仁豆腐が運ばれてくる。確かデザートが最後となるのは、東洋式でも西洋式でもコース料理の基本的なルールだったはずだ。そうなると、これで最後だろう。

結局、創作中華は一品だけだったわけだ。安心してレンゲに手を伸ばそうとして、気付く。どうやら、食事の時間は、楽しく終わってはくれないようだった。今の音、多分銃声だ。立花先輩は賢治の前に、気付いていたようである。

静名が油断無く店の外を見張っている。アルバートもである。特に視線が鋭いと言う事はないが、何かあったのは一目で分かった。アルバートが皆を庇うように壁際に立ち、静名が携帯端末を開く。皿を取りに来た林さんが、怪訝そうに眉をひそめた。

「どうしたの?」

「二ブロック先で、どうやらマフィア同士の抗争が起こっているようです。 軽火器での銃撃戦が行われています。 ここまで飛び火するかは分かりませんが」

「あらら、またかい。 偉い迷惑だね、本当」

「既にSWATには連絡済みです。 いざとなったら我々が対処しますので、ご心配なく」

ただ、いざというときの事を考えて、店はもう閉めた方が良いだろうとも静名は言った。林さんは頷くと、店の客達に帰るように促す。賢治は素早く杏仁豆腐をかっ込む。甘さが控えめで、つゆもさっぱりしていて、美味しかった。

「林さん」

「うん? なんだい」

「美味しかったです。 また来てもいいですか?」

「ああ、ありがとう。 今度も僕の創作中華を御馳走するよ」

墓穴を掘ったと賢治は思ったが、もう時既に遅い。

一応用心棒はいるらしく、林さんが手を叩くと、戦闘用のロボットが二体出てきた。ただしどちらもカミキリムシに似た昆虫型で、背中に骨董品らしい近接戦闘用パイルバンカーを付けている。もう一体は電磁ネットを装備している。どちらも対人用としてはあまり戦闘効果が高くなさそうだ。動きもそれほど速くはないだろう。

しばし唇を噛んでいた賢治は、懐から拳銃を取り出す静名を仰ぐ。

「静名」

「何でしょうか」

「僕たちはアルバートに護衛して貰うから、君はこの店に残ってくれないか。 安全が確保されるまででいいから」

驚いたように、立花先輩が此方を見た。賢治の決意は変わらない。

「確かに、マフィアの武装から言っても、アルバートでの対応は可能でしょう。 よろしいですか、林様」

「願ってもない。 ありがとう、賢治さん」

深々と礼をする林さんを残して、立花先輩が店の外に出る。賢治も続けて外に出て、最後にアルバートがルーフさんを連れて出てきた。遠くで銃声がする。平和だと言っても、やはり下町になると、時々きな臭い事はあるのだろう。立花先輩が先頭に立って走り出す。ルーフさんの手を引いていた。賢治はアルバートと一緒に殿軍だ。

先輩がぼやく。いつもと違って、余裕が全く見られない。

「これは、始末書かな」

「お構いなく。 私が、こういう店が良いって、わがままを言ったのですから。 私からレイ中佐に取りなしてあげますわ」

銃声はまだ響いている。警察の車両が、サイレンを鳴らしながら、道路を疾走する。それと併走して、数体の警察用ロボットが走っていた。通り抜け様に、アルバートの目がチカチカ光っていたのは、情報を交換していたのだろう。アルバートが後ろから淡々と説明してくれる。老人らしい、ゆっくりした喋り方だ。

「どうやらこの辺りに侵出してきた法国系マフィアの支部に、帝国資本のマフィアが攻撃を仕掛けたようですね。 もうSWATが周囲を包囲していて、今の人数はそれぞれの事務所を制圧に向かったもののようです」

「物騒だな。 立花先輩、いつもこんな事が起こってるんですか?」

「私がバイトしている時にも、林さんの店に、何回か変なのが来たよ。 毎回私が腕づくでたたき出してたけど」

「せ、先輩……」

強い訳だ。噂の一部は、嘘ではなかったのだ。そんな本職との戦闘経験があるのであれば、同学年の高校生など問題にならないのも頷ける。

「ただ、銃撃戦にまで発展したのは、今回が初めてかも」

「やっぱり先輩でも怖いですか?」

「怖いに決まってる。 何しろ恐怖を知らないってのは、大きく開いた鰐の口で休憩しようってとまったチョウチョくらいアホなことだからねっ!」

立花先輩のたとえって、やっぱりよく分からないです!

走りながら、小声でつっこみを入れる。立花先輩の携帯端末が鳴る。多分レイ中佐からだろう。緊張した様子で立花先輩が受け答えしている。アルバートは時々走る位置を変えながら、皆をどう効率よく護衛するか、戦術的な判断をしているようだった。

不意に前に誰かが出てきた。背筋に寒気が走る。飛び出した立花先輩が、無言でいきなり中段からの蹴りを叩き込む。何の躊躇もない行動で、如何に立花先輩が喧嘩慣れしているのか、これだけでもよく分かる。だが、人影がガードに間に合う。相手も恐ろしい強者だ。二人は激しく弾き合った。低く体を沈ませて構えを取る立花先輩。堂々たる体躯を生かして、威圧的に腰を沈める影。賢治はルーフさんの前に立つ。ルーフさんを守れるとは思わないが、逃げる時間くらいなら稼げるかも知れない。

緊迫の瞬間は、意外にも早く解凍された。

「落ち着け。 私だ」

「あ、シノン少佐」

「いきなり蹴りとはご挨拶だな。 ……まあいい、もう大丈夫だ。 周辺の安全は確認した」

闇から抜け出るように現れたのは、前に立花先輩が賢治を拉致してレイ中佐の所に連れて行った時に周辺を固めていた一人。大柄な黒人の士官だった。緊張が一気に抜けて、ため息が出る。この人が出てくると言う事は、周囲に展開していたはずの部隊が、安全を確保したと言う事だからだ。

構えをとくと、立花先輩は申し訳なさそうに一礼した。傍若無人に見えるこの人だが、レイ中佐などには時々とても丁寧に礼儀正しく振る舞っている。多分、賢治より早く社会に出て、その仕組みをしっかり理解しているからだろう。

「ごめんなさい。 もしもの事を考えると、こうせざるをえなくて」

「判断的には間違っていない。 だが例え護衛対象の望みでも、美味しいとしても、周辺の治安を考えて、今回の店は避けるべきだったな。 レイ中佐は許可を出したようだが、やはり今回は俺の判断が正しかったか」

シノン少佐の言葉が正しいのは、賢治にも分かった。余剰元気がうりの立花先輩も、流石にしぼんでいた。ツインテールに結っている髪まで、元気を無くしたように垂れている。

せっかくの一部除いて美味しい夕食だったのに、最後まで楽しくと言う訳にはいかなかったのが残念だった。

「我らを過剰信頼せず、ちゃんと交戦地域から逃れたのは立派だし、これ以上言う事もないだろう。 今日はもう帰れ。 後は俺達が始末を付けておく」

「すみません、シノン少佐」

「もういい。 高校生は家に帰って寝る時間だ」

シノン少佐は、それ以上此方を見ようとはしなかった。うなだれている立花先輩を促して、ルーフさんが歩き出す。賢治はどう慰めたものか分からなかった。先輩は間違っていない。これは事故未遂であって、実際先輩の素早い対応によって、危険はなかった。

それから帰り道、立花先輩は一言も喋らなかった。アルバートが自宅まで送っていったようだが、結構傷ついていたはずだ。一緒に仕事をする間柄なのだし、何とかしてあげたい。

だが、どうしていいのか、賢治には思いつかなかった。

雨が降り出す。小走りで家に急ぎながら、賢治は立花先輩が濡れながら帰っているのではないかと、心配した。

 

3,鬼の霍乱

 

翌日、授業の後の休憩時間に何気なく賢治が学校で携帯端末を弄っていると、立花先輩が学校に来ていない事が分かった。流石に先輩の教室に行く訳にもいかないし、調べるのなら学校のデータベースにアクセスするしかない。少し煩わしい。

学校のデータベースにアクセスする事は基本的に禁じられていないが、手続きが非常に面倒くさいのだ。例えば昼食後に手続きをすると、せっかくの休憩時間が殆ど無くなってしまう。中にはマクロを組んでいる人もいるが、其処までの知識も技術も、賢治にはなかった。

昼食の時間が来た。今日は静名に作ってもらった蟹クリームコロッケが弁当に入っていた。美味しい。美味しいはずなのだが、あまり味がしなかった。屋上で食べていて、ため息が漏れてしまう。空は曇っていて、いつ降り出してもおかしくない。しばし躊躇した後、弁当をしまって、賢治は歩き出した。目的地はPCルームだ。

立花先輩の事は心配だ。昨日の事件で、かなり落ち込んでいたからだ。ルーフさんとの連絡もどう取って良いか分からないし、場合によっては指示だって仰がないと行けない。それ以上に、あんなへこんだ先輩ははじめて見たから、心配だというのもある。初めて会ってからそれほど時は経っていないというのに、こうも心配しているのは、やはり接する機会が多いからだろうか。

無機質な印象の強いPCルームに到着。いくつか置いてあるデスクトップPCの一つに陣取ると、指紋を押しつけて認証。PC単体として場所を取るデスクトップ型は基本的に高性能で、起動は不安定な最新のOSを使っているにもかかわらず非常に早い。幾つかの認証をクリアしてから、サーバーにアクセス。此処から更に面倒くさい手続きを幾つかこなして、学校のデータベースHPに到着。白々しい歓迎のメッセージをスキップして、立花先輩の状況を調べた。

今の学校システムでは、無断欠席は絶対に出来ない。連絡がない場合は自宅のライフラインなどとサーバーが自動コンタクトを行い、状況を強制的にチェックする。もし仮病やサボリなどをした場合は、その分成績が容赦なく引き下げられる。賢治や立花先輩のように、家が裕福ではなく将来に不安が残る人間の場合、それは致命的な事だ。

これらの厳しい教育方針には、何処の国でも代わりがない。人類が資源を食い尽くすか、科学技術の発展が早いか。チキンレースに等しかった開拓時代を経た結果だ。人類の能力は、地球時代に比べて相当に底上げされているが、それにはこういった厳しい教育方針が、大きく関わっているのである。

幾つかの認証を再び乗り越えると、やがて結果が出た。立花先輩は体調を完全に崩して、自宅で寝ている。バイタルサインデータによると、大げさな病ではなく、風邪らしい。フォルトナが側に着いているから大丈夫だろうとは思うが、それでも心配だ。風邪には特効薬もないし、症状には個人差もあるからだ。

これが鬼の霍乱という奴なのだと、賢治は思った。あれほどタフな人でも、寝込む事があるわけだ。強化ナノマシンの回復力がついていて風邪を引いているのだから、かなり状況は悪いのだろう。後でお見舞いに行く必要がありそうだ。

こんな時他に友人がいれば、何を買っていけばいいのか相談できるのだが。悲しいかな、賢治は昔から孤独だった。周囲に信頼できる友人はおらず、ちやほやしてくれた女子だって、マスコット扱いしかしてくれなかった。クラスメイト共は信頼できない。かといって、ネットで調べてお土産を買うのも癪だった。それに、お見舞いに行く際には、何かマナーがないだろうか。フォルトナがいるとは言え、立花先輩は女子の一人暮らしだ、家にずかずか上がり込んだら、流石に失礼だろう。さて、どうしたものか。

サーバーからログアウトする。午後一番の授業は、科学だった。そういえば蛍先生も、学校での状況協力者だったはずだ。変わり者ではあるが、年上の女性である。何かヒントが聞けるかも知れなかった。

わいわい騒ぎながらゆっくり行く周囲を尻目に、賢治は自分用のIDカードなど必要な荷物だけ素早く整えると、科学室に急いだ。変人である事で有名な科学担当の蛍先生は、ワカメみたいにうねった髪を持った、糸目の女性だ。ハイヒールを履くまでもなく、賢治よりも若干背が高い。

どういう理由か、蛍先生は、以前は休み魔だった。何だかんだ理由を付けてはしょっちゅう休講にしていたのだが、今ではそんな事もなく、確実に授業をしてくれる。レイ中佐と話した限りでは、賢治が本格的にKV−α人との交流プロジェクトに参加する少し前に何かあったらしいのだが、詳しい理由は知らない。噂さえ知らない。クラスメイト達の無責任な話には、あまり興味がないからだ。

賢治が科学室にはいると、蛍先生は毒々しい色合いのなにやら怪しげな薬品を、フラスコを使って混ぜているところだった。糸目で感情を読みにくいから、口元だけで笑っているように見えて、それが却って怖い。最近は助手として、子供型のメイドロボットを側に控えさせている。何だか目つきの悪いロボットで、相当な年代物だ。にもかかわらずかわいがっていると言う事は、思い入れがあるのだろう。事実、時々とても優しい視線をそのロボットに注いでいる。

「おや? 被名島君、そんなに急いでどうしたの?」

「はい。 実は立花先輩が風邪を引いたみたいでして。 でも、お見舞いには行った事がないので、アドバイスが欲しいなと思ったんです。 先生はミッションに参加しているみたいだから、何かアドバイスをくれるかなと思って、急いで来ました」

「なるほど、感心ね」

先生は素直にほめてくれた。だが、あまり実感がない。よく分からないという方が正しいか。先生は口元を手で隠すと、しばし考え込んだ。考え込む先生とは裏腹に、働き者のメイドロボットは、てきぱきと作業を進めている。

「お見舞いだけれど、基本は複数で行くものよ。 立花さんはああいう豪快な子だけれど、異性の友達の家に一人でお見舞いに行くのは、相手が恋人でも無い限りは感心できないかな」

「やっぱりそうですか。 そうなると誰かを誘っていくしかないのかなあ。 でも、誰を誘えばいいんだろ」

真剣に考え込む賢治。あまり時間はない。賢治の周囲で立花先輩のお見舞いに誘える人と言ったら、あまり思い当たらない。レイ中佐は忙しいだろうし、立花先輩のクラスメイトとは面識がない。そうなると、目の前にいるこの人くらいか。しかし教師は忙しい職業だ。時間を空けてくれるかどうか。

他にも聞く事はある。悩むのは後で良い。とりあえず、必要な事を、一つでもクリアしなければならない。

「お土産はどういうものがいいでしょうか」

「まず食べ物が無難な所ね。 それも御馳走になるようなものがいいかなー。 被名島君は、あの子が好きな食べ物ってなんだか知ってる?」

「ライスが好きだって聞いています。 この間みんなで食べに行った時も、ライスを美味しそうに食べてましたし」

「ははははは、そう来たか。 でも、分かってると思うけど。 ライスをそのまま持っていったりしては駄目よー。 女の子が相手なんだから、ケーキとかケーキとかケーキとか、後はケーキとか、気がきいたものを持ってきなさい」

そうなのかと賢治は思った。だが、確かに。考えてみれば、いきなり炊く前のライスを持っていっても、向こうが困るだろう。

無言でぱたぱた走り回っていたロボットが、先生の白衣の袖を引いた。見れば、既に授業の準備が整っている。足音が近づいてきた。他の生徒達が来たと言う事だ。あまり喋らないロボットだが、そうやって調整しているのだろうか。

自分の所属する三班の席に着く。わいわいがやがやと騒がしく教室に入ってきた他の生徒達が、めいめい席に着き始めた。女子生徒の中には、蛍先生が連れてきている子供型のメイドロボットの頭を撫でている者もいる。可愛い可愛いと言っているが、さて何処まで本気なのか。実際に慈しんでいる女子生徒など此処にはいないと、賢治は判断できる。話しかけてくる生徒に適当に返しながら、賢治は素面を保つのに苦労していた。

お気楽なものだと、賢治は思う。結局マスコット扱いだと言う事は、見ていれば分かる。愛玩動物と同じ感覚で撫でているのだ。相手を対等の存在だ等とは考えていないのである。賢治も似たような接し方をされているから、よく分かる。

所詮人間なんてこんなものかと、賢治は思う。だが、ルーフさんにおびえを抱いた自分も所詮同じだとも、賢治は気付く。それに、ロボットは人間にとって都合が良い奴隷として作り出された存在であり、それを否定すると現代の社会は成立しなくなる。彼女らを責めるのも、筋が違うのだ。むしろ違和感があるのは、蛍先生の方だ。年代物のメイドロボットにとても優しい視線を注いでいるのは、奇妙な光景だ。理由は分からない。愛情を注いでいる蛍先生の方が、現代社会では異常な行動に分類される。恐らく、今怒りを抱いた賢治の行動も、それと同じであろう。

ため息は尽きない。ほどなく生徒が揃い、授業が開始された。先生がてきぱきと説明を開始する。黒板に映し出された図。まず手本となって作業を行ってみせるメイドロボット。いつもの授業風景だ。

今日は複数の液体を混ぜ合わせる事により、液体を瞬時に固体にすると言う実験である。既に化学式は理解している。かなり面白そうな実験ではあるが、今日は気乗りしなかった。周囲に流されるまま、だらだらと実験をしてしまう。蛍先生には悪いと思ったのだが、精神の状態は正直だった。結局、終了まで賢治はあまり集中する事が出来なかった。

結局その日は、最後まで立花先輩は学校に来なかった。一日休んだくらいで見舞いに行くのも失礼だと蛍先生に授業後言われたので、携帯端末からメールを送っておくだけにした。深夜になってからメールの返事は来た。大丈夫と、僅か三文字のみ。賢治はますます不安になった。

その不安を裏付けるように、立花先輩は翌日も学校を休んだ。

 

ベットに横になっているキャムは、ぼんやりと天井を見つめていた。体中がだるい。頭が熱い。何もする気になれない。頭が熱いのに、体は妙に寒い。このミッションに参加してから新しく買ったお布団は厚くて普段はとても暖かいのに、まるで保温効果を実感できなかった。

超健康優良児であるキャムが、こんな形で発熱する事は滅多にない。これほど酷い状態は、実に数年ぶりである。その上、今回は風邪だけではなく、生理痛が同時に来ている。しかもキャムの生理痛はかなり重いのである。

最悪な事に、市販で手に入れられるような風邪薬と痛み止めは同時に飲んではいけないらしく、どちらかを我慢するようにフォルトナに言われている。結局痛み止めを我慢する事にして、その結果昨日から今日に掛けて苦しみ続ける事になった。もっとも、痛み止めを買う事さえ出来なかった少し前までに比べれば、ずっとましな状況だ。

フォルトナが音もなく部屋に入ってきた。額のタオルを取り替えた後、柔らかい布で顔や首筋の汗を拭いてくれる。口元も手で押さえられたのは、バイタルサインのチェックの為だろう。

「まだ体調は良くありません。 今日も寝ていた方がよろしいでしょう」

「そうする」

「学校へは私が連絡を入れておきます」

一礼すると、フォルトナは部屋を出て行った。今回の風邪は、やはり先日の失敗が大きく響いているのだろう。額の冷たいタオルの感触に意識を集中しながら、キャムはぼんやり今後の事を考える。まさかミッションから外されるという事はないだろうが、体調が良くなったらレイ中佐にさぞこっぴどく絞られるだろう。ああいう優しい人ほど、怒ると怖い。ぞっとしなかった。

昨日、級友が何人か来てくれて、冷蔵庫にケーキを置いていってくれた。どうせならご飯を10キロでも買ってきてくれれば良かったのにと思ったのは、キャムが貧しい生活をずっと続けてきたという事が大きいだろう。だが、彼女らもすぐに帰ってしまい、ずっと一人きりの時間が続いている。

寂しいと思わないと言えば、嘘になる。特にこんな体調の時には余計に孤独を感じてしまう。布団の中で、自分が一人だけでいるような感触を覚えてしまう。余計に寒気が増した。

胃がきりきりと痛む。多分心因性のものだろう。熱っぽくて、ストレスを発散する手段も執れない。氷を食べたい。浮遊感がある。布団の中で、ゆっくり落ちているような感覚が、キャムの全身を包んでいた。やがて周囲は闇になり、耳元で凄い風の音がした。地面に叩きつけられるのかな。他人事のように、そう思った。

はっと気付いて目を開ける。ぼんやりしているうちに、また眠ってしまったらしい。視界がぐらりと揺れる。急激に動こうとしたからだろうか。ドアを開けて、フォルトナが入ってきた。手元にはよく煮込んだおかゆらしきものを入れた容器がある。ふと時計を見ると、昼を過ぎていた。フォルトナが側に容器を置く。やはりおかゆだった。普段なら香りですぐに分かるのだが、風邪で感覚が確実に鈍くなっているのだ。

半身を努めてゆっくり起こす。汗を酷く掻いている事が分かった。上手くいくと、もう少しで治るかも知れない。生理痛ももう引いてきている。体が僅かながら軽くなってきているので、少しずつ身繕いの余裕もできはじめていた。

「フォルトナ、鏡くれる?」

「はい、すぐに」

ベットの脇におかゆを残し、フォルトナはすぐに鏡を取りに行った。少しずつ食欲が戻り始めている。髪を触ると、かなり汗に濡れていた。洗いたい。それには、はやく体を治さないといけない。

携帯端末を開く。レイ中佐からのメールが飛んできていた。報告書は後でよいから、体を治すようにとある。確かに賢治一人に、ルーフさんの相手をさせる訳には行かない。レイ中佐の殺人的な忙しさからも分かるように、この仕事は慢性的に手が足りないのだ。思ったよりレイ中佐の反応は穏当だったが、それも風邪を引いている間だけだろう。

ごめんなさいと一言メールを返すと、できるだけおかゆを口の中に入れた。昨日は吐きそうになったが、今日はそんな事もない。どうにか飲み込む事ができる。卵と醤油で味付けしてあり、美味しいとは思うのだが。食べても、いつものような幸福感が無かった。空を仰いでしまう。

フォルトナが戻ってきた。赤い手鏡で顔を映して貰って、手元にある愛用の櫛で髪を梳かす。無造作に降ろしたままの髪だと、誰かが見舞いに来た時に恥ずかしいからだ。髪ゴムはそばにある小物入れに入っていた。普段学校にしていく地味な焦げ茶ではなく、敢えてしばらく使っていなかった白を使う。何とかおかゆを食べ終えると、もう一眠りしようと布団に潜り込んだ。

目を閉じると、少しだけ熱っぽさが引いていた。もう少し汗を掻けば、恐らく動けるようになるだろう。今は貪欲なまでに眠って、早めに体調を回復しなければならない。しばらくうつらうつらしていると、ドアをノックする音。今までもフォルトナはノックしていたのだろうが、気付けないほどに消耗していたのだ。気付いたと言う事は、それなりに体調が戻り始めている証拠である。

「なにー?」

「キャムティール様、お客様がおいでです」

「あー。 ちょっと待って」

額のタオルを取ると、半身を起こす。何度か瞬きして視界がはっきりしたのを確認すると、また鏡で顔を映す。まだ少し赤い。髪の乱れもそれほど酷くない。頬についていた涎の跡をタオルで拭き取ると、入って良いよと声を掛けた。

「失礼します」

「あれ? 被名島」

「おじゃましまーす」

「蛍先生」

おどおどと部屋に入ってくる賢治。それと対照的に、ずかずか乗り込んでくる蛍先生。こう言う時、同性の人間は基本的に遠慮がない。年上の女性が苦手なキャムには、少し辛い事ではある。

蛍先生は、いつも助手にしているメイドロボットを連れていて、フォルトナに何か渡させていた。四角い箱に入った食べ物。見た感じでは、多分ケーキだろう。冷蔵庫の中はこれでケーキだらけだ。風邪が治ってから食べさせて貰うとするか。

「殺風景な部屋ねえ。 ぬいぐるみとか無いの?」

「ありません。 あたしの経済状態、知らない訳でもないでしょうに」

「ふふふ、冗談よ。 それにしても、これが鬼の霍乱という奴なのねえ。 実例ははじめて見たわ」

「誰が鬼ですか」

軽口に応じながらも、キャムはあまり愉快ではなかった。自分は弱い存在だと、こう言う時に実感してしまうからである。強化ナノマシンとの相性が良いとは言っても、オツムの方はそう大したものではないし、いざ風邪を引いてしまうと何も出来なくなってしまう。鬼などと言われても、それは違うとしか感じない。こんな貧弱な鬼など、どこにいるというのだ。

咳は出ないが、やはり全身がまだだるい。キャムの額に手を当てると、蛍先生は小首を傾げる。

「本当に熱っぽいわねえ。 ふーん」

「バイタルサインは学校に届いているでしょう。 ましてや今はフォルトナもいるんですし」

「そうね。 二日も休むと、今週の催眠学習少し辛くなるけど、大丈夫?」

「大丈夫です。 これでも慣れっこですから」

いつもに比べて、舌が回らない。ゆっくり喋ると、蛍先生は少し考え込んでいた。心配してくれているのか、それともミッションの戦略判断か。被名島を放っておく訳にもいかないし、今日は単に見舞ってくれたわけではないだろう。

孤独には慣れている。だがしかし、フォルトナが来てから弱くなったような気もする。徹底的に孤独な方が、いざというときは耐性が高い。しかし、例外もある。同じように孤独だったはずなのに、被名島の軟弱さはどういう事なのだろう。少しずつ強くはなっているようなのだが。

「あ、そうだ。 ルーフさんなんですが」

「後で連絡方法は送っておくよ」

「あ、いえ。 実は昨晩、レイ中佐に確認したら教えてくださいまして。 それで今日のお見舞いにも来て貰おうと思ったんですが、レイ中佐には許可がおりませんでした」

「そうか、分かった。 本当はあたしがしなければならなかったのに、ごめんね」

素直に謝罪の言葉が出たので、他ならぬキャム自身が一番驚いた。

そもそも今回の状況、最初からレイ中佐に投げておくべきだったのだ。作業を実行できなくなった場合、上司に仕事を投げる事をトスアップというが、それをきちんと明言してこなしておかなければならなかった。やはり少し弛んでいるような気がしてならない。一度しっかり鍛え直す必要があるかも知れない。

「ルーフさんは元気そうだった?」

「はい。 風邪が治ったら、一緒にまた食事をしましょうって、言ってました。 僕もまたあのお店には行ってみたいです。 林さん、とてもいい人でしたし」

「それは良かった。 あの中華も口にあったみたいで、安心かな」

笑みがこぼれてしまう。精神的に不安定になっているからか、感情の制御が上手くいっていない感触だ。

「おや? みんなで中華に行ったの? 今度私にもお店教えて?」

「味は凄く良いですけど、下町だから危ないですよ。 この間行った時も、近くでマフィアが抗争始めちゃって。 ドンパチやり出したから、慌てて逃げてきたんですよ」

会話が弾んできたが、フォルトナがストップを掛けてきた。また熱が上がるかも知れないし、移す可能性もあると言う。この風邪はかなり質が悪いようだから、移すと悪い。部屋はフォルトナが清潔に保ってくれているはずだから、接触を減らせば大丈夫だろう。後は、丁寧な殺菌さえすれば大丈夫だ。その辺りは抜かりがないフォルトナが差し出した抗菌タオルで手を拭きながら、蛍先生はマイペースに笑った。

「それなら、そろそろ帰るわね。 明日は学校に来られるといいわねえ」

「何とか頑張ってみます。 それと、被名島。 あたしが動けない時は、あんたが主体になって行動しないと駄目だからね。 日頃からレイ中佐に連絡を取って、しっかり連携しておくんだよ」

「はい。 今回はすみませんでした」

フォルトナが状態を押して、半分無理矢理ベットに寝かされる。このままだとまた悪化すると言う事だろう。素直にフォルトナの指示に従う。こういう判断に関しては、ロボットの方が人間より遙かに優れているのだ。

二人が帰ってしまうと、辺りはまた静かになった。額にまたぬれタオルを置くと、フォルトナは電気を消す。僅かな空調の音だけが残る。闇の中で目を閉じる。

そうすると、ふと急に寂しくなった。今までに味わった事がない感覚に、キャムは思わず身を縮めていた。

明日から、学校に行けるだろうか。行けたら、また周囲に人がいるのだろうか。そんな事ばかり、考えてしまった。

目が覚めると、熱は下がっていた。朝になっていた。

昨晩の恐怖は、まだ手元に残っている。気恥ずかしくて、キャムは大きくため息をついた。弱音など漏らしてはいけない。漏らすだけ不利になる。これは仕事だ。誰も基本的には信用するな。

己に言い聞かせながら、ベットから出る。病み上がりの体は、いつもより僅かに重かった。

 

3,歩み寄る影二つ

 

仕事場の空気は嫌いではない。何度か肩を叩きながら、レイミティ中佐はそれを感じる。立花・S・キャムティールがきちんと登校した事を確認すると、彼女は、報告書作成ツールを起動した。素早く情報を書き込んでいく。面倒くさい部分は、既にマクロを組んであるので、作業は最小限に抑える事が出来る。

今回の事件は、全て訓練がてらに、軍特務部隊が仕組んだものだ。下町でマフィアの抗争を勃発させたのも、それが上海飯店の側で起こるようにしたのも。全てレイミティが裏で糸を引いていた。

データ類を入力し終えると、紅茶を一啜り。いつもほど忙しくはないが、それでも既に17時間近くぶっ通しで働いている。そろそろ一眠りしたいところだが、これが終わるまでは駄目だ。

元々この計画は、内務省が進めていたものだ。軍特務部隊への牽制代わりに、第六次ホームステイ計画周辺でトラブルを起こそうというものであった。いち早くそれを察知したレイミティは、素早く上層部のコネクションを使って、計画を乗っ取った。そしてシャレッタと共同でマフィアの内部抗争を煽り、今回の事件を起こさせたのである。

もちろん周囲には厳重に特殊部隊を配置して、キャムティールと賢治、それにルーフには危害が及ばないようにした。だが、その必要もなかったかも知れない。予想以上にキャムティールは良く動いて、ルーフを安全圏まで連れ出した。報告書にはあまり書く事がない。と言うよりも、キャムティールにもう少し権限を譲渡しても良いくらいだ。ただ、あの子には学業という大事な仕事もあるから、当分は大規模な権利譲渡は行わない。

報告書が書き上がった。もう一度精査する。ミス無し。充分なできばえだ。メールと一緒に送信する。到着が確認すると、レイミティは大きく伸びをした。

ステイ家族周辺でのトラブルは、今後の課題である。今回のマフィアの抗争は極端な例であるが、どのみち、ステイの規模が拡大していけば、いずれは発生した事件であった。ならば早い内に人為的に起こして、対応能力を養った方が良い。それがレイミティの結論だった。計画を乗っ取られて苛立っている内務省には、人脈を駆使して逆に牽制を入れた。ただでさえ人類の曙が鬱陶しい動きをしている状況である。多少強引であっても、早め早めに手を打たなければならないのだ。

一通り作業が終わったところで、ルーフに連絡を入れる。これが終わったら、一眠りする。そうつぶやいたのは、疲れを自覚しているからだろう。ルーフが電話に出た。営業スマイルを作る。

「こんにちは。 お加減はどうですか?」

「あまり良くありませんわ。 それよりも、キャムさんに、今回の事をきちんと話しましたの?」

「当人には、しばらく知らせない方が良いでしょう。 あの子はかなりの激情家ですし、下手な行動を取られても困りますので」

「そうですか。 何というか、相変わらず何とも腹黒いですわね。 貴方たち、地球人類の社会上層部は。 貴方方の歴史をもう一度細かく調べてみましたけれど、いつの時代もそうだったようですし、何だか少し悲しいですわ」

それは充分に自覚している。だから苦笑がこぼれてしまう。所詮人類の歴史は、血塗られた道なのだ。理由さえあれば殺し合いをし、肌の色が違うだけで相手の全存在を否定して掛かる。残念ながら、それが地球人類の現実である。だから法治主義が発展した。それを基幹として社会が構成された。

ただ、今回のミッションを遂行するにあたり、誇る事が一つある。掌の上で踊らせたマフィアは、まとめてこの世から掃除した。社会の害毒をきちんと処分したと言う事で、勘弁して欲しい所だ。潰したマフィアの組織は三つ、消した構成員は三十五人。情報は全て警察にリークしてある。今後警察は更に捜査を進めて、首都のマフィア掃討を実行していくだろう。

「ところで、そちらの様子はどうですか? 今後のミッション遂行に、何か関わってくるような事はありましたか?」

「そろそろ夫が外に出られるかと思いますわ。 学校に通わせるのは無理だとしても、何かしらの社会活動をさせてみたいのですけれど」

「それは良かった。 立花さんを通じて、被名島君にも会って貰いましょう。 警備の強化については、私にお任せください」

「まずは其処からですわね。 煩わしい話ですわ」

それから、子供達はまだ調整に時間が掛かるだろうとルーフは悔しそうにぼやいた。

このステイも、回数を重ねるごとに、双方共に徐々に能力が低い人間が行うようになってきている。来るべき存在の広報と社会レベルでの交流に備えての事だ。次の第七次ステイでは、もっと若くて能力的に劣った人たちでの交流を実験する。不幸な歴史を作らないためには、そうやって徐々に双方が慣れていくしかないのだ。警備も、これからは減らしていく方針である。

打ち合わせを終えて電話を切ると、最後に情報をチェック。目立つものは無し。大きく伸びをすると、側の机で補助作業に徹していたロボット達に言う。

「帰るわよ」

「はい。 マスター」

αが外に駆け出していく。βは部屋の整理だ。特に人類の曙には動きがないし、今日は上手くすると、五時間くらい眠れるかも知れない。もしそれが実現したら、実に嬉しい事だ。激務の中で得られた、ひとときの憩い。砂漠で見つけたオアシスにも等しい貴重な時間である。

地下駐車場に行き、車に乗り込む。丁度そのタイミングで、携帯端末が鳴った。誰かから連絡があったのだ。エンジンを掛けていたαに、車を出さないようにハンドサインをしてから、携帯端末を起動する。

立体映像が浮かび上がる。シャレッタだった。相変わらず男のように肩幅が広い。ただ、いつもの猛々しさが感じられない事から見ても、彼女も相当に疲れているようだ。

「レイ、今帰るトコか?」

「ええ。 おかげさまで」

「なら、帰りながらでいいや。 確かに重要ではあるが、うちらが急を要する話じゃないからな」

αが車を動かして良いかと聞いてきたので、軽く頷く。音もなく発進した車の中で、レイミティは悪友と話を進める。地下駐車場から発進する。陽の光がまぶしくて、出る時に一瞬目をつぶってしまった。ずっと建物の中に籠もりっきりだったのだから仕方がない。

幹線道路に出る。周囲をリニアカーが疾走している。速度計が500キロを超えた辺りから、シャレッタが本題に入った。

「まだ検証段階なんだが、少し気になる事があってな」

「具体的にどんな事かしら」

「実は、人類の曙が、またテロを計画しているらしい。 ただし、今度は直接この星でやる訳ではなく、辺境で、だそうだが」

「相変わらずねえ。 またお家芸のピストン運動とは、芸のない事ね。 それで、連中の掃討作戦は上手くいっているの?」

まあまあだと、シャレッタは応えた。彼女の部隊は確かに優秀で、テロリスト共を効果的に掃討している。人員がレイミティの所に回されたのも、首都の人類の曙が大きな打撃を受けて、手に余裕が出来たからなのだ。もっとも、シャレッタ本人はそれを快く思っていないようだが。

大きな打撃を敵に与えているとはいえど、油断は出来ない。元々人類の曙は、この国の体制に異を唱える者達が、カール博士らインテリゲンチャを迎える事で成立した組織である。現在でこそ明確な思想らしきものを掲げているが、元々はただの反政府テロリスト組織に過ぎず、能力的にも見るところはなかった。しかし辺境で力を蓄えては首都星に出てくるというピストン運動を繰り返し、この国の政府をずっと悩ませてきた。

今回は辺境の駐屯部隊もかなり強化しているらしいのだが、効率の良い壊滅作戦を実施できるかは微妙だ。辺境の幾つかの惑星には、この国を良く思っていない人間が多く住む場所もある。そう言ったところに逃げ込まれると、追跡が難しい。何より、この国は平和に慣れた感がある。事なかれ主義に陥っている人間も出始めており、テロリスト撲滅に協力的ではない人も出てきているのが実情だ。

「場合によっては、あたしも辺境にいかなければならなくなるかも知れない。 その時は、こっちの事を頼むぞ」

「はいはい、分かっていますよ」

「こっちはこんな所だ。 そちらは、姫さんのお守りに何か進展はあったか?」

「そろそろ外部護衛対象が増えそうだわ。 それを考えると、当分は夕食をおごるどころじゃないわね」

笑い合うと、通話を切った。そして助手席のリクライニングを少し倒して、態勢を楽にする。そして、思惑を巡らせた。

実際問題、手が掛かる人間が増える訳だし、未来的な展望は悲観視せざるを得ない。これでKV−α人に敵意を抱いている人類の曙が消えて無くなれば、少しはましになるというものなのだが。

もう一つ気になる事もある。この間の襲撃からも分かるように、軍に内通者がいる。昔と違い、今はハッキングなど簡単にできはしないから、こういう部分を疑うのが一番確実である。どういう理由で内通しているのかは分からないが、異常な事が、一つあるのだ。どうやらこれが手がかりになると、レイミティは判じていた。

異常な事というのは、他でもない。シャレッタをはじめとする複数筋から内偵を進めて貰ったのだが、まるで犯人の尻尾が掴めないのだ。彼女らは優秀であり、下っ端の犯行を見逃すとは考えにくい。そうなると、相当な上層部が関与している可能性がある。

しかし、それが分かっても、まだ全体像の把握にはほど遠い。仮に上層部の人間が、人類の曙のような連中に関与しているとする。しかしそうなると、どういうメリットがあるのか分からないのである。

KVーα人は非好戦的とはいえ、与しやすい相手ではない。軍の戦略シミュレーション室の研究によると、人類社会最強を誇る北部銀河連合に迫る軍事能力を備えている。戦争になったら、恐らく立国は勝てないという試算も出ている。実際に、KV−α人の宇宙艦隊の演習の様子を見た事もあるが、進むも引くも見事で、年がら年中殺し合いをして鍛えている地球人にそう劣らない。彼らは好戦的ではないが、護身の術はきちんと持っているのだ。

その上、KV−α人は経済的にも豊かな社会を築いており、他の種族に対する侵略や支配にはまるで興味がない。欲求や利己主義はそれなりに備えているが、いずれも地球人類とは方向性が違う。すなわち、地球人からは理解しがたい性格をしている。

そんな彼らを敵に回すのは、様々な意味で好ましくない。大体、地球人が初めてコンタクトを持った異星の知性だ。今後人類社会が更に発達した後の事を考えても、ここでしっかり交友のノウハウを作っておくべきなのだ。

それなのに、上層部の何者かが人類の曙に与している理由がある。それがレイミティには分からない。宗教は既に力を失った。民族主義や国家主義も同じく。非理性的な、思想的な行動なのか。いや、それは違う。何か、もっと大きな、理性的なはずの人間が目を眩ませてしまうような途轍もないメリットがあるのではないか。

かってはカルト教団がテロの温床となった時代があった。しかし現在は、宗教に対する法的な拘束がかなり強固で、それも難しくなってきている。しかし、それでも思想というものは社会の脅威の一つとして存在する。一体上層部は、何を考えているのか。

色々考えている打ちに、いつのまにか、車は高速道路を降りていた。自宅まではもうすぐである。この間のテロ事件以降、新しく一機の戦闘ロボットを配属して貰った。最新型らしく癖の強い機体だが、言動が可愛らしくてレイミティは好きだった。高層マンションの駐車場に、スムーズに到着。先に降りたβが辺りをスキャン。助手席の戸を開けながら行った。

「危険物ありません。 待機中のγも、危険無しと連絡してきています」

「お疲れ様」

「マスターこそ、疲労がイエローゾーンに達しています。 お仕事は中断して、すぐに休憩をお取りください。 我らが周囲を見張っておりますので」

「分かっているわ」

小さな男の子の姿をしているβの頭を撫でると、レイミティは自室へ向かって歩く。小さな女の子の姿をしているαがそれについてくる。

今日は眠れると良いなと、レイミティは思った。

 

学校の屋上で食事を取っていた賢治の元に歩み寄ってきた影一つ。顔を上げると、あの春坂幸広だった。手に持っているのは弁当箱だが、花柄で、女の子が喜びそうなデザインである。

「また会いましたね」

「うん。 そうだね」

「今日は食堂で食べないんですか?」

「今日はたまたまだよ。 昨日メイドロボットが作ってくれた料理が余ったから、もったいないと思って弁当にしてもらったんだ。 それで、屋上に食べに来てるわけ」

隣に座って良いかと言われた。断る理由は特にないので、許可をすると、小さな体を折り曲げてちょこんと座った。不自然ではないのだが、何だか腑に落ちない。この少年、ひょっとして敵意を買わないように動作をコントロールしているのではないか。そんな事を、賢治は思った。もしそうだとすると、天才型の人間には珍しい、対人配慮の能力を持っている存在だと言う事になる。

歴史を頭に叩き込んできている賢治は知っている。それが非常に希有な事であると言う事を。

少し他愛のない話をした後、春坂は笑顔のまま、少し不思議な事を言った。

「そうだ。 将棋やってみますか?」

「将棋って言うと、地球の日本で発達したあれ?」

「ええ」

「一応打ち方は知ってるけど、どうしてまた。 他にも色々な遊びはあるじゃないか」

にこにこするばかりで、幸広は応えない。別に断る理由もないし、賢治は弁当を食べ終えると、携帯端末から立体将棋プログラムを起動する。

「いや、駒を持っていますので」

「へえ、それは」

賢治は少し感心した。

チェスや日本将棋に代表される机上遊技は現代になっても各地で健在だが、遊技用の駒は骨董品でしか見る事が出来ない。立体映像式で簡単にゲームが再現できるからで、今も駒を持ち歩くのは余程のマニアだけだ。マニアという人種は、かって一時期の地球では迫害差別の対象となったが、現代はそんな事もない。

二人で休憩室に移動する。二階にある休憩室は二十畳ほどの広さがあり、東側に窓があって、いつも青いカーテンが掛かっている。整然と並んでいる机はオーク製で、かなりの骨董品だが、暖かみがあると言う事で生徒達には評判が良い。この学校は各地にある同一構造のいわゆる「二千高」だが、此処だけはオリジナルの空間だ。ネットなどの情報によると、何処の二千高もオリエンテーションルームはオリジナルの構造を作り上げているらしい。学校としても、こう言うところで創意工夫をして、自己主張の材料にしている訳だ。何だか少し分かる気がする。

幸広が個人用のロッカーから出してきたのはプラスチック製の駒であり、かなりの年代ものだった。地球時代の木製は流石に天文学的な値段がつく。量産品のプラスチック盤と駒でも、かなりの値打ちものだ。ひとつまみしてみて、賢治は聞き返していた。

「まさか、地球の骨董品?」

「はい? いやいや、まさか。 もしそうだったら流石に家に置いておきますよ。 これはアルタイル製の、二百年ほど前の駒です。 地球時代のものほどではないですけれど、結構いいものですよ」

「それもそうだ」

駒を並べる。この国にはかって日本に住んでいた人間の子孫が多く、将棋の知識を持つ者は珍しくない。賢治も打ち方は知っているが、それだけである。コンピューター相手に少し対戦した事があるくらいだ。人間相手の対局経験は一度もないし、今後もありえないだろうと思っていた。

駒に触ると、冷たくて良い感触だった。マニアはこの触る感触を愛するそうである。何だか少しだけ分かる気がする。確かに悪くない。プラスチックでこれだと、木製のしっかりした駒はどれだけいいのだろう。ちょっと興味が湧いたが、そんなものには博物館か古具店にでも行かないと出会えない。復刻版は少しはあるようだが、それも賢治が買える品ではないだろう。

先手を譲って貰ったので、早速駒を動かす。飛車角の道を空けてから、相手の出方を見つつ駒を動かす。中央に飛車を飛ばしてきたので、美濃囲いにして、穴熊に対する。銀の出口を開けて、攻撃に転じようとした時には、機先を制されていた。桂馬を活用する暇さえも無かった。好きなだけあって、堅実ながらも駒筋がするどい。オーソドックスな攻め口なのに、変幻自在に駒が動いて攻めてくる。

「それじゃあ、行きますよ」

「あ、そうか」

盤上、音高く駒を打たれる。しまったと思った時には、もう守りの一部を食い破られていた。負けじと攻め返すが、押し切れない。じりじりと全線で追い込まれてくる。此方の龍が成った時には、ほぼ防御が壊滅していた。

五十手を超える辺りから、大体勝敗が決した。勝ち目がない。陣を崩され、何枚か駒が成り始めた辺りで、残り時間が五分を切った。手にはまだ大駒が残っているが、飛車は竜王になっているのだが、そろそろ引き時だと賢治は思った。

「僕の負けで良いよ。 片付けようか」

「いいんですか? 竜王が僕の陣まで攻め込んでいるこの状況なら、まだ勝ちは拾えると思うんですけど」

「そうかな。 でも今日はこれでいい」

駒を片付ける。幸広は特に反論もせず、それに従った。片付け終わると、少し寂しい気がした。負けた事に対する悔しさはない。完全に格上の相手に、負けるべくして負けただけである。むしろ、相手の出方を見る事が出来ただけでも、幸運だと思うべきだ。冷静に、賢治はそんな事を考えていた。

ロッカーに駒をしまうのを見届けると、教室に戻る。途中で、携帯端末が鳴った。立花先輩からだった。明日か明後日の放課後、ルーフさんの旦那さんと会うのだという。少しずつ周囲が動いているなと、賢治は思った。

KV−α人は、コンパクトな美しさを愛するという。そうなると、ルーフさんの旦那さんも、子供の姿をしているのかも知れない。多分ルーフさんよりは年上に見えるのだろうが、同性である分気の使い方は変えなければならないだろう。いや、異星人であるからには、何かしら独特の感性を持っている可能性も高い。

席に着いた賢治は、出来るだけ情報を集めておこうと、レイ中佐にメールを投げておいた。メールを送信し終えると同時に、教室に先生が入ってくる。午後も授業はある。集中し直すと、賢治はしっかり視線を教室の前に向けた。

 

教室に戻りながら、幸広は今の対局を頭の中で反芻していた。もちろん双方の手を全て覚えている。それをなせるだけの能力が、幸広の頭脳には備わっているのだ。伊達に精鋭が集まる軍の特務部隊で働いていない。

幸広は将棋が好きだ。単純な遊技としてではなく、人間観察用の道具として、非常に有用だからだ。同じ事はチェスやモノポリーにも言える。幸広にとって、ゲームは遊ぶものではなく、仕事の道具なのである。

今回の対局は、賢治の性格を分析するための行動であった。既に立花・S・キャムティールとは一度対局している。今後はレイミティ中佐や、クリスパー・蛍とも打っておきたい所だ。形式的に、今はともかく、エリートである幸広は将来的にレイミティを部下にする事もありうる。早めに相手の人格を把握しておくのも悪くない。ましてや周辺で動いている「同僚」を理解するのは、当然の事だ。

教室に入った時には、既に対局時の行動から、分析が済んでいた。席に着きながら、話しかけてきた女子生徒に適当に笑顔で応じる。応じながらも、幸広は驚きを隠すのに苦労していた。

賢治には、警戒しなければならないかも知れない。あの男は、引き際をわきまえ、努力する意味を知っている。その上学習能力も決して悪くはない。状況判断能力も低くはなかった。その上頭自体は単純で、籠絡する手段が極めて限られる。制御がしやすい猪突猛進型のキャムティールとは違う。むしろ、相手にする時には一番厄介なタイプの人間だ。

幸広は、賢治に対する危険度をかなり高めに設定した。環境さえ良ければ、幸広と張り合っていたのではないか。今ではキャムティールにかなり劣るようだが、素質では勝っているかも知れない。

あのレイミティが選ぶ訳である。単に子供が好きなだけの女では無いと知ってはいたが、それでも驚かされる。能ある鷹は爪を隠すという地球時代のことわざを思い出して、幸広は危うく含み笑いを漏らしそうになった。

先生が教室に入ってきた。蛍先生だ。この人もよく分からない。考えが読みにくい糸目もそうなのだが、合理性を神とも指針ともする科学者であるのに、非合理の塊でもあるように思えてならないのだ。得体が知れない相手は、怖い。子供が幽霊や悪魔を恐れるのと同じだ。

まだ仕事は始まったばかりだ。先行偵察要員としても、個人としても、これからやらなければならない事は幾らでもある。そのためには、無意味に目立つ事は避けなければならなかった。

 

4,蠢く闇

 

ルーフは鏡に己の姿を映した。地球人で言う、一糸まとわぬ裸体である。小柄ではあるが、ふくらんだ乳房もくびれた腰も、女性である事をよく示している。肌も肉感的な桃色。今日も特に変な箇所はない。安心すると、まずは下着から。続いて上着を着込んでいく。今日はレイ中佐と、その同僚と会うから、高級な服を厳選した。白を基調とした、レースの着いた美しい服である。

同じ顔。同じ肌の色。上から下まで肌の色は統一しなければならない。口の中や鼻の中、眼球など、色を変えなければ行けない場所もある。この擬態には、パワーがいる。良く錬磨された精神力と、集中力が必要不可欠なのだ。

思考体と群体に分割して休憩する時には、その疲労が一気に出る。最初の頃には、死ぬ群体も結構出た。栄養も大量に必要とするし、休眠も長時間必要だ。毎日外に出る訳にはいかないのも、この辺りに理由がある。

奧で着替えている夫に声を掛ける。気のない返事が返って来る。性別でさえ、KVーα人と地球人とは概念が異なる。ひょっとすると、ルーフが男の姿をして、夫が女の姿をしていたかも知れない。

「貴方、まだ?」

「もうちょっとだ、待ってくれ」

少し強めに催促すると、困惑した声が帰ってきた。夫であるシャルハフォートラは、ずっとこのステイには及び腰だった。まだ十五世代しか生きていない事もあり、ルーフに比べると擬態もあまり上手ではない。子供達に比べればまだましだが、それでもまだまだ技量が足りないのが事実だ。

「ルーフ、ちょっといいか?」

「何? どうしたの」

夫の部屋を覗くと、下着姿の夫が、スーツを見て困惑していた。ズボンは分かるのだが、上をどうして良いのかよく分からないのだという。ベルトやネクタイなども、どうやって身につけるのか理解できていない。

「もう、何度も見たでしょう」

「そういうなよ。 君ほど僕は人類の服飾文化に興味が持てないんだ」

良い夫なのだが、こう言うところは自覚が足りなくて困る。背の高いアジア系青年を模している夫にあわせて作られたスーツは、手足共に長い。ルーフはもう一度着方を教えながら、教育用のビデオをもう一つレイ中佐に貰おうと思った。もっとも、ルーフほど服飾文化に興味を持てるKVーα人はまれなのだが。

「どうして地球人は、みな同じ姿をしているんだ」

「そういわない。 私たちとは、身体の構築能力が違うだけなのだから」

「それは分かってはいるが。 関節というものを保持したまま、この細い布に体を通すのは、やはり難しいな」

「それもこれも、私たちと地球人の未来のためですよ」

夫は正論に弱い。そう指摘すると、もう後は文句を言う事もなく、黙々と着替えを行った。

KVーα星におけるルーフの姿は、必ずしもフォルトレート民主立国でのものと同じではない。それは夫や、子供達も同じだ。

群体生物であるKV−α人は、コンパクトかつ複雑な姿を構成する事を、己のステータスシンボルとする。当然不定形なので、「普段の」姿形は非常に多岐にわたっている。地球人に近い者もいれば、魚が立ち上がったような姿をしている者もいる。中には複数の触手を揺らしながら、這うようにして歩き回る者もいる。さらには、気分次第や成長の度合いによっても姿が変わる。言語や行動サインなどは統一されているが、それは姿形とは関係ない。だからこそに、地球人が作り上げた服飾の文化は新鮮だったのである。

己と違う姿の生物は、全て侵略の対象。調査の結果、それが地球人の基本理念だと知ったKVーα人は、相手の姿に合わせる事で、外交を行う道を選んだ。非常に好戦的で獰猛な地球人と宇宙戦争をする気は無かったし、異文化の思想は否定すべきものではないとも思っていたからだ。

だが、それは誰しもが行える訳ではない。主に能力面での話であるが、やはり実践には相当な労力が必要となってくる。特に、同じ姿を長時間維持すると言う行為は、かなりの修練が必要になってくるのだ。夫も十世代を超えていながら、ここまで苦労している。十世代に達していない子供達は、今後もっとしっかり修練を積んでいかなければならないだろう。

やっと夫の着替えが終わったので、向かえに来たタクシーに一緒に乗り込む。タクシーと言っても、運転しているのは軍の人だ。何度か顔を合わせた事がある。長身の黒人士官で、レイ中佐の副官をしている人だ。無愛想で真面目なために、あまり話した事はないのだが、悪い印象は受けない。この間の中華料理屋での事件でも、真っ先に駆けつけてくれた事を、良く覚えている。名前はシノン少佐だったはずだ。

「今日のスケジュールは、もう把握していますか」

「ええ。 大丈夫です」

「そうですね。 途中、一度休憩を入れていただければ」

夫はそう答えたが、ルーフは少し心配になった。夫はあまり体力がない。年齢の割に大きな体を作っているのも、短髪にしているのも、地球人の擬態を長時間続けるのは難しいからだ。この姿であれば、ある程度はごまかしが効く。肌の色を少し浅黒くしているのも、擬態の負担が小さいからである。

タクシーが発進して、すぐに高速道路に乗った。ロボットに運転させる地球人も多いが、この人はきちんと自分の手でハンドルを操作する。ロボットを信頼していないのではなく、自らの手で任された仕事をきちんとこなすのが信条なのだろう。ぶっきらぼうではあるが、信念と責任感の強い人なのだなとルーフは思う。

やがて、軍のビルに到着。厳重に護衛されながら、四階の交流ホールに。かなり広い空間で、天井にはきらきら光るシャンデリアがあった。まぶしい。地球人の視覚には美しく映るのかも知れないが、ルーフには不快だ。雑多な色彩が多すぎる。

ざっと辺りを見回す。他のステイ家族ももう何組か来ていた。この間近くでテロを起こされた一家だけは来ていない。怪我をしたという話は聞いていないから、おそらくは万が一を考え、警備を厳重にしているのだろう。

挨拶をして回る。知り合いばかりだから、それほど気負う事もない。ただし、会話は殆ど、この空間での擬態保持についてになってしまった。こう色彩が多いと、肌の色を保持するのに一苦労である。夫の指先が緑色になりかけていたので、肘で脇腹を軽く小突く。夫は慌てて色を戻すと、配られている栄養ドリンクを飲みに行った。

やがて、地球人のVIP達がやってくる。軽くスピーチが行われた後、再び会食になった。でっぷり太り、何人か取り巻きを連れ、口ひげを蓄えたタキシードの紳士が握手を求めてきた。見覚えがある造型だ。確か軍の高官で、階級は中将だったか。レイ中佐の上司になる人物である。笑顔で手をさしのべて、握手する。妙に体温が高い。銀色の髪が、頭部の後半でかろうじて前線を維持しているその人物は、慇懃に言う。

「マダム、再び会えて光栄です」

「いえ、こちらこそ。 アガスティア中将」

「ははは、覚えていてくださいましたか。 この間大将になりました」

「それは失礼しました。 アガスティア大将、今後もよろしくお願いいたしますわ」

礼をして別れる。本人とは対照的に、取り巻き達は終始にこりともせず、それが何だか違和感を生じさせた。

林立したテーブルには、地球人用の食物と、KVーα人用のものが分けて並べられていた。この辺りは差別と言うよりも区別だろう。それに、KVーα人用のものは、殆ど純栄養物質である。地球人用のものも食べられるが、ルーフは個性的な栄養分布が好きなので、こういうパーティではなかなか好みにあうものがない。

危ない目にはあったが、あの中華料理店とやらの食事は良かったなと、ルーフは思った。また彼処で食べたいものである。キャムの話によると、騒ぎで店がどうこうなったというような事もないらしいから、いつか食べに行く機会はあるだろう。今度は一家全員で行きたいものであった。

アルコールが出され始めた。地球人はこの軽度の麻薬を摂取する事で精神を解放し、効率的にストレスを発散するらしいのだが、KV−α人には毒に過ぎない。テーブルに毒が並んでいるのを見るのは気分が悪いが、これも大事な外交だ。だから笑顔を崩さず、パーティを過ごす。酒が入ると、地球人は途端に開放的になる事が多い。大声で騒ぐ人間も出始めて、少し辟易した。

やっとパーティが終わったのは夜半過ぎ。流石に疲れ切っていた夫と、一緒にタクシーに乗り込む。外交の矢面に立って色々な人物と話したルーフも、かなり疲労が溜まっていた。帰った後は、流石に群体をばらしてゆっくり休みたいところだ。

少佐はまだ待ってくれていた。タクシーの中でサンドイッチをほおばっていたので、申し訳ないと思った。だから、お土産の一部を渡す。

「此方、少し包んで貰いましたの。 どうぞ」

「おかまいなく」

「いえ、外でずっと大変でしたでしょう。 わずかばかりですが、気持ちですわ」

「そうですか。 そこまで言われるのなら」

やはり少し物足りなかったのだろう。少佐は大きな体に相応しい食欲を発揮して、ルーフのお土産を貪り始めた。そのまま手で掴んで食べられるものばかり選んで正解だったなと、ルーフは思った。

好意を受けてくれた少佐を見て、さっきのアガスティア大将を思い出す。必ずしも、人間で言う眼球の部分で相手を見ていないルーフは、しっかり見ていた。あの人物が、自分から握手を求めてきたくせに、後でハンカチを取り出し、こっそり手を拭いている所を。その間、笑顔を崩しもしなかった。地球人が良く行う、ダブルスタンダードという奴である。

もちろん不快には思ったが、別に騒ぎ立てる事もないだろう。殆どの地球人が、見かけで相手を判断する事は調査済みだし、肌で感じている事でもある。あの人物だけが特殊なわけではない。キャムや賢治だってそうだった。最初の頃の、怯えきったキャムの顔の事は、今でも良く覚えている。レイ中佐のように、生まれついての強靱な胆力を備えている方が希少な存在なのだ。

だが、一応言うだけ言っておこうと、ルーフは思った。

「シノン少佐」

「何でしょう」

「地球人が分からなくなる事がよくあります。 さっき握手を求めてきた人間が、こっそり手をハンカチで拭いているのを見ました。 嫌ならば最初から握手などしなければ良いものを」

「そうでしたか。 不快な思いをさせてしまって、申し訳ありませんでした」

シノン少佐を責めている訳ではないので、そう言われると気の毒だ。それに、シノン少佐に訴えたところで、何も出来はしないだろう。ちょっと軽率だったかなと、ルーフは思った。この人だって、何処まで信頼できるかは微妙だ。信念が固い地球人の場合、逆にとんでもない危険思想を本気で持っている事も少なくないと言う話であるし。

大将というと、宇宙艦隊で言うと複数艦隊の司令官か、それとも作戦本部の副長クラスだと聞いている。そんな人物が、内心ではKVーα人を快く思っていないというのは、ぞっとしない。KVーα星の軍事力であれば、多少の奇襲を受けたくらいではびくともしないが、それでも不安は残る。

或いは、権力を得るための、派閥争いの一環なのだろうか。その政争の道具として、KVーα人が利用されていまいか。地球人は時に、権力を得るためであれば、どのような愚考も平気でやらかす。そんなものに巻き込まれているかと思うと、冗談ではなかった。

「そろそろ出発します」

「お願いします」

「疲れたなら、言ってください。 途中でホテルか何かに寄りますから」

「お構いなく。 子供達と過ごす事が、一番の癒しになりますから」

それは本音からの言葉だ。この感覚だけは、地球人も同じだと聞いている。シノン少佐は頷くと、車を発進させた。疲れ切っている夫は、側で何度か体を崩しそうになった。

明日はいよいよ賢治と会うというのに、まだまだ慣れない様子の夫には不安が残るが、いつまでも足踏みはしていられない。今日のパーティを見る限り、他の家族の中には、子供まで連れてきている所もあった。競争心が湧かない訳がない。少なくとも半年以内には、子供達も外を歩けるようにしたいものだ。

高速に乗った。首都の灯りが、遠くに見える。星空のように瞬きながらも、何処か儚くそれは見えた。

 

(続)