嵐の始まり

 

序、日常の崩壊

 

被名島賢治は目を覚ますと、立体映像テレビのスイッチを押す。呼吸し、瞬きするかのように行う日課だ。何故こんな事を始めたのかは、覚えていない。思い出そうとも、考えない。

幾つかのチャンネルを回すが、いずれも面白いニュースはない。辺境の惑星でテロがどうのこうのという話があるが、あまり賢治には関係ない。彼が幼い頃から、辺境はずっと燻っていた。戦争がないだけましである。テレビを消す。もそもそとベットから起き出すと、学校に行く準備を始める。ベットのスプリングは錆び付いていて、ぎしぎし大きな音がした。

父は辺境のテロで死んだ。母はまだ生きているが、家にはろくに帰ってこない。仕事が忙しいのではない。何だかよく分からない思想の持ち主で、政府の「住宅強制政策」が気に入らないとかで、家では暮らしていないのだ。税金ももちろん払おうとはしないので、借金は毎日ふくれあがるばかりである。今、何処にいるかさえも分からない。下手をすると、もう生きていないかも知れない。もう何年も顔を見ていないのだ。顔は見たくもない。来る度に、如何にも凶暴そうな男を連れていて、その顔ぶれが毎度違うからである。

この国でなければ、賢治は死んでいただろう。良くてストリートチルドレン、悪ければ辺境惑星のゲリラに買われてチャイルドソルジャーだ。政府が供与してくれる最低限の物資が、賢治の命をつないでいた。母は何もしてくれない。それなのに、日々母に似てくる自分の容姿が腹立たしい。

朝食を用意するのは難しくない。冷凍食品ばかりだが、特にまずいとは思わない。生活の全てが政府からの借金で支えられており、いずれは返さなければならない。返す事が出来なければ、子供にも孫に借金返済の義務が生じてくる。生活そのものが苦痛である。豊かで平和な国の現実。確かに豊かで平和だと思う。だが、それは賢治とは関係ない場所の話だ。

パジャマを脱いで、制服に着替える。頭はしっかり洗った。鏡に顔を写すと、日本人の血を色濃く引いている、短く切りそろえた髪と、気弱そうな顔が映った。少し髭のそり残しがあった。もう一度そり直す。ジリジリというひげそりの音が、煩わしい。髭を剃り終えた頃には、登校しなければならない時間になっていた。

ドアを開けると、まぶしい陽光。いつも、この光が辛い。何だか訳が分からない事に巻き込まれそうで、不安で仕方がないのだ。何度か怖くて足が竦んで、家を出られなくなった事もあった。今は落ち着いてはいるが、学校を楽しいと思った事は一度もない。

膨大な借金。自分の主張を息子よりも大事にしている母。孤独な生活。そして、未来への絶望感。何もかもが、賢治を引っ込み思案の少年に育て上げている。学校を出た後は、ますます状況が厳しくなるのは目に見えていた。場合によっては、危険な事で知られるデブリ拾いや、戦艦での下働きに出なければならなくなるかも知れない。体が弱い賢治は、そんな所で仕事をしたら、瞬く間に命を落とすに違いない。三十までは生きられないだろう。

今高校一年だから、猶予は三年弱。人生はもうすぐ終わる。賢治にとって、それは妄想でも自虐でも、ましてや超自然的要素が働いた予言でもない。

目の前にある、事実であった。

賢治は背が低く、顔の造作も男らしいとは言えない。最近美貌だと良く言われる母にますます似てきた。それが「女子にもてる」要因らしいのだが、自覚はない。というよりも、女子が自分ではなく、ルックスを好いている事は分かりきっている。一種のぬいぐるみやファッションアクセサリーと同じ扱いで、人間として自分を見ている女子などほとんどいない。物静かだと周囲に言われる性格や、運動神経の鈍さも、それを後押ししている。

所詮自分は、周囲からすれば人形でマスコットなのだ。人間だと思われていない。困った事があっても、相談できる相手などいたためしがない。羨ましいという周囲の男子に、その現実を押しつけてやりたいくらいだ。

ベルトウェイを歩いて、学校へ。車が横を通りすぎていく。綺麗な空。清潔な空気。多少薄汚れてはいるが、治安もいい。犯罪で死ぬ確率は非常に低い。それだというのに、もうすぐ死ぬ事が確実な人生。選ぶ事が出来る道は、成績から考えても、極端に少なかった。女子が周囲で騒ぐ事が多いと言う理由から、男子には嫉妬ばかり買う。そのため、男子の友達もほとんどいない。

そういった全ての要素が、賢治にコンプレックスを植え付けていた。

ため息のでない日は無い。学校へ運ぶ足は、いつも重い。本を読むのは楽しいが、体育は地獄だ。更に最悪なのは、華奢な体つきと女のような顔からか、着替えの時に視線を感じる事だ。

こればかりは我慢できない。一度髭を生やそうかとも思ったのだが、校則違反なので断念した。ただでさえ能力が低い賢治である。高卒という最低限の学歴まで失ったら、仕事も無くなる。

似たような境遇の生徒は、いる。親に問題があったり、様々な理由で政府から借金を抱えている者達だ。その中でさえ、賢治は孤立していた。弱いというのは損だなと、賢治は思う。しかし、強化ナノマシンを入れてこの程度の身体能力しかない。平均で5mの走り幅跳びはせいぜい3m半。平均で11秒の100m走は17秒かかる。そんな有様で、一体何が出来るというのか。

入り口の警備ロボットに手帳を見せて、学校に。数日前、突如教室に姿を見せた恐ろしいセンパイがいたが、あれ以来何もないのは良い事だ。下駄箱から、赤外線殺菌装置で温められている上履きを取って、教室に。女子が何人か、此方を見てひそひそ話しているのを見た。

自席に着くと、机にうずくまる。授業は苦痛でしかない。頭が元々良くないのだ。得意な学問など、何一つ無い。弱くて貧弱で、不器用で何も出来ない。賢治は自分を、本気でそう言う存在だと断じていた。

日々は苦痛で満たされている。だが、何かに助けを求めようとも思わない。無駄だからだ。

一日一日が、全部無駄。苦痛の連続。何とか誰にも虐げられないように身を守り、気がつくと次の日が来ている。笑っている他の生徒達を見ても、何も感慨は湧かない。いつの間にか、作り笑顔と、危険な相手から離れる事だけが上手くなっていた。

ぼんやりしている内に、授業が終わった。週末の催眠学習がきつくなるのは分かっているが、我慢するという点ではいつもと同じだ。特に何の気もなく窓の外を見る。夕暮れで、空が薄赤く染まっていた。

鞄を取って、帰ろうかと思ったその時。残っていた生徒達が、ひそひそ話しているのを見た。その理由は、すぐに分かった。

1年生の間から、悪魔のように恐れられている人物が、教室の入り口に立っていたのである。青い縁取りをされた半袖のセーラー服に、濃紺のスカート。袖から出た手が、戸が閉まらないようにしっかり掴んでいる。髪はツインテールに束ねていて、大きな瞳が此方を凝視している。ぞくりと、背中に悪寒が走りあがる。この間、自分を見に来た人だ。名前は知っている。立花・S・キャムティール。立花先輩とか、キャム先輩とか呼ばれている。年上だが、非常に小柄で童顔なので、とてもそうは見えない彼女は、自分とはあらゆる意味で真逆の人種であった。

学問は分からないが、兎に角圧倒的に強いのだ。一度マーシャルアーツの授業をしている所を見た事があるが、体重が二倍はありそうな男子を、一方的にサンドバックにしていた。男子が悲鳴を上げている様子や、実力を誇示するカラテ部である事などは、後に恐怖と共に語り継がれた。しかもその男子は大会でかなり良い成績を残していたと言うから、立花先輩の実力がよく分かる。その試合の最後に、立花先輩が叩き込んだ回し蹴りは稲妻のような代物であった。それをくらったカラテ部の男子が膝から崩れて失神した様子は、自分が味わった恐怖のように脳裏に焼き付いている。

立花先輩が強いのは喧嘩だけではない。体内に入れている強化ナノマシンとの親和率が高いらしく、体育で学校記録を何度もたたき出している。繁華街でバイトしているのをよく見かけるが、用心棒代わりに雇われているという説もあるほどだ。一年の間では、立花先輩に目を付けられる事は死を意味するとさえ言われている。手の付けられない不良生徒が、立花先輩に叩きのめされてからおとなしくなったというのは、有名な事実である。

事実、彼女は堂々としていた。小さい体だが、しっかり床を踏みしめ、すっくと立っている。目には強い意志の光があり、何よりも自信が体中に満ちあふれていた。小さいが、そのハンディキャップをひっくり返すほどの能力を持っている事が、見るだけで分かる。

視線だけで頭一つ分大きい男子達を睥睨すると、彼女は教室に入ってきた。呆然としている内に、賢治の前に立つ。大股で、何も恐れる事はないような歩みだった。少なくとも、賢治にはそう見えた。

「なん、でしょうか」

「用事があるんだ。 来て欲しいんだけど。 ちなみに拒否権は存在しないから、そのつもりでね」

「……」

女子もいたが、助けてくれそうな者は一人も居なかった。最初から期待はしていなかったから、絶望感はない。逆らっても多分無駄だろう。うつむいた賢治は、鞄を手に、キャム先輩の後に続いた。

脆弱な少年が、大きく成長する契機が、この不可思議な拉致行為であったことを、知るものは少ない。

少年の周囲で、様々な運命が、渦を巻いて動き始めていた。

 

1,日常の終わり

 

真っ暗だった。何が何だか分からないうちに、こうなっていた。

体の震えが止まらない。元々、あの恐ろしい立花先輩に引きずり出された時点で、ろくでもない事になるのは目に見えていた。殴られて帰るくらいだったら幸運だろうと思ってもいた。財布の中身は殆ど空だし、貯金などと言う景気がいいものは存在しないから、大した被害は無いとも高をくくっていた。

だが、学校を出た途端に屈強な黒服の男達に取り囲まれ、悲鳴を上げるまもなくアイマスクとヘッドホンをかぶせられ、黒塗りの高級車に押し込まれるとは、誰が想像できるだろうか。一体これから何をされるのだろうか。政府以外に借金はしていないはずで、殺される理由はないはずだ。

外の様子は全く分からない。アイマスクをされているのだから当然だし、イヤホンからは無機質な音楽が流れ続けていた。手錠も掛けられていて、その上左右には屈強な大男である。

時々、悲鳴を上げそうになった。上げていたのかも知れない。気がつくと、アイマスクを外された。イヤホンもである。乱れた呼吸が、元に戻らない。生唾を飲み込んでしまう。辺りを見る。知らない家だった。確かに普通の官給住宅だが、どう見ても郊外だ。しかも、周囲には普通の人が見あたらない。

携帯端末を取り出そうとして、取り上げられている事に気付く。ふと側を見ると、同じようにアイマスクとイヤホンをされていた立花先輩が開放されていた。開放されたのは別に良いのだが、立花先輩は欠伸までしていた。どういう神経をしているのだろうか。畏怖を感じて、賢治はまた一つ寒気を覚えた。

「まーたこんなコトして、あたしをどうするつもりなんですか」

「中佐に聞いてくれ」

「はいはい。 なんてゆーか、さながらモケーレ・ムベンベのような不可解さですね」

「意味が分からん。 さっさと入れ」

眼前で意味不明の会話を繰り広げる、黒人の巨漢と立花先輩。唖然と立ちつくす賢治も肩を押され、少し古い官給住宅にはいる。基本的に何処の官給住宅も作りは同じだが、一部の構造は異なっている。技術の進歩によって、色々新しいものが開発されるからだ。扉の作りは、自宅のものよりは新しいようである。

戸を開けると、何だかひんやりした。入り口には見た事のない形式のメイドロボットが立っていて、ぺこりと挨拶してくる。年頃は賢治と同じくらいに造型されている。黒髪をショートに切りそろえた、嫌に愛想のないロボットだ。普通は人間を見ると笑顔を浮かべるのだが、くすりともしない。服装がエプロンを着けたメイドスタイルなので、余計に違和感が際だっていた。先に靴を脱いであがった先輩が、此方に少し意地の悪い笑みを見せる。

「愛想悪いだろ、この子」

「は、はあ。 まあ」

「軍用だしねえ。 ジェシー、遠慮しなくて良いからね。 さながら和平の使者を殺されたチンギス・ハーンのごとき容赦のなさで、そいつに接するのだ!」

「キャムティール様、申し訳ないのですが、理解不能です」

さらりと先輩が言った言葉で、また賢治は凍り付かされた。チンギス・ハーンが自分の部下を殺した敵を、溶かした銀を目と耳に流し込むという残虐なやり方で殺した事を思い出したからだ。それに、何故、軍用ロボットがいる。足が震え始める。本当に、この場で殺されるかも知れない。ロボットが威圧的に言う。

「早くあがってください。 中佐がお待ちです」

「は、はいっ!」

裏返りかけた声で、慌てて靴を脱ぐ。必死に見苦しくないように揃えると、視線に押されて中にはいる。生きた心地がしない。先輩が思ったよりも良く喋る人なんだなとは思ったが、それ以上の感想を得る精神的な余裕がなかった。

居間で、既に先輩が席に着いていた。20畳の大きな部屋の真ん中に、食事用のテーブルがあり、先輩と机を挟んで綺麗な女の人が座っている。大人っぽい雰囲気の女性で、笑顔がとてもすてきだった。濃紺の軍服を着ていなければ、どきどきしたかも知れない。軍服を着ている時点で、死の使者に等しい。

逃げたいが、そうはさせてくれないだろう。後ろには、さっきの無表情な軍用ロボットがいる。無理矢理座らされた賢治は怯えきっていた。対角に座っている立花先輩と、「中佐」であろう軍人の女の人の余裕が、悪魔の笑みに見えた。

「初めまして、被名島賢治君。 私はレイミティ中佐。 そちらは、知っているわよね」

「は、はい。 立花先輩です」

「そう。 立花・S・キャムティール。 これからしばらく、二人で組んで任務をして貰いたいの」

さらりと、任務とか言われた。しかも、この先輩と組んで、である。気が遠くなりそうだ。そもそも、どうしていきなりこんな形で拉致されて、しかも任務をしろ等と言われなければならないのだ。その上、此方は公務員でも何でもない。

レイミティと名乗った人は、手元の端末を操作して、立体映像を出す。賢治はそれを見て、蒼白になった。この数字は知っている。というか、どうしてこの数字を、この人が知っているのだ。

そうだ、公務員だからだ。それに気付くと、血が凍る。

「貴方の経済状況は把握しています。 貴方の母君の挙動もね。 政府の政策に反対すると口だけは言っているけれど、実際には子供を一人家に残して遊び放題、借金は全て子供に押しつけている、と。 テロリストを名乗ってはいたようだけれど、ただの愚者のようね」

「は、はあ。 まあ」

「任務を受けるのなら、この女との縁切りを、行いましょう。 更に、月々これだけの給金を支給。 他にも幾つか、経済的支援を行います。 最終的には、軍にポストを用意しましょう」

訳が分からない。この人の言っている事が、まるで理解できない。くすくす笑いながら、中佐さんは先輩に向き直る。

「貴方を軍本部に連れてきた時みたいね」

「ひっどいです。 いっくらなんでも、あたしはここまでの根性無しじゃないし、びびってもいません! あーもー、前に見た時は、少しはましかなと思ったのに! これじゃ、まるで、雨の日に出てきて、道路でひからびてるミミズがごときですっ!」

ばんと机を叩いて立花先輩が立ち上がったので、賢治は悲鳴を上げてうずくまりそうになった。

そもそも、何だこの異常な状況は。どう考えても、こんな取引がいきなり都合良く持ちかけられる訳がない。恐らく軍の人であるというのは本当なのだろうが、それにしてもおかしい。警戒心が、恐怖と一緒に、渦を巻いている。中佐は笑みを崩さないまま言う。

「任務の詳しい説明は、立花さんからしてもらいます。 資料なども、立花さんに収集を一任しますね」

「ボーナスくださいよー。 それこそ、どんぶりでご飯を百杯くらい食べられるくらいにっ!」

「はいはい、検討しておくわ」

むすっと片膝を着いて頬をふくらませた立花先輩に、相変わらず柔らかい笑顔で中佐は応じた。そして席を立つと、部屋の入り口に立ったジェシーという軍用ロボットに、後は任せると言って出て行った。一礼だけする軍用ロボット。目を閉じて立ってはいるが、賢治が何をしても、その監視から逃れる事は出来ないだろう。

大きく嘆息すると、立花先輩はこっちをじろりと見た。怖い。

強化ナノマシンのせいで、見かけと能力が一致しなくなってから、随分時が経つと、授業では習った。だが、あまり賢治には関係ない。というのも、産まれた時からずっとその状況で、変化がないからだ。男の子が女の子よりも、必ずしも強い訳ではない。その一方で、女の子だからと言って優しくはしてもらえない。

それが普通の世界に、賢治は育ってきた。

「任務……」

「ん? ああ、そう。 任務」

「僕は何をさせられるんですか?」

「簡単に説明すると、ちょっと普通じゃない家族と仲良くする。 ただそれだけ」

それだけの訳が無いじゃないかと、賢治は思った。誰だって、それくらいの事は分かる。余程にVIPなのか、或いは特殊な事情を抱えていて、国から監視されている者達なのか。どちらにしても、命の危険くらいはあるだろう。

「ガッコでこの任務についてるのは、あたし達だけじゃなくてね」

「ちょっ……」

「悪いけど、もうキミは任務に就いてる。 断るって選択肢なんてない。 はっきり言わせてもらうけど、どうせ借金返す宛も、インテリ気取ってただ遊びほうけてるクズ親と縁斬る方法だってないんでしょ?」

一撃で急所を貫かれ、賢治は言葉に詰まる。それに、こんな方法で連れてこられたのだ。もし断れば、その場で蜂の巣にされる可能性だって低くはない。

「心配しなくても、そこはあたしも同じだから」

「えっ?」

「借金で首が回らなくて古いマネキンみたいになってるのは、キミだけじゃないって事だよ。 あたしもおんなじように弱みをレイ中佐に掴まれて、この仕事をしてる訳」

「そ、それは……」

立花先輩は目にもとまらない早業で、賢治の頭を掴む。悲鳴も上がらない。そのまま、顔を近づけてきた。もの凄い握力で、首を捻っても外す事は出来そうにない。再び震えが来る。

「話を戻すけど、オッケー? くだらない寝言を今度言ったら、ジャーマンスープレックスの後、三角締めで落とすからそのつもりで?」

「ひっ! は、はい!」

「よろしい。 ……言いかけてたけど、ガッコでこの任務には、もう何人かが就いてるんだ。 広義では校長先生もそう。 他には科学の蛍先生もそうだし、生徒も何人かいるって聞いてる。 ただ、重要なのは、全員の情報公開レベルが違う事。 後でデータを渡すから、頭に叩き込んでおくようにね。 明日テスト。 もし覚えてなかったら、そうだなあ、サングインフラットブレードの刑かな」

サングインフラットブレードの刑って何だ。そう口に出して言う勇気は、とてもなかった。携帯端末を返される。電波は、圏外になっていた。おそらくこの家に、強力な防御効果が掛かっているのだろう。

「具体的にどんな家族と仲良くするのかは、後で説明するわ」

「後って、いつですか?」

「あたしが気が向いたら」

さらりと言うと、立花先輩はロボットを手招きする。そして、座るように命じた。片膝を着いたロボットの後ろに回ると、髪を掻き上げて、首筋を露出させる。ぞっとするくらい綺麗な首筋で、生唾を飲み込んでしまう。だが、それは所詮作り物だ。軽く先輩が触れると、カードスロットが現れる。スカートのポケットから、嫌なものが見えた。立花先輩が取り出したからだ。

「確か、これだったかな。 うん、これだ」

「何ですか、そのカード。 僕の写真が貼ってありますけれど」

「キミの個人情報カードだから、当然じゃんか」

「……そう、ですか」

もう、言葉も出ない。人権って、何だっけ。賢治は心中そうつぶやく。カードをスロットインすると、すぐにエジェクトされた。少しずつ落ち着いてきた。髪を下ろし直すと、ロボットが立ち上がり、賢治を見て深々と頭を下げた。

「認識しました。 以降貴方が私の所有主となります」

相変わらず、ロボットはにこりとも笑わなかった。ひょっとすると、最初から威圧感を与えるつもりなのかも知れない。

メイドロボットは以前から欲しいとは思っていた。だがこれは軍用のもので、しかも体の良い監視役だ。

恐怖はいまだ去らない。帰りも同じように目耳を封じられ、左右を屈強な男に囲まれて車で家まで送られた。家の前で開放された時、もう逃げ道は無いのだと悟った。

 

2,奇妙な同居

 

どこかで声がした。

「おはようございます」

布団の上に、圧力がある。嫌だ。目を覚ましたくない。現実に戻りたくない。しかし、無情にも、もう脳は覚醒してしまっていた。

嫌々ながら目を開ける。いた。昨日、所有物になったロボットが、美しいショートヘアを揺らして覗き込んでいた。

マニュアルは一応見た。JCー944型軍用ロボット。軍艦内での支援任務を想定して作られている機体であり、一通りの重火器を使用する事が出来る。格闘戦闘能力も高いというが、具体的なデータは閲覧できなかった。メイドロボットとしての機能も有しており、セクサロイドとしても活用可能だとか書かれていた。妙に生々しい肌の質感はそれが要因なのだろう。

「朝食を作りました」

「うん。 今起きる」

「お早めに」

相変わらず愛想のないロボットだ。ぼんやりしながら髪をかき回す。昨晩の事は、はっきりいって思い出したくもない。というよりも、二度と考えたくもない。だが、そういうわけにはいかない。

布団を押しのけて、起き上がる。嫌でも時間は流れていく。現実を見ずに生きていけるほど、賢治の境遇には余裕がない。学校には行かなければならないのだ。体力はないが、幸い病気には縁がない。

頭を整理する事がなかなか出来なかったが、ようやく落ち着いた今、少しずつ色々とわかり始めた。考えたくはないが、考えなければならない。まず、これから何かの家族と仲良くしなければならない。それは学校を中心とした、何かよく分からない軍の計画に基づいている。何故軍なのか。それがよく分からない。先輩に聞いて教えてもらえるかどうかは、微妙だ。

更に、軍用ロボットのJCも気になる。もちろん監視用で、今後は会話も全て聞かれていると判断した方が良いだろう。電話をするような友人は殆どいないが、それでもあまり良い気分はしない。

良い事もある。あの母親とは名ばかりの女とは、これですっぱり縁が切れるはずだ。それだけは良い。いつのまにか車が買えるような借金が増えている事も、今後はなくなるだろう。向こうは困窮するかも知れないが、いい気味だ。向こうの愛情が冷え切っているのは承知の事。こっちだって、今更母親だとは思わない。

一階に下りると、凄く良い香りがした。覗き込んでみると、トーストをフライパンで何かと焼いているのだと分かる。確かフレンチトーストとかいう料理だ。冷凍食品でも最近は美味しいのがあるが、やはり料理しているのは別ものだろう。フライパンの上で、油が焦げる良い香り。思わず動きが止まってしまう。冷凍食品を作っている時には、絶対にないものだ。

JCが振り返る。やはり、無表情で、愛想が感じられない。非難されているような感触で、思わず首をすくめていた。歯を磨いて、頭を軽く洗ってからテーブルに着く。少しそわそわする内に、料理が仕上がった。

ベーコンを焼いたものと、フレンチトーストと、後はサラダが出てきた。サラダには茶色いドレッシングが掛かっている。冷凍食品とはどれも別物だ。ベーコンを早速フォークで突き刺して、口に入れる。フレンチトーストを切り分けて、口に入れる。サラダを口に運ぶ。

うまい。冷凍食品は味が統一されているが、それとは違うものだ。もちろん人間の料理上手が作ればもっと美味しいのだろうが、今此処にある料理も、凄く良かった。

「お口に合いますでしょうか」

「うん。 美味しい」

「データとして残しておきます。 次からの食事時には、参考として使用します」

無愛想なままそう言ったので、少し鼻白む。気分転換をしようと思った。

「ええと、名前を設定してもいいかな」

「お望みのままに」

目を伏せたので、オッケーだと判断する。もっとも、ロボットには人間の命令に対する拒否権など無いだろうが。

改めてみると、かなりの美人だ。黒髪で、日本系と言われるアジア人に近い顔立ちなので、立花先輩のようにジェシーと呼ぶと少し違和感がある。今時は元の出身地など殆ど関係ない状態にはなっているが、それでも気分というものがある。少し考えた後、言う。

「静名でいい?」

「はい。 では、以降は静名と設定します」

「うん。 じゃあ、静名。 学校に行ってくるよ」

どうしてだか、同じ部屋で着替えるのは気恥ずかしい。今まで居間で普通に着替えをしていたのだが、自室で着替える事にした。

静名というのは、尊敬している作家の名前だ。かなりベテランの作家であり、複数の国家で人気がある。創作の幅は広く、児童書から重厚なスペースオペラまで、どんなものでも幅広くこなす。その万能性に、若い賢治は憧れる。何も出来ないが故に、何でも出来る少数の人間は、賢治の崇拝の対象なのだ。他の若人と同じように。

美味しいご飯を食べた事で、少しは気も紛れた。学校に向かう。分からない事は少しずつ、立花先輩に聞いていけばいい。

「おっす」

「うわっ!」

そう思った瞬間に、後ろから声を掛けられた。立花先輩だった。小柄な賢治だが、立花先輩は更に小さい。だが、どうしてもその威圧感からは逃れられない。怪訝そうに小首を可愛らしく傾げる立花先輩。その動作が、却って怖い。

「どしたの? なんか顔に着いてる?」

「いえ、滅相もない!」

「ならいいけど。 相変わらず臆病だなあ。 まあいいや。 とりあえず、ガッコに着くまでに、必要な事は伝えておこうかな。 口で説明するのも面倒くさいから、ほら、アゲハチョウの幼虫がごとく、さっさと携帯出す!」

「は、はいっ!」

立花先輩が携帯端末を取り出す。データをとばそうというのだろう。もちろん、拒否権などはない。昨日貰った内容は必死に覚えたのに、また増えてしまった。データの交換など、それこそ一瞬で済む。一瞬で、取り返しがつかないほどの情報が飛んでくる事も、あり得るのだ。

気が重い。

「じゃあ、そういうことで」

用事が済むと、本当にあっさり、立花先輩は先にぱたぱた駆けて行ってしまった。少し先で同級生らしい人と並んで、話し始める。どうやら友達らしい。

ため息が漏れる。あれほど恐ろしい先輩だというのに。今、少しだけ孤独が紛れて安心していたからだ。携帯端末を開いて、情報を取得する。ほんの一瞬で、わずかな安堵感は吹っ飛んでいた。

 

教室にはいると、周囲の視線が一斉に賢治に集中した。この間に続いて二度目である。あの恐怖の立花先輩が、何故に来たのか。どうして賢治に着目しているのか。それが彼らの話題の中心であるらしい事は、視線で分かった。

興味の視線が、賢治を突き刺す。にやにや笑っている男子も少なくなかった。ゲスの勘ぐりという奴だ。彼らが喜ぶような事など、何一つ無い。そればかりか、悪夢の真っ最中だ。

勝手に笑っていろと、賢治は毒づく。その余裕が出来始めていた。彼らがどんな噂を流そうが、知った事か。もう一つ、心の中で吐き捨てた。

ろくでもない事というのは、他でもない。立花先輩の話によると、賢治は部下だという。これは軍のミッションであり、立花先輩は上官となるわけだ。

授業でも将来の入軍を考えて、組織の説明や、様々な知識の習得は行っている。マーシャルアーツをはじめとする格闘技の習得や、サバイバル訓練もある。軍組織の説明も行われる。そんな軍教育の一つが、軍内での、上下関係の重要さだ。もちろん権力に任せて下の人間をいびるような行為は問題外だが、一瞬の判断ミスが全軍の崩壊を招く軍では、組織の構築は絶対なのである。

だから、分かる。立花先輩に逆らう事は許されない。普通の人だったらまだ良いかもしれない。悪魔とか鬼神とか噂される、あの立花先輩の配下に入ったのである。よりにもよって、あの人の下になったと言っても良い。

代わって欲しければ、いつでもそう言え。代わってやる。賢治は毒づく。誰にも聞こえないように、心の中でだが。その枷も外れそうになってきている。ふと気を抜くと、本能のまま暴れそうだ。

立花先輩の指摘通り、このミッションに拒否権など無い。下手に逃げ出そうものなら、最悪消される。不幸などとは、別に思わない。今までも、ずっと似たようなものだったからだ。

教室に蛍先生が入ってきたので、思わず背筋を伸ばしてしまう。ウェーブした髪が綺麗な、糸目で長身の先生だ。過激な実験が男子生徒には受けが良く、逆に女子はいつも授業を怖がっている。この間は粉塵爆発の実験を行っていて、何人か女子が悲鳴を上げているのを賢治は見た。少しだけ溜飲が下がった。だが、今後はそれもなさそうだ。この人も、軍のミッションに参加しているのだそうだから。立花先輩の言葉を思い出す限り、参加している人間には、それぞれ情報公開レベルがあるはず。あまり大っぴらに、何か喋る事はまだ出来ない。

過激な蛍先生の授業は別に嫌いではないが、今日は一日針の筵に座る事になりそうだと、賢治は思った。幸い、今日は実験ではなく、その前段階の理論説明だった。小さく嘆息する。不審に思われていないか、それが怖い。蛍先生なら、不審な動きを見せたら実験に見せかけて殺すくらいやりかねないと、賢治は思った。

周囲の誰もが疑わしい。蛍先生は基本的に得体が知れない人なので、裏で何をしているのかよく分からない。周囲の男子も女子も全員信用できない。誰が立花先輩に、今日の賢治の挙動を密告しているか知れたものではない。どの男子も賢治に比べれば強いが、それでも立花先輩に目を付けられたらひとたまりもないだろう。一ひねりに潰されて、何でも言う事を聞いてしまうに違いない。

いつもよりも更に視線が怖い。もちろん、授業の内容など、殆ど頭に入らなかった。それでもいつもより長く感じるのは、周囲の全てが怖くて、無意識に備えているからだろう。いつも反応をおもしろがって話しかけてくる女子も、今日は近寄ってこない。多分立花先輩が怖いのだろう。

昼食も、もちろん皆とは違う場所で食べる事にした。殆どの人は安くてリーズナブルな食堂に行くのだが、今日は屋上にした。静名に作ってもらった弁当があるのだ。急に言って作ってもらったので、中身は朝食と同じだが。冷えてしまっているが、それでも美味しい。弁当箱の隅にこびりついたベーコンの油でさえ愛おしかった。

誰かに頼りたいと、賢治は思っているのかも知れない。ふとそれに気付いた。両親をはじめとして、賢治が心の支えにする事が出来た人は、誰もいなかった。だから、あれほど無愛想で気味が悪い軍用ロボットの作った弁当をありがたがって食べているのではないだろうか。おっかない先輩に話しかけられただけで、少し安堵してしまっているのではないだろうか。

そう分析してみると、自分の弱さがますます感じられてしまう。脆弱な自分。変わろうにも無理だ。切っ掛けもないし、自分の身の程だって理解している。情けない。昔、こういう性質を女々しいとか言ったはずだ。現在は一種の差別用語となっている上に、現実にそぐわないので衰退してしまった言葉であるが、多分自分は、典型的なそれなのだろうと賢治は思った。

弁当を食べ終わると、もの凄く胃にもたれた。午後の授業が辛い。出ているだけでも、さぼるよりはマシだ。人間の脳は記憶した事は忘れない。ぼんやりと聞いているだけでも、後の補填作業である催眠学習の時、随分脳の負担が小さくなって、楽になるのだ。だが、足が重い。弁当をしまって立ち上がろうとしたが、何度やっても足が床に張り付いたようで、動かなかった。

何度か同じ状況を味わった事がある。

今まで、虐めを受けた事はない。だが、学校が今よりも嫌だった時期は何度もあった。その時は、足が張り付いたようになって、自室を出られなかった。

深呼吸する。我慢しろ、我慢しろ。言い聞かせて、ゆっくり体を動かす。どうにか、足が床から離れた。授業に出なければならない。出なければならないのだ。言い聞かせて、一歩ずつ。

屋上の戸に辿り着いた時には、何とか歩けるようになっていた。

自分が嫌いだ。賢治ははっきりその時自覚した。強くなりたい。先輩のように強くなれたらどれだけ幸せだろう。そうも思った。

教室にどう帰ったのか、全く覚えていない。午後の授業をぼんやりと聞いている内に、放課後。携帯端末が鳴る。開くと、科学室に集まるようにと、先輩のお達しだ。ため息が出る。逆らうという選択肢は存在しない。

「なんだ。 魔王立花先輩とデートか? その場で頭から食われないように、せいぜい気ぃつけろよ?」

大柄なクラスメイトの男子が、賢治をみてけらけらと笑った。一瞥すると、鼻白む。一歩下がって、笑顔を作った。

「じょ、冗談だよ。 そんな顔するなよ、なあ」

「そんな顔だって?」

「わ、分かった。 落ち着け、な? 俺が悪かったよ」

逃げるように、何人かの男子が教室を出て行った。ひそひそ話していた女子達を見ると、小さく悲鳴を上げる。今までにない経験だった。鏡に、試しに自分の顔を写してみる。PCと一体化している机を少し操作すると、鏡に出来るのだ。

特に、変わったようには見えなかった。相変わらず、女のような小作りの顔。小さくため息をつくと、机の電源を落とし、鞄を手に科学室に向かった。教室を出る賢治を、何人かが見送っていた。相変わらずひそひそと話していた。

 

家にたどり着くと、良い香りがしていた。朝と同じだ。あの戦闘用ロボットが、料理を作っているのだろう。そうだ、静名って言うんだった。自分で名付けたのに、他人事のように思い出した。

疲れ果てて、鞄を持つのがやっとの状況だった。そのままベットに倒れ込みたい気分である。精神的な疲労だけではない。肉体的な疲弊も酷かった。科学室に呼び出された後、二時間にわたって任務の説明を受けた。最悪、テロリストに襲撃される可能性もあるという言葉にはおののいた。それ以上に最悪なのは、その後体育館に連れ出されて、カラテ部の人間達と組み手をさせられたと言う事である。

勝てる訳がない。喧嘩はやって慣れるなどと立花先輩は言っていたが、腰が引けている人間に、何かできるとでも本気で思っているのだろうか。二回組み手で手もなく捻られる賢治を見て気の毒に思ったか、カラテ部の人たちは比較的親切にしてくれて、突きのやり方や、受け身の取り方を懇切丁寧に教え込んでくれた。だが、その間胸や腰に妙な視線を感じ続けていて、気色悪くて仕方がなかった。女の立花先輩のを見ろと、何度も言いたくなったほどである。

散々絞られた挙げ句、早朝のランニングをするようにと命令された。もちろん、逆らう権利はない。それどころか、居間にはいると、静名はとんでもない事を言った。

「明日早朝から、ランニングを行う際には、私も同行します」

「あー。 うん」

「体力から考えて、最初は一キロ程からにしましょう。 今晩は明日のランニングに備えて、エネルギー効率が良い食事を準備しておきました」

「うん。 分かった」

機械的に頷く。泣きたい。今の会話で分かったが、学校の中の事は、この軍用ロボットに筒抜けだ。おそらく、逆もしかりであろう。何かしらの方法で、先輩と情報がリンクしているのだろう。

このロボットはセクサロイドも兼ねていると聞く。だが、もし抱こうものなら、確実にその一挙一動が立花先輩にもあのレイ中佐にも知られる事だろう。文字通り、冗談ではない。色っぽい肌の質感は、却って目の毒だ。拷問の一種でしかない。年頃である賢治は、それなりに性的な欲求もある。静名の動きを見れば、心も動く。だが、それ以上に羞恥心も強い。これ以上あの立花先輩に弱みを握られるのは勘弁して欲しかった。

レバーを中心とした食事が出てきた。疲れているのに、これを食べるのは少し辛い。だが食べざるを得ない。じっと静名は此方を見ていた。風呂に入りますかと言われたので、食事が終わってからと応える。考えてみれば、風呂も監視されている可能性が高い。ぞっとした。

布団に入っても、よく眠れなかった。目が覚めている時は悪夢だが、布団に入ってからも同じだった。頭が恐怖に冴えて眠れない。そこら中に目があるような気がした。暗闇の中、思い出すのは帰ってくる度に違う男を連れ込む母の事。凶暴そうな男の中には、もちろん賢治に暴力を振るう者もいた。母はそれを見て、何も言わなかった。それどころか、むしろ一緒に笑ってさえいた。

夜中には、もちろん賢治がいようがいまいが関係無しに、大きな声を上げて交わっていた。性的な興奮を覚えるのと同時に、怖かった。それ以来だろうか。女に対して、致命的な嫌悪感を抱くようになったのは。大人向けの創作などを見ると、こういう女の方が「自立していて」「大人っぽい」と形容される事がある。だからこそ、賢治は周囲にも警戒を抱くようになった。根本的に感性が合わない事が、このことからもはっきりしているからだ。感性が合わない人間が、社会の中でどういう扱いを受けるか。魔女狩りの例を出すまでもなく、結果は迫害だ。いつ、そうなってもおかしくなかった。

ふとベットの脇を見ると、ナイフがあった。手首を切ろうかと、一瞬考える。だが、切っただけではまず死ねない事も思い出す。やるなら、お湯を張って、その中で血管に沿って縦に切るくらいはしなければ駄目だ。ナイフに手を伸ばす。呼吸が荒くなる。指先が震えた。まさぐるようにナイフを掴んで、気付く。それは何かを裂くための刃物ではなく、紙を切るためのペーパーナイフに過ぎないと。

乾いた笑いが漏れる。どうやら、自死する事さえ出来ないらしい。ナイフを放り出すと、もう一つ、賢治は笑った。虚しいだけだった。

気がつくと、目が覚めていた。なり始めた目覚まし時計を止める。いつもより睡眠時間が短いはずなのに、どうしてか不思議と疲れていなかった。起き出してみて、その理由が分かった。疲れていないのではない。目が、醒めていないのだ。

再び目を開ける。起きる夢を見たのだと、知った。それだけ精神的に追い詰められているのだとも。

外はまだ暗い。頭は以上にぼんやりしていて、霞が掛かったかのようだった。母の愛人に無理矢理酒を飲まされた事があったが、その時のような感触だ。うつらうつらとしている内に、部屋をノックする音が聞こえた。乱暴すぎず弱すぎず、苛立つほど適切な音だ。

「おはようございます。 賢治様」

「おはよう」

「起きてください。 ランニングの時間です」

逆らう権利はない。相手がロボットだから一時的に拒否は出来るが、そんな事をすれば後で立花先輩に八つ裂きにされる。冗談抜きに、あの人は賢治くらいなら素手で殺せるだろう。引きずられるように起きて、部屋を出る。仏頂面の静名は不意に手首を握ると、言う。

「血圧、体温正常。 疲労は少し蓄積しているようですが、問題はないでしょう」

「そう」

不意に掌で口を押さえられる。しっとりして冷たい静名の肌は、数秒賢治の口を押さえていた。手を離してくれた時は、目が覚めて、心臓がどきどきしていた。唇に着いた僅かな唾液と息からバイタルの情報を得ている事は分かるのだが、それでも少し刺激が強い。

「血中成分にも異常なし。 ストレスが強いようですが、大丈夫でしょうか。 ストレス発散には性行為が適切ですが、ランニング前にしましょうか。 時間的には多少の余裕があります」

「い、いや、いい。 いいから」

真っ赤になって、賢治は首を横に振る。あれだけ女に嫌悪感があるのに、色気を感じる相手にこんな事を言われると真っ赤になってしまうのは、発情期の男子のさがであろうか。見ると静名はジャージに着替えていて、いつでも外に出られる準備を整えていた。

学校に行っている間、生活物資を静名は幾つか整えてくれていた。ジャージもその一つだ。機能性に特化した衣服として有名なジャージは、見た目はともかく運動に最適である。着ると、ぴったりだった。この辺りは、色々と個人情報を引きずり出しているのだろう。非合法なやり方で。

着替え終わると、既に静名が待っていた。ランニングが終わった後に食べる食事を、気密式ラップで包んでいた。

「賢治様は、スポーツの経験はおありですか?」

「体育でしかないよ」

体育は昔と随分違っていると、賢治は聞いた事がある。まず机上での授業をした後、催眠学習で基礎的な体の動かし方などを脳に叩き込む。だからどんなに運動音痴な人間でも、走る際の体重移動や、ボールの投げ方受け取り方、受け身のやり方などは知っている。これは事故を避けるための措置だ。だがそれも一部の知識でしかない。受け身はマーシャルアーツのものしかないので、空手などは自己学習しなければならない。走り方も平面的な場所を想定しているので、山などを走るやり方は分からない。

「今回のランニングは、現在の賢治様の基礎体力を増大させる目的で行います」

「確かに、僕、体力ないもんね」

自嘲する賢治だったが、静名の受け答えは予想の上を行っていた。

「そう言う問題ではなく。 私に対処できないテロリストの戦力が現れた場合、自力で逃げて貰うためには、ある程度の体力と戦闘知識が必要だと言う事です。 テロリストの出現対処を前提とした能力が、私には与えられています」

「こ、怖いこと、言わないでくれよ!」

「事実です。 事実に恐怖していては、生きてはいけません」

正論で切り返されて、賢治はぐうの音も出なかった。二人で外に出て、ストレッチから始める。やはり睡眠不足だからか、時々頭がくらくらした。いや、単に体力が無いだけだ。己の弱々しさが、こんな事でも明らかになる。少しは鍛えた方が良いかとも、自分で思う。他の男子の妙な視線を避けるには、この方が良いかもしれない。

一通り体を動かし終わると、少しずつ空が明るくなり始めた。

静名はストレッチの時も此方を見ていた。恐らく筋肉などの様子をスキャンして、賢治の能力を分析しているのだろう。護衛のためのプランなどを、高速で練り上げているに違いない。

「私がペースメーカーになります。 無理だと思ったら、すぐに言ってください」

「うん、分かった」

「それでは、走ります」

さっと静名が走り始める。ついで地を蹴る。最初はゆっくりだったが、徐々に静名は速度を上げていった。ついて行けなくなりそうになると、心持ち速度を落としてくれる。これは優しさではなく、的確に鍛え上げるためだろう。

さっきの生々しい手の感触と、ロボットらしいストレートな言葉が、まだ耳には残っている。特に挑発的な響きはなかったのだが、無機質なところが逆に心を揺さぶる。理想的なフォームで疾走する静名の後ろ姿は、女らしくて、やはり目に毒だった。生唾を、何度か飲み込んでしまう。目をそらすと置いて行かれそうになり、慌てて後を急いで追う。

悩み苦しみながらだったから、気付くのに遅れた。いつの間にか、隣に立花先輩と、もう一人いた。

「おはよー、被名島」

「うわっ! おはようございます、立花先輩。 それと」

「おはようございます。 ルーフと呼んでください」

随分無邪気な笑顔を浮かべる人だった。立花先輩より心持ち背が高い。金髪で、目はブルー。人形のように整った顔立ちで、優しそうと言うよりも天真爛漫そうな印象がある。小柄なのにきちんと女らしい体型をしていて、そこは立花先輩とは大きな違いだった。生粋のお嬢様のような感触があるのは、気のせいではないだろう。

更に後ろに、長身のメイドロボットの姿を確認。立花先輩の監視に着いている軍用ロボットであろうか。

「遅いなあ。 先行くよ」

「あ、はい。 すみません」

「ルーフさん、行こう。 フォルトナー! ペース上げるからねー! 遅れると、護衛できないよー!」

元気の有り余っている立花先輩。5キロや6キロのマラソンで、この人が体力を消耗しきる事は無いような気がする。元気が余りすぎている分粗暴な印象のある立花先輩とは対照的に、走りながらルーフと呼ばれた女の人は、上品に頭を下げた。

「それでは、お先に」

二人はそれこそ疾風のように駆け去っていった。二人とは違う方向に静名が曲がったので、慌てて賢治は後を追う。テロリストと言われた時点で、気が気ではなかった。

ぐるっと家の周囲を回ってきたのだと、それで分かった。見覚えのある路地に入っていたからだ。何度かペースが崩れたからか、疲労が酷い。或いは、単に体力がないからか。地面にへばって息をしていると、すぐ側に静名が立った。疲労の度合いを分析しているのだろうか。

「明日からは、100メートル距離を増やしましょう。 まだ体力的にはかなり余裕がある様子ですので」

「……任せるよ」

日常でも、もう平穏はないらしい。賢治は空を見た。太陽が、地平の果てを登り始めていた。朝日が、住宅街を縫って差し込んでくる。綺麗だが、それを楽しむ精神的な余裕はなかった。

適当に運動したからか、朝食は不愉快なくらいに美味かった。美味しいとほめても、相変わらず静名は仏頂面だった。

 

3,邂逅

 

賢治が学校に行った事を確認すると、静名はリンクしている数体の軍用ロボットと情報交換を開始した。最終的にレポートにまとめるのは、サーバの役割を果たしている静名だから、その分負担も大きい。

数分でデータをまとめ上げると、レイミティ中佐に転送。すぐにホットライン開設要求があり、それに応じる。ロボットとのやりとりだからか、レイ中佐はいきなり本題に入ってきた。

「見たところ、賢治君、かなりストレスがたまっている様子だけれど、負担が掛からないように調整している?」

「色々試していますが、負担の減少に効果があるものがありません。 もっとも適切にストレスを排除できると判断した性的交渉を持ちかけましたが、断られてしまいましたし、今後も対処策を練る必要がありそうです」

「ああ、所詮は軍用のロボットねえ。 何て言うんだっけ、こういうの。 ああ、思い出したわ。 脳筋だったか」

「どういう意味でしょうか」

頭を抱えた様子のレイミティ中佐に、静名は疑問を返す。腕組みして考えていた中佐は、しばしして言う。

「年頃の男の子は結構難しいものよ。 下手すると、同年代の女の子よりデリケートだったりするものなの。 ましてあの子は歪んだ形でマザーコンプレックスが残ってるみたいだから、下手に挑発的な行動は慎む事。 下手すると、完全に女性不信になって、任務どころじゃなくなるわよ」

「仰せのままに」

「多分、あの子の時間を増やしてあげると効果的だと思うわ。 私が見たところ、あの子、結構頭が良いから、貴方を通じて全部情報が筒抜けになっているって、敏感に悟ってるんだと思うの。 だから、少しは自分の時間を作れるように、調整してあげなさい。 今のところテロの危険はないから、警備レベルを一つくらい下げても大丈夫よ。 特に寝室は盗聴しないようにしてあげなさい」

「仰せのままに。 スケジュールを調整します」

ホットラインが切れた。

国家としても重要なこのプロジェクトだが、決して資金は無限ではない。それは、静名の存在にも、強く表れている。

静名はプロトタイプの軍用ロボットで、最新型の候補にも挙がっていた型式である。ただし、表情を作るプログラムに致命的なバグがある事が判明し、結果不採用となった。兵士達のストレスを考えると、ロボットの表情は重要な要素であり、決してバカには出来ないものなのだ。

結局プログラムは解消されることなく、静名は此方の仕事に回された。改良型が作られているという話だが、静名自身は知らない。人間が作る以上プログラムには限界もあるし、ひょっとすると改良プログラムは永遠に作られないかも知れない。プログラム作成には労力もいるし、何よりも手間を掛ける意味がないからだ。

戦闘能力を重視したため、他の欠陥も少なくない。さっきレイミティ中佐が頭を抱えていたが、人間の思考の不理解も欠点の一つだ。家庭用のメイドロボットなどと比べ、より複雑な分析を行う分、却って細部では正確な判断がしづらいのだ。大人の兵士はその辺が分かり易いのだが、思春期の民間人を相手にするには難しい。幾つかの要因から賢治が静名に対して発情していると判断したからこそ、性的交渉によるストレスの発散を持ちかけたのだが、却って負担を掛けてしまったのはその最たる例であろう。もっと多くの情報をデータベースに蓄えていかないと、今後の仕事は更に難しくなるかも知れない。

一通り仕事を済ませると、情報収集を行う。それも終わると、賢治の夕食の献立と、今後のスケジュールの組み立てだ。フォルトナの話によると、キャムティールはかなり賢治を買っているらしく、そろそろ例のスキマ一家に正式に接触させる可能性が高いのだそうだ。本人にはかなり厳しく接しているが、確かにキャムティールは賢治の頭の良さを見抜いている風がある。任務の事もあるし、確かに妥当なところなのかも知れない。

数日分の食料を買い込んで帰ると、新しい情報が入った。ホットラインをつなぐ。出たのはフォルトナだ。話を聞く限り、どうやら、悠長に食事を作っている暇はなさそうだった。

警戒レベルを引き上げる。レイミティ中佐にも状況を報告。増援を依頼する。スキマ一家の防備は良いとしても、学校の周辺を固める必要がある。それも、生徒達には気付かれないようにだ。

軍用サテライトと即座に同調し、サーバとなる。サテライトは最新型ではないのだが、同調機能はまだまだ生きていて、ちゃんとした偵察機能を貸し出してくれた。また、サーバからバックアップして貰い、リンク機能も強化する。動いて貰うのはフォルトナだ。自身も動くが、あくまでバックアップとサポートに徹する事となる。

ジャージのままだが、それが却って丁度いい。靴箱の奧に隠してある、対ロボット用のロケットランチャーを引っ張り出す。現在のロケットランチャーは全長50センチほどで、しかも直径が5センチ程度と偽装が容易だ。ただ、これを使わなければいけない事態は、おそらく来ないだろう。大型の多脚型戦闘ロボットでも出てこない限り、素手で対処できる。今回想定される相手は、最高でも二世代前の戦闘ロボットだ。

家を出ると、フォルトナとリンクをつなぐ。すぐに二人同時に動き出す。長細い鞄を持って道を走る静名を見て、通行人が怪訝そうな視線を投げかけてきた。

 

学校についた賢治は、ようやく一人になる事が出来て安心していた。此処しばらくの昼休みは屋上に行く事が基本となっていた。教室にいたら、立花先輩が来るかも知れない。食堂も同じだ。

此処の良いところは、監視カメラがない事だ。多分途中の通路にはあるだろうが、少なくともこの屋上は、フリースペースとして開放されている。このため、夕刻にはカップルが来る事もあるという。

だが、所詮は高校生だ。昼飯時は、孤独が好きだったり、一人で食事をする習慣がある者が集まっている。虐めの温床になるのではないかという懸念も最初はあったのだが、賢治が知る限り、此処で虐めが行われているという報告はない。賢治も、見た事はない。

静名が作った弁当を、一心不乱に口に入れる。やはり悔しいくらいに美味しい。それほど食が太い方ではない賢治なのに、瞬く間に平らげてしまった。冷凍食品も悪くはないのだが、それでもやはり手作りの方が良い。

今度は自分で作ってみようかと、弁当箱を閉じながら賢治は思う。ロボットである静名に、こんなに美味しいものが作れるのだ。料理は奥が深いと聞くし、ひょっとすると何か掴めるかも知れない。それに、しっかりした料理を食べ終えた後は、何だか少し幸せになる。これが幸せというものなのかと、気がついて驚く。

弁当箱を包み終えると、教室に戻る。授業は相変わらず苦痛でしかないが、それでも美味しい弁当を食べた後だと、少しは頭にはいる。ふと、窓の外を見て、驚かされる。いるはずのない人物を、其処に見たからだ。

静名だ。見間違えるはずがない。学校から見える住宅街の一角、ジャージ姿で、しかも屋根に張り付いている。何が起こったのだろうか。だが、自問自答する暇さえなかった。すぐに静名は消えてしまった。

「被名島!」

教師に名を呼ばれる。ホワイトボードには数式が表示されていた。もちろんろくに応える事も出来ず、賢治は少し悔しかった。

 

科学室に呼び出されたのは、放課後の事であった。入ってみて驚いたのは、レイ中佐が来ている事だ。しかも、いつもと違い、雰囲気がぴりぴりしている。

基本的に科学室は無人だが、その代わり事故を考慮して非常に頑丈に作られている。何だか嫌な予感がする。実験用の長机の上に、ぽんと置かれている段ボールも気になる。しかもその中から、ずっとガサガサ音がしているのだ。

「遅かったね」

「すみません。 ホームルームが長引いたので。 それより、静名が学校の側にいたみたいなんですけど、何か知っていますか?」

「……」

レイ中佐が嘆息して、頷いた。頭を掻いて、ツインテールの髪を揺らしながら、面倒くさそうに立花先輩が言う。

「ちょっと重要人物が来ていてね。 情報は漏れていないと思うけど、学校へのテロは絶対に許されないから、周囲に厳戒態勢を敷いているの」

「そんな。 一体、どんな人なんですか」

科学室の戸を、レイ中佐が閉める。戸の近くにある端末を操作して、幾つかの命令を打ち込んでいる内に、部屋の灯りが一瞬落ちた。冷や汗が出たが、この部屋をネットワークから完全に遮断したのだと気付いて、一安心。戸にも鍵が掛けられ、此処は完全に隔離された空間と化した。

もちろん軍事兵器の攻撃を受ければひとたまりもない脆弱な空間ではあるが、しかし人間が内側から破るのも、外側から砕くのも難しい。しかも外を軍人がかなりの数と、軍用ロボットが何体か、隠密で護衛しているのは間違いない。緊張する。もし殺気だったテロリストが学校に入ってきて、この教室を発見でもしたら、それこそ賢治には何も出来ない。逃げる事さえ、できないだろう。恐怖がせり上がってくる。更にそれを加速したのは、段ボールの中ではい回る無数の何かの音だ。昆虫か、或いはもっと違う動物か。生唾を飲み込んでしまう。

若干緊張した様子ではあったが、それでもレイ中佐は軍人であるからか、落ち着いていて。不可解な事を言う。

「ルーフさん、もう良いですよ」

段ボールの中の音が、一段と激しくなり、とある一点を境に、次第に静かになっていった。何が起こったのか分からぬうちに、衣擦れの音。段ボールはそれほど大きくはなかったはずだが、その中から響いているような気がする。得体の知れない恐怖が、更にふくれあがる。そういえば。ルーフと言われていたのは、あの金髪の娘だ。年は自分と同じか少し上。純粋そうで、だが少し危なっかしい感じがする人だった。

不意に、段ボールから顔が出てくる。固まっていた賢治は、辺りを見回すそれが、朝のランニングで、立花先輩と一緒に走っていた人物と同じである事に気付いた。違う点があるとすれば、裸の肩が露出している事だろう。不可解な点もある。段ボールが、中に人が入っているにしては、小さすぎるのだ。膝を抱えて入っているにしても、体積がおかしい。一体、何が起こっているのだろうか。

「ジャージ、貸していただけます?」

「ごめんねルーフさん。 そんな狭いところに閉じこめちゃって」

「これくらい、何でもありませんわ。 そんな事よりも、体を一つも潰さないで運んでくださって、此方の方が感謝しているくらいですわ」

訳が分からない会話だ。ジャージの上を渡されると、ルーフさんはそれを受け取って、着始める。ブラジャーを付けているのが見えて、思わず真っ赤になって賢治は視線を逸らす。その寸前、何かあり得ないものを見たような気がした。

体に、穴が、開いていなかったか。

振り返ると、ジャージの上を着込んだルーフさんが、今度は下を要求していた。段ボールから、するりと綺麗な白い裸足が出てくる。もの凄く生々しいものをみて目を背けるのと同時に、さっき見た不可解なものは、すっかり意識の表層から吹き飛んでいた。衣擦れの音が生々しくて、耳を塞ぎたいほどだ。周囲が全員異性だという状況で、何という恥ずかしいものを見せられ聞かされているのか。

衣擦れの音が止んで、段ボールからルーフさんが這いだしてくる。すっかり上下ともジャージに固めて、隙のない出で立ちだ。最初は素足だったが、今ではレースの靴下を履いていた。机から降りる彼女は、立花先輩の出した上履きを履くと、自分の着ているものをまじまじと眺めた。

「やっぱり、美しくありませんわ」

「分かってないなあ。 あたしが思うにね、機能こそが、美の根源! 世界の基幹にて、失われた古代文明! そして、全てを圧する未来への架け橋!」

「相変わらず訳の分からない事を。 でも、機能的だと言う事は何度か着てみて分かっていますし、良しとします」

目が合う。やはり、作り物としか思えない美しさだ。ロボットのものとはまた別の種類だが、しっかり正面から見てみると、驚かされる。

「あ、あの。 ええと」

「またお会いしましたね、被名島賢治さん。 わたくしの名前は、フィルアルドスルススルーフ。 あなた方の言葉では、十九の世代を重ねた偉大なる母胎という意味ですわ」

「は、はあ。 そうですか。 被名島賢治です。 よろしく、お願いします」

辺境には、変わった文化を保存している人たちもいると聞いた事がある。そういう人たちの中には、惑星を丸ごと買い取って、自分たちの文化で運営している場合もあるという。しかし、それにしてはこの容姿は妙だ。それに、十九の世代とか、偉大なる母胎とか、意味が分からない言葉が多すぎる。

「今回は保安上の問題から、家長である彼女だけに来て貰ったの」

「家長、ですか?」

「わたくしたちの文化は、地球時代のあなた方と似ておりまして。 基本的に多くの年を重ねた者から、家長になっていくのですわ」

「はあ。 そうなると、一家は子供ばかりなんですか?」

くっくっくと、立花先輩が笑う。何か見当外れの事を言ったらしい。その時、気付く。

テーブルの上で、横倒しになっている段ボール。其処から、何か這いだしてきた。クリップのように見えるが、自力で動いて這っている。最初、色はグリーンだったが、机の上を這っているうちにダークブルーになり、最後には赤になった。そして、さりげなくルーフさんが延ばした手の上に這い上がると、肌色になり。肌にしみこむようにして、消えたのである。

ぞくりとした。今、確かに変な虫が消えた。消えたというか、肌に飲み込まれていった。何かの寄生生物か。いや、それにしてはおかしい。肌に潜り込んだというのに、傷どころか、血の一滴さえ出ていない。

「見ての通りですわ」

「い、今のは、立体映像か何かですか?」

「現実の光景ですわよ。 ふふふふふ」

目を細めて、ルーフさんは上品に笑った。そして、賢治は知る事になった。この人が、人間ではないのだと。

「彼女は俗に言う宇宙人よ」

何だか、レイ中佐が訳の分からない事を言った気がする。

「あたしも始めて見た時は驚いたけどね。 くわしい説明はおいおいするけど、実は彼女、私たちで言うと相当な高齢の人間なんだよ。 もっとも、高齢で頭の働きが鈍るって訳じゃなくて、年を取るほどに優れていくようなんだけれどね」

つまり、それは。思考が追いつかない。何が起こっているのか。そして、自分は一体何をさせられるのか。

「具体的な説明はおいおいしていくけれど、彼女らスキマ一家と交流していく事が、貴方の任務になります」

「せいぜい頑張って貰うわよー。 何しろ、まだまだ我々の社会の常識なんて、半分もルーフさんには覚えて貰ってないんだから。 あたし達の任務は重要よ。 後の時代に来る、文明の相互交流のためにもね」

口々にレイ中佐と、立花先輩が言った。限界だった。目眩がして、机に手を突いてしまう。怪訝そうな表情のルーフさんには悪いが、叫んで踊り出しそうだった。

「ご、ごめんなさい。 ちょっと、状況を、整理させてください」

脳の中が、完全にパニックに陥っている。だから、それしか言えなかった。背中を撫でながら、レイ中佐が椅子に座らせてくれた。

理解できない。訳が分からない。

気がつくと、心配そうにルーフさんが顔を覗き込んでいた。今はその心配そうな顔に、反応する余力もなかった。

 

レイ中佐に背中を押されて部屋を出る賢治を見ながら、ルーフは少し意地悪く笑った。この笑い方は、キャムに教えて貰ったものだ。

「最初の頃の貴方みたいですわ。 あのときの貴方も、確か気絶しておしまいになられたんでしたわね」

「それは言わない約束。 先輩って舐められたらおしまいだから、絶対にいっちゃ駄目だよ」

「分かっていますわ。 ええと、何でしたっけ。 オリオンのベルトがごとく緩いんでしたっけ」

「それはお洒落を前にした、年頃の女の子の思考だってば」

携帯端末が鳴る。既に密閉状態は解除されている。外に展開している、フォルトナからの通信だろうとルーフは思った。正解だった。キャムの携帯端末を覗き込むと、フォルトナの端正な顔が映っていた。

「確認しましたが、危険ありません。 外に出ていらしても大丈夫です」

「うん、分かった。 ルーフさん、いこ」

「はいはい。 少しだけ、学校を見学させてくださいね」

キャムが端末を弄って聞いている。OKが出た。どうせ慣れてきたらこの学校にはいるのだし、それもいいかとでも、レイ中佐は思ったのだろう。キャムについて、歩き出す。壁の材質、天井の材質、何もかもが故郷とは違う。珍しい。もちろん故郷にも学校に類するところはあったが、このように区画的に分割されてはおらず、むしろカオスに満ちた場所であった。それに、学校に来るのなど、随分久しぶりだ。そう言った意味でも楽しい事である。

キャムは学校では有名人なのだと、後ろについて歩いているとよく分かる。キャムより年下の人間は畏怖の目で見ているし、同年代の人間は興味津々である。存在の近さによって、こうも印象が変わる人間は珍しいのではないかと、ルーフでさえも思う。時々ルーフにも視線が飛んでくるので、笑顔を作って上品に手を振る。男の子の中には、赤くなったりする者もいて、微笑ましい。人間の感情については分析中だ。自分たちのものとくらべると、ずっと瞬発的で、より性に対する衝動が強い事は分かっているが、それだけではくくれないほどに奥が深い。

面白くないものもある。学校の構造などは典型例だ。見ていて思うが、恐ろしく変化のない建物だ。壁の色はずっと同じだし、窓の材質も延々と変わらない。面白くないと思うだけではなく、実利的な被害もある。歩いている内に、ジャージで隠している部分の色がどんどん変わってきた。同じ色ばかり見ているからだ。

こんなところで急に肌の色や質感をごまかせなくなったらどうなるか、ルーフも十二分に承知している。群体の中で比較的操作率が高いものを優先して外気に晒している部分に集めて凌いでいるが、それにしてもこのままだと維持が難しくなる可能性もある。見苦しい事は確かだが、ジャージを貰って良かったとルーフは思った。複数の思考体が、そう結論している。擬態というのは、かなり難しいものなのだ。

「キャムさん、そろそろ帰りましょう」

「ん? ああ、ごめん、退屈だった? もう放課後だし、授業とかもやってないから、見るものもないよね」

「ええ、正直確かに退屈ですわ。 何というか、変化に乏しくて」

外を見ると、校庭という場所で、ボールを使ったスポーツを行っている青年達の姿。確かベースボールという奴だ。足を止めて見入ってしまう。知識としては知ってはいたが、間近で見るとまた違うものがある。

プロフェッショナルの試合では、基本的に皆必死で、楽しむ余地がなさそうだった。それに比べて、学生は生き生きとしていて、楽しんでいる様子がうかがえるのだ。恐らく生活と関係ないところで行っているからなのだろう。青い空の下で生き生きと動き回る学生達を見て、今度来た時は混ぜて貰いたいなと、ルーフは思った。既にルールは把握しているから、幾つかの問題をクリアできれば、参加は可能だ。

「キャムさん、部活動に入る事も出来ますの?」

「それはレイ中佐に頼んだ方が良いかもしれない、かな」

確かにキャムの言うとおりだ。人間と身体的な強度は大して変わらないが、瞬発的なエネルギーを要するスポーツをいきなりこなせるかとなると疑問が残る。体を構成する群体が、インパクトの瞬間に死んだりするかも知れないし、他のトラブルが発生する可能性も決して低くはないのだ。ある程度シミュレーションをこなしてからになる。レイ中佐に、その辺りはサポートを依頼したいところだ。

学校をキャムと一緒に出る。入り口の警備ロボットに、急造の学生証を見せると、きちんと通してくれた。外で一般人に扮して警護している軍人に、軽く一礼。向こうも帽子を軽く下げて、挨拶してくれた。いざというときに備えての護衛任務、ご苦労様である。今のところテロリストにスキマ一家がこの近辺にいるという情報は流れていないというし、あくまで念のためだが、それにしても厳重だ。

「窮屈でごめんね、ルーフさん」

「いいえ。 お気になさらずに」

「何処の国にも頭が固くて悪い奴っているらしくてさ、どーしよーもないよね。 ルーフさんが何か悪い事なんて、する訳がないのに」

自分の代わりに憤慨してくれているキャムの存在が、ルーフには嬉しい。思考体が特殊な分泌物を出す。反射的に、それで笑顔を作るように訓練していた。だから、キャムと笑いあう事が出来た。

ベルトウェイに乗ると、もう第一種警戒態勢は解除されたようだった。いつのまにかすぐ後ろにフォルトナがいて、軽く黙礼された。

 

指先に潜り込む、奇怪な生物の姿。宇宙人だという、ルーフさん。そして、これから交流を行わなければならないのだという。

ぞっとした。ルーフさんが、無数の虫となって、崩れ落ちる様を想像してしまったのだ。無数の虫は、崩れるだけでは飽きたらず、うごめき気色の悪い声を上げながら、賢治の足下から群がってきた。当然、全身を這い上がってくる。噛む。それだけではなく、大顎をふるって、体の中に潜り込んでくる。

失礼な事だとは分かっている。少し話しただけでも、ルーフさんが礼儀をわきまえた親切な人だと言う事は分かっている。だが、その想像は、あまりにも強烈だった。悲鳴を上げそうになる。

賢治は蒼白なまま、学校を出た。すぐ後ろに着いているレイ中佐が、呆れたようにため息をついた。彼女が携帯端末に手配すると、すぐにワゴン車が学校側の路地に来る。もちろん軍用車だろう。動きは異様に滑らかで、人間が運転しているとはとても思えない。だが、運転手には無愛想そうな巨漢が座っていて、ハンドルを操作しているのが見えた。相当に訓練を受けていると言う事だろう。

「乗って。 驚くのは分かっていたけれど、此処までとはね。 もう少し特性が高いと思っていたのだけれど」

「すみません」

「謝る事はないわ。 でも、ずっとこのままでは駄目よ。 いつまでも、貴方は子供ではないのだからね」

何故か謝ってしまっていた。ショックで、うまく頭が働かない。レイ中佐は怒った様子もなく、辛辣な事を言いながらも口調は柔らかかった。それが、却って辛い。ひょっとすると、怒って欲しいのかも知れない。

レイ中佐は賢治に続いてワゴンに乗り込んで、ドアを閉めた。ドアを閉める際の音が、妙に重い。防弾仕様なのだと思う。それが、余計に軍用だと言う事を意識させる。余計にテロの恐怖を身近に感じさせる。

窓を叩く音。びくりとして振り向くと、静名だった。ワゴンに乗り込んでくる。レイ中佐と賢治を挟むようにして、ロングチェアに座った。それを見届けてから、ワゴンが発車する。音もなく動き始めるワゴンは、賢治の自宅に向かった。ドライブを楽しむ精神的な余裕など、ない。

「すぐに立花さんも来るから、あまり緊張しないでいいわよ」

「はい、すみません」

「少し前から言おうと思っていたのだけれど、すぐに謝っては駄目よ。 別に君が悪い事をした訳ではないのだから。 何でもかんでも謝ってしまうと、悪い心根の人間に、つけいる隙を与える事になるわよ」

飲みなさいと言って、レイ中佐が紙パックのリンゴジュースをくれた。地球時代は保存料まみれだったというパック飲料だが、現在は保存技術の発達の結果、そんな事もない。言われるままに飲み干すと、もう家につく。リンゴジュースは好きなので、少しだけ落ち着いた。だが、これも調査済みだから出来た行動なのだろうとも思い、再び沈み込んでしまう。

レイ中佐の言葉通り、すぐに立花先輩は来た。自分一人では何ももてなしが出来ないが、静名がてきぱきと動いて茶を出してくれたので、とりあえず間は保った。間は保ったが、ますます劣等感が増してしまう。

基本的に、貧しい人間が暮らす官営住宅は、どれも構造が同じである。政府がホームレス救済策として始めた官給住宅制度だが、末端までは見栄が行き渡らないからだ。備品にも、ほとんど差はない。だから、立花先輩が迷う様子は無かった。とは言っても、ものには限度がある。すぐに居間に入ってくると、椅子の一つにちょこんと座る。まるで何年も前から住んでいるかのような慣れぶりに、賢治は恐怖心さえ抱いていた。

いちいち全てが自分と違う。度胸もそうだし、行動力も判断力も。羨ましいと思う前に、恐怖が先立ってしまう。萎縮した心は、なかなか飛翔へとは向かえないようである。

気性の荒い立花先輩の事だから、恐らく相当な雷が落ちるのだろうと、賢治は覚悟した。だが、先輩は別に怒ったそぶりもなかった。立花先輩はルーフさんと相当に仲が良いだろうから、余計に怒りは大きいと思ったのだが。拍子抜けする賢治の前で、立花先輩は意外な反応を見せる。

「レイ中佐、席を外してもらえますか?」

「任せても大丈夫?」

「大丈夫です。 被名島の気持ちは、あたしにも分かるつもりですから」

立花先輩は、不思議な事を言った。レイ中佐は笑顔のまま、席を外す。不意に、場が静かになって、賢治は生唾を飲み込んだ。

「そう萎縮しないでも良いってば。 ついでに、謝るのも禁止。 コメツキムシじゃないんだから」

「でも、その」

「ルーフさんが宇宙人ってのは本当だよ。 しかも、無数の群体が集まって、体を構成しているってのもね。 あたしもね、最初はすっごくびっくりしたんだから。 ほら、小首傾げない。 あたしはサイボーグでも完璧超人でもないよ」

不機嫌そうに先輩が言ったので、賢治は思わず背筋を伸ばしていた。でも、とても信じられない。この人が怯えたり、びっくりしたりするところは、どうしても想像できないからだ。

「説教する気は無いけど、これから一緒に任務する以上、キミにはもう少し強くなって欲しいとは思うかな」

「でも」

「被名島」

名字を呼ばれて、賢治は緊張した。だが立花先輩は特に感じ入った様子もなく、言った。少しずつ、賢治の前での先輩は、口数が多くなり始めていた。

「明日、ルーフさんについてもっと詳しく教えてあげる。 最初はどうしても慣れないと思うけれど、みんな普通の人間よりも、むしろ気のいい人たちだから」

「……」

「生活のために、何かを犠牲にしているのは、みんな同じだよ。 あたしもそう。 あのレイ中佐だってそう。 レイ中佐なんか、忙しすぎて、プライベートな時間なんて殆ど無いんじゃないのかな。 キミだけが周囲の都合に振り回されている訳じゃない。 だから、少しは元気出せ」

それが立花先輩らしい武骨な慰めの言葉だと言う事は分かった。それに、事実だとも。

あの虫の事は不気味だと思ったが、だが立花先輩は、ずっと生きている。ルーフさんは宇宙人かも知れないが、あんなに立花先輩と仲良くしているし、笑顔もかわしあっていた。だから、きっとその場で殺される訳でもないだろう。

明日は休日。立花先輩は、朝から迎えに来ると言った。それまでにしっかり気持ちの整理を付けておくように、とも。家を出る立花先輩の背中を見て、賢治は気付く。あの人が、人間として、自分を扱ってくれた事を。容姿などには見向きもせず、自分を一人の人間と見なして接してくれている事を。一人の人間に対して、自分も人間としてぶつかってきてくれた事を。

あの人になら、少しは期待しても良いのかも知れない。賢治はそう思い、頬を叩いた。覚悟を、決めておこうと思った。官営住宅にはいると、メールの到達を知らせるアラームランプが点滅していた。

 

4,異星の知性体

 

早朝。賢治が着替えを済ませた頃を見計らったように、チャイムが鳴った。玄関外の映像には、立花先輩が映っていた。制服を着ていない先輩は、ショートシャツにショートパンツというもの凄く活動的な格好である。これだけ肌の露出が多いにもかかわらず、色気の欠片もないのは微妙ではあったが。

そのままルーフさんの家に行くかと思ったのだが、違った。静名がついてきた事からも、何処か重要な施設に連れて行かれるのだと分かる。しばらくベルトウェイを歩いている内に、市街地から出てしまう。商店街に入って、ビル群の中を歩いて、やがて郊外に出た。郊外にあった小さな家に入る。以前目隠しをされて連れ込まれた場所ではなかった。恐らく、重要度が全く違う建物なのだろう。

小さな家だが、この星では珍しいオーダーメイドのものであり、入り口から全く構造が違った。X線探査装置で、入り口で持ち物検査をされた上に、玄関の鍵は四重になっていた。通常の家は、指紋と網膜認証の二重式だから、その堅固さがよく分かる。扉に触った時も、素材が違うのだと分かる。官営住宅の扉はざらざらしているのに、妙にしっとりしていたのだ。

玄関の中にはいると、昆虫型の戦闘ロボットが天井に張り付いて、此方を監視していた。腕には威圧的な銃火気が光っており、じっとモノアイが此方を見ていた。恐ろしい事この上ない。

「立花先輩」

「うん?」

「此処、入るのは初めてなんですか?」

「いや、三回目。 最初はキミみたいにびっくりしたけどね、今は平気だよ」

どうやら、昨日立花先輩が言ってくれた事は、嘘ではないらしい。それを知る事が出来て、賢治は胸をなで下ろす。家にはレイ中佐はいなかった。どうやら、立花先輩は今後レイ中佐の権限をかなり譲渡されるらしい。そうでもなければ、単独行動が許される訳が無いからだ。

内部の構造も官営住宅とは全く違っていた。居間は狭くなっていて、その代わり植物がかなり豊富に置いてある。地球産らしい植物が天井からも壁からもぶら下げられていて、まるで森林浴公園の中にいるような感覚がある。管理は恐らく、玄関で天井に張り付いていた昆虫型のロボットがやっているのだろう。手入れがやたら細かいので、それはほぼ間違いない。

居間の中央には、つり下げ式のテレビがある。下に向けて立体映像を作り出すタイプで、体感型映画館などで使われている形式だ。相当に高価なものであり、官営住宅に住んでいる人間は、殆ど持っていないはずだ。立花先輩がここに三回来たというの嘘ではないないらしく、殆どミスせずリモコンを操作して、データを呼び出していた。

四角い机の上で、映像が流れ始める。立花先輩はリモコンを投げ出すと、机を挟んで賢治の向こうに座った。緊張する賢治に、膝を揃えて手すり付きの小さな椅子にお行儀良く座った立花先輩は、少し柔らかい口調で言う。

「それじゃあ、彼らの勉強をしておこうか。 これって国家機密だから、余所で喋ったら殺されるからね」

「わ、分かってます」

「よろしい。 じゃあ、始めるよ。 織田信長が桶狭間で勝つくらいショッキングでびっくりな内容だから、気をつけなよ」

訳の分からないたとえと共に、立花先輩が、リモコンを操作した。きっと先輩も最初はかなり吃驚したのだろうと、賢治は思う。それに今、この部屋はこの間の科学室並みの電波密閉状態にあるのだろうとも、賢治は察した。

国家機密である警告文書がローディングされた後、宇宙空間の映像に切り替わる。賢治達が住んでいるフォルトレート民主立国の宇宙船が、音もなくどこかのアステロイド地帯を飛行していた。それも、一隻ではない。超大型の太陽級戦艦を中心として、七隻もの艦が隊を組んでいる。しかも武装から言って実戦態勢だ。

小首を傾げたのは、その内二隻が、この国の戦艦ではない事だ。どうも見た事があると思ったら、片方の驚くべき正体が知れた。軍事力強化による勢力伸長を強行していた法国の大軍を撃破し、国際情勢の安定を作り上げたと言われている生きた伝説。現在宇宙最強の用兵家と言われている、連合のアシハラ=ナナマ大将。その旗艦だ。確かオルヴィアーゼと言ったか。

生唾を飲み込む。オルヴィアーゼは世界でもっとも人気のある艦で、子供向きに玩具やゲーム、大人向きにはプラモデルなどのキットも多数発売されている。輝かしい戦歴と人類史上最長の活躍期間を持つ艦である。戦艦の中では中堅程度の大きさである木星級と呼ばれるサイズである事も特徴で、それがこの艦の人気を更に高める要因となっている。

こんな伝説の戦艦が、どうして立国の艦隊と一緒にいるのだろうか。更に途中から、二隻の艦が隊に合流する。こちらはなんと地球連邦の艦だ。とげとげしく威圧的なデザインである地球連邦艦は、最後尾について、油断無く辺りに警戒を行っていた。

しばらく小艦隊は音もなく宇宙空間を航行していたが、やがて子供が皮をむいたジャガイモのような、不格好な小惑星に着陸する。クレーターが無数に表面を覆うその小惑星は、直径30キロもないだろう。オルヴィアーゼだけは周回軌道で護衛に就いており、着陸しようとしない。宇宙空間の様子からして、かなり不安定な星系のようだ。辺りには無数の小惑星が漂っているのが見えた。

遠くに、光点が瞬く。それに対し、立国の艦隊も光信号で応答。やがて、近づいてきた真っ黒な艦。数は七隻。異様な形状をしていた。現在、宇宙戦艦は円錐形が基本となっているのだが、球状である。しかも武装が何処に着いているのかよく分からない。オルヴィアーゼが警戒する真横を、円形の艦が通り過ぎる。見たところ、オルヴィアーゼより一回り小さいが、戦ったらどちらが勝つかは分からないだろう。

そこで、思い当たる。この異様な形状の艦が、ルーフさん達「宇宙人」のものなのではないだろうか。

着陸した球形の艦から、連絡通路らしきものが延ばされる。立国の戦艦とすぐにドッキングが果たされる。賢治はやはり、と思った。ドッキングの形式は、各国で統一されている。球状の艦から伸びてきた通路は、賢治が見た事もないものであった。まるで生き物の触手のようである。

映像が切り替わる。見れば、立国の大統領が、四苦八苦しながらうねる連絡通路を進んでいた。通路は五人横に並んで歩けるほど広いようなのだが、まるで生き物の腸のように凹凸が激しく、しかも材質が分からない。赤黒いそれは、有機物にしか見えない。それに踏みしめるのに苦労している様子からして、本当にぬめぬめしているのかも知れない。仏頂面の護衛達も、その後に続いている。大統領は既に老境に掛かっているが、責任感のある言動で、非常に評判のいい人物である。今回のこの映像でも、率先して宇宙人の船に乗り込む辺り、なかなかの勇気を持つ事が伺われる。しかも、このような奇怪な通路を平然と進んでいるのだ。

驚いたのは、大統領と一緒にいるのが、SPだけではないと言う事だ。地球連邦の軍服を着た老人が数名。胸に付けている勲章から言って、かなりの高級軍人だろう。さらには、連合の軍服を着た人もいる。この人も、見覚えがある。あの英雄アシハラ=ナナマ将軍の姉であり、現在連合の総司令官である、ルパイド元帥だ。スーツ姿の人間達も何人かいて、みなかなりのVIPのようであった。

本当に各国のVIPが、考えられない密度で集結している。SP達も互いの動向に気を配りながらも、異様な通路を進まなければならないのを苦にしているようで、緊張しているのが一目で分かった。

連絡通路が終わる。緊張した様子のVIPに招かれて、最初に足を踏み入れたのが、大統領だった。それからルパイド元帥が続き、ぞろぞろと他のVIP達も入る。出迎えが無いのが気になる。現在も、大統領やルパイド元帥は健在だから、これから悲劇が起こる事はないだろうが、緊張した。

宇宙船の中は、通路と同じくよく分からない素材で出来ていた。気色が悪いのは、壁にも床にも定期的に小さな穴が開いているという事だ。それが賢治の生理的な嫌悪を誘う。赤黒い壁や床には所々球形の何かよく分からないものが埋め込まれていて、その中でうごめいているものが視認できた。多分生き物だろう。露骨に嫌そうな顔をして、地球連邦の軍人達は何か話し合っていた。唇を読まなくても、陰口であろう事は容易に推察出来る。VIPでも、品性下劣な人間は少なくないと言う事だ。

床からは定期的にテーブル状の突起が出ていて、それが光る事によって、大統領一行を誘導していた。何から何もが気味が悪い。狼狽している地球連邦の軍人に対して、堂々としているルパイド元帥と、平静を装っている大統領の落差が激しい。SP達でさえ困惑している中、ルパイド元帥に到っては、大統領に対して笑顔さえ浮かべていた。音声が入っていないので、何を喋っているのかは分からない。

まるで生き物の腹の中のような艦の中を行く内に、エレベーターに到着。全員は乗る事が出来ないようなので、最初SPが乗った。そして戻ってくる。手近なSPと話して、安全を確認した後、大統領とルパイド元帥が最初に、他の者達が続けてエレベーターを使用する。この時点で出迎えが出てきていないのが気になる。文化が違うと言っても、これだけのVIPが出てきている現状から言って、少しは合わせてきそうなものなのだが。

カメラを持っているのか付けているのかしている人間がエレベーターに乗ったのは、最後だった。エレベーターの中も相変わらず生物的な構造であったが、それが直後に一変する。

床は急に人類社会を思わせる、灰色の統一された壁に。天井には規則的なライトが並べられ、通路には標識信号が取り付けられていた。通路はかなり広く、十人並んで歩けるほどだ。急激に変貌した光景に、さっきの地球連邦の軍人達が、驚いてまたひそひそ声をかわしている。前方から来た数人の人影。前衛は昆虫型ロボットだった。護衛用のものだろう。ただ、造型がどれも、人類社会では考えられないものばかりだ。人類社会では球をベースにロボットを造型するのに、映像に出てきている連中は、本当に昆虫をそのまま機械にしたようにリアルなのだ。特に触角が生々しいほどに長い。

その後ろに、人間かと思われる男女がいた。誰もが小柄だが、しかし美しい。ただ、異常な雰囲気がある。皆服装がばらばらなのだ。

もし宇宙人との会合であれば、どちらも正装できそうなものだが、それはあくまで地球人の習慣だと言う事であろうか。或いは振り袖のようであったり、或いはスーツのようであったり、美しい人々の衣服はまちまちであった。更に髪の色もグリーンからゴールドまで様々で、統一感がない。だから、異質で、奇妙だった。異星人は皆子供のようであったが、これはひょっとすると、ルーフさんの言葉と一致していないだろうか。

はっとして、賢治は思い出す。確かルーフさんは家長だと言っていなかっただろうか。しかも、自身はかなりの高齢だと。その辺りが気になる。どういう意味なのだろうか。画像の中の人たちも、皆VIPで、高齢なのだろうか。もし高齢の存在がVIPを務めるのであれば、人類と文明的に共通点があるという事になる。

先頭の一番小柄な青年が、握手を求めて手を伸ばした。大統領が笑顔を作って握手を返す。音声は入っていないので、相変わらず何を喋っているのかは分からない。ただ、会話はかなり長かった。大統領が話し終えると、順番に全員が握手していく。ルパイド元帥が最後に話していたが、これも相当な時間が費やされていた。一通り、必要な情報を交換し、これからの事を話していたのだろう。

彼らの後について、大統領達が歩き出す。SP達はずっと昆虫型ロボットに気を配っていた。昆虫型ロボットもSPを警戒しているようで、時々互いに牽制していた。ほどなく、かなり大きなホール状の部屋に入る。天井は高く、床はすり鉢状にへこんでいて、数百はあろうかという席が放射状に並んでいた。中央部に空き席があり、VIP達はそこへ案内される。他の所には、どうしてか皆小柄な人ばかりが座っていた。やはり、この小柄な人たちも、皆VIPと言う事か。そうなると、地球人に比べて、非常に幼い容姿を持つと言う事なのだろうか。

賢治が小首を傾げていると、立花先輩が後で分かると言った。何か理由があるのだろうと思って見ている内に、すり鉢状のホール底で、大統領が非常に粗末でシンプルな衣服を纏った少女と向き合っていた。そのまま互いに握手して、書状を交わす。地球人に合わせて、「宇宙人」達が、見よう見まねで拍手を行っていた。

一度、それで映像が切れる。立花先輩が、リモコンを操作しながら言う。

「ルーフさんの種族と、人類は、今極めてデリケートな交友関係を結んでいるんだ。 見ての通りね」

「ええ。 いまだに信じられません」

人類の歴史上、いまだ高い知性を持つ生物との接触はない。最高のものでイヌ程度の知性しか持っておらず、各界の著名人も、エイリアンの存在には否定的だ。

昔と違い、催眠学習システムと、強化ナノマシンの普及によって、人類の能力は地球時代に比べて、体力、知力共に大幅に底上げされている。高校生でも、最新の学説のデータベースにアクセスする事は出来るし、理論も理解できる事が多い。頭の悪い賢治も、学習では苦労はしているが、その辺りはしっかり理解している。

だから、エイリアンがいて、それと既に接触が果たされているというのは、衝撃的だった。本当に各国で最高機密クラスの極秘事項なのだろう。ならば、何故に、こんな普通の、いや普通以下の高校生が動員されて、それとの接触プロジェクトが行われているのか。賢治には不可解だった。立花先輩だったら、まだ分かる。昨日少し学校のデータベースを見せて貰ったのだが、能力はやはり基礎から軒並み高い。運動能力は特筆すべきレベルで、とても賢治が対抗できる領域ではなかった。

色々疑問は浮かぶが、今は話を聞くべきだろう。そう思った賢治は、立花先輩の言葉に耳を傾ける。

立花先輩の操作が終わった。新しい立体映像が動き始める。これも機密だと釘を刺すと、先輩はなおも言う。

「ルーフさん達と、こんなに慎重に接触している理由は分かる?」

「何ででしょうか。 細菌によるバイオハザードとかを警戒しているとか、友好を装って近づいてきた所を、攻撃されるのを心配している、とかですか? どちらもありそうですけれど」

「どっちも正解。 ただ、ちょっと事情はもう少し複雑でね」

映像が動き始める。

賢治が恐怖で固まるのに、そう時間は掛からなかった。震えが全身から這い上がってくる。映像は、賢治の恐怖を、あまりにもストレートに刺激した。

「もっとも大きな理由は、彼らが非常に友好的で理性的な種族であるというのに、地球人の生理的嫌悪感を強く刺激すると言う事にあるんじゃないのかな。 あたしはもう慣れたけど、嫌な人は耐えられないだろうし」

声が出ない。怖くて、動けない。椅子に張り付いたように、賢治は動けなかった。先輩は煎餅を食べながら、平然と言う。

「つまり、問題は、人間の方にあるって言う事」

何を言っているのか、理解できない。なおも先輩は、煎餅を口に入れた。

「確かにあたしも最初はびっくりしたけど。 はやくルーフさん達の種族と、仲良く出来る日が来ると良いんだけれどね」

ようやく、生唾を飲み込む。それだけの事に、膨大な精神力が必要だった。

見てしまった。見てしまったのだ。

最初、無数の生物が映像の中でうごめいていた。クリップに似ていた。嫌な予感が確信に変わったのは、それがルーフさんの指先に潜り込んだのと、同じ形をしている事に気付いたからだ。

無数の小さな生物が、寄り集まって、形を為していく。うぞうぞとうごめくそれが、徐々に人間の形になっていく。赤黒い表皮が、徐々に肌色に。やがて、一糸まとわぬ少年の姿に。ただし体の彼方此方には穴が開いていて、そこからはうごめく生物の姿がよく見えていた。

歯の根が合わない。

あのとき。科学室にいた時。段ボールの中には。

段ボールの中では。

これと、同じ事が行われて、ルーフさんの体が、形作られていたのだ。

悲鳴を上げなかったのは、賢治としては上出来だっただろう。あれは、見間違えではなかったのだ。ルーフさんの美しい肌は、無数の細かい生物が寄り集まり、出来たものだったのだ。体積から考えて露骨におかしいルーフさんの動きも、それで説明できる。段ボールの中で、あの人は構成途中だったのだ。

映像のように、最初は生首が出来たのだろうか。それから徐々にからだが作り上げられていった。骨から、内臓から、最後に皮膚が。だがそれは見せかけの形で、中身は無数の虫のような生物なのだ。

吐き気がこみ上げてくる。ルーフさんが人間の姿をしていて、同じように動いていて、喋っていたからこそ、それは強烈だった。中途半端に人間の姿をしている生物が、一番生理的な嫌悪を誘うと聞いた事がある。こみ上げてくる吐き気は、そんな思考しか生み出さない。

あの肌の下に、血は流れていない。肌の色さえもが、擬態の結果なのだろう。体の中をうごめく、虫、虫、膨大な数の虫。

限界に、到達した。

「彼らは出来るだけコンパクトに美しい姿を形作るのが、ステータスシンボルの一つになってるらしくてね。 だからみんな高官は人間の子供を形作ってたでしょ。 多分美に関しての執着は、あたし達地球人類より上なんじゃないかな」

「あ、あう」

「うん? どしたの?」

「ご、ごめんなさい! と、トイレ、行ってきます!」

限界だった。そのままトイレに飛び込むと、賢治は嘔吐した。

一度では済まなかった。二度、三度と、胃の中身を吐き戻す。今すぐ、この家から逃げ出したかった。覚悟を決めてきたはずなのに。先輩の言葉で、随分救われたと思っていたのに。

やはり弱い自分が情けなくて、賢治は何度も吐いた。僕は本当に男なのかと自問自答しながら、幾度も吐いた。

先輩は待ってくれていた。多分トイレで何をしていたか分かっていただろうに、何も言わなかった。

何もかも自分が悪いのだと分かっている。相手は善良な人たちなのだとも。大統領は、現在よりもずっと若かった。かなり前の映像のはずだ。長年交流を慎重に行って、民間人が極秘とは言え参加させられるほどになってきたのだろう。そうでなければ、超エリートだけを厳選しての、密室的な交流が行われていたはずで、賢治の出る幕など無かっただろう。

警護が嫌に厳重なのは何故か分からないが、それでも「中に虫が詰まっているから気持ちが悪い」等というのは、最大級の侮辱になるはずだ。単に群生型生物としての行動に過ぎない訳であり、地球人類の観点で気持ち悪いから否定する等というのは、まさに下劣の極み。そのような下劣さが、己の中に息づいている事を、賢治は許せないと思う。それなのに、体はこうも正直だった。

人間だって、無数の小生物が融合する形で、存在しているという説がある。ミトコンドリアなどはもともと別の生物であったという説が根強いし、細胞だって考え方によっては一つずつ生きている。多少、あり方が違うだけだ。それなのに。どうして体が受け付けない。どうして、こうも拒絶反応が強い。

弱い自分が嫌だと思ったのは、これが初めてだった。だが、少しずつ、その考えが、腹の底からせり上がってくる。

「落ち着いた?」

「……はい。 すみません」

それからも、しばらく沈黙が続いた。賢治は涙がこぼれるのを感じた。何を喋って良いのか、分からない。

ルーフさんの家族と接する事に、嫌悪はない。問題は、賢治の方にある。このままだと、恐らくルーフさんの家族が、非人間的な動作を見せる度に、賢治は耐えきれなくなるだろう。それに、学校生活との並列も難しいはずだ。元々、学校だけで一杯一杯だったのだ。これ以上強烈なストレスを抱え込んだら、精神が崩壊する。

強く、ならなければならなかった。

放っておけば確実に死ぬ状況だった。奇跡的に、それを打開出来るチャンスが訪れたのだ。このミッションをしっかりクリアすれば、未来は開ける。ろくでなしの血縁上の母親が作った借金も、返す事が出来るはずだ。生きるためにも、やり遂げなくてはならない。そのためには、強くならなければならなかった。

「その反応から言って、今日は無理そうだね。 仕方がないかなあ」

「ごめんなさい。 でも、この仕事は、嫌じゃないです」

意外そうに賢治を見た後、立花先輩は、短くそうとだけ言った。不思議と、立花先輩の目に、失望は浮かんでいなかった。

そのまま、家に帰して貰う。どうやったら強くなれるのだろうか。どうやったら弱さを克服できるのだろうか。そればかり、ずっと帰り道で考えていた。当然のように、眠る事など出来なかった。深夜まで、賢治は悶え続けた。

朝、目が覚めると、不思議と頭が冴えていた。居間に降りると、静名が朝食を作っていた。キッチンに向かうその背中が、何だか随分馴染んでいる。あれほど嫌だったのに、今はむしろ頼もしい。

「おはよう」

「おはようございます、賢治様」

「お願いがあるんだ」

「何でしょうか。 それと、命令で結構です」

無愛想なまま、静名が言う。賢治は軽く頷くと、テーブルに並べられる料理を前に、決意を言葉の形にして、吐き出した。

「僕を、鍛えて欲しい。 ランニングだけでなく、もっと色々だ」

「心得ました」

返答は軍用ロボットだけに、短く、簡潔だった。

これから、厳しい日々が始まるだろう。だが、賢治はそれでも構わないと思い始めていた。賢治の決意を聞いても、静名はあくまで淡泊なまま、調理場の片付けに没頭していた。

 

5,ひとときの安らぎ

 

ルーフは肩を叩きながら、軍での説明会から帰って来た。色々な情報が提示されて、実り多い時間だった。他のステイ家族も、そこそこに上手くはやっているようだ。また、地球側のステイ家族も、向こうでどうにかやっているそうである。一つの家族が少し問題を抱えているそうだが、地球側でどうにか解決努力を行うという打診があった。

車で送ってもらって、ステイ先の供与住宅にたどり着く。実は、ここからが一番疲れるのだ。貸してもらった弱電力のスタンガンを肩に刺して、電流を流す。これが非常に気持ちよい。

ドアに手を触れて、鍵を開ける。網膜と指紋を認証する鍵は役に立たないので、遺伝子認識式に変えてもらってある。護衛についていた戦闘ロボットが頷くのを見て、ドアを開ける。家にはいるのも、緊張する。

「ただいま」

「お帰りなさい」

「おかえりなさーい」

夫と息子が口々に言った。すっかりこの国の言葉が、板についている。娘は奧で一杯に広がっているらしく、返事はない。睡眠中なのだろう。

居間に入って、荷物を降ろす。執事用に貰ったロボットが、早速コートを預かり、クローゼットに収めた。席に掛けながら、地球人類の家は少し広すぎると、ルーフは思った。空間が、あまりにも無駄にありすぎる。だから却って気疲れしてしまう。更に言えば、色彩の感覚が、自分たちとはあまりにも異なる。これが文化間交流の重要なステップであるとは分かっていても、ストレスがたまるのは避けられない。体内で群体の生産をするのも、これではかなり遅れが出そうだ。

端末PCを立ち上げて、彼方此方に報告を入れる。軍の責任者であるレイミティ中佐は、かなりきめ細かい対応をしてきていて、なかなか好感が持てる。ただし、いざというときには抵抗の間もなく殺されるだろう。一方、自分の国の政府は、相変わらず慎重な態度を崩していない。地球人類の歴史を考慮すれば当然だろう。戦争を好まないのと、愚かで無防備なのは別の問題だ。今も宇宙艦隊はすぐにでも出られる状況だろう。

端末を落とすと、もう夕食の香りが届き始めていた。奥の部屋一杯に広がっていた娘のククルームルが、徐々に集まりヒト型を為し始める。変化の速度が遅い。まだまだ、世代交代したばかりだし、思考体の制御が上手くいっていない。この子はまだ危なっかしくて、外には出せないだろう。

厨房で作業をしている執事ロボットに、夕食が何かを聞く。ビーフストロガノフとかいう料理だと応えたので、端末で検索してみる。なかなかに面白そうな料理だ。出てくるのが楽しみである。

ルーフの故郷の惑星は、非常に環境が厳しい。かってはそうではなかったという研究もあるのだが、巨大なアステロイドベルトの中にある惑星と言う事もあって、年がら年中隕石が落ちてくる、非常に変動の激しい所なのだ。そのような環境であるからこそ、生物は二極化した。小型化し、進化の速度を早くする事で、激変する環境に対抗するもの。身体能力を極限まで強化する事により、環境の変動に耐え抜こうとするもの。

その両者の結実が、ルーフ達の一族。多量の群体を、少数の思考体で統制するタイプの知性生物である。この形式は様々に有利だ。思考体が全滅しない限り、死ぬ事はない。群体がある程度死んでも、行動不能になりづらい。化学兵器には弱いが、それでも地球人類よりは遙かに頑強だ。隕石が頻繁に落ちるような環境でも、比較的楽に生きていく事が出来る。

地球人類と同じく、ルーフ達も己の事をヒトと呼んでいる。地球人の呼び方で言うと、現在KV−αと呼ばれる星群一帯に広がっている事を考慮して、KVーα人とでも呼ぶのが正しいかも知れない。

地球人と同じくかなり高度な社会を作る種族である。婚姻の風習もあるし、ルーフ自身も人妻で、二人の子供がいる。地球人ほど執拗ではないが戦争の経験もある。宇宙艦隊も有しており、地球人の一国家となら星間戦争も出来る戦力もある。もし地球人類が侵攻してきた場合、生半可な被害ではルーフ達には勝てはしないだろう。その上地球人類に有益な資源が少ないため、侵略そのものに意味がない。これらから考えると、人としての存在は、地球人とそれほど大きな違いはない。

最大の特徴は、一つの個体の中で何度も世代交代を繰り返し、進化すると言う事だ。群体の一つずつが生命を持ち、なおかつ全体としても一つの生物であるという事が、このアクロバティックな生存中進化を可能としているのである。様々な過程を駆使して、最終的に死ぬまで、KVーα人は成長を続ける。厳密な意味での老化は無い。最終的に、若い世代に己の思考体と群体を分割する事が、死になる。

それが普通だったから、地球人の進化の遅さを知った時に、ルーフは驚いた。この家の形状もそうだ。数百世代前から、根本的には変わっていないという。何故に、そんなにゆっくり進化しているのかと思ったが、一世代で一進化しか行わず、それもかなり遅いと聞いたので、納得がいった。地球人類の歴史も、KV−α人に比べると10倍ほどあるそうだが、結果的に進化の度合いが殆ど同じだと言う事も、その差異を裏付けている。

唯一面白いのが、外部服飾文化の急激な発達である。自分たちをどう美しくするかが、ルーフ達にとっては社会的なステータスになっている。それに対して、地球人類はそれを外部から入手したものをコーディネイトする事によって行っている。そのため、服飾文化は多様化していて、見ていても着ても面白い。地球人類の言葉でエキゾチックと言うはずだが、ルーフはそれを味わっている状況だ。ルーフは外に出た時、色々買い物をさせて貰っているが、これがストレス発散の有効な手段だった。

今日も何種類かの服を買ってきた。人間で言うと真っ裸のままククルームルが部屋に入ってきたので、買ってきた服を押しつける。眠そうにうつらうつらしながら、ククルームルは上から順番に着始めた。なかなかこれは、今後が難しいだろう。連れてくる時、まだ若いと反対したのは夫だった。ステイの期間は二年と長いが、しっかり慣れて帰る事が出来るだろうか。

自分用に買ってきた服を拡げている内に、執事がビーフストロガノフとやらを持ってきた。人数分を皿により分けているので、無駄な事をするなあと思ってしまう。食事の風習だけは、地球人のやり方が理解できない。だが、何でも地球人は食習慣で相手の内面までも決めつけるとか言う話なので、ある程度合わせていかなければならないのが面倒くさい。

スプーンを取り、ルーフは総大首長の言葉を思い出す。彼は、こういった。我々は、文化的に接触してしまった。その事実は変える事が出来ない。ならば前向きに、彼らとの交流と、共存を考えていかなければならない。屈服することなく、屈服させることなく。不幸な戦争が起こらないように、全ての努力を傾けようではないか。

スプーンを口に入れる。面倒くさい動作だ。群体を栄養物にたからせて、一気に吸収する方が効率的なのだが。ククルームルはいつまで経ってもこの食べ方になれない。スプーンから焦げ茶色の栄養物質をこぼしながら四苦八苦する娘を見て、ルーフはもう一つ大きなため息をついた。

地球人は、肌の色が違うという理由だけで、壮大な殲滅戦を実行する種族だ。超好戦的で凶暴な存在だが、出会ってしまった以上、どうにか共存を考えなければならない。キャムの笑顔と同時に、賢治の恐怖に引きつった顔も思い出す。少しずつ、ステイの難易度が上がっていくのは当然の事だ。そのうち、もっと扱いが難しい相手との接触もしなければならないだろう。

慣れたとはいえ、夫も、子供達も、まだまだ四苦八苦しながら食事をしている。早い内に外に出られるように、皆を統率しなければならない。ルーフの双肩に掛かっているものは重い。

何とか仲良くしなければならない。しかし、どのようにアプローチしたものかも、よく分からない。キャムのように人なつっこい子は扱いやすいのだが。

気がつくと、もうビーフストロガノフとやらは無くなっていた。思考体から群体の状態を確認する。確認用の物質を分泌すると、群体の反応は良好だった。かなりの高栄養物質であり、充分な量は摂取したと言う事だ。人間で言う空腹感というものは、ルーフらKVーα人には存在しない。代わりに、栄養が不足すると群体が思考体に警告を発してくる。そのため、味覚というものは、厳密には存在しない。

食事も済んだので、寝ようと思って二階に上がる。子供達や夫は、まだ社会勉強のため、テレビに釘付け状態だ。

最近は寝ている時も形状を保つ訓練をしているが、まだ成功率は五分を切る。人間がルーフの本当の姿を気味悪がらなければ何の問題も無いのだが、難儀な話だ。

コンパクトの型をしている携帯端末が鳴る。開いてみると、キャムから連絡だ。そろそろ本格的に賢治をミッションに参加させるという。あの少年に敵意は湧かない。だが、仲良くするのは難しそうだなとも思う。キャムの連絡を読み進めていくと、少しずつ賢治に自覚が芽生え始めているという一節もあった。

あまり信用は出来ないが、ひょっとすると本当かも知れない。ルーフは嘆息すると、ヒト型を保ったまま、人間の使うベットに潜り込んだ。さて、今日はヒト型を保ったまま眠る事が出来るか。

結論から言うと、出来なかった。

 

余闇の中を疾走する軍用車の中で、レイミティ=グラハム中佐は自分の肩を叩いていた。運転は車自体のAIに任せている。後部座席には、武装した戦闘ロボットが乗っていて、辺りに念入りに目を配っていた。流石に眠い。どうにか仕事の峠は越えたが、早く休みたい。

レイは、確実に任務を先に進めていた。日常的に過密スケジュールをこなしているとはいえ、流石にここ数日は異常である。3日で、労働は実に67時間を超えている。作業の間に高速疲労回復催眠を行ってはいるが、それでも肉体へのダメージは大きい。

これほど忙しくなったのには、幾つかの重要案件が複数重なった事が大きい。連合のルパイド元帥が極秘に訪問し、立国の首脳部と情報交換を行った。この護衛のため、周辺の人材が裂かれ、レイの負担が増したのだ。更に、過激思想の科学者を中心に結成されたテロリスト集団、「人類の曙」の活動が活発化し始めており、情報テロをはじめとする幾つかの未遂事件が発生した。人類の曙は相互ステイ計画の中止を求めて過激なテロ活動を頻発させており、最大級の警戒が必要な相手だ。このため警戒態勢を解除する訳にはいかず、更に飛び込んでくる複数の重要データの並列処理も行わなければならなかったため、思考はパンク寸前だった。今、頭を押されたら膨大な情報が辺りに溢れて、洪水になるかも知れない。そんな事を、半ば真面目にレイは考えていた。

自宅のある高層マンションに着く。地下も含めて54階建ての、高官御用達の高級マンションだ。入り口は既に四重のセキュリティが掛けられており、バズーカー砲でも持ってこない限りぶち抜けない。警備ロボットに身分証を見せて、シックな内装が張られた廊下を行く。エレベータールームに到達すると、またレイはうんざりした。四台あるエレベーターは、どれも上の方の階にいて、降りてくるまで時間が掛かったからだ。その上、後ろに張り付いている、子供の形をした戦闘ロボットが、警告してくる。どうやら付けてきている奴がいるらしい。一応、護衛は二機。一機を外しても大丈夫だろう。

「α、行ってきなさい。 出来るだけ殺さないようにして、捕縛したら武装解除して警察に突き出す事。 βはそのまま待機。 護衛を継続しなさい」

「かしこまりました」

ぺこりと一礼すると、αはマンションを出て行った。恐らく、イエロージャーナルだろう。今月だけで既に四回目だ。アホらしくて捕らえてもいちいち引見していられない。連中は武装している事もあるが、軍の最新型であるαの戦闘能力は高く、放っておいてもまず大丈夫だ。だから、完全に捕縛は任せてしまう。誰にも見られないように欠伸を一つした頃、エレベーターがようやく着いた。

レイの自宅は30階である。いらないというのに、父親が無理矢理買い与えてくれたものだ。埃を被らせておくのももったいないので住んでいるが、あまり愛着はない。恋人でも出来たら同棲したいところだが、そんな暇など無いのが実情だ。

精子バンクや体外受精育成システムを使えば子供を作る事は簡単だが、そんな気にはなれない。血統を残す事にはなっても、子供はきっと寂しい思いをするだろう。自分のように。

シャワーを浴びて、埃と疲れを洗い流す。βが夕食を作ろうかと行ってきたが、謝絶。とてもではないが、食事どころではない。鏡を見ると、酷い顔をしていた。パジャマを着ると、さっさとベットに潜り込む。意識が落ちるまで二分。疲労はもう限界に達していたのだ。

だが、安眠を貪る事は出来なかった。

αに揺り起こされる。目を擦りながら上体を起こすと、其処には見るも無惨なαの姿があった。左腕を吹き飛ばされ、顔の疑似表皮も半分は焼き切られている。グロテスクで無惨な有様に、眠気は一片に吹き飛んだ。

「申し訳ありません。 捕縛はなりませんでした」

「相手は何者だったの?」

「正確な情報は得られませんでしたが、97%以上の確率で、法国製の軍事ロボットでしょう。 三機がかりでの奇襲を受けたので、撃破殲滅が精一杯でした。 既に現場には、警察が向かっています」

時計を見ると、二時間と経っていない。すぐに携帯端末が鳴る。端末を立ち上げると、上司であるジョンソン大佐の武骨な顔が立体映像として映し出された。

「休んでいる所、すまん」

「いえ。 それで、何でしょうか」

「奴らが、人類の曙が動き出した。 クライヴ中佐の管轄下にある、ケーマ一家が襲撃を受けた。 幸い未然に食い止めたが、護衛の兵士四人が死亡、戦闘ロボット二機が大破した。 他のステイ家族も狙われている可能性が高い。 休暇は中止だ。 今すぐに指揮を執ってもらいたい」

「心得ました。 すぐに司令部に向かいます」

最悪の状況だ。疲労が頭を鈍らせた。二機とも戦闘ロボットを向かわせれば、こんな事にはならなかっただろう。もっと早く敵の尻尾を掴む事が出来たに違いない。

すぐに軍服を身につけ、エレベーターに飛び込む。化粧など車の中ですればいい。エレベーターが来るのが、待ち遠しかった。軍用ロボットが中を確認してから、飛び込む。一緒に乗ってきた男が、半身焼けただれたαを見てぎょっとしていた。

マンションの出口で、βが小さな手を伸ばして、レイを制止した。自家用車が爆発したのは、その瞬間である。反射的に床に伏せたレイの耳に、ドアに車の破片がぶつかる音が響いてきた。

慌てることなく、αとβを行かせて、辺りを探らせる。自身は携帯端末を操作して、軍用車の手配を要求。手配が終わったと同時に、αとβが戻ってくる。痕跡は発見できなかったという。テロリストとしては、かなりの手練れだ。

これから、数日はまた眠れない日が来るだろう。せっかく得た休暇が、あっという間に吹き飛んでしまった。レイも流石に笑顔を維持するのが難しくなりそうだ。テロリストを個人的に憎んだ事はなかったが、それも過去の話となるだろう。

すぐに軍用車が到着。αの代わりの護衛用戦闘ロボットの手配は既に済んでいる。軽く目眩を覚えるが、まだ耐えられる。以前、五日間ほぼぶっ通しで仕事をした事もある。もう少しなら、体も保つだろう。

軍用車に乗り込むと、状況を確認。シラー中佐の管轄下にあるエイブリット一家が襲撃を受けたが、此方は死者無く撃退。スキマ一家の周辺は既に軍用ロボットと特殊部隊が展開、防御を固め終わった。人間側協力者の周辺も既に護衛が手配され、状況は安定した。だが、まだ油断は出来ない。これほど広範囲で念入りな襲撃だ。第二波がいつ来てもおかしくないからだ。

ある程度状況を確認したところで、やっと化粧をする。薄く紅を引いたところで、丁度軍の司令部に着いた。敬礼を返してくる兵士が、怪訝な顔をしたので、鏡に自分を映してみる。スカーフが曲がっていた。いつもだったら考えられない事だ。

司令室に到着。スカーフは既に歩きながら直してある。ドアをノックして部屋に入ると、既に二人の中佐が到着していた。ジョンソンの元には、見慣れない立体映像投影装置がある。残り二人の中佐も到着。最後に来たメイレル中佐は、左腕を吊っていた。車に爆弾を仕掛けられ、それに対処するのが遅れたのだという。一歩間違えば、レイもこうなっていただろう。

死者の数は少ないが、今年度最悪と言って間違いない規模のテロだ。全員の顔に緊張が走るのが分かった。ジョンソンは咳払いすると、皆に向けて言う。

「揃ったようだな。 早速だが、これを見て欲しい」

立体映像が投影される。其処には、人類の曙のリーダーである、カール・メルアルド・シュナイダー博士の姿があった。恰幅の良い老人である。額には豊富な髪が残っていて、古代の専制君主のように、威風堂々たるカイゼル髭を蓄えている。左目にモノクロームを掛けている彼は、狂信的な白人至上主義者として知られていた。

シュナイダー博士は、目をぎらつかせながら、熱弁を振るう。それは白人によって人類社会は統率されるべきであり、有色人種は奴隷にしてこき使うのが社会の正しいあり方だというものであった。非常に古典的な上に、何の裏付けもない学説である。いや、学説などというのもおこがましい、妄想の産物だ。代々ネオナチだというシュナイダー博士らしい、何世代にもわたって練られた妄想の結晶が、この演説なのだろう。散々怪気炎を拭き上げた挙げ句の果てに、こう宣う。

「我らは、これからおぞましき虫共に対する、聖なる殲滅戦の実行を宣言する!」

「何が聖なる戦よ」

レイの瞳に、怒りの炎が燃え上がった。イデオロギーの問題ではない。地獄の数日間を耐え抜いたレイの休暇を、くだらない理由で奪い去った事に対する怒りである。

エリート然としているレイだが、このような子供っぽい理由で激しい怒りを覚える一面も持っているのだ。もちろんそのような事は表には出さないが。レイだけでなく、怒りを湛えている者は少なくなかった。最年長であり、部下を四人も殺されたクライヴ中佐などは、シュナイダー博士に殺意に満ちた視線まで向けていた。

ジョンソン大佐が咳払いすると、全員が背筋を伸ばす。

「見ての通りだ。 彼は極めて危険で独善的な思想に基づき、せっかく成立しようとしている我ら地球人と、KV−α人との平和に罅を入れようとしている。 対テロ部隊からの応援もこれからは要請できるが、諸君らの負担は更に今後大きくなると思って貰いたい」

「はっ!」

第六次ステイ計画の護衛を任されている七人の中佐が、一斉に敬礼をした。いずれも劣らぬエリートばかりで、皆一様に事件に対する怒りを湛えていた。だが、レイは怒りの中にも、冷静を保っている。

今回の事件、あまりにも此方のスケジュールが敵に漏れすぎている。ピンポイントでのテロ攻撃や、陽動に使われたと思われるイエロージャーナルの三流記者共の動きを見ていてもそれがよく分かる。誰かが、情報を漏らしている。ひょっとすると、シュナイダー博士のような異常者だけではなく、もっと質の悪い人物が、裏で糸を引いているのかも知れない。

どうやら、今回のステイは、今まででもっとも困難なものとなるだろう。これから数年は、まともな休暇を得られないかも知れない。それどころか、あの愛くるしいキャムや、今後の成長が楽しみな賢治も、危険の中に飛び込む可能性が高い。

頬を叩くと、レイは自分用の指揮室へ向かう。

子供を守るのは、大人の義務。休暇の問題は別として、子供達をしっかり未来へ導こうという意識を、レイは強く持っている。既に部下達は集まっていて、レイの下知を待っていた。

皆に、告げる。これから、もっとも大変な任務が始まる事を。そして、自分に言い聞かせた。

必ずや、この任務を成し遂げる事を。

 

(続)