ゆめのすいぞくかん

 

序、未来にある水族館

 

コロッサルスクイッド。

日本名ダイオウホウズキイカ。ダイオウイカさえ凌ぐ体重を誇る、世界最大の頭足類である。長さに関してはダイオウイカに及ばないが、より重厚な体つきをしていて、生態の殆どは謎に包まれている。

名前の通り全体が紅いのが特色。

勿論、死骸を展示するのがせいぜい。生きて飼っている水族館など、存在している筈も無い。勿論、ダイオウイカも、それについては同じだ。

猛獣と同じなので、飼うには大変な苦労が必要となるだろう。

だが、それはもっと体重のある猛獣であるアフリカ象を飼っている動物園もあるのだから、きっと可能性としては存在するはずだ。

水族館で、深海の生物が展示されるようになってきた昨今だが。

展示される深海生物は、まだまだごく一部。

生態が謎に包まれている上、飼育が難しいので、どこもが苦戦しているのが現実としてある。

水族館を出た西川花野子は、うんと背伸びをした。

そんな事を延々と書かれているパンフを見たのだが、どうもぴんと来ないからである。確かに深海の生物はとても面白い造形をしているが、だいたいの人は見たときにこう思うのでは無いのだろうか。

気持ちが悪い。

それが現実である。

気持ちが悪ければ、犯罪者に仕立ててもいい。人間に対してさえそういう理屈が暗黙の了解になっている現実を考えると、深海生物をわざわざお金を払ってまで見に来るのは、よほどの物好きだけだろう。

花野子は資産家の令嬢で、一応事業の真似事もやっている。まだ大学生だが、今のうちに起業できるようにしろと、親が五月蠅いのだ。仮にという形だが、親の所有する会社の一つに、取締役として就任もしている。多少事業が失敗してもどうにでもなる程度の資産はあるし、親は花野子の将来について、積極的な攻めを期待していた。

だから、花野子も彼方此方で、今ビジネスチャンスを探している。

昨今ダイオウグソクムシのブームが来ている事もあり、深海生物について着目していたのだが。

実際に専門にしている水族館でも、さほどの規模では無い。それどこから、やはり客は常にまばら。

それを目にした後は、ビジネスに結びつけようという意思は、やはり希薄になっていた。コロッサルスクイッドなどと言われても、ぴんと来ないのである。確かにとてつもなく大きい烏賊だが、それをお金を払って見に来る者がいるだろうか。

ダイオウイカの死骸なら、幾つかの水族館で目撃したことはある。ホルマリン漬けの展示品であれば、珍しいものではない。

確かに巨大だが、それでも思ったほどでは無い。胴体部分が長細いので、迫力自体が足りないのだ。

大型のサメの方が、余程に迫力がある。体が長細い上に、動きもさほど素早くないだろう事が、一目で分かってしまうからだ。人間が襲われる可能性のあるサメの方が、ずっと怖く見えるのは、人情だろう。少し調べてみたが、ダイオウイカの類は海岸近くに来た場合弱り切っていて、もはや死を待つばかりらしい。元々深海でも、さほど強い動物ではないらしいのだ。

愛嬌で言えば、やはり鯨の仲間だ。特に小型の鯨である海豚に関しては、飼育方法が確立している上、客を容易に集めることが出来る。ペンギンやアザラシの類に関しても、それは同じだろう。

飼育が難しい上に、客を呼べるかどうかも分からない動物に投資するのは、やはり勇気がいる事だ。

外で待たせていた車に乗り込む。

秘書官の広畑が、隣でメモを広げる。まだ若い男、と言うよりも。花野子の家で雇っている秘書官の中では最年少である。

非常に頼りない秘書官で、「コミュニケーション能力」はある他、記憶力だけは信頼出来る。それ以外は、交渉能力も何もなく、ほとんど実際の折衝は花野子がやっているのが常だった。ただ、両親はそれを見越している節があるが。

「お嬢様、次はどちらに」

「予定通りに廻って」

「かしこまりました」

大げさにも、防爆構造の車が発進する。

車の運転は、老年のベテラン運転手が行う。タクシーの運転手を長年していた人物だけあって、運転の技術は折り紙付きだ。

次も、別の水族館に行く。

今日中に、後三カ所の水族館を見学する予定だ。勿論、素性などは明かさない。全てを一般客として見て廻る。

それにしてもと、一瞥する。

もらったパンフが、非常に充実している。というよりも、水族館の経営者だろう人物の愛が爆発している。

本当にコロッサルスクイッドが好きなのだろう。

それを世に広めたい、と言うわけだ。

或いは、花野子以外の事業家が興味を持ったら、何かしらのプロジェクトが動くかも知れないが。

「先ほどの水族館はどうでしたか」

「総合的には並。 良くも悪くも無い。 展示品は唸らされるほど凝っていたけれど、かなり規模が小さくて、全体的に見るとかなりものたりない。 愛情が感じられる展示がもったいない」

「それは残念でしたね」

「何というか、投資額が足りてない」

水族館に使用できそうなスペースが、かなり余っている。全体的には、もっと設備を投入できそうなのだ。

今の時点では、あの水族館に投資するつもりはない。

このパンフの熱意はかうが、其処までだからだ。

他の水族館に投資して、より大きな利益が出せそうならば、そうする。基本的に水族館はどこも独自色を出そうと必死になっている。見て廻れば、面白いところが見つかる可能性は高い。

高速道路に乗った。

しばらく携帯から情報を調べる。

次に廻る水族館は、ショーに力を入れているようで、海豚だけでは無く鯱も飼っているようだ。

鯱は実際にはホオジロザメよりも高い戦闘力を持つ、海最強のハンターである。ダイオウイカなど勝負にもならない。更に大型の歯鯨であるマッコウクジラでさえ避けるほどの相手だ。

陸でたとえると、現実よりも更に二倍は大きいライオン、という所か。奇しくも、鯱も群れで獲物を襲い、効率的に狩りをする。実際のサイズも、ホオジロザメよりも更に倍は大きい。

勿論人間も状況によっては襲う。

それをショー用に飼い慣らしている人間の恐ろしさが、よく分かる。現実よりも倍は大きいホオジロザメに芸をさせるようなものだからだ。

しかも鯱は頭まで良い。

ショーを幾つか見た事があるが、人間のトレーナーを馬鹿にして、ショーを台無しにするような個体までいる。

まあ、お手並み拝見といこう。

高速道路を車がおり、間もなく駐車場へ。駐車場は、平日の昼間とはいえガラガラである。

ツアー客のバスがぽつぽつ見えるが、それもたいした客が入っているようには、とても思えない。

周辺施設も老朽化が目立つ。

入る前にうんざりしてしまったが、それでも車を出る。見かけは辺鄙なところでも、内部の展示には力が入っているかも知れないからだ。

かなり高めの入場券を買って、中を見て廻る。

客が大変少なくて、歩きやすい。

だがそれだけだ。展示されている魚にもあまり珍しいものが多くない上に、展示方法そのものも凝っているとは言いがたい。

最近流行の、水槽の下に入るタイプの通路もあるが、肝心の大型水槽が慎ましい規模なので、大して楽しめない。

うーむと唸ってしまった。

ショーに力を入れているというのは分かるのだが、もうちょっと工夫が欲しい。ただ、何でもかんでもできるかというと、難しいのだろう。それは理解できる。

ショーも見たが、さほど凄いことをしているわけでもない。

水族館を出たときには、さっきの所の方がまだ良かったな、と思っていた。此処に投資する事は無いだろう。

車に戻る。

居眠りしていた広畑が、はっと気付いて顔を上げる。

運転手は、とっくに花野子に気付いていた。差が歴然である。

「ね、ねていません。 起きてました」

「分かった分かった。 次」

「は、はい!」

やれやれとぼやきたくなる。

だが、此奴を使いこなせというのも、親の命令だ。まだ投資の真似事をしている分際だから、あまり自己主張も出来ない。勿論使いこなすだけでは無く、一人前にも育てなければならないだろう。

「次は」

「珍しい、遊園地と一体化しているタイプの水族館です。 今日は平日の昼間なので、ツアー客以外はいないはずですから、かなり快適ですよ」

「……そう」

あまり興味がわかない。

水族館は、静かだから良いように思うのだ。皆でわいわい騒ぐのが好きな人もいるかも知れないが、少なくとも花野子はそれに同意は出来ない。ビジネスで投資するとなると、なおさらだろう。

ただし、自分の好き嫌いで、膨大な金を動かすわけにはいかないのも、ビジネスの難しい所だ。儲かると判断したら、好き嫌い関係なしに、動かなければならない。膨大なお金は、使うのにそれ相応の責任を伴うものなのだ。

ざっと調べると、確かに客の入りはかなり良い場所のようだ。交通の便そのものも悪くはない。

さっさと、見に行くことにする。

ふと、さっきのパンフが目に入る。

或いは、また此処に行くことになるかも知れない。まあ、これから数日を掛けて、首都圏の水族館は大小あわせて全て廻る予定だ。もしそれで足りなければ、関東一円のものを全部みて回ればよい。

決めるのは、その後でも良いだろう。

「デートコースとしても人気がある場所のようですよ」

「知るか」

余計な事をほざく広畑に、冷たく返すと。

花野子はこいつをどうやって使いこなそうかと、静かに考えていた。

 

1、近くて遠い暴君

 

お金持ちと言われる事には、幼い頃から慣れていた。他の子の家に遊びに行くと、確かに自宅に比べるとものが少ないことも、分かっていた。

だがそれが故に、疎外感を感じていたのも事実だ。

親も忙しくて、使用人しか家にいないことも多かった。それがビジネスのためだと知ったのも、かなり幼い頃だった。

両親は一生懸命働いている。

そう説明されても、幼心には納得がいかなかった。心の整理がつくようになったのは、中学生も後半の頃である。反抗期の頃は、それは荒れた。ただ、荒れると言っても、非行に走ったり、犯罪に手を染めることだけはしなかった。

しかし、すさんだ心そのものは、今でも軋みを挙げている。

結局の所、両親は自分に駒としての価値しか期待していないと気付いたのは、いつだっただろう。

それが愛情の一種だと言うことも分かってはいた。

だが、研究のために水族館を歩いていて、手をつないだ親子連れなどを見ると。どうしても、どす黒い炎が、心の中で燃え上がるのを感じてしまうのである。やはり、良い気分はしない。

そして、将来。

自分が、あのように子供を愛することは不可能だろうとも、悟ってしまうのだった。どれほど献身的な夫がいても、それは同じだろう。

水族館は、ここ一週間で飽きるほど見て廻った。

定番の展示が何かも、だいたい理解できていた。

此処は駄目だなと、花野子は思う。それなりに繁盛はしているのだが、独創性がまるで感じられない。その無難さと、交通の便を売りにしているのだろうが、二度来たいとは思わないのだ。

水族館の周囲には、客足を見込んだレストランの類がある事も多い。

レジャーに来た客が、お金を落とすからだ。ファミリータイプのレストランが多いのも、当然だろう。

一人でレストランに入ると、食事を頼む。

味は最低ランクだった。

げんなりして、食事を終えて出る。此処への投資はないなと思って、次へ。早めに出たのは、レストランでぎゃあぎゃあ騒いでいる子供と、それを放置している親が煩わしかった、という理由もあった。

車に戻る。

広畑が待っていた。

「次は」

「此処で最後です。 もしも次を廻るとすれば、新しく計画を立てる必要がありますが」

「……」

舌打ちしそうになるが、こらえた。

そうか、もう首都圏の水族館は、全て廻ってしまっていたのか。かといって、今から自宅に戻るのも、気が進まない。

かといって、首都圏を出るとなると、もう夜になってしまうだろう。そうなると、開いている水族館は、デートコース系限定になる。周囲がカップルだらけになるだろうし、ナンパされる可能性も出てくる。鬱陶しいので、それは嫌だ。

仕方が無い。

戻るほかないだろう。

だが、自宅に戻るのはいやだ。保有しているマンションの一つがいい。

元々、これは仕事だ。

そして最近は、家に帰るのも、仕事の一つになってしまっている。家は職場であって、くつろげる空間ではないのだ。休息を取るには、マンションで行っている。ただし、休息と言っても、何をして良いのかよくわからない。

寝ているか、酒でものむか。

どちらにしても、無為な時間だ。

猫でも飼うかと進められたことは、あるにはあるのだが。一応ペット禁止のマンションだし、できれば他人に対して弱みは作りたくない。

何より、猫そのものが、好きでは無かった。

ぼんやりしているうちに、マンションに着いてしまった。

明日は、朝八時に来るように指示。明日どうするかを決めておかないと、親が電話を掛けてきてどやされるだろう。

自宅に戻ると、憂鬱な頭で、明日の予定を作成に懸かる。

PCを立ち上げて、表計算のツールを立ち上げて、それで書類を作成。テンプレは作ってあるので、後はデータを入れるだけだ。

しばらく考えた後、明日は会議を行う事にする。

花野子にも、何名か部下が付けられている。それらの部下に意見を聞いて、投資のプランを決定するのだ。

幾つかのデータを入れると、布団に潜り込む。

風呂に入るのを忘れたが、別に明日の朝でも構わない。酒を飲もうかと思ったが。もう、布団から出る事さえ、おっくうだった。

 

「花野子は、いつも退屈そうだね」

高校時代、唯一の友人から、そう言われた。

中学時代までは、友人らしい友人もいなかった。他のクラスメイトの家に遊びに行くことはあったが、空気のように何もせず、観察するだけだった。

イジメの類に会うことも無かったが、クラスでは常に空気のように気配を殺していた。親にはそれで良いと言われていた。周囲には、金目当てで近づいてくる奴ばかりだから、自分で吟味してから友人になれと。

親への反発はあったが。

実際問題、どうやって友人を作って良いかもよく分からなかった。インターネットのSNSもやってはみたが、親しい存在など出来はしなかったし、直接会う相手もいないのだった。

そんな中、高校時代では、友人が出来た。

金持ちである事はかなり後の方まで話さなかったが。そこそこに友好的な関係のまま、高校を終えたような気がする。

友人になった切っ掛けは、図書室で花野子が本を借りるのを見ていた、というものであるらしい。らしいというのは、そう聞いただけだからだ。花野子に声を掛けてきた相手は珍しかったし、話してみるとそれほど趣味が遠いわけでも無かった。しっかり会話は成立したし、友人関係は相手も狭かったから、ちょうど良かったのかも知れない。

廃部寸前の文芸部に入って、活動らしい活動もせず。

それから、高校最後まで、仲良く過ごした。

今でもメールなどでのやりとりはしている。

しかし、めっきり直接会うことは無くなった。

目が覚める。

碌な思い出が無かった高校時代に、友人の存在はオアシスだったことを思い出して、大きく伸びをする。

今日は自分で決めた会議の日だ。

迎えに来ていた車に乗る。大学の単位は大丈夫かと途中で聞かれたが、問題ないと応えておく。

実際、単位など、三年で全て取ってしまってある。今年は一年間遊ぶだけでも充分に合格が可能だ。

「今日は部長クラスも来ます」

「で?」

「重要な会議と伝えてありますので、受け答えにはご注意ください」

広畑が間抜けなことを言った。

部長だろうが専務だろうが、関係無い。

今回の投資話は、花野子に預けられている会社の事業として持ち上がったものだ。つまり重役であっても、というよりも重役であるほど、花野子にこびを露骨に売ってくる、ということだ。

日本の会社では、技術などは要求されない。

どこの会社でも、必要とされるのは、コミュニケーション能力とか称する、マニュアル対応と、こびを売る力に過ぎない。

重役と呼ばれる連中は、それが特に顕著だ。

その結果、末端でどれだけ技術者達が頑張っても、会社の業績はいっこうに上がらない。コミュニケーション能力しか評価点が存在しないのだから、当然だろう。

まだ若い花野子も、それはよく知っている。

間近で見ているからだ。

長年真面目に努めて、技術的にも優れている社員が、コミュニケーション能力に欠けるなどという理由でヒラのまま、などという事例は珍しくも無い。実際人事にも目を通したが、話にならないというのが本音だった。

事実、会議に出ている重役の中には、ろくにPCの操作もできないような者が混じっている。

もっとも、コネで重要な会議を任されている花野子も、大差は無い。此奴らと同レベルのクズだ。

会社の命運が懸かっているはずなのに、クズしかいない会議。

大変に胸が熱くなるでは無いか。

「此方が参加名簿になります」

「あっそ」

「何か、虫の居所が悪くなる事でもありましたか」

「別に。 ゴキブリがたくさん出たことくらいかな」

見る間に広畑が真っ青になり、清掃業者を派遣するとかほざいたので、心底からうんざりした。

冗談に決まっている。

だいたいゴキブリぐらいがなんだ。

会社に着くと、まるで大名か何かを歓迎するかのように、社員達が平身低頭して花野子を迎えた。

一応は作り笑顔を浮かべる。

これでも、幼い頃から礼儀作法については鍛えられている。よそ行きの顔を作ることは難しくない。

会議室に通される。

プロジェクターが運ばれてきたので、花野子は笑顔を作ったまま、どうせろくでもない作成ツールで、適当に作ったんだろと心中で毒づいていた。どこの企業でも、プレゼンは大変にくだらない。

そしてプレゼンが始まると、本当に予想通りだった。

「今回の投資について、ご紹介いたしますのは」

まだ若い社員が、説明をはじめる。

もう既に見てきた水族館について、だらだら話している。どこがどう素晴らしいかという説明が延々と続いたので、花野子はあくびをしそうになった。

質問について何かあるかと聞かれたので、挙手する。

一気に周囲が青ざめたのが分かった。

「その水族館では、敷地内の構成、特に導線に問題がありますが、どう考えていますか?」

慌てて重役達が、配置されている資料に目を通す。

途中導線が枝分かれしてしまっていて、非常に見づらいのだ。更に言うと、一部の展示は妙に奥まった所にあり、気付かずに素通りしてしまう可能性が高い。

「す、すぐに改善の提案を」

「それだけではありませんね。 展示されている生物にも目新しさが無く、他に対しての目玉が存在しません。 交通の便の悪さも問題で、首都圏から向かうには、最低でも三つの電車を経由して、なおかつ駅から本数もないバスに乗らなければならないのはどうするべきですか?」

「き、君っ!」

泣きそうになっている新米社員を、重役の一人が引っ込めさせる。

露骨にこびへつらいながら、重役が笑顔を浮かべた。

「さすがは若取締役。 事前によくお調べですね」

「今回の投資額が百五十億だって分かっていますか? あなた方に甘い汁を吸わせるために、仕事をしているわけではありませんからね」

来月分のボーナスを八十%カットと告げると、重役は今度は自分が泣きそうな顔になった。

知るか。

どうせ水族館側と先に話をして、資料を回してもらい、それを見ただけでプレゼンをしようとしたのだろう。

実際に足を運んで、どういう問題があるか、改善案はどうか。それらを考えもしない、で、丸投げするからこうなる。

会議の空気が、見る間に張り詰めていくのが分かった。

真っ青になってうつむいている重役を放っておいて、別の重役が、プレゼンをはじめる。今度は自らが。

だが、内容は大差ない。

しかも説明はしどろもどろで、部下に作らせたのが明白だった。

「それで、この水族館では、デートコースとしての需要が期待され」

「私だったら、男と水族館なんかきたくありません。 一人で静かに展示品を見たいです」

身も蓋も無いと、我ながら思った。

流石にこうも寄る木が無いとは思わなかったのだろう。固まってしまった重役に、もう一つ告げる。

「その水族館は見てきましたが、展示品の質自体は悪くないのに、見て廻る際の環境がよくありませんね。 五月蠅すぎる。 仮にデートに用いるにしても、照明環境を工夫して、静かに見せる努力をしていないのなら、投資の対象にはなりません」

「……」

がっくりと肩を落とす重役。

次。

呟くと、重役達が顔を見合わせた。これはまずいと思ったのだろう。

花野子が極めて手強いことは、連中も知っている。まだ若造だと思って最初舐めていた所に、色々とがつんとやってやったから、だろうか。

以前の会議では、終了前に粉飾決戦についてのデータを提出し、その場で重役を一人首にしてやった。

今回も、最初に重役の一人に懲罰を与えている。

そういえば、広畑から聞いたが。

花野子は、暴君とあだ名されているとか。まあ、嘘ではないし、好きにあだ名すると良いだろう。

「その、休憩を入れても、構いませんか」

「作戦会議はどうぞご自由に。 私としても、納得がいくプレゼンを受けたのなら、投資を考えます」

重役達が、ぞろぞろと会議室を出て行く。

戻ってきたときには、数が減っていた。さっき給料をカットすることを告げた重役は、体調を崩したとかで、姿を消していた。

つまらん会議になりそうだ。

そう花野子は思った。

 

結局その日は、投資についての話は流れた。

プレゼンがどれもこれもくだらなかったからだ。ビジネススタイルは別に構わない。水族館だって、儲からなければやっていけないからだ。

だが、その戦略が、根本的に間違っている。

水族館は静かなところで、陸上の生物とは形態が違う水中の生物を堪能できるのが良いのだ。

子供向けにショーをするのもいいだろう。

珍しい生物を見世物にするのもいいだろう。

だが、どうもぴんと来ないのだ。

マニア向けだけに水族館を作るのも違う気がする。かといって、エンターテイメントだけを追求しても、やっていけないだろう。

帰りの車の中で、広畑に言われる。

「重役達、青ざめていたようですよ」

「馬鹿な連中。 150億なんて額、簡単に投資すると思ったのか」

「ますます暴君の名が広まってしまいますね」

「それで結構」

気に入らないなら、刺すなりなんなりすればいい。

どうせこの世に未練なんて無い。ガソリンでも被ってライターに着火してみようかと、以前思った事もある。

私物も殆ど無い。

PCも死ぬ場合には、事前に処理してしまおうと思っている。死んだら、何も残る事は無い。

そもそも、今回、どうして水族館に投資する話などを、進めているのか。

勿論親にそうしろと言われたからだ。

150億を投資して、十年で回収しろ。それが親の命令だった。

逆らう理由も無い。

ただ死ねば良いと思っている自分がどうなろうと、花野子にはそれこそどうでも良いことだ。死んだところで、悲しむ人間も幸いいない。親も駒の一つが無くなった、くらいにしか惜しまないだろう。

「この間の、深海魚の置いてある水族館」

「ああ、ええと……東京の外れにある、あれですか」

「もう一度行きたい。 明日、スケジュールを組んで」

「分かりました」

何故、そう思ったのかは分からない。

携帯を見ると、メールが来ていた。高校時代の友人からのものだ。彼女は、来年結婚するという。

ああおめでとうと、無心に呟く。

どうでもいい。

結婚後は、ベットで好きなだけよろしくやってくれ。

そう虚空で呟いた。

勿論、やっかみでは無い。本当に、どうでも良いのである。

自分が異常であることは、知っている。

中学くらいからだろうか。

性的な欲求が著しく周囲に比べて少ないと、気付いてしまった。

周囲が男子の話ばかりしているのに、自分にはまるで興味がわかなかった。着飾ることにもあまり関心が持てなかったし、若手アイドル俳優にも、全く目移りはしなかった。男が欲しいと、全く思わないのだ。

あれほど、つきあったのキスしたの、ホテルに行ったのと、周囲がぎゃいぎゃい騒いでいたのに。影響を受けるどころか、まるで気にもならなかった。

生理は普通に来ていたので、何故だろうと思ったのだが。

高校時代には、疑惑は確信に変わった。更に貪欲に男漁りをしている周囲に対して、花野子は本当に、男どころか、性に興味が抱けなかった。勿論性知識は存在していたが、それだけだ。

病院で診察を受けてみると、案の定だった。

性に全く興味が持てない、一種の精神の歪みから来るもの。最近、同性愛などが脳の異常によって引き起こされるという学説が物議を醸したが、花野子の場合はもっと極端で、恋愛、というよりも動物的な発情を引き起こす脳の部分が著しく縮退してしまっているのだった。

どおりで。

そう呟いた花野子は、病院の鏡に映った、妙に子供っぽい自分を見て、納得した。

背も周囲より一回り小さく、手足も細い。

高校生なのに、中学生と間違われることはザラ。顔立ちも別に可愛いわけでは無い。というよりも、発育したメスである事を感じさせないらしく、全く周囲に男は寄ってこなかった。

子供を作ること自体は問題が無いと、医師に太鼓判を押されている。

だが、だからなんだ。

この事は親にも話してはいないが、病院を通じて連絡が行っている可能性は否定できない。まあ、知っていたところで、どうでもよい。親はこう言うだろう。子供が出来るのなら、問題ないと。

ちなみに親は、子供を育てるのはベビーシッターにやらせろと、随分前から言っている。自分の「成功例」を元に話をしているらしい。はっきりいって反吐がでるが、おそらく花野子は子供を産んでも、愛情を注げないだろう。性に興味を持てないのと同様、子供を見ても五月蠅いとしか感じないからだ。

「何か良いことでもありましたか?」

「何故そう思う」

「ええと……」

「良いから言ってみて」

どうせ失礼なことだろうと思ったが、案の定だった。

広畑に言わせると、いつも花野子は不機嫌そうな顔なのだという。それがデフォルトで、作り笑顔をしているときでさえ、何だか怒っているように見えるのだそうだ。

それが、さっきは無表情になっていた。

だから、或いは機嫌が良いのかと想ったのだとか。

「言ってくれる……」

「すみません。 悪気があった訳ではなくて」

「充分悪意まみれだ。 まあ事実だから、どうでもいいけど。 私がどう見られようが、恨まれようが、どうでもいいね」

マンションに、車が着く。

ベットに転がると、ぼんやりと天井を見た。猫はいらない。アクアリウムも、大変だから管理は出来ないだろう。

人を雇って管理するのでは、まるで意味が無い。

天井が高くて、隣の騒音も入ってこない、それなりにいいマンションだ。

耐震構造もしっかりやっている。

実際、震度四の揺れが来た時も、危なげなく耐え抜いた。

不安は無い。

ただ、何もする気が起きない。去年はどう思っていただろう。未来への希望は、あっただろうか。

あるわけがない。

ずっと、こうだ。

 

2、孤独のみなぞこ

 

花野子が会社に行く訳でも無いのに珍しくスーツで出てきたのを見て、広畑は驚いたらしい。

実際、小柄な花野子がスーツを着ていると、何だか一種のコスプレみたいだからであろうか。

しかも今日のスーツは、普段のビジネススーツとは違う。よそ行き用の、オーダーメイドの高級スーツだ。安い車が買えるほどの値段がする。

「はー、馬子にも衣装って本当ですね!」

「首にするぞ、お前」

「冗談です。 今日は、九時から予定通り、水族館に向かいます。 三十分ほどで到着します」

「ん」

不快な寝言は聞き流すことにした。まあ、実際馬子にも衣装だ。お世辞にも美女とは言いがたい花野子だし、それでいい。化粧も練習はしているが、どうやっても妖艶さなど出せない。

だから化粧も最小限だ。

この間、深海魚愛を爆発させたパンフを配ってきた水族館へ、もう一度足を運ぶこととする。

どんな変人が館長なのか興味があるし、あの様子では経営も厳しいだろう。投資の話を持ちかければ、かなり有利な条件であっても喰わせることが出来る。問題は、客を呼べるかどうか、だ。

投資の話が出てから、水族館については調べてある。

過去は、毎日かなりの数の魚が死んで、その処分に苦慮していた、という時代もあったようだ。

現在は技術が著しく進歩して、国内の水族館の中には、世界ではじめて希少種の繁殖に成功するような場所も出てきている。

だが、それでも。

技術力が低い水族館に足を運ぶと、水槽の中で死んでいる魚を見ることがよくある。それが限界なのかも知れない。

元気の無い生物を見るのはざらだ。

水族館には生物を納入する専門の業者がいるという。そういった業者は、納入した生物がどれだけ生きたかを管理しているという話もある。逆に言えば、それだけ死にやすい、という事なのだ。

陸上生物でも難しいのに。

水中にいる魚だと、なおさら難しい。

多くのノウハウが積み重ねられた結果、水族館は存在している。勿論それは、動物園も同じだ。

受付で、名刺を出す。すると、此方が来るという話は、既に聞いていたらしい。裏手に通してくれる。

管理会社は、この水族館の中に事務所を構えているという。

それは、ようするにそれだけ小さな水族館、ということだ。歩く距離もさほどでは無い。裏手には大きなタンクがあって、膨大な水が毎日使われていることが一目で分かった。魚達はみなデリケートだ。水温、水質、ちょっと変わっただけで、命を落としてしまう魚は多い。

ましてや、深海魚となると、なおさらだろう。

バックヤードは巨大で緻密なものとなる。展示されていない魚も、相当数はいるのが普通だと聞いている。つまり、それだけデリケートだということだ。

裏手には小さな事務所があって、そこで社長は待っていた。

驚かされたのは、あまり花野子と年も変わらないだろう人物だったことか。花野子とは正反対の、華やかな印象のある女性である。この若さである。まさか起業した本人と言うことは無いだろう。花野子と同様、二代目のぼんぼんという所か。そうなると、企業者本人は。

握手を交わした後、話をする。

「この水族館に投資をしていただけるとか」

「まだ決めたわけではありません。 下見に来ただけです」

「もしも投資をしていただけるのなら、有り難いです。 どうも黒字を中々増やせなくて、抜本的な手を打ちたいと思っていましたから」

へらへらと、客に見せるとは思えない笑顔を見せる女社長。

此奴、ひょっとして、いわゆる学生気分が抜けていないのか。社長でこれでは、この会社、長くないかも知れない。

「あのパンフは、社員が書いたんですか?」

「見ていただいたんですか? アレを書いたのは、私です」

「へえ……」

「中々理解して貰えないんですよね。 水生生物への愛情って。 ましてや深海生物が好きだっていうと、それだけでどんびきされることも」

しゃべり方まで崩れてきている。

どうやら、素で本当に深海の生物が好きらしい。きっちりしたスーツに身を包んでいるのに、一皮剥けば筋金入りの変人という訳か。

それはそれで構わない。

「常識人」だけが高い地位につけるという、今の日本の態勢を、花野子は非常に嫌っている。

「コミュニケーション能力」の重視などと言うくだらないものと、全く同じ要素だ。むしろこういった場所では、本当に深海魚が好きな、代わりものだからこそに、経営がなり立つのかも知れない。

しばらく、会社の説明をして貰う。

どうやら相手に自分を偽るつもりは無いらしく、重役達のプレゼンとは随分と内容が違っていた。

「創業から五年になりますけれど、まだまだ赤字部門も多くて。 設備も中古のものが結構あって、苦労しています。 もしも投資していただけるのなら、華やかなイメージのある表の改装もそうですけれど、いきものたちを少しでも楽な環境で過ごさせてあげたいですので、実績のある設備を導入したいです」

「それで利益を上げられると?」

「利益は、工夫でどうにか」

えへへへへと笑われた。

正直な奴だ。

これでは、生き馬の目を抜くビジネスの世界では、随分苦労してきただろう。だが、優秀な参謀がいれば、どうにかなるかも知れない。

せっかくなので、設備とやらも見せてもらう。

水族館の裏方を見るのは初めてだ。動物園などもいろいろに苦労していると聞いているので、興味がある。

裏口からバックヤードに通された。

いきなり濃厚な潮の香りがする。

「そういえば、此処では海豚やアザラシは?」

「ショーの類は大変なんですよ。 専門のスタッフも雇わなければならないですし、水族館としての規模もぐっと大きくなります。 やっぱり子供達を引きつけるには、それが一番にも思えるんですけどねー」

「黒字が増えてきたら、いずれやるかもと?」

「もしそうだとしても、ずっと先ですよ。 それまでに、私が生きていれば良いですけれど」

それはまた、随分と気長な話だ。

まるで、プールのような場所に出た。なるほど、大型の水槽は、上から見るとこうなっているのか。

泳いでいる魚が多数見える。

かがんで水質を確認していた社長が、スタッフを呼んで、何か話していた。水温がどうの、水質がどうのと、専門的な内容だ。

「失礼しました。 ちょっと水温が高いようでしたので」

「見るだけで分かるんですか?」

「この水槽は私が二年ほど管理してますから。 何となく、勘……みたいなものですかね、分かるんですー」

凄く嬉しそうに解説されたので、げんなりした。

それにしても二年管理していたという事は。下手をすると、高校生の頃から、此処に入り浸っていたという事か。

もしも創業者の娘だとしても、筋金入りだ。社長を辞めても、熟練の水族館スタッフとして、やっていけるのではないのか。

「ただ、設備がちょっと古くて、水温の管理が難しくなってきてるんですよね。 だましだましやってるので、やっぱり投資していただければ、嬉しいです」

「設備を換えるんですか?」

「愛着はありますけれど、やっぱり暮らしている生物たちには、快適に過ごして欲しいですから」

すごく優しい目で、水槽の中にいる生物たちを見つめる社長。

ついて行けない世界だ。

それから、他の場所も見せてもらう。

大規模水槽が近年は流行だが、此処でも出来れば導入したいと、社長は歩きながら言った。殆ど家庭用の水槽と変わらないようなものが、周囲には林立している。中には見たことが無い生物が、多数入っていた。

近年話題になっているダイオウグソクムシの姿もある。

照明が抑えられていて、機械音が響き続けていた。気温もかなり抑えられている。社長は平然としているが、或いはコートが欲しいかも知れない。

「この辺りは、デリケートな子達がいます。 お客様にはすぐには見せられなかったり、環境を変えると体調を崩したりしますので、ベテランにしか任せられません」

「なるほど……」

「明かりを付けられないので、足下に気をつけてくださいね」

かなり不気味な形状の生物も見受けられた。

勿論、毒のある生き物もいるようだ。

スタッフが、エサが入ったらしいバケツを運んでいるのが見えた。血の臭いが強烈である。

ぶつ切りの魚などが入っていれば、無理もない。

裏口から外に出ると、墓が林立していた。

簡素なものだが、これはまさか。

手を合わせる社長。

やはりそうか。どうやら、死んだ展示品の生物たちを、此処に埋葬しているらしい。

「スタッフの愛情では、どうしてもカバーできない部分があります。 機械がちょっと機嫌を損ねると、環境がぐっと変わってしまって、死んでしまう生き物も出るんです。 何度も、泣くことになりました」

「……」

「やっぱり、世の中では、お金が大事ですね」

この社長、給料は他の一般社員と同じにまで抑えているという。信じがたい話だ。通常の大企業であれば、如何に一般社員から搾取して、重役の給料を増やすことばかりを考えているというのに。

昔の偉い将軍何かは、一般の兵士達が食べ終えるまで、食事に手をつけないような高潔な存在もいたという。

本当か嘘かは分からないが、もしそれを実践しているとしたら、たいしたものだ。

それから、他の設備も見せてもらう。

今度展示したいという、大きな水生の亀も見せてもらった。ウミガメかと思うほどの大きさだ。

子供用のプールみたいな水槽の中で、ゆったりと泳いでいる。ふてぶてしいまでの迫力である。

「河にこのような大型の亀がいるんですか?」

「この子はタイ産です。 実際には、この倍は大きくなりますよ」

「倍……」

現在でも、体長七十センチはあるように見えるのだが。それは凄まじい。下手をすれば、指どころか、腕ごと食いちぎられそうだ。

触ってみるかと言われたので、断る。

花野子のように小さい場合、上に乗れそうだが。よく見ると、甲羅は柔らかそうなので、酷かも知れない。

一通り、バックヤードは見せてもらった。

それから、今後の展開に聞いて聞かされる。

「パンフにも書いていたんですけれど、ダイオウイカか、ダイオウホウズキイカをいずれ生きたまま展示したいです」

「体長十八メートルと聞いていますが」

「大きさについても問題ですけれど、実際には生きて捕まえた例が殆ど無いんです。 そっちの方が問題で」

烏賊の仲間は、大変に育成が難しいのだと、社長はぼやく。

以前、ヤリイカの仲間を育成することに日本の大学が成功したときは、なんとドーナツ状の水槽を作るという奇抜なやり方を用いたのだとか。そうすることで常に水流を作り出し、泳ぎ続けるヤリイカを長時間育成することが可能になったのだという。それまでは、ヤリイカはもっとも飼育が難しい生物などと言われていたのだとか。

ヤリイカは神経系が非常に大きいため、この事は医学の発展にも大きな影響を及ぼしているのだとも、社長は笑顔で実に嬉しそうに語る。

「深海生物の生態は、未知の可能性を秘めています。 技術的な発展が、副次的な効果をもたらすことも多いんです。 これが成功すれば、更にいろいろな発見が出来るかも知れないですよ」

「ふうん……」

一つ、分かったことがある。

この社長は、筋金入りの変人だ。

だが、おそらくこの業界では、宝ともなる人材だろう。

これは投資話を見送る場合も、コネは確保しておいた方が良いかもしれない。いずれ、重要な出来事に接する可能性がある。

とにかく、だ。

今の時点では、まだ投資は決めていない。

話が終わった後、食事にする。

近くのレストランに入ることにした。普通は企業用の、安くてあまり美味しくない弁当をたのんでいるそうだ。

「今日はごちそうです」

そういって社長は喜んでいたが、どちらかと言えばファミリータイプの、かなり安いレストランだ。

まるで子供のような表情でカレーをぱくつく社長を見て、心底花野子はげんなりしたのだが。

しかし、不思議と、この社長への憎悪は浮かんでこなかった。

 

資料をもらって、一度戻る事とする。

車で待機していた広畑に、どんと資料を押しつけた。目を白黒させながら、広畑は聞いてくる。

「な、なんですか、これ」

「社長の手書き資料」

直接接してみて分かったが、あの社長はどちらかと言えばたたき上げタイプだ。現在の日本では、本来絶対に社長になれない。

普通、親の七光りというものは、良い方向には作用しないのだが。

あれは、例外的事象、という奴なのだろう。

「他の水族館にも、行ってみたい」

「分かりました。 すぐに手配します」

念のためだ。他の水族館も、見て廻った方が良いだろう。客としてでは無く、ビジネス上の話をするために。

押しつけた資料の方は、一応目を通してある。

なんと、あの社長。

現在展示している生物について、全て把握しているようなのだ。下手をすると、名前さえつけているかも知れない。

友人からメールが来た。

水族館を廻っているという話をしたのだが、それに関する返信だ。水族館はデートコースとして最適だねとかほざいていたので、うんざりした。やはりそう言う考えなのか。性そのものに興味が無い花野子には、退屈な話でしか無い。

もっとも、友人も、その事は分かってはいるようだが。

翌日に、この近辺で一番大きい水族館に行く話を付けさせる。

今日はもう戻る事とした。

広畑に、マンションに資料を運び込ませる。まだ充分にスペースはあるので、問題は無い。

「こんなに一杯もらって、全部目を通すんですか?」

「当然」

「はー。 熱意があるなあ」

「150億の金を動かすのだけれど」

150億と言えば、普通のヒラサラリーマンの、生涯賃金の一体何倍か。

それを動かすとなると、相当な意味がある。小規模な形ではあるが、社会そのものに関与すると言っても良い。

一人の判断で、それをするのだ。

どれほどの意味がある行為か、此奴は分かっているのだろうか。

もっとも、こんな小娘に、150億を動かす権利がある事自体、異常極まりないとも言えるのだが。

広畑を追い出すと、冷蔵庫からビールを出す。

無言でちびちびやっていると、電話が鳴った。とはいっても、電話番号が知らなかったから、取らないが。

留守録に、先物取引がどうのこうのとか言うメッセージが振り込まれたので、電話番号を着信拒否に設定する。

最近、増えてきた。

場合によっては、携帯に掛かってくる事もある。おそらくは総当たりでやっているのだろうが、それにしても鬱陶しい。

或いは、重役の誰かが、腹いせに個人情報を流出させたのかも知れない。

何にしても、面倒くさい事この上なかった。

酒に極端に弱い花野子は、ビールでも簡単に酔える。一本で気持ちよく酔ったので、そのままベットに転がって、ぼんやりと空を見上げた。

高校の時は、専属のメイドがいて、毎日機械的に着替えをさせられた。

大学に入ってからは自分でやるようになったのだが、ボタンの付け替えだけで随分と苦労したものだ。

あのメイドは、今は何をしているのだろう。

思い出す。

生活が苦しいなら、回そうかと親が言っていた。

あの両親の所で、面倒な生活の補助を、まだやっているのだろう。

気がつくと、もう朝。

ビールの缶をゴミ箱に捨てると、花野子は二日酔いの頭を何とか支えながら、着替えをはじめた。

携帯をチェックすると、メールが来ている。

友人からだ。

彼を連れて遊びに行きたいとか言っている。此方は仕事だってのは分かっているのだろうか。

水族館に行くと言ったから、一緒に見て廻りたいのだろう。

友人と遊ぶこと自体は別に良いのだが、残念ながら花野子は世間一般で言う休みなどと言うものは持っていない。

365日全てが、仕事だ。

「今回は、仕事で相手側の社長と会う。 水族館に、遊びに行く訳じゃあ無い」

メールを返信すると、すぐに返事があった。

邪魔はしないと言い出したので、頭を抱えてしまう。

しかし、此奴がいなくなると、花野子には友人と呼べる存在がなくなる。それはそれで、困る。

一般社会への接点は、どうしても必要だ。

友人を選べと親には言われたが、作るなとは言われていない。友人は、違う視点を持つための重要な役割を持っている。友人がいて損はしない。それに関しては、花野子も同意だ。

ましてや、この友人は、花野子の金目当てで寄ってきているのでは無い。

今日これから行く水族館の事を告げると、即座に返事が来る。

問題ないという。

大きく嘆息すると、花野子は分かったと応えた。

押し切られた形だが、まあ良いだろう。彼を紹介したいとか言われても、個人的には困るが、それ自体はどうでもよい。

家を出る。

もう、車は待っていた。

友人のことを告げる。面倒なので、社長と話している間は、広畑に対応させる方が良いだろう。

頭が空っぽの広畑だが、会社で最も重要視される「コミュニケーション能力」はそれなりに持っているので、問題は起こさない筈だ。

「ご友人というと、高校時代の」

「そう」

「中々、人当たりの良いお方ですよね」

「ああ」

人当たりが良い、か。

ついに、花野子が手に入れることが出来なかったものだ。コミュニケーション能力などというものではない。

おそらくは、もっと違うもの。

或いは、日本で使われているものとは別の、本来の意味でのコミュニケーション能力かも知れない。

 

3、青黒いゆめ

 

この水族館は苦手だ。

以前足を踏み入れたときに、最初にそう感じた場所だった。とにかく、人を呼び込むことを最重視している。内部の空間については、悪くない。ビジネスモデルとしては、充分に優れていると言えるだろう。

総建造費は90億を超えているだろう。

来る前に調べているのだが、年商も相当なものである。集客もかなり凄く、チケット売り場の前には大勢の客が列を成している。

既に話は通してあったが、バックヤードでは、社長が直接出てこなかった。

「いやあ、投資の話を持ってきてくださる方は大勢おりまして。 社長は多忙ですので、私が対応させていただきます」

いきなり、開口一番にこれだ。

専務と名乗った男は、人当たりの良い笑顔を浮かべながら、此方を内心でみくだしているのが手に取るように分かった。名刺を交換はしたが、多分二度と見ることは無いだろう。更に、ざっと観察したところ、いろいろな事が分かる。

此処で働いているスタッフは、管理会社の人間を良く想っていない。

サラリーマンが絶対で、技術者は家畜以下。

日本の会社らしい構造が、此処にも持ち込まれているのだろう。日本では、技術者は替えがいくらでも効くと本気で思われている節がある。この業界だけでは無く、どこでもそうだ。IT系の悲惨さは花野子も知っているが、それだけではない。

マニュアル通りの対応を進めようとする専務に、花野子は咳払いした。

「だいたいの概要は、事前に把握しています。 中身を見せて貰えますか?」

「はあ、中身、ですか」

「水族館を支えるのには、スタッフの質も、設備の状態も重要です。 勿論、展示されている生物についても」

「分かりました。 少しお待ちください」

スタッフに話をしにいったのだろう。

待たされる。その間に、コーヒーが出された。それなりに高級なコーヒーなのだろうが、所詮はインスタント。

そういえば、家で飲んでいたドリップは、豆から挽いたものだったらしい。外でインスタントを一度飲んで、味の格差に愕然としたものだ。

笑顔を保つのが、苦痛になりつつある。

「お待たせしました。 此方へどうぞ」

マニュアル通りの対応をする専務。

さては此奴。此方が、最初から投資をする気が無いと考えているな。残念だが、それは外れだ。

投資をする先については、まだ迷っている。

だが、その気が、今。失せつつある。

そして、完全にやる気をなくしたのは、実際にバックヤードに足を踏み入れてからだ。

とにかく、不自然に清潔なのである。

スタッフも殆ど姿を見せない。

これは、重役による行脚。よくある、重役が見に来るとき、実際の現場を見せないやり方か。

あまりにも違いすぎる。

現場で働いているブルーカラーの人達が、どのように過ごしているかを知りたい。どんな風に管理が行われているのかを、見て廻りたい。

いつの間にか、そういう欲求が生まれていたことにも驚いたが。

この間の女社長と、何もかも違いすぎる。

これが、大企業の傲慢という奴か。

見る間に不機嫌になって行くのに、専務が気付いたか。笑顔で、何か不愉快なところがありましたかとほざいたが。

応えない。

まあ、投資の宛てがいくらでもあるというのなら、こういう対応もありなのだろう。将来どう響くかは、知ったことでは無い。

幾つかの部屋は、準備中で入れないとまで言われた。

大きく嘆息する。

そして、出際に、こう言った。

「スポンサーはいくらでもいるから、出資者をないがしろにしても良いとお考えですか?」

「別に、そのようなことは」

「私が見たかったのは、取り繕ったうわべでは無くて。 実際に働いている人達の様子なんです。 現場で飼育員やスタッフが働いている様子を、汚いものとして隠すようなやり方が、本当に正しいと貴方は思いますか?」

「はあ」

説教しても、意味が無いことだ。

頭をふるってイライラを追い出すと、もう良いと言って、一度出る。此処への投資は無しと、今決めた。

入り口の方では、友人が待っていた。

自分と違って大人っぽく成長した彼女だが、無邪気に手を振って来る。側にいる長身の男性が、結婚するという彼だろう。どちらかといえば筋肉質系であり、多分仕事の内容も力仕事関係と見た。

「花野子、こっちよ」

「久しぶりだね、芹花」

「此方が彼の浩」

一礼する。気むずかしいという事は伝えてくれていただろうか。あまり喋ることも無く、水族館に入る。

仕事だという話は、事前にしてあるのだが。

二人は完全にデート気分のようだった。

「最近、花野子は水族館にたくさん行っているんでしょ。 此処は、どんな感じなの?」

「見かけは良いけど、マニアには物足りない」

「マニアだったっけ?」

「これだけ数を見るとね」

これでも、見た水族館については特色などもまとめ上げているのだ。それなりには詳しくなってくる。

東京以外でも、珍しい試みをしている地方の水族館にも、足を運んでいる。

そうなると、だいたい二つの傾向が見えてくる。

一つは、一点特化型。

目玉になる何かを準備して、それを中心に見せるタイプ。

もう一つは平均型。

全体的に頑張っているが、目玉になる展示が無い場合。或いは、目玉になると水族館が思ってはいるが、それが地味なもの、だろうか。

大規模水族館でも、後者の場合は珍しくない。

ただ、近年は、大型の水槽を導入する場合が多く、それ自体を目玉にしている事があるようだ。

聞かれたこと以外は応えずに、無言で二人の後ろをついていく。

一度は見た水族館だ。

しかも、以前と展示は殆ど変わっていない。カップルが多数いて、鬱陶しいのも前と同じ。

今回はその上、カップルのデートにつきあわされるというおまけ付きだ。不機嫌にならないはずがない。

案の定芹花は恋人と腕を組んで、密着したまま見て廻っている。

二人の世界に入られる前に、その場を退散したい所だが。芹花にしてみれば、恋人を自慢したくて来ているのだから、それも気の毒だ。

時々話を振られるので、応える。

主にどういう魚か、という質問が主体だった。あまり詳しい方では無いが、それでも応えると、芹花は喜ぶのだった。

案の定、芹花は魚にはあまり興味が無く、軟体生物に至っては殆どが素通りしていく有様だった。

近年展示が増えている大型の水蛸については、一瞥しただけで通り過ぎてしまう。水槽に張り付くほど元気な奴も時々いるのだが、気持ち悪いから別にどうでもいい、とでも思っているのだろう。

芹花はどうして、花野子と友達を続けているのか。

それが、この年まで、よく分からない。

花野子もどちらかと言えば、世間一般からははぐれた存在だ。女子らしい会話もあまり出来ないし、何より性に殆ど興味が無い。普通の人間が喜ぶ会話とは無縁であって、金持ちという事だって教えていなかったから、それが目当てでもなかっただろう。

芹花の彼がトイレに行った。

「ごめんね、花野子。 デートにつきあわせて。 退屈じゃなかった?」

「問題ないよ」

「そう。 ただ、彼を見せておきたかったから」

「……」

交友の広い芹花である。ほうぼうに彼を自慢しているのだろうか。いや、それは考えにくい。

確か高校時代から交際している相手がいたはずで、初めての彼では無い筈だ。もっと華やかな印象の彼もいた。

どうして、今更。

結婚を決めた相手だから、だろうか。

水族館を出た後、三人でレストランに入る。

大学に入った頃に、芹花には自分が資産家の令嬢である事は告げてある。ただし、他の人間にそれはいうなとも。

「花野子さんってさあ」

だから、だろうか。

芹花の彼が、不意に注文を終えると言い出した。

声には、露骨な侮蔑が混じっている。

そら来たと、花野子は思った。金持ちだと言うことを明かさない場合、だいたいの人間は此奴と同じ態度を取る。

「普段何やってるの?」

「仕事ですが」

「この水族館に来ているのは?」

「仕事の関係」

嘘は言っていない。

というよりも、何だ。

毎度毎度とは言え、どうして此奴のようなやからに、こんな風に好き勝手を言われなければならないのか。

「何の仕事だよ。 真っ昼間から、水族館なんか来て。 だいたい大学生が、仕事ってなんなんだよ」

「ちょっと、浩!」

「芹花、お前も友達選べよ。 この子、大学生だろ? 就職活動もしないで、遊んでるなんて、ろくなもんじゃねえよ」

「遊んでません」

いっそ水をぶっかけてやろうかと思ったが、黙っている。

勝手な決めつけで好き勝手を言うような奴か。よくもまあ、こんな男を相手に、結婚することに決めたものだ。

余程ベットの中で機嫌を取るのが上手いのか。

男は花野子の言葉を完全に無視して、好き勝手な主観から説教をはじめる。

「きちんと自活しろよ。 親のすねばっか囓ってないでさあ」

「浩っ!」

「うるせえなあ。 きみわりいんだよ、この女。 水族館の中でもやったら変なことに詳しいし、だいたいなんでデートにこんなのつれてき……」

芹花が彼に水をぶっかけた。

目を白黒させた男の前で、婚約指輪を外して、テーブルに叩き付ける。目には、はっきりした拒否の光があった。

そして、お金だけ置くと、言った。

「行こう、花野子。 不愉快な目に遭わせて、ごめんね」

「お、おい」

「婚約は解消よ。 貴方とは金輪際会いません。 メールは着信拒否にしますし、引っ越します。 引っ越し先も教えません」

手を引かれて、その場を後にする。

レストランに、浩という名前の彼は、呆然としたまま取り残されていた。あれはおそらく、再起不能だろう。

 

芹花が後で言うには。

どうやら、あの彼、最初は優しくて紳士的だったそうだ。しかしながら、婚約を決めた辺りから、露骨に態度がおかしくなっていたのだという。

それだけではない。

友人達からも、悪い噂ばかり聞いていたとか。

暴力的、粗野、金に汚い。

結婚詐欺同然に捨てた女性まで存在したという。

そこで、今日は本性を見たかったのだ。そう、芹花はいった。

つまり、あれは殆ど、規定の行動だった、というわけか。

しかも、それだけではなかった。

「ごめんね。 花野子と一緒にいると、どうしてか男の人って、本性を見せやすいの」

「え、そうなの」

「気がついていなかった? 高校時代も、彼が出来ると、必ず花野子に紹介していたでしょ? 毎回、お世話になって申し訳ないと思っていたの」

そういえば。

芹花が連れてくる男は、どいつもこいつも見事なまでに腐臭が漂うクズばかりだった。今回のように、デートに連れて行かれて、その時馬鹿にされたことも何回かあった気がする。

しかも、その後別れたとか言う話を、何度も聞かされていた。

それでか。

芹花は或いは、クズにもてる体質なのかも知れない。前に芹花とつきあっていた男は、浮気は男の甲斐性だとかしたり顔でほざいていた。録音して芹花に聞かせたら、面白い事になった。

そういえばその時も、芹花はショックを受けるのでは無く。ああやっぱりという顔をしていた気がする。

特性を悟っているから、花野子と一緒にいる、と言うわけだ。

利用されているようで気に入らないが、しかしそれだけ信頼されているという事でもある。それに、芹花自身には悪意も感じない。数少ない友人として、色々ともらったものも多い。

何かおごると言われたので、首を横に振る。何だか、納得がいった事が、幾つもある。親はあるいは、この性質のことを、見抜いていたのか。

それに、あの浩とかいう男、どうも最初から気に入らなかった。

水族館で花野子を案内した専務とやらと、同じ臭いがしていた。その反応自体も、芹花は見ていたのかも知れない。

なるほど、伊達に長年友達をしていない、ということか。

そして、今更に気付く。

自分には、そんな特性が合ったのか、と。まだ親の手のひらの上にいるのだろう。悔しいが。

「今ね、私。 投資の仕事をしているの」

「ああ、それで水族館に?」

「そう。 十年で投資額を回収しろって言われてて、彼方此方の水族館を見て廻ってた、って事」

「何だか大変だね。 大きなお金を動かすとなると、責任も重いものね」

分かってくれれば嬉しい。

何だか、気分がぐっと楽になった。

前言を、撤回することにした。

「せっかくだし、おごってもらおうかな」

「あまり高いのは勘弁ね」

「分かってる。 これでも金銭感覚はまともな自信もあるから」

そのまま、二人でステーキショップに入った。

たまには肉をがつがつ喰うのも良いだろう。値段は少し高めだが、芹花でも払えるはずだ。

クズ男と結婚することになるよりは、ずっと安いだろう。

ステーキのセットを二人で食べる。

それなりに美味しい肉だ。これ以上のものとなると、値段と味が釣り合わなくなりやすい。

コスパなら、このくらいが最適だろう。

「花野子は、水族館が好き?」

「分からない。 色々見て廻って、詳しくはなったけれど」

「でも、見ていると、水族館にいる時、とてもいい顔をしているときがあったよ。 お魚を見ているときとか」

「そう、なのかな」

自分で自慢のものなどない。

学力だって、良い家庭教師の教育の賜だ。財産だって、親から放り投げ与えられたものだ。

部下達だって、それは同じ。

だからかも知れない。

何が好きか、花野子にはよく分からない。

「好きって、そもそも何だろう。 私には分からないよ」

「男の子のことを話していても、前々興味なさそうだったもんね。 動物の赤ちゃんとか見ても、嬉しそうじゃ無いし」

「女だったら、普通は喜ぶものらしいね。 私は多分、自分で子供を産んでも、愛することは出来ないだろうな」

虐待まではいかないだろうが、シッターに預けっぱなしという可能性は高い。だが、立場的に結婚はしなければならないし、子孫も作らなければならない。それが煩わしい。せめて兄がいれば良かったのだが、親以外の家族は、出来が悪い弟と、妹のみ。どちらも、とてもでは無いが、両親の後を継げない。

花野子だってさほど優秀な方では無いが、その分経験を積ませたいと両親は思っているのだろう。

ますます、こののちは出来ることが減る可能性が高い。

「だから、水族館が好きかと思ったんだけれど」

「……」

無言で、ステーキを切り分けて。

口に運んだ。

美味しいと思うが、感動することは無い。

きっと、何を見ても。自分は、満たされることが無いのだろう。そう、花野子は悲観していた。

 

気付くと、海の底にいた。

見上げる先には海面。

つまり、それほど深くは無い場所、という事か。

泳いでいる無数の海棲生物。

中にはかなり大きなものもいる。サメの一種。形からして、イタチザメか。ホオジロザメはまだ飼育が難しく、確立していないという話だが。イタチザメは、幾つかの水族館で、飼育に成功している。

悠然と泳ぐその姿は、海の中でも相当な強者である事を見せつけている。

背中にあるとらじまが、下からは見えないのが惜しい。白い腹が水面からの光で、より美しく下からは見えていた。

「綺麗だな……」

ぼやく。

一般的には、珊瑚やら熱帯魚やらが、人を感動させる。

だが、花野子には、きんきらが美しいとは思えないのだ。生のままの者達が、その生命力をむき出しに泳いでいる姿こそが美しいように思えてならない。

大きな烏賊が、力強く泳いでいる。

あのサイズであの早さ、おそらくはアメリカオオアカイカだろう。高い攻撃性と巨大さを併せ持つ、非常に危険な烏賊だ。実際には、ダイオウイカなどよりも、余程危険な存在である。

だが、所詮はサイズの違いがものをいう。

更に言えば、変温動物どうしとはいえ、サメは戦闘に特化した生物だ。

獰猛に襲いかかったイタチザメが、見る間にアメリカオオアカイカを引き裂いてしまった。海の中が、血に染まる。

興奮したイタチザメが、死体を食いちぎり、振り回している。

ああ。

何だか、とても綺麗だなと、花野子は思う。

そして、こうも思った。

こんな光景を見ていたいと。

 

ベットから身を起こす。

冷え性の花野子は、低血圧気味だ。だが訓練をしているから、朝は問題なく起きることも出来る。

湯を沸かして、その間に顔を洗う。

何だか、体が珍しくほてっていた。淫夢でもみたのかと思ったが、どうも違う。何か、とても楽しい夢だったような気がする。

コメディの類を見ても、面白いと感じない花野子である。

何が楽しいのかさえ、自分で分かっていないのに。

夢の内容が、思い出せない。

「惜しい」

ぼやく。どうしてあの夢を思い出せないのか。思い出せれば、自分が何をしたいのか、分かるのに。

着替えをして、外に出る。

今日はまた、別の水族館の裏方を見に行く。対応次第では、そこも融資の対象からは、外す。

外では車が待っていた。隣に座った広畑が、余計なことを言う。

「二日酔いは大丈夫ですか」

「よってるように見える?」

「そうは見えませんが、疲れているようには」

「そう」

五月蠅いと言うのを、のど元でこらえた。

確かに頭の働きが、だいぶ鈍いかも知れない。二日酔いは滅多にしないのだが、昨日はついつい痛飲してしまった。結局芹花の金では足りなくて、自分で金をある程度払ったのだった。

芹花のことも、広畑に送り届けさせた。

「昨日、トラブルがありましたか?」

「トラブル?」

「昨日、会社に変な男が怒鳴り込んできたそうです。 花野子様を出せとか叫んでいましたが、すぐに取り押さえられたとか」

「ひょっとして、芹花の彼か?」

特徴を聞く限り、どうもそうらしい。

どうやって素性を調べ上げたのかは分からないが、或いは。

まあ、疑い出すときりは無いし。なにより、自分がどうなろうとどうでも良い花野子にとっては、それこそ路傍の小石に等しい出来事だ。

「すぐに逮捕して、今事情聴取をしているそうです。 薬物反応まで出ているのだとか」

「一生豚箱に入れとけ」

「其処までは、流石に」

苦笑いする広畑。

普通に警察に任せておけば、適切な罪をかぶせることが出来るだろうし、何より花野子には表立ってでは無いが、護衛もついているから、ということだろう。

気にくわないが、一応花野子はVIPだ。

親が雇った護衛が、影から守っていると聞いている。

本人のことを見た事は無いし、存在を疑ったこともある。

だが、広畑の反応からして、それは真実なのだろう。つまり、気に入らなければ刺せば良いとか花野子は思っていたが、或いは実現しないことなのかも知れない。それはそれで、何だか不快だ。

世の中の全てが気に入らない花野子にとっては、死は別に受け入れやすい未来の一つに過ぎない。

護衛なんか、余計だと思う。

話題を強引に変えた。芹花の話を聞いて、ふと思いついたことがあるからだ。

「なあ、広畑」

「何でしょう」

「嘘ついていない?」

「何のことに、ですか?」

この反応からして、今の時点では嘘をついていないか。もっとも、この無能な男に、誰かをだませるとは思えないが。

目的地に着くまで、およそ一時間。

その間に、軽く仮眠を取っておく。二日酔いかどうかは分からないが、疲れているのは確かだからだ。

実際に誰かとビジネス的に接するには、力を蓄えておいた方が良い。

今度の水族館は、近郊ではかなり大きい方である。中央に特大の水槽を用意していて、非常に迫力のある魚たちの動きを楽しむことが出来る。

水槽の中には流れも作られていて、場所によって魚の偏りがあるため、群れも出来る。確かに、圧巻と言える光景を、目に出来る場所だ。

ただし其処に力を入れすぎているためか、全体的にはチープさも目立つ。展示の生物を見ていると、死んでいる者が散見される。

単純に技術力が足りていない部分があるのだろう。

もしも此処に投資をするのなら、そういった欠点をことごとく補うことも出来るはずだが。

しかし、この規模の水族館だと、投資が即座に効果に結びつくとも考えにくい。

やはり、バックヤードを見てから、判断するべきだろう。

うつらうつらとしながら、昨日見た夢を思い出そうとする。

少しでも気分を切り替えたいからだ。

「もうすぐつきますよ」

「んー」

目をこすりながら、生返事。

まだ、夢の内容は、思い出せない。そして、意識をしっかり切り替える前に、現場に到着してしまった。

いきなり出るのは、問題がありそうだ。

相手との約束の時間には少しあるし、ハッカのガムを噛んで、先に目を覚ましておく。身繕いをしてから、車を出た。

日差しが、まぶしい。

何だか違和感がある。

自分が望んでいるのは、まぶしい日差しや、健康的な世界なのだろうか。

好きなものは。

この世界とは違うような気がする。

事前に話は通っていたから、事務所にすぐに通してくれた。

応対したのは、前回の水族館の専務ほど失礼な相手では無かったが。やはり、素のバックヤードは見せてくれなかったし、水族館の良いところだけしか口にしなかった。

此処も、同じか。

せっかくよいものがあるのに。これでは、何もかもが台無しでは無いか。

今度、大型の水槽に、鰯の大群を入れるのだと、したり顔で応対した男は言っていたが。水槽には確か、捕食者になる生物もいる。エサをたくさん与えたくらいで、どうにかなるとは思えない。

あっという間に食い尽くされるのが落ちだろう。

「是非、前向きに投資の話をご検討ください」

作り笑顔の男に、花野子は鷹揚に頷いた。

此処も駄目だな。

そう思いながら。

 

その後、水族館を見て廻る。

中央の大型水槽だけは悪くない。チューブ状の通路が下を通してあって、其処から見上げることも出来る。

無数の魚に混じって、悠々と泳いでいるのはジンベイザメだ。

最近は、ジンベイザメの育成が確立してきて、飼っている水族館もかなり増えてきていた。

だから、足を運んだ水族館の幾つかでも、それを見かけた。

ジンベイザメには、コバンザメもついている。

コバンザメが、サメの仲間では無い事を知っている花野子は、何となく思った。何だか、親の七光りを浴びている、自分みたいだなと。

しかし、思い直す。

望むと望まざるに関係無く、結局コバンザメは大型の生物にくっついて、そのおこぼれを受けなければ生きていけない。生きるために、そういう戦略を選択した生物なのだ。人間の倫理観念で彼らを測るのは間違っている。

思考を揺り戻すと、ぼんやりと天井を見つめ続けた。

青黒い世界。

それは、作り物の水底。

何度も死のうと思った時期もあった。入水自殺をしていたら、こんな光景を死の間際に見たのだろうか。

嗚呼。

薄暗い世界は、どうしてか心地が良い。

ふと、気付く。

そういえば、こんな世界を、自分は夢見ていたのでは無かったか。

帰りに、照明に貼るシートを買わせる。青く照明を換えるためのものだ。幾つか売られていたが、その中に好みの色があった。

早速、帰ってから蛍光灯に貼る。

何だか、とても気分が良い世界になった。部屋の色が、うっすら青みが懸かっている。アクアリウムを置こうとは思わないが。

これなら、良い夢が見られそうだ。

ぼんやりと、天井を見上げる。

自分が、水底にいて。既に死人であるかのような錯覚に囚われる。そしてその錯覚は、大変に心地よかった。

 

4、ゆめのあるすいぞくかん

 

何日かぶりに、会社に出る。

投資の話を実現するために、毎日走り回っているのだから、それ自体はサボりの結果では無い。

だが、社員達が噂しているのを聞く。

「あの若社長、何日ぶりの出社だろうな」

「毎日家で寝てるんだろ? 良いご身分だよな。 俺もあんな風に、寝て稼げる身分だったらなあ」

「給金も、一体俺たちの何倍もらってるんだか」

「不公平だよな、この世の中」

どうでもいい。

反論する気にもならないし、いちいち連中に感情をぶつけようとも思わない。この会社は比較的年商が大きく、社員達の給金も多い。それが故に、何処か金銭感覚が、麻痺してしまっているのだろう。

実際問題、いわゆる社長出勤をして、仕事をしない類のお荷物重役は存在している。実例を見た事もある。

だが、そもそも花野子は、休日を自分で設定したことが無い。

今回の投資の話が出てからは、毎日彼方此方を走り回って、調査をしている。はっきりいって、どこの重役よりも、勤務時間については短くないはずだ。これ以上働いている人間も当然いるだろうが、それは人間を使い捨ての駒としか考えていない最底辺の職場にいる奴隷だけだろう。

150億と言えば、それ相応の価値がある金だ。

コネや何やらを重視して、投資する金額ではない。実際に効果がある投資で無ければ、簡単に中小の会社など傾いてしまう。

それをしっかり吟味して、何が悪いのか。

会議に出ると、少し以前とはメンバーが替わっていた。

影のようについてきた人間がいる。

親が派遣したSPだろう。

この間、給金をカットした者がいない。なるほど、会社に怒鳴り込んできたという芹花の彼の事もある。

万が一を考えて、直接出してきた、と言う訳か。

余計なお世話だ。

死ねるのなら、さっさと死にたい。

「それでは、会議を」

「まず、この資料を見て欲しい」

機先を制して、花野子が資料を出す。それは昨日まとめておいた、近隣の水族館に関するレポートである。

プレゼン資料では無い。

というよりも、プレゼンで使うあの画一的な資料を見ていて、分かり易いとは花野子にはどうしても思えないのだ。

「近隣63カ所の水族館についてまとめたものです。 特に有望な幾つかに関しては、バックヤードについてのレポートも含めてあります」

「これは、詳細な」

「相手の出してきた資料を鵜呑みにするのでは意味がありません。 今日はこの会議は、此方資料をもって進めましょう」

資料を作ってきたらしい参加者達が鼻白んでいるのが分かる。

どうせプレゼン向けに作ってきた、各地の水族館から提出されたものを鵜呑みにしただけのゴミだろう。

そんなものは不要。

150億もの金を、浪費できると本気で思っているのか。

「し、しかし社長」

「異論は認めません。 建設的な意見を言わない場合、此処からたたき出します。 給料カットの上でね」

「そんな……」

青ざめた連中を尻目に、花野子は話を進めるようにと、もう一度言った。

暴君。

その名は、更に今後高まることだろう。

実のところ、プレゼン用の資料も作ってきた。実に使いづらいツールだと、ぼやきながら、さっさと作り上げたのだ。

だが、それを出すのは、後だ。

今は、この会議をまとめ上げる。

実際の所、花野子はどこに投資するかは、既に決めているのだが。今の時点では、まだそれは口にしない。

「此方の、大型水族館はどうでしょうか。 管理も行き届いているようですし、何より実績があります」

「それで?」

「そ、それで……」

「その水族館に投資するのは反対です。 管理が行き届いていると言っても、裏側ではスタッフを消耗品として扱い、設備自体も新しいものの、実績が無いものをスポンサーの言うままに導入しているようです。 こびを売るのが上手なだけで、実際に投資額を回収できるとは思えません」

一刀両断にすると、黙り込む重役。

トイレに行くと言って、一人出て行った。SPが一瞥だけする。

此方の反論に対して、再反論すればいいものを。給料を減らされるのが怖くて、出来ないというのか。

結局この国のビジネス上で言われるコミュニケーション能力というのは、この程度のものにすぎない。

会社の上層に上がってくるのが、技術力があるわけでもなく、実務能力がある者でも無い。こびを売るのが上手な者だけであれば、いずれ経営が立ちゆかなくなるのも当然だ。くだらないと、花野子は思う。

結局、暴君が一人出るだけで、会社が右往左往するのは目に見えている。

しかも現在の景気では、一度会社を辞めてしまえば、その先は真っ暗だ。余計に気骨のある社員は姿を見せず、こびを売るのが上手な者だけが、上に上がってくることになる。その結果がこれなのだ。

「反論があれば聞きます。 もっとも、私はこのレポートを作るのに、全ての水族館を実際に廻り、バックヤードにも足を運び、ブルーカラーの人達にも話を聞いています。 その実績を崩せるだけの反論でなければ、即座に首にしますよ」

反論は無い。

クズが。

内心で、花野子は吐き捨てていた。

これでは、競争力が落ちるのも当然か。

会議を進める。形式上、会議としているが。結局の所、何もかもを自分で決めなければならないか。

 

結局、投資をする水族館は、花野子が一人で決めた。

この会社の支配者になるのは親が決めた確定事項。だから、今までは手心も加えていた。あれでと言われるかも知れないが、それが事実だ。これからは、更に厳しく行く。今いる重役は、全員降格して、給金もカットしよう。

そう花野子は決めていた。

 

広畑と一緒に、出向く。

最終調整のためだ。

重役も何名か伴っていたが、此奴らは案山子だ。パシリ役くらいにしか用いるつもりはない。

出向いた先は。

深海魚を専門に展示している、小さな水族館。

まだ花野子と同じ年くらいの若社長が切り盛りしている、彼処だ。

車を停める。

広畑にも、今日は来てもらう。

そこそこに客は入っている。小さな水族館だが、ダイオウグソクムシをはじめとする人気があるものや、他では見がたい珍しい展示があるからだろう。

「本当に、此処にするんですか?」

「一番誠意のある対応を見せたのが此処です。 更に言えば、敷地に余裕もあり、投資次第では充分に盛り返せる。 交通の便についても、ある程度はカバーが可能です」

重役達が、青ざめて小声で何か会話している。

どうでもいい。

此奴らに主体的な意見など、最初から期待していない。

勿論、金だけ渡して後は野となれ山となれなどというつもりもない。しっかり手綱を引いて、利益を回収する必要がある。

既にアポは取ってある。

出向くと、あの若社長が、直接出迎えてきた。

歩きながら、一緒に話す。

「投資を決めていただいたという事で、有り難うございます」

「投資したからには、しっかり稼いでもらいます。 ただ、此処の良さをなくさないようにもしてください」

事務所に案内してもらい、投資後のプランを見せてもらう。

悪くない。

幾つもの水族館を見てきたから分かる。この社長、水族館が相当に好きなのだろう。どうすれば良いのかという確固たるプランがある。そして、150億の投資で、実現できる範囲内でのプランを立ててきている。

「もしも、これで10年以内に投資が回収できたなら、さらなる増額も見込んでいます」

「有り難うございます」

ぺこりと頭を下げられる。

重役達は、ずっとひそひそ会話を続けていた。これでも耳は良い方だから、会話の内容は筒抜けだ。

だが、もはやどうでもいい。

連中は首が確定だ。

此処で冴えた行動を取れたなら首にしないでもいいと思っていたのだが。どうせどいつもこいつもコネで入ってきたか、コミュニケーション能力とやらで出世してきた連中だ。放り出しても、さぞや引く手あまたで再就職先があることだろう。何しろこの国は、コミュニケーション能力とやら以外は、どうでもいいという価値観で、人事採用を決めているのだから。大手企業になればなるほどその傾向が強い。

空き地の一角に案内される。

「此処には、展示する生き物たちじゃ無くて、ケアのための設備を作る予定です。 展示スペースよりずっと広大なバックヤードを用意することで、生物たちの負担を減らすだけでは無くて、より緻密なケアを行う事が出来ます」

「なるほど。 面白いですね」

「デリケートな生物は多いんです。 投資していただける額で、実現できることも、他にも幾つもあります」

社長は、目をきらきら輝かせていた。

本当に水族館が好きなんだなと、花野子は思った。もっとも、それが理由で、投資したのでは無いが。

他にも、幾つかプランの具体的な内容について説明してもらう。

この社長、きっと夢を夢で終わらせないために、ずっと長い間考え続けていたのだろう。そして、場合によっては老人になってからでも、プランを実現させる予定だったという事か。

人生をかけた、夢。

或いは、それも面白いかも知れない。

他人の夢を嘲笑いながら、楽しみと言えば飲み会だけで、子供達にも疎まれながらくだらない人生を過ごすよりも、よっぽど良いだろう。

この投資が成功すれば良いな。

そう、花野子は不思議と考えていた。

不思議と、いつも悪い機嫌が、少し改善しているような気がする。

何故なのだろう。

くだらない人間社会の仕組みを離れたところにある思考を見たからだろうか。分からない。

何にも、根本的に興味を持てなかった花野子が。

今は、この夢が、実現すれば良いとさえ、うすうす感じ始めている。

「そういえば、パンフにあったことは?」

「流石に今の技術では、当分は不可能です。 しかしいずれの日にか実現できるように、実績を積み上げていくつもりです。 烏賊の展示にも、これからは力を入れていくつもりですから」

今回の投資があれば、長期的には十分に可能だろう。

頷くと、花野子は細かい契約の策定に入った。

両親は今のところ、横やりを入れてきていない。そしてこれが成功すれば、花野子はより好き勝手を社内で出来るようになる。

現在でも充分に暴君と呼ばれているが。

まだ、個人的な印象としては足りない。

契約を締結する。

後は、管理をしながら、資金の回収を待つ。ただ、それだけだ。

広畑に車を出させる。

重役達は、その場で解散させた。

「良い買い物をなさいましたね」

「意外。 反対するかと思ったのに」

「あの水族館、多分更に良くなりますよ。 作り手の愛情を感じましたし、何より展示されている生物たちに、よく配慮されているのが分かりましたから」

「……」

そんなものか。

よく分からない。

家に帰ると、花野子は青いシートを貼った蛍光灯の下で、ベットに転がった。

ぼんやりと天井を見つめていると、いつの間にか眠くなってきていた。

 

其処は。

海の底。

静寂が満ちている場所。

無数の魚が見える。非常に長い奴がいる。あれは、竜宮の使いだろうか。

花野子は自分が動けない事に気付く。

声も出ない。

夢の中だからか。

いや、此処が海底だから、だろう。

多くの魚たちが見えるが、まるで他人事のように泳いでいる。彼らには、花野子は見えていないのだろうか。

息が苦しいわけでも無い。

かといって、身動きも出来ない。

何だか、とても良い気分だ。まくろき闇の其処で、じっとはるか先にある光を見つめていると、満たされるものがある。

私は。

きっと、こんな静寂の中で。生死を、ただ見つめていたいだけなのかも知れない。

だからこそ、水族館に。文句を言いながらも、仕事のためと言いながらも。通っていたのだろうか。

傍観者になりたかったのか。

いや、違う。

ただ静かな闇の中で、孤独に過ごしたかったのだろう。

誰かと一緒にいたい奴は、確かにいる。

しかし、花野子は違う。

同じように、孤独を愛する奴は、きっと他にもいる筈だ。ぎゃあぎゃあ周囲が五月蠅い空間では無くて、静かな場所だからこそ。水族館が、好きなのかも知れない。魚には、今でも知識はあっても、あまり興味は無い。

重要なのは、きっとこの。静寂に満ちた、閑かな空間の雰囲気なのだ。

今だからこそ、わかる。

花野子は、水族館が好きだ。

前は兎も角、今は好きになった。

このゆめのような水族館を、いつか見てみたい。

それはきっと、花野子にとって、ようやく見つけた夢なのかも知れない。

目が覚める。

魅惑的な夢だったような気がするが、既に内容は忘れてしまった。だが、何となく、何をすれば良いのかは、分かってきた。

ポケットマネーがどれくらいあるか、すぐに頭の中で勘定する。そして、インターネットを使って調査を実施。

ある程度分かってきたことがある。

広畑に、連絡した。

「家の中に、水槽を作りたい。 というか、水槽の中に住みたい」

「えっ……。 正気ですか、お嬢様」

「金がアホほど掛かる事は分かってる。 どれくらい懸かるか、見積もりを作って欲しい」

返事を待たず、電話を切る。

実現するには金がいる。

もっとこれから、働いていかなければならないだろう。やがて、水族館そのものとも言える家に住めれば、それ以上の幸せは無い。

閑かな闇の中、一人ですごす贅沢な時間。

それが、今の花野子が、望むものだった。

 

(終)