伊吹萃香の過去と今

 

序、鬼の中の鬼

 

此処は幻想郷。

「外の世界」では存在できなくなった者達が集う最後の秘境にて、妖怪や神々がいまだに生きる事が出来る数少ない理想郷。

妖怪の山と呼ばれる巨大山地を中心に抱え。

人里と呼ばれる人間の集落が存在し。

人間は妖怪に怯え。

妖怪は人間を驚かし。

そして人間は勇気をふるって妖怪に立ち向かう。

神々は信仰の対象となり、力を増す。

そんないにしえのルールが息づく理想郷。人間が絶対の存在ではない場所。

外の世界に比べて、ぐっと文明は遅れているけれども。

時々意図的に起こされる問題を除けば、ごくごく平和な、ゆっくり時間が流れる静かな世界である。

そんな理想郷にも変化は起きる。

妖怪の山を昔支配していたのは、妖怪の中の妖怪。誰もが知る鬼、であった。

今その鬼は、妖怪の山にいない。

物好きがたまに妖怪の山に戻ってきたり。或いは仙人となろうとしている鬼がパーソナルスペースを作って引きこもったりしているが。

あくまでそれだけ。

鬼は昔地獄として使われていた事もある「地底」に移り住み。現在は少なくとも表向き、幻想郷の管理者からは外れている。

しかし実際には今でも妖怪達には大きな影響力を持っており。

幻想郷の支配者階級である「賢者」達につぐ影響力を周囲に及ぼしている存在とも言える。

特に昔妖怪の山。妖怪達の幻想郷における中心活動地を抑えていた通称「山の四天王」は。今も妖怪達の畏怖の対象だった。

その一人。

元山の四天王、伊吹萃香は。今日も水を入れれば酒になる瓢箪を持って酔眼のまま歩く。

伊吹萃香が外にいた時の名前は酒呑童子。

酒呑童子は源頼光に退治された伝説に残る鬼で。

日本三大妖怪とまで呼ばれる、最強の妖怪の一人だ。

しかしながら、萃香にそんな威厳はなく。

普段から酔っ払い。

ものの密度を操作する能力、という強大な力をたまに思い出したかのように使って遊ぶくらいで。

今では地底の顔役としての仕事以外。

特に幻想郷の管理にも、政務にも、頼まれない限りには一切携わっていない。

酒呑童子は源頼光の前に「美しい童形」で現れたとされているが。

その伝承通り……というべきか。

萃香の見た目は頭の左右に横に伸びるように生えている角を除けば、幼い子供そのままである。

ただしその腕力は幻想郷でも上位に入ると言われ。

戦闘力は幻想郷の管理者である賢者達に並ぶとも言われる。

残念ながら、妖怪と神々の間には更に大きな力の差があり。

現在萃香は武闘派の神々もいる幻想郷においては必ずしも最強と言う訳でもない。

実力者ではあるが、最強ではなく。

実は純粋な腕力においても、同じ四天王の星熊勇儀に劣ると自分で認めている程である。

そんな萃香とは、一体何者で。

どうして酒呑童子から名前を変えたのか。

その辺りを知る者は少ない。

今日、萃香は黙々と瓢箪を引きずって、妖怪の山の中腹を歩いていた。右手に小川。川を遡り、上流に行くようにして。

妖怪の山にたまに現れる萃香だが。

基本的に釣りをしたり酒盛りをしたり。

陽気に騒ぐことだけを目的としている。

昔は鬼は人間をさらっていたのだが。

今はそれもしていない。

萃香を見ると、山の妖怪達はすぐに姿を眩ませる。今でも萃香は山の妖怪にとっては絶対の恐怖の対象。

守矢神社に事実上の山の支配権が移った今も。

それは変わる事がない。

程なく、大きな石に萃香は這い上がると、そこに胡座を掻いて座り。瓢箪を傾けて、ぐいぐいと飲み始める。

鬼の酒は度数が凄まじく。一部の国で愛好される殆ど純度が100%に近い酒に迫る程である。

鬼は例外なく蟒蛇である事でも知られている。

幻想郷の人間側の管理者である博麗神社の巫女。博麗霊夢も相当な酒豪である事で有名だが。

その霊夢でさえ、萃香との飲み比べは流石に避けるだろう。

だが萃香の場合、いつも酒を口にしていて。

基本的に素面に戻ると言うことが滅多にない。

いつも陽気に酔っ払ってけらけら笑い。

気分次第で悪戯のような悪事をしたり。夜中の人里に出向いて、店中の酒を飲み尽くして代わりに宝を置いていったり。

萃香が何をしたいのか。把握している妖怪は殆どいない。

賢者ですら萃香のやりたい放題には頭を悩ませている程で。

その存在は、幻想郷の何処にでもいる。大変自由なものだ。良い意味でも悪い意味でも。

大きな石の上で酒を飲んでいる萃香は、酒臭い息を吐くと。酔眼のまま、振り返りもせずにいう。

「何か用事か」

「ふふ」

降り立ったその存在は。

鬼にとって絶対に勝てない存在。

百日咳快癒を司る喉の神にして。外の世界でまだ充分な影響力を持つ神格化された鶏の神。

庭渡久侘歌である。

外の世界ではニワタリ神と呼ばれ、百を超える神社にて信仰されているバリバリ現役の神格であり。

しかも鬼に対する特攻効果を持つ鶏の声の持ち主。

ただでさえ気分とノリで行動する鬼を監視するために、幻想郷の賢者が三つ指ついて幻想郷に招いた監視役。

現在は天狗と守矢神社の監視をしているという久侘歌が、萃香に何用か。

酔眼のまま、瓢箪をまた傾ける萃香。

本来なら、鬼は本能的恐怖心から久侘歌に近寄ることさえ出来ない。昔話でも、鶏の声を聞いただけで鬼は逃げ散る。更に言えば、妖怪と神ではどうしようもない力の差がある。弱い神には妖怪で対処できる者も存在するが。百を超える神社で信仰されるような神が相手になると、妖怪では勝てない。

勿論萃香でも、勝つ事は難しい。

だが、死ぬ事を何とも思っていないかのように、萃香は平然とし続けていた。

頭に鳥の巣とひよこを乗せ。白い翼を持つ久侘歌は、西洋でいう天の使いを思わせる姿をしている。

眷属の神鶏を連れていることも多いのだが。

今日は一人だった。一柱と言うべきか。

「見かけたので降りてきただけですよ。 以前会ったのはいつでしたっけ。 鳥頭なのでどうも覚えが悪く」

「そんなの私も覚えちゃいない。 そういえば、私「ら」が山を出るときに、軽く話をした以降は……互いに見かけるくらいだったんじゃないのか」

「そうでしたっけね」

「それにしても声を聞くだけで結構きついな。 下っ端の鬼達じゃ、こりゃ見ただけで逃げるのも仕方が無い」

ぐいぐいと酒を呷る萃香。

笑顔のまま、側に行儀良く座る久侘歌。

鬼と、鬼を退治する神の組み合わせは。

不思議な妖怪が多数住まう妖怪の山でも、特に珍しいものであるかも知れなかった。

萃香が、此方を伺っている河童を一瞥。

久侘歌が笑顔のまま手を振る。

河童は小さく悲鳴を上げて逃げていった様子だった。

ブルーカラーの制服で統一している河童達は、昔は鬼の支配下にあり。今でも鬼を恐怖の存在として認識している。

更にはその鬼でも頭が上がらなかったニワタリ神である。

河童としては、恐怖以外の何者でもない。

だから、こわごわ見に来たのだろう。

何しろこの辺りは、河童の縄張りなのだから。

萃香は関係無く入っていくが。また、久侘歌は妖怪の山の全ての場所に入る権限を有していて、これは賢者公認である。

何しろ、妖怪の山の監視者なのだから。

「飲むか?」

「いいえ。 仕事帰りですので」

「彼岸と地獄の境目の監視か。 ご苦労なこってな」

「まだ落ち着いていないんですよ。 地獄経由で畜生界からこっちにちょっかいを掛けようとしているのがいましてね」

少し前に起きた畜生界関連の騒ぎ。

幻想郷から精鋭が出向いて解決したが。

実はまだ一部解決していない事が最近分かってきていた。

対応をどうするか話をしている所なのだが。

いずれにしても久侘歌には直接関係はあるが。

萃香にはあまり関係のない事である。

ただ、萃香は酔眼で言う。

「もし手が足りないようだったら声かけろな」

「おや、どういう風の吹き回しで」

「畜生界は大嫌いだ。 幻想郷はこれでも気に入ってるんでな。 畜生界の外道共なんぞにこの暮らしやすい場所が潰されたら困る」

くすりと笑うと、久侘歌は事情を話してくれた。

畜生界。畜生道とも言われる其所は、現世で罪を犯した人間が送られる土地の一つ。

永遠に畜生同士が相食み合う修羅の土地である。

更に過酷な餓鬼道、更には地獄そのものよりもマシではあるが。

自己責任論が暴走し、手がつけられなくなった其所は。

見境無しの野心が横行し。今でも幻想郷に対して、目を向けている有力者がいるそうだ。

萃香はそれでか、と呟く。

久侘歌は笑顔のまま応えない。恐らくこの様子だと、搦め手で何かしかけてくる可能性が高いのだろう。そうなると、やはり手札が多い方がいい。

横になると、萃香は大あくびをした。それに対して、真逆に久侘歌は立ち上がる。

「寝る。 じゃな、鶏の神」

「ええ。 私も住処に戻って眠る事にします」

「お互い安眠をむさぼれるのが一番だ」

「まったく」

軽く上品に手を振ると、久侘歌は飛び去る。

白い高貴な羽根が、何枚か舞い散った。

高貴な羽根か。

萃香は呟いていた。

さらさらと流れる美しい川。外の世界では滅びてしまった魚や虫もたくさん住んでいると聞いている。

外の世界には殆ど出向くことが無くなったし。

もう出向く気にもならない。

500年前に幻想郷が出来たとき。一も二もなく幻想郷に来た萃香は、その特異性。鬼の中でも別格とされる酒呑童子である事から。同じように幻想郷に逃げ込んできた鬼達のまとめ役となった。

鬼のまとめ役の殆どが、酒呑童子の元一味である事からも。

どれだけ酒呑童子という存在が、鬼にとってのカリスマなのかは、言う間でもない事である。

だが、沸き立つ鬼達の中で、萃香は言ったのだ。

あまり面倒な悪さはするな。

幻想郷から出てしまえば、人間にまた追い回される日が来る。

楽しく鬼らしく生活するのは良いだろう。

だが幻想郷を支えるのに必要な人間達を殺すな。

ただ騒ぐのは騒げ。

矛盾している言葉も含むその訓戒以降。萃香が酒を手放した事は無いし。また、昔のように人間に対して殺戮を行う事もなく。人間を食らう事もなくなった。

やがて本気で、岩の上で寝息を立て始めた萃香。

側に降り立った緑の髪の毛を持つ巫女が、毛布を掛けていく。

この妖怪の山の現在の事実上の支配者。

守矢神社の風祝、東風谷早苗である。

しばし豪快にいびきを立てて眠っていた萃香だが。酔っ払ったまま夕刻には目を覚まし。毛布が掛かっていることに気付いて、苦笑いした。

「そこまでヤワじゃねえっての」

それでも、苦笑いしながらも、守矢に毛布を返しに行く。

ただし礼は言わないし。

姿も見せない。

守矢に近付くだけで、萃香でもきついと感じる強烈な結界が張られているのが分かったから。多分守矢の支配者である二柱の武神は萃香に気付いているだろうが。

ちょっかいをかけて来る事はなかった。

神社の境内に毛布を返し。

そのまま無言で立ち去る。

案の定。神社の屋根の上に。この国の祟り神の頭目。洩矢諏訪子が、にんまり笑って此方を見ていたが。

萃香は返礼しなかった。

田舎の純朴な子供みたいな姿をした諏訪子だが、現在幻想郷でトップを争える実力者の一人。

いにしえの時代、諏訪を巡って天津の神と争った武神であり。

その戦闘力は、もはや鬼の及ぶところでは無い。

鬼の中でも上位に位置する萃香でも厳しいだろう。

ルールつきの遊びだったら兎も角。

素で殺し合いをしたら、多分とてつもない被害を出した上で、萃香が負ける。

故に関わるつもりも、戦うつもりもない。

幻想郷の大事になってしまうからだ。

諏訪子の意思は分かっている。

お前が来た事は把握している。既にこの山の領有権は我等に移っている。監視しているから忘れるな。

そういう事だ。

多少腹も立つが、実際問題もはやこの山の領有権は手放したし。今後も現時点では取り戻すつもりはない。

守矢は山の支配権を握ったが、しかしながら山にある第二勢力、天狗の後ろ盾として賢者と、人間代表の博麗の巫女が入っており。妖怪の山の全妖怪を勝手に動かす、という事は出来ない。

そのいざこざには萃香も関与したので。

裏の事情は知っていた。

再び眠るのに使っていた大岩まで戻ると。瓢箪から酒を直接呷る。酒が切れそうになっていたからである。

「おい、そこの河童」

「ぴえっ!?」

後ろからこわごわ見ていた河童に声を掛ける。

ブルーカラーの制服を着て、お揃いのリュックを背負った河童が一人、此方に来る。

見覚えがある奴だ。

河城にとりだったか。

河童の顔役である。河童にしては強い方だが。そもそもまとまりがない上に、河童そのものがそれほど強い妖怪では無い。

現在では幻想郷のテクノロジーと経済に噛むことで存在感を増そうと四苦八苦しているが。

もしも賢者や博麗の巫女を怒らせたら潰されるし。

守矢にも一度見切りをつけられているので、妖怪の山の中ではかなり肩身が狭い勢力でもある。

とはいっても、河童それぞれは好き勝手に生きている種族で。

にとりも毎日好き勝手に、現在の河童が好む発明や、テキ屋としての仕事をしながら。自由気ままに過ごしているようだが。

「酒つげや」

「こ、これはどうも萃香様。 その」

「酒つげや」

「ハイ」

二言目は、少し殺気が入り。

意図を悟ったにとりが、即座に酒を、萃香が出した杯に注ぎ始める。

今でも河童は鬼には絶対に逆らえない。

河童の顔役であるにとりでも同じ事だ。

種族としての能力値が違いすぎるのである。

河童は強い者には下手に出て、弱い者には強きに出る。そういう種族だ。故に鬼には絶対に逆らえない。

「そ、その、肴は」

「何か適当に用意しろ」

「ハイ」

涙目になって晩酌につきあわされるにとり。

なお萃香は機嫌が良いので、酒を相手に呑ませるつもりは無かった。鬼の酒を飲ませると、ほとんどの河童はすぐにひっくり返ってしまうのでつまらない。天狗でも、萃香の酒に多少つきあえるのは射命丸くらいで。

飲ませると話し相手がいなくなるので、面白くない。

河童が干物を出してきたので、ばりばりとそのまま食う。骨を出すような野暮な真似はしない。

晩酌をさせると酒は美味くなる。

昔は部下がさらってきた人間を、久侘歌が来る前に晩酌させて。そして本人が気付かない間に記憶も消して返したりしていたが。

今はそれもしていない。

余程の無礼を働かない限り暴れる事はないし、店の酒を丸ごと飲まれる以外は良客。

人里でも、そう認識している様子で。

それでいいのだ。

「肴が足りないな。 お前を肴にしようかな」

「ご、ご勘弁を! すぐに何か焼きますので!」

「冗談だ。 なあ、何か問題とか起きていないか?」

「問題ですか?」

懐から取り出したスルメを肴にして食べ始める萃香に。肴持ってるならどうしてあんないじわるをと涙目で訴えながら、にとりは少し俯く。

この様子だと、河童そのものは特に困ってもいないか。

だったら別にかまわない。

砂金の塊をにとりの手におとしてやると、萃香はその場を音も無く離れる。ものの疎密をある程度操れる萃香は、こうやってその場から不意に消える事も可能である。ただ疎密の操作には限度があって、自己申告で言う程万能能力では無いし、格上の神々にも通じない。

かくして今日も昔鬼の首領だった者は幻想郷をふらつく。

とらえどころがない、古き言葉での鬼そのものの存在として。

 

1、鬼の話

 

鬼。

古い時代に、中華から輸入された概念である。意味は死霊とか、得体が知れないものとか、そういう意味だ。

現在幻想郷が存在している日本において、鬼は原初のそれとは概念が異なっている。

まず第一に、姿がはっきりしている。

金棒を持ち、角を生やし、虎皮の服を着ている。だいたいの場合はそれが下着だったりする。

屈強で大柄な肉体を持ち。

そして地獄で獄卒を務める。

ところが、だ。

この鬼は、どういうわけか多くの昔話で悪役を務めているのである。

それだけではない。

古き時代。

源頼光という英雄が存在した。

四天王と呼ばれる豪傑達を従えた英雄であり。その四天王の一人は、昔話に出てくる誰もが知る剛力の持ち主、あの「金太郎」である。頼光を知らなくとも、金太郎を知らない者はいないだろう。

数多くの妖怪を屠った源頼光最大の功績は、大江山に巣くっていた、京の都を脅かした鬼の頭目。

酒呑童子と、その一味の首級を上げた事だった。

つまり、古き時代に輸入された概念である「鬼」は。

日本では大きく変化しているのだ。

まず第一にその姿。これは丑虎の方角から取られている。

丑虎の方角はいわゆる「鬼門」。陰陽の考えにて不吉なる存在とされていて。鬼の姿は此処から逆輸入され設定されたものなのだ。

すなわち牛のように角を生やし屈強で。

虎のような衣服を纏って獰猛である。

駄洒落のようだが、古くからこの国においては、言葉遊びは呪術とも結びつく重要なものであり。

丑虎の方角が鬼を示したのは、別に不思議な事でもないだろう。

そして地獄の獄卒の概念。

これは仏教から輸入されたものだ。

仏教では緻密な地獄の概念が存在し、獄卒については丁寧な描写がされている。これが日本に入るとき、鬼の概念と混ざり合った。

本来の仏教における鬼は、地獄で獄卒をする存在であり。恐ろしいかも知れないが、それは刑務所にいる刑務官が侮られてはならないため。

まして仏教における地獄は、刑罰を犯さないように民草が振る舞うように、とにかく過剰に恐ろしく描写されている。

そんな場所で管理をする者が、舐められては話にもならない。

故に、鬼は恐ろしい存在だとされ。そして丑虎の方角から作り出された姿が絶妙に恐ろしかった事もあって。これが混ざり合ったのである。

そして、最後に。各地で古き時代に暴れ回った「鬼」。酒呑童子をはじめとする伝承の鬼だが。

これは仏教における鬼とは存在が矛盾している。

そもそも獄卒である鬼が、どうして地上で悪行を働くのか。

鬼と言えば悪の権化のような呼ばわり方が良くされるが。

仏教の獄卒はそもそも悪の権化ではなく、単なる公務員であり。恐ろしいかもしれないが、その存在は悪では無い。

恐怖の存在と、悪とは別のものなのである。

それに対して、源頼光やその配下四天王に退治された鬼は明確なる悪だ。

これはどういうことか。

すなわち、此処で言う酒呑童子らの「鬼」は。

朝廷に従わなかった者達。

いわゆるまつろわぬ者や単純な盗賊達が、時代を経て神格化。いや妖怪化された存在というわけである。

現在、日本における鬼は、これら全てが混ざり合った極めて独特な存在で。

他の国における神の敵対存在に、何かと「鬼」をつけるのは。色々な意味で不可思議とも言えるかも知れない。

だが、一周回ってその訳のわからなさが。

本来の「鬼」に近付いているのかも知れない。

ふうんと鼻を鳴らして、魔法の森に住まう自称普通の魔法使い。霧雨魔理沙はその記事を読んでいた。

最近極めてまともになった天狗の新聞。

その中の一つ。縁が出来て購読するようになった姫海棠はたての新聞に目を通していたのである。

魔理沙も不思議だった。

実は魔理沙は、何度か地獄に行った事がある。

死んで落ちたのでは無い。

生きた身のまま、ある理由から地獄へ赴いたのだ。

其所は悪趣味な世界で、獄卒である鬼は汗水垂らして働いており。

悪意と怨念が渦巻いていて、長居したくない場所だった。

其所で見かけた鬼は、とてもではないが幻想郷で見かける萃香達と同じ存在だとは思えなかったのである。

萃香はとにかく強い奴で、魔理沙もあまり正面から戦いたくはない相手だ。

スペルカードルールというお遊びでなければ、それこそかなり勝率は下がる。大物食いで知られる魔理沙だが、それでも出来れば勝率が極めて低い戦いはしたくないというのが本音である。

だから前々から鬼には興味があった。

幼い頃に勉強を教わった事がある上白沢慧音に、この間なんと無しに聞いてみたのだが。

その時ははぐらかされてしまった。

今後、何かしらの理由で鬼とぶつかり合う事があるかも知れない。

有名な豆や鰯などの弱点。後は鶏の声が苦手という事くらいは知っている。

それらのルーツについて、調べておきたかったのだが。

思ったよりも遙かに本格的な記事になっていて。魔理沙は唸らされていた。

昔ばらまかれていた射命丸のいい加減な記事とは別物である。

本来こういう新聞が撒かれていたら、もっと天狗は大きな影響力を持てていただろうに。射命丸は狡猾で有能だが。肝心なところで、どこかが欠けているのかも知れなかった。

新聞をしまうと、少し考え込む。

鬼本人に話を聞いてみようかとも思ったのだが。

そもそも鬼が今いる地底は、極めて治安が悪い。最近再開発とやらを進めているらしいけれど。それでも厄介ごとを散々周囲から持ち込まれる事は確実だ。

更に知っている鬼はどいつもこいつも好戦的で。

話を聞こうと思ったら、それこそ必死の思いでスペルカードルールでの戦いに勝たないといけないだろう。

実戦は論外。

彼奴らの剛力に巻き込まれたら、冗談抜きに死ぬ可能性がある。

小さな好奇心を満たすために死んでいたら、それこそ命が幾つあってもたりたものではない。

かといって、知り合いでない鬼達は基本的に皆寡黙で。

鬼の支配者階級に従って、黙々と仕事だけをしていて、とにかく近寄りがたい。

ため息をつくと、一度思索は止める。

魔理沙は魔法を常日頃から研究していて、それでやっと博麗の巫女、博麗霊夢と並んで戦える状態なのである。

魔法の森にたくさんはえている多種多様なキノコはどれもが魔法にとって強力な媒体であり。

これを調べる事で、様々な魔法を産み出すことが出来る。

霧雨魔法店と看板が掛かっている自分の家に戻ると、集めておいたキノコを取りだし、庭で実験を開始。

煮たり焼いたり温めたり、刻んで混ぜたり。

あらゆる実験を重ねていき。

その全てを資料としてまとめていく。

一段落した頃に。

気配に気付いて、振り向く。

木に背中を預けて、此方を冷たい目で見ている長身の女性。

中華風の服を身に纏い。右手に包帯を巻き。髪は美しい桃色。

博麗神社に出入りすることが多い謎が多い「仙人」。茨華仙である。実は本名ではない。

そういえば此奴がいたか。

霊夢に少しだけ聞いたのだが、此奴はある事情から鬼に詳しいはず。

話を聞いてみるのも良いだろう。

「よう。 前に霊夢が死にかけて以来か?」

「そうね。 それよりも、さっき読んでいた新聞、良いかしら」

「かまわないけど」

ひょっとして、鬼にとってはクリティカルだったのか。

幻想郷の妖怪についての情報は、人里の名家、稗田に貯蔵された「縁起」に記されている。

だがこの縁起、幻想郷の賢者の検閲が入っている曰く付きの代物で。

嘘ばかりが書かれている厄介な書物だ。

妖怪に対する畏怖を生じさせるために、意図的に妖怪が恐ろしく書かれており。

魔理沙が知る気が良い妖怪も、残虐凶暴の権化のごとく書かれている事が珍しくもなく。故に魔理沙は一時期から見切りをつけ、自力で妖怪は調べるようにしていた。

人里の人々が、妖怪を怖れる事は良い。

実際問題、この幻想郷は、人里の人々の恐れで成り立っている部分が大きい。

特に弱い妖怪は侮られることが致命的で。

実際に人里でその妖怪を否定する噂が流れただけで、壊滅した妖怪すら実在しているのである。

だが、魔理沙は場合によっては妖怪と戦う事もある立場。

出来れば正確な情報が欲しい。

故に、色々な方面から妖怪を調べていた。

初見殺しの能力を持つ妖怪とやり合うことも多い魔理沙だが。生き延びてこられたのは、単に運が良かったからだと自分では思っている。

生き延びる可能性を上げるには。

少しでも情報を得ること。

散々体に傷をこさえて。

敗戦も何度も経験して。

自分の実力の程をはっきり理解した魔理沙だからこそ、今は出せる結論である。

故に、正確性が高いと判断したはたての新聞を購読までしていたのだが。

新聞を華仙に見せる。

厳しい目で目を通していた華仙は、しばししてふうとため息をつく。

魔理沙より頭一つ大きい華仙は、側に立たれると少し威圧的だ。第一次成長期に栄養状態が良くなかった魔理沙はどうしても背があまり伸びなかったので。余計に威圧を感じるのかも知れない。勿論優れた実力を有する華仙、という事情もある。

「なあ、どうだそれ」

「特に問題になるような事は書かれていないけれど、人里には持ち込まないでね」

「鬼の神秘性が削がれるから?」

「そういう事。 貴方も稗田の書物に検閲が入っている意味は理解出来ているでしょう?」

頷く。

実際、はたては新聞を売る相手をきっちり分けて選んでいる様子だし。売る新聞についても同様に分けているようだった。

「この新聞ね、少し前に賢者から話を聞かされて、興味を持っていたの。 姫海棠はたて自身は出かけていて捕まらなかったから、売った相手をと思ってね」

「彼奴、妖怪の山にいるんじゃないのか」

「今は妖怪の山に殆どいないわ。 まさしく水を得た魚のように、幻想郷中を飛び回っているわよ。 天狗達は大慌てで、必死に天狗の縄張りに残るように説得しているようだけれど。 姫海棠はたて自身は、もう天狗の組織そのものに興味が失せているようね」

「はー。 この新聞、出来が加速度的に良くなっていると想ったら。 本気で取り組んでるんだな」

夢を見つけた。そして、夢の中に身を置いている。なんと羨ましい事か。

魔理沙も昔は籠の鳥も同然で。親と大げんかの末、人里にある実家を飛び出した。自分を理解しようともせず、散々暴力を振るった父親の事は今も許していない。帝王教育と称した虐待は、今でも心の奥に傷を穿っている。多分、傷が消える事は一生無いだろう。

それから好きなように生きるために、魔理沙はもの凄く苦労した。

苦労を自慢するつもりはないが。

死ぬような思いを何度もしたのだから、苦労をしたことを誇っても良い筈だ。

なおはたては人脈構築にも余念がないようで。以前は露骨に対立していた守矢神社の早苗とも最近は関係修復に成功した様子だ。名前で互いに呼び合っていて、もう敬語も使っていない。

本来だったら天狗と守矢は絶対に相容れないのだが。もう完全にはたては天狗に見切りをつけているのかも知れなかった。

「それで、こんな事をしているって事は、鬼に詳しいんだよな。 確認するまでもないか」

「……」

「聞かせてくれないか。 この新聞に書かれていること、大体事実なのか?」

「以前に言ったかも知れないけれど、今幻想郷にいる鬼には、元人間も多くてね」

華仙の言葉に、魔理沙は頷く。

その話は聞いた。

実の所、元人間の妖怪は珍しく無い。

例えば、人里の近くにある妖怪達の寺、命蓮寺。ごくごく人間に友好的で、珍しく魔理沙でも善人だと思う住職がいる寺だが。

構成員の殆どは妖怪で。

その中の一人、尼僧である雲居一輪からは、元人間だったという話を聞いている。

更に言えば、幻想郷にいる魔法使い。

寿命を超越し、人間を止めた者達。

種として魔法使いという妖怪に分類される者達がいるが。命蓮寺の住職がそもそもそうであるし。魔理沙の知り合いにも複数存在している。

魔理沙自身も、いずれ種としての魔法使いになるかもしれないし。

他人事ではないのだ。

「詳しい話を聞きたい」

「……私で良かったわね、その話をしたのが」

「どういうことだ」

「萃香や勇儀には絶対に言っては駄目よ。 多分スペルカードルールで何て相手してくれないわ」

口を引き結ぶ。

まあ、この新聞が人里に持ち込めない、という時点で何となく分かってはいたが。

鬼に対してはクリティカルな話題なのか。

更に華仙は教えてくれる。

この新聞紙自体に妖術が掛かっており。

買い手以外が読もうとすると、妖術を理解出来ていないと燃え落ちてしまう造りになっているとか。

その辺り、正しい情報を伝えることを第一においたはたても分かっている、と言う事だろう。

華仙はその妖術を自力で突破したわけだが。

そもそもそんな妖術を一目で見抜き、突破出来るような祓い屋は今ほとんど人里にはいないし。祓い屋には知られても良い事だそうだ。

「分かった。 聞かない事にしておく」

「……少しだけなら話してあげましょうか」

「いいのか」

「ええ。 昔々の物語ですものね」

華仙は顎をしゃくる。

立ち話では無く、茶くらい出せ、というのだろう。

勿論そのつもりだ。

貴重な話を聞くのに、立ち話もないだろう。

家の中に案内。

多少は散らかっているが、まあ別に華仙も気にしている様子は無い。以前華仙の家に行った事もあるし、おあいこである。

軽く片付けて、茶を出す。

結構良い茶が出てきたので、驚いたようだった。

「何処で盗んできたの?」

「失敬な。 良い茶葉になるハーブを知ってるだけだぜ。 図鑑で調べた」

「その貪欲さが、博麗の巫女に必死について行ける理由なのかも知れないわね」

「……話を聞かせてくれ」

しばし黙った後。

華仙は言葉を選んで、鬼の真相について話し始めた。

 

まだまだ日の本の根本が安定していなかった頃。

ずっとずっと古い時代。

戦乱の時代は何度も何度も起きた。だが、日の本は7世紀頃には大まかな形が出来。そして12世紀になる頃には、全ての土地に一定の秩序が誕生した。12世紀の末に、東北に残っていた最後の別文化圏(奥州藤原氏)が陥落。いわゆる鎌倉幕府が誕生する事によって、日の本は今と同じ意味で日の本になったといえる。

その前の時代には。

文化を異とする存在が、多数山に潜み。

彼らはこう呼ばれていたのである。

「まつろわぬ者達」、と。

日本神話の多くは、その文化同士の激突が、物語と変わったもの。

古くから日本には山の民と呼ばれる存在が多数いた。

日本の歴で言うと明治の頃には、まだ二十万ほどが各地に点在していた。

それだけ、根強く統一文化圏に抗う存在は多かった、という事である。

それら異文化圏の者達は、山岳信仰を通して、新しい文化圏と交わることもしていった。

いわゆる修験者などはその形の一つである。

しかしながら、激しい抵抗を続けたり。

抵抗とは名ばかりの、悪党として各地を荒らした者も存在していた。

それらの過激派分子は、やがて怖れられ。

中華から伝わってきた概念と混じり合い。

仏教の地獄の獄卒の概念とも混じり合い。

やがてこう呼ばれるようになって行った。

鬼、と。

「古い時代になるほど、昔話に悪役として鬼は登場する。 源頼光の逸話では、鬼は日本三大妖怪の一角としてすら登場する。 それは、鬼と言う存在がそれだけ各地で猛威を振るったから……ではなくて。 安定しない社会の中、明確に悪辣な行為を為す存在に対して、全ての責任を押しつけやすかったからというのも理由にあるのよ」

「何となく分かるぜ」

魔理沙は俯く。

家族の不和はお前のせいだ。

そう父親に面と向かって罵られた経験がある。

寺子屋でも、魔理沙は荷担しなかったけれど。周囲とずれている子は、どうしても虐めの対象になりやすかった。

ただし慧音先生はそういった虐めを絶対に許さず。見逃すこともなかった。

イジメを行った子供達は、「頭突き」を貰って以降は二度と同じ事をしなくなったし。

虐められる側の子供も、対応をそれぞれ変えるようになっていった。

文化レベルでの「のけもの」。

それが鬼と混ざり合った、社会から排斥された存在だったのだとすれば。

何ともやりきれない話である。

「勿論鬼側だって黙ってはいない。 だから抗争は過激化した。 故に討伐が行われるようになっていった」

酒呑童子の逸話は凄まじい。

京の都に降りては殺戮の限りを尽くし。

貴族の姫君をさらっては喰らい。

そして源頼光を迎えたときには、人肉をもてなしに出したという逸話が残っている。

もしも、文化のレベルで対立していたのであれば。

それくらいの激しい戦いがあったのかも知れない。

「あんたの正体については分かっているつもりだけれどもな、あれって本当なのか?」

「……」

「分かった、聞かないでおく。 それで?」

「討伐は苛烈を極めた。 源頼光の伝承が現在にまで残っていることからも、討伐の功績が如何に重視され、輝かしいと思われたかは明らかよ。 そして鬼は伝承の果てに追いやられた。 「敵対者」から「妖怪」になったのよ」

いわゆる山の民。サンカの民は、そういった鬼とは見なされなかった、苛烈な抵抗に身を置かなかった者達の子孫である。

故に彼らは、天狗や河童と言った比較的穏当で、邪悪とは言い難い妖怪達の伝承の一部に取り込まれていった。

古代神話の荒ぶる神々が、それぞれ苛烈に抵抗した異文化の存在だったように。

その小さな子孫達とも言える昔話の鬼達は。

異文化の抵抗の最後の牙だった、と言う訳だ。

「酒呑童子が討伐された後の、茨木童子の伝承は知っているかしら?」

「……ええと、頼光四天王の豪傑、渡辺綱を襲って撃退されて、腕を切りおとされたんだったな」

「その通り」

華仙の右腕に一瞬だけ視線をやった魔理沙だが。

それは知らない事にしておく。

霊夢も話したがらないし。

華仙にとってはあまり触れられたくない話だろう。

「茨木童子は、老婆に化けて渡辺綱に近付き、不意を突いたとされているの。 伝承通りの鬼の姿だったら、そんな事出来るかしら?」

「無理だな。 お前のような老婆がいるかって、一刀両断だ」

「ふふ、そうね。 それに、鬼が人間に不意打ちをしかけて返り討ちにされる。 どう思う?」

「いや、いやいや、とってもじゃないが無理だ。 霊夢だって多分やられる」

勿論、古い時代は強力な祓い屋や豪傑が幾らでもいたと聞いている。だけれども、ものには限度がある。

魔理沙が知る限り、霊夢は術主体で戦っているが、実際には体術の方が更に得意だそうである。

スペルカードルールで出来るだけ穏当にいつも異変を解決しているが。

逆に言うと、術主体で戦わないとやり過ぎてしまうと本人は判断しているのだろう。

だが、それでもなお。

鬼に不意打ちを食らって、撃退出来るとは思えない。

渡辺綱が桁外れに強かったとしても。

いくら何でも、萃香や勇儀辺りの上位の鬼に、殺すつもりでの不意打ちを食らって。無事で済むとは思えない。

華仙も実力的には萃香と大して変わらないはずだ。

とてもではないが無理である。

華仙は、静かに笑った。

「酒呑童子の逸話には、こういうものもあってね」

「うん?」

「源頼光を出迎えたとき、酒呑童子は美しい童形で現れた」

「……」

まさか。

萃香は殺される前から、あの姿だったのか。

童形と言えば、萃香は正にその通りの姿だ。角さえなければ、どう見ても人間の子供以外の何者でもない。

西洋の悪魔は角どころか、背中に翼があり、邪悪な尻尾を持ち。下半身がヤギだったりするという。

事実紅魔館にいる下級悪魔は、そこまで邪悪な姿では無いけれど。確かに鬼より色々ゴテゴテついている。

口をつぐむ。

もしもあの姿のままだったのだとしたら。

人間だった頃の萃香は、恐らくまだ成人さえしておらず。悪ガキどもの大将格、程度の存在。

いや、まて。

それすら無かったかも知れない。

酒呑童子と言えば日本三大妖怪の一角とされ。実際に当時の恐らく最高戦力であろう源頼光が出向いた程の相手だ。

そんな幼い頃に、其所までの組織をまとめ上げられるものなのだろうか。

ぞくりときた。

華仙が、とても寂しそうに笑っている。

嫌な嫌な予感がする。それに華仙は言っていた。絶対に萃香や勇儀には話すなと。

萃香の正体は、誰もが知っているが酒呑童子。

勇儀はその配下の四天王の一人、星熊童子だ。

最後の四天王については魔理沙の近場に名乗っている奴がいないので、今の時点では知らないけれど。

余程、理不尽極まりない事があったのではあるまいか。

それに、である。萃香や勇儀。それに華仙とで決定的に違うところがある。

常に酒に溺れているかいないか、である。

華仙も凄まじい酒豪であるが。

それはそれ。

華仙は普段、其所まで酒ばかり飲んでいない。

萃香は基本的に酔っ払っている姿以外見た事がないし。また勇儀も、常に酒杯を片手にしている程で。多分素面の姿を見たことは誰も無いのではあるまいか。

「これ以上聞きたいかしら」

「……いや、いい」

「そう。 それでは、失礼するわね」

華仙が霧に消えるように姿を消す。霞を喰らって生きる仙人そのもののように。

魔理沙は舌打ちすると、色々と腹の中が煮えるような気分を味わっていた。

萃香に直接話を聞くのは早い。

魔理沙だって、実家の話をされたらブチ切れる。目の前に親父が現れたら、確実に攻撃用の魔法をぶっ放す。

もしも、想像が事実だとしたら。萃香がいつも酔っ払っているのも道理なのではあるまいか。

話は、胸の内にだけしまっておこう。

もしも、機会があったなら。もしも萃香が話そうというのなら、その時に聞こう。

それでいいと、魔理沙は思った。

 

2、炎の記憶

 

燃え落ちる屋敷。

周囲で畜生働きをする親父の部下達。呆然としている××は、下卑びた嬌声と。残忍な暴力の中。ただ立ち尽くしていた。

その子だけは。

子供の助命を願う懇願は降り下ろされた鉈によって途絶え。

子供も首を刎ね飛ばされる。

数年前の自分と同じくらいの子供だったのに。

親父は言っていた。

山の下にいる連中は、外道共だ。全てを奪っていった。だから全てやり返してやればいいんだ。殺せ。焼け。犯せ。奪い尽くせ。

部下共はそれを聞くと大喜びし。

火をつけ人をさらい殺し。

場合によっては殺した人間の肉まで喰らった。

姿は同じなのだ。

だから、荒れている奴らの都に入り込む事も難しく無かった。

担がれているだけの首領だと言う事は分かっていた。

だから、ただ見ているだけで良いと部下達には言われていた。事実出来る事はなかった。

貴族の屋敷らしい大きな家に押し入ると。

中の者達を皆殺しにする。

姫君らしいのも、部下達が強姦した挙げ句に殺し。首から上だけを持ち帰って戦利品とした。

やがて、討伐隊が来た。

今まで殺してきた山の下にいた連中とは、比較にならない強さだった。

部下達は皆殺しにされ。

今度は自分達が蹂躙されていった。

自業自得だなと、ぼんやり立ち尽くしている××。逃げろと促してくる、部下の一人。だけれど、首を横に振った。

何とか逃げようとした部下が、剛弓に射貫かれて息絶える。

必死に逃げ延びた部下は、もう此方にかまう様子も無かった。

凄まじい殺気を放つ大男が此方に来る。

今まで無闇に殺してきた者達の、怨念をその目からは感じられた。

そして親父の部下達が「復讐」と称して畜生働きをするときの、暗い愉悦も同時に目に宿っていた。

「まだ子供じゃないか」

「奴らにさらわれたのか……」

「俺は××だ。 殺して手柄にせよ」

そばにあった鉈を手に取る。

それを見て、相手はもはや情けも不要と判断したのか。

薙刀を降り下ろしてきた。

「御免!」

勝負になど、なる訳も無い。屈強な親父やその側近達ですら、ひとたまりもなく殺されたのである。逃げ延びた連中だって、多分逃げ切れない。追いつかれて殺されるだろう。

山の下にいる連中は弱い。そう嘲っていた親父達だったが。

実際には、弱い者だけを選んで相手にしていただけだったのだ。そもそも母数が違いすぎる。山の下では争いの規模だって桁外れだ。だからいざ相手が本気を出したらひとたまりもない。

それは何となく××にも分かっていた。

刃が体に食い込み。

××は地面に倒れた。血が大量に流れ出していく。体が急速に冷たくなっていく。

急速に意識が薄れていく中。これは全部自業自得だなと思った。命乞いをする相手を、散々踏みにじって来た。それを止められたのに、止める事が出来なかった。自分は多分、山の民がいう地獄に落ちるだろう。

首を取りに来る相手に。

静かに、微笑んでいた。

これで、相手は多少の手柄が得られるかも知れない。それが少しでも、償いになるのなら。よろこんで、首をくれてやる。

 

気がつくと、知らない存在になっていた。

姿は殆ど変わらないまま。

だけれども、名前も変わっていて。記憶も曖昧になっていた。

もはやただ語り継がれるだけの存在となり。たまに姿を現しては、人間を拐かす、そんな存在に。

そう、山の民では無い。本物の妖怪になっていた。

部下だった者達も、側に集まっていた。一部の者達は、お労しやと言ったが。自業自得だったし、この異形は罰なのだろうとも感じた。

だけれども、だからといって何が出来る訳でも無かった。

山の下にいる連中に復讐を。そう騒ぐ者もいたが。

そんな事、出来るわけが無かった。

妙な能力が備わっていることは分かっていた。それは、山の下にいる連中が、自分達を怖れた結果。身に宿ったものだということは分かっていた。だが、それも所詮はまやかしの類に過ぎない。

以前と同じだ。

弱い奴には勝てるかも知れない。

だが、強い奴に勝てる訳がない。相手が本気を出してきたら、ひとたまりもない。

妖怪を狩る者もいた。

返り討ちにする事が出来る場合もあったが。多くの場合は、妖怪の弱点を知っていて。戦いさえ成立しなかった。

そもそも鶏の鳴き声を聞くだけで頭が割れそうになる。

神々の名を聞くだけで膝が笑う。一部の神々は、見るだけで目が焼けそうになった。

豆や鰯の頭も駄目。

人間の恐れによって得られた力には、多数の対価も伴っていた。恐らくは、強い力であればあるほど、対価も大きいのであることは容易に理解出来た。

彼方此方を逃げ回った。何度も殺された。しかし、償いは終わっていないというかのように、何度も蘇った。苦しみは永遠に続いた。

その内に知った。

自分は、今。酒呑童子と呼ばれている事を。

大げさな名前だと想うようになった。

当時はそんな名前ではなかった。そもそも実際の首領は親父だった。

そういえば、あの攻めてきた武者達を侮った親父が、からかう目的で人肉や人血を振る舞っていたっけ。

相手は平然とそれを口にし。

それどころか、酒豪を自慢としていた親父を飲みつぶしさえした。

後は、一方的な殺戮が幕を開けたが。

全て自業自得であったと思う。

親父の側近をしていた××は、今は茨木童子と名乗り。

その後の話を聞かせてくれた。

何とか落ち延びた茨木は。あの時襲撃してきた者達の一人に、復讐するために近付いた。かなり年月が経っていたから、年老いてしまっていたが。それでも、もはやそれ以外に生き甲斐はなかった。

だが、近付いただけで相手に悟られ。

哀れみの目とともに、右腕を一瞬で切りおとされていたという。

後は逃げたが。

右腕を落とされて、長く生きられるわけもない。

程なくのたれ死ぬようにして死に。

伝承だけが残ったという。

親父が適当に名付けた部下達も、四天王として名を残していたらしいが。

それもいずれも由来があるわけでは無い。

何度も人間の祓い屋に襲われて散り散りになる内に、側には星熊だけが残った。茨木は側にはいてくれたが、鬼としては異端の道を選んだ。

やはり復讐したい。こんな理不尽は許せない。

そう叫ぶ部下はいたが。

もう本能的に、鬼は人間にとっての害悪であり。人間の敵対者にはなり得ないことが酒呑童子には分かっていた。

彼方此方を逃げ回る内に、声を掛けられる。

妖怪達の首領の一人。八雲紫だ。

紫は言う。

行き場がない妖怪や神々を集めて、最後の隔離された理想郷。名付けて幻想郷を作ろうと考えている。お前達も是非来て欲しい。

妖怪はこのままだと神々に蹂躙され。人間の祓い屋に滅ぼされる。

事実、月面戦争と呼ばれる神々との戦いは惨敗に終わった。

生き延びるためには、人間と上手くやっていくしかないが。全ての人間と上手くやっていくわけにもいかない。

それならば、上手くやっていける人間とだけ暮らす、小さな理想郷を作るしかない。

その神々との戦争にも参戦し、圧倒的な力の差で踏みにじられ、這々の体で逃走するしかなかった酒呑童子は頷くほか無かった。

ただ二つ、条件をつけた。

一つは、命令なら聞かない。

友人としての頼みなら聞く。

八雲紫は、不思議そうな顔をしたが。別にそんな事であればかまわないと快諾してくれた。

知らなかったのだろう。

酒呑童子が、実際にはただの山賊同然の山の民の、首領の子に過ぎなかった事など。

お飾りの首領に過ぎず、実際にはただ暴虐を働くための旗頭にされていただけで。伝承で際限なく強力にされたは良いが。結局の所全部後付に過ぎないことも。

そしてもう一つの条件は。幻想郷では、酒呑童子と名乗らなくても良い事。

此方については部下達は驚き。

特に茨木は静かに寂しそうに目を伏せたが。

だが、この名前はもうまっぴらだった。

八雲紫が接触してきた頃には、酒呑童子はもはや酒無しではいられない体になっていた。正確には、心が、なのだろう。素面では、とても生きていける自信などなかった。

他の鬼達も、人間に追い回され、あらゆる苦痛に苛まれることから。皆酒が大好きで、いやむしろ酒に溺れないと生きていけない体になっていた。

これほど皮肉な話があるだろうか。

実際には、常に酔っていなければやっていられないほどの状態にまで落ちたものが。

酒呑童子などと呼ばれるようになっている。

だから、一度其所からは離れたい。

それが××だった者の願いだった。

そうして、幻想郷の設立と同時に。酒呑童子は部下である鬼達を引き連れて、幻想郷に移り住んだ。

新しく名乗った名前は。

出身地の伊吹山から名字を伊吹。

そして名前は。生前は血なまぐさく親父に振り回されたどうしようも無い人生だった事を鑑みて。せめて香りを集めるという意味から萃香。

伊吹萃香と名乗ることとした。

酒呑童子と名乗るとき。そして呼ばれるとき。

言われるままにさせられていた畜生働きと、無意味な殺戮ばかりが脳裏をよぎる。

殺された時の、自業自得だと判断した事や。

その後、死ぬまでの酷く長く続いた苦しみと。それ以上の哀しみ。

何よりも、死んでなお鬼と言う異形に変わり。部下達と一緒に彼方此方を逃げ回り。神々への反逆も上手く行かず、結局叩きのめされるばかりだった事。ヤマタノオロチの子供であったり、日本三大妖怪だとかいう大げさな設定と裏腹に、結局大した事も出来なかったという口惜しさ。

そればかりが頭に浮かんでくる。

だから、名前だけでも変えたかったのである。

事情を知らないだろうし、知る気も無いだろう八雲紫は、条件を全て呑んだ。

それだけで、充分だった。

 

目が覚める。

久しぶりに昔の夢を見た萃香は、舌打ちする。少し長く眠りすぎたか。酒が抜けてしまっていた。

萃香の持つ瓢箪は鬼の秘宝の一つ。

中に酒虫と呼ばれる特殊な存在がいて。水を入れるだけで、鬼好みな酒に変えてくれるという代物だ。

おかげで常に酒を口にする事が出来る。

畜生働きの悪夢から、酒に逃げる事が出来る。

今もずっと酒に逃げ続けている萃香は。

そうしないと、とても精神をまともに保ってはいられなかった。

妖怪酒呑童子として外の世界で「怖れられていた」時もこれは同じ。

伝承が恐ろしさを増して行くたびに、鬼はどんどん「秘宝」を手に入れていった。現在幻想郷にいる小人の末裔が持つ秘宝、打ち出の小槌もそうだ。

秘宝の殆どはろくでもないものばかりだったが。

この瓢箪だけは気に入っている。

しばしして、漸く酒が回ってきて。少し心の痛みが和らぎ、溜息が漏れた。

間断なく襲ってくる過去の朱。

殺し。奪い。悲鳴。炎。いずれもが極めて虚しい畜生の所行。文化が民族が違うからと言ってやって良い筈も無い事ばかり。

思い出したくも無い。

面白おかしく幻想郷で遊んでいるのも、それら物語の鬼ですら目を背ける過去の悪行の数々から、目を背けたいが故。

親父に意見して辞めさせる力すらなかった過去の自分に対する怒りが故。

現在の萃香は、その気になれば幻想郷を滅茶苦茶にすることくらいは出来る。いや、素面の状態であれば、発作的にやってしまうかも知れない。

だからこそ、飲むのだ。鬼ですらも正体を常になくしていられるほどに。

酒に溺れている状態こそが。

酒に溺れて馬鹿な事ばかりやっている状態こそが。

自分のような存在には相応しいのだから。

ぎりぎりと歯ぎしりをする。親父は死んだ後妖怪になる事もなく、多分今頃地獄で責め苛まれている事だろう。気楽なことだ。此方は生き地獄を永遠に彷徨っているというのに。

隠れ家の一つにしている洞穴から出ると。川に向かう。

釣りをして、数匹釣り上げると。火を起こして、魚を焼く。

その間に瓢箪に水を補充。

人間だったら腹をこわすだろうが。今の萃香だったら、川の水くらいそのまま飲んでも何でも無い。

良い気分のまま、魚が焼けるのを待つ。

酩酊の中。近付いてくる気配に気付く。空を横切るようにして行く者。

顔を上げると、博麗の巫女だった。とはいっても、向こうは萃香を一瞥だけすると、そのまま飛び去っていったが。

博麗の巫女は好きだ。

神社に出向いても。面倒くさそうにしながらも、相手をしてくれる。

前に子供じみた理由から異変を起こしたときも。大まじめに相手をしてくれて。そして萃香に拳骨をくれた。

歴代の博麗の巫女の中には、萃香とあわない奴もいたけれど。

今の博麗の巫女は、話もあうしある程度酒も飲める。

それで充分だ。

魚が焼き上がったので、それを肴にまた酒を飲む。

さっきは不覚だった。

酔いを醒ますほど、長く眠り続けるとは。出来れば、ずっと酔いから醒めなくても良い秘宝がほしい。

だが、鬼は酒豪という設定だ。

特に幻想郷では、外では失われた性質が。幻想郷を作り出す博麗大結界の、「反転の結界」によって強化される。

酒豪である以上は、常に酒を飲み続けなければならない。

難儀な話だった。

焼き魚を全て食べ終えてしまうと、ふっと息を吹きかけて、焚き火を消す。

萃香くらいの妖怪になってくると、これくらいの事は朝飯前である。水なんか掛けなくても完全に火を消せる。

実際の所、外の世界で「大妖怪酒呑童子」だった頃には、こんな事は出来なかった。

幻想郷に来てから力は増して、密度を操る力なんて余計な能力まで得たのだけれども。

それも結局は博麗大結界頼み。

この世界が居心地良いのも、それが故である。

大きくあくびをすると、横になって寝ようとしたが。

嫌な気配が近付いてくる。

舌打ちして、立ち上がる。

すっと空間が裂けて。

姿を見せたのは、胡散臭さに姿の全てを全振りした女。この幻想郷の支配者階級妖怪賢者の一人。

八雲紫だった。

「見つけたわ萃香。 頼みたい事があってね」

「さっき博麗の巫女が大急ぎで飛んで行ったが、それと関係があるのか」

「ええ。 話は移動しながらしましょうか」

空間の隙間から姿を出てきた紫は、いつも通り紫を基調にした服と、傘を手にして。とにかく胡散臭い姿をする事に注力している。

胡散臭い方が妖怪としての神秘性が増すから。

それは分かっているが。ある意味生真面目な奴だ。

歩きながら軽く話す。

どうやら、里の人間を。幻想郷に来たばかりの妖怪がさらっていったという。どうも海外の妖怪らしく、幻想郷のルールも良く理解していないようだった。負傷者も二名。それも里のすぐ側での事件だったそうだ。

幻想郷は外の神々からも目をつけられている。あまりルールから逸脱した事件が起きるとまずい。紫はそれでいつも心を砕いているし。事の重大さは萃香にもよく分かった。

人里の退治屋が妖怪そのものは倒すとして。どうにかさらわれた人間の安全は確保したい。

そう説明を受けると。萃香は頭を掻きながら頷く。

鬼が人間を助ける。

幻想郷の賢者が、こうも人間の命が無為に妖怪に奪われないように気を揉んでいる。

いずれもが、絶対に里の人間には知られてはならないことだ。

幻想郷の存続のためにも。妖怪は人間に怖れられなければならないのだから。

すぐに萃香は自分の密度を薄くし、小さな分身を大量に作り出し、四方八方に展開する。

小さな分身には相応の力しかないが、手数を増やすには充分だ。

更に分身を細分化し、霧にまで細かくする。

そして幻想郷中に広げる。

吸血鬼だったか。

あの外来の、西洋の妖怪にも似たような技があるらしいが。

萃香のものも、大してそれと変わらない。

一応表面上は仲が悪くは振る舞ってはいるが。

あの吸血鬼の姉妹も、どうせ外で散々追い回されて此処に逃げ込んできたのだろうと思うと。

あまり悪くは思えなかった。

ほどなく、妖怪の山の一角で見つける。

大きな猿のような妖怪で、人間を調理して食べるための準備をしていた。鍋を煮立てて、大きな刃物を用意して研いでいる。居場所を上空を旋回していた博麗の巫女に知らせる。萃香が知らせていると分からないように。敢えて異質の妖力を、博麗の巫女の方へ流すのだ。

後は勘が良い博麗の巫女が、それを察知。一瞬で、猿の妖怪が潜んでいる洞窟に飛ぶ。

猿の妖怪が振り向く。本当に、幻想郷に来たばかりなのだろう。博麗の巫女を見て、舌なめずりした。

「なんだあ、ごちそうが増えてくれたあ」

「幻想郷に来て早々悪いけれど、やってくれたわね。 これだけの事をした以上、地底送りよあんた。 まあ鬼達に揉んで貰いなさい」

「何を言っていやがる。 こんな僻地の妖怪や祓い屋に、俺が負け……」

うだうだ喋らせることさえしない。

一瞬で飛び膝を猿の顔面に叩き込む博麗の巫女。

そもそも今回は人間を本当に喰らおうとしている状態。スペルカードルールなんて悠長な戦い方はしない。博麗の巫女が本来得意としているステゴロが本領発揮である。その破壊力たるや、倍もガタイがあるかと思われる相手を一発で黙らせるほどのものだ。

更に博麗の巫女は、のけぞった猿の妖怪の頭を掴むと壁に叩き付ける。妖怪の山そのものがぐわんと揺れた。生物だったら即死していただろう。猿の頭蓋骨が実際に拉げていた。

札を幾つか取りだすと、猿の妖怪の全身を縛り上げる博麗の巫女。

博麗の巫女は、悲鳴を上げて恐怖に震える猿の妖怪は完全に無視。縛り上げられて、今にも調理されようとしていた里の人間を救助すると。冷たい目で猿の妖怪を見やり。そして里の人間を背負って飛んで行った。

少し遅れて、洞穴に来たのは、里の妖怪退治屋達。

わいわいと彼らが、妖怪を引きずり出し。そして封印の儀式を始める。悲鳴を上げながら、地底に封印され、落ちていく猿の妖怪。二度と地上には戻れない封印を掛けられたのである。

全てを見届けた。

「疎」を「密」に切り替え。また人の姿を取る萃香。

此処からは、萃香達の仕事だ。新入りを「歓迎」してやらなければならない。いや、「調教」か。

地底に出向き、鬼達に指示。困惑している猿の妖怪を、上背が倍もある鬼達が取り囲む。猿の妖怪は、余所では有名な妖怪だったのかも知れないが。

此処では素人だ。最低限のルールも理解していない妖怪には、むしろ外よりも厳しい。

普段は寡黙で仕事に励む鬼達が、精一杯の獰猛な表情を作る。

「ようこそ地底へ。 幻想郷に来るなり地底送りとは、中々のワルじゃねーか」

「さっそくそのワルさを見せてもらおうか。 体でな」

後は袋だたき開始である。萃香は静かに見ているだけで良い。

博麗の巫女にぼこぼこにされて力の過半を奪われている上、そもそも鬼とこんな猿では力に差がありすぎる。一方的な袋だたきはしばらく続いた。

最初にこうやって上下関係を叩き込み。

そして地底でのルールを理解させるのだ。

最後に萃香が前に出ると。鬼達が一礼して、下がる。新入りですと言われたが。鷹揚に頷くだけ。

知っているとは、応えない方が良いからだ。

「な、なんだ、ガキかあ?」

無言で蹴り挙げる。

猿は地底の「天井」近くまで吹っ飛び。

そして落ちてきて、受け身も取れずに地面に激突。悲惨な悲鳴を上げた。

妖怪だから肉体が破損しても死なない。

それでも、散々痛めつけられた状況で、これである。頭を踏みつけると。圧倒的な力の差を感じ取ったのか、心の底から猿の妖怪は悲鳴を上げた。

「ひ、お、お許しを!」

「覚えておけ。 私が鬼の頭領、元山の四天王伊吹萃香だ。 お前はこれから地底で、鬼達の子分として働いて貰う。 幻想郷に入った時、せめてちゃんと周囲に合わせようと考えていれば、こんな事にはならなかったのにな。 お前達、連れていけ」

「御意」

完全に戦意も抵抗意欲もなくなった猿の妖怪を、部下の鬼達が引きずっていく。

昔、山の四天王の一人だった星熊勇儀が此方に来た。

「来るタイミングが良すぎるね。 あんたがやったんだろう」

「途中まではな。 彼奴をボコボコにしたのは博麗の巫女だし、封印したのは里の祓い屋達だ」

それでアレは何だと聞くと。

ゴリラだという。

古い時代、ゴリラはUMAだった。未確認動物という奴で、人間がまだはっきりと存在を確認できていない生物の事だ。

まだその生態がはっきりしない頃のゴリラは、獰猛で残虐な存在とされ。古い時代の創作作品では、そんな凶暴なゴリラが登場する事があると言う。だが実際には、優しい森の番人だと言う事が研究によってわかり。凶暴なゴリラは人々の認識から消えた。

あれは、そんな消えてしまった凶暴なゴリラの伝承。

現代の外の世界らしい妖怪だなと、萃香は思った。

いずれにしても、萃香と同じく存在をねじ曲げられ。人々の悪意のはけ口にされたという点では同じか。

大きくため息をつくと。

萃香は、酒が切れないように。瓢箪を再び呷っていた。

 

3、鬼と人

 

博麗の巫女、博麗霊夢が洗濯をしていると、大きな気配が近付いてくるのを察知する。

大きな気配は幻想郷に幾つもあるが。

この気配は、覚えがあるものだ。

また訪問方法も色々あり。

行儀良く鳥居をくぐる者もいれば。

関係無く入ってくる者もいる。

近付いてくる気配は、元山の四天王伊吹萃香。

面倒な事に霊夢を友人だと思っている、強力な鬼の一人である。幻想郷にいる妖怪の中では最強の一角だろう。あくまで妖怪に限定すれば、だが。

境内に降り立った萃香は、ご機嫌な様子に酔っ払っていて。手には籠を持っていた。

山の幸やら何やららしい。

「よーう、霊夢。 飲みに来たぞう」

「まだ真っ昼間よ」

「良いじゃねえかそれくらい、うひひ」

完全に出来上がっている萃香だが。

残念ながら、基本的に萃香は素面の時がない。霊夢は以前ある異変で萃香と知り合ったが。それ以降懐かれて色々複雑な気分である。

昔は山の四天王として妖怪の山を支配していて。

その力は圧倒的。

他の四天王と比べても実力は一枚上で。

存在感も幻想郷の中でかなり大きい。だが、どうしてか鬼達は地底に去り。萃香のような変わり者が、たまに地上に出てくるだけになった。

現在では、地上で鬼を見かけるときは、萃香くらいである。

まあ仙人を自称している鬼がいるが。仙人を目指しているようなので、別に止めることもないだろう。

昔は人を喰らっていたかも知れないが。

今喰らっていないのなら、もう知った事では無い。

ともかく洗濯を片付けて、下ごしらえしておいた昼食をさっさと仕上げる。

萃香が持って来た材料も使って、色々料理を作った後。

宴会にする。

博麗神社での宴会は珍しくもない。強力な妖怪がしょっちゅう訪れて、宴会をするものだから。

普通の人間は恐ろしくて近づけない。

それで妖怪神社なんて渾名が付けられてしまっていたり。

人里から誰も来なくなったりするのだから。

色々と霊夢としては迷惑でもあるが。

しかしながら、基本的に幻想郷の最大戦力である霊夢は、生活のための物資も資金も保証されている。

貧乏だ金がないというのは、あくまで話半分。

実の所、霊夢自身、妖怪や妖怪じみた奴しか周囲にいない現状に、何処かで不満を持っているのかも知れない。

酒豪で知られる霊夢も、流石に萃香の酒を飲む気にはなれない。

鬼はとんでも無い度数の酒を、水のように飲むのだ。

流石に人間ではこればかりはどうにもならない。

しばし酒宴を楽しむと。

霊夢から話を切り出す。

「この間の人食い猿の妖怪。 人里の祓い屋達が地底送りにしたようだけれど、ちゃんと対処しているかしら」

「ああ、あの可愛い子猿な。 うちの若い衆が可愛がってやっているよ」

「地底はこれから地上と交流を持とうって話をしだしているようだし、あの手のが暴れると困るわよ。 しっかり躾けて頂戴ね」

「わーってる。 さとりの姉妹もきちんと目をつけてるから安心しろ」

ぐいぐいと瓢箪を呷る萃香。

文字通りの鯨飲である。

時々柄杓で瓢箪に水を追加しているが。それで、ただの水が酒になるらしい。中々に面白い道具だ。

霊夢には幾つか疑問があった。

萃香の出自は聞くな。

それについては、紫に以前釘を刺されている。萃香にとっての逆鱗だという話だ。

そういえば、色々霊夢の世話を焼こうとする華仙(本名は違うが)も、あまり自分の出自については触れず。

鬼には元人間が多いと話をするばかりだった。

そして華仙のオリジンがかなり血なまぐさい事を既に知っている霊夢は。

華仙について、その手の事を問いただすつもりはない。

萃香についてもそれは同じである。聞いても仕方が無いだろう。

ただ、人間を喰らった妖怪の臭い的なものは分かる。

少なくとも今の萃香からは、その臭いは感じない。だったら、霊夢が全力で打倒する相手ではない。

ただ、聞いてみたい事は、前からあった。

「そういえばね。 前に鬼には元人間が多いという話を聞いたのだけれど」

「誰から聞いた」

「華仙から」

「……そうか。 二度と鬼にはその話、聞かない方が良いぞ」

そうか。

やはり萃香も元人間で、かなり血なまぐさい過去を背負っているのか。

それならば、別にもう聞くこともない。

基本的に霊夢は他人に興味が無い。来る者は拒まないが、去る者も追わない。萃香にとっての逆鱗だという事もこれではっきりした。

出自を聞くなと言われたが。

別に今萃香の出自を聞いたわけでは無い。

それでこの反応。

余程のタブーだと言う事だ。

しばし沈黙が続いたが、萃香から話を変えてくれる。

「この間の猿な。 ゴリラって生物らしいぞ」

「ゴリラ? 早苗から聞いた事があったような」

「それはそうだろう。 外では有名な生物らしいからな」

「ふうん……」

それがどうして幻想郷に。

小首をかしげている霊夢は、萃香が振ってくるどうでもいい話に応じながら。洗濯が乾いたのを確認して、適当に取り込む。

萃香も手伝ってくれる。

霊夢は普段から巫女装束を着込んでいるが。これは霊夢にとっての戦闘服だからで。博麗の巫女はいつ戦闘になってもおかしくない。だから、常に戦闘服を着込むようにしているのである。

流石に寝る時は寝間着だが。

萃香が適当に切り上げていったのは夜である。

此処で寝そうになったので。流石に促して帰らせた。萃香は眠り出すと数日眠り続ける事も多い。

寿命が無いに等しい鬼だ。

人間とはライフサイクルも違うのだろう。

それに、である。

眠っている間に、萃香のオリジンにつながるような寝言を聞いてしまうかも知れない。そうなったら、気まずい。

さっきの反応からしても、萃香は過去に触れられることを極端に嫌っている。逆鱗に近い。

萃香と殺し合うのは気が進まない。

勝てる勝てないかでいえば分からない、としか言いようが無いが。

少なくとも幻想郷に大きな被害が出る。

それは避けたい。

霊夢は幻想郷の人間側の管理者だ。幻想郷にとって不利益になる行動は、出来れば避けたいのである。

萃香が帰った後、かなりしこたま飲んだなと思いながら、片付けをする。

博麗神社で宴会をする奴は幾らでもいるが。宴会の片付けをする奴はあまり多く無い。

基本的に霊夢の負担が大きいので、博麗神社で宴会をするときは何か魚や酒を持ち込むようにと話はしているのだけれども。

それは守ってくれるけれど。

片付けに関しては、殆どの場合霊夢がやる事になるのが憂鬱だ。

酒自体は嫌いではないのだが。やはり生活空間を整えるのは、億劫に感じてしまう。

ふと気付くと、何か落ちている。

どうやら、萃香が落として行ったらしい。

新聞か。

触ると、燃え落ちてしまった。

どうやら呪術でカバーされているものだったらしいが。

酒に酔った状態の霊夢では、対応仕切れなかった。

燃えてしまったものは仕方が無い。

明日萃香に謝りに行くとしよう。

そう霊夢は判断すると。片付けを終えて、眠る事にした。

 

翌朝。

朝の作業を一通り終わらせると。萃香を探して博麗神社を出る。空を自在に飛ぶ事が出来る霊夢にとって、幻想郷はそれほど広い土地では無い。気配を探って、萃香を探すが。地底には多分いない。地上に気配があるからだ。

妖怪の山の中腹に降り立つ。

最近は、我が物顔に妖怪の山中を飛び回っていた天狗も、本来の縄張りに戻り。

霊夢が出向いても、スクランブルを掛けて来る事はない。

一方守矢の支配下に入った妖怪達が、霊夢を見張っているのは感じる。

雑魚に見張られても別に何とも思わないので、それはどうでもいい。

降り立つと、萃香が丁度目を擦りながら起きだすところだった。久々にかなり酔いが薄い様子で、表情があどけない。

こうしていると見かけの年齢相応のかわいらしさもあるのに。

馬鹿力といつも酔って千鳥足。たまにとんでも無い悪戯をしでかす事。それらが、萃香を可愛い子供としては扱えない存在としている。

「んあー。 どうした、博麗の巫女」

「昨日新聞を落として行ったでしょう」

「!」

「ごめんなさい、もうないわ。 触ったら燃えてしまったから」

一瞬蒼白になった萃香だが。

結末を聞くと、すぐに口を引き結び。そして静かに俯いた。

今まで見た事がない表情だ。

萃香は、こんな表情をするのか。

今ので残っていた酔いも消し飛んだようである。大慌てで瓢箪を取りだして、口に含む萃香。

何を慌てている。

素面になるのが、そんなに怖いのか。

何となく分かってきた。

血なまぐさい過去があるとして。それが耐えきれないほど悲惨なものだったのだとしたら。

普段から常に酒を口にしているのは。

酒に逃避しているのではないのか。

勿論それは推察に過ぎないが。

しかし、大外れでもないはずだ。さっきの新聞、多分姫海棠はたてが最近配っているものとみたが。

はたての新聞は、射命丸の新聞と違って内容が極めて正確だ。

昔は大差なかったが、少なくとも今のはたての新聞は誠実で信頼出来る記事が書かれている。その理由は霊夢も知っているが、それについてはまあどうでもいい。

問題はあの燃え落ちた様子。

呪術で、買った人妖以外には読めないようにしていたようだ。

ということは、余程萃香にとってクリティカルな事が書かれていた事は疑いがない。

「大事なものだったらきちんとしまっておきなさい。 少なくとも素面の時にしまう事が必要だと思うけれどね」

「……ああ、そうだな。 私の失敗だった」

「あんたが嘘をつけない……つくとダメージを受ける事も分かっているから、何がまずかったのかは聞かないけれど。 少なくとも、隠したいものがあるなら、隙を見せては駄目よ」

萃香は応えなかった。

霊夢自身は普段、多数の妖怪に恨みを買っていることを自覚している。だから博麗神社には相応の結界を張っている。

ただそれでもたまに。それさえ超えて、甚大な被害を負わされた事もある。

その度に更に守りを強化しているので。

現在の博麗神社は、霊的な意味で要塞に近い状況だ。しかしそれでも万全とは言えない。

萃香は更にたくさんの恨みを買っているはずだ。隙なんか見せたらどうなるか。

その場を離れる。萃香は追ってこなかった。

素面になった萃香は初めて見た。あの表情、はっきり言って何度も見たいと言うものではなかった。

子供が悪戯を見つけられたときの顔、何て生やさしいものではない。

あれは、目の前で親が殺された子供の表情だった。

何度か霊夢も見たことがある。

霊夢にも守れなかった人間はいる。

何をしてもどうしようもなかった状況は何度もあった。

そんなとき、責められたことだってある。

現在、妖怪が人間を食い殺すことは滅多にない。

だが滅多にないと言う事は。言い換えれば少しはあるのだ。

なりたてで気が大きくなっている妖怪、特に獣から転じた妖獣が人間を襲ったり。

或いは外来種の妖怪が人間を襲ったりした場合。

加減が分からず喰らってしまう事はある。この間のゴリラも危ない所だった。

目の前で親を喰われた子供の顔も見たことがある。

呆然としている様子は。

さっきの萃香のものとそっくりだった。

大きな溜息が出た。

これは、鬼と言う存在は、余程の鬱屈した過去を抱えているらしい。或いは華仙は、それを悟らせようと、霊夢にあんな事を言ったのだろうか。

元人間の妖怪は、幻想郷では珍しくもない。

だから少し軽く考えていたかも知れない。

博麗神社に戻る。

しばしして。

華仙が姿を見せる。

霊夢は大きく嘆息すると。華仙に、批難する目を向けた。

「あの新聞で、萃香と何かあったようね」

「そうよ」

「貴方は基本他人に興味を持たないから、放置しておいたのだけれど。 それが裏目に出てしまったわ」

「……」

勿論はたてに責任はない。

何でもかんでも情報は探れば良いと考えていないからこそ、あんな呪術的処置をした新聞を、必要な相手にだけ配ったのだろうし。

そもそも新聞を作る時に、鬼に監修を受けている筈だ。

配られたのは、恐らく一部の妖怪退治関係者や、鬼に興味がある者、もしくは鬼自身。萃香ははたてにあの新聞を貰って、どんな顔をしたのだろう。

霊夢の予想通りだと、心の奥底の傷を、思い切り抉られたはずで。

だが、はたてに八つ当たりをすることも無かっただろう。

「ねえ、華仙。 私新聞の内容は読んでいないのだけれど、どういう内容だったの」

「珍しいわね。 他人に興味なんて一切持たない貴方が」

「……そうね。 だけれど萃香、目の前で親を殺された子供の目を一瞬したから。 私が新聞の話をしただけでね」

「新聞の内容は鬼と言う妖怪の起源についてよ。 それをただ分析しただけのもの。 縁起に書かれているような、検閲が入ったものとは違う。 内容も最近のあの鴉天狗の新聞らしく正確だったわね」

腕組みをする。

鬼の起源については、霊夢だって知っている。

中華から入ってきた概念で、仏教の獄卒と混じり合って出来た。丑虎の方角が鬼門とされることから、牛のような角を持ち、虎のように屈強で獰猛とされる。

華仙は髪の毛を二箇所、丸くポンポンにまとめているが。

それは鬼としての角を隠すためである事は、今の霊夢は知っている。

いずれにしても伝承に大きな影響を受ける妖怪は、現在は元々の成立過程は兎も角。設定に沿った姿弱点をしている筈だ。

霊夢は博麗の巫女としての活動を開始する前に。

紫や先人から、妖怪の知識について散々叩き込まれた。

これは幻想郷の人間側の管理者として必要だからで。

妖怪を殺して回るためではなく。

妖怪に対する抑止力として、怖れられるために力が必須だからである。

幻想郷はデリケートな空間だ。

人間と妖怪のバランスが崩れると、あっと言う間に崩壊してしまう。そして外の世界では、もはや大半の妖怪は生きられない。

現役で信仰を得ている神々や、大妖怪クラスの有名な者は大丈夫だろう。

だが、そうで無い者は。

それを考えると、霊夢の責任は重大なのだ。

「……以前言ったわよね。 鬼は元人間であることが多いって」

「その通りよ」

「萃香は、それを過剰に気にしている訳?」

「元人間である妖怪は珍しく無いわ。 魔法使い達がそうであるようにね。 そして幻想郷にいる元人間の妖怪は、比較的マシな境遇の者が多いの。 少なくとも、貴方が知っている範囲内ではね」

そうかも知れない。

魔理沙はいずれ人間を止めて種族としての魔法使いになる可能性が高いし。他の魔法使いも、皆悠々自適にやっている。

他にも何名か元人間の妖怪は思い当たる。

いずれもそれほど、過去を苦しいものとして認識している様子は無い。

あの紫も、元人間では無いかと霊夢は疑っているのだが。それについて、紫が尻尾を出すそぶりはない。

どちらにしても、霊夢には関係無い。

管轄外だし、余計な事に口出しをして、幻想郷を乱すのは本意では無い。萃香はその気になれば、幻想郷を滅茶苦茶にするくらいは出来る力を持っているのだ。無意味に刺激する事は無い。

そして退治する事は不可能では無いが。

萃香自身が、幻想郷の権力に強く噛んでいる。本当の意味で殺してしまうと、また幻想郷が乱れることになる。

紫が苦労して保っているバランスはとても危ういものだと、霊夢も最近は学習し始めていた。

勿論そのバランスの一角を、萃香は担っている。

更に言えば、紫は多忙すぎて、綱渡りのようにしてバランスを保つ事しかできていない。

事実妖怪の山で続いていたごたごたについて、紫は詳細を把握していなかったし。霊夢は一緒に天狗の本拠に乗り込んで。

本物の腐敗と、それによって傷つけられる弱者というものを、始めて目の当たりにした。

あの日から霊夢の心には間違いなく影が差した。

その影は残虐性や凶暴性とは少し違い。

今まで一切興味を持たなかった他人に対して、少し違う視点として生じた。

また、大きな溜息が漏れた。

「私が出ても余計なお世話になる、かしらね」

「話してご覧なさい」

「萃香は私を友人だと思っているようだしね。 何か出来ることはない?」

「余計な詮索をしないこと。 それが萃香にとって、貴方に求める最大の事よ」

そうなるか。

恐らく華仙は事情を全て知っているとみた。

いや、それも当然か。

華仙の正体はかの茨木童子。

酒呑童子の側近とされていた存在だ。

その華仙も、自分が古くには外道働きをしていた事を話したくらいで。萃香がどうだったかは口にしていない。

その外道働きは、右手を切りおとされることで全て過去のものとし。

今は良き仙人であろうとしている。

だが、恐らく今見ている感じでは、華仙はもっと大きな落とし前をつけたはずだ。

華仙の負の側面を、以前霊夢は見た。

失われた右手に封じられた、鬼としての醜悪さを。

戦いは熾烈を極めた。

恐らく相手が、日本でももっとも有名な鬼で。幻想郷でそれが故に力が増幅されているから、というのが理由だっただろう。

華仙は仙人となる事で、己の闇を打ち払おうと考え。

そして萃香は、恐らくは勇儀も酒に溺れることで、過去から逃げようとし続けている。

地獄の鬼と、今地底にいる鬼がまるで別物なのは霊夢も知っている。

地底にいる連中は、生真面目で黙々と仕事をしている。

あれはどちらかというと、囚人である事を自ら受け入れ。

そして、罪を償うべく働いているかのような光景だ。

だとすると、やはり霊夢の予想は当たっていて。

余計な口出しをするべきでは無い、というのが事実なのだろう。

腰を上げる。

「何をするつもり」

「萃香を飲みにでも誘おうと思ってね」

「……詳しく」

「普段通り接するだけよ。 あの子に必要なのは友人。 だとしたら、少しでもそれらしくあろうと思っただけ。 過去の話なんて、聞くつもりは無いわ」

華仙はしばらく、いつもでは絶対に見せないような鋭い視線で。そう、以前本気で殺し合いになりかけた時の目で霊夢を見ていたが。

やがて、頷いた。

「良いでしょう。 私も一緒につきあうとするわ」

「それは助かるわね。 萃香と飲み比べ何かしたら、流石の私ももたないわ」

「鬼とある程度飲めるというだけでもおかしいのよ。 あまり若いうちから飲み過ぎると肝の臓を壊すわよ」

「そうね。 気を付けるわ」

萃香の居場所は分かっている。

すぐに狙いを定めると、霊夢は上空に浮かび上がり。そして萃香の所へと飛んで行く。

良き友人であれ、か。

友人である事など、拘りなどしなかった。

霊夢は幻想郷の管理者。

それも人間としての管理者である。

その事実を勘違いした愚か者をたたき割った事もある。妖怪は基本的に霊夢の敵として判断してきたし。

それでも寄ってくる相手だけを、相応に相手していた。

だが人間に対してさえ容赦が無い霊夢が、いつの間にか随分妖怪には甘くなっていたものだと思う。

それに、捻くれた言い方をすれば。

萃香とある程度関係を構築しておくことは悪くないし。

萃香自身の心の傷を知っておけば。

有事の際に、鎮めることが出来るかもしれない。

ふてくされて、大きな岩に寄りかかって、ぼんやりしている萃香を発見。近くに降り立つと、萃香は死んだ目で霊夢を見た。

「何だよ……」

「飲もうと思ってね。 勝負はしないけど」

「私と、か」

「そう。 華仙も連れて来た。 私一人で貴方の相手は厳しいけれど、多少は飲めるでしょう」

しばしして、俯いている萃香の手を引く。

萃香は抵抗せず、立ち上がった。

俯いたままの萃香は、吐き出すようにして言う。

「なあ。 怖くて仕方が無いんだ。 最近寝ている間に酒が切れることが増えてきていてな。 この瓢箪の酒は弱くなんかなっていないし、私が酒に強くなった訳でもない。 それなのに、酒が切れるんだ。 酔いが醒めるんだ」

「今もかなり酔いが醒めているんじゃないの」

「どれだけ飲んでも酔いが醒めるんだよ。 私は……ただ酒に酔って、楽しくいたいだけなのによ」

楽しくいたいだけ、か。

もしもだ。

伝承に残る酒呑童子そのままの行いを萃香がしていたのだとしたら、それは極めて身勝手な言葉と言える。

酒呑童子と言えば、京の都にて悪行の限りを尽くした大鬼。大勢の人々を無意味に殺し、喰らい、そして豪傑源頼光によって一味もろとも首を叩き落とされた。

その時叫んだと伝わっている。

鬼は嘘などつかないのに。何故だまし討ちなど。

だが、源頼光に即座に論破されたとも言われている。

お前にそれを言う資格などないと。

今、手を握っている萃香は。剛力無双の邪悪な鬼とはとても思えない、怯えきった子供のようだ。

酔いが覚めかけていると、萃香はこんなに脆くなるのか。

「分かった。 華仙だけでなくて、妖怪や私の知り合いを何人か連れてくるわ。 皆で楽しく飲みましょう」

「……」

「ほら、行くわよ。 こんな所で腐ってる所見られたら、威厳に傷がつくでしょう。 そんな威厳もなかったかしら」

「分かったよ。 舐められるのは困る」

手を離すと、萃香は一緒に後をついて飛んでくる。霧のように分解すると、霊夢の後をついてくる。

まあこう言う飛び方もあるか。

一旦萃香を華仙に預けると、霊夢は彼方此方を飛び回り、余裕があって鬼を嫌っていない者を見繕っていく。

意外な事に、適当な面子を集めた頃には、姫海棠はたてが神社に来ていた。

何処かから、霊夢を見ていたのか。

独自の嗅覚で、何かあると嗅ぎつけたのだろう。

華仙が一言二言説明していて、はたては頷いている。

以前鴉天狗と言えば揃って三流記者かパパラッチだったが。

今のはたては記者として信頼して良い。

程なく宴席が整う。

料理が得意な冥界の庭師や、森の幸を魔理沙が持ち寄ってくれたからである。

酒もそこそこ良いのを出してくる。

萃香は少し困惑しているようだったから。告げる。

「ただ、何も言わずに飲みましょう。 潰れない程度にはつきあうわよ」

「……それでいいのか、お前は」

「いいのよ」

「……そうか」

やはり萃香の顔には影が差したが。

酒を飲み始めると、多少はその影も和らいだ。

どれほどの血なまぐさい過去を抱えているのかは、霊夢には分からない。

だが、これで恐らくは救われたはずだ。

宴席はしばし続く。

夜もかなり遅くなると、退席する者も出始めた。すっかり出来上がった萃香は、はたてに絡んだりしていたが。

はたては上手にそれをあしらって、何か面白い話が聞き出せないか、上手に誘導している。

大したものである。

萃香の生活について以前記事にしたらしく。

数日一緒に過ごしたそうだが。

肝が完全に据わったと言う事なのだろう。

昔の天狗や河童には、射命丸を除くと、鬼とまともに話が出来る奴なんていなかったと聞いている。

まだ若いはたてが、萃香と話していると言う事は。

幻想郷の新しい時代が来ようとしている瞬間を、霊夢は目撃しているのではあるまいか。

「いやー、お前面白いな! 射命丸のように陰湿では無いし、河童共のようにこびへつらいもしない! それで、なんらっけ?」

「どんな秘宝を持っているんですか? 教えられる範囲でかまわないですよ」

「教えられる範囲かー。 そうらな、飲ませた相手を徐々に鬼に変える……それは華仙の秘宝だったな。 人間の姿に化ける……は今は使っていない。 火を一瞬で消す……は今は使わなくても自力で出来るし……」

余程楽しい酒なのか。

萃香が珍しく、完全に出来上がっている。普段も酔っ払っているが、その比では無いレベルで、である。

魔理沙が驚いてその有様を見ているので。

霊夢も咳払いした。

流石にこれは驚きである。

この様子だと、萃香は余程色々と鬱屈している。今後は、前よりかまった方が良いかも知れない。

夜半を越えたところで、お開きにする。

華仙が萃香を連れていく。他の妖怪はさっと帰って行ったが、妖夢と魔理沙、それにはたては片付けを手伝ってくれた。

それも良家のお嬢にしては手際もいい。

「あら、気が利くじゃない」

「私はもう良家のお嬢じゃないわ。 一人で何でも出来るようになろうって決めたのよ」

「それは何よりだぜ。 其所の皿、落とさないように気を付けてくれよ」

「分かっているわ」

てきぱきと片付ける。

蛇口を捻って冷たい水を出すと、下洗いだけはしておく。

明日本格的に片付けるとして、目立つ汚れだけは落としておきたいからだ。

燃やすべきものは、術でさっさと焼き払ってしまい。

そして余った酒は、まとめてから、庭に撒いてしまう。

何度も博麗神社で宴席を開くと、どうしても片付けには慣れてしまうが。今日は手伝いが多いので、いつもより手際よく片付いた。

片付けが終わると、一礼だけして妖夢が先に上がる。

魔理沙も疲れたと言いながら、先に上がった。

そして、はたては無言で霊夢に新聞を差し出す。恐らく萃香が青ざめたあの新聞だ。

「あげるわ。 一応、内容には目を通しておいて。 萃香様には、渡して良いって言われているから」

「この新聞は、どうして書こうと思ったの」

「華仙様の依頼よ」

「そう……」

何となく、それで分かった。

華仙は恐らく、昔からの盟友である萃香を何処かでずっと心配していたのだろう。何しろ彼奴の正体は茨木童子だ。酒呑童子が苦しんでいるなら、どうにかしてやろうと思うのが情であろうし。

最後まで手伝ってくれたはたてが帰ると、後は静かになった。

眠るだけだが。

どうにも、横になっても眠れなかった。

いずれ、萃香が話してくれたら。

その時は聞く。それでいい。

霊夢は寝苦しい中、寝返りをうつ。眠れないので、新聞に目を通す。以前とは、出来がまるで別物の新聞に。

 

4、血まみれの夢の果て

 

げらげら笑う大人達。

復讐をしているのだ。だから何をしても良い。

そういいながら、畜生働きをする外道の群れ。その群れを、どうにも出来なかった無力な子供。

そう、童子。

酒を飲む童子という矛盾をはらんだ言葉は、無力極まりない自分そのものだと、自嘲し受け入れ。

だがそれもやがて耐えられなくなった。

目を覚ます。

随分といい酒だった。酒に強すぎるというのも考え物で、ましてや強大極まりない鬼である。

妖怪の山にいた頃は、誰もが萃香を怖がって避けた。

だから事情を知っている他の鬼達とばかり飲むことが増えた。

退屈だから、他の妖怪を無理に誘って飲んでいたら、それが余計に恐怖を煽った。その内、萃香は悟った。

もう妖怪の山からは、一度撤退した方が良いかも知れないと。

抑止力として、守矢を招き入れることを紫が提案。かなり危険な提案だと思ったが。暴力と恐怖で押さえつけることは、妖怪達にとってもあまり良くないと萃香は判断。危険を承知の上で、守矢と入れ替わる形で、地底に去った。実際には少し空白の時間があったが、それは守矢が巫女(風祝)を育成するのに必要なものだった。

案の定守矢は危険極まりない存在だったが。紫と霊夢の努力の果てに、ようやく状況が安定した。

今は、地底で静かにしていられる。

また、酔いが醒めてしまっている。あれほどしこたま飲んだのに。ろれつが回らなくなるほど飲んだのに。

ここ最近特に増えてきている。

瓢箪から酒を呷り。

そして、しばらくは無心に酔いに戻る。

この間地底に来たゴリラだかは、先輩の鬼達に揉まれてきちんと仕事をしている。里の人間の負傷者も、既に現場復帰したそうだ。

世はおしなべて事も無し。

呟くと、瓢箪を持ったまま、スラムである地底を歩く。再開発が行われているが、一部はまだ雑多。

そして、雑多な住宅街には、多くの荒々しい妖怪が住み着いていて。

萃香や。

或いは、地底の管理を任されているさとりの姉妹が出向かなければ、管理はとても難しい。

萃香が姿を見せると、荒々しき妖怪達も恐縮し、過剰に騒ぐのも喧嘩も止める。此奴らに対しては、徹底的に調教した。まだ一部、それでも殺戮と暴虐の本能を抑え切れていない妖怪もいるが。

それも時間を掛けて調教していけば良い。

星熊勇儀が来たので、話を幾つかしておく。この辺りの再開発はまだ無理だという結論を聞かされたので、頷く。

これでも人間とは比べものにならない程永く生きてきた。

普通に難しい話だって出来る。

「いつもより酒の臭いが濃いな」

「昨日は楽しい酒だったんだよ。 博麗の巫女に宴会に招待されてな」

「それなのに醒めたのか」

「……ああ」

どうしてだか分からない。

萃香にも、こんな経験はないからだ。

鬼の酒が簡単に醒めるはずがない。如何に萃香でもである。それほどに強力な酒なのである。そもそも、犯してきた罪から逃げるための酒なのだ。弱くては意味がないのだ。

歩きながら話す。

瓢箪に時々水を足し。酒に変えながら。

瓢箪を勇儀に渡し、確認して貰う。異常は無かった。

「ひょっとしたら、酒を飲みすぎているんじゃないのか」

「それも考えた。 だが、今までは平気だったのに、今になってどうして急に」

「永遠亭にでも行って診てもらえ」

「……それも良いかもな」

後は適当に話を二つ三つしてから、地底を出る。

妖怪の山に出て、ぼんやりとしながら川の近くにある大岩に転がる。好きな場所の一つだ。

誰かが覗いている。

華仙だった。

「博麗の巫女に入れ知恵したな」

「その通り。 見ていられなかったから」

「余計な事をしやがって。 まあ、でも楽しい酒だったから良かったよ。 それに鬼以外から酒に誘われたのなんか、いつぶりだったかな」

「そろそろ、救われても良いんじゃないのかしらね」

それは駄目だと、萃香は一言で断る。

自分の罪は小さくない。

本当だったら、地獄に落ちていただろう。だが、それさえならなかったのだ。

霊夢が幻想郷の閻魔に、このままだとお前は地獄にさえ行けなくなるほど業が深いと説教されたことがあるらしいが。

その実例が萃香だ。

霊夢に親近感を覚えるのもそれが故だろう。

似たような行いをした人間は、地獄にさえ行けず。今も世界の彼方此方を、人ならざる者として、神々に追われながら彷徨っているのだろう。それは、きっと地獄よりも苦しいに違いない。

萃香がそうなのだから、断言できる。

「酒が切れそうになっているようだけれど、飲まないの?」

「……たまには素面も良いかと思ってな。 それに酒が切れるのがどうも早すぎる。 体を壊したのかも知れない」

「そう。 少し仙術で診療しましょうか」

「もしも酒に逃げる事さえ許されないというのなら、それは罰として受け入れるさ。 まあ永遠亭辺りに行っては見るけどな」

華仙にこれ以上貸しは作りたくない。

さて、今日はどうしようか。

少し素面で歩いてみようか。

少しずつ、素面でいる事に慣れるべきなのかも知れない。そうしないと、罪に向き合うことも出来ないだろう。

博麗の巫女は気を利かせてくれた。

こんな畜生以下の行為から逃げ続けている自分に。

地獄にさえいけない自分に。

だったら、少しずつでも努力してみよう。

酒に逃げ続ける鬼としての生から。

じっと手を見る。

人間のように、酒が切れたからといって。震えが来るようなことはなかった。

 

(終)