卒業の斜影

 

序、灰色の空

 

無言で自転車を走らせる。

追いかけてくるものから逃れるために。

風を切って、ただペダルを漕いで加速する。追いつかれるのを、避けるために。

空は真っ暗。

地面は、土なのかもアスファルトなのかも分からない。

ただ、ひたすらに走る。

耳元で、笑い声が聞こえた。追いつかれたのか。

全身に寒気が走る。

転んだ。

自転車から投げ出される。全身に、激痛が走った。

 

目が覚める。

痛いのも当然だ。ベットから落ちたのだから。床から二十センチほどの丈が低いベットだが、それでも落ちればとても痛い。

いやーな夢をまた見た。

一人暮らしを始めてから、どうもオカルトじみた夢を見るようになった。追いかけ回されたり、連れ去られそうになったり。

小さなマンションだから、壁は薄い。悪名高い猛獣の名前を冠するチェーン店で、安いがその分品質は最悪である。ちょっとでも大声を出すと隣から苦情が来るので、いつも声を殺して生活しなければならない。音楽を聴くときなどは、ヘッドフォンを付ける習慣が身についているほどだ。

洗面所に行って、歯を磨く。

パジャマから着替え。通っている会社はスーツじゃ無くても良い場所なのだが、それでも着ていける服はあまり多くない。

適当に化粧してから出かける。一応見苦しくない程度には整えたが、爪を飾り立てたり、まつげを増やしたりする気にはならない。最小限だけだ。

既に新人でも無いから、遅刻はしない。時計を見ながら、ドアに鍵を掛けた。廊下はひんやりとしていて、壁には昨日の雨の名残が残っていた。空きさらしの窓から、吹き込んできたのである。

気化熱のせいで余計寒い。

今日はゴミの日でも無いので、そのまま一階に下りる。駐輪場の愛車に跨がると、出勤開始。ろくでもない会社だが、自転車で通えるのが救いだ。

自分がOLなのだと、こういうときにはあまり感じない。

というよりも、会社勤めをはじめて三年も経った今だというのに、社会人だとか言われてもそういえばそうだったと思う程度である。

今日も、退屈な一日になりそうだ。

急いでペダルを漕がなくても、会社には着く。

小さな商社ではあるが、一応本社なのでビル一つを丸ごと占有している。といっても、四階建てで、中は染みが目立つコンクリのせせこましいビルだが。駅前には、もっと大きなビルがいくらでもある。

駐輪場に自転車を止めて、目をこすりながらビルに。タイムカードを押して、自分の職場である三階に。

女子社員は自分一人しかいないから、ある意味気楽だ。お局さんとかがいたりとか、他にも女子がいて男を取り合ったりとか、そういうろくでもない話を友人から色々聞かされているので、別にこれで良い。

デスクにつく。

昔の会社だと、新人は始業十五分前に出て、先輩の机をぞうきんがけするとか、そんなルールがあったそうだが。今では別にそんなことも無い。というよりもこの会社、新人は此処二年ほど入ってきていない。

PCを立ち上げて、表計算ソフトを起動。こんなのに月何十万も払っているのが馬鹿馬鹿しくなる性能だが、それでも我慢するしか無い。

ぱらぱらと、他の社員も来る。

適当に挨拶しながら、始業時間を迎えた。

今日も、やることは事務。事務と言っても、たいしたことは無い。渡されたデータを家計簿みたいなファイルに突っ込んで、書類を処理して、矛盾が無いように整理する、ただそれだけである。

頭がすっかりはげ上がっている社長が来た。

「どうだね、夏子君。 問題は起きているかね」

「今の時点では特に何も。 この分だと、一応黒字にはなりそうですよ」

「そうかそうか」

社長は本当に嬉しそうにデスクに戻っていった。一時期、収入が真っ赤っかになった時のことを思えば、黒字になっているだけで御の字なのだろう。

志が低いと言ってしまえばそれまでだが、此処は大きくは決して無い商社だ。それを考えれば、バブル後の混乱を知っている人間からすれば、会社があるだけで儲けものという訳だ。あまりそれを悪くは言えない。

バブル崩壊後の就職状況は聞いたことがある。とんでもない有様だったらしいと。

比較的就職に苦労しなかったのだし、あまり高望みはしても仕方が無いだろう。

営業に出ていた何人かが戻ってきた。資料を渡されたので、入力する。中堅どころの会社と商談を取り付けてきたらしい。これで黒字は確定した。だが、あまり良い取引には思えない。

「私が口を出すのも何ですが、これ、長期的には損しませんか?」

「あー? 良いんだよ。 向こうに恩を売ってるわけだからなあ」

無精髭だらけで、ぎょろりと目が飛び出している営業の田村は、ニコチン臭い息を吐き出した。

これで営業がつとまるのだから不思議だ。もっとも、今では昔のようにネクタイでスーツでびっちりというのが、絶対の時代では無いが。

一度仕事ぶりを見たことがあるが、別人のように愛想が良い笑いを浮かべて対応していたし、まあこんなものなのだろう。

「今回は長期的に損だが、その代わり次はうちに割が良い取引を回す。 それが業界の仁義ってもんでな。 それが守れねえ会社は、あっというまに没落するもんなんだよ」

「へえ……」

「バブル崩壊の頃は、それが分かってねえアホが結構いたが。 まあ、今は信頼が大事だってことに、またみんな気づきはじめたからな」

パチンコに行ってくると堂々と言い残し、田村は出て行った。まあ、仕事が出来ているのだし、良いのだろう。よくわからないが。

作業は午前中で終了。

後は、データの再整理と、確認をする。だが、これがひたすらに眠い。昼食が来た頃には、あくびをかみ殺すのが相当に難しくなっていた。

やっとチャイムが鳴る。

わらわらと、皆が食事に出て行った。この事務所は二十人ほどしかいないが、派閥は驚くほど固定している。

ちなみに夏子は、敢えてどこにも与していない。興味が無いからだ。

弁当を作るほどの甲斐性もないし、来る途中に適当に買ってきたコンビニ弁当を温める。このままじゃあ嫁に行けないよとか親に言われたことがあるが、別にどうでもいい。だいたい、こんなのを親に持ったら、子供がかわいそうだろう。

昔に比べれば美味しくなっているらしいが、それでも大して美味しくないコンビニ弁当を、黙々と食べる。

そして思う。

午後の仕事は、どうしようと。

ソリティアでも隠れてやるかと思ったが、あれはもう飽きた。フリーセルは700連勝した辺りでもうどうでも良くなったし、マインスイーパーも同じだ。

午後にも一応営業などがデータを持ち込んでくることがあるのだが、とにかく暇になりやすい。

忙しい仕事が良いとは言わないが、暇すぎるのも問題だ。一応食べて行くには問題ない給料が出ているから、残業をする気は無い。昔は、残業を形だけでもしていかなければならないという悪習があったらしいが、そんなものは今は無い。

ご飯を食べ終わったら、ぼんやりと持ってきた文庫を読む。

一時期はやったケータイ小説はとっくに廃れた。しかし、出版業界の不況は相変わらずで、読んでいる本も面白くない。

そりゃあそうだ。新人が出てくるからと言って、育成を放棄したのだから。力のある作家が育つわけも無い。ヒット作がどうのこうのと宣伝しても、中身が伴っていないのだから、ブームなど出来るわけも無い。そして、かってベテランだった連中の筆力が尽きてしまえば、後はもう、残りカスが余るだけだ。

今読んでいるのも、そんな残りカスの書いた本である。とにかくつまらなく、眠気を誘引するには最適だが、それ以上でも以下でも無い。純文学を気取っているようだが、笑止なだけだった。

灰色の日々。

それに相応しい本だなと思った。

そして思う。今の自分にも相応しいつまらなさだと。

自虐でも何でも無い。客観的に見て、それが正しい。くだらない現実を、嫌と言うほど認識できる。

何しろ、もう大人なのだから。

 

退屈きわまりない一日を終えて、夕方には家に帰る。

マンションですれ違った隣人に、適当に頭を下げて、自宅に。手にぶら下げていた買い物袋を冷蔵庫に放り込むと、PCを立ち上げた。

昔に比べればずっと安くなっているPCだが、それでも初任給をだいたい使ってしまった。それ以来つきあっているのだが、最近はメモリの劣化かCPUが痛んできたか、或いは別の理由からか、重くて仕方が無い。

メールをチェックした後、ソーシャルコミュニティにログイン。以前は活発にやっていた時期もあったが、会社に入ってからはさっぱりである。ぼんやりとやりとりを眺めて、適当にレスを付けて。それで終わりだった。

風呂に入って、夕飯にして。

時計を見ると、まだ七時である。

かといって、今更外に出たり、遊びに行く気力も残っていない。ビールを出してがぶ飲みする。安いビールだしまずいが、酔ってしまうのがこういうときは一番だ。

ふと、視界の隅に映り込む。

埃を被っているゲーム機が。

そういえば、もう何年もやっていない。大学を出る頃に、さんざん言われたのだ。そろそろゲームは卒業しろと。

あの頃はそんなものかと思っていたが。

今になって、思う。

あれは、正しい選択だったのだろうかと。

ぼんやりとしている内に、眠くなってきた。ベットに転がり込むと、そのまま無理矢理に寝入ってしまう。

退屈で、灰色の明日を迎えるために。

 

ふと、まばゆい日差しに気がついて、空を見上げる。

石に座っていた。

じりじりと焼けるような日差し。当然石も熱い。

辺りは、むせかえるような緑の臭い。

故郷の野原だ。

地平線が見える、と言うほど広くは無い。だが、そういえば。この頃は、なんだか世界の全てのようにさえ思えた。

のこぎりみたいに葉っぱが鋭い草があった。ちょっと油断すると手を切ってしまうので、とても危ない。そんな葉を丸めて、蜘蛛が巣を作っていた。中で卵を産むのだと知ったのは、いつの頃だろう。

大きなカナヘビが近くの石の上にいた。

ニホントカゲとニホンカナヘビは別の種類だと知ったのは、いつだったか。背中が青くて綺麗なのが蜥蜴のオス。メスもカナヘビとは違って、とてもつるつるしている。そして、トカゲの方が、成長するとびっくりするほど大きくなる。

カナヘビも観察していると面白い。

餌を採るとき、吃驚するほど素早く動くのだ。昆虫も、その攻撃を逃れることが結構ある。

ほんの一瞬の勝負の世界。それに破れたら、餌にされてしまう。

シビアな現実である。

ぼんやりと、日差しの中で。手を伸ばす。

こんな風に穏やかな風に包まれていたのは、いつ頃までだったのだろう。

 

1、再開

 

目覚まし時計で起きる。頭がかなりくらくらするのは、昨晩痛飲したからだろう。まずいビールなのに、酔うには最適だから、ついついたくさん飲んでしまう。給金のどれだけが、今までビールに消えたのだろう。

あまり考えたくない話だ。

牛乳を飲んで、歯を磨いて。顔を洗って、適当に身繕いして。

自転車に乗って、会社に出かける。

面白くも無い一日が、また始まった。

この辺りのマンションは安いからか、外国人や、ヤクザの情婦の類が入っている事もある。だから、いかにも筋者って連中が朝から歩いていることもあった。

一応自衛のためのスプレーは持っているが、襲われたらどうにもならないだろうなと考えながら、自転車でさっさと通り過ぎる。会社に到着。憂鬱だが、ため息も出ない。

今日は幸いにもと言うべきか。デスクには、昨日の定時後に営業から戻ってきたらしい奴が置いていった書類が積まれていた。これだけの分量があると、ひょっとすると夕方くらいまで退屈しないかも知れない。

ちょっと自分の神経がおかしくなっていることが分かる。仕事が無くて給料貰えるのが最高では無いのか。

まあ、ともかくだ。仕事をしようと、書類を取り崩した。ざっと見るが、そこそこに良い取引のようだ。これは、データを入れるのも楽しいかも知れない。やっぱり何かがおかしくなっている。

ざっと目を通すと、かなり大口の取引だ。

これはひょっとすると、今年のボーナスは期待できそうである。

そこで、ふと思う。

ボーナスを貰って、何をすれば良いのだろう。

欲しいものは、何かあったか。

貯蓄したところで、将来使い道はあるのか。結婚資金にでもするのか。でも、そんなものは、とっくの昔に目標額をクリアしていた気がする。

貯金は、ある。

というよりも、使い道が無いのだ。金は貯まる一方で、今後はどう使うかも見当がつかない。

しかし、仕事を辞めれば、どんなに節約しても年百万はかかる。今の貯金など、数年で消し飛んでしまうだろう。

結局は、この灰色の毎日を生きていくしかない訳か。

それにしても、他の連中はどうやってこの毎日をエンジョイしているのか。そういえば、この言葉はとっくに死語だった。

周囲に迎合しているはずなのに。

ブームは、いつの間にか、遠ざかる一方だ。

「これは大口の取引だ。 夏子君、間違いが無いように処理してくれたまえよ」

「分かっています」

そりゃあ、こんなにたくさん仕事があれば、夕方までは退屈しなくて済むのである。たっぷり楽しませて貰うところだ。

やっぱり何かおかしくなっている。

書類を見ながら、取引のデータを入力していく。無言で作業を進めていくのだが、何処かで変な所があるような気がする。

無言で手を止めた。

一致しない。データを見比べてみると、やはり何か妙だ。

「塙田君、いいー?」

「なんすか」

来たのは、茶髪であごひげを伸ばした、いかにもチャラ男という風情の若造である。一年遅く入ってきた後輩だ。

入ってきた当初は髪も黒かったのだが、最近は本性を現したというか何というか、茶髪にしている事も多い。これでいて、営業の成績は悪くないのだと言うから不思議だ。まあ、見かけ通りの女性関係を構築しているらしく、何度か口説かれたことも実際にある。鬱陶しいのでふったが。

「あのさ、この取引について聞きたいんだけど」

「良い取引っしょ。 先輩に紹介して貰った会社から取って来たんすよ」

「……此処の数字は何?」

幾つかの数値に、腑に落ちない点がある。

それを一つずつ聞いていくと、へらへら笑っていた塙田が、徐々に顔を強ばらせていった。

「これさ、取引の書類、書き間違えてない?」

「えっ……」

「多分相手先のミスだと思うけどさ、数値が此処、桁間違えてるんじゃ無い? それ相手も気付いてないと思うから、早めに連絡して確認した方がいいよ。 クレームに発展したら大事だよ」

聞いていた社長が、見る間に顔を真っ赤にしていくのが分かった。

ため息。どうやら、ボーナス期待出来そうだと思ったのは、大間違いだったと言うことか。

すぐに塙田が外に飛んでいって、ケイタイで連絡をはじめた。書類は一旦横に置く。この様子だと、他にどんなミスがあるか知れたものでは無いからだ。

電話が終わったのが、二十分後。塙田は血相を変えて書類を掴むと、すぐに取引先に飛んでいった。

さて、これはどうなるか。

いきなり仕事が無くなってしまったので、抹茶ミルクでも作って飲む。勿論インスタントのまずい奴だが、時間を潰すには丁度良い。暖かい上に甘いので、頭もよく働くようになる。

今入力してしまったデータは一旦白紙にする。多少時間はロスしたが、会社にでかい損失が出るよりはマシだ。

結局、午後になって塙田は帰ってきた。真っ青になっていたが、とりあえず大規模損失は避けたらしい。

向こうも自分がミスをしたことは分かってくれたらしく、結局双方共にきちんと契約をし直すことで合意したそうだ。

ただし、これで大口の収益とはならなくなった。

「夏子君、良く見つけてくれたね。 助かったよ」

「いえ、それほどでも」

「……」

塙田が非常に不満そうに、こっちを見ていた。

気持ちは分からないでも無い。せっかくの良い気分が台無しだからである。だが、此方で気付かなかったら、もっと損害は大きくなっていただろう。

抹茶ミルクを飲み干すと、数値が修正された書類に取りかかる。

もう午後だが、さほど時間は掛からないだろう。午前中に、見たデータから、どうすれば効率的にやれるかは割り出しておいたからだ。

白紙化したデータも、別のシートに貼り付け済みだ。これも再利用できる。こういうこざかしい知恵ばかりがついてくる。

丁度定時の数分前に、作業は終わった。二度見直したから、多分漏れも無いだろう。データを確認した後、提出して、背伸びする。

どうやらこってり絞られたらしく、塙田はげっそりした様子だった。多少はこれで懲りると良いのだが。

飲み会が行われることも無く、そのまま業務終了。

良かった良かったと呟きながら帰路につこうとして、ふと我に返った。そして、愕然とする。

今日一日、また、何の意味も無く終わってしまった。

確かに会社の損失は防いだが、それだけだ。だからといって給金が増えるわけでもないし、自分のためになるわけでもない。

帰り道、ペダルが妙に重い気がした。

 

無力感を通り越して、脱力感に近い。

虚無が全身を包んでいる様な気さえする。

昨日は金曜だったので、今日は土曜。ゆっくり寝ていられるはずなのだが、何もする気にならなかった。

体を起こして、目をこする。

元々年より十歳若く見えるとか言われてきたが、体の中身はそうでもない。最近は一日おいて筋肉痛が来るようになったり、ちょっと階段を上っただけで息切れもする。それだけ体の中身は老けてきているのだ。

ぼんやりと時計を見ている内に、時間が過ぎていく。

何をしているんだろうと、自問自答。

返事など、ある訳も無い。

テレビを付けるが、どれもこれもつまらない。そういえば、一時期はアニメも見ていたが、これも卒業するようにと言われて見るのを止めたのだった。それ以来、全く見ていない。

買ってきた小説に目を通すが、大変につまらないまま最後まで行ってしまった。ラノベ上がりの作家だが、気取ってこんな文章を書いたところで、本の下半分を真っ白にしていたような奴が今更上手に行くはずも無い。作家が駄目になったとか言う声があるが、違う。母集団と素人のプールの大きさに胡座を掻いて、作家を育ててこなかった編集が悪いのだと思う。

明日にでも古本屋に売り払ってこようと思って、本を床に落とす。

気力が全く沸いてこない。PCを立ち上げて、ソーシャルネットワークにつなぐが、目新しい情報は一つも無い。

ニュースも、何を見ても面白くなかった。

ぼんやりと寝返りを打っている内に、気付く。

メールが一通来ている。多分アレだ。スパムだろう。最近はソーシャルネットワーク内にもボットが巡回していて、結構変なメールが来る。

開いてみると、意外な内容だった。

「お久しぶりです、広川です」

「広川ぁ?」

思わず口に出してしまう。

誰だったか覚えが無い。またスパムかと思って削除しようかと思ったが、続いている文章が結構面白い。

「まさか、夏子姉さんを此処で見つけられるとは思いませんでした。 OLやってるって日記に書いてますが、まだ昔の魂は残してますか?」

「……これって、ひょっとして」

そういえば、広川という名前、心当たりがある。

広川睦美。後輩と言うにはちょっと年が離れすぎている。七歳年下だったのだが、そういえばそろそろ高校三年生か。今社会人三年目だから、丁度三年目どうしだ。

懐かしい。

確か大学に通う寸前、いろいろな事があった。

たくさん持っていた漫画本はだいたい形見分けのような形で分配してしまったし、ゲームも最小限を残して処分してしまった。

ずっと遊んだ野原も、宅地開発で潰されてしまったのが、そんなときだった。

高校三年の頃、いや少し前からだったか。

サブカルチャーに対して、両親が急に圧力をかけ始めたのも。そういえば、きっかけは高校二年の時だった。

まさか赤の他人が睦美の名前を名乗ることも無いだろうし、本人だろう。幾つか本人しか知らない情報もあるし、ほぼ間違いが無い。

ソーシャルネットワークだから、本人のページもある。メッセージを読むのは後回しにして、現在の写真をアップしたリンクがメッセージにあったので、見に行く。

驚いた。

睦美と言えば、ひよこみたいに夏子の後をついてくる、ちんまい子だった。高校を卒業してから、大学に通うために一人暮らしを始めてからは殆ど会っていなかったのだが、しかし此処まで変わるものか。

確かに面影は残っているのだが、まるっきり変身である。

あの小さい子が凄く背が伸びて、今では百六十後半まであるとか。それだけではない。体型もどちらかと言えばモデルのようである。すらりと伸びた手足はしなやかな美しさを秘めているし、何よりもとてもびっくりの美人さんだ。

あのひよこが。

今では立派な白鳥だ。

それに対して、夏子はどうだ。

完全に羽化に失敗した蛾である。

頭をかきむしる。

こんな灰色の人生を送っている自分に対して、笑顔まできらきらしているのは、どういうことなのか。

完全に追い抜かれたと言うべきなのだろうか。

それとも、一体何があるというのか。

「私は、今同人誌の方でサークルやってます。 去年はお誕生日席を確保できましたし、今年は壁に配置されるかも知れません」

「へー」

お誕生日席。

趣味で作る本を同人誌という。自費出版するようなタイプもあるが、殆どの場合は採算度外視で作るものだ。類例に同人ゲームなどもある。これらを作るグループをサークルといい、その成果物である同人グッズを売るイベントが近年隆盛を極めている。

日本最大の同人誌イベントでは、長方形の配置で席が並べられる。その端、短辺になっている箇所をお誕生日席という。

ある程度人気がある同人誌サークルが此処に配置されるのだが、そうではない場合もままある。ただ、社会人でも無い連中が作っているサークルが、もうお誕生日席で、なおかつ壁を取ろうとしているとは。

ちなみに壁というのは、建物の壁際のことだ。此処には正真正銘の人気サークルだけが配置されることになる。

そういえば。

思い出した。夏子の所と違い、睦美の所は両親に理解があった。

羨ましいなと、素直に思う。

「今度近場の小さなイベントに出席します。 是非来てくださると嬉しいです」

頭を掻いて、しばらく悩む。

日付を見る。

そういえば、昔は足繁く通っていたのだが。今はすっかり、思考の外にこぼれ落ちてしまっていた。

 

サブカルチャーは低級。そして低俗。

そういう思想が、不思議とこの国では昔から存在している。

妙な話である。

映画も小説も、昔はサブカルチャーだった。ちょっと調べてみて驚いたのは、かのイギリス出身の大バンド、ビートルズに至っては、退廃的文化の象徴などと言われて、批判の矢面に立たされていたのである。

同じアニメでも、差別化されていると言って良い。一部の高級とされるアニメや、露骨にキッズ向けの作品を除けば、すっかり深夜にアニメは放送を追いやられてしまった。それが良い例であろう。

そして、これらサブカルチャーを好む人間は、犯罪者予備軍であるというような社会的風潮まで、出来つつある。

趣味が何かと聞かれても、喋ることが出来ない。それが思想の自由を標榜する、この国の姿だ。

世界でも最も平和で安全なはずのこの国。経済的には衰えも見えるが、世界的に見ればこれほど安定している国など他に無い。

だが、それでも。闇は存在している。

文化的差別は、その一つだろう。

そして、この差別は正当化さえされている。

ぼんやりと、メッセージに書かれていた内容を思い出す。

本当に彼奴が、今の睦美だというのか。だとすると、一体何があったのだろう。

パソコンを落とすと、ベットに転がる。

社会人になってから、そういえば熱意を込めて何かに打ち込むと言うことが無くなっていた。最初は、仕事に打ち込もうとも思っていた。

だが、違う。

そういうクリエイティブでエキサイティングな職場も多分ある。あるのは間違いない。

だが、大手企業の子会社である今の就職先は、このまま行っても灰色の世界だ。それだけではない。

今後の人生そのものも、暗黒である可能性が濃厚である。

「卒業、か」

ぼんやりと天井を見つめる。

今日は土曜日だ。明日も休みだから、ゆっくりしていて良い。

まだ時間は夕方五時半。それなのに何もすることが無い自分に、灰色を感じてしまうのは、おかしなことなのだろうか。

友人には、男でも作れと言われたことがあるが、今はそんな気になれない。

そういえば、この国もそうだが、社会に自由などないと感じ始めたのは、いつ頃からだっただろう。

何か変わったことをすれば、即座に迫害の対象となる。

コミュニケーションには厳然としたルールがあり、一つでも守れなければ即座に半端物として扱われる。

昔に比べればマシだというのは分かる。

だが、文化的な不自由さに関しては、今も昔も変わらないのでは無いのか。

海外でもそれは同じだろう。この国で特殊な文化があるのは事実だが、よその国でも同じ部分はあるはずだ。

会社にしてもそうである。

それぞれの会社に違いはあるが、基本的に窮屈でしょうが無い。友人達の話を聞く限り、どこも同じという返事が返ってくるばかりである。

一体何のために、今まで生きてきたのだろう。

社会を成立させるための、ネジになるためか。歯車などでは、断じてない。リストラで会社員の首を切ったり、工場を根こそぎ見捨てたりしている現状を見る限り、社会は弱者などゴミクズとしか見なしていない。それなのに弱者を死ぬまでこき使い、如何にして搾り取るかしか考えていない。

それでいて、その社会を正当化する意見ばかりがもてはやされているのは、一体どういうことなのか。

ベットの上で身を起こす。

ゲーム機の埃を払うと、配線を確認。

テレビとつないで、電源を入れる。電源は入った。

ファミコンの時代は、かなり頑強だった。多少の衝撃を与えてもびくともしなかったゲーム機が多数あった。

今此処にあるのは一世代前の型式だが、これくらいになると、もう精密機器という印象が強くなってくる。無茶な衝撃は厳禁だし、出来るだけ埃も避けた方が良い。しばらく悩んだ末に、それほどプレイヤースキルが関係ないゲームを選んだ。パズルやアクションは、もろにプレイヤースキルが影響してくる。

ここ数年、全くプレイしなかった以上、かなり腕はさび付いているだろう。

そういえば、こういうのは武術なんかと同じだ。あちらも、一日さぼると、取り戻すのに三日かかるとか言う話がある。

遊びはじめたのは、比較的難易度が低いシミュレーションゲームだ。しかも、難易度を最低にしてプレイを開始する。

戦国時代を舞台に、天下を取ることをもくろむゲームである。最大手の会社が作っている作品だが、近年はゲームバランスの劣化がひどい。これはゲームバランスがまともだった頃のナンバリングタイトルである。とはいっても、それでもAIの質はお粗末で、それを補うために物量を投入しているのだが。

一番難易度が低い、甲州の武田家で開始。

別に最近流行の歴女というわけではないが、このシリーズをやっている内に、全国の戦国大名についてはある程度知識がついた。最も脆弱なことで知られる河野家や里見家でクリアしたこともある。

だが、長いこと遊んでいなかったブランクは大きい。

一応夜中にはクリアできたが、随分時間が掛かってしまった。かなり効率の悪いプレイを繰り返していた気がする。

ゲーム機の電源を切ると、ベットに横になる。

なんだか、久しぶりに脳をきちんとした形で使った気がする。ゲームというのはアニメと並んで、遊んでいる奴は犯罪者予備軍みたいな扱いを受けるものに、いつの間にかなってしまった。

だが、それは違う。

違うと反論すれば出来るはずなのに。いつの間にか、周囲に合わせることをより重視してしまった気がする。

なんだか、少しだけ、昔のことを思い出してきた。

魂はちゃんと、まだあった。

もう一回、今度は別の大名家で遊ぶ。次はもっと難易度が高い大名家だ。

少しずつ、勘が戻ってくる。

徹夜になるが、構わない。明日は日曜日なのだから。

 

2、懐かしい空気

 

自転車を走らせて、近所の電気屋にゲーム機を買いに行った。どうせ金は有り余っているのである。

しばらく悩んだ末に、据え置き機を買う。

携帯機は便利だが、やっぱり腰を据えて遊ぶなら据え置きだと思ったからである。ただ、見たところ、最近は出ているソフトの本数が減っているようだ。

この業界が、不景気なことは知っていた。

かってゲームを諸悪の根源として叩きに叩いていた連中は大喜びだろう。だが、実際には、景気が悪くなってきて、こういった趣味に回す金が減ってきたから、というのが要因である。

その証拠に、ゲーム以外の趣味産業も軒並み売り上げを落としている。音楽などは更に悲惨だ。好調なのは元々ペイが少ないアニメ産業くらいで、此処はファンが揺るがぬ買い支えをしているから、売り上げが落ちていないように見えるだけだ。

それだけでは無い。

今はかってのようなキラータイトルが少ない。最大手として知られた会社同士が合併した頃から、その傾向が更に顕著になった。原因となったこの会社、元々作るゲームの質が落ち始めていたが、最近はグラフィックばっかり凝るようになり、肝心の中身はゴミクズ同然という代物を乱発したため、すっかりファンの心も離れてしまった。利潤を追求するために、会社を支えていた技術者達を切った結果である。大企業になった事で、日本的企業の悪い所も一緒に得てしまい、それが致命傷になったらしい。

幾つかゲームをみて回るが、その最大手の作品は真っ先にパスした。どうせ買ってもつまらないのが目に見えているからである。何が映画のような映像か。ゲームは映画ではないし、グラフィックでも無い。良質なストーリーにバランスと創意工夫、それに遊べる楽しさこそが、長く愛されるゲームを作るのだ。それを忘れた会社のゲームなど、誰が買うものか。

一方で、携帯機の限られた要領で、しっかり遊べる良いゲームを作っているメーカーも存在している。こういう会社の作るゲームは、荒削りな部分はあるにしても、プレイヤーを楽しませようとして作っているのがよく分かる。かっては、今はくだらないゲームしか作れなくなった某大手企業にも、こういうゲーム作りの魂があったものなのだが。拝金主義になると、どうやら魂は消え失せてしまうらしい。

こういうことを考えていると、少しずつ頭の血の巡りが良くなってくる。熱い魂を、少しずつ取り戻してくる。

昔は、良く議論をしたものだ。

高校の同級生達の間では、どのゲームのどのキャラが可愛いかとかかっこいいかとか、結構話題に上った。家で同級生達と話していると、後ろでにこにこその様子を見ていたのが、確か睦美だった。

意味も分からず話を聞いているだけだろうと思っていたのだが。

しっかり、言うことを覚えていたらしい。

そうなると、あの頃かわした熱い議論は、睦美の中で生きていると言うことなのだろうか。なんだかちょっぴり光栄な話だ。

幾つか作品を見繕ってから、買って帰る。

なんだか久しぶりに、良い買い物をした気がした。

自転車に大荷物を載せて、ペダルを踏む。かなり重いが、充実した重みだ。ご機嫌のあまり、鼻歌まで漏れる。多分満面の笑みでペダルを漕いでいることだろう。自宅まで、遠くて仕方が無かった。

今まで、別の意味で遠かったのに。

マンションに着く。大荷物を抱えているのを見て、近所の住人がぎょっとした様子であった。

早速開封して、ゲーム機をテレビにつなぐ。配線関係は分からない奴には分からないものだが、大丈夫。こういうのは、体が覚えている。さっさと接続した後、箱はしまう。物置の中は随分さっぱりしてしまっていて、入れるスペースはいくらでもあった。

買ってきたゲームは何本かある。時間が無くても出来る奴からセットする。そういえば、まだ子供の頃は、カセット式のゲーム機が家にあった。あれは名機だったが、流石に今は古い。

ただ、立ち上げの早さは、ディスク式のゲームとは比較にならなかった。今のディスク式のゲームも、あのくらいの早さが欲しいものである。なんだかんだで、遊ぶ際に立ち上げのスピードはストレスにつながるものなのだ。

少し古いゲームだが、きちんと起動する。しばらく、ゲームとは全く無縁の生活をしていたので、新しいも古いも無い。

そういえば、いつの間にか、屈していた気がする。

昔は、ゲームをやる奴はオタクだとか、ひどい場合は本を読んでいると趣味が暗いとか、好き勝手なことをほざく奴を一笑に付していた。

だが会社に入ってからは、親に卒業を強制されて、いつの間にかそれを受け入れてしまっていた気がする。

何でそんな頓珍漢な意見を受け入れていたのだろう。

受け入れれば、こんなに灰色の人生になるのは、何処かで分かっていたはずなのに。生活を彩るのは趣味だ。

趣味を持つことが異常者の条件、みたいな今の風潮を、かってはあれほど憎んでいたのでは無かったのか。

遊びはじめたのは、じっくり遊べるRPGだ。最近流行のリアルタイム形式だったり、MMORPGを意識した作りのものではない。ターン制を採用している、戦闘でじっくり考えられるタイプのものである。

シリーズものではなく単発の作品だが、昨日ネットを漁っていて評判が良さそうなので買ってきた。ネットでの評価はあまり当てにならない反面、買ったら全部自己責任にもなるので、ある種のスリルがあって面白い。

シナリオはそこそこに錬ってあって面白いが、若干テンポが悪いか。ゲームシステムもかなり独創的な反面、読み込みなどの部分で若干遅いところがある。総合的には及第点だが、長期間遊ぶには厳しいなと思った。

序盤をクリアしたところで、一旦停止。

他のゲームも遊んでみる。

パズルゲームはそこそこの当たりだった。此方は長年シリーズが出ている落ちもののパズルで、連鎖でブロックを消すことによって派手な展開を見込める。歴代のルールが導入されているので、遊んでいてカスタマイズが容易だ。

しばらく遊んでみて、これは中々に当たりだと思った。長時間遊ぶには、これが一番適しているかも知れない。

最後に出したのは、あまり期待していない作品である。

歴史シミュレーションゲームの老舗が出した、戦国時代を舞台にしたゲームだ。この会社はバランス調整をプレイヤーにやらせて、後でパワーアップキットと呼ばれるバランス調整版を出すことで悪名高い。それを知っていたので、最初からパワーアップキットが出ているシナリオを買ってきた。

パワーアップキットは、バランスの調整が出来るシステムも投入しているので、元々貧弱なAIやシステムを、自分である程度カスタマイズできる。また、用意されているグラフィックなどを使ってオリジナルの武将などを作る事も可能だ。最近のシナリオでは、大名家を自分の完全なオリジナルに編制し直したり、設定されているステータスを好みによって変えることも出来る。

以前はこういう作業が楽しくて仕方が無かった。判官贔屓の思想から過大評価されている真田一族を軒並み能力低下させたり、逆に過小評価されている武将を強くしたり。三国志でも戦国でも、それはとても面白い。

しばらくそういう作業を行う。相変わらずバランスが最悪の調整をされていたので、弄っているだけで随分楽しく時間を過ごすことが出来た。

ただ、問題はオリジナルの武将追加である。

最近は、アニメからも漫画からもかなり離れていたので、お気に入りのキャラクターというものがない。PC版だと画像を取り込んでそういったキャラクターも再現できるのだが、流石にコンシューマ機だとそれも難しい。

更に言うと、今使っているPCは骨董品に近い代物で、最近のゲームを動かすにはパワーがとてもではないが足りない。

こういったオリジナルの武将を使うプレイスタイルは賛否両論があるのだが、夏子は賛成派である。自分の好きなキャラクターを使って天下統一する。とても楽しい作業では無いか。

しばらく考えた末に、一旦ゲームを落とす。その辺りについては、別の日にでも考えれば良い。

ゲームに関しては、これでしばらくは遊べるだろう。今新作については、発売のペースが落ちていることくらい知っている。しばらく様子を見て、飽きてきたら別のゲームを購入すれば良い。

いずれにしても、今日はかなり有意義だった。会社の連中と飲み会に行ったり、後は空虚なおしゃべりをして過ごすのも良いが。こうやって遊ぶのも随分久しぶりで、別の意味で新鮮だった。

もう夕方だ。

最近は、時間が余って余って仕方が無いと思っていたのに。

なんだかむしろ、時間が短く感じてしまう。

ソーシャルネットワークにつなぐ。

日記を書くのも久しぶりだ。だが、随分久方ぶりに、前向きな日記を書くことが出来そうだった。

 

会社に出る。

周囲の男性社員に機嫌が良さそうだと言われて、ちょっと驚く。根暗キャラとして定着していると思っていたのだが。

まあ、どうでも良いことだ。

作業も、朝から随分はかどった。今までやる気が起きなかったファイルの形式改良などに着手し、午前中の内に終わらせる。マクロを組むのも良いのだが、数式も適切に打ち込んでおいて、作業の効率を上げた。これで、いざというときに急ぎの作業が来ても、最小限の時間で片付けることが出来る。

簡単きわまりない。

今まで何でこんなものを放置していたのだろうと、自分で不思議になった。

持ってこられる書類を片付ける。

さっさと片付けてしまったので、時間が余った。せっかくなので、今後の事を考えて、今までの資料の整理を行っておく。考えて見れば、金曜のデータミス、今までにもあのような事態は結構起こっていたのでは無いのか。

まあ、取引の段階で判明はしていたのだろう。今後は、夏子のところで、ある程度食い止められる方法を模索しておかないとならないだろう。

幾つかチェックの方法を再確認して、有効そうな方策を編みだしておく。今まで、真面目に働く意味が無い職場だったから、全くやる気が起きなかったのだが。睦美のメッセージが届いてからというもの、どういうわけか気力がみなぎって仕方が無い。

きっちり作業を済ませたら、定時で上がる。

今日の凄まじい働きぶりを見ていたからか、誰も不満の視線を向けてくる奴はいなかった。彼氏でも出来たのかなとかいう寝言が聞こえてきたので、噴きかける。

良く、性別による思考の違いというのが話題になる。だが、はっきりいって、こういう寝言を聞いている限り、どっちも馬鹿さ加減では大差が無いように思えてならないのである。さっさと自転車に跨がると、まだ暗くない外を急いで帰宅。

帰ると同時に、ソーシャルネットワークにつないだ。

睦美からまたメッセージが入っていた。

この間のメッセージには、正直に返事をした。会社に入ってから、すっかり魂が抜けていたこと。趣味を卒業するように言われて、言われるままに卒業していたこと。だが、今になって思えば、どうも馬鹿馬鹿しい判断だったこと。

ゲーム機を買ってきて、久しぶりに遊んでいること。そうしたら、随分楽しいということ。

十万もするようなバッグとか洋服とかアクセサリとかは、一つはあっても良いと思う。一応これでも、身を飾ることそのものには興味がある。

だが、それは一つで充分。

残りのお金は、有意義に使いたいものだ。

「夏子姉さんのメッセージ、読みました。 やっぱり社会人になるって大変ですね」

最初はやはりそう始まっていた。

睦美の方も、やはり理解が無い周囲の人間は、それなりにいるという。サークルを作るのも、かなり苦労したのだそうだ。

社会人で、同人活動をしている人間もいる。だが、高校生時代もそうだが、資金力があってもやはり周囲の目は否定と偏見に満ちていることを覚悟しなければならない。どちらにしても、この国には不思議と文化的差別を肯定する風潮がある。

「でも、やっぱり夏子姉さんは夏子姉さんのままで良かった。 安心しました」

イベントにやはり来て欲しいと、メッセージが追記されていた。

それに関しては、ちょっと悩むところだ。

今度のイベントは、二週間後。場所は近場だから、行こうと思えば難しくは無い。資金力も問題は無い。

だが、それはやはり一日がかりになる。

それに、今の姿を見られるのも、なんだか気後れする。向こうが滅茶苦茶に人生を楽しんでいるのが分かるからだ。

少しずつ、楽しかった頃の事を取り戻しはじめている。

だが、それでも、まだまだだ。

メッセージには、考えておくと返した。すっかり灰色の人生になれてしまった枯れた自分を見せたくない。

惨めな姿を妹分に見せるのは、やっぱり何処か気恥ずかしいことだった。

ネットを落とすと、またゲームを起動する。

時間はあるといっても、平日だ。夕方から遊んでも、睡眠すべき時間には、ゲームをやっていればすぐに到達してしまう。

軽く遊びながら、携帯を使って番組をチェック。

アニメをチェックするのは、一体いつぶりだろう。

高校時代はいわゆるBLものに興味があった時期もあった。だが、アニメは正直な話、かなり嗜好に合うものは少なかった気がする。

今はBLものよりも、単純に楽しいものがみたい。日本のアニメはずば抜けた品質で、世界的にも完全に次元が一つ違っている。興味が出てくると、色々と見たい作品が浮かんで来た。

再放送で、幾つか良さそうなのを見つけた。新規放送でも、結構おもしろそうなものがある。

ふと、わくわくしていることに気付く。

そういえば、昔はこうだった気がする。何かが発売される日の前はどきどきしていたし、新放送のアニメについては、情報を仕入れてはああだこうだと想像するのが楽しくてならなかった。

ゲームに主眼を移して、しばらく本気で遊ぶ。

しっかり楽しみ終えた頃には、九時を回っていた。そして、頭も疲れて、寝るのに丁度良くなっていた。

酒も必要なさそうである。

一応、地デジ化に合わせて、HDDレコーダーも手に入れている。録画するのにはさほど問題も無い。また、録画が溜まってきても、DVDに焼けば良いだけの事。ビデオの時代に比べれば、処理も保存も簡単だ。

さて、そろそろ寝ようか。

そう思ったとき、メールが入った。

メールソフトを立ち上げて、中を見る。それを見て、ちょっとぎょっとしてしまった。

母からだ。

「睦美ちゃんから連絡が来ていない?」

その通りである。

何かあったのかと聞き返してみる。そうしたら、驚くべき答えがあった。

「手首切ったのよ、あの子」

眠気が、完全に吹っ飛んでいた。

 

3、壁

 

翌日は有休を取って、病院に直行した。

田舎から出てきているとはいっても、たいした距離では無い。それに、有給はたまりにたまっていたし、良い消化機会だった。

電車に揺られて、田舎へ。その途中に、病院はある。実家に行こうかと思ったのだが、必要ないだろう。正月と盆には行っていたのだから。

病院はかなり大きく、面会はさほど難しくなかった。

病棟の四階。其処に睦美はいた。

ベットに縛り付けられた睦美は、じっと目を閉じたままである。発見が早くて、死ぬ事はなかったらしいのだが。

右手の手首にある包帯が、生々しい。

しかも相当な覚悟をしていたらしく、手首に包丁をたたきつけて、なおかつ洗面器に張ったお湯の中に突っ込んでいたそうだ。

手首を切っても簡単に人は死ねないのだが、其処までやれば死ねることも多い。

「ご家族の方ですか?」

「いえ、友人です」

友人と言うべきなのか。

睦美は二つ隣の家の子で、姉とは高校も中学も一緒だった。その関係で仲良くなったというべきなのか。

高校の頃は、殆ど意識していなかった気がする。

そもそも友人の姉が、早々と結婚して姓が変わっていたこともあり、すぐには気づけなかったのである。

ベットの横に座る。

写真の姿は、間違っていなかった。モデルだと言われても、信じるほどに美しく成長している。

どちらかといえば姉が地味な容姿なのに、こうも綺麗になるとは。遺伝なんてものが、如何にいい加減かよく分かる。

「睦美、来たよ。 起きてくれない?」

呼びかけてみるが、反応は無い。

この様子では、サークルでの参加も取りやめだろう。或いは他のメンツが、意地でも出るかも知れないが、いずれにしても睦美は出られまい。

そういえば、まだ聞いていなかった。

此奴は一体何のジャンルで、サークル参加するつもりだったのだろう。

「あ……」

「久しぶり」

病室の前で会う。

睦美の姉の恵子。昔はオケイと呼んでいたものだ。今は結婚して、姓も金田に変わっている。

ベットの横に座ってくる。

モデル系美人の睦美とは正反対に、慎ましやかな女性である。昔は二人で組んで、学校でサブカルチャーにおける二大巨頭などと言われたものだが。彼女も結婚してからすっかりそちらからは離れており、同時に人生がつまらなくなったと言っていた。

「彼がさ、結婚するときに言ったんだよね。 子供に悪影響があるかも知れないから、アニメもゲームも全部捨てろって」

「何それ、ちっちゃい奴」

「そうだよね。 睦美が凄い楽しそうにしてるのみて、本当にそう思ったよ。 子供が生まれて、今はもう戻る時間もなくなっちゃった。 それに、子供がしっかり大人になるまで、怖くて言い出せない」

確かに、それが原因で離婚するとか言い出されたら、たまったものじゃない。

昔好きだったものは、別に捨てたわけでは無いそうだ。だが、実家の物置にしまって、それきりだという。

「それにしても、どうしてこんな事になったの」

「それがね。 ちょっと複雑になるし、睦美が聞いてたらあれだから、外に出ようか」

病室から出る。

人工呼吸器が必要なほどでは無いようだが、睦美は起きる気配も無い。だが、それを考慮しても、やはり同じ病室で話をする気にはなれなかった。

高校生は多感な時期だが、それでも手首を切るというのはよほどのことだ。特にカミソリで横にと言うならともかく、本気で死ぬつもりで、後に傷が残るだろう方法で手首を切っている。あの様子だと、相当なことがあったのだと、一発で分かる。

昨日は殆ど一睡もしてない。

状況が分かるまで、それどころではなかったのだ。

「で、話してくれる?」

「ええ。 睦美ったら、同人活動してたのは知ってるわよね」

「うん。 知ったのは最近だけど」

「どうやらその関連で、たちが悪いストーカーにつきまとわれてたらしくてね」

最悪だ。

同人誌の業界でも何でもそうだが、やはりサイコ系の奴は存在している。勘違いされやすいのだが、「この業界は何々が多い」というような理屈はない。どこでも同じだ。

たとえば、だが。したり顔で、BL系の同人をやっている女性は、男性に相手にされないブスが多いなどとほざく阿呆がいるが、文字通り噴飯ものだ。美人もいれば綺麗な子も可愛い子もいる。美人とブスの比率なんぞ、それ以外の業界と全く変わらない。

変わり者に遭遇することは多い。

だが、こういったイベントというのは祭りと同じだ。同じ趣味を持っている事を、普段隠さなければならないのを、表に出せる数少ない機会である。だから羽目を外す奴も出てくる。只それだけのことである。

祭りでも同じように、大騒ぎしたり暴れたりする奴が出てくる。それと同じ事なのである。

それを奇異にとらえる奴がいるだろうか。

ただし、やはり閉鎖的な業界である事は否定できない。外からの圧力で閉鎖的になっているとはいえ、事実として閉じている業界なのだ。

やはり、凝りはたまる。

「睦美ったら、自分が美人だって自覚が全然無いらしくてね。 まあ、小学生くらいまでは、ちびっ子で、下手すると男の子と間違われるようなかっこもしてたしね」

「うん。 特に恋愛とか色恋沙汰とか、興味が無さそうに見えたね」

「あんたがそれを言う?」

「ごほん。 続けてくれる」

今は冗談を言っている場合では無い。

声を落として、話を続ける。

「それで、同人誌のサークルで出るようになってから、学校の方の奴がどこかでそれをかぎつけたらしくてね」

「ん? 隠してたの?」

「なんだか今の学校、あたし達の時よりも閉鎖的らしくてね。 漫画を持ってきたら取り上げられるって言うようなことは無いらしいんだけど、ちょっと周りと違うことをしたら即座に無視、てのが普通らしいの。 今色々あるから、教師の方も生徒とは関わりたがらないらしくて。 で、耐えられない奴は、それで引きこもっちゃうと」

「暴力が入るわけじゃ無いのか……」

そういう点で、いじめの形式が以前と違ってきているわけだ。

女子の場合は、コミュニティが学校生活で非常に重要になってくる。コミュニティ内での地位や位置関係は、生活を如何に楽しむかの中で非常に要素が大きい。孤立はそのまま孤独につながり、そのまま不登校へと流れてしまうこともある。

中学以降、急激に大人っぽくなり容姿が派手になった睦美も、それは例外では無かったらしい。どちらかといえば派手な容姿の睦美だったが、それが故に敵も作りやすく、コミュニティが非常に不安定な状態が続いていたそうだ。

そこに、つけ込んだ男がいる。

まだ名前は特定できていないらしいのだが、どうやら此奴は、女子のコミュニティを分析することに非常に嗅覚が効くらしい。睦美は他校の生徒などと同人誌のサークルを作っていたらしいのだが、これも何処かでかぎつけていたそうだ。

そして、つきまとったというわけだ。

要するに、睦美を自分のコレクション感覚で彼女にしようと最初はもくろんだわけだ。だが、相手にされなかった。

卑小なプライドを傷つけられたゲスは、以降ストーカーと化したと。

最悪の予想は外れた。同人誌関連の方にサイコ野郎がいたわけではないのか。

そういえば、急に夏子にメッセージを送ってきたのも、それが理由だったのだろうか。今まで全く関係を持とうとしなかったのに、不意に連絡してきた。

そうか、あれは。

助けてくれと言うサインだったのか。

「結局睦美は、最後までそいつが誰かを話さなかったからね。 学校側は、勝手に睦美が自殺未遂を起こしたって線で片付けようとしているし、最悪よ。 退学を進めて、何も無かったことにしようとしているらしいわ」

「警察は」

「学校側が、キャリアに知り合いがいるらしくて、圧力を掛けてるらしいの。 しかも、よ。 訴え出ようとしたら、同人誌をやってたことをこっちも公にするって」

「何それ、そんなの公にされて……」

イメージが落ちるとでも思ってるのか。

本気でこういうクズがまだいるとは思わなかった。自殺未遂を起こした女子生徒を犠牲にして、学校の体面を守ろうというのか。ストーカー野郎の人権を守っているのと同じでは無いか。

犯罪には、あう方が悪いとでもいうつもりか。

サブカルチャーを愛する人間に、人権は無いとでも言う気か。

「あったま来た!」

「私もよ」

「ちょっと、悪いけど。 恵子、私戦うわ。 派手にちょっと色々やらかすけど、良いかな?」

「……」

それは、睦美が起きてから、確認を取って欲しい。

そう、恵子は言った。

 

翌日、会社帰りに病院によることにした。

睦美が目を覚ましたという連絡が届いたからである。命に別状は無いと言う話だったので、当然の結果ではあった。

会社の方には、身内に大きな事故があったとだけ告げてある。もっとも、この会社では、私生活については殆ど触れていない。家に入れた男もいないし、身内の話も殆どしていないから、変な噂を立てられることも無いだろう。

電車に揺られて、思う。

そもそも、どうしてこんなにサブカルチャーに憧れたのだろう。

最初の始まりは、確か世界史の勉強だったような気がする。百年戦争について触れた漫画を読んでいたのが、きっかけだ。

百年戦争とは、イギリスとフランスの地獄の闘争である。実際には百年間ずっと戦争をしていたわけではない。元々イギリスは、フランスが領地を与えることで懐柔したヴァイキングの一派ノルマン人の子孫達が作った国だ。後にその王族が、海賊を使った情け無用残虐非道な通商破壊作戦を実施して、海を無法地帯にしたのは皮肉な歴史である。

紳士の国などとは、まさに笑止。元々、残虐な海賊が国を強奪同然で立て、それを武力で認めさせた国がイギリスだ。もっとも、世界のどこの国も、建国に関してはどれもこれもが似たような真っ黒ぶりだが。

幼心にショックだったのは、ジャンヌダルクが登場する直前辺りの、イギリスの蛮行である。軍隊そのものが夜盗同然の存在と化し、街や村で非道の限りを尽くしたという記述を見て、イギリスの現在のイメージからあまりにかけ離れたショックを受けたのである。

それからだ。

社会とか、国家とかに、根強い不信感が生まれたのは。

サブカルチャーは絵空事の世界を書いている事も多いが、子供向けの作品になると特にその傾向が強い。

子供でも、歴史を勉強するようになると、現実の世界が如何に血みどろのものかは理解するようになってくる。

其処から逃げる気は無かったが、しかし。

どうしても、現実よりも高潔で、潔癖な創作の世界に、心が焦がれたのは事実だった。

勿論、現実の歴史も、それからは興味を得た。だが、それ以上に、創作の世界に心が引かれはじめたのも、この頃からだった。

ゲームもアニメも漫画も、何でもひたすらに遊んだ。

小説を読み始めたのは小学生の頃だ。最初は絵本みたいに字が少ないのから読み始めたが、それがライトノベルになり、やがて歴史小説や、恋愛小説になっていった。ちょうど中学の頃に、ライトノベルの全盛期が来た。いろいろな技法が工夫され、賛否両論はあれど中々にエキサイティングな時代だった。

面白いことに、この頃、ゲームの小説はさっぱり振るわず、紙くず同然の代物が売り飛ばされていたのだが、それはまた別の話である。

ライトノベルは、今斜陽を迎えている。ヒット作の多発とバブルで調子に乗った編集が、新人を育てず使い捨て続けたからである。それでも、幾つかヒット作は出ている。

途中の本屋で、良さそうなのを買う。

睦美のソーシャルコミュニティのページは確認して、昔の日記なども二年くらい前まで全部目を通した。それで、好きそうな作品を割り出したのだ。

睦美はBL系では無く、ギャグ系で同人誌を書いていた。小説では無くコミックで、睦美自身は絵を描くのでは無く、話を担当していたらしい。

同人誌というとどれもこれもが性的な内容とか勘違いしている阿呆がいるが、勿論違う。むしろ腕が露骨に出やすいギャグやシリアスの方が、面白いものが多いのである。性的な作品は絵に関しては技量がつきやすいが、話はどれもこれもが似たかよったかになりやすい。

睦美が安易にBLを選択しないで、良かったなあと思う。

もっとも、BLが悪いとは思っていない。あくまで傾向の問題である。だが、世の中には、それを全部ととらえる阿呆がいるものなのだ。

病院に着いた。既に夕方だが、まだ面会時間は終わっていない。

病室に行くと、丁度恵子が帰るところだった。軽く話をした後、病室に。ぼんやりとした様子で、睦美は窓の外を見ていた。

「久しぶり」

「あ……夏子姉さん」

「ほれ、差し入れ。 まだ手に入れてなかったでしょ」

「……」

嬉しそうにはにかんで受け取る。その手には、もう多分一生消えないだろう跡がくっきり残っていた。

ちなみに作品は、男子だったら絶対読まないような、ギトギトの恋愛小説だ。甘いラブロマンスでは無くて、愛憎劇だとか、女子にしか分からないレベルの駆け引きの話が、徹頭徹尾丁寧に、くどいほどに書き込まれている作品である。絵は多少古いが、睦美のサークルで追っているシリーズの作品だ。

しばらく無言。

最初に話したのは、夏子だった。

「何だかさ、大変だね」

「はい。 でも、サークルの皆には迷惑掛けられなくて」

「何……」

つまりストーカー野郎は、サークルにまで迷惑を掛けると言ったのか。

泡を食っているか、それとも高笑いしているか、どっちなのだろう。

こういうモラルの欠片も無い輩は、捕まりさえしなければ何をしても良いと本気で思っている。火を付けて家が燃えようが死人が出ようが、通行人を殴り倒して障害が残ろうが、気に入らない相手が自殺未遂を起こそうが、捕まりさえしなければ何の痛痒も感じない輩は、実在するのである。

多分後者だなと、夏子は思った。

ならば、遠慮する必要は無い。

「もう二度とするな」

「……」

「相手の名前は?」

「聞いて、どうするんですか?」

徹底的にぶっ潰す。

他に選択肢は無い。

このまま自殺未遂まで追い込まれた妹分が、ぼろぼろのまま病院から出ることも出来ず、退院したところで、自宅でニートになるのを見てはいられない。

警察が使い物にならないのなら、他にも手はある。

「ちょっと面白い知り合いがいてね。 古い知り合いだから連絡を取るのにちょっと苦労するかも知れないけど」

「夏子姉さん?」

「反撃だ。 今度はそいつを、自殺未遂まで追い込んでやる」

ぱちんと、大きな音を立ててケイタイを閉じる。

堪忍袋の緒は、とうの昔に切れていた。

 

家に帰ると、既に深夜だった。

ただし、今日は寝る前にやることがある。

メールソフトを立ち上げると、アドレス帳を引っ張り出す。古い知り合いのアドレスを其処から調べるのだ。

そいつとは、随分長いこと話していない。

大学時代に、サークル活動をしていたとき、知り合ったのだ。非常に根暗な雰囲気で、物静かを通り過ぎていた。おしゃれすればそれなりに綺麗になるのだが、夏子以上に女の子らしい事に興味が無いらしく、いつも隅っこの方にいた。

だが此奴は、ネットではカリスマ的な力を持っていたのだ。いわゆるハッカーである。それも凄腕の。

何度か見せて貰ったが、彼女の戦利品には、大手企業がスキャンダルでひっくり返るような危険すぎるブツもあった。今まで足を掴ませていないようだが、もしも顔が割れたら本当に殺されるかも知れないと、けたけた笑っていたのを見たことがある。有名なウィルス作成者と、何度かやり合ったことがあるらしい。相手の個人情報を引っこ抜いた上に、HDDを駄目にしてやったと大喜びしていた。

周囲は怖がっていたが、夏子は別に何でも無かった。

普通に一緒に過ごしている内に、飲みに行きたいと言われて、連れて行って。酒の席でこう言った。

本当に、宴席に連れて行ってくれた人は初めてだと。

それから、地味ながらも、関係は続いていたのだが。去年くらいから、向こうが連絡してこなくなった。

しばらく連絡を絶っていたのだが、今は奴の力が必要だ。

メールを送る。

意外にも、三十分ほどで返事が来た。

「チャットで話したいんだけど、良いかな」

「分かった」

アドレスは、向こうが指定してきた。MSNなどを使おうかと思ったのだが、機密性が強い自作サーバでのチャットをお望みの様子だ。

一体何をしているのやら。

チャットで話すと、忙しかったのだという。何でも大手の企業に、ネット専門の火消し屋として雇われたのだそうだ。

「どうしてそんなアンダーグラウンドな事しているの」

「私が普通の会社に就職できると思う?」

「確かに難しいかな」

「そういうこと。 アンダーグラウンド関係の人脈から、ちょっと良い仕事先が見つかってね。 月の給金は三十万くらいかな。 ボーナスも出るし、仕事があるときはもっと貰えるよ」

一応、在宅勤務という扱いだという。

まあ、今の時期、ネットでの対応の初期消火を誤ると、大変なことになる。瞬時に数割の利潤が吹っ飛ぶ場合もある。大企業が、実際にそういった被害を受けていることがあるのだ。

今、此奴がついているような仕事が、裏側で生じ始めていてもおかしくは無い。平和呆けしたこの国の企業でも、流石にそろそろ危機感を得てもおかしくない頃だ。

「美味しいよ、この仕事。 むかつく連中とも顔合わせ無くて良いしね」

「ひょっとして、ずっと家から出てないとか?」

「そうだよ。 家には金入れているから、何も言われない。 在宅の仕事だって事は教えてあるから、不思議だとも思ってない」

「そう」

むしろそういう仕事なら、好都合だ。

事情を話す。協力を依頼したいと。

しばらく時間をおいてから、夏子のアンダーグラウンドな友人、千隼は言う。

「分かった。 ただし条件がある」

「何」

「今度、また飲みに連れて行って」

「了解」

戦闘開始である。

 

4、誰にも望まれぬ

 

結局睦美は、犯人の名前を口にしなかった。多分自分から名前が漏れ出もしたら、どんなことになるか。それが怖かったのだろう。つまり、それだけ危険な行動を取りかねない相手だと言うことだ。

だからまず、相手の足取りを追うところからはじめなければならなかった。

おかしな話である。社会問題にもなっているのに、どうしてこういう非常に危険な相手に対して、警察は動きが鈍いのか。それだけではない。事なかれ主義に走った学校と、一緒になって隠蔽工作までしようとするのか。

だが、此方も黙ってはいない。

まずは、自分に出来ることからはじめる。

恵子に聞いて、学校の名簿を取り寄せる。

それを千隼に流した。

久しぶりに会った千隼は、相変わらず陰気な雰囲気であった。雰囲気からして、既に堅気では無い。

だが、まっとうなやり方では、勝ち逃げを許してしまうゲスを潰すには、こういう人が必要だ。

やれコミュニケーションがどうの、社会への順応がどうのと、個性を許さず完全なマニュアルに沿った行動を要求する社会では、千隼は徒花に過ぎない。だが、夏子は彼女の存在を必要だと思うし、頼りにもする。

社会が裁かない悪を、滅ぼすには。こういう人材も必要だ。実際問題、こういうマニュアル外の存在を軽視するから、弊害も出ているのでは無いか。歴史上の偉人達は、皆変人ばかりなのだ。

早速絞り込みを開始する。

「多分私が思うにね、そのゲスには女子の協力者がいると思う」

「どういうこと」

調査開始後、数日で。千隼がそんなことを言った。

直接会う回数は減らしている。本人が、あまり好まなかったからだ。千隼は夏子を信頼してくれているようなのだが。どうも、外に出ることも、話をする事も、どちらも体力を著しく消耗するようだった。

「情報を総合する限り、この阿呆、女子の生態に詳しすぎる。 高校生だとちょっと手慣れすぎてるから、ホストか何かの兄貴分がいるか、そうじゃなきゃ色々吹き込んでいる奴がいるんだろうね」

「……」

「多分、勘だけど、そいつの彼女だと思うよ。 経験があると思うけど、この年頃の女子って、好きな相手のためだったらどんな馬鹿なことだってするから。 罪悪感を感じてるか、一緒になって楽しんでるかまでは分からないけど」

意外に冷静で緻密な分析である。

そういえば、千隼がこんな根暗な子になったのは、中学時代にこっぴどい失恋を経験しているからだと聞いたことが一度だけあった。

誰にも話してはいないことだが。

「やっぱり、経験から?」

「そうだよ。 ネットでの炎上とか、情報のばらまきとか。 あらゆるゲスな手を使ってきたっけね、彼奴」

「今、そいつはどうしてるの」

「精神病院。 かなり重度のトラウマで頭が壊れてるみたいだから、二度と出られないだろうね。 出られたとしても一生薬漬け」

それはご愁傷様である。同情には値しない。狂気の中で、一生苦しみ続ければ良い。自業自得だ。

「それで、見つけられそう?」

「今、十五人まで絞った」

流石に仕事が早い。

データを出してきたが、その中には教師や、何名か女子も混じっていた。

それにしても、教師まで疑っているとは。まあ、昨今の状況を考えると、あり得ない事ではない。

ここのところの教育現場は、教師のモチベーションを著しく削ぐものとなり果てている。無能なPTAと迷走しかしないマスコミが原因だが、誰もが知っているそんなことを、どうしてか原因である連中だけが理解していない。

いずれにしても、疑われている女子はあれか。これが、内通の可能性がある女子だろうか。

「いや、それは違う」

「え?」

「要するに、同性愛者の可能性も、今回は視野に入れてる」

あまりにもさらりと返事が来たので、絶句。

まあ、確かにその可能性も想定するべきだろう。同人誌界隈では同性愛は人気のあるジャンルだが、実物はさほど見る機会がない。つい、夏子としても失念していた事であった。

確かに、男子が犯人だったら彼女を使っている可能性が高いが。女子が犯人だったら、そもそも最初からそんな動きは見せないだろう。

毎日、少しずつ調査が進展していく。その間、夏子もできる限りのことはした。既に睦美のサークルとも連絡を取っている。構成員は、全て頭に入れた。半分ほどのメンバーとは直接面会し、アドレスも控えた。

それらを元に、更に千隼が情報を絞り込んでいく。

実際問題、身近の人間が一番内通者である可能性が高い。最悪の場合、恵子や、睦美と同年代の家族まで疑わなければならないだろう。

本当はこういうのは警察の仕事の筈なのだが。

全く動かないので、仕方が無い。探偵などのプロに頼むには金が足りない。千隼では、集められる情報に限界がある。

だから恵子と連携して、学校周辺の情報を集めていく。それを元にして、千隼がデータをネット上でかき集めていくのだ。

犯人をこの段階では、刺激しないようにしなければならない。かといって、あまり長引くと、睦美が学校生活に復帰出来なくなる。

急がなければならなかった。

だが、焦るわけにも行かなかった。

毎日、遅くまで作業に没頭。場合によっては、恵子や千隼の家に泊めてもらう事もあった。

千隼におすすめの作品を教えて貰い、家に帰って見たりもした。

こんな時だからこそ、娯楽は重要である。

そう言い聞かせて、胃の辺りがちくちくする中、夏子は作品を黙々と視聴した。

 

三週間ほどしてから、進展があった。千隼が家に呼んできたのである。相当なデータが溜まっていた。

学校の裏サイトに潜り込んだ結果も、見せてくれた。

やはり睦美の自殺未遂については、かなり苛烈な話題になっていた。もったいねえとか、前々から目をつけていたのに誰が余計なことをしたとか、好き放題で何の配慮も無い寝言もかなり飛び交っていた。

恵子も呼んでいたのだが、流石に絶句したようである。

「これって、今時の若い子は、って奴じゃ無いよね」

「んなわけないじゃん」

千隼が一蹴。

子供だから仕方が無いと言うよりも、現在はアンダーグラウンドとしてネットがあまりにも一般的になりすぎている。だから、匿名性から人間の下劣な本性をむき出しにするパターンが多くなりすぎているのだ。大手の匿名投稿掲示板でネットになれた人間が、外に出て迷惑を掛けるケースも、これとさほど離れてはいまい。

ネットでどれだけ暴れていても、表では大変おとなしいというケースもままある。実際に、サークル活動をしていた頃、何回か目にしたことがあった。

年を重ねると、ネット上でも落ち着いてくる場合が多い。ネット上と現実がしっかり連続しているものだと理解できるからだ。しかし、敢えて自重しない人間もいるようだ。これは、ネットという匿名の空間を、精神の安全弁にしているからなのだろう。

学校の裏サイトは荒れ放題だったが。

ただ、ストーカーとか、同人とか、今回の事件のキーワードになる話は出てきていないようだった。

「そこで、此処に火薬を放り込む」

本来、登録制のIDがないと書き込みは出来ないらしいのだが、その辺りは千隼だ。この程度のセキュリティなど、ザルに等しいのだろう。

既にIDを取得していたらしい。それを使って書き込む。

睦美は、ストーカーに遭っていたと。

マジで。本当かよ。詳しく。誰だよやった奴。先にやっとけば良かった。

書き込みが凄まじい勢いで、ログを吹き飛ばしはじめた。更新をかける度に、数行のログが飛ぶように流れていく。チャットでもしているかのような早さである。

それだけ多くの人間が、此処を見ていると言うことである。

早いだけでは無い。

掲示板は蜂の巣を叩いたような大騒ぎになった。

これがネットの怖さだ。既にこの情報の拡散は、誰にもとめられない。

これで後には引けなくなったが、犯人も尻尾を出すだろう。だが、千隼は更に容赦の無い行動に出た。

今まで、この学校から不自然に転校したり、ニートになった女子生徒が何名かいる。

彼女らも、同一のストーカーに遭っていたと、核心に触れる情報を流したのである。勿論、そのIDは、プロキシをガチガチに噛ませている上、海外のサーバまで経由しているそうで、足を掴めるものではない。

学校の裏サイトに使っている程度のサーバセキュリティでは、痕跡を掴むことも不可能だ。企業が飼っているプロの火消し屋の仕事である。警察でも、跡をたどるのは難しいだろう。

ダーティな手である事は理解している。

だが、本来動かなければならない人間が、何もしていないのである。夏子が動くしか無い。

只、自身でも完全な素人と言うわけでは無い。

ネットの怖さは、身をもって理解している人間であった。それに、既に社会に出て、きちんとプロの手を借りる意味も知っていた。

千隼がこんなに腕を上げていた事は良い意味で予想外だったが。それでも、最終的には、千隼のつてを使ってプロとの協力態勢を作っていただろう。

黙ってやられることが美徳では無い。

やれるときは、徹底的に叩き潰すべきだった。

「さて、これで明日には結果が出るだろうね」

「犯人が裏サイトの管理者と結託してて、ログを消される可能性は」

「大丈夫。 既に生徒の一人のPCにトロイの木馬仕込んであって、其処から監視ツール動かしてるから。 ログはリアルタイムで保存されてる。 証拠能力もしっかりあるから、心配しなくていいよ」

とことんおっかない奴である。以前聞いたときよりも、更にアンダーグラウンドでの戦い方が手慣れている。この監視態勢も、専用のブラウザを使い、しかもプロキシをがちがちに噛ませた上に実施している様子だった。

さすがはプロと言うことか。

今後は此奴のような、ネットのアンダーグラウンドを知り尽くした奴が、漫画に出てくる殺し屋みたいな活躍をする時代が来るのかも知れない。

どちらにしても、かって千隼と仲良くしたのは、夏子だけだった。それがまた、おかしな話である。そして、今は僥倖でもあった。

道徳とか常識とか、そういうものだけにとらわれていたら、今の反撃は、とてもありえなかっただろう。

一通り話がまとまったところで、千隼に聞いてみる。

「やっぱり協力してくれたのは、自分の過去の経験から?」

「そうだね。 それもある。 なんだかんだ言って、もう私はアンダーグラウンドの人間で、こんな風になる奴を増やしたくなかった」

それは、夏子も思う。

学校を変えるにしても、睦美には日の当たる場所を歩いて欲しい。

そもそも趣味がどうのこうので、それがアンダーグラウンドに分類されるというのもおかしな話なのだ。

さて、これでどちらにしてもストーカー野郎は動くだろう。

既に、睦美のサークルメンバーには監視を付けている。脅迫をするという意味で、接触を取ろうとするはずだ。

其処を、押さえる。

内通者がいる可能性を考慮もしてある。つまり、サークルメンバーから犯人に連絡が行くという場合だ。

その時の手も、幾つか打ってあった。

「で、夏子。 実働戦力は? 私に出来るのは、此処までだよ」

「大丈夫」

今回は、別口から警察を動かしている。

ストーカーに対する動きが鈍いとしても、恐喝に対しては話が別だ。ストーカーに対する法律は比較的新しくて警察が動きにくいとしても、恐喝は法が整備されている。点数稼ぎをしたい場合にしても、実際に正義感が強いにしても、警察は動く。これくらいはやって貰わないと、流石に不快すぎる。

さて、後は網を引くだけだ。

 

三日後。

網に掛かったのは、意外であり、予想外な人物だった。

警察が身柄を確保した事を確認して、やっと肩の荷が下りた気がした。

 

二週間ほどして、病院に赴く。

睦美の病状が良くなったわけではないが、結果報告をする必要があるからだ。

最初は、真相を話そうか迷った。

それに、全てが上手く行ったわけでも無い。何もかもが上手く行ったのなら、睦美に胸を張って会えるのだが。

今回は、そうも行かないだろう。

すっかり憔悴しきった睦美は、病室でおとなしくしていた。傷はかなり痛々しいが、医師が出来るだけ跡が残らないようには処置すると言っていたそうだ。お見舞いの品として定番であるフルーツを持ち込んだが、量は少しである。

恵子に聞いていた。今の睦美は、かなり小食だと。無駄にしてしまうのも、もったいない話である。

「夏子さん、来てくれて嬉しいです」

「犯人が分かったよ。 ついでに捕まった。 もう何も心配する必要は無いよ」

「え……」

「学校がかばうわけだよね。 理事長の息子だなんてさ」

そういうことだ。

犯人は、ふんだんに金と暇を与えられた理事長の馬鹿息子だった。ルックスは抜群に良かったが、親が甘やかして育てた結果、手が付けられないクズに育ったのだ。悪い友人ばかり増やし、警察のあしらい方も覚えたようだった。それでいて、学校では優等生で通っていたらしいので、笑ってしまう。成績もトップクラスだったそうだ。

勿論、テストの成績などは、裏から手心が加えられていたらしい。

恐喝罪だけだったら、何にもならなかったかも知れない。

だが、個人を特定した瞬間、此奴は終わった。千隼が奴の個人PCにクラッキングを掛け、奴が保存していた「戦利品」をネット中にばらまいたからである。ストーキングの証拠だけでは無い。

どうやら覚醒剤や大麻までやっていたらしく、ありとあらゆる犯罪の証拠が、其処には出そろっていた。

更に、一言だけを呟くタイプのソーシャルネットワークでのIDも特定。一応セキュリティを意識してか、特定メンバーにしか閲覧できないようロックを掛けていたようだが、そんなものはいくらでも破る手段がある。

其処にも、犯罪の証拠となるつぶやきが山ほど残っていた。

案の定ネットは大騒ぎになり、複数方向から通報も入った。ネットニュースでも大々的に取り上げられ、一週間ほどでマスコミもついに重い腰を上げた。学校の理事長は退任、警察は手のひらを返した。

多分コネがあるキャリアも、もうかばいきれないと思ったのだろう。そうなると出るわ出るわ、学校側からも情報が山ほど出てきた。今までに退学させたり精神病院送りにさせたりした女子生徒の殆どが、ストーカー野郎の被害が原因と言うことが確定した。

悲しい話だが、今立場が弱い教員達は、非常に微妙なバランスの上に立っている。下手に学校に逆らったりすれば、PTA辺りにつるし上げられて、異常者扱いされかねない。やっと理事長という独裁者がいなくなって、情報を出せる状況になった、というのが事実なのだろう。

それについては、軽蔑はするが、敵視はしない。

自分だって、似たような経験があるからだ。だから、仕方が無いなとは思っても、それ以上追い詰めようとは思わなかった。

で、だ。

此処までなら大勝利で終わりなのだが、話はそう都合良くは動かなかった。

やはり内通者がいたのだ。

それも、極めて身近に。

「あんたのサークルの子、弘子だっけ。 地味でおとなしい子。 あの子が、情報を全部リークしてたの」

「……うすうすは、勘付いてました。 最近彼が出来たって聞いてはいたんですけど、あまり嬉しそうじゃ無かったですし、何処かおかしいなとは感じていました」

おもしろ半分に手を出したら、何でも言うことを聞くようになった。逆らうんだったら、アダルトビデオに売り飛ばすって冗談を言ったら、何でもやった。彼奴が自主的にやったことだから、自分の罪では無い。

事情聴取で、そう理事長の息子はうそぶいたそうである。

正真正銘のゲスと言うほか無い。ただ、此奴にはやはりホストをしている兄貴分がいて、そいつからアドバイスを貰ったとかいう情報も出ていたようだ。

気の毒に、弘子は多分男性との交際経験が無かったのだろう。しかもこの年頃の女子は、好きな相手の言うことだったら、何でも聞いてしまう。その上、相手との関係を断たれることを、何より怖がるものなのだ。

地味でおとなしいと言うことを利用し、いろんな情報を仕入れさせていた。

その中に、睦美の情報もあったというわけだ。

実際には、そんなものは弱点になどならない。だが、そう思うバカがいるのも事実だ。そんな連中は一笑に付すべき存在だが、世論とか言う主体性が無いものが、味方をする場合があるのも事実。

一体世論とは、何なのだろうと思う。

ストーカーを行うような奴を、ルックスが良くて金持ちだからと言ってかばい、ささやかな趣味を持って人生を謳歌している女子高生を、犯罪予備軍というような言い方をして弾劾する。

ペンは剣より強いとかいう言葉があるらしいが。その剣が今向いているのは、明らかに弱者では無いのか。

弱者を虐げる剣など、暴君の仕業に他ならない。

そんなものは、いらない。

歴史上、暴君の治世が長続きした例は無い。国が滅びにくくなった現在でも、暴君がいて国は栄えた例はないし、長続きもしてない。

「で、どうするの」

「……」

「サークル、一旦解散した方が良いんじゃ無い? 他のメンバーも、あまり良い気分はしないんじゃ無いのかな」

「でも、今までは、みんながいたからどうにかなった部分もあるんです」

睦美も、苦労はしていたらしい。

自覚はしていたそうだ。うすうすとは。

派手なルックスが、サークルの集客に結びついていたと。それに、他のメンバーが、内心で反感を抱いていることも。

小学生くらいまでは、ルックスを気にすることは一切無かった。

だが、中学くらいからだ。男子の舐めるような視線が、気になり始めたのは。

それが嫌でならなかった。今までと同じように接して欲しいとは言わないが、いきなり手のひらを返した言動には、やはり相当な不信感を感じたそうだ。

だから、中学三年くらいから、交際を申し込まれることが出始めたらしいが、全てを断ったらしい。

「もったいないなあ」

「でも、いやでした。 今までさんざん男女とか言ってきた子が、急に態度を変えるんですもん」

「まあ、その気持ちは分かるけど」

強い男子に対する不信感が、やがて周囲への反感を生んでいく。それが同時に、周囲からの反感も呼ぶようになっていった。

そういった頑なな異性に対する態度が、変な奴を呼び寄せてしまったのだろう。

だが、それは。

睦美にも、原因はある。

「お金欲しくて援助交際するような子も問題だけど、もうちょっと大人にならないと駄目じゃ無いのかな」

「……そう、ですね」

「せっかく綺麗なんだから」

それは、心底羨ましいと思う。

どんなに化粧しても、地味な夏子は限界がある。睦美の場合は、化粧をすればどんだけでも綺麗になるだろう。

医師に、外で話を聞く。

体調は回復してきている。後は精神的なダメージさえ克服できれば、学校に復帰出来るという。

傷は残る。

だが、永続的に残るわけでは無い。可能な限り見えにくくする処置は出来るという。これはさっき睦美に聞いたとおり。後は、本人の問題次第だ。

色々と細かい話を聞いた後、病室に戻った。

少し気まずい沈黙が流れた後、切り出す。

「転校する? ストーカーはもういないけど、阿呆な奴は、やっぱり睦美を色眼鏡ごしに見るんじゃ無いの」

「大丈夫です。 学校には友達もいます。 相談、出来ると思います」

「……」

まだ、ちょっと心配だ。

だから夏子は、恵子と相談して、一つ学校復帰に条件を出すことにした。

 

5、卒業の形

 

遠い空に、大きな雲が見える。

積乱雲は、まるで巨大な山のように、空にそびえ立っていた。雷が鳴っているのが分かった。

怖いと言うよりも、わくわくしてしまう。

石に腰掛けて、足を揺らしながら、見上げる。

あの雲は、中がどんな風になっているのだろう。触ることは出来るのだろうか。そんな風に考えると、空想はどこまでも膨らんでいく。

そう。

夢だ。分かっている。

こんな頃が、昔はあった。今はもう、戻る事が出来ない古き昔。

だが。

いつの間にか、大人に戻っていた。

子供の自分の隣に座っていた。

もう、大丈夫。

そう、子供の自分に聞かれる。

だから、答える。

もう、大丈夫だと。

立ち上がり、そして懐かしい、今はもう存在しない草むらから歩き出す。一度も、振り返ることは無かった。

闇の中に入るが、怖くは無い。大人なのだから。多少の闇ぐらいは、いつも経験している。

それくらいで恐れていては、社会では生きていけない。

気付くと、ベットに転がっていた。

身を起こすと、とても爽やかな気分である。ここのところ、夜遅くまで作業をしていたからかも知れない。

伸びをして、目を覚ます。

今日は、戦いの日だ。

だから、気合いを入れなければならない。

 

睦美が学校に復帰してから半年ほど。

既に季節は真冬になっていた。ちょっと忙しい時期である。

会社には、しっかり有給を申請してある。この時期には有休を取る人間も少なくないので、別に不自然では無い。

もっとも、ばれたところで、今更どうとは思わないが。

睦美のサークルからは一人が抜けた。

代わりに二人入った。

夏子と千隼である。

大学時代に、サークルを解散して以来。大形のイベントに参加するのは、実に数年ぶりだ。

再開発地区にある大きなイベント会場に、早朝から出向く。

サークルで参加する人間は、早くから中に入ることが出来る。とはいっても、挨拶回りをしたり、準備をしたりで忙しい。一回参加を見送ったとは言え、それでも睦美のサークルはかなりの人気だ。今回は壁際では無いが、それでもそれなりに良い場所をもらう事が出来た。

夏子自身は、スポンサー兼黒幕だ。資金面での援助は実施するが、何しろ会社があるので、サークルの運営方針そのものにはそれほど口出ししない。その代わり、出来てきた同人誌には目を通して、細かい部分での修正などについて口出しをすることにした。

面白い話で、客観的にこういうことを出来る人間が出ると、創作物はぐっと良くなるものなのだ。売り上げを気にしなくて良い立場であるのが、かえって良いらしい。まあ、中には売り上げることを目的に同人誌をやっている連中もいるが、そういうのは別の人種だと思ってやり過ごすようにしている。

こういう作業をするようになると、今まで離れていたサブカルチャーにも、また触れるようになる。

小説も漫画も、前よりずっと面白く読めるようになった。主にメールでのやりとりだでだが、放映中のアニメについても、睦美や他のサークルメンバーと話すようになった。

恵子にも頼まれている。

睦美をよろしくと。

あまりサークルには参加したがらない千隼も、ホームページや、ネットセキュリティ、後は通販などの方で、力を貸してくれることになった。自宅にある余ったサーバを使って、ホームページを立ててくれたのはありがたい。

素人が悪さできるレベルでは無い、非常に堅牢な代物なのが、また頼もしい話であった。

朝早くから出かけて、現地でメンバーと合流。

わいわいと準備をするのを横目に、状況をチェックする。その後、挨拶回りに行くべく、他のメンバーに声を掛けた。

社会人二人に他は高校生という、ちょっと変わったサークルだが。だが、それでも受け入れられるのが此処だ。

色々と閉鎖的な部分はある。

だが、それでも、現在の新しい祭りとも言えるこの場所が、そういえばとても懐かしい。

どうして離れていたのだろうとも思う。

卒業という言葉と社会的風潮に、どうしても悩まされていた時期が、ある意味でばかばかしくあった。

社会人なら。

余計に、好きなものは好きだと、主張するべきだったのだ。

それが許されない社会の方がおかしいのだと、はっきり言うべきだったのだ。

社会の風潮が問題なら、賛同者を増やしていけば良い。

そうすれば、いずれ社会の風潮など、逆転するのである。

そもそも、「サブ」カルチャーなどという言い方自体がおかしい。映画も音楽も、歌舞伎も浄瑠璃も、昔はそうだったのだ。

それが今では立派に社会で居場所を確保している。

ビートルズも、昔は退廃文化の象徴などと言われて、激しい差別を受けていた。現在、サブカルチャーを叩いている世代は、その差別を受けて、悲しんだ筈なのに、どうして同じ事を繰り返しているのだろう。

世界でも随一のクオリティを誇る日本の「サブ」カルチャーを、当の日本人自体が認めていないことを、どこまでおかしいと思わなければならない。誰も言わないのなら、夏子が言うまでだ。

というよりも、大人が率先して、おかしいことはおかしいと言っていかなければならないのである。

挨拶回りを済ませる。

まるで引率の先生ですねと言われたので、笑みのまま、夏子は言い返した。今では、それが誇りになっている。

「まだまだこの子らを教育する人間が必要ですから」

「頼もしいねー」

「いえ、それほどでも」

頭を下げると、サークル席に戻る。

多少腰を低くしても、コネを増やしておいて損は無い。いざというとき情報が早く得られるし、人脈は結構役に立つのだ。

こういう所に来る人は、同級生だけでサークルを作るのではない。ネットで知り合った赤の他人や、場合によっては家族と一緒に来ている場合もある。いずれも共通している事が一つだけ。それ以外は、殆ど接点が無い事も多い。

皆、此処では。

「サブ」カルチャーを楽しんでいるのだ。

祭りが開始される。

どっと一般参加客がなだれ込んできた。

日本のどこの祭りよりも強烈な熱気が、辺りに充満した。「好き」が、熱気に代わって、此処には存在している。

 

夕方、祭りが終わる。

睦美のサークルは、一日だけの参加だ。夏子自身は他の日も出ようと思っているが、とりあえずこれで打ち上げとなる。

千隼は結局来なかったが、それは別に構わない。

裏方で働く人間がいてもいい。他のサークルメンバーにもそのことは伝えてある。子供達が居酒屋に突入したりしないように見張る役割も、夏子にはあった。

変なところで、言いがかりを付ける隙を作ってはならないのだ。

もっとも、あまり引率が厳しくても、息苦しくなる。適度に手綱を引くことが重要であったが。

「今日、凄く売れましたね! 次回は壁ですよ!」

「そうだね。 でも、次に品質を上げられなければ、客は逃げてくよ」

「分かってます!」

きゃいきゃいとかしましいサークルのメンバー達に軽く釘を刺すと、電車で何駅か移動する。

駅に降りると、不意にカメラを向けられた。目立つ容姿の睦美に、目をつけていたのは明らかだ。

多分、イベント帰りの人間を待ち伏せしていたどこぞのテレビ局だろう。こういう連中が、自分たちを人間だと思っていないことを、夏子はよく知っている。珍獣でも映しているつもりなのだろう。

睦美を後ろにかくまう。他のメンバーも、さっと夏子の後ろに隠れた。それを見て、カメラマンの口元が、嬉しそうに歪む。

弱者を見た時の、ゲスの反応である。

何か軽口を叩こうとしたリポーターらしき茶髪の男に、夏子は出来るだけ冷え切った声で言う。

「撮るな、恥知らず!」

「あ?」

「あまりわたし達を舐めるなよ。 くだらない番組ばかり作って、それで視聴率が取れないのを他人のせいにしてる低脳が! とっとと帰れ! お前達に映させてやるものなんか、何一つ無い!」

そうだそうだと、周囲から声が上がった。

多分、周囲にも取材と称して絡みまくっていたのだろう。同じくイベント帰りの者達が、殺気だって集まってきた。

すぐに周囲には人垣が出来た。数はこういうとき、暴力的なまでの威圧感を作り出す。腰が引けたカメラマンと茶髪は、真っ青になった。実際、もう少し周囲が過熱したら、凄惨な集団リンチが始まっただろう。

捨て台詞を残し、泡を食って逃げ出す阿呆を見送る。

これでいい。

もしも何かテレビに映すようなら、スポンサーに抗議を入れるだけだ。それが一番効果がある。

周囲から拍手が起こる。ちょっと気分が良かった。

睦美が、ちょっと困惑気味に言った。手首の傷は、もう殆ど目立たないほどに消えていた。

「凄いですね、夏子姉さん」

「いや、本当は社会人がこうやって行動しなきゃいけなかったんだよ。 それをみんなでさぼってたから、あんな連中が好き勝手をやるようになったの。 何だか、惰眠をむさぼってたみたいだなあ」

ちょっと自分に呆れてしまう。

社会に同調し、卒業などと言っている内に、牙まで抜かれてしまっていたようだ。

もっと戦闘的に心身を整えて行く。

それが大人のつとめだ。

そうして、子供達に、次を伝えていく。

「何だか、夢を見てたみたいだわ」

「夢、ですか」

「そう。 卒業なんて言って、自分が好きなものに蓋をして、周囲に迎合している内に、何だか夢の世界に入ってたみたい。 でも、もう大丈夫」

大人が、大人だからこそ。

何が好きだと、はっきり言わなければならない。

そうでなければ、社会は衰弱していくばかりなのだ。

駅を出る。

既に外は真っ暗だった。この辺りにホテルを取っているので、今日は其処に泊まることになる。

「さて、次の同人誌の打ち合わせ、しようか」

引率している子供達に、夏子は言う。

それは、とても楽しい作業なのだから。

ある意味夏子は、「常識」が作り出している固定観念という檻から、卒業できたのかも知れなかった。

 

(終)