歌と祭りと小さな命

 

序、神の歌声

 

地平の果てまでも山が連なるその地方にも、朝は変わらずやってくる。

山向こうからせり上がってくる太陽が、漆黒一色だった世界に色彩を与えて、鳥たちが鳴き出すと。カレンの仕事が始まる。この周辺に三十五ほど存在している集落は、皆カレンの歌声を生活の基幹にしているのだ。合計した住民は一万弱。カレンはその全員を把握している。

山頂にある小さな丸木小屋で、一人暮らししているカレンは、陽の光が差し込むのと同時に目を覚ましていた。ずっと習慣になっているから、寝坊することはない。麻の粗末な布団を退けて大きく伸びをしたカレンは、寝ぼけ眼を擦りながら表に出て、冷たい水で顔を洗う。手があかぎれするほど冷たいが、これももう慣れた。カレンの仕事は一つだけ。生活物資は、周辺の村人達が交代で届けてくれている。それを考えると、仕事をさぼる訳にはいかない。代わりになる人材もいないのだ。

霜を踏みながら、外に出る。山頂の春は遅い。冬は早い。だから、基本的に少し先の季節の事を考えながら、生活するようにしている。

農作業で鍛えていないから、手足は細い。大型の猛獣がいないこの山でなければ、とても生きていくことが出来ないほどに、脆弱な体だ。肌も都会の人間のようだと言われるほどに綺麗だと言われる。長いプラチナブロンドもそれ以上に美しいと良く言われるが、実感はない。比較する対象がいないからだ。村の者達の肌は、労働の結果焼けたものであり、それはそれで美しいとカレンは思っている。短く切りそろえた髪にも、それなりの美があるとも。あるいは都会に出れば比較が出来るのかも知れないが、それは不可能だ。

カレンはこの山から出ることが出来ない。許されていないし、それに第一、カレンがいないと皆が困るのだ。

この山頂では、遮る木もなければ、井戸もない。小屋の側に立ったカレンの影が、山の下の方まで伸びていく。太陽は、この地方で一番高い所に立っているカレンに、惜しみなくその強すぎる光を浴びせていた。眩しい。

井戸はないから、水はくみ置き。麓の住民達が、交代で持ってきてくれる。それを生活用に使う。大きな桶は物陰にあって、蓋をどかすと、ひんやりと冷気が漂ってきた。

手錫で汲んだ冷たい水で喉を潤す。顔を洗ってさっぱりすると、小屋に戻る。朽ちかけている小さな戸棚から取り出したのは、西のハゼ山で取れると聞かされたアシュの実だ。小ぶりで、枝に沿って連なってなるこの赤い実は、小指の爪ほどしかない小さなもので、乾燥させてから食べる。

蜜漬けにしてなおもつんと痛烈な刺激のある実で、何の栄養もないのだが、喉の腫れを引かせて、声を良くする効果がある、と言われている。だから、カレンはこれを毎日服用している。一度として、美味しいと思ったことはないが。それに効果がないことも知っている。それでも服用するのは、誠意からだ。

これで、やっと準備が整った。

日時計が表にはおいてある。これも、村人達が、季節に合わせて調整してくれる。カレンは基本的に、自分では何もしない。料理も、炊事も、洗濯も、である。するのは、ただ歌うだけ。

それが、カレンの仕事。

他の誰にも変わることが出来ない、重要な。

梯子を使って、小屋の屋根に登る。其処は正真正銘、この近辺でもっとも高い所。寒いが、我慢する。これから十七回に渡って歌わなければならない。朝は誰よりも早く起き、寝るのは誰よりも遅い。

それが、この生活の代償だ。

ただ、苦に思った事は一度もない。

大きく息を吸い込むと、カレンは歌い始める。

ほどなく、村々にその美しい歌声が響き始めた。

 

1、山間の村

 

山頂から、澄んだ歌声が聞こえてくると、何処の村でも一日が始まる。

山麓に点々とする村々では、全ての基準をカレンの歌に置いているのだ。

小作農をしているジコもその一人。十三才になったばかりの彼女は、既に生殖能力があり、大人として農作業に参加させてもらえる年である。去年の初頭までは、カレンの世話を交代でしていた。あの綺麗な歌声を間近で聞くのが楽しみの一つだったのだが、それはもう仕方がない。

ぞろぞろと、農作業に出る者達が、家から出てくる。ジコも両親と共に外に出てきた。麻の下着の上に、羊のなめし革を着込んだジコは、それでも少し肌寒くて己の肩を掴んでいた。これはそろそろ、最下層品質の羊皮で造った、上着を出さなければならないかも知れない。

カレンの歌声は雲雀よりも澄んでいて、猛禽のものより遠くに届く。目を覚ます効果も強く、外で歌を聴いている内に、すっかり頭は覚醒していた。

難しい歌詞もあるが、内容は何とか理解できる。

「春、我はただそこにあり。 木々は我の使い、動物たちは我の僕。 明かりは暗く、山は騒がしい。 小川の潺さえも、何処か浮かれていて」

今日は春歌らしい。春歌というと、生命を謳歌するような内容が多いが、これは神の視点に立った歌であり、この辺りの村々を実質的に動かしているカレンに相応しい内容だとも言えた。

カレンは気分次第で、歌う内容を変える。今日も別に春ではないのである。レパートリーは三千を超えているという話で、同じ歌を聴くことは滅多に出来ない。家から出てきた村人達が、しばし手を止めて、歌に聴き入る。老人達は皺が伸びるようだと言うし、若者達は精気をみなぎらせる。ジコも年頃だから、カレンの歌声を聞いた後、夫婦や恋人が揃って人気のない場所に姿を消すことが多いことくらい知っている。

「春を湛えよ。 春は、偉大なり」

最後の一節が流れ落ちると、皆手を動かし始める。大人達は山羊追いと、畑の世話に出て行く。大人になっているとはいえ、まだ農民としては見習いのジコは、他の小作農達と一緒に、地主の指示を受けに行くことになる。今日も嫌なことはたくさんあるだろうが、しかしカレンの歌を聴くとがんばれる。

早速、地主の所へ向かう。そういえば、今日はバルカスの当番だ。ちょっとうんざりするが、カレンの歌を思い出して、気力を奮い立たせる。

地主の息子のバルカスは体格が大きく、乱暴なので、小作農皆に嫌われている。しかも指示がいい加減な上に分かりづらく、その上すぐ暴力を振るう。地主であることを鼻に掛けている嫌な奴なのに、土地をたくさん持っているという理由で、この村での発言権は大きく、誰もが辟易していた。彼が村長になったら、この村は潰れるのではないかとさえ、小作農達は噂していた。

他の小作農達と連れ立ち、今日は面倒そうだねと言い合いながら、地主の所に辿り着いた。既に半分くらいは集まっていて、最後に外れにいるキラル爺さんが来ると、バルカスが出てきた。周囲がざわつく。どういう訳かは分からないが、都会で買ってきたらしい豪勢なチョッキを着込んでいたからだ。

「あー、今日は皆に伝えておくことがある」

ふんぞり返ったバルカスは、滑稽なほどに格好を付けていた。元々顔の造作は猪と熊を足して二で割ったようなものなのだ。それが格好を付けた所で、結果など知れている。ジコも失笑をこらえるのに苦労した。

「今日は、帝国の役人が視察に来る。 基本的に周辺の総合的な視察だそうだが、その途中でこの村を通られるそうなのだ。 くれぐれも、失礼がないように」

帝国の、役人と来たか。これは少し驚いた。

帝国と言えば、この村ももちろん所属している大国家だ。噂によると、日が照らす範囲を全て領土にしているとか。それが本当だとすると、この世の殆どを支配していると言うことになる。とんでもない存在である。

役人は今までジコも何度か見たことがあるが、いずれもえらそうで、不愉快な奴らばかりだった。小作農なんて人間だと思っていないことが丸わかりで、理不尽な暴力を振るわれたことも珍しくない。バルカスにしてみれば、媚びを売っておけば将来に有利だと思っているのだろう。全く、冗談ではない。

延々と意味のない話をくどくどした後、バルカスはようやく仕事を割り振った。ジコの今日の仕事は、北側の畑の雑草取りである。彼方此方擦り切れている布手袋を渡されるが、ジコの手よりだいぶ大きかった。今日の仕事も、難儀しそうだ。

仕事の開始を告げるカレンの歌が聞こえるまでには、まだ時間がある。だから気晴らしをしようと思って、村の北側にある井戸に向かう。近くに小川のある其処では、小作農達が集まって話をすることが許されていた。この村の六割が小作農なのである。もし全員が結託して反抗してきたら抵抗できないことを、地主達も知っている。だから、此処にはいることはないし、何を喋っても良いことになっていた。

同じ年頃の小作人であるリリを見つけたので、手を振って声を掛ける。小作人と言っても、年代や性別でずいぶんとグループが別れてくる。幾つかある井戸で集まる傾向が決まっており、別の井戸に行くと裏切り者呼ばわりされることさえもある。リリはジコに気付くと、顔を上げて手を振り返す。

リリはジコより少し背が低く、肌がちょっと浅黒い。そばかすを気にしているのだが、ジコに比べれば随分と可愛らしい娘だ。少し無駄話をした後、やはり会話として選択されたのは。役人に関することだった。

「今日、役人が来るらしいね」

「いやだよね。 出来れば来る前に帰って欲しいのに」

リリは大人しい性格をしているが、発言は過激である。名言も多く、今もまた楽しいことを言ってくれた。頷きながら、相手の容姿に触れる。

「また太ってる人かな。 それとも、凄く大きいのかな」

「殴るのだけはやめて欲しいよね」

あれこれ、想像を巡らせるが。あまり明るい期待は湧いてこなかった。無駄話をしていると、あっという間に時間は過ぎていく。気がつくと、カレンの歌声が聞こえ始めていた。今度は雪が溶ける事を歌い上げた、より清らかなイメージのある春歌だ。基本的にカレンは気分次第で適当に歌っているのに、時間に合わせた作業をしたくなるのは不思議である。井戸端会議が強制的に中断し、一斉に皆が動き出す。そして、仕事が始まった。

リリとは職場も違う。途中で別れて、後は一人で北の畑に向かった。

役人が来るのは、昼だという。食事の前までに、ある程度雑草取りをすませておかなければならない。もしも仕事の効率が悪いと思われたら、バルカスに何をされるか分からないからだ。

最近、バルカスがいやらしい目でジコを見るようになってきている。冗談じゃない。地主にしてみれば、小作人など人間ではない。散々好きなようにされた後、しゃぶった後の骨付き肉のように捨てられるのが落ちだ。

地主の息子に恋をした結果、ポイ捨てられた小作人の事を、何人もジコは知っている。地主も役人も、ジコにとっては敵だ。

カレンの歌が終わると、仕事が始まる。

嫌な気分も、カレンの歌がいやしてくれる。仕事への意欲を生み出してくれる。

中腰で、草むしりをするのは、結構体力がいる。途中何度か休みながらも、せっせと草を抜いた。隣を、肥桶を運んだギド爺さんが通り過ぎていく。そろそろ年齢的に限界なのだが、バルカスに老人を労るなどと言う発想はない。ギド爺さんの所の、テナばあさんも、そうやって使い殺しにされたのだ。

腰が痛くなってきた。雑草の中には、根を抜かないとすぐに生えてくる奴も多いので、面倒だ。しかも引っこ抜いた雑草は刻んで肥桶に入れておいて、後で肥料として使うのだ。抜くだけではなくて、畑の脇に集めておかなければならず、それがまた作業としての手間を増やす。

何度も畑の脇を行ったり来たりする。耕している鍬の音が、ざくり、ざくりと均一に響いている。この辺りの畑も、何年か前は石だらけの荒れ地だったのを、丁寧に石を取り除き、肥を与えて、此処までにしたのだ。小作人達の、血と汗が滲んでいるのである。ジコも、重い小石を手押し車で村はずれの小川にまで捨てに行った。何度も、何度も。手は擦り切れて、血だらけになった。鞭を振るわれながら、必死に畑を作ったのだ。そして得られた報酬は、ただ日々の糧。

それをお金を持っているからと言って、好き勝手にしているバルカスは許せない。あいつが、この畑に何をした。

まだ、カレンの声は聞こえてこない。

仕事をしている時は、徐々に意欲が落ちていくのが、よく分かる。

肥を撒き終わったギド爺さんが、畑の脇の石に腰掛けて、手ぬぐいではげ上がった額を拭き始めた。そういえば、今日はギド爺さんがカレンの所に野菜を届けに行く日だ。料理は隣村の担当だから、少し手間は小さいが、それでも山の頂上まで登らなければならないのが大変だ。

この時期に採れる野菜はないから、新鮮なものではなく、燻製にしたものを持っていく。塩辛くてそのままでは食べられないから、その場で料理するのだ。カレンは美味しいと表情で伝えてくれる。それが嬉しかった記憶が、ジコにはある。

カレンの歌声を聞きたいなと思った時である。

馬の蹄の音がした。

小作人達が、こっそり伺う先に、それはいた。護衛らしい何名かの兵士達。それと、馬に乗った役人。

驚いたことに、妙齢の女だ。すらりと背が高く、長く伸びた髪は綺麗で、妖艶な大人の魅力を全身から放っている。出る所は出て、へこむ所はへこむ。まるで村の片隅にある、神様の像みたいな体型だ。あんな体をしている女が実在するとは、驚きだ。

見ほれると言うよりも、呆れてしまった。一体何を食べて育てばああなるのか。あの役人は都会から来て、さぞや良いものを食べているのだろう。鼻の下を伸ばしまくったバルカスが、へこへこしている。必死に媚びを売っているのが見え見えだが、役人は相手にもしていないようで、兵士が応対していた。

小作人達が、顔を逸らして失笑しているのが分かった。いつも威張り散らしているバルカスの、あまりにも無様な姿は、恐らく今後も語りぐさになっていくことだろう。いい気味である。

さっさと草取りに戻る。冷や汗を流しながら、恫喝的に今夜の寝床の確保を求める兵士に応じているバルカスの姿だけで、ジコにはお腹いっぱいだ。数日は気分良く過ごせることだろう。役人は嫌いだが、バルカスの悲惨な姿を見ることが出来ただけで、今は充分である。

摘んだ草を、畑の脇まで持っていく。酷い臭いがするのは、肥と草の臭いが混じり合っているからだ。

ふと、顔を上げると、役人が此方を見ているのに気付いた。兵士が近付いてくる。側に立たれると、まるで壁が出来たかのようだ。既に中年だが、鎧はとても分厚く、鍛え抜かれた体力と腕力が、側に立っているだけでも伺えた。

ただの兵士ではない。多分、騎士とか、そういう上流階級に位置する兵士なのだろう。そうなると、あの役人は、想像していたよりもずっとえらいと言うことになるのではないか。

「お前は、此処で働いている小作人だな。 名前は」

「ジコ、です」

「そうか。 イジネエフ殿が話をお聞きになりたいと言っておられる。 格好などは気にしなくて良いから、失礼だけはないようにな」

頷くと、歩き出す。馬から役人が下りるのが見えた。複雑に編み上げている髪が、とても良く手入れされているのがよく分かる。それに、服の細かい作りやら、履いている靴の綺麗なこととか。

とにかく、何もかもが、違うのだと分かった。

来ている服は、三枚重ね。一番上に着ているのは、多分羊毛の最上級品。きらきらと陽光を反射しているほどだ。その下には黒い絹を着込んでいて、これもまたため息をつくほど美しい。一番下にちらりと見えるのは、鮮やかな赤い色彩の服。此方の素材は、何だかよく分からない。

後ろで、バルカスが恐縮して頭を下げているのが見えた。あの兵士が、彼方此方の小作人達に声を掛けているのが見える。ジコだけを呼んだのではなくて、他の小作人達も、皆声を掛けられているらしい。

「初めまして。 私は帝都から来た監査上級役人、イジネエフ=キリューシカ。 貴方の名前は?」

「ジコ、です」

「そう。 ジコ、早速話を聞かせて貰いたいのだけど、良いかしら?」

「良いですけど、あまり長いのは困ります。 仕事が遅れますから」

へえと呟くと、イジネエフはちらりとバルカスを見た。話があると、兵士が蒼白になったバルカスを連れて行く。面倒だなあとジコは思った。今は役人が叱ってくれるかも知れないが、この人も、村にいつまでもいる訳ではないのだ。いなくなったら、バルカスは仕返しをするに決まっている。

「心配しなくても、今年から毎年私はこの村に来るわ。 場合によっては地主の一人や二人、財産を取り上げることもたやすい。 何も恐れることはないから、心配しないで何事も話しなさい」

そう笑顔を保ったままイジネエフは言う。ジコも釣られて笑うが、笑みが何処か引きつるのを感じた。

この人には。何か、黒いものを感じてしまう。

優しい言葉を掛けられているはずなのに。カレンから感じるような、温かい慈悲や慈愛をまるでおぼえないのだ。

今の「善行」も、目的のための手段としてしか考えていないのではないのか。そんな気がする。カレンと比べてしまうからだろう。

偏見はいけない。そう思って、頭を切り換える。何も、この人が悪意に満ちているという訳でもないだろうし、今は此方の利益になることをしてくれたのだ。少なくとも、その分の礼はしなくてはなるまい。

「それで、お話とは、なんでしょうか」

「この山の頂にいる、「歌姫」の事なのだけれど」

「カレンの事ですか?」

「あら、知っているの?」

やはり、舌をちらつかせる大蛇の側で話しているような錯覚を覚えてしまう。くすくすと笑うこの人は、確実に知っている。小作人達が、カレンの世話を共同で行っていることを。村長達でさえ、成人前と老後にはカレンの世話をする。この周辺の村々で、カレンに接したことのない村人などいはしないのだ。

そのまま、色々聞かれた。カレンの髪の色や、肌の色。性格。それに、どんな事を喜ぶのか、嫌がるのか。それを側にいた兵士達が、丁寧にメモをしていく。一通り質問が終わると、満足したらしく、役人は頷いた。

「ありがとう。 これは手間賃よ」

そうやって渡されたのは、見たこともない葉に包まれた、食べ物だった。

次の小作人が呼ばれる。役人は的確かつ、効率的に情報を聞き出している。恐ろしいほどの手際だ。

農作業が終わってから開けてみると、少し堅いお菓子だった。土のような色で、壁のような触感。ちょっと口に入れるには抵抗があったが、いざ食べてみると。途轍もなく甘くて、もの凄く美味しい。

お祝いの時に振る舞われる蘇を一番甘い食べ物だと思っていたが、それよりもずっと美味しいし甘い。

文字通り、溶けるようだった。

昼の仕事が終わり、井戸端会議の時間が始まると、当然菓子の話になった。小作人達は皆菓子を貰っているらしく、美味しかった、また食べたいと話していた。ジコも同感だとは思ったが。

しかし、何だかとてもリスクが高い話のような気がしていた。

こんな美味しいお菓子を、ただでくれる訳がない。村からお金を絞るだけいつも絞っていく役人達が、である。

何か、とてもいやな予感がする。

カレンに何か起こらなければいいのだけれどと、ジコは思った。

口の中には、何時までもお菓子の味が残っていた。

それは、昼食の支給麦飯を食べても、消えなかった。

 

2、歌祭りと悲喜こもごも

 

役人は昼前に村長宅に引き上げてしまい、真っ青になったバルカスがその場に残されていた。昼前は何だかんだで仕事にならなかったが、あまり無理に遅れを取り戻さなくても良いと村長から直々に言われている。だから、小作人達も、皆少し気楽な表情であった。

いつもはトンチキな指示ばかりをして皆を困らせるバルカスも、真っ青な顔のまま、一言も発しない。だから午後の仕事はとてもはかどった。結局遅れはすぐに取り戻すことが出来た。カレンの歌が聞こえてくるまで、気力が保ったのはこれが初めてであった。いつもはどこかで集中力が切れるし、やる気が飛んでいってしまうこともある。

他の小作人達も、同じ事を考えているようだ。

カレンの歌声が聞こえてきた。仕事は、これで終わりだ。

「舞い散る雪は、我が友よ。 寄らば離れ、離れは寄る。 暑い時には姿を見せず、寒い時ばかり舞い踊る。 ああ、我が友。 それは、決して温かいものにあらず。 だがそれがゆえ、汝は愛しき」

よく分からないが、友人以上恋人未満の男女の恋歌らしいと、ジコは聞いたことがある。まあ、あまり関係のない話だ。恋をすることも無さそうだし、した所で関係ない。小作人に、婚姻の自由など無いのだ。

井戸端に行って食事にする。今日は朝起きてから造っておいた麦飯だ。支給される昼食だけでは足りないので、基本的に午後に皆一食を入れる。もちろん給金代わりに払われるものの中から造るので、あまり多くは食べられない。麦飯は包んで握ってある。味がないと食べられたものではないので、何種かの木の実を入れて、味付けをしてある。これらの事は、村の娘なら誰でも出来る。ジコはちょっと苦手だが、それでも朝出る前に準備をすることくらい朝飯前だった。

麦飯握りをほおばっていると、リリが笑みを浮かべて近寄ってくる。何か楽しいことがあったのかも知れない。

「ジコ、あのねあのね」

「どうしたの?」

「今年の歌祭りの時に、私結婚するらしいの」

そういえば、そんな時期か。

年に一度、近くの村から年頃の男女を集めて、歌祭りという宴が開かれる。これに黄色い声をあげる女子は多いのだが。ジコには面倒くさい話だった。

基本的に婚約を結ぶ相手は決まっているし、覆すことも出来ない。掟だのなんだので、どんな男女も十五歳の頃には婚約者が決まる。小作人でもそうだし、地主になると産まれたらすぐに婚約者が決まるケースもある。

ジコの相手ももう決まっている。隣村に住む二歳年下の男で、成人していないため、まだ歌祭りには出てこない。生白い奴で、結婚して向こうの村に行くと思うと憂鬱だ。というのも、向こうの村に、この村出身の、同世代の女友達は一人も居ないからだ。

別に友達が近くにいた方が良いとか、そういう事ではない。

分かっているのだ。母を見て。

別の村から単独で来た女が、どれほどの孤独に晒されるか。ましてや小作人である。地主は此方を人間だとは思っていないし、そのストレスは小作人達に容赦なく降りかかる。それは立場が弱い人間に、どんどん蓄積していくのだ。

結局の所、歌祭りというのは、大人達による政治劇である。小作人も地主も結婚相手を決めるが、それにも複雑な利権や、見栄の張り合いが絡んでくる。釣り合いの取れた相手を、大人達が決める。それにより、何処の家は誰と釣り合いが取れているとか、どこより格が上だとか、そんな話が決まるのだ。生殖能力を得て大人になっても、婚姻するまでは、そういう駆け引きには参加させてもらえない。それは暗黙のルールである。

カレンの名前を使っているのは、単にそれに夢というスパイスをまぶすため。もっとも、そんなものにだまされる者など、誰一人いないが。

しかし、それらによって、実際に血を見ることなく事が収まるのも事実。動物は実際に殺し合わずに互いの力関係を把握するという話だが、人間もそれに近いことをしている訳だ。より複雑なやり方で。

そしていつしか社会を動かす年代になった時に。己の息子や娘に、まったく同じ事をする訳だ。

自分たちがどうだったかは忘れはてて。

リリは最近まで婚約者が決まらなかった。というのも、彼女の両親の相対的な力関係が極めて微妙であったからだ。

「私の婚約者ね、二つ隣の村の人らしいの。 四歳年上で、とても畑作業が上手なんだって」

「ふーん。 そう」

「優しくしてくれる人だと良いなあ」

リリのの話と、今まで他の人間から得た情報で既に相手は特定できているのだが。そう言って嬉しそうに笑っているリリには悪いが、彼女の婚約者の良くない噂を、既にジコは聞いている。何でも発作的に暴力を振るう癖があるらしく、兄弟とは血みどろの殴り合いをすることが多いそうだ。最初の頃は初々しい妻に優しくしてくれるかも知れないが、そんなのは三年もすれば飽きる。その後はどういう運命が待っているか、想像するのも嫌だ。

「面白そうな話ねえ。 私にも聞かせてもらえないかしら」

不意に、割り込んでくる声。さっと退く周囲で、誰が来たのかは分かった。

役人だ。さっきとは違い、毛皮を一枚減らし、若干軽装になっている。あの騎士らしい兵士も一緒にいる。

反射的に身を堅くするジコと違って、リリは恐怖を覚えたようだった。分かるような気がする。この人は綺麗だが、綺麗すぎて怖いのだ。しかも、その目は美しいようでいて、何もかもを見透かしているとしか思えない。それに、別の意味でも、多少不愉快であった。

此処からは、農民、特に小作農には自由時間だ。夜になれば作業は出来なくなる。暗いから、ではない。寒いから、だ。

他の場所はどうだか分からないが、この高地では、夜の寒さは時に容易に人の命を奪うのである。もちろん体力も高速で削り取られるし、家の中にて暖を取らなければ危ないのだ。

だから、こういう時間は貴重である。家族ではなく、友人同士で集まることが出来るのだから。

「さっきのお菓子、もう少しあげても良いわよ」

そういうと、リリは目を輝かせる。無理もない。あんなお菓子、今まで食べたこともない味だった。早速着いてきた兵士がメモ帳を拡げる。ジコも諦めて、つきあうことにした。

聞き出されたのは、歌祭りについてである。

色々聞かれたが、よく分からない。村長達から話を聞けばいいような気がするのだが。リリに婚約者の話などを色々聞いていたイジネエフだが、やがてジコにも笑顔を向けてきた。

「ひょっとして、何でこんな事を聞くのだろうとか、思っているのかしら?」

「失礼ならすみません。 でも、そうです」

「ふふふ、そうよね。 丁度少し暇だし、私の仕事について話しておこうかしら」

「農村を回って、お金を集める事じゃないんですか?」

それは別の役人の仕事だと、イジネエフは言う。この時、初めてこの端正な顔を持つ妖艶な女の顔に、不快感から来る歪み露出した。元の造作が整っているだけに、僅かな負の感情が露出しただけでも怖い。だが、歪みはすぐに消える。

表情を整え直したイジネエフは、相変わらず神様の像か何かのような、よそ行きの笑顔のまま言う。リリは彼女の微妙かつ大きな変化に、終始気付いていないようだった。

「民俗学って知っているかしら?」

「みんぞくがく? 知りません」

「ふふふ、そうでしょうね。 田舎では、関係のない学問に、触れる機会はないものね」

女は言う。

民俗学とは、各地の文化を調査することにより、歴史やその地域の生活との関係を調べていくというものだそうだ。いまいちよく分からないが、それがカレンに対する調査と何か関係しているのだろうか。

関係しているのだろう。それに、ある一つの可能性に、ジコは思い当たった。

「まさか、カレンをどこかへ連れて行くつもりですか?」

「いいえ。 この周辺の村が、あの娘によって成り立っていることは調査済みよ。 だから、そんな事はしないわ。 私はね、ふふふふ、帝国の役人なの。 帝国に不利益になるようなことは、私自身の首を絞めるのと同じ事なのよ」

信じられることではない。

この寒村にも、人買いは来る。多すぎる人間を間引くことは、ただでさえ少ない食料を節約する事につながる。敢えて病気の人間を、治療せずに放棄することもある。もちろん、出来た子供が生まれた時に間引いてしまうこともある。

人間は、欲望をコントロールできない生き物だ。その歪みは、弱い方へと押しつけられていく。

そして、寒村で、一番弱いのは。

ジコはそう思ったが、敢えて何も言わなかった。表情も出来るだけ動かさないようにした。

イジネエフが咳払いをする。歌祭りについての話をせがまれたので、リリが話し始めた。それを、静かに聞く。

「歌祭りは、私達みたいな、大人になったばかりの男女が集まるお祭りです。 そこで、結婚相手を、村の人達に発表するんです」

「なるほど、周辺の村が集まっての、公式な婚姻行事という訳ね。 同じ村の人間同士で結婚することはないの?」

「それはやってはいけない事だとされています。 時々そうやって浮気する人が出ますけど、それがばれると、夫婦揃って追放されるんです」

小作人の場合はと、内心でジコが付け加えた。地主の場合は、殆どもみ消されてしまう。事実、バルカスはあまり容姿が良くない妻との仲が冷え切っていて、浮気を繰り返しているという話である。それなのに、追放される気配もない。良くしたもので、バルカスの妻も浮気を繰り返し、若い男を寝床に引き込んでは口止め料を渡しているそうだ。

リリはそう言う話を知らない。いつもにこにこ温かい笑顔を浮かべている彼女には、周囲も務めてそういう話をしないようにしているのだ。

「それで、どうして歌祭りなのかしら」

「それは、カレンが一年に一度、とても良い声で歌ってくれる日があるから。 その日に合わせて行われる祭りだから、です」

「興味深いわ。 続けてくれるかしら」

その日は、カレンにとって特別な日なのかも知れない。少なくとも、ジコの記憶にあるカレンは、ずっと嬉しそうにしていた。そして、その日の歌を聴くと、体がぽっぽと熱くなるのだ。よく分からないけれど、恋をすると陥る、体の火照りという奴なのかも知れない。

カレンによって、寝る前に歌われる歌にも、似たような効果はある。だが、それよりもずっと強いのだ。実際、歌祭りから帰ってきて、正式に夫婦になった男女は。許嫁の間どれほど冷え切った関係であっても。妙にべたべたしている事が多くて、気味が悪いとさえ感じたこともある。

リリは夢に溢れた言葉を語っているが、ジコは其処まで無垢にはなれない。やがて、ジコにもまるで同じ質問が振られたので、出来るだけリリの答えに沿って言葉を返していく。大まじめに、後ろの兵士はそれをメモに取っていた。

「どうして同じ質問をするのかと思っている?」

「思っています」

「それはね。 人間が変わると、視線も異なるから。 地位、立場、性別、年齢。 いずれもが、人間の目に歪みと差をつけるの。 ふふふ、面白いでしょう」

「よく、分かりません」

そう素っ気なく応える。だが、それについては、ジコもよく分かった。

そして、ちょっと興味を感じていた。

民俗学というものについては、未だによく分からない。しかし、一つ分かったことがある。

それがこの役人にとって、何かしらの利益があるということ。恐らくこの女にとって、カレンと、周囲の村の仕組みが分かると、何かとても有利なことが生じるのだろう。帝国の首都は、この周辺の村全てを合わせたよりも大きいとか聞いている。帝国の領地は、陽が昇って沈むまで、あらゆる所まで及んでいるとか言う。そんな国の利益になると言うのが、どういう事かはよく分からない。

だが、こんな頭が良い女を派遣してくると言うことは。きっと、何か凄く大きな意味があるのだろう。

「それで、貴方はカレンをどう思っているの?」

「大好きです」

即答していた。まずいかと思ったが、しかし言葉は変えなかった。事実だからだ。カレンを守るためなら、死んだって構わない。

何故か女は満面の笑顔を浮かべると、リリとジコに、さっきの何倍もお菓子をくれた。周囲の小作人達が、お菓子を幸せそうに頬張るリリを、羨ましそうに見つめていた。女が身を翻そうとした時。家に帰るように告げる、カレンの歌声が聞こえてきた。

「ああ、我が妻の名は闇。 何処にでも待ち、何処ででも現れるそのものの名前は、静かなる闇。 ああ我妻よ、いとしき者よ。 汝は例え光の中にでもいて、我を見ているというのか。 闇よ、我が心の中に巣くう者よ。 我はただ、汝が愛おしい」

よく分からないが、熱烈な恋歌だと聞いたことがある。最近は声の艶とかが少しは分かるようになってきたが、強いそれを感じた。男の小作人達が、頬を上気させているのがわかる。妙齢の、夫を持つ女の小作人達も、だ。

「へえ、なるほどね」

イジネエフが呟く。その顔は、さっきよりも更に妖艶に見えた。

歌祭りが近い。家に戻ると、それを強く感じた。というのも、ジコが戻って来る前に何かを済ませていたらしい両親が、奥の方へジコを呼んだからである。弟を家の外に追いやると、まず父から口を開いた。

「お前の婚約者だが」

「まだ大人になってなかったはずよ。 歌祭りでの発表は、まだ先でしょう?」

「ああ、そうだな。 それとは別の件だ。 実は、実はな。 少し前に病気になったらしい」

さっと、顔が青ざめるのが分かった。

この田舎では、病気は致命的だ。ちょっとしたものでも、少し体調を崩すだけで、取り返しがつかないことになりやすい。伝染性の病気の場合は、下手をすると感染が発覚した時点で殺される場合もある。

都会では何でもないような病気でも、此処では悪魔の手に等しいのだ。

祈祷師はいるが、何の役にも立ちはしない。今までジコは十人以上が病気になるのを見てきたが。誰も奴の祈祷で助かりはしなかったのだ。

「ど、どうしよう」

「まだ、病気の内容については分かっていない。 だが、いざという場合は、婚約者を変えることになる可能性もある」

それは、確かに仕方がないことだ。

病気は命を奪うことも多いし、体が不自由になることも少なくない。こういう余裕がない小村で、障害を持つ人間は極めて生きるのが難しい。その上、ジコの婚約者は、体格が優れている方でもなく、器用でも頭が良いわけでもない。

役立たずは死ね。

それが、こういった貧しい世界の理論だ。もちろんジコもそれに晒されながら生きてきた。本当なら、一つ下の妹がいたはずなのだ。だが、誰も口にさえしない。墓さえもないのである。

「とにかく、今は様子が分からん。 場合によっては狩りになるかも知れないが、その時は覚悟しておけ」

「……」

あまり、興味のない奴ではあった。

無能だし、あまり仕事も出来ないし。優しいだけが取り柄で、背も自分より低いくらいで。

それなのに。病気だと聞くと、不意に不安になってきた。ひょっとしたら、最悪の死に方をするかと思うと。何だか、やるせなかった。

結局の所、ジコはあの子が婚約者で、満足していたのかも知れない。文句を言いつつも、他の子が羨ましいとは一度だって思わなかった。

狩り、か。それだけは避けたい。

多分そうなったら、自分も餌食になるだろうから。見捨ててはおけない。しかし、どうして良いのかも、よく分からなかった。

ふと、イジネエフの顔が思い浮かんだのは何故だろう。

そう言えば。奴は都会から来た。金もたくさん持っている。それに学者だとか言っていた。役人で学者。民俗学。それはつまり、色々なことに詳しいと言うことなのではないのか。

カレンの歌が聞こえてくる。ああ、そんな時間だと思った。寝床に潜り込む。明日があるのだ。何時までも起きてはいられない。

じりじりと、蝋燭が炎をともしている。この村は、蝋だけは豊富なのだ。蜂の巣はどういう訳か、彼方此方至る所にある。

弟は隣で既に白河夜船。両親も隣の部屋で盛っていたが、もう静かになっている。時々あれを聞いていると体が火照るのだが、今日は全くそんな事もなかった。

ジコはもう一度寝返りを打つと、どうにかしなければと思った。

ともかく、彼の病気を、しっかり見極めて。それからだった。

 

小作人が、余所の村に行くことは滅多にない。大人は時々足りない物資を交換するために、他の村を訪れることはあるが、基本的に子供はそう言うこともない。特に女の中には、嫁ぐ時にしか、村の外に出ない者もいる。幼い時は自分の村から出ず、嫁いでからはその先の村から出ず、というわけだ。

子供の時は、山頂のカレンの世話に赴く。だがこれに関しては、それぞれの村で非常に強固なルートが確保されていて、危険はまず無い。しかし山頂に入れるのは、子供と老人だけと決まっている。

だからジコが、婚約者のいる村に行くために、物資交換の隊商に混じると言い出した時は、両親も友達も皆驚いた。

事情を知っている両親は顔を見合わせていたが、友達は皆心配した。一つ、面白かったのは。丁度、同じ村にイジネエフが部下共々向かうと分かった事だ。妖艶な女学者は、乗騎もとても巧く、山道でもまるで危なげなく、美しい毛並みの黒馬を歩かせていた。

山賊だの盗賊だのはこの辺にはいない。大型の肉食獣もだ。

危険なのは、迷子になること。この辺りには、食べることが出来る生物など、殆どいないのである。植物も、だ。

枯れ果てた森の中は、倒木や枯れ木、それに食べることが出来ない木の実や、毒をもった小動物で溢れかえっている。直接的に自分を殺す相手はいないが、しかし死の危険がこれほど近い場所もそうそうはない。

それを隊商の人間から散々説明されたジコは、真剣に頭に叩き込んだ。婚約者の状態を知る事も大事だ。だがその前に、自分が死んでしまっては意味がないのである。それに。やっぱり今更ながらに悟るが、ジコは婚約者に不満を持っていなかったのだ。

今のところ好きだという感情は無いが、どうせあと何年かすれば歌祭りで婚約が発表されるのである。せめて嫌ではない相手と一緒になりたいではないか。そのためには。何かしら、自分で出来ることは、しっかりしておきたい。後悔しないためにも。

リリは近付く歌祭りが楽しみで仕方がないようで、逆にジコの事も心配でならないようだった。だが、それも今生の別れではない。大人達に混じって荷物を担ぐと、ジコは村を出た。

これでも農作業で鍛えているのだ。大した重荷ではない。

ふと気付くと、イジネエフが馬を寄せてきていた。丁度いい。話があったのだ。

「あら、奇遇ね。 この村の女は、殆ど外に出ることはないと聞いていたのだけれど」

「もう、事情は知っているんじゃないんですか?」

「あら、うふふ。 意外と鋭いわね」

「意外と、は余計です」

この学者先生は油断できない。温情やら慈しみやらも、期待するだけ時間の無駄だろう。だから。

取引を持ちかける。

取引のルールは、ジコも知っている。取引で必要になるのは、対価だ。普通は金銭が対価になる。もちろん取引相手が異性の場合は、自分の体を対価にする事も出来る。そして、取引次第で、価値は上下して、相手により有利な条件で取引を認めさせることも出来るのである。

これを覚えたのは、別の村から来た小作人と、父が服を取引していたのを横目で見た時だ。父はしたたかな相手に、かなりぼったくられた挙げ句、安い服を掴まされていた。今弟が着ている服がそれだ。ああはならないとあの時思ったジコは。状況を分析して、今の結論を見いだしたのである。

兎に角、取引をするのは、病状を診てからだ。それまでは、学者先生と余計な話はしない方が良い。

それに。村の外は、既に高山地帯なのだ。強力な冷気が辺りを満たしている上に、勾配もきつい。その上、路を一歩はずれると、深い森の中に一直線だ。そうなれば、生きては帰れない。

気を引き締めるジコに、くすくす笑いながら、学者先生が話し掛けてくる。

「この辺りの地形、かなり特殊なんだって、貴方知っていたかしら?」

「村の外は知りません」

「そうよね。 良いことを教えてあげる」

何かを教えると言うことは、一種の快感を伴うのだと、ジコは学んだことがある。自分がそうしたのではない。新しい知識を仕入れた奴が、それを他に見せびらかしている時。明らかに嬉しそうにしているのを、一度ならず見たからだ。

どうやらこのえらい学者先生でも、それは同じらしい。そう思うと、少しばかり微笑ましかった。

「普通この高度の山になると、もっと植生は貧しいものなのよ。 木は低木が基本になってくるし、こんな規模の森は出来ることもない。 動物も数が少なくなるし、何より普通は此処まで多くの人間が住んでいないのよ」

「それが、どうしたんですか?」

「今回の、私の調査目的がそれだといったら?」

どうもぴんと来ない。小首を傾げると、やはり学者先生はくすくすと笑った。

隣村までは、早朝から出て、たっぷり昼過ぎまで掛かる。流石に重い荷物を抱えてそれだけ歩くと、農作業で鍛えていても肩が凝った。早速大人達は取引をすべく、彼方此方に散る。荷物をひったくられるようにして取られた。病気の子供など、知ったことではないという訳だ。

事前に、婚約者の家については調べてある。村の中央部には地主達の大きな家が並んでいて、立地の悪い周辺部、特に日当たりの悪い場所に小作人達の家が林立している。その一角に。婚約者であるクルフの家がある。

学者先生が面白そうに背中を見つめているのに気付くが、放っておく。まっすぐにクルフの家に走った。

林立する小さな家。整備が行き届いていない畑。うちの村も貧しいが、こっちはそれ以上らしい。村長が有名などら息子だとかで、そろそろ長老会議で罷免しようという動きが出ているとか聞いているが、それも頷ける。

家から、機嫌が悪そうなクルフの父親が出てくる。それを見て、周囲の村人がさっと顔を背ける。クルフの父親は力が強いが乱暴で、性格も正反対である。逆に性格がそっくりなクルフの母親を良く殴っているらしいと、以前クルフと会った時に、聞かされたことがある。

禿頭の大男は血走った目で周囲を見回していたが、歩み寄って来るジコに気付くと、最初敵意剥き出しの視線を向けてきた。だが、すぐに、多少は棘を緩和してくる。

「なんだ、お前は確か、クルフの婚約者だったな」

「はい。 ジコです」

「クルフは寝ている。 熱が下がらん。 どうも移る病気ではないらしいがな」

「様子を見せて貰っても良いですか?」

顎でしゃくって、入れと親父は促す。

ジコの家よりも更に小さい。壁に貼られている防寒用の牛糞も、剥がれ落ちている部分が目立つ。この分だと、生活も更に苦しそうだ。何でも酒飲みだとか言う話だから、余計に出費がかさむのだろう。

ただ、彼の力は強いかも知れないが、大酒飲みはあまり長生きしない。多少我慢すれば良いことだと、ジコは割り切っている。冷酷なようだが、こういう厳しい環境で生きていく者の平均的な思考だ。特にジコが変わっている訳でもない。

奥の部屋に行く。

其処に、婚約者は寝ていた。

相変わらず小柄で、痩せている。顔は赤くて、熱があるのが一目で分かった。額に触れてみると、かなり熱い。髪の毛は濡れていて、無言でジコは外に飛び出すと、桶に水を入れて戻った。

布が乾いていたので、濡らして額に乗せる。そうすると、うっすらクルフが目を開いた。

「だれ?」

「ジコよ」

「あ、お姉ちゃん」

クルフは性格も幼い。婚約者だと分かっているはずなのに、ジコをお姉ちゃんなどと呼ぶ。もちろん血はつながっていない。もっと幼い頃に、カレンの世話をする場所で何度か顔を合わせて、その時になつかれたのだ。

いい加減名前で呼べと言っているのだが、なかなか治らない。だが、それが今は、不思議と安心させた。クルフはクルフのままだ。まだ、死んではいない。

体を起こそうとしたので、そのまま寝かせる。しばらく会っていなかったが、相変わらず細い体である。さっと部屋の様子を見回すが、ずいぶんとものが少ない。それに対して。部屋の隅に転がっている酒瓶は使い込まれている様子が丸わかりで、如何にそれが生活を圧迫しているかがよく分かった。

少し、体臭がある。この様子だと、あまり手入れをして貰っていないだろう。濡れたふきんで体を拭くだけでも、随分違うのだ。

「熱が出始めてから、何日くらい?」

「わかんない。 でも、もう四日くらいは経ってると思う。 お父さんがずっと機嫌悪くて、お母さんをまた殴って。 何も出来ないから、口惜しいよ」

熱っぽくて感情が激しやすいのか。クルフの目が潤んでいた。今は休んでいなさいと言うと、一端家を出る。クルフの親父は、地面に唾を吐きかけて、それを踏みにじっていた。狂犬みたいな目をしている。吐き捨てる言葉が、嫌でも耳に入ってきた。

「全く、こんな時期に熱出しやがって。 狩りにでも巻き込まれたらどうするつもりなんだよ、あのガキが」

一瞬殺意が鎌首をもたげるが、何とか抑える。

入り婿という手もあると、前は考えていた。しかし、この凶暴な親父を見ていると、それも無理だとはっきり分かる。そうなれば、残ったクルフの母に暴力が集中するのは目に見えているのだ。

それに、あの男だけならともかく。このままでは、クルフの母も、クルフ自身も、狩りに巻き込まれる可能性が高い。それだけは、絶対に避けなければならない。

咳払いすると、クルフの父はこっちをみた。話すのも嫌だが、ある程度聞き出しておかなければならないこともある。

「何だ。 用が済んだら帰れ。 乳繰り合おうにも、あの状況じゃ無理だろう」

唖然とする。何をほざくかこの男は。酒で脳がピンク色に溶けているのだろう。それに相手はまだ子供だろうにと言おうと思ったが、黙っておく。今の言葉からも分かるように、そもそも、会話が成立する相手ではない。

だから、情報だけ引き出して、終わりだ。

此処に嫁いだ時には、いずれ機会を見てこの親父を殺そうと、ジコは決めた。手なら幾らでもある。積極的に殺さなくても、早死にするようにし向けるのは、それほど難しくないのだ。

「クルフが熱を出したのは、何時でしたか?」

「あん? そんな事覚えてねえよ」

「夜だったとか、朝だったとか」

「……そういえば朝だったな。 少し寒くて、かかあの乳でも揉もうかって思って手伸ばしたら、あいつの額に触れてよ。 で、熱くて、飛び上がったってわけだ」

ひひひと笑う。

最悪だ。この腐れ野郎が。結婚したら、襲われることを警戒しなければならないだろう。文字通りの獣だ。

寒かった朝と言うと、三日前である。そうなると、その日の内に村を出た隊商が、ジコの親に情報を持ち込んだのだろう。不幸中の幸いだ。そして、咳はなくて、熱だけが出ている。変な発疹もない。

さっさとその場を離れる。こんな屑に構っている暇はない。今は一刻一秒が惜しいのである。

もし、病気に詳しいようなら、あの学者先生が何とか出来るかも知れない。学者先生に何とか出来なくても、その知人であれば。

協力を取り付ける手なら、ある。

多少卑怯だが、今は手段を選んでいられない。クルフの額の熱は、今でも掌にじんわりと残っている。もしこのまま病気が進展したら、死ぬ。死ななくても、殺される可能性も低くはない。

栄養状態も、看護の状況も最悪。あの様子から言って、クルフの父の代わりに、母が農作業をやらされているのだろう。まだ幼い子供がいるというのに、だ。吐き気がする。クルフとの婚約は、彼の母親との縁が切っ掛けになった。とはいえ、この無惨な境遇は何としたことだ。

ふと、背後に気配。

あの、女役人だった。

「あら、奇遇ねえ」

奇遇ではないことを、その笑みが如実に物語っていた。

この女は恐らく。全てを知っていた。そして、不快ではあるが。それならば、話が早いという事情もある。多分、カレンの詳しい話をするために、取引の材料にしようと思っているのだろうから。

「回りくどい話は無しにしましょう。 クルフの状況、知っていますね」

「あら、思ったよりも頭が良いみたいね。 その通りよ」

「それならば、取引をしましょう。 此方の条件は、クルフの病気に効くお薬か、治せる医者です。 その代わり、カレンに直接会って世話をしてきた時の話を、聞かせてあげます」

周囲に誰もいないことを見計らうと、にこりと女役人イジネエフは笑みを浮かべていた。まずは交渉成立だ。

それ以上の詳しい話をしようとした瞬間に、機先を制してイジネエフが言う。

「病状を聞かせてもらえるかしら」

「……熱を出したのは、三日前の寒い朝のこと。 それから微熱が続いています。 体に発疹は無し。 咳も出ていません。 鼻水や、瞳孔の濁り、喉の腫れなどもありません」

「ふうん、そうなると恐らくは一月咳ね」

背筋が寒くなった

一月咳。この周囲で、不治の病とされる恐怖の死病だ。

数日間微熱が続いた後、急に咳が出るようになる。そうなると最後で、一気に周囲に広がっていく。抵抗力のある大人はまだ良いが、子供が掛かると八割以上の確率で死ぬという。特に咳を浴びると、ほぼ確実に感染するとか。

そしてこれに掛かった人間は、問答無用で狩られる。

ここからが正念場だ。もし弱みを見せたら、一気に畳み掛けられる。この学者先生にしてみれば、クルフが生きようが死のうが知ったことではないのである。だが、クルフが死ぬようなことがあったら、情報を引き出せなくなると言うカードを此方が出せば、まだ交渉は可能だ。

「一応、同行しているメンバーには医師もいるから、彼に見せましょうね。 この辺りでは死病でも、帝都ではとっくに治療法が確立されている病よ。 適切な投薬と治療があれば、数日で完治させる事が出来るわ」

ただし、と女役人は区切る。

やはりこの女、相当に交渉し慣れている。此方の反応を的確に分析しながらカードを切っているのが、嫌と言うほどよく分かった。正直な話、とても勝てる気がしない。しかし、気圧されたら負けだ。

「此方の条件は二つ。 婚約者が関係ないにしても、歌祭りには出るのでしょう?」

「はい」

「その出来るだけ具体的な情報を、私に寄こしなさい。 何でも部外者は立ち入り禁止らしくてね。 行われる場所どころか、時期さえ教えてもらえなかったわ。 今出られるように交渉している所だけれど、保険が欲しいの。 いざというときのことを考えて、貴方には歌祭りの詳しい内容を聞いておきたくてね」

眼を細めたのは。恐らく、同様の情報提供者を複数抱えているという、無言での威圧だろう。

誰かが嘘をついてしまえば、情報は価値を亡くす。だから、それくらいの保険は打っておくのが当然だ。やはりこの女は相当に頭が切れる。くやしいが、ジコではとても勝てそうにない。

「もう一つの条件。 カレンに会うことは、私も禁止されてしまっているの。 だから、その詳細な情報をいただけるかしら。 どんな食べ物が好きで、どれくらいの年で、髪はどんな風な色をしていて。 そういった事から、細かい癖や仕草まで。 覚えている限り、出来るだけ丁寧にね。 それ以外のことを知っているのも、私は把握しているわ。 それを忘れないようにね」

「……」

それも、村の掟では、外部に漏らしてはならない事なのだ。

そもそも。カレンの世話は、生殖能力がない人間が行うことで、一致している。子供や老人ばかりが世話に駆り出されるのは、それが原因だ。それだけ周囲の村では、カレンを大事に考えているということだ。

だが、ジコに選択肢はない。

熱を出して寝込んでいる婚約者を見て、その思いは更に強くなっていた。死なせたくないのである。妹の悲惨な死に際を見たこともあるだろう。好きかと言われれば、分からないとしか応えようがないのが、難しい所ではあるのだが。

歌声が、聞こえてきた。この村での取引は、間もなく終わる。隊商に混じって、帰らなければならない。

しばし、複雑な言葉を巧みに使った歌に、眼を細めて聞き入っていたイジネエフだったが、それが終わるとすぐにしたたかで狡猾な表情を取り戻していた。

「私はこの村に数日間逗留して、その間医師にあの子を診させるわ。 まず確実になるでしょうけれど、治療には数日かかるわね。 それと、あの猿のような男も、変な手が出せないようにしておきましょう」

役人は、暴漢から身を守るために、護衛を付けられる。あの強そうな騎士であれば、クルフの父など、それこそ一ひねりだろう。訓練を受けた兵士に、単に喧嘩が強いだけのシロウトが勝てることはまず無いと、ジコは聞いたことがある。ましてやあの騎士は、相当厳しい訓練で体を鍛え続けた、精鋭の中の精鋭だろう。

それに、女役人は、治療には数日かかるとも言っていた。それはつまり、ジコが約束を破ったら。いつでも治療を中止するという脅しだ。

「分かりました。 頭の中で、まとめておきます」

「うふふふ、取引成立ね。 良い情報を期待しているわ」

虫酸が走るが、我慢だ。この女が、今はクルフの命を握っている。そして、ジコにはこれ以外カードがないのである。

それに、多分この女は、この村をどうこうはしないだろう。もしもカレン自身が目的ならば、軍隊でも連れてきて、村を押し通れば良いだけのことだ。こんな小さな村々、伝え聞く帝国の規模からすれば、足下にある卵に等しい。一師団でも連れてくれば、充分に全滅させることが出来るだろう。それをせずに、ただ情報を集めているのは、カレン自身が目的ではないことを意味している。

ぺこりと一礼して、その場を離れる。

言葉通り、民俗学という奴が目的だとは、どうしても思えない。この女は野心的で、ぎらついた欲望を体内に秘めている。何が目的かは分からない。しかし、それさえも利用するしか、今は生きる道がない。

しかし、カレンに何かしらの迷惑が掛かることは、今後容易に予想された。それが強い罪悪感となって、ジコに絡みついていた。

ただ、情報から言って、この女は約束を守るだろう。

後は、どうすればカレンを守ることが出来るのか。場合によっては、クルフの命だって、自分で守らなければならない。

隊商に戻ると、もう帰る準備が始まっていた。荷物は行きよりも、心持ち重い。遅れたらまず助からないから、これから必死に歩かなければならない。もちろん、村の者達に、ジコを待つつもりなどない。遅れたらその場で死ぬと思わないといけない。

クルフの村を離れるころ、またカレンの歌声が聞こえてきた。

「流れゆく白き雲は、霧となって山々の衣となり、美しき身を飾り立てる。 おお、その白さよ。 その眺めは、まさに神々のもの。 我が魂は、常に其処にあり、美しき衣を纏い続ける」

午後の労働が始まる。

そして対象の人間達も、やる気を出して、荷物を担ぎ上げていた。

恐らくは。無事に辿り着くことが出来るだろう。自身も活力を覚えていたジコは、軽く感じる荷物を担いで、歩き始めていた。

 

3、始まる宴

 

カレンは小屋から出ると、周囲の村々から立ち上る熱気に気付いた。そうか。もうこんな時期がやってきたのか。そう思うと、感慨も深い。一体何度目なのか。それも、思い出すことが出来ない。

一番の楽しみは。子供だった世話人が、老人になって戻ってくるのを見ること。

もとより、同じ生物ではないのだ。美も醜も感じない。ただ、面白いとだけ思う。繁殖能力に元から興味はない。自分には備わっていないし、見たところで面白いとも思わない。ただ、自分には、歌があればいい。

村の人間どもが浮かれる中、ただ淡々と、カレンは己の仕事を続ける。

それは、好きだから、出来ることであった。

目覚めの歌を終えると、枯れ果てた老人が、坂を登ってくるのが見えた。幼い頃は背が高く、頑健な少年だったのだが。老人になってからはその反動か、坂を登るのにも難儀している様子だ。彼は小屋の屋根に腰掛けて歌っていたカレンに気がつくと、何が嬉しいのか、うんうんと頷く。

「カレン様、今日もお疲れ様ですじゃ」

荷車から、新鮮な水を降ろした老人が、瓶にそれを継ぎ足す。その様子を、ただ静かに、カレンは見守る。小屋の中に入った老人が、幾つかの作業をのたのたとこなしていく。もう一人、別の村のある方向から、小さな女の子が上がってきた。彼女もカレンに礼をすると、てきぱきと仕事を始めた。

生殖能力を無くした老人と、未だ持たない子供が、てきぱきと仕事をするのを見つめながら、カレンは思う。

人間の数をコントロールするのも、あまり楽ではないと。

彼らが望んだからだとはいえども。

カレンは家畜であり庭師だ。人間が望んで庭となった。それを手入れするためだけに、雇われた。君臨したのではない。仕組みを作ったのは、あくまで人間。カレンはそれに沿って、此処で飼われて、動いているだけだ。

美しいプラチナブロンドの髪を掻き上げた時。子供と老人は、作業を終えていた。

頭を下げながら村に戻っていく彼らを見送りながら、カレンは歌祭りで何を聞かせてやろうかと、漠然と考え始めていた。

 

朝から霧が強い日であった。

カレンがいる山頂からは、変わらぬ歌声が聞こえてきている。それによって活力も湧く。だが、こんな日、ジコは不安になる。何だか自分たちが、得体の知れない大きな力に、もてあそばれているような。

その力は、きっとカレンではない。別の何か、もっと大きくて、遙かにおぞましいものなのだ。

確信はない。だが、時々この得体が知れない不安が、ジコの身を突き動かす。

昨日、余所の村へ強行軍で出かけた疲れは残っているが、そんな事は言っていられない。昨日の分も、小作の仕事をしなければならないのだ。幸いここしばらくバルカスは大人しくしている。もしもバルカスがいつものように五月蠅かったら、クルフの所へ出かけることさえ許してはもらえなかっただろう。それだけは、幸いであった。

草をむしっていると、声が聞こえてきた。鍬を振るって、畑を耕している小作農達が、なにやら会話している。こういうのを盗み聞くのが、ジコの密かな楽しみだった。多分、他の女子小作も、みな同じだろう。

「例の役人が、隣村で子供を医者に診せているそうだ」

「へえ。 どういうつもりなんだろうな」

「さてな。 歌祭りが近いのに、狩りなんて事になったら難儀だからなあ。 まあ、いいんじゃないのか」

「それもそうだ。 カレンに、子供の悲鳴なんか聞かせるのは、気分が悪いからな」

笑い声がそれに続いた。

もう噂になっているらしい。ジコの思い切った行動が、どうやらクルフを救うことになりそうだ。だが恐らく、決してその代償は安くない。あの役人は、ジコから相当な何かを絞り上げるつもりだ。

ジコとしては、カレンの情報以外にカードはない。それがあの役人にとって、どんな意味を持つのかは分からない。しかし、きっとそれはかなり大きいものなのだろう。この村に影響は出ないだろうが、しかし。

その外では、あの役人が、何か途轍もなく大きな事をするのかも知れない。

ジコは純粋ではない。クルフを救って貰っても、あの役人に感謝する気にはどうしてもなれない。単に取引をしただけだからだ。この村では、命が吹けば飛ぶほど軽いという事情もある。特に子供の命は、ちょっと積んだ麦よりも軽い。ジコも、何度か命の危険を感じたことがある。

だからかも知れない。イジネエフに感謝できないのは。

歌祭りまで、あと四日。それまでに、クルフは治るのか。治った所で、今年はまだ祭りには参加できないだろう。噂によると、都会では子供の成熟がかなり早いと聞くが、食事が貧しいこういう小村ではそう言うこともない。男子が大人になるのは早くて十三、十五まで大人にならない者までいる。

てきぱきと雑草抜きを済ませていくと、年かさの小作人が声を掛けてきた。

「相変わらず手際が良いなあ。 そろそろ、もう少し難しい仕事を任せられるだな」

「有難うございます」

「バルカスの若旦那も、最近はとても静かだしな。 こんど父君に話して見るだよ」

バルカスは無能だが、その父は若干だけましである。ひょっとすると、ジコの仕事も少し負担が減るかも知れない。このままだと、若くして腰が曲がってしまう。負担が減るのは、良いことであった。

「暁の星、反逆の瞬き。 それは美しく、それが故に危険な。 空に燃える炎の星よ、ただ荒ぶるだけではなく。 心を妖しくときめかせる」

カレンの歌が聞こえてきた。昼食の時間だ。

バルカスは相変わらず腑抜けになっていて、最近は彼の従兄弟が指示をしている。炊き出しの量も以前より増えているので、助かる。大鍋がたかれていて、其処へ順番に並んで、麦がゆを貰う。ジコの椀に盛られた麦がゆには、僅かに肉も入っていた。温かい麦がゆを喉に掻き込む内に、また噂が入ってくる。

「学者先生が、またこの村に来るそうだぜ。 明日か、明後日からしい」

「村長の弱みを握ったとか言う話もあるな。 ひょっとすると、歌祭りに参加するつもりなのかも知れねえべ」

「それはまた、長老どもがうるさかろうな」

「だけどよ、帝都から来た役人だ。 例え長老でも、どうにもできねえ。 もし帝都から軍でも来たら、この村どころか、山ごと滅ぼされちまうからな」

もしもその話が本当だとすると。イジネエフは、多分ジコから直接話を聞くために、単身この村に戻ってくるのだろう。

何だか、怪物じみている。学者というのは、みなそうなのか。任務もあるだろうに。それともジコから聞ける情報が、それ以上に価値があると判断しているという事なのだろうか。

どちらにしても、恐ろしい話だ。

昼食が終わる。今日は麦飯の握りを持ってきていたが、明日からは必要なさそうだ。粥はたっぷりあって、お腹は充分に膨れた。バルカスの従兄弟は去年隣の隣の村から入り婿したのだが、力量は彼の方が明らかに上だ。こういったちょっとしたことでも、小作人達の心を巧く掴んでいる。彼が村長になれば、きっとこの閉鎖的で腐った村も、少しは変わることだろう。

午後の作業開始を告げる歌が聞こえてきた。腕まくりをすると、再び畑に向かう。肥を担いだ老人が、隣を通り過ぎる。ここのところは少し温かいせいか、つんと臭いが強烈だった。

そういえば。他の小作人が話していた。肥の臭いも、出す人間の体調などで変化するという。

そうなると、ひょっとすると。歌祭りが近いから、変化が出ているのかも知れなかった。

 

夕刻になると、、予想していた事態が起こった。

リリと話していたジコの元に、満面の笑顔でイジネエフが現れたのである。さあ、約束を果たして貰おうか。そう顔中に書いてあった。

ちょっと見損なっていたかも知れない。この人は、この表情からして、生粋の学者なのだろう。何かを知ることが楽しくて仕方がないと顔に書いてある。リリはささっと逃げた。それでいい。

迷惑な目に会うのは、ジコだけで充分だ。

「さて、話して貰いましょうか」

「クルフは、大丈夫なんでしょうね」

「ああ、問題ない」

応えたのは、イジネエフではない。彼女の後ろにいた、やせぎすの男だ。モノクロームとか言う、この辺では見かけることさえない片眼鏡をしている。

「この辺りでは死病かも知れないが、帝都では何処にでも売っているような薬で治る程度の病でしかない。 今度、此方にも正しい処方と薬の搬送ルートを造ってやろう」

「有難う、ございます」

「なに、其処の学者先生の頼みでな。 下っ端の儂としては、そう断ることも出来んよ」

そういうと、男は背中を向けて去っていく。

狐につままれたような気分だが、しかし。役人の言葉は、重い意味を持っている。嘘をつけば、国全体の信用が落ちるとか言う。村の様子を見ていても、それがよく分かる。地主を信用する小作人など、もはや何処にもいない。地主達が積み重ねてきた不正が、皆から信頼を奪い去ったのだ。

ひょっとすると、何かの切っ掛けで、一気に小作人達が爆発する日が来るかも知れない。ただ、不思議とカレンの歌を聴いていると落ち着くから、そんな風に心が燃え上がらないのも、事実だ。

誰もが不満なのに。それが、吹き上がらない。

考えてみれば、不思議だ。

「さて、話を聞かせて貰いましょうか。 あの子の命は救ってあげたわ」

「いえ、まだ確認できません。 でも、貴方が約束を部分的にとはいえ守ってくれたのも事実です。 だから、全部ではなくて、少しずつ話します」

「まあ、用心深い。 でもそれでこそ、私としても貴方に狙いを定めた意味があるというものだわ」

笑みが引きつるのを感じた。どうやら何故か気にいられていたらしい。

回りに地主がいないことをしっかり確認すると、ジコは声を落とす。とりあえず、外部に知られても、困らない程度のことから話していくしかない。

「カレンは、私より少し年上に見える女の人です。 髪の毛はプラチナブロンドで、腰まであります。 顔の造作は整っていて、今でも鮮烈に思い出せます」

「まあ。 是非会ってみたいものだわ」

本気でやりかねないから、言葉を選んでしまう。

カレンはこの周辺の村全ての至宝だ。人間とは別の存在と言っても良いほどに、丁寧に崇められ、世話をされている。代わりに彼女は歌う。それを基本に、人間達は動く。

「背は今の私より少し高くて、体つきは豪勢です。 子供を産んだようには見えないですけれど」

「ふうん、なるほどね。 それで?」

「此処までです」

そうきっぱり言うと、露骨に残念そうな顔をする学者。その瞬間だけ、恐らくは冷酷きわまりないこの学者の表情が、子供みたいだった。大人になったばかりのジコも、そういった表情は未だ浮かべることがある。しかし村だったら既に二人か三人か子供を産んでいそうなこの学者がそういう表情を浮かべるのは、強烈なギャップがあって面白かった。

後ろでメモを取っている兵士に、学者が顎でしゃくる。今までの質問の範囲で、聞いても問題ないと判断したであろう事を、逆に学者が聞き返し始めた。目の大きさ、鼻や耳の形、唇や肌の色。

それらについても、誘導尋問に引っかからないように、丁寧に答えていく。何度か振り返って、声が聞こえる範囲内に地主がいないかもしっかり見た。もちろん、小作人もいない。

騎士らしい、あの年かさの兵士が厳しい表情で辺りを見張っている。それだけでも、この他愛ないはずの会話が、如何に重要なものなのかが、ジコにもよく分かった。今、ジコにとっては既知の情報が。国家にとって重要なものへ、化けようとしているのかも知れないと思うと、不思議な気分である。

履いている靴が、底に羊の上物毛皮を貼った革靴だと説明すると、非常に学者は驚いていた。この辺りの生活水準とは随分違うからだ。貧しい小作人の中には、木靴さえ買えないものさえいる。そう言った者達に到っては、素足で辺りを走り回っている事も多い。恥ずかしながら、大人になるまではジコもそうだった。今では少し安めの木靴を履いているが、それも大人になった記念に材料を買って貰い、自分で教わりながら造ったものなのである。

カレンの履いている靴は、この辺りの地主でさえ履けないような、最高品質のものだ。下手をすると、貴族が履くようなものなのだと、聞いていた学者が付け加える。あり得るかも知れないと、ジコは思った。

なにしろ、カレンは。

この辺りでは、文字通りの中核となる存在だ。

話を聞き終えると、兵士がメモを拡げて、学者に見せていた。驚いたのは、カレンの全体像が驚くほど緻密に、絵として書き起こされていたことである。この兵士、ひょっとすると、専門スキルの持ち主であったのかも知れない。

「こんな感じか?」

「はい。 そっくりです」

「そうか」

兵士は礼をすると、側に控えていた自分よりも更に若い兵士数人を呼び寄せて、メモの中身を見せる。じっとそれを見つめていた兵士達は、頷く。ひょっとすると、特徴を覚えさせていたのかも知れない。

まさか、これから確保するつもりか。だが、その思考を見越したように、イジネエフはくすくすと笑った。

「大丈夫よ。 約束通り、歌姫に手は出さないわ」

「本当、ですか?」

「ええ。 私が興味あるのは、この周辺の村が成り立っている仕組みと、彼女という存在の骨組みよ」

意味がよく分からない。カレンの骨がどうしたというのか。

すっくと立ち上がると、学者先生の側に馬が引かれてくる。そろそろ夕方だが、別の村に行くつもりなのかも知れない。

「そうそう、貴方も歌祭りには参加する予定なのよね」

「はい。 特に何もなければ」

「私はまだ出られるか確定的ではないから、いざというときはその内容についてもしっかりレポートして頂戴。 楽しみにしているわよ」

確定的ではないと言うことは、自ら出る準備を整えつつあると言うことか。この女性は恐ろしい。自分の目的に向けて、着実に村のくみ上げてきたものを、侵食しつつある。やり手の役人というのは、皆こうなのか。

帝国臣民の一員と言われればそうなのだが、あまり今までは実感がなかった。役人は村の富を吸い上げていくだけの存在だったし、生きている人間としての実感を感じない存在だった。だがあの女学者は、怖い相手ではあっても、それなりに人間味を感じる。ひょっとすると、何かが帝国で起こり始めているのではないかとも、思わされる。

もちろんジコは、彼女が言っていたこと。民俗学がどうのこうのというような事は、最初から信じていない。

もし、あるとしたら。彼女が造り出そうとしている何かのために、それも利用しているのであろう。

リリが戻ってきた。不安そうに学者が座っていた辺りを見つめる。

「ジコ、大丈夫だった?」

「平気よ」

まだ、全ての情報を吐き出した訳ではない。だから、少なくとも、あの学者はいますぐジコを殺すようなことはない。

不安そうなリリを慰めるために。ジコは彼女が楽しみにしている、歌祭りに話を振り分けた。

 

歌祭りの準備が、本格的に始まった。

歌祭りが行われる場所は、いつも違う。共通しているのは、普段は大人が入ることを許されない、カレンの所へ向かう山道の途中。三カ所ある大きな集会場で行うと言うことだ。今回初参加のジコも、内容は知っている。いまいち盛り上がれないのは、これが出来レースだと知っているからだろう。

所詮、歌祭りは、村の長老や、婚約者を決める立場にある親たちによる、政治的な会談の結実を見るためだけにあるものだ。

リリはうきうきしているので、水を差す気にはなれない。だが、ジコは親友の動向はさておき、やはり盛り上がる気にはなれなかった。

二年か三年くらいすれば、クルフも大人になるから、その時は楽しみかも知れない。だが、それまで、ジコは一人で歌祭りに参加することになる。まあ、カレンのあの澄んだ歌声を、近くで聞けるのだから。それはよしとするべきなのかも知れない。

小作人達からも、人手は出すことになる。地主達もその辺りはきちんと理解していて、この日の前後は、仕事量を減らすことが常になっている。ジコも午後からは手が空くことになったので、手伝いに向かった。

既に会場の設営が始まっていた。

この時期には珍しい花が飾られ始めている。山を少しくだった所にある洞窟の、入り口付近で咲くものだ。乾燥させても数ヶ月は美しいままという、非常に変わった特性を持つ花で、しかも色とりどりである。歌祭りのために、二つ隣の村の大人達が、集めてくるのだ。

主に若い男女が中心になって、急ピッチに会場の設営を進めていく。

運ばれてきたのは、分解式の大机。これに乗って、夫婦と認められた男女が晴れ姿を披露する。そういえばリリは、今年もう結婚する訳で、あれにのるわけだ。集会場を見回せる所に、何人か掛かりで大机を運んでいく。流石に古い机であり、何カ所か釘が飛び出していて、しかもささくれだってもいる。

野良仕事で鍛えているとはいえ、危ない。足を並べ終えると、格子状になっている土台をそれにのせる。男達が野良仕事で鍛えた体をフルに使って、気勢を上げている中、ジコはマイペースに、土台を支えていた。

「ねえ、ジコ」

「どうしたの?」

「あの役人さん、此処まで見に来るのかな」

「可能性は高いね。 歌祭りを見るためだったら、それこそ何でもどんなことでもしそうだよあの人は」

それは本音からの言葉だ。多分今頃、長老達は彼女の手によって、脅されたり交渉のテーブルに引きずり出されたりしているに違いない。そんなことはどうでも良い。長老達に思い入れはないし、死んだって特に何とも思いはしないからだ。

小作人としてこき使われているのは、彼らの方針である所が大きい。妹だって、生きていれば来年には歌祭りに参加できたのだから。もちろん、この厳しい環境は長老達のせいだけではないことだってわかっている。だが、彼らの責任が大きいのは事実なのだ。

「ねえねえ、ジコ。 今年はどれくらい参加するのかな?」

「見たところ、此処にいる全員が参加するとしても、ざっと見て100人ちょっとくらいじゃないかな」

未婚の大人は、それだけ数が限られる。特に、二十歳を超えて未婚の大人はほぼいないと言っても良い。よほど小作人としても腕が悪くて、周囲に受けが悪いような人間でない限りは、大人の政略結婚の道具として結婚させられる。

更に言えば、許嫁と結婚しないと言うことは、村にいられなくなると言うことも意味している。貧しい村では、生活も苦しい。苦しい中では、自由も少ない。

そして、そもそも。こういう村では、余剰人員は「存在しない」のだ。ジコの妹がそうだった。都会では、余剰人員をスペアとして飼っているかも知れないが、此処ではそんな余裕など無いのである。だから、育つことさえ出来れば。まず間違いなく、結婚「させ」られる。

そう言う現状を知っているから、ジコはリリが羨ましい。そういう風に、前向きに考えることが出来るなら。ジコも、もう少し若い人生を謳歌できただろうに。

クルフの様子も気になるが、あれが大人になった後のことはもっと不安だ。結婚と同時にしっかりしてくれればいいのだが、望み薄だろう。気が弱いと言うことは、それだけ多くのことで損をする。ジコが補助をするにしても限界がある。

「花柱を立てるぞ!」

「おーう!」

威勢の良い声が上がった。声を挙げたのは、四つ向こうの村の、村長の息子だ。今回の歌祭りで婚約者が発表されるのだが、都会から物資を持ってくる商人の娘が相手らしく、話題になっていた。見る限り、指導力もそれなりで、不満はない。仕切ることに、不満を示している者もいない。

ジコもリリも、とりあえず今の作業を置いて、そちらに駆け出す。全員で協力しないと、とてもではないが立てられないからだ。

花柱。歌祭りで、中心となる道具だ。

普段は広場ごとに置かれていて、横たえられている、祭りの時だけ、若者達の力を使って、立ち上げるのだ。

既に広場中央には、穴が開けられている。そこへ、縄を掛けた花柱を、全員で引っ張っていく。

花柱は、石で出来ていて、とても重い。長さはジコの四倍はあり、太さも一抱え以上ある。この重い柱を、穴に落とし込んで、固定するのだ。えい、えいと声を掛けながら、まず引っ張り、先端を穴の中に落とし込む。ずずんと、地響きが辺りにとどろいた。まずは、一段落だ。

穴に先端を入れて、傾いている花柱を、掛けてあるロープを引っ張り、直立させる。そしてその間に、さっと散った若者達が周囲に土嚢を放り込んでいき、更にそこへ土をかけて、踏み固めて固定する。地面と同じ位置では倒れ込んでくる可能性があるので、土嚢を膝の高さくらいまで積み上げて、土台を安定させる。

「よーし、ロープから手を離せ!」

「おーう!」

ロープから手を離す。ジコは土嚢を担いで運んでいた組で、リリもそうだ。少し離れて、様子を見守る。

緊張の一瞬だ。土嚢が少なかったりすると、倒れ込んでくる可能性がある。かってそれで、怪我人も出ているのだ。倒れても死人が出ない重さには調整されているのだが、それでも緊張する。

しばし、して。

花柱が微動だにしないのを見て、安堵の声が上がった。

後は、細かい飾り付けをすれば、いつでも歌祭りが出来る。何人かが坂を下って、準備が完了した旨を伝えに行く。ジコも隅の方にどくと、敢えてリリから離れた。彼女の婚約者が、手を振っているをの見たからだ。

あまり言い噂を聞かない奴だが、せめて今だけでも親友のリリにはいい夢を見せてやりたい。

それが、友人に対する、ジコなりの思いやりだった。

何をやっても、婚約者を変えることは出来ないのだ。子供で出来る以上の、強大なしがらみや権力がそれには絡んでいる。最後の手段として駆け落ちというようなものもあるが、その場合、残った家族が社会で孤立することになる。

村を出て、山を下りるという手もあるかも知れない。だが、その場合、帝国の様々な審査を受けて、知らない土地に放り込まれることになる。帝国は広大だが、その全てが平和な訳ではない。治安が悪い場所もあると聞くし、西部では大国と戦争をしているために、人員を供出し続けているそうだ。もちろん、流れ者などは、真っ先に兵隊として戦場に送られるだろう。

夢は、夢。

現実は、現実なのだ。

この村は楽園とはほど遠い。そして外も、それとはあまり代わりがない。

誰もがそれを知っている。だから、境遇が如何に酷くとも。誰も文句を言うことはないのである。

作業が終わった。それに合わせて、カレンの歌声が聞こえてくる。

「湛えよ。 湛えよ山を。 我らが父祖の眠る地を。 やがて我らも山に入り、子孫達を見守る。 夢よ、それはいずれ現実となり、闇の中で全てを照らす」

不思議な歌だ。

また仕事をしよう。そう思えてくるのは、何故なのだろう。とにかく腰を上げると、村に向かって歩き出す。愛の語らいとかをしていた他の若者達も、皆それぞれの村へと帰っていく。

いよいよだ。歌祭りの日が、近付いていた。

 

家に着くと、玄関に花飾りをつけた。ブーケをアーチ状にしたもので、何かの神様を象ったものだという。

今回、婚約者とくっつく大人のいる家では、どこでも花飾りを付ける。ジコも自分の家に着けたのではなく、リリの家に着けたのだ。リリは嬉しいと涙を流していた。よく分からない話だ。

後幾つかの家に花飾りを付けて回っていると、蹄の音がした。振り返ると、学者だった。

「準備が進んでいるようね」

「ええ。 もういつでも、歌祭りを始められます」

「それは素敵だわ」

そうして、役人はある程度予想していたことを言った。今回の歌祭りを、見学するつもりだという。

視察の名目で、許可は取り付けたのだそうだ。確かに帝国の役人の権力は強大だ。もしも逆らえば、山の下から運ばれてくる幾つかの必要物資が滞ることになる。そうなると、村は終わりだ。

そういう直接的な脅しもあるだろうし、他の手もあるだろう。さっと情報を集めただけで、この役人は多くの村の恥部や暗部を掴んだに違いない。それらをネタに揺すれば、簡単だという訳だ。

いいなあ、権力がある人は。ジコはちょっとやっかんだ。所詮小作の身である。金も権力もない。

それは、何も出来ないことを意味しているのだ。

それにしても。この学者は、何故にわざわざジコにそんな事を言いに来たのだろうか。ジコは何かしらの影響力を持つ訳でもないし、交友関係だって狭い。そう考えてみると、ちょっと微笑ましい想像が出来てしまう。桁外れに優秀な反面、どこかで幼稚な所がある人なのかも知れない。

「その家で最後かしら?」

「そうです。 後は、村長が実施の号令を掛ければ、すぐにでも歌祭りが始まります」

「カレンには知らせないの?」

「カレンは歌祭りを楽しみにしていますから、すでに気付いていると思います。 それに世話係が、歌祭りの話をするように言い含められていますし」

もうすぐ大人になる子供や、既に生殖能力を失った老人にとっても、歌祭りは興味のある事柄だと、ジコは聞いている。子供の方はつい最近まで自分もそうだったのだから、実感がある。自分自身のことよりも、むしろ周囲の盛り上がりを見ているので、知っているという方が正しいが。老人の方でも、何となく分かる。不思議と、人間は孫くらいの年齢の相手が可愛くて仕方がないらしい。子供に辛く当たっていた大人が、孫には異常に甘くなるというような事は、掃いて捨てるほど聞いている。

「それよりも、クルフの様子はどうでしょうか」

「順調よ。 言った通り、あれは帝都では死病でもなんでもないのよ」

「……」

歌祭りが終わったら、クルフの様子を見に行こうと、ジコは決めた。

またあの山道を歩くことになるが、大した苦労ではない。他の家の事情を聞いている限り、クルフを夫にした方がずっとましのはずだ。あれなら、性根は幼い頃から良く知っている。夫として手なずけるのも、そう難しくない。

死んで欲しくないなと、ジコは思う。結局、どんなに理由を並べても、それが本音なのかも知れない。

歌祭りの準備があったとはいえ、午後からは仕事をしなければならない。カレンの歌と供に、小作人達は動き始める。ジコも学者に礼をして話を切り上げると、自分の担当している畑に向かった。

 

4、歌祭り

 

早朝。村長宅から、けたたましい鐘の音が鳴り響いた。同時に、周囲の山々からも、同じ音が鳴り響き始める。

ついに、来た。

歌祭りの、当日だ。

目を覚ましたジコは、弟が目を擦りながらぐずるのをあやしながら、家の外に出る。肌寒い空気。だが、それもすぐに暑くなってくるだろう。今日は、未婚の大人達の宴であり、婚姻を公式発表する日だ。

リリが、化粧をして家から出てきた。ジコの家よりも少し裕福なリリの家は、宝として化粧道具を持っている。滅多に使うものではないのだが、今日は奮発したという訳だろう。一生懸命化粧したのがよく分かる。リリはとても綺麗だった。

「ジコ、おはよう」

「晴れ姿だね。 きっとあいつも喜んでくれるよ」

「有難う。 嬉しい」

頬を染めて微笑むリリは、いつもより大人っぽく感じた。そして、今日婚約を発表すると、もう向こうの村に行ってしまう訳だ。今生の別れではないとはいえ、親友となかなか会えなくなるのは辛い。

きっと彼女の未来は明るいものではないだろう。夫はあのろくでなしだ。新婚時期の夢が覚めれば、すぐに地獄が待っている。離婚が簡単にできないこの村では、結婚はあまり幸福な結果を生まないことが多い。

純真なリリがそれによって悲しむのは明確だ。だが、今の幸せだけでも、謳歌させてあげたい。だから、ジコは何も言わないことにした。

カレンの歌が聞こえてくる。

「湛えよ、この日を。 新たなるまぐわいの始まりを。 地に満ちよ、人の子よ。 大地を埋め尽くし、その恵みを独占せよ。 人の子は、光よりも、闇に近し。 それを自覚して、ただ増えよ」

漠然と聞いていたが。

いつも歌祭りで聞くこの歌は、いつもに比べて非常に不気味だ。以前は気にならなかったが、ふと思い当たることに気付いた。

ひょっとしてカレンは。人間を、自分と同じ存在だとは見なしていないのかも知れない。

しかし、それも無理がない話だ。人間はカレンを利用する仕組みを使って、周囲で栄えている。カレンは歌が好きでそれに不満がないかも知れないが、人間達の様子を見て、同格だとは思えないのかも知れない。

そういえば、都会の人間は歌うと聞いたことがある。

この周囲の村で、歌うものなど誰もいない。カレンが代わりに歌ってくれるからだ。それを考えると、やはりカレンにとって、人間は特別な存在ではないのかも知れなかった。

カレンの姿は人と同じ。

だが、彼女は。

ジコが知る限り、多分人間ではない。心も、体もだ。

歌が終わる。ぞろぞろと、若者達が山へ向かって歩き始めた。来年か、再来年には、クルフも歌祭りに出られるだろう。今回の病気が治れば、体もそれなりに丈夫になるかも知れない。あまり悲観してばかりでも、始まらない。

リリと並んで、山道を行く。といっても、村々をつなぐ路と違って、開けていてとても歩きやすい。

そして、ざわめきが聞こえた。さも当然であるかのように、学者先生が、馬に跨って山道を来ているのだ。一緒にいる兵士達が鋭い眼光を光らせているので誰も近寄らない。ジコはリリに断ると、ちょっとそちらへ足を向ける。学者先生はジコに気付くと、無邪気そのものの笑顔を浮かべて、手を振ってきた。

「あら、おめでとう。 今日は婚約発表はしないみたいだけれど、お友達が婚約するのでしょう」

「……はい、ありがとうございます」

誰から聞いたか知らないが、其処まで詳しいとは。多分歌祭りの見学をする交渉の過程で、聞き出したのだろう。彼女はジコにご執心のようだから。迷惑きわまりないが、もちろんそう言った所で、改めなどしないだろう。

「それよりも、こんな正面から堂々と。 何があっても知りませんよ」

「あら、何か起こるの? それは楽しそう。 ちなみに其処のアレフは、一騎当千の名も高い、我が国でも有名な武人よ。 この間の会戦では、兜首二つを取って、敵兵二十人を斬り伏せた実績の持ち主なのだけれど。 そういえば、彼の剣が敵を斬る所を、私まだ見たことがないの。 もし見る機会があったら、とても嬉しいわ」

他の兵士達も、其処までではなくとも、似たような力量だという。学者先生は別に口調も変えず、そう言った。

あまりにも直接的すぎる脅しに、周囲で耳をそばだてていた若者達が青ざめる。イジネエフが平然としていることが、却って恐喝の度合いを強くしている。

帝国の精鋭と言ったら、喧嘩くらいしかしたことのないこの村の若者など、たばになっても敵う相手ではない。それくらいは、ジコでも分かる。自分の力を過信しがちな男の子であれば、違う反応を示したかも知れないが。

「まあ、私が祭りにしゃしゃり出るようなことはないから、安心しなさい。 ただ脇で、全ての進行を見せて貰うだけだから」

「そう願います」

「うふふ、貴方、やっぱり面白いわ」

あまりというか、全然嬉しくないのは何故だろう。蛇にすり寄られて嬉しい蛙がいないのと、同じかも知れない。他の大人達も、皆何処か醒めてしまっていた。学者先生という現実が、祭りを見に来たという事が、応えているのかも知れない。

結局、リリなどの一部だけだ。この祭りに、夢を見ているのは。

他の大勢は、皆夢を見ようとして、現実から逃避している。それが、歌祭りの持つ機能なのだ。

其処へ帝国の役人という現実が割り込んできたのである。それを嬉しいと思う者などいない。当然のことである。

カレンの歌声が、徐々に大きく聞こえてくる。今日一日は、野良仕事にでなくて良い。それだけが、ジコには嬉しかった。婚約発表を済ませた夫婦は、そのまま実家に戻っても良いし、何処か適当な場所を見繕って体を重ねてもいい。ただ、この時期には、流石に野外は寒いので、あまり後者を選ぶ者はいない。山小屋などないし、そもそも体を隠せるような地形も少ないのだ。

ぞろぞろと集う若者達。今回婚約発表をどれくらいの組がするのだろう。ジコが知っているだけで十二組あるが、多分その二倍は軽く超えるだろう。かなり多いような気もするが、この時期以外に結婚することはまず無いし、それ以上に周囲の村全てにそれらが振り分けられるのだ。それを考えると、多いのか少ないのか、ジコにはあまり判断がつかなかった。

広場の中央に立てられた柱は、男根の象徴だとか、聞いたことがある。最初その意味を聞いた時はちょっと恥ずかしかったが、今は別に何とも思わない。何年かぶりに合う親友もいて、軽く挨拶を交わす。去年、結婚して村を出て行った友達の話をする。今丁度妊娠中で、そろそろ子供が生まれるのだそうだ。

子供か。

クルフが今の病を乗り切ったとして。婚姻して、ジコが石女でなければ、子供が出来ることになる。あまり実感がない。自分が母親になるというのは、どういう気分なのだろう。その子供を間引いたりするのは、どんな風に辛いのだろう。

ふと、見慣れない若い娘を見つけた。肌が浅黒くて、睫毛が長い。そして不安そうに、辺りを見ていた。ひょっとすると、あれが村長の息子の相手かも知れない。しかし、妙だ。取引のある商人の娘ならば、何かもうちょっと、威厳のようなものとか、大事に育てられた雰囲気とかがありそうなのだが。あの娘は美しいことは美しいが、何も分からない所に放り出されて、怯えきっているようにしか見えない。

「まあ、あの子は南方のエトラルム人ね」

いつの間にか、学者先生がいた。びっくりしたが、それ以上に怒りが沸き立つ。回りのことを、少しは考えて欲しい。

「近付きすぎです。 皆を刺激しすぎると、祭がしらけてしまいます」

「まだ始まってないのだからいいじゃないの。 あの子、恐らくは余所から買ってこられた性奴隷よ。 ふうん、なるほど。 これからの取引を良くするために、娘と偽って適当に買ってきた奴隷を押しつけたという訳ね。 ふふふ、食えないことをすること」

もし学者先生の言葉が正しいとすると、吐き気がする話だ。ばれたら、あの娘に居場所はなくなる。それに、奴隷として売り飛ばされた挙げ句、知らない社会の中で孤独に生きることになるのだ。どれほど辛いだろう。

役人が汚いという偏見がある。しかし汚いのは人間である以上商人も同じだ。結局力を持つ人間が、弱者を好きなように蹂躙する。それが、この世の理ではないか。強い者は、何をしてもいいのか。法は何のためにあるというのか。

不快感をどうにか追い払う。祭りはそろそろ始まるのだ。

ふと見ると、大体人数が集まったようだ。

学者先生が、手綱をとって、広場の外に出る。そして、兵士達と一緒に、祭りを見やすい場所に陣取った。約束は、一応守ってくれた。

ほっとするまでもなく。カレンの歌声が聞こえ始める。彼女も、歌祭りが始まったことに、気付いたのだろう。

「おおー。 おおおおおー。 おおー。 おおおおー」

普段とは違う、朗々たる声が、山頂から響き始める。

これを聞くと、その場にいた若者達が、さっと立ち上がる。そして、ゆらゆらと、輪になって歩き始めた。ジコも、徐々に意識が揺らぐのを感じながら、輪に加わる。

今日一日、カレンの側には、手伝いが何名か着く。それだけ喉を酷使するからだ。薬草類と、大量のよく冷えた水が用意される。殆ど老人ばかりなのは、子供では我慢が効かないからである。

緩やかかつ、均一な歌が続く。徐々に、意識がおかしくなってきた。輪になって歩きながら、空を舞っているような感覚が、全身を包んでくる。ざっ、ざっと足音がする。誰もが、均一に歩いているため、足音までもが同じに聞こえる。

やがて、カレンの歌と、足音までもが揃い始める。輪になって歩く人間は、一匹の大蛇のようだ。大蛇は、その鱗が一つ一つ人間。その一つ一つが、夢やら希望やらを持っていたり、着飾ったりしているのだ。

中央の巨大な柱に絡みつき、回り続ける巨大な蛇。揺らぎ、傾く意識の中、それを想像したジコは、妙に肌が火照るのを感じた。

ふと、意識が一瞬だけクリアになった。

広場から、山の下を見下ろして、気付く。

この山に絡みついている大蛇。それこそが、人間の村なのではないか。そうなると、巨大な大蛇の中で、蛇が繁殖のためにうねうねと蠢いている。そんな光景が、今客観的に見る、歌祭りなのではないか。

「おー。 おおおおおおー。 おおー。 おおおおおー。 おおおおおー」

カレンの声が、更に響く。徐々に、響く声が、長く長く糸を引き始める。事前に、どうすればいいのかは、知っている。

両手を挙げる。そして、降ろす。

一人が始めると、それが全体に波及していく。小さな小川が波立つように、ゆっくり輪が上下し始める。

そして、不意にカレンの声が止まった。

ぴたりと、若者達の歩みが、それに合わせて止まる。痛いほどの沈黙が、不意に場を覆う。

ゆっくり、意識が覚醒してくる。この時、最初に動かなければならないのは、この場にいる最上位の人間だ。

村々には、この時のためだけの、序列が決まっている。今回は村長の息子が参加しているので問題ないが、複数同格の人間がいる場合は、それにそって発言する人間が決まるのだ。

「ミン村のリリ、シトル村のカル。 輪の、中央へ」

最初に呼ばれたのが、何とリリだ。囃したり拍手するのは禁じられているから、静かに見守る。

山頂から、太鼓の音が一つ。

それに合わせて、若者達が一斉に手を叩いた。これが、合図。このために、囃したり、拍手するのは禁じられているのだ。

「暁の星に誓いをなせ。 汝らの門出を、此処に祝おう」

カレンの声が響き渡る。それは心地よい旋律を伴っていて、誰もが心を打たれる。しかし、それでも。

人間はこの時の感動を、あまり長続きさせない。

クルフの父親が、どういう行動を母と子にしているか。それだけでもよく分かるではないか。

カレンのことは好きだ。

だが、結局の所。ジコは、カレンのことが好きでも、人間のことは嫌いなのかも知れなかった。

両掌を合わせて、リリが婚約者と誓いをする。そうすると、手をつないだまま、輪に戻ってくる。

再び、太鼓の音。また、皆で手を叩いた。

呼ばれた二人が、前に出てくる。

この順番は、地位に左右されない。あまりにも煩雑すぎるからだ。地位が関係してくるのは、読み上げる人間だけである。

五人目が終わると、ひときわ強く太鼓が叩き鳴らされた。それに合わせて、此方も声を張り上げる。

「歌姫よ、さらなる歌を。 さらなる歌を」

「我らに声を。 その美しい声を」

両手を空に向けて、ゆらりゆらりと動く。蛇が体を揺らしているように見えるのだろうかと、それに習いながらジコは思った。

「暁の星に誓いをなせ」

カレンの声が、再び聞こえ始める。六組目、七組目。

そして十組が終わると。また、太鼓が強く打ち鳴らされた。

 

41組目で、終了した。太鼓に応えず、それが終わりの合図となる。

ジコの周囲には、成立した夫婦が何組かいたが。互いの体温を少しでも感じていたいらしく、見苦しいほどべたべたしていた。まあ、いいのだろう。この日くらいは。そうでない者達も、熱気に包まれて、とろんとした目をしていた。

こんな時に、冷静な自分を見つけて、ジコはちょっと不思議な気分になった。リリは婚約者にひっついて、幸せそうにしている。別に何とも思わない。二年後くらいには、クルフが大人になって、同じようなことをすることになる。此処に来ている若者達も、大体は同じ状況だろう。

まだ、歌祭りは終わっていない。

子供達が、村の下から、骨付きの肉を運んでくる。既に火を通してあるそれは、この日のために潰して、燻製にしておいた羊の肉だ。学者先生の話では、麓には同じ時間になく鶏とか言う鳥がいるらしいのだが。この山にはいない。何でも食べることが出来る上に、毎日卵を産むとかで、そんな不思議な鳥がいるのなら是非この山にも拡げたいくらいである。こう言う時にも、貴重な羊を潰さないで済むだろうから。

小作も地主も関係なく、一人ずつに肉が配られる。夫婦はどれも格が釣り合った者達ばかり。自分で相手を決めた者など一人も居ない。

しかしそれでも、恐らく殆どの人間が。今幸せだと感じている、のだろう。やはり、ジコには分からない。こんな時にも冷静なのは、少し異常なことなのかも知れなかった。

「おおおー、おおおおおおおおおおー、おー」

カレンの声が、再び響き始めた。そうすると、輪が再び回り始めた。

肉を持った利き手を天に掲げたまま、人間の輪がゆっくり回り始める。カレンの歌も、さっきと同じ歌詞がない形式だが。今度のは少し伸ばす時間が長い印象を受ける。多分、調節をしているのだろう。

「おーおおおー、おおおおおおおおおおー、おおおおおー」

歌声が途切れる。

そこで、肉を口に運ぶ。

粗塩だけで味付けされたそれは、肉汁の味が表に出ていて、食いがいがあった。滅多に肉など食えない。もちろんこれは、これから小作りをするであろう若い夫婦達に、力を付けさせるという意味もあるだろう。

一口食べると、またカレンの歌声が響き始める。

気が早い者の中には、二三度の食事で、もう骨だけにしてしまっている者もいた。だが、関係為しに、舞い続けなければならない。

そろそろ、日が沈む頃だ。

カレンの歌声は、朗々と響いて、かすれることも、嗄れることもない。奇跡の歌声は、祭りの最初から最後まで。ずっと響き続けていた。闇の中、白く浮かび上がる柱が、これから行われる行為を予想させる。

陽が落ちても、宴は続く。だが、基本的に日が沈むと、婚約成立したカップルは、帰る事を許される。リリも、ジコに断って自宅へ帰っていった。恋人も同じだ。今だけでも、甘い夢を見ることを、ジコは止めない。

明日、柱を片付けるのは、ジコ達今回で相手が決まらなかった者達の仕事。立てる時に比べて危険も小さい。多少乱暴に倒したくらいでは、この柱は痛まない。カレンの声は、時々断続的に恋歌を奏であげるだけで。さっきまでの扇情的な歌声とは、随分違う落ち着きを有していた。

やがて、疲れ切った体を引きずって、自宅に戻ることにした。闇の中、星だけを頼りに、自宅へ。ふと気付くと、となりに学者先生がいた。

「お疲れ様。 なかなか興味深い宴だったわ」

「都会から来た人には、ちょっと土臭すぎるものだったんじゃないですか」

「土臭いのは嫌いじゃないわ。 うふふふ、これから熱い夜を過ごす恋人達を思うと、寝付けないかも知れないわねえ」

口ではそう言っているが、多分この学者先生には、犬か何かの交尾くらいにしか見えていないはずだという確信がジコにはあった。

「明日、クルフくんの様子を見に来ると良いわ。 もう峠を越えて、歩けるようになっているから」

「そうさせて貰います」

明日一日は、歌祭りの参加者は何もしなくて良いことになっている。だから、その機に、クルフの様子を見に行っておく。此処さえ越えれば、クルフは大人になるまで、何とかしのげるだろう。大人にさえなれれば。子供の時よりも、遙かに手厚い看護が受けられる。病気などで、すぐに死ぬ子供の命は、この村では軽いのだ。だがその代わり、大人の命は重いのである。

それが良いことなのか、どうかはよく分からない。

学者先生が、悩むジコに、馬上から言った。

「明日、詳しい話を聞かせてくれたら、面白い話をしてあげる」

何故か、その面白いという言葉は、とても禍々しく聞こえた。

カレンの歌声が、聞こえてくる。それは、眠ることを促す、ゆったりとした旋律であった。

 

5、村の姿

 

朝、全身が筋肉痛になっていた。ずっと輪になって歩き続けていたのだから、無理もない。

今頃リリは、新しい家で朝を迎えていることだろう。ひょっとしてあのろくでなしも、リリという良い嫁を得ることでまともになるかも知れないが。さてはて。そう上手く行けばよいのだが。

起き出すと、昨日両親に告げていた通り、外に向かう。そして来ていた行商に混じって、朝霧が漂う内から、隣村へ向かった。路は、この間の移動で覚えてしまった。次は多分、単独で行き来できる。

隣村に着くと、人だかりが出来ていた。クルフが、ちょっとゆっくりだが、歩いているのが見えた。わいわいと周囲で囃している声が聞こえる。あの病から、子供が生還するのは初めてなのだろう。

泣いているのはクルフの母だ。一方、父は面倒くさそうに視線も向けてはいなかった。穀潰しの上に、自分のことしか考えていない下郎だ。やはり、この親父はさっさと殺した方が良いだろう。ジコが嫁に入ったら、早めに死んで貰うように、色々と手を尽くすことにする。

「クルフ!」

「あ、お姉ちゃん」

「走らなくて良いから。 調子はもう良いの?」

「うん。 だいぶ良いよ。 明日からは、もう野良仕事に出られそうだよ」

心底から安心する。

来年か、再来年か。兎に角、歌祭りが楽しみだ。畑仕事までまだ少し時間があるから、多少談笑する。流石に、畑仕事が始まっても二人で楽しく話していたら、周囲から白い目で見られる。そうなると、クルフも、彼の母も、ますます立場が悪くなる。

ただでさえ苦境にいるのに、負担を更に増やすようなことがあってはいけない。だから、周囲に目を配りながら、クルフと話す。

「今年も歌祭りは凄かったの?」

「うん。 私の友達も、何人か結婚して、外の村に行ったよ」

「そうなんだ。 僕もお姉ちゃんと結婚したら、この村から出られるのかな」

「駄目よ。 母さんをあの獣の所に、一人で置き去りにするつもり?」

声を落として言う。俯いたクルフをどう慰めて良いか分からなかった。兎に角、だ。さっさと現実的な対処方法を考えないと、何もかもが駄目になる。今回、クルフが助かったのでさえ、奇跡的なことなのだ。奇跡など、人生に何度も起こるはずがない。

カレンの歌声が聞こえてきた。農作業を開始する合図だ。

家に戻ろうと促すと、クルフが足を止めた。目を正面から見つめてくる。今まで見たことがない、切実な瞳だった。

「ごめんね、お姉ちゃん。 僕のために、何かしてくれたんでしょう」

「いいよ、そんなの。 クルフよりましな男が今のところいないんだから。 少しでもましな婚約者が欲しいって思うのは、誰でも同じでしょ」

「……ありがとう。 でも、無理はしないで。 今回は、本当にごめんね。 次は、僕がお姉ちゃんを守るから」

少しだけ大人っぽくなった印象がある。にこりと微笑み返すと、ジコは村を離れる。

既に、来る途中に一度顔を合わせた学者先生が、村の外にある森の中で、護衛と一緒に待っていた。

「お待たせしました」

「いいえ、待っていないわよ」

イジネエフが指を鳴らすと、さっと兵士が左右に散る。凄い厳戒な警備態勢だ。屈んで余所から見えない位置に陣取ると。学者先生は、すっと眼を細くした。喋れという訳である。

「カレンについての、細かい情報ですよね」

「ええ。 何から何まで、貴方の知っている全てを教えて頂戴」

この人は、約束を守った。契約を果たした。

もちろん、これからそれを一方的に破棄することも出来るかも知れない。しかしその場合、確実にジコは殺されるだろう。その上、恐らくはクルフもだ。その気になれば、村の一つや二つ、焼き払っても平然としているだろう事は、この女の目を見ていれば分かる。ジコの対応次第では、ためらいなく数百人単位の人間を殺すことだろう。

「……カレンは私が知る限り、年を取っていません。 私より少し年上に見えますが、私が最初に会いに行った時と、最後に会いに行った時で、まるで姿が変わっていませんでした」

「なるほど。 それで?」

「多分彼女は、人間ではありません。 それに、自分を世話したことのある相手は絶対に忘れていないようにも見えます。 この近辺の村人は、例え村長でも、一度や二度は彼女の世話をするものなんです。 それを考えると、異常です」

「うふふ、なるほどね」

学者先生は次は次はと続きを促す。ジコは不安になって周囲を見回したが、一応誰もいない。誰もジコには気付かなかったことを、祈るばかりだ。あの騎士は、多分覗いている奴がいたら、その場で斬り伏せるだろう。

確度は低いが、老人達が話している情報についても告げておく。カレンは彼ら老人が、子供の頃から変わらぬ姿であったという。代替わりをしているとしても、不自然すぎる事だ。なぜならカレンは、ずっと一人暮らしなのだから。

「カレンは基本的に何でも食べますが、多分人肉も時々口にしています。 恐らくそれは、本人にとっては楽しみなんだと思います」

「それは、どうしてそう思うのかしら」

「一度、狩りを見たことがありますから」

狩り。

この周辺の村で行われる、コミュニティ総出の社会的制裁を意味する。

あまりにも地主に反抗的であったり、或いは死病に罹って伝染の可能性があったり。存在するだけで村に害があると思われる人物を、村人総出で殺す儀式のことだ。狩りの対象は、ナイフだけを持たされて、近くの森へ放逐される。それを、松明を持った村人達が、弓矢や槍で狩り立てるのだ。

それは制裁というには、あまりにも一方的。生きる機会が与えられているといっても、あまりにも希少。

故に、狩りと言われるのだ。

「まあ、怖い」

「ご冗談を。 所詮、戦闘経験にもならない行動です。 たまに返り討ちにあう人間が出ることもありますが、殆どは一方的に殺されるだけです」

この狩りの時。カレンが歌うのだが、それがとても楽しそうなのだ。むしろ、これからが楽しみだという雰囲気が、歌に充ち満ちている。そして、とどろく断末魔の悲鳴。

ジコは直接狩りの現場を見たことがないが、戸の隙間から見た。仕留めた鹿のように、両手足を縛られた死骸が、山の方へ運ばれていくのを。そして翌日、カレンがとても満腹した様子でいたことを、知っている。

不思議な話だ。カレンに対する好意は、それでも揺るがない。理由は、ジコにもよく分からなかった。

次に狩りがあったら、多分ジコも死体を解体し、カレンの前で料理する事になるのだろう。狩りは何回かに分けて行われ、一家を皆殺しにすることも少なくない。小作人が犠牲になることも多いが、何度か横暴で傲慢な村長一家が狩りで殺されたこともあるとジコは聞いたことがある。

本来は、村の外の人間には、話してはいけないことだ。

だが、この役人は。イジネエフは、婚約者の命を救ってくれた。ジコではどうにもならなかったことを、きちんと成し遂げてくれたのだ。

今後、村での生活を切り開くのは、ジコの仕事である。だが、その道さえ、今まではなかった。クルフに到っては、先の路どころか、未来さえも閉ざされていた。

例え下心があったとしても。この女役人に対する恩は確かにある。それを破ることは、ジコには出来なかった。

「ふふ、貴方はやはり面白い。 他にも何人かから根こそぎ聞き出したのだけれど、此処まで的確に状況を把握している人間にあったのは初めてよ」

「……」

「どうせこういう村のことですから、子供が出来ても、何人かは間引くのでしょう? それならば、私に頂戴。 貴方の血を引いている子供ならば、鍛えればかなり使えそう」

「考えて、おきます」

ジコ自身には、村を離れる気はない。

だから。もし間引く必要性が生じる場合は、自分の子を役人に差し出すのは、選択肢としてあるのかも知れなかった。きれい事は、通用しないのだ。

礼を言ってその場を離れようとするが、呼び止められる。学者先生の目に、嗜虐心が油膜のように浮いているのが見えた。

「丁度いいから、貴方には教えておきましょうね」

「はい?」

「どうしてこんな痩せた土地で、産業もないところで。 これだけの規模の集落が成立していると思う?」

「それは、やはりカレンのおかげですか?」

違うとイジネエフは即答。

「この周辺の村は、カレンの歌声でコントロールされているのは事実よ。 労働意欲の低下は歌によって補われ、爆発しがちな不満も歌で鎮められ、或いは狩りによって発散させられる。 でもね。 そういった仕組みを作ったのは、周辺で暮らしている人間達そのものなのよ」

所詮カレンは夜明けの鶏。そう学者先生は告げる。カレンのことが好きだが、どうしてかその言葉を聞くと、ジコは納得してしまう自分に気付いていた。

「もしそうだとすると。 やはり貴方の目的は」

「うふふふ、どうかしらね。 ただ分かっているのは、私の手には、帝国はあまりにも大きすぎると言うこと。 カレンの歌声の効果も、この程度の集落を制御するのが精一杯ですもの。 彼女は古くから生き残っている神々の一人だけれど、それでも成せることはこの程度でしかない。 そして、人間によって飼われることで、安寧の引き替えに餌を与えられる家畜に過ぎない。 家畜の一匹など手にした所で、帝国をどうにかする事は出来ないわ」

学者先生は、村まで送ってくれた。

この村の真実。厳しい土地で人間が生きていくために、山上に飼われている家畜。そして、歌祭りの意味。

多分、人間を効率よくコントロールするためだけに行われる儀式。それに一喜一憂する若者達。それを利用して、権力争いをする大人達。

人間は何もかも利用する。

学者先生は、カレンを神々の一人だと言った。

しかしそうなると。恐らくは神々さえも。人間の掌の上で、いいように転がされる哀れな存在に過ぎないのだろう。

部下達とともに去っていく学者先生を見送るジコの耳に届いたのは、カレンの歌。

「遠くから、来たりて。 そして見る景色は。 ただ淡く赤く、そして白く。 闇の中浮かび上がる光、それは光の中の闇。 辺境は中央、中央は辺境。 いきとしいけるもの全ては、ただ糸の着いた、人形」

不思議と、それはこの場の光景を暗示しているように思えた。

髪を掻き上げると、ジコは自宅に戻る。

来年か、再来年。クルフが歌祭りに出る時が、楽しみだ。少しでも良い方向に村を変えることが出来たらいいな。

そう、ジコは思った。

 

(終)