賢者の石

 

序、究極のそれ

 

今でもそうだが、あたしは本を読むよりも座学の方があっている。これはどうしようもないものなのだろう。

一人で本を読んでいたときには、ロクに勉強が進まなかったし、錬金術の腕も上がらなかった。

それがプラフタが現れてからは、文字通り天を駆けるようにして、錬金術の腕を向上させていった。

座学による結果だ。

勿論人によって向き不向きはある。

座学が嫌いという人も多いだろうし。

一人で学ぶ方が効率が上がる人もいるだろう。

だが、あたしは違った。

それだけだ。

そして今も。

あたしは座学を受けている。

賢者の石を作るに当たって。

まずは理論を復習するのだ。

「賢者の石は、世界の要素の根元です。 故にもしも完成品が出来た場合は、あらゆる事に応用可能となります」

「それでもそもそも、賢者の石というのは、結局何なの? 世界の要素の根元と言われてもね」

「諸説ありますが……ものには意思が存在しますが、その原初では無いかと言う説もあります」

「ものの意思の発生源、か」

腕組みする。

確かに今も、周囲から雑音が聞こえてきている。

錬金術師としての腕を上げれば上げるほど、この雑音はクリアになってはいった。最近では明確な意思として聞き取れもする。

オスカーのように、植物特化で意思疎通が出来る者もいるし。

プラフタの話では、色々なものに特化して声が聞こえる者は、そのものに特に愛されているのだという。

「オスカーは植物を材料にする錬金術師になれば、恐らく歴史に名を残す逸材になれるでしょう。 もったいない話ですが」

「オスカーにはその気が無さそうだからね」

既に、オスカーは。

緑化計画の引き継ぎをしている。

あたしが作った土地活性剤と栄養剤の使い方を、後続の人間複数に教え始めているのだ。

これは間違いなく、旅に出る準備だろう。

勿論、今起きている深淵の者との接触が終わった後になるだろうけれど。

世界中の植物と友達になりたい、などとオスカーは大まじめに言っているし。

その意思は堅い、という事だ。

あたしは頷くと。

座学の続きを求めた。

賢者の石を作るには、それぞれの世界の要素。

地水火風に主に別たれるが。

それらの究極を調合する必要があるという。

その前に、「深紅の石」と呼ばれる前段階のものを作る必要があり。

これが中和剤の代わりとして機能するのだとか。

この深紅の石にしても、超級の産物で。

出来ればコルちゃんに増やして貰え、という事をプラフタは言っていたが。

最近コルちゃんは、何かを増やす度に色々失っているので。

ちょっと頼みづらい。

一応増やす錬金術に体が慣れてきて、多少前より負担は減っているようだけれども。あたしの成長がそれを追い越しているのだ。

故に体を壊してしまうし。

毎回貴重な素材を増やして貰うと、コルちゃんは泣きそうになる。

いずれにしても、だ。

深紅の石もまた超級の素材。

これを使って、色々な強化が出来ると言う。

素材としても極めて優秀で。

賢者の石ほどではないにしても。

中和剤としては、ほぼ究極と言って良いレベルの活躍を見せるのだとか。

頷く。

そしてあたしは、言われるままに、幾つかの理論を座学で確認していく。

まず賢者の石を作る前に深紅の石を作る。

深紅の石は、主に竜の血晶を素材にする。

これは以前ドラゴンを殺して入手しているので問題ない。

品質も申し分ない。

これに、最高品質の中和剤と、その他を調合する。

調合の過程が極めて複雑だが。

あたしなら行けるはずだ。

この調合を終えた後。

賢者の石に移行する。

ドンケルハイトを一とする、最高品質の素材を全て混ぜ合わせることによって。賢者の石は出来るのだが。

これらの入手が極めて難しい事。

更に言うと、調合そのものも桁外れに難しい事が原因となって。

今まで、高品質の賢者の石は、完成に至っていないという。

なるほど。

過去の錬金術師の中には、要塞を空に浮かべるような奴もいたというのに。

それらでも無理だったのか。

聞いてみると。

条件が整っても、どうしても運が左右してしまうと言う。

更に、だ。

「多くの錬金術師は、不思議な傾向があります」

「不思議な傾向?」

「人間に対して圧倒的な力を持った瞬間、満足してしまうケースが多いのです。 世界を変えようとか、この理不尽に立ち向かおうとか考える貴方は例外中の例外です」

「ふうん……」

そんなものか。

或いは、何かにのめり込んで。研究だけを続けてしまうケースも多いとか。

それらの研究成果は、本として残されていれば良いが。

そもそもアンチエイジングをしているような錬金術師は、邪神に狙われるケースも多いらしく。

更に自分の力を過信して、邪神に挑んで返り討ちにされる事もあるとか。

プラフタは七柱の邪神を生前倒したと言っていたが。

それも中位止まりだったはず。

上位の邪神となると、多分錬金術師でも、簡単に葬ることができる相手ではないのだろう。

「世界の深淵に達しようと、ただひたすら研究を進めるケースもありますが。 それは最終的には、自己満足に到達してしまう事が多いのも知っておくべきでしょう」

「自己満足?」

「知っただけで満足してしまうのです。 ひょっとすると過去には、創造神にアクセスする条件を整えた錬金術師がいたのかも知れません。 しかしながらそれは恐らく起きていない、と判断しても構わないでしょう」

何しろ。

世界は何一つ変わっていない。

分かる限り、三千年くらい前からはそうだと、プラフタは言う。

こんなに長い時間、文明がロクに進歩もせず。

世界のあり方がほぼ変わっていないのも変な話だ。

500年前くらいから、ルアードが深淵の者を組織化して、本格的に世界の改革を目指したようだが。

それも結局の所、小手先止まり。

二大国も。

公認錬金術師制度も。

各地のインフラが猛獣やネームドにずたずたにされ。

ドラゴンが村や街を焼き尽くし。

倒せない邪神が、いまだに三十柱もいる。

その状況が変わっていない以上。結局世界を変えるのには成功した、とは言い難いだろう。

「賢者の石は、世界の深淵に到達することにも使えます。 しかし、それで満足してしまってはいけませんよ」

「するわけないでしょう」

「そうですね、貴方ならそうだと分かっています」

「……ルアードは、どうなんだろうね」

プラフタは首を横に振る。

彼女も調べているのだ。

この間パメラさんから、深淵の者の幹部だと明かされたのも、調査の一環だろう。他にもテスさんが深淵の者に所属していることも、あたしは既にプラフタに告げている。深淵の者には、当然だが錬金術師もいるはず。

何より、ルアードがプラフタに匹敵する超級の錬金術師なのだ。

賢者の石を。

造る事は出来ないでいるのか。

「それほどに、此処に材料が揃っているのは、運が良いことなのです。 或いは、何かしらの改良が行われて、簡単に賢者の石が作れるようになれば……話は変わるのかも知れませんが」

「ふうん、なるほどね」

それもそうだ。

そもそも、錬金術だけでは無い。

プラフタの話によると、分かる限り三千年くらい、か。

人間の文明は、ロクに進歩していないのだ。

未だに猛獣もネームドも、訓練を受けた者達が、命を落とす覚悟をしないと駆逐する事が出来ない。

歴戦の猛者と錬金術が合わさって。

ドラゴンはやっと相手に出来る。

邪神に至ってはアンタッチャブル状態。

倒せるとしてもそれは極めて幸運な状況。

ならば、人間の安全圏を更に大きくして。

文明を発展させていくしか路は無いのではあるまいか。

そもそも、錬金術にしても。

先人の技術が、極めて限られた形でしか継承されないことに問題がある。それをどうにかしなければ。

確かにルアードが言うように。

この世界には現在さえ無い。

だが、プラフタは、それでも人間の可能性を信じたいのだろう。

あたしはそういう考えは嫌いでは無い。

ただ、現実的では無いな、とも思うだけだ。

もしもこの非現実的な状況をひっくり返すには。

やはり世界の深奥に到達し。

そして真実を知った上で。

それを利用していくしかあるまい。

光のエレメンタルは言っていた。

この世界に、真実を知る人間はいないと。

それならば、あたしがその最初の一人になる必要がある。そして、世界を変えるしかないだろう。

座学を続ける。

賢者の石に関する話は、非常に難しい。

プラフタは可能な限り分かり易く説明してくれるが。

今のあたしでも、時々理解出来ない話が出てくる。

それくらい厳しい調合なのだ。

茶を淹れて、一休み。

モニカが来たので、掃除も頼む。

あたしはちょっとクールダウンしようと、果実から取り出した甘味を使ったクッキーを口に入れる。

頭を使いすぎた。

甘いものを取り入れて、脳に力を補給するのだ。

「ソフィー。 賢者の石はどう」

「今勉強の最中。 多分一ヶ月以内に造る事は出来ると思う」

「そう」

モニカによると。

ネームドが少し前に出現したが。

既に現在の武装で充分対応可能で。

倒したという。

「手強かったけれど、貴方がいなくても、多少のネームド程度なら撃退はもはや難しくも無いわ」

「物資の補給は必要?」

「備蓄で充分」

「そう、それは良かった」

あたしの所に声が掛からなかったという事は、大した事のないネームドだったのだろう。

ただ、そういったネームド撃破の報告が、既に三件来ている。

そして、モニカは。

もう一つ気になる事をいった。

「あのドラゴン。 赤いのと青いの。 覚えているかしら?」

「勿論」

「偵察の人員が見つけたわよ。 前に存在していなかった、不可思議な建物を」

「!」

なるほど。

あのドラゴンども、その建物を警戒していたのか。

視線の直線上に存在しているという事で、ほぼ間違いない、という事だが。

特徴を聞いて、プラフタが顔色を変えた。

「それは……!」

「どうしたの」

「間違いありません。 ルアードと私のアトリエです」

そうか。

これはどうやら、わざわざ探す手間が省けたらしい。

というよりも、そもそも都合良くあのイフリータという魔族が現れたのもおかしかったのだ。

彼奴は、恐らく。

あのドラゴンどもの監視対象を知っていて。

それに気付いているか、確認しに来た、と言う所だったのだろう。

或いは、ドラゴンどもが、アトリエに仕掛けるつもりだったら。葬るつもりだったのかも知れない。

今まで人間を襲わず。

実際害を為していないドラゴンだとしても。

潜在的な危険はある。

中位以上のドラゴンが、下位の邪神並みの実力を持つとなると。

あたしとしても油断は出来ない。

彼奴らにとっても、それは同じだったのだろう。

「一気に話が進展してきたわね」

「モニカ、お願いがあるんだけれど」

「何かしら」

「しばらくは徹底的に賢者の石に集中したいから、余程の相手で無い限り、あたしを呼ばないでくれるかな」

モニカは頷く。

今、キルヘン=ベルは岐路にいる。

モニカは今後の人生をどうするかで悩んでいるようだが。

そもそも、世界を裏側から動かしている深淵の者とのいざこざが一段落しない限り、それどころではない。

幸い連中は話が通じる。

戦いにはなるかも知れない。

だが、プラフタとルアードは、結局喧嘩別れこそしても。その思想はそれぞれ間違っている訳では無かったのだ。

それならば、利害が一致すれば。

この問題も、一段落する。

それから全てを考えれば良い。

それだけのことだ。

そのためには。

あたしが、今。

賢者の石を。

歴史上無い品質で。

作らなければならないのである。

「任せておきなさい。 それと、ジュリオさんには知らせておく?」

「やめてくれる? アダレットが妙な動きをすると、面倒な事になるかも知れないから」

「分かったわ。 真面目なジュリオさんには悪いけれど、今深淵の者の本部の位置を知ったら、立場的に動かなければならないものね」

「そういう事だよ」

モニカは掃除を終えて、アトリエを出ていく。

さて、複雑な利害が絡んではいるが。

これからだ。

後は、あたしがやるだけ。

調合を、これより開始する。

 

1、深淵へ潜る

 

錬金術の秘奥。

それは知識の秘奥でもある。

世界の深奥でもある。

そして深淵は。

常に人間を覗いている。

誰だかが言ったそうだ。

深淵を覗いているとき。

常に深淵も此方を覗き返しているのだと。

プラフタが言っていたのは、恐らくそれだ。深淵に捕らわれてしまい、それを有効活用しようと思えなくなってしまう錬金術師達。

それは深淵に心を掴まれてしまったのだ。

そして引きずり込まれ。

同類にされてしまったのだろう。

錬金術をやり始めて分かったことがある。

あたしにさえ分かる事だ。本来だったら、誰にでもわかる程度の事の筈だ。

だが、それを誰にも理解出来なかった。不思議な話だ。そう、あまりにも、色々とおかしすぎるのだ。

全ての謎に、今。

あたしは到達する準備を整えた。

まず深紅の石を作らなければならない。これに関しても、出来れば異世界アトリエの、究極調合用の錬金釜を使うべきだろう。そうプラフタは言っていた。ならばそうするだけである。別に考える必要もない。というか、そんなところにわざわざ脳みそを使いたくない。

今後嫌と言うほど苦戦するのは目に見えているのである。

丸投げできる部分は丸投げしてしまいたいのが本音だ。

空気さえないアトリエに入り。

其処で調合を黙々と始める。

まずは中和剤だが。

これはドンケルハイト製のものを使う。

理由としては、賢者の石にドンケルハイトが必須だから。

この辺りは簡単なのだ。

この辺りは。

問題は此処からである。

時々外に出て、空気を補充する。

空気が存在しないようにしている部屋だ。

魔術で空気を纏って作業しているが。

当然ながら、纏っている空気はどんどん悪くなる。その内下手をすると死ぬ事になる。

だから一定時間事に外に出て。

空気を補給しなければならない。

埃さえ入ることは許されない。

今やっているのはそういう調合で。

文字通り命がけなのである。

タイミングを見計らって外に出て。

コンテナに出来た品を収めたり。

中間生成液を順番に作っていく。

調合も複雑だ。

どの中間生成液も、ちょっとした失敗も許されないほど繊細である。外のアトリエで作業したら、多分一度だって上手く行かなかっただろう。温度から調合の比率まで、徹底的に管理しなければならない。

額の汗を拭いながら、音のしないアトリエで作業を続ける。

ふと思う。

これは、ひょっとして。

死後の世界ではないのか。

勿論そんな訳は無い。

だが、死んだ後は、このような状態になるのではあるまいか。

何も聞こえない。

ものの意思だけは聞こえるが。

故に、それが故に。いつも以上に苛立ちが募る。神経を逆なでされる。

大量の中間生成液を造り。

更にそれを、手順に沿って混ぜ合わせていく。

作業も一度には出来ない。

プラフタには錬金術そのものが出来ないのだし、あたしがやるしかない。そしてこの空間では、雑音もとい、ものの意思の声が嫌と言うほどクリアに聞こえるので。調合そのものは異常にやりやすい。

呼吸を整える。

一段落したので、アトリエを出る。

プラフタが、心配して、駆け寄ってきた。手には栄養剤。

あたしはそれを一気に飲み干す。

神経の消耗がひどかった。

「プラフタ、深紅の石は作ったことあるの?」

「ありますよ。 ただし、中和剤はドンケルハイトではありませんでしたが」

「そう……」

凄まじい疲労だ。

どんなネームドと戦った時よりも酷い気がする。

一旦異世界を出て、キルヘン=ベルのアトリエで休む。目を閉じると、四刻ほども眠ってしまっていた。

それでも疲れが取り切れていない。

外に出ると、軽く体を動かしてから。

コンテナに入り。

雑に料理をして、肉と野菜と糖分を体に入れる。

無理矢理体が動くようにしてから、調合を再開。

作業を開始する前に、プラフタと一緒にフローを組んではいるのだけれど。

そのフローが、一つでも失敗したら即失敗というレベルで過酷。

案の定、既に中間生成液を、何度か無駄にしている。

これはこれで、相当に高度な錬金術の産物なので、いずれ使い路はあると考えてコンテナにしまっているが。

コンテナも無限に容積がある訳では無い。

しかも此処は、おばあちゃんがかなり高度な錬金術を使って保存しやすいように改良をしている。

異世界にコンテナを作る場合。

それも、かなり骨が折れる事になるだろう。

さて、続きだ。

フローを見ながら、ラベルを貼った中間生成液を調合する。

時には混ぜるだけだが。

混ぜてから特定温度にしながら、一定時間を保つケースが厄介で。

時には人肌以下の温度に。

時には瞬時に人間なら消し炭になってしまうような温度に。

一瞬で切り替えなければならない。

この切り替えが極めてシビアで。

ものの意思が聞こえるから良いものの。

確かに聞こえなかったら、とてもではないが成功などさせられはしなかっただろう。

呼吸を整えながら、調合を続ける。

フローの度に釜を徹底的に洗浄しなければならないのも負担だ。

これなら何か、自分の言う事を全自動で実施してくれる道具か何かが欲しいが。まあそれはいずれ考えるとして。

とにかく今は。

出来る範囲内で、作業をしていくしか無い。

数日掛けて。

少しずつフローを埋めていく。

一つフローを処理するだけで相当な手間暇が掛かるのだが。それらの順番を間違えるだけで今までの作業が全て台無しになる。

ゼッテルに書かれているフローは長大かつ複雑。

しかも同じ中間生成液を何度も使うケースもある。

故に予定生成量の数倍を作る必要があり。

失敗することを考えると、更に必要量は多くなる。

三度目の休憩。やはりいつもより疲労の蓄積が多い。栄養剤を飲んだ上で眠るが、やはり起きだした時、体が重い。

調合の合間を縫って外に出ては、体を動かし。魔力も練っているのだけれども。

今回の調合はやはり桁外れだ。

どれだけやっても終わる気がしない。

しかもこれがまだまだ前段階だと言う事を考えると、その最終的な苦労がどれほどになるのか、見当もつかない。

深呼吸して。

井戸水で顔を洗う。

しばらく何も殺していないな。

そう思うと、いつの間にか舌打ちしていた。

匪賊はもうキルヘン=ベルに近づかなくなってしまった。本当に神殺しの渾名が拡がったらしい。

キルヘン=ベルに匪賊が近づいただけで、どこからともなく錬金術師が現れて殺される。

その錬金術師は人肉を好んで喰らうため。殺しても法的に問題が無い匪賊を狙っているのだと言う。

そういう噂まで流れているとか。

この手の話は、キルヘン=ベルに来る商人が又聞きで持ち込んでくるのだが。まああの手の輩を怖れさせるには、悪評であればあるほど良い。

ぼんやりと、周囲からネームドもドラゴンも邪神も排除した、自分の生まれ育った街を見やる。

この街の中に、ずっと深淵の者の幹部であるパメラさんがいた。

彼女は長老達よりも前からいた。

という事は、おばあちゃんがキルヘン=ベルを発展させる前からいた、という事で。

何か意味があったのだろうか。

それは当然だろう。二大国にも大きな影響力を持つ深淵の者の、しかも幹部である。理由もなくこんな所にいる筈も無い。

ぼんやりとしていても、ついつい脳を動かしてしまう。あくびをしながらアトリエに戻ると。

甘いものを口にして。

プラフタと状況の進展について確認し。

そしてフローの消化に戻った。

 

深紅の石について、作業の合間にプラフタから話を聞く。既に聞いてはいるが、実際の使用例や。

今までにどのように歴史に関わってきたのか。

そういう話を聞かせて貰うのだ。

プラフタは生前、世界でも上位に入る錬金術師だった。多分トップに限りなく近かっただろう。

彼女が、ルアードと一緒に経営していたアトリエには、貴重な書物も多数揃っていた筈で。

記憶が戻った今であれば。具体的にどう使われたか、話も聞けるだろう。

プラフタは少し考え込んでから、教えてくれる。

「深紅の石は、賢者の石の前段階ですが。 それでありながら、想像を絶するほどの力を秘めてもいます。 賢者の石には到達できない錬金術師が殆どですが、この深紅の石にしても相当な難易度で、作る事が出来た錬金術師は歴史上でもそう多くはありません。 故に、この非常に便利な素材は、様々なド級の道具の核となってきました」

プラフタによると。

800年ほど前。

全自動で移動する、巨大な砲台が作られたと言う。それはドラゴンに対抗することを目的としたもので、プラティーンで覆われ。深紅の石で中枢部分を管理され、自動で動いて魔術による大威力の砲撃をドラゴンに加えたそうである。

下位のドラゴンは何体かこれで葬ったそうだが。

中位以上のドラゴンには出力が足りず。

結局錬金術師ごとドラゴンによって返り討ちにされ、荒野に屍をさらしたそうである。今ではプラティーンで構成されていた事もあって、欠片も残されていないのだとか。

なるほど、それは失敗例だ。

成功例は無いのかと聞くと、プラフタは一つ挙げてくれる。

750年ほど前、ある街で、常時熱を発するための炉が作られた。

その街は雪深く、年の七割は雪に覆われているほどの過酷な気候で。周囲にネームドも多く。暖を取るために薪を集めるのさえ命がけだった。当然貧しい生活で疲弊している民だったが。

錬金術師だけは違った。

錬金術師が作った炉は、圧倒的な熱量を放出し、街中の雪を溶かして、薪を不要な生活を作った。

民は錬金術師を讃え。

余力が出来たため、周辺のネームドを錬金術師と共に駆逐。

以降、上位邪神が街を蹂躙するまでの170年間ほど、その街は栄えたのだという。

「邪神にやられたの?」

「その錬金術師は、弟子達を育成していましたが、その一人が驕り高ぶり、自分は無敵だと信じてしまったようです。 その結果、上位の邪神に戦いを挑み、敗れた上にその報復を招くという事態になりました」

「上位の邪神は、そんな伝説に残る錬金術師の弟子でも勝てないんだね」

「私も遠目に見たことがありますが、上位の邪神はもはや世界にとっての災厄が実体を得ているような存在です。 現在存在している二大国も、総力を挙げないと倒す事は不可能でしょう。 それも、総力で一柱倒せれば良い方でしょうね」

なるほど。

それならばなおさら。いずれ倒して行かなければならない相手だ。

他にも幾つかの成功例を聞くが。

結局の所、どの成功例も最終的には上手く行っていない。

昔話と現実は違う。

傑出した錬金術師は時々現れる。

賢者の石にまで到達できなくても、人々を地獄と困窮から救うレベルのインフラ改修にまでは到達できる。

だがそこからが駄目だ。

あたしはこれから賢者の石を造り。

創造神にアクセスする。

だが、その後。

それによって、深淵を覗き込み。覗き込んだ結果を、世界に還元できるのか。

キルヘン=ベルだって。

あたしがいるうちは良い。

錬金術によるアンチエイジングを習得したとして。

その後、数百年は平和が続くかも知れない。

近寄る邪神を根こそぎ倒して。

ドラゴンも徹底的に退け。

あたしの手が届く範囲であれば、平和を確保できるかも知れない。

だがその後は。

しばらく考え込んだ後。

無言で異世界アトリエに移る。プラフタも、まだまだ調合の先が長いことは分かっているのだ。

てきぱきとこの後どうするかについて、歩きながらアドバイスしてくれる。

アトリエに入り。

釜を徹底的に洗浄した後。

次の調合開始。

フローを確認してから、まだこなしていない部分から、処理をしていく。

大丈夫。

深紅の石が作れれば。

それをコルちゃんに増やして貰う事も出来る。

勿論コルちゃんは涙目になるだろうが。

それでも、中間地点にくさびを打ち込むことも出来るのだ。

そう信じて、一つずつフローを消化していく。

難易度が徐々に上がっているのもあって。

かなり厳しい作業になる。

今度は、中間生成液の一つに。貴重な素材である五日ツルをすりつぶして入れるのだが。

入れる寸前。

ものの意思が、強烈な反発を示した。

手を止める。

考え込む。

これは、入れていたら失敗した。

五日ツルの状態は悪くない。そうなると、中間生成液の方に問題があるか、或いは何か他にまずい点があるのか。

調べて見るが。

温度は問題ない。

空気も最大限遮断している。

ならば、何が。

ふと気付いたのは。中間生成液そのものの品質が決して高くない、という事だ。

脈を測って、なるほどと納得。

煮詰まりきっていないのである。

投入のタイミングを間違えるところだった。

冷や汗を掻きながら、ゆっくり丁寧に混ぜ合わせつつ過熱。出たガスは魔術でコントロールしつつ、排気する。

プラフタは、腕組みしてじっと見ていた。

必要のない所では、助けないつもりなのだろう。

それでいい。

あたしもその方が正直助かるからだ。

結局の所。

あたしは本を読むよりも。

座学での方が知識を得やすい。困った話だが、これは今後どれだけ錬金術師として大成しても変わらないだろう。

そして理論を組むよりも。

実戦の方が強い。

これに関しても、今まで散々調合をしてきて、何となくは分かってきているが。

このものの意思による反発が、今までになくクリアに聞こえる空間では。

嫌と言うほど、身に刻まれるようにして悟らされる。

中間生成液が丁度良くなった。

五日ツルを投入。

一瞬で青紫だった中間生成液が、猛毒としか思えない強烈な桃色になる。蛍光色のその液体は。

手でもいれたら、一瞬で全て溶け去りそうだった。

嘆息すると、続きに入る。

五日ツルは強烈な薬効効果を持っているが。

その成分の一部が中間生成液に、此処まで強烈な効果をもたらすのを目にすると。

今まで五日ツルを材料にしていた薬を使っていたのが、少し怖くもなる。

だが、実際に使えるなら何でも良い。

此処からしばらく煮詰めた後。

また別の中間生成液を投入。

翠色の蛍光色の中間生成液を投入すると。

釜の中で強烈に変化が起きる。

魔術で空気を操作して隔離。

ぼこぼこと強烈な熱量を発しながら二つの中間生成液が反応。様子を見ながら、適当な所で熱を止め。冷ましに掛かる。

しばしして。

音が止む。

其処には、どす黒い、タール状の液体が出来ていた。

釜の半分くらいまで減っているが。

取り出すと、もの凄く重い。

明らかに、同じ体積の水よりも遙かに重いが。

これは反応の結果、圧縮されたのだろう。

声が聞こえる。

そう、昔不愉快で仕方が無かった声だ。

今は異常にクリアで。

そして明確な意思さえ伴っているが。

「深くなった、深くなった。 もっと深くに潜りたいな」

黙れと呟きたくなるが。

アトリエからどす黒い液体を運び出し。

硝子ケースに入れると、ラベルを貼り付ける。

フローを確認して、処理する作業についてチェックした後。

釜を念入りに洗う。

プラフタは様子を見ていたが。

やがて褒めてくれた。

「五日ツル投入のタイミングを失敗しませんでしたね」

「プラフタは聞こえないんだよね。 どうやってあの辺の失敗をリカバーしていたの?」

「それは経験と試行錯誤です」

「……なるほどね」

そうか。

それはさぞ大変だっただろう。

この聞こえる、という能力自体が完全にギフト。いわゆる天からの授かり物だ。不愉快な話だが。不平等まみれのこの世界が、ソフィーを強くした。プラフタにはこのギフトが与えられなかった。

プラフタは錬金術の才能はあっても、この聞こえるという能力に欠けていたから、とにかく手数を増やすしか無かったのだろう。それでいながら、世界最高峰の錬金術師にまで上り詰めたのだから、大したものだ。

咳払いすると、作業に戻る。

まだ少し体力的に余裕がある。

この次の作業が終わると、フローもかなり埋まってくる。

複雑だったフローも、処理が終わった部分を精査していくと。最終的には一点に辿り着く。

深紅の石完成までもう少し。

そう信じながら。

あたしは調合を続けた。

まだフローはかなり残っているが。

そうした方が精神衛生上良いからだ。

時々空気を補給するために異世界アトリエの外に出ながら、あたしはもう少し、もう少しと念じ続ける。

鏡を見る余裕も無い。

身繕いなんてしている暇があったら。

調合に力を注がなければならなかった。

食事もどんどん粗末になって行く。たまたまモニカと出くわした場合は作ってもらうけれども。

それ以外では、ただ火を通しただけの肉や野草を、口に入れることも多くなっていた。

錬金術の最高峰は流石に厳しい。

 

2、戦士のあり方

 

アトリエにソフィーがこもり始めてから一週間以上が過ぎた。

時々掃除に出向くが。

ソフィーは死んだように眠っていることが多くなり。プラフタと話す事の方が多くなった。

勿論調合時に話しかけるわけには行かない。

今ソフィーは凄まじく複雑な調合をしていて。

しかもそれで作っているものが、深淵の者と話し合いをするために絶対に必要なのだという。

ならば邪魔は出来ない。

たまに起きている時にもでくわすが、その時は掃除よりむしろ食事をねだられる。実際問題、かなり雑なものばかり食べているようなので、モニカとしてもあまり放置しておくわけにはいかないのだ。

ソフィーは才能の不平等を憎んでいる。自分に才能がある事を憎み、その延長線上で自分自身さえ憎んでいる。

故に身繕いは雑になるし。

適当で済むなら適当で良いと考える。

土台は良いのに化粧っ気は皆無だし。

寝癖が盛大に跳ねたりしているのも、それが理由だ。

普段は多少は緩和しているのだが。

今のソフィーは、本当にそれどころではないらしく。最低限の身繕いしかしないし、目の下に隈も作っていた。

体力自慢で、体術も相当な実力を持つソフィーがこれである。

如何に過酷で、難しい調合をしているのかは、敢えてプラフタに聞かなくても明らかな程だ。

今日もソフィーは寝ていて、プラフタに近況を聞いて。掃除をして、それで終わり。様子だけは見に行くようにホルストさんに言われているので、モニカとしては最低限の義務は果たした形になる。

茶を淹れてくれたので、プラフタと軽く状況を話す。

ソフィーには話していないが。

プラフタには話してある。

実は、ソフィーがこの超高難度調合を開始してからというもの。

ネームドが押し寄せるようにして、キルヘン=ベルに迫っている。

プラフタにも協力を願うこともある。

やはりソフィーとプラフタがいないと、撃退はかなり厳しいのだ。

流石に今までソフィーが作った強力な装備があるから、簡単に負けるようなことは無いけれども。

それでも毎回負傷者が出る。

備蓄はどんどん減ってきている。

街の防護壁の修復箇所を狙って攻めこんでくるネームドもいて。

それらはいずれも非常に狡猾。

撃退ではだめで。

どうしても、その場で殺しきらなければならなかった。

素材については、プラフタを呼んで、解体してコンテナに入れているが。

それさえ、ソフィーを起こさないように、気を付けながらやっていた。

色々と気苦労が絶えない中。

モニカも自身の戦いで、ストレスをため込み続けていた。

ソフィーは鋭い。

眠っているように見えても、起きている事がしょっちゅうある。

だから、重要な話をするときは。

プラフタをアトリエから連れ出してから、が常になっていた。

茶を飲み終えてから、恒例の大事な話、に移る。というか、今回はプラフタから促された。

「モニカ、気付いていますか?」

「何か問題ですか」

「貴方の頬の傷、完治していません。 かなり無理をしている証拠です」

「!」

薬は塗り込んだのに。

傷跡というのは、ずっと残るものではなくて、いずれ消える。それも、体の調子が良いほど、消えるまでに掛かる時間は早くなる。

この傷は半月前にネームドから受けた。

ヴェルベティスの装備で強固に守られているとは言え、相手は猛獣の枠組みを超えた相手。

どうしても戦っていれば手傷を負う。

まして戦ったのは、巨大なカニのバケモノ。

その鋭いハサミの切れ味は、生半可な刃物の比では無く。しかもカニとは思えないほどに素早かった。水辺には陸魚と縄張り争いをするような巨大なカニがいる事があるのだが、それのネームド版だったのだ。

迂闊に近づいた自警団員が一瞬で腕を飛ばされ。ハルモニウム製の武器でも、一撃必殺とは行かなかった。

腕を切りおとされた自警団員は、生命の蜜ですぐに腕をつなげて事なきを得たが。流石に腕にダメージが残っていて、しばらくは後方任務に回されている。

こういう損害が、蓄積してきているのだ。

モニカにも、である。

鏡を見る暇も無くなっていたから、傷が治っていない事にも気づけていなかった。口惜しい。

モニカだって、身繕いに興味があるのだ。

正直な所、まともな伴侶を見つけることはもう諦めている。

この街のために働かなければならないことが多すぎる。

だからこそ、娯楽として、最低限の身繕いをしていたのだが。

今更ながらに。

頬の傷で、余裕のなさを思い知らされてしまう。

少し悲しくなってきた。

眼鏡を外すと、顔を洗う。

泣いていても敵は待ってくれない。

この街の周囲を緑化していると言っても、ネームドがまた増え始めていて。それを街に近づけないようにして退治していくとなると。どうしても激務になってしまうものなのである。

ましてや、今は深淵の者との問題もある。

世界を裏側から牛耳っているような相手だ。ソフィーが頑張ってくれているが、もたついているとしびれを切らすかも知れない。

しかも、今ソフィーと一緒に戦って来た面子は。

いつまでも街にいてくれるわけじゃない。

特にフリッツさんは、一段落したら別の街に行くはずだ。

何しろあの人は傭兵である。

あの人は優秀だ。指揮を執ってくれたから、ここ最近の自警団は見違えるほどに戦力が上がったし。

更に言えば、モニカはそれと同等の能力を今後求められていく事になる。

残念な事に、ラスティンは軍が弱い。役人はまともな人もいるが、兎に角国が戦力を送ってくれることは期待出来ない。

街はそれぞれ、自分で自分を守るしか無い。

モニカは聖歌隊も指揮したいと思っているが。

こんな事で、出来るのか。

ましてやもう一つ教会を作って、それを任される等という話になったら。

体が壊れてしまわないか。

プラフタに肩を叩かれて。

甘い蜂蜜入りの茶を勧められる。

またアトリエに戻り。

無言でしばらく、甘すぎるほど甘い茶を啜っていると。

プラフタは、ソフィーが眠っているのをもう一度確認した上で、言う。

「深紅の石の作成は順調。 このままだと、賢者の石を作成するのに、予定の一ヶ月を超えることは無いでしょう」

「ならば、もう少しということですね」

「そうです。 恐らく集まって来ているネームドは、この調合の気配を何処かから察しているのでしょう。 或いは光のエレメンタルが倒れた影響かも知れません。 古くから、強い錬金術師はそうやって集まってくる難敵に対抗するために知恵を絞り。 そして倒し切れずに葬られていったものです」

難敵は、何も獣やネームドばかりでもない。

そんな事はモニカにも分かる。

名声が広まれば、ろくでもない連中も集まってくる。

ソフィーはそんな奴らに遅れを取るようなタマでは無いが。

それでもモニカは。

その負担を今後減らすことを考えなければならない。

強くなれとは言うが。人間には強くなれる限界がある。

溜息が止まらない。

プラフタは、敢えて何も言わない。モニカも、ストレスで全身がおかしくなりそうだった。

甘いものでもだめか。

そして、である。

外に気配。

伝令だ。

ベンさんである。

「モニカ、此処にいたか」

「ネームドですか」

「いや、タチが悪い商人が来ていてな。 何だか高価そうな楽器を持ってきている。 お前、聖歌隊の備品として欲しいと言っていただろう。 カフェにあるのより立派な奴、確か……そう、ピアノだ」

「!」

プラフタは首を横に振る。

今は、ソフィーを放置出来ない、と言う訳だ。

モニカはすぐに出る。

商人の応対は、基本的にコルネリアさんがやるのだけれども。

彼女は基本、実利に関しての計算が多く。

嗜好品に関しては非常に厳しい判断をする。

モニカが今、教会に子供達と聖歌をやるために、大きめの立派なピアノを欲しがっていることは、伝えてあるので。

連絡が此処まで来たと言うことだ。

だが、モニカの手持ちでは、ピアノは少し高すぎる。

良いピアノになると、尋常では無いほどの値段がする。

これも機械職人の腕がモロに出るし。

一部の技術はロストテクノロジー化している。

途中でハロルさんに声も掛ける。

専門外だがなと言いながらも。

ハロルさんは、二つ返事でついてきてくれた。

商人は、コルネリアさんの所にいた。

護衛にタチの悪そうな連中を連れていて。

大きめの荷馬車に、それを積んでいた。

一目で分かる。

ピアノだ。

それも、カフェにあるのよりも本格的な代物。いわゆるグランドピアノである。

モニカもよその街に行った時、一度だけ目にした事がある。

これを持っているのは、基本的に余程の音楽好きの好事家か、それとも大きな教会だけである。

どちらかが何らかの理由で手放したか。

職人が新しく作ったのか。

一目で、後者だと分かった。

だが、にやついている商人には、品性が感じられない。

これは恐らくだが、相当に商人はぼったくられたのではあるまいか。

「ほら、言い値じゃ無いと売らないと言っているだろう? 珍しい新品のピアノだ。 買い手は幾らでもいるし、いらないならよそに持っていくよ」

そう、中年女性の商人は言う。

痩せこけていて、それでいながら目ばかり光ったヒト族だ。

余程強欲な商売ばかり続けて来たのだろう。

気の毒に、連れているホムのまだ幼い子供は、目が死んでいた。

まずコルネリアさんに事情を聞く。

彼女によると、カフェにあるピアノの推定値段の、およそ十七倍の値段を提示されたと言う。

「キルヘン=ベルとしても、コルネリア商会としても、品物として扱うわけにはいかないのです。 この街を守るためにも、この街の人々が生きていくためにも、必要な物資では無いのです」

「それは……分かっているわ」

「モニカさん、断った方が良いのです。 商人として断言するのです。 あれは、相当にふっかけているのです」

「そうでしょうね」

柄が悪い護衛が、周囲にメンチを切っている。

本当だったら即座にキルヘン=ベルを追い出したいくらいなのだが。

此奴ら、さっき商売として、山師の薬を此方の言い値でかなり買い取ったらしい。そういう意味では立派な客だ。

買い物だけしないでえらそうな口だけ叩くようならば、即座に追い出せるのだが。

此方の言い値をきちんと聞いて商売をしている以上、害客であっても悪客ではない。

しばし悩んだ後。

妥協案を出す。

モニカとしてもそのピアノは欲しいが。

モニカの手持ちではとても足りないし。

値切るしか無い。

「提案です。 此方としては、そのピアノが音をきちんと出せるかどうかを、確認したいのですが」

「ほう。 言ってくれるねえ。 まだ若いようだけれど、調律は出来るのかい?」

「それなら俺がやる」

ハロルさんが顎をしゃくる。

メンチを切ろうとした護衛が、視線を向けられて一瞬で黙る。

悟ったのだろう。

自分とは桁外れの敵を相手にしてきた、歴戦の猛者だと。

ハロルさんは格闘戦は得意ではないが。

それでも荒野では力不足な長身銃を振り回して、猛獣やネームドと戦って来たのだ。こんなチンピラ崩れに遅れは取らない。

すっと、前に出たのは。

いつの間にか来ていたヴァルガードさんだ。

「ピアノを降ろすのなら俺がやるが」

「どうします? きちんと音が出せるならば、商売は考えます」

「……ちっ」

舌打ちする商人。

ヴァルガードさんが浮遊の魔術を展開して、ピアノを降ろす。

そして開けてみて、ハロルさんが眉をひそめた。

「これは調律を一切していないどころか、部品が幾つも欠けているな。 このままでは動かないぞ」

「騙すつもりだったのです?」

「そうだろうな。 この有様では間違いなかろう」

商人が露骨に怯む。

すぐ側に、明確に歴戦をこなしている魔族が目を光らせていること。

今までの異常な強気が反感を買っていること。

コルネリア商会が、最近では近隣の街にも名を知らしめている、大型商会になりつつあること。

計算すればするほど。

自分が不利になる。

この性格が悪そうな商人だ。

しかも詐欺も平気でやるヒト族商人である。

すぐにまずいという事は悟ったのだろう。

「見てくれは立派だが、幾つか重要な部品がないまま出荷されたと見える。 さてはピアノ職人に無理を言って作らせたな。 売り切ってしまえば勝ちと思ったか」

「さ、さあ知らないね」

「商人ならば、商品が完品かどうかくらいは、きちんと確認してから売りに出すのです」

ぴしりとコルちゃんが一刀両断。

何だてめえとコルネリアさんに掴みかかろうとしたゴロツキだが。

一瞬でコルちゃんは、その顎を蹴り挙げていた。

一撃でゴロツキの意識が消し飛ぶ。

棒立ちになったゴロツキが顔面から地面に落ちそうになったので。首根っこを掴んで、顔面がぐちゃぐちゃになるのを防いでやる。

他の護衛は顔面蒼白。

まさか、此処までホムがやるとは思わなかったのだろう。

コルネリアさんも、歴戦をくぐり抜けて鍛え抜かれているし。

何よりソフィーの作った装備で身を固めている。

いつ何があっても不思議では無いから。

そうしているのだ。

「な、なな……!」

「そのピアノ、貴方の提示している金額の10分の1でなら買い取りましょう」

モニカは冷ややかに言う。

ハロルさんと先に耳打ちで会話した。

部品の調達料金などを考えると、その辺りが妥当だそうである。

そして、その金額なら。

モニカの給金で払える。

今までキルヘン=ベルの経済規模は拡大を続けており。モニカも相当なお給金を貰っている。

今までため込んできたのは、こういう「いざという時」のため。

使うのは、今だった。

悔しそうに唇を噛みながらも、商人は値上げ交渉をしようとしたが。

コルネリアさんが、ぴしりとはねつける。

「貴方の行動については、しっかり覚えたのです。 既に幾つかの街に、コルネリア商会の関係商人がいるのです。 役人にも知り合いがいるのです。 商売が出来ないようにするのは簡単なのです」

「脅すつもりか!」

「そうです」

「……っ!」

コルネリアさんも、気の毒にソフィーと接してきたのだ。

あの子の狂気は、生半可な覚悟では相対することが出来ない。

コルネリアさんはいつも怖がっていたが。

逆に言うと、ソフィーといつも接しているのだ。

こんな程度の相手、怖くも無いだろう。

「わ、分かった。 その値で売るよ……」

「毎度あり、なのです」

口元を抑えるコルネリアさん。

更に彼女は、目が死んでいるホムの助手を此方で引き取りたいと提案。値段はどういう理屈かは分からないが、この交渉も成立していた。

予想利益を相当に下回ったのだろう。

肩を落として街を出て行く商人。

正直、二度と戻って来るなと吐き捨ててやりたいが、そうも行くまい。

私は嘆息すると。ヴァルガードさんと一緒に、教会にピアノを運び込む。

そして、ハロルさんに、必要な部品について確認すると。

まず、コルネリアさんに、有り金をはたいてピアノ代を出す。

そうすると、コルネリアさんは、二割ほどまけてくれた。

「これは、あの子を手に入れる時、ふっかけたので、その分なのです。 モニカさんが強気の値段提示を最初からしてくれたので、此方としてもやりやすくなったので、そのお礼なのです」

「そう。 あの子は……」

「恐らくは、大都市で暮らせなくなったストリートチルドレンなのです。 騙されて、安値でこき使われていたのです。 真面目で数字に強いホムでも、幼い頃からそうだとは限らないのです」

「……可哀想に」

コルネリアさんは、きちんと適正な給料で、適正に働いて貰うと言うが。

まあ彼女になら任せても大丈夫だろう。

コルネリアさんが教会から帰ると。

神父様が、ピアノを見て少し嬉しそうにする。

「これで聖歌隊も、少しは良くなるな」

「まだ動きません。 これから私の自腹で、動くように調整します」

「其処までしてくれるのか。 すまないな、モニカ」

「いえ」

モニカは、聖歌が好きだ。

正確には、歌が好きだ。

ソフィーと信仰の事で何度も対立したモニカだが。実のところ、モニカは信仰そのものよりも。歌が好きなのである。勿論敬虔な教会の信者であると自負はしているが、それはそれ。多分自分の中での優先順位は歌が上だ。

絶対に口には出さないが。

元々歌には元気をくれる力がある。

モニカは街の中でもそこそこ裕福な暮らしをしている家に生まれたけれども。それでも、所詮多寡が知れていた。

教会に入り浸る内に剣術と魔術の才能を見いだされ。

眼鏡を貰うほどに優遇をされたけれど。

その一方で、強い責任意識を持つようにもなった。

教会には不幸な子供も多い。

面倒を見てもらっている不幸な子供には、心が荒んでいる子も多い。

無理矢理集団行動を強いて、歌を嫌いにさせるような教え方はしない。

それは最低条件だ。

だが、歌の楽しさを教える事については。

モニカは自信がある。

荒んだ心の子供でも、きちんと面倒を見られるパメラさんもいるし。

そんな子供達のためにも。

モニカは聖歌隊をしっかりとしたものにしたい。

そしてそんな子供達が安全に暮らせるようにするためにも。

街に近づく邪悪は、滅ぼさなければならないのである。

ソフィーが、教会嫌いで。

教会に関する話で、モニカとは何度も殺し合い寸前の喧嘩をしながらも。

未だに信頼関係があるのは。

恐らくは。モニカを強い責任意識を持っていて、皆の幸せを願っているという点で、信頼してくれているから、だろう。

モニカもその点では、ソフィーを信用している。

あの闇と狂気に心をむしばまれたソフィーも。

モニカの真面目に街のことを考えている所は認めてくれているし。

この間渡されたグナーデリングで、最悪の場合は自分を殺せ、等という事を告げてくれたのも。

モニカのことを信頼してくれている証だ。

ロジーさんの所に出向き。

ピアノの部品について注文を終えると。

カフェに出向く。

気分転換ではなく。

情報収集のためだ。

ホルストさんに、ピアノを買ったことを聞かれたので、素直に答える。ホルストさんは、見ていたと言った。

「実はあまりしつこいようなら、私が出るつもりでした。 良く適切に商売をする事ができましたね」

「いえ、私だけでは」

「良いのですよ。 値段の専門家としてはコルネリアがいました。 自警団の次期団長になる貴方には、他の人と手を取り合って、この街を守って行く技量と心の広さが要求されるのです。 武力だけではつとまらない。 貴方に白羽の矢が立ったのは、そういう理由からなのですよ」

そう言われると、少し赤面してしまう。

咳払いすると、ホルストさんは本題に入る。

「またネームドが確認されました。 巨大な百足です」

「場所は」

「東の街の少し北です。 既に東の街では厳戒態勢を整えています」

「分かりました。 すぐに対処します」

装備品を確認すると、既に待っていたフリッツさんとジュリオさん。オスカーとレオンさん。他に自警団の戦士達と共に、東の街に向かう。

あれからソフィーが物資を造り続けてくれた結果、旅人の靴はこれから出るメンバー分くらいは揃っているし。

最初の頃に作ってくれた品とは、マイスターミトンも友愛のペルソナも品質が比較にならない。

疾風のように東の街に到着すると。

ミゲルさんに情報を聞く。

どうやら西、つまりナーセリーの方から来たらしく。

今は街の外で、獣を貪り喰い散らかしているらしい。

いつ街に牙が向くか知れたものでは無い。

すぐに撃退する必要があるだろう。

「モニカ君、錬金術師殿がいなくても大丈夫か」

「平気です。 あの子が作ってくれた装備品がありますから」

「おうよ」

オスカーが自慢げに、アンブロシアの花冠を親指で指さす。

どういう仕組みなのか。

作ってからかなり経つのに、まったく花が枯れる様子が無い。

フリッツさんが、外に出て、状況を確認してきた。

「かなり手強いネームドだが、この面子ならやれるはずだ。 速攻で仕留める」

モニカは頷く。

ソフィーはソフィーで、近隣の命運を賭けた戦いを続けてくれているのだ。

モニカはモニカで。

この周辺を守るための戦いを続けなければならない。

一度休憩を取り、食事をして一眠りして。

それで疲れを取ってから、獲物に仕掛ける。

ネームドの戦闘力は流石で、簡単には勝たせてくれなかったが。

それでも、激しい戦いの末に、勝利することに成功する。

手傷も受けたが。

それでも、最小限にとどめた。

だが、プラフタの言う通りだ。疲労の蓄積がどうしても隠しきれない。普段なら受けないような手傷を、幾つも貰ってしまっていた。

それでも。ジュリオさんは、褒めてくれた。

ちなみに、百足を仕留めたのは、ジュリオさんの一撃だった。

「その腕ならば、アダレットの騎士団でも重鎮になれるよ。 此方に来ないかい?」

「いいえ。 私には、キルヘン=ベルがありますから」

「そうか。 でも、ソフィーを通じて縁がある。 もし離れてもいずれまた共闘する時が来るだろうし、その時は頼む」

「はい」

獲物を解体し。

深核を見つける。

これはソフィーが喜ぶだろう。

後は獲物の肉を焼き。ある程度はその場で食べてしまう。

甲殻については、金属を含んでいるらしく、持ち帰った後プラフタに見せれば喜ぶかも知れない。

向こうは向こうで、今熾烈な戦いの真っ最中だ。

少しでも、喜んで貰えるようにしてあげたい。

フリッツさんが手を叩いて、撤収を指示。

オスカーは、少し東の街に残るそうだ。

緑化作業中の、森の様子を確認するという。問題があるようには見えないが、手の届く範囲内では、植物に優しい世界にしたいのだろう。今のオスカーは戦士としても一人前だし、一人でも大丈夫だが。フリッツさんが指示をして、自警団員が何人かつく。これについては、オスカーの森林知識を学べ、という意味もあるのだろう。

ミゲルさんにネームド討伐の報告を終えてから、キルヘン=ベルに戻る。

さあ、ソフィーは今、きつい仕事をしているのだ。

私は。

キルヘン=ベルを少しでも良くするために。

戦いでも。

それ以外でも。

力を振るわなければならない。

神父になって欲しいと言う話は、今後どうするかまだ決めていない。非常に悩ましいが、断るべきかも知れない。

聖歌隊。

自警団団長。

どちらもこなすだけで厳しいのに。

神父まではやっていられないからだ。

帰り道、フリッツさんに言われる。

「モニカ。 随分と悩んでいるようだが」

「ええ。 二足のわらじだけではなく、もう一足となると厳しいですから」

「たまにはレオンの作った服でも着てみてはどうか? 着飾ってみるとだいぶ気分転換になると言うが」

「幾つか既に作ってもらっています。 ただいつ有事があるか分からないので、しばらくは……」

そうかと、フリッツさんは呟く。

少し黙り込んだ後、フリッツさんは話してくれる。

「私の娘は人形劇と人形劇の脚本作りにしか興味が無くてな。 戦士としても相応に鍛えたのだが、傭兵としての仕事は非常に評判が悪い。 人形劇の脚本は私以上の才能を持っているし、剛力で言えば夜の魔族並みなのだが、二足のわらじというのはやはり厳しいようでな」

「フリッツさんは、人形師と傭兵、どちらも高レベルでこなしています」

「そうなるまでにこの年まで掛かってしまったよ」

「……」

そうか。

それもそうだ。

この人でさえ、そうだとすると。私は一体、二足のわらじをきちんとこなせるようになるまで、どれだけ掛かるのだろう。

キルヘン=ベルに到着。

ソフィーは調合中。

コンテナに戦利品を格納し。

掃除だけして帰ろうとすると、プラフタが来た。

「良い素材が入ったようですね。 またネームドとの戦いですか」

「ええ。 手強い相手でした」

「いや、恐らく迷いが手強くしているのでしょう」

分かっている。

だが、プラフタは、責めるようなことはしなかった。

「聖歌隊が、子供達のためだと言う事は聞いています。 集団行動を強制することはなく、一人一人に丁寧に歌の楽しさを教えているそうですね」

「ソフィーから聞いたのですね」

「ええ。 あの子も、モニカを時々褒めています。 自分にはできない事を出来るから、羨ましいと」

しばし言葉を飲み込んでから。

目元を拭う。

もう少し、頑張ってみよう。

今日はもう、休む事にする。

プラフタから傷薬を貰って、手傷を治すと、自宅に直行。

そのまま、後は何も考えずに眠ることにした。

二足のわらじを履き続けるのは厳しい。

レオンさんにしても、傭兵としての仕事は殆どしていないに等しいのだ。戦士と傭兵は違う。

ましてや、三足なんて。

目が覚める。

疲れが余程溜まっていたのだろう。

完全に熟睡してしまっていたようだった。

だが。気持ちはとても晴れやかだ。

モニカはカフェに出向く。

そして、ホルストさんに、開口一番に告げた。

「申し訳ありません。 以前から打診があった、新しい教会の神父に、という話については、断らせていただきます」

「ふむ、モニカなら、と思ったのですが」

「ごめんなさい。 私は聖歌隊と自警団の団長で限界です。 その代わり、聖歌隊を通じて子供達に歌の楽しさを伝え。 自警団の団長として、次世代のこの街を守ります」

「分かりました。 その二つを全力でこなしてくれるのであれば良いでしょう。 神父に関しては、人員を此方で探します」

周囲が驚いた様子で此方を見ている。

モニカが断るのははじめて見た、という顔の者もいた。

モニカはそのまま、ロジーさんの所に出向き。出来上がった部品を受け取ると、ハロルさんと一緒に教会に。

数日後に、完全に直ったグランドピアノを弾く。

流石だ。

素晴らしい音色である。

しばしピアノを堪能してから、子供達と一緒に歌う。

下手でも構わないのだ。

歌なんて、楽しければそれで良い。

勿論モニカは上手である必要があるけれど。子供達は最初に「楽しい」を知れば良い。

街の人間が増えるにつれて、不幸な出来事によって親を失い、教会に引き取られた子供も増えてきた。

目には光がないことも多い。

そんな子供達に、最初に「楽しい」を教えるには、簡単な事が一番だ。

そしてモニカは、そんな「簡単」な「楽しい」を教えたい。

「ちょっといい?」

ふと気付くと。

側にソフィーが立っていた。

少し疲れているようだが。だが、満足げである。

「どうしたの」

「深紅の石完成。 これから賢者の石に移るから、その前にちょっとね」

プラフタに97点を貰ったと、自慢げに言うソフィー。

そうか。

やったんだな。

モニカは頷くと、ピアノを譲る。ソフィーも時々ピアノに触っていたが、はてさてその腕はどれだけ向上したか。

ソフィーがピアノを弾き始める。

この曲は。

昔、良くパメラさんが。

大げんかして二人とも泣いているモニカとソフィーに、歌ってくれた。

分かり易くて明るい曲調の。

楽しい歌だ。

モニカは咳払いすると、童心に返ったつもりで歌い始める。

何でもそうだが、最初に始めるときは技術なんていらない。「楽しい」で良い。

ソフィーも、教会も聖歌も嫌っていたが。歌が楽しい事だけは否定しなかったし。ずっと接している内に、ドブより濁っていた目にも、少しずつ狂気と怒りが大半とは言え、光も混ざり始めていた。

二人のセッションは。

しばし続く。

ソフィーは多分錬金術の道具で誤魔化しているのだろうけれど。それでも、とても素人とは思えないほどにグランドピアノを弾きこなし。

モニカも、とても楽しく歌うことが出来た。

歌が終わると。

子供達がわっと沸く。

満足だ。

これが、私の求めていたもの。

モニカは頷くと。

三足は無理でも二足のわらじなら、履いていけると思った。

 

3、究極の1

 

深紅の石を作った後。あたしは三日寝込んだ。

モニカと教会でセッションをした後である。

流石にずっと三日間寝ていたわけでは無いが。

それでも、三日間は殆ど身動きできなかったのも事実だ。

ようやく四日目に起きだして。

次の段階に入る。

いよいよだ。

賢者の石を作る。

まず、プラフタと一緒にフローを作ろうと思ったのだが。プラフタは、首を横に振った。

「賢者の石に関しては、作るのは材料さえ揃っていればそれほど難しくはありません」

「そうなの?」

「あくまで製造過程は複雑では無い、という事です。 深紅の石は増やして貰いましたね?」

頷く。

元々深紅の石は、予定量の二倍作った。

その内の半分をコルちゃんに渡してきたので、後はその気になればいつでも増やして貰える。

コルちゃんは専門家である。深紅の石を見た瞬間気絶しかけたが。

その後気合いを入れたら、意識を取り戻し。泣きながらどうにかすると言ってくれたので、多分大丈夫だろう。

さて、座学もそれほど長くは無かった。

要するに、それぞれの属性の要素を、極限まで取り出して、調合すれば良い。

加工も行程は難しくない。

技術的には大変に高度なものを要求されるが。

それはそれだ。

むしろ問題なのは。

作る過程である。

プラフタは言った。

賢者の石は、低品質のものなら、完成させた錬金術師がいたと。

材料がまず揃わない。

揃った所で、今異世界アトリエに作っている空気のないハルモニウム釜を配置したアトリエなんて、用意できる錬金術師はそう多く無い。

何よりも、そもそも深紅の石にたどり着ける錬金術師が多く無い。

最後に。

賢者の石を造ると言うことは。

深淵の深淵を。

直接覗くと言う事だ。

それに精神が耐えられない。

あたしは。

耐え抜いて見せる。

今までのは、狂気に満ちた世界を見て疲弊したからでは無い。

行程が複雑極まりなくて、地獄を見たからだ。

あれについては、今回成功例を出したので。

今後理論を研究して、作成に関しての行程を短縮できるようにしたい。出来れば、もっと簡単に作れるようにしたいのだ。

そうすれば、恐らくだが。

そもそもあらゆる媒体として優秀な深紅の石を使って。

世界の技術水準も。

人類の防衛能力も。

大幅に向上するはずである。

賢者の石に関しては、素材の入手難易度が高い事もあって、必ずしも作れなくても良いだろう。

だが、深紅の石は。

実際に活用した例を聞く限り。

人類に未来を作るはずだ。

賢者の石は、更にその先。

いずれにしても、調合を開始する。

まずは、深紅の石を潰す。

その後は、順番に材料を細かく砕き。

釜に混ぜていく。

深紅の石は、一旦熱を加えて溶解させると、一瞬にして何もかもを取り込んでいく、強力極まりない中和剤になる。

文字通り究極の中和剤として機能するため。

ものを変質させる錬金術において。

核になるのも無理がない素材だ。

そのまましばし混ぜながら様子を見ているが。ふと、気付く。

雑音が。

止まった。

この空間だと、雑音が嫌にクリアに聞こえていたのだが。

それが止まったという事は。

何かあったと見て良いだろう。

失敗したのか。

いや、それならば、嫌な音が聞こえているはず。

かといって、成功しないのなら、どうして良い音が聞こえない。

む、とあたしは唸る。

自分の周囲にしか空気が無いから、そもそもあまり無駄に息をするのでさえ避けたいところなのだけれども。

これは不可解だ。

調合の過程を、さっと見直すが。

間違っている様子は無い。

これで良いはずだ。

かといって、溶かした深紅の石に変化はない。

少し考え込む。

赤い液体は、温度を一定に保たれ。丁寧に処理をした様々な素材が溶け込んでいる。混ぜてはいるが、それでも変化は生じないし。有毒のガスが出る様子も無い。

失敗したか。

舌打ちしそうになるが、そもそも普段と状況が違いすぎるのだ。

何よりも、である。

そもそも大半の錬金術師がたどり着けない深紅の石を使った調合である。

不確定要素が出るのは当たり前だが。

それにしても、何だこれは。

ものの声が一切聞こえないというのは、初の経験だ。

調合の時は、必ず目安になる声が聞こえていた。

それだというのに。

何が起きたというのか。

「プラフ……」

呼びかけて、止める。

少し自分で考えたい。

失敗したのなら、それはそれで良い。今回に関しては、取り返しが利くから、である。

今までの知識を総動員する。

今も、作業は中断したわけでは無い。温度を保って、次の段階へ行くべく準備をしている。

本来だったら、色が変わる筈なのだが。

それが起きない。

だが、そもそも賢者の石の作成に関しての成功例が少なすぎることもある。今は静かに見守るべきなのではないのか。そう自分の中のもう一人が囁く。勿論比喩だが、葛藤はある。

基本的にあたしは。

忌み嫌っていた雑音に、調合では随分助けられてきたのだなと。

こういうときに思い知らされてしまう。

あれほど憎んでいたのに。

いざ完全に消滅してしまうと。

これほど躊躇が生まれてしまう。

頭を振って、しばし状態を観察。

もう一度、最初からチェックを開始。

温度は。

間違いない。想定通り。

空気は流入していないか。

大丈夫。余計な空気は入り込んでいない。

勿論その結果、埃などが混入するケースには至っていない。あたしも気を付けているし、咳とかで変な水分や不純物も混入してはいないはずだ。

かき混ぜながら、おかしな状態になっていないか、丁寧にチェックしていく。

ざっと見たところでは、混ぜる過程の変化は、前の段階まではきちんと上手く行っている。

これに関しては、相応の数の調合をこなしてきたのだ。

調合の密度という点では、どの錬金術師にもまけていない。

胸を張れ。

間違っていない。

自分にそう言い聞かせる。

こういうときは、気分転換だ。

少し距離を取って、座り込む。

フローと呼べるほどでは無いが。

ゼッテルに書いておいた調合のメモを確認し、順番に一つずつ、行程をチェックしていく。

間違いは、ないか。

一度アトリエを出る。

空気を纏う魔術を解除。

何度か深呼吸した。

少し時間をおくか。

どうせこの後は、煮込む作業だ。

本来だったら起きるべき変化が起きていない時点で。

此処で出来る事は一つも無い。

「ソフィー?」

プラフタが異世界アトリエに入ってきていた。

飴を取り出して(果実の糖分から作り出したものだ)舐めているあたしを見て、不思議に思ったらしい。

来たのなら、言っても良いか。

状況を説明すると。

プラフタも考え込んだ。

「私も賢者の石の作成はした事がありません。 資料の中に、間違いがあった可能性は否定出来ません」

「或いは、単純に偶然出来ただけだった、のかも知れないね」

「その可能性も高いと言って良いでしょう」

「厄介だな……」

恐らくは、だが。

深淵の者でさえ、高純度賢者の石は作成に成功していない。

こんな事をいうのも、もし出来ているのなら、創造神へのアクセスをしている筈だからだ。

ドンケルハイトを一とする、貴重な材料は。

それだけ入手が難しい。

あたしの場合は、オスカーがいたりして、兎に角運が良かった。

それでも、本気で調合している今。

運を使い果たした結果、上手く言っていないのでは無いかと言う、オカルトじみた考えに捕らわれてしまう。

更に言うと。

魔力が強いあたしは、勘だって強い。

素での魔力を磨いてきた今は、相当な自信もある。

まあ流石に、予知能力に近いレベルの勘は備えていないけれども。

戦闘時にある程度の「戦況の流れ」を読むことは出来るし。

タイミングに合わせて、最良の攻撃を仕掛ける事も得意だ。

ならば、今回は何故上手く行かないのか。

魔術は使える。

そして、アトリエの外に出た今。

雑音は聞こえている。

ならば雑音が聞こえなくなるのは、賢者の石の調合を行っている、その時特有の現象なのか。

だとしたら興味深くはある。

「ひょっとして、ものの声が聞こえる錬金術師で、賢者の石を作る事が出来た者がいない、という可能性は?」

「あり得ますね。 そもそも人口千人に届かないこの街に、二人もものの声が聞こえる人間がいる時点で、色々とおかしいのです。 本来は、万単位の人間が住む街にさえ、まずいないほどなのですよ」

「そうか……」

それならオスカーにプラフタが勧誘を掛けるのも頷ける。

なお、まだ諦めていない様子で。

「植物と友達になる」をオスカーが達成したら、錬金術師にならないか、声を掛けるつもりのようだ。

いつになるか分かったものではないが。

時間の感覚が麻痺してしまっているとも言える。

プラフタはこんな体だ。

人間に仮に戻る事が出来たとしても。

もう普通の人間の体ではないだろうから。

二人でアトリエに入り。

釜の状態を確認。

プラフタも一つずつ項目をチェックしていくが。

やはりおかしな点は見つからなかった。

あたしも素材をチェックするが。

此方も考えうる限り最高のものを使用している。

ならば、おかしいのは。

伝わっていた情報の方なのか。

釜の状態はそのままにして、アトリエをまた出る。空気が限られる上に、余計な行動で全てが台無しになりかねない極めてデリケートな空間なのだ。中で話し込むのはあまり好ましい行動では無い。

プラフタは熟考しているが。

ものの声が聞こえなくなる、という点で。

ひっかかりを覚えているようだ。

「ソフィー。 ものには意思があります。 その願いに沿って変質させる事が錬金術です」

「うん。 最初に習った基礎中の基礎だね」

「貴方は言いました。 声が聞こえないと」

「そうだよ。 だから困ってる」

プラフタは、あくまで仮説ですが、と前置きした上で。

驚くべき結論を口にした。

「ひょっとすると、ですが。 既に釜の中での反応を起こしている深紅の石は、「意思あるもの」ではないのかも知れません」

「え?」

「この世界の理から外れたか、或いは……」

深淵への扉が開いたか。

だとすると、可能な限り注意深く状況を見守らなければならないだろう。

理由も確認したい。

いずれにしても、失敗したとは思えない。

更に今まで完成した賢者の石が、いずれも低品質品だったことを考慮に入れなければならない。

低品質の賢者の石の場合。

この過程が、すっ飛ばされるのかも知れない。

深紅の石の質が低かったのか。

それとも、使用する素材に不純物がたくさん混ざっていたのか。

今あたしが挑んでいるのは。

人跡未踏の調合だ。

ならば、どの可能性も考慮に入れ。勿論失敗という可能性も視野に入れながら。調合を続けるだけだ。

休憩を入れながら、調合を続ける。

プラフタが茶を淹れてくれたので、表のアトリエでそれを堪能し。また異世界アトリエに戻る。

しばしして。

不意に。強烈な「声」が聞こえた。

まるで吸い込まれるようなそれは。

どれほど難しい調合でも。

聞いた事がないものだった。

さながらそれは。

地獄でうめき声を上げる悪霊。

おぞましいまでの声の密度で。

さながら、耳元で絶叫されているかのようだった。

だが、不思議と。

耳を塞ごうとは思わなかった。

釜に歩み寄る。

其処では、世にも不可思議な変化が起こりつつあった。

今まで安定していた状態が、勝手に変化し始めた。

釜の中の深紅の石が煮立ち始めている。

完全に溶けた素材と一体になって。

ぼこぼこと、凄まじい音を立てていた。

温度を確認。

特に異常な事にはなっていない。だが、この変化の凄まじさ。今までまったく聞こえなかった声が不意に聞こえるようになったこと。目を離す訳にはいかない。

プラフタが異常に気づいて、降りてくる。

そして、状態を確認して絶句した。

あたしは、何となくだが。

気付く。

これは産声だ。

この世界に、新しい一つが誕生しようとしている。

今まで賢者の石を作った錬金術師は、これを聞いたのだろうか。

植物のネームドの中には、凄まじい音波攻撃を仕掛けてくる者がいるが。それ以上にさえ思える。

ものの声とは。

これほど激しかったのか。

やがて、深紅の石の液体は膨れあがり。

そして泡が膨れるように体積を増していき。

不意にある一点で、止まった。

落ち着いていく。

色も変わっていった。

何だろう。

この間のモニカの声。

一緒に弾いたピアノの音。

それを思い起こさせる、優しい音がした。

今まで、雑音だとしか認識しなかったし。

明確に意思のある声だと思った事もあったけれど。

それらとは違う。明らかに違う。

呼吸を整えて、釜を見る。

其処には、澄んだ液体が、さあ次の手順をと。待っているかのように存在していた。

 

調合を再開する。

其処からは、スムーズに動いた。

時々、上位次元への干渉が、液体の中で起きているのが分かる。

邪神との交戦経験があるあたしだ。

上位次元に異変が起きるのは、既に肌で感じ取れるようになっている。

そして悟りもする。

上位次元へ今。

あたしは邪神と同じように干渉している。

上位次元からの干渉を防ぐヴェルベティスは作った。

そういう意味で、あたしは既に邪神と同じ土俵に上がり掛けてはいた。

だが今は違う。

邪神にしか許されなかった上位次元への干渉を。ダイレクトに行っているのだ。

上位次元に何かしらの方法で干渉する道具は作れる。だがそれはあくまで魔術の極限強化などの応用技であって。

このように、自分の手で上位次元への干渉をしている訳では無い。

聞こえている音はとても優しくて。

今まで聞こえていた殺意すら感じる雑音とは、根本的に全てが違っていた。

本来、調合をするときには。

この音が聞こえるべきだったのだろうか。

ものの声が聞こえる人間にはオスカー以外会ったことが無い。オスカーは、植物限定の要素が強いし。調合をしている時に立ち会ってももらったけれども。「雑音」としては声を聞いていないようだった。声そのものは、あたしより弱いものの、聞こえてはいるようだったが。

順番に、一つずつ。

丁寧に作業をこなしていく。

そして間もなく。

その終わりが訪れようとしていた。

不意に、透明だった液体が、激しく反応し始める。

最後の中間生成液を投入した瞬間だった。

強烈な反応。

魔力という域を超えたものが、釜の中で渦巻いている。

あたしは悟る。

今、この空間で。

局所的に、世界の法則に干渉が行われている。

錬金術そのものが、ものの意思に沿って、ものを変化させるという代物だが。

これはものを変化させているんじゃあない。

世界を変化させるものを、今あたしが作っているのだ。

舌なめずりする。

なるほど、これは錬金術の究極になる訳だ。

錬金術とは。

古代の人間が、金を作り出すための術として、作り出したものという説があるのだとかいう。

プラフタの座学で聞いた話だ。

故に錬金術。

だがそれは、いつしか金を造るなどと言うくだらない目的ではなく。更に遙かに高度な存在を作り上げ、或いは干渉する技術へと変わっていった。

それをあたしは。

現実の出来事として。

目の前で見る事になった。

激しい反応が程なく収まり、釜の中の液体が縮みながら固まっていく。

声はとても優しい。

まるで、誰かに語りかけているような。

そうだ。

思い出した。

この声。

おばあちゃんだ。

あのクズから助け出してくれた後。心身ともに致命的な打撃を受けていたあたしに。付き添ったおばあちゃんは、絶対によそでは見せない優しい声をかけ続けてくれた。

もっと前。

あたしが生まれたときに。

おばあちゃんはずっと、こんな声で、初孫のあたしに接してくれていた。

一番大事な人の声だったのに。

どうして忘れていたのだろう。

涙が零れてくる。

あれ。こんな風に泣いたのはいつぶりだ。

モニカと殺し合いに近い喧嘩を何度もして。その度に大泣きしたけれど。それともまた違う。

あたしの壊れた心に。澄み渡ってくるような優しい声だ。

既に、賢者の石は出来ている。

声は徐々に消えていく。

勿論、それがおばあちゃんの声では無い事くらいは分かっている。

こんな声だった、という印象の問題だ。だが、あたしは、いつの間にか力なく、床に膝を突き。

顔を覆っていた。

そうだ、こんな風に普通の人間は泣くんだ。

あたしは、今までもこれからも、こんな風に泣くことはないだろう。

だが、今だけは。

誰にも知られず見られない今だけは。

こんな風に泣いても良いだろうか。

そう、もはや雑音がまた消え、静かになった異世界アトリエで。

あたしは、目を拭いながら、考えていた。

 

4、かくして対決の時は来たれり。

 

賢者の石はかくして完成した。

プラフタも高品質のものを見るのは初めてだと言う事で、点数については口にしなかったが。

高品質とプラフタが口にするくらいである。

相当な品である事は確かだ。

あたしは満足すると。

丸一日、完全に眠ることにする。

それだけ疲れた。

なお、泣いたことはプラフタには言わない。

というか、墓の下まで持っていくつもりだ。

今後も、あたしは賢者の石を作るだろう。

錬金術師の歴史を変え。

この世界を変えるためには必要なものだからだ。

一回目だったから、ああいうことになった。

二回目以降は、同じ事は起こさない。

あたしの心の中にだけ、あの出来事はしまっておく。それだけで構わないのだ。

丸一日眠った後。

カフェに顔を出して。

報告を済ませる。

賢者の石が出来たと。

既にホルストさんには、深淵の者中枢と接触したこと。

そして恐らくは、深淵の者は見せびらかすような形で本拠を出してきたこと、も告げてある。

ならば、後は。

ただ深淵の者と接触し。

話し合いをするだけだ。

戦いになるかも知れないが。

プラフタから聞くルアードの性格を考える限り、殺し合いにまでなるかはかなり疑わしいだろう。

幹部達も、相応に話が通じる相手に思えた。

何より利害が対立していない。

話をする事は、できる筈だ。

ホルストさんに話をした後。

フリッツさんも呼んで。

これからについて話す。

「これよりあたしは、深淵のものと話を付けてきます」

「深淵の者と!」

「何やら問題が起きているとは聞いているが、深淵の者と直接対決するつもりなのか」

「いえ、恐らく致命的な戦闘にはならないと判断します」

プラフタが言う。

そして恥を忍んで、と付け加えた上で事情を話す。

プラフタはそもそも、深淵の者の長であるルアードとの竹馬の友で、比翼の存在であった事。

世界に対してどう接するかで喧嘩別れになった事。

そしてその時の事をルアードはまだ考え続けて。自分なりに500年間掛けて、世界を改革してきたこと。

二大国の成立。

精鋭を率いての邪神とドラゴンの撃破。

各国の汚職官吏、腐敗僧侶、悪徳商人、匪賊の処理。

それらを担ってきたことも。

「この世界には現在さえない。 ルアードの言葉は、その悲しい半生に裏打ちされた重いものです。 そして、私もそれは間違っているとは思いません。 実際現在でも、恐らく上位の邪神が複数同時に動き出したら、二大国が総力を挙げてもどうにもすることが出来ないでしょう。 人類は、そもそもこの世界で身を寄せ合って、必死に現状維持をするだけしか出来ていないのが現実です。 しかしルアードは、未来を奪ってまで現在を作ろうとしました。 それが致命的な対立につながりました」

「未来を奪うというのは、つまり」

「根絶の力に手を出したのです」

誰もが息を呑む。

此処にいる幹部にも、深淵の者に通じている人員はいるはずだ。

或いは知っていたかも知れないが。

だが、少なくとも、困惑は隠せないようだった。

根絶の力については、プラフタが何度か説明をしている。あのノーライフキングを誕生させた力だと言う事も、である。

無言になる幹部達。

未来を奪うと言う事が何を意味するか。

分かったのだろう。

「ただし、ルアードはそれ以降に根絶の力を使ったとは思えません。 竹馬の友であった私が、命を賭けて思想の間違いを指摘したから、だと思います。 それに、ルアードは、私なら自分の思想に賛同してくれる、と思ったのでしょう。 それくらい根絶の力を使ったときのルアードは精神的に追い詰められてしまっていたのです。 私と離れた後も、故に同志を集い、地道な活動を続けたのでしょう。 また、ルアードの配下達も、私の事は知っていてもおかしくないのに、恨んでいる様子はありませんでした」

「戦いに行くと言うのなら止めません。 しかし、報復の類でこの街が襲撃を受ける可能性は」

「少し前にルアード本人に会いました。 そして深淵の者がその思想に忠実である事も分かりました。 危惧すべきは、ルアードが、ソフィーが作った高純度の賢者の石を見て、未来の可能性を信じてくれない場合です。 根絶の力を大規模に使い始める可能性があります。 もしそうなった場合、この世界はキルヘン=ベルどころか、下手をすると全てが滅びるでしょう」

「想像以上に厄介だな」

ヴァルガードさんが呻く。

ハイベルクさんは、自分はあくまで部外者だがと前置きし。更に専門知識も無いがと付け加えた上で言う。

「それで、プラフタ。 どう決着を付けるつもりなのか。 確かに現在がないのは俺でさえ同意できる。 この世界に未来を示せるのか」

「ソフィーの作った高純度賢者の石があります。 これを用いれば、恐らく未来への可能性を見つけられると思います」

「それほど凄いものなのか」

「恐らく、この世界の歴史上初めて誕生した存在です。 この世界を造りし神と対話する事さえ可能になるでしょう」

黙り込む皆。

話が大きすぎてついていけないという顔だが。

あたしがプラフタをフォローする。

「いずれにしても、今のあたし達の戦力であれば、生半可な相手に遅れは取りませんし、むざむざやられもしませんよ」

「そう信じたいところだが……」

「吉報をお待ちください」

悩んだ後だが。

ホルストさんは許可をくれる。

ただし自警団から助けは出さないとも明言した。

妥当な判断だ。

もしキルヘン=ベルが街を挙げて協力した時。最悪の場合、深淵の者と事を構えることになる。

それだけは避けたいのだろう。

許可は得た。

後はアトリエで必要な物資を荷車に積める。

帰ってこられないかも知れない。

だが、皆表情は、驚くほど静かだった。

「500年……」

プラフタが呟く。

ずっとその間、悩み苦しみ続け。世界を変えようと尽力した友の事を考えていたのだろう。

あたしは無言で頷くと。

深淵の者の本拠に向かうべく。

皆を促した。

 

(続)