何も其所に真はない

 

序、バニシングポイントの壁

 

方舟で、一度エリダヌスに戻って来た。唯野仁成は、方舟の揺れを一切感じなかった。真田さんが、故障を直す間に、改善もしてくれていると言う事だ。

エリダヌス上位空間には、相変わらずバニシングポイントが存在している。

周囲にはまだ天使と鬼神の陣地があって、小競り合いを繰り返している様子だ。

勿論介入するつもりは無いのだろう。唯野仁成にも、出撃の指示は出なかった。

天使や鬼神も此方には興味が無い様子で、斥候を出しては来たが、すぐに引き返していく。

敵ではない。

それだけで十分という状況なのだろう。

逆に言うと戦力が拮抗しているため、第三勢力を下手に刺激したくないという事なのかも知れない。

秩序側も混沌側も、頭がいる。

指揮官がついているから、それぞれが一応考えて行動している。

混沌側は戦力が雑多としているが、個々の戦闘力は高い。とはいっても秩序側は、非常に整然とした陣形を敷いている。

実力が拮抗しているのは一目で分かる。まあ、対応としては唯野仁成としても軍人としては正しいと言わざるを得ない。

エリダヌスでしばらく停泊する。とはいっても、数時間ほどだ。

此処でバニシングポイントを観測して、外に出るための「壁」の消滅を調べているのだろう。

バニシングポイントからの、つまりシュバルツバースの脱出は現在最重要優先事項では無い。

だが、もしもの事がある。

その時のために、大母を倒した効果がきちんと出ているか。その結果、次の空間に行く事が出来るか。

それらの観測については、色々と必要なのだろう。

また、観測が終わった後、艦橋に呼び出される。

船内に放送が久々に掛かった。

放送を担当しているのは、いつものように春香だった。

「クルーのみなさん、お疲れ様です。 無事に本船はセクターフォルナクスの攻略に成功しました。 大母ティアマトを撃ち倒し、そのロゼッタを回収することにも成功。 また、先ほど確認した所、バニシングポイント内の「壁」が消滅し、残り二枚になっている事も判明しました」

おおと、歓声が挙がっている。

勿論、まだ情報は足りない。

ティアマトから出た膨大なマッカと、同時に回収されたロゼッタ。特にロゼッタからは、次の大母の空間に行くための量子のゆらぎの情報と、更にシュバルツバースを破壊するために必要な情報も入手しなければならない。

現在真田さんの研究室で必死に解析をしてくれている筈だが、間に合うかどうか。

「これより国際再建機構本部に連絡を入れ、進捗について報告、更には情報の交換を行います」

一旦春香がアナウンスをストップ。

同時に、真田さんが、重力子通信装置を起動。これも、相当に改良が加えられているらしい。

間もなくモニタに、米国の大統領をはじめとする各国VIPの姿が映り込んでいた。

咳払いして、ゴア隊長が話を始める。

「此方レインボウノア。 セクターフォルナクスの攻略に成功。 これより次の空間にスキップドライブをする準備を始めているところです」

「おお。 そうなると、更に攻略が進展していると言う事だな」

「はい。 しかしながら大母の戦闘力は想定以上で、毎回かなり厳しい戦いが続いています」

「うむ。 此方からも、出来るだけ情報は送ろう」

まあ情報しか送る事が出来ないのだし、貰える情報は出し惜しみ無しだ。

まず財団だが、解体が進んでいると言う。その過程で山のようにスキャンダルが噴出。財団に依存していた国によっては、経済が傾きつつあると言う。それらへの経済支援が大変だと、ぶちぶち米国大統領が言い出す。

非人道的実験の証拠は此方から送ったはず。

だいたい今は世界が終わるかどうかの瀬戸際なのに。

これは、駄目だな。

唯野仁成は呆れながら、米国大統領の醜態を見ていた。

その後は、現在のシュバルツバースの状態について、映像が出る。南極を覆い尽くしていないが、確実に広がりつつある。既に各地では軍を配備し始めているという。悪魔の戦闘力についてのデータは送ってある。多少は戦況がマシになれば良いのだが。そもそも、悪魔をシュバルツバースから出してはいけないと言う方が正しいか。

「次の空間を攻略後、また連絡を送ります。 これ以降は、必要な情報を重力子でデータとしてお送りください」

「うむ、期待しているよ」

通信が終わる。

溜息をわざとしたのはサクナヒメだ。誰もそれを咎めない。

「あれが現在世界最大の国の国家元首か。 器が知れるのう」

「今はどこの国もああですよ、姫様」

「盆暗でも政が出来る仕組みを作ったとは聞いておるが、それにしてもこれは酷いとしか言いようが無い。 まあわしには関係がない話だがな」

サクナヒメのド正論は勿論艦橋の全員に聞こえているが、まあこれに反発するものはいないだろう。

ライトニングの空間にあった工場での惨劇は、方舟のクルー全員が目撃しているし。

何よりも外の世界でも、国際再建機構が既に財団の凶行を世界レベルで報道している。隠すことは不可能である。

それでありながら、財団が動かしていた金だけを目当てに、凶行に目をつぶれというのはムシが良すぎる。

ましてや世界が滅びる瀬戸際なのに。

この先があると考えているのは、少しばかり頭が緩すぎはしないだろうか。それについては、唯野仁成も厳しい意見だと思いつつも。そう断ずるを得なかった。

咳払いすると、真田さんが発言を開始する。

「では諸君。 まず次の空間へのスキップドライブについてだが、これは同じようにエリダヌスから行う。 これはバニシングポイントが上位空間の起点になっているからで、方法については同じだ」

「また攻撃を受ける可能性は……」

「分からないが、現時点で主動力炉、副動力炉ともに万全の状態で、前回の攻撃の倍の出力で攻撃を受けても余裕で弾き返すことが出来る。 何にも絶対は存在していないが、この方舟は確実に進歩を続けている。 其所は皆安心してほしい」

「真田さんの開発力は流石だな」

ヒメネスが冗談めかして言うと、周囲が和やかな雰囲気になる。サクナヒメも笑っていたくらいである。

まああの胸くそが悪い通信の後だ。これは正しい対応とも言える。

ヒメネスも順調に回復してきているようすだ。

それどころか、まさかムードメーカー的な行動を取るとは。

これはひょっとするとだが、もう以前より回復しているかも知れない。

少し前に、ヒメネスにバガブーを返した。その時少しデータを見たのだが、いつの間にか25パーセントもあった組成異常がかなり改善していた。

それについてヒメネスは何も言わなかったが。

或いはひょっとすると、あのぐるぐる眼鏡のメイド堕天使が何かをしたのかも知れない。考え得る事だった。

艦橋での今後の戦略についての話が終わると、早速行動が開始される。

皆、それぞれの持ち場につき、自分の体を固定。

慎重すぎるほどだが、しかしながらこれは最初の不時着があったし。この間フォルナクスに突入したときに受けた攻撃の事もある。決して慎重すぎる行動とは言えない。

全員に点呼が行われ。

それぞれ、体を船内に固定していることが判明し。

それから、レインボウノアは。方舟は動き出した。

天使の陣営も鬼神の陣営も、忙しく兵力を動かして争っている。このバニシングポイントを巡っての争いだとすると、どちらかが勝った場合。何か面倒な事を言い出すかも知れない。

現時点では、そう簡単に勝負がつきそうにないのが救いか。

出来るだけ急いで、作戦を遂行しないといけないだろう。

唯野仁成は物資搬入口に出向くと、其所で体を固定した。ヒメネスは廊下。ストーム1が艦橋を守る。

レインボウノアが突入開始。

これで都合七つ目。嘆きの胎を入れると八つ目の空間突入だが。

毎度緊張させられる。

加速し、バニシングポイントに突入した方舟は。更に内部でスキップドライブを行う。

これも上位空間であるエリダヌスに突入するときに既に経験済みの無茶な航法だが、それでも出来るのが凄い。

今回は、追撃して攻撃をしてくる者もいない。

揺れることも無く方舟は飛び。そして、二度目のスキップドライブで、一瞬からだが浮くような感覚に見舞われた。

加速が終わり。減速が始まる。

まだ船外画像は出てこないが、何だかもの凄く嫌な気配がある。デモニカを着込んでいるから分かるのだ。

これは、今までを超える異常な世界の様子だ。

減速が終わり、やがて停止。そして、方舟は降下を開始した様子だ。少なくとも地面はあると見て良いだろう。

着地。これも、揺れがとても小さくなっている。

全員体の固定を解除。指示を待つ。場合によっては、アントリアの時のように、悪魔がいきなり船内に突入してくる可能性もある。

それを考えると、誰もが生唾を飲み込む他無い。

アサルトの状態を確認。

AS99と呼ばれるモデルにまで強化されたこのアサルトは、空間支配者級や銃撃がそもそも通用しない相手でもない限り、悪魔に大きな打撃を与える事が出来る。

ただ地上で作る場合、AS20等の国際再建機構が標準装備しているアサルトの、およそ二百倍に達する単価が掛かるという事で。

ストーム1の装備しているAS100Fに至っては、更にその数倍の高級品だという。

シュバルツバースで、湯水のように貴重な物資が入手できるから作る事が出来る装備なのであって。

外に出たら、これを持つ事はもう殆どのクルーはないかも知れない。

しばしして、通信が入った。

「此方マクリアリー。 外の様子が確認できました。 ただ……あまりよく分からない状態です。 気をしっかり持って見てください」

「? どういうことだ?」

「さあ……」

困惑する声は、すぐに黙ることになる。

モニタに映り込んだ映像は、文字通り想像を絶するモノだった。

渦のように、無数の空間がねじれているかのようだ。

それぞれの空間は、今まで通ってきたアントリアからデルファイナスまで。いや、これはエリダヌスの下位上位空間、そればかりかフォルナクスのピラミッド内、凪の海のような地面まである。

無数に絡み合った空間が、ゆっくり回転しながら、周囲で渦巻いている。

何なんだこれは。

文字通り言葉を失った皆に、アーサーが捕捉してくる。

「画像を解析しました。 この空間では、どうやら光学情報が著しく妨げられている様子です。 空間の歪みも多数感じられますが、直接この空間を目で見るのは極めて危険かと思われます。 これより真田技術長官と共に、デモニカの調整を行います。 しばし機動班クルーは戦闘に備えて、船内で待機してください」

なるほど、見えているものが本当とは限らないと言う事か。

空間そのものが妖怪のような場所だ。

無言で、そのままじっと状況を見る。マクリアリーが追加で情報を告げてくる。

「ドローンを飛ばして船外の状況を確認したところ、気温はー90℃、200気圧」

「北極並みの寒さに、深海2000メートル並みの圧力か……」

「これ、デモニカが破損したら一瞬であの世行きじゃないの?」

「可能性は高そうだな」

不安の声がする中、サクナヒメが咳払い。

それで誰もが黙る。

サクナヒメは普通にそのまま出るのである。それに、このデータも真田さんに還元され、デモニカを強化してくれることだろう。

しばしの沈黙の後。

二日ほどでデモニカのアップデートを行うと通信があった。二日か。南極の既にかなりの部分を、シュバルツバースが覆い尽くしているのがさっきの通信で見えた。まだ海上にまでは出ていないが、南極に住んでいるペンギン等は絶望的だろう。

もたついている時間は一秒もない。

かといって、二日程度では、嘆きの胎を攻略するには少しばかり時間不足だ。それに真田さんとしても、此処で情報を可能な限り採りたいだろう。

アーサーが、最後に告げた。

「この空間を、アルファベットのGにちなんでグルースと命名します。 グルースでの目的は今までと同じ。 空間を支配している強大な悪魔、大母の撃破とロゼッタの入手となります。 また、この空間では混沌陣営と秩序陣営の悪魔が巨大な陣地を構築している様子で、場合によっては戦闘が想定されます。 特に秩序陣営の陣地には三つ、強大な悪魔の気配が存在している様子で、そのうちの一つは以前接触が何度かあった大天使マンセマットとデータが一致します」

「出やがったなペ天使が……」

ヒメネスの声が聞こえた。

恐らくマンセマットは此処に天使の最終的な拠点を作った、と言う事なのだろう。

そして仕掛けてくるなら、恐らく此処だ。

何を仕掛けてくるかは分からないが、最大級の警戒をしなければならないだろう。

二日間はできる事はない。そのまま、休憩をするように指示があったので。素直に従う事とする。

自室で寝る者も多いが、レクリエーションルームに出向く者もいる。

唯野仁成はレクリエーションルームに出向いて、驚くべき光景を目にした。ヒメネスが、丁寧に悪魔合体について二線級のクルーにレクチャーしている。さっきみたいに冗談まで言えるほど打ち解けているようではない。だが、それでも確実に、嘘も言わず突き放すこともなく、丁寧に説明していた。

「ありがとう。 随分と参考になった」

「良いって事よ。 一人強くなれば、それだけストーム1や他の皆の負担も減ることになるからな」

皆、レクリエーションルームから出て行く。それぞれ悪魔合体を試すのだろう。

アイス製造器の側に座ると、アリスを呼び出す。アイスたくさんという約束を果たすためである。

なおアリスもティアマト戦では文字通り全力を絞り出したこともあって、数日は静かだったが。

そろそろ普通に喋るようになって来ていたので、アイスについては近いうちにおごる予定だった。

「抹茶のジェラートで良いか?」

「今日はソフトクリームの気分」

「分かった」

要望に応えて、抹茶のソフトを作る。なお、真田さんが設計した後は、アントリアで救出したアーヴィンが作り、更にチェンが改良を重ねているという。アイスは確実においしくなっているようで、アリスが文句を言うことはない。味もどんどん追加されて増えていた。

隣にヒメネスが座る。やはり憑き物が落ちたように、雰囲気が軽くなっていた。

「たまには俺もアイスを貰おうかな」

「味は何がいい」

「バニラで。 ジェラートで頼むぜ」

「基本にして王道だな」

すぐに作って渡す。なおスプーンの類は使い捨てでは無く、洗って再利用するため、そばに再利用のための回収ボックスがある。

唯野仁成自身は、チョコミントのカップアイスにする。

そういえば米国人は、ガロン単位でアイスを食べるらしいが。

妹の夫は米国人の学者だ。もしも方舟に乗っていたら、このアイス製造器を大喜びしていたかも知れない。

「ヒトナリおじさん、次はねー」

「あんまり食べ過ぎると腹をこわすぞ」

「そんなに柔じゃないよ」

「分かってる。 ものの例えだ」

さっそくソフトクリームを食べ終えたアリスに次をリクエストされたので、作ってやる。自分で作れとか、そういう事は言わない。

アリスとしては、唯野仁成が作ると言う事が、信頼関係構築の一つになっているのである。

その辺りは、幼い妹と接していた経験がある唯野仁成には分かる。

アリスは悪魔の知識もあるし残酷なところもあるが、精神的には幼い子供だ。以前接触してきたベリアルの話を聞く限り、未熟な技術で作られた人工の悲しい悪魔なのだろう。だから、精神も成長しない。

ベリアルの行動を非人道的と責めるつもりは無い。アリスが命を落としたのは、それは酷い状況だったのだろうから。

そこからこうやって助かったのだ。

それだけでも、充分すぎる位だろうと、唯野仁成は思う。

ヒメネスは、食欲旺盛なアリスを見て、苦笑い。

「アイスが好きだな本当に」

「まあ実際此処のアイスは美味しい」

「そうだな」

ヒメネスも同意するか。色々味にはうるさそうなのだが。

軽く幾つか他愛もない話をした後、本題に入る。マンセマットがいる事がはっきりしたのだ。

幾つかトラップを仕込んでおきたい。

ゼレーニンにも相談には加わってほしいのだが。残念ながら今ゼレーニンは研究室で缶詰である。

真田さんが、「かねてから開発していた」をぶちかますには相応の苦労が必要になる。そんな事は唯野仁成も分かっている。

研究室に出入りしているメンバーの役割は、そんな真田さん、文字通りメカニックという意味でのこの方舟の守護神。その手助けをすること。

今は、ゼレーニンの負担を増やせない。真田さんの負担を更に増やしてしまう事になるからだ。

装備の大半が真田さんの手によって著しく強化され。それで皆が何度も命を拾っている。

それを考えると、感謝以外の言葉は無い。

口うるさいヒメネスでさえ、真田さんの作った装備に文句を言ったことは一度もないくらいなのだから。

「……こんなのはどうだ」

「そうだな。 それならば、こういうのも……」

「……良さそうだな。 ついでに……」

幾つかの案を互いに出し合った後、大まかな話としてまとめておく。

この辺りデモニカに記録機能があるので大変便利だ。なんと議事録を勝手に作ってくれる機能まで最近追加された。

便利すぎて至れり尽くせりである。

「よし。 後はゼレーニンと打ち合わせして終わりだな」

「ああ。 あのペ天使の尻尾を今度こそ掴んでやる」

「だが分かっていると思うが、マンセマットは手強いぞ。 それと同格の大天使が更に二体いるとなると、油断も出来ない」

「分かっているさ」

勿論、姫様をはじめとするスペシャルにも、話は共有する。

ストーム1達はそのままデモニカに送れば良いが。問題はケンシロウとサクナヒメである。ケンシロウはデモニカにデータを送っても見ているかが不安だし。サクナヒメはデモニカを使わない。

唯野仁成がサクナヒメに、ヒメネスがケンシロウに話をしに行く事に決めて、その場は別れる。丁度、アリスもアイスを充分堪能したタイミングだった。

ヒメネスはケンシロウに、格闘戦のアドバイスを受けに行くという。なお、最近骨折から復帰したウルフも、リハビリでケンシロウに指導を受けているそうだ。

サクナヒメはビオトープ帰りだったらしく、満足げな表情をしている。軽く話をすると、すぐに険しい表情になったが。

「マンセマットの名前が出た時点で警戒はしていたが、なるほどな。 よし、作戦にはわしも噛ませて貰おうか」

「お願いします姫様」

「ああ。 あの野心まみれの薄汚い翼を見たら、ミルテも嘆くだろうな」

知らない名前だが。ひょっとすると、サクナヒメが故郷で接していたという一神教徒かも知れない。

いずれにしても、二日寝ている訳にもいかない。

他にもやるべき事はいくらでもある。

淡々と作業を行って、何時でも戦闘できるように準備を進めながら。

唯野仁成は、作戦の開始に向け、心身の錬磨を怠らなかった。

 

1、マーヤーの土地

 

デモニカのアップデートを終えて、ようやく船外活動の許可が出る。この様子だと、まだあるだろう大母の空間では、足を踏み入れる度にこういうアップデートが必要になるのかも知れない。

破壊神アレスを含めた手持ちの仲魔を全て出す。イアペトスとアレスは互いを見てぎょっとしたようだが、苦笑いしてそれだけである。

やはりイアペトスもアレスがオリンポス神族の鼻つまみ者であることは知っているのだろう。

アレスも昔戦った相手の実力は知っているし。別に権力闘争の過程で相手が敗れただけなので、恨む理由も無いのかも知れない。

これがクロノスだったら話は別だったのかも知れないが。

ヒメネスも魔王達を展開する。新しく加わった羅刹王ラーヴァナが、妙なことを言い出した。

「この土地はマーヤーに満ちておるな」

「何だラーヴァナのおっさん。 マーヤー?」

「余の住まう土地において幻力とでも訳すべき言葉だ。 神々が使う力そのもので、幻も引き起こす。 余の住まう土地では、神々も我等羅刹も、人間を含む他の存在も等しく修行を行うのだが。 それら全てにマーヤーが関係しておる」

「それを統べる存在はいるのか?」

この空間の大母がマーヤーを満たしているとして、もしいるのなら非常に重要な話になってくる。

それに、幻を引き起こすというのなら。

確かにこの異常な空間も納得出来るというものである。

空はずっと渦巻いている。真田さんがデモニカを調整してくれたおかげで、原色の異常な光景が渦を巻くような、正気度をどんどん削られるような光景は見えなくなってはいるのだが。

これから空間の歪みだらけの場所に入り込むと聞いている。

少しでも、事前情報は欲しい。

「普通は神々の中の神々、例えば創造神ブラフマーが管理をしていたりするものだが……ブラフマーには母の属性はない。 ヒンドゥーの神々のうち、三柱の最高神。 シヴァとヴィシュヌ、ブラフマー全てが男性神格だ。 一応化身や異説によっては両性具有のケースがあるが、それでも男性としての要素が強い」

「なるほど……」

「幸いだったな。 この三柱が出て来たら、この鉄船と英雄達でもそう簡単には対応出来なかっただろう」

冗談めかしてラーヴァナが言う。

苦笑すると、まずは降りて来たゴア隊長の指示を受けて、周囲の巡回から開始した。また、プラントを設営する。

周囲には悪魔の気配はあるが、仕掛けてくる様子は無い。

現時点では、機動班クルーの一線級メンバーには、高位の悪魔を使う者は珍しく無くなっている。

魔王を使うクルーも、ヒメネス以外に出始めている。

向こうにいるブレアは、今ツイツイミトルという南米の魔王を召喚して使っている。下半身が星の海になっていて、頭から無数の手が生えているという異形の女性の姿をした神格である。

魔王としてはそれほど強い存在では無いが、或いはこのシュバルツバースの何処かの空間を支配しているかもしれない。

下位空間はそれこそ星の数ほどあってもおかしくない。

皮肉な話で、ツイツイミトルは星に関係する魔王だそうである。

「唯野仁成班、移動を開始してくれ。 目的地点は……」

「イエッサ」

唯野仁成は、数名のクルーを連れ、ゴア隊長の指示通り移動を開始。野戦陣地の構築が始まっている。

邪魔が入らないように、悪魔との接触があるようならば早めに対応出来るように、船の周囲の前線を押し上げるのだ。

他のスペシャル達も方舟周辺に展開して、野戦陣地とプラントをインフラ班が構築しているのを横目に、襲撃に備える。

今の時点で悪魔は仕掛けては来ないが。

ただ、時々ちらちらと見えるのは、編隊を組んで飛んでいる天使達だ。それも百や二百ではない。

展開している悪魔達が、じっと見つめている。

天使の群れは、あまり気持ちが良い存在では無いのかも知れない。

一神教における天使と言っても、色々いる事を唯野仁成は知った。ゼレーニンの麾下に入ったパワー達は、ゼレーニンに感化されていって。やがて大天使ラジエルになってゼレーニンを守る道を選んだ。

それに対して大天使マンセマットは、何とも野心的で此方を利用してやろうという意思を隠せもしていない。

人間を侮りまくっているのが見え見えである。

そして、その大天使マンセマットが、堂々と姿を見せる。いきなり至近に出現したので、恐らく空間の歪みを利用して現れたのだろう。

銃を構えるクルー達を手で制する。マンセマットは強力な大天使だが、まだ戦う意思は見せていない。

「これは久しぶりですね唯野仁成。 こんな奥地にまで来るとは、素晴らしい。 しかも欠員がいないのではありませんか?」

「おかげさまでな。 皆優れた英雄豪傑ばかりだ。 いつも俺も助けられている」

「ふふふ、まるでギリシャ神話に登場するアルゴー号ですね」

「そうかも知れないな」

アルゴー号。

ある目的から、ヘラクレスをはじめとする名うての英雄達が乗り込んだ、ギリシャ神話に登場する巨大な船である。

結局なんだかんだで内ゲバが起きたりと色々ろくでもない展開になるのだが、それはいつものギリシャ神話なので別に問題は無い。

残念ながら。この方舟では。

アルゴー号のような内ゲバは起こさせない。

或いは、誰もスペシャル達がいなかったら。そして四隻の、方舟よりもずっと小さな次世代揚陸艦でシュバルツバースに乗り込んでいたら。結果は変わっていたかも知れない。だが、現時点では、誰もクルーに死者は出していない。

「時にゼレーニンはどうしました」

「これほど危険な空間に入るとなると準備がいる。 連日の徹夜作業で疲れきって今は休んでいる。 我々が橋頭堡を確保した後、調査班が本格的に動き始める予定だ」

「なるほど、慎重で結構。 それでは、伝言をお願い出来ますか?」

にやりと、黒い翼の大天使は笑う。

勿論感じの良い笑顔を作ろうとしているように見えるが。

残念ながら、唯野仁成にも分かるくらい、下心が透けて見えてしまっていた。

「我々は光の拠点を作って、悪魔達との決戦に備えています。 天の国から呼び寄せた天使達と、それにこのシュバルツバースの各所から集った天使達。 それらが一大拠点を作っているのです。 特に調べなくても、すぐに場所は分かるでしょう。 何しろこの拠点は、天界における要塞にも匹敵する規模なのですから」

「それは凄いな」

「そうでしょう。 何かあったら、すぐに頼ってくるようにゼレーニンに伝えておいてください。 勿論貴方たちも、無礼を働かない限りは歓迎しますよ」

慇懃に礼をすると、マンセマットは戻っていく。

通信が即座に入った。

「予想通り来たな。 ゼレーニンを最初に出さなくて正解だった」

通信を入れて来たのはゴア隊長だ。

側にサクナヒメが、クルー達を連れて歩いて来る。

「あのペ天使めが、言いたいことを言っておったな。 そしてあの様子では、何か悪巧みを近いうちに始めるのであろう」

「俺もそう考えています」

「前線基地の構築を急ぐ。 巡回はそのまま続けてくれ。 くれぐれも、悪魔の攻撃を受けても深追いは避けるように」

「イエッサ!」

ゴア隊長に答えると、巡回に戻る。サクナヒメは、一応念のために、マンセマットが出現した地点を見張る。

マンセマットの気配は分かるようになってきた。はっきりいってかなり強いが、今なら勝てる。

多分デメテルの方が実力は上だろう。

問題はマンセマットと同格の大天使が更に二体いる可能性が高い事で。これらと戦うと、エリダヌスにいる天使も敵に回すかも知れない、と言う事だ。

それは出来れば回避したいところだ。エリダヌスのバニシングポイントは極めて重要な戦略拠点。

あの近くに大量にいる天使が仕掛けて来たら、厄介な事になるのは確定だからである。

巡回をしている内に、ユニット化されているプラントの設置が完了する。また、野戦陣地も構築が終わった。

一度、方舟に戻る。方舟がプラズマバリアを展開。

外からの覗きを防ぐためだろう。マンセマットがしびれを切らして姿を見せたくらいである。何があるか分かったものではない。

また、周囲にかなりの数のドローンが飛び交っている。

殆どが自衛能力がない小型の情報収集用ドローンだが、空間の歪みの場所と、行き先を丁寧に調査している様子だ。

ドローンなら、空間の歪みの調査にうってつけだ。足を踏み入れると致命的な空間の歪みであっても躊躇なく突入させ使い捨てる事が出来る。

勿論それなりに高級な装備ではあるが。

此処で生き延びてきたクルーの人命に比べれば、それこそ塵芥も同然。

このドローンを使い潰す事によって、一人でもクルーを救えるのであれば、それは安い話である。

一旦クルーが方舟に戻る。野戦陣地も最初の頃使っていたものから改良が加えられて、非常に強力なものとなっている。

設置されている兵器の中には、このシュバルツバースで実戦投入された強力なものを自動化したものが多く。

それらには、強力な悪魔でも迂闊に近付くことは出来ない。

とりあえず一旦の準備は完了。

本格的にグルースの奥に踏み込むのは、これからである。勿論、これからを考えると、簡単にはいかない。

故に、しっかり事前に準備をしておく必要がある。

それだけの、簡単な話だ。

艦橋に呼ばれたので、出向く。艦橋では、既に相当数のドローンを使って、周辺の大まかな地図を作っていた。

ウィリアムズが咳払いをする。最近は簡単な説明は、真田さんがわざわざするまでもないと判断したのだろう。

負荷分担のために、どんどんクルーがスペシャル達がやっていた仕事を代行するようになって来ていた。

「まずグルースですが。全体的に見るとそれほど複雑な構造にはなっていないようなのです。 ただ、とてつもなく広大な事が分かりました」

「広大……この間のピラミッド地下以上か?」

「あんなものではありません。 ドローンが空間の歪みに入って調査をして来ましたが、最低でも日本列島全部くらいの広さはあります」

それは、広い。

世界的に見て日本は国土が狭いかのように思われているが、実はそれは大きな勘違いである。

海洋国家としての存在感もあるのだが。

実際には日本の国土はそこそこに広い方で、少なくとも上位三分の一には食い込んできている。

要するに空間がグチャグチャに混じり合っていて、その広い世界をデタラメにつないでいるということだ。

「これからインフラ班と連携して多数のドローンを生産し、地図を作ります。 恐らくこの世界の最深部に大母がいるとは思われますので、ナビに従って機動班は更に地図の充実と拡大を協力してください」

まあ、異存は無い。ただその場合、どれだけ歩けば大母の所にまでたどり着けるのかが分からない。

いずれにしても、何か嫌な予感はする。

挙手したのはライドウ氏である。

頷くと、真田さんが立ち上がった。専門的な質問は受けると言う事だろう。

「悪魔の集落は発見されていないだろうか」

「現時点では二つ。 一つはマンセマットが口にしていた恐らく天使達の拠点となりますが、守りが堅くて大体の位置しか分かっていません。 もう一つは混沌勢力の悪魔達の拠点ですが……」

「?」

「此方は悪魔の数は少ないのですが、妙にやはり守りが堅い。 話にあるマーヤーという力を上手に利用して、守りを固めていると言う事でしょう」

そうか。戦いになると厄介そうだ。

混沌勢力の悪魔も、話が分からない訳では無い。実際エリダヌスでは、サクナヒメが力勝負を挑まれ。

力勝負に勝った後は気に入られて、酒盛りになったという。

混沌勢力の悪魔は、価値基準がとにかく単純だ。天使達もそれは同じだろう。マンセマットのようなくせ者もいるが、それは上層部の一部だけと見て良い。

混沌勢力の悪魔が展開している陣地がとても弱々しいとなると。

ひょっとしてだが、或いは。

此処では、エリダヌスのように。秩序勢力と混沌勢力は、そもそも争っていないのかも知れない。

いずれにしても直接本人達と接触しないと話にならない。

これからはそれを優先するべきか。

不意にアラームが鳴る。アーサーからだった。

「警告します。 放置されていたライトニングが、妙な動きを見せています」

「周囲にC70爆弾を撒いてある。 面倒なら爆破してしまうが」

ストーム1が汚物かのように言うが。

アーサーは、それどころでは無いと答える。

「ライトニングの内部にある原子炉が暴走を開始している様子です。 元々ライトニングが入り込んだ空間と、ライトニングは連携して動いていました。 空間を制圧したときに、原子炉の停止も確認したのですが……何故か不意に動き出しています。 このまま暴走を続けた場合、空間そのものを爆破し、その影響がどのような形でレインボウノアに及ぶか計測できません」

ストーム1が口をつぐむ。

そんな状況では、流石にC70爆弾で吹き飛ばすとは行かない。どんな風に原子炉が暴発するか分からないからだ。

「どうしてそんな事になった」

「通信が入っています」

「!」

アーサーが、通信をメインモニタに出す。

そこには、音声だけだが。人間の声らしきものが入っていた。

「よくも……こんな地獄に閉じ込めてくれたな……。 このままでは死んでも死にきれない……。 せめて貴様らも、道連れにしてやる……」

それだけだ。

音声通信がきれた。

妙だなと唯野仁成は思う。もしもそんな風に考えて自爆を謀るにしても、だ。そもそもあの船の中に生存者がいたとして、どうしてそんな結論に至った。

降伏を申し出るとか、色々他にやる事はあっただろうに。

それにあのライトニング、おかしな事だらけだ。恐らくだが、これこそが。マンセマットの罠ではあるまいか。

「原子炉の暴走を止める方法は」

「本来核融合炉は簡単に暴走するものではありません。 原子炉はあの空間そのものからエネルギーを吸い上げていたようですので、その接続を切る必要があります」

「それではわからん」

正太郎長官が、アーサーに対して困惑した声を上げる。この人自身も確か世界的な科学者の筈だが、専門分野以外では駄目か。

挙手するゼレーニン。彼女は、青ざめていた。

「一つ提案があります」

「……うむ」

サクナヒメが先を言うように促す。

皆の視線が集中する中、ゼレーニンは言う。

「恐らくこれがマンセマットの仕掛けた罠でしょう。 でも、私としては何度も私を助けてくれたマンセマットを疑いたくありません。 其所で、マンセマットと話をしたいと思います」

「そんな暇は……」

「黙っておれ」

サクナヒメが、不安を口にしようとしたクルーを黙らせる。まあサクナヒメの人望を考えると、黙らざるを得ない。

ゼレーニンは、真田さんを見る。

「真田技術長官。 ライトニングの暴発を止める具体的な手段はありますか」

「ある。 まずライトニングのある空間に行く。 プラズマバリアの状態を確認後、本船のプラズマバリアで相殺する。 その後内部に入り込んで、私が直接確認する。 そこから方法は別れるが、暴発する前にライトニングを消滅させるか、原子炉を切り離すかのどちらかになるだろう」

「猶予時間はどれくらいです」

「後三時間もないだろう」

頷くと、ゼレーニンは唯野仁成を見る。

意図は分かった。頷く。

ヒメネスも立ち上がろうとしたが、ゼレーニンは首を横に振った。

「ヒメネス、気持ちは有り難いけれど、マンセマットは貴方を警戒しているわ。 恐らく私も疑われているでしょうね」

「唯野仁成と二人だけで行くってのか!」

「ええ。 私と唯野仁成がマンセマットと話を始めたら、即座に方舟はライトニングのいる空間にスキップドライブしてください。 どんな罠があるか分かりませんから、くれぐれも慎重に……」

「よし。 唯野仁成、天使の大軍を相手にする可能性が出て来ている。 くれぐれも気を付けてくれ」

ゴア隊長に敬礼。

そして、サクナヒメが立ち上がる。

「わしも残る。 気配を消して、だがな」

「良いのですか姫様」

「今の唯野仁成はわしが認める程に強い。 ゼレーニンの連れているラジエルも相当な使い手よ。 だがそれでも、マンセマット含む大天使三体と天使の大軍を敵にすれば生き残れぬわ。 わしが守らなければならぬだろうよ。 真田よ。 以前作っていた光学迷彩とやらを寄越せ。 気配を消しつつそれを着れば、恐らく察知されぬ」

「分かりました。 すぐに用意させます」

全員が動き出す。

さて、マンセマットが仕掛けていた罠は予想よりもずっとシンプルなものだった。後は、此処からどうするか、だ。

ゼレーニンはさっき、マンセマットを信じたいと言った。

その言葉は恐らく嘘では無いと思う。

だが、ゼレーニンは見て来ているはずだ。この世界のような地獄であっても。これだけの英傑が結集すれば変えられるという現実を。

或いは、この世界でなかったら。

とっくに全てに絶望していたゼレーニンは、あっさりとマンセマットの罠に落ちてしまったのかも知れないが。

そうはさせない。

二人、方舟を下りる。サクナヒメも、光学迷彩を着込むと、気配を完全に消して基地に潜んだ。

凄いなと呟く。光学迷彩というが、熱や電波、音、更にはいわゆる魔力まで全て遮断している。勿論サクナヒメが気配を消しているから遮断できている部分もあるのだろうが。それにしても凄まじい。

頷くと、すぐにゼレーニンと共に進む。悪魔達はまだ展開しない。予想通り、すぐに天使が出迎えに来た。

天使パワーだ。だが、ゼレーニンを献身的に守っていたパワー達とは違い。赤い鎧を着た威圧的な姿はそのままだが。無機的という言葉そのままだった。

「ゼレーニン様ですね。 唯野仁成様も。 此方にお越しください」

「ええ。 マンセマット様に会わせてくれるのかしら」

「お二人であれば大歓迎であるとの事です」

「……分かったわ」

一秒が惜しい。

すぐに天使についていく。もしも戦いになった場合、手持ちを全展開してもサクナヒメが救援に来るまで数分は耐えなければならない。そしてサクナヒメだって、如何に気配を消しているとは言え、相手はマンセマット。基地からは動けないだろう。

他のクルーは降りてこない。天使達を警戒させないためである。

ゼレーニンは、武装もしていない。唯野仁成は武装を取りあげられなかったが。これは相手の驕りが故だろう。

いずれにしても、ゼレーニンは元々殆ど戦えない。デモニカによる強化はあるものの、敵に向けて銃の引き金を引けるかは別の問題だ。

一応フォルナクスでの戦闘ではゼレーニンも戦えたが。あれは相手が相手だったからである。

あれ以降も、それ以前も。今もゼレーニンは、自身では殆ど戦わないし戦えない。それに関しては変わっていない。

戦いに決定的に向いていない事を自身も理解しているのだろう。

一方、ティアマト戦での敵の決定的弱点を見抜いた所は見事だった。戦場にいて邪魔にならないだけの自衛力はラジエルが担保してくれているし。何より最近はクルーも、それにサクナヒメも信頼してくれている。

それだけで、唯野仁成には凄く努力していると分かるし。何より一神教の思想を持った人間が、別宗教圏の神であるサクナヒメを信頼出来る事が凄いとも思う。

空間の歪みを抜けると、大量の天使が空を覆うように飛ぶ空間が出た。

周囲には生活空間らしきものは見当たらない。

ただ無機的にものが積み上げられ、それらに腰掛けて天使が休んだり。或いは悪魔を殺して得たらしいマッカを貪り喰らっていた。

天使もここシュバルツバースではマッカを食らう事で力を増す。

その点では、他の悪魔と同じである。

周囲を脳天気に観察している余裕は無いが、デモニカを通じて出来るだけデータを採っておく。

デモニカのOSがマッピングはしてくれているし。

何より大母では無い天使達には、空間の歪みを操作する事は出来ないだろう。

退路を確保するためにも必要な事だ。

ほどなくして、荘厳な神殿のような場所に出る。威圧的な、他よりも明らかに強い大天使がいる。

「俺の名前は大天使カマエル。 其方が唯野仁成、其方がゼレーニンだな」

「ああ。 通して貰えるだろうか」

「好きに通るが良い。 マンセマットは俺の同志ではあるが上司ではない」

「そうか。 では通して貰う」

通信をゼレーニンが入れてくる。

カマエルはどちらかというとダークサイドに位置する大天使で、マンセマットとその点は同じだという。

なるほど、同じ穴の狢同士で組んでいるという訳か。

一神教の天使については唯野仁成も調べた。そもそも一神教では、天使として聖書に記載されているものを、必ずしもそうとは扱っていない。汚れ仕事をする者や、魔術に関する天使をどんどん堕天使として扱っていったという歴史的経緯があるという。

あの四大天使の一角であるウリエルも一時期は堕天使扱いされていた事があると言う話で、馬鹿馬鹿しい事である。

そんな不安定な信仰に振り回されたという点では、マンセマットにも同情の余地はあるのかも知れないが。

今、とんでもない事をやろうとしていることや。ゼレーニンを駒にしようとしていることは擁護できない。

なお会話については、いつもとチャンネルを変えて方舟と通信している。今までの電波帯域では、傍受される可能性があったからだ。

重力子通信も使っていない。今まで誰も使うことが無かったものをつかった通信である。真田さんも、思考を読まれる事を危惧して何を使っているかは教えてはくれなかったが。少なくとも傍受はされないと見て良い。

神殿の中に入ると、其所にはマンセマットがいた。となりには、鎌を持った屈強な男性の大天使がいる。

大天使サリエルと名乗られる。やはりゼレーニンによると、汚れ役をしている天使らしい。

そして、マンセマットが、満面の笑みで立ち上がっていた。

「久しぶりですねゼレーニン。 それと唯野仁成も」

「お久しぶりですマンセマット様。 急いでいます。 此方に来た理由は、分かっているかと思います」

「ええ、勿論です。 緊急事態のようですね。 あのもう一つの鉄船から強烈な負の波動を感じます。 このままでは、どんな事が起きても不思議では無いでしょう」

何を白々しいと思ったが。唯野仁成は無言を貫く。

此処は、まだ迷っているだろうが。

それでも、ゼレーニンを信じると決めたのである。

 

2、牙を剥く黒の天使

 

ゼレーニンは周囲を見回して、既に気付いていた。

シュバルツバースで得られるはずがないものが、いくつもある。

主に調度品の類で。

どれもが、デモニカの分析で本物だと判明していた。

勿論、外の世界から天使が持ち込んだという好意的な解釈も出来る。だが、いちいち手で持ち込んだのか。

ライトニングを使った。

それが一番合理的だろう。

それでも、まだ一抹の希望が残っている。マンセマットを、最初から疑って掛かる訳にはいかない。

ゼレーニンはそれほど熱心ではないとしても、一神教の信者だ。

いや、少なくとも昔は。自分が思っているよりも、遙かに真面目に一神教の信者をしていたのだと思う。

周りは違った。

一神教の関係者による性暴行事件なんて数えることが出来ない程発生している。

ましてやモラルが完全に崩壊した故郷では、その有様はもはや地獄だ。

そうなりたくはない。

その思考が、必然的に信仰を強め。そして己を潔癖症にしていたのだろう。

ただ一つ、分かっている事がある。

唯一絶対の神は。唯一の神であるかも知れないが、絶対などでは無い。

それについてはもはやはっきりと分かる。

悪魔に人間をためさせるため、と言う割りには。余りにも悪魔の管理がずさんすぎる。人間を殺すような悪魔を大量に放っておいて、何が試しだ。

より弱き者は救われているか。

少なくとも、ゼレーニンを命がけで守った誇り高いノリスは報われたか。

唯一絶対だというのなら、どうしてノリスを未だに助けてくれない。

世界中に、困っている、苦しんでいる弱者がいる。

そんな人達をどうして救わない。

挙げ句の果てに、どんな環境にいても心の持ちようなどという外道の言葉まで人間社会では蔓延っている。

何より一神教がこれほど世界で受け入れられたのは。都合良く正義を担保してくれるからだ。

神ですらこれだ。

何度も助けてくれたマンセマットを信じたいと言う気持ちはある。だけれども、確認しなければならなかった。

「マンセマット様。 貴方が言う鉄船……ライトニングでは何が起きているのです」

「どうやら閉じ込められた人間達に、悪魔が余計な知恵を吹き込んだようですね。 それによって、全てを巻き添えに滅ぶつもりなのでしょう」

「そんな……」

「愚かしい話です。 人間は主の御心のままにあればそれでいい。 人の心を、主の御心のままにする方法があります」

マンセマットは、そんな事を笑顔のままで言った。

まだだ。内容を聞くまでは、疑ってはいけない。あるものを、客観的に分析しろ。それが科学者のあり方だ。

真田技術長官はそう言った。

今では、ゼレーニンもそう思う。

マンセマットは、どうしてゼレーニンにこだわる。

グリゴリの天使達のように、ゼレーニンの体が目当てか。それとも。

不安に心が押し潰されそうになるが、サクナヒメが控えてくれている。それに、唯野仁成もいる。

マンセマットの発言次第では、即座に方舟の皆が対処に当たってくれる。

そして真田技術長官なら、確実に対応を成功させてくれるはずだ。

「ゼレーニン。 貴方を歌唱機と変える事が出来ます。 貴方のように徳が高くそして汚れを知らない気高い乙女は、現在の世界では希です。 貴方ならば、天の力を受け入れる事により、人々に声だけでその心を神の御心のままにする存在へと代わる事が出来るでしょう」

「!」

「ライトニングと言いましたか。 あの鉄船の人間達が何をしでかしたかは貴方も見ましたね。 アレが人間です。 人間は、神の御心のままにいればいいのです。 人間は己で考える必要などないのです。 少なくとも、一部の選ばれた人間以外は」

そうか。悲しくて涙が零れそうになる。

もしも、唯野仁成に聞いた話が本当だったとしたら。

アレックスが、滅びの未来を食い止めるために来たのだとしたら。

そして、滅びの未来の世界では、誰もスペシャル達がいなかったのだとしたら。

きっとこのグルースに来た頃には、ゼレーニンはすっかり心がすり切れてしまっていただろう。

そして今のマンセマットの言葉にも、あっさり心を許してしまい。

人間を洗脳する存在。歌唱機とやらになってしまったことだろう。

だけれども、ゼレーニンはその選択肢を選ばない。すぐに、あらかじめ決めていた合い言葉を口にする。

「それは本当に神の御心のままに?」

「ゼレーニン。 貴方ほどの徳人が、神の御心を疑うのですか?」

「いいえ。 神の愛は存在しているとまだ私は考えています。 しかしマンセマット様、歌唱機になって人々を支配するとします。 その支配は、本当に唯一絶対の主が願う事なのですか?」

「ああゼレーニン。 賢い貴方の事だ。 鵜呑みにせず、きちんと確認をするのは良いことですよ。 しかしながらゼレーニン。 天の代理たるこの私の言う言葉は本当です」

即座にPCを操作。

出現したラジエルを見て、マンセマットは眉をひそめたようだった。

勿論ラジエルは、全て話を聞いていた。

「マンセマットよ。 久しぶりであるな」

「貴方も壮健なようで何よりです」

「この体の中にはパワー達がいる。 そして、パワー達は願った。 ゼレーニンの力になりたいと」

マンセマットが露骨に表情を歪める。

なお、合い言葉によって、とっくに方舟は飛び立った後だ。

既に事は動き出している。

マンセマットからは、一秒でも目を離すことは出来ない。遠隔で空間を飛び越えて操作はできないだろうにしても。

手下の天使を飛ばして、合図をさせることは出来るのだろうから。

「パワー達にはただゼレーニンを守るようにだけ伝えたはずですが。 何を勝手な行動を取ったのだと思いませんかラジエル」

「特にそうは思わない。 パワー達は、地獄のような戦いの中で、何度もゼレーニンを守って倒れた。 そしてゼレーニンを守るための力がほしいと願った。 だから、ゼレーニンも、恐怖の対象でしかない悪魔合体プログラムを使った。 本当は嫌で仕方が無かっただろうにな」

ゼレーニンを、少しだけラジエルは見た。

既に、カマエルとサリエルは戦闘態勢に入っている。

露骨過ぎて、悲しくなってくる。

「ラジエル、確認させてください。 何の意思も無く、ただもののようになって神の意思に従う。 それが本当に唯一絶対の御心なのですか」

「……」

「ラジエル!」

「残念ながら、元々一神教というものは、砂漠の多い国々の中で、厳しい生活をしていた民が作り出したものだ。 だからその思想は苛烈で、排他的で、独善的で復讐の思想に塗れていた。 それを神の子と呼ばれる予言者が、隣人愛の思想へと変えようとしたが失敗した。 あまりにもタチが悪い者達につけ込まれたのだ。 更に後の時代には、砂漠の国々の中で苛烈な争いに苦しんだ予言者が、また別の一神教を作り出しもしたが。 それも結局は、正義を担保する排他思想に過ぎなかった」

ラジエルは大きくため息をついた。

基本的に一神教の思想は、現時点では排他の思想であり。他の思想を排撃するものであり。

神の愛よりも。神の与える罰による恐怖と人が抱える原罪によって人を縛るものとなっていると。

だからこそに、人の手で変えなければならないのだとも。

「卵が先か鶏が先かで言うならば、この場合は卵を変えなければならない。 人々は安易に正義にすがりたがる。 そして唯一絶対の神であっても、人が想像した神話の存在である以上、どうしても信仰の影響を受けてしまうのだ」

「おのれラジエル! 良くもそのような不敬を!」

「マンセマット、そなたも哀れだな。 ゼレーニンは、そなたを信じようとずっと努力を続けていたのだ。 ボロを出し続けた結果、ゼレーニンについに愛想を尽かされたことが理解出来ないのか」

絶句するマンセマット。

ラジエルの言う通りだ。もしもマンセマットの言う通りに行動したら、ゼレーニンは人々を洗脳するためだけの生体装置「歌唱機」になるだろう。

歌唱機は天使の一種かも知れないが。同時に人間という生物をただの群体機械でありついでにいえば神にとって都合が良い信仰だけに頭を塗りつぶしたデク人形に変えてしまう。

それを残念ながら今の神が望むというのであれば。

信仰そのものを変えなければならない。そして神も。

ゼレーニンも見て来た。他者に対する不寛容が、どれだけの災禍を産むか。

サクナヒメは異教の神だが、他者に対してあれだけの慈悲を掛ける事が出来る。残念ながら、現在の一神教では、他の宗教の神は全て「悪魔」だ。そんな思想は、間違っている。今ならば、ゼレーニンは。そう断言することが出来る。

「マンセマット様。 いや、大天使マンセマット。 何度も助けてくれた事は礼を言います。 しかしながら分かりました。 貴方は私を、自分が、いやそこにいる同志達二人も含めた天界において立場が悪い天使達が復権するための道具にするつもりだったのですね」

「……」

「そして権力を得て、四大天使や七大天使を上回る寵愛を得たかった。 違いますか?」

「余計な知恵を付けてしまいましたねゼレーニン。 貴方は賢く美しかったというのに、知恵の実を口にしてしまいましたか」

本性を現すゼレーニン。本当に悲しかった。

唯野仁成が、悪魔達を召喚する。更には、ラジエルも、ゼレーニンを庇う構えに入った。

「そうだとも。 人間達の愚かしい信仰によって振り回され、時に堕天使にされた我々が復権するために、お前を此処まで育て上げたのだゼレーニン! お前を光の御子として育て上げ、このシュバルツバースの仕組みを利用してその力を全世界に波及させれば、人間は皆等しく唯一たる絶対の神のしもべとなる! その時信仰心は全て唯一たる主のものとなり、悪魔どもなどは塵芥のように蹴散らすことが出来ただろう! その時、私達貶められた天使達は、神の側に侍ることが出来るのだ!」

ついに本性を剥き出しに、マンセマットはわめき立てる。

現れた本性は、あまりにも醜かった。ゼレーニンは、顔を覆いたい気分だった。最初から、全て計算尽くだったのだとしたら。

本当に、何も分かっていなかったのだから。

サクナヒメは最初から、マンセマットは野心の塊だと指摘していた。

どこかでそれを信じたくなかった。

一神教の基本思想である、他の宗教の神は全て悪魔であるというものが、心に染みついていた事もあるのだろう。

だがそれにしても、あれだけ勇敢で、そして寛容なサクナヒメがずばりと指摘していたことだ。

どうして今まで信じる事が出来なかったのか。

全てを、ゼレーニンは。今、振り払うことが出来た。

「マンセマット。 貴方はもはや堕天使以外の何者でもありません」

「な……っ!」

「不敬だろう、人間が!」

「我等は貶められたとは言え大天使! 不安定な信仰の中で堕天使にされる事もあるが、それでも神の忠実なる僕ぞ!」

カマエルとサリエルが口々に言うが。

もはや、そのような言葉など、何ら意味を成さない。

既にゼレーニンは、退路を算出し終えている。

そして、別離の言葉を口にした。

「私は歌唱機になどなりません。 どの道、今のままでは人間が駄目である事なんて分かりきっています。 ですが、故に人間を変えるためには洗脳ではだめなのです。 マンセマット、人間を道具としか見る事が出来ず、ましてや全ての人間に届くとも思えない方法を提案し実行し、己の野心と出世のために私を利用しようとする貴方には、もはや従う事も、心を許すことも出来ません。 ただ、何度も助けてくれた事については、此処で礼を言います。 ありがとう。 そして、さようなら」

「おのれ雌豚に墜ちたか肉人形がっ!」

あまりにも聞き苦しい言葉を吐き散らすマンセマット。

嗚呼。これは、故郷で聞いたような言葉だ。モラルハザードが極限まで進行した故郷で。こんな故郷では駄目だと判断したから、両親は米国への移住を決意した。その移住先の米国もまた地獄だった。

更に、天使達でさえこうだということがわかった。

都合が良い天国なんて、何処にも無い。

それについては分かった。

だが、腐っていても仕方が無い。

道は、自分で切り開かなければならないのだ。

ラジエルが、ゼレーニンの肩に手を置く。

そうか、ラジエルもそうしてくれるか。サクナヒメがそうしたように。

唯野仁成が、ライサンダーを不意に撃ち放つ。至近で、本来だったら音だけで気絶しそうだけれども。

サリエルが不意打ちを食らって、ブッ飛ぶのが見えた。仮にも大天使。一発で落ちるようなことは無いだろうが。

それでも、宣戦布告である。

そのまま、走って逃走を図る。案の定、ワラワラと、そらを真っ黒に染めるほどの数の天使が現れるが。

ラジエルが何か聞き取れない言語で喋ると、困惑した様子で動きを止めた。だが、全てが、ではない。

相当数の天使が、追いすがって来る。

真田技術長官が戻ってくるまで、最低でも数時間は耐える必要がある。殿軍になった唯野仁成に迷惑は掛けられない。サクナヒメがこっちに突貫してきてくれているはずだが、合流までは持ち堪えなければならない。

パワーが何隊か、此方に飛んでくる。体ではなく隊だ。もの凄い数である。そして、ゼレーニンを守って何度も献身的に動いたパワー達と違って、目には「神の敵を抹殺する」という狂気だけがあった。

後ろから、マンセマットの声が聞こえる。

「ゼレーニンは捕らえなさい! 後は皆殺しにするのです!」

「し、しかしラジエル様は動くなと……」

「天界での席次は……っ」

恐らく、ラジエルよりマンセマットの方が天界での席次は上なのだろう。だがラジエルは、神の秘書のようなことをしている天使だ。その寵愛がどちらに向いているかは、言う間でもない。

更に言えば、見て分かった。

天使達は、自分でものを考えられるほど頭が良くない。

神のデク人形として、思考する事を放棄してしまった弊害だ。ゼレーニンが歌唱機とやらになっていたら。

人間全てがこうなってしまっていたのだろう。

アサルトを取りだすと、デモニカの支援を受けながら、明確な害意を持って向かってくる天使だけを打ち据える。

シュバルツバースに入ったばかりの頃に支給されたアサルトだったら役に立たなかっただろうが。

今支給されているアサルトは、大型の悪魔にも有効打を入れられる。その上、装填出来る弾丸の数も尋常では無い。

唯野仁成が、下がりながら追いついてくる。激戦で天使を薙ぎ払いながら、マンセマットとサリエル、カマエルを同時に相手にしているから、どうしても分が悪い。少なくとも、足は引っ張れない。

ゼレーニンはアサルトで路を塞ごうとする天使を撃つ。

マンセマットに従った天使達だ。もはや堕天使に等しい。撃つしか無い。何よりも、思考力をなくしている様子が痛々しい。

必死に少しずつ退路を行くが、文字通り空を埋め尽くすような天使の数である。

通信は沈黙したまま。

真田技術長官が、爆弾と化したライトニングを止めに行ってくれているのだ。だから、ゼレーニンもできる事をしなければならない。

数体の天使を撃ちおとし、マガジンを必死に変える。

繰り出された槍。

ラジエルが、魔術の防御で防いでくれる。

礼を言いながら、退路を塞ぐ天使達を撃ち抜く。大半の天使が困惑して傍観している状況とは言え、もとの数が多すぎるのだ。

ラジエルの防御魔術も、ひっきりなしに飛んでくる槍や矢で、常に消耗しているのが見える。

数があまりにも違いすぎる。せめて他のクルー達もいれば、話は違うのだけれども。そうもいかない。

次の瞬間。

世界に雷鳴が閃いていた。

群がっていた天使達が、全て一瞬で両断され、マッカになって消えていく。着地したのは、サクナヒメだった。

剣を振るって立ち上がるサクナヒメ。目には静かな怒りが宿っていた。

「通信装置を通じて全てを聞いていた。 何が神の御心か。 そのような事を望む神など、害悪でしかないわ」

「姫様……」

「その様子では立っているのさえ辛かろう。 一度後退するぞ。 唯野仁成、わしが殿軍を引き受けた! ゼレーニンを守って、野戦陣地まで退け!」

「イエッサ!」

ゼレーニンをアレスが担ぐ。唯野仁成は剣を振るって、片っ端から路を塞ぐ天使を斬り伏せる。

確かにもう立っているのも限界に近かった。

天使を撃つなんて、そんな事。本当に辛かったのだ。

後ろでは、サクナヒメが押し寄せる天使とマンセマットら大天使三体を相手に、互角以上に戦っている。

凄まじい形相のマンセマットが、吠え猛るのが見えた。

「このあばずれの娼婦めが! 神に楯突いた事、後悔しろ! 目を掛けてやったのに、この私を裏切ったな! 地獄に落ちて永遠にコキュートスで氷漬けになるがいいわ!」

「馬脚が現れておるなマンセマット!」

サクナヒメの一撃を、マンセマットとの間に割り込んだカマエルが防ぐ。流石は大天使の中でも相当な武闘派に位置している存在だ。

だが、サクナヒメの剣撃は、それで終わりでは無かった。

羽衣を展開して、サクナヒメがカマエルの四肢を絡め取る。流石に青ざめたカマエルだが。次の瞬間には、文字通り頭から唐竹にたたき割られていた。

着地するサクナヒメと、消えていくカマエル。

あの様子では、サクナヒメが倒されることは無いだろう。

ナビをしながら、ゼレーニンは撤退を支援。やがて天使の支配空間を抜けて、野戦陣地のある所にまで来た。

かなり唯野仁成自身も、悪魔達も傷ついている。

だが、追撃を仕掛けて来ている天使はいない。降ろして貰うと、ゼレーニンは野戦陣地の機能を解放。

野戦陣地が動き出す。

一瞬遅れて、サクナヒメが空間の裂け目から飛び出してきた。かなり傷ついている様子だが、それでも無事である。

さあ、ここからが本番だ。

 

唯野仁成も野戦陣地の中で体勢を立て直す。まずは姫様の無事を確認。消耗はしているが、継戦力は残している。まずは上々である。

最初に突貫してきたのはサリエルだが。そのサリエルを迎え撃ったのは、驟雨の如き鉛玉だった。野戦陣地の全砲門が一斉解放され、真っ先に突貫してきた月の大天使を襲ったのである。

魔術で防御しようとしたサリエルだが。その背後には、既にサクナヒメが回っていた。

「頭でっかちの域を超えぬな。 どうせ悪巧みばかりして手を動かしていなかったのだろう」

「こ、この悪魔めがっ!」

「悪魔で上等! 貴様らのような外道に、神と認定されたくなどないわ!」

サクナヒメの一撃が、容赦なくサリエルの背中を貫く。

絶叫しながら、サリエルは光になって消えていく。呼吸を整えているサクナヒメは、すぐに跳躍して野戦陣地の中に再び戻る。

分かってはいたが、相当にサクナヒメのダメージが酷い。ラジエルが回復をする暇も無い。

カマエルもサリエルも、真っ向勝負を好むサクナヒメが、殆ど不意打ちに近い形で倒していたのである。普段なら真っ向勝負で倒すだろうサクナヒメがだ。どれだけ戦況が悪かったからかは、言う間でもなかった。

少しだけ、間を置いて。どっと、天使の群れが空間の穴をくぐって殺到してくる。だが、既に野戦陣地はゼレーニンの手でプラントと接続し。

その全火力を解放していた。

マンセマットの本性を見た以上、戦わざるを得ない。唯野仁成は最初から覚悟を決めていた。だが、ゼレーニンは、最後まで迷っていた。その迷いも晴れた様子だ。無数の火砲が、大量に現れる天使を片っ端から叩き落とす。更に唯野仁成が展開している悪魔達が、それを支援。

アナーヒターとアリスの魔術が、文字通り驟雨の如く天使の群れを薙ぎ払い。

敵中に突貫したイアペトスとイシュタルが、暴威の如く力を振るう。

唯野仁成も、狙撃銃で確実に敵を倒していく。ただ、敵が多すぎる。マンセマットは姿を見せないが、理由は何だ。天使を捨て駒に、消耗しきった所を叩きに来るのだろうか。ゼレーニンの側では、ずっとラジエルがいる。それでいい。ラジエルには守りだけを担当して貰いたい。

激しい戦いが続く中、その時は不意に訪れた。

サクナヒメが反応。ラジエルも反応するが、一瞬だけ遅かった。

ゼレーニンを庇ったラジエルが、抜き手で貫かれていた。消滅していくラジエル。手を血に染めたマンセマットは、狂気の笑みを浮かべていた。どうやったのか、いきなり野戦陣地内に現れたのだ。

流石は最高位の大天使の一人か。実際に戦うとなると、油断出来ない相手だ。

「やはり人間に思考する必要などない! これからじっくり調教し、無理にでも歌唱機に仕立て上げてくれるわ」

「下がっておれゼレーニン。 マンセマットよ、わしが相手だ」

「異教のデーモン風情が……!」

「先に名乗っておこうか。 わしはヤナトの武神にて豊穣神サクナヒメ。 これより異教の大天使マンセマットとの勝負を望む」

今まで、サクナヒメに名乗りられて、名乗り返さなかった悪魔はいなかった。だが、マンセマットは違った。

完全に化けの皮が剥がれたマンセマットは、醜悪な笑みを浮かべるだけだった。

「異教のデーモンに興味など無い! カマエルもサリエルも良くも殺してくれたな! これから八つ裂きにしてその肉も魂も喰らってやる! あの鉄船に乗っていた人間共をそうしたようにな!」

「語るに落ちたな……」

「あの船に乗っていたのは罪人ばかりだった! 人殺し、嘘つき、詐欺師、人身売買業者ども! そもそも最初から栄養にするためだけに罪人を詰め込んだのだ!」

「そやつらが地獄に落ちるべき連中だった事に異論はない。 だが、貴様もそれは同じだこの愚かものが!」

消耗しているサクナヒメが、マンセマットの間合いに入ると、上空に蹴り挙げる。一瞬の早業だった。

更に空中で追いつくと、まるで鞠を突くように前後左右に吹き飛ばす。羽衣を使った空中機動と体術の合わせ技だ。

だが、体勢を立て直したマンセマットが、両腕を交差してサクナヒメの蹴りを受け止めると、弾き返した。

更にマンセマットはノータイムで大量の稲妻の魔術を展開して、サクナヒメに飽和攻撃を浴びせる。サクナヒメは剣の一振りでそれを切り裂くが。今度はサクナヒメに、マンセマットが蹴りを叩き込んでいた。

サクナヒメは消耗が激しい。本来なら一対一で遅れを取る相手とも思えない。

更に、追撃してきている大量の天使達も、マンセマットに加勢している。

此方もアレスを含めた残りの悪魔を全て召喚し、支援させているが。野戦陣地の火力を加味しても、戦力が明らかに足りていない。

へたり込んで、どうにかラジエルを蘇生できないかPCを操作しているゼレーニンを一瞥。

やむを得ない。アレスに指示をして、ゼレーニンを守らせる。

唯野仁成は、時々突っかかって来る天使を斬り伏せながら、好機を狙う。サクナヒメを相手に押し気味に戦っているマンセマットだが。サクナヒメが消耗していなければ、もう斬り捨てられていただろう。

横やりを入れられれば。

強烈な雷撃の球体。プラズマ球とでもいうべきか。それを数十ほど一瞬で作り出すマンセマット。

そして、一斉に、野戦陣地に向けて落下させる。

サクナヒメが防ぎに入る事を想定しての動きだろう。

案の定、サクナヒメは剣を一薙ぎして、魔術の雷を根こそぎに吹き飛ばすが。

その時には背後に回ったマンセマットが。抜き手でサクナヒメの背中を貫こうとしていた。

ライサンダー2の弾丸が、マンセマットの顔面を張り倒したのはその瞬間。

本性を現したマンセマットである。そう動くのは、大体見当がついていた。流石にライサンダー2の弾丸をモロに喰らって一瞬動きを止めたマンセマット。後ろ回し蹴りで、吹き飛ばすサクナヒメ。更に吹っ飛んだ後方に回り込むと、拳を固めて地面に叩き込んでいた。

地面に突き刺さり、爆裂し。更に地面を抉りながら吹っ飛ぶマンセマット。

跳び上がって、追撃のサクナヒメの剣を必死にかわす。

盾になれ。そう叫んで、高位の天使達をけしかけるが、文字通り秒も持たない。形勢逆転である。

さっきから凄まじい形相のままのマンセマットだが。不意に、忌々しそうに動きを止めていた。

レインボウノアが、上空に姿を現したのである。

そして、スキップドライブを終えると同時に。大量の速射砲がつるべ打ちを開始。更に物資搬入口を開くと、其所からクルーが数名狙撃を開始した。多分ストーム1も混じっている。またたくまに天使の群れが落とされていく。更に空を飛ぶ悪魔に跨がって、ライドウ氏が来る。ケンシロウはパラシュートなんぞいらないようで、そのまま飛び降りてくる始末だ。

流石に形勢不利を悟ったのだろう。ぎりぎりと歯ぎしりしていたマンセマットは、防げと指示し、背中を向けて逃げ出す。

サクナヒメに追撃する余裕は無い。マンセマットを守ろうと退路を塞ぐ天使達は、ケンシロウが一瞬でバラバラにしていた。ただ、マンセマットにも追いつけなかったが。

着地するレインボウノア。天使達は、もう残存する戦力がいなかった。

ヒメネスが降りて来て、周囲を忌々しそうに見る。

「何があったかは、後で話す。 今は手当が先だな」

「ああ、頼む」

「私は平気よ」

ゼレーニンは、自力で立ち上がる。

唇をきゅっと噛んでいた。

「みなが守ってくれたわ。 あの墜ちた天使から」

それだけで、皆察したらしい。

既に、マンセマットはもはや味方でも何でも無い。確定で敵になった。その瞬間であった。

 

3、ライトニングの顛末

 

艦橋に集まる。サクナヒメは消耗が激しいので、おにぎりを口にし。メイビーが複数召喚した回復の魔術を使う天使が回復を掛け続けていた。

艦内、それも艦橋だが。こればかりは特例として認めてもらう他ない。

一旦プラズマバリアを展開し、野戦陣地とプラントは自動修復機能に任せる。

まずは、何があったのか、話をしてすりあわせをする必要があった。

唯野仁成が、ログを提出する。

内容を見て、流石に失望の声を上げるクルーも多い。クルーには一神教徒も多いのである。それは、マンセマットの言動を見れば、流石に失望も隠せないだろう。

一方で、ゼレーニンを守りきったラジエルの事もある。

天使がそのまま邪悪であると言う理屈がなり立たないという事に、安心するクルーもまた多い様子である。

ゼレーニンは辛そうにしていた。ラジエルの復活はかなり難しいという。

あのマンセマットの抜き手で、何か変な呪いのようなものを仕込まれたらしいのだ。データがおかしくなっているという。

悪魔合体して、更に高位の大天使にすることを提案する声もあったが。ゼレーニンが、すぐにそれを受け入れられるかは微妙な所だった。人は其所まですぐには成長できないのだ。

唯野仁成が、あった事を説明し終える。今度は、真田さんが説明を開始した。

「此方はまずライトニングの停泊していた空間に乗り込んだ。 そうしたら、凄まじい数の天使が待ち伏せしていてな」

「天使が」

「それも、方舟を見るや否や総攻撃を掛けて来た。 此方も応戦して撃退したが、流石に肝が冷えた」

真田さんが苦笑い。

スペシャルを展開して天使達を撃退した後、方舟のプラズマバリアでライトニングのプラズマバリアを中和。

内部に乗り込んだという。

時間がないなか、手分けして技術班で内部を探す。

その際に、おぞましいものを多数見たそうだ。

具体的な話は後にするとして。ともかく動力炉を発見。真田さんが総力を挙げて停止したが。生物的な装置がついていて、とても通常の状態には見えなかったと言う事だった。

「動力炉は何とか止めたが、ライトニング内部の惨状は記録するべきだと判断した」

「どういう、事ですか?」

「ライトニングはやはり、シュバルツバースに入る前から地獄と化していたようだ」

ゼレーニンの見た映像などのログから、ライトニングから持ち込んだとしか思えない物資が、マンセマットの神殿にあるのは確認されている。

どれもこれも、外では目が飛び出るような値段がつく調度品ばかりである。

それだけではない。

ライトニングの方のデータも見る。なるほど、これはこれは。唯野仁成も、鬼畜外道の仕業は散々見て来たが。

確かに記録し、後に公開すべきだと思った。

恐らくサリエルやカマエルはライトニングに乗ってシュバルツバースに来たのだろうが。

奴らは来る途中、奴らが言う所の罪人を使って遊んでいたのだ。

映像が残されている。

改造されて、歌を歌うだけの生体機械にされたもの。

家具にされたもの。

道具にされたもの。

それらを見て、カマエルとサリエルは笑っていた。罪人には相応しい末路だと。その者達が罪人である事は否定しない。

だが、カマエルとサリエルも同類である事はこれで証明された。

そして、マンセマットも言っていたが。最終的にライトニングに乗っていた人間達は、人間爆弾に変えられたジャックを除いて、全員マグネタイトにされ食われてしまったらしい。

ゴア隊長が、押し殺した声で言う。珍しく、本気で怒っているのが分かった。

「私も米国で産まれた一神教徒だ。 だから信じたくは無かったが、現実を見た以上受け入れざるを得ないだろう。 天使の全てが光の使徒と呼ばれるに相応しい存在ではないようだな。 少なくともマンセマットとその一党は敵だ」

「エリダヌスにいる連中はどうなんですかね」

ヒメネスが余計な事を言うが。

それについては、次にバニシングポイントを超えるときに確認すると、正太郎長官が答える。

まあ気持ちは分からないでもない。

ヒメネスは典型的な無神論者だろうし、最初からマンセマットを毛嫌いしていた。だから小気味が良いとさえ感じているかも知れない。

唯野仁成はそこまで単純に考えられない。

実際に、命がけでゼレーニンを守り。そもそも唯一絶対の神に対する信仰の歪みを糾弾したラジエルの存在もある。

ラジエルがいなければ、躊躇する天使はもっと減っていただろうし。

恐らくだが、あの天使達の拠点から生きて戻る事は出来なかっただろう。

いずれにしても、ライトニングの動力炉は既に外し、武装なども解除。もう動かす事は出来ないという。

最終的に、このシュバルツバースを出る時に、牽引して回収する事にするそうだ。

更に、今後の事も話す。

アーサーが注意をしてきた。

「マンセマットと戦闘状態になった事で、敵対的な勢力が一つ増える事になったことは事実です。 これからこのグルースを探索する事になりますが、クルーの皆はくれぐれも注意してください」

「ああ、分かっている。 それで、具体的な探索についてだが」

「混沌勢力の拠点に足を運んでみたいんだが」

ヒメネスが言う。

ちょっと無神経では無いのかと、艦橋要員の何人かが視線を向けるが。

昔とかなり違ってきているヒメネスは、勿論フォローも忘れなかった。

「ああ、勘違いしないでくれな。 此処にいるマンセマットとその手下がゲロ以下だってことはもう誰も疑う事はないだろうよ。 だが混沌勢力の悪魔共はどうだ。 奴らも同じなんじゃないかって思ってな」

「確かに、混沌勢力よりの今までの空間支配者達の身勝手極まりない言動を見る限り、その言葉には同意できるわ」

ウィリアムズが積極的に意見を出す。唯野仁成も、それには同意だ。秩序勢力の闇を見た直後とは言え、混沌勢力を逆に信用するのも危険だろう。

ストーム1が立ち上がる。

「姫様は消耗が激しい。 またいつマンセマットが姿を見せるか分からない状態で、外に出るのは危険だろう。 しばらく回復に努めてくれるか」

「おう。 そなたが出てくれるか、ストーム1」

「俺だけじゃない。 もう唯野仁成もヒメネスも一人前だ。 二人ともマンセマット相手に充分戦える。 ケンシロウ、いつものように調査班を連れて周辺の探索を頼めるだろうか」

「……任せておけ」

ケンシロウはそのまま頷く。

また、ライドウ氏はクルーを連れて、周囲を無作為に調査してくれるそうだ。周囲の状況を丁寧に調べないと、この空間は確かに危険すぎる。

「よし、皆すぐに動いてほしい。 真田技術長官」

「はい」

「貴方は休息だ。 ちょっとばかり休んで貰わないと、新しい装備を開発する人がいなくなってしまうからな」

ゴア隊長が敢えて場を和ませるようにそんな事を言ったので。

周囲の空気が、少しだけ良くなった。

その後、春香が提案する。そのまま、艦内に春香の歌を流す。録音ではなく生歌である。

世界最高のアイドルであり。文字通り場の空気を劇的に改善する最高の人間である春香の歌だ。

「天使と戦った」ということで、やはり心の折り合いがつけられていないクルーは少なからずいる。

そういったクルー達の心の負担をどうにか緩和するためにも。

彼女の行動は、絶対に必要なものだった。

 

マンセマットは歯ぎしりしながら、神殿にある自分の席についていた。既に二つある大天使の席が。同志と考えていた大天使の席が、空になっていて。二度と埋まることはなくなっていた。

一瞬だった。

マンセマットと殆ど同格の実力者であるカマエルとサリエルが、本当に一瞬で倒された。どっちも歴戦の猛者であり、マンセマットと殆ど力も変わらなかったのに。

唯野仁成め。いくら何でも成長が早すぎる。マンセマットは怒りを抑えきれず呟いていた。

あのサクナヒメとか言うデーモンはどうでもいい。あいつは異教の神だ。もとの力を取り戻しているというのなら、まあそれも分からないでもない。ましてやこの過酷な世界である。サクナヒメへ簡単に信仰は集まるだろう。そうなれば強くもなる。

だが唯野仁成はどういうことだ。

奴が連れている悪魔の戦闘力はどれもこれも尋常ではなかった。唯野仁成自身もだ。実際問題、サクナヒメが来るまで持ち堪え。その後はあのサクナヒメの支援までしている。あんな大きな狙撃銃を、乱戦の中まともにマンセマットに直撃させた。どういうことか、未だに理解が出来ない。

天界に戻らない限り、カマエルとサリエルの復活は無理だ。どちらもマグネタイト方式で実体化したのだ。マッカ方式で復活させるのには、それこそ人間が使っていた悪魔召喚プログラムが必要になるが。

そんなもの、誰が使うか。

苛立ちの余り歯ぎしりを続けるマンセマットの前に、覚えのある気配が現れる。

女神デメテルだ。

天使達が困惑するが、マンセマットが手を上げて攻撃を控えさせる。デメテルは別に天使に攻撃されても屁でもないからか、平然としていた。

「何用ですか、オリンポスの豊穣神」

「派手に負けたようですわね。 何とも情けない有様で、苦笑している所ですのよ」

「……っ!」

「まあ待ちなさいな。 貴方の計画は失敗したようですけれども、このまま天界には帰れませんでしょう?」

その通りだ。そして此奴は、嫌みを言うためだけに姿を見せるような奴では無い。

そもそも、この敗戦の経緯が人間達がエリダヌスと呼ぶ空間に展開している天使達に伝わると極めてまずいのだ。

このグルースと人間が呼ぶ事にしたらしい空間は、マンセマットより高位の天使がいないからいい。箝口令を敷くことが出来る。

だが、彼方には七大の一角であるハニエルがいる。

ハニエルは何時でも天界に戻る事が出来、四文字たる絶対神に経緯を報告することが出来るのである。

そうなれば、マンセマットの元から高くない絶対神からの信頼は地に落ちる事になる。

下手をすると、本当に堕天使にされかねない。

「……要求を聞きましょうか」

「あら、聞き分けが良い事ですわね。 現在の状況が如何にまずいかくらいは理解出来ているようでして何よりですわ」

「現状の戦力ではもしも明けの明星やその配下が仕掛けて来た場合、この拠点を維持できませんからね」

口惜しいが、隠しても仕方が無い。

サリエルが展開していた強力な防御魔術がこの拠点の守りの要だった。だがサリエルが死んだ事で一気に弱体化してしまった。

魔術を司るサリエルの力は高く、明けの明星でも簡単に侵入できない壁を作る事が出来ていたのだが。

現在、残った高位天使四百体ほどを使って必死に穴埋めをさせているが、それも上手く行っているとは言いがたい。

更には、この下にある恐らくシュバルツバースにおける最重要戦略目標に対してアタックを続けていたカマエルが倒れたのがもっと痛い。

この下には、掘り出すことに成功するだけで文字通り戦況が変わる存在が眠っていて。戦闘になれていたカマエルでも封印を破れずにいた。

今もシュバルツバースにいる天使達は続々とこの地点に駆けつけているが。

このままだと、マンセマットより高位の大天使が現れかねない。

そうなったら、天使達は此処で何があったか包み隠さず報告する。文字通り、詰みが待っている。

今、手が足りない中。

下手をするとマンセマットら三体の大天使をあわせたくらいの力を持つデメテルの助力は、喉から手が出る程ほしいものなのである。

「此方の要求は簡単ですわよ。 この空間の大母を葬るべく動く人間達に、余計なちょっかいを出さない事」

「……? はあ、まあそれならば別にかまいませんが」

デメテルは秩序陣営の悪魔だ。恐らく、混沌に傾いている現在のシュバルツバースを良く想っていないはず。

それはよく分かるから、人間達をそのまま泳がし、大母と共倒れにさせるという事については分かる。

ただ、これでも相当な数の天使を従えているマンセマットだ。指揮系統は混乱しているが、それでも直接従う天使だけで相当数になる。それらをデメテルが従えた場合、嘆きの胎と呼ばれる空間にいる囚人を解放することくらい出来そうなのだが。

そういえば、此奴は動きがよく分からない。

天使達を監視につけようとしても上手く行かない。混沌に傾いている嘆きの胎では、天使は攻撃の対象になる。弱い天使はあっと言う間に看守悪魔に狩られてしまうのである。

とりあえず、此方には現時点でマイナスとなる提案はされていない。

だが、タダより高いものは存在していないのだ。

それはマンセマットも、陰湿な陰謀に関わってきたから知っている。

「その代わり、此方としてはこの天使の要塞の守りにこの子を貸し出しましょう」

「!」

姿を見せたのは、全身が左右で色違いになっている女だった。全裸だが、別に古代の女神では珍しくもない。両側で白黒なので、非常に強烈な対象となっていて。更に体の中央部は腐敗している様子だ。

此奴の気配は、どちらかと言えば中庸か。そうなると、その種族は女神ではあるまい。

「ペルセポネ、挨拶をなさい」

「はいお母様」

「ペルセポネ……!」

聞いた事は当然ある。ギリシャ神話において、オリンポス神族同士の内ゲバに登場する神格だ。

一般的なイメージでは冥府の神と言うことで邪悪な存在と思われることが多いオリンポス神族のハデスだが。実際には温厚で良識的であり、性格が捻くれているオリンポス神族の中では珍しい真面目で優しい神である。

ところがそんなハデスが犯した過ちがある。それがペルセポネの逸話だ。

デメテルの娘であるペルセポネに一目惚れしたハデスは、略奪婚を敢行。嘆いた豊穣神デメテルによって、地上には春が来なくなってしまった。更にペルセポネは冥府の石榴を口にしてしまったため地上に戻る事が出来なくなった。

陰湿な内ゲバの結果、一部の季節だけペルセポネは地上に戻ることが出来るようになったが。

この争いは、オリンポス神族内の元々硬くもない結束にひびを入れる事になる。

その主役が此処にいる、左右で色が違ってしまっている神ペルセポネだ。序列としては冥界でも二位に位置する高位の神であり、左右で生死をそれぞれ司っていることになる。言う間でもなく、かなり強力な神格である。

シュバルツバース内での種族としては死神に相当する。

「この子は境界を作り出す能力を持ち、其方で失ったサリエルと同等の働きをしますわ」

「……」

「貸して差し上げます。 勿論粗末には扱わないように」

「分かりました。 中庸の魂を持つ神格を受け入れるのは心苦しいですが、まあそのくらいなら良いでしょう」

マンセマットには、復讐心さえ抑えればいいというだけで、デメリットがない。

また、カマエルを失った以上地下の最重要存在には接触できなくなるが。はっきりいって混沌陣営にあの存在を抑えられるよりは遙かにマシだ。

だが、話が上手すぎる。

デメテルがによによしているのも、異様な不気味さを感じさせた。

「デメテル殿。 私には何らデメリットがない取引に感じます。 本当の狙いは何なのか、口にしていただけませんか? 貴方にとっては命の次に大事な娘を貸し出すほどの事ですからね。 私に何を求めておいでで?」

「口にしないとわかりませんの?」

「幾つか可能性は思い当たりますが、正直な所、タダより高いものは存在しないと考える程度には用心深い性格ですので」

「ならば多少此方も譲歩いたしますわ。 理由は簡単。 動いている明けの明星を貴方が引きつけておいてほしい。 それだけですわよ」

何。明けの明星が、この空間にいるのか。

確かに明けの明星がシュバルツバースにいる事は分かっていた。奴の大幹部四体が、シュバルツバースの最深部に潜んでいることも知っている。目的は大体見当がつくが、戦略的な観点から言うとこの土地の方が重要なので放置していた。

だが、明けの明星本人が此処にいて。更に気を引くとなると、途端にマンセマットの引き受けるデメリットが大きくなる。

引きつった笑みが浮かぶ。マンセマットに、肩をすくめてみせるデメテル。

「明けの明星とは私も流石に正面からやり合いたくはありませんの。 そこで貴方を使ってハーヴェストしたい。 貴方も身を守るための力を得られて互いにウィンウィンと言う奴ですわ」

「ふ、ふふ……そうですか」

どれくらい明けの明星が本気かにもよるが。最悪の場合、天界の大幹部を連れてこないと勝負が厳しくなる。

例えば最強の天使であるメタトロンや四大がそれに当たるが。

四大なら兎も角、メタトロンは極めて残虐性が強く、はっきりいってマンセマットの手には負えないだろう。

やはり、タダより高いものはないか。

デメテルは恐らくだが、マンセマットよりも更に周到に糸を張り巡らせて、何かを目論んでいる。

元より海千山千の古代神格だ。幼い子供に見えてもその実力は文字通り超越。そして頭脳も、と言う事か。

「それでは失礼しますわ。 そうそう、娘に何かあったらこの辺りを全てハーヴェストさせていただきますので」

「……分かっています」

一礼し、姿を消すデメテル。

大きな溜息が、マンセマットの口から漏れていた。無機的な部下達に、ペルセポネを案内させると。

また苛立ちから、マンセマットは爪を噛み切ってしまっていた。

今のデメテルがその気になれば、マンセマットと天使達ごとこの拠点を潰せる。その事実が、苛立ちを更に大きくさせていた。

 

さいふぁーは空間が歪んだ大母の中空に浮いたまま、自身に把握できる全ての様子を俯瞰していた。勿論さいふぁーも全能などではないが、概ね何が起きたかは把握している。マンセマットの練りに練っていた計画が失敗したのは意外にも驚きだった。十中八九、ゼレーニンはマンセマットの提案を聞くと思ったのに。やはり周囲に恵まれると、人間というのは成長するものらしい。

いずれにしても、可能性を切り開いたことは、例え所属する陣営が違っていても称賛に値する。勿論ゼレーニンに直接接触は出来ないが、見ていたときには拍手をしていた。勿論皮肉からでは無い。そういう存在なのだ、さいふぁーは。

伸びをして、次の動きを考える。

現時点で、手持ちの駒は全て別の空間に送り込んでいる。

可能性を見る為に必要な手は全て打っている。問題は、ここからマンセマットと人間達がどう動くか、だったのだが。

デメテルが変な動きをしている。

前に接触して以降、互いに不干渉を貫いていたが。嘆きの胎から久々に出て来たと思ったら、何をしている。

嘆きの胎の囚人は後二柱。どちらも解放されると、混沌に大きく傾いているシュバルツバースが揺らぐ。

それ自体は一向にかまわない。シュバルツバースそのものは消えてしまってもいいと思っている位なのだ。

たくさんの可能性を潰してしまうこんな狂った地球の意思の顕現は、制御された方が良いに決まっている。

混沌陣営の悪魔が聞いたら目を丸くしそうだが、これはさいふぁーの嘘偽りない本音である。

デメテルはどうやらマンセマットに大事な娘を貸し出したらしい。死神ペルセポネか。強力な神格で、魔術の防御を担当させたら確かにさいふぁーにとってもかなり五月蠅い事になるが。

今のところ、実はさいふぁーは、この空間に眠っている重要な戦略的目標を掘り出そうと思っていない。

計算の結果だ。どうせマンセマットにあれの守りは破れない。前はカマエルが必死にアタックを続けていたが、戦力を失うだけだった。単純な武力ではカマエルに劣るマンセマットでは、どの道無理である。

その上、この空間に眠るアレは、波動が天界にいる同一存在と違っている。

恐らくだが、このシュバルツバースの特性故だろう。

故に敵対する意味もないし、掘り出す意味もない。更には戦う理由も無い。放置が一番である。

だが、放置出来ないのはデメテルだ。

あいつは何を考えている。情報を交換して以降、動きは観察していたが、どうにも最終目標が読めない。

恐らくだが、ただの使い走りではないとさいふぁーは判断しているが。それ以上が分からないのだ。

全能では無いのだから仕方が無い。全能の存在など恐らく宇宙のどこにもいない。理由は簡単で、全能のパラドックスを突破出来ないからである。ましてやこんな宇宙の片隅にある小さな星にいる精神生命体が、全能を気取るなどそれこそへそで茶が湧く話である。

デメテルが嘆きの胎に戻った。変な仕掛けをしていった様子は無い。腕を組んで考え込む。まさか奴の目的は、本当にただ人間達に大母を倒させることだけなのか。この空間の大母はあまりやる気がないが、実力はティアマト以上である。そして人間達の能力を考えると。

突破出来る可能性は高い。あの唯野仁成の成長力も優れているが、他の連中が異次元過ぎるからだ。

奴らの実力は、さいふぁーでも油断出来ない。更に唯野仁成やヒメネスの力量が上がってきた今、更に隙は小さくなっているとも言える。

しばし考え込んでいると。人間達が動き出す。

あのサクナヒメは疲弊が酷いようで休憩中だが、既に人間達は戦力をローテンションしながら、この危険な空間を探索できる所まで実力を上げている。

いずれにしても、直接接触は避けた方が良さそうだ。

一旦、混沌勢力の悪魔が集っている場所から距離を取る。さいふぁーとしても、可能性に変動を自分で生じさせたくは無い。

あくまでいざという時に背中を押す。それで生じる可能性をみたいだけなのだ。

自分の思想を強制し、唯一絶対の神の下にただ従順な奴隷となる事を要求する存在と一緒にはなりたくない。

ただ、それだけの理由だ。

 

4、果ての光景

 

ストーム1を先頭に、三チームで動く。常に上空にはドローンがついてきている。これらは、プラントで物資を回収して生産したものらしい。あまり大きくは無いので攻撃能力は殆ど持ち合わせていないが、デモニカを更に支援して周囲の状況確認を行ってくれる。

更に電波中継器を撒きながら進む。

本当に訳が分からない空間で困惑させられる。何も無い場所だと思うと、アントリアのような焼け焦げた街が拡がる。空間の裂け目を通ると、今度は凍った洞窟だ。更に行くと、次はボーティーズのミトラスの宮殿を思わせる場所。今度はショッピングモール。これはカリーナか。

ゴミ山に出た。デルファイナスか。三チームで一定距離を保ちながら、周囲を警戒しつつ進む。

時々悪魔が興味を持って近付いてくるが、これだけの強力な戦力を前に仕掛けてくる悪魔はそれほど多く無い。

ただ多くはないだけでいる。それもかなり強力なのが彷徨いている。

倒すには、相応に手間が掛かる。負傷者は一旦足を止めて回復させ、それぞれの悪魔の状態も常に確認。

こんな空間だ。

慎重すぎるほど慎重に進んでも、それでも足りないほどだ。

ゴミ山を抜ける。巨大な蛇の悪魔が、遠くでとぐろを巻いているのが見えた。何か大きな巨人と争っている。何の悪魔だか知らないが、戦いに介入する必要もないだろう。

今度は何だろう。冷たい神殿のような場所に出た。フォルナクスかと思ったが、雰囲気が違う。

ストーム1が警告してくる。

「気温湿度気圧がめまぐるしく変動している。 今回の探索での地図作成は充分だ。 一旦戻るぞ」

「イエッサ」

すぐに後退を開始。遠くでの戦いは、巨人が勝った様子だが。しかしながら巨人も満身創痍で、その場で倒れてしまった様子だった。

見ると辺りには、時々悪魔の残骸らしきものが散らばっている。陣形を組んだまま移動するが、ドローンが時々警告してくる。

此処は幻の土地。

見えているものが全く宛てにならない。デモニカに表示されるナビを見るが、ルートが完全に意味不明だ。

気付くと、隣にいるメイビーが相当に辛そうにしていた。

ひょっとすると、見えているものが皆違っているのかも知れない。

ヒメネスが警告の声を上げた。帰路の途中の事だ。

現れる無数の悪魔。いずれも強い悪魔では無い様子で、此方を警戒している。ヒメネスが銃を向けたまま、威圧的に声を掛ける。他のクルーも皆、既に戦闘態勢を取っていた。

「止まりやがれ。 下手な動きをするとすぐにでも撃つぞ」

「あんたら、あのでっかい船に乗ってやってきた人間だろ。 戦う気なんかないよ」

弱々しい声を上げたのは、老婆のような悪魔だった。襤褸を着込んでいて、額に大きな目がなければ人間のホームレスと勘違いしそうである。

見た感じ、とても戦闘力が高いとは思えないが。この空間では何があっても不思議ではない。

「何だかこの辺りを探しているようだが、私らの住処を荒らすつもりかい?」

「……ストーム1、どうします」

「ヒメネス、話を聞いてくれるか。 俺は周囲を警戒する」

「イエッサ」

ヒメネスは淡々と答えると、悪魔と話し始める。多数いる悪魔は、どれもこれも弱そうだったり、傷を受けたりしている者ばかりだ。

ヒメネスの話を聞きながら、周囲を警戒する。

何でもここグルースは、あらゆる混沌の極限のような土地で。強大な悪魔がぽんと現れると思うと。弱い悪魔が不意に放り出されたりもするらしい。弱い悪魔は身を寄せ合って、小さな街を作って其所でくらしているそうだ。

「我等ではとてもあんた達には勝てないよ。 殺さないでおくれ」

「……嘘を言っている様子はありやせんぜ」

「そうか。 余力は……まだあるな。 警戒は解くな。 唯野仁成、悪魔を展開してくれるか」

すぐに主力級の悪魔を、唯野仁成は展開する。

ストーム1が咳払いすると、悪魔達の前に出る。恐ろしい強さを感じ取ったのか、明確な怯えが悪魔達の顔に浮かんだ。

「知っているかも知れないが、天使との交戦を経たばかりでな。 我等としても、警戒すべき勢力かどうか見極めたい。 敵意がないなら殺す事はしない。 街とやらに案内してくれるか」

「分かったよ、ついてきてくれ」

老婆が杖を突きながら先導する。

幼い子供に見える悪魔もいて、しかも格好がボロボロ。マッカもロクに得られていない様子だ。

悲しい光景だが、悪魔の実力は見た目と全く一致しない。それは、シュバルツバースで嫌と言うほど思い知らされた事だ。

また光景が変わる。空間の裂け目を通ったからだ。

露骨にヒメネスが不機嫌になるのが分かった。理由も何となく分かる。唯野仁成には、此処は第三諸国のスラムにしか見えなかった。

ヒメネスに個人通信を入れてみる。

「何に見えている。 俺にはスラムに見える」

「俺も同じだヒトナリ。 人間でも悪魔でも、弱い奴はスラムにいるしかないっていうのかよ」

ヒメネスの苛立ちが募るのが分かる。最近はどんどん感情豊かになっているように思うヒメネスだが。

己の負の原典とも言える場所を見てしまうと、やはり感情が悪い方向に揺さぶられるのだろう。

周囲から大量の視線を感じる。アントリア辺りにいればなんとか生きられそうな弱い悪魔達がたくさん此方を見ている。

その視線は、明らかに弱者が絶対に抵抗できない怪物を見る時のもので。

今の唯野仁成達が、その気になればこの小さな悪魔の街を、一瞬で蹂躙できてしまう事を示していた。

こんなシュバルツバースの深い階層に来て、こんな場所に遭遇するとは思わなかった。黙々と電波中継器を撒く。これは必要な事だと判断しての事だ。ヒメネスも、自分で言い出した事だ。

此処以外にも悪魔の集落はあるかも知れない。はっきり分かったのは、少なくとも此処は、敵になり得ないと言う事だ。

長老らしい悪魔が出てくる。見ると邪鬼グレンデルとある。逞しい男性の悪魔で、巨人と言って良い体格だ。そして全身は傷だらけ。

グレンデルというのは、欧州の伝説に出てくる悪鬼のようだ。凄まじい戦闘力を誇り、武装した騎士を何十人も殺傷したという伝説がある。更にグレンデルの母は、グレンデルをも遙かに凌ぐ怪物であるらしい。

そんなグレンデルでも、ストーム1一人にも勝てないだろう。それは、相手も分かっているようだった。

「此処は、弱い悪魔達が集まっている集落なのか」

「そうだ。 我等はこの空間から出る事も出来ない。 弱くて情けなくて、どうしようもない存在ばかりだ」

「……」

「抵抗するつもりも、戦うつもりもない。 天使からは守ってくださるお方がいるが、そのお方も我々がどうなるかには興味が無いらしい。 お前達はどうなのだ。 我等は確かに悪魔で、隙を見せれば襲うかも知れない。 殺すのか」

流石にストーム1も無言のままである。

一神教徒であるクルーは、バツが悪そうに下を見た。マンセマットがやらかした事。それに今のこの悪魔達との力関係。

それを考えると、思うところが色々とあるのだろう。

唯野仁成は、退屈そうにあくびをしているアリスに警戒するように言うと、前に出ていた。

ストーム1は止めない。好きにしろと視線で言っている。

だから、好きにさせて貰う。

「望む者は交渉に応じる。 仲魔になるのなら、此処から出られるが」

「我々は弱き者だ。 戦いでは役にも立てん」

「戦いでばかり役に立つ必要はない。 悪魔のデータはあるだけほしい。 勿論非人道的な実験もしないと約束する。 もしも此処で死ぬのを待つのが嫌で、人間の仲魔になってもいいというのなら、申し出てほしい」

マッカは潤沢にある。この間のフォルナクスでティアマトを撃ち倒したときに、天文学的な量のマッカを入手できたからである。

それに悪魔のデータはクルー達で共用したい。何よりも、どんな悪魔でも、合体次第で別物に化けるケースもある。

少し悩んだ末に。グレンデルが、周囲に声を掛ける。弱々しい悪魔が、かなりの数集まって来た。

そういえば、こうやってまとまった数の悪魔を仲魔にして、戦力の底上げを何度か行ったな。

シュバルツバースに来てから随分経った気がする。

唯野仁成くらいしかまともにこの辺りをうろつけない状態だったら、或いは合体材料にもならないからいらないとか言い放ったかも知れない。アレックスの様子からして、きっとそんな風に歪んでしまった唯野仁成も存在していたはずだ。

だが、そうはならない。そうはならないと決めたのである。

クルー達は困惑していたが。やがてメイビーが最初に手を上げた。交渉したい悪魔は来て欲しいと言うのだ。

回復に特化した悪魔をたくさんほしいとぼやいていたメイビーである。やはり悪魔のデータは潤沢にほしいらしい。弱い悪魔でもかまわないからと、どんどん契約をしていく。

人間と悪魔と言う違いはあれど、一人が動き出すと全体が動き出すことには代わりは無い様子だ。

メイビーが最初の契約をすると、わっと契約が周囲で始まった。どうしても人間が嫌だと思うらしい悪魔は身を潜めるが、そればかりはどうしようもない。契約すると言う事は人間に従うと言う事だ。どうしてもそれが受け入れられない悪魔はいるだろう。それに、仲魔になることを強要は出来ない。

どうしても気分が乗らないらしいクルーには、唯野仁成が声を掛けて、周囲を巡回して電波中継器を撒いて貰う。

あまり強い悪魔がいないこの場所は、戦略的な拠点として活用出来るかも知れない。そういうと、納得はしてくれた。

程なくして、大半の悪魔が契約に応じた。データは方舟に送る。効率よく強く出来る悪魔合体のデータは向こうにある。それに、弱い悪魔でも、未知の者もいた。そういったデータはやはり貴重だ。

最終的に、周囲に悪魔は殆どいなくなったが。グレンデルは残ると言った。ヒメネスが声を掛けるが、首を横に振る。

「俺は長老として、残った弱い者達を守らなければならない」

「そうか。 気が変わったらきな。 悪いようにはしないぜ」

「ああ。 感謝する。 この空間の大母様はとにかく移り気で非常に強い力をお持ちのお方だ。 我々に逆らうという選択肢は無いが、警告だけはしておく。 もしも抗うというのなら、油断だけは絶対にするな」

「ああ、ありがとうよ」

ヒメネスが敬礼をして、それに不器用にグレンデルが応じた。

他にも悪魔の集落があるかも知れない。そういえば、あの弱々しそうな子供のような悪魔は。ログを見ると、どうやら契約に応じてくれたらしい。唯野仁成は、そのログを見てほっとしていた。

弱肉強食という言葉は、結局こういう光景を作り出す。

弱い者は怯えながら影で過ごし。強者は暴のまま周囲を睥睨する。

混沌の極限は恐らくこう言う場所の存在すら許さないだろう。こう言う場所は、きっとすぐに食い尽くされてしまう。

混沌と力の理論が支配する世界は、恐らくだが、こう呼ばれるはずだ。

地獄と。

唯野仁成は、ろくでもない家庭で育った。妹を守るだけで精一杯だった。そこは小さな地獄と言っても良かった。

だから、シュバルツバースで如何に醜いものを見たとしても、地獄を周囲に作りたくは無かった。

だが、もしも一人きりだったら。どうだったのだろう。

アレックスを見ていて、大体分かる。すり切れて、自己責任論の極限に身を置いてしまったかも知れない。

この場所でも、眉一つ動かさず、抵抗する力もない悪魔達を鏖殺していたかも知れない。

だが、知った。ならば、ただせる。

唯野仁成は、身勝手な自己責任論にも身を任せず。マンセマットのような独善主義者にも染まらず。そして立ちふさがる敵を殺すだけの殺戮マシンにもならないと誓う。

やがて方舟が見えてくる。だが、まだナビを見る限り方舟はかなり遠くにある。

疲れ果てている様子のクルーを時々メイビーが悪魔を呼んで魔術で回復させている。自分だって、余裕は無いだろうに。

めまぐるしく切り替わる空間を歩きながら。

唯野仁成は、壊れる訳にはいかないと何度も自分に言い聞かせていた。

 

(続)