粘つく視線

 

序、学生旅行

 

小さな島への連絡船。乗員三十名程度の小さな船で、席もまばらにしか埋まっていない。その舳に、白いワンピースの女が立っていた。

潮風を孕んで膨らむスカート。揺れる長い髪。絵になる光景である。絵になっていないのは、それを見つめている、四つの視線であった。いずれも欲望丸出しで、獲物を狙う肉食獣の目をしていた。

視線の主達は、いずれも大学のサークルのメンバーである。

前の席を倒し、その背中にもたれかかっている一人は、長身の、日焼けした男であった。顔立ちは異様に整っていて、耳にはピアスをし、ワイルドさを演出している。顎髭を蓄えているのも、そのワイルドさを助長する演出となっている。くちゃくちゃ噛んでいるガムも、もちろん演出だ。

隣で、手すりに寄りかかるようにして座っているもう一人は長身の男である。肩先まで伸びた髪は銀に染めていて、胸元には華をあしらったタトゥー。此方も顔立ちは妙に整っている。側に置いているのは、ギターのケースだ。もちろん、キャラクターを助長するための道具に過ぎない。

三人目は、一見すると行儀良く席に掛けているように見えて、足を行儀悪く組んでいる男。前の二人に負けず劣らずの長身で、顔立ちは妙に整っており、眼鏡を掛けて大人っぽさを演出している。事実、必要もないのにスーツっぽい私服で来ている有様だ。

そして最後。

一番小柄な童顔の男である。わざと幼さを協調することで、この四人の中で己の個性を演出している。幼い容姿とはいえ、顔立ちが整っていることに代わりはない。いずれにしても、視線は他の三人と、大して変わらなかった。

他に見られて困る相手がいない場所では、四人は地金を剥き出しにする。

女を釣るためだけに、容姿を整えているからだ。イケメンなどという言葉が流行するようになってから、その風潮は更に顕著になった。元々大学では、テニスサークルなどがこの手の男達によって独占され、男女交流の場になる傾向があった。だが、今では更にその傾向が進んだ結果、この四人はやりたい放題の人生を謳歌していた。

舳で風を浴びている女は、四人の新しい獲物である。

少し前まで散々嬲っていた女は、完全に壊れてしまった。だから、知り合いのスジ者に渡して風俗に売り飛ばした。大学に入ってから、貢がせては捨て、既に二人の女を自殺させ、六人以上を薬漬けにして或いは精神病院送りにして廃人にしている。現在進行形で貢がせている女も十人を降らず、それが故に豊かな生活を維持できている。だが、四人が後悔を感じていることはない。

何しろ、だまされる方が悪いのだから。

ホストという職業が社会的に認知されつつある今、彼らの思想に共鳴する者は多い。大学でも、三十名以上、おこぼれに預かろうと群がっているハイエナたちがいる。連中は、四人の忠実な僕だった。

「なあ、あの女。 最初は俺が味見な」

ワイルドな男が言うと、小柄な男が反論する。

「えー。 ジョウってば、この間も最初に味見したジャン。 次は僕に頂戴よー」

「レイ、お前サークルの外でも女漁ってるだろ。 女漁りは計画的にやるって、決めてるだろ?」

「えー。 でもあれ、今頃珍しい清楚タイプジャン。 外で僕に寄ってくるのって、ギトギトに女性ホルモン垂れ流してるチューインガムみたいな女ばっかりで、いい加減くどいんだもん。 ああいう清楚タイプを、たまには壊してみたいんだよ」

眼鏡の男が言うと、レイと呼ばれた小柄な男は口を尖らせた。それを受けて、眼鏡の男は、くつくつと笑う。

「相も変わらずの鬼畜だな」

「なーにいってんだよ、ロウ。 てめーがいつも、最後には女を薬漬けにして風俗に売り飛ばすんじゃねーか。 大体夢を見せてやった代金を徴収してるだけだっつーの」

「俺は後始末をしているだけだ。 お前達が壊すから、もみ消しがいつも大変なんだぞ」

「へいへい、おかげで助かってますよ」

ロウと呼ばれる眼鏡の男は、学長の従兄弟である。故に殆どのことはもみ消す事が出来てしまうのだ。

彼らが通っている学校は一流校とは言えないが、学長は様々な方面に人脈を持っている。警察もその例外ではない。今まで暴行事件数件、それに薬物の密売などももみ消させた結果、四人は最早、法など歯牙にも掛けなくなっていた。

そして、今向かっているのは、彼らが女を味見する時に使う、私有地の孤島である。小さな島であり、事実上出入りはこの船を使う以外には出来ない。つまり、あの女には、最早逃げる場所も手段も残されていないのである。

そう、事実を知らず勝ち誇っているこの四人の思考が。

私には。滑稽だった。

見ている者は気付かない。

見られていることに。

「全く簡単だよな。 外ッ面さえよければ寄ってくるし、滅茶苦茶にしてやれば大人しくなるし」

「写真ばらまくぞっていうだけで、どんなお堅いのでも気が強いのでも、口にチャックだもんな。 ヒャハハハハハハ」

「あれはどうする? どんな風に遊ぶ?」

馬鹿が。

今回、遊ばれるのはあの娘ではない。

お前達の方だ。

私は呟くと、体を闇へと滑り込ませる。

そして、待つ。時を。

合図を。

全てが終わる時は、全てが始まる時でもある。その時は、刻一刻と近付きつつあった。

古き時より、人間の悪意は存在する。それは年々強くなっている。

だから、私は食事には困らない。

そして、退屈することもなかった。

 

舳に立っていた霧咲愛菜は、ぼんやりと遠くを見つめていた。

何処までも続く海原は、こんなにも綺麗なのに。

どうして、悪意が充ち満ちているのだろう。

あの四人に予定通り声を掛けられた時、妙な運命を感じた。学園でも評判のイケメン四人組という噂の連中だったが、間近で見ても心は全く動かなかった。サークルには相当な人数が所属していて、殆どは彼らの奴隷だと言うこともすぐに分かった。

サークル内の女子達はぎすぎすしていて、目の下に露骨な隈を作っていたり、明らかに口には出来ないようなバイトをして彼らに貢いでいる者もいた。このサークルは、独自の王国だった。そして、それは外からは、手の出しようがない場所だった。

だからといって、それを壊すために誘いに乗った訳ではない。

別に、それに関しては、どうでもよかった。

何もかもがどうでも良いから、此処に来たとも言える。もう、自分の命も、他人の命も、愛菜にはどうでも良かった。大事なのは、仕事だけ。

後ろから飛んでくる、不快な四つの視線。上っ面だけ整えた男どもの、肉食獣を気取った温室の動物の視線。

彼らは知らない。本物の恐怖を。

自分たちが気取っていた優れた容姿とやらが、ただの屑に過ぎないことを。

でも、それも構わない。

今はただ。

何かが壊れるのを、見たかった。それが別に自分でも良かった。そんな風に考えられるから、愛菜は従えていられるのだ。

闇を。

遠くを海猫が飛んでいる。ミャアミャアという、名前の由来となった鳴き声が、此処まで聞こえてくる。

ふと、四人以外の視線を感じた。

それは、命令を、今か今かと待つものだった。

 

1、恐怖の始まり

 

鳥啼島。

伊豆諸島の一角にある孤島であり、定住人口はゼロ。何人かの手を渡り、現在は某大学の学長の私有地となっている、無人島だ。本土から微妙に遠い位置関係にあること、周囲には魚介資源が乏しいことなどもあって、あまり発展することなく、無人島であり続けた島だ。今では私有地として、ごく限られた人間のリゾートとしてのみ機能している。特に景観が良い訳でもなく、ずっといると飽きてしまう程度の場所でしかない。

たまに島を訪れるのは、学長の関係者だけ。一月に一回別荘を掃除する使用人が訪れる他は、遊ぶ目的で四人の男達が来るのみ。それ以外には、人間とは無縁の島であった。その四人の一人である、島田上徽(しまだうえき)は、仲間達からジョウと呼ばれていた。仲間達とは、高校時代からのつきあいである。火遊びを覚えたのも、丁度その頃。金持ちのボンボンであるロウが、始めたことだった。

船から下りる他の三人。さっそくきざったらしくロウが、釣ってきた女である愛菜に声を掛けていた。

「霧咲さん、どうぞお手を」

「ありがとうございますー」

にこにこと、霧咲が笑みを浮かべている。のんびりと喋る、今時珍しいタイプの女だ。これから自分が辿る運命も知らずににこにこしているのを見ると、後で何もかも引き裂いてやった時の光景を想像して、思わず涎が垂れそうになる。霧咲がロウの手を握ると、タラップを乗り越えて、島に。白いワンピースがふわりと風をはらみ、清楚な白い靴が島の地を踏んだ。これで、女の運命は決まった。もっとも、連絡船の船長も学長の関係者だし、警察の上層も同じだから、どのみち何があっても女に未来などないのだが。

女。それだけが重要だ。

名前など、どうでも良い。

重要なのはルックスと体だけだ。

処女にこだわるのも、面倒な性病を持っていないからである。これから散々犯し廻すにしても、性病を持っていると後が面倒だ。飽きた女は風俗に売り飛ばしてしまうが、そうなるとどんな病気を移されているか知れたものではないから、ゴムを付けなくてはいけないし、面倒くさい。

小さな港を離れると、もうそこはろくに整備されていない自然だけの世界だ。島は広々とした作りで、砂浜は汚されていないだけあって美しい。如何に女を犯すかしか考えていないジョウでも、こういう光景を見ると心が和む。

船が行く。

ふと、その影に、何かいたような気がした。大きな黒い影が、すっと海に潜ったような気がしたのだ。

「なあ、ケン。 今何か見えなかったか」

長髪の男、ケンはギターケースを気にしていたらしく、不機嫌そうに応える。

「さあ。 見てなかったし」

「そうか。 まあいいや」

どのみち、この島には危険な生物などいない。毒蛇さえ棲息していないのだ。海も生物が少なくて、毒がある生き物といえば、せいぜいイソギンチャクである。近海も小魚ばかりで、鮫が出るという話さえない。

極端すぎるほどに、安全な島である。其処を血塗られた土地にするのだから、なかなか刺激的な遊びではないか。

女をすぐに犯さないのは、絶望の表情が見たいからだ。楽しいサークルの旅行と見せかけておいて(もっとも、大学生の男四人と一緒に来て、何もないと思っているようなアホ女の方が悪いのだが)、それが血塗られる時の快感と来たらない。にやにやしながら、先を歩く霧咲の尻を見つめた。

砂浜から少し離れた小高い草原に、別荘は建てられている。といっても大企業のオーナーのような豪華なものではないが、それでも並の家よりも遙かに大きく、立派な作りだ。砂防林を抜けると、もう其処は一面の芝生である。バーベキューの準備も、既に整えてあった。

「わ、綺麗な別荘だね」

「此処は魚介類が旨いんだ。 海老が逸品なんだぜ」

したり顔でケンが言うので、ジョウは思わず吹き出し掛けていた。実際には、この近辺で美味しい魚介類など捕れない。これからバーベキューに出す魚は、どれもこれも、隣島や更に隣の魚市場で仕入れてきたものばかりだ。地方の民宿で特産として出す料理が、実は大量生産のインチキなのと同じ事である。

「はいはーい! 僕、おなか減っちゃった!」

「我慢しろよ、レイ。 お前だけのバーベキューじゃないんだぞ」

ロウが、お前だけのじゃないという所に、意図的に力を入れていた。他の三人を、無言で牽制しているのだ。

無論、意味は決まっている。

不意に、後ろの砂防林で、がさりと音がした。風など吹いてはいないのに、どうしたことだろうか。

振り返ると、其処には何もいない。

「何だよ、さっきから」

「わからねえよ。 何だか変な物音がしたんだ」

「気のせいだろ。 お前らしくもねえ」

「違いねえな」

ケンの言葉に苦笑して、バーベキューを焼く下ごしらえにはいる。女漁りのために、一時期居酒屋でバイトしていたから、ある程度の料理はお手のものだ。この程度のことで、世間知らずの馬鹿女が時々勘違いしてくれるので、楽な話である。

案の定、霧咲はきゃっきゃっと喜んでいた。

「ジョウ君、ひょっとしてお料理出来るの?」

「ちょっとだけだがな」

「此奴、親が有名ホテルのシェフなんですよ」

「まあ、素敵」

嘘八百をロウが並べる。わざと否定しない。こういう場では、他の三人が肯定することで、容易に嘘も本当になる。笑いながら嘘だとか言う女も、すぐに信じるようになるのは、場の空気が成せる技だ。

バーベキューが食文化が大味なアメリカでも人気なのは、簡単に美味しいものが食べられるからだ。基本的に食べ物は温かければ大体美味しいのだが、バーベキューは新鮮な食材を使うことで、こがさなければどんな下手が作ってもまともに食べることが出来る。特にある程度腹を減らしておくと、安い食材で充分な満足感が得られる辺りがなかなかだ。

ロウが大きな肉の塊を出してくる。適当に捌いて焼き始めた。ケンとレイがまとわりついて話していた霧咲だが、トイレに行くと言い出したので、ロウが案内する。いなくなった所を見計らい、空気を変えた。

「そろそろ盛るか?」

「まだいいでしょ。 もうちょっと、楽しい夢を見せてやろうよ」

「そうだな。 まだ壊すのは少し早い」

強姦する時は、薬を使う。力が弱い女でも、必死に抵抗されると面倒だからだ。今までも、遊ぶ時にはいつも薬を使ってきた。目薬なんてちゃちなものは使わない。学長の人脈で、闇医者に良く効く眠り薬を調合させているのだ。ついでに覚醒剤も打つ。依存症にしておくと、後で貢がせるのも楽になるからだ。

罪の意識など、最初から無い。

女も男に金を出させるために良い格好をしているのだし、何よりイケメンが四人も揃って夢を見せてやっているからだ。一時期の夢にしてみれば高いかも知れないが、弱者は強者の餌になるために生きているのである。多寡が知れた屑の人生など、どれだけ踏みにじっても何ら後悔には値しない。

そう、ジョウは本気で考えていた。

肉を焼く。その時、不意に耳元で声がした。

「下手くそ。 焦げてる」

振り向く。知らない奴は誰もいない。

他の二人は、霧咲がいないのを良いことに猥談に興じている。この間犯した女がどうこうと、実に楽しそうに話していた。それにしても、今の声は何だ。肉の表面が焦げてしまった。

「ちっ! むかつくなぁ!」

「その肉、債権者からただ同然で取り上げたって、ロウが言ってたよ。 どーせ屑からせしめた肉なんだし、ちょっとくらいいいじゃん」

「うっせえ! やっぱりなんか嫌な気分だぜ。 何かこの島、潜んでるんじゃねえのか?」

「馬鹿言うな。 何も食べるものだってないし、海は枯れてるんだぞ。 使用人が何日か前に来た時には、何もなかったって話じゃねえか」

人間なんか、潜みようがない。そうケンは笑った。

そうこうする内に、トイレから霧咲が帰ってくる。適当に食べた所で、ケンが下手なギターを始めた。

もちろん大した腕前ではないのだが、そんな事素人にはわかるはずも無い。上っ面だけ上手にこなせるケンは、適当に二三曲をこなしながら、さりげなく二百曲くらい弾けるとか吹いていた。実際には、今弾いている曲しかこなせないことを、ジョウは知っている。上っ面だけである。此処にいる全員が。

日も暮れてくる。

さて、そろそろか。

霧咲はまだ19才だそうだが、こういう場では関係ない。実際未成年の飲酒など、どこでも平然と行われている。出すのはそれなりに高級なワインだし、だまされて飲む方が悪いのである。

ワインの中に、意識が混濁する薬を混ぜる。にやにやと、レイが見守っていた。

「じゃ、眠らせてから、誰から味見するか決めよっか」

「そう急くな。 さっきから見てたけどよ、あの女思ったよりずっとガキだぜ。 あんなにはしゃいでやがったし、ほっとけば、勝手に寝転けるかもしんねえな」

ジョウにしてみれば、女の性格的な個性などそれこそどうでも良いことである。重要なのは体だけだ。他の三人も、その辺りは同じである。だから、一緒に連んでいるのだ。

「それなら、このワイン出さなくても済むかな。 いちおう上物だもんねえ」

「馬鹿野郎、最後まで油断するんじゃねえよ。 徹底的にぶっ壊した後は、写真とって、弱みも握って、後はカードも押さえとかねえとな。 忘れてた、薬もしっかりうっとかないとなあ。 今回はシャブのいいのが入ってるぜ。 ひひひひひひ」

ジョウの荷物の中には、高純度の覚醒剤と、注射器が何本か入っている。ちなみに、自分では使わない。

女を中毒にするために、仕入れているものだ。

自分で使うよりも、その方がずっと稼げるのである。一時は気持ちいいかも知れないが、薬のやり過ぎで廃人になった女を何人も見ているジョウとしては、とても自分で薬を打つ気にはなれなかった。

それに、何より。

薬の禁断症状に苦しむ様子を見るのは、楽しくて仕方がないのだ。他人の不幸は蜜の味である。

さて、どうやってあのお堅そうなのに、ワインを飲ませるか。

そう思って、別荘の扉を開ける。

この時。

異界の門が、鳥啼島で、確かに開いた。

 

たがが外れた絶叫を聞いて、ジョウは思わずワイングラスを取り落としていた。悲鳴の主は、一足先に屋敷に入ったケンだった。何があった。あれほど、違和感を鼻で笑い飛ばしていたというのに。

がちゃんと、足下で高級なワイングラスが砕ける。遅れて別荘に入ってきたレイが、しらけた口調で言った。

「あーあ、やっちゃった」

「馬鹿野郎、それどころじゃねえ!」

奥に飛び込む。普段からへらへらしているケンだが、中学の頃から地元のワルと連んでいて、喧嘩の経験はジョウと同じくらい積んでいる。そんな奴が、あれほどの悲鳴を上げたのである。ただごとでないのは明らかだった。

別荘の二階では、断続的にケンが悲鳴を上げている。ロウの声がしないのも気になる。一体、何が起こったのか。

階段を駆け上がる。

二階に出た途端、濃厚な血の臭いがした。背筋に寒気が走る。開放的な作りの別荘だから、見えてしまったのだ。

きょとんと立ちつくしている霧咲の白いワンピースには、べったりと血が飛んでいた。その前には、地面に這い蹲るようにして、ロウが転がっている。その体からは、頭部が失われていた。

腰を抜かしたケンが、フローリングで尻餅をついている。股間には、明らかに失禁した跡が残っていた。

大量の血が、今でもフローリングに広がり続けている。まだロウの死骸は、ひくひくと痙攣していた。何が起こったのかはわからないが、一瞬でロウの首は、この世から消えたという事なのだろう。

遅れて入ってきたレイが、女のような金切り声を上げた。慌てて携帯を開く。

無情にも、圏外になっていた。

「ち、ちきしょう! 外への連絡手段は!」

叫んでから、気付く。

ある訳がない。というよりも、意図的に断っているのだ。獲物がそれを見つけて、警察に無差別に連絡でもしたら面倒なことになるから。この島は、四人の狩り場だ。だから、狩りに邪魔なものは、ことごとく取っ払ってしまっているのである。

「次の船は!」

「四日後だよ!」

「四日も!」

絶句したケンが、指を指す。その指が、かたかたと振るえ続けていた。

ロウの顔がある。

虚空に浮いていた。眼鏡は外れ掛かっていて、端正な顔は弛緩して緩みきっていた。寝起きのようにだらしなく半開きになった口からは血が流れ、目は白目がちになってそれぞれあらぬ方向を向いている。

夕闇に浮かび上がる、あまりにもあり得ない光景。

携帯を、ジョウは取り落としていた。

「ひ、ひ、ひっ……!」

声にならない悲鳴を上げて、後ずさる。ゆらりと浮き上がった生首が、ずるりと左右に別たれたのだ。

ツギハ、オマエダ。

声にならない声が、どこからか聞こえた気がした。

その間、ぼんやりした様子で、ずっと血まみれの霧咲は、フローリングで立ちつくしていた。

そして、今更ながらに気付く。

この女だけが。

この異常な場で。

一切、怖がっていないという事に。

ゆっくり、霧咲がジョウを見る。

その瞳には、何ら感情は宿っていなかった。

 

2、連なる恐怖

 

外に、ロウの生首は落ちていなかった。まるで何処かに消えてしまったかのように、血痕さえ残っていなかった。

慌てて戸締まりして、雨戸まで閉めて。武器になりそうなものを集めて、右往左往しながらも、やっと籠城の準備を整えた。ケンはその間震えっぱなしで、何を見たのか、まるで要領を得なかった。

「一体何を見たんだよ!」

「わかんねえよ!」

ヒステリックに喚き散らすケンの目には、ただ恐怖だけが宿っていた。

さっき、丁度ジョウらが二階に上がろうとした寸前のこと。丁度ロウが霧咲の肩を抱いて、ワインを飲ませようとしていたのだという。要するに、ジョウとレイが行おうとしていたことを、ロウも独自にやろうとしていた、というわけだ。先を越された、という事だったかも知れない。まあ、それはどうでもいい。

いやがる霧咲に、ロウは徐々に苛立ち、乱暴になっていったのだという。そのまま床に押し倒して強姦するような空気になってきたので、おもしろがって部屋に入ったケンが、見たものは。

すっとぶロウの首と、窓から入ってきた半透明の何か大きなもの、だったという。

とにかくそれは不定形で、何が何だかわからなかったそうである。切断されたロウの首は、まるでレーザーか何かで斬ったかのような切り口で、血が噴き出すのも一瞬遅れたほどだった。

横転した死骸を見ても、霧咲はなんら反応を見せず。そればかりか、大量に血を浴びたというのに、嫌がる様子も無かったという。

「あ、あの女、まともじゃねえよ」

怯えきった口調で、ケンは言った。

今も血だらけの部屋の真ん中で、霧咲はぼんやりと膝を抱えて座り込んでいる。白いワンピースを着ていたから、余計に赤が目立っていた。顔や首筋まで鮮血が飛んでいるのに、気にしている様子もない。

確かに、改めてみると、ぞくりと来る光景だ。

「ねえ、それって幻じゃないの?」

脳天気な口調で言ったのは、レイだった。へらへらしている此奴も、ある意味まともとは言い難かった。

「ま、幻ってなあ! 見ろよあの血! 嗅いで見ろよ、この匂い!」

「そうじゃなくてさ、あんまりにも非現実的なもの見たから、脳みそが麻痺しちゃってんじゃないの、ってことだよ」

「じゃあ何か、てめえは俺がびびったとでも言うつもりか」

「そう言うつもりだよ」

さらりと言ったレイの胸ぐらをケンが掴む。普段だったらロウが止める所だが、今はそれもない。

何しろ、首と胴体が、泣き別れになってしまったからだ。

「考えてごらんよ、大きな動物だっていないような島だよ。 そんな訳がわからない奴、いるわけないじゃん」

「ああんっ!? じゃあどうして、ロウの奴は死んだんだよ!」

「死んだのは確かだと思うけど、幻覚剤か何か、誰かが撒いたんじゃないの? あんな殺し方、猛獣にだってできないってば。 人間にしか出来ないよ」

「何でてめーはそんなに冷静なんだ! ロウは死んだんだ! しんじまったんだぞ! あんな残酷に!」

金切り声を上げてしまったジョウを、へらへらしながらレイは見つめた。

何だか、あの女、霧咲と同じ、感情も何もない目を見てしまったような気がして、思わずジョウは視線を逸らしていた。

「ほおら、びびってる」

「う、うるせえ。 お前、そんなに前から冷静だったか?」

「さあ、どうだろ。 まあ、ロウやケンの鬼畜っぷりを見てると、多少は何でも免疫は着くからね」

「てめえが言えることか! てめえだってオレらと一緒に、散々楽しんできたじゃねえかっ! お前の手で自殺させた女だっているんだ! てめえがオレらを鬼畜呼ばわりする資格なんかねえんだよ! 同類だてめーは! 大体、そんな事が悪事になるなんて思ってんのか? オレらは屑を食い物にしただけで、誰でもやってる事をやってるだけなんだよ!」

ケンが吐き捨てた。

いつも大事だと抜かしていたギターは、その辺にうっちゃられている。もともと、学長の関係者がやっている闇金業者が、債権として略奪してきた品だ。女を漁るための道具でしかないわけだし、愛着など無いという訳だ。

いや、実際には愛着があったと言うべきか。ギターを買った奴の九割が、一月もすれば置物として見向きもしなくなるのが事実である。何かしらの活用をしてやっていたというだけで、このギターは幸せであったと言うことだ。ブームが起こってギターが売れる度に、流行に乗って楽器を買うのは良くない事だなどとほざく阿呆がいるが、これほどに趣味として定着しにくいものは他にない。

いずれにしても、今はただでさえ愛着のないギターに、見向きもしなくなるだけの事は起こっていた。

「ロウの奴、良い奴だったのにな」

ぼそりと、ケンが呟く。

そういえば、ロウとケンは特に仲が良く、最初に連んだのはこの二人だったそうだ。ジョウは最後にグループに入ったが、その時には二人が出来ているのではないかと思ってしまったほどである。

ケンが泣き始めた。レイはそれを一瞥すると、殺しがあった部屋の真ん中で、死体の側で平然と膝を抱えている女を顎でさした。

「で、あれ、どうするの?」

「どうするって、お前」

「今までこの島でやってきたこと、全部もみ消してきたけど。 流石に殺しが起こっちゃ、警察も動くよ。 そうしたらさ、襤褸が出るんじゃないの? 僕達。 ついでに、今の話も、聞かれてるし」

「言ってる意味がわかんねえよ!」

ケンが泣きながら叫くが、ジョウには何となく別った。

今、この島は。

あの女も含めて、四人しかいないのだ。

通信は出来ない。逃げることも出来ない。それどころか、助けが来ることもない。

ロウを殺した奴が誰かはわからない。ひょっとすると、その場にいたケンかも知れない。だが、そのままだと。此処にいる全員が、確実に破滅への道を突き進む事になる。島には、捜索されると不味いようなものがごろごろしているのだ。ジョウの鞄の中でさえ、シャブ(覚醒剤)と注射器が入っている。

「何だかわからないけど、ロウを殺した奴が分かったら、まとめて埋めちゃおうよ」

「う、埋め……!?」

「そ。 それで、三人の秘密にするの。 学長には後で話せばいいでしょ。 話が通じそうに無ければ、弁護士にお金握らせて、裏からどうこうすればいいし」

「お前」

ケンが青ざめて、後ずさる。

ジョウも生唾を飲み込んでいた。

へらへらと笑っているレイ。その後ろの窓で、何か黒い影が蠢いたような気がした。ケンも見えたらしく、長髪の頭をかきむしりながら、悲鳴を上げた。

「ひいっ! 何かいた! 何かいたっ!」

「さっき雨戸も閉めたし、大きな生き物だったら、余計入ってこられないんじゃないの?」

レイが戯けるように言う。

異常だ。

ジョウはそう思った。

さっきの、ロウの死に様をまともに見てしまったのだろうから。ケンは頭を抱えて、震えるばかりである。

壁を叩く音。

全員が振り返ると、真っ赤な返り血を浴びたまま、霧咲が立っていた。最初にナンパした時と同じような、優しい微笑みを浮かべている。ただし、白いワンピースには朱の華が咲いていて、頬にまで返り血が飛んでいるが。

「シャワー浴びたいんだけど、どこ?」

口調は柔らかい。それなのに、どうしてこんな威圧感を感じてしまうのだろう。こんな時にシャワーだとか言い出す異常さに、ジョウは生唾を飲み込んでいた。しらけた口調で、レイが言う。いつも女の前では、意図的に子供っぽさを表現して歓心を得ているのに、今はそれもない。

普段、男同士で連んでいる時の、冷静で邪悪な声が、表に出ていた。或いは、レイも今は、それなりにてんぱっているのかも知れなかった。

「こんな時に、よくシャワーとか言い出せるね」

「へえ。 じゃあ、血まみれでいろって?」

「そうは言わないけどさ。 ホラー映画とかで、一人で行動すると、真っ先に何かの餌食にされるって知らない?」

「知らないわ、そんなの。 虚構と現実を混ぜると、痛い目に会うわよ」

笑顔のまま、辛辣なことを霧咲が言う。こんな女だったのか、此奴は。ジョウは生唾を飲み込んでいた。

ケンが、無言で手を挙げる。そして、シャワーの位置を教えた。

頷くと、霧咲は一階に消える。階段を下りていく足音は規則的で、今までの緩くて頭が悪そうな言動は、全て嘘だったのではないかとジョウは思った。

「清楚タイプだと思ったのになあ」

「案外、レイの言うことが正しかったりしてな。 ロウもあの女が殺したのかも。 ちきしょう……殺してやる」

ケンが勝手なことを呟いた。多分シャワーの位置を教えたのも、怖くて、厄介払いしたかったからだろう。

だが、それを指摘するほどの精神的な余裕が、ジョウには無かった。

水音が聞こえてくる。本気で、シャワーを浴び始めたらしい。散々女は犯してきたし、今更シャワーの音くらいで興奮するほどガキでもない。ぼんやりと音を聞いていた。レイがぼそりという。

「それとも、何か化け物がいたとして。 あの女を餌にしたら、少しは僕たちが生き残る可能性が増えるかもね」

「お前、悪魔だったんだな」

「小悪魔って言ってよ。 ききききき」

本性を剥き出しにしたレイが笑う。

「女なんか、抱いちゃえばどれも同じだっての。 見かけなんか二三日で飽きるし、一人や二人死んだって惜しくないね」

「ああ、そうかもな」

物音。下からだ。

それは、足音のようにも聞こえた。

ひたり。ずるり。

ひたり。ずるるり。

何かを引きずっている音だ。水音も酷くなってきた。それで、今更ながら気付く。この水音、シャワーではない。

無言で立ち上がったケンが、ギターケースに手を伸ばす。鈍器として使うつもりなのかも知れない。

「へ、部屋にはいらねえか? 階段で屯してるより、少しはましだろ?」

「悲鳴とか聞こえないし、あの女じゃないの?」

「だったらてめえが見て来いよ!」

「いやだよ。 僕が犯人だったら、一人になったところ襲うし。 あの女放って置いて籠城したら、少しは生存率あがるんじゃない?」

確かに、それは魅力的な提案だった。あの女は犯人の可能性も低くないし、食料もある。水と排泄が問題だが、そんなものはベランダか何かからすればいいことだ。問題は、何か得体が知れないものが犯人だった場合、籠城したら却って襲いやすくなるような気がしてならないことだが。

それに。

あまり、こういう事は疑いたくないが。

ケンが犯人だった場合。殺人犯と一緒に、立てこもることになる。それは、体の内側に、ナイフが突き立てられるのと同じ事だ。犯人の気紛れ次第で、いつ体を上下に引き裂かれるか、知れたものではない。

一緒にいたレイも怪しいものだ。この冷静さ、さっきから見ていて、とてもまともだとは思えない。

ひょっとして。

自分以外の全員が共謀していて、ロウを殺したんじゃないか。そんな気さえしてくる。

呼吸が乱れてきた。

足音。

近い。階段の下にいる。

全身がすくみ上がった。階段の下をゆっくり左右に行き来している足音は、今や露骨に、何かを引きずっていた。水音は、それに伴ってしている。絶望が、心臓を鷲掴みにした。あの足音が、階段を駆け上がってきたら。

無言で立ち上がると、恐怖のあまり小便をまた漏らし始めたケンの腕を取って、寝室に逃げ込む。ロウが死んでいるリビングとは隣の部屋にある大きな部屋で、薬を飲ませた女を、何度も輪姦した場所だ。

「は、はやく!」

「ひ、ひ、ひぎゃああああっ!」

語尾には涙声が混じった。

レイはしらけた表情だった。

ドアを閉める。そして、内側に、箪笥を引きずって、バリケードにした。板を張り付けて、釘を打ち込もうと思ったが、止める。もしもこの部屋に入り込まれたら、逃げ場が無くなってしまうからだ。

窓に、気配。

窓は鎧戸が降りている。だから何かいても、すぐに入ってはこられないはずだ。

三人の呼吸の音だけが、部屋の中で響いていた。異臭。どうやらケンが、大の方も失禁したらしい。顔をくしゃくしゃにしているビジュアル系のイケメンは、ギターさえも廊下に置き捨ててしまっていた。

足音。

階段を上がってきた。

ずるり。びちゃり。

規則的な足音で、確実に階段を上がってくる。それだけではない。足音は無数に重なっていて、とても一人のものとは思えなかった。突然、大きな音。大きな何かが、壁にぶつかったのだ。そのまま壁を擦るようにして、大きな音が、二階に上がってくる。粘液が床に零れる音が、嫌にクリアに聞こえ来た。

ドアが叩かれる。

それは人間がノックしたとは思えないほど、重量感に満ちた音だった。

それも、叩いたと言うよりも、無造作に体当たりしたような雰囲気だった。ずずずずと、音を立ててドアが軋む。悲鳴を上げたケンが後ずさった。必死に、ジョウは箪笥を抑えたが、箪笥の向こうの圧倒的な質感は、とても女一人のものとは思えない。何かいるのだ。何か、途轍もなくおぞましいものが。

隣の部屋のドアが、軋む。そして、蝶番ごと吹っ飛んだらしく、大きな破砕音が響いた。耳を押さえて、ケンが震えている。ジョウも小便を漏らしそうだった。一体ドアを隔てた向こうには、何がいるのか。

あっちの部屋にはジョウの死骸がある。

それで、思い出す。

生き物なら、腹が減ることを。

「あ、あの化け物! ロ、ロウを喰うつもりなんだ!」

「ほっときなよ」

冷酷な声が、冷や水を浴びせてくる。レイだった。レイは、薄ら笑いさえ浮かべていた。此奴がこんな顔を出来るなんて、初めてジョウは知った。否、知る機会が無かったと言うだけなのか。

「死んだらただの肉の塊じゃん」

「お、お前……!」

「それよりさ、その何かが満腹になれば、僕たちが助かる可能性も上がるでしょ? だから、静かにしてな……」

無言で、顔面に拳を叩き込んでいた。

レイの小柄な体は見事に吹っ飛び、床にたたきつけられていた。鼻血を出しているレイの胸ぐらを掴んで引きずり起こすと、更に一発拳を叩き込む。

砕けた歯が何本か飛び散った。呼吸を荒げながら、更に二発殴る。鼻の骨が砕けた。全く容赦しなかった。高校生の時以来だ。本気で、他人に暴力を振るったのは。

無言。

嫌な音が、隣の部屋から聞こえ始めた。どうやら、化け物が、ロウの死骸を食べ始めたようだった。咀嚼音だと、嫌でもわかる。

ケンが吐いた。

時計の音が、嫌にクリアに聞こえる中。

食事の音は、二時間以上も響き続けた。

 

何か大きなものが、下の階に降りていく音がした。階段を下りていく音も、足が何十本もあるとしか思えなかった。

誰もが無言でいたが、ケンがした粗相が原因で、部屋の中は耐え難い異臭に包まれていた。窓の鎧戸も、怖くて開けられない。それに、何より、食料の半分は、ロウの死んでいる部屋に置いてあるのだ。

箪笥をどかし始めたジョウを見て、ケンが金切り声を上げた。

「お、お前! 何してるんだよ!」

「臭くてかなわんからな。 それに、どうなってるか、確認もしなきゃいけないだろ?」

「ば、馬鹿野郎! あの音聞いただろ! この島に今、化け物がいるんだよ!」

「その化け物がその気になったら、こんな部屋、あっという間に入られちゃうんじゃないのかな」

鼻を完全に折られても、レイの憎まれ口は収まらなかった。顔を血だらけにして、歯を折られて、自慢のベビーフェイスが台無しになっても同じだった。むしろそれが故に、凄惨さを増しているようにも思える。

「さっきの音からして、何かでかい動物がいるのは間違いないし、その気になればそんなドア、一瞬で砕けるのも間違いないと思うけどね」

「じゃ、じゃあ、どうしろっていうんだよ!」

「泳いで逃げる方が、まだ可能性がありそうだよね。 後三日以上も、あんなのから隠れ仰せると思う? そんなヒステリックな声をあげ続けてさ」

ジョウは無言で、もう一度レイを殴った。今度は執拗に、目の周りに痣が出来るほどにだ。

一度たがが外れてしまうと簡単だった。

もうこのベビーフェイスの悪魔のことを、ジョウは仲間だと思ってはいなかった。

「うるせえ。 喋ったら今度は今の倍殴る」

しらけた笑いをレイが浮かべたので、更に殴った。脳震盪を起こすんじゃないかと思ったが、意外に小柄なこの男は頑丈で、平然と立ち上がってきた。

そう言えば容姿で侮られることが多かったから、それなりに鍛えているとかいう話は聞いたことがあった。まあ、どうでも良いことだ。

ケンの制止を振り切って、ドアを開ける。周囲は台風が通ったみたいな有様であることを予想していたのだが、そんな事はなかった。廊下も階段も実際には殆ど傷ついておらず、廊下やドアに、僅かに拉げた跡が残るだけであった。

隣の部屋のドアは、内側に砕けていた。

中を覗き込む。

電気は生きていた。そして、其処は一面血の海だった。

ロウの端正な美貌はもう欠片もなく、其処には肉片一つも残っていなかった。スーツの破片や、骨の一部さえもない。何だかわからない大きな生き物は、血だけは散らかしたが、それ以外はとても丁寧に食事をしたらしかった。

「いないか?」

「いねえな」

「じゃ、じゃあ、早く逃げようぜ!  この辺の海って、鮫とかもいねえんだろ? 泳いで、隣の島までいけねえかな」

「そのままじゃ無理だな。 確か、隣の島まで六キロはあるはずだ。 この時期の海で、六キロもお前、泳げるか? 水泳の授業で、25メートルでも結構苦労するの、忘れてねえだろうな」

しかも、下手をするとあの化け物が追ってくるかも知れないのだ。その状況で、六キロ。泳げる訳がない。

ゴムボートがあれば最高だが、最悪浮き輪でもどうにかなるかも知れない。だが、それがあるのは、確か別荘の裏にある倉庫だ。

ぞくりと、背中に何かを感じた。

顔中血まみれにしているレイが、こっちを見ていた。顔の血を拭おうともしていない。喋るなと言ったから、喋らないでいるというわけか。

いざというときは、此奴を餌食にして、さっさと逃げるのが良いかもしれない。霧咲はどうせもう生きていないだろうし、最悪ケンと二人だけで隣の島まで逃げ込めればいい。しかし、だ。

警察を呼んで、それからどうなるのだろうか。

この島でやってきたことは、そうなれば多分ばれる。荷物の中には相当な末端価格になるシャブが入ったままだし、今まで女に使うためにいろんな薬を入れてきたから、それも検出されてしまうかも知れない。

かといって、ロウと霧咲が死んだことをどうやって誤魔化せばいいのか。日本は内戦地帯ではない。それに、ロウが死んだことで、学長とのコネも切れてしまう。もう、警察による捜査は、警戒しなければならなくなってしまう。警察を無力化できていたのは、上層部にコネがあったからだ。いろんなアンダーグラウンドを見てきているジョウは、この国の警察が、上層は腐っていても無能でないことを知っている。

今頃気付く。

自分が、如何に危ない橋を渡っていたのかを。

一階に、降りる。途中、何かいないか念入りに確認した。床が粘液塗れになっているわけでもなく、何かが潜めそうな場所は全部調べた。だが、何もいない。戸締まりの類も、破られていなかった。

「やっぱり、幻だったんじゃないの?」

レイがほざいたので、また一度殴った。地面に酷い音を立てて転がったが、平然と立ち上がってくる。

「どうした、オラァ! 悔しいならやり返せよ、ああんっ!?」

「別にぃ?」

「気味が悪いヤローだな。 死ね!」

吐き捨てるが、レイのにやにやはとまらなかった。また二三回殴ったが、反応は変わらなかった。

何か、音がする。

台所からだ。ケンが、悲鳴を上げた。さっきから、目の焦点があっていない。ひょっとすると、発狂してしまったのか。

「おい、しっかりしろ!」

「あ、うう、うあ、ああああ」

揺さぶっても、意味を成さない音が口から漏れるばかりである。口からは涎も垂れていて、また小便を失禁した。大きく歎息すると、ジョウは台所を見つめた。

大きな何かが動いているような音ではない。

むしろ、これは。

辺りに気を配りながら、忍び足で行く。今更、音を立てるも何も無いような気がするが、それでも行く。

見ない方が怖いからだ。

規則的な音がする。あまりにも、この場にそぐわない音だとしか思えない。だが、しかし。

意を決して、台所を覗く。

其処には。少し大きめのTシャツとジーンズに着替えた、霧咲の後ろ姿があった。音は、この女が、料理をしている音であった。

ことことと音を立てる鍋。リズミカルに何かを刻んでいる包丁。長い髪はポニーテールに纏められている。

振り向く。

顔も返り血が飛んでいる訳ではなく、綺麗になっていた。

まさか、あの状況で。生きているのもそうだが、本当にシャワーを浴びていたのか。本当に気が狂ってるのではないのか。

愕然として立ちつくす。

「何?」

「な、何、って」

雰囲気も、大学にいた時と違う。

そもそもこの女の緩い雰囲気が、ターゲットとなる切っ掛けだった。大学を物色していたケンが、面白そうな女がいると言って、興味を持ったロウが調べてきたのだ。今時珍しい生粋のお嬢様で、大学までは共学校にも通ったことがない世間知らずだとか、ロウは獲物を品定めする目で言っていた。

誘うと簡単に着いてきて、喫茶では世間知らずな清楚系お嬢様の無防備な姿を露出していた。お嬢様と言ってもいわゆる没落旧家の出で、家はそれほど大きくなく、金を搾り上げるだけ絞っても大して問題はないだろうと、ロウは事前に断言していた。

今まで大学で、散々絞り倒してきた、他の女と大して変わらない。強姦した後は、金を搾り取るための道具に過ぎない、肉の塊の筈だった。

それなのに。

包丁を握ったまま振り返った霧咲は、今までの緩い世間知らずなお嬢様の雰囲気など、欠片も残していない。

其処にあるのは、ただ奥深い虚無だった。

再び料理に戻る。料理に使っているものをみて、背筋に寒気が走った。

肉。

肉だ。

「そ、その、その肉!」

「ああ、これ。 冷蔵庫に入ってたのを、使っただけよ」

信じられない。

後ずさると、背中に壁が着いた。何でこの女は、あの化け物に襲われなかった。ロウは首を刎ねられて、跡形もなく喰われてしまったのに、どうして平然としているのだ。

ケンはもう声もない様子だ。廊下に飛び出す。

「ねえジョウ。 パンツくらい、替えさせてあげたら?」

「うるせえっ! そんな状況か、見てわからねえかっ!」

もう一度、レイを殴った。鼻血が壁に飛んだ。今度は、しらけた目で、霧咲がこっちを見ていた。

「外道。 けだもの。 そんな風に、連れてきた女の子達にも、乱暴したの?」

「うっせえなあっ! 顔だのコミュニケーションだので男を選んで、ほいほい着いてくる女が悪いんだよっ! こんな島に連れてこられて、何もされないとか思ってたのか、ああんっ!? べたべた化粧して、着飾って、内心じゃ強姦されるのを楽しみにしてたんだろお、クソがあっ!」

「そんな理由で自分たちを正当化してたんだ。 馬鹿みたいね」

最反論しようとしたジョウが、ケンがズボンの袖を掴んだので、振り向くと。

其処には。

何かがいた。

 

3、なにか

 

レイの胴体に、何かが走った。それは光のようにも見えたが、一瞬後、壁の近くに滞空しているものが、肉で出来た巨大な紐状の触手だと気付いて、ジョウは絶句していた。

これだ。

ロウを、殺した奴だ。

次の瞬間、大量の鮮血が噴き出し、壁に、床に飛び散る。悲鳴を上げて後ずさるケンの前で、何度ぶん殴っても平然としていたレイの血みどろの顔から表情が失われ、斜めに分断されて。

内臓をまき散らしながら、ずり落ちた。

ごつんと、頭が床にぶつかる音が響いた。続けて、上半分を失った胴体が、派手に血をまき散らしながら倒れる。分断された胴体からは内臓がはみ出していて、その中には汚物も混じっていた。

ずるり、ずるり。音がする。何かが、此処に姿を見せようとしている。歯の根が合わない。腰が抜けてしまっているケンを引きずって、逃げようとする。台所か。駄目だ、そっちはあの女がいる。二階か。二階の、ロウの死んでいた部屋か、さっきまで籠城していた部屋か。

「に、逃げるぞ!」

「ひ、いい、いいいいいっ!」

「しっかりしろ、ケン!」

引っ張ろうとするが、何しろ大の男だ。しかもケンは長身で、体重は七十キロを越えている。やっと階段まで来た時、レイの体を分断した触手が動き出す。レイの体、下半身に巻き付くと、まるで人形でも持ち上げるかのように、引っ張っていった。

喰うつもりだ。

金切り声を上げる。霧咲が、しらけた目で見ていた。

「馬鹿な奴。 叫んだりしたら、気を引くだけよ?」

もう、構っている暇など無かった。階段を上がる。這うようにして、やっとケンも緩慢に動き始めた。ばきばき、ぼりぼり。食事の音。霧咲は平然と、何か得体が知れない奴が、食事をする音を聞いているようだった。

触手が伸びて、レイの上半身を掴む。力は相当に強いようで、掴んだ時に、骨がへし折れる音が響いた。首の骨が砕けて、顔の骨も潰れたらしい。ぎゃっと悲鳴を上げたケンが、気絶した。しかし、もう漏らす小便もないようだった。

気絶したことで、更に酷く重くなったケンを引っ張って、二階に。階段で何度もぶつけたが、どうにか二階まで這い上がった。下ではずっと食事の音がしている。また、霧咲が料理を始めたらしい。異常な環境の中で、妙にいい匂いがする。何の料理を作っているか知らないが、とても正気だとは思えなかった。

俺は悪くない。悪くない。悪くない。

ほいほい着いてくる女が悪い。ちょっと見てくれを飾ってやるだけで、にやにやして、着いてくる女が悪い。

事実、世間では、弱い奴を踏みつけにしても許される風潮が出来つつある。俺達は、時代を先取りしているだけだ。悪い訳がない。

ロウの部屋を見るが、やっぱり血みどろで、しかもドアが壊されている。とても籠城できる状況ではない。しかも最初に、そこでロウが殺されたのだ。

さっきまで籠城していた部屋に逃げ込む。

白目を剥いて、泡を吹いているケンを転がすと、窓の鎧戸を乱暴にあげた。外を見る。化け物は、いない。まだ、レイを喰っているんだろう。ならば。それならば。

ケンを、見つめた。

ケンを引きずっては、逃げられないかも知れない。今なら、ジョウだけなら、逃げられる可能性が高い。

呼吸が乱れてくる。

もう一度、外を見る。

そして、思いっきり、目があった。

血まみれの、レイの顔だった。

「やあ、ジョウ」

生首だけなのに、レイは喋る。自慢のベビーフェイスには、狂気が爛々と宿っていた。生首だけなのに。実に嬉しそうに、レイは語る。

「おいでよ、こっちに」

「ひっ!?」

「それじゃあわからないよ。 僕を殴ったみたいに、弱い者にしか強く出られないんだねえ、君は」

鎧戸を乱暴に閉める。

レイの笑い声がした。声だけは、鎧戸の向こうから、響き続ける。

「下にいた奴、ジョウの事を最後に食べる気みたいだよ。 良かったねえ、最後まで生き延びる事が出来るんじゃない?」

けたけた。けたけた。

レイが、女をなぶり者にしている時、いつもそんな風に笑っていた。一緒にジョウも笑ったものだ。

だが、それが自分に向けられると、こうも腹立たしいものとは思えなかった。

鎧戸をもう一度、乱暴に開ける。レイだから、強気に出ている自分に気付いても、ジョウは別に何とも思わなかった。今までの人生で、悩んだことなどない。親の金で学校に行きながら、好き放題してきた。遅くに産まれた子供のジョウを、親は最大限甘やかした。何でも買ってくれたし、何があってももみ消してくれた。だから、自分は偉いと思った。屑を踏みつけにする人生には慣れきっていた。

虐めも散々やってきた。小学生時代、クラス全体を指揮して、とろい奴を虐めていたことがある。そいつは精神病院送りにしてやった。そのほかにも何人も退学させたり転校させたりしてやった。弱い者虐めは、どんなゲームよりも刺激的な遊びだった。気に入らなかった一人に到っては、首をくくらせた。

それも悪いとは思っていない。

屑で雑魚で貧弱な方が悪いのだ。

虐めなんてものは、虐められる側が悪いのだと、ジョウは思っている。むしろ虐めた側は被害者だとさえ考えている。

だから、弱者への暴力には慣れきっていた。弱者に対して、どんな高圧的な事も、残虐的な事も出来た。

だが。

鎧戸を開けて、レイにもう一度拳を叩き込もうとしたジョウは。一瞬後に後悔していた。

其処には、レイの生首は無く。

代わりに、血みどろの、何かよくわからない肉塊が浮かんでいるだけだったからだ。

急速にレイの生首は崩壊していた。皮が溶け、骨が露出し、ウジ虫が異常な速さで蠢いて、渇き、腐り、溶けていく。

真ん中から、光が走り、左右に分かれて。

それぞれが塵芥が吹き飛ぶようにして、飛び散る。腐敗した肉汁が顔面にかかって、初めてジョウは絶叫することが出来た。

手近にあった何かで必死に顔を拭く。蠢いていたウジ虫まで飛んできていたから、肌の上をはい回るその感触が、どうしても残って仕方がなかった。顔を拭いた後で、それがロウがこの別荘に用意していた換えの服だと気付いて、もう一度絶叫した。

ケンが目を覚ましたらしい。

そして、ジョウの狂態を指さして、けたけた笑い始めた。

この時。

ジョウは、自分の命運が尽きたことを悟った。

 

一階を、何かがはい回っている音がする。

レイをぶった切ったあの触手からして、とんでもない大きさなのは確かだ。どんな形状をしているのかはわからないが、とにかく大きくて、人を食う何かが、下にいる。それでいながら、平然と霧咲は料理を続けているのだろう。今頃居間でジョウが用意した素材を使った料理を、楽しんでいるに違いない。

海老で鯛を釣るという言葉がある。

ジョウ達四人は、獲物を釣るためには、多少の犠牲を厭わなかった。だから、楽しく人生を謳歌してこられたのだ。

今、せっかく用意した海老が、船の上に群がってきたうみねこどもに容赦なく横からかっさらわれている。そんな不快感が、ジョウの全身を締め付けていた。

どん、と鋭い音。

床を、何かが下からつついたのは確実だった。

「ひいっ!」

思わず悲鳴が漏れていた。

もがいて、逃れようとする。

だが、何かは気紛れで動いたのか。或いは単に動いた隙に、何かの体の一部が天井に触れたのか。どちらにしても、もうぶつかる音はしなかった。

ケンはすっかり気が触れてしまい、口から涎を垂れ流し、うわごとを呟きながら床をはい回っている。もう漏らす糞尿も腹には入っていないようだが、異臭は酷くて耐え難い。鎧戸を閉め切っているから、時間の感覚はなくなっていた。携帯を取り出してみると、もう丸一日が経過していた。

後、三日。

否。後三日も残っている。あの化け物は、一日で二人も喰ったのだ。どう考えても、後半日も保たないのは明白だった。

「お、俺達が、何をしたっていうんだよ!」

吠える。

悪いことなど、何一つしていない。

人間が生きるために必要なことを、ただしていただけだ。どこの偉い奴だって、自分が楽しむために犯罪はしているではないか。雑魚どもを踏みにじり、脳みそが空っぽなアホどもから搾取して、何が悪いのか。

ふと、気付く。

自分は今、悪いことをしたから、罰を受けていると、感じていたのか。

頭を乱暴にかきむしる。二時間も掛けてセットした髪も、今はもうすっかりぐちゃぐちゃだった。

「風呂、はいりてえよ」

何で、霧咲は襲われないのか。さっきの様子からしても、今までの状況からしても、化け物が霧咲に興味を示していないのは明白だ。

今まで、散々この別荘は使ってきた。遊ぶつもりで着いてきた女どもを、搾取の対象にするために。薬を飲ませて強姦して輪姦してなぶり者にして。いずれも、遊ぶ金を稼ぐためだった。

それはいい。だが、それらの時、此処の別荘で、こんな化け物と遭遇したことは、当然なかった。

つまり、今回化け物は、霧咲が連れてきたことになる。

思えば、あの船の影にいた巨大な何かが、あの化け物だったのだろう。

何が、この辺りの海には鮫もいないだ。いい加減なロウの言葉に、腹が立ってくる。鮫どころか、ハリウッド映画に出てくるモンスターも真っ青の化け物が、気味が悪い女に連れられてて出てきているではないか。

鈍い音。

ドアが、外から叩かれたのだ。

悲鳴を上げて、窓際まで後ずさる。しかし、ドアを叩いたのは、どうやら霧咲らしかった。

「いつまで逃げ隠れしているつもり?」

返事はしない。ドアはどうせ開かない。箪笥だけではなく、部屋にあるあらゆるもので塞いだからだ。

「逃げられはしないって、別ってるんでしょう? 罪に相応しい罰をさっさと受けたら?」

「ふ……」

巫山戯るなと、ジョウは絶叫していた。

悪くない。

悪くない。俺は悪くない。何一つ悪いことなどしてない。喚き散らす。ケンがけたけたと笑う中、ジョウは必死に吠えた。

俺は悪くないと。

「お、俺が何をした! 屑から搾取するのは、世界の何処でもいつでもやってることじゃねえかっ! 法律なんて偉い奴が好き勝手にするために作ったもので、俺は、俺達は世界で一番偉いんだよ! 雑魚を踏みにじって、屑を痛めつけて、アホから搾取するのは、強い人間の当然の権利だろうが!」

「呆れた。 本気でそう思っているみたいね。 ならば、もう良いわ。 貴方のような屑には、関わるのも不快よ。 最初に死んだ平岩次郎や、さっき死んだ赤沼礼治にも勝る悲惨な死に方を用意してあげる」

「屑、だって!? 巫山戯るな! 屑はてめえらの方だろうがっ! 男に依存することしか考えてない脂肪豚があっ!」

沸騰した。

どのみち、霧咲なんか、薬を使わなくてもどうにでも出来る。

箪笥を乱暴にどかし、他のものを全てどかす。そして、ドアを乱暴に蹴り開けた。

霧咲は、いない。

飛び出して、周囲を見回す。

異臭。

ずるり。

じゅるり。

何か、音がした。

上がってくる。階段を。あの何かが。背筋に寒気が走る。今更ながら、思い当たる。あの女、ひょっとしたら。

化け物を操っているのではないのか。

ならば、今のは卑劣な挑発だったのではないのか。

ドアを乱暴に閉めると、箪笥や他のものを動かして、ドアを乱暴にふさぎに掛かる。だが、レイを殺したあの触手の凄まじさを思い出すと、全身に粟が生じる。そうだ。奴はその気になれば、こんなドア、簡単に破れるのだ。

「ち、ちきしょう! ちきしょうっ!」

地団駄を踏んで絶叫する。

その間も、確実に音は近付いてくる。殺そうと、近付いてくる。ジョウと、ケンを喰おうと、迫ってくる。

俺が何をした。ジョウは絶叫した。

荒い呼吸の中、完全に発狂して、けらけら笑っているケンを見る。此奴はもう駄目だ。此奴を此処に残しておけば、多分化け物は先に。

「ひ、ひひひひひ、ひひひひひひひ!」

笑い声が漏れてくる。

何も悪いことはしていないのに、死にたくない。

だったら、これは仕方がないことだ。正当防衛だ。ジョウは理屈を組み立てると、鎧戸に飛びついた。

窓を乱暴にこじ開ける。乱暴すぎて爪が剥がれてしまったが、気にならなかった。

外には、何もいない。

よしと、ジョウは叫いていた。

そのまま、窓から外に全身を乗り出す。さっき、外にレイの生首が浮かんでいたことなど、とうに忘れ果てていた。周囲を見回す。何もいない。

怪鳥のような叫び声を上げながら、ジョウは窓を飛び出した。

空中を走るように、何度も足を動かす。落下。

地面に激突。

何度も女どもを視姦した芝生の上で、ジョウは無様に悲鳴を上げていた。

当然だ。あの高さから飛び降りたのだから。

足の骨が折れてしまっていた。もがいているジョウの耳に、飛び込んでくるのは。あの、這いずる音。

絶叫。

もがいて逃げようとする。海だ。海まで行けば。船があるかも知れない。足が折れているから、どれだけもがいても、必死になっても、全然進まない。少し進むだけで、足が砕けそうな痛みが走った。

呼吸が荒くなる。

恐怖で、周りが見えなくなった。

「いてえ、いてえーっ!」

喚きながら、それでも海に進もうとしていたジョウの足を、何かが掴んだ。

そして、空に釣り上げられる。

最後にジョウが見たのは。

全身を膾斬りにしようと飛んでくる。数本の触手だった。

呪ってやる。

恨んでやる。

何も悪いことはしていない。

最後まで、ジョウはそう考えていた。

 

4、罪の形

 

窓から入ってくる音。

咀嚼音。

何かを喰らう音。

それを聞いていて。不意にケン、志藤健太は我に返った。

ズボンの中が著しく不快だが、それどころではない。思い出す。何も悪いことをしてない自分たちを襲おうと、化け物が迫っているのだと。

窓に走り寄る。

外は惨劇の場と化していた。

芝生には大量の鮮血と、野放図に散らばった内臓。そしてそれに群がる、何かよくわからない影のようなもの。

触手だとかジョウは叫んでいたが、ケンにはそうは見えなかった。

乱暴に鎧戸を閉める。今、あの化け物どもは、ジョウの死骸に夢中になっている。わかる。ジョウが、自分を見捨てようとしたことは。それならば、自分だってジョウを見捨てても、いいはずだ。

泳げば。

海を泳ぎ切れば、多分逃げられる。

化け物を刺激しないように行けば、多分逃げられるはずだ。

この別荘の構造なら、知り尽くしている。パニックになったジョウは窓から飛び降りたが、そんな事をしなくても、一階に出れば、裏口もあれば、大きめの窓もある。どちらからでも、化け物どもに鉢合わせず逃げられるだろう。

ドアを開けて、外に。

周囲の血の臭いがもの凄い。多分ジョウはこれに頭をやられて、少しずつ判断力を無くしてしまったのだろうか。ぼんやり見ていたから何とも言えないが、どうも幻覚を見ていた雰囲気もある。

隣の部屋には、ロウの亡骸が残っていた。ずたずたに切り裂かれて、原型も無い。頭に突き刺さった包丁が凄惨だ。涙が出そうになる。ロウは同い年とはいえ、頼れる兄貴分だった。一番の仲間だった。一緒に色々なことをした。

最初に女を食い物にするのを考えたのは、ロウだった。

ロウは退屈していたようだった。ありあまる金と権力があるのに、何で世間一般の常識だとか言うくだらないものにしばられなければならないのかと、いつもぼやいていた。ケンにはその辺りはよくわからなかったから、いつもにこにこして話を合わせていた。ロウに嫌われるのが、いやだったのかも知れない。

下に降りる。

出来るだけ足音を立てないようにして、一階に。廊下には、滅多刺しにされたレイの死体が転がっていた。

ロウが兄貴分なら、レイは可愛い弟だった。たまに生意気な顔をすることがあったけれど、それは弟の甘えだろうと思って、看過してきた。

知っていた。レイがベビーフェイスとは裏腹に、非常に過激な性格をしていることは。ロウの参謀を兼ねていたレイは、裏では一番過激で強烈なことを平然としていた。食い物にした女を更に精神的に追い詰めて、首をくくらせていたのは、いつもレイだった。首をくくらせてしまうにはもったいない女もたまにいた。だけど、可愛い弟分のすることだから、いつも笑って許していた。

それも、嫌われるのがいやだったから、かも知れない。

ぐつぐつと、鍋が煮える音。

こっそりと伺う。

血みどろのTシャツを着た霧咲が、まだ料理をしている。猛烈な血の臭いと混ざり合った、ポトフか何かの煮汁の匂いが、吐き気を催す原因となる。抜き足でその場を離れようとしたケンは、全身がすくみ上がるのを感じた。

見られている。

何かに。

「何処へ行くつもり? 志藤」

霧咲の声だ。

さっきから、ずっと気付いていたのか。気付いた上で、嘲笑いながら、料理を続けている振りをしていたのか。

異様すぎる。

怖くて、振り返ることが出来ない。あの女が、何か得体が知れない化け物を操っているのは確実だ。そして抵抗できると思ったジョウは、あっさり殺された。あの服の返り血から言って、あの女も何かしたのかも知れない。わからないが、勝てる相手ではない。逃げなければならない。

走り出す。

しかし、床にぶちまけられているレイの血と内臓に滑って、転び掛ける。ゆっくり、視線の主が近付いてくる。

「無様。 島田上徽も自滅同然だったけど、貴方も似たような最後になりそうね」

最後、最後と言った。

殺す気だ。

ケンも殺す気だ。あの女、やっぱり気が狂っている。

悲鳴を上げて、這いずる。必死に足を動かして、裏口に。

ずるり。

何かが、這いずる音がする。追ってくる。

絶叫して、ケンは逃げる。追いつかれたら終わりだ。殺される。絶対に殺される。ばらばらにされて、きっと海に捨てられる。

裏口。乱暴にノブを捻るが、開かない。何度もやっている内に、確実に足音は近付いてくる。視線の主も。

視線はずっと背中に突き刺さっていた。全身から噴き出す汗。ズボンの中の不快感など、もう気にならなくなっていた。自慢の長髪は乱れ放題で、必死にノブを捻っているケンを嘲笑うように、確実に足音は近付いてくる。

開いた。

外にはじき出されるようにして飛び出す。

血の臭いが凄まじい。ジョウの死に様を思い出して、吐きそうになる。乱暴に裏口を閉めると、海に走り出す。

この辺りの海には、何も大きな魚はいない。

逃げ込めば。

逃げ込みさえすれば。きっと、化け物どもは追ってこられない。

つんのめり、何度も転びそうになりながら走る。ちらりと、見えた。ジョウがずたずたに引きちぎられて、肉の塊になって。芝生の上で湯気を立てて転がっていた。

ごめんよ、ジョウ。

見捨てて逃げることを、許してくれ。

口の中で、呟く。

ジョウは友達だった。他の二人が兄弟分だとしたら、ジョウだけは唯一対等な立場の友達だった。

でも、見捨てていかなければならない。

死にたくないのだ。死にたくない。何も悪いことなどしていないのに、こんな事で死にたくなかった。

海が見えてきた。

転んだが、砂浜だ。どうにか起き上がる。

船がいてくれればと思ったが、いるわけがない。船長はロウの親爺に買収されていて、完全に手下だ。何が島で行われているか別った上で、皆をこの島に置き去りにしたのだ。海に飛び込む。

肌を刺すように、海が冷たかった。

服を脱げば良かったかと思ったが、もう戻っている暇はない。必死に手足を動かす。体が重い。

思い出す。着衣泳は、相当な訓練を積まないと出来ないと、何処かで聞いた。服がこれほど重くなるとは思わなかった。だが、少しでも泳ぐのが遅れたら、追いつかれる。そうしたら、終わりだ。

「ひいっ! ひいいっ!」

情けない悲鳴だと自分でも思いながら、腕が千切れるほどに動かす。これで、一キロくらい進んだか。

波が顔に掛かって、思わず振り向いてしまった。

そして、絶望する。

島は、まだすぐ手前にあった。ほんの百メートルほどしか、進んではいなかったのだ。波の抵抗、それに着衣の重さ。それらが、普段から水泳をしている訳でもないケンの抵抗を、容赦なく削り取っていた。

そして、砂浜に。

砂浜に、いる。

あの女が。

霧咲が。

手に包丁を持って、薄ら笑いを浮かべて、立ちつくしている。真っ赤な血が飛んだTシャツが、青い空との強烈な対比となっていて、それがより強い恐怖を誘った。

絶叫したケンは、また逃げようとして、手足を動かす。だが、もう、手足は痺れ始めていた。塩水を飲んでしまう。もがいている内に、足が攣った。

「ぎゃーっ! がぼおっ! ごばっ!」

すぐに、全身が海の下に沈む。

大量の空気が、口から漏れていく。もがくが、全く上昇しない。恐怖にかられて、必死に手足を動かすも同じだ。

水深は何メートルあるのか、全然わからない。

そう言えば、ジョウが言っていたか。浮き輪かゴムボートがあれば逃げられるかも知れないとか。さっき、探しておけば良かったと、ケンは思った。思ったが、もう、どうにもならなかった。

視線。

見られている。

振り返ったケンは、恐怖に目を剥いた。

映画に出てくるような巨大な鮫が、至近でケンを見ていたのだ。

鮫の巨大な口が、かぶりついてくる。

顔面を噛み砕かれる前に、最後にケンが思ったのは。理不尽だと言うことだった。

何も悪いことをしていないのに、どうしてこんなに残虐に殺されなければならないのか。そう、ケンは思った。

 

結局、最後の最後まで、自分たちの罪さえ認識することがなかった。腐りきった相手を何度も殺してきたが、今回の連中は別格だった。恐らく、今まで一度も親に怒られるようなこともなかったのだろう。

獲物を刈り終えた霧咲愛菜は、海から上がった。水が滴る右手には、志藤健太の生首がある。さっき、海中で追いつき、殺して切り落としたものだ。残った死骸は、重しを付けて鎮めてきた。後はこの辺の蟹たちが餌にするだろう。イケメンだかビジュアル系だか知らないが、自業自得の無惨な最後である。

たっぷり海水を吸った長い髪を掻き上げる。今回の仕込みのために伸ばしたとは言え、こう長いと面倒だ。島を出たら、さっさと切ってしまおう。愛菜はそう思った。

そして、体を乾かそうと思って、もはや生きた人間は彼女しか存在しない孤島の別荘に入った。

生首を乱暴に放り捨てる。

捨てた先には、他の三人。島田上徽、平岩次郎、赤沼礼治の死骸も転がっている。どれも滅多刺しにしてやった。既に蠅が集り始めており、放っておけばこの別荘は使い物にならなくなるだろう。

島田上徽の荷物を引っ張り出し、中に入っている大量の覚醒剤を取り出す。そして、死骸の周りにばらまいた。

キッチンに隠しておいた携帯電話が鳴る。特注の品で、無線に近い代物である。各国の特殊部隊などで採用されている代物だ。着メロは、何かが床を這いずる音に設定してある。これはとても仕事と相性がいい。最初に殺す一人以外は、自滅させるために恐怖させる必要があるからだ。

「はい。 霧咲です」

「私だ。 仕事は終わったかね」

電話に出ると、クライアントだった。何度か仕事を請け負った相手である。

別にこんな仕事、義憤に駆られてやっているわけではない。生活と、一族のために行っているのである。

「たった今。 報酬の半金の振り込みと、残りの処置をお願いします」

「いつもながら見事だ。 ターゲット達の被害者については、こっちで適切に処理しておく。 脱出は自分でやってくれるか」

「ええ。 警視総監」

「ははは、その肩書きも、もう三年も前の話だ。 では頼むぞ」

頷くと、携帯電話を切る。

そして、物置に。泳いで島から離れてもいいのだが、実はゴムボートが此処にはある。以前、島の下見に来た時に、隠しておいたのだ。

ずるり。

何かの物音。

振り返ると、「彼」だった。

一族と共にある者。人の恐怖によって姿を変える存在。そして、認識をずらす存在でもある。

狢。

狐や、狸の変化とも思われる事もある。

だが、この狢は、一族だけにしかなつかない。一族が危険にさらされた時だけ、その力を見せる。

実際の所、愛菜にも狢がどんな姿を本当はしているのかはわからない。穴熊に似ている姿をしているという文献が多いが、実際には不明だ。昔、狢の一族は穴熊に寄生していた事があり、其処から生じた誤解かも知れないと、祖母は言っていた。祖父は狸や狐に寄生することがあるとも教えてくれた。いずれも又聞きによる知識だから、よくわからない。

一つ分かっているのは。好物が人間をはじめとする動物の胆だと言うこと。だから、仕事を終えると、死骸を切り刻んで胆を与えているのだ。

不思議と、ターゲット達には、死骸を丸ごと平らげているように見えるらしい。もっとも、愛菜にはどうでもよい事だったが。あのような連中のことは、思い出すのも不快だ。彼奴らは最初から肉の塊だったとして、認識しておくのが良いだろう。

事実、その胆を料理して、狢にさっきまで与えていたのだから。

「帰りましょう」

音はない。

だが、わかる。狢は肯定の意を示している。

なぜわかるのか。

それは、簡単なことだ。

狢は、愛菜の影の中に住んでいるのだから。意思も、通じている。

夜行性の性質が強い狸や穴熊が、かって狢の依り代となっていたとしても。今、一番彼らにとって心地がよいのは、人間の影という、この世界最大最悪の闇だ。だからこそに、愛菜は狢を飼い慣らすことが出来る。

もっとも。

最近は愛菜も人間の肉に興味を覚え始めている。だから後数年で、祖父母のように、人を食う嗜好も表に出てくるかも知れない。そうなってくると、祖父母同様に紛争地帯に足を運んでは、食材を調達しなければならなくなる。色々と面倒だった。

今日も、料理している時、匂いが美味しそうだと思ったものだ。

ゴムボートを漕いで、鳥啼島を離れる。

後は、クライアントが飼っている週刊誌がせいぜい派手に騒ぎ立ててくれるだろう。それで、充分だった。

もっと肉を食べたい。

狢が言う。狢は普段全く食事をしないが、一度食べ始めると、何人分の胆でも平らげる。

愛菜も、同意した。

殺すなら、屑に限る。

そして、不思議とまだ見ぬ屑の肉に、食欲が刺激されるのだった。

 

4、影から来るもの

 

家の周りをマスコミが取り囲んでいる。既にコネクションがあったキャリア組は、そっぽを向いている状態だった。

何でこうなった。

K大学の学長、平岩隆三は舌打ちしていた。馬鹿だから可愛い、年が離れた従兄弟をかばってやっていた。ただそれだけなのに、どうしてこのような目に会わなければならないのか。

コネクションのある政治家達も、既に電話を掛けても出ない状態である。

島で発見された、同士討ちで殺し合ったと思われる四人。その周りに散らばっていた大量の覚醒剤。それがきっかけだった。

もみ消しに出遅れたことが、致命打になった。後はあれよあれよという内に、マスコミが騒ぎ立てた。何人か自殺者が出ていることとか、W大学内に張り巡らされていた売春サークルと同類だとほざく者が出たことで、事態は発火。K大学は悪の巣窟呼ばわりされて、隆三が築き上げた全てが、一瞬で失われていた。

既に教授達は揃って辞意を表明。学生達も、自主退学したり、別の大学に移り始めている。マスコミは日がな一日中隆三の家を無礼にも包囲し、自分たちの醜悪さも顧みることなく、ぎゃあぎゃあ喚き散らしていた。

この程度の悪事、金持ちなら誰でもやっていることだ。

なぜ、自分だけがこんな目に会わなければならない。

それを思うと、隆三は怒りで沸騰しそうだった。

玄関から出る。大勢のマスコミが、カメラを向けてきたので、バケツに入れた汚物をそのままぶちまけてやる。そのままドアを閉じる。外で何か騒いでいたが、知ったことではない。

妻はとっくに逃げた。

一人だけの、百二十坪の家の中は、妙に広く感じた。

警備員も今はいない。あまりにも五月蠅いので、そろそろ専門の人間でも雇うべきかも知れない。

電話に手を伸ばしかけて、ふと、気付く。

何か、音がした。

引きずるような音。

呻き声。

とっさに、近くにあったゴルフクラブを手にする。これだけの大きさの家だ。今まで、泥棒に入られたことだってある。ヤクザまがいの連中と、とっくみあいをしたことだってあった。

さては、先走った週刊誌が、忍び込んできたか。カメラを叩き割って、蹴り出してやる。闘志を刺激された隆三は、ゆっくり振り返り。

見た。

其処に蠢いていたのは。

従兄弟の次郎と、取り巻きの三人。彼らの、表情を喪失し、粘液に塗れた生首だった。それらは得体が知れない触手で絡めとられており、意味不明の呻き声を上げながら、断続的に腐汁を噴き出していた。

思考が麻痺する中、隆三は、自分の絶叫を聞いていた。

「く、くく、来るな、来るなああああっ! ぎゃああああああっ!」

滅茶苦茶に、一本三十万もするドライバーウッドを振り回す。

何かが砕けた音。

そして、勝ったと思った瞬間。

視界の真ん中を縦に通り過ぎた閃光とともに、隆三の意識はかき消えていた。

 

田舎町の駅のホーム。風に飛ばされた週刊誌を拾い上げる霧咲愛菜。

トップの記事は、予想通りの仕上がりだった。

「疑惑のK大学学長、自宅に侵入したS新聞記者を撲殺。 その直後、転んで後頭部を打ち死亡」

死骸がズタズタに切り裂かれていたことは、何処の新聞にも書かれていない。遠巻きに家を包囲していただけで、発見したのは愛菜のスポンサーの息が掛かった警官達だから当然だ。

舌なめずりしたのは、ゲスどもの頭目の肝臓を思い出したからだ。

あれは、美味しかった。

ショートに髪を切りそろえた愛菜は、週刊誌をゴミ箱に放り捨てる。かっては硬派を気取っていたこの雑誌も、今やスポンサーの顔色を伺い、ゴミ同然の記事を書き散らす低俗な存在に落ち果てた。

あぜ道を歩く。空気が気持ちいい。

辺りは風光明媚な田舎だ。

だが、人間が住んでいる以上、周囲は闇が充ち満ちている。

狢が喜んでいるのを感じる。

辺りには、旧来の風習にしがみついた、愚かな人々が住んでいるのだ。狢にとっては、最高の食事環境であろう。しばらく綺麗な田舎の空気を楽しんでいた所に、携帯電話が鳴る。

仕事だ。

「霧咲君。 私だ」

「今度は何用ですか」

「なに、五人ほど殺して欲しくてね。 報酬は、前回の二倍払おう」

相手の詳しい情報を受け取ってから、電話を切る。楽な仕事だが、愛菜のやり方だとまず不自然ではなく敵に近付く所から始めなければならない。せっかくのバカンスも此処までだ。

踵を返すと、駅に戻る。

その途中で、視線を感じた。

振り返る。

畦の影。

自分をじっと見つめるのは。

無数の目玉。闇に蠢く触手。

人外のものが、そこで、同類である愛菜を見つめていた。

鼻で笑うと、愛菜は歩き始める。

闇は、人間によって生み出される。狢でさえ、人間が飼っている。

そして、闇を食い物にするのもまた、人間なのだ。だから、闇を恐れることなどない。

「おいで。 一緒に行こう」

手をさしのべると、闇は蠢きながら、着いてきた。

また一つ闇が、愛菜の下に集った。

 

(終)