地獄の斑目島
序、終わりの時
問答無用、一撃必殺。
雛理が最初に仕掛けた。跳躍と同時に、平坂の顔面に拳を叩き込む。もとより、戦闘経験など殆ど無い相手だ。感覚に訴えかける攻撃を多用し、一気にけりを付ける。
だが、火花が散ったかと思えた。
手を上げた平坂が、拳を受け止めたのである。
間髪入れず、勢いをそのまま利用して、膝蹴りを叩き込む。
これも、入らない。
平坂の体が泥の中に沈む。平坂の手を蹴って、中空に躍り上がった雛理は、残像を残しながらジャージ先生が、平坂の後ろから蹴りを見舞うのを見た。
平坂は、今度は自身も残像を残しつつ、タールの上を滑るように移動。
蹴りは、空を切った。
着地。
雛理は、タール状の闇の上に、立つ。
下にあるのは、オンカヌシそのものだ。それくらいはできる。如何に主導権が、平坂に移っていても。
身を低くして、跳ぶ。
平坂は、ジャージ先生の猛攻を左手一本で凌いでいたが、どちらも素人だ。動きは速いが、そろそろ目が追いついてきた。
すぐ側を抜けるようにして、後ろに回り込む。ジャージ先生の左回し蹴りを平坂が受け止めた瞬間。抜き手を放つ。
かき消える平坂。
だが、上に行ったことは分かっている。跳躍して、後を追う。
回転しつつ、踵落としを、平坂に叩き込む。
左腕でガードされ、だがタールの沼に、平坂を撃ち込むことに成功した。
飛び離れる。
ここからが、本番。
平坂が、泥から這い上がってくる。二回りは、大きくなったように見えた。
「ふむ、流石に肉弾戦では勝ち目は無いか」
泥が、見る間に平坂に吸収されていく。強化されているのは、恐らく肉体だけでは無い。オンカヌシから、戦闘経験も吸収しているはずだ。
息がもう上がり始めた。
致命傷に近いダメージを、無理矢理押し殺して戦っているのだ。
長くは、もたない。
平坂がカムイ化しているのなら、恐らくコアがある筈だ。それさえ叩いてしまえば、奴を倒せる。
コアが一つとは限らない。
だが、場所だけは、何となく分かる。
再び、仕掛ける。
ジャージ先生も、同時に仕掛けた。
黒鵜は、自身でアパッチを駆って、斑目島の上空に来ていた。
既に地獄と化した島で、三つの影が舞っている。既に人外のものと化した連中の、死闘が今繰り広げられているのだ。
無言で黒鵜は、唇を噛んだ。
介入できる隙が無い。
それぞれが、残像を残して動き、拳が岩を砕くような有様だ。最大級のグリズリーがいても、車にひかれた子猫のように、瞬時にミンチにされてしまうだろう恐るべき戦場。それが、黒鵜の前にある。
平坂が有利だろうとは思う。
実際、あの二人は満身創痍だった。時間も殆ど経っていない。
平坂の方は、戦闘に関する知識が不足しているだろう。だがそれにしても、見るからに圧倒的だ。
勝つのは平坂だろう。
そう考えて、ぞくりとした。其処まで、黒鵜は平坂に関しては、客観的な判断力を失っているのか。
一度、島から距離を取る。
時々瓦礫や石つぶてが、かなりの高度まで飛んでくるのを見る。ヘタをすると、巻き込まれかねない。
此方に来ている巡洋艦に、連絡。
「トマホークは残り何本だ」
「後七発。 速射砲なら、いつでも行けますが」
「……まだ待て」
もしも平坂が敗れるようなことがあったら。
その時は、どうしよう。
速射砲で、二人を撃ち殺すか。トマホークも使って、一気に二人を吹き飛ばすか。そんなことに、何か意味があるのか。
しばらく黒鵜は、戦況を見つめる。
平坂が攻勢に出た。触手をふるって、傭兵を捕らえる。そして振り回して、二度、三度と、地面に叩き付けた。
だがその瞬間、人型カムイの方が、平坂の頭を後ろから蹴り砕いていた。
コアが損傷しなかったのだろう。頭は瞬時に再生する。
だが着地した人型カムイが、今度は跳躍して、踵で平坂の頭を砕く。その間に、女傭兵も、平坂の触手を力任せに引きちぎる。
頭を再生した平坂に、二人の蹴りが前後から同時に入る。
体が砕けた。
タール状の沼の上に、真っ黒な死骸が飛び散る。肩で息をしている女傭兵が、此方を見た。
さて、どうしたものか。
女傭兵と、人型カムイの足を。
地面から生えてきた手が掴んだのは、その瞬間。
二人は振り回されて、地面に叩き付けられる。おそらくは、この様子では、まだ当分勝敗は決しないだろう。
「もう少し距離を取って、戦況を見る」
「よろしいので」
「まだ決着はつきそうに無い。 三者入り乱れての戦いが続いている状態だ。 下手な砲撃は、平坂様にも当たる」
「分かりました。 それでは待機します」
とはいっても、メガフロートも、巡洋艦も、着実に此方に向かっている。
メガフロートは一時補修が終わり、ヘリが補給を受けているという。そろそろ、コブラがこっちに到着するかも知れない。
泥の中から這い上がるようにして、黒い巨体が姿を見せる。
「ハハハ、流石にたいしたものだ!」
平坂の声。
しかし、もはやその姿は、平坂とは似ても似つかなかった。
全身としては、巨大な黒い人型。無数の触手が生えているが、どうにか人間の形だと認識できる。
だが、顔には目も鼻も口も無く、角が二本、額から生えていた。
目は黒い全身のどこにも見当たらない。
いや、触手の先端部分には、何個かついているものがあるようだ。
それよりも、更におぞましい事実に気付く。
辺り中の泥の中から、伸びてくる触手。
それらの全てに、目や口がついているではないか。もはや平坂は、機能を集約しているあの体に、目を必要としないのだろう。
島を動かすと言っていた意味が、ようやく分かった。
平坂は、島そのものになろうとしている。
そして、恐らく。
世界の全てを、自分で覆い尽くすつもりだろう。
「どうした、もう少し近づいてこないのかね」
不意に聞こえる声。
気がつくと、触手の一本が、尖端をすぐ側にまで伸ばしていた。複数ついている口が、此方を嘲笑うように動いている。
「もう勝敗は決したも同然だ。 見たまえ」
平坂の体に、何度拳を叩き込んでもびくともしない。
女傭兵が、愕然とするのが、黒鵜のいる高度からも分かる。人型カムイの方が、回し蹴りを叩き込むが、まるで小揺るぎもしない。
一撃一撃が、岩をも砕くような破壊力だろうに、だ。
「私は既に二人のスペックを解析した。 もう二人の攻撃は通らんよ」
「そう、でしょうか」
「危険な要素があれば、いってくれたまえ。 私としても、早期に補強したい」
こんな状態でも、平坂は冷静で、なおかつ謙虚だった。
乾いた笑いがこみ上げてくる。
「弱点の保護は充分ですか」
「問題ないとも。 何しろ……」
「人型の中には無い、ですか」
そうだろうと、思っていた。
平坂の事だ。それくらいの安全策は講じているだろう。二人の凄まじい攻撃を受けてもびくともしない理由がそれだ、というわけだ。
だが、その場合。
コアを砕かれると、全てが終わる可能性も高い。
平坂が、傭兵を掴んだ。そのまま凄まじい音を立てて、握りつぶしに掛かる。人型カムイが腕に蹴りを叩き込み、一瞬の隙を突いて傭兵が逃げ出す。逃げる途中、顔面にドロップキックを叩き込むことも忘れない。
だが、それでも、平坂はまるで応えていない。
それに対して、二人はもう限界が目に見えている。
勝負は、確かにあったようだった。
「黒鵜、どう思うかね。 私は二人を配下に加えて、新しい世界の礎の一つにしたいと思っているのだが」
「止めた方がよろしいでしょう」
「もう、言うことを聞くとは思えない、か?」
「その通りです」
ならば、仕方が無い。
平坂はそう言うと、拳を振るい上げる。
そして、傭兵に向けて、容赦なく振り下ろしていた。
地面が砕ける音が、此処まで響く。
逃げられたようには、みえなかった。
1、闇の海
意識が戻ると、其処は闇の中。
以前落ちたオンカヌシの意識と、全く同じ場所だった。今回は服を着たまま、漂っていたが。
雛理は、少しずつ思い出す。
確か、平坂の拳を受けて、地面に押し潰されたはず。
となると、此処はオンカヌシの闇の中では無く。むしろ、死後の世界なのでは無いのだろうか。
そんなものは最初から信じていなかったから、少し驚いた。
体を動かしてみようとして、上手く行かないことに気付く。そういえば、最後の戦いでも、五体満足とは言いがたかった。
平坂との戦いを始めた時点で、指も何本か欠損したままだったのだ。骨も折れていたが、筋肉で無理矢理支えていた。
ジャージ先生も、同じような状態だったはず。
雛理は、乾いた笑いを漏らすと、周囲を見つめる。何も無い、黒だけの世界。それなのに、暗くて何も見えないとは感じない。黒がただあると、思うのだった。
声は聞こえてこない。
そうなると、自分もオンカヌシの一つになってしまったのだろうか。
平坂がこれから世界を魔王として蹂躙するのを、止められず、見ているしか無いのだろうか。
何だか、それでもいい気がしてきた。
体を、少しずつ動かせるようになってきた。
上に泳ぐ。
どうして上と分かったのかは、よく分からない。だが、上と分かる方向へ、進む。そうするとき、どうしてか泳ぐべきだと思い、そうしたら上手く行った。
黒い、海の中を、泳ぎ進む。
水面はまだだろうか。息をしようとさえ思わないが。
不意に、声が聞こえてきた。
「雛理」
誰だろう。
自分を呼び捨てにする人は、あまりいない。
だが、声に覚えはある。
「雛理さん」
今度は、もう少し明瞭だ。気付く。まだ、ジャージ先生は、平坂と戦っている。平坂が繰り出す大量の触手をかわしながら、反撃の機会をうかがっている。
もう、助けられそうに無い。
無言で、膝を抱えて、戦況を見守る。
既に動いているのが不思議なほど傷を受けているジャージ先生は、また触手で薙ぎ払われ、吹き飛ばされた。
地面に叩き付けられ、横転して、泥まみれになる。
だが、それでも彼女は立ち上がる。
忘れたのだろうか。命がけで守った子供達から、どんな目で見られたか。見かけで他人の全存在を否定して良い。それがこの国の唾棄すべき不文律であり、それに苦しめられたことを。
今、子供達を守るために、平坂を倒しても。
誰一人。ジャージ先生に、感謝などしない。むしろ気持ち悪い奴が消えてせいせいしたとか、いうだけなのに。
サイコメトリストのアーニャは例外かも知れない。
だが、そんなのは、無数にいる中の、少数例外に過ぎない。見かけがおかしい方が悪いというのが、この国での不文律で有り、唾棄すべき愚かな考えだ。それを、知っている筈なのに。
それでも、ジャージ先生は戦っている。
強い信念は折れないとでもいうか。それも、有りなのかも知れない。
雛理は、心を無にして戦い続けてきた。
戦場でも、相手を殺す事にためらいは無かった。ニエの一族として迫害されてきたから、心に常に憎悪を燃やしてきたからだ。
何故、今更。雑念まみれの相手が羨ましくなる。
ぼんやりと、絶望的な戦いを続けるジャージ先生を見つめる。
もう、分かっている。
既に雛理の肉体は、失われてしまっていることは。
ジャージ先生がやっていることは不毛で、無意味で、何も産まない行動であることも。
知っている筈なのに。
大衆など、救う価値も無いことなど。それなのに、ジャージ先生は戦い続けている。
気の毒にと、雛理は思う。
だから、せめて自分だけでも。助けになってあげたいと、考えた。
意識を、一本に集中する。
気付くと、見つけていた。平坂のコア。黒いタール状の沼の奥底に潜んでいた。掴むと、一気に上に押し上げていく。
まだコアはこれだけではない。だが、最初に砕くのは、これだ。
地面に叩き付けられたジャージ先生が、振り下ろされた腕を、横転してかわす。そして、気付いてくれる。
平坂の頭部に、コアが来ている事を。
疾風のように動いたジャージ先生の膝蹴りが、コアを砕く。
思わぬ反撃に、平坂の巨体がよろめく。
全身に、ひびが入る。
「お、おおおおおおっ!」
「一つ!」
猛々しい叫び。ジャージ先生では無く、人型カムイかと思ったが、雰囲気からして、違う。
今、戦っているのは、ジャージ先生だ。
彼女は、恐らく生まれて初めてだろう。子供達を守るため、平坂を殺すつもりで、戦っている。
人間を殺そうとしている。
他に選択肢が無いから、そうしているという理由はある。どうしても、人殺しであると言う事情もある。
だが、その行為には。命を賭けて、手伝う意味があると、雛理は思った。
またコアを見つける。
泥の上に、押し上げていく。
周囲のオンカヌシ達を使って、平坂が防ぎ止めようとする。だが、此方もオンカヌシである事に違いは無いのだ。
しかも、並のオンカヌシでは無い。
再び、コアを泥の上にはじき出す。
ジャージ先生が気付いて、蹴り砕いた。平坂の悲鳴が轟いた。
「何故だ! どうして最後の最後で……!」
「そんなものに、理由なんてありませんよ」
聞こえていないのを承知の上で、雛理は告げる。
メンタルパワーやら信念やらで、勝負は決まらない。勝負を決めるのは、時の運も含めた総合能力だ。
三つ目のコアを見つける。
平坂が必死に抵抗するが、もう流れは此方に傾いた。
敦布は、見る。
既に肉塊として、潰れてしまっている雛理さんを。
悲しんでいる暇など無い。
平坂は、二つのコアを砕いても、未だに健在。此処で倒さなければ、もはや手に負えなくなるだろう。
三つ目のコアが、せり上がってきた。
頭を抱えて苦しんでいる平坂の、おなかの辺り。
戦闘のやり方は、分かっている。カムイが力を貸してくれているからだ。跳び蹴りを浴びせて、コアを砕く。
露骨に、平坂が縮んだ。
泥の黒い体に、ひびが入り始める。鮮血が噴き出すように、黒い液体が、全身からあふれ出している。
平坂のうめき声が、聞こえる。
「何故、こんな戦いをする……」
「子供達を、守るためだよ!」
「無為なことをするな! こんな社会である限り、踏みにじられる弱者は永遠に出続けるだろう! 人類の社会は、一度劫火に包み、作り直さなければならない! どうしてそれを、理解できない!」
「間違ってる! そんなの!」
先生になるとき、勉強した。
全てを焼き払ってしまっては、次につながるものがない。
古代文明が滅びた後、多くの技術も失われてしまった。もしもそれらが失われなければ、人類の文明はどれだけ早く進歩していただろう。ローマ帝国では、蒸気機関が実現の一歩手前にまで行っていたとも聞く。もしも実現していたら、今頃人類は火星にまで到達していたはずだ。できなくても、月にコロニーくらいは作れていたに違いない。
文明の崩壊によるダメージは、予想以上に大きい。
ただでさえ、資源が枯渇しようとしている今。
社会の問題を理由に、全てを焼き払うことは許されない。
「ならば、人間を進化させれば良い」
「え?」
「人間はどのみち、進化させるつもりだ。 カムイの研究はこのまま進めさせ、その圧倒的な力を使って、人間は次の段階に行く。 そうすれば、人間は、愚かな行動を繰り返さなくなる」
やはり、この人は。
人類を絶滅させる気か。
進化などと言う言葉が、相対的である事は、敦布だって知っている。進化する人間はいいとして、そうで無い人間はどうするつもりか。
皆殺し、以外にはあり得ないでは無いか。
もう、全ては、抜き差しならぬ所まで来ている。
四つ目のコアがせり上がってきた。
まだ平坂は元気で動き回っているが、しかし。雛理さんが、平坂の中にいて、手助けしてくれていることは間違いない。
敦布は思うのだ。
あれだけ現実主義者で、冷酷だった雛理さんでさえ。そうしてくれているのだ。
「何度でも言うよ」
平坂のコアを、拳で打ち砕く。
ついに、平坂の左腕が完全に泥化して、地面に落ちた。
無数の触手が、一斉に群がってくる。
そのうちの一本が、敦布の背中を打ち据えて、地面に叩き付けられた。だが、すぐに立ち上がる。
平坂のパワーが、目に見えて落ち始めている、というのもある。
「私は、貴方には協力しない!」
「私を倒した後、君が迫害されるのは、目に見えているが? 世界のどこにも居場所はないし、守ろうとした者達からも蔑ずまれる。 君は立派な人間だが、立派な人間ほど、現実にいる愚民共が忌み嫌うのは、周知の事実であろう?」
「そんなことは……」
どうでもいい。
敦布も、もうヒトには期待していない。
ただ、敦布自身が、守りたいと思う。それだけで、充分だ。見返りなんか、期待していない。
その後の人生が地獄でも、構うものか。
教師は憎まれ役だ。
どれだけ子供達の事を思っても、子供達に感謝されることなんて無い。敦布は、むしろ今まで子供達に慕われていただけで、幸運だったと見るべきでは無いのか。
飛んできた触手を掴んで、引きちぎる。
次のコアは。
雛理さん。呼びかけるが、勿論返事は無い。平坂の動きは鈍くなってきているが、しかし。
コアは、出てこない。
或いはオンカヌシの中で、雛理さんと平坂が、戦いをしているのかも知れない。
不意に、前後左右から触手が一斉に襲いかかってきた。一瞬遅れたら、押し潰される所だった。
敦布も、そろそろ限界だ。
平坂も。四つのコアを砕かれたことが、露骨にダメージとして出始めている。
「滅私奉公か。 社会に対しての」
平坂が、豪腕を振るう。
避けきれず、吹き飛ばされた。地面に叩き付けられ、何度かバウンドして、転がる。触手が足に絡みつく。
振り上げられ。
そして、地面に四回、叩き付けられた。
脳がしびれて、身動きできない。
決定打か。
人型カムイの声が聞こえる。立て。敵も、もう限界だ。根比べの時だ。言われなくても、それは分かっている。
だが、もう体が動かない。
目を開けることも、難しい。
「ジャージ先生」
雛理さんの声だ。
気付く。
コアが、すぐ近くにある。目を開けるだけでも、膨大な労力を必要とした。すぐ側の泥に、平坂のコアが、浮き上がってきている。
無造作に、腕を振り上げて。
そして、振り下ろした。
コアが、木っ端みじんに砕ける。
それが、最後の敦布の抵抗。
そして、平坂の、断末魔の絶叫が轟いた。
気がつくと、敦布は森の中にいた。
現実の光景では無いだろう。或いは、カムイが見て育った光景かも知れない。
のしのしと歩いている、巨大な熊。体重は、四百キロを超えていそうだ。恐らく、あれが、カムイが。
自然を超越した存在になる前の、姿だったのだろう。
「敦布よ」
「カムイさん?」
熊に応える。
地面に落ちている木の実を貪りながら、熊は言う。
「ヒトは我らを殺してまで、森をねじ伏せた。 そして作り上げた世界は、一体何だ」
我ら以上の化け物が跳梁跋扈する、怪物の森では無いか。
カムイの言葉には、返す言葉も無い。
田舎の、斑目島に暮らしていても、敦布はそう感じることがよくあった。都会では、もっと酷いことも、知っている。
主体性の無い経済という怪物に振り回され、全体的な構造は誰にも掴めず、邪悪で強欲なものが裁かれることも無く、ただ悪鬼の如き闇が跳梁する世界。
一番犯罪率が少ないこの国でさえこれだ。
他の国の惨状は、見るまでも無く分かる。
人類の文明は、豊かになった。古代に比べれば、比較にならないほど、豊かになってきている。
だが、その結果は、どうだ。
理想郷どころか、作り上げられたのは文字通りの魔界。一握りの化け物だけが利益を甘受する、悪の王国では無いか。
気付くと、側に膝を抱えて、雛理が座っていた。
「ジャージ先生、これで斑目島の因縁は、全て消えました。 ニエの悲劇も、私の代で最後です」
「雛理さん……」
「戦闘経験豊富な私の方が、最後にドジを踏むなんて、情けないですね。 先生も、あまり長くは生きられそうに無いですが」
「……」
手を伸ばそうとするが、雛理は立ち上がり、森の中に分け入るようにして行ってしまった。
最後、平坂を倒せたのは、彼女のおかげだ。
やはりどれだけ力があっても素人の敦布では、戦術的な戦いなど、できなかった。雛理がコアを分かり易いところに押し上げてくれたからこそ、戦いに勝つことができたのである。
ひょっとすると、雛理はわざと命を絶ったのかと思ったが、流石にそれは無いだろう。彼女は、最後まで生きたいと思っていたはずだ。たとえ、どんな形であっても、である。
全て、雛理のおかげだ。
子供達を、守る事ができたのも。
感謝の言葉も無い。だが、人類が、彼女に感謝することは、絶対にあり得ない。もしもその偉大な業績を知っても、鼻で笑う者が殆どでは無いのだろうか。
隣に降り立った影。
サラリーマンのような姿。平坂だ。
「やれやれ、敗れたか。 結局、私には、時の運も含めた総合力が足りていなかったようだな」
「平坂さん」
「もはや人類を焼き払う夢は潰えた。 しかし、君もまた、恐らく生き延びることはできないだろう。 無意味な選択をしたな」
平坂の言うことを聞いていたら、どうなっただろう。
彼が作る新しい世界で、ポストが約束されたのだろうか。森を管理するという役割が、与えられたのか。
だが、それは、億を超える子供達を殺すという意味でもある。
「無意味では、無かったはずです」
「今更、敗者が語ることは無い。 君が思うように思うと良いだろう」
結局、平坂という人と、わかり合う事はついに無かった。そして今後も、理解できる日は来ないかも知れない。
だが敦布は、理解できない相手は全てゴミクズというような、世間一般の平均的な考えとは、もう決別したい。
「平坂さん、貴方をもう、憎んではいません。 私の生徒をたくさん殺したことは許せないと思っています。 しかし、どうしようも無い事情が貴方にあったのも、事実」
「……?」
「一度、しっかり話し合いたかった」
「そうか。 その機会が無いのは、残念だな」
平坂も、消えていく。
代わりに森の中から出てきたのは、学者さん。
「何だ、もっと滅茶苦茶になると思っていたのに」
「残念でしたね」
「まあいい。 大暴れして、気は晴れたよ。 どうせ人間は、その愚かさ故に、そう遠くも無い未来に破滅を迎えるさ」
捨て台詞を残して、学者さんは消えていく。
行成お爺さんが、代わりに姿を見せる。
「ジャージの、最後まで頑張ったな」
「お爺さん、本当に、本当に有り難うございました」
「俺には何もできなかった」
お爺さんが叩いているのは、チハだ。
チハちゃんも、お爺さんと一緒にいられて、嬉しそうだ。
駄目戦車の見本と嘲られたチハ。でも、この島の戦いでは、本当に心強かった。チハちゃんがいなかったら、最初のカムイとの戦いでも、既に勝てなかっただろう。
いや、泥洗を乗り切ることさえ、できなかったに違いない。
「俺は、皆の所に行くよ。 きっと息子も、向こうにいるだろう」
「……」
無言で、敦布は手を振った。
チハに乗り込むお爺さん。
がたがたぎしぎしと、不格好に、あまり性能が良くなかった戦車は。自分をずっとメンテナンスしてくれた、そして戦いの場を与えてもくれたお爺さんと、一緒に光の中に消えていった。
もう、誰もいない。
子供達は。既にきっと、あの世にいるのだろう。
いや、もう一人、いた。
すぐ側に蹲っているカムイが、顔を上げる。
「私も、そろそろ逝くか」
「カムイさん……」
「お前は、クズばかりの人間の中では、比較的マシな奴だったよ。 今後も、私が力を貸したことを、忘れるな」
透けていくカムイ。
背中を撫でる敦布に、カムイは頷くと、森の中に消えていく。
気がつくと、自分一人になっていた。
敦布は、死んだのか。
分からない。だが、森の中で、一人。しかし、此処から、生き抜けないとは思えなかった。
森の中を歩いて行くと、コールタールみたいな真っ黒な海に出る。
オンカヌシだ。
オンカヌシが、徐々に黒から、透明へと変わっていく。
虐げられた弱者の、怨念の結晶。森を殺すために作り上げられた、人工の邪神。
だが、既に役目を終えたその邪悪の海は、死を迎えようとしている。
敦布は、思う。
オンカヌシは、人間が積み上げてきた、罪業の象徴では無いかと。お題目で誤魔化しながら、人間は有史以来、ずっと愚行を続けてきた。弱者は際限なく虐げ、エゴを押し通し、暴力で相手を踏みにじってきた。
つまり、オンカヌシは、人間の歴史そのものだ。
海が、透明になっていく。
だが、全てが透明になるまで、しばらく時間は掛かるだろう。
敦布は膝を抱えて、見つめる。気がつくと、着込んでいるジャージは、いつの間にか綺麗になっていた。
自慢の赤いジャージ。
生徒達と遊ぶには、これが丁度良かった。バスケは男子生徒にも負けなかったし、ちいさな子供達にスポーツの楽しさを教えることもできた。
純粋な子供なんて、いないと知っていても。
それでも、敦布は子供が好きだった。
敦布が、子供達を守るために、怪物と化した瞬間、手のひらを返したとしても。
それでも、敦布は子供達を恨んでいない。
もう、いいのだ。
綺麗になっていく海を見つめたまま、敦布はそう思う。どれだけ、現実が過酷であっても。
敦布は、それを恨んだりはしないと。
2、逃げ延びた先の闇
静かな山中のログハウス。そこで、アーニャは静かすぎる毎日を過ごしていた。
平坂という怪物が死んだ。
ようやく事態が動き始めたのは、それから二ヶ月後の事であった。
ネットを中心に、斑目島の壊滅がまことしやかにささやかれはじめ、そして何枚かの写真が決定打になった。
無惨に壊滅を遂げた斑目島。
斑目島に連絡が、今でも取れないという事実。
何故か沈黙を続けるマスコミと裏腹に、ネットでは怪情報が飛び交う。
曰く、某国による核攻撃の結果。
曰く、生物兵器の実験に巻き込まれ、島の住民は焼却処分された。
自前の船を駆って、斑目島に乗り込んだ猛者まで現れた。だが、彼らは滅茶苦茶に破壊され尽くした島など、見ることは無かった。
そこには、ただ黒く染まった、平らな島があるだけだったのだ。
森も無ければ、集落も無い。
百人以上いた住民も、誰一人見かけることは無かった。
謎が謎を呼び、議論が紛糾する中。
何故か、日本も米国も、何一つ声明を出すことは無かった。やがて自衛隊が斑目島に入り込み、警備をはじめ。
そして、一般人が入れないようになった。
ネットでの疑惑は炎上するばかりであったが。週刊誌さえも、斑目島のことを、取り上げようとはしなかった。どれほどの強力な情報統制が敷かれているのだろうと、却ってネットでの話題性は大きくなった。
やがて斑目島は、ネット上で、怪情報の代名詞となった。
その過程を、全てアーニャは見ていた。
今日も、ネットの接続を切る。外は日が暮れ始めていて、カラスという黒い鳥が鳴いている。
夕焼けの夜空は美しいが、自由に外を出る権利は無い。情報端末は、デスクにあるPCだけ。それも、決して新しい型式では無い。電話を掛けるには部屋の外にいる見張りに声を掛けなければならないし、毎日二時間尋問もされる。
ため息しか、漏れない。
ジャージ先生も、雛理さんも、音信不通だ。
生きているとはとても思えない。剣に保護され、ちいさな山荘で今も暮らしているアーニャは。寛子や治郎とも、連絡が取れずにいた。
二人は今、遠縁の親戚に預けられているという。本当だとはとても思えない。だが、もし本当だとすれば、恐らく実害はないと判断されたからだろう。
雨の降る中、必死にヘリを操作して。
九州の山地に、遭難寸前の着陸を果たした。自衛隊に撃墜されていても、おかしくなかったかも知れない。
ヘリから出て、近くの山を、あてもなく歩いて。
運良くポストを見つけたときには、涙が出そうになった。
完全に正気を失っている寛子が、幻の先生と楽しそうに話しているのを横目に、無言の治郎を抱きしめて、不安な夜を過ごした。得体が知れない鳥の鳴き声がする暗い夜道で、身を隠すのは本当に怖かった。
言われたとおりに手紙を出して、保護が来たのは翌日。あまりにも迅速な動きだった。
剣のエージェントだという大男は、雛理さんを知っていた、という。それから山荘に移されて、斑目島の現状を、二日がかりで色々と聞かれた。
その間、剣は独自に動き、平坂の組織との戦いを始めたらしかった。
アーニャは寛子とも治郎とも引き離されて、単独で尋問された。サイコメトリーが使えることは黙っていたのだが、すぐにばれた。
尋問は、一週間以上続いた。
剣も、多分カムイのことを知りたがっている。そう気付いたから、アーニャは肝心なところは、必死に誤魔化して喋った。
寛子と治郎が、どう喋ったかはわからない。
ただ、治郎はまだ幼い。体系的に起きた出来事を説明はできないだろう。問題は寛子だ。彼女は、雛理が言うように、恐怖に押し潰されていた。大恩あるどころか、何度も命を助けてくれたジャージ先生に、なんて酷い事をしているんだろうと、何度もアーニャは内心で憤慨していたものだ。
数日後、山荘から出されて、聞かされた。
斑目島の封鎖が解除された、らしいと。
米軍と自衛隊が押しかけて、調査を実施。だが、誰一人見つけられず、撤退したのだそうだ。
平坂の部下達は、どこに行ったのだろう。
無事で済んだとは思えない。
ジャージ先生と雛理さんは、逃げられただろうか。それも、不安でならなかった。
寛子と治郎が解放されたと、それから聞かされた。
しかし、アーニャは未だに解放されない。衣服と食糧は与えられているが、どことも分からない山荘で、最低限のネット環境だけ与えられて、静かに過ごすことを余儀なくされている。
ネットは見ることが出来ているが、書き込みは禁止されている。したところで、即座に消されてしまっている様子だ。
剣とは、何なのだろう。
雛理が言う限り、正義の組織など存在しない。
国家の枠を越えた組織と言うことだが、所詮人間の集まり。今では、露骨に野心さえ感じられるようになっている。
逃げ出したいと、何度か思った。
だが、逃げたところで、身寄りが無いアーニャに、行き場など無い。
以前いた所でも、「使い物になる」から、置いておかれていたのだ。そうでなければ、とっくに殺処分されていても、おかしくは無かった。
剣の偉い人だという、熊のように大きな男が来た。どうやらアーニャと同じロシア系らしい。
握手を求められたので、おずおずとそれに応じる。凶暴な笑みを浮かべながら、男はサーマット中将と名乗った。
中将と言えば、軍ではかなりの高官だ。剣も、軍隊と同じような、階級制をしいているとは聞いていたが。本当に偉い人が出てきたことになる。
「そろそろ、腹を割って話してくれないかな、お嬢さん」
「話せることは、全て話しました」
嘘は、ついていない。
斑目島で起きた恐ろしい出来事は、かいつまんで話してある。
細部には若干怪しい部分もあるが、それでも知り得たことは、既に頭の中で、整理済みなのだ。
「カムイについて、詳しいことを話して欲しい」
「……」
ついに、露骨にそれを聞き始めたか。
今までは、カムイについては、婉曲に聞くばかりだった。だが、アーニャには分かっていたのだ。
剣が、カムイについての情報を、喉から手が出るほどほしがっていると。
こうして聞いてくるという事は、雛理さんは上手くやったのだろう。カムイのデータは、誰にも渡らなかったのだ。
ざまあみろと、意地が悪いつぶやきを心中で漏らす。
あんな恐ろしいもの、人間に扱える代物では無い。誰かが手にしてはいけない禁断の箱なのだ。
「我々は、カムイを平和利用する目的で着目している。 もちろん、兵器として使うつもりは無い。 約束しよう」
「嘘ばっかり……」
「ん?」
「私がサイコメトリストだって事は、知っている筈なのに。 どうして、そう嘘ばかりつくの?」
凄まじい平手が、次の瞬間、アーニャを襲った。
暴力には慣れているが、それでも意識を失うかと思った。
床にたたきつけられたアーニャの襟首を、なんとか中将が掴み、更にもう一つ平手。この男が、テロ組織の人間と大差ない、暴力を好む存在である事が、触ったことですぐに分かった。
何が正義の組織だろう。
悲しくなってくる。
「下手に出ていれば、調子に乗るなよ、化け物! お前がカムイのデータを得ている事は、既に分かっている!」
口の中に広がる鉄さびの味。
「カムイによる利益がどれほどになるか、お前のような小便たれのガキには見当もつかないだろう! くだらない正義感で、大人の世界を批判しているんじゃ無い! さっさとはかないと、その細っこい指を順番に切り落とすぞ!」
「……サノバビッチ!」
アーニャが知っているもっとも酷い侮蔑の言葉を吐きかけてやる。
次の瞬間、壁に叩き付けられた。
意識が戻ると、後ろ手に縛られて、椅子に座らされていた。足も縛られているらしい。山荘では無く、コンクリに四方を囲まれた威圧的でちいさな部屋だ。中将は目を血走らせていて、側にあるデスクにはまち針やペンチが置かれていた。何に使うか分からない薬品も、置かれている。
頭が酷く痛む。生きているのが、不思議なくらいだ。軍人として訓練を受けている男に、本気で暴力を振るわれたのである。ヤワなアーニャの体なんて、相手がその気になれば、すぐに壊されてしまう。
アーニャの体を、変質者じみた目で見つめている男がいる。
痩せている長身の男で、見るからに目つきが危険だった。
「ヒロ、吐かせろ」
「わかりやした。 どこまでやってもいいですか?」
「吐きさえすれば、こんな化け物、どうなろうと知ったことじゃあ無い。 お前が有効だと思うことは、何でもしろ」
拷問専門の人員か。
寛子や治郎は、今頃どんな怖い目にあっているのだろう。
アーニャだって怖い。だが、カムイに関する情報が外に漏れたら、とんでも無い災厄が世界を襲うことになる。
だから、ぐっと奥歯を噛んで、にらみつけてやる。
男はその視線を受けると、むしろ大喜びする有様だった。
「じゃあ、まずは自白剤かなあ。 爪も剥ごうっと」
注射器をアーニャの顔の前に近づけた男が、よだれを垂らしながら言った。見た目はとても端正な顔立ちの男だ。モデルも充分につとまりそうで、街を歩けば黄色い声援を浴びるだろう。
見かけなんて、なんの意味も無い。こういう男を見ていると、思い知らされる。
注射器の尖端から、「自白剤」を噴出させながら、男が舌なめずりした。もがくが、縛り方は強固で、とても逃れられない。
「あ、そうだ。 全部吐かせたあとは、この子供、ボクのペットの性欲処理がかりにしてもいいですか? 中将」
「お前のペットって、あのマスチフ犬か? 相変わらず、良い趣味をしてるな」
「ひひっ! そうやって映像に取ると、高く売れるんですよ。 ボクだって抜けるから、一石二鳥。 あ、でも、この子供、小柄だから、子宮が破裂しちゃうかなあ。 まあ、どうでもいいけどさ。 どうせ用が済んだら殺すんだし。 肉も食べちゃおう」
意味はよく分からないが、自分が人間扱いどころか、とても酷い目に遭わされることは、よく分かった。
舌を噛みきろう。
そうアーニャは決める。
多分死ぬ事は無いだろうが、同時に喋ることもできなくなる。自白剤も、意味をなさなくなるだろう。
神様なんて、この世にはいない。
国際的な「正義の組織」が、こんな化け物達を飼い、利権のために暴虐を働いているのだ。いるとしても、神様は、いつも居眠りをしているのだろう。
さよなら、この世。
もう未練なんて、ない。
だいたい、生まれてから、何一つ良い事なんて無かったのだ。実の親にも化け物扱いされたし、そこからもずっと同じ扱いを受けてきた。
今後も、同じ扱いを受け続けることは、確定だろう。
だったら、もういい。
神様には最初から期待出来ないし、自分自身がどれだけ努力してももう無駄だろう。生きようという気力さえ、尽き果てた。
舌を噛み切ろうとしたとき、不意に轟音が轟く。目をつぶってしまったアーニャは、悲鳴を聞いた。
咳き込む。
どうやら、ドアが蹴破られたらしい。ヒロと呼ばれた変質者は、その蹴破られたドアが突き刺さって死んでいた。
蹴破られたときにドアが吹き飛び、ヒロをコンクリの壁と串刺しにしたらしかった。痙攣する死体が、口から大量の血を吐き出している。床には、夥しい量の血がまき散らされていた。
「何者だ!」
中将が喚き、銃を抜く。
だが、遅い。銃を持った手が、瞬時に捻られ、更に投げ飛ばされる。仮にも軍人だから、当然訓練はしているだろうに。投げられている最中に、既に腕の骨は複雑にへし折られ、叩き付けられると同時に全身が砕けて、中将は死んだようだった。
頭蓋骨が粉砕されたのか、コンクリの床の上には、脳みそが飛び散っていた。
「はあ。 力加減、やっぱり上手にできないなあ」
「敦布さん……?」
振り返った敦布さんは、手の甲で、ごしごしと飛び散った返り血を拭っていた。
手際よく、縄を解いてくれる。
今更、恐怖がせり上がってきた。敦布さんに抱きついて、泣き始める。何だか敦布さんじゃ無いみたいだと思ったが、サイコメトリーしてみて、納得した。
だが、今は、わき上がる涙を抑えきれない。
しばらく、無心に泣かせてもらう。
どうして来てくれたかは、言わない。全く無意味なことだからだ。それに、この涙は、怖かった事もあるが。
もう一つ理由があるのだった。
「さあ、此処を出よう」
「どうするの?」
「そうだね。 一度第三国に脱出して、そこで考えようかな」
もう、この人は。
敦布さんじゃ無い。
敦布さんとしての意識はある。だが、その意識には、カムイだけでは無く、オンカヌシまで混ざり込んでいる。
躊躇無く人を殺し、戦術的に行動し、目的を持って行動する。高度な戦略的判断能力と、巧みな近接白兵戦能力を備え、合理的な思考と冷酷さまで兼ね備えている。
これだけでも、既に敦布先生では無いのだ。
分かった。
敦布さんは、きっと斑目島で死んだ。
此処にいるのは、敦布さんの残骸だ。敦布さんは悔いなく、高潔なまま逝ったのだろう。だが、その意識は、オンカヌシの力と混ざり合って、亡霊となって生き延びた。恐らく、彼女の中で、もっとも後ろ暗い部分が、だ。
部屋の外は、血の海だった。
剣のエージェント達だろう。全員、情けも容赦も無く、或いは頭を蹴り砕かれ、時には体を二つに引き裂かれて死んでいた。完全武装していたはずなのに。全員が、アサルトライフルで武装していたのに。
凄まじい破壊力だ。
今の敦布さんは、冗談抜きにカムイそのものの戦闘力を有している。ティラノサウルスでさえ、恐れおののいて道を譲るに違いない。
遠くからは、銃撃戦の音がする。
「黒鵜さん、手こずってるなあ」
「え?」
「ああ、スカウトしたんだよ。 それに、私の中には、平坂さんもいるから」
さらりと、ぞっとするようなことを、敦布さんは言った。
此処にいて欲しいと、血だまりの中に置き去りにされる。腰が抜けて、へたり込んでしまった。
敦布さんが外に出て行くのと、鮮血が飛び散るのは同時。先生は眉一つ動かさず、銃火器で武装した剣のエージェントを、片っ端から殺しているようだった。
程なく、抵抗は止んだ。
先生が、黒鵜からタオルを受け取り、血まみれの顔を拭いている。
黒鵜はむっつりと黙り込んで、その様子を見ていた。
なるほど、助けに来られたわけだ。
黒鵜だけではなく、平坂の部下達も。このままでは、自衛隊と米軍に鏖殺されるだけだと気付いて、敦布さんに降伏することを選んだのだろう。
勿論、理由の一つには。
敦布さんが、平坂の記憶を吸収して、受け継いでいることが原因でもあるのは間違いない。
「足は用意してある?」
「既に。 お急ぎください」
複雑な表情の黒鵜が、急ぐように促した。
頷くと、敦布さんは来るように言う。
歩きながら彼女は、携帯を弄り、高速で情報収集している様子だった。
ジープに乗せられて、移動する。
都会に出るまで、三十分ほど。結局、あの山荘の地下に剣の基地が有り、そこで監禁されていたらしかった。
「剣も、あんな連中ばかりじゃ無いらしいんだけれど。 軍産複合体に流れてたカムイの完成体が、とんでもない利潤を生んでいるらしくて、目がくらんだらしいの。 最初に貴方を保護したグループは良心的なメンバーが中心だったらしくて、寛子ちゃんと治郎君も、よくしてもらっていたらしいのだけれど。 後から其処に、急進的で利潤を追求するメンバーが、あのサーマット中将を中心に割り込んでね。 今では、内乱まで起きているらしいの。 昔の言葉だと、内ゲバだね」
敦布さんが、ジープを運転しながらいう。そんな酷い話をしているのに、勿論笑顔のままで、だ。
助手席で身を縮めながら、アーニャは生きた心地がしなかった。非常に達者な運転だが、一体誰に習ったのだろう。
聞くまでも無い事だ。
雛理さんの知識である。
サイコメトリーで、敦布さんに触って、何が起きたのかは分かった。
最後の戦いで、彼女は平坂を倒した。
しかし、同時に全ての力を使い果たしたのだ。
カムイの力だけが、其処に残り、行き場の無い存在は、まだかろうじて息があった敦布さんを選んだ。オンカヌシの残骸も同じ選択をし、一気に流れ込んだ。結局できあがったのは、斑目島の力そのもの。
今の敦布さんは、既にカムイでは無く、オンカヌシでさえない。
超人というのもおかしいし、神というのもまた違う。
強いて言うならば。
人のまま、邪神になった存在だ。
島そのものの業が、形になった存在だと言っても良い。
無数の意識を束ねているのは、最後まで残っていた、敦布さん。だが、人格には、少なからぬ影響が出ている。
何しろ、本来の敦布さんは、もう死んでいる。
此処にいるのは、最悪の意味での、生きた死体だ。
「フランスの支部から入電です。 剣の攻撃部隊を撃退。 壊滅させました」
「上々。 イギリスは」
「剣の支部と交戦中。 かなり戦況は盛り返していて、今回の攻撃で五分にまで持ち直しました。 しかし剣は過激派がクーデターで首脳部を握ったという情報も有り、もう少し相手を追い込まないと、講和には持ち込めないでしょう」
「分かった。 過激派の拠点であるインドネシアの支部は、私が行く。 剣の支部の人数は、五十人くらいだっけ?」
黒鵜が是と応えると、ならば一日で充分だと、敦布さんは言う。
講和のために、剣の戦力を削る。
それだけの理由で、今の彼女は人を殺すことができる。しかも、眉一つ動かさずに。恐ろしい話だ。
今はまだ無駄が多いから、返り血を浴びるような戦いをしている。だが、それも、いずれは。
それこそ、無音の殺戮マシーンとして、敵を野菜のように切り裂いていくのでは無いのだろうか。
「寛子ちゃんと治郎君は」
「どちらも保護したよ。 でも、寛子ちゃんは、きっと精神病院から出られないね。 私が側にいるのに、幻の私に話しかけてるんだから」
そういったとき、やっと敦布さんの顔に、感情らしいものが浮かんだ。
アーニャは、本当に、神様を恨む。
子供のことを愛し、滅私奉公の限りを尽くしていた敦布さんが。今や、人間の極限を極めたような、合理性の怪物になってしまっている。
前の敦布さんは、アーニャも大好きだった。
こんな人に、先生になって欲しかったと、内心ではずっと思っていたほどだった。それなのに。
今のこの人は、きっとどんな恐ろしい人間でさえ鼻で笑う、究極の「人間」になってしまっている。
「これから、どうするつもりなの……」
「剣と講和したら、第三国の危険地帯に、拠点を構築する。 そこで、人間社会をコントロールするべく、策を練る」
「……っ」
「平坂さんの意識を取り込んで、私も分かったんだよ。 今のありのままの世界を肯定するだけだと、子供達を守る事もできないし、人類の破滅を回避することもできないんだって。 人間が怪物よりもずっと怪物じみていることは、私も今回の件で、いやというほど思い知ったから。 性善説なんて、結局の所、現実を見ていないだけなんだよ。 人間には、確固たる秩序と、法が必要なの。 子供達が笑って暮らせる世界を実現するためにも、ね」
だから、人間をコントロールするべく、これからは動く。
子供達の未来を守るためにも。
敦布さんは、そう言った。
勿論その目的のためには、核を含めたあらゆる手段を用いるつもりだとも。
敦布先生の、根本は変わっていない。
それだけが、救いなのか。首を振る。これでは、もう。
海岸線に出た。
事前に用意されていたらしいゴムボートで移動する。途中敦布さんは、携帯に向けて、英語で普通に喋っていた。しかもその後、電話先を切り替え、アジア系の言語で同じように談笑まで交えていた。
海上で、貨物船に乗り込む。
ただし、敦布さんは、別行動だと言うことだった。
「それじゃあ、行ってくる。 黒鵜さん、アーニャちゃんをお願いね」
「分かりました」
笑顔さえ交えて、敦布さんは手を振ると、ゴムボートで戻っていった。
これから飛行機を使って、インドネシアに行き、血の雨を降らせてくるのだろう。もう、言葉も無い。
「黒鵜、さん」
「何だ」
「こんな事に、どうして荷担しているの」
「俺は今回の件が終わったら、死ぬつもりだった。 大量虐殺の手助けをしたことは間違いないし、言い訳もできないからな」
元々今回の作戦が上手く行くとは、黒鵜は思っていなかったという。
あまりにも途方も無いスケールに加え、文字通り世界を滅ぼしかねない平坂の作戦だったからだ。
しかし、作戦の最中も、その後も。
結局生き延びてしまった。
そして、平坂の要素も取り込んだ敦布さんに、説得されたという。
そうやって死ぬのは、自己陶酔に過ぎない。
平坂の計画は、無茶な要素があった。だったら現実的に、世界を変える方法を考えれば良い。
「全部には同意できなかったが、部下達の命を救う方法は、他に無かった。 ……結局俺は、流されるまま生きている、枯れ葉のような存在らしいな」
自嘲する黒鵜は、とても寂しそうだった。
貨物船に見せかけているが、内部にはカムイが何体も搭載されている。いずれも防衛戦力だという。
飛ぶ奴までいると言うことだ。更に、バルカンファランクスをはじめとした、防衛火器も充実しているのだとか、黒鵜は説明してくれた。巡洋艦やメガフロートも無事で、スポンサーとのつながりも、敦布さんが維持し、資金も潤沢だという。
これは、もう。
テロリストなんて規模じゃ無い。
案内されたのは、ちいさな部屋。
剣で監禁されていたときとは違い、情報機器だけでは無く、リラクゼーション用のぬいぐるみや絵画もあった。テレビも映るそうだ。少しは狭いが、監視の目もない。
逃げだそうと、何よりアーニャは思えない。
どのみち、アーニャはもう、世界に居場所が無い。
敦布さんがどれだけ変わってしまったとしても、彼女が味方である事は間違いない。生きるためには、ついていくしかない。
化け物呼ばわりされたアーニャの能力が、此処で役に立つことも疑いない。
大事にして貰えるだろう。
何しろ、有意義な存在なのだから。
泣きたくなる。
だが、もう涙は出なかった。
きっと、神様は、アーニャを嘲笑っていることだろう。最悪の現実が、まだ生ぬるい事を思い知らされたからだ。現実の恐ろしさは、小説や漫画の比では無い。
魔界というものが存在するのなら、それは現実のことだ。
ベッドで膝を抱えて蹲る。
何も考えたくない。
何かに触れば、それだけ恐ろしい現実を見ることになる。サイコメトリーの力なんて、無ければ良かったのにと、何度今まで考えたことだろう。
だが、今は。
今までで一番、強くそう思っていた。
一生つきまとう力なのに。
翌日、メガフロートに案内された。アーニャは今後を担う存在として、幹部達にも紹介される。
そして、会議室に連れてこられた。テレビ会議のシステムが動いていて、彼方此方の情報がリアルタイムで処理されている。
インドネシアから、敦布さんが連絡してくる。剣の支部を、言葉通り単独で全滅させたという。
顔中に返り血を浴びた敦布さんは、笑顔のままだった。
「人間はぜんぶ殺したけれど、基地はできる限り無傷で残したから。 弾薬や武器、それに資金はそちらで回収して。 死体の処理もお願い」
「分かりました。 対処します」
「次はタイの支部を潰してくるよ。 こっちは八十人か。 ま、一日で充分だね。 過激派の動きは」
「主要幹部を立て続けに失い、パニックを起こしています。 もう少しで、講和に持ち込めるでしょう。 講和の後は、取り込み工作に移ります。 上手く行けば、一気に人員と戦力規模を、倍に拡大できるでしょう」
上々と、敦布さんが頷いた。
戦力分析を、周囲が行っている。剣との合併を果たせば、小国なら余裕で制圧できるほどの組織に成長する、と。敦布さんは、満足そうに報告を受けると、タイに向かうと言って通信を切る。
これから、血の雨が更に降るのは、確定事項だ。
嗚呼。嘆きが漏れる。
もう敦布さんは、魔王と同じだった。
言葉も、出なかった。
2、暗闇の担い手
その男は、とても太っているのに、不思議なほど小食だった。
代わりに、なにやら自分で調合したブドウ糖などを中心とした薬剤を点滴して、それで栄養を確保しているらしかった。
見るからに異相。
何しろ、背中には蝙蝠を思わせる翼が生えている。
それだけでは無い。背中や脇からは。ミミズを思わせる、長大な触手まで生えているのだ。
まるまると太った男は、人が良い笑みを浮かべていて、まるで子供のように無邪気だった。
だが、無邪気が故に、際限なく残虐だったのである。
男は岸田と名乗ると、秘密裏に作られた国立研究所での、研究を行うことを要求してきた。
「こんな産業も無いような国だ。 ボクが選んであげたことを、光栄に思って欲しいね」
歯ぎしりする政府関係者達を前に、岸田はそう言う。
そして、希望通りの条件を、引き出したのだった。
岸田から、連絡が入る。
ハイウェイを移動中のことだった。自動車内にも、電話は据え付けられている。運転は部下に任せて、敦布は無言で画像をオンにした。
画面一杯に出てくるのは、満面の自慢げな笑顔を浮かべた岸田である。
「わーお、敦布ちゃん! 元気してた?」
「そちらの首尾は」
「上々だヨー! 本当にちょろかった! まあ、ボクの手に掛かれば、こんなの楽勝だね!」
凄く嬉しそうに岸田が言うので、思わず此方も笑みがこぼれてしまう。
平坂が、バックアップとして逃がした岸田と合流したのは、剣を併合してから半年ほどしてから。平坂はどこまでも慎重に、組織の研究面を統括できる岸田を逃がしたことを、部下の誰にも言っておらず、偽装までしていたそうだ。
しばらくは指定していた田舎に潜んでいろと言われて、本当にそうしていたらしい。岸田という男は完全に狂人だが、自分が平坂がいてはじめて存在し得ることは、よく分かっていたのだろう。素直に話を聞いていた、というわけだ。この異相の男は、その間足がつきそうなことは、一切していなかったらしい。
本当に、岸田は、平坂を慕っていたのだ。
その凶暴な欲望を我慢できたのも、平坂に対する信頼があっての事だったのだろう。
敦布も、平坂の全てを吸収したわけでは無い。
だから、岸田の居場所を突き止めるのには苦労した。ただし、その後は、引き込むのも難しくは無かったが。
「で、人体実験、やっていいの?」
岸田は、満面の笑みで、そう言う。
だが、今はその時では無い。
「駄目。 プランを渡すから、それに従って」
「えー、なんだよー。 ボク、すごく我慢して待ってたんだよ! それに苦手な交渉ごとまでしたのに、人体実験くらいさせてよ!」
「かっての貴方の部下達を、そちらに送るから。 それまで、プラン通りの実験を進めていて」
「ちぇー。 分かったよ。 平坂ちゃんが中にいるんだろ? じゃあ仕方が無いよなあ」
本当にがっかりした様子の岸田を見ると、何だかおかしくなる。
人類史上、最悪のマッドサイエンティストの一人は、子供も同然の精神の持ち主だ。意外に、敦布のままで、手なづけられたかも知れない。
交渉の場を作ったのは、敦布だ。
少し前。剣を麾下に納めてから、太平洋上にあるちいさな島国に目をつけた。以前は海底油田で潤っていたその島国は、資源の枯渇で最貧国に転落。既に人口は最盛期の二十分の一という惨状だった。
殆ど政府も機能しておらず、くたびれ果てたプラントでバナナを作って日銭を稼いでいたその国に、敦布が情報を持ち込んだのである。
後は、岸田に任せた。
わざわざ交渉に出るまでも無いと思ったからである。
平坂が捕まえていたスポンサーの内、三割ほどには逃げられたが、代わりにほぼ同数を新たに抱え込むことに成功した。
その結果、資金繰りには困っていない。
今回の交渉も、資金を用いてのものが中心となって、平坂は最後の確認に出向いただけである。
此方としては、この小国に事業を持ち込み、全体を潤す。
そしてこの国は、研究スペースを用意する。
研究の内容は、カムイというよりも、むしろオンカヌシ。
世界中の地下に潜む眠れる邪神を、自由にコントロールするためのものだ。敦布自身もオンカヌシの要素を今は持っているから、比較的研究の検証はしやすい。そして、泥洗よりも、むしろオンカヌシの暴走の方が、抑止兵器としては効率的だとも思う。
剣の中にも、敦布に抵抗する勢力が有り、離脱者が出ている。
その一方で、元々併合で倍近くにまで組織が巨大化したため、人員は余っている。この強力な組織力は、生半可なテロ組織など問題にもならない。そして今、その気になれば、国を一つや二つ、滅ぼすことは容易な力も、手に入れている。
だが、今はまだ、動かすべきでは無い。
敦布は、しばらくはジャージを愛用していた。戦闘時、血を被りやすいからだ。それに動くのにもよい。
今も愛用しているが、公式の場では、流石にスーツも着るようになっていた。
衣服なんぞなんだって関係無くなってきている、という事情もある。仮にも少し前までは「女の子」だった敦布だが。
今は、ファッションに地道を上げる事が、滑稽でならなかった。
戦っても、血など浴びない。銃弾さえ避けられるようになってきている今、それこそ戦闘服なんぞ、何でも良いのである。
防弾リムジンの後ろにいた部下が、携帯を差し出してくる。
「敦布様」
「どうしたの」
携帯を受け取ると、通話中のままだ。
相手は誰だろうと思って操作すると、現在、拠点を作るべく交渉している最貧国の一つ、レヌ。アフリカの奥地にある地獄のような紛争国の首相だった。
「ミ、ミス敦布。 ようやくつながったか、良かった」
「反政府組織の攻勢ですか」
「そうだ! 早く助けて欲しい! 土地は、当初の予定の、倍を用意するから!」
「……」
話を先送りにして、すぐに部下達に飛行機を手配させる。
失政につぐ失政で、国内のインフレ率が1万パーセントを超えているこの小国は、もはやどこまでが政府の支配地域かさえ分からなくなっている。地獄のような内戦は既に十年以上も続き、それによる死者はとっくに百万を超えていた。
足を突っ込めば泥沼確定、その上金にならないので、世界の警察を気取る米軍も動かない。世界各国から持ち込まれる武器はエスカレートするばかりで、何名かの武器商人は、露骨に性能実験の場として用いているほどだった。
「介入するのですか」
「反乱組織の規模は」
「数は最低でも三十。 人員の数は合計二百万を超えています。 それに、政府側の腐敗も著しく、反乱組織を潰したところで、国が平和になるとは思えません。 そもそも、此処までの反乱勢力の拡大も、政府の失政が招いたものです。 政府に恨みを抱いて反乱勢力に入る人間も多いようですから」
真面目な部下である。
サングラスを掛けた黒人の青年で、かって米国でSPをしていたらしい。パワーエリート達と癒着した政府高官のおぞましいまでの腐敗を目にして失望、職を捨てて剣に入ったという経歴の持ち主だ。
だから、剣が「邪悪な組織の見本」のような平坂の組織と合併したことを、決して喜んでいない。剣の勢力の一部が、カムイの研究成果を奪って利潤を上げようとしていたことも、本気で憤っている様子だ。
まだ此処にいるのは、今更行き場も無いという事だ。そういう人物であるから、敦布の護衛をしているが。理由があれば、いつでも裏切ることだろう。
「この国の混乱の原因は何だと思う」
「貧困と、長年続いた憎悪の連鎖、でしょうか」
「そう。 まずは貧困をどうにかする。 その前に、対立を煽っている連中を処理しないといけないけれど」
だが、如何に大きな武装組織と言っても、これだけの規模の国を蹂躙するのは不可能だ。
そこで、使うべきものが出てくる。
「カムイを投入」
「……!」
「岸田博士が培養、増加させた戦闘タイプカムイを戦地に投入。 同時に、こう噂を流すの。 大地の神様が怒っている。 長年続いた戦争を続ける限り、神の使いが、組織の長を襲って喰らう、と」
此処は、近代兵器が入り込んでいるだけで、今だ迷信深い社会である事を利用する。どうみても人間では無いカムイは、それに最適だ。
戦闘タイプのカムイは何種類か培養し、既に実験も終えて、実戦投入が可能な段階にある。
何しろ、敦布も雛理と一緒に戦って、その戦闘力は身にしみているのだ。
五十体ほども投入すれば、国全体を恐怖に陥れることは可能だろう。勿論攻撃対象には、政府軍も含まれる。
「国で慕われている良心的な人物をリストアップ」
「分かりました。 すぐに取りかかります」
「そいつらに政治をさせるのではないよ。 あくまでスケープゴートにして、裏側から私達が乗っ取る。 その後は幾つかのスポンサーから資本を流し込んで、国に蔓延している貧困を取り払う」
そうすることで、国自体を健全化。
テストケースとしても、活用する。
以上の話をすると、SPは恐れ入ったように、頭を下げた。嘘は言っていないし、此処で指示を出す以上、撤回もできない。
いま敦布が指示したことは、一番現実的な対処方法だ。
現在進行形で膨大な死人が出ているその国で、一番死人を少なくして平和を作る方法でもある。
同じようにして、幾つかの国で、実験を進めている。
敦布が狙っているのは、いずれもが第三国と呼ばれる、世界における最辺境の地域だ。これらの辺境国で実験を進め、最終的にはオンカヌシの力を用い、一気に世界を席巻する。邪魔は、誰にもさせない。
既に裏の世界では、敦布のことが恐怖と共に知れ渡っているらしい。
だからなんだと、失笑するだけだが。
作戦は、その翌日から開始。
半年で、十年以上続いた地獄の内乱は、終結を見ることになる。
レヌ国の首相官邸は、かっては要塞化され、攻め上ってきた反政府組織の攻撃に何度となく晒されたものである。
今敦布がいるちいさな山は、その首相官邸を見下ろせる立地に有り、大変な重要戦略拠点だった。山の中には研究施設が作られ、世界中からスカウトしてきた人材を使って、オンカヌシを調べさせている。この国でも、当然のように地下にオンカヌシはいて、むしろ凶暴なほどだった。
研究施設の屋上で、敦布は手すりに体をもたれさせながら、まずまずの成果だと思った。
内乱を煽っていた武器商人も、反政府組織の要人も、政府の官僚も。ことごとくが不審な死を遂げて。あれよあれよという内に、国中で慕われている男が政府の首相に納まっていた。
死んだ者達は、神の怒りを受けたのだという噂が根強い。
ここ半年で死んだ連中は、いずれもこの世の者とは思えない恐ろしい怪物に襲われたのだという。生き残りは歯の根も合わないほどの恐怖に包まれながら、揃ってそう証言した。どこへ逃げようが隠れようが無駄だった。中には、自家用の飛行機に乗っているところを、撃墜された者までいるのだ。
更に、今までの貧困が嘘のように国外から資本が持ち込まれ、一気に物資の流通が加速。雇用も改善し、今までの殺伐とした空気が、嘘のように晴れた。復興事業が開始され、銃弾の穴だらけだった街が清潔に生まれ変わりはじめ、戦傷者が病院に入ることが可能になってくると、誰も馬鹿馬鹿しくなって銃を捨てていったのだった。
既に抵抗勢力は日に日に小さくなり、政府軍はかっての腐敗を一掃。どこの支援も必要とせず、国を統一できるだろうと、誰の目にも明らかになっていた。自壊する反政府組織も多く、むしろ戦いが必要なくなりつつある。
この国の民にも、新しい首相が操り人形に過ぎないことを、看破している者もいた。
だが、彼らさえ、不満を口にしようとはしなかった。
国が一気に良くなり、介入していた謎の勢力が、一部の土地だけしか要求しなかったことを知っているからである。
予想以上に、上手く行った。
敦布は結果を見て満足していた。
要するに金がちゃんと巡っていないことが、地獄の紛争を造り出すのだ。それに関しては、どこの国でも同じだろう。
平坂の持論にも、似たようなものがあった。
こういった第三国に足場を造っておけば、いずれ充分に役に立つ日が来る。ただし、既に敦布はCIAからも重要マーク人物として、暗殺の対象にまでなっている。実際、何度か狙撃もされた。
「敦布様」
「ん?」
振り返ると、この国で部下にした若い男だった。来て欲しいという。
此処は風が強い、というのが原因だそうだ。
屋上から下の階に移る。作られたばかりの建物だから、階段も新しい。壁などにはむき出しのコンクリも使われているが、いずれは塗装して、綺麗に仕上げる予定だ。おしゃれに興味が無くなった敦布は、今日もジャージを着ている。
奇しくも、この国でも、敦布はジャージ先生と呼ばれているようだった。市井の声にも、あまり興味は無いが。いずれにしても、敵意が籠もった声では無いのだし、それでよい。
ただ、この国の民は、今の時点では家畜だと、敦布は思っている。
敦布が持ち込んだ資本を仲良く頭を並べて食べているだけで、自分で何かをしようとはしていない。
オンカヌシという戦略兵器を用いての世界戦略を実行に移すとき、それではまずい。
この国でするべき実験は、まだまだいくらでもある。
会議室に入ると、甘い匂いが鼻をついた。
花がたくさん花瓶に生けられている。この国の特産である、フレレというちいさな花だ。田舎に行くほど、たくさん自生している。
お菓子も積み上げられていた。
確か、支援物資として活用しているものだ。現地で買える材料を使い、簡単に子供でも作れる。小麦を使った揚げ菓子で、ごてごてと大きく、甘くて美味しい。最初は単純に配り、それから作り方について現地でレクチャーした。今ではこの国におけるソウルフードとなっている。
現地でとれる木の実などを使っても、美味しく仕上げることができるので、家庭での工夫もしやすい。栄養価についても調整しやすく、様々なレシピができはじめていると、報告があった。
「紛争が終結した地域の子供達が、貴方に送ってきたものです」
「ヨッソ首相に、じゃなくて?」
「貴方のことは、意外に知られているんですよ」
それは困ったと敦布は思ったが、まあいい。
それに、子供達の笑顔が見えるようでは無いか。子供達が喜んでいることは、敦布には嬉しい事だった。
平坂や雛理さんの意識が混じっているのに、敦布は子供がいまだに大好きだ。
恐らく加齢が止まってしまっている今でも、子供達の未来と笑顔は守りたいと思っている。
それに、これだけの物資。
現地に、余裕が出てきている証拠だ。戦災での被害を受けている地域もまだたくさんあるのに、敦布を本気で慕ってくれているという事でもある。
「強要はしていないね?」
「もちろんです。 冷めてしまう前に、食べましょう」
もう、子供に好かれることはないと思っていた。
姿さえ見せなければ、子供達も受け入れてくれるのかも知れない。
どれもこれも雑な造りばかりだったが、食べれば暖かみを感じられる。この国は、第二の故郷となる。
それは前から決めていたことだったが。
不思議と、その実感が、今になって沸いてきたのだった。
部下達も呼んで、一緒に食事にする。黒鵜はまだ外を巡回している。急速に平和に向かいつつある今でも、心が壊れたのは少し残っているのだ。
どれだけ豊かな生活が戻ってきても、そう言う人間は減らない。
今までの社会では、対応できなかった。対処療法でしか。
今後、敦布が構想している社会は違う。
其処に人間性は希薄かも知れない。だが、敦布はもう、人間には、自由とか権利とかを、主張する資格が無いかも知れないと、考えていた。
お菓子を皆で食べ終えてしまうと、敦布は自室に籠もる。
無数の人格が、意見を出したがっている。
一日に一度は、話を聞いてやらないと、人格の統合が上手く保てない。前に、数日ほったらかしておいたら、オンカヌシの中にいる何人かが文句を言いだして、頭が痛んで仕方が無かったのだ。
分厚いコンクリと防弾硝子で守られた部屋に入ると、敦布はベットに転がった。それが合図である。
中にいる他の人格も、承知している。だから銘々勝手に話し始める。
「上々のようだが、まだ手ぬるいのではないのかね」
平坂の声が、そんなことを言う。
対して、静かに反対の意思を示すのは、雛理さんだ。
「戦闘は終結し、国は安定に向かっている。 此処で下手な行動に出ると、おそらくは逆効果でしょう」
「かといって、今のままだと、油断していると足下を掬われかねないと思うがな」
ケタケタ笑いながら言ったのは、新田だ。
それに対して、咳払いする行成おじいちゃん。
「ジャージのはよくやってる。 一時期は絶望しか無かったような国が、今じゃあ立派に平和を取り戻してる。 それまでに大勢死んだかも知れないが、他の誰よりも少ない犠牲で済ませただろうよ」
「私としてはだね、もっと此処は未来を見るべきだと思う」
平坂は、やはりもっと権力基盤を強化するべきだ、という。
他の三人は、平坂に対して反対意見を強く見せている。なんだかんだ言って、最後まで戦っていたのだから、当然か。
雛理さんは、意外にも一番敦布を評価してくれているようだ。彼女は戦闘のプロだが、それは殺しが好きなことを必ずしも意味していない。
他にも、雑多な声が聞こえてくる。
もっと殺したいとか、血が見たいというような、ぶっそうなもの。平和が一番だから、今の状況が嬉しいと言うもの。
敦布の感覚は、それらの人格にも伝わっている。
人間を殴り殺したとき、歓喜の声を上げた人格も決して少なくは無かった。一方、いやがって目を背けようとした人格もあった。
「まずは、オンカヌシの力を引き出す研究を最優先にする」
「方針に変更は無しと」
「つまんなーい! もっと殺してよ! 殺す感覚、とても面白いのにー!」
ベットから半身を起こすのが、思考終了の合図。
結局主導権は敦布にあるのだ。
あくびをしながら、研究室に出向く。
地下にある研究室は、既に真っ黒い影で埋め尽くされている。
闇の上に、ちいさな橋を渡している、という状況だ。敦布が最初呼び出してからは、安定した状態を保っているが。それでも、時々好戦的に、蠕動したり蠢いたりする。
ちいさな島のオンカヌシとは比較にならない密度を秘めた、文字通りの邪神。
この国のプリミティブで、禍々しいまでに強い力を秘めている邪神は。まだまだ、扱えるまで時間が掛かりそうだ。
しかし、それでいい。
敦布自身が扱うことは、さほど難しくないのだ。
問題は兵器利用。
あまりにも簡単に実用化に移されては、困る。
幸い、まだCIAも、此方の真の切り札がカムイでは無くオンカヌシである事には、気付いていないらしい。
対策を簡単に練られては困るのだ。
だから、むしろ研究は難しい方が良い。
此処にいる邪神は、以前モロクロフと名乗った。勿論単一の人格で動いている存在では無く、材料になった無数の人間が混在している。
だから、いつも敦布を歓迎するわけではない。
「モノクロフ、貴方の様子を、見に来ましたよ」
「あ、あつの、か。 暑い。 冷やして、くれ」
温度計を見ると、三十二度。
外に比べれば、とても涼しいはずなのだが。土の中でずっと過ごしているからか、この邪神はまだ暑いという。
クーラーを強くして、温度を下げる。
前は電力の浪費は危険だったのだが。今は、かなり余裕を持って、クーラーを強めに賭ける事ができた。
「どう?」
「あ、ああう、おう。 ちょうど、いい」
「それは良かった」
もう一度、温度を下げる。
闇色の海はしばし無言でのたうっていたが、不意に語りかけてくる。
「戦争が、終わった、のか」
「どうしてそう思うの?」
「わ、儂に流れ込んでくる力が、ろこつ、に、に、減った。 今までは、儂がパンクするくらいの力が、無秩序、に。 だが、流れてこ、なくなった」
時々、触手が橋の上まで伸びてくる。
人間の研究員は、ヘタに此処には入れられない。モロクロフが、悪気が無かったとしても。
人間にとっては、洒落にはならないからだ。
「そうよ、私が終わらせたの」
「そうか」
「怒らないの?」
「怒る? いひひひひ、ひっひひひひひひひひ!」
ゲタゲタ笑っていたモロクロフだが、不意に静かになった。
触手が、何本も伸びてくる。
それぞれに、人の顔がついていた。誰も彼もが、恐怖に歪んだ顔ばかりだった。中には、顔そのものが、欠けている場合さえあった。
戦争は、当事者でなければ、文字通りの他人事だ。平和な日本では、無責任な戦争肯定論を、よく敦布も聞いた。
一方、当事者になれば、それは地獄そのもの。
ましてや軍人以外も容赦なく巻き込まれるような、悲惨な内戦であったら。それはどれだけの悲劇を生んでいるだろう。
「みんな、お前に感謝してる。 みんな、戦争は、大嫌い、だった」
触手についていた顔が、少しずつ表情を和らげていく。中には、口を動かして、この国の言葉でありがとうと言って消えていく顔もあった。
それは、そうかも知れない。
この悲惨な内戦で、死者は百万を超えていたのだ。オンカヌシの中にも、それだけ膨大な怨念が流れ込んだ、というわけか。
「朕はこれから、何をすれば、よい」
「悲劇が二度と起きない国を作る、手助けをしてほしいの」
「どれほど、優秀な統治者が、でても。 永遠は、ない、だろう」
「既存の政治的なシステムを、私が一変させるよ。 現在の政治的なシステムでは、あまりにも個人に依存する部分が大きすぎるから」
これは、民主主義だろうが共産主義だろうが、専制主義だろうが、すべて同じだ。
民主主義であっても、無能な議員が多数出れば、国政は混乱する。優秀なトップだって、選ばれなくなる。
専制主義の方は、もっと極端だ。
政治のシステムに関わる人間が固定化され、優秀な人間が出ればドラマティックに改革が進むこともあるが、そうでなければ一気に国は腐敗に落ちる。世間にはびこった共産主義は専制主義にむしろ近く、同じ病根を抱えている。
以前は、こういったことは、考えもしなかった。
多数の人格と知識が流れ込んできて、それを整理していく内に、少しずつ分かるようになってきた。
敦布にあらがおうとしている人格も、ある。
だが、今の時点では、抑えることは、難しくない。
話を聞き終えると、実に楽しそうに、邪神は応じる。
「面白、そうだ」
「人ならぬ私なら、多分できるだろう、と思う」
「ふむ、なおさらに、面白そうだ」
触手を蠢かせる闇そのもの。
オンカヌシと同類のこの邪神達は、互いにネットワークで結びついている。つまり、一つを完璧にコントロール出来るようになれば、他も一気に同じように動かせるというわけだ。
「完全に歴史の闇に葬られた朕らが、再び世界の主役に躍り出るか。 しかし、そうなると、ただでさえダメージを受けているこの世界の森は、致命傷を受けるのでは、ないのかな」
「対策は、考えてあるよ」
「つくづく面白きやつ。 いいだろう、のってやろう」
一礼すると、研究室を出る。
後一手。
既存の権力機構も、そろそろ敦布の危険性に気付きはじめている。抱えている組織が大きくなってきているのだ。内部には、スパイだって潜り込んできているのが普通だろう。そろそろ、もたついていると、思い切った攻勢に出てくる可能性も否定できない。
だが、それならば、それでもいい。
どのみち、決着は付けなければならないのだから。
斑目島で、雛理さんとずっと過ごして、思い知らされたことがある。
社会での関係は、勝つか負けるかだ。
個人の人間関係や、考え方は違う。
だが、社会においては、勝った方はどんなことでも好き勝手に振る舞うことができる。だが、まけた方は、どれだけ悲惨な境遇に落とされても、反論さえできない。反論しても、嘲笑われるだけだ。
ならば、敦布は勝つ。
携帯が鳴った。
出てみると、黒鵜からだった。
「FBIのエージェントが、この国に多数入り込みはじめていると報告がありました」
「分かった。 対策を講じてくれる?」
「ただちに」
敵もどうして、動きが速い。
だが、むしろそれを楽しんでいる自分がいる事に、敦布は気付くのだった。
3、滅びの門
アーニャは、軟禁同然の状態から、多少マシな環境に移された。
以前のように尋問されることもないし、拷問だって受けていない。時々敦布さんから連絡が来るが、それ以外は孤独だった。
今更学校に行こうとも思わないし、テレビにも殆ど興味は無い。見張りをしている黒服の人に頼めば、本やゲームは買ってきてくれるが、すぐに飽きてしまった。
だから、それに気付いたのは。
本当に偶然だった。
何気なしに、テレビを付けると、全ての番組が、砂嵐になっていたのだ。
アンテナが壊れたのかなと思って、聞いてみる。
だが、壊れていないと言われた。
テレビを見せると、小首をかしげるばかりの黒服。敦布さんに連絡を入れようにも、最近は殆どつながらない。
嫌な予感が、膨らんでいく。
「外に出てもいい?」
強面の黒服に聞くと、すぐにはオッケーと言われなかった。
だが、結局は許可してくれた。
今、アーニャがいるのは、太平洋上のちいさな島だ。
国としては確かフランスの海外領土にあたる。人口は一万人程度で、その99パーセントが現地の人達である。残りが、フランスから統治のために来ている。
島の規模としては斑目島と殆ど変わらないが、実のところ、アーニャは孤島で過ごす方が落ち着くのだ。
アーニャの出身はロシアだが、大陸では無く、その辺縁のちいさな島だった。
生まれ育ったのも同じ島で、環境は過酷だったが。しかし人間環境の方がもっと過酷だったので、同じだった。
むしろ、夏や春の自然が無ければ、心がもっとすさんでいたかも知れない。
この島も、環境が豊かである事は変わらない。
暖かい島だから、非常にカラフルな植物が多数あり、人々も開放的だ。フランスに統治されていることなど、気にもしている様子が無い。豊かに生活できているから、政治などどうでもよいのだろう。
普段なら、そうだ。
だが、黒服と一緒に歩きながら、今日はおかしいと気付く。
警官が、いつもよりずっと多い数、周囲を見張っている。しかも、殺気だち方が尋常では無い。
軍隊まで見受けられた。
メインストリートだというのに、殆ど人もいない。ちいさな島だから、此処以外に買い物できる場所もないし、いやでもこざるを得ないのだが。
この島に来てから、一年ほど。
島の人達の中には、仲良くなった相手もいる。アーニャが暮らしている家は比較的大きな家で、しかも黒服が常時見張っているから、何かあると相手も思ってはいるのだろう。だが、豊かな暮らしができているから、気にならない。というところか。
ネットで調べてみる。各国のポータルサイトは、根こそぎ封鎖されている状態だ。大手の掲示板サイトも、落ちている。
とんでも無い規模の情報規制が行われているか、或いはとてつもない災害が起きたのか。途方も無く嫌な予感がした。
携帯の電波も極めて通じにくい。
黒服に視線を向けてみるが、無表情のままだ。
「何かしらない?」
黒服は応えてくれない。
本当にこの人は、ロボットでは無いのかと思ってしまう。嘆息して、直接敦布さんにかけようかと思ったが。
不意にサイレンが鳴り響いて、携帯を取り落としそうになった。
島で一番人気が多いメインストリートには、武装した人間ばかり。その中で、あまりにもサイレンは異様に感じた。
何か、この国の言葉で喋っている。早口なので、聞き取りづらい。
その後フランス語、そして、英語でもアナウンスがされる。そこで、やっと内容を理解できた。
戒厳令が発動された。
黒服に腕を掴まれる。すぐに山荘に戻れと、視線で促された。
引っ張られるようにして、戻る。
電話はやはり、どこにも掛からない。やっと掛かったのは、この島の友達だ。同年代の彼女は、南国の気風からか、でっぷりと太っている。この島では、ごく普通の体型なのだが。
「アーニャ、無事!?」
「うん。 どうしたの?」
「よく分からないけれど、本国の方で何か起きたみたい。 ひょっとすると、史上に無い規模の同時多発テロかも知れないって」
ぞっとする。
もしも、それが本当なら。
間違いなく、犯人は敦布さんだ。
しかも、報道規制が敷かれていることが気になる。政府の中枢が、それも米国辺りが、致命傷を受けたのでは無いのか。
オンカヌシか、それともカムイか。
敦布さんに以前触れたとき、オンカヌシがいかなる存在かは、理解できた。もし使うなら、世界全土の地下を支配しているオンカヌシだろう。住んでいる家に、警察が来た。黒服が応対している。
家の中に警官が来た。
武器は無いかと、調べられる。黒服が、許可の出ている武器しか置いていないと言って、見せていた。
アーニャはソファに座って、捜査の間、じっとしていた。
幸い英語ができる警官がいて、話をする。警察の方でも、相当混乱しているようだった。
「俺たちも、いきなり戒厳令を敷けっていわれててよ。 やりかたも良くわからねえから、まず外国籍から調べてるんだ。 悪いな」
「……」
この島が、のんき者の集まりで助かった。
下手をしたらその場で連行されて、拷問まで受けていたかも知れない。何かやったのだとしたら、敦布さんだろうという確信があるからこそ、恐怖はある。
敦布さんの関係者だとばれたら、文字通り何をされるか分からないからだ。
調べた結果、何も出ない。
敦布さんが此処にアーニャをかくまったのは。容易に、身を守れるからだ。皆が豊かだから治安は良いし、誰もがおおらか。軍に関しても、それは同じ。
「すまんかったな、お嬢様。 じゃあ、しばらくは窮屈だと思うけど、我慢してくれな」
しばらく、ですむだろうか。
警察達が出て行くと、黒服の携帯に着信。
間違いなく、敦布さんか、その部下からだろう。黒鵜さんかも知れない。この黒服は、黒鵜さんが育てた部下らしいからだ。
しばらく話していた黒服だが。
話し終えると、顔を上げた。
「計画が実行に移されたそうです」
やはり、そうか。
もはや、引き返すことは不可能だろう。
自室で膝を抱えて、じっとする。
情報が入ってこない。携帯でネットにつなごうにしても、この島内のネットくらいにしかつながらない。
敦布さんの計画について、細かい事は知らされていないから、分からない事も多い。それがクーデターなのか、無差別大量虐殺なのかさえも。
黒服が、食事を運んでくる。
無骨な外見と極端な口数の少なさと裏腹に、彼は料理が達者だ。この島風の甘い味付けも得意だが、基本的に何でもできる。
今日持ってきてくれたのは、パスタだ。
少し心配になったが、この国で食糧関係の物資は有り余っている。気にすることは、ないだろう。
「何が起こってるの」
「私にも概要は分かりません」
頼りないと言おうとしたが、考えて見れば当然か。
これだけ離れた地点にいる人員まで計画の概要を知っていたら、いざというときに情報が漏れる可能性が高い。
テレビは相変わらず砂嵐だらけ。
この島のテレビだけは、かろうじて映った。流しているのは、戒厳令が敷かれたから、家で静かにしているように、という内容だけだが。
アナウンサーの様子からして、この島の報道でも、何が起きているかは把握できていないのだろう。
空港の様子はと思って、外を見る。
飛行機が離着陸している様子は無い。もっともこの島では、一日に一本飛行機が来るか来ないか、だが。殆どの人はフェリーを利用する。
酷薄で非情な掟が支配していた斑目島と、そう言う意味でこの島は近い。ただし、豊かな環境が、皆の心を広くしているし、不満に対するスケープゴートも必要としなかった。
夕方に、友人が来た。
警官を伴っていた。それでも外出はさせてくれるという事は、戒厳令はさほど厳しいものではないのだろう。
彼女はアーニャを見ると、むぎゅうと抱きしめる。
体格もパワーも違いすぎるので、骨が砕けそうになるが、親愛の意思だというのは分かっているので拒否はしない。苦しいが。
「良かった! アーニャ、無事ね!」
「う、うん」
彼女には、とても言えない。
この事態を引き起こしたのが、知り合いだなんて。
「ホワイトハウスが、吹き飛んだって噂があるの」
「……」
どんな噂が流れても、不思議では無い。
敦布さんは、子供達を守りたいと、ずっと思っていた。だからアーニャにも分け隔て無く良くしてくれた。
辺縁の国にアーニャをかくまったのも、彼女なりの好意からだ。
ためらいなく人を殺すようになってしまった今でも、其処だけは変わっていないと、時々話しているからこそ、断言できる。
しかし、その優しさに、周りは誰一人、応えようとはしなかった。
彼女を、人類が見捨てたように。
人類を、彼女が見捨てても、おかしくは無い。
アーニャは思うのだ。何故か、社会が個人を見捨てることは正義とされるのに。個人が社会を見捨てることは、悪とされる。どうしてなのだろうと。
今まで、そんなことは考えようともしなかった。
斑目島で、寛子の反応を酷いと思った。だが、今になって考えれば、子供を連れて行った場合、殆どが異変後の敦布先生の事を怖がり、遠ざかろうとしたのでは無いか。
しばらく話を聞くが、有益な情報は出てこなかった。
警官が咳払いして、友人を連れて行く。戒厳令が出ているのだ。あまり自由には出歩いて欲しくないのだろう。
ネットは、復旧する気配も無い。
翌日も戒厳令は敷かれていた。ヘリが飛ぶようになったが、警官達は明らかにだれてきているのが分かった。
おおらかなこの島の事である。
この機に乗じて、犯罪を、などという者はいないだろう。
ただ、このちいさな島では、生活物資を全て生産はできない。食糧に関しては問題が無いのだが、医薬品などはよそからの搬入に頼っていたはずで、いずれ問題が顕在化するだろう。
このおおらかな島でも、混乱が起きているのだ。
よそではいったい、どれほどの惨事になっているのか。
黒服が来る。
「敦布様に連絡が取れました」
思わず立ち上がったアーニャは、携帯電話を引ったくるように奪い取る。
手が震えた。
「敦布さん……?」
「アーニャちゃん、元気そうでよかった」
声は、変わっていない。
否、違う。
以前とは、さらに冷酷さが倍増しになっている。剣の過激派に軟禁されていたアーニャを助けてくれたとき、既に敦布さんには、どうしようもない冷酷さが宿っていた。今も、ぞっとするほどの冷たさが、声にある。
あの時でさえ、敦布さんは死んで、その残骸が体を動かしていた。生きた死体だった。
今はもう。
この世に現れた、邪神そのものだと感じる。
「ホワイトハウスを、吹き飛ばしたって聞いたよ……?」
「そんな噂が流れてるの?」
「違う……」
「吹き飛ばしてはいないけど、全世界の主要国家の首都は全部抑えて、政治機構は完璧に掌握したから。 ネットの封鎖もその一環。 ネットが回復した頃には、世界が全て変わっているよ」
くすくすと、敦布さんが笑う。
違う。
あの人は、こんな風に笑ったりしなかった。
怖くて、携帯を捨てたくなる。だが、捨てられない。足の震えが、全身に這い上がってくる。
「その島にも、一月もすれば物資が来るから、それまで我慢してね」
「い、今、どこに」
「それは教えられない」
電話が切れた。
一気に汗が噴き出してくる。
敦布さんは、変わってしまった。涙がぼろぼろとこぼれ出てきた。
一体何が、世界で起きているのだろう。確かめなければならなかった。
エピローグ、影の世界での生存術
治郎は、里親と一緒に、精神病院に出向いていた。
知ってはいたが、別に牢屋に閉じ込められている人はいない。ただ、入院患者の中には、ある程度拘束されている人はいるようだった。
治郎自体も、最初は診察を受けた。今では、問題ないと太鼓判を押されている。
治郎は知っていた。
最後の方は怖かった。でも、ずっと敦布先生が庇ってくれたから、今生きているのだと。雛理さんに至っては、邪魔だったら切り捨てようと思っていた事だって分かっている。そして、今なら分かるのだ。
あの島で生き残るためには、治郎も寛子ちゃんも邪魔だった、という事は。
生き残れたのは、運が良かったから、などではない。
敦布先生が、身を挺して、守ってくれていたからだ。
子供だから、怖がるだけですんだ。
でも、治郎は知っている。
寛子ちゃんは、きっと気付いていたのだ。自分がどれだけ酷い事をしているか。人間では無くなってしまった敦布先生を、寛子ちゃんは怖がっていた。でも、同時にとてもつよい罪悪感を感じていたのだ。
だから、壊れた。
会いに来ても、面会謝絶の日も少なくない。
寛子ちゃんは、今、現実を認識できなくなっていると、お医者さんはいう。でも、お薬だと、どうしても治療に限界がある。
空想の敦布先生と楽しそうに話している寛子ちゃんは、それを否定されると、暴れるのだという。
この間見た時は、頭から血を流して、叫んでいた。
怖いと言うよりも、悲しかった。
あの恐ろしい島から、やっと出られたのに。
まだ、寛子ちゃんの心は、斑目島にあるのかも知れない。今では森も学校もなくなってしまったらしい、悲しみの島に。
面会の許可が出たので、里親と一緒に、寛子ちゃんに会いに行く。
里親はとても優しい老夫婦だけれど、治郎は知っていた。亡くしてしまった孫の代わりに、自分をかわいがっていると。
でも、それでも。斑目島にいた頃より、ずっとマシだ。
実の親よりも、ずっと良くしてくれている。
寛子ちゃんは、頭に包帯を巻いたまま、明後日の方を見てぶつぶつ呟いていた。頭の包帯は、何か暴れて、打ったのだろう。前から怪我が耐えなかった。腕を吊っていたこともあるから、今更驚かない。ただ、頭を怪我しているのは初めてだ。前よりも、症状が悪化しているかも知れない。治郎が話しかけても、反応しない。もう、心が、壊れてしまったのだろうか。
しばらく世話をするが、何も喋ることさえできなかった。
だから、席を立とうとする。
「お姉ちゃん、もう帰るね」
「……」
黙り込んだ寛子ちゃんが、首をぐるっと回して、治郎を見た。
口をつぐんだ治郎に、彼女は焦点があっていない目で、言う。
「先生がいる」
「いないよ、どこにも」
「今、正気よ」
背筋に寒気が走った。
寛子ちゃんは、本当に正気だ。そして、焦点があっていない目は。
怖くて、震えが止まらない。
彼女は、治郎の後ろを見ている。
凍りそうな心を、必死に叱咤して、振り返る。
其処には。
黒い影が、たゆたっていた。
「治郎、くん」
影が、喋る。
何となく、分かる。その声は。
「ジャージ先生?」
「そうだよ、治郎君」
「……」
何故、寛子ちゃんを呼ばないのだろう。どすんと、大きな揺れが来た。転びそうになる所を、寛子ちゃんに支えられる。
気がつくと、先生の影はいなくなっていた。
空が真っ暗だ。
そして、病院の電気が、次の瞬間、落ちた。
地震だろうか。でも、もう揺れていない。停電だろうか。外を見ると、街はもう、真っ暗だった。鉄格子ごしに、闇の空の下、真っ暗になってしまった街が見える。空は真っ暗なのに、どうしてだろう。
寛子ちゃんが立ち上がる。
「来て。 先生が、来てって言ってる」
「聞こえないよ」
「いいから」
寛子ちゃんは、治郎なんか見ていない。
病院にずっといた割には、手の力もとても強くて、治郎には逆らえなかった。
病院の中は、きゃあきゃあと叫び声が飛び交っていた。何かが倒れる音、悲鳴。懐中電灯を持った人が、走り回っている。
そんな中、寛子ちゃんは無言のまま、堂々と歩く。
パジャマのままだけれど、誰もそれを気にしない。何となく、わかる。気にしている余裕が無いのだろう。
治郎の里親はどこにも見当たらない。
それに、おかしい。
「人が、少ない?」
「先生が連れて行ってしまったのね」
「え……」
気がつくと、外に出ていた。
真っ暗な闇。
地面まで、真っ暗。
彼方此方から、触手が生えている。そう、何度も斑目島で見た怪物から生えているような、恐ろしいものだ。
悲鳴を上げて走っていた人が、一人。
霧のようになって、消えてしまう。
「また一人……」
「どうして!」
なんで、先生が、そんな怖い事をするんだろう。
あんなに優しい先生だったのに。
治郎だって、分かっていた。先生が、子供達のために、ずっと無理をしてきたことくらい。体が滅茶苦茶になっていくのも気にしないで、頑張っていたのに。
子供をパチンコの邪魔だっていって、車の中に閉じ込めるような親だっているのは、治郎だって知っている。
男の人と過ごしたいからって言って、子供を虐めるお母さんがいることだって、知っている。
先生は、そんな親より、ずっと親だった。
治郎のお兄ちゃんをかわいがるばっかりで、治郎を見もしなかった親より、ずっとお母さんだった。
誰よりも、治郎にとって大事な人だった。
あんなに優しかった先生が。
治郎が、怖がったから、だろうか。
街が、溶けていく。
本当に言葉通りの内容だ。真っ黒な世界の中、街が消えていくのが分かる。人々も。悲鳴と怒号が辺り中から聞こえてくる。でも、それも静かになった。生きているのは、ほんのわずかな人達。
「いちど、世界は凍結する」
先生の声だ。
世界の凍結。黒い世界に、閉ざすことだろうか。
皆が空を見上げている。
みんなに聞こえているんだと、治郎は思った。
「私は敦布。 世界の主要都市も、そうでない地域も、ほとんどは私が抑えた。 一度世界は闇に溶かし、再構成する。 元に戻ったとき、世界は愛が満ち、平和になっているだろう」
愛。
平和。
何だろう。
治郎は知っている。先生が、それを溢れるくらい持っていたことを。でも、今、先生が行っていることは。
この黒い世界、そのものだ。
「今、残した人間は、その選定に漏れた存在だ。 生き残ろうとあがくのも、絶望して闇に溶けるのも自由」
すぐ側で、悲鳴が聞こえた。
また、誰かが溶けたのだろうか。
寛子お姉ちゃんは、無言で立ち尽くしている。
「一月で、全てが終わる。 それまで、好きに過ごすが良い。 もっとも、一月後の世界で、選定から漏れた者達に居場所があるかどうかは、別の問題だが」
声が途切れた。
寛子ちゃんの目から、涙が伝っているのが見えた。
「そうか、先生は。 私を今度こそ、本当に見捨てたんだね」
「お姉ちゃん!」
「先生、怖がってごめんね。 弱くて、馬鹿な子でごめんね。 許して……」
呼び止める、暇も無かった。
寛子ちゃんが、溶けて消える。
後は、呆然と、治郎は立ち尽くすばかりだった。
知っている人は、誰もいない世界。
でも、治郎は顔を上げる。
「生き残る……」
街も、無くなってしまった。
きっと電気だって、もうどこにも通っていない。
でも、斑目島で、どうやって生き残れば良いか、学んだでは無いか。
生き残ろう。
そう決める。
それが、守ろうとしてくれた先生を、怖がってしまった治郎に出来る事。
そして、先生が言う一ヶ月を生き残って、胸を張って先生に会おう。そして次にあったときは、もう先生を怖がらない。
たとえ、先生が、どんな姿になっていたとしても、だ。
生き残るためには、まずご飯と水だ。
それに、雨が降ったときに、隠れる場所もいる。
まず、お水を探そう。
治郎は、そう思った。
(斑目地獄島、終)
|