地の底から来たる手

 

序、沈みゆく神の森

 

泥が、溢れてくる。

巨大に変化し続けた森が、黒い闇に飲み込まれていく。

川も、木々も。巨大な動物たちも。

悲鳴を上げて逃げ惑うかと思えば、そんなことも無い。どの動物たちも、ただ唖然として黒い泥を見つめ、飲まれていくのを待つばかりだった。

雛理は、汚れきった髪の毛を掻き上げる。もう何日も、水洗いしかしていない髪だ。

「ジャージ先生。 準備は、できましたか」

「うん」

短い応え。

振り返ると、雛理以上に薄汚れてしまっているジャージ先生が。二隻目になる筏を、作り上げたところだった。

崖下から視線を背ける。

いずれこの崖下は、闇に。人間達が蓄えた、闇に。そう、オンカヌシによって食い尽くされる。

カムイは出てこない。

この事実を告げてから、静かになってしまった。

個体数で言えば、昆虫は圧倒的だ。今でも世界の覇者として君臨している。だが、この世界を事実上支配しているのは、やはり人間だ。

オンカヌシが、人間が造り出した、森を支配するための存在だと知って。雛理は、こう思うのだ。

世界を人間が支配しているという事実が、此処から見える光景なのだと。

それは、全く美しくない。

ただおぞましく、黒く、闇に満ちている。

人間とは、何なのだろう。

昔、人間は森を食い荒らすというような言葉が流行ったと、雛理は聞いたことがある。しかし、この現実はどうだ。人間は、森を食い荒らしているのでは無い。無理矢理ねじ伏せて、言うことを聞かなければ殺しているのだ。

二人で、筏を運ぶ。

無言だった。ジャージ先生は、カムイと意識が一体化しはじめている。だから、なのだろう。

カムイが事実に気付いた今。平静ではいられないのである。

平坂は、この事実を知っているはずだ。

いくら引き上げを開始しているとは言え、これほどの異変に、気付かない筈も無い。今頃、奴の海上基地は、てんやわんやだろう。

海岸に着く。

岩礁から、筏を投げ入れた。

海を行くことは、問題が無い。問題があるとすれば、オンカヌシによる破滅の影響が、どれほどか、ということだ。

雛理の中にある、恐らくコアと思われるオンカヌシは。今の時点では、静かにしている。崩壊の最中だというのに、不思議な話だ。

だが、いつ暴れ出しても、おかしくは無いだろう。

平坂さえ倒せば、全てが終わるとは、流石に雛理も思っていない。できれば、カムイの研究の中核は潰さないと危ない。

今度は剣がそれを握り、利権を独占したら。平坂が世界を滅ぼすのと、何ら変わらない惨禍が訪れることだろう。

世界には、美しい部分は少ない。

特に人間が関わっている場所には。

だが、それでも。まだ、今は。雛理は、人間のために、戦う事ができている。今後も、そうできるかは、分からないが。

戦える内に、平坂を倒さなければならない。

そして、今のうちに、その研究も潰しておかないと。どう、魔が差すか、わかったものでは無かった。

決意も何も無い。昔は、頭を空っぽにして、敵をただ殺す事ができたのに。思想も何も関係無く、邪魔な相手をひたすら憎み、引き金を引くことができたのに。軟弱になった、というのとは少し違うだろう。

雛理は、おかしな話だが。

オンカヌシの力を得て、人間では無くなって。はじめて、人間らしい存在になりつつあるのかも知れなかった。

筏に飛び乗ると、櫂を使って漕ぐ。

ジャージ先生も、あまり考えたくは無いようで、無心に櫂を動かしていた。二人とも、息は完璧にあっている。筏は綺麗に直進していて、軌道が歪む様子は無い。大きな波に何度か翻弄され掛ける。

「早めに行かないと危ないです。 少し急ぎましょう」

「神林が無くなるから、だね」

応えるまでも無く、そうだ。

オンカヌシによる侵食の結果、あの巨大な岩山が崩れ落ちて、一気に海水が流れ込んだらどうなるか。

いうまでもない。

強烈な水流が、筏を引っ張ることになるだろう。

それなのに、どうして出てきたか。それは、沈むのが、神林だけで済むか、保証が無かったからだ。

オンカヌシの力は、島の全土にもともとあったのだ。

カムイの力に侵されたのは、神林だけでは無い。旧斑目島の地域でも、少なからず影響は出ていた。

それに最初に、異変が起きたとき。

海までも、全てが黒い泥で覆われていたでは無いか。

あれがどれほどの範囲で起きていたかは分からないが、少なくとも地平の果てまで続いていたから、もとの島の海岸線から十キロは確定とみて良いだろう。

つまり、それだけの範囲が、更に侵食される可能性がある、という事だ。

どれだけ早く筏で出ても、遅すぎる位である。

情報で得ている、唯一の出口まで、まだしばらく掛かる。無心で櫂を動かしながら、最悪の事態に備えて、頭の中で幾つかシミュレーションを組み立てておく。対応策と、対処法について考えておくと、いざというときに、だいぶ違うものなのだ。

「雛理さん、何だか嫌な風を感じない?」

不意に、ジャージ先生がそんなことを言う。

風は、あまり感じなかった。これだけの異変が、斑目島で起きているのに、おかしな話である。

目を閉じて、風について意識を集中する。

確かに、後ろから変な風が吹いてきている。うなじをくすぐるような、非常に微量の風だが。

気持ち悪いと言うよりも、おぞましい。

そういえば、オンカヌシの事を求める、負の思念の声が、島では聞こえてきていた。このままでは、あの闇の塊は、雛理を追いかけてくるかも知れない。もしもそうなった場合、神林を覆う岩壁の内、真っ先に砕かれるのは、今雛理がいる方向だ。

当然、海に起きる変化も、激烈なものになるだろう。

「急ぎましょう」

「その方が良さそうだね。 でも、雛理さん、いいの? あの声の人達って、きっと雛理さんを待っているよ」

「だから行くんですよ」

後ろ髪を引かれる思いはある。

おそらくは、雛理の中にいる、オンカヌシの中核部分がそうさせているのだろう。逆に言えば、だからこそ。

今のうちに、可能な限り目的を達成しなければならないのだ。

海に出て、一時間半が過ぎた頃だろうか。

来るべき時が、きた。

不意に、海流が止まる。そして、凄まじい勢いで、後ろに引っ張られはじめたのである。何が起きたかは、明々白々。

神林を囲んでいた岩山に、あの黒い闇が、穴を開けたのだ。

「全力で漕いで!」

後は、必死だった。

櫂も折れよと、必死に、一心不乱にこぎ続ける。ただひたすらに、まるで全速力で後ろに流れるベルトコンベアのような海流に逆らい。

だが、あまりにも、海流の速さは圧倒的だった。

ブラックホールに飲み込まれる宇宙船は、こんな感じなのだろうかと、一瞬雛理は思ってしまった。

だが、それでも、一時間半掛けて稼いだ距離がある。

それに、此処は既に斑目島から数キロの距離だ。海水が、神林があった地域に入り込み終えれば、海流は一段落するはず。

凄まじい勢いで逆巻く海。

まるで、巨大なストローで、巨人が海水を吸い上げているかのようだ。

後ろで逆巻いている渦の音がする気がする。巻き込まれたら、カムイやオンカヌシの力を得ている今でも、助からないだろう。ましてや今は、満身創痍なのだ。

滅茶苦茶に海流が乱れているのが分かる。

さては、揺り戻しが来たか。

神林があった地域に流れ込み終わった海流が、一気に反転してきているとみて良いだろう。

前に出る好機かと思ったが、流れは思った以上に凄まじい複雑さで、大小の渦が彼方此方にできている。

筏が保っているのが、不思議なくらいだ。

息を合わせて、必死に現状を維持する。

右、左、左、右。細かく動きを調整しながら、渦に飲まれるのを避ける。悪戦苦闘しながら、ふと振り返る。

見てしまった。

斑目島は、今や、漆黒に包まれている。

言葉の綾では無い。本当に、文字通りの意味だ。神林を食い尽くした闇が、崖を這い上がって、島全土を飲み込んだのは明白である。もしも彼処に残っていたら、今頃どうなっていたか。

海流が安定した。

だが、今こそ、漕ぎに出るときだ。

あの闇が、雛理を逃がすとは思えない。絶対に後を追いかけてくるはずだ。海だろうが何だろうが、関係無しに、である。

その前に、可能な限り、距離を稼がなければならない。

怖いとは感じない。

むしろ、恐ろしいのは。

あの闇に取り込まれたとき。きっと雛理は、心地よいと感じてしまうだろう。その規定の未来だった。

雛理はもう、そう言う意味でも、人間では無い。

このオンカヌシや、その同類によって作り上げられた人間の社会では、順応できるのか、疑問が大いに残る。

今は、ただ無心になる。

平坂を倒し、その研究成果を全て闇に葬る。その目的のために心の油を燃やしておかなければ、とても平静を保てそうに無かった。

 

1、険しき決戦への路

 

部下達の動揺が、手に取るように黒鵜には分かった。

平坂は全て後の準備をしていた。どう行動すれば良いのか、マニュアルを残していた。それに沿って動けば、平坂の野望は、確かに達成できるだろう。

だが、それでいいのだろうか。

最初、黒鵜は部下達を全員集めて、平坂が失踪したこと、しかしこの後のマニュアルを残していることを正直に告げた。

だが、それは悪手だった。

黒鵜の悩みは、部下達に伝染したかのようだ。

移動中のメガフロートの上は、既に混乱の極みにあった。

最悪だったのは、変化した岸田が、馬鹿笑いしながら空の彼方に飛び去ったのを、誰もが見た事だろう。

その上、平坂が単に失踪したのでは無く、「怪物化して失踪した」という情報が、爆発的に広がった。

カムイになってしまったのだと、いう意見も多い。実際その通りなのだが、どこから情報が出たのかは、黒鵜にも分からない。

あの怪物が、如何に非常識で桁外れかは、この部隊にいる者は誰もが知っている。ましてや、平坂がカムイ化した場合の破壊力は一体どれほどのものなのか、知れたものではない。

恐怖は、見る間に拡大していった。

平坂が、一つだけ見落としていることがあったとすれば。

それは、彼の部下が、人間であった、という事だろう。平坂のように超人的な冷静さと精神的タフネスを備えている存在は、殆どいないのだ。

黒鵜の元に、部下達が押しかけている。

必死に、此処から脱出させて欲しいと、彼らは懇願するのだ。

「もう駄目だ! 早く逃げさせてくれ!」

「化け物になった司令官が、彼方此方で人を食ってるって噂が流れてる! 他のカムイも暴れ出したら、手に負えない!」

実際には、そんな被害者など出ていない。

だが、元々平坂の統率力でまとめ上げられていた人間達は、あまりにも脆かった。傑出したリーダーがいなくなると、こうも人間の群れは弱体化するのかと、黒鵜は驚いてしまう。

「その化け物を見たものは」

「……」

互いに顔を見合わせる兵士達。

震える手を上げたのは、まだ若い男だった。

「第二区画で、妙な影を、巡回中に見た! あれは、絶対に、気のせいなんかじゃない!」

「どんな影だった」

「それは……」

「第二区画は、実験区画だ。 実験用の動物も、かなりの数が飼われている。 鳴き声や臭気は、人間のものとはだいぶ違う。 おかしな精神状態で巡回すれば、妙なものをみてもおかしくはないだろう」

冷静に諭すが、兵士達は納得しない。

食糧も、武器も、それに人員も足りている。

だが、一歩間違うと、これでは同士討ちが始まりかねない。脱出用のヘリの周囲には、血走った目の兵士達が、ずっと巡回し続けていた。

黒鵜はたくましい肩を撫でながら、平坂の組織はもう終わりかも知れないと思った。平坂自身が怪物になってしまったこともあるのだが、この恐怖は容易に周囲から伝染し、相互に作用して拡大していくのだ。

岸田の部下達も、研究所を閉めるべきだと、主張している。

元々彼らは、岸田という傑出したマッドサイエンティストに引っ張られて、非人道的な実験をしていたのだ。

岸田がいなくなれば、正気に戻る。

そうなれば、自分たちがしてきたことが、大量虐殺以外のなにものでもない事を、すぐに悟ることになる。

中には髪が全て抜け落ちてしまった男もいた。

とにかく、もう少しで、泥洗で封鎖した海域を抜けられる。

既に、斑目島本島が崩壊したという報告は、黒鵜の所にも届いている。もたついていると、このメガフロートが、丸ごと飲み込まれかねない。

それに、脱出は、平坂の指示だ。

既に研究は完成したから、それをもって組織の本隊と合流。後は世界中で、泥洗を起こせと、彼は最終的な命令を下していた。まず手始めに沖縄。それから、アジア各地を壊滅させていく。

だが、それは世界規模での大量虐殺。

本当に、世界はそれで変わるのだろうか。黒鵜は、以前から、疑念が膨らんでいくのを感じていた。そして今は、はっきりした形で、不安が胸に宿っている。このやり方は間違っているのでは無いかと言う思いが、強く形になりつつある。

巡回に出ていたハリアーが戻ってきた。

パイロットが走り寄ってきて、敬礼する。

そして、黒鵜に耳打ちした。

舌打ちした黒鵜は、声を張り上げて、部下達を呼び集めたのである。そうせざるを得なかった。

ヘリの側に、大きな木箱を用意させる。

それに乗って、演説をするためだ。

一旦北に向けて泥洗での封鎖海域を抜けると、そこで支配下にあるフリゲート数隻と合流。沖縄に向かって転進し、まずは其処から壊滅させる。

その話は、何度もした。

今回、あえてそうしたのは。まずは、戦略的な目的を、部下達に再確認させる必要があったからだ。

いぶかしげにしている部下達に、平坂は告げなければならない。

「斑目島で我らを苦しめた二人が、追ってきている」

「生きていたのですか!?」

「ああ。 相当な手傷は負っているようだが、筏を使って、精確に此方を追尾してきている。 向こうの方が、若干早いようだ。 速度を上げるように指示を出してはいるが、このままだと追いつかれるだろうな」

なんで、こんなことを言っている。

部下達を惑わすつもりか。

そうじゃない。

黒鵜は、ひょっとして。部下達が、逃げ散ることを、期待しているのでは無いのだろうか。

自身への疑念が膨らんでいく。

平坂の計画への疑念がふくれあがり、確固たる形になると同時に。黒鵜は、自分を信じられなくなっていた。

「や、やりましょう」

部下の一人が、思ってもいなかったことを言い出す。

他の部下達もだ。

「彼奴らに、話が通じるとは思えない」

「そ、そうだ。 このままだと、この海域を出る前に追いつかれるんだろう!? そうなったら、化け物に食い殺される前に皆殺しにされるだけだ!」

待て。

どうして、そうなる。

黒鵜は、目の前が、歪むような感覚に襲われる。

どうして、自分が思わない方向に。望まない方向に、どんどん流れていくのだ。

それで、気付く。

今の発言で、決定的な破滅が起きることを、自分は期待していたのだと。輸送ヘリを我先に部下達が奪い合い、このメガフロートを放棄して、逃げ出すことを、望んでいたのでは無いのかと。

その筈が、部下達は、いきなり目の前の敵を前にして、団結し出す。

敵が必要なことは分かっていた。

だが、どうしてこうなってしまう。元々好戦的な人間が部下達に多いことは分かっていた。訓練の時、本気で黒鵜を殺しに来た部下も今まで何人かいる。

それでも。黒鵜は、思わずめまいを押し殺すのに、苦悩の声を肺から絞り出していた。そうしなければ、落ち着けなかった。

「ま、待て。 迎撃には、作戦がいる」

「コブラで海上から掃射するのは」

「アパッチも繰り出しましょう。 ハリアーも」

冷静にヘリによる攻撃を繰り返せば、確実に倒せると、部下達は言う。

本当にそうだろうか。あれだけの機雷に耐え抜いた相手だ。手傷は散々負わせたが、それでも倒せるかの保証は無い。

今まで散々冷静に戦術を展開してきた黒鵜なのに。

動揺が、心をあまりにも強く打ちのめしていたからか。どうしても、まともな戦術を、考え出せなかった。

「戦術を練るために、時間が欲しい」

不審そうに顔を見合わせる部下達の前から、黒鵜は一旦下がった。

木箱を蹴り砕いてやりたい気分になる。部下達に対してでは無い。どうしても事態をコントロール出来ない、自分に対してだ。

会議室に、他の幹部達を集める。

話し合ったが、どうしても一致が出ない。

平坂を盲信していたものさえ、熱が冷めたようになってしまっているのだ。平坂という男の魔的な牽引力が、この組織をぐいぐいと引っ張っていたのである。一方で、部下達はと言うと、追撃してきた人型カムイと女傭兵を目にして、今までの恐慌を忘れたように、やる気になっている。

平坂が鍛えてきた部下達だ。

いずれもが劣らぬくせ者揃いの筈なのに。

どうしてどいつもこいつも、頓珍漢で弱々しく思えるのだろう。顔を手で押さえたのは、その筆頭自分である事を、黒鵜も分かっているからだ。

まだ、肩の傷は完治しない。

「とにかく、我々も去就を決めなければなりませんな」

目が大きな、長身の男が言う。

スポンサーとの調整役をしている男だ。

「逃げるにしても、どこへ行けば良いのか。 スポンサーを頼るにしても、立場が悪くなるのは避けられんぞ」

「かといって、このまま計画を進めても、こんな状態で上手く行くとは思えない。 平坂様の計画は確かに見事だが……」

残念ながら、実行する人間達の能力が足りない。

致命的な事に、意思はもっと足りていない。

誰も口にはだれないが、それは明白な事実だった。

「我々だけでも、先に避難できないかね」

「そんなそぶりを見せてみなさい。 殺気立っている兵士達に、撃ち殺されますよ」

「それもそうか」

「ならば、追ってきている二人組と、話してみるのはどうだろう。 彼女らの目的は、平坂様と、その計画だろう。 我々は関係無いはずだ」

一人が、そんなことを言いだした。

だが、黒鵜が待ったを掛ける。

「交戦した私だから言えますが、相手はプロの傭兵です。 浪漫やら美学やら関係無しに、本気で此方を殺しに来るでしょう。 しかも、可能な限り適切な戦術を駆使した上で、です。 研究成果を差し出せば許してくれる、というような事は無いでしょうね。 情報を持っている可能性がある存在は、おそらくは皆殺しでしょう」

「何だねそれは……」

「相手も死を覚悟しているという事です。 もはや社会に居場所が無いのは、向こうも同じでしょうから」

顔を見合わせる幹部達。

黒鵜は気付く。

ようやく、冷静さが、戻りつつあると。

現状の戦力を駆使すれば、どうにか撃退は可能だろうと試算は出す。それこそ、いい加減にヘリ部隊でヒットアンドアウェイ、だけでも充分な足止めが可能なはずだ。

更に切り札として、未だに気化爆弾が手元にある。

此奴の火力は、上手に使えば流石の化け物二人も充分に始末可能なはずだ。

「撃退は可能かね、黒鵜君」

「やってはみます。 しかし、相手も後がないのは同じで、絶対に倒せるとは言い切れません」

「しかし、やるしかあるまいか」

此奴らまで、やる気になり始めている。

黒鵜は、混乱する。

本当に一体、自分は何をしたいのか。既に戦術家としての頭脳に切り替えてはいる。冷静さも戻った。

だが、その中で、疑念は消えない。

昔のように、頭を空っぽにして、戦うと言うことが出来そうにない。

一礼すると、会議室を出る。

そのままオペレータールームへ移動した。状況を確認するためだ。

ハリアーが戻ってきた時点で、複数の偵察ヘリを出している。今、リアルタイムで二人を捕捉できているはずだ。

「状況を確認したい」

「はい。 二人は定速度のまま、まっすぐ此方を追ってきています。 ただ……」

「何か懸念があるのか」

「これを見てください」

移動経路のグラフが表示されている。

それを見て、気付く。

此方が向きを変えたときも、相手はまっすぐ追ってきているのだ。

つまり、結論は簡単。相手は、このメガフロートを追ってきていない。だとすると、どうやって追尾してきているのかとなるが、それも見当がつく。

「なるほど、分かったぞ」

「どういうことでしょうか」

「相手は泥洗で隔離された空間の、出口をまっすぐ目指しているという事だ。 それが分かれば、奇襲を仕掛けられる可能性が出てくる」

前回、持ち込んだ機雷は大体使い切ってしまった。

今回は、併走している巡洋艦から、トマホークによるアウトレンジ攻撃を仕掛けるタイミングも、しっかりはかる必要がある。本当に通用するか、何とも言い切れないからである。

やるなら、最大限の火力で、徹底的に、だ。

筏を漕いでいる二人は、此方に明らかに気付いている。時々視線が合うのは、ヘリを見ている証拠だ。

一旦オペレータールームを出る。

そして、興奮する部下達の前に戻った。

作戦を説明する。

少なくとも、これで。泥洗で隔離された空間から、脱出する手はずは整ったといえるだろう。

部下達の顔が、一気に明るくなる。

だが、黒鵜の顔は晴れない。

本当にこれで良いのか。分からない。これまでも、戦場で多くの人を殺してきたというのに。

平坂がいなくなってしまった今。

迷いを晴らす手段は、存在しないのかも知れなかった。

 

筏を漕ぎながら、雛理は時々、飛来するヘリを見る。

小型の偵察ヘリだ。撃墜は可能だが、放っておく。相手の出方をはかるには、丁度良いからだ。

ジャージ先生が、漕ぎながら言う。

彼女にも、当然遠くを飛んでいる偵察ヘリは見えている。

「ヘリコプターが来てるね」

「放っておきます。 仕掛けてくるときには、変化が出ますから」

「分かった。 でも、大丈夫なの?」

「いえ、恐らく奇襲を掛けてくるでしょう」

雛理が相手の指揮官でも、そうする。

此方の移動経路を見切った上で、罠を仕掛けてこようとするだろう。それも、この間の大量の機雷による爆殺のように、徹底的な大火力を動員してくるはずだ。

つまり此方は、その裏を掻く必要性が生じてくる。

更に言えば、体のダメージが深刻なのも分かる。もう一度、大規模な攻撃によってダメージを受けたとき。

再生できるか、自信は無い。

意識を失い、海流に流されでもしたら最悪だ。たとえオンカヌシによる超人的な強化のおかげで命を拾っても、その後、身動きできるようになる頃には、全てが終わっているだろう。

「話し合いは、できないのかな」

「今はその段階ではありません」

そろそろ、動きを変える必要がある。

そのまままっすぐに進み続ければ、必ず敵の罠に落ちると見ていい。かといって、迂回しているような時間的余裕があるとは思えない。

しかし、その割には、敵の警戒が厳重だ。

この間の罠で死ななかった、というのだけが理由では無いだろう。

ひょっとすると、メガフロートの速度が、此方が思っているより遅いのか。それとも、何か致命的なトラブルが起こったのか。

そういえば、平坂にしては、対応策を打ってくるのが遅い気がする。

ひょっとすると、平坂は。

「カムイの力は、感じますか」

「ちょっとまってね。 ……この先のメガフロートという場所に、たくさん。 あと二つ、少し離れたところにあるよ」

「二つだけ?」

「一つは、既に泥洗の海域を離脱してる。 もう一つは……」

ジャージ先生が、はっと振り向く。

後ろにあるのは、斑目島。

そんな馬鹿な。あの状況で、斑目島に、カムイが戻ったというのか。一体何のために。不要になったものを、廃棄したというのか。

そんな理由は考えられない。

いずれにしても、動く必要があるだろう。

ジャージ先生に耳打ちする。少し驚いた顔をされたが、これ以外に方法は無い。

問題は、体が保つかどうか、だが。

必ず、やり遂げなければならない。

頷くと、二人、同時に海に飛び込む。ヘリによる監視が、慌てるのが遠目にも分かった。

そのまま潜って、ぐいぐいと距離を稼ぐ。一時期、ある革命的な泳ぎ方による驚くべき結果が世界を席巻したが、今は特に苦しむことも無く、それ以上の速さで泳ぐことができる。

傭兵時代に着衣水泳を訓練したが。

今の状態なら、それさえも必要ないだろう。

ジャージ先生も、普通についてくる。魚雷みたいな速度で泳ぐ雛理に、だ。数百メートルは進んだだろうか。

一旦海上に出て、息を吸うと、また潜る。

筏で進んでいたときよりも、これの方が早いかも知れない。

ただし海水が冷たい上に、傷にも障る。体力の消耗も著しい。相手側が、どんな手に出てくるか、だいたい予想がついている今、最善手とも言いがたい。

少し深く潜る。

そして、ジャージ先生を手招き。今の泳ぎで、大体どれくらい一呼吸で進めるかは分かった。

これを利用して、相手を攪乱する。

かなり深い所を進む。周囲には、大型の魚も目だった。とはいっても、斑目島の川で見たような、異常サイズのものではなく、常識的なものばかりだ。泥洗による汚染は、海中までも侵食はしていない、と見るべきだろう。

ただ、どうも見られているような気がするのだ。

海底には、かなりの数のアンボイナがいる。特徴的な貝だから、一目で分かる。どうしてなのだろう。

かっては気持ち悪いと思ったのに。

今では、いとおしいとさえ感じてしまう。

また、水上に出る。

周辺に、ヘリはいない。これなら、監視ヘリを誤魔化すことはできるだろう。

問題は対潜ヘリが出てきた場合だ。対潜ヘリは強力なソナーを備えていて、しかも平坂の組織に配備されている場合、武装のアップグレードが行われている可能性がかなり高いと見てよい。

今の時点では、対潜ヘリはみていないが。敵が持っていても、何ら不思議は無いだろう。

周辺にヘリの機影はない。

此方を見失ったと思うには、まだ早計だ。少し遅れて水面に上がって来たジャージ先生を促して、また潜る。

海底に向かって、まず一直線に進んだ後、岩盤に沿って北上する。途中、蛇行して路をずらすのは、敵による罠を回避するためだ。

それでも、筏を漕いで進むよりも、だいぶ早い。

順調にいけば、体力をある程度温存したまま、敵の懐に飛び込むことも不可能では無いだろう。

敵の動きが妙に鈍い今が好機だ。

そして、如何に最新兵器を備えていたとしても、メガフロートにまで辿り着いてしまえば、もはや敵では無い。

一気に蹂躙して、全てを終わらせるだけである。

海底近くを、滑るように泳ぐ。体がとても軽くて、水の抵抗は殆ど苦にならなかった。だが、何か妙な違和感というか、不快感がある。

「やはり、見られている気がする……」

水面に出る直前、ふと何気なく、海底を見た。

絶句したのは、其処にあるものを見てしまったからである。

無数の、目。

海底の岩盤には、雛理を見る、膨大な数の目が張り付いていた。

思わず息を吐き出してしまう。追いついてきたジャージ先生が、雛理を抱えて、水面に出る。

咳き込んで、飲んでしまった海水をはき出す。

「み、見ましたか、今の」

「何が?」

「海底に無数にあった目です」

「ああ、それなら最初からだよ。 どうしたの、今更」

顔色一つ変えずに、ジャージ先生が言うのを聞いて。雛理は、オンカヌシになってからはじめて、ぞっとした。

やはり、既に二人とも。

人間では無くなってしまっている。

そしてその度合いは、カムイと融合の度が強いジャージ先生にこそ、強烈に現れているのだ。

「あの目は、何ですか」

「ううん、何だろう。 私の方では力は感じないよ。 そうなると、オンカヌシじゃ無いのかな」

「……」

カムイに聞かされたオンカヌシの話。

森を支配するための、人間による呪い。カムイによる泥洗は此処までは来ていなかったが、オンカヌシの呪いは違ったという事か。

幾万に達する悲劇と、それによる憎悪。

海底にまで根を張っているとは。恐ろしいほどまでの浸食力である。咳払いすると、ジャージ先生に応える。

「オンカヌシだと思う?」

「おそらくは」

「それなら、利用できるんじゃあないのかな。 今は、猫の手でも借りたい時なんでしょう?」

ジャージ先生が、やはり何ら悪意の無い顔で、そう言う。

ため息を零したくなる。

そして、気付く。

もっともだと思っている自分が、確かにいる事に。

今は、戦術を選んでいる場合では無い。オンカヌシの中核になっているという強力なアドバンテージがあるのだ。

それを活用しなければ、平坂を葬ることは不可能だろう。たとえ、敵の組織に、混乱が見えるとしても、だ。

しばらく躊躇はした。

だが、再び潜る。

海底近くまで潜ると、岩盤に触れる。殆ど、それと同時だった。

無数のアンボイナが、一斉に此方を向く。

貝類らしく緩慢に、だが。確実に、雛理の方を見て、向きを変えはじめたのである。海底にいる大量のアンボイナが、規則性を持って動く様子は、まるで砂鉄に磁石を近づけたような光景となった。

この辺りの海底は、水深百メートルに満たない大陸棚の上だ。だからかろうじて光は届いている。

だが、それが故に。

このおぞましい光景は、むしろ鮮烈に、雛理の意識に割り込んでくる。

「みつけた」

「みつけた」

「ああ、オンカヌシ様」

「我々をお救いください。 永遠に続くこの地獄から、我々を引き上げてください」

雛理と、名前を呼ぶ声もあった。

ああ。殺された一族達の姿も、意識の中に割り込んできている。

手を引っ張られ、気付く。ジャージ先生が、側まで降りてきていた。周囲の岩盤には、無数の目。

この辺りの岩盤は、既にオンカヌシの侵食を受けているのだ。

そしてアンボイナは。

どういうわけか、その侵食に、強く影響を受けているのだろう。おぞましいと思うのだが、そうではないと感じる心も強い。

岩盤が、盛り上がりはじめた。

岩の彼方此方に亀裂が走り、泡が吹き上がってくる。形を為そうとしているのだろうか。徐々に、おぞましい音と共に、周囲の岩盤全てが揺れる。

ぴんと来る。

泥ゾンビか。

そういえば、あのおぞましき現象も、オンカヌシで説明がつく。あれはオンカヌシの構成要素に、無理矢理泥で形を与えたものだったのだろう。

めりめりと音を立てながら、岩盤がぐちゃぐちゃに崩壊していく。

恐らくこれを、新田は意図的に引き起こしていたのだろう。オンカヌシの中核に最初になったあの異常科学者は、すぐに存在の構成要素を理解したのだ。だから、これだけのことが、できた。

雛理は、首を横に振る。

今、此処で泥ゾンビを出しても、意味が無い。

もしするとしたら。

ジャージ先生を促して、再び泳ぎはじめる。

海底の異変は、雛理についてくるように、起こり続けていた。

 

偵察ヘリが、追撃中の敵二人を見失った。

オペレータールームで、黒鵜はその報告を聞き、すぐに情報を整理するように指示。出撃準備を終えているコブラの方に向かう。

そろそろ、黒鵜も愛機であるアパッチに乗りたいところだ。

まだ肩の怪我は治っていないが、それでも操縦くらいならできる。いつもほどでは無いが、それなりには戦えるだろう。

だが、その気持ちはぐっと押し込める。アパッチについては、有効な使い道があるのだから。

オペレーターが、画像を出してくる。

筏から海に飛び込む二人が映っていた。

筏を使っていたのは、体力の消耗を抑えるため。つまり、此処からは生身で泳いで、此方に来ると言うことだ。

当然のことながら、方針を切り替えたという事は、此方の待ち伏せを警戒しての事とみて良いだろう。

もしもメガフロートに乗り込まれたら、確実に皆殺しにされる。人間が持ち運べるような軽火器で対処できる相手ではない。

巡洋艦に、一度移る。

巡洋艦の方でも、メガフロート同様、不安が広がっているのが見て取れた。ただし、兵士達の士気は高い。

艦長と軽く挨拶してから、作戦について告げる。

「なるほど、我々が中核になって、敵の追撃を阻止する、と」

「不満も大きいだろう。 だから、私が此処を起点にして指揮を執る」

「分かりました。 それで、具体的にどうします」

巡洋艦を動かしている部下達の内、士官を集めて作戦を説明。

敵は機動戦に移行したが、待ち伏せについては、充分にまだ機能する。現時点で研究は凍結しているも同然で、今後は進展の可能性も無い。

そこで、奇策が生きてくるわけだ。

「なるほど、この策であれば、確かに……」

「しかし、よろしいのですか。 コスト的な問題で、相当に甚大な被害を受けますが」

「平坂司令が失踪したことは知っているだろう」

皆を見回して、黒鵜は告げる。

既に、この組織には牽引役がいないのだ。もしやと思い、外と連絡も取ったのだが、現れていないという。

それだけではない。

カムイ研究を牽引していた岸田も、姿を消している。

「つまり、我々がするべき事は、生き残るべく全力を尽くす、という事だ。 後方からは戦艦が迫っているに等しい。 単純に攻撃した位では、拉致があかないだろう。 だから、思い切った策を取る」

「機動戦を仕掛けられ、いつ攻撃を受けるか分からないという不安を味わい続けるよりは、その方がマシだと」

「そう言うことだ」

型式が古いとは言え、この船も可能な限りの改装がされており、ソナーも搭載している。かって潜水艦を探すのは駆逐艦の仕事だったが、この巡洋艦には、最低限の設備が積み込まれていた。

流石に米軍の船のように、イージスシステムと連動するほどでは無いが、それでも敵の接近くらいは察知できるだろう。

「分かりました。 無理の無い作戦だとは思います。 ただ、巡洋艦の危険が増すようですが」

「だから私が陣頭指揮を執る。 君は輸送ヘリを使った作戦の方を頼む」

「直ちに」

部下達が散る。

こっちはメガフロートにいた方とは違い、平坂の部下の中でも、武闘派が揃っている。だから、戦闘が始まると、生き生きする者が多い。日本人だけでは無く、黒鵜と同じように戦場を渡り歩いてきた者や、最貧国で兵士として生きてきた者も少なくない。

逆に言えば、弱気はすぐに見抜かれ、そして舐められる。

甲板に出ると、気付く。

雲の流れが、妙に速くなっている。

泥洗を行ったときも、そうだった。もの凄く嫌な予感がする。

斑目島からは、もう相当に離れている。おぞましい障壁も、まもなく消えると聞かされている。

もっとも、消えるより、あの二人が追いついてくる方が先だろう。

だから、最後の決戦を挑むべく、準備を整えているのだが。

やはり決戦を止めた方が良いのでは無いのか。今からでも、対話の手段は無いのだろうか。

悩む黒鵜とは裏腹に。

既に、巡洋艦は戦闘準備を終え、動き出していた。

 

2、決戦と死線

 

海上に顔を出した雛理は、見つける。

メガフロートだ。

非常に巨大で、一辺は一キロくらいはありそうだ。文字通り、移動する島なのである。ただし、戦闘に耐えうる存在では無いだろうとも思った。過剰なほどに備えられている対空火器は、いずれも最後の防衛線という感じだ。

今の時代、イージスシステムと連動した、大規模な防衛網が、海上戦では一般的になっている。

単独の空母が守れる火力は、たかが知れているのだ。

だから多くの船を周囲に配置して、敵の飽和攻撃に対処する。

さらにいえば、現在は火力過剰の時代だ。防御力も近年は見直されてきているが、それでも破壊力の方が断然上回っている。

勿論、見つかったら終わりという前提で、機動力にのみ力を注ぐ方法もある。

だがこのメガフロートは、ステルス性という点でも、機動力という点でも、問題だらけに思えた。

複数のスクリューが廻って、メガフロートを動かし続けている。

移動速度は微々たるものだ。

海流もさほど強くない。スクリューは、周辺の海流を全て集める仕組みになっているのだが、さほど強烈な吸引力は感じない。雛理が人間のままであったとしても、充分に逃れることができるだろう。

手招きして、ジャージ先生を呼ぶ。

彼女は近づくと、船を見上げて、怪訝そうに小首をかしげた。

「カムイはいるけれど、あまり数は多くないね」

「危険が予想されるのですから、無理も無い話です。 輸送ヘリを使って、動かしたのでしょう」

「ん……そうじゃなくて。 何だか、違和感がある」

人型カムイは、何も口を出してこない。

雛理は少し距離を置くと、一人だけ海底に向けて潜った。海底の岩盤では、激しい変動が続いている。

何か不審があるのなら、なおさらだ。

まずいきなり踏み込むのでは無く、仕える駒を使用する。

どうすればいいのかは、何となく分かる。

海底の近くで、思念を送る。出てこい。そして、私のために働け。しばらく念じていると、滅茶苦茶に動いていた岩盤が、規則的になってきた。

新田はあれほど巧みに動かしていたが、それは恐らく、自身がオンカヌシと雛理とは違う意味で一体化していたからだろう。

ほどなく、岩盤から、土の塊が剥離して、海上に上がり始める。

それは、以前見た泥ゾンビとは、だいぶ形状が違っていた。むしろ、巨大なアンボイナというのが正しい。

全長は軽く五メートルを超えているだろう。

不思議だ。

どうして、オンカヌシは、アンボイナと縁が深いのだろう。

そう考えると、ふと心の中に、解が沸く。それは、きっとオンカヌシの意識とつながっているが故の現象か。アンボイナは、この島に住む人間にとって、最大の災いだった。小型の猪など、島の人達にとってはたいした脅威でも無かったのだ。問題なのは、刺されてしまうとほぼ助からない、恐ろしい貝だった。

だからそれは、いずれオンカヌシの信仰と結びついた。

あらがいようのない恐怖として。

やがて、世界中のどこででも行われていた、人間が森を支配するための術式がこの島でも使われたことで、本当にアンボイナは、オンカヌシに汚染されていった。存在そのものが、オンカヌシと一体化していったのだ。

だからこそ、泥洗の時には、最も強烈な拒絶反応を起こした。

新田も或いは、この島のアンボイナを通じて、精神汚染を起こしていたのかも知れない。他の島でアンボイナを研究していたら、世間に不満を抱えながらも、変わり者の学者で終わっていた可能性が高かった。

それが、平坂の組織と関係があるような、邪悪な軍産複合体と連合したりしたのには、怨念によって憎悪と悪い意味での知恵が回るようになっていたのが、原因の一つだったのだろう。

ふと、我に返る。

巨大アンボイナは、次々と海上に浮かび上がってくる。

よく見るとそれは岩盤が溶け、砕け、そして再構成されてできたものなのだった。泥でできた殺人貝は、海上を滑るように泳いで、メガフロートにとりつく。

ジャージ先生を促して、メガフロートから離れた。

まずはあれらを送り込んで、様子を見よう。そうつげ、距離を取ろうとした矢先だった。

不意に飛来した小型のミサイルが、泥アンボイナを木っ端みじんに吹き飛ばす。

あれは、ハリアーに搭載されているものか。

だが、待ち伏せは、想定の範囲内だ。次々に海上に浮上してくるアンボイナは、続いて現れたハリヤーによる機銃掃射でかなりの数が砕かれたが、別に気にするでも無く、どんどんメガフロートに上がっていく。

もう少し離れた方が良いだろう。そう思った雛理は、ジャージ先生を促して、一旦潜った。

あまり離れすぎると、泥アンボイナ達が、恐らく雛理の言うことを聞かなくなる。正確には、命令が分からなくなって、その場で右往左往しだしてしまう。それでは、強行偵察の意味が無い。

これも何となく頭に浮かんでくるのだが、泥アンボイナが操作を受け付けるのは、せいぜい百メートル内だろう。

新田はもっとずっと遠くから泥ゾンビを操作していたが、それは奴がオンカヌシともっと違う形で融合していたからだ。

雛理はオンカヌシを体の中に宿してはいるが、その力を自在に引き出すという点では、新田に遠く及んでいない。

ただし、正気を保っているという大きな利点がある。

それも、少しずつ自信がなくなってきてはいるが。ともかく、今は間だ、思考がある程度正常に働いていた。

海に潜ると、海底の岩盤がどれだけ異常な状態になっているかが、一目で分かった。

まるで生き物の胃袋のように蠢きながら、次々と泥アンボイナをはき出している。一つ一つの大きさも、なかなか尋常では無い。

その気になれば、鯨より大きな泥アンボイナを、作り出せるかも知れない。

今はその意味が無い。

数を使って、攻めこむしか無い。

百メートルギリギリまで離れると、其処から、アンボイナ達の動きをうかがう。ハリアーは一度海上を旋回した後、距離を取ったらしく、姿が見えない。どういう意図の攻撃なのかがよく分からない。

此方の戦力をはかるにしては、妙に中途半端だ。

だが、罠があっても対応できるように、遠隔操作での攻撃を続けているのである。

泥アンボイナの一体が、ついに甲板に這い上がった。

意識を集中して、視界をつなげる。

甲板上に人間はいない。

輸送ヘリの類も、見当たらない。

此方が機動戦に切り替えた辺りで、恐らく撤退に移ったか。だが、研究成果まで持ち出す時間は無かったはずだ。

続々と泥アンボイナが、海上に上がる。

ゆっくり貝類独特の動きで進みながら、周囲を探索する。プレハブの建物は、そのまま押し潰した。

「やはり、誰もいないようですね」

「何だか、嫌な予感がする」

「カムイの反応は」

「メガフロートの、端の方に集められているみたいだよ」

ならば、それは最後だ。

数に物を言わせて、徹底的に、メガフロートを調べていく。爆発物の類は存在していない。

上陸して調べるべきか。

そう思ったが、どうも気が進まない。

今のジャージ先生の勘は、人間が口にする勘とは根本的に意味が違う。カムイという人外の存在が融合した上で、口にしている危険回避能力の一翼なのだ。ならば、下手に近づかず、遠くからじっくり調べた方が良い。

また、ジャージ先生を促して、移動する。

まだまだ、まだまだオンカヌシのしもべである、泥アンボイナは浮かび上がってくる。

 

ハリアーは攻撃すると見せかけて、探査用の小型ソナーを投下した。それにより、敵の位置は大体分かるようになった。

黒鵜は腕組みする。

以前の待ち伏せに懲りたからか、敵はメガフロートに上がってこない。そればかりか、こうしている間にも移動を繰り返し、メガフロートの上に泥アンボイナを這い上がらせて、様子をうかがっているようだ。

実際問題、研究成果を全て持ち出すことはできなかった。

平坂の事だから、黒鵜にも知らない隠し球を使っていた可能性はある。実際、主要な部分のデータは、通信でよそに移したという話もしていた。

研究の成果である現物は、平坂にはもう必要ないのかも知れない。

部下達は、全て輸送ヘリに乗せ、退避させている。

ただし、まだこの海域からは出ていない。外の安全が確保できた訳ではないし、何より平坂が残したマニュアルには、しばらくは出るなとあったからだ。

ヘリの燃料にも限界がある。いつまでも、敵に好きなようには、させてはいられないだろう。

巡洋艦の環境にいる黒鵜の元に、部下から連絡が来る。

攻撃準備、万端だと。

もう少し待てと返した後、相手の動きを、慎重に見極める。

やはり、メガフロートから百メートルほどの円周上を、移動している。つまり、泥アンボイナを操作できる距離が、それだと言うことだ。

新田に比べると、若干操作能力が落ちるようだ。

それでも、あれだけの怪物を操作しているのだ。侮れる存在ではないが。

「仕掛けるべきでは」

「……そうだな」

艦長に促され、鷹揚に黒鵜は応えた。

部下達の盾として、最後まで残る決意は、とうにできている。だが、無駄に命を捨てる気は無い。

カムイもオンカヌシも、はっきり言って底が見えない。

あれだけの機雷を投入しての爆破でも、死ななかった驚異的な生命体である。弱っているのも確認はできているが、もう一つ、押し出すための決定打が欲しいのだ。

艦長が、二度咳払いした。

早く指示をくれと、促してきているのだ。

黒鵜としても、部下の不安は、すぐにでも取り除いてやりたい。だが、急いては事をし損じる。

相手は文字通りの神だ。

どれだけ慎重に動いても、しすぎると言うことは無いだろう。

既にメガフロートの上には、百を超える巨大泥アンボイナが蠢いている。構造物を片っ端から踏みにじって廻っているそれらに、知性は感じない。

むしろ、仕掛けてくるのを、待っているように思える。

オンカヌシが、あのアンボイナの群れと、感覚を共有している可能性も高い。腕組みして考え込んでいた黒鵜の携帯が鳴った。

開いてみて、絶句する。

電話を掛けてきたのは、平坂だったのだ。

「無事かね」

「どこにいるのです。 今、メガフロートにカムイとオンカヌシが攻撃を仕掛けてきている所です。 戻れるのなら、すぐに戻ってください!」

思わず感情的に声を張り上げてしまった。

だが、平坂はくつくつと笑うばかりである。それどころか、電話の先には、もう一つの声があった。

「黒鵜ちゃん、ボクだよー」

「貴様! 何をしている!」

「大きな声を出さなくても聞こえるよ。 黒鵜ちゃんも、人型カムイの細胞を注入していれば良かったのに」

「大きなお世話だ!」

平坂に代われと叫ぶと、笑いながら電話を替わる。苛立ちの中で、どうしてか、岸田の声が遠いような気はしたが、今はそれを気にしている余裕が無い。

不快感が、限界を超えそうだ。

「それで、何故此処を離れたのです」

「カムイの力を手に入れて、分かったことがある。 それは、このまま外に出ても、何ら意味が無いと言うことだ」

「なん……ですって!?」

「詳しい話は後でするが、要するにオンカヌシは世界中の文明という文明の地下に潜んでいて、地球の全ての地下を支配していると言ってもいい。 一見するとカムイは強力に見えるが、実体は僻地にまで追いやられた負け犬だった、という事だ」

意味が分からない。

カムイとオンカヌシという神の内、実はオンカヌシはマイナーでは無く、全世界を網羅している存在だという事は、何となく理解できた。

だが、それ以降の、平坂の行動が理解できないのだ。

何故、不意に失踪した。

多くの部下が、まだ残っているのに。

黒鵜の忠誠心は、そんな男に捧げられていたのでは無い。

「すぐにお戻りください。 今、かなり厳しい状況が続いています」

「それはできない」

「何故です!」

「私はこれから、斑目島と一体化するべく、オンカヌシの中核を叩く。 正確には、カムイとオンカヌシの力を、同時に体の中に取り込む」

何だそれは。

平坂は、本当に神か魔王にでもなるつもりなのか。

黒鵜は、指が震えるのを感じた。本物の狂気に直面すると、歴戦の戦士でも怯えることがある。

黒鵜だって、怖い者は怖い。

平坂は、どれだけ狂気を孕んでいたとしても、それは理性により制御されていた。

今の、黒鵜の主君は違う。

完全に、頭のネジが飛んでいる。それも一本や二本では無い。頭のリミッターが、ことごとく解除されていると見た方が良いかもしれない。

震えが来る。

「恐らく、メガフロートに攻撃をしてきているカムイとオンカヌシは、まもなく私に気付いて、反転する。 私を止めなければ、本当に世界が終焉を迎えると、思わせるからな」

「……」

「君はしばらく、そこで敵の足止めをしてくれたまえ。 一秒でも長く足止めできれば、それでいい」

通話は、一方的に切れた。

思わず携帯をへし折りたくなったが、我慢する。だが、ぎりぎりと奥歯を噛む音が、露骨に側に立つ艦長を怯えさせていた。

「な、何があったのです……」

「平坂様からの連絡だ。 一秒でも長く、カムイとオンカヌシを足止めするように、との事だ」

頭のネジが飛んでいるとは言え、平坂は平坂だ。

部下を捨て駒にするようなことは、今までも一度も無かった。どんな作戦でも、犠牲を最小限にするよう、行動していた。

ただの悪人だったら、黒鵜も此処までの忠誠を持たなかっただろう。

「アレを見てください!」

不意に、オペレーターが叫ぶ。

メガフロートを我が物顔に蹂躙していたアンボイナ達が、一斉に震え、崩れはじめたのである。

部下達が歓声を上げる。

平坂がやったのは、間違いない。だが、どうやって。

オンカヌシを支配すると言っていた。まさか、あの黒い泥に覆われつつある斑目島で、何かしているのか。

分からない。

だが、一つ、やらなければならないことがある。

「敵の混乱に乗じて、反撃を開始する!」

巡洋艦の速射砲が、一斉に的を絞る。

同時に、ミサイル発射口が、リズミカルな音を立てて全て開いた。

「攻撃、何時でも開始できます!」

「まずは上空から気化爆弾を投下! 後は飽和攻撃を仕掛け、可能な限りの打撃を敵に与える!」

「メガフロートは如何しますか」

「多少の損害は構わん! 撃って撃って撃ちまくれ!」

艦長が命令を下し、攻撃が開始される。

膨大な火力が、海の一点を撃ち抜くべく、一斉に発射された。そして、時ならぬ花火のように、閃光が海を漂白した。

 

おかしい。

メガフロートに、平坂がいるとは思えない。ヘリで逃げたのだろうか。それにしては、用意が悪い。

数体の泥アンボイナに見はらせているのだが、メガフロートの一角には、明らかにカムイが捕縛されている。それも少なからぬ数だ。

泥ゾンビに襲われたときも、重要な証拠類は殆ど残さなかったあの平坂が。こんなに露骨に、慌ただしく逃げた跡を晒しているのである。

おかしな事は、他にもまだある。

混乱の跡が、彼方此方に見て取れるのに。内紛が起きた形跡が無い。ある一点から、急に秩序を取り戻して、逃げたようなのだ。

逃げたとしたら、輸送ヘリで一斉に安全圏に逃れたのだろうか。それにしては、大事な研究成果を残しているのは何故だ。

電子データは退避できたかも知れない。しかし、スポンサーに売り込むには、カムイの現物は重要なはずなのに。

ジャージ先生に話をしよう。そう思った、その瞬間だった。

泥アンボイナ達が、一斉に制御を受け付けなくなった。

何かあった。

そう思った時には、雛理はジャージ先生の頭を掴んで、一気に海深くに潜行していた。それだけが助かる術だと思ったからである。

案の定。

四秒後に、後背から、とんでも無い衝撃波が来た。

気化爆弾。

核兵器の次に破壊力が大きいと言われる、強力な兵器である。森などを一気に薙ぎ払うために使われることも多いのだが、実戦投入すればこの通り。

少し前から、妙な影がちらついていると思ったのである。

あれは、気化爆弾を投下するタイミングを計っていた、ヘリか何かだったのか。

同時に、四方八方から、凄まじい衝撃波の乱流が襲ってくる。海底近くにいても、全身を何度も張り倒されたかのような打撃が連続した。

腕が、足が、引きちぎられるかのようだ。

人間だったら何遍死んでいるか分からない。海底に、回転しながら激しく叩き付けられた。

思わず、息を吐き出してしまう。

だが、海面に上がるのは、文字通りの自殺行為。

あれだけの火力だ。メガフロートをそのまま囮にしたとみて良いだろう。連中も、帰る家が無くなるのでは無いのか。

しかし、解せないことが二つある。

いきなりアンボイナが制御できなくなったこと。

もう一つは、不意に大胆な攻勢に出た理由である。今まで、あれだけ臆病にされるがままになっていたのに。

特にアンボイナの、急な制御喪失は痛い。今回、こういった攻撃があった場合、盾にして使おうと思っていたのだ。

それがいきなり消えて無くなったのだ。誤算は大きかった。

勿論、使えるかどうか、確認の意味での威力偵察、という意味もあった。最悪の結果を招いてしまったが。

手を引かれる。

ジャージ先生だが、表情からして多分カムイだ。彼女の方が、ダメージという点では余裕がある様子だ。海底すれすれに泳いで行くように促される。

目の前が、何度も真っ暗になった。上ではまだ砲撃が続いている。火力が凄まじすぎて、時々岩盤に直接衝撃波が届いているようだ。

その度に、まるで洗濯機に放り込まれたハンカチのように翻弄され、高速で流れてきた岩のかけらに体を傷つけられる。

だが、まだ意識はある。

海面に出た。

メガフロートが、半壊しているのが見えた。炎上し、未だに煙が上がっている。さっきの破壊の規模から考えて、当然だろう。派手にやったものだ。何度も呼吸をする。敵も一度、攻撃を取りやめたらしい。

全身の痛みが酷い。

この間、機雷による一斉爆破を受けたときよりも、恐らく酷い打撃を受けているとみて良い。

左足の感覚が無い。

千切れたかも知れない。

側を見ると、顔中血だらけの状態で、ジャージ先生が苦笑いしていた。カムイに代わったのは一瞬だけだったらしい。

「もう少し近づいてたら、多分木っ端みじんだったね」

「……」

声を出そうとして、失敗する。

喉をやられているらしい。何度か咳き込んだ後、目をつぶって、回復に集中して、愕然とした。

あまり、考えたくないレベルで、全身を傷つけられていた。

回復に集中しても、まともに動けるようになるまで、二日くらいはかかりそうである。本当に、後一歩踏み込んだら、やられていただろう。

無言で、離れるように促す。

頷くと、ジャージ先生は、雛理を抱えるようにして、潜った。

海底近くまで潜る。

岩盤に無数に浮かんでいた目が、消えている。あの、岩盤の、蠕動のような異常な動きも、納まっていた。

かといって、オンカヌシの力が消えたとは思わない。

消えていたら、とっくの昔に死んでいるだろう。

追撃を受けると、厄介だ。急いで此処を離れるべきだ。ジャージ先生が、海中で口をぱくぱく動かしている。

唇はかろうじて読み取れたが。頷くことしかできなかった。

三度目に海上に上がった時だろうか。

ヘリのロータ音が聞こえた。

民間軍事会社に入って、最初に戦場に出たときのことを思い出す。攻撃ヘリに出会ったら、とにかく身を隠せ。

勿論撃墜は不可能では無いが、不可能に近い。

地上兵機にとって、攻撃ヘリは天敵だ。特に歩兵にとっては、ライオンに出会ってしまったのと同じだと思え。

攻撃機が来たら、その時は死を覚悟しろ。

そう言っていた教官自身が、敵軍の攻撃ヘリの機関砲によって、木っ端みじんになって死んだのだ。

早く逃げて。

そう言おうとして、まだ喉がやられていることに気付く。無言で、ジャージ先生は、雛理を抱えるようにして潜った。

今まで、ずっとジャージ先生を守るようにしてきたのに。

今度は、雛理が一方的に助けられていた。

それほど負傷が酷いのだから、仕方が無い。それは分かっている。だが、情けない話である事に、変わりは無かった。

海底の近くにまで到達すると、其処から横に、一気に加速する。

数百メートルは距離を稼いだ。

おもむろに海上に上がろうと思った瞬間、巨大な魚影が近づいてくるのが見えた。ホオジロザメだ。

考えて見れば、あれだけ血の臭いを撒いてきたのだ。

寄ってきても不思議では無い。むしろ、今まで寄ってこなかったことが、幸運なくらいだろう。

ジャージ先生も、すぐに気付く。

そして、かぶりついてきたホオジロザメに、拳を一発くれて、追い払った。とんでも無く強烈な拳をもらい、三メートルほどあったホオジロザメは、驚いて逃走に掛かる。だが、周囲には、露骨にサメの姿が見え始めている。

筏は、まだ無事だろうが、彼処まで泳ぎ付けるか。

冷静に、筏から離れた時間と、海流を計算。二人とも視力は人間離れしているから、見つけることさえできれば、一休みできるはずだ。

どぼんと、何かが海中に投下される音。

ソナーだと気付いたときには、既に遅かった。

 

一瞬だけ、コブラが、二人らしき影を捕らえたと報告が入る。黒鵜は頷くと、輸送ヘリをそちらに向かわせた。

ソナーを落とさせる。

遠隔式のものだ。海中に超音波を発し、その反射を見て潜水艦の存在を探知する。近年のものは精度が上がっていて、海中にいる生物もあらかた見つけ出すことが可能だ。ましてや今投下したのは、米軍で次期の採用が検討されている、最新鋭のタイプだ。

「分析開始」

「かなりの数のサメがいます。 血の臭いに引き寄せられてきたものと思います」

「二人を探せ」

サメはどうでもよい。

というよりも、サメ如きに、あの二人をどうにかできるとは思えない。相当なダメージを与えた自信はあるが、倒し切れていないという確信もある。

平坂は足止めをしろと言っていたが。

恐らく、それだけでは無理だ。殺すつもりで掛からないと危ない。

「メガフロートに着艦したヘリから連絡です。 カムイは爆発の余波を受け、全滅しています」

「それでいい」

「え?」

「何でも無い。 惜しかったな。 すぐにダメージの復旧に入れ。 巡洋艦は、敵を追撃する! 絶対に逃がすな!」

速射砲を準備させる。

トマホークもだ。

二人を見つけたら、即座に追撃に入る。絶対に逃がすわけにはいかないのだ。

カムイが、元斑目島の村人だと言うことは、気にしない。今更の話だし、むしろようやく死なせてやることができたと思うくらいだ。

「発見! 二人に間違いありません!」

「よし、海上に出てきた瞬間を狙え」

「速射砲、準備! 効力射で仕留める!」

巡洋艦が、獰猛なサメのようにUターンを掛ける。最後の最後には、身をもってあの二人を阻止するつもりだ。

もはや意地になっているのかも知れない。

二人を殺して、何の意味があるとも、自問自答してしまう。

それでも、やるしかない。

生き残るためには、もう路は、あまり残されていない。

「海上に上がるのを確認!」

「よし、撃て!」

巡洋艦の速射砲が、乱射される。

かっての戦闘艦の大砲は、一つずつの砲塔に、複数の砲がついているのが普通だった。現在は砲塔ごとに砲が一つで、ただし速射力がぐっと上がっているのがベーシックになっている。

命中精度も破壊力も、二次大戦の頃とは比較にならないし、何より発見した方が勝ちという現在の戦争では、それで正しいのだ。

「弾種炸裂弾! 効力射開始!」

「効力射開始!」

腹に響くような射撃音。

艦橋にいても、此処が戦場だと言うことがよく分かる。黒鵜は腕組みしたまましばらく戦況を見ていたが、部下に連絡。

「どうだ、状況は」

「再び潜りました。 直撃はしていないようですが、無傷でもない様子です」

「よし。 また数百メートル潜って、上がってくるはずだ。 周囲を偵察して……」

モニタの一つが砂嵐になる。

偵察ヘリが潰されたらしい。どうやったのかは分からない。映像を巻き戻しても、カメラの死角からやられたらしいということしか分からなかった。

もう一つ、続けざまに偵察ヘリが落とされる。

付近を飛行しているコブラに、高度を上げるように指示。間違いなく、敵の反撃だ。互いの死角を補うように偵察ヘリを移動させていると、また一機やられた。無人機とはいえ、立て続けにやられると面白くない。

まさか、海中からの攻撃か。

「対潜弾準備できました!」

「何かしらの手段で海中から攻撃しているとみるべきです。 対潜弾で致命傷を与えてやりましょう」

「待て」

再び、偵察ヘリが落とされる。

コブラは更に高度を上げた。互いの死角をカバーするように動かしている偵察ヘリを、どうやって。

それを見極めるまでは、仕掛けるのは危ない。

どうやっている。

カムイの力を使って、水を高速で撃ちだしているのか。しかし、それにしては破壊力が大きい。

やはり何かしらの質量弾を使っているとみるべきだろう。

つまり、短時間浮上して、何かを投げつけて、また潜る、という事か。

相手は水中を数百メートルずつ移動しているような化け物だ。水泳のトップアスリートでも、水中で此処までの機動力は発揮できないだろう。筋力も尋常では無いし、何かを投擲してきたら、致命的な破壊力を持つとみて良い。

水の盾を利用しての、ヒットアンドアウェイと言うわけだ。

だが、本当にそうか。

何か目的があって、こうしているのでは無いのか。

敵の攻撃が止む。

部下達が、疑心暗鬼の声を掛け合う中、黒鵜は違和感を感じて、顎を撫でた。何かがおかしい。

そして、気付く。

「しまった……」

初歩的な陽動だ。

これで此方は、互いに身を守るように索敵範囲を狭め、なおかつアタッカーであるコブラは攻撃精度が落ちるように高空に出てしまった。

つまり、これは逃げるための布石。

既に相手は、攻撃圏内を離脱しているとみて良いだろう。

更に言えば、追撃も難しい。

偵察ヘリをこれだけの高精度で落とせる相手である。下手な追跡を掛ければ、手痛い反撃を喰らって、打撃を増やすばかりだ。

それに対して此方は、拠点であるメガフロートを半壊させ、商品であるカムイを失っている。カムイに関しては、黒鵜は失ってしまった方が良いだろうと思っているのだが、平坂はどう考えるか。

それに、巡洋艦やメガフロートに、再接近してきた場合の対策も必要になってくる。

ソナーによる網を張り巡らせているとは言え、それをくぐり抜けてくる可能性も考えなければならないだろう。

平坂は、時間を稼げと言っていた。

時間は、稼いだ。

逃げられたとは言え、相手は手負いだ。恐らく、今だったら、通常戦力で充分に相手ができるだろう。

しかし、平坂は、これからどうするつもりなのだ。

世界中を泥洗で破滅させるという狂気じみた計画を、本気で実施するのか。

斑目島に戻って、カムイとオンカヌシの両方の力を得ると言っていたが。それによって、元から破綻しているこの計画が、少しはマシになるのか。

「敵ロスト。 追撃を仕掛けますか」

「いや、まずは体勢を立て直す。 敵の奇襲を防ぎつつ、メガフロートを補修。 ヘリ空母としては活用できるようにしろ」

「分かりました」

メガフロートの内部に蓄えられている燃料にまでは、ダメージは行っていない。先ほどの総攻撃でも、燃料が格納されている区画にまではダメージが通っていないことは、既に確認済みである。

問題は、これからどうするか、だ。

先ほど連絡があった平坂の番号に掛けてみるが、返事は無い。

舌打ちして切ると、不意に向こうから掛けてきた。

「成果はどうかね」

「ダメージは与えました。 身動きは取れないはずです」

「上等だ。 それでは、君はメガフロート共々、斑目島に戻ってきたまえ」

「は……?」

沖縄に行くのでは無かったのか。

それを言うと、含み笑いを平坂が漏らす。

「行くとも。 沖縄に」

「しかし、斑目島に来いというのは」

「だから、斑目島を移動させる」

とうとう、平坂はおかしくなったのか。

電話を切ろうとした黒鵜に、平坂は、笑いながら言った。

「コブラを一機、斑目島に飛ばしてきたまえ。 それで分かるだろう」

「今は、一刻一秒が大事な……」

「しかし、私がいない今、どうしたらいいのか分からないのではないのかね。 それに君達が攻撃している人型カムイとオンカヌシも、そろそろ気付くはずだよ。 メガフロートには私はおらず、斑目島に戻っているとね」

決戦を行うなら、斑目島と言うことか。

斑目島は、今文字通りの地獄と化しているという。

一体其処では、何が起きているというのか。

島を移動させるというのは、どういう意味なのか。

まさか、本当に平坂が島をどうにかして、動くようにしてしまうのか。

馬鹿馬鹿しいと、言い切れなくなり始める。

泥洗を最初に見た時、その破壊力の凄まじさに、唖然とした。あれを発生させれば、メガロポリスを丸ごと、痕跡を残さずこの世から消し去ることができる。単純な破壊の力としては、核兵器よりも更に上回るだろう。その上クリーンな環境を作り出すのである。

それに、カムイの破壊力も、生物兵器として魅力的だ。それだけではない。スポンサー達がころりと騙されたように、非常識すぎる性能で、歴史を変えるほどの能力をそれぞれに発揮していた。

もしも、その先があるのなら。

島が動いたり、地球が丸ごと改変されたり、してもおかしくは無いのでは無いのか。

考えてはならない領域に踏み込んでいる気がして、黒鵜はぞっとした。

電話を切った後、ずっと考え込んでしまう。

このまま、平坂の命令を無視して、北に進んだ方が良いのでは無いのか。

流石に平坂が飼っている連中も、鎖を持つ手が緩んでいることに気付きはじめているだろう。米軍が動いていれば、むしろ好都合だ。降伏して、全てを説明すれば。死刑になるのは、黒鵜と、幹部達だけで済むかも知れない。

既に、百人以上の虐殺に荷担した身だ。

黒鵜も、自分が助かるなどとは思っていない。

平坂の話をすれば、幹部達は全員がその言葉に従うのは目に見えている。平坂がいなくなっただけで、この右往左往ぶりなのである。もしも平坂が命令をしてくれたと分かれば、彼らはエサを一日与えられなかった飼い犬のように喜び勇み、尻尾を振るどころか腹を見せて媚態を尽くすだろう。

今なら。

北に逃げられる。

恐怖の鎖から、逃れられる。

だが、黒鵜は、決める。

「進路反転。 斑目島に」

「は……」

「なにやら異変が起きて、島が既にどのような有様かも分からない、という事ですが」

「平坂様の命令だ」

様をわざと強く発音する。

それだけで、皆が顔色を変えるのが分かった。

敵に対する狂騒的な戦闘意欲だけでまとまっていた黒鵜の部下達が、再び秩序だった動きを見せ始める。

不平不満を言う者もいるが、それでも即座に南に向かうべく、動き出した。

やはり黒鵜は、犬らしい。

忠義を誓った相手には、逆らえない。戒めることもできるし、諌言も散々してきた。だが、結局の所。

忠義が故に、その道を阻むという事は、ついにできなかった。

「沖縄へ行くというのはどうなりますか」

「よく分からんが、島ごと動くのだそうだ」

「島ごと……」

誰も笑わない。

平坂がそう言った。それだけで、笑いとは無縁の言葉になってしまう。

黒鵜には絶対できない人心掌握。それは、たとえ平坂がこの場にいなくても、有効なのだった。

呪いに近いかも知れない。

だとすれば、最も強力に呪われているのは、自分だろう。

そう黒鵜は自嘲していた。

 

3、闇から姿を見せるもの

 

オンカヌシの力が、完全に消えたわけでは無い。

海上に何度目かの浮上を果たした雛理は、それを悟っていた。

先ほどから何度か偵察ヘリを落としたが、それは海中で手元に集めた、泥の弾を用いての投擲だ。

普通だったらそんな芸当はできない。

だが、泥アンボイナを多数自律行動させるような真似はできなくても、似たような事は無理かと思い、試行錯誤している内に出来るようになった。

敵は、既に此方が安全圏に逃れたことに、気付いているだろう。指揮を執っているのは、恐らくあの黒鵜だ。それくらいはできて当然である。

逆に言うと、敵の能力に対する信頼があるから、雛理は安心して行動できる。黒鵜だったら、逆撃を警戒して、下手な追撃はしてこないだろう。

すぐ側に、ジャージ先生が浮上してきた。

彼女も限界が近いようだ。

さっきの速射砲の攻撃で、二人とも少なからず体を損傷させられた。既に、人間だったら十回以上は死んでいるほどの傷を受けている。

筏を見つけた。

体を無理矢理、筏の上に押し上げた。手を貸して、ジャージ先生を引っ張り上げる。櫂はそのまま残っていた。

先ほどから、都合七回、サメにちょっかいを出された。

手足には、既にあまり見たくないような傷ができている。血の臭いに敏感なサメが寄って来るのも、当然と言えた。

「これから、どうします」

「メガフロートに、平坂さん、いなかったね」

「それは確定でしょう。 平坂の性格から言って、あの迎撃はあり得ません。 しかも、です」

さっき、遠巻きに確認したのだが。

メガフロートも巡洋艦も、南進を開始しているのだ。

つまり、泥洗で区切られたこの海域を離脱するのを止め、斑目島に戻ろうとしているのである。

更に、ジャージ先生がろくでもない事を言い出す。

「斑目島に、強力なカムイの気配があるよ」

「……海域を離脱した一つとは違う、もう一つの方ですね」

「うん。 それで間違いないと思う」

もしも、いきなりオンカヌシの力が途切れた原因があるとすれば、それだろう。

それに、非常に嫌な予感がする。

斑目島に戻る場合、どうなるか。

平坂が北に逃げた、つまりこの海域を離脱した場合は、致命的だ。奴の組織の末端を潰すために、既に人間を止めたこの体を、さらなる酷使することになるだけでは無い。平坂の事だ、雛理とジャージ先生が此処にいる部下を全滅させる頃には、世界を破滅させる行動に着手しているだろう。

かといって、斑目島を放置した場合はどうなる。

それもまた、とんでも無く嫌な予感がする。

「雛理さん、南へ行こう。 斑目島に戻るの」

「理由を、お聞かせ願えますか」

「平坂さんは、きっと斑目島だよ」

根拠は、というと。

ジャージ先生は、北を指さす。

「あの人達を、捨て駒にするような真似、平坂さんがするとは思えない。 私の中にいるカムイさんを捕まえたときも、平坂さんはあの人なりに紳士的に対応していたし、説得で最後まで心を動かそうとしていたんだよ。 そう言う人が、部下の人達を、捨て駒にするかな」

「感情的には同意しかねます」

しかし、理性的には、確かにそれが正しいと分かる。

平坂の性格的に考えても、あのような作戦を採るとは思えない。かなり敵には混乱があったのだろう。

しかし、その上でも、なお言える。

確かに平坂は、非合法組織の長としては、珍しく部下思いの存在だ。あの堅物そうな黒鵜が全面的な忠誠を誓っているのも、おそらくはそれが原因なのだろう。それに、頭はおかしいが、確かに行動は紳士的だった。会話で物事を解決しようとしている姿勢はあったのだ。

それに、オンカヌシの力が不意に使えなくなった件。

あれは、平坂による援護攻撃だったのでは無いのか。タイミングがあまりにも良すぎた。黒鵜と平坂で、相互に連絡し合っていたとしか思えない。手段については、分からないが。携帯は確か、使えなかったから、無線か何かか。

「それに……このままだと、もう動けなくなっちゃうよ」

「……」

その通りだ。

二人とも、全身の欠損が著しい。人間だったら即刻病院に入れられて、一生障害に苦しむほどのダメージが、全身を覆い尽くしている。

南に、戻るしか無い。

敵の混乱につけ込んで、保有していたカムイは恐らく全てを倒すことができた。敵のメガフロートにも、壊滅的な打撃は与えられた。敵の保有戦力も、だいたい全てを把握できた。

敵が保有している弾薬類も、相当数を消耗させたはずだ。

だが、此方が支払った損害に比べると、まだ小さいように思えてならない。

確かに、平坂がいるとしたら、南だ。

雛理にも、そう思える。

海域を脱出したカムイについては、気になる。だが、それは、もう後に任せるしか無い。

「分かりました。 南へ向かいましょう」

「これで、先手を打てなかったら、もう終わりかな」

「……」

ほぼ確実にそうだろう。

だが、そうだとは、分かっていても言えなかった。ジャージ先生の中にいる人型カムイは、どう思っているのだろう。

どちらにしても、次が決戦になる。

それは確実だった。

 

見えてくる。

斑目島は、既に変わり果てた姿になっていた。

地面の下から噴き出したオンカヌシそのものによって、島全体が真っ黒に染まっていたのである。

旧斑目島の範囲は当然のこと。更に言うと、神林のあった場所は、完全に水没していた。面白い事に、斑目島の大きさは、旧島と変わらなくなっている。おかしな話だが、元の島に戻ったような感触だ。

大きさだけは、だが。

海岸線を廻って、岸に筏を着ける。

チハが、まだ朽ちながらも、其処に残っていた。

地面は、例外なく、どこも真っ黒。

雛理にも分かる。とんでも無いほど、オンカヌシの力の影響が強い。しかし、どうしてなのだろう。

あれほど聞こえてきていた呪詛の声が、殆ど無いのだ。

雛理が、これほど近づいているにもかかわらず。

何かが起きた。

それだけではない。オンカヌシの力を感じない代わりに、雛理にさえ感じ取れるほど、凶悪なカムイの力を感じる。

否、これはカムイの力では無い。

隣で、ジャージ先生が。いや、恐らくカムイの方だ。厳しい表情で、島を見つめていた。やはり雛理と同じく、何かとんでもないものを感じ取っているのだろう。

「平坂だな」

「やはり、そう思いますか」

「何が起きた」

「敵の迷走からして、恐らく平坂は最初、この海域から脱出する予定を立てていたはずで、部下達にもそれを周知していたのでしょう。 しかし何かしらの理由で、やはりこの島に戻ることにした」

何となく、理由が、わかりはじめた。

まず平坂は、知ってしまったのかもしれない。

世界が全て、オンカヌシの同類によって支配されてしまっている事を。

アーニャから聞いた話によると、平坂の配下の岸田という男は、カムイをクローニングする技術まで開発していたと聞く。

ならば、ひょっとして。

平坂は、カムイと化す道を選んだのかも知れない。

それも、人型カムイの要素を取り込んだ可能性が、高い。それで、オンカヌシについて、知り得たのだろうか。

いずれも、仮定を出ない話ばかりだ。

しかし、それらの仮定を前提にすると、話がつながるのである。それも、非常に綺麗な形で、だ。

平坂は、オンカヌシを克服する必要があると考えた。

そうしなければ。自身が考えた未来を、作る事が出来ないから。

この期に及んでも、全く諦める気が無い。これほどの男が、前向きに社会を牽引していたら、どれほど人類の利益になったのだろう。歴史的な英雄と比べても、遜色が無かったに違いない。

だが、人類は、その機会を自ら放擲してしまった。考えられないほどの愚行である。

平坂は、確実に、此処から全人類に対して、考えられないほどのマイナスになる行動を起こすだろう。

しかも、おそらくはだ。

この島は、その平坂に、完全に支配されつつある。

筏から、一歩を踏み出す。

足に激痛が走った。

戻る途中、可能な限り回復はさせて、動けるようにはなった。

途中、捕まえたサメを引っ張り上げて、二人で生のまま食べたのだ。やればできるものだと自嘲しながら。

少しは、おなかにものも入った。

それを使って、肉体の修復は済ませた。ただし、焼け石に水というレベルで、だが。

全身のダメージは、既に回復不可能な段階に近づいている。ひょっとすると、コアが損傷しているかも知れない。

分かっている。

雛理も、既にカムイと同じように、コアを砕かれれば死ぬ身だ。ジャージ先生も、それは同じ。

彼女の怪我も、見るに堪えないほど酷かった。

手を引いて、島に上陸する。

オンカヌシの声が、聞こえる。だが、遠い。

それに、あれほど強烈だった呪詛も、あまり耳には届かない。というよりも、呪詛の声が、感じ取れない。オンカヌシの声は聞こえるのだが、何かが違う。

一歩ごとに、ぬちゃり、ぬちゃりと、音がした。

まるで泥沼に踏み込んだかのようだ。臭気も酷い。あの日のことを思い出す。黒い泥が押し寄せて、黒い雨が降り注いだ、あの日を。

もたついていると、恐らく黒鵜が追いついてくる。

壊れたメガフロートを牽引しながらのはずだし、あの男の性格から言って、まずは補給を済ませる。だから、まだ時間は余裕がある。

しかし、それでも。

急いで平坂を倒さなければ、全てが無に帰す可能性が高い。

地形は変わっていない。

しかし、代わっているものもある。島中に、おぞましい影が蠢いているのだ。

それは、アンボイナ。

本来海の貝の筈なのに。地上を我が物顔に這い回っている。

他の動物は、全く見当たらない。木々は枯れ果て、たまに見かけるのは、動物の死骸だ。それらには、例外なくアンボイナが群がっている。

小さな声が聞こえる。

オンカヌシを構成する、無数の憎悪の主達の声。だが、それにしてはおかしい。やはり、呪詛でも憎悪でも無い。

「今、どちらですか」

「余だが、どうかしたか」

「なら、話が早い。 どう思います、この状況」

「信じがたい話だが、余の力の発露である泥洗が、非常に中途半端な形で、他のものと混ざり合っておるな。 島全体が、おぞましいまでに強烈な力によって侵食され、全てが別になろうとしておるわ」

やはり、そうか。

そしてこのおかしな状況、島が最初に狂ったあの日と、酷似している。いや、それ以上に狂っているとも言える。

あの日も、泥にまみれた海の中で、アンボイナが膨大な数、水を得た魚のように活発に動き回っていた。

「平坂の影響に、間違いなさそうですね」

「ああ、だが解せぬ」

「と、いいますと」

「オンカヌシの力は、前も説明したとおり、森を支配するものだ。 余を殺すための力と言っても良い。 もしも余の力を取り込んだのであれば、何故平坂は、オンカヌシの力と混ざり合うことができている。 二つの力は、水と油に等しいはずだ。 本来は、混ぜた時点で霧散してしまう」

今でも、多少のオンカヌシの力の制御はできる。

自身の身体能力に関しては、あと少し、短時間なら肉弾戦を行えるほどの余力がある。ただし無理をすれば死ぬ。人型カムイに関しても、それは同じだろう。

「それに平坂は、この島を完全に支配して、何をしようとしているかが分からぬ。 奴はもっと世界的な目的のために動いているのでは無いのか。 余には、よう理解できぬのだが」

「いえ、その認識で間違いないです」

「ならば何故だ」

「……」

分からない事が多すぎる。現時点では、平坂がオンカヌシを自ら制御して、途方も無い力を得ているのは理解できた。

オンカヌシの波動は、全体的に分散してしまっている。

かといって、明確にカムイの波動が強い場所があるわけでもない。島に上陸してみて分かったが、どうも島そのものから、平坂の気配があるようなのだ。

人型カムイが、何度か首を横に振る。

平坂の居場所を、精確に特定できない、という意思表示だ。雛理にも、よく分からない。

しばらく、あてもなく周囲を歩き回る。

もたついていると、黒鵜が追いついてくる。だが、焦って陥穽に落ちては意味が無い。もどかしい話だ。

島の地形は、殆ど変わっていない。

人型カムイが、不愉快そうに、周囲を見回した。

「この島で、もっとも業深き場所はどこか」

「業、ですか」

「オンカヌシの力が最も高まる場所だ。 平坂がいるとすれば、ほぼ間違いなくそこであろう」

言われて見れば。

雛理が同じ事をするとしたら、最もオンカヌシの力が強いところを最初に抑える。あまりにも現実離れしていたから、どうしても思い当たらなかった。

「考えられるのは、彼処ですね」

「心当たりがあるか」

「はい」

もしもそう言う観点であれば、間違いない場所がある。

この島唯一の学校だ。

日本においては、学校は怪談のメッカである。理由は幾つかあるが、安い土地の上に作られているからである。

安い土地の中には、曰く付きものや、元が墓地だった場所も珍しくない。

この島でも、それは例外では無かった。

雛理としては、かよう機会がついに来なかった学校だが、あまり良い思い出は無い。一族が迫害され、死んだ後。埋められていた場所だと知っているからだ。

その上、学校を作るときに掘り出された骨は、無縁仏にされるどころか、海に投棄されたと聞いている。

ニエの一族の骨だと、わかりきっていたからだ。

島の秩序を守るために、ニエの一族は犠牲にされ続けた。

その悲劇の象徴があった土地に、島の権力者達は、冒涜するかのような行為を行ったのである。

当然、嘲笑いながら、だ。

人間は、自分を正義と考えたとき、最も醜悪で残虐になる。

相手を悪だと判断したとき、最低限の理性さえ働かなくなる。

傭兵として各地の戦場を見て廻って、よく知ったことだが。故郷に戻ってきても、改めて思い知らされることだ。

寛子の母が、雛理のことをニエと呼んで差別していたが、あれに悪気は無いどころか、自分は正しいと常に思っていた事だろう。悪から理不尽に暴力を振るわれた、悲劇のヒロインだと思い込んでいた可能性も高い。

人間は、そう言う生き物だ。別に特別に醜悪な個体が、この島にひしめいていたわけでは無い。

「此方です、ついてきてください」

「まだ、動けるか」

「かろうじて」

平坂が、どれほどの強さを保持しているかは、はっきりいって分からない。

だが、分かる事もある。

戦い終わった後。二人は、もう余力を残していないだろう。

丘を越えて、学校があった場所を見下ろせる位置に来た。

足を止めた。

人型カムイが言うことは、正しかった。

学校があった場所には、黒いタールのような液体が溜まった、沼のような場所があったのだ。

其処は常に泡立ち、おぞましい臭気を噴き上げていた。

まるで、地獄が実在していたら、こんな場所だとでも言うかのように。

その中央部。

まるでコールタールの上に座っているかのように。スーツを着た男がいた。

携帯とノートPCを同時に操作しているその男は、嫌でも忘れるはずが無い。違う点もある。

背中には、蝙蝠を思わせる、ねじくれた翼がついていた。

更に、振り返った男の額には、第三の目があった。それだけではない。全身の皮膚は薄黒く変色し、背中や脇からは、触手が生えているのだった。既に、人間を止めたという点では、同じか。

「来たか。 予想通りの時間だ」

「平坂……」

「何を驚く。 私も、現在の世界が、オンカヌシと、その同族によって汚染されきっていることには気付いている。 少々方針を変えることになったが、それは仕方が無い事だ」

携帯を閉じる平坂。

気付く。

ノートPCで、誰かと通信していたようだ。テレビ電話のようなサービスかも知れない。上手く使えば、電話越しであれば、その場にもう一人いるように、錯覚させられる。ただし、そんなことをする意味が、雛理には思いつかなかった。

「それで、雛理君。 それに、カムイの化身。 どうするつもりかね」

「決まっています。 貴方を倒します」

「ふむ……」

平坂も、気付いたようだ。

雛理が既に徒手空拳だと言うことに。

デザートイーグルは、あるにはある。だが、もう今の時点では、素手で戦う方がずっとマシだ。

ジャージ先生が、不意に口を開く。

「平坂さん」

「何かね」

「もう、止めようよ。 人が明るい未来を築けるとか、無限の可能性があるとか、そんなことを言う気はないけれど! これ以上、多くの子供達を殺すつもりなら、私は貴方を、殺さざるを得なくなる!」

「それならば、迷うことは無い。 早く私を殺したまえ。 既に私は大勢の「無辜の民」を殺しているし、今後も行動をためらう気は無い」

その声は、ぞっとするほど低く、憎悪に満ちていた。

雛理は気付く。

どうして、オンカヌシを、この男が制御できたのか。

ジャージ先生も、恐らく気付いたのだろう。

「憎悪……。 オンカヌシ達の更に上を行く憎悪を、個人がもてるなんて」

「よく気付いたな。 そうとも。 私がオンカヌシを支配できたのは、彼らの思考を一本化したからだ。 彼らさえ上回る、圧倒的な憎悪によってね」

一気に、タールの沼が沸騰したように見えた。

雛理は息を呑む。

テロリストの中には、世界の仕組みを憎んでいる者も多かった。雛理も、大きな定義で言えば、それは同じだろう。

だが、此処にある憎悪は、根本的に違う。

人間が作った社会どころでは無い。

人間という種族そのものを、自分自身も含めて、徹底的に、完膚無きまでに憎んでいる。オンカヌシから、その波動が感じ取れるのだ。

混乱が続くと、最も過激な思想を持つ存在が、組織のリーダーとして躍り出やすい。それは実例として、雛理も見た事がある。民間軍事会社に所属して、テロ組織と戦って来たからだ。

潰した組織のリーダーには、どうしてこんな阿呆が、というような輩も多かった。

後で調べてみると、過激な思想だけで、のし上がってきた、という事例だった。激しい戦いの中で、有能な同胞がみんな死んでしまい、その結果だったのだ。

平坂の場合は、違う。

有能なリーダーに一本化される前のオンカヌシを、自分で束ねてしまった。

そしてオンカヌシ達も、自分たちを束ね得るリーダーに、驚喜している。これで、復讐を果たせると。

行き場が無い怒りを、ぶつけることができると。

「オンカヌシは、邪神となり得た体だ。 何か特筆すべき魂が存在した場合、それを主軸として、邪神になる。 世界の地下には、こうした自然を支配するために造り出された人工邪神とでも言うべき存在が、いくらでもいた」

「そうだな。 だから人間は、生け贄を捧げて、それを鎮めた」

「そうとも、カムイよ。 やがて邪神達は、自然支配の術式も弱まり、意味も失って、本当の意味で眠るようになった。 生け贄が必要なくなったのは、そのためだ。 生け贄が必要なくなる頃には、人間は自然を本当の意味で支配し、力尽くでねじ伏せることに成功していたからだ」

だが、その結果。

人間は、世界で一番偉い存在だと、自身を錯覚するようになってしまった。

結局人間は、自然を力でねじ伏せることを選んだ種族だ。恐竜も、同じような存在だったという学説を、雛理は聞いたことがある。

奇しくも。

恐竜も、あまりにも最強過ぎるが故に、自然の中では敵対者がいなかった。

平坂の表情は、溶岩のような憎悪に包まれている割には。とても穏やかで、むしろ全てを諦めているかのようだった。

「私が、魔王となろう。 この社会全てを一度灰燼と帰し、人類を全て焼き払って、灰の大地から新しい人類と世界を作ろう。 本来は、私が人であるまま、そうするつもりであったが……」

柔軟に、状況に対応できる男だ。

恐らく、カムイの力を取り込んで、絶望にうちひしがれたはずなのに。即座に、その計画を自分に合わせて調整し、後一歩で成功するところまで持ち直した。

これほどの柔軟な思考。

闇と破壊に染まらなければ、どれだけ人類社会の発展に貢献できたのだろう。

人間は、己の愚かさで。世界史を変えることができたかも知れない逸材を、復讐者に変えてしまったのだ。

「貴方は、悲しそうですね」

「人間という種族が、変わりようがないと、知ってしまったからだろう」

「そうですか」

「はじめようか。 カムイよ、貴方はどうする」

知れたことと、人型カムイは不敵に呟く。

彼女の場合は、結局どうして戦ってくれるのだろう。平坂にコケにされたからだろうか。それとも、ジャージ先生の影響だろうか。

いずれにしても、此処で全ての決着を付ける。

もう、此方にも、逃げる場所など無いのだ。

サバイバルの終着点。

それは、魔王になろうとしている男だった。

平坂は、恐らく万全。ただし、まだオンカヌシを制御できてから、時間が経っていないはず。

対して、此方は二人とも満身創痍。

どうひいき目に見ても、平坂有利。勝つ見込みがあるとすれば。短期決戦に持ち込むしか無い。

戦いは、無言で始まる。

そして、終わりまで。

時間も、掛からなかった。

 

(続)