黄昏の角笛

 

序、最後の対話

 

剣が動き出したらしい。

平坂の元に、その情報が入ったのは。人型カムイを取り逃がしてから、二日後の事である。

平坂が東京に抱えている部下の元に、何名かの武装勢力が踏み込み、発砲。平坂の部下は射殺され、書類などが全て奪われたそうだ。

似たような事件はアメリカ、フランス、イギリスなどでも起きた。

剣が一機に攻勢に出てきたのである。

それだけではない。スポンサーから、問い合わせの連絡が相次いだ。やはり、情報が外部に漏出したのは間違いない。四件目のスポンサーとの電話連絡を終えた平坂は、舌打ちしていた。

「計画を早めなければならないな」

まだ平坂は、ベッドに縛り付けられている状態である。

側に控えている秘書官が、岸田を呼ぼうとしたが、制止。岸田には、人型カムイのクローンを進めさせている。

今は、別の方法を採るべきだった。

「森への呼びかけはさせているか」

「はい。 二機のコブラを飛ばし、拡声器を使って反応を見ていますが……」

「じらしに入ったな」

人型カムイと、あの女傭兵が手を組んだとみて良い。

あの女、長くは保たないように見えたが。それも、当てが外れたか。

外にいる部下達が、連絡してきている。

沖縄の米軍が動きを見せているという。ほぼ間違いなく、此方に対する牽制だ。下手をすると踏み込んでくるかも知れない。

剣が米軍上層部に渡りを付けたのか、或いは。

いずれにしても、まともに米軍が突入してきたら、とても勝ち目は無い。兵力も練度も違いすぎるからだ。スポンサーの内何名かは、まだ抱き込めている。彼らを使って攪乱を進めて行くほか無い。

最終的に、泥洗をするときは、米軍と事を構える可能性もある。

だがその時には、既に戦争がどうのと言う状態では無くなっているのだ。

コーヒーを出させる。

いらだちを抑えるために、カフェインを脳に入れるためだ。しばらくゆっくりコーヒーを味わい、そして連絡を彼方此方に入れた。

加速度的に、状況が悪くなってきている。

平坂が来たのは、それから更に半日後。

顔色は、あまり良くなかった。

「平坂ちゃん。 人型カムイ、クローンの作成そのものは上手く行ったよ」

「何か問題が起きたか」

「見て貰えれば、一番分かると思う」

確か、カムイのクローンは育成も早い。

だが、岸田が言うまま、研究スペースに足を運んだ平坂は、それをみて絶句していた。

培養槽の中、膝を抱えている肉塊。

そう。

それは、人間の形をしていない。

手足らしきものは存在している。だが、頭が無い。大きさは人間の幼児くらいだが、全体的に異常なまでにちぐはぐだった。

「上手く行った、だと……?」

「遺伝子には問題が無いんだよ、ホントだって!」

珍しく慌てた様子で、岸田がまくし立てる。

培養槽は一つでは無い。

円筒形の硝子培養槽は、いずれもが非常な強度を持っている。それが立ち並んでいる様子は、まるで機械の中にでも紛れ込んだかのような錯覚を呼び起こさせる。

いずれの培養槽の中にも、形状がおかしい子供が入っていた。

「どのクローンも、最初はちゃんと手足があるんだ。 形だってしっかりしているんだよ、それなのに、育つとこうなっちゃうんだよ! 例外は一つも無い!」

「どうしてこうなる」

「分からないけれど、マクロファージが食い合ってるのかも知れない」

つまり、体細胞の免疫機構が、異常を起こしているというのか。

中には、骨だけになってしまっているものもある。

凄惨な光景に、思わず平坂も呻いていた。

「こっちも見てくれる、平坂ちゃん」

「まだ何かあるのか」

「うん。 こっちは悪くない情報」

そもそも此処は、巡洋艦が持ってきた物資を使って急あしらえで作った研究スペースだ。輸送ヘリの中で行っていた研究も、全て此処に移してある。メガフロートだからできる離れ業である。

だから、少し揺れる。隣を歩いている秘書官が眉をひそめたのは、平坂の足を心配したのかも知れない。

連れてこられたのは、通常のカムイの研究スペースだ。既に実用化された何体かが、量産されはじめている。

そして、驚くことに。

平坂に、それらは一斉に傅いたのである。

檻越しとはいえ、かなり驚かされる光景であった。

「人型カムイの遺伝子を組み込んでみたんだ。 そうしたら、こんなに従順で、扱いやすくなったんだよ」

「ふむ……」

「戦闘用カムイも、きちんと言うことを聞くよ」

「スポンサーにすぐ何体か送り届けて欲しい。 無能な連中だが、今はまだ彼らの助力が必要だ」

一礼すると、秘書官が研究スペースを出て行く。

岸田は大きくため息をつくと、さっきの、人型カムイの亡骸が無数にある部屋に、平坂を連れ戻した。

「平坂ちゃん、そろそろ潮時なんじゃ無いのかな」

「何を持ってそうだというのかね」

「通常の成体カムイは、ボクでもどうにかできるよ。 あれは動物の域を超えていないからね。 非常識でも。 でも、此奴らは、ちょっとそれどころじゃ無い。 本当に、神様がいるとしたら、ここから先の領域だと思う」

「だから何か」

岸田が青ざめる。

平坂の形相を見てしまったからだろう。

一度顔に手をやって、普段の無表情に直す。岸田は得がたい人材なのだ。怖れさせてはいけない。

「良いかね、岸田博士。 神の領域に踏み込むことができれば、君はまさに科学者として史上初の壮挙を成し遂げることになる」

「壮挙!? う、うん……」

「確かに恐ろしい事かも知れないが、君ならできるはずだ。 忘れたのかね。 学閥がどうの、資金がどうのと寝言を並べ立て、君を大学から追った連中の無能さを。 奴らに対する怒りを」

「忘れてないよ! 今だって夢に見る!」

平坂は岸田の逆鱗のありかを知っている。

今は、それをしっかり利用して、やる気を出させなければならなかった。

「あの無能な学者達がどれだけ集まっても、君と同じ成果は出せないだろう。 君は天才だ。 それは私が認めている。 時間は私が稼ぐ。 さあ、君の手で、神への扉をこじ開けて欲しい」

「分かったよ、平坂ちゃん! 考えて見れば、解決策は幾つでも思いつくからねっ!」

目をきらきら輝かせると、岸田はすぐに作業に戻った。

天才だが、ちぐはぐな男だ。

だが、故に有り難い。

さて、人型カムイ本人の方だが。黒鵜には、既に準備をさせている。これから戦うとすれば、生半可なやり口では無理だろう。

単純な火力だけで考えれば楽勝だが、奴の力は一個師団並だ。何かしら、被害を出さずに勝つには、工夫が必要になってくる。

病室に戻ると、しばらくベッドに横になる。

良い策を、今のうちにひねり出さねばならない。

秘書官が手配してくれた結果か。今まで、否定的な見解を述べていたスポンサー達が、何名かこちら側に転んだ。

後は外に残している部下達に、剣の攻撃を凌ぐよう指示を出しておけば良い。

流れは、こちらに戻る。

まだ予断は許さないが、負けは確定していない。

 

1、混沌の加速

 

コブラが神林の上空を旋回している。

しきりに出てくるように呼びかけているが、雛理は無視を決め込むように、ジャージ先生に告げておいた。

見ていると、どうも焦っているように見えるのである。

もし焦っているとすれば、原因は一つしか考えられない。

アーニャ達が、剣に情報を伝達したのだ。

もう少しじらさせれば、決定的な隙を作れる。そうなれば、平坂自身を葬ることは、決して難しくない。

ただし、焦らせすぎると、自暴自棄の総攻撃に出かねない。

タイミングの見極めは、一応百戦錬磨である、雛理が行わなければならなかった。

旋回していたコブラが消える。

如何に人外の実力を得ている今でも、単独で仕掛けるには勇気がいる相手だ。戦闘ヘリの実力は、長年戦場暮らしを続けた雛理だからこそ知っている。歩兵が戦闘ヘリに出会ってしまったら、もう鏖殺されるのを待つばかり、というのが事実なのである。

川に出かけていたジャージ先生が戻ってきた。抱えているのは、三メートル近い巨大な魚である。

見かけは鮭に似ている。

やはり、嗜好は熊に近いようだ。

「うまそうなのをみつけた。 血抜きをするから手伝え」

「分かりました」

こういう所には、人間の要素が混じっている。

一緒に木の枝から魚を釣るし、血を抜いて、そのまま姿焼きにする。しばらく火を通してから、サバイバルナイフを使って切り分け、二人で食べた。

食欲が、増進して仕方が無い。

魚を丸ごと食べきってしまうまで、一時間弱。

驚くべき事に、これだけ食べているのに、二人とも太る様子が無い。力に全て変わっているのだろうか。

「平坂という男、相当に焦っているようだな」

「貴方にもそれが感じ取れますか」

「むしろこういうのは、得意分野だ」

狩りをするとき、相手を焦らせることが、最も重要だとカムイは言う。

ただし、彼女は本当に今、雛理の言うことに納得しているのだろうか。たとえば平坂を倒した後。

どう身を振れば良いのか、考えているのだろうか。

雛理には、一応身を振る宛てはある。

アマゾン辺りに行けば、いまだに未開となっている密林地帯がいくらである。なんならギアナ高地でも良い。

発展途上国の危険地帯は、なお良いかもしれない。

命知らずのヒットマンでも、入るのに躊躇するような場所が、一番好ましいとも言えるのだ。

カムイはどう考えているのだろう。

彼女は一時期、平坂に協力するべきでは無いかと考えていた。それは聞くまでも無く明らかだ。今は、どうなのか。

しばらく、無言で時間を過ごす。

そろそろ動くべきなのだろうが。どちらにしても、しっかりカムイと連携を取らなければ、勝てない。

ジャージ先生の意識を強く出せば、おそらくは協力してくれる。

しかし、明らかに高い戦闘力を発揮できるのは、カムイの方だろう。

こういう所が、既に人間の考え方では無いなと、雛理は自嘲する。確実にオンカヌシは、雛理の精神を侵食している。

あの、どこまでも広がる、果てしない闇は。

或いは、雛理の中に混沌を作る事で、楽しんでいるのかも知れない。

「どうした、何を考えている」

「ジャージ先生と、代わって貰えますか」

「……まあいいだろう」

少し、雰囲気が変わる。

カムイがどうしてジャージ先生に時々意識を明け渡すようになったのかは、分からない。分かっているのは、ジャージ先生が自分に降りかかった悪夢のような境遇を恨む事はあっても、根本的には変わっていないことくらいか。

「どうしたの、雛理さん」

「平坂にそろそろ仕掛けます。 カムイさんはどう考えているか、分かりますか」

「やっぱり本音では平坂さんに協力したいみたいだね。 森の王だっていう話だから、今の世界をやっぱり良くは想っていないみたい」

まあ、無理も無い。

今の世界は、搾取の世界だ。

人間はそれ以外から搾取を繰り返す。

そして人間も、同じ人間から搾取を繰り返すのだ。

搾取の果てに何かがあると思えば、そんなことは決して無い。行き場の無い金は、さらなる搾取のために用いられるだけ。

人間という生物が作り上げた愚劣な鎖が、ただ延々と廻っているだけである。

だが、それでも。

人間である以上、守らなければならないのだという意識が、少しはある。

以前は意識しなくても、そう行動できたのだが。

「平坂という人と、話し合えないのかな」

「貴方がやっているのはおかしな事だから、やめろと?」

「うん。 もしも止めてくれるんだったら、協力しても良いんだけどな」

平坂が、行ったことで。

敦布の生徒達は、全員が死んだも同じなのに。

やはり、指摘したことが大きかったのか。これ以上被害を増やさないことが重要だと考えているのか。

それとも、知恵を付けて、雛理にさえ本音は明かしていないのか。

分からない。

分かるのは、引き留めないと、まずいという事だけだ。

「平坂に協力すれば、利用されるだけですよ」

「……」

「平坂は、利用する側の人間です。 どれだけ闇に落ちたとしても、最初からそうだったし、最後までそうでしょう。 貴方が平坂に利用されたとき、世界に落ちる影は、想像を絶する大きさになることでしょうね。 それでも協力したいのなら、どうぞ」

一度突き放す。

まだ揺れている心をどうにか落ち着けるには、その方が効果的だろう。

洞窟に戻ると、残っていた衣類を整理。

今の服はもうボロボロになりすぎて、どうしようもない。かといって、持ち出してきている服だって、どれも似たような状態だ。

嘆息。

これは、もう着替える機会は、無いかも知れない。

面白い事に、雛理もジャージ先生も、排泄はもう必要ないようだった。食べた分を、完璧に栄養にしているのかも知れない。

老廃物が出ないのだとしたら。

いずれ、服も必要なくなるかも知れない。そういえば、髪が伸びているようには感じなかった。

しばらく休んでから、監視カメラを探しに行く。

辺り中にばらまかれているのだ。見つけるのは、さほど難しいことでは無かった。

探し出してから、話をして、打ち合わせをする。

平坂を倒す方法は、一つしか無い。

この斑目島本島に、奴を誘い出すことだ。

 

カムイから、呼びかけがあった。

話をするのなら、平坂自身が来いと言うのである。見え透いた罠だが、しかし今は乗るほか無かった。

岸田は精力的に、カムイのクローンを作成している。

どれもこれも中途から生きることを拒否するように肉塊になってしまうようだが、様々な薬品を注入したりして、状態を改善しようとしている様子だ。それに、肉塊になってしまった人型カムイのクローンは、いくらでも使い道がある。

特に、他の下等なカムイに遺伝子を注入することで、従順になるという効果がとてつもなく大きな意味を持っている。

これにより、今まで制御が難しかったカムイを、完全に商品化することに成功した。

問題はその先だ。

もしも人型カムイが此処に乗り込んできた場合、その成功を、一瞬でひっくり返される可能性がある。

カムイの力は、今だ解析できない部分も大きい。人型カムイが一言、従えと言ったら。今まで従順だった商品達が、一斉に手のひらを返して襲いかかってくる可能性さえあるのだ。

別に「専門家」に指摘されなくても、それくらいは明らかである。

岸田と黒鵜を、平坂は病室に集めた。

そして、カムイから呼び出しがあったことを告げる。二人の反応は、当然のように早かった。

「出向くふりをして、即座に攻撃するべきです」

過激な意見を述べたのは、やはり黒鵜だった。

肩の怪我は回復に向かっているようだが、まだ腕はつっている。

しかし、本人が戦士として動けなくても。指揮官として黒鵜は、充分以上な実力を発揮できる。

実際、攻撃命令を出せば、即座に黒鵜は動くだろう。

それに対して、やはり平坂は反対した。

「ごめん黒鵜ちゃん、もうちょっと待ってくれる?」

「何を待てという、インチキ科学者!」

「インチキは酷いなあ。 君も知ってるだろ、ボクがどれだけカムイを実用化させてきたか。 人型カムイのクローンについて、糸口がもう少しで掴めそうなんだよ。 後二日くらい徹夜すれば、どうにかできると思う」

そう言って、岸田は一心不乱に持ち込んでいたフライドチキンにかぶりついた。

小食の筈の岸田なのに。異様な光景である。

或いは、ストレスが限界を超えてしまっているのかも知れない。

異様な光景に、黒鵜も流石に反論を封じられた。平坂は咳払いすると、二人を見回す。

「分かった。 それなら、動くのは二日後だ」

「待ってくれるんだね平坂ちゃん!」

「ああ。 ただし、君を信頼して、二日という時間を作ると思って欲しい。 スポンサーを抑えるのは、かなり難しくなってきているのだ」

それだけではない。

南米にある支部を、剣に潰されたという速報が入ってきた。

恐らく剣は、島から脱出した者達を抑えたか、或いは。カムイのデータを入手したのだろう。

剣は表向き正義の組織だが、圧倒的な力を目にした後も、その信念が揺らがずにいるかは分からない。

正義のヒーローなど、漫画の中にしかいないのだ。

非常に高い価値のあるカムイを目にして、彼らが理性を保てるかどうかは、未知数だ。

或いは、平坂の組織を、剣が乗っ取って。カムイの権益を独占するつもりなのだとしたら。

苦笑が漏れる。

人間の世界は、いにしえの時代に妄想された地獄や魔界よりも、よほど恐ろしい所では無いか。

二人を一度下がらせる。

コブラで神林に出ている兵士達に、放送する内容を変えるよう指示。一時間だけ放送したら、すぐに戻るように、とも。

神林にあるベースは、蛇の除去を終えてから、防備を固めてそのままにさせている。

ただ、カムイの襲撃を受けた場合、少し厳しいかも知れないと、部下達からは報告を受けていた。

イギリスの支部から連絡が入る。

剣の部隊から攻撃を受けたが、撃退。現在、防衛の準備を進めているという。同じように、ドイツの支部からも連絡があった。

今の時点で、一つの支部が落とされ、二つで引き分けか。

東京の分を入れると二敗二分けで、一方的にやられている計算になる。守勢になると、色々と不利だ。

剣と平坂両方に出資しているスポンサーから、情報を引き出すこともできる。

だが、今は借りを作らない方が良い。

幸いにも、スポンサー達は、送り届けたカムイの性能に驚喜している。

しばらくは、それで踊らせておくしかない。

支部に対するダメージは、分散と隠蔽かで緩和するしか無い。今受けたダメージを、ある程度中和するために、幾つかの手を打っておく。

まだ、ニューヨークや上海などの、大規模支部は打撃を受けていない。

其処から人員を回すと共に、手を他にも打つ必要がある。

その中でも、最大の懸念が、来たる日における泥洗の実行についてだ。

「各地の支部が被害を受けているとなると、泥洗の実行そのものに問題が出てくるかも知れないが……」

思わず口に出していた。咳払いして、計画の詰めに入り直す。

ドアがノックされて、咳払いが空振りに終わった。入るように言うと、秘書官だ。手には携帯を持っていた。

「失礼します」

いつも通りの無表情のまま、電話を取り次いできた。

大口のスポンサーの一人が、不意に直に話したいと言うのである。

軍産複合体を一つ手にしているスポンサーで、米軍にも強いコネを持っている男だ。親から財産しか受け継がなかったと揶揄されることもある人物だが、実際には鋭い洞察力を持つ、危険な相手である。

急に何用だろうと思ったのだが。話してみて、愕然とする。

「ミスター平坂。 これから君の実験牧場に行こうと思う」

「また急な話ですな」

「君からもらったカムイは素晴らしい性能でね。 さっそく活用したいと、大口の話が幾つか来ている。 そこで、僕も牧場を見てみたいのだ」

こういう巨大財閥を抑えている人間は、基本的に強欲の塊だ。

いにしえの邪神や魔王を嘲笑うような邪悪さを体内に抱え、正義も理念も笑い飛ばして、ただ自分の欲望のためだけに周囲の全てを踏み台にしている。

まあ、それは平坂も、同じかも知れないが。

「直接足を踏み入れるには、散らかっていますが」

「かまわん。 私の屋敷も、地元ではゴミ屋敷とか言われていてね。 実際ゴミ屋敷なんだよ、はっはっは」

「それは興味深い」

「というわけで、十五分ほどでつく」

返事を待たずに、電話は切れた。

つまり沖縄から既に飛行機なりヘリなりで此方に向かっているという事だ。ゴミ屋敷云々というのは兎も角、これは良くない状況だ。

どういうことだろう。

この男は、剣とつながりがあったという話も聞いていない。何故、これほど急な奇襲にも近い行動に出た。

秘書官に指示して、出迎えの準備をさせる。

勿論、最悪の事態になった場合の、応戦準備もだ。

「すぐにスーツを」

「お医者様が平坂様のスーツは隠すようにと、全て持って行ってしまいましたが」

「そういうわけにも行くまい。 医者を説得してくれ」

医者の心遣いは有り難いが、今は身なりをしっかり整えなければならない。

医者が来たので、事情を話す。しばらく険しい顔をしていた医者だが、会合の間だけという条件付きで、スーツを出してくれた。

自分の事を心配して言ってくれているのは分かるから、素直に従う。上司にしっかりものを言える部下は、日本人には貴重だ。

パジャマからスーツに着替えると、すぐに外に。黒鵜が話を聞きつけたのか、緊張した面持ちで来ていた。

「既にレーダーに反応があります。 おそらくは輸送ヘリでしょう」

「撃墜は可能かね」

「ご指示があれば、即座にでも」

「今はいい。 ただし、何があっても対応できるように、備えて欲しい」

目的次第では、叩き落とす。

事故があって死んだとでも報告すれば良い。どうせスポンサーは一人ではないし、此処は文字通りの絶海の孤島。どのようにでも工作は可能だ。

程なく、米軍の輸送ヘリが見えた。

誘導を行って、メガフロートに着陸させる。平坂が見ている中、長身の男がヘリから降りてきた。

肥満しやすい米国では、筋肉質が一番もてはやされる傾向が強い。

既に中年を過ぎていながら、その男。アークライは、それなりに均整が取れた肉体を保っていた。自己制御をしていると言うよりも、恐らく食事の際のカロリーを計算させているのだろう。

当然、黒服の護衛数人をつれている。いずれもプロのボディガードだろう。

「ミスター平坂、急に済まんな」

「いえいえ、此方こそ。 おもてなしもできませんで」

「話は後だ。 さっそく、カムイの研究施設を見せてくれないか」

岸田の邪魔はさせたくない。

平坂自身が案内して、研究施設がある棟へ行く。メガフロートと言っても、一辺は一キロもない。

だから、話ながら歩いている内についてしまう。

平坂の側にいる黒鵜が、耳打ちしてくる。

「つれている護衛は相当な腕利きです。 仕留めるつもりなら、何か合図をいただきたく」

「しばらくはそのままで」

攻撃を受ける可能性は、今の時点ではさほど高くない。

だが、やはりアークライの意図が読めない以上、まだ油断はできない。

研究施設の方にも話は通してある。

今岸田が全力で研究をしている、人型カムイの培養棟には入れない。他のプレハブでは、雑多に増やしたカムイを調整していたり、世話をしていたりしていた。中には独特の獣臭が有り、いやがるかと思ったが。

しかし、アークライの反応は、予想外だった。

「うーむ、良い香りだねえ」

「これはこれは。 面白い嗜好ですな」

「私は動物が好きでね。 勿論食べる方が、だが。 だから、その匂いを嗅いでも興奮してしまうのだよ」

カムイのベースになっているのが人間だと分かっていて、この化け物は言っているのだろうか。

笑顔を保ったままの平坂は、適当に部下に説明をさせる。

黄金を生み出すカムイに、アークライは感心したらしい。円形の檻を前にして、何度も楽しそうに頷いていた。

他の施設も見せる。

巡洋艦には流石に乗せられないが、別に見せて困るような機密書類は表には出していない。

二時間ほどで、一通り見終わった。

その間、アークライが何か余計な事をする様子は無かった。むしろ上機嫌で、自分の家が如何にゴミ屋敷かを、嬉々として語っていたのだった。

平坂の家もさほど整理されている方では無いが、話を聞くと気が滅入ってくる。

「いやはや、素晴らしい管理体制だ。 これならば、研究の完成も近そうだな」

「お褒めにあずかり光栄です」

一緒に、ヘリに向けて歩く。

何のために此奴はここに来た。カムイの資料は転送しているし、実物も送った後では無いか。

ほどなく、嫌な予感が、適中した。

アークライの護衛の一人が、いきなり発砲したのである。

 

気がつくと、平坂は硝煙の中、倒れ伏していた。

辺りは血の海である。文字通りの地獄絵図だ。何度も見てきた光景だが。これを見ると、家族を全員殺されたときのことを、どうしても思い出してしまう。

呼吸を必死に整えて、周囲を見る。

黒鵜がいた。

頭から血を流して、側に立ち尽くしていた。

ヘリが爆発したらしく、派手に煙が上がっている。アークライは最初の射撃で頭を吹き飛ばされたのが見えた。

ヘリにも、この様子では、爆薬が仕込まれていたのだろう。

アークライの護衛達は。

全員死んでいる。

黒鵜が撃ち殺したのか、或いは。

とにかく、状況を整理しなくては。立ち上がろうとして、失敗した。手が血だらけだ。足も。

医者が慌てて走り寄ってきた。

担架に乗せられて、医務室に運ばれる。だから嫌だったんだと、医者が叫んでいるのが分かった。

分かったのに、声が何処か遠い。

鼓膜をやられたなと、平坂は思った。

状況が、少しずつ掴めてくる。

恐らく、アークライがつれていたのは、剣のエージェントだったのだろう。爆薬も、奴が仕込んでいたに違いない。

剣そのものとつながりが無かったとしても、エージェントが潜り込んでいないとは限らなかったのに。

油断していたと言うよりも。

スポンサーという立場を利用した、心理トリックというものだったか。

黒鵜が来た。

声が遠くて、言葉を聞き取るのにも理解するのにも苦労した。

「潜り込んできた鼠は駆除しました。 研究施設は無事ですが、ヘリの爆破で数人の重傷者が出ています」

「剣も思い切った手に出てきたな」

「いえ、おそらくは違います」

黒鵜が言うには、射殺した敵方のエージェントが、妙なものを持っていたという。

具体的に何かは言わなかったが、それで正体が特定できる、というのだ。

「おそらくは、剣から情報が漏れたのでしょう。 かなり危険な勢力が介入してきています」

「CIAか何かかね」

黒鵜の表情からして、当たらずとも遠からず、と言うところのようだった。

いずれにしても、米軍のヘリを使って来た男が、テロによって死んだのだ。平坂も被害を受けた。

これで、恐らくほぼ確実に、怖れていた事態が来る。

間違いなく、近々米軍が介入してくるだろう。

背後で糸を引いているのが何者かは分からないが、平坂にとって最悪の一手を打ってきたことになる。

流石に米軍と戦って、勝てるわけが無い。

戦力も規模も違いすぎるのだ。此方も一個人の組織としては相当な戦力を揃えている自信があるが、米軍はあまりにも桁違いすぎる。

空母一隻でさえ、小国の軍事力に匹敵するとさえ言われるほどなのだ。

「やむをえんな。 入り口を封鎖するほかあるまい。 泥洗を小規模で発生させる」

「しかし、司令」

「今米軍に介入されると、全てが水の泡になる。 異常気象で覆っている範囲の全てを包囲することは、流石に米軍でもできない。 人型カムイの技術が完成し、泥洗のコントロールと、その後の管理が完全に出来るようになってから、封鎖を解く」

既に平坂が気絶していた間に、情報は外に漏れていた様子だ。

スポンサーの何名かが、泡を食った様子で連絡してきている。おそらくは、米軍と、この事件の糸を引いていた輩が連携していたからだろう。アークライの護衛として潜り込んでいた奴が、リアルタイムで情報を外に出していたのかも知れない。

中には、既に米軍の特殊部隊が踏み込んで、身柄を抑えられたパターンもあるようだ。流石に動きが速い。

情報を整理するまで、三時間。

そして、混乱に乗じて、さらなる事態が生じ始めていた。

痛みが酷い。痛み止めを打ってもらいながら、平坂は必死に事態の処理に当たり始める。

 

今までに無い厳戒態勢を、平坂の基地が採っている。兵士達も緊張した様子で、走り回っているのが見えた。

雛理はカムイを手招きする。

ものものしいまでの警備が、隠れている木の陰からも一目瞭然だった。下手に近づくと、今の身体能力でも危ないだろう。ミサイルが飛んでくる可能性さえある。

「ものものしいな」

「何かあったとみるべきでしょうね」

それも、尋常ならざる事態だ。

最初、コブラが飛び回りながら、二日後の会合について放送をしてきた。場所まで指定してきたほどなどである。

しかし、それいらい、ぴたりと相手側の動きが止まった。

会合についても、追加の情報は流してこない。

その上、罠にはまったような感覚も無かった。

おかしいと思って基地を見に来たら、これである。

剣の介入があったとすれば、もしや米軍が動いたのかも知れない。それは流石に楽観的すぎるが、平坂が身動きが取れなくなるくらいの出来事は、起きていてもおかしくはないだろう。

ヘリが四機一組で巡回しながら飛行している。

完全に実戦の態勢だ。この基地に攻撃を仕掛けるのは、難しいかも知れない。

つまり、それだけ、攻撃を仕掛けられると、今はまずいという事だ。

やはり、アーニャと、子供達を逃がしたのは正解だった。

短時間で、これだけの大きな出来事が連続している。この島では絶対的な力を持つ平坂だが、外では決して最大勢力でもないし、無敵でも無い。

むしろ、見る間に追い詰められているではないか。

「仕掛けるか」

「……」

そうしたい。だが、安易に仕掛けると、陥穽に落ちる気がする。

何かしら、しっかりした戦略上での課題を造り、それをこなせるように動きたい。しかし、基地の様子から言って、平坂がいないのは確実だ。

アーニャに、平坂が海上に基地を作っているらしい話は聞いている。

しかし、そちらは遠すぎる。

如何に人外じみた身体能力を得ているとは言え、泳いでいくのはあまりにも無謀に過ぎる。

だが、泳ぐので無ければ。

ヘリを強奪するのはどうか。

見ていると、かなり厳重な警戒を続けている。流石に難しいだろう。

船を奪うのは。

奪えるような船が無い。平坂の組織は、移動をヘリを使ったものに限定しているからだ。小舟でさえ、見当たらない。

船を作るのはどうか。

丸木舟の類なら、今の身体能力なら、すぐにでも作る事が出来るだろう。筏にすれば、もっと安定する。

問題は、恐らくメガフロートであろう相手の基地に、それでどう潜入するか、だ。更に言えば、型落ちとはいえ、敵は巡洋艦まで持っているらしい。

身体能力が如何に人間を超越していたとしても、出来る事が随分限られてしまう。

たとえば、基地に平坂がいるのなら。一気に仕掛けて、勝負を挑む方法もあるだろうに。今は、最大の好機なのだ。

「筏を作りましょうか」

「ほう。 海にヒラサカがいるとは聞いていたが、具体的な位置は分かるのか」

「大体は」

以前に、アーニャに聞いて、大体の位置は把握している。

問題は、今も同じ位置に、平坂がいるか、ということだが。

一か八か、賭けてみるしか無い。

アーニャの記憶によるならば、平坂のメガフロートは、殆ど移動していないと聞いている。考えて見れば当然で、島からは通常であればアクセスの手段が無いからだ。それならば、今もそのままの位置である可能性は決して低くは無いのだ。

神林から、旧斑目島へ移動する。

ヘリはまだ巡回飛行を続けていたが。今、姿を見せるのは、色々とまずい。ヘリの飛行ローテーションを見極めた上で、監視網を縫うようにして動き回らなければならなかった。むしろ、ヘリの動きはいつもよりも神経質で、見つからないようにかなり苦労した。

幸いにもと言うべきか、崖を登り終えて、森に入り込むまで、今までの半分も時間が掛からない。

身体能力がどれだけ無茶な向上を果たしているのか、これだけでも明らかだ。今なら、冗談抜きで素手で恐竜とでも渡り合えるだろう。

森に入ると、適当な木を見繕う。

丁度一抱えほどある木がいい。本当は木の種類にもこだわりたいところだが、今はその時間が無い。

カムイが、木を切るときの見本を見せてくれる。

気迫と共に、手刀を一閃。

それで本当に木が両断されてしまうのだから驚きだ。枝を落とすのも、それで充分。もう一つ驚かされる。

木の真ん中辺りの、あまり太さが変わらない位置だけを切り落とす。そうして、少し長めの丸太を作る。

横に五本並べて、次は縛る。

持ちだした物資の中に、ロープがある。それを使って、丸太を順番に縛っていく。

前は、崖から降りるのに使ったロープだ。強度は以前確認して、充分であることをしっかり見極めている。

筏の作り方は、当然民間軍事会社のカリキュラムに入っている。

雛理は優秀だと向こうに判断されていたから。実戦に繰り出される合間に、レンジャーの訓練も受けていたのだ。

「見事なものだな」

「こういった知恵が集積していって、今の文明ができています」

「ふん、その割には殆どの人間は、その恩恵を理解できていないようだがな」

「それは、蓄積があまりにも膨大すぎるからです。 先人の造り出した知恵はあまりにも膨大すぎて、後続の人間にはありがたみが無いものだから、です」

そういえば。

近年の創作で、先人の知恵というものをことごとく軽んじる傾向がある事を、雛理は思い出した。

愚かな話である。

今の生活の全てが、先人の知恵によって成り立っているのだ。衣服や紙、エネルギーや資源などに至るまで。

それらの良いところだけを取っておいて、先人の知恵を馬鹿にするというのは。愚かしすぎて言葉も出ない。

筏をくみ上げた後、運ぶ。

本来はてこところが必要になるのだが。

今の身体能力では、それも必要ない。力尽くで運んでいくことができた。念のため、縄の縛りは二重にしている。多少無茶な力が掛かっても、筏が壊れることは無い。

筏と言う事もあって、レーダーくらいには探知されない。

ただし、目視されてしまうと厄介だ。

当然平坂のメガフロートの周辺は、ヘリが行き来しているはず。日中に、真っ正面から近づくのは、自殺行為だとみて良いだろう。

行くならば、夜間だ。

岩礁のすぐ近くまで、筏を引っ張っていくと、後は隠す。

待つべきは、日没。

それから、仕掛ける。

 

2、肉薄

 

小規模な泥洗はすぐに行われた。

とはいっても、現在壁の穴となっている区域を塞いだだけだ。半径百五十メートルほどの規模で有り、電波の障害も出ないように調整はしてある。ただし海上なので、メガフロートの素材を一部使っての作業である事、単に他と区別が付かない状態になったくらいである事などから、位置を看破されれば即座に突破されるだろう。

ただし、大軍勢を一気に通すことや、艦船が通ることは、既に難しくなっている。実際問題、巡洋艦を通すのだって苦労したのだ。今は無理に通ろうとすれば、簡単に転覆するレベルで海が荒れている。

一応、外部からの侵入は、これで防げたことになる。

鬱々としている平坂の所に、秘書官が来る。

感情が高ぶって怒鳴りつけそうになったが、押さえ込む。いろいろな事が一辺に起こって、平坂も混乱しているのだ。

「何か起きたのかね」

「二つほど、報告しなければならないことが」

「聞こう」

まず、アークライの財団に、動きは見られない、という事だ。

これは妙だ。

米軍ともコネが有り、間抜けのように見えても実体は切れ者、という組織の長が死んだにしては静かすぎる。

まさか、死んだのは影武者か。

可能性はある。

ましてや話してみたところ、どうもおかしな印象を受けた。あれは、自分をアークライだと思い込むように洗脳された、そっくりさんだったのではないのか。ゴミ屋敷の下りは面白かったが、そんな男だったのか。

スポンサーとは食事会もして、何度も話し合うようにはしてきた。

だが、それでも偽物だと看破できなかったのだとすると。よほど洗脳や成形に力を入れてきている、という事か。

しかしそうなると、目的は何なのだろう。

もう一つが、剣の動きだという。

「マレーシアの支部は、引き上げたところを襲撃されました。 空振りに終わりましたので、味方にも敵にも被害はありません」

「間一髪、間に合ったか」

「小規模支部の人員は、装備と共に、大規模支部への合流を急いでいます。 大規模支部になれば、剣の襲撃を受けても、一度や二度では陥落はあり得ませんから」

頷く。

後は、問題になることがある。

米軍の動きだ。

当然沖縄にも、手の者は放ってある。だが、米軍の動きについては、全く感じられないという。

おかしいのは、そこだけでは無い。

アークライの財団に対して連絡を取っても、つながらないのである。相手が拒否しているという様子は無い。実際問題、現地にいる部下からの報告では、混乱しているようには見えないというのだ。

一体何が起きているのだろうか。

アークライの財団が、テロによる当主の死亡とか、それに対する抗議とか、そういった話をしてきている形跡は無い。

剣辺りが、全てを自作自演で仕込んだのだろうか。

それにしては、米軍が実際に動いた理由が説明できない。剣が米軍とコネを保っているという話など、聞いたことも無い。

黒鵜が言う危険な組織については、忙しい仕事の合間に聞いた。確かに危険な連中だが、しかし、米軍を意のままに動かすほどでは無い。おかしな事が重なりすぎて、理解が追いつかない。

悩んでいる内に、黒鵜がきた。

「人型カムイですが、反応無しです。 ただし、痕跡らしいものを見つけました」

「見せてみたまえ」

見せられたのは、巨大な骨だった。

猪らしい。肉を綺麗にはぎ取られて、内臓まで平らげられている。近くにはたき火の跡。これを、全て食べたというのか。

「注意深く調べましたが、周囲にはもういませんでした」

「食事をして、移動したか」

「それだけではありません。 どうやら痕跡を見る限り、食事はもう一人しているようなのです。 人間の形をした何かが、食事をした形跡があります」

「……ふむ?」

あの人型カムイが、誰か人間を伴って、移動している。

どうも考えにくい。

人間を根本的に見下していた上に、知能も決して低くは無かった。そうなると、考えられるのは、一人しかいない。

「オンカヌシか」

「対等な存在がいるとしたら、それくらいでしょう。 しかし、人型を保ったままオンカヌシになったとなると……」

子供達のいずれかか、或いはあの女傭兵か。

もしも、女傭兵だったら厄介だ。

単純な戦闘力がどうこう、という問題では無い。カムイの異常な身体能力に、文字通り人間の知恵が加わる事になる。

どのような形で奇襲を掛けてくるか、全く見当がつかない。

カムイとオンカヌシが、どう敵対を解消したのか。それも気になる部分ではある。

だが、やはり考えられるのは、あの女傭兵が死なずにオンカヌシ化した、という事だろう。

元々女教師と女傭兵は、仲が良かった様子でもある。

或いはその頃の縁を、上手く利用したのかも知れない。

いずれにしても、あまり好ましい出来事では無い。警戒を呼びかけるにしても、今後の展開次第では、詰みかねなかった。

焦りが、じわじわと這い上がってくる。

栄養剤を飲んだ後、医師に精神安定剤の処方を頼む。冷静な判断力を欠けば、此処からの局面、一手で詰みかねないからだ。

最悪の状況が続いている。

インターネットでも情報収集をしているが、あまり好ましいものはない。投げ出してしまいたい気持ちに時々囚われるが、それはできない。平坂は組織の長だからだ。それ以上に、成し遂げたいことがあり、それに王手を掛けている事に変わりも無いからだ。

這い上がってくる弱気をねじ伏せる。

岸田の研究成果次第では、一気に苦境を打開できるのだ。

時間が過ぎるのが、あまりにも長い。

三十を超えた頃から、時間が足りないと、いつも思うようになっていたのに。今日は、岸田の研究が上がってくることだけが、待ち遠しい。時間経過が、長く感じて仕方が無い。それなのに、必要な時間はあっという間に過ぎてしまう。ジレンマがもどかしくて、歯ぎしりしそうになる。

ふと、思い当たることがある。

もしも、カムイと、女傭兵が手を組んだとする。そして、以前の情報にあったとおり、平坂のデータが知られていたとする。

その場合、相手が打つ手は何か。

何という危険な状況を放置していたのか。平坂は思わず身を起こすと、黒鵜を呼ぶ。

すぐ来た忠臣に、指示。

「すぐにこの離島ベースを動かしてくれ」

「はあ、可能ですが。 しかし急にどうしました」

「もしもカムイの身体能力がある場合、同じ位置にいることは危険だと、ようやく思い立った。 場所を変えておいた方が良いだろう」

こんな単純なことに、どうして気付かなかったのか。自分の判断力低下を忌々しく思う。

だが、気付けたのだ。

帳消しにはならないにしても、最悪の事態は防げるだろう。

黒鵜はいぶかしげにしていたが、話して聞かせると、すぐに納得した。納得した上で、一つ提案をしてくる。

「それならば、一つ罠を仕掛けておきましょう」

「何かね」

「巡洋艦が持ってきた物資の中に、機雷があります。 以前は使わなかった機雷ですが、まとめて使ってしまいましょう」

それだけで、大体作戦が分かった。

黒鵜に、全てを任せる。

やはり冷静さを保つことは大事だ。そして、鎮静剤を入れたからか、不思議と今まで思いつかなかった、良い案が出てきた。

そうだ。最初からそうすれば良かったのだ。

岸田が出てくるのを待つ。

何も、焦ることなど、最初から一つも無かったのだ。

 

夕方を待って、筏を海に放り込んだ。

しっかり安定して浮かんでいる。作った櫂は二本。これを使って、目的の海域まで漕ぐ。問題は海流だが、それについては腕力でどうにかするしか無い。普通の人間だったら無理だが、今ならできる。

息を合わせて、筏を進める。

真っ暗な夜の海は、普段だったら死を招く危険な場所だ。今は、特に危険だとも問題だとも感じない。

ざくり、ざくりと、櫂を動かす。

海は特に荒れることも無く、静かでも無く。時々波が筏を揺らす。

上手く行きすぎている。

平坂は今、相当追い込まれているはずだ。普段なら絶対しないようなミスをする。問題は、何らかの形で冷静さを取り戻しはしないか、という事だが。

それについては、一応案があった。

途中で二度、潜って海中を調べた。

今の時点で、問題になりそうなものはない。高性能な機雷なども、辺りには見当たらなかった。

もしも、雛理が平坂で、なおかつ冷静だったら。

居場所を探知されていることを、逆利用する。

たとえば、海中に山ほど機雷を置いておいて、爆破するとか。

もしくは。

海中で身動きが取れないところに、航空戦力で襲撃を掛ける。

どちらにしても、大変厄介だ。だが、それに対応するために、わざわざ夜に出てきたのである。

また、筏を離れて、少し先まで泳ぐ。

筏を見失わないように、工夫は幾つかしてある。だが、それは不要だったようだ。感覚が鋭くなった今、方向は星を見れば即座に判断できるし、何よりカムイの強い気配は、目をつぶっていても探知出来る。

もっとも、それも絶対では無い。

筏の上に出ると、退屈そうにカムイが小さくあくびをした。

「それで、平坂の拠点はまだか」

「もう少しの筈ですが……」

海中に、機雷は無い。

やはり、まだ平坂は、対応できていないか。それならば、奇襲の好機だ。

更に筏を進める。

そろそろ、目的の海域の筈だ。この辺りに、平坂のメガフロートは停泊している。星の位置を確認して、間違いないと結論。

しかし、周囲に、船影はおろか、木片の一つも浮かんでいない。かといって、機雷も無ければ、機影も無い。

単純に、思いつきで場所を移動したのか。

錯乱して、そのような行動を取った可能性はある。だが、アーニャの記憶から見る限り、平坂の周囲はイエスマンばかりでは無く、直言する忠臣もかなりいたようだ。そういった忠臣を価値ある存在として、側に置ける器量を持っていたという事である。不愉快な話だが。

ならば、結論は一つ。罠だ。

しかし、罠ならば、乗ずる隙もあるはず。

「罠か」

「おそらくは」

見回していると、何かが光る。

それがトマホークだと気付いたときには、雛理は海に飛び込むよう、カムイに促すことしかできなかった。

爆圧が、海を強かに叩く。

水圧で海中深くへ放り出される。トマホークの破壊力は聞いたことがあったし、作戦行動中に見た事もあったが。自分の体で味わうことになると思うと、ぞっとしない。

海中に出ようとするカムイの足を引っ張る。

上空に機影。

おそらくは、輸送ヘリだ。何かを運んできたのだろう。

その何かの正体は、即座に分かった。

大量の機雷である。

無数の機雷が、四方八方から、滅茶苦茶に投下されはじめた。

なるほど、最初に行動の自由を奪い、次は海中で身動きが取れないところに、とどめを刺すという訳か。

当然、海上に顔を出せば、ヘリからの機銃掃射でとどめ。

そして、海中に留まり続ければ。

 

ライブカメラを、平坂はベットで横になりながら見つめていた。

海上に、巨大な水柱が発生する。

投下した機雷を、一斉に爆破したのである。

カメラに水滴が多数つく。上空二十メートル、しかも一キロ先から撮影しているのだが、それくらいの距離など余裕で水滴は踏破したのである。

海をそのまま吹き飛ばしたような光景だった。

これなら、モササウルスでも即死だろう。もはや逃げ場の無い人型カムイと、それに追従する女傭兵も、木っ端みじんの筈だ。

平坂は映像を見ていたが、無言で無線を手に取る。

連絡した先は、輸送ヘリで指揮を執っている黒鵜だ。

黒鵜は、即座に出た。作戦行動中なのだから、当然か。ただ、ワンコールで出たのは、少し配慮が足りなかったかも知れない。

「どうかね、戦果は」

「現在確認中です」

大量の魚が浮いてきているようだ。

というよりも、この海域の生態系は壊滅状態だろう。衝撃波が蹂躙した距離も凄まじいし、並の戦闘用艦艇なら木っ端みじんになる火力だった。

たとえ、どんな手を使ったとしても。

無傷で耐え抜くことはあり得ない。

人型カムイが死んでいない可能性は、考慮した方が良いだろう。だが今は、それ以上に、時間を稼げたことに意味があるのだ。

「よし、打撃は与えておけば、それでよい。 全機一旦海面から離れ、迂回機動をとって此方に戻ってきたまえ」

「慎重ですな」

「君達の後を付けられて、離島ベースが発見されでもしたら、笑い話にしかならないからな」

海面から、ヘリが全機離れる。

勿論兵士達に、それぞれヘリの確認もさせた。おかしなものがくっついているような様子は無い。後は帰還させれば、それで終わりだ。

ヘリが編隊を解除し、銘々勝手の方向に飛び始める。それぞれが最終的に離島ベースにつけば良いのである。

それにしても、少し遅れていれば、危なかった。

女傭兵がオンカヌシになっていたと仮定すれば、あの人型カムイ二人が、離島ベースに直に乗り込んできたことになる。

万が一にも勝ち目は無い。部下を見捨てて、逃げるしか無くなっただろう。研究成果も持ち出す暇など無かった。平坂の負けは、乗り込まれた時点で確定だった。

逆に、それが遠い未来になった今。平坂は、最強のカードを引くことに成功したのである。

もうこれで、此方の位置を突き止めることは不可能になったはずだ。

平坂の勝ちは、確定した。

しばらく笑いを押し殺す。これで、この腐った世界を、根こそぎ滅ぼすことができる。ついに、悲願を達成できる時が来たのだ。

余裕ができたから、残作業の処理に移る。

たとえば、スポンサーとのやりとりをしておく。

相変わらず何名かは言葉を濁すばかりで、剣と平坂のどちらにつくべきか、迷っている様子だ。

恐らく泥洗の事も漏れたと思って良いだろう。もしも剣がそれを利用して説得に掛かっていたら。

恐らく、問題あるまい。

平坂のスポンサーは、いずれも核の抑止兵器としての側面しか見ていないような連中だ。新しい戦略抑止兵器ができたと思って喜ぶだけである。

実際、泥洗も、商品のラインナップに乗せているのだ。新時代の、クリーンな抑止兵器として。

ある意味は正しいのだから、剣側も説得は困難を極めるだろう。

少し寝る。

翌朝には、岸田が期待に応えてくれるはずだ。その時、全ての終焉を、はじめればよい。

平坂は、コミュニケーション能力で部下を評価しない。

実務能力のみで、部下を評価する。

目を閉じて、しばらく惰眠を貪る。

そして、目を覚ますと。時計は六時を回っていた。丁度、岸田が徹夜での作業を終えている頃だろう。

ベットから降りて、着替えをする。

スーツは隠されてしまっているので、パジャマの上からコートを羽織り、スリッパを履くことくらいしかできなかったが。

秘書官を呼んで、一緒に岸田の研究棟に出向く。

「わざわざ、岸田博士の所に行くのですか」

「時間は作った。 奴はそれに応える」

「はあ、しかしそれは予想論では無いのですか」

「その予想に応えられるから、私は岸田を重用しているのだよ」

それほど、遠い距離があるわけでもない。

泥洗の影響を受けているこの海域は、朝がとても遅い。日没が九時前後になるため、日の出も同じ程度になるのだ。これだけを見ても、泥洗が物理を越えた異常な現象である事は確かで、ウィルスだけでは説明ができない。

完全解明は無理だろうが、岸田なら制御可能な段階までは持って行けると、平坂は確信している。

辺りは真っ暗で、とても寒い。時々兵士に敬礼をされた。敬礼を返しながら、平坂は歩く。

もうすぐ、老いた体を引きずるようにして歩くことも、無くなるかも知れない。

研究のプレハブ棟には、まもなく到着した。電子ロックのキーに触れて、中に。内部は、むっとする血の臭いに満ちていた。

人型カムイの残骸らしいものが、大量に転がされている。

乱暴に解剖したり、解体したりしたもののようだ。どれも人間の子供の要素を残しているからか、極めて凄惨だった。

秘書官が、露骨な嫌悪感を宿して、口元をハンカチで抑える。

「まるで異常殺人鬼の巣ですね」

「ひどいなあ、それは」

ひょいと、棚の影から岸田が姿を見せる。

頭のてっぺんから足の先まで、血まみれだった。ちなみに、白衣しか着けていない。つまり此奴は、意図的にカムイの血を被ったという事だ。

岸田は、カムイを怖れはじめていた。

だが、平坂の指示で、枷が外れた。そしておそらくは、自身でもカムイの恐怖を克服するために。あえて、自身の中に、カムイの要素を取り入れたのだろう。

それは怪物化を誘発しかねない危険な賭だったはずだが。

しかし、岸田は、結果として賭けに勝ったのだ。

「ついエキサイトしちゃって! でね、できたよ平坂ちゃん!」

「やはり、やってくれたか」

「うん、こっちこっち! これだよ、ジャジャーン!」

満面の笑顔で、岸田が指さした硝子の培養槽。

秘書官が、呻く。

その中に入っていたのは、脳。それだけだった。子供のものらしく、とても小さい。

「人型カムイの中枢部分をクローニングできたよ! こんななりだけど、ちゃんと生きてるから安心してね!」

「それで、カムイの制御系として機能はするのか」

「ふふーん、それもばっちり! よく見て欲しいんだけど、脳に山ほど電極を刺してるでしょ? これを、こうして……」

岸田が、血だらけの手で、リモコンを弄りはじめる。

隣室にいるらしい成体カムイ達が、一斉に右を向いた。次は左。頷いて、クルクル廻って、さらに後ろ足で不器用に立とうとしてみせる。

きゃっきゃっと黄色い声を上げて、大喜びする岸田。

素晴らしい。

やってくれた。形などどうでもよい。むしろ、余計な手足なんか無い方が操作しやすい。さすがは岸田。異常者だが、平坂の期待にはしっかり応えてくれた。

異常者と言えば、もはや平坂自身もか。

それに気付いて、含み笑いをする。

異常者で結構。

普通の人間とやらが醜悪すぎるから、世界がこのようになっているのだ。

「よし。 では、少し休んでから、次の作業に入って欲しい」

「ん? 何がしたいの?」

「私を人型カムイにしてほしい。 君ならできるはずだ」

秘書官が、抱えていた書類を取り落とす。

ばたばたと、派手な音がした。

一瞬何を言われたか分からないという風情の岸田だったが。すぐに、まるで不思議の国のアリスのチェシャ猫のような表情になった。

「オッケー!」

「どれくらいでできるかね」

「うーんとねえ。 今回の件でかなり研究が進んだから、その気になればすぐにでもいけるよ! ただ、そのままだと平坂ちゃんの体が保たないから、まずは体を回復させてから、になるけれど」

「分かった。 善処する」

もちろん、善処などする気は無い。

こんな体には、もはや未練など無いのだ。カムイの完全制御が可能になった今、泥洗をためらう理由も無い。

人間の社会を、滅ぼすときが来た。

「並行して、泥洗用のカムイウィルス培養も進めてくれたまえ」

「おお、いよいよだねっ!」

「嬉しいかね、岸田博士」

「もちろんだよ、平坂ちゃん! ボクにとっても、今のくだらない世界なんてゴミ箱の底にこびりついたゴキブリの糞くらいの価値しか無いからね! こんな社会泥洗で押し流して、さっさと潰すに限るね!」

満面の笑みで同意を返すと、平坂は医務室に戻る。

滅多に口を利かない秘書官が、途中で言う。

「ほ、本気、ですか」

「何がかね」

「人型カムイになるという話です! あ、あのようなおぞましい怪物になってしまって、平坂様は平気なのですか」

じっと、秘書官を見つめる。

一歩下がる彼女に、平坂は見切りを付けていた。

寡黙で有能だから雇っていた。だが、それもこれまでかも知れない。カムイの本質を理解できていないような者は、この先の世界にいらない。

だが、今の時点では、まだ必要だ。

また、理解力が足りない事については、これから補わせれば良い。最悪の場合、洗脳するという手もある。

要は使い物になればいいのだ。

医務室に戻ると、医師を呼ぶ。

そして、無茶を承知で言った。

「これから少し大きめの手術を受ける。 体はボロボロになっても良いから、体力を付けたいのだが」

「そんな、無茶です」

「無茶でもやりたまえ。 どれだけの苦痛を伴ってもかまわん」

苦痛など、平坂にとっては日常のものだった。

人間社会が如何に醜悪か思い知らされた、あの日から。精神的な拷問を受けなかった日など、無かったと言って良い。

だから、むしろ今、それを終わらせるのだ。

黒鵜が来た。

秘書官が余計な事を吹き込んだのか。

息せき切っているのは、全力で戻ってきたからだろう。

「司令。 本気ですか」

「本気だとも」

「ご再考を。 カムイは所詮、ケダモノの王者にすぎません。 私は貴方であるから仕えているのであって、ケダモノの王に仕えているつもりはありません」

「君は一つ、考え違いをしている」

人間は、万物の霊長などでは無い。

多少小賢しいだけの、猿の一種だ。

そう告げると、黒鵜の顔に、明らかな絶望が浮かんだ。何故絶望するのか、平坂には分からなかった。

 

3、読み合いの果てに

 

海の中は、闇の世界だ。

ましてや夜になると、その危険度は言語を絶する。早く上がりすぎれば内臓をやられてしまう。かといって、遅すぎれば窒息する。

ましてや、爆圧に翻弄された直後なのだ。

手足を動かす。

重力を頼りに、体を運ぶ。

海面に出る雛理。

凄まじい衝撃だった。辺りの生態系は甚大な被害を受けているはずだ。人型カムイは。反応を感じる。

潜って、探しに行く。

爆発の瞬間、雛理は可能な限り深く潜った。

爆発は上と横に最も強く広がる。勿論下にも広がるが、その規模は上や横に比べれば、たいした事は無い。

とはいっても、あれだけの数の機雷が炸裂したのである。しかも雰囲気から言って、相当に破壊力を高めた特注品の様子だった。まともに食らえば、最新鋭の戦闘艦でも木っ端みじんだっただろう。

一瞬遅れた人型カムイが、漂っているのが見えた。

腕を掴んで、引き上げる。辺りは死んだ魚が、大量に漂っていた。即死を免れた魚も、気絶しているだろう。

海面に出る。

人型カムイは、空気があることに気付くと、すぐに呼吸をはじめる。どうやら、意識はある様子だ。

何度か咳き込む。

雛理も、相当に水を飲んだ。

それだけではない。体に受けた損傷も甚大だ。

筏は完全に破壊されてしまった。周囲には、掴まるようなものもない。人型カムイが、心底残念そうに言う。

「後一歩だったな。 あの様子からしても、平坂は直前に気付いたのだろう」

「惜しかったですけれど、負けは負けです」

「一度陸まで戻るぞ。 方角は」

「大丈夫です」

星を見て、位置と時間を確認。

それで、気付く。

巨大な雲の壁のようなものが広がっている。海をしっかり覆うようにして、分厚く、だ。

この島は、完全に隔離されていると、アーニャが言っていた。

まさか、物理的な意味で、なのか。

「何ですか、あれ」

「領土境界線だ」

「……?」

「我々カムイは、というよりも神域に属するものは、無用の争いを避けるために、ああいった領域を区切る壁を使っていた。 あれは私が張ったものだ。 もっとも、張った時点では、私自身は体を持っていなかったが」

できたのは、泥洗の時か。

壁は分厚く、内部が帯電しているのが分かる。積乱雲よりも高い雲の壁で、下手をすると成層圏を越えているかも知れない。

なるほど、合点がいった。

これでは、誰も入ってこられないわけだ。

しかし、上空はどうなっているのだろう。今の時代、成層圏より高く飛べる飛行機くらい、いくらでもある。

電波が届かないところを見ると、それにも処置をしているとみて間違いが無さそうだ。横はあの壁でガードしている。天蓋部分は、別のガードをしているのだろう。今、この島は、堅固な壁に覆われているのだ。

今までは、見ることが出来なかったから、実感はわかなかった。

しかし、星空に照らされる巨大な雲の壁を見てしまうと、自分が異空間に閉じ込められてしまったのだと、嫌でも実験できる。

もっとも、雛理自身が既に、人外の者だ。

星の光を頼りに、海を泳ぐ。

傷ついているとはいえど、人間よりもずっと早く泳いで行くことができた。ただし傷だらけだから、もたついているとサメにちょっかいを出されるだろう。サメくらいは撃退できるが、数が集まると面倒だ。

「後一キロほどです」

「問題ない」

カムイといえども、限界はある。

それはオンカヌシも同じであるらしい。

二人とも確実な疲弊を感じながらも、海を泳ぐ。敗走するのは、いつの時代でもつらい。民間軍事会社にいた頃も、任務が失敗して、敗走することはあった。最後尾で味方の撤退を支援したこともある。

いずれの時も、惨めだった。

ようやく岩礁に出る。

少し遅れてきたカムイの手を掴んで、引っ張り上げて、気付く。

右腕の肉がごっそりそげ落ちて、骨が露出していた。

「何、すぐに直る」

呆れた話だが、確かに再生は開始している様子だ。

自分の体も、滅茶苦茶な状態である。内臓もかなりやられているだろう。大きく嘆息すると、空を見上げた。

後、どれだけ時間は残っているのだろう。

平坂がどんな行動に出るか分からない今。この敗退は、相当に痛かった。

 

海岸線で休むのは、ヘリに見つかるのと同じだ。流石のカムイでも、寝ているところに高威力の爆弾を落とされれば危ないだろう。

カムイの弱点は、雛理にも分かっている。

コアだ。体の中にあるコアさえ砕けば、カムイは死ぬ。オンカヌシも、おそらくは同じだ。

逆に言えば、海での失敗も、コアが砕かれなかったから死という結末には至らなかったのだ。

ジャージ先生はどう思っているのだろう。自分の体がずたずたになって、悲しくないのだろうか。

そう考えることができたのが、最後の抵抗だった。

森に入り込んでから、地面に転がってひたすら眠った。

土の匂いが心地よい。

濡れた服が体に張り付いていたが、もう気持ち悪いとは感じなかった。風邪を引く心配も、なさそうだった。

或いは、もう裸でも良かったかも知れない。

だが、人間として残っている最後の良心が、全裸での行動を拒否していた。どれほど汚くても、衣服を纏っている方がまだマシだ。

目が覚めては、また眠って。

泥のように眠って、痛みに叩き起こされて。また眠った。

目が覚め始めたのは、陽が高く登りはじめた頃。自分のダメージがどれくらいか、しっかり分かってもいなかった雛理は、半身を起こそうとして、失敗した。

左足の踝から先が、半分無くなっている。

再生してこれだと、一体どうやって歩いていたのか。

ジャージ先生の方は、右耳が無くなっていて、左手も中指から小指までがごっそり削り取られていた。

だが、再生している様子ではある。コアは、無事だったとみて良いだろう。

まず、何かを食べなければならない。

海に出る前、食糧などの物資は、森に隠しておいた。それを探しに行く。

半時間ほど掛けて、物資を見つけた。どれもレーションばかりだが、これでも食べないと、まず狩りをする体力がつかない。

缶詰を開けて、食べ始める。

チョコレートも口に入れた。少しずつ、栄養が体に行き渡っていくのが分かる。泥まみれの全身が、少しずつ回復していく。

匂いにつられたのか、ジャージ先生が目を覚ます。

無言で、開けていないレーションを渡す。

もう残りは、わずかだ。

「まだ、回復しきってないね」

「カムイはどうしました」

「眠ってるよ。 よほどダメージが大きいみたい」

新田と相打ちになった後も、カムイはずっと眠ることを選んだ。眠ることで、ダメージを回復できるのだろう。

しかし今はそれよりも早く回復しなければならない。

レーションを食べるジャージ先生を横目に、森に分け入った。何か得物がいないか。意識を周囲に向ける。

大きな蜂の巣があった。

見た感じ、スズメバチだ。今なら手づかみで食べられそうだが、止めておく。

森の中を歩いていると、足の方の傷はふさがっている様子である。後は肉が盛り上がってきて、元に戻るのだろうか。

回復が早い。

今までは、内臓の回復に当てていたのだろうか。

ばったり、それと出くわす。

超大型の齧歯類だ。カピバラよりもさらに大きくて、立ち上がった背丈が一メートル半はある。ずんぐりした体型から言って、体重も三百キロ以上はありそうだ。毛は短く、目がくりくりしていて、毛皮は真っ黒だ。尻尾は鼠のものにしては太く長く、平たい。

無言で側頭部に蹴りを叩き込み、頭蓋を砕く。

横倒しになった死体の頭を掴んで、引きずっていった。

持ってきた巨大な鼠だか兎だかの死体を見ると、ジャージ先生は何も言わず、薪を集め始める。

木から吊して、首を手刀で切って、血を流す。

後は適当に切り分けながら、火を熾したジャージ先生に、肉を渡していった。

内臓を出すと、中身は寄生虫だらけだ。

巨大なミミズのような虫が、無数に蠢いている。多分肉の中も寄生虫まみれだと思って間違いないだろう。

消化器は流石に捨てるが、それ以外はもう、虫ごと焼いてしまう。

頭蓋骨を割って、脳みそを出して。それも丸焼きにして、かぶりついて食べた。

三百キロの巨体を食べ尽くすと、流石に少し元気が出てくる。

傷の回復も、心なしか早くなってきた様子だ。

「おかしいね。 こんなに虫だらけなのに、気持ち悪くもないや」

「私達きっと、もう精神からして人間じゃ無いんですよ」

「そうだね……。 でも、不思議だよ。 子供達を守りたいって気持ち、まだあるんだから。 あれだけ、裏切られたのに」

子供だから仕方が無いと、諦めている部分はあったと、ジャージ先生は言う。

彼女からして見れば、命を賭けて守った子供達だ。心の整理がつけば、きっともう大丈夫、なのだろう。

雛理は、同じ状況だったら許さない。

それだけ、ジャージ先生の心は、強いという事なのだろう。

少し眠ってから、また獲物を捕りに行く。

さっきの巨大な鼠のような生き物は、群れをなしていた。二本足で歩いて、前足で簡単にものを掴めるようだ。もっとも左右から掴むだけで、霊長類のように器用に手として使っているわけではないが。

数千万年前から数百万年前にかけて、巨大な齧歯類が南米を中心に生息していた、という話があるらしい。

以前は話半分に聞いていたのだが。或いは、そういった鼠かも知れない。

だとすると、史上最大のほ乳類であるバルキテリウム(現在ではパラケラテリウムという正式名称がある)がいてもおかしくは無さそうだ。そう思いながら、雛理は二匹目の鼠の頭蓋を蹴り砕いた。仲間が殺されても、鼠は不思議そうに此方を見ている。子供に至っては、興味津々に此方を見ている有様だ。

この森の動物たちは、あまりにも高速での巨大化を続けている。

あの鼠たちのように人間に対して警戒しない種族が現れてもおかしくない。しかしあの危機感のなさ。体の大きさだけで、外敵を退けている種族なのだろうか。

下の神林は、今どうなっているのだろう。

数日おいただけで、滅茶苦茶な有様になる森である。既にアマゾンをも越える秘境とかしていてもおかしくはなかった。

二匹目の鼠を解体する。

やはり体内は寄生虫だらけだった。

だが、二人とも、鼠ごとやいて食べてしまった。

嫌悪感は沸かない。

むしろ肉の味が、好ましくて仕方が無い。手も顔も、油だらけにしながら、巨大鼠の肉を食べる。

骨から肉を引きはがして、消化器以外の内臓は、全て平らげてしまった。

二度目の食事が終わると、既に夜になっていた。たき火を挟んで、膝を抱えて座る。

傷の回復が進んでいるのだが、その分痛い。ジャージ先生も、痛いのは同じのようだ。時々、眉をひそめている。

「平坂さん、どこにいるんだろう」

「……」

応える術は、雛理には無い。

一度移動したからには、もう居場所は見当もつかない。

唯一残されているのは、神林にある平坂のベースを襲うという手段だ。そこで奴の部下を捕らえられれば。平坂の位置を、拷問で吐かせることが出来るかも知れない。

だが、もしも平坂が、既に全世界で泥洗を実施する目処を立てていたら。

時間は無い。即座での対応が必要になってくる。

気になったので、神林の方を確認。

ヘリの気配が無い。

もしかすると、既にベースも引き払っているのか。そうなると、完全に八方ふさがりだ。

あの敗北から丁度二日くらいが経過している。平坂も相当な痛手を追っているはずだが、既に動けるなら動いているはずだ。

小さめの骨を口の中でかみ砕きながら、思考を巡らせる。

もしも、先回りができるとしたら、一カ所しか無い。

アーニャが言っていた、退路。

其処だ。

如何に平坂がこの泥洗を制御していたとは言え、自身だけルールを曲げて出入りするようなことは無い筈だ。

「もう一度、筏を作りましょう。 今度は北に出ます」

「でも、また罠があるんじゃないの」

「カムイさん。 出てきて貰えますか」

すっとジャージ先生の目つきが鋭くなる。

まだ眠いようだが、人型カムイは、きちんと出てきてくれる。

「何か余に用か。 今は少しでも力を回復したいのだが」

「この空間の出口は」

「あん?」

「恐らく平坂は、そろそろこの空間から出ます。 もしも、平坂を止めるとしたら、其処が最後の好機です」

平坂の位置が分からないとしても、唯一此方がアドバンテージを取っているものがある。

それは、この異常な隔離空間を作った存在が、味方にいるという事だ。明確な味方では無く、利権が今の時点では一致している、と言う程度の関係だが。それでも今は充分である。

ただし、人型カムイの方は、正直平坂の説得に応じかねない。

その場合は、ジャージ先生の意識に出てきてもらうしか無いだろう。

「オンカヌシよ、これが最後の好機だと言ったな」

「ええ。 おそらくは」

「ならばやむを得ぬ。 ヒラサカとやらには、まだ聞きたいことがいくらでもある。 今度こそ、奴との間合いをゼロにしなければなるまい」

腰を上げるカムイ。

まだ、傷は回復しきってはいないが。

それでも、動かなければならなかった。

 

手術は、すぐに終わった。

問題になるのは、もともと平坂の体の方だったのだ。手術の理論は至極簡単なのだし、やることも然り。時間が掛かろう筈は無い。

術後の経過は、医師が心配した割には、極めて順調だ。

人工人型カムイの実験も、既に始めている。実験室の様子は、岸田が大興奮して中継してくれるので、内容は手に取るように分かった。

「すごいよこれ! 泥洗での封鎖効果が、一瞬で解除されたよ! 小規模とはいえ、すごいね!」

「素晴らしい。 兵器としては完璧なのでは無いか」

「んーん、それはまだまだ」

岸田によると、今回出口を封鎖していた小規模泥洗を一瞬で解除できたのは、小規模すぎたことが大きいのだという。現時点で、斑目島を覆っている変異効果を解除するのはまず無理だとも、残念そうに岸田は言った。

実際、ヘリで現地を確認していた黒鵜も、封鎖が解除されたと連絡してきている。

出口方面に、米軍の姿は無し。

アークライの件は不可解だが、これは既に、最終フェイズが完了したとみて良いだろう。ついに、平坂の野望を実現できる日が来たのだ。

「私の体内に入ったカムイの力が馴染んでから、此処を出る事にする」

「本当に、実施するのですか」

「黒鵜。 今更何を言うのかね」

この作戦を開始する前に、既に説明はしてあったはず。

腐った世界を浄化するための作戦であると。

自爆テロしか考えていない連中とは違う。これから行うのは、地球規模の環境改変で有り、万物の霊長などとおごり高ぶることになった人類の調整である。

「君も、自分を排斥した世界に対して、怒りを感じていると言っていたでは無いか」

「それはそれです。 もう少し、穏健なやり方はできないのでしょうか」

「無理だね。 それをやるには、現在の文明は爛熟しすぎた」

平坂が思うに、宗教の後継を見つけることができなかった時点で、人類は限界を迎えてしまったのだろう。

かって道徳の規範となっていた宗教には、多くの問題があった。

だが、宗教が科学の発展と共に否定され。

その後に、人類は何を得ただろう。

代わりに台頭してきたのは、民族主義や国家主義。それにカルトに過剰すぎる科学依存症。

特に科学の力は、とっくに人間が使いこなせる範囲を超え、破滅へと自らを押しやるばかりである。

「人間の最大の失敗は、自分を万物の霊長と錯覚したことだ。 今、カムイという人間外の力が現れることで、やっとその錯覚を打ち破ることができる。 なに、先人の知恵や知識は、既に集積済みだ。 今までの愚劣な歴史の積み重ねも、無駄にはしないさ」

「……」

黒鵜が通信を切る。

馬鹿なことをしなければ良いのだがと、平坂は思った。もっとも、世間一般の基準で言えば、もっとも馬鹿なことをしているのは平坂か。そんなものはどうでも良いのだし、お互い様かと思うと、少し面白くなってきた。

いよいよだ。

ずっと離島ベースとして活用してきたこのメガフロートを、この海域から出す時が来た。

体の調子は悪くない。

カムイを体に入れることにより、怪物化するリスクも考えてはいる。

だが、それはそれでかまわない。

正直な話。

平坂は、もう人間の体に、未練など無かった。

更に言えば、平坂が死んでも計画は動くように、調整はしてある。既にマニュアルは回してあるし、訓練も実施済みだ。

そして、外との通信が回復した今。

データのバックアップもはじめさせている。研究の成果などを、外にあるデータバンクに蓄えている途中だ。あと数時間もあれば、完璧に終わるだろう。勿論最新鋭の暗号化を使っているから、解読される畏れは無い。

カムイの力は、まだ平坂に影響を及ぼさない。

カムイ化するのではなく、人型カムイの血を直接体内に入れたのだ。もっと激烈な効果があってしかるべしと思ったのだが。

そういえば、岸田も未だに体に変化は無い様子だ。

あれだけ派手に、神の血を浴びたというのに。おかしな話である。

このまま何ら変化は無いのかも知れないと、一瞬不安になる。

だが。映像の向こうで、喜びくるくる廻っている岸田に、異常が起きたのは、その時だった。

全身が、拉げる。

笑い声が狂ったように響く中、岸田の背中から、無数の触手が生えだしていた。それだけではない。

背中からは、蝙蝠を思わせる翼が形作られていく。

そして、岸田自身が、見る間に痩せていったのである。残念ながら、岸田は痩せても美男子とはとうてい言いがたい造形であったが。

「うがっ! げっ! ひひひ、ひひひひひひっ!」

映像が乱れる。

見ている人間が、怯えてカメラを揺らしてしまったのだろう。

周囲の研究員達も、固唾を呑んで見守る中、岸田は人間を確実に止めていった。素晴らしい成果だ。

今まで、カムイはどうやっても人型の成体にならなかった。

特に精神は、完全に獣と化してしまう。

だが、岸田は、人間のまま、怪物になっていく。羽が生えたり、触手が出たりする事くらい、なんだ。

「ふひゃはあああああ! 何だかからだが軽いよ、平坂ちゃん!」

「鏡を見てみると良いだろう、岸田博士」

「どれどれ」

触手を早速器用に使って、鏡を手近に取り寄せる岸田。

残念ながら、それで岸田は喜ばなかった。

「あれ? ボク、痩せた!?」

「太っている方が良かったのかね」

「うん。 どっちかというと、そのままぽっちゃりの方が良かったかなあ」

どう考えても、適正体重を五十キロは上回っていた岸田が、その表現を使うのはおかしい気がする。

見ている内に、岸田の額からは角が生え、口の牙もとがっていくのが視認できた。

多分、戦闘能力自体も、相当に高くなっていることだろう。

これは、平坂の方も、期待出来そうだ。

ただし、人間の体に、無理な負担を掛けているのだ。

岸田が意図的かどうかは兎も角、平坂とともに実験台になったのである。結果を慎重に見極めて、今後は行動する必要がある。

やがて、岸田の体の変化が止まる。

いにしえの時代に現れたら、恐らく悪魔と言われたことだろう。全体的に体つきはたくましくなっているが、既に人間とは言いがたい背格好でもある。身長も、三メートル近くまで伸びていた。

「なんだか、もっと触手が多い方が便利だったなあ」

声も、若干低くなっている。

周りの研究者達が固まって震えているのを一瞥すると、岸田は言った。

「ねえ、平坂ちゃん。 もっと人型カムイの研究してもいいかな。 人間の形のまま作れたら嬉しいし、それに人体実験もしてみたい!」

「そうだな、人体実験は、この海域を出た後だが」

「ええー」

「人型カムイの研究自体は進めてくれ。 ただし、泥洗用のウィルスの生産と、現在完成している第二号の制御研究を優先的にな」

「分かってるよ、平坂ちゃん」

勿論一号とは、あの女教師のことだ。

通信を切ると、その時を、待つ。

体に異変が起こり、平坂が人間では無くなる、その時を。

 

黒鵜はメガフロートにヘリを着陸させると、どうしたら良いのだろうと、心底から悩んだ。

平坂に、今回の作戦について、事前に説明はされている。

実際問題、泥洗の発生に一番関わったのは黒鵜だ。最悪のダーティワークだったし、島の住民を皆殺しにしたのも同然である。

だが、その程度のダーティワーク、今までにいくらでもこなしてきた。

ただ、今回のものは、最終的な目標到達点の規模が違っていた。地球規模でのジェノサイド。日本に入り込んだ中東のテロ組織のメンバーを皆殺しにした事もある黒鵜だが、それでも経験が無い殺戮である。

狂気じみていると思ってはいたが、実際に進んでいくと、良心の呵責を感じるようになってきた。

斑目島を全滅させたときに、既に違和感はあった。

平坂のことは、今でも全面的に信頼している。やることに大義があるとも思っている。諌言することは仕事だし、それを求められているので、今後も止める気は無い。

ただ、今は、本気で平坂を止めなければならないかも知れないと、思い始めていた。平坂が、少しずつおかしくなっているのが、肌で感じられるからだ。岸田でさえ、カムイの危険性は理解していた。平素の平坂だったら、分からない筈も無い。

闇世界の組織の長とは言え、平坂は理性的だ。復讐が根底にあるとはいえ、社会を冷静に見据え、その弱点をしっかり把握している点で、殆ど全ての人間よりもずっと賢い人物だとも言える。

今の平坂は、今までと同じと言えるのだろうか。

首を横に振る。

手元には、刻一刻と変わる情報が、入り続けていた。

部下達は、黒鵜を嫌っていても、軍人としては信頼している。司令官としても、である。肩を撃ち抜かれてからも、黒鵜は仕事を休んでいない。ずっと状況の把握に努め、最小限しか眠っていない。

自分の体を機械的に制御しながら、黒鵜はそれでも時々人間的に思うのだ。

今しか、平坂を止める機会は無いのではあるまいか、と。

メガフロートは、昨日、人型カムイの襲撃を退けた辺りから、ずっとゆっくりと動き続けている。

今は斑目島の南海域にいて、ゆっくり西に向かっている所だ。

航行能力があるとはいえ、所詮島。移動速度は決して速くない。ただし、海上での移動となるから、レーダーでも無い限り、位置を割り出すことは不可能だ。

もし平坂がゴーサインを出したら、そのまま海域の封鎖を全面解除。まずは沖縄に向かって、そこを泥洗で壊滅させる。それが成功させたら、全世界で同時に、一斉に作業を行うという。

沖縄での作業は、恐らく三日と掛からない。

あのおぞましい脳みそだけの人型カムイが手に入った今。わがままな人型カムイの機嫌を取ることもないし、より効率的に大量虐殺を行える。

惨禍は、核戦争すら上回るだろう。

沖縄以降は、各地に散った組織の者達が、一斉行動。核テロよりもタチが悪い、最悪の大量虐殺が世界を襲うことになる。

人類は文字通り壊滅する。

何しろ、自然そのものが敵に回るのだ。しかも、分かり易い脅威と違い、気がついたときにはもうどうしようも無いという状態なのである。

規模次第では、大陸を一日で泥洗できるとも、あの岸田は言っていた。

しかし、岸田が平坂を狂わせたわけでは無い。

岸田が道具に過ぎないことは、黒鵜だって分かっている。平坂を狂わせたのは、もっと狂っている、世の中そのものだ。

一度、事務所に戻る。

上がって来ている報告書に目を通した。既に、斑目島本島のベースは、撤退を開始。物資も資料も、続々とメガフロートに引き上げてきていた。

封鎖解除してから、外から来た情報もある。

不可解な、あのテロについても、続報が入っていた。

アークライという男の軍産複合体は、全く混乱していない。それどころか、アークライらしい男の姿が確認されているらしい、という。

やはり、影武者だったのか。

部下達が、不安に駆られて会話をしているのが分かる。内容までは完璧には聞き取れないが。

この部下達も、平坂に掌握されてはいるが。しかし、カルト集団のように、洗脳されているわけでは無い。

現在の社会に不満を持ち、平坂の部下になったものが殆どだ。

平坂個人に深い恩義を持つ者も多い。

ヤクザの仁義などは現在では笑い話に過ぎないが、そういった概念に近いものを、確かに平坂は持っている。

否、持っていた。

だから、多くの人間が、その魅力に惹かれた。

今は、魅力が恐怖に変わりつつある。既に化け物の一部を移植した平坂は、いつ怪物化してもおかしくないだろう。

いや、心は既に。人では無いかも知れない。

ヘリを降りると、司令部に。

平坂が、秘書官を伴ってきていた。医師に寝ているように言われていたはずだが、すこぶる壮健な様子である。

「お体は大丈夫ですか」

「多少興奮気味かな。 不調は感じない」

「して、此処には何用でありますか。 今の時点では、新しい情報はありませんが」

オペレーター達は機器に向かい合って、情報を集めているが。退屈そうにしている者も少なくない。

本島基地の引き上げも既に目処が立ち、人型カムイの襲撃も可能性が殆ど無くなっている。基地の外には巨大な動物がうようよし始めているという情報もあるが、近代兵器の敵では無い。

たとえ、史上最強の肉食陸生動物であるティランノサウルスがいても、だ。

もちろんそんなものはいない。

「私の中で、カムイの力が形を為しつつある。 恐らく、明日には目に見える形になって表れるだろう」

「司令……」

「どうした。 何故嬉しそうにしない」

「もう、どうにもならないのですね」

この作戦を開始したときから、既にどうにもならない事はわかりきっていた。

実際問題、民間人を百人以上虐殺したのだ。しかも生物兵器として、転用したのである。生物兵器では無いカムイにしても、人間の尊厳を可能な限り最悪な形で蹂躙したことは疑いない。歴史に残るレベルの極悪人だ。

そして、黒鵜はそれに積極的に手を貸した。

どうしてなのだろう。

なぜ、今になって罪悪感がこみ上げてくるのか。

細かい打ち合わせをすると、平坂は病室に戻っていった。黒鵜は自室に戻ると、珍しく酒の瓶に手を伸ばしていた。

休憩時間は、ある。

今まで使わなかっただけだ。

そのまま強い酒を、一気に飲み干す。原酒だが、今ではそれでも酔えないような気がした。

 

4、終焉の始まり

 

森の気配が変わった。

今まで、野放図に巨大化するばかりだった森が、明らかにおかしな雰囲気に包まれはじめている。

最初にそれに気付いたのは、雛理では無い。

筏を作るために、木を切り倒していた、ジャージ先生だった。彼女は手を止めると、じっと神林を見つめた。

「どうか、しましたか」

「森が、悲鳴を上げてる……」

「悲鳴?」

そういえば。

神林から、強烈な負の気配を感じる。今まではそんなもの、感じる事はできなかったのだが。

オンカヌシになってから、そういった力は、感じられるようになっていた。

雛理は、嫌な予感を感じた。

だから、ジャージ先生の手を引いて、一度崖に向かう。作業は一時停止。異変を確認する方が先だ。

崖に出て、そして思わず、動きが止まる。

森を見つめる。

一日単位で巨大化していた森が。

明らかに、その成長を止めていた。

異常成長の理由は、カムイの力と、オンカヌシの力が混ざったが故というのは、何となく見当がついていた。

おそらくは、カムイの血による泥洗だけでは、こうはならかったのだろうと。

逆に言えば。

既に、その異常な歪みは、この時限界を迎えていたのかも知れない。

無意味に巨大化しすぎた存在。それは、決して制御あっての事では無い。制御無く肥大化し巨大化していった結果。

何が、その先に生まれるかは。

この時、やっと理解できた。

森が、盛り上がる。

違う。

おそらくは、木々の根が、複雑に絡み合いすぎて、そしてパワーがあまりにも集まりすぎた。

土に還元されてきた高純度のパワーは、しかし、今行き場を無くしてしまった。

動物たちを巨大化させ、川に住む魚たちを怪物のようなサイズにし。そして、多くの人間の負の思念を蓄える、狂気の電池とかしていた森が、今、そのエネルギーを、全て抑えきれなくなりつつある。

爆発音。

衝撃波が、森の木々を、なぎ倒していくのが分かった。

どうしてだろう。逃げる気にはならない。それを見届けなければならないと、何処かで思っていたから、だろうか。

崖の上の此処まで、衝撃波が来る。

森の真ん中で爆発が巻き起こり、土が、木々が、吹き飛ばされ、噴き上げられた。

そして、はじめて分かる。

森の土の奥には。

巨大な暗黒が、存在していたのだと。

それは穴には見えなかった。巨大な黒い塊。闇が蠢く、地獄への入り口。

もはや姿を隠す必要もなくなった、亡者を招く、死への扉。降り注ぐ土の中、何かが、せり上がってくる。

生き物では無い。

だが、物質でも無い。

真っ黒な塊が、穴の奥からせり上がってきて。そして、タールがはじけるようにして、周囲に飛び散る。

黒き闇の流動体が、広がりはじめる。

どうしてだろう。森の悲鳴に混じって、凄まじい怨念を込めた、唸り声が聞こえるような気がする。

否、それは気のせいでは無い。

あの黒い闇は。

「オンカヌシ様」

「おお、オンカヌシ様が、見ておられる」

「オンカヌシ様、我らをお救いくだされ」

「苦しみから解放してくだされ」

はっきり聞こえはじめる。

穴の奥底からあふれ出る黒い闇は、雛理の耳を打つ。まるで頭が縛られたように、視線を動かすことができない。

広がりゆく闇の液体は、巨大化した木々や動物を、ことごとく飲み込んでいく。

むやみやたらに広がり続けた森は、穴の奥から溢れる闇に、溶けて消えていく。

神林が、終わる。

カムイが、隣で、諦めるように言った。

「そうだ、思い出した」

「カムイ……?」

「かって、余は人間と共存していた。 だが、人間は、己の思念を闇に返す方法を編み出した。 埋葬、と呼ばれる儀式だ」

闇が、広がりゆく。

怨念の声は、更に強くなっていく。

分かる。

あれは、具現化した、オンカヌシだ。

そして、今だから、理解できた。

この森は。カムイそのものだったのだ。それは大きくなるはずである。巨大なオンカヌシと、それに乗っかったカムイが、相互に栄養を与えあっていたのだから。つまり、森にいた生物は、カムイに血肉を受け、オンカヌシの栄養を得て育った生物たちだった。

だから、そもそも、この森は。

二つの神が生み出した、異形そのものの体内。白血球や赤血球、それに近い存在達だったのだろう。

そしてオンカヌシは、恐らく島そのものの地下に、ずっと存在していたのだ。

ニエの一族の怨念は、行き場を無くして、島の地下に擬似的な地獄を作った。

それは理屈で理解できる存在では無い。

残虐で、邪悪で、救いようのない仕打ちが。現実を、幻想以上におぞましく、無惨極まりないものへと変えていったのである。

「そうだ、オンカヌシ。 今こそ、言わねばなるまい。 私は神と呼ばれる存在で、お前は悪魔と呼ばれて来た者だとな」

「……」

「人間は死者を弔うためと称して、その怨念を森に閉じ込めた。 世界の支配者である森を、内側からくらい尽くすために。 やがて森は、世界の支配者である座を明け渡し、人間に良いように搾取されるようになっていった」

ああ、オンカヌシ様。

貴方の姿が見えます。

貴方がお救いくださる日を、待っていました。

無数の懇願が、雛理を包む。

雛理の祖父母のものも。そして、生まれてすぐに面白半分に殺されたという、雛理の兄弟姉妹の者達も。

その声には、含まれていた。

にくい。にくい。くるしい。くるしい。たすけてほしい。

われわれがなにをした。

「ニエの信仰とは、おそらくは、森を支配者から引きずり下ろすための、最古の信仰に、政治的な意図が混ざり合い、うみだされた忌み子なのであろう。 そして、悪魔の名の通り、時に制御できなくなった悪意の塊は……」

「島を襲い、壊滅状態になるまで、食い荒らしたと」

絶叫が轟く。

それは、苦痛の声では無い。

オンカヌシが上げる、歓喜の声。

自分を救ってくれるはずの、オンカヌシそのものを見て、何万か知れないニエの無念が、雄叫びを上げたのだ。

森が、闇に溶けていく。

それは、人間が、森を食い荒らしていく光景と、何一つ変わらない。

川が汚れていき、木々が朽ちていき、動物が死んで骨になっていく。

そうか。

遙か昔から、人間はこのような生物だったのだ。森と共存するなどと言う文明は存在しなかった。

最初から、人間は、森を食い荒らすつもりで、そして支配するつもりだったのだ。

ひょっとすると、仏教などに出てくる地獄の描写や、古代神話に出てくる最終戦争の真実は、斑目島を襲った破滅と同じ類のものだったのかも知れない。古代はより信仰が原始的で苛烈で。それが故に、自然を支配する装置としての「信仰」は、より激しく、副作用が強烈だったのでは無いのだろうか。

その結果、たびたび邪悪は、地上に漏れ出。破滅と悲劇と災厄をもたらし続けた。

ひょっとして、古代文明の幾つかは、こうして滅んだのではあるまいか。

笑いがこみ上げてくる。

何が万物の「霊」長か。

これでは、まるで。

「人間を模倣して悪魔が生み出されたという話がありますが、これは違いますね」

「ほう、具体的にはなんだ」

「人間こそが、悪魔そのものであった。 そういうことです」

爆発音。

耳を塞がない。

それは、待ち焦がれた存在を目にした、哀れな迷い子達の声だったのだから。

「一つ、良い事を教えてあげますよ、カムイ」

「何だ、オンカヌシ」

「恐らく、平坂の作戦は失敗するでしょうね。 この島だけで、これだけの怨念を蓄え込んでいるんです。 文明の発展のため、森を効果的に殺すべく、信仰を蓄えてきた他の土地は、一体どうなっていることか」

恐らく、北海道での実験は。

殆ど人間が根付かない島で行ったから、たまたま上手く行ったのだ。

人間の文明など、どれも似たり寄ったりだ。

どの世界の、どの国の土地も、こんな有様だろう。

そして、カムイは、もう二度と地上の覇者には返り咲けない。名前を変えても同じ事だ。

この世界は、悪魔にこそ都合が良いように調整されている。

それが、この島での悲劇で、はっきりしてしまった。

まだ、解らない事は幾つもある。

どうしてジャージ先生は、人の形のまま、カムイになったのか。

そもそも、この島では、本当は何が起きていたのか。細部については、分からない事は、まだ多い。島民達はどうしてあのような有様へ落ちていったのか。それも分からない。

だがしかし、気は楽になった。

平坂は、終わりだ。

「カムイ、予定通り、筏を仕上げましょうか」

「平坂に、とどめを刺しに行くのか」

「ええ。 おそらくは、平坂もその方が幸せでしょう」

森が、眼下で見る間に溶けていく。

恐らく、近いうちに平坂の基地も飲み込まれるはずだ。それだけではない。森を覆っている岩壁も、溶けて消えるだろう。

島はもとの形になる。

最初から、何も無かったように。

人間だけが消え失せるが、またどうせ島にはどっと人間が押し寄せてくることだろう。世界中、どこでも、そうだったように。

人間が増える速度は、限度を知らない。

「一体私達の戦いって、何だったの……?」

多分、ジャージ先生の声だ。

だが、雛理は。あえてそれには応えなかった。傭兵の時だったら、応えられたかも知れない。

しかし今の雛理は、もう傭兵では無く、人間でさえなかった。

 

平坂の病室に入った黒鵜は、言葉を失っていた。

誰もそこにはいない。

秘書官が、腰を抜かして、床にへたり込んでいる。

彼女が指さす先の窓は、割れていた。内側から、巨大なものが突き破ったように、である。

「何が起きた」

普段寡黙で仕事熱心な秘書官だが。

何も応えず、首を横に振るばかりだった。

病室のベッドの脇には、手紙が置かれている。遺書に間違いなかった。「人間」としての、平坂の遺書だろう。

既に平坂も、斑目島で何が起きているか。そして、その正体については悟っていたはずだ。

悪い夢から、平坂は覚めるには。

あまりにも、遅すぎたのである。

「全員集めろ。 今すぐにだ」

幸い、本島のベースからは、既に退避が済んでいる。

此処にいる人間で、全てだ。

手紙には、最悪の場合の行動指針が書かれている。それに従って行動することで、皆を納得させることはできるだろう。

頭を振る。やはり、破滅しか前には残されていないのか。

岸田もいないという。化け物になり始めていたようだし、無理も無いか。

大きく嘆息すると、黒鵜は天を仰ぐ。

もはや、事態の収拾は。彼の手には余る所にまで来ていた。

 

(続)