カムイの真実

 

序、北海道から伝わりしこと

 

21世紀に入ってすぐのことである。

日本の果て、北海道で、ある事件が起きた。地方大学の研究チームが、人跡未踏と呼ぶに相応しい荒野で、「それ」を発見したのである。

元々考古学の研究チームではないし、アイヌの民俗学研究チームでも無かった。

北海道の地層を調査して、古代の生物について調べている、しかも設備も人員も、大手の大学に比べればお遊びのようなチームであった。

しかし偶然とは恐ろしいもので、この遊び半分で来ていたようなチームが、とんでもないものを見つけてしまったのだ。

それが、カムイ。

古来より、北海道のアイヌ民族に伝わる「神」であった。

大学の研究チームからすぐにそれを買い取った平坂は、独自に研究を開始。やがて北海道の端にあるちいさな島を使って、盛大な実験を開始した。

そして、泥洗を発生させ、その凄まじい効果に驚愕したのである。

いにしえの神々は、決して存在せぬ幻では無い。

かって人間をも怖れさせるほどの存在が、この世には確かに「いた」のだ。

多数の人命をゴミのように浪費しながら行っていった実験は、しかし頓挫する。神は人間が扱えるような代物ではなかったのである。

かろうじて被害の拡散を食い止めた平坂は、だが諦めてはいなかった。

そして、斑目島に、目をつけたのである。

 

「カムイの本体は、一種のウィルスでね」

歩きながら、平坂が楽しそうに講釈してくれる。背中にデザートイーグルを突きつけられているというのに、剛毅なことである。

いや、この男は、剛毅というのとは、少し違う。

強いて言うのならば、頭のネジが外れている、というのが正しい。

「通常時では何ら力が無いし、他のウィルスと違って感染力も無い。 だが、ある条件を満たすと、爆発的に増殖し、一種の環境改変ナノマシンとして機能するのだよ」

「その条件とは」

「それは、君が連れている、情報を取り出す存在に聞くと良いだろう」

平坂は、どうやら雛理がサイコメトリーを行えるアーニャを抑えたことに、気付いているらしい。

行動から読まれたのかもしれない。

この男は、頭が切れる。それくらいの分析は、できても不思議では無かった。

歩きながら、平坂はなおもいう。

「だが、オンカヌシについては、解析が進んでいない」

「それで?」

「君のオンカヌシ化を止める手段は無いという事だ。 絶望したかね」

「既に私は、優先順位を変えています」

この島を脱出したら、剣に全てを告げる。

平坂を抹殺し、その組織を壊滅させたら、雛理はどことも知れぬ孤島で、静かに余生を送るつもりだ。怪物化がはっきりした場合は、身投げでもしてさっさと命を消す覚悟もできている。

もっとも、それは、全てが上手く行かなかった場合だが。

最後まで諦める気は無い。

もしもどうにもならない場合は、脱出して情報を外に伝えることを優先する。そう決めただけだ。

合流地点に着いた。

アーニャはいない。まだ到着していないという事か。

傷の状態を確認。

痛みは酷すぎて、もう麻痺に近い。傷口からはずっと黒い血が流れ続けていて、止まる様子は無かった。

おかしいのは、これだけ血が流れても、意識が消える様子が無い、という事だ。

普通だったら何度も気絶していてもおかしくない。

やはり雛理は、もう人間を止めてしまっているとみて良いだろう。悪い意味でも、そして良い意味でもだ。

気配が近づいてくる。

いつのまにか、至近にいた。ジャージ先生だ。

ジャージはボロボロだが、どういうわけか、傷は殆ど見当たらない。高速で修復したのだろうか。

感じる気配が、以前は根本的に違う。

「お前は見覚えがある。 雛理だな」

「ジャージ先生……」

「ヒラサカとやらを捕らえたか。 そこそこに仕事はできるようだな。 褒めてつかわす」

いきなり王侯貴族のようなしゃべり方である。

カムイという存在、或いは自身を人間の上位存在とでも認識しているのだろうか。だとすれば、滑稽だ。

今の人類は、かって怖れられた神々を凌ぐ力を手に入れてしまっているのだから。

ようやく追いついてきたらしいアーニャ。

茂みをかき分けて現れた彼女は、雛理の怪我を見て、息を呑んだようだった。だが、今は時間が無い。

「アーニャ」

「は、はい!」

声を掛けたのは、意外にもジャージ先生。

今、生き残るために。

少しでも多くの情報を、得なくてはならない。そして、これは第一歩。

平坂は悠然と構えている。

そして、触られても、全く動じる様子が無かった。

この男は、一体何の隠し球を持っている。それとも、ただのブラフなのだろうか。だとすれば、その精神は超人的すぎる。

戦場でも、これほど精神的なタフネスを備えている相手には、出会ったことが無い。

「……」

絶望的な表情を、アーニャが浮かべる。

やはり、助かるのに必要な情報は、無かったか。

「さて、殺すか」

「まちたまえ、カムイよ」

「何だ人間、命乞いか」

「そうではない。 貴殿にもためになる情報を、私は持っているのだが」

反射的にデザートイーグルに手を掛ける。

この男、まさか。

カムイとなっているジャージ先生に、取引を持ちかけ、成功させる宛てがあるのか。一か八かの行為には見えない。

既に情報をサイコメトリーで奪い取った今、此奴にはもう用は無い。

存在は、人質としての価値しか無い。

喋ることができない状態にしておいて、取引の材料にする以外の使い道が無いのだ。喋らせるのは、危険すぎる。

だが、デザートイーグルの引き金を引く前に、カムイが反応してしまった。

「ほう、話してみよ。 内容次第では、命を助けてやろう」

「ジャージ先生!」

「カムイだ。 そのあだ名で呼ばれていた者は、既に死んだ」

二度は言わぬと、カムイは言い捨てる。

次に同じ名で呼べばきっと殺されるだろう。アーニャは震えている。カムイの言葉の一つ一つが、怖くて仕方が無い様子だった。

何か見たのか。

小声で聞いてみるが、答えは全くの逆。

触っても、何も見えない、というのだ。カムイが湛えている巨大な憎悪と、熟成された怒りだけが、見えたそうだ。

その深さ、強さは、まさに闇の深淵そのものだったという。

「私の目的は、現在の地上から、人類を一度掃討すること。 そのためには、神よ。 貴方の力が必要なのだ」

「ふむ、人類の根絶か」

「勿論新しい世界では、貴方にカムイの管理を一任したい。 人間もカムイも、適切な管理の下で、生かす世界。 それが私が理想とする、未来の楽園なのだ」

「……」

非常にまずい。

カムイ化しているジャージ先生は、まんざらでも無いと言う顔をしている。そして今、傷ついている雛理に、恐らく正気を保ったままの行成お爺さんが此処にいても、この人は止められない。

かって、平坂と同じようなことを言っても、笑い話になるだけだっただろう。

だが、カムイによる泥洗の破壊力を見た今となっては、それは笑い話では済まされない。そして、現実問題として、現在の社会に大きな不満を持つ人間は、それこそいくらでもいるのだ。

爛熟した文明、腐敗した社会、それに拡大する一方の貧富の差。

宗教はそれらから人を救うどころかさらなる泥沼に引きずり込み、社会の底に蓄積する闇は拡大する一方だ。

憎しみの連鎖は大きく強くなるばかりで、社会は既に行き詰まりを迎えてしまっている。

平坂のような男が登場したのは、当然の成り行きだったのかも知れない。

それだけではない。

人間以外の存在にとっても、現在の人間主導社会は、不快でならないはずだ。

そう、たとえば。

人間に追いやられた、カムイのような存在にとっては。

「つまり貴様は、余の力を使い、人類をこの地上から一掃するというか」

「は。 貴方さえ良ければ、その王道楽土の建設に、ご協力いただきたく」

「ふむ……面白い提案であるな」

カムイが視線で、雛理を牽制する。

今は余が交渉中だ、とでもいうのだろう。

思わず膝をついてしまう。痛みからでは無い。絶望からだ。この現在によみがえってしまった神は、一体何をしたいのだろう。

ふと、思い出す。

この人は。

子供達をこれ以上も無いほど愛していたのに。その子供達から、際限ないほどに拒否された人だった。

本人は全くそれを気にしていない風だった。

最後まで、子供達のために、命を投げ出してまで、戦っていた。

だが、それは本当に、そうだったのだろうか。

現在の日本では、相手の見かけが自分の基準から見て気持ち悪ければ、いかように差別しても良いという唾棄すべきおぞましい不文律がある。女子や子供には、それが特に顕著だ。

コミュニケーションの異常偏重が産んだ悪しき社会風習だが、この島にもその風潮は、確かにあった。

子供達も、それに準じた行動をしていた。

自分たちのために戦おうが。

命を捨ててまで行動しようが。

前と変わって、気持ち悪かったから。だから遠ざけて良い。信頼を踏みにじって良い。馬鹿にしても良いし、死を嘲笑っても良い。それが日本的な考え方で有り、子供達はそれにそって動いていた。

唾棄すべき悪は、ひょっとして、先生の心をむしばんでいたのでは無いのだろうか。

まさかとは思うが、ひょっとして。

ジャージ先生は、死んでいないのでは無いのか。カムイという存在は、或いは。

仮説が、膨らんでいく。

もしそうだとすれば、オンカヌシという存在は何なのか。

何故、新田や、行成お爺さんが先にオンカヌシになった。

雛理が、今。オンカヌシになろうとしている。

「だが、それには一つ条件がある」

「なんでありましょうか」

「お前の死だ」

顔を上げる。

其処には、銃を出した平坂と。銃撃されても、最初は平然としていたジャージ先生がいた。

だが。

すぐにジャージ先生の表情が強ばる。

「これは高度に圧縮した麻酔剤でしてね。 シロナガスクジラですら動けなくなるほどの凶悪な濃度にまで高めてあるのですよ。 人間なら即死するでしょうが、貴方なら」

「……っ」

「黒鵜、私だ。 回収してくれたまえ」

倒れるジャージ先生。しばらくもがいていたが、やがて動かなくなった。

銃を思わず平坂に向ける雛理。

平坂は動じない。

というよりも、この男は、ひょっとして。最初から、自分自身を囮にして、ジャージ先生を捕らえる気だったのか。

「君も来たまえ。 このくだらない世界に、終止符を打とう」

「断る!」

どれだけくだらなくても。

現在の世界が、歴史上もっとも平和で。

そして、宇宙に進出する可能性があって。

何より、人間が差別と戦争について、真剣に考えられる時代が来ているのは、真実なのだ。

利権がそれを邪魔している。

人間の本能が、それを嘲笑っている。

だが、それでも。世界大戦以前の時代に比べれば、まだずっとマシだ。

「分からぬかなあ。 神の力を得れば、人類の悲願が達成できる。 しかも一部の金持ちや権力者の思うような形、以外でだ」

「そのために、一度世界を滅ぼすというのか!」

「そうだ。 この世界に、もはや存在意義は無い。 というよりも、この島で言語を絶する迫害に晒されて育ち、戦場で人間という生き物の姿を見て育った君が、どうして人間などを庇うのかね」

別に、人間など庇っていない。

こんな島、滅んでしまえば良いと、ずっと思っていた。

実際、寛子の母を死に追い込んだのは雛理だ。今でも、もう一度あの女が現れたら、殺せる。

ヘリが来る。

自分にすがるアーニャに、今更に雛理は気付いた。

それが、隙になった。

意外に身軽にジャージ先生を担ぎ上げる平坂。元々体格は優れているのだ。それくらいはたやすいのだろう。ジャージ先生は体格的にも、さほど優れていなかった。かなり軽いのは間違いない。

「ついてくる気が無いのならば、其処にいたまえ。 情報はくれてやった。 これ以上は、譲歩する必要も無かろう」

「逃がすと思うか……!」

「今の君の状態で、私だけを撃てるかね?」

言われて、気付いてしまう。

指先が震えている。

普段だったら、絶対打ち抜ける相手が、遠くに見える。当てる自信が無い。いつもだったら、確実に出来る事が、今のコンディションではできない。

しかも相手は、ジャージ先生を抱えてしまっているのだ。

やがて、ヘリが降りてくるのが見えた。

無理だと、判断してしまう。アーニャの手を引いて、森の奥に。逃げた。逃げてしまった。

それから、どうやって逃げたのかは分からない。

気がついたときには、アーニャに見下ろされていた。

どうやら、湖側の洞窟に戻ってきたらしい。

完敗とは言えなかったが。

しかし、それに近い、屈辱的な結果であった。

 

1、カムイの訪れ

 

輸送ヘリで帰還した平坂は、まず医務室に直行させられた。

相手が甘噛みのつもりだったとしても、体長百メートルを超える大蛇に咥えられていたのである。未知の生物であるし、独自の病原菌などを持っていてもおかしくない。

検査を終えると、次は休むように言われた。

流石に幾つかの指示は出して、それで以降は殆ど無理矢理眠らされたので、閉口したが。しかし、結果的にはそれが正しかった。

ここしばらくの激務がたたって、相当な疲弊が出ていたのである。軽度の疾病が生じていたと、医師にも言われた。

薬を幾つか出されて、それを飲みながら、秘書官から説明を受ける。

捕らえた人型カムイは、今のところ眠っている。

常に高濃度の麻酔を点滴しているが、目を覚ましたら象どころのパワーでは無い事もあり、現在は本島の基地に収容しているという。仮設の基地だが、カムイを収容する施設も有り、今急ピッチで目覚めて暴れたときの対策をしているそうだ。

全てを聞き終えると、平坂は満足していた。

事前に作ったマニュアル通りに事が進展している。これならば、平坂が死んでも、問題は起こらなかっただろう。

それでいい。

平坂という頭が潰れただけで、この計画が頓挫するようなことは、あってはならないのだ。

「ふむ、なるほど。 大体満足すべき結果だな」

「岸田博士が、人型カムイを解剖したいと言っていますが、それはどうしますか」

「厳禁だ。 かの存在は、説得によって配下にしなければならぬ」

「分かりました。 そのように岸田博士には伝えます」

秘書官が資料を抱えて下がる。それを見送りながら、平坂は携帯を開いて、データを幾つか見る。

秘書官の発言に嘘は無い。また、携帯も壊れてはいなかった。一見すると市販品に見えるが、実際は大幅にカスタマイズしている特注に近い品だ。壊れたら落胆している所だった。

ノートパソコンも無事だ。これもオンラインゲームのサーバがこなせるほどの処理能力がある特製の品だ。値段以上に、今まで蓄えたデータも、使って来た実績もある。壊れてしまったら、がっかりしてしまう。

幾つかのデータを拾い出し、自分なりに分析を進めて行く。

その中の一つ。人型カムイとの接触は、今回とても有益な件の一つだった。

人型カムイと、対応してみて分かった事がある。

かの存在は、平坂を憎んでいる。おそらく原因は、平坂が、この島を滅ぼし、多くの子供を殺したこと。

つまり、母胎になった教師の怒りが、受け継がれているのだ。

些細なことだと平坂自身は思う。人類全体に比べれば、の話だ。今も発展途上国では、子供がゴミのように死んでいる。劣悪な労働条件で使い殺しにされ、臓器売買の餌食にされ、或いは銃を持たされ殺し合いをさせられている。

世界全体を変えなければならない今、それくらいは些細だと、平坂は割り切っていた。

一方で、斑目島で暮らし、子供達を慈愛の目で見守っていた人間にとっては、同じ見解をもてないことも承知している。

話をして、どうにか解決していかなければならないことだ。

プラスの条件として、分かったこともある。

カムイ自身は、人間を皆殺しにすることに、賛成である。

恐らくカムイの人格は、女教師のものと、本来のカムイのものが、それぞれに牽制し合っているような形なのだろう。話していて、妙に人間くさいのが気になった。その気になった部分が、本来の人間に影響を受けているのは間違いない。

もしもカムイを完全制御できれば、計画は既に最終ラインを達成できたことになる。そうなれば、即座に、全世界規模で、泥洗を実施に移せるだろう。無能なスポンサーどもに頭を下げる必要は、もうなくなる。

病室に黒鵜が来た。

黒鵜自身も肩を撃ち抜かれていたはずだが。今はもう平然として歩き回っている様子だ。その程度の怪我など、日常茶飯事だから、だろうか。

腕をつっている黒鵜は、ベットに横になったまま、携帯とノートPCを同時に弄っている平坂を見て、呆れた様子だ。

「こんな時です。 少しは休んでくれませんか」

「無用だ。 それよりも、どうしたのかね」

「蛇が捕捉できません」

携帯を動かす手が止まる。

それは少しばかり、厄介だ。

敵対がはっきりしてから、蛇は見つけ次第殺せと命じてある。しかしながら、あの巨体で有りながら、どうやって身を隠したのか。

「蛇が奇襲を仕掛けてきたときの状況は」

「基地に猪が突進して、対人地雷を踏んで爆散しました。 その一瞬の隙に、姿を消した模様です」

「それは恐らく、あの女傭兵が、時限装置を使って行ったのだろう」

問題はその後。

どうやって蛇が、あれだけの距離を移動してきたのか、だ。

地中を潜って進んだにしては、あまりにも距離が長すぎる。

そうなると、水中か。

現在、神林はアマゾンを思わせる規模で、無数の大河が蛇行している状況となっている。川の中にも、巨大魚が少なからず確認されていた。

つまり、その川の中を移動してくれば、一気に距離を稼ぐことができる。

「現在此方に向かっている巡洋艦が、機雷を積んできています。 使いますか」

「……難しい所だな」

というのも、もしも大型の蛇に反応する機雷をヘタに川に投げ込んだところで、大型の魚などに反応して爆発する可能性があるからだ。

川の状態は確認させているが、現在かなり危険なことになっている。

大型魚が群れをなして泳いでいるのだが、その大きさは既に二メートル近いものまで確認されているのだ。

神林の成長限界は、まだ見えていない。

カムイにその辺りは聞きたいところだが、しかしまだどう制御するかが、決まっていない。

平坂は今、優位に事を進めてはいる。

だが、それでも、勝ちは確定していないのだ。

病室に、ばかでかい花瓶を抱えて、満面の笑みの岸田が来た。黒鵜が露骨に敵意の籠もった視線を向ける。

「平坂ちゃん! 無事でよかったよー!」

「その花瓶と花は何だね」

「珍しい花なんだよ! で、こっちの花瓶はねえ……」

枕元に花瓶をどでんと音を立てておく岸田。そして、花の事や、花瓶について、説明をはじめる。

満面の笑顔は、崩れない。むしろ、とても嬉しそうだった。

岸田によると、花も花瓶も、秘蔵の品なのだという。特に花については、昨年ニューギニアの奥地で発見されたばかりの新種なのだそうだ。紫色の巨大で存在感のある花だが、あまり病人を見舞うには適しているようには思えない。

しかし、この男なりに、平坂を心配していることは知っている。だから、あえて何も言わず、好きなようにさせる。

黒鵜は血管が切れそうな顔をしていた。

それでも、平坂が良いと表情で示しているからか。岸田に噛みつくことは無かった。

「それでねー、平坂ちゃん」

「人型カムイについては、今後の作戦の要になる。 解剖は絶対に駄目だ」

「えー……」

まるでオモチャを取り上げられた子供のような顔をする岸田。

これでもまるまる太ったいい年の男なのだから、ため息をつきたくなる。

もっとも、平坂が知る限り、幼稚な「大人の男」などいくらでもいる。核家族化が進むようになってから、一人暮らしをすればしっかりするとか、家庭を持てばしっかりするとかいう都市伝説が横行したが。多くの人間を見てきた平坂は、そのようなものがただの戯れ言だと、よく知っていた。

岸田はその中でも特級の例外だが。社会人としては、確かにやっていけない部類の男には違いない。

しかし、専門分野では、これ以上も無いほど有能なのだ。

「コミュニケーション能力に問題がある」などという理由で、切り捨てる気は、平坂には無かった。

「それよりも、他の成体カムイはどうなっている」

「順調だよ。 金も石油ももう量産可能だね。 後はレアメタルを量産できる奴も、近日中に実用化できる」

「よし、スポンサー向けの公開フィルムを作成してくれ。 スタッフに、扱い方で注意をするくらいでいい」

「うん、わかった」

最初から岸田に映像編集の技術など、平坂は期待していない。

それは専門のスタッフがやる。カムイは大変デリケートな存在なので、取り扱いにはまだ岸田の指導が必要不可欠なのだ。

岸田が下がると、黒鵜が咳払いする。

「その不気味な花を下げましょうか」

「いや、これは岸田博士なりの好意だ。 受け取っておく事にする」

一度、黒鵜も下がらせる。

仮眠を二時間ほど取ってから、また携帯とノートPCを操作。ベットで寝ていなくてはならない体でも。

やることは多い。

翌日の早朝、人型カムイが目を覚ましたという連絡が入った。

 

平坂は人型カムイと直接話をするつもりだったのだが、主治医と秘書官がそれを許してはくれなかった。

そのため、テレビ電話で話すことになった。

人型カムイは、麻酔で動けなくなっているが、それでも意識ははっきりしているらしい。じっとカメラを見つめている。視線は凄まじく、此方を焼き殺しそうだ。

両手両足は鎖でつないである。

この鎖は、それぞれ最新鋭の合金で作られており、接合部も同じ。カムイを捕縛するために事前に用意したものを、更に十倍に強化した拘束鎖だ。

人型カムイは、動物園などで大型の猛獣を入れる檻に今のところ入ってもらっており、更にこの檻の材質は拘束具と同じ合金。更に左腕には点滴を残していて、いつでも強力な麻酔を投入できる。

そして、もしもそれでも歯止めが利かない場合は。

既にトマホークの狙いを、基地につけてある。

更に、予防線は複数張ってある。どれもスタッフが考え抜いて作ったものばかりだ。足下のコンクリにしても、その底には合金製の合板がしいてある。

この防備、たとえ世界最強のグリズリーだろうが、史上最強のティランノサウルスだろうが、或いは未知の宇宙生物だろうが、閉じ込めることが可能なほどである。

カメラとテレビをセットし終える。

映像を映すと、人型カムイ、いやカムイ本人は、此方を見て舌打ちした様子だった。

「ふん、余を捕らえたか、人間よ」

「勘違いなされずに。 今も貴方と共同で作戦を実施したいという意思に、代わりはありません」

「ならばさっさと拘束を解け」

「それはなりません。 貴方は私だけでは無く、私の部下達も根絶やしにするつもりでありましょう」

秘書官にコーヒーを持ってこさせる。

喉が渇いたのでも、眠いのでも無い。

余裕を演出するためのテクニックだ。

交渉は、相手よりも優位にある事を常に見せつけることが効果的だ。それは相手が人間ではなくても、関係が無い。

完全に対等な関係など、存在しない。

カムイは、今自身が人間より遙か上位の存在だと考えている様子だ。それは構わない。全くの事実だからだ。

だからといって、何でもかんでも好き勝手できると思われては困る。

存在が上位でも、交渉の主導権は平坂にある事を、はっきり分かってもらわなければならない。そのための演出だ。

コーヒーを飲み干す平坂を見て、カムイは歯ぎしりする事も無い。

ただし、目がすっと細まった。

「余を愚弄するか、人間」

「いいえ。 ただし、私には行動の余裕がある事を、理解していただきたいと思います」

「しかし厄介な鎖だな。 私が眠っている間、人間も多少は進歩したという事か」

鎖の結合部が、恐ろしい音を立てる。

カムイが、力任せに引っ張ったのだ。だが、鎖が勝つ。カムイとはいえど、鎖を千切ることも、接合部を壊すことも、できない様子だ。

「それで、人間。 いや、ヒラサカよ。 余に何が望みだ」

「お話しいたしました通りです」

「そうではない。 貴様の野望を叶えるに至って、具体的に余に何をしろと、貴様は言うのか」

乗って来た。

此処からは、岸田に代わった方が良いだろう。

岸田を呼び、技術的な話を始めさせる。後は、平坂は後ろから見ていれば良い。

最初、岸田は嬉々として話していたのだが。

しかし、カムイは岸田を見ても、何ら興味が動かない様子だった。話を聞いているのか、いないのかさえよく分からない。

まさか話が理解できていないのかと一瞬思ったが、違う。

「岸田と言ったか。 そのようなことを余がする意味が分からぬ」

「えー。 平坂ちゃん、どうする?」

「余は貴様と話しておる。 不敬にはそれ相応の対応をするまでであるが」

ぞっとするほど低い声を、カムイが発する。

様々なおぞましい相手と接してきた平坂でも、これほど強烈な殺意が籠もった声は、滅多に聞いたことが無い。

岸田も流石に面食らったようで、どうしたものかと視線を泳がせた。

咳払いすると、アドバイスをする。

「岸田博士、相手は王だ。 行動を「していただく」と思って、説明をするのだ」

「何だかよく分からないけど、説明の仕方がまずかったんだね。 分かったよ。 ええと、陛下?」

「何か」

「最初から説明し直すね。 陛下には、是非これらの行動を……」

岸田が言い回しを直す。ただし、敬語は使えているとは言いがたい。

不安は残るが、岸田も阿呆では無い。

それに如何にカムイが強大であっても、今更遠隔で何かしらの行動はできないだろう。もしできるのなら、今頃やっていてもおかしくない。

岸田が四苦八苦しているのを尻目に、一旦病室を出る。

短時間なら、リハビリを兼ねて歩いて良いと、医師には言われている。流石に平坂もそれ相応の年だ。歩かないと、体の衰えが早いのである。

黒鵜は外に見当たらない。

秘書官に聞いてみると、朝から神林に出かけて、蛇を探しているそうだ。確かに早めに見つけないと、何をしでかすか分からない。

基地の方は大丈夫だろうが、これ以上神林で好き勝手をされると困る。カムイも、へそを曲げることだろう。

神林とは、文字通り神が座する土地。

人間の世界を作り替える到達点であると同時に、神の玉座でもある。

「神林の状態は」

「更に生育が加速している様子です。 基地を作っているメンバーも、苦労しているようです」

「ふむ、それくらいは御せなくては話にならんな」

報告を聞きながら、離島ベースを歩き回る。

ハリアーは戻ってきていて、他に稼働待ちの戦闘ヘリが何機がいた。今は警戒態勢をしいているとはいえ、少し前までに比べれば、若干状況が緩いのだ。当然と言えるか。

あの女傭兵は、どうしているだろう。

結局捕捉することはできなかったと、黒鵜には聞いている。あれだけの深手だが、これから起死回生の手でもあるのだろうか。

もしあるとすれば、カムイを奪還しようとする事以外には無いが。

仮に蛇と共同戦線を取ったとしても、無理だろう。既に斑目島本島の基地は、要塞化を済ませている。

戻るように医師に言われたので、リハビリを切り上げる。

見たところ、兵士達の士気は高い。

平坂が育て上げた部隊なのだから、当然か。最大の懸念だった人型カムイを捕縛できた気の緩みもあるだろうが。今は、許してやりたかった。

病室に戻ると、岸田がまだ四苦八苦していた。

「つまり、貴様らが育て上げた余の配下共の、長になれと言うことだな」

「うん、そうだよ。 それでね」

「何故に余が、貴様らの配下の将になることを是とすると思うか。 そのような雑魚共は、貴様らが勝手に制御せよ」

「ひ、平坂ちゃん……」

途方に暮れた様子で、岸田が此方を見る。

やはり、交渉は無理か。

選手交代だ。

此処からは、長丁場になる。

 

結局対話は夕方近くまで掛かった。

時々コーヒーを差し入れさせ、じっくり一から話す。途中で交渉については打ち切って、現在の社会について、カムイに話して聞かせた。

やはりというか、なんというか。

カムイのベースになっているのは、斑目島の女教師だ。

もしもカムイが古代の神をベースにしているにしては、考え方が少しおかしいのである。たとえば、斑目島にいた子供達をベースにカムイをどのように作ったかという話をしたとき、明らかに反応があった。

一方で、女教師の意識だけが、ベースになっている訳では無い事も分かる。

食物を差し入れようかと言ったとき、熊が好むようなものを言い出したからである。それに限らず、アイヌの伝承に残る「カムイ」を示唆する言動が、節々からうかがえたのだ。それは恐らく、もしも女教師の意識だけがベースになっているのなら、不可能なことであった。

「いい加減鎖を解かぬか」

「それはなりません。 我々と陛下の間には、今だ信頼関係が作られておりませぬが故に」

「如才ない奴だ。 鎖を解いても、余がこの檻を出られないことを分かった上で言っておるな」

「私は、伝承の悪魔や邪神よりも更にタチが悪い人間達と渡り合って、今の地位を築き上げました。 その過程で、嫌でも慎重になったのですよ」

今では、平坂は思っている。

聖書に出てくる悪魔など、現実の人間に比べれば、それこそ聖人君主に等しい存在だと。どれだけ邪悪さ悪辣さを強調しても、滑稽でしか無い。

七つの大罪など、人間の全てが普通のものとして身のうちに飼っている。それこそ、聖書に記述する大魔王達など、人間の1/7の存在でしか無い、という事だ。

人間の抱えている業は計り知れない。

悪魔に最も近い存在は人間だ。しかもその近いというのは、より邪悪で悪辣な存在、という意味で、である。

悪魔など鼻で笑うような人間など、それこそいくらでもいる。官民関係無く、宗教関係無く、人種も関係無く。

平坂も、散々見てきた。

「神よ。 貴方が眠っている間に、人間は力を付けた。 いや、力をあまりにも付けすぎたのです。 過剰すぎる力は、人間という生物そのものをおかしくしてしまった。 万物の霊長などと言う呼称を使う滑稽な生物になってしまった」

「人間が万物の霊長であるならば、それは邪悪な存在こそが世界の支配者になると言っているのと同義であるな」

「まさしく然り。 今、人類は一度やり直さなければならぬ時に来ているのです。 神よ、貴方に力を貸していただきたい」

鼻を鳴らすカムイ。

どうやら、これだけ色々と話しても、平坂にはまだ力を貸す気にはなれないらしい。

鎖を何度か引っ張るカムイ。強度は充分で、千切ることはできないようだが、その度に恐ろしい音がしていた。

監視をしている兵士が、おののきの声を上げる。

鎖の強度を、誰よりも知っているからだろう。

「ま、麻酔薬を入れますか」

「不要」

怖れる兵士に告げておく。

此処で拷問やら洗脳やらに意味が無いことは、平坂も知っている。カムイを説得の末に従わせてこそ、今後の計画に意味が生じてくるのである。

一度「対話」を切り上げる。

平坂にも、するべき事があるからだ。

テレビ電話を使った対話を打ち切り、病室から運び出させる。明日、また話す必要があるだろう。

カムイは話してみて分かったが、尊大だが狡猾では無い。此方の計画に対する魅力が、女教師の人格にある恨みを上回れば。必ずや、従えることができるはずだ。

書類を整理し、岸田の研究施設を見に行く。既に実用化された成体カムイ何種かは、複製の作業が始まっていた。

本来ならクローンはまだ人類の技術では無理なのだが、カムイについては違う。

ごく簡単な手法で、全く同じものを増やせることが分かっている。

幾つかはスポンサーに供給する。

バカ共には丁度良い。

カムイの真価は泥洗の発動にある。勿論泥洗の兵器的な価値を見いだしているスポンサーもいるが、これについてはとっくにコントロールができるように調整済みだ。そして、スポンサーには一切教えていない。

当然の話である。

計画を発動した日には、真っ先に泥洗で押し潰すつもりなのだから。

連中には、目先の利益だけをみせてやればいい。それで、夢を見せてやれば良いのだ。そして、夢を見ている間に死ねば良い。

その程度の価値しか無い連中なのだから。

岸田が来る。

そして、開口一番に言った。

「ねえ、平坂ちゃん。 クローンは作れるんだし、解剖しちゃおうよ」

「クローンでは意味が無いことは、君も知っているはずだが、岸田博士」

「分かってる。 でも、はっきり言うけどあの子、制御なんて受け付けないよ。 天上天下唯我独尊って言葉そのまんまだもん」

「似たもの同士、分かると言うことかね」

うんと岸田が言ったので、呆れると同時に、関心もした。この男は、これで良い気がする。

少し岸田は腕組みして考え込んでから、言う。

「ボクはさ、平坂ちゃんのおかげで面白おかしく研究ができるから、それで良いんだけれど。 兵隊さん達、怖がってるんじゃないのかな」

「常に原初の恐怖が正しいとは限らない。 統率者は、愚劣なる民を導くのも、大事な仕事だ。 望みなど関係無い」

「そういうなら別に良いんだけどね」

どうも今日の岸田はおかしい。

いつも通りの言動もあるのだが。それ以上に、何か妙な含みを感じられるのだ。

ひょっとしてこの男。カムイを怖れはじめているのでは無いのだろうか。

世の中に怖い者など無さそうなこの男であるから、逆に闇の深淵を覗き込んでしまったのだろうか。

確かに、生物として、あのカムイを越える存在は思いつかない。

研究していけば、更にとんでも無い力が色々と明らかになるだろう。正体が何か、などと言うことはどうでもいい。

重要なのは、得た力を、どう使うかだ。

「カムイの説得は私が行う。 岸田博士、君は研究を進めてくれたまえ」

「うん、分かった」

研究施設を出る。

そして、ついてきている秘書官に言う。

「岸田に監視を。 無茶なことをしたら、止める程度でよい」

 

2、平坂の過去

 

弾は、抜けていた。

雛理はもうろうとする意識の中で、自身の手当を続ける。アーニャがまるで使い物にならなかったので、そうするほか無かった。

包帯を剥がすと、真っ黒に染まっている。

明らかに人間の血の色では無い。血はしばらくすると黒く変色するが、それに比べてもあまりにも黒すぎるのだ。

相変わらず寛子は、自分の空想の中の先生と話すのに忙しい様子だ。ずっと笑顔を浮かべ続けている。

幸いというべきか、本物は、今此処にいない。

だから、監視する手間は省けていた。

治郎には、状況は伝えてある。

先生が捕まったと聞いても、この子供は泣くことも無く、取り乱しもしなかった。心が麻痺しているのだろう。

痛みは、あまり感じない。

だが、アーニャに絶対安静と言われている。自身でも、そう判断するしか無い。まずいレーションしか口に入れられない状態だ。体の回復は著しく遅い。というよりも、もう回復しているようには思えないのだ。

洞窟の入り口で、物音。

アーニャに肩を借りて外に出ると、行成おじいさんだった。

「酷い姿だな」

「まだ、意識はあるんですね」

「何度か死のうとしたがな、上手くいかん。 動物には自殺するって思考がないらしくてなあ」

まだ、行成お爺さんは戦力として考えられそうだ。

それだけは、唯一の吉報と言える。

寛子の事を聞かれたので、相変わらずだと答える。悲しそうに、行成お爺さんは、そうかとだけ呟いた。

「ジャージのを救出する作戦は、何かあるか」

「……」

まだやるのかと、正直、自身の内の声が告げている。

実際問題、もう時間が無い。どうにかしてヘリを奪って、逃げるくらいしか思い当たる手段が無い。

逃げた先で、確実に雛理は死ぬ。

普段は怖くない。

だが、今はどうしてか、少しずつ恐怖がわき上がり始めている。

「諦めかけているのか。 歴戦の傭兵でも」

「いいえ。 作戦については、これから考えます」

「そうか。 だがもう時間が無いように見える。 できるだけ、急いで、な」

巨大な蛇体をくねらせて、行成お爺さんが森に消える。

恐らく平坂は、もう此方の位置を掴んでいる。それでも攻撃を仕掛けてこないのは、興味が無いからだろう。

行成お爺さんも、それを理解した上で、堂々と姿を見せたわけだ。

ただし、目こぼしも、攻撃をもう一度仕掛けたらなくなる、と見てよい。

子供達は、別の場所に移しておいた方が良い。

洞窟に戻り、横になる。

アーニャは血そのものが苦手らしく、手当では全く使い物にならない。その代わり、平坂から得た情報を語らせる。

かなり膨大な情報を得ていたらしい。

平坂の謎に満ちた経歴も、少しずつ、記憶の中から整理して、話してくれた。

平坂は元々、典型的なエリートであったという。ただし、当初の名前は違ったのだそうだ。

学生時代から才気煥発というに相応しく、貧しい家の出であるにも関わらず将来を嘱望されていた。両親は平均的な人間で、父はしがないサラリーマン、母は主婦であったらしい。

やがて平坂は当然のように東大を出て学閥に入り、ある大企業の重役まで若くして上り詰めた。ただし、その大企業は既に内部の腐食が進んでおり、実際には平坂が有能だったと言うよりも、周囲が無能だった、というだけであったようだが。

やがて会社を事実上掌握した平坂だが、此処で悲劇が起こる。

大企業ともなると、裏で火消し屋を雇っているのが普通である。

平坂のいた企業でも、それは同じ。

そして、急激な出世でねたみを受けていた平坂の家が、襲われたのである。

火消し屋といっても質は様々。中にはヤクザそのものだったり、ただの快楽殺人者である事も珍しくない。

ましてや、傾いた大企業である。飼っている火消し屋は、制御が効かない異常者も同然だった。

火消し屋を使った人間は、警告のつもりだったのかも知れない。

だが、けしかけられた火消し屋は、文字通り解き放たれた猟犬となって、平和な家庭を襲撃したのである。

平坂が帰宅すると、妻も子も、父も母も、肉塊となって血の海に沈んでいた。

翌日、平坂は犯人を割り出した。

そして、いかなる手段かは分からないが、全てを吐かせた上で惨殺。そして命令を出した会社重役を、窓から突き落として殺し、そして自身は姿を消したそうである。

ちなみに、事件は殆ど報道されなかった。

腐っても大企業。警察の上層にコネはあった上、マスコミにも根回しが済んでいたからだ。

「平坂の若い頃については謎とされていましたが……」

「経歴のロンダリングを、念入りに行ったそうなの。 それができるだけのお金が、平坂の所にあったから、だけれど」

アーニャが涙を拭っているのは、見てしまったからなのだろう。

平坂が抱えている、灼熱の炎にも等しい憎悪を。

業を間近で見ると、人間は変わることが多い。雛理もそれは知っている。民間軍事会社に入ってきたとき優しかった男が、人を何度か殺していく内に、悪魔のような形相になるのを、何度も見た。そして、働いている内に、殺しを心底から楽しむようになっていったのである。

元が優しくても、そうなりうるのだ。

ましてや、家族を全員惨殺されたような男が、変わらない筈も無い。

平坂はそれから、闇の世界を這いずり回り、独自の組織を作り上げていったという。

中小の犯罪組織をまとめ上げ、自分の手足になる部下を増やし、どんどん勢力を拡大していった。

やがて民間軍事会社の一つを掌握。

軍事力を得ると、主に第三諸国で荒稼ぎをしつつ、いつしか各地の財閥でさえ一目置くほどの力を手に入れていったという。

悲しき男の、狂気の人生だ。

勿論、平坂は憎んでいたのだろう。

人間という種族そのものを。

彼の冷静さとモチベーションは、かって失ったものの大きさが、あまりにも凄まじすぎるから、であろうか。

やがて、最悪の事件が起こる。

平坂が、カムイを手に入れたのだ。正確には、カムイという存在を呼び起こせる、特殊なウィルスである。

北海道のある土壌で発見されたそれを使い、平坂は実験を開始。

その時には既に、自衛隊の特殊部隊を自在に使えるようになっていた平坂は、北海道の離島を一つ使って、凄絶な人体実験を行った。

この辺りは、既に雛理も知っている。

そして平坂が、世界の破滅そのものを望んでいることも。

平坂は既に雛理が、放っておけば死ぬ存在だとみているのか。或いは、あがく姿を、遠目に見ているのか。

分からない。

だが、一つはっきりしているのは。平坂は、雛理を今、難敵だとは思っていない、ということだ。

「ジャージ先生が、どこに運ばれたか、分かれば」

「恐らく斑目島に作られているベースでしょう」

「何故、わかるの?」

「私が平坂だったら、そうします。 指揮系統がある、平坂がいるらしい別の基地に、ジャージ先生を運ぶのは危険すぎます。 暴れ出したら、一気に全てが壊滅してしまう可能性が大きいからです」

ホラー映画に出てくる低脳司令官じゃああるまいし、それくらいの知恵は、当然平坂も働かせてくるだろう。魑魅魍魎どもが蠢く闇の世界でのし上がった男なのだ。慎重極まりない行動も、今になれば納得できる。

しかし、逆に言えば。

今、奪回のチャンスはある。

平坂が悪手を打ったのでは無い。定石に対して、対応しうる状況が来た、というだけである。

問題は、雛理の体が、既に限界近いという事だ。

このまま更に被弾でもすれば、多分死ぬ。体そのものも、今までのようには動かない。足の感覚はなくなりつつあるし、血を失いすぎた。

それに、傷がふさがる様子が無いのも痛い。

多分、治療法があっても、もう雛理は助からないだろう。怪物になってしまう未来は、恐らく避けられない。

アーニャを一瞥したのは。

恐らく、殺せと言っても無理だろうと思ったからである。

かといって、子供達に雛理を殺せと頼むのも難しいだろう。ヘリを奪ったとしても、子供達を救出する隙があるとは、今は思えない。

そして、もう一つ。

川を渡るのが、既に相当に困難になっている。

現在、平坂がまた作らせている新しい基地までに、四つの川が横たわっている。

いずれも泳がなければ渡ることはできない上、何より厄介なのは、大型の肉食魚が多数生息している事だ。

雛理を襲ったのは人間大だった。

しかし、今川に行けば、もっと大きな魚がいるかも知れない。

そういえば、この森は何だろう。

雛理が聞いてみると、少し考え込んでから、アーニャは答えてくれる。

「神林、と平坂は呼んでいたよ」

「神の林とは、随分と大仰ですね」

「カムイという存在を迎えるための林なんだって。 玉座に等しい場所なんだって、平坂は言っていたの」

なるほど、それも頷ける。

カムイの能力は人知を越えている。戦闘力が人知を越えているかは別の問題として、確かに玉座となる場所は必要なのかも知れない。

しかし、それは比喩的な意味だけでは無い筈だ。

この森が完成したとき、その頂点に立つのがカムイだとすれば。

なるほど。

人間をカムイ化する泥洗に、大きな意味が出てくる。

「平坂は、泥洗で世界を全て浄化し、森になった世界にカムイとなった人間が君臨する世界を想定している?」

「……たぶん」

「狂気じみていますね」

まあ、平坂は冷静で慎重だが、その根底は狂気であるという事が、これで照明されたわけだ。

雛理も今の世界に君臨する人間は、はっきりいって好きでは無い部分も大きい。

だが、これはいくら何でも無茶苦茶だ。

核兵器を使い、世界を死の灰で覆うのと、何ら違いが無い。

平坂は人間を徹底的に嫌ってしまっている。その憎しみは、恐らく老若男女、一切関係が無いのだろう。

人間という種族そのものを敵と見なしている可能性も高い。

それならば、全てに説明がつく。

平坂にとっては、自らの敵を、ただ殲滅しようとしているだけなのだろう。

「神林の完成型がどういうものになるか、分かりませんか?」

「それは、流石に分からないよ」

「ううん、良いんですよ」

此処までの情報を引き出せただけでも、アーニャは頑張ってくれた。

此処からは、雛理の仕事だ。

治郎君が来た。

そして、外を指さす。

「お姉ちゃん達、見て!」

アーニャに肩を借りて、外に出る。

巨大な黒雲が、森を覆い始めるのが見えた。

 

巨大積乱雲は、見る間に成長していく。

それだけではない。森の空気が、それによって明らかに変わっていくのが、雛理には分かった。

オンカヌシだ。

新田が来るのか、それとも行成お爺さんが凶暴化するのかは分からない。

だが、ほぼ間違いなく。これが最後の好機だろう。

「行成お爺さんの所に行きます」

「先生を、助けるんだね」

「ええ。 これが最後になります」

もし、先生を助けても。

多分、心の主導権はカムイだ。子供達を慈しんだ先生は、もう死んだと思った方が良いだろう。助け出して、どうなるのか。まだ残っている先生の心に賭けるのか。かけたところで、更に苦しめるだけでは無いのか。

それに、何よりだ。

もう雛理は死ぬだろう。

この島を脱出して、剣に全てを伝えて。後は、剣が彼方此方の国を動かしてくれることを祈るしか無い。

平坂の組織は、様々な財閥をスポンサーに抱えている。

これだけの巨大スキャンダルでも、ひょっとしたら動けないかも知れない。だが、平坂がやろうとしているのは、地球規模の大量虐殺だ。

どうしてでも、食い止めなければならなかった。

「行成お爺さん」

「おう、呼んだか」

近くの森から、ひょいと行成お爺さんが顔を出す。

あまり時間は無かったから、作戦らしいものは立てられなかった。だが、これならば、どうにかできるだろう。

「これから、ジャージ先生の救出作戦を実行します」

嘔吐感が不意にこみ上げてきた。

戻して、愕然とする。

真っ黒な液体を、大量に吐いていたからだ。

行成お爺さんと、同じ症状。

これは、怪物になるまで、思った以上に時間が無いかも知れない。

だが、不思議と、今まで泡のようにわき上がってきていた恐怖は、薄れつつあった。しかし、それは多分一時的なものだ。

また恐怖がわき上がってくる前に、決めなければならなかった。

 

3、二つの最後

 

まずは、行成お爺さんに乗せてもらって、移動する。

巨大な蛇体であるのに、恐ろしいほどにスピーディだ。アーニャは子供達をつれて、所定の位置で待機してもらう。

まず、第一目標として、ヘリを奪う。

これについては、実は宛てがある。

時速八十キロくらいは出ているかも知れない。本来の蛇としては、考えられないほどの速度だ。

だが、上空から、ロータ音。

ヘリが来たらしい。

以前、行成お爺さんは、露骨な敵対的意思を見せた。

今度こそ、殺そうというのだろう。

上空にいるのは、コブラ一機。

だが、すぐに他の攻撃ヘリも、集まってくることは疑いが無かった。

「急ぐぞ!」

掴まるところも無いのに、いっきに行成お爺さんが加速する。

蛇行する蛇体の至近で、コブラの放った機関砲弾が炸裂する。二度、三度。そして、四度目で、弾が直撃した。

蛇体に赤い花が咲く。

行成お爺さんは気にしていない様子で、更に速度を上げた。気にしていない訳が無い。化け物になっても、痛いはずだ。

それを精神力でねじ伏せているのだ。

崖が見えてくる。

神林とやらの北端。この上が、旧斑目島だ。

更にコブラが来た。もう二機。

恐らく、行成お爺さんの頭の上にいる雛理は、彼らにも見えているはずだ。

対戦車ミサイルを、コブラが放ってくる。

回避しようとする行成お爺さんだが。狙いは、非常識なまでに精確だった。本来は此処までの精度は無いのだが、恐らく相当な改修がされているのだろう。回避しようとした蛇体の半ばに、ミサイルが炸裂。

流石に行成お爺さんが、口をかっと開ける。

「効く……なあ!」

巨体が崖に飛びつき、一機に上がり始める。

ヘリ三機が、機関砲の猛射を浴びせてくる。火力の滝を浴びながらも、行成お爺さんは動きを止めない。

見ると、ミサイルの直撃を受けたところは、鱗が剥がれるどころか、骨が露出するほどのダメージを受けている。

本来の蛇だったら、恐らくもう戦意を喪失して、逃げに掛かっているはずだ。そればかりか、ショック死していてもおかしくない。

撃ち込まれる機関砲にしても、それは同じ事だ。一撃がそれぞれ内臓にも骨にも届いているはずである。

だが、それでも。

行成お爺さんは、崖を登り切った。

雛理が飛び降りて、走る。

もう走る力は殆ど残っていないが、それでも行く。

行成お爺さんは鎌首をもたげると、大量の毒をコブラに向けて吹き付けた。余裕を持って回避される。

だが、回避行動を取った隙に、行成お爺さんは、崖下に飛び降りるようにして、身を翻したのである。

コブラ三機は、判断が遅れる。

その隙に、雛理は、森の中に逃げ込んでいた。

この時点では、まず予定通り。

雛理は、残り少ない命を叱咤しつつ、走る。

 

黒鵜は腕をつったまま、戦況の報告を受けていた。

現在コブラ三機が、ダメージを与はしたが、まだ仕留め切れていない蛇を追撃中。蛇は一旦神林に戻ると、地面に潜ったらしい。

蛇の上には、女が乗っていたらしいのだが。

女は、蛇から飛び降りて、旧斑目島の森に逃げ込んだという。

既に小隊が、女と一味が潜んでいた洞穴に踏み込んだが。

空振りに終わっている。

つまり、完全な作戦行動だと言うことだ。

平坂が来る。敬礼した黒鵜に鷹揚に頷くと、言う。

「戦況を報告してくれたまえ」

「は。 現在、敵が作戦行動中です。 蛇は見失いましたが、深手を与えました。 傭兵の女は、旧斑目島の森に逃げ込んだ模様です」

「ふむ……意見を聞かせてくれるか」

「恐らく蛇は陽動でしょう」

しかし、その場合、女傭兵が何をもくろんでいるかが気になる。

脇腹と足の傷は完治していないようだし、恐らく相当な疲弊に精神の方も痛めつけられているはずだ。

だが、洞穴の様子からすると、これは破れかぶれの逃避では無く、完全な作戦行動である。

何かしらの明確な目的があって、行動しているのは疑いない。

「どのようなことが考えられるか」

「まずは貴方の暗殺ですが。 しかしこれは、無理だと女傭兵も分かっていることでしょう」

「そうだな。 私は此処にいる。 彼女が、弾道ミサイルでも持っていない限りは、暗殺は不可能だ」

持っていても難しい。

このメガフロートは、対空用のバルカンファランクスで守られている。更に他にも様々な最新鋭の空母並みの防空システムを搭載し、飽和攻撃でも受けない限り十分な対応が可能だ。

しかし、そんなことは、女傭兵も分かっている。

ならば、何か別の手段を持っている、ということか。

いや、違う。

今回のあの女は、そんなことを目的とはしていない。

秘書官が来る。

「巡洋艦マルクラウが到着しました」

「ふむ、そうか」

「それと、もう一つ。 斑目島本島に積乱雲が発生。 ほぼ確実に、オンカヌシが何かの動きを見せるかと」

「カムイはどうしている」

今のところ、反応は無いそうだ。

黒鵜が知る限り、現在斑目島にある基地は、蛇ぐらいの攻撃だったら、余裕を持って撃退できる。

問題はそれ以上の存在が来た場合だ。

「気になるな」

「オンカヌシの動きですか」

「いや、雛理君の事だ。 どうして何も無いような場所に、わざわざ今のタイミングで戻った。 何かあるのでは無いか」

いずれにしても、今の時点で出来る事は決まっている。

「巡洋艦が来ているのなら、臨戦装備で出しましょう。 オンカヌシが現れたとしても、ひとたまりも無い筈です」

「……」

やはり、平坂は、何か気になるようだ。

黒鵜も、まだ肩の傷が完治していない。自分でアパッチを駆りたいくらいなのだが、そうもいかない。

この状態では、むしろアパッチの足手まといになってしまう。

最新鋭の戦闘ヘリは、強大な分デリケートな側面も持つ。

「輸送ヘリを基地に。 いつでもカムイを運び出せるようにしておきたまえ」

「分かりました。 護衛としてハリアーを飛ばします」

「うむ。 問題は天候だが……」

これから恐らく大雨が来る。

輸送ヘリは大雨くらいならどうにでもできるが、問題はその先である。

今は神林に張り巡らせた監視ネットワークが生きているが、大雨が来てから、それが一体どれだけ持続するか。

黒鵜もやはりアパッチで出るべきか。そう考えたとき、新しい情報が来た。

「蛇が再び出現! 雨が降り始めました!」

「攻撃開始! 逃がさず仕留めろ!」

モニターに、全員が釘付けになる。

蛇が現れたのは、神林の中程。基地から東に2キロほど行った地点だ。すぐに基地も、臨戦態勢になる。

 

アーニャが言ったとおりの場所に、それはあった。

中に入ってみる。

荒らされている形跡は無い。充分に使える状態だ。

戦闘ヘリ、Mi-8MTV。

旧ソの時代から現役で動いている戦闘ヘリである。性能は決して悪くない。ただし、見たところ、武装がかなり外されている。

ハインドで介入してきたフラッグソウ社のヘリは、一機が見つからない状態だった。

どういう経緯で新田に見つからなかったかは分からない。いずれにしても、今はこの機体が、最後の希望となる。

ざっと見るが、動かすことについては問題が無い。

行成お爺さんが敵を引きつけている間に。

飛行開始。

可能な限り低空で、森を這うようにして飛ぶ。

冷や汗が流れているのが分かる。もしもハリアーに見つかってしまえば、その場でジエンドだ。

フレアは装備しているが、逃げ切れるわけが無い。

崖に出る。

そのまま垂直落下するように、最大限の速度で降下。地面すれすれまで降りると、合流地点に向かう。

今、行成お爺さんが、文字通り命を賭けて、敵をおびき寄せてくれている。

だからこそ、出来る事だ。

雨が降り出す。

手を振っているアーニャが見えた。

着陸態勢に入る。

子供達もいる。寛子は完全に目が死んでいる。治郎も、ずっとアーニャの手を掴んでいた。

ヘリから出る。

既に、雨は本降りになりつつある。

「サイコメトリーを利用して、ヘリを操縦できると言っていましたね」

頷くアーニャ。

それでいい。

此処からは、死ぬ覚悟をした者だけがいればいいのだ。

したためた手紙を渡す。

剣の上官に当てたものだ。この手紙が受理されるかは分からない。分かっているのは、もう雛理が逃げる事に、意味は無いという事だ。

この島で、雛理は死ぬ。

それにしても、皮肉な話だ。

これだけ憎んで恨んで、呪ってきた島だというのに。

今は妙な安心感があった。

だが、精神が不安定になっている状態は自覚している。それも、一時的なものかも知れない。

心が揺れる前に、さっさと済ませるべきだと、雛理は判断。

子供達を、ヘリに乗せ上げる。

此処からは真南に飛んで湖を越え、海に。

平坂の記憶から、どうすればこの海域から出られるかは分かっている。積乱雲を回り込むようにして、南へ。

其処から、西へ出る。

今、平坂の組織は、総力をこの島に集めているはずだ。輸送中の部隊と出くわさなければ、そのまま島を脱出できる。

「いきなさい。 平坂は命に代えても、私が倒します」

「……どうしても、いけないの?」

「いけば迷惑が掛かると理解しなさい。 時間は、限られていますよ」

ヘリが飛び立つ。

最初は少しふらふらしていたが、ちゃんと飛び始めた。確か補助機能もついているから、どうにかなるはずだ。

さて、此処からは、雛理一人の戦いになる。

猟銃を確認。

二丁ともある。弾も全てあった。

デザートイーグルも確認。まだ弾はたくさん余っている。雛理が人間である内に、使い切れる程度には残っている。

さあ、此処からだ。

陽動を、より完璧なものとしなければならない。

森を西に。

行成お爺さんに、これより加勢する。

 

直撃したミサイル。

爆炎の中で、蛇体がうねっていた。まだ、行成お爺さんは動いている。既に全身がずたずたにされているにもかかわらず。

ヘリは三機が纏わり付いて、アウトレンジから一方的な攻撃を行成お爺さんに加え続けている。行成お爺さんは既に体の後ろの方三十メートルほどを失っているようで、それでもまだ攻撃の意思を捨てていない。時々毒液をはきかけているが、いずれも相手には届かなかった。

雨が、全てを押し流していく。

予想通り、真っ黒な雨だ。

そして、雛理はこの雨を、浴びすぎた。

川を越えるのが大変だった。どの川も荒れ狂っていたし、以前より更に大きな魚を何度も見かけたからだ。

浅瀬を通ったり、或いは木の枝を渡ったり。

残り少ない体力をすり減らしながら、ついに此処まで来た。

行成お爺さんの声が響く。

「遅かったなあ。 全身が酷くいたんでかなわんわ。 リウマチの時よりも酷く痛むなあ」

「すみません、でも子供達は送り出しました。 後一仕事、お願いできますか」

「ああ。 孫の命の恩人には、それなりのことをしなければならんからな」

娘を殺したも同然の相手だというのに。

行成お爺さんは気むずかしいように思われていたが。実際には、度量の広い人だった。

轟と、突風が吹き付けてくる。

次に平坂が取る手は、恐らくカムイを移送させる準備をすること。つまり、ハリアーと、輸送ヘリの派遣だ。

輸送ヘリが、降りてくる。

ハリアーが旋回しているのが見えた。行成お爺さんが、大量に赤い血を吐いた。既に、限界の様子だ。

「さて、もうこの痛みに耐えるのも嫌だしなあ。 行くか」

無言で、雛理は敬礼していた。

行成お爺さんが動く。

まるで古代兵器のバリスタのように。体をしならせ、飛ぶように。

今までで、最大の速度。

そのまま、まっすぐに、基地まで。

爆発が無数に巻き起こる。ヘリ三機が、ここぞとばかりに斉射を浴びせる。対戦車ミサイルも撃ち放っていた。勿論直撃だ。

だが。

行成お爺さんが動かなくなったときには。既に、その体は、基地へと伸びる橋になっていたのだ。

雛理は、黒い豪雨の中、走る。

背には二丁の猟銃。

手には、抜き身のままのデザートイーグルをぶら下げて。

行成お爺さんの背中を踏み越えて。途中、何度も滑りそうになりながら。

ヘリに気付かれる。

だが、行成お爺さんの体そのものが、既に橋となっているのだ。機関砲を撃ってくる。その時には、既に。

雛理は、基地の中に躍り込んでいた。

まっすぐ、明らかにオーバーな造りになっている牢に走る。

何事かと迎撃に出てきた兵士。

豪雨の中、防護スーツのようなものを着ているから、動きが鈍い。デザートイーグルを二発、三発と撃つ。崩れ落ちる相手には目もくれず、走る。

すぐ側にあるプレハブの中に。

銃を突きつけて廻る。既に、雛理の侵入には気付かれているはずだ。

輸送ヘリにも戦闘人員は積んでいるだろうし、一秒を争う。

科学者風の男を見つける。

平坂の側にいて、重用されているのは岸田という男だと聞いている。岸田は風船のように太っているという事だから、此奴では無いだろう。

すぐさまに捕らえて、額にデザートイーグルを当てる。

「もう力があまりありませんでね。 手加減できません」

「ひ……!」

「捕らえられているカムイを解放しなさい」

「出来るわけがない! あれの腕に付けられている鎖は……」

無言で、足を撃つ。

大げさなほど、ぎゃっと悲鳴を上げる男。

「もう一度は言いませんよ」

「ど、どうなっても、知らないからな……!」

足を引きずる科学者を連れて、豪雨の中に。

豪雨を浴びて、科学者は悲鳴を上げた。これが放射性廃棄物に等しい危険な雨だと、知っているのだろう。

大きな檻に近づく。

中にいるのは、間違いない。

ジャージ先生だ。

両手を鎖で吊すようにして、拘束されている。両足も鎖を付けられているようだ。

檻の中に入るように促す。大げさな電子ロックが付けられていた。

顔を上げるジャージ先生。

目の光が、異常だ。まるで暗闇で、ライトを浴びせられた猫のようだ。

「オンカヌシの力を感じると思えば、貴様か」

「今、助けます。 ジャージ先生」

「そのものは死んだと言ったであろう。 余はカムイよ」

「解錠を」

あえて、その言葉には耳を貸さない。

それにしても、この場でまた思い出してしまう。

カムイとなる条件とはなんだ。食べ物だと言っていたが、それにしてはおかしい。まさか、何か別の条件があったのだろうか。

科学者がまだ躊躇していたので、デザートイーグルを無表情のまま突きつける。

残念だが、文民では、百戦錬磨の上、手負いの雛理に逆らうのは不可能だ。

「撃ちますよ、解錠を」

「くそっ! 勝手にしろ!」

学者が、ジャージ先生の鎖を外す。リモコンを使っていたので、電子ロックだったらしい。

まあ、当然か。

あの腕力である。まさか手作業で解錠など、やりたくは無いだろう。

檻を開けて、ジャージ先生が出てきた。

自分で点滴を外していたのは、気付いていたからか。其処から、強力な麻酔薬か何かを、注射されていたと。

真っ青になって立ち尽くす科学者には、ジャージ先生は一瞥もしなかった。

「一度出る」

「平坂を、殺しには行かないんですか」

「平坂は、余を殺せるにもかかわらず、誠実に説得しようとしていた。 此処で即座に殺そうとすることは、余にとってはあまり好ましいことでは無い。 平坂と敵対する貴様にしっかり話を聞き、全てを見極めるべきだと、余は判断した」

なるほど、非常に誇り高い事である。

だが、戦場では命取りになりそうな考えだ。

或いは、そのように考えていても、生き残れるほど強いからか。あり得ない話では無い。

「それならば、此方に。 すぐに平坂の手の者が来ます」

「別に構わぬが、そなたはもう限界のようだな」

「……」

苦笑いが漏れる。

既に死屍とかしていた行成お爺さんの亡骸を、踏み越えて、基地を出る。

ヘリが降りてこないのは、状況確認に忙しいからだろう。

或いは、もっと別の理由からか。

森の中に入るまで、コブラによる追撃も無かった。

ハリアーは上空を旋回している。今、基地の状態を、確認しているのだろう。この豪雨だ。情報が混乱するのは、当然と言える。

兵士達の士気も、高くは無いだろう。

外に出れば、核廃棄物より危険な黒い雨が降っているのだ。無理も無い事である。その混乱があったから、雛理は万が一の賭けに勝つことができたのだが。

「何故目前の死を怖れない」

「既に規定のものだからです。 それに、非戦闘員は、無事に退避させましたから」

「ふむ、そなたは戦士だな。 それ故に惜しい。 オンカヌシに魅入られなければ、余の配下にしてやろうとは思ったのだが」

そのありがたい言葉に、答えることはできなかった。

痛烈な痛みが、胸に走る。

どうやら、時間がついに切れたらしかった。

膝から崩れ落ちた雛理は、横倒しになり、人間として最後の光景を見た。

黒い雨が降り注ぐ中、自分の最後の相棒となった人物が、立ち尽くしている。その姿はどれだけよく言っても魔神。間違っても天使だとか、女神だとか、そのような形容は似合わない。

雷を背負ったその人物の、口が動く。

「ありがとう。 助かった」

最後に、一瞬だけ。

子供達が好きだったという、あの無邪気な笑みが。

黒い雨の中立ち尽くす魔神の顔に、浮かんでいた。

 

4、穏やかなる覚醒

 

裸のまま、泥の海に浮かんでいた。

真っ黒い海。

そうか、これがオンカヌシか。雛理は事実を、ありのままに受け入れることができていた。

新田も、それに行成お爺さんも。

これを見たのだろう。

そして、オンカヌシの正体に気付く。

これは、間違いない。

あまりにも濃度が強いこの闇は。間違いなく、ある存在を示唆していた。

ニエの一族の、蓄えに蓄えた憎悪。

何が起きたのか、よく分からないとされる、島における人口減少。それは病気でも無ければ、内乱でも無い。

このとてつもない濃度の闇が、何かを引き起こした、という事なのだろう。

それがオカルトに属するものなのか、科学的な現象なのかまでは、雛理には分からない。分かっているのは、既に雛理は、闇に取り込まれてしまった、という事だ。

新田がいる。

自分より更に深い空間にいた。

なるほど、新しく新田が現れない理由が、それでよく分かった。

新田が、とてつもなく心地よさそうにしているからだ。元々社会に対する敵意と悪意で、人生を成り立たせていた男だ。

同じように全てを憎んでいる闇の中は、心地が良くて仕方が無いのだろう。この闇に満ちた空間は、新田にとっては、理想郷というわけだ。

一度大暴れして、それで満足したのか、それともオンカヌシに認められたのかは分からない。いずれにしても、もう新田が現れることは、警戒しなくても良いだろう。

行成お爺さんは。

いた。

驚くべき事に、新田よりも更に深い所にいる。

蝙蝠のように、天地逆に、何も無い空間に立っていた。

しかし、無言でたたずんでいる辺り、きっと考える事がいろいろにあるのだろう。少なくともそれに、雛理は口を出す権利は無かった。

よく分からない。どうして、泥の海に浮かんでいる雛理が、二人を見ることが出来たのか。

視界が遮られているのに、二人が分かるのはどうしてなのだろう。

しかし、これは夢ではないと、明確に理解できている。

私の形は、何だろう。

ふと、思った。

 

目を開ける。

驚くほどに、体が軽くなっていた。

手が見える。

自分の手だ。少し、若返ったか。

目をこする。

側で、冷酷なまなざしで見つめているのは。ジャージ先生。ただし、冷酷であっても、殺意は感じられなかった。

場所は、どこだろう。

基地からは、それなりに離れている様子だ。空は既に晴れ渡っていて、雨はもう上がっている。

ただし、周囲の地面が黒く濡れていることが。またしても、オンカヌシによって森が汚染されたことを示していた。

「あれから、どれくらい経ちましたか」

「分からんが、夜が終わって、昼が過ぎて、また夜が来たところだ」

基地に突入したのが、確か夕方の五時前後だったはず。

そうなると、日没の最近の時間からして、27時間ほど経過したことになる。半身を起こしてみて、自分がまだ人間の体をしている事を確信する。

先ほどまでのオンカヌシの世界と違って、服もちゃんと着ていた。

股や脇腹の傷に触れてみる。

血は止まっていた。

それどころではない。最初から、傷など無かったかのように、痕跡すら残っていなかった。

少し痩せたかと思ったが、違う。

やはり若返っている。

立ち上がってみると、体のバランスが少し崩れていて、一瞬だけよろめきそうになった。全身に力が溢れているかのようだ。

「オンカヌシよ」

呼ばれて、反応してしまう。

明らかに、自分の事だと認識している。

「お前は何だ。 同種の神かと思っていたが、違うな」

「……カムイ。 貴方こそ、一体何者ですか。 ある種のウィルスを主体にしているという話ですが」

「難しい言葉は分からないが、余は人間が存在するより前から、この世界にいた。 そして、森を管理し、統括してきた」

「私は……」

見てきたものと、その正体については説明ができる。

だが、どうしてそのようなものができたかが、雛理には分からない。

選ばれた理由は、何となく見当がつく。雛理が、ニエの一族に属する存在だから、だろう。

しかし、だ。

恐らく無意識の海に属する存在であるオンカヌシが、どうしてこのように力を持ってしまっている。

カムイによる泥洗が、オンカヌシを刺激したのか。

刺激したとして、その理由は。

分からない事は、未だに多すぎる。平坂のことをアーニャに聞けば、全てが解決すると思っていたのだが。

説明していくと、カムイは遠くの空を見つめた。

「戦う理由が無いな」

「同感ですね」

「今のお前は、私とほぼ同等の力を持っているだろう。 この森から、私もお前も、力を援護してもらっているからだ」

よく意味は分からないが、それならば。やはりこの森の異常成長は。

無言で、並んで歩き出す。

子供達は、逃がした。

アーニャに渡した手紙には、宛先と切手も付けておいた。どちらも偽装された番地で有り、平坂の組織が急に見つけ出すことは無理だ。そして届いた先からは、剣の上層部に直送される。

剣には、平坂の恐るべき野望が伝わったはずだ。もしもヘリが撃墜されたとしても、幾つかの手は打ってある。

後、出来る事は。

平坂を叩き潰すことか。

しかし、それには気が乗らない。

どうしてだろう。あれほどわき上がっていた平坂への憎悪も、鎮火してしまったかのように、心から消えていた。

 

湖に出た。

流れ込む水の量が多いからか、既に倍近い面積になっている。この様子だと、一月もしないうちに、潜んでいた洞窟は水没するかも知れない。

顔を映してみると、やはりだ。

十代半ばまで若返っている。この年頃からも、まだ雛理は背が数センチ伸びた。道理で、体が少し幼くなっていると感じたものである。

「ジャージ先生」

「そのものは死んだ」

「いいえ。 貴方は生きています」

「何を根拠に、そのようなことを言う」

むしろ死んだのは、雛理かも知れない。

平坂を憎んでいるかと聞くと、カムイは頷く。

自分の領土を増やしたのに、と聞いてみると。やはり、言葉に詰まった。それに何より、平坂はカムイに対して、極めて紳士的に接していたはずだ。勿論拘束はしていたが、強引に理解を求めようとしたり、洗脳はしていなかったはず。

拘束は身を守るための手段であったことを考えれば、平坂は最大限紳士的に接していたと言える。

「子供達を虐殺した憎しみが、余の中にまだ人間の要素を作っているというのか」

「はい。 おそらくは」

「貴様はどうだ、オンカヌシ」

「私は、今はもう、どうしてか平坂に対する憎しみがありません。 そう言う意味では、もう本当に人間を止めてしまった、と見て良いのかも知れませんね」

あの新田と、精神の一部を共有していることに対しても、嫌悪感が無い。

人間だったら、恐らく吐き気を催していただろうに。

火を熾す。

体中雨に濡れていたはずなのに、風邪を引く気配も無い。洞窟は一度荒らされた形跡があったが、生活物資は残っていた。多分、特殊部隊が踏み込んできたのだろう。残っていた中にライターがあったので、それを使った。

二人で向かい合って、火に当たる。

人間の脆弱な肉体は既に捨て去ったのに。これは習慣から来る行動だろうか。膝を抱えているジャージ先生は、ぼそりと言う。

「平坂という男に、協力してみようかと思っている」

「賛成はしません」

「私にとっては、森が全てだ。 世界を森で覆い尽くす事ができるのであれば、奴と手を組むことが、最上に思える」

カムイとしては、その思考で正しいのだろう。

そしてカムイは、先ほどの指摘。ジャージ先生であると言うことを、払拭したいのだと見える。

きっとカムイは、平坂の提案してきたことを、憎んではいない。平坂自身に対する嫌悪感から、行動を保留してきたのだ。

つまり、ジャージ先生を、カムイは殺そうとしている。

させるわけにはいかない。

「もしも、平坂に協力すれば。 貴方が愛した子供達を、世界中で億人単位で殺す事になります」

「子供など、愛してはいない」

はっきり告げると、わずかな間の後に、ジャージ先生は言う。

反応が鈍い。

傲岸不遜なカムイの意識に、やはりジャージ先生が残っている。そうでなければ、即答しているはずだ。

カムイも、それに気付いたか。

若干のいらだちを、顔に浮かべていた。

「それに、平坂は、貴方が愛した子供達を、殆ど皆殺しにした相手ですよ。 それでも、良いんですか」

「黙れ」

「黙りません。 平坂に協力すれば、この島での悲劇が、世界規模で再現されるという事です」

平坂の境遇については、同情する。

この世界に、理由も無く生まれる怪物などいない。大体は立場強き者による蹂躙が、より大きな悲劇の引き金になる。

だが、だからといって、平坂を殺さない理由にはならない。

情状酌量の余地はあるにしても、それが容易には無罪には結びつかないのと同じだ。オンカヌシと一体化した今も、雛理は人間の理屈で、平坂を見ている。人間の理屈で言えば、平坂は許せない存在なのだ。

「ジャージ先生、貴方はどう思うんですか? たとえば、世界を森で覆ったとしますけれど、結局平坂に協力すれば、それは人間の支配下で、世界が森に包まれるだけなんじゃないんですか」

「私はカムイだ。 だが……」

平坂の、知り得た情報を、全て話していく。

平坂はカムイの制御実験を繰り返していたという。それだけではない。石油を生み出すカムイや、黄金、稀少な物質を造り出すカムイも造っていたそうだ。勿論、生物兵器として使えるカムイも、である。

勿論それは、カムイを制御するための前段階だったには違いない。

しかし、成功しているのだ。部分的とはいえ。

「平坂は、貴方を知り尽くせば、使い捨てますよ」

「余が、そのような不覚を取ると」

「人間は、欲が絡んだとき、神をも凌ぐ恐るべき執念を発揮します。 ましてや今の時代の科学力は、本当に宇宙の深淵にまで届こうとさえしている。 不敬と思うかも知れませんが、神でさえ、人間の欲の前には暴き出されてもおかしくない時代だ、という事なんですよ」

事実、カムイを商業ベースで実用的に操作さえしている。

平坂の元には異能とでも言うべき人材が揃っているが、それにしても容易になしえる事では無い。

雛理には、見える。

カムイが協力して、平坂が世界を席巻した場合。

恐らくカムイは、傀儡の王にされるだろう。

表向きの支配者にはなれるかもしれないが、実質上は平坂が全てを取り仕切るようになることは、想像に難くない。

途中から、カムイはじっと聞いていた。

ジャージ先生の意識を喚起はした。

だから、此処からは、カムイも説得していく。

「しかし、余が平坂を撃破したとする。 その後に、余の行き場所はあるだろうか」

「少なくとも、ジャージ先生は見かけが人間です。 人里離れた土地ででも暮らせば、活路はあるはずです」

「こそこそと逃げ隠れよと言うか」

「どのみちこの世界は、既に人間の手に落ちています。 近年は密林を保護しようという動きも出てきていますから、それに乗ずると思えば良いはずです」

会話が、止まる。

カムイは、人間の恐ろしさを知らない。

自分をとらえた事で、平坂に対する考え方を、少しは変えたようではあるが。それでも、人間の実力をまだ理解できていない。

はっきりいって、この島に核でも落とされたら、その時点で終わりなのだ。

ジャージ先生は、どうなのだろう。

この、傲岸不遜で賢いが、しかし人間に対してはあまり知識が深くない神に対して、どう考えているのだろう。

人間的な感情に基づいて動いて、成功する例は殆ど無い。

だが、それでも。

今は、そうしてもらわないと困る。

何に対してだろう。

オンカヌシと一体化した雛理だって、立場はそう違うものではないだろうに。何だかおかしくなってきて、苦笑してしまった。

無言でカムイが森の中に入っていく。

戻ってくるとは知っていたので、そのまま放っておいた。

しばらくして、カムイが担いできたのは、人間大もある巨大な猪だった。一撃で首を折られて死んでいる。

素手で猪を引き裂き、解体しはじめるカムイ。

毛皮をはぐのも、とても手慣れていた。骨から肉を引きちぎるのも、毎日こなしているような練度だった。

当然だろう。森の王なのだから。

凄まじい血の臭いが、辺りに漂う。しばらくレーションしか食べていなかったから、それだけでも食欲が喚起された。

豪快に引き裂いた猪から血を絞り出すと、辺りの枝に刺して、焼きはじめる。素手での作業だが、気にならなかった。

焼けた肉が、良い匂いを立て始める。血の臭いと混ざって非常に混沌としていたが、今は食欲の方がより強く喚起されていた。

そのまま、二人で猪を食べた。

もう、汚染を気にする必要も無い。

久しぶりの肉を食べていると、妙に幸せを感じるのだった。

 

平坂は、報告を聞き終えると、大きく嘆息した。

逃がしてしまったか。

まさか、あの蛇が、捨て身の行動に出てくるとは思わなかった。女傭兵と連携しての行動を取っていたから知能はあるとは思っていたが、あそこまで的確に自分を捨てるとは意外だった。

蛇はどんなに大きくなっても、知能はさほど高くない。人間になれることはあっても、個体を識別することはほとんどできない。しかし、あの蛇は違った。そういえば、動きの持久力も並外れていたし、知性も常識外でも不思議では無い。

死にたがっていたのだろうか。

オンカヌシの力で怪物になり、それを苦しいと思っていたのなら。

あり得る事だ。

読み切れなかった、平坂のミスだ。

死者も出した。基地の巡回をしていた兵士が三人。一人は女傭兵に撃ち殺され、二人は蛇が突入してきたときに巻き添えを受けて押し潰されてしまった。後、カムイを解放した学者は、黒鵜が拘束して閉じ込めた。他に仕方が無かったと主張しているようだが、黒鵜に処置は任せるつもりだ。流石の平坂も、顔を見たらどう振る舞うか自信が無い。

幸い、兵器に被害は無い。

だが、基地は、防衛体制を見直す必要があるだろう。

カムイは敵に回ったと見ていい。説得はもう少しで上手く行った自信があったが、それも後の祭りだ。

それに、もう一つの不安要素がある。

輸送ヘリを使って、蛇の死体を片付ける映像が映り込む。

あの蛇で、オンカヌシが終わるとは思えない。あの女傭兵がオンカヌシになり、しかも知能を残したまま、巨大生物になりでもしたら。

ついでに、それがカムイと手でも組んだら。

せっかくの研究は行き詰まってしまう。

だが、カムイの体細胞などは採取済みだ。簡単にクローンできるから、切り札として残してある。

完全に詰んだわけでは無い。

平坂は報告をしてきた秘書官を下がらせると、しばらく病室で考え込んだ。

丁度黒鵜が来たので、話をしてみる。

「カムイに呼びかけたい。 拡声器を準備して欲しい」

「無益です。 丁度気化爆弾もありますし、一機に勝負を付けましょう。 カムイはクローン化も可能だと聞いていますし、何も「あの個体」にこだわることは無いかと思いますが」

正論である。

だが、もう少しで説得できそうな相手だ。

クローン化したカムイに最初から知識をすり込むことは簡単だが、それでは意味が無い。

人間社会を究極的な意味で否定している平坂にとって、対話で相手とわかり合う事は重要な意味を持っている。

人間社会では、それは鼻で笑われる行為だ。利権と狂気が全てを決しているのだから。

しかし、考えて見れば。

結局平坂も、人間社会で身につけたやり方で、カムイと話し合おうとしているのかも知れない。

「それに、もう一つ気になることがあります」

「何かね」

「まだ、数名人間がいたはずです。 特殊部隊が彼らの潜伏先に踏み込んだ際には、その姿はありませんでしたし、死んだ形跡も然り。 彼らがどこに行ったのか、どうも嫌な予感がしてなりません」

「無力な子供数人に……」

言いかけて、口をつぐむ。

相手を侮るのは自殺行為だ。それに何より、一度姿を見たあのロシア系の女。資料によると、かなり物騒な存在では無いか。

動物に襲われて死んだとか、濁流に流されたとか、そんな可能性は考慮しない方が良いだろう。

そもそもだ。

女傭兵は、何を狙っていた。カムイの救出だけとは思えない。

今、一番されて困ることは何だ。

「まさかとは思いますが」

「何か、思い当たる節があるのかね」

「はい。 剣に連絡を取る、という事は無いでしょうか」

どうやってと笑い飛ばそうとして、失敗する。

それだ。

あの女傭兵とカムイ、それにオンカヌシ蛇に、豪雨の中注意を全て奪われていた。もしも、女傭兵が何かしらの脱出手段を持っていた場合、使うはあの時以外には無い。

しかも積乱雲で、レーダーの類も精度が落ちていた。

仮に、敵がヘリを持っていたとする。

今までどうしてそれを活用しなかったかは、考慮するのは後回しでいい。そのヘリをどう操縦するのかも、今は考えなくて良い。

すぐに秘書官を呼び戻す。

戻ってきた秘書官は、珍しく血相を変えている平坂を見て、ほんのわずかだけ表情を動かした。

「如何なさいましたか」

「すぐに外の部下達に連絡。 剣に情報が漏れた可能性がある」

「そんな、どうやって」

「説明は後だ。 急いで対策を練るように指示を。 まだ、計画は完成していない。 すぐに動くように伝えたまえ」

慌てて秘書官が外に飛び出していく。

黒鵜には、カムイに呼びかける準備をするように言い聞かせて、外に追い出す。

そして、代わりに岸田を呼んだ。

岸田はいつものようにおちゃらけていなかった。カムイを逃がしてしまったことが、よほどショックだったのだろう。

だから、指示を伝えると。

むしろ生き生きと、顔を輝かせた。

「いいの、クローンしても!」

「ああ、すぐに取りかかってくれ。 剣に情報が漏れた可能性があってな」

「どうやってだろう。 ヘリかなんか、まだあったっけ?」

「可能性があるとすれば、フラッグソウが持ち込んだヘリだな。 全く、スポンサーの連中には毎度苦労させられる」

民衆は愚劣だという意見には同意だ。

だが、社会の上層にいる連中だって、はっきり言って大差ない。それが平坂の、冷酷な見立てである。

人間なんぞそんな程度だ。

人型カムイのクローンができるまで、数日。

現在の手持ち戦力は、古い巡洋艦が一隻、空母並みの戦力を持つメガフロートが一つ。ヘリにハリアー、トマホークミサイル。一個中隊の精鋭。巡洋艦に乗ってきた人員を含めると、更に三倍。

外にある組織には、まだ多くの部下と物資を持っているが、剣に急襲されると、少し面倒かも知れない。

黒鵜が部下達と一緒に、本島に出かけていく。

本島のベースも、一旦引き上げさせる方が良いかもしれないと、平坂は考えはじめていた。

 

食事を済ませた後は、どちらが言い出すでもなく、そのまま横になって眠った。

猛獣が来たところで、何ら恐れる事は無い。辺りに点々としている猪の残骸や、何よりカムイとオンカヌシの匂いが、彼らを近づけはしない。近づいたところで、怖くも何ともない。

先に目が覚めたのは、雛理のほう。

ジャージ先生を見ると、点滴の跡は、もう無くなっていた。

雛理も、足や脇腹を調べてみる。

同じように、既に怪我は消えている。痕跡も無い。

伸びをして、少し気分を切り替えた。

これから、どうする。

やるべき事はやった。

非戦闘員は脱出させたし、剣に増援も頼んだ。

もし、これから先に、やるべき事があるとすれば。カムイを完全に滅ぼすことだろうか。

仮に剣が平坂の組織を潰したとする。

その時、カムイの技術を見た剣の上層部は、どう思うだろう。この世に正義の組織など存在しない。

恐らく、こう思うはずだ。

これは、大変に有用な生物兵器だと。

もしくは、こう思うかも知れない。

これを上手に利用すれば、世界を手にすることも難しくない。

つまり、やるしかない。

さいわい、平坂は、組織の力をこの島に集約させている。それは、アーニャと話して理解できている。

カムイを滅ぼさない場合は、どういう事が考えられるだろう。

いっそ、自分で世界を征服してしまう、というのはどうか。これからジャージ先生と一緒に平坂の所に出向き、その計画を完成させるのだ。

だが、気が進まない。

確かに世界をこの手に握るのは、魅力的な策にも思える。

この腐りきった世界を、一機に掃除できるのだ。これほど痛快なことも無いだろう。雛理は、民間軍事会社にいたから、世の中がどれだけ腐りきっているか、人間がどれだけしょうもない生物か、骨身にしみて知っている。

頭を振る。

そんな思考は成立しない。

人間を止めてしまった今でも。人間である以上、そんな風には考えたくなかった。

泡沫の悪しき思考を追い払う。自分は人間である事に、誇りを持つとは思わなかった。もっと漠然と生きてきたからだ。

だが、今はそれが生命線だ。

一瞬でも気を抜けば、すぐに闇に思考を食い破られそうなのだから。

まだジャージ先生は眠っている。丸まって眠っている様子は、まるで動物だ。というよりも、動物的な要素の方が、既に人間的要素よりも強いのかも知れない。

此処でジャージ先生を殺したら、どうなるだろう。

好ましくない。すぐにそう結論が出る。

平坂の組織と戦うには、この人の力が必要だ。雛理はオンカヌシ化する事で相当に力がついたが、まだ近代兵器を相手にするには、この程度の戦力では不足なのである。

燃え残りの薪を動かしていると、ジャージ先生が目を覚ます。

「何時間寝ていた」

「四時間半ほど」

「ふむ。 さて、結論は出たか」

結論は。

決まっている。

この力は、人間には早すぎる。

カムイの技術は流出したかも知れないが。その制御と生産、それに泥洗の技術だけは、世界に流出させてはならない。

もしも流出した場合、その惨禍は核兵器の比では無い。

制御を誤れば、文字通り世界が滅ぶ。

「平坂を、倒しましょう」

「理由を聞かせて貰えるか。 余はむしろ、平坂に協力すべきでは無いかと思うが」

「ジャージ先生、貴方はどう思います」

「余は……」

カムイの言葉が止まる。

やはり、ジャージ先生の意識が生きている。

「子供達のために命を賭けたのに、肝心の子供達に怖れられ、排斥されたことが、よほどかんに障りますか」

「……怒ってはいないよ。 でも悲しいかな」

「人間に期待していたんですね。 ですが、それは無意味な行為です。 人間は基本的にエゴの塊。 見かけで相手の全てを決定して、差別を正当化するような生物です。 貴方は貴方が思うように、子供を助けた。 子供がどう思おうが、どうでも良いでは無いですか」

戦場を渡ってきた雛理は、こう思うのだ。

人間に善性とか道徳とかを期待する方が間違っている。

基本的にエゴで動く人間は、法があってはじめて人間として成立しうる。それが固まっていない子供は、文字通り野獣と同じ。

野獣に対して、此方の思うような行動を、期待する方がおかしい。

それを、以前はすんなり受け入れることができた。心を無にして、戦う事ができた。

しかし、オンカヌシという巨大な闇に触れた今。かって容易に出来た事が、できなくなりつつある。

「ならば、雛理さん。 どうして貴方は、人間のためになろうとしているの」

「平坂の考えよりは、まだマシだから、でしょうかね」

「……」

世の中など、そんなものだ。

力を得たからには、使い方に義務があると考える奴もいるかも知れない。

雛理はそんな風に、力の使い方に責任を負う世界には生きてこなかった。だから、対処療法で、世界に応じていくだけだ。

「平坂さんと、もう一度話をしてみたい」

「会見の場を持ちたい、という事ですか」

「うん。 対等な立場で」

「……無意味だと、思いますが」

完全な対等の立場での対話など、あり得ない。

もしも、あり得るとすれば。

それは、きっと別の要員が絡んだときだろう。

第三の介入勢力による、攻撃があった場合、などか。

「分かりました。 対話ができるように、私が何とかしてみます」

「物好きな事よ」

カムイに戻ったジャージ先生が、たき火に薪を追加する。

まだ、少し世界は肌寒かった。それが、体に悪影響を与えないとしても。

どのみち、怪物化してしまった今。

雛理にとって、自分の命など、なんら価値なきものであった。

 

(続)