暗中の死線
序、死を迎えるとき
嘔吐したのは、膨大な黒い泥。
それを見て、行成は死が近い事を悟っていた。
もはや助からない。
苦しくて、つい手を付けてしまった鹿の肉が原因だろうか。あの学者爺みたいに、これから化け物になるのだろうか。
呼吸を、必死に整える。
やせ我慢をして、平気なふりをした。娘を撃ち殺したときも平気なふりをしたのだ。これくらい、どうということもない。
だが。孫の前で、しかも娘と違って自分を慕ってくれる孫の前で、意地を張るのは、難しかった。
猟銃で自殺するのは難しい。
孫娘に、自分を撃たせるわけにも行かなかった。
ジャージのと、傭兵娘は、外に出たっきりである。ロシア系の娘っ子は此方に気付いたが、もとより眼中に無い。
黒い雨が降りしきる中、外に出る。
子供らには気付かれなかった。それでいい。
どす黒い雨が、全身を汚していく。
そういえば、今頃崖の上で、チハもそうやって黒い雨に濡れているのだろう。彼奴は、最後の最後で化け物から皆を守れて幸せだったはずだ。
自分は、どうだ。
誰一人、守れていない。
涙が出てくる。
苦しいのでは無い。痛いのでもない。
情けなくて、この年になって、涙が止まらなかった。
黒い雨が、容赦なく全身を浸していく。すぐに化け物になるかと思ったら、そんなことも無い。
いずれにしても、迷惑を掛ける訳にはいかない。
子供達を食い殺すなら、魚の餌にでもなった方が、まだマシだ。
湖へ、歩いて行く。
案の定、洒落にならないほど激しく水が逆巻いていた。川からの流れも凄まじい。ここに入れば、確実に死ねるだろう。
猟銃は置いてきた。
子供達を最後まで守れないのは、本当に口惜しい。だが、そのまま残っていたら、きっと子供達を食い殺してしまう。
森の中では、傭兵とジャージのが、今もあの学者爺と戦っているはずだ。先に行くことを、謝る。
湖の中に、入った。
濁流に、一気に体が持って行かれる。
しかも、水は黒く濁っていた。ああ、これでいい。これなら、化け物になる前に、死んでしまう事ができるだろう。
だが。
水にもみくちゃにされながら、気付く。
息が苦しくない。
死ぬ前に夢でも見ているのかと思ったが、違う。
目を見開く。
濁流の中だというのに。どうしてか、周りが見える。それだけではない。勝手に体が動いて、濁流の中を泳いでいるでは無いか。
こんな中を泳ぐのは、海豚だって不可能だ。
しかも、こんな老いた衰えた体で、泳げるはずが無い。
死ぬ前の夢だ。言い聞かせようとしたが、それは現実逃避に過ぎない。なんと、水面で顔を出してしまったからだ。
渦まで巻いているほど、湖面は荒れている。
それなのに、体はさも余裕という体で、むしろ湖面を悠々と漂っていた。馬鹿な。焦りが、徐々に心を塗りつぶしていく。
鈍い音がした。
それは、心が砕ける音。始まった。始まってしまった。
逃れようとするが、できない。恐怖にわしづかみにされた行成の心を、黒が塗りつぶしていく。
何か、おぞましい音が聞こえる。
それは、激しく逆巻く湖面の水に紛れて、ずっと前から近づいてきていた。気付かないふりをしていただけだ。
囂々と響く雨の音の中、絶望の悲鳴を挙げる行成は。
全身がみしみしと音を立てながら、異形に代わっていくことに気付いていた。嗚呼、なんてことだ。せめて迷惑を掛けないように死のうと思ったのに、それすら果たせないというのか。
それは、声でさえなかった。
正体は、それなのに、嫌と言うほど分かった。
オンカヌシが、既に行成の中にいる。
それは、行成の体を欲していた。本当は若くて健康な体がいいが、これで我慢してやる。予備は多い方が良い。
舌をかみ切ろうとしたのが、最後の抵抗。
意識が、糸を切られたように、闇へ落ちた。
不意に、雨が止む。
同時に、湖の荒れも、あっという間に納まった。
鏡のように、とまではいかないが。嘘のように静かな湖面の上に、立つ人影が一つ。それは真っ黒に塗りつぶされたかのように、星明かりが注ぎはじめた湖面にいた。
手に入れたぞ。
二つ目の体だ。
歓喜の声が、周囲を塗りつぶしていく。
まず、戦略を立てる。
一つ目の体は、再構成にとても時間が掛かる。だから、当面は、この二つ目の体を使って、行動する。
しばらくは力を使えないだろう。今回の戦いで、北方の神と激しくぶつかり合い、消耗しきったからだ。
滑るように湖面を移動して、対岸に到着。
使って見て驚いた。衰えているが、この体は戦士として鍛え抜かれたものだ。雨を通して多くの肉体を見たが、その中でも上位に入るほど鍛え抜かれているのは間違いない。何だ、今の若者は、情けないことだ。
老人のこの男の方が、よっぽど鍛えているではないか。
森に分け入ると、一旦身を隠すことにする。
力を最も発揮できるのは、泥の中だ。
だが、今は森という邪魔なものがある。川の中に分け入るのも、気が進まない。黒を維持するために、かなりの力を消耗するからだ。
とりあえず、今はこの体を得ただけで、由としよう。
どうせ森の中は、しもべだらけだ。
集まってくる、無数のしもべ。
満足して頷くと、とりあえず、闇の中へ身を隠そうと。
オンカヌシは思った。
1、大蛇
時間は限られている。
しかし、焦りは失敗を招く。どんなに危険な状態でも、絶対に焦らないようにするべきである。
それが、雛理が学んできた事だった。
猟銃を持って、辺りを漁っているアーニャに邪魔が入らないよう、見張る。
森になりつつある平坂の基地跡を、サイコメトリーの力を持つアーニャは、必死に探していたが。
顔を見れば分かる。
まだ、目だった成果は上がっていない。
「少し休みますか」
「まだまだ」
汗を拭いながら、アーニャがシャープペンシルの残骸らしいものを放り捨てた。あまり、役に立ちそうな情報は無かったのだろう。
これだけの規模の研究だ。
学者のような人間を連れてきていることは間違いない。そいつの痕跡をたどることができれば、或いは活路があるかも知れない。
いなくなった行成おじいさんは、もう怪物になってしまっているとみて良いだろう。
残った時間は、多くない。
「これは……」
顔を上げたアーニャが、泥まみれの紙片をつまみ上げていた。
シュレッダーに掛けた紙だろう。ただし、既に再生できる状況では無くなっている。しかし、サイコメトリーを使えるアーニャの手に掛かれば。
目を閉じて、集中しているアーニャを横目に、雛理は思う。
もう少し此奴が早く来ていれば。
しかし、好機はそれまで無かったのだ。今更、過去のことを悔やんでも、悲しんでも、仕方が無い。
辺りをまた探し始めるアーニャ。
目つきがさっきと違っている。これは、何かヒントのようなものを掴んだか。
既に、ヘリの飛行音が、近くで響きはじめている。平坂が、偵察部隊を派遣してきている証拠だ。
無人の哨戒機も、何度か見かけた。
木々があるから、即座に見つかる可能性は低い。だが、熱探知を使っている相手の場合は、誤魔化しきれない。
泥だらけにしていた手を、アーニャが近くの小川に行って洗い始める。目を閉じてぶつぶつ言っているのは、記憶を整理しているからだろうか。
何か見つけた、などと聞くのは野暮だ。
額を拭いながら、アーニャが此方に来る。
そして、ばつが悪そうに、顔を背けた。
「戻ろう、傭兵さん。 みんなに話さないといけないことがあるの」
「凶報ですか」
「一つは。 でも、吉報も」
来るように促す。
退路は、ぐるっと迂回していく。先ほどから、かなりの数のヘリが飛んできているからだ。見つかったら一巻の終わりである。
可能な限り、ヘリから離れた地面を選びながら、歩く。
森が途切れている場所は殆ど無い。危険なのは川だ。川を渡るときは、流石の雛理も非常に緊張する。
一人だったらどうにでもなる。最悪ヘリに追撃されても、確実とは言えないにしても、逃げ切る自信だってある。
今回つれている足手まといは、ジャージ先生とは比較にならない。運動音痴の上に頭の回転も遅い。
本当に、サイコメトリーという特殊能力がなければ、ただの子供だ。
幸い木の背がとても高いので、高速で飛行しているヘリから見える川面は限られている。後は、大型の魚にだけ気をつければ良い。
アーニャはとろいので、何度も手を引いて、引っ張るようにして歩いた。
腕も細いし、筋肉も殆ど使い込んでいない。
料理もロクにできないと聞いている。
平和の堕落に首まで使った、この国の子供と同類かと言いたくなる。勿論、まともな幼少期を送れなかったやっかみを含んでいることは、雛理も自覚はしているが。
以前に比べて、川は増えていた。
水が通るたびに地面が侵食されて、自然と水の流れ路ができるからだ。問題なのは、その速度が早すぎるという事。
動物が大きくなる速度も異常だが、森が自然に近い状態になっていく速さもおかしい。幸い、殆どは徒歩でわたれる小川ばかりだったので、立ち往生することは無かったが。この間の黒い大雨の日から比べても、水量は確実に増え、泳いでいる魚の数も大きさも増していた。
いくら美味しそうな魚がいても、食べる事ができないのはつらい。
少し鹿肉を食べただけで、行成おじいさんがどういうことになったか。いずれにしても、この島にあるものは、全て毒だと判断するほか無い。
水も、できるだけ浴びるのは避けた方が良い。
だが、川を渡るときは、どうしても濡れてしまう。膝くらいまでの川ならば、まだよい。中には、泳がないと渡れないような川も、既に出始めているのだ。
このまま行くと、この森はどうなるのだろう。
恐竜が出てきても不思議では無い。
人間の武器は異常な破壊力を持つが、単独の人間はさほどたいした強さを持っているわけでもない。
歴戦の傭兵である雛理だって、それは同じ。
普通の人間を素手で制圧しろと言われたら、できる。ナイフを持った相手でも、素人だったら、多分難しくは無い。
だが、もしも猛獣を素手で倒せと言われたら。
殆どの特定動物には勝てないだろう。
大型犬でさえ、本気を出したら人間ではまず勝てない。訓練を受けた犬の戦闘力は、凄まじいものがある。
犬でさえそれだ。
野生で鍛え抜かれた虎やライオンが相手で、素手で勝ってみせる人間など、存在はしない。
いたとしたら、それは人間では無いだろう。
夕方近くに、ようやく隠れ家に戻ってきた。
ぼんやりと空を見上げている治郎。
寛子はいない。聞いてみると、無言で治郎は、奥の方を指さした。
其処では、寛子が座り込んで、虚空に向けて何か話している。とても柔らかい笑顔で、まるで好きな人と接しているかのようだ。
側では、意識が戻らないジャージ先生が眠り続けている。
それなのに、しきりと寛子は、先生、先生と口にしているのだった。
完全に壊れた。
人間の脆弱な精神は、過度の負荷に耐えられない場合がある。そういったときは、現実を正しく認識する事ができなくなる事が多い。
治郎は、そんな寛子が怖くて、目を合わせられないようだ。
無理も無い。
これほど濃厚な狂気に、直接触れるのは初めてだから、だろう。
「もう限界ですね」
既に、留守を守る人間さえいなくなっている。
見つかったら、その時点でおしまいだ。戦争をしているのなら、全面降伏して、生き残ることを考えなければならない状況に近い。
しかし、降伏はできない。
降伏しても、実験動物にされるのが、目に見えているからだ。
そうなれば、確実に死ぬ。確実に死ぬ選択肢など、選ぶ事はできない。
「み、みんな、聞いて欲しいの!」
アーニャが、皆を見回す。
この異常な空気に飲まれかけているが、それでも必死に勇気を振り絞って。
「この島を襲っている二つの力、カムイとオンカヌシについて、分かったことがあるの!」
治郎が小首をかしげた。
咳払いをした雛理は、先へ進めるように、促した。
カムイとは、アイヌの言葉で神を意味する。
ただし神と言っても、より人間に身近な、精霊信仰の神としての存在だ。西洋におけるGODとは、根本的に違う。
アーニャも精霊神信仰については知っていたようだが、やはり原始的で野蛮な宗教の一形態、位にしか思っていなかったらしい。
しかし、だ。
カムイは、そのような民俗学的解釈における神とは、根本的に違う存在であるらしいと、アーニャは言う。
「カムイの正体は、ヒラサカ達もまだ掴めていないらしいの。 一つ分かっているのは、それがとても強力な、環境改変能力を持っている、という事」
「環境改変能力?」
「環境を上書きしてしまうらしいの。 それをヒラサカは、泥洗と呼んでいたらしいんだけれど……得られた情報がとても専門的で難しくて、私にはよく分からなかった」
泥洗。
何だか嫌な予感がする言葉だ。
そういえば、斑目島がおかしくなったあの日、海からせり上がってきた泥が、全てを飲み込んでいった。
おそらくは、あれが泥洗、だったのだろう。
海がおかしくなるわけだ。環境ごと変えてしまうような力を、もろに浴びていたのだろうから。
そういえば、あの時。
黒い泥の中で、最も活発に蠢いていたのは。この島にあまりにも多く生息している猛毒貝、アンボイナだった。
この島の伝承に出てくる神、オンカヌシの使いと呼ばれる生物であるアンボイナが、あれだけ活性化して凶暴化していたのは何故だ。
それとも、伝承は伝承で、アンボイナとオンカヌシは関係が無いのか。
しかし、偶然とは思えないことがある。化け物に変わった新田は、遠目にはアンボイナに似た姿になっていた。
近くで見ると、おぞましく醜悪なだけだったのだが。どうしてか、遠くに離れると、そのシルエットはアンボイナをまさしく想起させるものだったのである。
分からない事は、まだたくさんある。
オカルトに傾倒してしまったらおしまいだ。そもそも、カムイもオンカヌシも、本当に人間の手が及ばぬ魔的な存在なのか。違う可能性は、無いのだろうか。
「それで、その泥洗がどうかしましたか」
「この島は、もう泥洗によって、通常の人間では生活ができない状態になっていると、ヒラサカは分析していたらしいの」
「分析も何も、事実ですが」
「え、ええと、そうじゃなくて……」
アーニャは、必死に言葉を選びながら、話を続けていく。
雛理としても、焦りはある。
だから厳しい言葉も出てしまうが、しかし此奴が今は生命線なのだ。アーニャはまだ此方に心を許しきっているようには見えないが、しかし利害は一致している。協力しなければ、死が待っているからだ。
時々右往左往しつつも、必死にアーニャは、結末に向けて、話を進めて行く。
「カムイの改変能力は、なにも島全体というマクロ的存在にのみ働くものではないらしいの。 人間に対しては、その姿を怪物化させるという形で、働いて……」
アーニャが青ざめて、口を押さえる。
さぞやおぞましいものをサイコメトリーで見たのだろう。吐き気をこらえるのが必死という様子だ。
「怪物化開始の条件は?」
「特定の食べ物……だと思う」
それなら、納得がいく。
島にいる誰もが食べるようなものであれば、特に長くいる行成おじいさんが真っ先に怪物になったはずだ。
だが、あの人は、鹿肉を食べるまで耐えた。しかも、結局カムイにはならなかったはずである。
しかし、分からないのが、敦布さんだ。
ジャージ先生は、村の閉鎖的な大人達からは、アホだのバカだのさんざんな言われようだったはずだ。子供達から人望はあっても、大人達からは人間だとは見なされていなかった節がある。
特定の人間だけが何かしらの食べ物を口に入れて、それでカムイ化したというのなら。
それに、環境を改変する能力と、人間を改変する能力に接点があるのなら。それはどこにあるのだろう。
「それで、良くない情報、とは。 まとめると、何ですか?」
「……。 多分、誰もたすからない」
アーニャが、涙を拭いはじめる。
「カムイは、どうやらよほど特殊な条件で無い限り、空気や何かにまで潜んで、人間を変えていくらしいの。 ここに来ている兵隊達は、それを防げる装備を保ってきているらしいけど、私達には……」
「……」
その研究結果については、分からないとしか言いようが無い。
実際問題、警戒していたオンカヌシの方が、むしろ大きな損害を此方に与えてきているのだ。
仮に、その研究が正しいとする。
ならば、何故。
ジャージ先生だけが、あのような急速な異変を果たし、人間の姿のまま、怪物的なパワーを手に入れたのか。
それに、未だに、雛理には異変の兆候が全く無いのは何故か。時間制限が掛かっているとは思うのだが。
それに、子供達も、だ。
ジャージ先生が言うには、子供が変化したカムイらしい怪物もいた。
その言葉には疑う余地が無かったと仮定して、だが。どうして此処にいる子供達は、怪物化せずにいるのだろう。
今できているのは、この島由来の食べ物を食べず、水を飲まないようにしているだけだ。空気を吸うだけでカムイ化するというのなら。
むしろ、どうしてオンカヌシの力の方を、怖れている現状が到来したのか。
「良い方の情報は」
「……ひょっとしたら、カムイ化を抑える方法があるかも知れない」
やはり、そうか。
アーニャが言うには、この島に来てから、数例。動物実験で、カムイ化を免れた例があったという。
もっとも、その実験台となったマウスやチンパンジーは、平坂の所にいる学者が、嬉々としてホルマリン漬けにしてしまったそうだが。
ただし、その条件が分からないという。
頷くと、雛理は一旦話を打ち切ってもらった。
どのみち、現状で戦力が足りなさすぎる事に変わりは無い。子供達には、もう隠れていてもらう他無い。
そして、森の動物たちがどんどん大型化している今、そろそろそちらに対する対策もしっかり立てていかないと、危ないだろう。
猪も、人間に害を与えられそうなサイズのものが、散見されるようになっている。
此処に熊が出るようになると、子供にとっては相当な脅威となり得る。
「まだ情報が足りないか……」
「ごめんなさい。 私の力が足りなくて」
「いや、充分よくやってくれたと思います。 治郎君」
不安そうに顔を上げた男の子に、雛理は笑顔の一つも作らないまま言う。
ジャージ先生も、そういえば。目覚めなくなる直前は、そんな風だった。笑顔が作れなくなったと、無表情のまま嘆いていたか。
「猟銃の使い方を教えておきます」
「ぼくが……?」
「今、此処にいる男の子は君だけです。 勿論このお姉さんにも、教えてはおきますが、私がいないとき、寛子お姉ちゃんを守れるのは、君だけだと言うことを忘れないように」
「……」
その寛子は、やはりずっと虚空に向けて、幸せそうに喋っていた。
此処からは、恐らく雛理による単独行動が増える。
軍に押し込まれたら即座に詰みだ。
それだけではなく、猛獣にこの場をかぎつけられたり、襲われたりしても、もうどうしようもなくなってしまう。
全員が、猟銃くらいは使えないと危ない。
大型の熊のような、危険な肉食獣が頻繁に出るようになってからでは遅いのだ。
もっとも、そんなに時間が経ったら、どのみち詰みだろうが。
ジャージ先生は、目覚める気配が無い。
それに、目覚めたところで。
以前の彼女と同じだとは、考えにくい。目についた相手を、片っ端から殺戮する、文字通りの怪物となっていても、おかしくは無かった。
とにかく、何をするにも、もう時間が無い。
今、もし逆転を決める手があるとすれば。
平坂を、確保するほか無い。
そうでなければ、研究を行っている、平坂配下の学者。その上で、ヘリまで奪わなければならないのだから、頭が痛い問題だ。
まず最初は、治郎君とアーニャに、猟銃の扱いから教えなければならない。
刻一刻と過ぎていく中。
足手まといを、せめて自分の身だけでも守れるようにするだけでも、一苦労だった。
偵察部隊が痕跡を発見したと、平坂の所に情報が届く。
ようやく、進展があるか。そう思った平坂。今はオフィスでの執務中では無く、手配していた気化爆弾の到着を見届けた直後だった。結局今の時点で新田は姿を消しているが、いつ使うことになるか分からないので、手元にストックしておいて損は無い。
気化爆弾を配達してくれた部下を見送ると、すぐにプレハブに戻る。
そして、映像データを、プロジェクタに投影させた。
「足跡です。 かなり最近のものかと思われます。 巧妙に消していますが」
「例の傭兵の彼女の仕業だろう。 問題は、今更元ベースだった辺りを調べて、何が得られるのか、という事だが」
新田に全滅させられた、間抜けな「猫の鈴」の連中の事は、既に眼中に無い。
スポンサーにも釘は刺しておいたし、今は気にする必要が無い。しばらく研究が遅れていた分を取り戻そうと、岸田もハッスルしていて、不安要素は順番に解決されつつあった。
本来なら、余裕を持って構えていて良いはずなのだが。
何だろう。妙に気に掛かる。
「元と同規模の研究施設とベースを作るのに、どれくらい掛かる」
「二日もあれば、できます。 問題はまだ怪物化した新田が、潜んでいる可能性がある、という事ですが」
「そうだな。 それは私も懸念している」
準備だけはしておくようにと言うと、通信を切る。
そして、代わりに、黒鵜につながせた。
黒鵜はアパッチを駆って、ずっと偵察任務を続けている。恐らく新田を意地でも探し出すつもりなのだろう。
あれだけの戦闘力を持つ存在だ。
元々心配性な黒鵜にとっては、最大の懸念になっているに違いない。
通信をつなげると、黒鵜は不機嫌そうに出た。
「何か進展がありましたか」
「どうも傭兵の彼女が、廃棄済みのベースを漁っていたようでね。 何か思い当たる節は無いか」
「当然のことですが、それだけの危険を冒す意味があった、という事でしょう」
黒鵜は、傭兵の女のことを、大変高く評価している。
戦闘時の事よりも、冷静沈着な行動そのものが評価に値するらしい。部下に欲しい位だと言っていた。
黒鵜がこれほどべた褒めするのだから、相当な腕前だろう。
敵に回しているのは、あまり好ましくない。今の戦力差なら事故が起こることはまずないだろうが、それでも慎重は期したい。
「今、あの女が目的とするのは、恐らく生き残って、島を脱出することです。 それには、あの女も気付いているだろう、カムイ化とオンカヌシ化を止めなければならないでしょうね。 なぜなら、島の外に出ても、生き残れなくなるからです」
「ふむ、続けてくれたまえ」
「以前あの女は、人型カムイと一緒に、キャンプの近辺を探っていた形跡がありますし、恐らく泥ゾンビによる襲撃後は、確実にキャンプの残骸を調べているはずです。 もちろんそれで何かしらの成果を上げたのなら、もう一度来ることは無いでしょう。 しかし、そうではない。 結論としては、何かしらの痕跡を、廃棄ベースから探り出す手段を手に入れたと見るのが正しいかと」
「なるほど、面白い」
通信を切ると、すぐに秘書官を呼ぶ。
猫の鈴として派遣された部隊についての情報を、追加で欲しいと指示。彼女が動くのを横目に、自身は思考を巡らせる。
もし、あの傭兵ができる、逆転の好機があるとすれば。
恐らくそれは、平坂か、岸田を抑えることだろう。
戻ってきた秘書官に、コーヒーを淹れさせながら、話を聞く。
一段落したところで、秘書官が聞いてくる。此奴が能動的に口を開くことは、滅多に無い。
「斑目島にお戻りになりますか?」
「そうさな。 予定ではもう少しで戻るつもりだったが……。 いや、止めておこう」
「分かりました。 スケジュールを修正します」
「そうしてくれたまえ」
まだ危険が大きい。そう、平坂は判断した。
今の時点では、この離島ベースで指揮を執った方が良い。あの怪物化した新田を迎え撃つつもりで、かなりの防備を整えたのだ。此処にいれば、確実に安全を保てる。
問題はその安全確保を、いつの時点で判断するか、だ。
結局の所、新田はまだ死亡が確認されていないし、人型カムイだって探知には引っかかっていないものの、死んだとは限らない。
奇襲を受けると、逃げ切れない可能性が高い。
「黒鵜につないでくれ」
万全を期しておきたい。
新たに仕入れた高性能の監視カメラと、集音マイクを、神林にばらまく。今までよりもかなり多めに、だ。
歴戦の傭兵を数が少ないからと侮って、敗れるような愚かな指揮官になりたくはない。勝つためにはあらゆる手段を講じて、そして目的を見失わないように行動しなければならない。
慢心して脱落した先輩を、何名も平坂は見てきた。
油断は害悪だ。たとえ敵の戦力が極めて少数にまですり減らされても、油断すれば隙を突かれる可能性がある。
夕方は、あっという間に来た。
デスクワークとスポンサーへの連絡を終わらせると、疲れが溜まっていることに気付く。若い頃は数日間眠らずに働くこともできたが、今はもう無理だ。
温泉に行きたいと、平坂は思った。
二日後。
神林全体に集音マイクをばらまき終えた。監視カメラも多数ばらまいたほか、無人の小型偵察ヘリを新たに三十機導入し、隙間の無いローテーションで森の上を巡回させることにした。
だが、これなら大丈夫だろうと考えるのは、危険だ。
オペレーションルームに入った平坂は、敬礼する部下達に軽く返礼すると、責任者に話を聞く。
「人型カムイの波動は」
「消えたままです。 オンカヌシとの戦いで、消滅したと見るべきでは無いでしょうか」
「いーや、その可能性は低いね」
不意に話に割り込んできたのは、岸田である。
岸田は今日、新しく入ったというソフトクリーム製造器を早速試していた。兵士達の慰安用に導入したのだが、岸田が早速使ったのである。
兵士達に評判を聞く限り、専門店のものほどではないが、そこそこに美味しいという。
で、だ。
岸田の手には、巨大なカップと、山盛りのソフトクリームがあった。
しかし、自分で食べるのでは無いと言う。なり損ないや、実験中の成体カムイに喰わせて、反応を見ているのだそうだ。
「食べる? 平坂ちゃん」
「私はいいから、話を続けてくれるか」
流石に、カムイの餌を食べるかと言われて、平坂も顔を強ばらせるが。勿論、岸田に悪気は無い。
この悪意無き無邪気の塊は、それが故に残虐でもある。
「ああ、ええとね。 あの人型カムイの女の子。 やっぱり今までのデータを調べてみたけれど、泥洗が終わったときには、もうカムイ化し始めていたと思うんだよね」
「ほう?」
「つまり、その気になれば、存在を隠せるって言うことだよ。 勿論それは、オンカヌシも同じだと思う」
新しいレーダーを作らないとと、他人事のように岸田は言った。
ただ、その考えは、平坂と一致している。過剰すぎる安全主義に思えるかも知れないが、今回は世界を変える一大プロジェクトなのだ。どれだけ安全を期しても、やりすぎとは言えない。
「巡洋艦はもうすぐつくんだっけ?」
「それがどうかしたか」
「中に、ボクの研究室を作ってくれないかな。 巡洋艦の中なら安全性も高いし、それにゆっくり一人で研究できそうだしさ」
「検討しておく」
実際には、そのつもりは無い。
巡洋艦は危険性を極力排除し、トマホークをレンジ外から放つための海上砲台として活用するつもりだ。黒鵜もその意見には賛成している。
逆に言うと、いつでも狙った地点にトマホークをたたき込めるくらい慎重に行動しなければ、此処からはさらなる危険が発生する可能性がある、という意味もある。
岸田を下がらせると、監視を更に強化するように、オペレーター達に指示。一旦岸田は、部屋を出ようとした。
「神林の西に、大きな動きが見えます」
「何が起きた」
「複数のカメラが通信途絶! 無人機からの映像に切り替えます!」
白黒のモニタに、そのとんでも無いものが、威容を余すこと無く映し出す。
巨大な蛇。
全長は、どう見ても百メートルを遙かに超えているだろう。蛇という生物はその構造上、どうしても越えられない大きさがある。つまり、通常の蛇では絶対にあり得ない。更に、超大型の蛇になると、動きも鈍くなり、芋虫のような移動方法を採るようになる。獲物を襲うとき、瞬間的に早く動く事はできるが、体中の筋肉が持久力の無い瞬発筋なので、すぐにへばってしまう。
蛇は一瞬の動きに賭ける生物なのだ。
だから、普段はじっとしている事が多い。活発に動くタイプもいるが、それは昼間などに熱を蓄えておいて、一気に力を爆発させているのである。
だがこの超巨大蛇は、小型の蛇のように、森の木々を縫うようにして蛇行している。時々、巨大な木に巻き付いて、遠くを眺めている様子だ。
偵察機が、顔のすぐ近くにまで近づく。
無人の偵察機だから、かなり大胆な行動が可能である。
「ほー。 ニシキヘビだね。 多分インドニシキヘビだ」
「分かるのか、岸田博士」
「うん。 二ヶ月くらい前に見た図鑑に出ていたよ。 この模様だと、革製品にしたらいい値段がつくんじゃ無いのかな」
流石の記憶力だ。
戻ってきた岸田は、かなりソフトクリームを減らしていた。実験動物を、甲斐甲斐しく世話していたのだろう。
勿論、実験には必要だから、だが。
蛇はすぐに偵察機を餌では無いと理解したようで、鬱陶しそうに首を振り、追い払いに掛かる。
動きが非常に俊敏で、しかもなめらかである。蛇の持久力としては、考えられない事だ。蛇にはまぶたが無いが、かといって感情が存在しないわけでは無い。怒れば口だって開けるし、威嚇の音も立てる。
蛇は偵察機をうっとうしがっているようで、しばらくするとばくりと噛み潰してしまった。一瞬偵察機のカメラに写った蛇の超巨大な口は、恐らく小型車が丸ごと入るほどはあった。
メガロドン並の口だなと、平坂はのんきに思う。
「攻撃しますか」
黒鵜から通信が入る。
蛇から数キロの距離を保ったまま、もう攻撃態勢を取っている様子だ。殺れと命じれば、即座にミサイルを叩き込むだろう。
そうなれば、でかい蛇くらいなら、瞬殺だ。
現在の兵器は、鉄の塊くらいなら瞬時に貫通するような、異次元的破壊力を持つものばかりなのである。
「もう少し調べてからだ。 ただの蛇であれば、殺してしまってもいいだろう。 だが、カムイであれば……」
「カムイの反応無し」
「ふむ、そうなると、オンカヌシか? 新田にしては、随分姿が違うな」
蛇は面倒くさそうにちろちろと舌を出していた。
別の偵察機で、定距離を保って観察を続けている状態だ。やがて、蛇はヘリを避けるように、森を縫うようにして、西に行ってしまった。
そして、西の森の端で、とぐろを巻いて、此方には興味を見せなくなってしまったのである。
近くを偵察機が挑発的に飛んでみても、何も起こらない。
「あれ欲しいな! 解剖したい!」
目をきらきら輝かせて岸田が言うので、流石に頭を抱えたくなった。黒鵜は黒鵜で本気にして、目をつり上げて凄く怒っている。
だが、岸田は平坂が許可を出さないことをすぐに悟ったらしい。何だよとかぶつぶついいながら、すっかり溶けたソフトクリームのカップを手に、その場を後にしたのだった。残り香のバニラの匂いが、ひたすら強烈である。
「とりあえず、目を離さないように。 普通の蛇程度なら問題では無いが、もしも攻撃行動を取ろうというのなら、殺せ」
「分かりました。 しかし非常識にもほどがある」
「それでいい」
黒鵜との通信を切る。
神林にキャンプを作るのは止めて、旧斑目島の安定した場所に作る方が良いかもしれないと、戻ったオフィスで平坂は思い始めていた。
もしもあんな、恐竜でさえ驚いて逃げるような巨大生物が多数現れるようになったら。一匹なら対処は難しくないだろうが、この戦力では殲滅は難しいだろう。かといって、殺して廻るのも、神林の「成熟」には好ましくない。
あと少し、なのだ。
カムイを完全コントロール出来るようになれば、平坂の野望は達成できる。そして、それは手の届くところにまで来ている。
気付くと、時計がかなり進んでいた。
リクライニングのシートに腰掛けたまま、眠ってしまっていたらしい。コーヒーでの眠気覚ましにも限界がある。
ノートパソコンを弄って、状況を確認。
幸いにも、寝ている間に、致命的な事態が起きていた、というような事は無かった。
2、這いずる者
ヘリの動きを見て、何かあったらしいと、雛理はすぐに悟った。
だが、少し前から、膨大な数の集音マイクと監視カメラがばらまかれており、平坂が本気で監視体制を再構築しているのは確実。辺り中に高性能な集音マイクがいる事もあって、喋ることさえ迂闊にできなかった。
幸い、洞窟はまだ見つけられていない。
だが、撒かれている監視カメラを見る限り、暗視機能くらいはついているだろう。この森を、今までのように動き回ることは、できないと思った方が良い状況だ。
その中で、見ることが出来たのは、偶然。
巨大な蛇が、森から顔を出して、無人の偵察機を見つめている。
しばらく偵察機に好きなようにさせていた蛇だが、流石に鬱陶しくなったらしい。偵察機をかみ砕くと、吐き捨てていた。
蛇は動きが大変なめらかだ。妙な違和感を感じる。
確か蛇は全身が白筋で、瞬発力は凄まじいが、持久力はたいしたことが無いはず。
大型の蛇でも迷彩模様を体に付けているのは、そもそも獲物に気付かれないようにするためだ。また、毒を持つ個体がいるのも、単独としてはさほど強力な生物では無いため、身を守る手段が必要となるからである。
カムイか、オンカヌシか。
そのどちらかでしかあり得ないと、雛理は木の陰に身を潜めたまま、結論した。
もう、単独でしか動き回れなくなっている。
子供など連れて外に出たら、絶対に敵の監視網に引っかかる。既にジャージ先生という此方の切り札は、使えない状態だ。
敵にしてみれば、まだジャージ先生がいるかも知れないという警戒をしなければならない筈で、だましだましやっていくしかない。
木陰を伝って歩きながら、偵察機の残骸に近づく。
吐き捨てられた偵察機は、ぺしゃんこにつぶれていた。高性能なラジコンヘリという風情の姿であり、痛々しく潰れてしまっている。
別の偵察ヘリが、既に空にいる。
蛇は面倒くさくなったのか、身を翻して、西の方に去る。動きはいちいちなめらかである。見つかったらひとたまりも無いだろう。ただし、相手に人間などを食べるつもりがあれば、だが。
見たところ、体長百メートルは軽く超えている。あのサイズになると、象くらいでないと満足できないだろう。
壊れた偵察機を敵が回収に来る前に、拾わなければならない。
しかし焦れば、監視網に引っかかってしまう。
集音マイクを潰しながら、ゆっくり移動する。監視カメラを慎重に探し、見つけては死角を縫うようにして歩く。
二時間かけて、木陰を経由して、ついに偵察機の所に到達。
カメラは完全に死んでいる。
木の中腹に引っかかっているので、捕まえるのはかなり難しかったが。それでも、ぶらぶらになっていた翼の一部だけは、取ることができた。
そのまま、来るときに通った路を完璧にたどって、戻る。
針の穴を通るような慎重さが必要になった。
まだ希望はあると、アーニャには告げてある。平坂も人間である以上、必ず油断する。平坂さえ抑えれば、どうにかなる事も多い。
それだけではない。
敵が基地を作り始めれば、其処に乗ずる隙だって出来る。
敵兵を一人でも捕縛できれば、装備類も奪い取れる。カムイ化を防げる装備が、だ。それを調べれば、上手くすれば、全員に同じ処置が施せるかも知れない。
偵察機の残骸を持ち帰るのは、その第一歩。
アーニャのサイコメトリーを使えば、何か有力な手を打てるかも知れない。あの蛇、どうも気になる。
ひょっとして。
雛理の考えている事が当たれば。或いは。
幾つか目の川を、渡っているとき。不意に、殺気を感じて振り向くと、人間大の魚が、泳いでいる雛理の後ろから、音も無く迫ってきていた。
無言で岸へ急ぐ。魚は此方が気付いても意に介さず、速度を上げてくる。
ついに、この事態が来たか。
近くの岩に捕まると、急いで這い上がる。同時に魚が、巨大な口を開けて、雛理に向けて躍りかかってきた。ガーという、鰐のような魚に似ている、いかにも凶暴そうな奴だ。
デザートイーグルの引き金を引く。
弾丸が魚の口の中と、目に直撃。
鋭く跳ねた魚は、驚いて川の中に戻る。だがその時、鋭い尾びれが、雛理の股を抉っていた。
大量の血が飛び散る。
無言で上着の一部を割いて、傷を縛る。既に生傷が絶えない状態だが。新しいのは、かなり深くて長い傷だ。
まずいのは、大型の拳銃を使ったという事。
当然集音マイクには拾われているだろう。最悪なことに、近くに隠れ家にしている洞窟がある。
岩場から急いで岸まで行く。
血の臭いに惹かれたか、さっき以上の大きさの魚が、たくさん集まってきたが。追いつかれる前に、川を渡りきることができた。
だが、もう他の人間に、川を渡らせることはできないだろう。
傷から、血が止まらない。
縛った布が、見る間に真っ黒に染まっていく。体の深いところから、血が出ている証拠だ。
何度も、血が出る様子は見てきた。友軍兵士の止血をしたことだってなんどとなくあるし、自分の怪我を手当てした回数など、数え切れない。
だが、今は。手慣れたはずの作業が怖い。
もしも、これが行成お爺さんと同じ症状だったら。
あり得ない話では無い。今まで雛理は、散々黒い雨を浴びてきたのだから。
洞窟に戻ると、アーニャが出迎える。
治郎は膝を抱えてふさぎ込んでいた。寛子は疲れたようで、奥で眠っている。
アーニャは、雛理が傷だらけのこと。服を破いたこと。股を縛っている事に気付いて、口を押さえる。
「かすり傷です。 そちらは何か?」
「ううん」
「そうですか。 これを」
偵察機の破片を渡しておく。
もしも、あの蛇が行成お爺さんの成れの果てならば。
ひょっとすると、会話が出来るかも知れない。
そうなれば、何か分かる事が、あるかも知れない。
雛理は、少し休んでから、再度出ようと思っていたのだが。思わぬアクシデントに見舞われていた。
傷口の痛みが止まらない。
応急処置で消毒はした。まだ持ってきている物資の中に、医療キットは残っているからだ。
だが、傷口がふさがる様子が無いのだ。
無言で針を火にかざして、消毒。一気に傷口を縫ってしまう。
もう一度手当をして、それで気付く。
やはり、血が黒すぎる。
どうやら、自分にも、タイムリミットが迫っているらしい。雛理は天井を仰ぐと、嘆息していた。
カムイ化するのか、オンカヌシ化するのか、それは分からない。
どちらにしても、人間では無くなる事に変わりは無い。
傷口をじっと見つめる。真っ黒になっている包帯。包帯も、残りは少ない。あまり無駄使いはできない。
感染症を避けるためには、こまめに換えなければならないが。いつまで、在庫が保つだろうか。
アーニャが来る。
青い顔をしていた。
「蛇、見えましたか」
無言で頷く。
そして、反応で、大体分かった。
「行成おじいさん、ですね」
もう一度、時間をおいて、アーニャは頷く。
これで、出ざるを得なくなった。
何度か起こそうと試みたが、ジャージ先生は眠ったままだ。狸寝入りしている様子は無い。
どういうわけか、排泄もしないし、栄養も必要としていない様子だ。
既に人間では無くなっている、と見て良いだろう。
時々発作的に、寛子が先生を殺そうとすると、アーニャが言う。今までに二回、無理に止めさせたそうだ。一度は猟銃で。もう一度は、首を絞めて殺そうとしたのだとか。治郎が止めた分もあるので、実際に何度殺そうとしたかは分からないという。
止めたときに触れて分かったそうだが、寛子は現実のジャージ先生を、怪物か何かとして認識しているという。その代わり、心の中に「優しかった頃の」ジャージ先生をつくって、会話しているのだとか。
度しがたい恥知らずだと思ったが。
考えて見れば、もうおかしくなっているのだ。今更何をしようと、何とも思わない。あれだけ言っても、平行線だったのだ。
これ以上何を言おうが、無駄だろう。
ジャージ先生が、人間的ではなくなっていく心に苦しみながらも、それでも生徒達のために命を賭けたという事は、何度も教えた。怖いからと言う理由で、それから目を背け、あまつさえ殺そうとするような子供に、用は無い。
ただし、今度殺そうとするのを見たら、雛理が寛子を殺す。
雛理の目に危険な光が宿るのを感じたからか。アーニャが、慌てて話題をそらした。
「お爺さんの所に、行くの?」
「ええ。 今、急ピッチに平坂が監視体制を再構築しています。 手遅れになる前に、戦力になる可能性がある存在は、確保しないといけませんから」
「その傷で、無茶よ」
「どのみち時間はそう多くありません」
痛みは、我慢できる。
問題は、恐怖で判断をミスしないか、という事だ。
今はまだ大丈夫だ。
だが、これから更にタイムリミットの到達が近づいてくると、雛理でも危ない。歴戦の傭兵が、追い詰められていって、とんでもないミスをした例を、何度も見た。雛理より腕利きの人物だっていた。
それでも、追い詰められれば、ミスをするのだ。
どれくらいの段階でミスをするかという線引きは、流石にできない。
今は、まだ判断が正常にできている。今のうちに、やれることは全てやらなければならないだろう。
「子供達を見張っていてください。 レーション以外のものは口にしないように、念を押して」
「分かったよ。 でも、大丈夫なの?」
「確率は高くないでしょうね」
だが、新田は、怪物化しても、新田のままだった。
前々から気に入らなかったのだ。飄々としているように見えて、腹の奥にはどす黒い憎悪と怨念を蓄えていたのだろう。
いつかやらかすとは思っていた。
予想外だったのは、恐らく新田が、この事件が起こる前から、ハインドで介入してきた連中とつながりがあった、であろう事だ。
はて。
今更に気付く。
新田は一体、いつそのような連中とアクセスしたのだ。
田舎で隠棲しているしがない一学者に、世界最大規模の軍産複合体の一つが、どうして興味を持つのだろう。
やはり判断力が鈍ってきている。
ひょっとして、何かとんでも無い事が、最初からこの島では起きていたのでは無いのだろうか。
いずれにしても、急ぐ必要がある。
「帰りは遅くなります。 最悪の場合は、降伏を選んでください」
「ちょっと、無理だよ……! あの科学者に捕まったら、絶対解剖されちゃうよ!」
「それでもです。 勿論、逃げる事、身を隠すことを最優先にしてください。 それと、洞窟の中でも、大声は絶対に出さないように」
言い聞かせると、雛理は隠れ家を出た。
昨日、デザートイーグルを発砲したのは失敗だったかも知れない。しかし、そうしていなければ、高い確率で命を落としていただろう。分かってはいたが、それでも失敗だったかも知れないと、何度も考えてしまう。
というのも、空を見上げると、アパッチが威容を示しつつ、東から西へ飛んでいく光景を目の当たりにしてしまったのだ。
向こうには気付かれなかったが、既に発砲音は拾われているとみていい。
何より、今まで渡れた川を、渡ることはできない。
上流に向かって、浅瀬を探すほか無いだろう。
それだけで、時間が大きくロスしてしまう。
焦りが、身を焦がす。
偵察を行いつつも、西へ進む。
森の中は、今までより遙かに歩きづらくなっていた。
森の発達が、異常すぎるほど早いのである。所々、露出した監視カメラが落ちていたりもした。
あまりにも木が早く育ちすぎて、枝から落ちたのかも知れない。もっとも、相当数をばらまいているようだから、単に投下したときに落ちたのかも知れないが。
いずれにしても、それでも生きている監視カメラという可能性が高い。カメラの視界を縫うように進み、できるだけ不自然な音は立てないようにして動く。
戦場で養った勘にも限界はある。カメラの分布を見ながら、撒いていない地域を割り出し、其処を通っていくしか無い。
足跡を見つける。
人間のものではない。
大型の獣のものだ。多分猪だろう。足跡の大きさから言って、軽く百キロを越えているとみていい。或いは、百五十キロに達しているかも知れない。
このサイズになると、充分に人間に対する害になる。
今のところ、熊は見ていない。
しかし、この森の発育の速さから考えて、今後何が現れてもおかしくない。あの蛇が行成おじいさんだと分かって、内心ほっとしているほどなのだ。
デザートイーグルの弾を無意識で確認。
猟銃は二丁とも置いてきた。持っていてもあまり意味が無いと思ったからなのだが。この足跡を見て、少し後悔する。
デザートイーグルは強力な拳銃だが、相手が文字通りの猛獣となるとパワー不足かも知れない。
二丁ある猟銃は、とくに新型の方は充分な殺傷力がある。戦術さえミスしなければ、グリズリーとも渡り合える。
一度戻るべきか。
しばらく悩むが、しかし進むことにする。
このままだと、残り時間が切れてしまうかも知れないからだ。
森の西の果てに到達するまで、半日。
地形は分かっているのに、随分迂回したからか。かなり手こずってしまった。今の平坂は、偏執的なまでに警戒心を強めているとみていい。下手な物音を立てれば、すぐにハリアーが飛んできかねない。
何度も、監視カメラに気付かず、進みそうになった。
やはり判断力も、集中力も、衰えてきている。このままだと、危険だと判断して良いだろう。
「どうして来た……」
声が、聞こえた。
思わず顔を上げる。声の主が、行成お爺さんだと、明らかだったからだ。
しかし、周囲に声が聞こえているのかどうかは分からない。この島では、もう何が起きても、おかしくない。
「行成おじいさんですね。 大蛇になっていたんですか」
「死に損ねたらしい。 本当に悔しい事だ」
「意識ははっきりしていますか」
「ああ。 問題ない」
それならば、むしろ有益かも知れないと、雛理は思った。
こういう冷静な判断力は、まだかろうじて生きている。
しかし、行成お爺さんはどこにいるのか。姿は確認できないし、此方が小声で喋るだけで、通じているようだが。
ヘリが飛んできたので、隠れる。
ヘリの限界高度を飛んでいるようだ。仮に現在の行成お爺さんが体長さ百メートルオーバーでも、届かないだろう。
しかしそれは、観測の効率が落ちるという事も意味している。
「俺はすぐ後ろだ」
「!」
岩壁に同化していて、こんな巨体が見えなかった。
とぐろを巻いているから全長は見えないが、軽く百メートル。下手をすると、百二十メートルを超えるかも知れない。
こんな蛇は、存在し得ない。体の構造的に無理だからだ。
形状はアナコンダよりも、ニシキヘビに近い。動きも、かなり鋭い様子だ。
行成お爺さんが理性を保っていて良かった。
もしも餌として認識でもされたら、ひとたまりも無く殺されてしまっただろう。
懸念は、声が周囲に聞こえていたら、筒抜けになりかねないという事なのだが。ひょっとして、いわゆるテレパシーの一種なのか。
「どうやって喋っているんですか」
「分からんが、口を動かさずに、意思を伝えられているな」
「そうですか……」
「俺も、いつまで人間の意識を保っていられるかわからねえ。 早く此処を離れろ。 軍隊は幸い、俺に注意を集中していやがる。 今だったら、隙を突けるかもしれねえ」
残念だが、それは無理だ。
以前ジャージ先生と一緒に近づいたときよりも、更に警戒レベルが上がっている。
平坂が基地を再構成しはじめたことは、遠目に見た。
だが、ハリウッド映画に出てくる特殊部隊員がいても、彼処に近づくことは不可能だ。警戒レベルが、尋常ではなさ過ぎるのである。
既に地雷も、相当数が撒かれている。
監視カメラなども巧みに配置されている。近づくことは、そもそも物理的に不可能なのだ。
「このまま手をこまねいていれば、残念ながら私達は二つに一つの運命をたどることになるでしょう。 怪物化するか、猛獣に襲われて死ぬか」
「そうだな、俺のようにはなりたくないだろう」
「……今の状況だと、ヘリを奪うのも現実的ではありません。 しかし、もしヘリを奪えて、万が一に逃げられたとしても。 その先で、怪物になって死んでしまうのは、ほぼ確実です」
つまり、まずは平坂か、それに近い立場にいる人間を捕らえて、アーニャに触らせる必要がある。
それは、行成お爺さんも分かっている筈だ。
「そうか、そう考えると、前よりは状況が良いな」
「はい。 申し訳ないのですが、一働き、お願いできますか」
「……そうだな。 ただ、相手ももう俺を見つけているし、いつでも殺せるように備えている様子だが」
「それについては、一日掛けて、作戦を練ってきます。 問題は、平坂がいないことが、ほぼ確実、ということです」
オンカヌシ化した新田ととカムイ化したジャージ先生の死闘が行われたのは、つい先日。あれだけの超火力が展開されたのも、同じ日だ。
この偏執的な監視体制を見ても、平坂が相当に慎重な人物であることは、一目瞭然である。
まず間違いなく、自身は本島に戻ってきていないだろう。
つまり、まずは平坂を、おびき出す必要があるという事だ。
「それも、考えてきます」
「……分かった。 しかし、要するに俺に死ねという事だな」
「もう、一度死のうとした身でしょう?」
それは冷酷な発言であることは分かっていた。
だが。もしも行成お爺さんの身になってみたとして。巨大な蛇になってしまい、自殺も無理だとなった場合。
どうしたいと思うだろうか。
答えは。
「そうだな、まだ人間であるうちに死にたい。 それがお前達のためになるのなら、なおさら良い」
そう行成お爺さんが答えるのがわかりきった上で、雛理はそう言わせた。
残虐なのも、わかりきっている。
多分他人には、人でなしと言われる事だろう。
だが、生き残る確率を、少しでも上げられるのなら。
雛理は、鬼にでも悪魔にでもなる。
それが戦場で生きてきた人間の理屈だ。
一旦行成お爺さんから離れる。
その前に少し聞いたのだが、やはり理性がなくなり、動物になってしまう時間帯があると言う。
その時間は、動物としての意識の方が強くなる。
ただ、それだと解らない事がある。
オンカヌシというのが何者なのか、という事だ。
新田も、頭がおかしな様子ではあったが。だからといって、神がかっているようには見えなかった。むしろ、力を得て、暴走しているような印象を、言動からは受け取ることができた。
似たような印象は、敦布。つまりジャージ先生からも受けた。
どんどん合理主義者になっていく彼女と接していて、思ったものだ。むしろ神がかりというより、動物的では無いのか。
その証拠に、最後の最後まで。
ジャージ先生は、子供達の事を第一に考えていた。
思考を追い払って、夜の森を行く。
まずは一旦戻ろうかと思ったが、止めた。途中の木の上に上がると、そこで休むことにする。
平坂をおびき出す方法。
それに、その後、行成お爺さんと協力して、平坂を捕らえる方法。
そして最後に、ヘリで全員脱出する方法を、考えなければならない。
実のところ、二番目と三番目については、セットで考える事が可能だ。平坂さえ捕らえれば、奴を人質にして、ヘリを要求できる。勿論、平坂を捕らえたままで、この島を脱出する事も不可能では無い。
そして平坂を捕らえるのも。
行成お爺さんの戦力があれば、或いは不可能では無いかも知れない。
問題は、恐らく行成お爺さんが、動物的状態の時に。敵に見られてしまい、最大限の警戒をされている、ということだ。
この状態で、どうやったら、平坂をおびき寄せることが可能か。
あまり、手は多くない。
そもそも、使えるカードが、あまりにも存在しないのだ。
いや、ある。
悪魔的な発想だし、あまりにも酷い話だが。
奴らをおびき寄せることができるカードが、ただの一枚だけだが。懐には残っていた。流石にこれは、雛理も逡巡してしまう。
実際に売り渡すわけでは無い。
それでも、枯れ果てたと思っていた雛理の良心が、痛む。
裏切りと言えるかも知れない。だが、戦場では、多くの敵を殺してきた。この島でも、同じように振る舞うだけ。
腕組みして、しばらく考え込む。
気付くと、足の傷口から、黒い血が流れ出ていた。
傷口は、開いたままだ。
血が止まる気配は、やはりない。一度戻って、レーションを腹に入れるべきだろう。そう、結論が出た。
2、木漏れ日の裏切り
平坂が呼び出されると、既に監視班が、てんてこ舞いになっていた。
一つは、大蛇が動き出したという事。
森の中に入ると、文字通り蛇行しながら、東へ進んでいる。ただし、基地の方向とは、微妙にずれているようだ。
アパッチをはじめとするヘリが監視を行っているほか、基地を警備しているメンバーには、監視体制の強化を命じてある。蛇がある程度以上近づいたら、すぐに基地を離れられるように、輸送ヘリも待機させていた。
先ほど、黒鵜から、攻撃の許可指示を求めてきたという。
許可はしていないが、懸念が強いらしい。もしもあの蛇がオンカヌシの一つだった場合、人間並みの知能を持っていてもおかしくない。それならば、どんな方法で、此方を出し抜こうとするか、分からないというのだ。
一理ある。
だが、攻撃を命じなかった理由は、もう一つだ。
監視カメラに、女傭兵が現れたのである。更には、此方に対する交渉を申し出てきていた。
監視カメラは、位置情報を送信する部位が壊されていて、現在の場所が分からないという。
カメラに写っているのは、小麦色に肌を焼いた、小柄な女だ。一応成人はしているようだが、あまり筋肉質では無い。
黒鵜が絶賛するほど有能な戦士としては、意表を突かれる姿である。
もっと、女ゴリラのような、ごつい相手を想像していたのだ。実際民間軍事会社に入っているような女傭兵に何度か会ったことがあるが、いずれも筋肉質で、男にもまけないような体格をしている者達が多かった。そうでもないと、荒くれの中では真っ先に餌食にされてしまうのだろう。
もっとも、そんな環境で、腕利きにまでのし上がったほどの女だ。むしろ警戒するべきでは無いのか。
そう考え直して、平坂は話を聞くことにした。
「居場所を特定はできないのかね」
「今逆探知をかけていますが、時間が掛かると思います」
「そろそろ来る頃ですね。 平坂、聞いていますか」
「聞いている」
女傭兵は、雛理と名乗る。
この島出身だと言う。しかも、ニエの一族出身だそうだ。ニエの一族の話は平坂も知っている。
この島の混沌の原因になったのが、ニエの一族による反抗だった。
20世紀とは思えない苛烈な差別と迫害による事件だったが、日本で無ければどこの国でも普通に起きているような悲劇だ。
悲劇につけ込んだ平坂としては、ひょっとしたらこの女の、憎しみの対象になるのかも知れない。
「取引をしたいのですが、此方に出向いて欲しいのです」
「それは無理だな」
危険が大きすぎる。
だが、女は、とんでも無いカードを切ってきた。
「勿論、ただでとはいいません。 此方にいる人型カムイは、今意識が無く、眠り続けています。 彼女を此方のカードとします。 勿論、其方が取引に乗らないのであれば、彼女は此方にとっても有害ですから、湖に投棄します」
岸田が何か言おうとするが、静かにするように制止。
これは、面白いカードを切ってきたものだ。
確かに手としては有りだ。今の時点で、平坂はカムイの研究を終えられていない。数々の実験を繰り返しても、ついに人間型のカムイを作り出す事はできなかった。
「此方の要求は、斑目島からの脱出です」
「……」
腕組みをした平坂は、どうもおかしいと思う。
此奴らも気付いているはずだ。此処から逃げ出したくらいで、どうにかならないという事くらいは。
出たところで、怪物になるのが関の山。
特にこの傭兵、黒鵜が絶賛するほどの腕利きで、頭も切れる。これだけばらまいておいた索敵網に、今までひっかかる気配も無かったのがその証拠だ。普通の奴だったら、とっくに襤褸を出して、捕まっている筈である。
「斑目島の脱出後は、剣に保護を求めます」
「!」
「以上。 また、会見場所については連絡します」
通信は一方的に切れた。恐らく監視カメラを破壊したのだろう。
すぐに黒鵜とも連絡を取る。
秘書官に今のデータを分析させつつ、平坂は岸田と黒鵜の顔を見回した。
「どう思う」
「罠ですな」
黒鵜が即答。
このタイミングで、あの蛇が動き出したのもおかしいという。
しかし、岸田がそれに反論する。
「罠なのはボクも思うけど。 でもさ、あの人型カムイを捨てられちゃうと大変だよ!」
「それもまた事実だな」
困ったことに、確かにその通りなのである。
岸田の研究はまだ進みきっていない。幾つも重要な点が解明できていないのだ。
あの女がカードを切ってきたという事は、恐らく相当な決意があっての事だろう。それに、気になることがある。
「ヘリを相手が要求してきたとして、だ。 島を出られる可能性は?」
「相手が米軍のトップパイロットでも、確実に落として見せます」
「ふむ……」
それはそうか。
そもそも戦闘ヘリは、対地攻撃兵器。空を舞う戦闘機には相性が悪いというか、好餌にしかならない。
VTOL機と言うことで、滑走路を必要とする本格的な戦闘機に比べると分が悪いハリアーでさえ、ヘリと戦うのは楽勝だろう。相手がアパッチでもだ。
相手側に地対空ミサイルのような専門装備があれば話は別だが。そんなものを持っていたら、別の手段での攻撃をしてくる筈である。
つまり、相手は。
何かしらの脱出手段を持っている、ということか。
此処で平坂は、敢えて相手が焦って、悪手を打ってきたという可能性を考慮していない。相手を侮ることは、自分の力をすり減らすことだと考えているためである。
「黒鵜、私を守れるか」
「このジャングルですと、危険です。 万全は尽くしますが」
「……しかし、少なくとも交渉に乗るふりをしなければ、最大の好機を逃すことになる」
「時間さえ掛ければ、どうにかなりませんか」
黒鵜に、ならないと返答。
実はスポンサーの何人かが、実験の遅れに懸念を示している。特に猫の鈴を付けようとして失敗したフラッグソウ社は、かなり強い懸念を示してきていた。
今回、人型カムイを確保できれば、一気に状況を進展できる。
「もしも人型カムイが眠っているというのが嘘であれば、非常に危険な取引になりますが」
「その場合は、今まで此方に対して投入してこなかった理由が説明できない」
「確かに、そうですが」
おかしな話は、他にもある。
だが、平坂は焦りを感じていた。
スポンサーが気付く前に、全てを終わらせなければならない。最終フェイズに計画を進めるまでには、まだ少し力が足りないのだ。
この腐った世界を、根こそぎ浄化する。
それには、核兵器では駄目だ。人間だけを浄化する方法を採らなければならない。
泥洗。
そして、その後のカムイの統率。
それらを成し遂げてはじめて、人類の歴史は先に進むことができるのだ。
「平坂ちゃん、もしもの時はどうするの? ボクは基本的に黒鵜ちゃんには反対だけど、それは心配だな。 平坂ちゃんが死ぬと、少し困るもん」
岸田が意外なことを言ったので、黒鵜だけでは無く、平坂も驚いた。
黒鵜が何か言おうとした瞬間。
オペレータが、会話を遮ってくる。
「傭兵がモニタに現れました!」
「つないでくれ」
傭兵は、あの人型カムイを担いでいた。
そして横たえてみせる。相変わらず、所在が不明になっているカメラを使っているようで、位置は特定できない。
眠っているのか。人型カムイは、逆らおうという様子を見せなかった。
そしてカメラを近づけると、傭兵は、女カムイのまぶたを開いてみせる。
岸田が、モニタに顔を近づけた。
「眼球運動からして、意識が無いのは確実みたいだよ」
「カムイは人間の常識を越えた存在です。 それくらいの偽装は可能なのでは」
黒鵜と岸田の意見が、やはり真っ向からぶつかる。
さてはあの女傭兵、此方を混乱させる目的で、敢えて時間差を付けてきているのか。そのくらいの知恵は働きそうだ。
しかし、分かったこともある。
現在、人型カムイは、制御が効いている。
制御不能の状態にあるのなら、あんな風に、好き勝手にはさせないはずだ。少なくとも、カムイは人間の制御を受け付けるようになるまで、相当な苦労を要する。一個師団並の戦闘力を持つ人型カムイを、高々一人か二人が、調教できるわけも無い。
「ご覧の通りです。 ただし、此方の手の内を見せるのは、此処まで」
「ふん、カードの切り方がうまいな。 続けたまえ」
相手が聞いていないことを知った上で、平坂はモニタに向けて言う。
そして、返答があった。
会合の場所の指定。
しかし、条件も厳しい。伴うのは一人だけ。そして、近辺に兵を潜ませたら、即座に人型カムイを、投棄すると。
「現在、川や湖には、人間大の魚が生息することが分かっています。 しかも、それらはいずれもが、凶暴な肉食性です。 湖には特に生息密度が高く、人型カムイといえど、投棄されるとあっという間に腹の中でしょう」
「ふむ、向こうの条件を呑むしか無いか」
「反対です」
黒鵜が、強硬な口調で言う。
この男の忠誠心は信用できる。現在の日本には、なかなかいないタイプだ。
だからこそに、今回は、敢えて発言に目をつぶる。
「黒鵜、直接に護衛して欲しい。 可能か」
「問題ありません」
「ボクも行きたいけど、だめ?」
「駄目だ。 岸田博士は、きちんと研究を進めるように」
口をとがらせて文句を言う岸田をその場に残して、黒鵜は一旦オフィスに戻る。
言われずとも、分かっている。十中八九、これは罠だ。ただし、相手の裏を掻けば、人型カムイを手に入れることも可能だろう。
象に使う麻酔銃を用意させる。
そして、麻酔弾には、通常の二百倍の麻酔を投入させた。これならば、象どころか鯨にも効く。
他にも、幾つか手を打っておく。
相手が指定してきた時間まで、まだ少しある。此方の武器は科学技術だ。打てる手は、全て打っておく。
3、直接対決
最初、アーニャは激しく反対した。
だが、それでも。
最後には納得した。気付いているのだ。雛理の体の不調と、既に手詰まりになっている状況には。
此処でしくじれば、平坂の目的は全て達成される可能性が高い。
しかも、アーニャが断片的に見た情報では。
平坂は、泥洗と呼ばれる作業を、世界全土で行うつもりらしいのである。奴の組織は世界規模だとは知っていたが、まさかそのような無茶をするつもりだったとは。
世界大戦でも起こすつもりなのか。
平坂は、取引を飲む可能性が高い。
既に雛理は、作戦の優先順位で、脱出を上にしていた。最悪の場合、雛理一人でも脱出して、剣のメンバーに平坂の計画を知らせなければならない。
公海上に出れば、恐らく通信はできるはず。
剣のメンバーには、世界各国の上層に食い込んでいる人間もいる。後は、平坂にどこまで対抗できるか。
ヘリが来るのが見えた。輸送ヘリだ。
縄ばしごが下ろされる。
降りてきたのは、平坂である。だがおそらくは、先に何人か来ているはずだ。
あっと思ったのは、平坂に見覚えがあったからだ。
この島に戻ってきたとき、話しかけてきたサラリーマン風の男。アホカップルに苦言を呈していた人物だ。
そういえば、あのアホ二人はどうなったのだろう。
今更生きているとは思えないが、まあ今はどうでもよい。生きていようが死んでいようが、雛理には関係無い。
むしろ死んでいてくれた方が、手間が無くて嬉しいくらいだ。
「時間まで、あと四分」
ヘリが離れていく。とはいっても、雛理が指定した位置の外で、ぴたりと止まることだろう。
そうなれば、介入まで、数分と掛からない。
秒刻みの、勝負になる。
後は、此方が用意したシナリオ通りに、どこまで事が動くか。
平坂は恐らく、相当に頭が切れる男だ。それ以上に恐ろしいのは、とんでも無いほどに慎重だと言う事である。
勿論、雛理も出し抜けるとは思っていない。
だから、詰め将棋だと思って、事を行う。
息を殺して、様子をうかがう。時間まで、まだ少しある。平坂は時計を何度か見た。しかも、携帯電話で、だ。
時間丁度。
雛理も、姿を見せる。
平坂の後ろに一人。見た瞬間に分かる。相当な腕利きだ。日本人のようだが、体格は相当に優れている。
同業者だろうと、雛理は思った。ほぼ確実に、相当な修羅場をくぐってきている相手だ。強面のひげ面だが、非常に寡黙な雰囲気がある。無駄なことは一切しないという職人タイプだとすると、日本では暮らしづらかっただろう。
この国では、職人や技術者は、ゴミだとしか思われていないからだ。
それで平坂の配下になったのかも知れない。あり得る事だ。
「君が、雛理くんかね」
「平坂。 貴方のことは、剣にいた頃から知っています。 思ったよりも、紳士的な装いですね」
「ほう、その声は。 そうか、フェリーで一緒になった」
「お久しぶりです。 場合によっては、即座にさようなら、ですが」
まだ、銃は向けない。
此方のカードを、此処からはできるだけ見せないようにしないと危ない。
敵は今、此方に意識を集中している。
其処に、つけいる隙が生じる。
ただ、直接平坂の護衛を見て、本当に上手く行くか、少し不安になってきた。平坂は非常に慎重な行動を取っていることが今まで見ていて分かったのだが。この護衛は、更にその上を行くほど、判断が細かいかも知れない。
だが、此方も、二重三重に罠を張ってはいるのだ。
周囲に、他の気配は無し。
「足の様子がよくないようだね。 悪いことは言わないから、降伏したまえ」
「降伏したら最後、解剖してホルマリン漬けでしょうに。 お断りですよ」
「いや、君は有能だ。 是非部下に加えたいと思っている」
「平坂様!」
後ろに控えていた、護衛の大男が目を剥いた。
嘘をつけそうなタイプでは無い。
ひょっとして、本気か。しかも、今いきなり言い出したのか。機転にしてはできすぎている気がする。
一瞬の油断でも、生じるとまずい。
周囲に気配は無し。この森では、長距離狙撃は不可能だ。もしもやるとしたら。
戦闘タイプのカムイを敵が持っている可能性は、最初から考慮していた。だが、待ち合わせ時間前に、徹底的に周囲を探って、奇襲の可能性は潰してある。
ついでに集音マイクや監視カメラも潰した。
これならば、相手に隙を突く事はできない。
「君だけでは無い。 君が保護している人間達も、皆殺さないこととする。 人型カムイにも、最大限の敬意を払って接する。 どうだね、降伏しないか」
「……どういうつもりですか」
「私にも、有能な部下は少ないのだ。 この黒鵜は有能だし、科学者として使っている岸田も非常に優れた科学者だが、それでも世界を相手にするとなると、どうしても手が足りないのだよ」
隠す気も無いか。
或いは、既に雛理を此処から逃がすつもりが無いのかも知れない。
「世界を相手にする、とは?」
「知っているのでは無いのかね。 私はこの茶番に等しい世界を変えるために、カムイプロジェクトを立ち上げた。 北海道でカムイを見つけてから、今日まで。 非人道的と言われる行動をずっと続けてきたのも、目的のためだ」
やはりこいつは。
雛理を本気で部下にするか、もしくは此処から逃がす気が無い。
或いは、側にいる黒鵜という男の戦闘力に、絶対的な自信があるのか。
さて、戦って、勝てるか。
黒鵜という男の戦闘力は、さっと見た感じでも相当高い。万全の状態でも、勝てるかどうかは五分五分だろう。
しかし、今雛理は足に怪我を負っている上、タイムリミットを意識して集中力が途切れがちだ。
良くて、六四、という所だろう。相手の方を強いと見るほか無い。
いずれにしても、まだ戦う決断をするには早い。
それに平坂の方は、どうみてもたいした使い手では無い。護身術くらいは学んでいるようだが、一瞬で制圧できる。
「世界がくだらないという事に関しては、全面的に同意ですが」
「ならば従いたまえ」
「お断りです。 あなたがそのような器には見えない」
「ふむ、それもそうか」
挑発に、乗ってこない。
距離は、八メートル。黒鵜という男を倒すか倒されるかという話になれば、三秒以内に決着がつく。
さて、此処から、どうするか。
勿論、平坂の出方の話だ。雛理はどうするかは、とっくの昔に、徹底的なまでに練り込んでいる。
「ならば私に仕えて、私を見極めれば良いだろう」
「……」
「そのむしばまれた体についても、善処しよう。 私は有能な部下に対しては、寛大な男だぞ」
「この島の島民を、皆殺しにするような計画を立てておいて、何が寛大ですか……」
心にも無い事をと、平坂は笑った。
確かに、心にも無い事だ。
何しろ、この島の破滅を、誰よりも望んでいたのは。他ならぬ、雛理なのだから。
平坂の携帯が鳴る。
よし、来た。
地面がふくれあがり、真下から吹っ飛ばされる平坂と黒鵜。
どうやら、作戦は上手く行ったようだった。
呻きながら倒れている平坂のこめかみに、デザートイーグルを突きつける。
すぐ側には、見下ろしている行成おじいさん。敵の監視が緩くなった途端、全速力で此方に介入してもらったのだ。
勿論、移動速度を計算していたし、何より基地を迂回してもらった。
ヘリの監視が入るなら、此方と、基地周辺。そして行成お爺さん本人。しかし、もう一つ此処で、トラップを仕掛けさせてもらった。
基地の近くで、捕らえた猪を縛り。
ペットボトルを使った時限装置を作って、罠が解除できるようにしておいたのだ。
猛り狂った猪が、構築中の基地に突入し、対人地雷で派手に吹っ飛ばされるのと、行成お爺さんが動き出すのは同時。
しかも、行成お爺さんは、川に飛び込み、そのまま水面下を移動して、更に地中を経由して、此処まで来たのだ。
もちろん出来る事は、事前に確認済み。
行成お爺さんとも、二度、念入りに打ち合わせをして、時間もどれくらい掛かるか計算して、そして作戦を行ったのである。
ただ、どうも嫌な予感がする。
何もかもが上手く行きすぎている。
平坂を引きずり起こして、黒鵜から距離を取る。平坂の持っていた携帯電話を奪い取り、開いてみると。
やはり、懸念は当たった。
倒れている黒鵜が、呻きながら立ち上がる。身を起こすと、鼻を鳴らして、雛理を見た。雛理の表情で、全てを冷静に悟ったのだろう。
「どうやら、向こうは上手く行ったようだな」
「……」
敵に注意を集中していたのは、此方も同じだった。
そして、恐らく敵は、此方の致命的な弱点。リアルタイムで連絡を取り合えないことを、見抜いていた。
そして、ジャージ先生を投棄する湖というのが、致命的な失敗になった。
つまり、本人がその近くに潜んでいる、という事だ。
「これで、状況は五分五分だな」
デザートイーグルを突きつけられたまま、平坂が平然と言う。
思い切り吹き飛ばされたのに、受け身を取ったからか。怪我は殆どしていない。それどころか、事態を読み切っていたのか。全く動揺していなかった。
映像を、黒鵜が見せてくる。側に落ちていたノートPCから、だ。
アーニャが手を上げて、銃を突きつけられている。
子供達は。
いない。少なくとも、画像の中に、姿は無い。
ジャージ先生はどうなっているだろう。どうやら科学班らしい連中が確保した様子で、ミイラのようにぐるぐる巻きにされて、ヘリに搬入されている所だった。
一見すると、互角に見える。
だが、違う。
ここからが問題だ。じわじわと、敗北感が増してくる。
「黒鵜、本隊に連絡。 私が死んだ後のプロジェクト進行については、オフィスのデスクに入っている。 私が死んだ場合は、それに沿って行動するようにと、指示を出しておきたまえ」
「分かりました」
「貴様……」
「頭だけで動く組織は一流とは言えない。 私はこういうときに備えて、マニュアルを整備していてね。 私が死んだくらいで、組織は止まらないのだよ」
冷や汗が流れる。
まずい。此奴は、何よりも、死を怖れていない。
狂信者には、たまにいるのだ。自分の命よりも、その狂信的な計画を優先する輩が。
此奴は間違いなくその類。しかも非常に頭が切れる分、タチが悪い。
「どうするね」
「行ってください。 此処にいて、お爺さんに出来る事は、もうありませんから」
「……いいんだな」
「お願いします。 二人を、頼みます」
行成お爺さんと、最後の会話をする。
恐らく、もう二度と会うことは無いだろう。姿は人では無くなってしまったが。心は人のままのお爺さんと最後にもう一度会えて、良かった。
この腐った島にも、人間はいたのだと、分かったのだから。
轟音と共に、行成お爺さんが動く。
凄まじい勢いで空中に飛び上がると、地面に潜り、そのまま姿を消した。黒鵜が、無線を取り出し、呼びかける。
「蛇が行った! 全力で退避!」
「直ちに!」
「いくら巨大でも、所詮は蛇。 まさか、中空に逃げたヘリを捕らえられるとは、思っていまい?」
小声で呟いたのを、拾われたか。意外に耳が良い奴だ。
黒鵜が、拳銃を此方に向けてくる。軍用の大口径銃だ。平坂は、全く怖れる様子も無く、言う。
「やりたまえ。 失敗しても構わん」
「よろしいのですね」
「私が死んでも組織は残る。 むしろ私が足かせになる方が、組織としては問題が多いのでね」
非常にまずい。
実力の差はともかく、今は怪我をしていることが、足を引っ張っている。
それだけではない。この黒鵜という男、平坂の完全な忠臣だ。今は、少し時間を稼がなければならないのに、それが出来そうにない。
焦りが、判断力を、徐々に奪う。
「待って! 敦布さんには……」
「何を待てというのかね」
「時限爆弾を仕込んであります。 そのまま運ぼうとすれば、ドカン、ですよ」
「ふむ……」
黒鵜が頷く。
そして、搬送をしようとしている連中に、話をしようと、意識をそらす。
その瞬間、雛理は動いた。
だが、黒鵜も動いていた。
一瞬の交錯。
弾が、互いの体を貫く。
雛理は脇腹を貫かれ。
黒鵜は右肩を撃ち抜かれた。
互いに吹っ飛んで、はじき飛ばされる。内臓は避けたが、出血がひどい。黒鵜はと言うと、銃を拾おうとして、もがいている。
平坂は、既に雛理の手から逃れて、携帯電話を弄っていた。
「すぐに迎えに来てくれたまえ」
「待ちなさい……!」
「黒鵜の手当をしなければならないのでね。 さて、仕込まれていた爆弾とやらは……その様子では、嘘だったようだな」
鼻で笑うと、黒鵜の上に、輸送ヘリが降りてくる。
立ち上がろうとするが、膝が折れた。万事休すか。黒鵜はと言うと、左手で銃をとり、此方に向けていた。
やはり、業が故か。
敦布は、ジャージ先生は。どう思っていたか分からない。
だが、雛理は、彼女に友情めいたものを感じていたのだ。だが、その友人を、取引のカードとして使った。
他に手は無いとは言え、あまりにも、下劣な策だった。
思わず自嘲してしまう。
多くの人間を殺してきたのだ。最後は、自分がゴミのように殺されるのは、当然では無いか。
「成体カムイの反応!」
意識が、引き戻される。
既に、平坂のヘリが、頭上にまで来ていた。数名の特殊部隊が、縄ばしごで降下してくるのが見える。
だが。
あり得ない事が起きる。
行成お爺さんが、再び姿を見せたのである。
巨大な蛇体が、雛理と平坂と、黒鵜達の間に、壁を作っていた。
雛理は呼吸を整えながら、デザートイーグルを平坂に向ける。脇腹の痛みは気絶しそうなほどだが。
しかし、此処で意識を失うわけにはいかなかった。
「ほう、これは……」
平坂は、なんとノートPCを此方に見せてくれる。
拘束衣を実力でぶち破ったジャージ先生が、アーニャを抱えて、ヘリから飛び降りた様子が映されていた。
しかも、追撃の銃撃を、残像を貫かせながらかわしている。新田との戦いの時も凄まじい力だったが、全く衰えていない。
そのまま、ジャージ先生は、森に消えた。
森の中に消えた彼女は、既に追跡不能だろう。
問題は、ジャージ先生に、人間としての意識があるか、だが。それについては、はっきりいって分からない。
次に姿を見たときには、アーニャを喰らっていてもおかしくない。
だが、あえて言わない。
此処で平坂を捕らえなければ。全てが終わるからだ。ただ、アーニャがあのような形で、ジャージ先生に捕まっているのは問題だ。それは、これから考えなければならないだろう。今は、それどころでは無い。
「形勢、逆転ですね」
「さて、それはどうかな。 岸田、AとBの準備はどうだね」
「すぐにでもいけるよ、平坂ちゃん!」
「投下してくれたまえ。 人型カムイを、此処で捕らえる」
デザートイーグルを向けられていても、平坂は全く怖れる様子が無い。そればかりか、撃てるならいつでも撃って見ろとばかりに、平然に胸を張り出している。
鎌首をもたげた行成お爺さんが、言う。
「そろそろ意識が持たん。 儂は数分で此処から消える。 それまでに、なんとかせい」
「厳しい条件ですね」
「弾は体の中から抜けているようだな。 だが、止血……」
頭の中に響いていた言葉が止まる。
気付いたのだろう。
雛理も、既にオンカヌシの力で、相当に汚されている、ということに。もう、時間が無いのだ。
凄まじい勢いで動いた行成お爺さんが、平坂をくわえる。
そして、蛇体を蛇行させ、森の奥に消える。
雛理も、身を翻して、逃げに掛かった。
此処で捕らえられれば、全てが終わる。
問題は、平坂が生きている事を、奴の配下達に示すこと。
そして、アーニャに、生きたまま触れさせること、だ。
最悪の状況の中、事態はめまぐるしく動く。
既にこの人外の森は、混沌の中の混沌へ移ろうとしていた。
4、森の牙
アーニャを抱えた敦布さんは、凄まじい勢いで森を駆けていた。その過程で、一言も喋らないので、不安になる。
アーニャにも、まるで心が読めない。
この人と接した時間は、殆ど無い。しかも接したのは、この人が人間を事実上やめてしまってからの、極めて短い時間だ。
しかし触ってみて感じ取ったのは、この人が本当に子供達が好きだと言うこと。人間を止めても、それに変わりは無かったのだが。
無言で走るこの人は、どうなってしまったのだろう。
何だか、人間では無いように、思えてならなかった。
ヘリのロータ音が近づいてくる。
気付いて、追ってきたか。雛理さんがいうには、この森は、監視装置類の巣だ。これだけ大きな音を立てて動き回れば、気付かれない方がおかしいか。
しかも、どれだけ早いと言っても、機械から逃れられるはずが無い。いや、それはどうかは、正直雛理さんから聞く敦布さんの戦いぶりからは判断が難しい所なのだが。とにかく、今敵は、追いつくのに成功したようだった。
何かを投下した音。
無言で、敦布さんが足を止めた。
あまりにもスムーズに止めたので、ブレーキの衝撃が殆ど無かったほどである。
アーニャを抱えたまま、じっとヘリの方を見る敦布さん。
全く情報が読み取れないのは初めてだったので、アーニャは怖くて震えていた。はっきりいって、この人がいきなりアーニャの首を食いちぎったとしても、全く不思議では無い。それだけの怪物になってしまっているからだ。
かろうじて読み取れた情報は、憎悪。
しかも、全てを真っ黒に染め上げるほどの、とんでも無い濃度の、だ。
それは、下ろされて、自力で立ってからも。変わらない印象だった。
「うぜーなー! なんでこんな所にコンビニ作ってんだよ! しかも殆ど何も売ってねーじゃねーかよ!」
いきなり、意味不明の声が聞こえた。
森を割って出てくるそれの片割れが口にしていることに気付いて、アーニャは思わず、口を押さえて立ち尽くしてしまった。
それは、陸に上がったアノマロカリスとでも言うべき、巨体を誇る怪物。
間違いない。成体のカムイだ。
それも、戦闘タイプ。体長は八メートル以上は軽くあるだろう。そして、極めて恐ろしいのは。その、口にある二本の触手。先端部分に人間の顔がついている事か。一本は男で、一本は女。
口を利いているのは、男の方だった。
「いってえ! 何だこの貝! ふざけんな! おい、アケミ、てめー! さっさと手当てしろよ、このグズッ!」
「アンボイナに刺されて、病院に運び込まれて。 そのまま、カムイの実験台にされたのか」
不意に、敦布さんが喋った。怪物は、まだ喋り続けている。
見ると、男の方は、目の焦点があっていない。
ただ、記憶を垂れ流している。その事実が分かって、アーニャは慄然とした。怪物になっても、記憶の一部は残っているのだ。
「いてえ! いてえーっ! 何だよ、ふざけんな! 早く手当てしろ、この藪ッ! 助からないかもだと!? 殺す! 殺してやる!」
敦布さんが、かき消える。
そして、次に視界に捕らえたときには。右側面から、怪物を凄まじい勢いで蹴り挙げていた。
怪物の巨体が、宙に浮きかける。
だが、怪物の体、特に腹部から無数の触手が伸びて、辺りの木を掴む。そして、体勢を立て直す。
とんでもない威力の蹴りを受けた体の側面も、受けた瞬間はたわんでいたが。すぐに、おぞましい音を立てながら、再生を開始する。見る間に、へこんでいた装甲が、回復しはじめる。
「うっせえポリ公! 張り紙なんか知るか! 俺が、今、いてえんだ! 早く直せ! てめー! 何しやがる! 訴えてやる! 訴えてやるからなーっ!」
女の方の顔は、完全に白目を剥いている。
ぎゃあぎゃあと五月蠅い男の方も、視点は定まっていない。
思わず、耳を塞ぎたくなる。
まるでこれは。愚かな人間が、そのままその心を垂れ流しているかのような醜態では無いか。
敦布さんの蹴りを、怪物が触手を束ねて受け止める。衝撃を殺しつつ、反撃に出た。
アノマロカリスの口を開くと、重低音の鳴き声を、辺りにまき散らす。アーニャは緩慢に木の陰に隠れたが、敦布さんは上空に躍り上がった。
爆音。
どうやら、ヘリから来たミサイルが、直撃したらしい。
煙を上げながら、地面に叩き付けられる敦布さんに、更に怪物が触手を伸ばす。触手の先には、露骨な毒針が無数に見えていた。
武器にもなるような、重低音の音波攻撃に、更に毒針による麻痺。
この怪物は、まだ捕縛できていなかったカムイを捕らえるための、捕縛専用の戦闘タイプか。
だが。
倒れていた敦布さんが無造作に触手を掴むと、そのまま引きちぎる。肘から先だけを超高速で動かして。
立ち上がると、残像を残しながら左右にジグザグに走り、怪物の至近に。
怪物は、明らかに敦布さんを見ていながら、別の何かと会話している。人間だった頃、どうしようもないクズだったことを、露骨に示しながら。
「うっせえババア! 誰がてめーみてーなアホと結婚なんかするかよ! 肝心なときにつかえねー!」
「だまれ」
敦布さんが男の首を蹴り挙げ、粉々に吹き飛ばした。
女の首が、悲痛なうめき声を上げるが、それも上空からの踵で粉砕する。
着地した敦布さんだが、すぐに飛び離れる。
頭を二つとも潰された怪物は、動きを止めない。
あんな露骨な弱点を、晒しているわけが無いか。事実、吹っ飛んだ首は、即座に再生を開始している。
頭が再生途上で有りながら、重低音を放つ怪物。
アーニャが盾代わりにしている木が、瞬時に砕け、吹っ飛ぶ。
敦布さんがもろに喰らって、全身から血をしぶいていた。ガードをしても、何しろ音だ。
木が何本か、倒れる。
だが、その木の間を縫うようにして、敦布さんが走る。迎撃する触手の全てをかわしながら。今度は飛び上がらず、低い体勢から。
怪物が動く。重低音。だが、残像を抉るのみ。
真横に回り込んだ敦布さんが、今度こそ、本命らしい蹴りを怪物に叩き込もうとして。
そして、下がる。
上空に姿を見せたヘリが、機関砲の斉射を浴びせたからだ。
もしも蹴りをいれていたら、カムイごと粉々だっただろう。
ここぞと、怪物が反撃に出る。
無数の触手が、全身から生え、敦布さんを捕縛。
振り上げると、地面に叩き付けた。二度、三度。腐葉土が吹き上がり、地震のような揺れが、辺りを蹂躙する。
更に、触手で捕縛している敦布さんに、怪物は至近から重低音の砲撃を浴びせかけた。触手が吹っ飛ぶが、意に介していない。更に、もう二度。
クレーターが、できていた。
怪物の、動きが止まる。
その左側のひれが、消し飛んでいた。
大量の体液をまき散らしながら、怪物が飛び下がる。再生を開始する怪物の前で、ゆっくりずたずたになった敦布さんが立ち上がった。自身の肩を掴んで回しながら、歩き出す。その目は。
見てしまった。
こんな恐ろしい目が、世の中に、あるのか。
触手による毒の攻撃も、多分効いていない。
ヘリが援護の砲撃をするが、残像を貫くのみ。
怪物の至近に残像を残しながら到達した敦布さんが、無造作に見える蹴りを叩き込む。既に男女の頭が再生していた怪物が。
それで、耳を塞ぎたくなるような、おぞましい悲鳴を上げた。
悲鳴に混じって、聞いているだけで胸くそが悪くなるような寝言を、男の顔がほざき続ける。
「お、俺を怪物にするっ!? そんな! アケミはどうしたっていいから、おれは助けてくれよ! な、なあ、いいだろ! 東京の家は金だってあるし、弁護士にだって知り合いがいるんだよ! こんなクズ女はサメの餌にでも何でもしてくれていいから、俺だけは助けてくれ! な、な?」
怪物の、体が崩れはじめている。
カムイのコアにまで、ダメージが達したか。
更に敦布さんは、無言で拳を乱射しはじめる。怪物の全身が、まるでバルカン砲で撃ち抜かれているかのように、吹っ飛び、抉られていく。
「ぎゃああああっ! 俺の手が! やめてくれよおお! いてええよおおおおおっ!」
自業自得。
この男には、そうとしか言えない。
怪物になる前の記憶を垂れ流しているのだろう。この島の人達も、外道と言うに相応しい連中が揃っていたようだが。
はっきりいってこの男に、情状酌量の余地は無い。
怪物が逃げようとするが。
だが、触手が、地面に突き刺さる。
そして、女の顔が、にんまりと笑った。
「一緒に死のうか、タカシ?」
「て、てめえ、ブス! 俺の彼女にしてやった恩も忘れやがって! 離せブタ!」
触手の一本が、男の顔に巻き付き、無造作に握りつぶした。
それと同時に。敦布さんが繰り出した正拳突きが、ついに怪物のコアを完全に砕いたらしい。
怪物の全身が崩壊をはじめる。
いかにも水商売系だったらしい女性の顔は。最後に満足したかのように、安らかな顔で溶けていった。
勝利の雄叫びを上げ終えた敦布さんが呼吸を整えている。
全身から、闘気が吹き上がっているのが、見えるかのようだ。
ヘリが旋回して、退避していくのが見えた。敦布さんは一瞥だけすると、アーニャを見る。
逃げようという気にはなれなかった。
「人間か」
「敦布さん……」
その台詞だけで、もう敦布さんが、完全にカムイになってしまっている事がよく分かった。
大股に歩み寄ってくる。
へたり込んだままのアーニャの頭を掴むと、至近に顔を近づけてくる。
「この場で殺しても良いが、母体の記憶を見る限り、生かして使った方が効果的なようだな。 サイコメトリーというのか、その能力は」
「……」
うなだれる。
この人は、復讐する権利がある。アーニャだって、殺されても文句は言えない。
全てを狂わせた元凶に荷担していたのは、どのような形であれ、事実なのだから。
「喰ってしまってもいいが……やはりヒラサカとかいう人間を殺すためには、お前を活用した方が良さそうだ。 今の空を飛ぶ箱は厄介だ」
「敦布、先生……」
「その人間はもう死んだ。 私の名はカムイだ。 二度は言わぬ。 ついてこい」
反論すれば、その場で殺されるだろう。
無言で、アーニャはついていくことにする。
ただ、これ以上。敦布先生が、酷いことにならない事を、祈りながら。
雛理は平坂を見つけた。
既に周囲に行成お爺さんはいない。事前に打ち合わせで、決めておいた通りの場所だった。
呼吸を整えて、デザートイーグルに予備の弾を再装填。
この場所は、事前に監視カメラを取り除いておいた。他にもダミーで、同じような工作を何カ所かでしておいたから、すぐには気付かれないはずだ。
平坂が呻きながら身を起こす。
デザートイーグルを突きつけると、無言で両手を挙げた。
「形勢逆転ですね」
「さて、どうかな。 少なくとも研究は止まらない。 私が死んでも、大いなる計画は、頓挫しない」
平坂が死を怖れていないことは、よく分かった。
問題は、黒鵜をはじめとする彼の部下達だ。
恐らく、命を賭けて、平坂を奪還しに来る。それをどういなすかが、勝負に大きく関わってくる。平坂自身はそう思ってはいない様子だが。黒鵜というあの男は、確実に奪還に動くだろう。
今の状況では、アーニャは無事とみていい。というよりも、その可能性が高い。
カムイ化したジャージ先生には、恐らく知性がある。動きから見て、人間だったときの記憶も持ち越しているはずだ。
それなら安易に殺すよりも、特殊能力もちのアーニャは生かして使った方がいいと判断する。
そう判断すると信じたい。
難しいかも知れない。五分五分までいかないか。だが、それでも。今は、良い方向に事態が動くことを信じて、行動するほか無かった。
一番の懸念は、ジャージ先生が、平坂を見た瞬間殺す事だ。
眠ったままのジャージ先生には、告げてある。これからどう行動するかを一式。
もしもカムイがそれを聞いていれば、此処にもいずれ来るはずだ。
その時、上手く説得しなければ、
全ては無駄に終わる可能性も、低くない。
「その怪我で、まだ諦めないとは、見上げたものだ。 君のような人間がもっと多ければ、私もこのような計画に着手しなくても済んだだろうに」
「黙りなさい」
「私を殺せば、君が不利になることは知っている。 私を殺すだけなら、いくらでも手はあったのだからな」
平坂は、やはり手強い。
来るように促すと、ついてくる。
此方に来るジャージ先生が見えた。アーニャが、うつむいたまま、従っている。
これで、どうにか、平坂の組織と戦える手駒は揃ったか。後は、この「病状」の進行さえ、どうにかできれば。
いずれにしても、まだ厳しい戦いは続く。
ここからが、正念場だ。雛理はそう自分に言い聞かせた。
(続)
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