二柱の神

 

序、介入者

 

崖下に到着。殆ど飛び降りるようにして、敦布は着地した。抱えている女の子が死なないように、気をつけはしたが。それ以外は、最大限の速度で、である。

すぐに雛理さんも追いついてくる。

一緒に走って、密林に逃げ込む。抱えているときに気付いてはいたが、銀髪の女の子の心臓は動いてはいる。

後は怪物化していなければ。ひょっとすれば、情報は聞き出せるかも知れない。

元学者さんは、追ってこない。

多分上で、怒りにまかせて破壊の限りを尽くしているのだろう。下に降りてきたところで、此方を捕捉できないのはわかりきっているのだ。

どちらにしても、もう崖の上には、安易に上がれない。それだけは、はっきりしていた。

しばらく走る。

どれくらい、走っただろう。

雛理さんが止まるように促してきたので、一旦停止。見ると、女の子が、意識を取り戻したようだった。

地面に下ろすのも何なので、近くにある大岩の上に。

ぼんやりと此方を見ていた女の子は、聞き慣れない言葉で、二言三言呟く。雛理さんが手帳を出して、頷いた。

「ロシア語です。 下がっていて貰えますか?」

「あれ? 日本語……?」

女の子が、半眼のまま、呟く。

どうやら通訳は必要ないらしい。顔に掛かっている髪の毛を、ピンク色の柔らかそうな指で掻き退けながら、彼女は半身を起こそうとして失敗した。

「いった……。 此処、どこ?」

「斑目島と言って分かりますか」

「……!」

女の子が、一気に顔を引き締めるのが分かった。

どちらにしても、彼女は素足のままだ。此処を歩かせるわけにも行かないだろう。

背負う事を申し出る。不服そうに、女の子は口をとがらせた。

「子供扱いしないでいただけます? これでも十七才です」

「え?」

「ロシア系は発育が早いと聞いていましたが」

「個人差があるんですっ!」

それでも、やっぱり腐葉土の上を素足で歩くのは嫌だったらしく、結局背負われることを了承した。

南に走りながら、話を聞く。

まず名前。

此方が名乗ると、彼女は不安なのか。それとも恐怖を押し殺すのに時間が掛かっているのか。しばらく黙り込んだ後、答えてくれる。

「アーニャ」

「じゃあ、アーニャちゃん。 貴方は何者?」

「フラッグソウ社の特務エージェントです」

聞いたことが無い会社だ。

雛理さんが、捕捉してくれる。

「フラッグソウは世界最大の軍産複合体の一つです。 ユダヤ系の資本が中心で、アメリカに本部を置き、近年はロシアにも手を伸ばしていると聞いています。 以前はユダヤ風の名前だったらしいですが、今はアメリカに本部を置いたことで、英風の名前に変えたのだとか」

「詳しいね。 貴方、傭兵?」

「そうです」

多少ふてぶてしくはあるが、この子は恐らく、雛理さんのようなプロじゃ無い。それは、震えがこっちに伝わってくることからも分かる。話していて感じるのだが、プロという雰囲気では無いのだ。

ひょいと大岩を飛び越えると、びくりと身をすくませるのが分かった。

背負っていて分かる。

筋肉も、さほど鍛えてはいない様子だ。

「あ、あなた、何者!? 今のジャンプ、人間とはとても思えない」

「それは、みんなと合流してから話すね。 色々と、聞きたいこともあるから」

「人間じゃ……ないの?」

露骨なほどの恐怖が、声にこもり始める。

ロシア語だか、分からない言葉で、アーニャが何か言った。

或いは、神に祈りを捧げたのかも知れない。

速度を上げる。

ちいさな悲鳴を、アーニャが上げた。怖がらせるのは本意では無いが、今は一秒が惜しい。

あまり、構っている暇は無かった。

それに、学者さんがついてきているとは思えないが、可能性は否定できないのだ。追いつかれたら、文字通りジエンドである。

この子はあの怪物化した学者さんのおなかの中にいたのだ。しかも、人間のまま、である。

今後の鍵を握る存在である可能性も低くない。

素早く木に登って、位置関係を確認。もう動物並みの把握能力だとよく分かる。予想していた位置と、全くずれていなかった。

四メートルはある高さから、そのまま着地。

着地時に工夫することで、殆ど腐葉土も巻き上げなかった。

バスケをやっていたとき、得た知識の工夫だ。着地時足を棒のようにしていると、ダイレクトにダメージが体に伝わってしまう。

それにしても、今の状態なら、ダンクシュートでも思いのままだろう。アメリカのプロバスケット選手でも、子供のようにあしらえるに違いない。

決して、嬉しくは無いことだった。

自分の努力でそうなったら、ともかくだ。

雛理さんが追いついてくる。彼女のペースにあわせているのだが、木に上がるため少し速度を上げた後だから、である。

そのまま並んで走る。

もう少しで、皆と合流できる。

 

銃を構えて待っていた寛子ちゃんのおじいちゃんが、咳を何度かした。

今まで雨に濡れた後でも、風邪を引く様子も無かったのに。やはり、心身ともに弱ってきているらしい。

アーニャを背負っているのを見て、一瞬だけ寛子ちゃんのおじいちゃんは、目を細めた。捕虜かと聞かれたので、首を横に振る。保護したのだと。

「そうか。 見張りはいるか」

「いざというときは足を撃ってください。 聞きたいことが山ほどありますから」

敦布が答える前に、雛理さんがそんな心ないことを言う。

確かにその通りだが。彼女は、此方と同じ境遇である可能性が決して低くは無いのだ。そんなに怖がらせるようなことを、言わないで欲しい。未だに敦布は子供のために行動している。

自分の生徒で無くても、子供が悲しむのは、見ていてつらい。勿論、怖がるのも、本当は嫌だ。

寛子ちゃんが此方を見ている。

外人さんを直に見るのは初めてなのだろうか。銀髪で整った顔立ちのアーニャちゃんが、珍しくてならない様子だ。

背中から下ろすと、アーニャちゃんはまた驚く。

多分、敦布があまり大柄では無いからだろう。

「アーニャちゃんです」

おじいちゃんと雛理さんに自己紹介をしてもらう。

その間、敦布は近くの岩に上がって、周囲を警戒。付けられている可能性はない。空にも、何もいない。監視カメラも、仕掛けられている様子は無い。

そういえばここ数日で気付いたのだが、カラフルな鳥はいても、猛禽の類は見かけない。本当に、滅茶苦茶な生態系なのだなと、再確認してしまう。

「それで、エージェントだって?」

「い、一応は」

「違うな。 お前、ただの子供だ。 頭が良さそうにも見えないし、武術の類を身につけてるようにも思えねえ。 何か特技でもあるのか?」

かあっと顔を赤くするアーニャちゃんは、反論しようとして、だがすぐに口をつぐんだ。何か、隠しているとみて良いだろう。

雛理さんが、高圧的なおじいちゃんの代わりに話し始める。

まだアーニャちゃんが意識を取り戻していないとき、彼女は言っていた。尋問は任せて欲しいと。

勿論それには、口を割らないときの拷問も含まれているのだろう。そんなことは、できればさせたくない。

他の子供達を守るために、一人を犠牲にするなんて。

許せる事では無いからだ。

そんなことは、いじめを容認して、率先して助長することと同義である。そのように考えた時点で、既に教師失格だ。

「ある程度任務については知っているでしょう? 最初から話して貰えますか?」

「お、教えられない」

雛理さんの手が、目にもとまらない速さで伸びて、アーニャちゃんの首を掴んだ。

すぐに話したが、露骨なほどの痣がついている。

真っ青になるアーニャちゃんに、雛理さんは全く表情も、声も変えずに言う。

「私達には時間もなければ、戦力も足りません。 次の質問に答えない場合、爪を剥がし、その次には耳を抉ります。 私は拷問の訓練を受けていますし、最悪の場合喋らせればそれで良いと言うことを理解してください」

「……」

目に涙を貯めはじめるアーニャちゃん。

恐らくこの子は知っている。雛理さんと同じ世界を。

だからこそに、怖れている。自分に降りかかるかも知れない、圧倒的なまでの残虐な暴力を。

痛々しいが、今はもう、見ているしか無い。もし、危害を加えるつもりなら、止めなければならないが。

「まず、貴方のフルネームからうかがいましょうか」

「あ、アーニャ=ソトラフ」

「よろしい。 それで、今回の任務での役割は」

「私、超能力部隊で、サイコメトリーを担当してるの。 だ、だから……」

サイコメトリーとは何だろう。

雛理さんは、後で説明すると、視線で語った。それにしても、超能力部隊。かってだったら鼻で笑っただけだろうが、今はそんな気にはなれない。

そのまま、順番に会話をしていく。

彼女らは、ハインドに分乗して武装し、ミッションの指揮官に命令されて、この島に来たという。

来る際に、いろいろな話は聞かされた。

だが、狂気じみた人体実験が行われている、という以上の話は、されなかったという。後は、殆どが今闇の世界の仕掛け人となっている、ヒラサカという男について、であったそうだ。

やはり、平坂さんか。

そして、内通者という人物の指定したタイミングで、嵐に突入したのだそうである。

「今、日本では報道されていないけど、種子島近辺に巨大な嵐が停滞しているの。 フェリーなども全てが運行不能になっている状態なの……」

「斑目島を、隠すため、だね」

「日本の報道は今、スポンサーに完全に尻尾を握られていますから、スポンサーに不利な報道は絶対にしません。 平坂という人物は、どうもそのスポンサー側に繋ぎがあるようですね」

雛理さんが付け加えてくれる。

敦布も一応知ってはいるが、この国の報道は、もはや報道と呼べる代物ではなくなってきている。

人が死のうが関係無しに、金を稼ぐことだけを考え、スポンサーに尻尾を振ることだけに血道を上げる。

それでいながら、発行部数が下がったのは読む人間のレベルが落ちたからだ、などという発言を繰り返す。

それはそうだろう。

直接的にお金をくれて、人事を握っているスポンサーの方が。情報を届けなければならない人々よりも大事。

サラリーマンの理論だ。

そういうマスコミの腐敗は、敦布も聞き及んでいたが。こういう事態に直接関与してくると、対岸の火事ではなくなってくる。

マスコミはいずれ勝手に自滅すれば良い。そうしたって、何とも思わない。

だが、今はその先が大事だ。

「そ、それで。 私達は七機のヘリで、この島を覆っている巨大低気圧に突入して、それでここに来たんだけど……」

「平坂と戦うためですか?」

「分からない。 司令官は、どうもそのつもりだったみたいなんだけど。 私の知ってる限り、参謀は違ったみたいなの。 平坂と協力して、あわよくば研究成果を横取りしたいって思っていたみたい。 一度うっかり触って、知っちゃったの」

「?」

雛理さんは納得しているようだが、敦布にはよく分からない会話だ。

とにかく、その一枚岩で無い組織の戦闘部隊が、内通者、おそらくは学者さんの手引きでここに来た。

そして、学者さんの、餌食になってしまった。

「内通者を回収して、一旦ベースに引き上げて。 それからどうしようって話になったとき、それが起きたの。 ……っ」

「話しなさい」

「ひっ!」

雛理さんが、視線で促す。

本当に怯えきった様子で、アーニャちゃんが涙をこぼしはじめる。本当に怖い目にあったのだろう。

見ていられない。

でも、今は。どうしても必要な情報なのだ。

「内通者を迎えに行ったヘリが戻ってきたとき、動きが変だったから、何だか妙だなって話はしていたの。 着陸しても、誰も出てこないし。 それで、おかしいなって言い出したとき、ドアが内側から、吹き飛んで……」

後は地獄絵図が繰り広げられたという。

触手が伸び、手当たり次第にその辺りの人達を捕縛しはじめたという。司令官も参謀も、あっと言うまに触手に捕らえられ、ヘリから這い出してきた肉塊に捕縛されたのだそうだ。一機、ハインドが逃れたが、それにも肉塊が素早く飛び込むのを、アーニャちゃんは見たという。

きっと、一機だけ墜落していたヘリに間違いなかった。

「あ、あとは、私も、訳が分からないうちに」

気がつくと、闇の中にいたという。

周囲は気味が悪い肉塊がのたうち回っていて、捕らえられた人達が肉に埋もれて死んでいたり、意識を失っていたりしたそうだ。

気がついた切っ掛けは、先に気付いた一人が、パニックになって逃げだそうとしたからだという。

そうだ。

確か見張っていたとき、ハインドから飛び出してきた人がいた。

その人だったのだろう。

その人は、一瞬で触手に捕縛され、ヘリの中で瞬時にミンチにされてしまったそうである。

口とおなかを押さえて、アーニャちゃんが地面に転がる。

恐怖から来る腹痛と、過呼吸だ。体育教師をしていたのだ。子供が陥る症状は、把握している。

「もう無理だよ! 一旦、休憩させてあげて」

「分かりました。 もう、嘘をつこうとは考えないでしょう」

雛理さんが見張りをするべく森に戻ったので、アーニャちゃんの肩を抱いて、蒸留しておいた水を飲ませてあげる。

震える彼女は。敦布も、怖れている様子だった。

「だ、騙されないから! 貴方だって、とても怖い……!」

「大丈夫。 危害は加えたりしないから」

「嘘っ! 見えるんだからね! 貴方の中に、人間じゃ無い、何だか恐ろしいものがいるのは、分かってるんだから!」

涙をこぼし続けるアーニャちゃんは、ついに戻しはじめたが。

長い時間学者さんに捕らえられていたからか、胃液しかはき出さなかった。何度も戻したが、それで心が落ち着くことも無かった。

手を振り払おうとするが、今は逃がすわけにはいかない。

悲痛な悲鳴を上げる彼女を見かねてか。戻ってきた雛理さんが、首に腕を搦めて、一瞬で落とした。

意識を失ったアーニャちゃんを横たえると、雛理さんは嘆息する。

「まず、サイコメトリーから説明します」

彼女の顔は晴れない。

あまり、状況は好転していない。それは間違いの無いところだった。

どうにか見つけた最後の希望は。

決して希望などでは、無かったのかも知れない。

寛子ちゃんのおじいちゃんが戻ってきて、しらけた目でアーニャちゃんを見た。

「それが、最後の希望だって言うのか」

「ごめんなさい。 もうわからないっす」

「……そうか」

敦布も、子供に対して話しているのでは無い。希望的観測は、口に出せない。

だが、嘘でも良いから、安心させて欲しい。そう、視線をそらした寛子ちゃんのおじいちゃんは、表情で語っていた。

 

1、黄昏の森

 

もの凄い地響きがした。

アーニャちゃんが二度目を覚まして、その度に取り乱して逃げだそうとしたり、悲鳴を上げたり。

やっと落ち着いてきて、食事をしてくれて。

敦布が一安心して、その直後だった。

時刻は夕暮れ時。まもなく、黄昏が訪れる時間帯である。悲鳴を上げそうになるアーニャちゃんの口元を、雛理さんが押さえ込んだ。

「予想はしていましたが、来ましたね」

「学者さん?」

「そうです。 この子が必要と言うよりも、この島にいる敵対者を全て潰すつもりなんでしょう。 平坂よりも容易につぶせる私達にターゲットを絞ったのは、当然のことだと思います」

学者さんは、明らかにおかしくなっていた。

以前も飄々とした人ではあったが、別れる前くらいから、その感情に狂気が露骨に混ざり込むようになっていた。

そして、化け物になってしまってからは、異常な高揚と、それ以上の残虐さで、精神が構成されているように思えた。

今でも克明に思い出せる。

子供達など、食べてしまえば良いと、あの人は言った。絶対に許せない。仮に自分が化け物と化してしまったとしても、倒さなければならない相手に、今はなり果ててしまったのだ。

今や、オンカヌシの代弁者、というようなことを、学者さんは言っていた。

雨の降る日には気をつけろ、とも。

あの黒い雨を研究していて、学者さんは何か得たのだろうか。そういえば、瓶に入れた黒い雨を、どうしたのだろう。

まさか、飲んでしまったのか。

可能性はある。あの人は、自分の研究さえあれば、後はどうなっても良いという雰囲気が、おかしくなる前から確かにあった。

「恐らく、前に私達がいた辺りを中心に探し回るはずです。 水辺から少し離れて、様子を見ましょう」

「分かった」

少し前から、アーニャちゃんの様子をうかがっていた寛子ちゃんに声を掛ける。

隠れると言うと、彼女は頷いた。

敦布にはあまり近づいてくれないが、言うことを聞いてくれれば、今はそれでいい。治郎君の手を引いて、近くの岩場に隠れる。敦布と雛理さんが戦っている間に、見つけてくれていた隠れ場所らしい。

其処は大きな岩の影になっていて、深い穴があった。

洞窟になっているという。奥には何があるか、まだ調べていないとか。最悪の場合、その中に逃げ込むしか無い。

だが、湖のすぐ近くの洞窟だ。中には水が満たされている可能性が否定できない。そうなれば、文字通り袋の鼠である。

アーニャちゃんの手を取る。びくりと、恐怖に身をすくませるのが分かった。

サイコメトリーについては、既に話を聞いている。

触れたものの情報を読み取る能力だという。それならば、敦布を怖れているのにも、納得がいく。

中身の得体が知れない怪物について、把握してしまっているのだろうから。

しかし、逆に言えば。

ずっと触っていた学者さんの知っている事を、或いはこの子は、読み取っていたかも知れない。

今は無理だ。

どうにか恐怖から逃れないと、まともに意思疎通を図ることさえできない。

遠くで、鳥たちが怯えて飛び立つのが見えた。無理も無い。とんでも無い巨体が、いきなり現れたのだ。

文字通り、歩く鉄の山。

しかもそれからは触手が無数に生えていて、殺気と異常なまでの悪意を周囲にばらまいているのだ。

おぞましい雄叫び。

思わず、寛子ちゃんが、鉄の鍋を取り落としていた。

「急いで! 生活用品も隠すの!」

敦布はアーニャちゃんの手を離すと、自身でも動き始めた。

洞窟の入り口に、背負ってきた荷物や、生活道具類を全部隠す。外からは見えない位置だ。

少なくとも、上から見えるようではまずい。

アーニャちゃんはおろおろしていた。やはりこの子、サイコメトリーという特殊能力だけを買われていたのだろう。銃を持ったりすることは、とても考えられないとろさだ。右往左往しているうちに、荷物を持って走る雛理さんに突き飛ばされる始末だった。

治郎君が、リュックを担いで洞窟に走り込んだので、まだ右往左往しているアーニャちゃんの手を引いて、洞窟に逃げ込む。

奥の方からは、水音がする。

やっぱり洞窟の中は、水で満たされている可能性が否定できない。

「いざというときは、みんなばらばらに逃げるんだよ」

寛子ちゃんと、治郎君に言い聞かせる。

真っ青になっている治郎君は、地響きが来るたびに、耳を塞いだ。あの触手を足のように使って、巨体を引きずってきているのだろう。

子供達が、怯えきっている。

雛理さんが、しらけた目で、子供達に言う。

「あの雄叫びを上げた化け物と、ジャージ先生は戦って来ました。 貴方たちを守るために、です」

「……」

「人間じゃなくなりつつある彼女を怖がるのは、まあ仕方が無いでしょう。 ですが、彼女はあの化け物に立ち向かってまで、貴方たちを守ろうとした。 それを忘れないようにしてください」

冷たい雛理さんの口調に、子供達は顔を見合わせる。

フォローをしてくれたのは嬉しい。

だが、今はもう良いのだ。既に自分が助からないだろう事は分かっているのだし、納得もしている。

今は、子供達が、脱出できれば。それだけでいい。

そういえば、雛理さんが、無事なヘリがまだあるかも知れないと言っていた。それさえ確認できれば。

ひょっとすれば、まだ勝機は、あるかも知れない。

「あーあー。 聞こえますカー」

とんでもないだみ声で、遠くから学者さんの声。

嘲りの笑いも含みながら。学者さんは、辺りを音の暴力で蹂躙する。

「えー、みなさんを挽肉にするべく−、オンカヌシがまいりましたー。 これからみなさんを八つ裂きにして−、引きちぎってー、晩ご飯にしようとおもいまーす! げひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃ!」

完全に、学者さんはおかしくなっている様子だ。

歯の根が合わないほど震えているアーニャちゃん。その狂気を、至近距離で味わっていたのだから、無理も無い。

巫山戯ているような声。

実際学者さんには、遊びの延長なのだろう。無制限の力を手に入れると、人間はおかしくなるのかも知れない。

あの人が決定的におかしくなったのは、いつのことなのだろう。

分からない。だが、オンカヌシの力を得たと自覚してから、完全に壊れたのは間違いない。

敦布も、そうなるのだろうか。

いや、もうなっている。

ベクトルは違うが、壊れていることに違いは無い。膝を抱えて、自嘲する。もう敦布は、心身ともに人間では無い。

アーニャちゃんも子供達も、怖がるわけだ。

無理も無い事である。人間では無いのが、手に取るように分かるのだから。

「その前にかくれんぼがしたいようですねええええ! いいでしょう! かくれんぼは、幼い頃からのとくいわざだったのですよう! じゃあ、見つけ次第、全員八つ裂きにして、苦しめながらゆっくり喰ってやりましょう! あーひうふーへほーお!」

「完全にいかれたな、爺」

寛子ちゃんのおじいちゃんが、猟銃を抱えたままで呟く。

だが、学者さんが最初からそうだった訳では無い。きっと人間は、条件さえ整えば、誰だってああなるのだろう。

どずんと、凄い音。

天井から水滴が大量に降ってくる。アーニャちゃんがまた悲鳴を上げかけたので、口を塞いだ。

地面を、触手で殴りつけたのだろう。

「いひゃはははははァ! じつに!素晴らしいパワー! それに無制限の寿命! 何よりオンカヌシは、アンボイナと関係が深い存在! 私は永久に、この神秘の毒を持つ貝を研究することができる! こおおおおんな素晴らしい事が、他にあるだろうか! いや、他にはない!」

「反語か」

おじいちゃんがぼやくが、意味はよく分からない。

破壊の音は、遠ざかったり、近づいたりしている。やはり辺りを、手当たり次第に探して廻っているのだろう。

「伏せて。 後、できるだけ私語は慎んで」

雛理さんが指示を周りに飛ばす。

また、一つ激しい揺れが来た。最悪の場合、敦布が出て、囮になるしかない。今だったら、或いは。

だが、それは命がけになる。

此処で死ぬわけにはいかない。雛理さんは歴戦の傭兵だが、それでも皆を守りきって、脱出するのは無理だろう。

今敦布が死ぬと、決定的に手駒が足りなくなるのだ。

ぎりぎりまで、我慢だ。

耐えて、好機を探らなければならない。

洞窟の壁に背中を預けて、そのタイミングを待つ。アーニャちゃんが、声を殺して、話しかけてくる。

「あの男の狂気、本物だよ……」

「知ってる」

「そうじゃないの。 あの男の事、取り込まれていたから分かったの……」

アーニャちゃんは話してくれる。

学者さんの、昔の話を。

彼女が、把握できた限りの、おぞましい昔の物語を。

 

おかしな話だが。

新田五祐は、自分が今でも人間だと思っていた。

自分の神経を通した巨大な肉塊が、無数のヘリを接続し。触手を振り回しながら、カムイの力を得ている敵手を潰すべく、密林を歩き回っていてなお、である。

幼い頃から、毒を持つ動物が好きだった。

最初に遭遇したのは、イラガの幼虫。丸っこくて不思議な緑をしていて、しかしその針に触れると、電気のような痛みが走るのだ。

その痛みが面白くて心地よくて、何度も触った。

興味が出てきて、イラガを調べた。木についている、丸いマーブル模様の塊が、その蛹だと知って。はじめて動物に興味を持った。

動物とは、何だろう。

生き物とは、どうして毒を持つのだろう。

親にねだって、誕生日プレゼントとして動物の図鑑を買ってもらった。子供向けの図鑑では無く、親は奮発して、当時はまだ貴重品だったカラーの非常に詳細な図鑑を買ってくれた。

子供が勉強をしたいとおもうのを、快く思わない親はあまり多くない。

特に当時は、高度成長期という事もあって、世の中に伸張ムードが溢れていた。

そして、買ってもらった図鑑を毎日眺める日々が続く。友達を呼んでは、自慢して図鑑を見せた。

美術品と言っても良いレベルで、美しい描写がされている図鑑は、手垢で真っ黒になるまで、隅々まで読み込んだ。動物たちのスペックは、詳細に念入りに覚えていった。

その中でやっぱりお気に入りだったのは、毒を持つ動物たちだった。

ペルージャイアントオオムカデ。

当時は世界第一と思われていたムカデで、全長四十センチを超える大型種。獰猛で凶暴で、一度に体に送り込む毒の量も凄まじい。

ブラックマンバ。

数いる毒蛇の中でも、トップクラスに危険な存在。攻撃性が強く、何より動きが凄まじく速い。藪の中ではどの動物よりも早く動くほどで、口の中が真っ黒である事から付けられた名前だ。

そして、アンボイナ。

魚食性の猛毒貝。口の中に槍のような毒針を持っていて、それで魚を襲う。毒を注入した魚を丸呑みにする姿を見て、はじめて性的興奮を覚えた。

俺が、飯を食うのは、この動物でだ。

幼い頃から、そう五祐は決めていた。

やがて勉強を重ねて、大学を優秀な成績で出て、そして教授になった。

だが。生物学の中でも、アンボイナの有益性を理解するスポンサーには、中々出会うことができなかった。

大学の支援を受けながら研究を続けたが、舞い込んでくるのは毒の有効利用ばかり。生物兵器に使いたいとか、暗殺には利用できるのかとか。中には医療研究もあったが、例外に過ぎなかった。

この時かも知れない。人間に決定的な不信感を抱いたのは。

結局人間は、利権でしか存在を判断しない。アンボイナのすばらしさを理解しろと、五祐は周囲に言うつもりは無い。

だが、利権に結びつかないという理由で、アンボイナを無視する人間共に、五祐は深い憎悪を覚えたのだった。

結局、世界で行われている動物保護も、それがビジネスとして成立しているからやっているのだ。

人間は、金にさえなれば同胞を殺す事を何とも思わない。そして、最悪の場合、家族を売り渡すことだって、それは同じだろう。

良い例が、発展途上国だ。

子供を商品として売り買いしているのは当たり前だ。或いは農場に送り込み、或いは傭兵として売り飛ばす。この国だって、百年ほど前までは、農村で女を売り飛ばすことは当たり前のようにやっていたのだ。製糸工場などで働いていた女工達は、皆そうやって農村から売り飛ばされてきたのだ。

闇のビジネスとして、子供を売り買いすることは、今でも先進国で行われている。

変態性欲の持ち主のオモチャにする場合もあるが、殆どは臓器を売り飛ばすために、である。臓器を取られて生きている訳も無い。

要するに、人間など、利害が絡めば同胞の命などゴミとも思わない生物、という事だ。他の動物と何が違う。

いつの間にか、五祐は他人と距離を取るようになった。

親が死んで入ってきた遺産を整理すると、後はアンボイナが多数いる斑目島に移り住んだ。

実際の研究のすばらしさよりも、人脈が物を言う学会には少し前から見切りを付けていた、という事もある。

いつの間にか、五祐は思うようになっていた。

自分は確かに人間だが、周囲のくだらない連中とは違う。

そう思うと。

下劣で愚劣な人間達を見ていても、不思議と怒りは沸かなくなっていた。飄々と振る舞う癖もついた。

それは、相手を自然にゴミクズだと思っているからこそできる、一種のコミュニケーションだったのかも知れない。

何、案ずることは無い。

そもそも此方を「役にも立たない研究をしているクズ」と、ゴミクズ扱いしたのは、絶対的大多数の人間なのだから。

だから、力を得る機会が来たとき。

五祐は飛びついた。

そして、躊躇無く実行した。

不思議な話である。自分が既に怪物である事は、五祐も重々に理解している。にもかかわらず、自分を人間だと思っているのは。

このような姿になってさえ、なお。

周囲の人間よりは、それでもまだマシだと思っていたから、だろう。

人間とは何か。

この年になっても、未だ分からない。分かっているのは、定義されているような人間など、現実にはほぼ存在しないという事。欲と利権と見かけと定型句だけで構成されている、ゴミのような生物。

それが、大多数の人間の、真実だと言う事だ。

だからこそに、苛立つ。

子供を二匹守ろうなどと言う理由で、立ちはだかろうとするあの女が。殺してやらなければ気が済まない。

「あーあー。 てすてすー」

声を張り上げる。

人間の集団を崩すのは簡単だ。もう少し恐怖をばらまいてから、その種を植えるとしよう。

後は収穫するだけだ。

 

孤独な人だったんだなと、敦布は思った。

アーニャちゃんの読み取った学者さんの過去は、誰もが孕みかねない、孤独な闇そのものだった。

人間の社会が、どうしようもない矛盾をはらんでいることは知っている。その矛盾が巨大なストレスを産んでいることも。

特にこの国では、平和で安定した社会を作る引き替えとして、個人のストレスという負担が極限に達している観がある。社会に出ても楽しいことなど何一つ無く、ストレスだけが待っている。好きなことを仕事にできる人間は、全体の一割に達しない。夢を持てば馬鹿にされ、誇りを持てば排斥の対象になる。

それが、社会の現実だ。

敦布も教師という仕事をしてきたから、そういった社会のマイナス面は、嫌でも目にしてきた。

未来には、絶望という名前のストレスしか無い。

誰も彼もがそれを知っていて、生きるために仕事をしている。それに異を唱える者は、異端扱いされて排斥される。

誰もが、この国の異常なストレスを悪と見なさない。ストレスを糾弾するものが、悪としてつるし上げられる。

前は何となくとしか、分からなかった。

今の敦布は、それらを論理的に理解できる。だからこそに、学者さんの抱えてきた闇も、それに孤独も理解できた。

飄々としていた人だが、他人を見下すことで、壁をつくって自分を守ってきたのだろう。それは、相手を上から目線で見ている、と言うことでは無い。

周囲がそういう風に、彼を追い込んだのだ。

不思議と、上から目線で相手を見る人を否定する風潮はあっても。環境が人を壊すことを糾弾する風潮は存在しない。

敦布だって、分かっているのだ。

今は笑顔で遊んでいる子供達を、いずれストレスしか無い社会に放り出さなければならないことを。

引きこもりやニートと呼ばれている人達が、どうしてそう追い込まれてしまったかを。

何十年も孤独の中に闇を蓄えてきた学者さんは、一体どれだけの負の感情を持って、世の中を見ていたのだろう。

弱い人だと断ずるのは簡単だ。

だが、敦布は思う。人間である存在に、学者さんを嘲笑う資格は無いと思う。自分で闇に落としておいて、闇に落ちたから弱い奴だと笑うようなものだからだ。それこそ、「社会一般」で批判される、上から目線での相手のレッテル貼りでは無いか。

人間は結局、自分より下の相手を設定して、安心したいだけだ。だから、犠牲者を積極的に作る。学者さんは、そんな犠牲者だ。

「外に出ては駄目ですよ」

雛理さんが釘を刺す。

地獄の戦場を見てきた彼女にとって、学者さんが見てきた程度の地獄など、論ずるにも値しない、とでも言うのだろうか。

違う。

学者さんが見てきたのは、心の地獄だ。彼女が見てきたのは、物理的な地獄。どちらも、地獄には変わりない。

きっと、もう学者さんに、言葉は届かない。

子供達を守るためには、死んでもらうしか無い。

強烈な振動。かなり近い。探索範囲を、広げはじめたのだろう。森を片っ端から潰しているのかも知れない。

だが、一日やそこらで、木がまた生えてくる森だ。

潰しても潰しても、拉致があかないだろう。

「どぉーこですかー? 今出てくればぁー、苦しまないようにー、簡単にころしてあげますよー! いひひひひひひひっ! 嘘だけどなああアアア!」

木が吹っ飛んだのか、凄い音がした。

まるで重機が工事をしているかのような、いやもっと凄まじい音。子供達の、怯えきった顔が、痛々しい。

重点的に周囲を探しているのだろう。

音が近づいたり、遠ざかったりしている。

しばらくして、音は聞こえなくなった。気配も近くには無い。探し方を、変えたのかも知れない。

「今のうちに、洞窟の奥の方を探しておきましょう。 先生は、此処にいてください」

「分かった。 いざというときは、外に出て、学者さんの気を引くよ」

頷きあうと、雛理さんは、寛子ちゃんのおじいちゃんと一緒に、洞窟の奥へ行く。

奥は水浸しだろうが、ひょっとすれば籠城できる程度のスペースはあるかも知れない。それが確認できれば、学者さんに発見された場合にも、対応が異なる。奥が袋小路だったら、何が何でも外に逃げなければならない。しかし、もしも奥に逃げ込めるのだったら。柔軟な対応が可能になる。

平坂さんという人も、学者さんが好き勝手にするのを、いつまでも許しはしないだろう。そこに、必ず好機が生まれるはずだ。

そういった事が、今は自然と理解できるようになっている。

きっと、頭の回転が、かなり速くなっているからだろう。

アーニャちゃんが、側で息を殺している。他の子供達は、少し離れて、此方の様子を見ていた。

「貴方も、どうしてそんなに平静でいられるの?」

「それは、できるだけ、子供達の前では話さないでくれる?」

「……だって、二人とも、もう知ってるよ」

「知っていても」

頭を抑えて、体を低くさせる。

奥にいる子供達にも、静かにするように指示。

見えた。

木々の間を、触手が這い回っている。大蛇のような太さだ。おそらくは、静かにするのも作戦のうち。

ああやって触手を四方八方に伸ばして、此方の位置を探っているのだろう。

わざわざ本人が探すよりも、その方が効率的だ。だが、それでもまだ見つかる可能性は、そんなに高くは無い。

問題は、雨が降ったとき。

泥ゾンビの大軍勢が、また押し寄せてくるかも知れない。平坂さんのキャンプの破壊跡を思い出すと、ぞっとする。

触手は、見えなくなった。

だが、どうも様子がおかしい。しばらくは、外に出ない方が良いだろう。

「先生、怖いの行っちゃった?」

「大丈夫だから、静かにして」

治郎君に、できるだけなだめるように、言い含める。

しかし、それが難しい。

昔だったら簡単だったことが、どうしてもできなくなってきている。頭が良くなった反動だろうか。

新米教師の頃、子供達が大好きなのに、心を通じる事ができずに、本当に苦労した。

その時と同じもどかしさを感じた。

息を殺して、待つ。

いざというときは、何時でも飛び出せるように。

今のところ、気配は近くに無い。学者さんは多分、何処かに陣取ったまま、此方の出方をうかがっているのだろう。

雛理さん達が戻ってきたら、子供達にご飯を食べさせてあげたい。とはいっても、冷たいレーションだが。

そろそろ、保存食も半分を切ろうとしている。

水が危険な以上、肉も植物も危ない。

敦布の時間が無くなるのと、食糧がなくなるの。どっちがはやいのだろう。状況は、加速度的に悪くなる一方だ。

雛理さんが、戻ってきた。

時計を見ると、二時間半も経過していた。それだけ広い洞窟だった、という事か。

「首尾は」

「そんな難しい言葉が、ジャージ先生の口から出るとは思いませんでしたよ」

軽口を叩くと言う事は、恐らく良い結果だったのだろう。

手招きされて、敦布だけ一人奥へ。

代わりに、入り口に寛子ちゃんのおじいちゃんが向かった。

それで、希望が粉みじんに砕ける。

今の敦布は、それだけで、大体事態が理解できるようになってしまっていた。

「良いニュースと、悪いニュースが」

「良いニュースから」

「奥にはかなり広い洞窟があります。 思ったほど浸水もしていないですし、充分に敵性勢力の防御が可能です。 触手をあの化け物が伸ばしてきても、充分に対処が可能でしょう」

それは良かった。

だが、もう一つが気になる。

子供達に、荷物を持つよう指示。

奥に入る準備をさせる。そそくさとリュックを抱える子供達を横目に、雛理さんは言った。

「どうやら、時間切れですね」

「え……」

「行成おじいさんです。 さっき、真っ黒な泥を大量に吐きました。 体調が悪くなってきているのは知っていましたが、恐らく数日中、という所でしょう」

背筋が凍るかと思った。

敦布よりも、先におじいちゃんが逝ってしまうのか。

それだけじゃない。

子供達だって、雛理さんだって、危ないのだ。此処で敦布が怪物にでもなったら、子供達は誰が守るというのか。

「化け物になったら殺して欲しいと、さっき頼まれました。 改めて、です。 恐らく、死期が近い事を悟っているんでしょうね」

「そんな……」

「私が手を下します。 先生は、その時には。 子供達を遠ざけてください」

それは、動きが悪くなるからか。

言い返そうとしたが、できなかった。

今はまず、学者さんから身を守ることが先決だ。できればこの洞窟に他の出口があるかも探っておきたい。

それに何より、アーニャちゃんと腰を据えて話をしておきたい。

学者さんの心を覗いたのなら、分かる事も多々あるのだろうから。

 

洞窟の奥へ住居を移して、夕方まで待った。

学者さんが来る様子は無い。雛理さんは寛子ちゃんのおじいちゃんと一緒に、奥を探して廻っている。

洞窟の入り口から二百メートルほど入ったところに、比較的大きな空洞がある。一部に水たまりがあるが、湿気も適切で、過ごしやすい。

此処でも、水たまりには近づかない方が良いだろう。

問題は雨が降ったとき、どう水が流れ込んでくるか、だ。

洞窟は複雑な構造になっていて、より深い方向へ進んでいる道もあった。石を積んで、そちらに雨水が流れ込みやすいように誘導路を作っておく。

だが、懸念しているのは、それだけではない。

雨が降っていたとき、泥ゾンビ達は、平坂さんの基地をまっすぐに目指していた。

途中で濁流に阻まれたところから見て、万能では無い事は分かる。だが、どこから現れるのかが、全く見当がつかない。

雨水が洞窟に入り込んできたとして。

其処から泥ゾンビ達が現れたら、文字通り詰む。逃げ場も無く洞窟の中で追い詰められ、全員が八つ裂きにされてしまうだろう。敦布だって、数の暴力に追い込まれれば、身体能力なんか発揮しようが無い。

雛理さんが戻ってきて、地図を書き始める。

「一番奥には地底湖があります。 雨が降ると、かなり水位が上がるようです」

「近づかない方が賢明だね」

「ええ。 まだ探っていない通路は幾つかありますが、ひょっとするとこの辺りの通路が、地上に抜けられるかも」

雛理さんが複雑な経路を書いていく。

覚える事は無理そうなので、分岐だけは覚えていく。右、左、右、右。それだけでいいのなら、どうにかなる。

寛子ちゃんは、そういえば、こういうのの暗記は得意だったか。

呼んで、見てもらう。

雛理さんが説明すると、何度か頷いていた。その間、寛子ちゃんのおじいちゃんは、一番奥の方で、静かにしていた。

もう、時間が残っていない。

だからいざというときには、迷惑を掛けないようにしたい。銃から手を離しているのも、それが理由だろう。

一度、敦布は外に出た。

周囲に、学者さんの気配は無い。触手もいない。

既に日は暮れて、黄昏の時間帯が来ている。降るような美しい星空。だが、満天の星空とはいかない。

少し、雲が出始めている。

子供達には、今のうちに休んでもらうとして、やっておくべき事が幾つもある。

まずは、アーニャちゃんに話を聞かないと。

きびすを返そうとした瞬間。

最大級の嫌な予感が、全身を駆け巡った。

木に駆け上がって、周囲を確認。周りを見回して、その理由がよく分かった。

南の空に、巨大な積乱雲ができはじめている。

これだ。学者さんが一端引いた理由は、これ以外には無い。

この空気の感じからして、雨が降る。

しかも、明日の昼までには、だ。そして降る雨は、確実に豪雨と言うも生やさしいレベルになるだろう。

それも、普通の雨じゃ無い。

確実に、黒い雨として降り注ぐ。以前の大雨の時と、同じように、だ。まさにそれは、神の悪意。

子供達は絶対に外に出せない。

既に、今の敦布が、天に見放されているとでも言うべきなほど、運が無い事はわかりきっていた。

だが、それでも。

此処まで無情に悲運が続くと、何もかも呪いたくなってくる。

敦布は首を振ると、洞窟の中に戻る。

まず、何からはじめたら良いのか。それから考えなければならなかった。

 

2、黒い豪雨の中で

 

怯えたアーニャちゃんを、助けられない。

それがつらい。

子供達は既に眠っている。

洞窟の奥の部屋で、雛理さんが、アーニャちゃんから情報を、ひたすらに引きずり出し続ける。

それを、敦布は見守るしかできなかった。

アーニャちゃんから、ずっと聴取を続けて。一時間ほど休んでもらって、また叩き起こして話を聞く。

可哀想だが、これは仕方が無い事だ。

見ていると、実に効率よく、雛理さんは情報を引き出している。時には脅し、時には休憩を入れることを許し、得た情報についても自身で整理しながら、確実に拡大をしている様子だ。

まず、そもそも。フラッグソウ社は、何が目的なのか。

アーニャちゃんは、サイコメトリーという、普通だったら接することが無いようなタイプの力を持った人間だ。彼女が触った者の情報を読み取る力がある事は、学者さんの心の闇について教えてくれたことで、大体は正しいと思う。

嘘をついているにしても、こんな非力な子を、危険な任務に連れてくる理由が無い。

「なるほど……」

「雛理さん、何か分かった?」

「おそらくは、ですが。 平坂のスポンサーのうち一人が、しびれをきらしたのでしょうね。 猫の首に鈴を付けようとした、という所のようです」

平坂さんが、「とても有益な」プロジェクトを進めている事は、彼女らのスポンサーも知っているらしい、と雛理さんは分析した。

実際問題、そうでなければ、進入路を見つけることはできなかっただろう。

この島から、普通の手段では脱出できないこと、侵入できないことは、もうわかりきっているのだ。

「子供達を、救う方法は」

「難しいでしょうね。 今の時点では、少なくとも新田は知らなかった、と判断するべきのようです」

「……そう」

もし知っているとすれば、平坂の側の人間だ。

アーニャちゃんがそもそも、どうして学者さんのおなかの中で生きていたのかも気になるが。

もう一度交戦の隙を、本当につけるのだろうか。

次の戦いで、平坂さんが同じようなミスをするとは思えない。気になることは、他にも色々ある。

「ただ、確定したことがあります」

「確定?」

「カムイとオンカヌシは、それぞれ別の存在です。 それぞれに、別種の怪物化を起こしているようです」

「……!」

どうやってそれを学者さんが知ったのかは、まだ分からない部分も多いという。

だが、まず第一に、カムイ化したのは、かっての斑目島の村人達、らしい。

それに対して、オンカヌシの力を得ておかしくなったのは。この島の植物や動物たち、水。

そして寛子ちゃんのお母さん。

今、まさに末期状態にある、寛子ちゃんのおじいちゃんだ。

その中に、学者さんも混ぜるべきか。

いずれにしても、此方ははっきりしている。原因は水だ。

「オンカヌシの力を防ぐには、水を飲まない。 それでほぼ確定的ですね」

「うん。 でも、わたし達、危険に気付いてからは、水をできるだけ摂取しないようにしていたよね」

「おそらくは、我慢しきれずに食べてしまった鹿肉が原因でしょう」

そうだ。

おじいちゃんが、一度。もう長くは無いから、食べて良いかと言ってきたのだ。

生物濃縮で毒が圧縮され、そして一気に体をむしばんだ。

しかし、動物たちは巨大化している様子はあっても、怪物化はしていない。これは何故なのだろう。

ふと、気付く。

ひょっとして。

「二つの力は、同時には発現しない……?」

「なるほど、その可能性はありますね。 ただし、有効な対処方法とは言えないでしょう」

すっと、雛理さんが指を挙げる。

指した先は、敦布だった。

「貴方の今の状況、森の木々や動物に酷似していることを、悟っていますか?」

ばつが悪そうに、アーニャちゃんが目をそらした。

そうだ。確かにオンカヌシの力による異形化と言うよりも、敦布の今の状況は、森の動物たちに近い。

異常成長。そして、体の強靱化。

しかし、そうなると、おかしい事もある。村の人達は、影のようになってしまった。それは敦布には、起きていない。

雛理さんが、腰を上げた。

「天気が最悪の状態だというのは、本当ですか?」

「うん。 多分、大嵐になる」

「厄介ですね、それは。 新田にとっては、これ以上も無いほど有利な状況です」

そんなことは分かっている。

或いは、入り口を岩で塞ぐとか、そういった処理が必要になるかも知れない。だが、それと同時に、一つやるべき事がある。

「多分新田……学者さんは、きっと此処を見つけちゃうと思う」

「その可能性は、低いとは言えないでしょうね」

水を自在に操るとまではいかないだろうが。あの泥ゾンビ軍団を見る限り、それに近い力を持っていてもおかしくない。

オンカヌシが何者なのかは、知らない。

分かっているのは、人間の常識外にある、異常すぎる力を持っているという事だ。

「わたし、外に出るよ」

敦布は、告げる。

これは、自分にしかできないことだから。

「勝てるかどうかは分からないけど、学者さんと戦ってくる」

「……どうやら、熱は無いようですね」

「そうでもしないと、多分学者さんに此処を発見される。 雛理さん、分かってるんじゃ無いのかな」

答えは沈黙。

敦布は、まだ子供達が眠っていることを確認すると、ジャージの埃を払って立ち上がった。

もう、戻ってこられないかも知れない。

だが、何がどうなろうと。

絶対に子供達は守る。たとえ敦布が、化け物になったとしても。

 

平坂が報告を受けて外に出ると、確かに島の向こう側に、巨大な積乱雲がせり上がりはじめていた。

あの様子だと、土砂降りが来るだろう。

「全員、雨に対する防御策を」

「分かりました。 かなり海が荒れる可能性がありますので、気をつけてください」

部下の言葉に頷くと、平坂はプレハブに引っ込む。

雨が降り出すまで、およそ五時間と推定された。すぐに部下達が、ヘリやハリヤーの固定を開始する。

黒鵜の依頼通り、現在トマホークを全部で十六発発注し、此方に届くのを待っている状態だ。

それに加えて、東南アジアの某国から、型落ちの巡洋艦を回してもらっている。一世代前どころか二世代前の巡洋艦だが、きちんと今まで動いており、非公式だが実戦経験もある。信頼性は高い船だ。

到着は三日後。

トマホークを途中で搭載することを考えると、更にプラスして一週間という所だろう。いずれにしても、その間は攻勢に出るつもりはない。

ただし、この雨は厄介だ。

この間黒鵜が戦闘した新田は、泥でできた死体軍団を操れる可能性がある。

あれがこのメガフロートに大挙わき出したら、とてもでは無いが対処できない。しかも、予想される降雨量は、百ミリを軽く超えていた。

メガフロートは、それこそ台風が来ても瓦解しない構造になっている。要するに、超巨大空母と考えれば分かり易い。

だが、その上にある構造物などは話が別だ。

風速も三十メートルを超える可能性があると試算されている。既に、色々と厄介な状況である。

黒鵜が来た。

手渡されたUSBメモリを、早速ノートPCに刺す。

巨大な怪物が暴れ回る姿が映し出されていた。

「偵察機が送ってきた映像です。 神林に降りた新田が、暴れ回ったようです。 おそらくは、一緒にいたメンバーを消すつもりだったのでしょう」

「だが、この様子では、失敗したな」

「はい。 一度神林から引き上げて、此方をにらむ体勢に戻っています。 懸念しているのは、この大雨に乗じて、メガフロートに殴り込みを掛けてくる、ということですが」

それをやられた場合、総力戦で対処するほか無い。

海上での戦闘の場合、迎撃火器は多数ある。そもそも新田も身動きが取れないだろうし、叩き潰すことは、できる。

だが、此方もほぼ確実に、無事には済まないだろう。

「一番良いのは、中距離、遠距離からミサイル攻撃を続けて、新田を牽制し続ける事なのですが」

「今は止めておきたまえ」

「資金の問題ですか」

「そうだ。 如何に潤沢な資金があるとはいえ、無駄な交戦はできる限り避けたい。 外で調査に当たっている部下が調べてきたが、どうも介入してきたハインドは、スポンサーの一つが送ってきた猫の首の鈴であったらしくてな」

確かにそれならば、動きに説明がつく。

だが、もっとも、彼らの誤算は、取り込もうとした第三者がとんでも無い危険物だったという事だ。

結局、今ではすっかり新田に何もかもを乗っ取られてしまっている。恐らくスポンサー側も、泡を吹いていることだろう。

いい気味だと笑えるほど、平坂は楽観的ではない。

明日は我が身だからだ。

カムイの力は、オンカヌシの力とさほど変わらない。今はどうにか研究をしているが、黒鵜が懸念するように、これ以上も無いほどの危険物なのだ。それこそ、岸田のような異能の学者を使って、やっと研究という段階に持って行けるほどの、である。

だが、引くわけにはいかない。

平坂は様々なものを見てきた。

人間の社会が、既に限界を迎えていることも知っている。

全てを泥洗した後、自身が世界を支配するのは、我欲もある。だが、それだけでは決してないのだ。

「愚かな真似をしたものですな」

「人間とは、常に愚かなものだよ。 それよりも、奴を倒すための作戦案は」

「七つ用意しました。 目を通しておいてください」

「いいだろう。 一旦休みたまえ」

頭を下げると、黒鵜は引き上げていった。

休ませたのは、当然の話だが。もしも黒い雨がメガフロートに降り注いだ場合、泥ゾンビや新田との交戦が想定されるからである。

他の兵隊達も、三交代で休ませる。

その間に、平坂は司令部を輸送ヘリの中に移しておく。もしもメガフロートが泥ゾンビに制圧されたときの事を考えての行動だ。また、甲板以外が、できるだけ防水できるようにもしておく。

最後の便で、水を仕入れさせたのは。

これ以降、水の現地調達は不可能、と判断しての事だ。岸田の依頼で島の各所から水を採取させ、実験動物に投与させたのだが。いずれもが黒い水の反応を示した。それだけではない。

一部の動物は異形化までした。

岸田は研究したいと言い出したが、すぐに焼却処分。まだ研究仕切れていないカムイだけで、今は手一杯だ。

一通り作業が終わると、既に50時間以上起きっぱなしである事に気付いた。

秘書官に言って、三時間ほど眠る。

目覚まし時計をセットして、目が覚めたらすぐにコーヒーを出すようにも指示。

まだ、雨が降り出すまで、少し時間がある。

 

目が覚めると、平坂は徒歩で輸送ヘリの中に移った。

既に司令部は移設が完了している。あくびをかみ殺しながら、秘書官が淹れてくれたとびきり濃いコーヒーを胃袋に流し込む。味など関係無い。これは目を覚ますための、ドーピングだ。

黒鵜が来た。外の兵士達が、完全防水用のカッパを着込みはじめている。

「既に斑目島では、黒い雨が降り始めています。 まだ小雨ですが、すぐに土砂降りになるかと」

「ふむ、此処で黒い雨が降るまでどれくらいかかるかね」

「それが……」

積乱雲がある一点で発達を止め、島の上空で停泊しているというのだ。

丁度平坂が寝始めた頃に、その状態になったという。気を遣って起こさなかったのだとか。

「そうか。 君は休んだかね」

「睡眠は充分に取るようにしています」

「それは何よりだ」

嘘では無いのだろう。黒鵜は不必要な嘘をつくことをしない男だ。実際、予想された時間になっても、雨は降り始めない。

そして、予想以上の降雨量を、斑目島では観測し始めていた。

「降雨量、150ミリを越えるかと! しかも黒い雨です!」

「今、島に人員はいないだろうな」

「引き上げ済みです!」

「あーあー。 実験動物を少し置いておきたかったなあ」

岸田が嘆くが、聞こえないふりをしておいてやる。

モニターには、複数箇所での降雨が表示されている。まだ生きている監視カメラはフル稼働で、オペレータが必死になって情報を洗っていた。

「主に神林地帯での降雨が激しいようです。 旧斑目島の降雨量は、40ミリ程度です」

「それでもたいした豪雨だ。 一体新田は、何が目的だ」

「新田を確認! 現在、神林を北から南へ移動中! 触手をふるって、木をなぎ倒しながら進んでいます!」

声を拾えるかと聞いたが、近場に生きている集音マイクや監視カメラは無い。

近々無人機を使って、またばらまかなければならないだろう。

地図上に、慌ただしく情報が追加されていく。各地の降雨量、それに際重要ターゲットである新田の移動経路。

積乱雲は蓄えている湿気をはき出し続けていて、どんどん縮小している。

この様子だと、夜半過ぎには、此方に来ること無く消滅するだろう。そう、連れてきている気象予報士は言った。

だが、彼の予報は、ことごとく外れている。オンカヌシの非常識ぶりから考えても、信用度は低い。彼の責任では無いにしても、だ。

「気化爆弾の到着は、明後日でしたか」

「確かにそうだが、トマホークが来るまで、待った方が良いだろう?」

「勿論そのつもりです」

作戦案は全て目を通したが、どれも大火力で一気に新田を焼き払うという内容のものばかりだった。

どちらにしても、優秀な巡航ミサイルであるトマホークの存在は必要不可欠だ。今、仕掛ける理由は無い。

「新田の声を拾いました! 何か、会話しているようです!」

「分析を開始したまえ」

「分かりました! 直ちに!」

拾った音声のボリュームも即座に上げさせる。

新田のだみ声が、滝のような豪雨の中、響く。

「おやあああ? ジャージ先生、自らおいでとはぁ?」

「どうやら、あの身体能力が上がっている女が、仕掛けたようですな。 無謀だとしか思えませんが」

「……意図が分からんな」

戦っても勝ち目が無い事は、自明の理だ。

ならば、どうして仕掛けたのか。理由を推察しなければならない。ただの自殺願望を抱くには、彼女らは強かに立ち回りすぎている。

「交戦を開始しました!」

「監視を続行」

良い機会だ。

新田の戦闘力対するデータは、もう少し拾っておきたいと、思っていた所だった。

人型カムイと見なされているあの女についても、それは同じである。

 

学者さんの形は、以前よりも更に変わっていた。

二回りは大きくなり、全体的に育ちすぎたジャガイモのようにいびつである。融合したヘリの面影は、もう無い。

触手は四本長くて太いのがいて、他に細いのが一見しただけで、30以上は生えているようだった。

醜悪で巨大な、肉の塊。

全体的に黒ずんでいるのは、気のせいでは無い筈だ。オンカヌシという存在は、何者だか分からないが、多分黒いのだろう。雨が黒くなったり、地面が黒ずんだり。それに、泥でできたゾンビ達は、真っ黒だった。

「学者さん!」

呼びかける。

いきなり攻撃してくることも覚悟はしていた。だが、意外にも、反応はゆったりしていた。

ただし、それは。

縦一文字に開いた、四メートルはあろうかという巨大な口から発せられた言葉を、平静に受け止められれば、だが。

巨大な体の中央に、牙だらけの巨大な口が開いている。

それはおぞましいまでに巨大な牙をずらりと並べていた。口の中は真っ黒で、時々揺らめいている舌は、蛇にそっくりだった。

気付く。

このからだ。巨体。

どこか、アンボイナに似ているのだ。

嫌みな挨拶をした後、学者さんはせせら笑いを混ぜながら言う。

「逃げるのは止めたのかい」

「貴方は、一体何がしたいんですか!?」

共存はできない。

できっこない。

だが、今まで、会話はできていた相手なのだ。少しでも、意思疎通はしてみたい。それに、これ以上激しく雨が降り出せば、この人には何をしたって勝てなくなるだろう。

まだ、雨は真っ黒になっていない。

既に驟雨と言うに相応しい激しさではあったが。今の敦布には、さほどの障害にはならなかった。

木の枝が飛んできたので、払う。

木っ端みじんに砕けた木の枝を見て、自分がむしろ驚いていた。こんなにパワーが上がっていたのか。

「決まってる。 私の楽園を作るのさ」

「楽園……」

「永遠に私だけがいて、私だけがアンボイナを研究できる、私のためだけにある園。 君には……いや、他のどんな人間にもくだらないだろうね。 だが、私にとっては、それが理想の郷なのさ」

巨大な口は、さほど激しく動いていない。

むしろ舌が口の中に見える牙を擦り鳴らして、音を立てているらしい。

「そのためには、人間は邪魔だ」

ぴしゃりと、学者さんは言い切る。

この人が、どれだけの孤独の中にいたのか。それを、敦布は知っている。アーニャちゃんのサイコメトリーを通じて知った。

だから、この人を、一方的に否定する気には、どうしてもなれなかった。

「子供達も、邪魔ですか」

「邪魔だね」

即答される。

何となく、敦布には理由が分かった。

子供は世間では無邪気だとか純粋だとか言われているが、それは間違っている。実際問題、子供の頃を思い出して、無邪気だったとか純粋だったとか、言える人間がどれだけいるだろうか。

純心を阿呆の別称とすれば、それなりにいるのかも知れない。それは或いは正しいともいえる。

子供は大人と社会に対する関わり方が違うだけ。同じ人間だ。

むしろより残虐で、冷酷な側面さえある。

学校でいじめがどうやったってなくならないのは、その発露の一つ。

学者さんを最も拒絶したのは。きっと子供達だったのでは無いのだろうか。

「哀れみの目か……。 そういうのは、いくらでも見てきたよ。 自分より劣っている相手を見るとき、人間は大体そう言う目で見る。 内心では笑っているのにねえ。 むしろ喜んでいるというべきかな。 自分より下の存在がいて、アあ良かった、てねえ」

「違う……」

昔だったら、違うと絶叫できた。

だが、どうしてだろう。

今は、学者さんの言うことにも一理あると思ってしまう。

頭が悪いことが、昔は嫌だった。自分はバカだから仕方が無いと、諦めていた。だから、馬鹿にされても、笑って耐えることができた。

今は、頭が働いてしまう。

だからそれが故に。逆に、子供達のために、純粋に戦う事は、できないのかも知れない。

「何が違う」

「そんな人ばかりじゃ無い……」

「ああ、いるかも知れないねえ、例外は。 だが所詮は例外ッ! この世界に満ちている人間は、基本的に自分より下の存在を設定しては悦に入り、卑小な自分を誤魔化すために下の存在を造り、物理的に精神的に自分より下の存在を痛めつけては悦に入る実にくだらない生物だッ! なんで道徳があると思う! それが無いと人間はそもそも社会さえ維持できないほど、エゴにまみれたクソくだらねえ生物だからだよ! 何が母性! 邪魔だったら子供だって殺す! 何が愛情! そんなもの、夢幻に過ぎん! 私は、人間などいらないね」

「貴方にはいらなくても……わたしには子供達が大事なの。 どんなに嫌われたって、怖がられたって。 きっと、それが。 最後に残った、わたしの人間のひとかけらだから」

爆笑する学者さん。

そして、彼は言った。

そんなくだらないもの、捨ててしまえ。

それが、戦いをはじめる合図になった。

 

触手が振り下ろされて、森を数十メートルにわたって両断した。

敦布は次々飛んでくる触手をかわしながら、森の中をひたすらに走る。やっぱり、動きそのものは鈍い。

だが、触手の速度は、想像を遙かに超えていた。

特に先端部分は、しなりを利用して、残像さえ残すほどの速度で振るわれる。

至近。真上。

横っ飛びに逃れる。しかし、衝撃波が、強か全身を叩いていた。

泥の中、激しくはじき飛ばされる。

黒い泥まみれになりながらも立ち上がる敦布の前後左右から、触手が殺到してくる。だが、その動きが、手に取るように見えた。

はっきり言うと、遅い。

というか、どうしてこんなのに叩かれたのか。頭の中が、徐々に冷えてくる。

触手がそれぞれを打ち合う寸前に、空に逃れる。

何本かの枝を蹴り折りながら、加速。

学者さんから、距離を取る。

「ハッハア! 逃げるのかね! おおかた、私の前にわざわざ出てきたのは、あの雛共を守ろうとか言う、くだらんヒューマニズムに沿っての行動なのだろう! 君が逃げ続けるのなら!」

周囲の泥から、無数の手が伸びてくる。

それは見る間に人の形を取っていく。

「此奴らを森中に放って! あのガキ共を捕まえて! 目の前で八つ裂きにしてやるだけだがねえ!」

やっぱりそうきたか。

だが、そうはさせない。

決意が、できる。

敦布は、今。

此処で、死ぬ。

そうする事で、子供達を守る。

 

3、カムイの力

 

光が、島の中央から立ち上った。

平坂が思わず席から立ち上がりかけるほどに、それは強烈だった。観測班が、泡を食って言う。

「カムイの波動です! 間違いなく成体!」

「無人偵察機を向かわせたまえ」

「直ちに。 しかし、この豪雨の中では、どれだけたどり着けるか……」

「良いからやれ。 情報収集を最大限に行う」

カムイの力が発見されてから、数年。

その間。可能性については分かったが、どうしても越えられない壁があった。それは、有用な道具としての存在である。

泥洗については、世界を変えうる力である事は確かだ。

しかし、カムイそのものの力に関しても、まだ未知数な部分が多い。異才とも言える岸田に好き勝手やらせていても、今だその全貌は掴めていない。

人型の、カムイ。

しかもそれは高い理性を持ち、知能を備えている。

もしも実現し、量産することができるのなら。この停滞しきった現在社会を、泥洗よりも多少穏便に、変えることが出来るかも知れない。

外に出る。

海が荒れているが、暗い空に、はっきり光の柱が見える。

あの下で、今。

オンカヌシと、カムイの戦いが行われている。

 

遅い。

触手の下をくぐり抜けると、一本を掴んで、引きちぎった。

数本が、その間に殺到してくる。

いずれも時速二百キロを軽く超えている。先端部分であれば、更に速いかも知れない。

だが、それでも遅い。

残像を残して動きながら、学者さん=新田の下に迫る。

攻勢に出た敦布に、学者さんは慌てない。

その全身を震わせると、大量の粘液を辺りにばらまいた。体中に空いた穴から、一斉に噴出したのだ。

「カギムシという生物を知っているかね?」

知らない。

だが、どうせ説明してくれるのだろう。

膨大な粘液が、辺り中を覆う。地面に落ちると、黒い泥と混じり合って、それはセメントのように固まった。

敦布の足も、一緒に固められる。

「古くはバージェス動物群にも類例が見られる、古い古い生物だよ! こうやって! 獲物を捕る!」

複数の触手が、躊躇無く振り下ろされる。

異常なほど、敦布の頭は冷静に動いていた。無言のまま、地面に拳を振り下ろす。固められていた地面が、ひび割れ、粉々に砕ける。

触手が届くまで、充分に間に合った。否、届いていたところで、どうにでもなっただろう。

触手をかわしながら、前に。さっきのぬかるみと違い、ある程度固まっているから、むしろ歩きやすい。跳ぶこともせず、そのまま滑るように前に。

分かっている。

残っている時間が、加速度的に消耗されていることは。

元々少なかった時間が、一気に消えていく。子供達との思い出や、笑顔を見ることが生き甲斐だったことや、それに自分がいる間に卒業していった子供達の顔も。記憶から、抜け落ちていく。

どんどん、冷たい何かが、心を浸していく。

それは攻撃性や、冷酷とは違う。

ただひたすらに、何もかもを、精密に破壊していく事だけを追求し、そして実行する。いうならば、動物の心。

巨大な触手が、至近に迫る。

新田の体を支えていた、巨大な触手の一本だ。今までとは、速さもパワーも違う。避けた先には、泥ゾンビの群れ。数に物を言わせて、押さえ込みに掛かってくる。

膨大な黒い雨が降り注いでいるなか、無言で敦布は回し蹴りを叩き込む。

雨水が、蹴散らされるのが、露骨に見えた。

今度は、衝撃波に体を抉られたのは、新田の方だった。

触手が数本千切れ跳ぶ。

だが、それでも新田は屈しない。即座に触手を再生し、雄叫びを上げながら躍りかかってくる。

倒木。掴んで、放り投げる。

新田の巨大な口に突き刺さる。触手で防ごうとするが、それよりも木が突き刺さる方が、速い。

「やるねえ……!」

しかし、それでもなお。

新田が、苦痛に歪む様子は無い。むしろ、ようやくまともに戦えると、楽しんでいる様子さえあった。

まだ、時間が無くなって欲しくない。

だが、砂時計の砂は。

この瞬間。落ちきった。

意識が暗転する。否、違う。別のものに塗り変わる。今までも、別人に変わっていく感触はあった。

それの、もっとずっと濃い、根源からの切り替わり。

「オンカヌシ」

無言で、距離をゼロにする。

拳を叩き込む。肉の分厚い装甲が、減し砕ける。大量に飛び散る鮮血を浴びながらも、もはや何とも思わなかった。

引きちぎる。

引き裂く。

無言で拳を振るい、ラッシュを叩き込む。鉄の感触。関係無い。そのまま砕く。人間の肉の感触。

だからなんだ。そもそも、人間は敵だ。

「潰す」

「やってごらん?」

前後左右の地面が、吹き上がるのが見えた。

それは、さながら巨大なラフレシア。それも、肉でできた、である。あまりにも大きすぎて、笑えるほどの花びらには、それぞれ鋭い牙が無数についていて、一斉に閉じてくる。黒い雨の中、光が完全に失われた瞬間。

かって敦布だった者は、自分の力を完全解放した。

 

あまりにも突然の出来事だった。

あれほど激しく降り注いでいた雨が、突然、なんら前触れも無く止む。

向かわせていた偵察機は、むしろそれで体勢を崩してしまうものも多く出た。殆どは持ち直し、戦闘が行われていた現場に向かう。

其処には、大きなクレーターがあった。

何も残っていない。

人外の戦闘が行われていたことが、まるで嘘のようだ。

辺りには、黒い雨が降り注いだ跡が、確かにある。実際、周囲の森は、黒く薄汚れていたのだ。

しかし、これはどういうことだろう。

平坂は腕組みして唸る。情報収集に当たっていた部下が、フォローするかのように言った。

「カムイの反応、消失しています。 少なくとも、探知範囲内には存在していない模様です」

「オンカヌシと相打ちになったのかなあ」

心底残念そうに、岸田が肩を落とす。

不意に、偵察機の一機が、通信途絶した。

他の機がフォローに向かうが、その時には。撃ち落とされた跡が残る偵察機が、木に引っかかっていただけだった。

今、あの島にいる存在は限られている。偵察機を撃ち落とせるような者はなおさらだ。近くにいることは疑いない。

「周囲を念入りに探せ」

「は。 しかしこれは、恐らく人為的な撃墜かと」

「分かっている。 だからこそだ」

オンカヌシそのものであった新田は、しばらく心配しなくても良いだろう。というよりも、仮に生きていたとしても、見るからに大ダメージを受けているのが明らかだ。これからは徹底的に追い詰め、探し出して叩き潰す。

だが、消えたと判断するには早すぎる。

戦闘の大まかな経緯は見たが、あそこまでいくと、完全に生物としての常識を越えている。

アイヌの言葉で、カムイとは神を意味する。既に生存していない発見者が、あまりにも非常識すぎる力から、そう名付けたのだ。

この島ではさっきまで、オンカヌシとカムイ、二柱の神が、全力での戦闘を繰り広げていた。

神話の時代、もしも神々の戦いを見ることがあったのなら。こんな感じだったのだろうかと、平坂は思った。

「すぐに、カムイの実験体を処分するべきかと」

「それはできない」

側で見ていた黒鵜が、眉に皺を寄せる。

この男は、常に歯に衣着せぬ物言いをする。平坂の意思に、不満があるのは、一目瞭然だった。

「見ていて思わなかったのですか。 あのような存在、とても手に負えません。 まだ未知の要素も多いのに、御しきれると本気でお思いですか」

「だから、御せるように、調べていくのだ」

「そうだよ黒鵜ちゃん! こんな面白そうなオモチャ、他に無いじゃんか! ボクは是非いじってみたい!」

岸田の発言には、平坂でさえ正直辟易するが。本質では、同意である。

これを御せれば、人間は次の段階に行ける。先ほどの戦闘で、人型カムイが見せた実力は、戦い方次第ではそれこそ一個師団にも匹敵しかねないものだ。たった一人でそれだけの破壊力を発揮できるのなら。

人間の歴史は、完全にひっくり返る。

爆心地に偵察機が到着。

何も残っていない。カムイどころか、オンカヌシも綺麗に消し飛んだ様子だ。本当に残念そうに、岸田が肩を落とした。

「念入りに探せ」

「分かりました。 しかしこの様子では……」

「島に残っていた人間がどうして偵察機を落としたのか、それが気になる。 ただの腹いせなのか、それとも」

たとえば、かって人間だった仲間を助け出したのだとしたら。その光景を見られたら、まずいと思うだろう。

しかしあの爆発である。

大体、戦闘の凄まじさは、感度が低く画像が粗いカメラでも息を呑むほどのものだった。しかもあの黒い雨の中である。

どれだけの勇気があったら、近づけたのだろう。

「神林に異変!」

部下が、声を張り上げる。

見ると、クレーターの更に外側の木々が、一斉に花開いている。膨大な花粉を、まき散らしている木もある。

これは、傷ついた神林を、自動修復しはじめたか。

「平坂ちゃん、地上部隊出せないかな! これじゃあ二三日で木だらけになって、調査も何もなくなっちゃうよ!」

「行くなら貴様一人で行けっ!」

「なんだよ、黒鵜ちゃんのけち! 多少の危険なんか怖がってたら、科学の発展なんかありえないじゃんかよっ!」

まるで子供の喧嘩をふっかけようとしているかのような岸田を、平坂は呆れながらもたしなめる。

いずれにしても、まだ危険が消えたわけでは無い。

「斑目島本島に帰還する準備を開始する」

「平坂ちゃん! じゃあ!」

「まずはヘリ部隊で状況を確認して、それからだ。 やはり広いスペースを使って研究をする方が効率がよいからな。 ただし、オンカヌシが消滅したとも思えない。 その辺りは、慎重に慎重を重ねる」

黒鵜は何か言いたそうだが、これはできる最大の譲歩だ。

そろそろスポンサーどもも黙らせるのが限界に来始めている。成果を早めに上げないと、騙すのも難しくなるだろう。

平坂は、大きな力を持っている。

だがそれは、人間社会の規範にあくまでも沿ったもの。

限界は、あるのだ。

 

見つけたのは、偶然に等しかった。

雨の中、雛理はジャージ先生を追った。そして、オンカヌシと化したのか、或いはそれに取り込まれたのか分からないが、とにかく完全に化け物となった新田と、ジャージ先生が本気で戦う様子を見た。

既にもはや猟銃と拳銃で介入できる状況では無かった。

やがて、ジャージ先生が。遠目にも、人間を完全に止めたのが分かった。

残像を残しながら機動し、新田の触手を片っ端から引きちぎり、肉の塊である本体に蹴りを拳を叩き込んだ。

その一撃ごとに、雨が衝撃波で吹き飛ばされるほどだった。

地面から、花弁のように生えてきた巨大な肉の塊が、ジャージ先生を包み込もうとしたとき。

爆発が巻き起こった。

とっさに伏せなければ、衝撃波で吹き飛ばされていただろう。

爆発は、軽く半径二百メートル以上を、粉々にしていた。その四倍以上の範囲が、瞬時に熱で焼き尽くされた。

一キロほど離れてみていた雛理も、身を低くしていて、なおかつ大木の影で無ければ、命が無かっただろう。

気がついたときには、不自然なほど空は晴れ渡り、雨も止んでいた。

だが、周囲が黒ずんでいた。

あの雨が幻では無かったと、告げるように、である。

そして、至近。

力を使い果たした先生が、落ちてきた。何度かバウンドして、そして止まる。

普通だったら、それだけでも死んでいる。

だが、意識が無い彼女の心臓は動いていた。呼吸もしていた。

問題は、少し試してみても、意識が戻らないこと。あれだけの非常識な力を使ったのである。

何が起きても、不思議では無かった。

そのまま担いで、一旦引き上げに掛かる。

黒い雨が降り注ぎ続け、泥ゾンビの大軍勢にでも襲われていたら、まず間違いなく詰んでいた。

それを考えれば、犠牲を払いはしたが、新田を退けられたのは大きい。

先生はもう目覚めないかも知れないし、目覚めたところでもとの先生では無いかも知れない。

だが、充分以上の働きはしてくれた。

引き上げる途中で、偵察機を一機、撃ち落とす。

他が来る前に、さっさとその場を離れた。一応、平坂には、気付かれていないはずだ。

背中の先生は、呼吸以外、全く動く気配が無い。

もしも雛理が平坂だったら、この後は全軍を引き連れてこの島に戻る。そうされると、完全に詰みだ。

雛理一人だったらいくらでもゲリラ戦をやれる自信があるが、もう時間が無い行成おじいさんと、いつ目覚めるかわかりもしない先生を抱えたままで、戦える訳もない。二人を見捨てる手もあるが、そうすると、更に戦況が悪化する可能性が高い。

湖を、帰る途中見る。

かなり水位が増えていて、しかも黒ずんでいた。

あれだけ黒い雨が流れ込んだんだから当然であろう。

だが、なにやら嫌な予感がする。更に大きな災厄が近づいているような、そんな印象を受けるのだ。

洞窟に帰還。

最初に出迎えたのは、先生が命を賭けて守った子供達では無い。

アーニャだった。

浮かない顔をしている。

「何かありましたか」

「おじいちゃんが……」

先生を下ろすと、猟銃を手に、奥に。

いない。

泣いている寛子。治郎君は何が起きたのか分からないようで、呆然としていた。

地面に広がっている大量の黒い染み。

だが、溶けて消えたほどでは無い。

「何処かに行きましたか?」

「大量に黒くて恐ろしい何かを吐いて。 それで、外に導かれるように出て行きました」

「……」

嫌な予感がする。

新田は恐らく、分かっていて闇に落ちた。というよりも、もとから精神は闇に染まっていたのだろう。

だが、行成おじいさんは違う。

苦悩の中にいながらも、あの人は人間らしかった。厳しい人ではあったが、それがゆえに、自責も強かったのだろう。

それにしても、この子供達。

先生を横目に、泣いている寛子に言う。

「何か言うことは?」

「……」

「貴方たちを守って、命を賭けて戦った先生が、そんな姿になったのに。 何も言うことは無いんですか?」

答えは無い。

ただ、目の奥におびえだけがあった。

普通の子供の反応は、こんなものだろう。これだけの極限状況におかれて、変わっていく人を見れば、そうなるのも分かる。

だが、それでも、雛理は不快だ。

知っているからかも知れない。民衆など、守る価値も無いことが多いという事を。

「この国は平和で豊かですが。 本当に子供の事だけを考えて、命まで賭ける教師が評価されないんですね」

多分、雛理の怒りを感じ取ったからだろう。

寛子は、更に怯えるばかりだった。

もう良い。

「貴方がまだ先生かどうかは分かりませんが。 たとえ、化け物になってこの子供らを食い殺しても。 私は貴方を見捨てませんよ」

呟くと、奥を調べて。

行成お爺さんが、銃や弾丸を、全て残していた事を見つける。

遺書もあった。

切々と、血を吐くような重いが綴られていた。

特につらそうだったのは、実の娘を撃ち殺したこと。出来が悪くて、ろくでもない性格の娘だったが。それでも、感情を押し殺して撃って、やはりつらかったのだろう。それを促したのは自分だ。遠因になったのも。

だが、雛理に対する恨みは、一言も書かれていなかった。

貴方は立派な戦士だった。

たとえ人外に落ちてしまっても、敬意を表して戦いたい。

そう、雛理は思った。

いずれにしても、稼働可能な戦闘要員がこれで雛理だけになってしまった。状況は非常に悪い。

平坂が動く前に、幾つかやっておかなければならない事がある。

「アーニャさん」

「え……」

所在なげに立ち尽くしているサイコメトリストに呼びかける。

最後の希望は、まだ残っていた。

平坂のキャンプの残骸に行って、彼女を働かせれば、或いは。

まだ、希望が見えてくるかも知れない。

 

分かってはいた。

雨が急に止んだのは、先生がやってくれたのだろう、という事は。

どれだけ変わっても、先生は子供達のために動いてくれていたのだろうという事も。それなのに、ただひたすら怖かった。

先生は、眠ったようになってしまっている。

だが、いつ起きて、襲ってくるか分からない。

先生自身も、言っていたでは無いか。寛子は直接聞いてはいないが、話をしているのを、影で見てしまったのだ。

いざというときには、殺して欲しいという話を。

猟銃を、一つ残していった雛理さん。

あの冷酷な傭兵に糾弾されて、自分がどれだけ身勝手だったかは分かっている。だが、無理だ。

気持ち悪い相手を見たら、キモイと言って嘲笑うのが普通。相手の中身なんて、どうでもいい。文化が違おうが、生活が違おうが、相手が此方をどう思っていようが、知ったことでは無い。

それが都会の普通の人間だと、聞いている。

寛子は其処まで落ちたくないとは思う。だが、それでも。どうしても、生理的に受け付けないのだ。

怖いと思う。

それに変わりは無かった。

たとえ、自分たちを守るために、命を投げ出してくれたのだとしても。

震える手で、猟銃を拾い上げる。

そして、眠っている先生の頭に向けた。

引き金を引けば、きっと先生は死ぬ。そうなれば、もう怖くない。死体は、どうとでも処理できる。

雛理さんが、遠くに出かけていったことを、既に知っている。

多分、しばらくは帰ってこない。

今なら、寛子でも、殺せるのだ。この化け物を。

「だめ!」

震える手で、銃身を掴まれる。

だらだら涙を流しながら、止めようとしているのは治郎だった。

「どいて」

「先生を殺しちゃ駄目!」

「邪魔ぁっ!」

振り払った瞬間、引き金を引いてしまった。

反動がもの凄くて、思わず尻餅をついてしまう。天井に散弾が突き刺さったのか、ぱらぱらと小石が落ちてきた。

先生は、生きている。

呼吸が乱れる。尻が痛いという事なんか、どうでもいい。弾の込め方を、思い出す。大声で泣き出した治郎が、ただひたすらに鬱陶しかった。

「おきちゃう、でしょう! 先にあんたから撃とうか!?」

「うあー! 先生ー!」

「五月蠅い!」

銃身で、治郎を殴りつける。

悲鳴を上げて転がった治郎が、更に大きな声で泣く。

自分だって泣きたい。

でも、化け物を殺して、身を守るのは、今しか無い。怖いのだ。もう、誰も助けを求める相手はいない。

かっては先生がいた。

もう、今は。先生じゃ無い、化け物なのだ。

躊躇していては、殺されてしまう。

だが、手が震えて、それ以上銃を触れなかった。銃身に、治郎の血が一杯ついているから、だろうか。

自分も涙が流れはじめる。

先生、助けて。

殺そうとしたのに。そんなことを考えてしまう。頭を振って恐怖を押し殺そうとしても、どうにもならなかった。

そうだ。

先生は、まだ生きているんだ。そういうことにしよう。

我ながら、よい思いつきだ。

それなら、頼る相手もいる。

勿論、先生はそこに転がっているジャージのじゃない。別にいるのだ。

そう考えれば、ぐっと楽になった。

笑みさえもこぼれてくる。

ふと気付くと、治郎が泣き止んでいた。まるで化け物でも見るかのように、こっちを見ている。

おかしな奴だ。

同じ風に、先生が見えているはずなのに。

 

4、鍵の変転

 

雛理は舌打ちした。

最悪の事態を想定して、行成おじいさんの捜索も先にやっていたのだが。どうやら、湖に入っていったらしいことが分かったからだ。

魚の餌になったのなら、まだいい。

だが、あの黒い雨がたっぷりしみこんだこの湖に入ったのだ。そんな甘い結果がもたらされる訳が無い。

新田だって、死んだかどうかは分からないのである。

それに、雛理だって。

時間は、どれだけ残っているか分からない。あの黒い雨を、散々浴びたのだから。

先生の戦いを見届けるときも、それ以外も。

「お爺さん、ずっと苦しそうだったの……」

「楽にしてくれとは、言いませんでしたか」

「何だか鈍りが酷くて、私には聞き取れなかった……ごめんなさい」

何故か、アーニャは涙を拭っていた。

此奴にとっては関係無い人間の筈なのに、不思議だ。或いは此奴も、足手まといになるような弱い心の持ち主、という事だろうか。

どっちにしても、もう此処からは、行成お爺さんは死んだとして行動するしか無い。

戦場では、多くの人間が死んでいく。

雛理は、たくさんの戦友の死を見とってきた。

だから、気持ちの切り替えは、すぐにできる。たとえ兄弟姉妹がいたとしても、できる自信がある。

それくらいでなければ、生き残れなかったし。逆に言えば、周囲から敬遠されたのも、その徹底した冷酷さが故だ。

「仲良くしていたのに、悲しくないの? 傭兵だから、冷血になれるの?」

「そうですが、何が」

「……」

恨むような目で見られた。勿論筋違いだが、ため息が出る。

だからなんだと言うには、此奴はこれからの重要度が高すぎる。ある程度は、なだめもしなければならないのが面倒だ。

「これ以上の被害を出さないためにも、急ぎます」

「あ、待って!」

多分ロシア正教風の祈りだったのだろう。

湖に、何かしているのが見えた。

好きなようにやらせておく。平坂も、いきなり全軍を出してくるのでは無く、まず偵察に主体を置くだろう。

それも、キャンプがあった場所では無く、先生と新田が戦った辺りを中心に、オンカヌシの脅威を排除する目的で行うはずだ。

逆に言えば、それを終える前に、此方の行動を済ませておかなければならない。

万が一の勝機が、消え失せる前に。

西に急ぐ。

先生のお古の靴を履かせたのだが、アーニャはかなり苦労して歩いていた。やはりサイコメトリーの力だけを買われて、連れてこられたのだろう。手を引いて、急がせる。呼吸の乱れも酷い。

だが、弱音は吐かなかった。

それだけでも、東京辺りにいる高校生よりは、根性が座っている。

「もう少しです。 急いで」

「む、無理だよ……」

「言い間違えました。 急ぎなさい」

恨みがましい目を向けながらも、速度を上げるアーニャ。

多分靴の中はマメだらけだろうが、知ったことでは無い。此奴の必要性は、体が五体満足にある事では無いからだ。

それに、アーニャ自身も理解しているはずだ。

今、自分がどんな状況に置かれているか。

キャンプの跡地に、出る。

信じられないほど、様変わりしていた。更地は既に木で覆い尽くされ、そうで無い場所も緑がまんべんなく覆っている。

破壊されたプレハブは、伸びてきた木々によって千々に散らばり、もとがキャンプだったとは信じられない状況だ。

ヘリポートの類も、全て滅茶苦茶になっている。

一部はコンクリが打たれていたのだが、それも全部下から伸びてきた木々によって破壊し尽くされていた。

フェンスの類も、同じようにして、滅茶苦茶に拉げている。

これは、自然の猛威などと言う次元ではない。

「対人地雷がありますから、気をつけて」

「い、いったい、どうしてこんな偏執的な……」

「先生が脅かしたからですよ」

今になって思えば、あの時点で手札を晒したのは失敗だったかも知れない。

それよりも、完全に誤算だったのは、この凄まじい植物の生長ぶりだ。何が凄まじいと言えば、除草剤などを使っていたはずの地面も、完全に緑で覆われている事だろうか。これは、既に人間が立ち入れる場所ではなくなっているように思える。

少し北上。

カムイが捕らえられていたと思われる場所に移る。

そちらも同じだ。

だが、どうやら敵より早く、到達できた。

「ここら辺にある残留物に、徹底的に触って、サイコメトリーで調べ上げてください」

「そ、それは、どうして……」

「此処は、カムイという存在を研究していたからです。 分かれば、ひょっとすれば、何か得られるものがあるかも」

「……」

頷くと、アーニャも悟ったのだろう。

此処で何か得られなければ、その時点で全てが終わると。

今までのミッションの中でも、最大級にこんなんなこの仕事。既に戦力差は一対一千万というのも生やさしい次元にまで開いている。

脱出の方法についても、かなり厳しい。

仮にヘリを得ることができても。

恐らく、巡回を開始したハリヤーに撃墜されるのが関の山だろう。以前の平坂の軍と新田との戦いを見る限り、敵にはまだ余力がある。ハリヤーを仮にかわせても、対空ミサイルが飛んでくる可能性は低くない。

だが、それでも。

雛理は諦める気が無い。

誰よりも生に貪欲である事は、疑いの無い所だった。

残留物に触って調べていたアーニャが、真っ青になって固まる。続けるように言うと、彼女は口を押さえたまま、作業に戻った。

きっと、ろくでもないものを見たのだろう。

もう、何があっても驚かない。

雛理は戻ったら、どうしようかと考えはじめていた。

 

(続)