溶けゆく現実

 

序、黒い雨の合間に

 

いざというときのために確保していた離島ベースに、平坂は物資、資材、人員とともに避難を終えていた。

ただでさえ狭い離島ベースのエアポートは、大小のヘリでぎっしりである。一機だけ存在しているVTOL機のハリアーが、大変肩身が狭そうに、端っこにいた。不要かと思っていたが、或いは使う機会が出てくるかも知れない。

今回は、北海道での実験の失敗を再現するかと思い、本当に冷や冷やさせられた。ただし、対応が早期に済んだため、損害は無し。物的損害は甚大だが、研究資料の類は全て持ち出すことも出来たし、今の時点では大きなプロジェクト上の損失とはなっていない。それだけが、救いではあった。

人的損害は無かったとは言え、笑ってはいられない。時間という貴重なものをロスしたことに変わりない。

それに何より、あまり好ましくない情報もあった。

オフィスについて、秘書官に事務作業の準備をさせていると、兵士の一人が駆け込んできた。

「ハインドを確認した、だと?」

「はい。 全部で三機。 いずれも今は神林の一角にベースを造り、着陸しています」

「どこの所属だ」

ハインドはロシアで運用されている大型の軍用ヘリで、強力な装甲が売りである。兵士の輸送にも低空からの支援にも使える反面、近年は一世代前の兵器と言う事もあって、流石に旧式化が進んできている。

勿論、ロシアの財政逼迫と軍のモラル低下によって、周辺国に流出を続けており、近年ではテロリストや反政府組織の中で潤沢な資金を持っている連中が所有しているという噂もある。

「現在、確認中です。 戦力差からいって、撃墜は難しくありませんが、如何いたしますか」

「しばらく様子を見る。 敵の兵力は」

「それが……」

ハインドが着地してから、どうも動きが無いと、監視カメラなどからの映像を分析した士官が言う。

ベースを作った後、其処に籠城している雰囲気なのだ。

しかも、どういうわけか、歩哨の姿も見えないという。何とも不気味な状況である。

「そもそも、どうやってこの隔離空間に入ってきた。 情報はスポンサーから漏れたのだろうが……」

「現在、分析中です。 何しろ、どうやらあの黒い雨が降っていたタイミングで侵入してきたようですので」

「……分かった。 厳重に監視を続けろ。 此方に挑発的な行動を取るようなら、その場で即刻撃墜して構わない」

「分かりました」

指示を出し終えると、リクライニングに深く腰掛けて、平坂は嘆息した。

この離島ベースは、実際にはメガフロートの一種である。普段はごく少数の監視だけを置き、いざというときは本島ベースの機能を移転させるために建造した。泥洗の直後に、である。

意味を持ったのは嬉しいが、その一方で、此処を監視していた者達からは、ろくでもない報告ばかり上がってくる。

「黒い雨についてなのですが」

「続けたまえ」

「はい。 どうも海の方では全く見られなかったようなのです。 神林の上空だけで黒い雨は降り注いでいたようでして、他は普通の雨だったそうです」

「……そうか」

やはり訳が分からない。

泥洗は何度かの実験で、ある程度位置と範囲を絞ることが出来るようにはなった。

しかし、この黒い雨は何だ。

或いは、今回の泥洗の際に降り注いでいた黒い雨も、同じ現象だったのだろうか。泥洗とは別の現象としての黒い雨。分析はさせているが、あまりにも不可解なことが多すぎる。自然現象とはとても思えない。

気分転換に、一旦部屋を出る。

メガフロート上にあるプレハブの一室であるからか、とても狭い。ただし、他の兵士達は一部屋に五人も六人も詰め込まれているのだから、まだ環境としてはマシだ。本島の方は、まだ広かったのだが。

黒鵜が、アパッチの操縦者と、何か話をしていた。

歩み寄ると、敬礼してくる。相変わらず、無表情のままで。

「ご報告があります。 神林に群れていた泥人形ですが、既に動きを止めた様子です」

「ふむ、やはりあの黒い雨が原因か」

「分析してみないと何とも言えませんが、これからキャンプの奪還に向かいましょうか」

「一日休憩をおいてかまわない。 三交代で休みに入りたまえ」

兵士達の返事を聞かないまま、平坂はメガフロートの縁まで歩いて行った。

空は嫌みなまでに青く澄み切っている。

熱帯地方になってしまっているこの近辺は、本来ならもっと降水量が多いはずなのだ。いぶかしんでいたら、あの黒い雨の襲来である。

自然が、自分に抵抗しているのか。

それとも、何か超越的な存在が、罰を下そうとしているのか。自然の摂理を、究極的なレベルで踏みにじっている平坂に。

だが、どちらにしても。平坂を止める事は出来ない。

スポンサーからの連絡が来た。

どうやら、しびれを切らしたらしい。現在、大きな事故があったとだけ説明はしてある。そろそろプロジェクトの進捗や、状況について聞きたがっている頃だろう。彼らだって、自らの利権で億を超える金を投資してきているのだから。

面倒だが、対応しないわけにはいかなかった。

 

翌日。

幾つかの作業を終え、一通りスポンサーへの説明をすませるとと、岸田が来た。

研究のためのスペースが小さいと、文句を言ってきたのだ。まだカムイやなり損ないは、殆どが輸送ヘリに積み込んだままだ。

非常に危険な存在であるため、あまり動かすわけにもいかないのだ。しかし、岸田としては、とにかく研究を進めたいらしい。

普段は異常に陽気な岸田が、今日に限っては珍しくいらだちを見せている。この男はすねると面倒だ。

「結局あの子も逃がしちゃったし、このままだと研究が遅れるよ! 早く何とかして、平坂ちゃん!」

「今対策を協議中だ。 それよりも、あの黒い雨の分析は進んでいるのかね」

「うん。 分析はしているけど、何ともよく分からないね、あれ」

驚いたのは、むしろ平坂の方だったかも知れない。

この男は万能とまでは行かないまでも、とても優れた研究手腕の持ち主で、専門外の分野なら巧みに専門の人間を見つけてくる手腕も持っている。

だから、研究をさせてみれば、すぐに何かしらの成果が出てくるのが普通だった。だが、今回、はじめてこんな曖昧な言葉を聞いた。

まず最初に、成分がよく分からないという。

ウィルスや細菌の類は含まれていない。含まれてはいるが、ごく平均的なものしかいないという。

放射能の反応は無し。

危険な物質も、含まれている様子は無い。

炭か何かというような事も無い。とにかく、無い無いづくしだ。

うんざりしたのは、恐らく平坂だけでは無い。岸田も、何だかぬかに釘を刺しているようで、気味が悪いのだと顔に書いていた。

「それは、まるで子供の発表だな」

「怒らないでくれよ。 実際ボクにも、訳が分からないんだ。 ただ、動物実験をして見た感じだと、妙な反応が出てる」

「ほう」

「島に帰りたがるんだ。 斑目島に」

それはよく分からない。

あの黒い水を飲んで、どうして帰巣本能が芽生えるのか。マウス十体で実験したところ、それぞれが全部斑目島の方向に向いて、アクリルケースをひっかき続けたという。中には餌に見向きもせず、アクリルケースに体当たりを続けた個体までいたそうだ。

帰巣本能というものが存在することは、平坂も知っている。鮭などはそれを使って、川に帰ってくる。

だが、強制的に帰巣本能を植え付けているとしたら、その水は一体何だ。

一種の寄生虫の中には、宿主が死にやすくなる行動を取らせるものがいると、聞いたことがある。

だが、細菌やウィルスさえ検出されないというのだ。

線虫やら寄生虫やらでは、平坂の検査をくぐり抜けることは不可能だろう。この男は興味を持った物事には、徹底的なまでに偏執的になるからだ。

「マウスだけじゃ無くて、爬虫類や魚類でも同じ反応が出るんだよ。 まったく、こんな物質は初めて見る。 とにかく、何が起きるか分からないから、少しでも浴びた人には念入りにシャワーを浴びさせてね。 ボクもこれから一風呂浴びて、汗を流してくるよ」

「好きにしたまえ」

岸田の弛みきった肉体がゆさゆさ揺れながら消えると、黒鵜が代わりに現れる。

不機嫌そうな四角い男は、まるで岸田と好対照の引き締まった肉体をしている。用途も完全に逆方向だ。

黒鵜が来た理由は、分かっている。

平坂が、研究の続行を正式に表明したからだ。兵士達の間にも、不安の声が広がっていると、秘書官から報告は受けていた。

「まだ、このような不毛な研究を続けるのですか」

「カムイの可能性を、何度も君には話したはずだが」

「危険すぎると、その度に答えているはずです」

黒鵜は、今回の件で、下手するとキャンプが全滅するところだった事を、怒っているらしい。しきりに怒声を放っていると、部下から報告も上がっている。ただし、黒鵜は必要な人材だ。

それは、誰もが認めている。

今のところ、平坂の周囲に、佞臣の類はいない。黒鵜が直言してくるのは、会話が出来ると判断しているからだ。

コミュニケーションに関しては、どう思っているかは分からないが。

「カムイは、今までどんな家畜も出来なかった事を、実現しうる可能性を持っているのだよ。 君も見ているはずだ。 貴金属を海水から濾過したり、石油を精製したりするカムイのすばらしさを」

「同時に、制御不能の怪物でもあります。 それに何より、私が懸念しているのは、この間の黒い雨が、カムイとは全く関係ない、別のおぞましい怪物では無いか、という事なのです」

それは平坂も懸念していることだ。

正直な話、今はハインドに乗って突如現れた第三勢力の見極めだけでかなり手一杯なのだ。

ここで更に勢力が増えるとなると、かなり面倒な事になる。

一世代前の戦闘ヘリであるハインドくらい、アパッチの敵では無いと、軍の人間は言うかも知れない。実際問題、勝負にならないだろう。

ただしそれは、見かけ通りの性能だった場合、だ。

第三国ではまだハインドは現役で使われており、近代化改修が為されている場合も多い。下手にとんでもない新鋭装備が追加されているハインドを侮って掛かれば、どんな手痛い目にあうか、分からないのだ。

「今、私が考えている事の真相は、三つ」

「うかがいましょう」

「一つは、この間の黒い雨は、泥洗の副作用だと言う事。 実際泥洗の時にも、相当な量の黒い雨が観測されている。 つまりこれは、カムイに関連する力、とする説だ」

続けて、二番目の説に入る。

黒鵜はこういうとき、とても静かに話を聞いてくれる。途中でギャアギャア騒いで会話を遮るような阿呆とは違うので、話しやすい。

黒鵜自身は、「コミュニケーション」を大変煩わしく思っているようだが。

「次の説は、強力なカムイが黒い雨を起こしている、というもの。 実際謎の泥人形が、三万という大軍勢でキャンプを襲撃してきた。 しかしこの説では、泥洗の時に、黒い雨が降ったことに説明がつかない。 あの時には影人ばかりで、なり損ないにさえなっていなかったはずだ」

「私も、その説は可能性が低いと思います」

「最後は、何かしらの強力な存在。 そうだな、斑目島の伝承に沿って、オンカヌシと名付けようか。 このオンカヌシが、ふらせた黒い雨が、無数の泥人形を作り出し、キャンプを襲ったという説だ」

荒唐無稽だが、実は裏付ける内容がある。

オンカヌシという強力な何者かがいるとする。そのものは、島を守ろうとしているとする。

だとすれば、一番邪魔な存在は何だろう。

言うまでも無く、平坂だ。

「ふむ……なるほど」

「もしそうならば、ハインドを使って侵入してきた連中にも、オンカヌシは牙を剥く可能性が高い。 しばらくはこの離島で様子を見て、再び神林に再侵攻を掛けるべきだと、私は思うのだがね」

「オカルトに傾倒しすぎた説だとは思いますが。 しかし、黒い雨を何かしらの装置で造り出していたり、カムイを何らかの方法で操作している人間がいたりという可能性を考えれば、あながち無視も出来ませんな」

「そういうことだ。 しばらくは、君もこの離島を守る事に全力を尽くして欲しい」

研究を一時中断して、現時点の成果だけでも持ち帰るわけにはいかないのか。

黒鵜がそう言うが、首を横に振る。

まだ、それでは駄目だ。

平坂の計画は、達成できない。今回はそれなりの成果を上げることが出来たが、この程度では貪欲なスポンサー達を三度動かすには至らないだろう。

引けば負けなのだ。

スポンサー共を黙らせるためには、もう少し研究のフェイズを進めて、より分かり易く強欲な人間でも納得する成果を作り出さなければならない。

黒鵜が大きくため息をつくと、オフィスを出て行った。

奴は得がたい部下だ。だが、同時に使いにくくもある。

だが、使いにくい部下を使いこなしてこそ、度量を示せるというものだ。

 

1、晴耕雨読だけが願い

 

もはや、水さえも信用できない。

それだけではない。食べ物だって、そのまま食べたら、どうなるか分からない。

いつ、どこから軍隊が現れて、撃ってくるか知れない。

学者さんがハインドというヘリに乗って行ってしまったとき。敦布は、それを思い知らされたのだった。

もうこの島に、安全な場所なんて、一つも無いのだ。

「先生、良いですか?」

「……何?」

感情は、それでも動かない。

子供達を余計に怖がらせると分かっていても、である。

夢に見る。

化け物になって、子供達を食べてしまう夢。引きちぎったり食いちぎったり。食べてしまう子供達の中には、治郎君のお兄ちゃんも混じっていた。

自分がどんな怪物になっても不思議では無い。

この島がおかしくなってから見た怪物は。どれも、想像を絶する化け物だった。

「此方に。 話があります」

「あの平坂さんが放棄したキャンプを探りに行くの?」

「……」

雛理さんが頷く。

確かにあの後、多数の泥ゾンビがキャンプを襲撃したとみて良いだろう。徹底的に破壊したとも。

しかし、その後はどうなっただろう。

書類などが、無事で残っているとは思えない。

むしろ、キャンプで待ち伏せして、来た軍人さんを捕縛して話を聞いた方が早そうな気がする。

子供達は、無言で鍋に水をいれて、蒸留を続けている。

もはや、川で体を洗うのさえ危ない。

そう告げられれば、恐怖でもう身動きも取れなくなって当然だ。寛子ちゃんは中学生になったばかりだし、治郎君は小学生低学年だ。

なんで、こんな子供達が。こんな悲惨な目に。

子供達を横目に、だが。

とんでもなく、敦布の心は冷静だった。冷え切っていると言っても良い。もう。敦布は精神的な面で、既に人間では無かったかも知れない。

「具体的には、どうするの?」

「まず、使えそうなものがないか探します。 対人地雷や自動迎撃装置がまだ残っているかも知れませんから、気をつけないといけませんが」

「弾だけでも、得られれば違う?」

「そうです。 それに……」

雛理さんが、学者さんが消えた方を見た。

西。

あのキャンプの位置から考えて、多分島の西の端くらいだろう。それは、敦布にも分かる。

「むしろ今は、平坂よりもハインドに乗って来た人達を探った方が、得るものが大きいかも知れません」

「あっちの方が、武装も低レベルだから?」

「それもありますし、何より来たばかりで人数も体勢も整っていないはずです。 何より、平坂が黙っているとは思えませんから、そちらに対する備えで手一杯でしょうね」

しばらく話していると、寛子ちゃんのおじいちゃんが来た。

話し相手がいなくなってしまって、かなり寂しそうにしていると思ったが。それでも毎朝早くに出かけては、兎や鹿を取ってくる。

ただし、もうそれも食べない方が良いかもしれないと、雛理さんは言っていたが。

「話は済んだか?」

「ええ。 これから、まず島の真ん中にある平坂のキャンプを探って、それから更に西に行きます」

「ハインドだったか、あのでかいヘリの連中を探るのか」

「そうなりますね」

まだ、寛子ちゃんのおじいちゃんは、頭脳も明晰だ。

だが、敦布は知っている。

この人は、少しずつ、壊れはじめている。口数も少なくなってきたし、感情も薄くなってきている。

この傾向は、知っている。

敦布と同じだ。

壊れてしまう時が、近いのかも知れない。そうなったら、人間のままで、いつまでいられるのだろう。

「子供達の世話は、しておいてやる」

「お願いします」

「なあ、鹿の肉、喰っても良いか。 生じゃあくわねえよ」

不意に、おじいちゃんがそんなことを言う。

一瞬意味が分からなかった。

雛理さんが、さんざん止めろと言っていたことだ。レーションばかりを、皆で食べていた。鹿や兎の肉は、最小限にしていた。

生物濃縮が、本格的に怖くなってきたからだ。

同じ理由で、野草も最近は殆ど口に入れていない。子供達に食べさせるなんて、もってのほかだと、雛理さんは言っていた。

行ってしまう前に、学者さんも。それには同意していた。

「口が寂しくてな。 肉が喰いてえよ」

「……」

眉根を、雛理さんが下げる。

きっとこの人は、逃げ延びたメンツの中で、唯一寛子ちゃんのおじいちゃんを、戦士として認めて、対等に接していたのだろう。

だが、それが。今。

崩れてしまった。

女は横の関係だと、敦布だって知っている。今、横の関係が、完全に崩れてしまった。まさか、この鉄のようなおじいちゃんが、壊れはじめているとは思えなかったのだろう。はじめて、雛理さんが動揺するのを、敦布は見たかも知れない。

「俺は、もう多分、助からん。 子供達には喰わせねえから、いいか?」

「……」

天を仰ぐ雛理さん。

敦布は、止めようとして、止めた。

この自制が服を着ているような、プロのまたぎとしても通用するようなおじいちゃんが。こんな弱音を吐くのに、どれだけの葛藤があっただろう。

訳の分からない化け物になってしまう恐怖よりも、孤独と寂しさが上回ってしまったのだ。

「分かりました。 好きなだけ、どうぞ」

「そうか……すまねえな」

或いは。

実の娘を撃ち殺したことが、今頃になって心にひびを入れたのだろうか。あり得ないとは、言い切れない。

雛理さんは、敦布に顔を見せず、行こうと言った。

皆の心に、ひびが入り始めている。何もかもが、壊れはじめている。

 

まだ雨粒が木々に残っている密林の中を走る。

地面はしっとりと濡れていて、少し勢いよく走ると、水滴が跳ね上がる事も珍しくなかった。

木の幹に密生しているこけは、とても元気そうだ。

彼方此方には、雷にやられたのか、倒木も見える。

だが、倒木があった周囲では、勢いよく木の芽が出て、空へ空へと伸びている。

たとえ訳が分からない水でも、水は水。植物はたくましい。勿論異常な発育を遂げてしまう木も出るのだろうが、それも別の木の肥やしとなるのだ。

今は、木の枝の上を走る必要も無い。

川の流れが、だいぶ変わってしまっていた。さらさらと流れる小川に、何度か遭遇する。これが、あの大雨の日、囂々と流れる濁流だったと思うと、不思議だ。かってだったら、末恐ろしく感じたのだろうか。

筋力は上がる一方だ。

見かけ、筋肉がついている訳では無い。だが今なら、こぶしで木を砕く自信がある。体は若い頃から鍛えてはいるが、だからこそ分かる。別次元の力が宿っていると。

かっては、雛理さんについていくのが精一杯だった。

今は違う。

雛理さんに合わせて、速度を調整していた。

勿論雛理さんは銃火器のエキスパートだし、戦って勝てるとは思わない。だが、身体能力だけなら。今、敦布は、雛理さんを遙かに凌いでいた。

「もうすぐです。 少し速度を落として」

「うん」

見ると、所々にワイヤーがある。

ワイヤーそのもので切るのでは無くて、ブービートラップの起点だという。恐らく、平坂さんの部下が仕掛けたものが、残っているのだろう。

雨露に濡れるワイヤーは、まるで蜘蛛の糸みたいで美しい。勿論下手に触れば、すぱっと行ってしまうだろうが。

走りながら、見極める。

ワイヤーは、本命の罠を隠すために見せているものが、殆どのようだ。たとえば落ち葉の中や、触れそうな木の幹など。

敦布は、もう引っかからない。

かってだったら、雛理さんが行く後ろを、こわごわついていくだけだっただろうが。

ほどなく、キャンプについた。

完全に其処は、雨の日に来たときとは、様変わりしていた。

これほど徹底的な蹂躙は、見たことが無い。

辺りは泥だらけ。否、乾きつつある土の塊だらけ、というべきだろう。鉄条網も引き下ろされ、辺りには爆発した後だらけ。対人地雷を、泥ゾンビが踏んだのだろう。だが、数万に達するだろう数だったのだ。とても殺しきれない。

中の建物も、滅茶苦茶に壊されている様子だ。

これなら、雛理さんが止めるのも無理は無い。たとえ襲われなくても、何が起きたか、分からないからだ。

プレハブの建物は、そのまま引きずり倒されていた。

息を呑むほどの、偏執的な破壊の跡。

あのゾンビ達に、感情があるとは思えなかったが、今は違う。感じるのだ。凄まじいまでの、憎悪を。

破壊の跡には、そのまま血を吐くような怒りが籠もっている。

一体泥ゾンビ達は、何者だったのだろう。

雛理さんが見せてくれる。どうやら自動迎撃装置の残骸らしい。銃火器はねじ曲げられ、押し潰されていた。

凄まじいパワーだ。ゾンビ映画でも、動く死体達は人間離れした力を発揮することが多かったが。あの泥ゾンビ達も、例外では無かったらしい。

子供達が襲われていたらと思うと、ぞっとする。

雛理さんから離れて、プレハブの残骸を探る。調べていると、机や椅子の残骸は出てくるが、やはり書類の類は見つからない。割れた硝子が散乱しているが、今では手を切ることは無さそうだ。というのも、身体制御が以前とは全く違う次元なので、うっかり手を切るという事がそもそもあり得ない。

押し潰されていた机は、端から引き裂かれた跡もあった。引き裂いた後、更に押し潰したらしい。

机に対してさえ、焼けただれるほどの憎悪がぶつけられている。

人間なんか、粉みじんにしてしまったのでは無いのか。あのゾンビ達は。

監視をしていた塔らしいものの残骸もあった。引きずり倒されて、スピーカーらしいものが半ば泥に埋まっている。

泥は真っ黒。

草が生えていないこともあって、その異様さは際立っていた。

「先生、こっちです」

呼ばれて、雛理さんの方へ行く。

水たまりが出来ていた。とはいっても、コールタールのように、どす黒く濁っていたが。気味が悪いほど、酷い匂いが漂っている。更に、ぼこぼこと、泡立ってさえいた。

歩み寄ると、熱量を帯びていることが分かる。

「火を付けたら、燃えそうだね」

「……やめておきましょう」

これは多分、あの泥ゾンビ達の成れの果てだ。いや、本当にそうなのだろうか。ひょっとして、平坂さんが来たら、また人型になって暴れはじめるかも知れない。そんなはずは無いのにと、言い切れない。

「一度離れましょう」

西に行くと、雛理さんは言う。

此処までは、予定通りだ。実際問題、此処で得られる物はないだろうと、最初から思っていた。

考えて見れば、豪雨の中、雛理さんが主張したことは正しかったのだ。

この破壊の跡を見れば、中に入ることがどれだけ無謀だったか、よく分かる。今の敦布でも、生きては出られなかったに違いない。

ゾンビだと思っていたが、むしろ暴徒に近かったのだろう。

だが、何に対しての暴動なのか。それが、分からなかった。

再び、森の中を走る。

二度、少し大きめの川を越えた。川の中には魚が現れ始めていた。以前は殆ど見かけなかったのに。

中には、一メートル近い大きな魚もいるようだった。

この様子だと、森の中に、大きな動物も姿を見せるかも知れない。しかし、それは迷惑だ。

寛子ちゃんのおじいちゃんがいるとしても、子供達が事故に遭うかも知れない。

肉食獣じゃ無ければ平気だなどという理屈は通用しないという事は、皮肉にも学者さんが教えてくれた。

むしろ、パワーは草食獣の方がある事が多いのだとか。確かに、現在間違いなく地上最強の動物であるアフリカ象は、草食動物だ。ライオンなんか、単独で言えば最大の激戦地であるアフリカでカウントした場合、十番に入るかどうかだという話である。

また、草食動物は気性が穏やかだと言われれば、それも嘘だそうだ。

カバなどは凶暴で縄張り意識が強いし、アフリカ象も非常に気が短い。おとなしい動物もいるにはいるが、それは例外だ。

そういった動物が森に現れ始めたら、怖くて子供なんか暮らさせられない。

「この森って、一体何なんだろう」

「そもそも、鹿や猪がいる時点でおかしいんです。 これから肉食恐竜が姿を見せても、私は驚きませんよ」

「それはそうだけれど。 カムイって言うのが、関係しているのかな」

「おそらくは。 これだけ非人道的な実験をするだけの価値がある存在、という事なんでしょう。 しかもこの戦力を動員できるという事は、相当な大口スポンサーが複数ついています」

強力な利権が、背後にあるという事だ。

雛理さんはそう締めくくった。

川を越えると、少し休憩する。雛理さんが肩で息をついているのに気付いたからだ。彼女も相当無理をして飛ばしていたらしい。

疲労する普通の人間だと言う事は、少し前から知っていたが。それを直に見るのは、初めてだった。

レーションを開けて、食べる。

チョコレートを口に入れるが、美味しいとは全く感じなかった。味覚までおかしくなりつつあるらしい。

だが、それくらいは今更だ。

「三十分ほど休憩します。 見張りは任せても良いですか?」

「うん。 分かった」

木に登ると、枝に上がる。

遠くまで見回すが、動物が少しいるくらいだ。しかしおかしいのは、その動物の存在密度が、明らかに前より上がっていることである。

寛子ちゃんのおじいちゃんが、簡単に鹿や猪を捕っているわけではない事は知っていたが、それでもこの数は。

しかも、それで森が痛んでいる様子が無い。

草食動物が多くなりすぎれば、ふつう森は痛む。動物のバランスが、何処かでおかしいと感じた。

だが、それを敢えて言う事もないだろう。

本当だったら、これだけの距離を走ったら、筋肉がかなり乳酸まみれになってしまっている筈なのだが。

疲弊は全く感じない。

「そろそろ行きましょう」

声を掛けられたので、そのまま飛び降りる。

この辺りにはトラップはおろか、監視カメラも無い。地面も黒ずんだ泥が深いので、クッションとしては充分だ。

再び、走り始める。

雛理さんの適性速度は分かったので、それにあわせる。一時間ほど森の中を走っていると、雛理さんが言う。

「この辺りを起点に探しましょう。 二手に分かれて、見つけたら合流という形で」

「分かった。 でも、戻ってこれる?」

「問題ありません。 良いですか、単独では絶対に仕掛けないようにしてください。 敵は平坂と同じくプロとみて良いです。 身体能力だけでは、勝てないと思った方がよろしいかと」

それは分かっている。

学者さんが消えたときの手際を見る限り、その道のプロだろうことは、嫌でも思い知らされる。

念のため、木に傷を付けておく。

そして、そのまま、雛理さんは北に行った。敦布は南へ向かう。此処からは、一人だから、誰も気にしなくていい。

走る速度を上げる。

森の中だというのに、多分100メートルを軽く8秒切っている。これなら、本気で走ったら、5秒も軽いだろう。

走るだけでは無く、時々木の上に上がって、周囲を確認。勿論、見られていないか、気を配りながら。

今の敦布には、それが出来る。

野生の猛獣には、普通に出来るだろう事だ。人間には、普通だったら出来ないことだ。

そういえば。

子供達のためにも、猛獣はいない方が良いと思ったのに。自分が猛獣になってしまっている。

何という皮肉だろう。

だが、乾いた笑いさえ、漏れなかった。

三十分ほど探し回って、成果は残念ながら無し。一度戻る。雛理さんは、少し遅れて、合流場所に戻ってきた。

「一筋縄ではいきませんね。 もう少し西に足を運びましょう」

「子供達、大丈夫かな」

「行成おじいさんに任せましょう」

それが心配なのだ。

寛子ちゃんのおじいちゃんは、精神のバランスを欠きはじめている。考えて見れば、無理も無い事なのだ。

だが、留守番を守るのに、他に適任はいない。

あらゆる意味で、時間は無い。

それに、これは勘ぐりだろうと自分でも思ってしまうのだが。

まさか、雛理さんは、足手まといを切り捨てるために、敢えて悪手を打ったのでは無いのだろうか。

そんなはずは無いと、今は思考を切る。

「夜までには帰りたいね」

「……そうですね」

「うん? 何かおかしなこと言った?」

「今の先生だったら、夜でも平気なのでは」

言われて見れば、そうだ。

夜目が利くとか、そう言う次元では無く、暗闇でも以前とは別物によく見えるようになっている。

だが、それは敦布の話だ。夜までに帰りたいのは、子供達が心配だから、である。

「今はそれは関係無いよ。 学者さんを探そう」

話を切ると、西に走り出す。

雛理さんは、無言でついてきた。

 

衝立のような岩山が立ちふさがる。

土の粒子の問題か、或いは栄養が全く無いのか。岩壁には、雑草一つ生えていなかった。森の、西の端に来てしまったのだ。

これで図らずも、この巨大な森を東西に縦断してしまった事になる。もっとも、東の端はまだ見ていないし、踏破にはほど遠いが。

もっとも、元々十五キロ程度の広さだと雛理さんが当たりを付けていたのだ。それが正しければ、一日で隅から隅まで行ける距離である。とても広く感じていたのは、恐ろしい存在が多数いたから、だろう。

勿論その中には人間も含まれている。

「どうしようか」

「南北に二手に分かれて、探索しながら皆の所に戻りましょう。 もしも敵の居場所を見つけても、手を出しては駄目ですよ」

「分かった。 それが良さそうだね」

通信手段が無い事が、こういうときは痛い。

既に確認しているのだが、携帯電話の電波はとうに届かなくなっている。照明弾の類を使うにもそもそもものが無いし、一旦手分けした場合は、合流後に話をするしかない。不便だが、仕方が無い。

北に雛理さんが行くのを見届けてから、岩山に沿って南下する。

時々木に登って周囲を見回すが、ヘリは飛んでいないし、基地の類は無い。泥ゾンビも、あれだけいたのに、見かけることは無かった。

そういえば、雛理さんとは敢えて話さなかったのだが。

平坂さんのキャンプを壊した後、泥ゾンビ達はどこに行ったのだろう。成れの果てらしいものはみた。

だが、万を超えただろう泥ゾンビが、あんな程度の分量で済むはずが無い。あの後泥ゾンビ達がどうなったのか気になる。子供達が遭遇してしまったら、ただではすまないだろうから。

岩山自体に上れないかも、試してみる。

上れることは、上れる。衝立のように険しいし、とても高いから、途中で止めた。というのも、狙われたらおしまいだからだ。雛理さんが言っていた、一キロ先からでも狙撃できるという軍用ライフルでも持ち出されたら、一発である。

もしやるなら、夜だ。

今の時点では、やる意味も無いのだが。

途中で、大きな湖に遭遇した。

水はとてつもなく澄んでいる。深さは百メートルを軽く超えているだろう。真ん中辺りに、巨大な黒ずみがある。黒い雨の名残かと思ったが、違う。其処に穴が空いていて、水が流れ込んでいるのだ。

ダムの水抜き穴を写真で見た事があるが、近いものがある。下手に恐ろしいほどに水が澄んでいることもあって、怖さも倍増である。

魚は。見たところ、殆どいない。

見ると、かなり流れが速いようだ。これでは住みようが無いだろう。浅瀬の方には、小さいのがいるが、それだけだ。

川が何カ所からか、この湖に流れ込んでいる。

見ると、倒木も幾らか沈んでいるようだ。この間の大雨で倒れた木などが、押し流されて来たのだろう。

川はいずれもが小さくてせせらぎが心地よい。

だが大雨の時には、凶暴な存在に変貌することは、言うまでも無く分かる。

歩いて川を越える。どの川も、腰くらいまで深さがあったが、いずれも流れは緩やかで越えるのに問題は無かった。

ただ、水温がとても低い。

熱帯雨林そのものの周囲と比べて、凍るようだ。

ギャップが、此処が異様な現実世界なのだと、再認識させてくれる。おぞましい怪物達がこの水を飲んでいるかと思うと。

ぞっとはしないが。子供達が心配だった。

急いで、湖の縁を通って、東へ。

雛理さんは、今頃どうしているのだろう。ハインドというヘリは、どこまで行っても見かけることが無かった。

やがて、島の東端らしい場所についてしまった。

木に上がって位置を確認。どう戻れば良いか、大体の方角はそれで見当がつく。

本当に、学者さんはどこに行ってしまったのだろう。

問いに答えるものは、どこにもいなかった。

結局、戻ってきてしまう。

雛理さんは、先に戻っていた。

地図を広げて、寛子ちゃんのおじいちゃんと何か話している。敦布に気付くと、無言で頷いた。

「見つけましたか?」

「ううん。 いなかった」

「そうなると、この辺りに潜んでいるとみた方が良さそうですね」

雛理さんがぐるりと指を動かして囲んだのは。なんと、この密林では無く、元の島の辺り。

それも、村長さんの家があった地点だった。

確かに、密林を切り開いて基地を作るよりも、その方が遙かに安上がりだ。ヘリコプターは、きっとそれなりに広い場所が必要になる。今は誰も住んでいないし、木もそれほど生えていない場所なら、手軽に着陸できるだろう。

「転々と移動している可能性は。 新田の爺が余計な入れ知恵をしているかも知れんぞ」

「あり得ますね。 ただし、平坂の組織に比べて小規模のようですし、其処までの資金があるかどうか」

「密林の木なら、切ってもすぐに生えてきそうだしね」

「それが問題です。 近くに行かないと、痕跡は発見できないでしょう」

一体何のために密林を走り回っているのか、時々分からなくなる。それから、幾つか話をした後、休憩に入った。

もう夕方近い。

時間は、刻一刻となくなっていく。

籠城されたら、アウトだ。どうにかして見つけないとまずい。

 

夜中になってから、雛理は一人、皆の所を離れた。無言で夜の森を行く。北上し、研究所の南の崖を上がり始める。

背後に視線。

雛理さんだ。結構本気で走ったのに、どうやってついてきたのか。

それとも、或いは。最初から、この行動を予想していたのかも知れない。

「一人で行くつもりですか」

「偵察するだけだから。 雛理さんは、みんなの所にいてあげて」

「本当に、偵察するだけですか?」

「……本当だよ」

どんどん身体能力が上がっているとは言え、まだ軍隊と戦うのは無謀すぎる。不意を突いたとしても、危ないだろう。

一人で仕掛ける気は無い。

ただし、好機があった場合、見逃すつもりもなかった。

「私も行きます」

「夜だけど、大丈夫?」

「平気です。 むしろ夜間戦闘は得意なので」

ロープはまだ残っていた。

二人で、黙々と崖を上がり続けた。

月が、嫌みなほど丸い。それに気のせいで無ければ、かなり大きい。明かりも非常に強く、木々の下で無ければ、歩くのに支障が無いほどだ。勿論、崖を上がるのにも、支障は無い。

狙撃手に狙われると厄介だと、雛理さんが呟いた。

無言で、登る速度を上げる。

崖の上まで、以前とは比較にならない速さで登り切った。雛理さんもそれほど遅れずについてくる。

この人、意外に意地っ張りなのかも知れない。呼吸を整えながら、雛理さんがチハの上に上がって、手をかざす。だが、其処では高さが足りないらしく、舌打ちしてすぐに飛び降りていた。戦車の上に仁王立ちする姿は、妙に格好が良かったが。

「この辺りは、殆ど変わりませんね」

「下の森が毎日変化しているのに比べると、全く変わっていないね。 どうしてなんだろう」

「前に立てこもっていた辺りまで行きましょう。 あの辺りなら、木に登れば、周囲が見渡せるはず」

反対する理由も無い。

ふと、後方を見て、ぞっとした。

夜の中で浮かび上がってくる森は、あれだけの大雨の後だというのに、殆ど欠けること無く、密生という言葉が相応しい状況だったからだ。

熱帯雨林では、日光を奪って争うように木が発育しているという話は、学者さんに聞かされた。

だが、これは少し異常すぎるかも知れない。

大雨の中、小川が濁流になり、雷で木々がへし折られるのを、敦布は何度も見た。相当な大破壊が広範囲で行われたという事である。

そもそも熱帯雨林は土壌が貧弱で、極端な水の害には強くないという話も聞いているのに。

あれは、或いは熱帯雨林では無いのかも知れない。

生態系がおかしいという話も聞いているし、不気味さは増すばかりだった。

頭を何度か振って、雑念を追い払う。

夜の闇の中、いつどこから敵が現れるか分からない。

崖の上の森は、以前の戦闘の痕が、生々しく残っている。この間、シャワーを使いに来たときも見たのだが、こうしてみると新鮮だ。

そして此方は、敵の勢力圏下にある。

ある一点から、雛理さんが全く喋らなくなった。敦布も、それに習うことにした。

小高い丘に出る。

以前、影のような怪物達が大集合していた場所だ。星明かりの下、身を低くして歩く。だが、敵に見つかる心配は無かった。

「どうやら、此方で良かったようですね。 ……様子がおかしいですが」

不時着したヘリがいる。

既に滅茶苦茶に破壊されていた。あのとき見た、ハインドというヘリに間違いなかった。ただし、一機だけである。

それに、おかしな事がある。

近づいて、中を見てみる。

どう見ても、兵器で壊されたのでは無い。滅茶苦茶な力で、引きちぎられたのが目に見えていた。

巨大な装甲ヘリを、引きちぎるほどのパワー。

一瞬怪物達の事が頭に浮かんだ。実際それ以外にはあり得ないだろう。

コックピットには、腐乱死体。

見た感じ、日本人では無い。堀が深い顔立ちで、目は青。かっと目を剥いた死体は、腰から下が存在しなかった。シートからぶら下がる腸が、強烈な腐臭を立てている。

ただし、これだけの腐臭にもかかわらず、蠅は全く飛んでいない。この島に、蠅はやはりいないのだと見て良いだろう。

「スラブ系ですね。 まあ、ハインドを使っている時点で想定は出来ましたが」

「スラブ? 何?」

「何でもありません。 死体が少ないですね。 こんな状態で、此処まで操縦できるとは思えないですし、この死体を作ったものが近くにいるとみて良いでしょう」

緊張が一気に高まる。

だが、周囲に足跡の類は無い。

問題は、こんな作戦を実施した人達が、一機で来ているとは思えないという事だ。

他のヘリはどうしたのだろう。

「此処からは、互いの視界をカバーしながら行きましょう」

雛理さんの言葉に、また反対する理由も余地も無かった。星明かりが、まぶしいくらいに降り注ぐ中。

敦布は、かって斑目島だった辺りを歩く。

学校のあった辺りは、完全に野原になっていた。木に上がって、辺りを見回していた雛理さんが、手招きする。

見つけたのか。

まあ、これだけ開けていれば、無理も無い。

ただし、見つけたのは、学者さん達では無かった。どうやら剥落したヘリの一部らしい。やはり、もの凄い力で引きちぎったらしく、不自然に拉げていた。

敦布が持ち上げてみるが、死体は落ちていない。

「何らかのトラブルが生じて、飛び立って逃げた、と見て良いでしょう。 そして力尽きて、彼処に墜落。 ただし、爆発炎上はしなかった。 パイロットは脱出しようとして殺された」

「学者さんが、やったのかな」

「分かりませんが、ハインドは元々兵士を輸送する意図もあって、戦闘能力と生存能力を重視されたヘリです。 それをこう滅茶苦茶にするとなると……」

さっきの残骸を発見した地点と、今の場所を線で結ぶ。

自然と、目が向いたのは。

島の北西。

研究所の北の方にある、まだ足を踏み入れていない森だった。

もはや、この島に、安寧な場所などない。

晴耕雨読という言葉が、まばゆく思えて仕方が無い。

 

2、第三勢力の図

 

森の中。

偽装するようにして、ヘリが数機止まっていた。目立つのは、とても大きなハインド。二機いる。

そのほかに、よくわからないちいさなヘリが三機、いや奥にもう一機いるから、四機か。いずれもが、動いている形跡は無かった。雛理さんに名前は教えてもらったが、どれも違うヘリのようで、とても覚えられなかった。

ただ、東側のヘリであるらしい。

内部で、動くものは存在していない。鉄条網のような露骨な区切りは無いのだが、明確な此処より先に踏み込むと危ない、というようなラインはある。木の陰に隠れて、向こうをうかがうと、妙なことに幾つも気付く。

まず、建物らしいものがない。

休憩施設なら、兵隊さんたちが休むための宿舎みたいなものが必要なはずだ。実際、平坂さんのキャンプには、それが存在していた。

そもそも、だ。人の気配が、極めて小さい。

あるにはある。あれだけのヘリを動かしているのだから、あるのは当然だ。だが、それにしては数も少ないし、どうも気配が小さくておかしいのだ。

敦布は、学者さんの気配と、それ以外の幾つかの気配を、偽装された基地らしき場所の中に感じ取っていた。

周囲は対人地雷とトラップの巣だと、雛理さんが告げてくる。

迂闊には近づけない。木の上もそれは同じだという。学者さんが敵にいるのなら、此方の手口は知り尽くしているだろうから、当然だ。

しばらく、周りを見て廻る。

どの方角から見ても、気付く気配が一つだけある。それは、ついさっき、いなくなったばかりの人。

「学者さん、いる。 でも、凄く気配が強くなってる」

「気配が強くなる?」

「うん。 怪物とは違うんだけど、何だかびりびりくるの」

嘘は言っていない。

学者さんの気配は、最初そうだと分からなかった。

怪物に近い。少し違うのだが、以前見た二体と、非常に似通って感じるのだ。そして雛理さんには言っていないが、一つ合致する気配がある。

泥ゾンビ達だ。彼らは、何というか。人間のような、それとは違うような、独特の気配が確かにあった。

或いは、この周辺に潜んでいるのかも知れない。

そうだとしても、おかしくないと言えた。

「突入は、止めた方が良さそうだね」

「トラップが多すぎて、把握しきれません。 それにこの様子では、突入したところで、どうやって取り押さえればいいのか」

珍しく雛理さんが泣き言だ。

そもそも、どこに兵士が隠れているか、それが分からない、というのだ。

敦布だって、それは同じである。

一見すると、森の中に、雑然と数機のヘリが配置されている、それくらいにしか見えないのだ。

人影は存在しないし、ヘリの中にも一見して誰かがいるようには思えない。

しかし、気配はあるし、周囲はトラップの山。

これでは、歴戦の傭兵である雛理さんが、さじを投げるのも無理は無い。こんな状況、どんな紛争地帯にも無かっただろう。

平坂さんも、どこに行ったのか分からない。

いずれにしても、時間が無い。焦りだけがこのままでは蓄積してしまう。

それにしても痛恨だったのは、学者さんが裏工作をしているのに、気付かなかったという事だ。

或いは、子供達を助ける方法を、何か知っていたのかも知れない。

「しばらく様子を見ましょう。 恐らく、彼らの存在は平坂も掴んでいるはずです。 此処で張っていれば、或いは平坂が何かアクションを起こすかも」

「うん。 それにしてもどうして、逃げ出した人が出たんだろう」

「……何故、でしょうね」

下半身を食いちぎられて死んでいた人は、何も身を証明するようなものを持っていなかった。

埋葬はした。

だが、誰も知らない異国の土地で、一人静かに眠るのは、とても寂しいだろう。雛理さんは周囲を漁っていたが、使えそうなものは何も無かったと言っていた。身を守るため用らしいちいさな拳銃があったが、それも全弾撃ち尽くした後だった、という。

人が死ぬ事に、もう心は麻痺しはじめていたが。

それでも、この異常な島にいると、むしろそれが正しいのでは無いかと、思えてきてしまう。

「気配は感じていますか?」

「いるよ。 さっきより、少しずつ鮮明に分かってきた」

多分、じっくり見ているから、だろう。

ヘリの中に、人がいる。ハインドの中に、合計五人から六人。ただ、正直な話、どういう状態なのかは、よく分からない。

他のヘリの中にも、人はいる。

ただし、そのどれが学者さんなのかは、分からない。他の人とは違って、露骨すぎるほどの気配を放っているにもかかわらず、である。

或いは、その気配の全てが違う可能性さえある。

だとすると、学者さんはどこに行ってしまったのだろう。本当に、それは分からない。じっと見ていても、見当はつかなかった。

「全部で十人程度、ですか!?」

「そうなるね。 感じる気配は、だけど」

「ありえないですよ、この規模のヘリ部隊でそれは」

それなら、あまり考えたくは無い現実も見えてくる。

今生きている人が、十人程度しかいない、のかも知れない。

どういう理由でこの島に来たのかはよく分からないが、もしそうだとすると悲しすぎる出来事が起きてしまったのだろう。

それに学者さんが絡んでいるのは、ほぼ間違いない所だった。

更に二時間ほど、監視を続ける。

全く動かない相手を、無言で監視するのは、骨が折れた。緊張を持続させるのが、とても大変なのだ。

ハインドも他のヘリも、ぴくりとも動かない。

何か動物が来たら、珍しいオブジェか何かと思うのでは無いのか。それほど、動く様子が無いのだ。

気配も、同じ場所から動く様子が無い。

あんな所に何人も固まって、何をしているのだろう。それが不思議だ。

「一度引き上げましょう。 ここに長時間留まるのは……」

空を切り裂くような悲鳴が上がったのは、その時だった。

ハインドの横のドアが開いて、誰かが逃げだそうとしてくる。だが、その体を、ハインドの中から伸びてきた触手が、十重二十重に瞬く間に掴んだ。そして、誰かの抵抗むなしく、ハインドの中に引っ張り込む。

断末魔の絶叫。

後は、ドアが内側から、バタンと閉じられた。

それ以降は、何も音は聞こえてこない。

戦慄が背中を走り抜ける。一体何が起きている。

あの気配は、本当にいきた人間のものなのか。今も、生きているのか。あの触手は、カムイと呼ばれる怪物のものではないのか。

混乱する頭を落ち着かせようと、何度かふる。頬を両手で叩く。

何度か深呼吸して、動悸を鎮める。

雛理さんは、動揺していないようだった。そして、全てを見届けた後、異常なほど落ち着いて言った。

「やはり一度戻りましょう。 どうやら、此処にいても、益は無さそうです」

 

監視カメラの一つに、奇妙なものが映り込んだと聞いて、平坂はすぐに監視班の元に出向いた。

オペレーティングルームは、狭い離島キャンプでは構築できていない。移動の時と同じく、輸送ヘリの内部に作られている状態だ。

手狭なオペレーションルームだが、一応の設備は整っている。軍事用を想定して、元々相当にハイレベルな構築を行い、移動にも備えていたからだ。いざというときは即座に移動できる用の訓練も行わせていて、今回もゾンビ軍団がキャンプに迫っていると分かった時から、二十四分で完全移設に成功している。

オペレーターも優秀な人間を揃えている。ただしかれらは軍人では無く、平坂が育ててきた部下達だ。

オペレーターが、平坂が来ると敬礼。そして、異常が映り込んでいるカメラを指さす。

其処には。

カメラを覗き込んでいる、老人の頭部があった。

確か、研究所に籠もった人間の一人。素性も割れている。新田という、アンボイナを専門に研究している学者だったはずである。かなりの偏屈で、他の人間から距離を取っていたらしい。

だが、集音マイクなどの会話からは、妙に朗らかで、頭のネジが外れてしまっているかのような陽気さがうかがえると、部下が報告してきていた。

今も、にこにこと笑顔を浮かべている。

ただし、どうも様子がおかしい。

斜め上から、カメラを覗き込んできているのだ。このカメラは、確か樹上に設置している筈なのだが。どういう体勢で覗き込んでいるのかが、さっぱり分からない。カメラの資料をみるが、やはり斜め上から見られる筈は無い。

「やあ平坂君。 そろそろ部下に呼ばれて、来た頃かな?」

「ほう。 なかなかの洞察力。 さすがは学者だ」

「音を少し大きくします」

緊張した様子で、オペレーターが機器を操作する。学者は、相変わらずの笑みである。

そして、此方の返事に気付いているのか、変なことを言い出した。

「早速だが、私は君が知りたがっている、黒い雨について知っているよ」

「……!」

「あれは君が育てたカムイとやらとは関係が無い。 んふふふふ、どうだい、宛てが外れたかね」

「続けてくれたまえ」

聞こえてもいない筈の相手に、平坂は思わず返していた。

案の定、わずかなタイムラグがある。だが、学者は恐らく此方の返事を予想していたのか、そのままべらべらと喋る。

「オンカヌシという名に聞き覚えはあるだろう。 この島は、今カムイの力と、オンカヌシの力がせめぎ合っているのさ。 そして、くくくくくくっ。 少なくともオンカヌシは、君を憎んでいる。 必ず殺してやろうと、牙を研いでいる最中さ。 カムイだって、君を憎んでいるのではないのかな?」

兵士がうめき声を上げた。

理由は簡単だ。

学者の舌が伸びて、耳の辺りを舐め取ったからだ。今まで人間と話していたような錯覚があったが。それも、一瞬で消し飛んだ。舌にはぶつぶつの突起があって、まるで触手のようだった。

今話しているのは、戦闘タイプのカムイに匹敵する、文字通りの化け物だ。

「私は、オンカヌシの代表として選ばれた。 カムイの代表として選ばれた奴も、近々君を狙って動くんじゃ無いのかな。 せいぜい、覚悟するんだね」

「ご忠告、どうも」

「なあに、気にする事じゃ無い」

平坂が、口の端を引きつらせたことに、学者は気付いたのだろうか。

否、予想して、笑っているのだろう。

げたげたと、学者が笑いはじめる。

やがてその口が、いきなり耳まで裂けた。口の中には、おぞましいほど鋭利で巨大な牙が並んでいた。

カメラにかぶりついてくる。

映像が途切れた。

兵士が、真っ青になったまま、椅子になついている。いきなり本性を現した化け物に、精神の均衡を保てなかったのだろう。

此処は斑目島から離れたメガフロート。

万が一にも危険は無いが、それでも用心はした方がいいだろう。カムイの非常識な能力は、いつも目にしている。もしもそれに拮抗するとなると、近代兵器を惜しみなく投入しなければ、止められまい。

何も知らないらしい黒鵜が来た。

「そろそろ、偵察を再開しようと思います。 地上部隊は投入しますか」

「いや、しばらくはヘリだけで。 護衛にハリアーも動かそう」

「燃料は大丈夫ですか」

「スポンサーはまだ黙らせてある。 研究は進んでいるし、しばらく資金も資材もきにしなくてよい」

頷くと、黒鵜は出て行った。

この様子だと、偵察部隊は、敵ヘリだけでは無く、人外の怪物の存在も敵として考えなければならないかも知れない。

今、神林にカムイはいないはずだ。

兵士達が油断すると危ない。

黒鵜を呼び戻そうかと思ったが、通信で後から伝えれば良い。

窓の外で、アパッチが発進の準備を始めていた。

一つ、気になることがある。

カムイの代表として選ばれた奴とは、何者だ。今朝も岸田から上がって来たレポートには目を通しているが、現在調整中のカムイの中に、群れを統率しているボスのような存在はいないとされている。

ふと思い立ったのは、あの異常なパワーを発揮していたジャージの女だが。まさか、それはないだろう。カムイとの接点が無いからだ。

あの化け物は、捕らえる必要がある。

ただし、もしも本気でやるとすると、入念な準備と、相当な損害を覚悟しなければならないだろう。

黒鵜がそんな作戦を飲むとは思えない。

どう説得するか、今から考える必要がある。

それにしても。

世界を改革するための力を得る行動に、どうしてこうも邪魔が入る。不快と言うよりも、不可解だ。

オフィスに戻ると、コーヒーを秘書官に飲ませた。

ストレスが、発散できない。

 

崖の近くまで戻ったとき、爆音が聞こえた。

ヘリの飛行音だ。木の陰に、すぐに敦布は隠れた。雛理さんは、別の木の陰に隠れる。

音で分かったが、アパッチではなくて、コブラだ。ハインドとは違う。見ていると、中空を保ったまま、地面を狙うように飛んできた。完全に戦闘態勢だとみて良いだろう。

つまり、雛理さんが言っていたとおり、平坂さんはまだ近辺にいると言うことだ。数は三機。近づくのは、危ない。

ヘリは周囲を周回して、ゆっくり何かを探している。

ミサイルを動かして、何時でも発射できるようにしているようだ。熱センサーとかも動員して、辺りを探っているかも知れない。

いきなり、コブラが機関砲を発射した。

穴だらけになったのは、森から飛び出してきた猪である。酷いことをする。一撃で、殆ど木っ端みじんになってしまった。

赤い水たまりの上で旋回していたコブラは、しばらくすると三機とも、北上していった。やはり、何かを探している。

ヘリの音が聞こえなくなってから、木の陰より這い出る。

しばらくは、静かにしていた方が良いだろうと、雛理さんと話した。意見が一致したので、そのまま過ごす。雛理さんとは意見の対立が多かったが、話してみれば、こうしてわかり合う事もたまにある。

呼吸を整える。空からはヘリ、地上にはいつ怪物が現れるか分からない。本来だったら、もう此処は人が住める場所じゃ無い。

念のため、夕方まで過ごす。それは、お互い言い出すことも無く、暗黙の了解で理解できていた。

そして、陽が落ちてから、まだ無事でいるロープを使って、崖を降りはじめた。

敦布はロープを使わず、そのまま素手で降りる。数メートルくらいなら飛び降りても平気だし、途中で崖につかまるのも造作も無い。

雛理さんも、ロープを使えば降りるのはかなり早い。

二人とも無言のまま、するすると数百メートルはある崖を降りていく。子供達は無事だろうか。不安でならないが、今は我慢だ。集中して、崖を一秒でも早く降りるべく、クライミングの作業を行い続ける。

着地。

森に駆け込むと、後は一直線だ。雛理さんにあわせながら、森の中を走る。既に夜闇が辺りを覆っているが、この辺りに関しては、もう目をつぶっていても走れる。問題は、学者さんも、この近辺には詳しい、という事だ。

もし子供達を実験台にしよう、などとあの人が考えたら。

さっきのおぞましい光景は、まだ脳裏に焼き付いている。触手に囚われた人が、助かったとはとても思えない。

身震いした。

岩の上に座っている寛子ちゃんのおじいちゃんが見えた。猟銃を構えたまま、此方を見ている。

雛理さんと敦布に気付くと、銃を下ろした。

「どうだった」

「色々と、言葉にできないほど、恐ろしい事がありました」

そんな表現を雛理さんが使ったからか。

寛子ちゃんのおじいちゃんは顔を歪めて、そうかと感慨深げに呟いた。

たとえ、歴戦の傭兵であっても。

もうこの森は、人外の郷なのだ。人間が生きていける環境では無いのだと、一秒ごとに思い知らされる。

交代で休憩することにする。

子供達は既に寝てしまっているので、それだけは心配しなくて良い。日中も、子供達はおとなしくしていた、という事だった。

休憩前に、少し話し込む。

同年代の人間がいなくなってしまって、流石に寛子ちゃんのおじいちゃんも、苦悩している様子だ。

「あの爺、完全に化け物になっちまったか……」

「まだ本人は見て無いッすけど、間違いないでしょうね」

年上の相手と話すときは、まだ体育会系の口調が出る。敦布はだいぶ口調も変わってきているが、それでも昔の名残はあった。

拾ってきた小型の拳銃を見て、弾が入っていないのを確認。大きく寛子ちゃんのおじいちゃんは、ため息をついた。

「こんな新しい型じゃ、弾を作るのも無理か」

「よほど怖かったんでしょうね。 ジャムるから、全弾を撃つことは推奨されないんですが」

「無理もねえだろ。 化け物をみて、それから逃れるためだったんだからな。 ましてや西洋じゃ、まだ悪魔とかの存在に説得力があるって聞いたぜ」

それは意外だ。最新文明の土地かと思っていたのだが。

そういえば、無宗教なのは日本ぐらいだという話も、以前聞いたことがある。無神論者は、むしろ変人だそうである。

だとすれば、頷ける話だ。

「ヘリは飛ばせる状態じゃ無かったのか」

「無理ですね。 確認しましたが、燃料も抜かれていました。 それに、メインコンソールはぐしゃぐしゃでしたし。 修理もできないでしょう」

「他の地上にいたヘリは、中に化け物がぎっしり、って可能性が高いんだろう? 参ったな……」

何もできないよりは、遙かにマシ。

味方には、プロの傭兵である雛理さんや、豊富な経験を持つ猟師である寛子ちゃんのおじいちゃんがいる。

敦布も、最近では化け物じみた身体能力を発揮できる。

だが、それでもどうにもならない。

「どうにかして、ヘリを奪うしかねえ」

「恐らく、平坂が黙っていないでしょう。 交戦の隙を突くことができれば……」

「戦闘が起こるとしたら、いつくらいだろう」

「私が平坂だったら、体勢が整う前に仕掛けるでしょう。 ただ、ひょっとしたら……まず情報を仕入れてから、総力戦に入るつもりかも」

よく分からないが、平坂という人を、雛理さんも分かっていないという事だ。

実際問題、平坂さんは雛理さんでは無い。

だから、どうするかは、まだ分からない。

問題は、どちらがどうしようが、敦布達に残されている時間は、刻一刻となくなっているという事だ。

心がこんな風になる前だったら、焦りでおかしくなってしまっていたかも知れない。

今は落ち着いている寛子ちゃんのおじいちゃんだが。いつまた朝の時みたいに、弱音に潰されてしまうか、知れない。

あらゆる意味で、もう時間が無いとみた方が良いのだろう。そう、敦布は結論している。

昔だったら、こんな風に、論理的にものなど考えられなかった。

今は、時間と引き替えに。それが出来るようになった。

子供達の命を守るために、力を得たのは嬉しい。

それ以外の、全ては嬉しくなかったが。

「移動するか」

「え……?」

「崖の上に移るって手がある。 どうせ水は飲めねえし、どんどん獣は増えてるし、でかくなってる。 来年には、多分三百キロはある熊が出るようになるぞ」

来年まで生きていられるとは、とても思えない。

そう言おうとして、敦布は失敗した。

おじいちゃんの発言は、一種の現実逃避だ。本人だって、そうなるなんて、思っていない。心の中では、もう駄目だと考えている。

だから、破れかぶれの、決戦策に出ようとしている。

一度、それでこの国は失敗したのに。

「賛成できません」

雛理さんは、雛理さんで、また違う方向から、敦布にとって困る存在だ。

彼女は超がつくほどの現実主義者。

場合によっては、子供だって切り捨てる。最悪の場合は、自分が死ぬことだって、厭わないだろう。

「此処だからこそ、隠れながらの転戦ができます。 私達三人はゲリラ戦ができますが、子供達はそうではない事を忘れていませんか」

「もう、此処に隠れていても、同じだろ」

「明日移動します。 どうやら、学者さんは完全に人間を止めたみたいですから、たとえば子供達をおぞましい実験の生け贄にすることも、躊躇しないでしょう」

此処だけは、同意見だ。

もし移動するなら、南にある湖の近くが良い。あの辺りは、学者さんも知らないし、平坂さんの部下が来た形跡も無かった。

今、一番厄介な存在は、多分怪物では無い。

平坂さんと、学者さん。

二人の人間だ。片方は、もう人間とは呼べそうに無いが。

「移動すると言っても、良い場所の宛てはあるのか」

「はい。 任せてくださいっす」

少しは、心も晴れると思う。

あの湖は。たとえ水が飲めないとしても、とても美しいのだから。

 

3、蛇と悪魔の激突

 

偵察に出ていた部隊が、また敵が移動しているのを発見した。

黒鵜は舌打ちする。

最初、ハインドを中心に構成されていたヘリ部隊は、神林の西の方に陣を構えていた。それが、今度は神林から出て、崖の上に偽装して陣地を構えている。問題は、ハインドが一機減っていることだ。

その減ったハインドは、近くで見つかった。

中には、少なくとも五人が死んだ形跡があった。ぶちまけられた血。死骸は殆ど無かったが、内臓や脳の一部など、持ち主が生きているとはとても思えない代物が、幾つか点々としていた。

ハインドそのものも、滅茶苦茶に壊されていて、使い物にならない状態だ。

そして、近くに土盛り。

死体を埋めたのだろう。掘り返すかという部下に、黒鵜は首を横に振った。

「これはどう見ても人間の仕業では無いな。 一度戻って報告する」

「分かりました」

露骨に部下達がほっとするのが分かった。

部下達は、この状況を怖れはじめている。ハインドについては、シリアルナンバーなどを確認させる。どこの組織が使っているものか、それで突き止められるかも知れないからだ。

破壊をされてはいた。

だが幸いにも、それをやった奴は軍事知識が無いらしい。壊され方が雑というか、機密が残らないような雰囲気では無い。

搭載している兵器なども、充分に特定ができた。

見た感じ、発展途上国などで使われている、近代化改修がされているモデルだ。武装を調べる限り、アパッチどころかコブラにも及ばない程度の存在だが、当たれば撃墜可能な武装は備えている。とてつもなく腕が良いパイロットが乗れば、脅威になりうるかも知れない、という次元の相手だ。

また、着陸中のハインドを見つけた機からの報告によると、他に発展途上国で使われている小型の戦闘ヘリが合計四機いたという。

ハリアーだけで充分撃破可能な相手だが、油断はできない。

撤収を開始。ハインドはその場に残していくことにした。どうせ再利用は不可能だ。ただし、爆破しておく。

離れてから、ヘリの上で爆破スイッチを押す。

内側から吹き飛んだハインドだが、それでも原形は残していた。さすがは装甲ヘリの異名を持つ、頑強な戦闘ヘリだ。

「司令。 本当にこの島は、一体どうなっているんでしょうか。 あのヘリの内部、まるでホラー映画で、化け物が暴れたみたいでしたよ」

「だが、俺たちはホラー映画の間抜け共とは違う」

怯えている兵士達に、黒鵜は冷静に、だが怒りを込めて語る。

ホラー映画に出てくる登場人物達は、決して賢くない。だから、どんどん被害を増やしていくことになる。パニックを起こして疑心暗鬼から殺し合い、冷静な判断を欠いて単独行動を行い、自業自得で死んでいく。

そうはならない。

ホラー映画などよりも、もっと残虐で悲惨な戦場を見てきたのだ。その程度の事では、黒鵜の心は乱れない。

黒鵜は実に十年以上、戦場で活躍しているベテランだ。

既に内臓など見飽きているし、戦友の死も側で嫌と言うほどみてきた。だからこそに、言える。

「ホラー映画の登場人物どもは、基本的に自滅している。 お前達は、俺が訓練したのだから、そうはなるなよ」

「は、はい」

「まずは引き上げて、本部にありのままを伝える。 それからどうするかは、本部次第だな」

決断はしない。

どうせ平坂のことだ。化け物と決戦を選ぶのだろうが、それは別にどうでもよい。

ハインド数機分の戦力ぐらい、黒鵜が操るアパッチ一機で叩き落としてくれる。問題は、その後。

怪物に、どう対処するか、だった。

海上を飛んでいるうちに、他の部隊や兵士達に点呼を取らせる。非常識な怪物が活動している島での行動だ。

慎重すぎるほど慎重で無ければならない。

全員から、点呼の返事があった。

今の時点では問題なし。黒鵜は満足すると、機械的に次は何をするべきか、考えはじめていた。

 

基地に戻ると、平坂が岸田と共に待っていた。

嫌な予感がした。岸田が鼻の穴を広げて、すごく嬉しそうにしていたからだ。この様子だと、カムイに何か進展があったか、或いはとても「面白そうな」ものでも見せられたのか。

どっちにしても、黒鵜にとってはろくなものではない。

「戻ったか。 すぐに此方に来たまえ」

「何かありましたか」

「ああ。 敵から宣戦布告があったよ」

眉をひそめた。

つまり、あの超身体能力を発揮した女からだろうか。それとも、別の奴か。

化け物が知能を備えたら厄介だ。

一緒についていって、映像を見る。初老の男の姿をした怪物が、気味の悪い本性を見せる映像。確かに、宣戦布告だった。

「気味が悪いですな」

「確かに生理的に嫌悪感をそそる映像だ。 だが、それよりも、岸田が分析する限り、幾つか敵の特性が分かった」

「戦いに役立つ特性ですか?」

「それは黒鵜ちゃん次第だよ!」

とても嬉しそうに岸田が言うので、思わず顔面に拳を叩き込みたくなる。此奴は前線で戦う兵士が、命を賭けていることを、何だと思っているのか。本当に、快不快だけで生きている奴だ。

天才は大嫌いだ。

よく世間では、才能がある奴のことを、天才と思っている節がある。

それは違う。多少才能がある奴なんて、それこそいくらでもいる。

天才というのは、此奴のように。世間の常識から外れたレベルで、才能がある奴のことを言うのだ。

才能が常識外れだから、本人の思考回路や精神も、常人とはかけ離れている。常識人の天才など、存在しない。

なぜなら、彼らは本能的に悟っているからだ。常識だとか平均だとかいうものが、如何にくだらないかを。

だからこそに、黒鵜の敵でもある。黒鵜は、なんだかんだ言っても、どこまで行っても平凡な存在だからである。

話を聞いていると、確かにつけ込む隙は作れそうだ。

だが。どうも胸騒ぎがしてならない。本当に「その程度」で済むのだろうか、分からないからだ。

「いけそうか」

「敵の航空戦力を削り取る事だけなら、どうにかやって見せます。 しかし地上での戦闘に関しては、保証しかねます」

「どういうことかね」

「今まで、カムイを捕縛し戦って来ましたが、連中の能力は常に此方の予想を超えてきました。 今回も、同じ事が予想されます」

流石に鼻白んだ様子の岸田が、感情をむき出しにする。

つまり、ふぐのように膨れた。

「なんだよっ! ボクの言う事、信じられないの?」

「ああ。 貴様のせいで死んだ部下だっているんだ。 分析自体は信じるが、それ以上の能力を敵が持っていないと、どうして言い切れる」

「そんなの、現場で指揮をしてた黒鵜ちゃんの仕事じゃんかよ! ボクは分析できる範囲で、全部の情報をいつだって出してるよ! ボクはグローバルでオープンで、公平な男なんだぞ!」

「何だと……!」

殺気をぶつけるが、岸田は引かない。

周囲で見ている他の人間達が、ざわつきはじめた。

「二人とも、やめたまえ」

だが、そこで。見かねた平坂がぴしゃりと言った。

むっとしたままの岸田が、そっぽを向く。腕組みしたまま、それでも黒鵜は黙ることを選んだ。

平坂は上司としては悪くないのだから。

「戦力はどれだけいる」

「ハリアーを使います。 敵をおびき出して、一気に空対空ミサイルで遠距離から制圧、その後は斉射を加えて破壊します」

「戦闘ヘリを全部使うつもりかね」

「出し惜しみすれば、後で後悔する可能性が高いです。 相手が人間の場合でさえ、不慮の事故は日常的に起こるものです。 ましてや相手が怪物となれば、一体どのような事故が起こることか」

さっき、部下達に、黒鵜は言った。

ホラー映画に登場する間抜けになってはならない、と。自滅するくらいなら、ベストを尽くして、その上で戦いたい。

だから、そもそも事故など起こりえないほど、戦略的な条件を整えて、戦うべきなのだ。ましてや今回は、敵に戦闘ヘリがいる。如何に此方の方が優れている戦力を持っているとは言え、油断はすなわち死に直結する。

それらを説明すると、平坂は理解してくれた。

「分かった。 ただし、輸送ヘリは置いていきたまえ」

「いざというときの脱出用ですか」

「そうだ。 地上部隊の投入は必要か」

「いえ、まず敵の戦力を見る必要がありますので。 敵の航空戦力を殲滅してから、地上部隊の投入を考えます」

常識的な策を取る。

これも、部下の命を削らないためだ。

不満そうな岸田が、舌打ちする。多分サンプルとして、怪物を捕らえたかったのだろう。人間型のカムイと呼称しているあの女に近い存在である事がほぼ確実であろうし、何より岸田はそういう男だ。

出撃が決まって、実際に出るまで二時間ほど、書類などを書かなければならない。

平坂のオフィスを出ると、自室に戻る。

大きくため息をつくと、缶コーヒーを一気に呷った。

ベストは尽くす。

だが、部下達が怯えきっている今、絶対は無い。味方による誤射などが起こらないように、作戦は念入りに吟味しなければならなかった。

ヘリによる空中機動戦については、経験も積んでいる。問題は部下達だ。

アパッチは黒鵜が自分で操縦するとして、コブラに乗せる部下達には、それぞれ手練れを配置はする。

だが、その顔ぶれを思い出すと、どうしても不安がぬぐえないのだ。

黒鵜は部下に人望が無い。

だから、激励して言うことを聞かせる、という事がどうしてもできない。的確な指示を出していって、それで部下達を動かすしか無い。

今回重要なのは、部下達の恐怖を取り去れる人物だ。

恐怖で手元が狂えば、どれだけの手練れと名機を揃えても、落とされる。一瞬の逡巡が、勝負を決めることはよくあるのだ。

多くの戦友や部下が、戦場で死んでいった。

今いる部下より、手練れも多かった。今生きて此処にいてくれればと思う顔ぶれも、かなりいる。

だが、それらの全員からも、黒鵜は嫌われていた。

昔から、コミュニケーションは苦手だった。誰からも怖がられたし、避けられた。スキルを身につけることでせめて補助をしてきたが、それにも限界があった。

結局黒鵜が生きてきたのは、世間的には鼻つまみ者とされる、傭兵の世界。

逆に言えば、其処でしか、居場所は存在しなかった。いや、そこですらも。

頭を振って、雑念を追い払った。

今、手元にある材料で勝負しなければならない。平坂は少なくとも、戦略的な出し惜しみの危険性については理解できるし、兵力も出してくれることを約束してくれた。此処からは、黒鵜の仕事なのだ。

部下達を集める。

ヘリのパイロット達は、それぞれに厳しい訓練を積んできていて、公式にでは無いが実戦経験もある。

「これから、第三勢力を叩きに出向く」

「戦闘ヘリ全てと、ハリアーまで動員するんですか?」

「そうだ。 今、無人偵察機で、敵の動きについては確認を済ませている。 今の時点では、島北部の、神林ではない普通の森林地帯で潜んでいる状態だ。 これを、空対空ミサイルで一気に叩き、敵の航空戦力を黙らせる。 出てこない場合は、地対空ミサイルで、離陸前に片を付ける」

顔を見合わせる部下達。

どうも、大げさな戦力だと思っているようだ。

咳払いしてから、黒鵜は付け足す。

「偵察に出た連中から聞いていないか? どうもハインドに乗って来た連中は、化け物に全部喰われてしまっているらしい。 つまりヘリの中は、化け物で一杯だという可能性が高い」

「えっ……」

「普通のハインドだと思って侮るな。 遠距離から、反撃もできないほどに徹底的に叩き潰して、まず空に出られないようにする。 それから、敵の頭上から、能力を探りつつ、火力を浴びせる。 地上部隊の投入を安全に済ませるために、やっておくべき事をやるのだ。 分かったか」

不満そうではあるが、部下達は頷く。

本当に阿呆な連中だ。敵の戦力を侮ることが、どれだけ危険か、分かっていない。防衛大で教えてもらっていないのだろうか。

準備が済んだのは、昼少し前。

偵察機からの映像は、ライブで映されている。

「全機、対ヘリ戦用意。 主力は俺のアパッチと、木川のハリアーで努める。 撃ち漏らしが出た場合、二機一組で対処」

此処にあるコブラは、空対空ミサイルを搭載した改良型だ。積載量や射撃精度も大幅に強化されている。

アパッチを離陸させ、他も続けて同じように。黒鵜は全機とまず陣形を組む。

もしもハインドが、この隙にベースを強襲してきた場合。備えはある。ロケットランチャーは多数配備してあるし、早期警戒システムも備えてある。

伊達に人工のメガフロートではない。レーダー類も完備しているし、バルカンファランクスも死角無く配置されていて、戦闘機による攻撃を受けても耐えることは可能だ。被害は出るだろうが。

「出るぞ。 全機続け!」

恐らく、自分を鼓舞するためだろう。

敢えて大声を、黒鵜は出していた。

 

三人で話し合った結果、結局次のことが決まった。

まず敦布と雛理さんで崖の上に上がる。そしてハインドというヘリを監視する。これにより、交戦の機会を掴む。

交戦が始まれば、かならず隙が出来る。

その隙を突いて、できればヘリを奪う。そして、可能であれば、生きている敵を捕らえて、情報を得る。

問題は、戦いが一方的になった場合だ。

これが最後のチャンスかも知れないと、敦布も感じている。もしも此処で相手の隙を突けなければ、そのままパーフェクトゲームを許すことになってしまうだろう。つまり、敦布は死ぬし、子供達も助からない。

餓死か、獣の餌になるか。

助けなどまず来る可能性が無い現状、此処で絶対に何とかしなければならない。

朝、準備を整えて、まず南に移動。

子供達を起こすのは気が引けたが、仕方が無い。かなり朝早くに起こされて、寛子ちゃんは何かあったと気付いたようだった。

「先生……?」

「学者さんは、此処を知ってる。 だから、離れるよ」

「うん……」

治郎君は中々起きなかった。嫌な予感がしたが、特に熱があるとか、体に異変があるとか、そう言うことは無い様子だ。

治郎君はそのまま背負って、南へ。

寛子ちゃんには、代わりに荷物を持って貰う。

湖は、此処から大体二キロくらい。雛理さんは此方には来ない。崖上に先行してもらって、様子を確認してきてもらう。

寛子ちゃんのおじいちゃんは、湖に残る。

短時間で森を走り抜けて、崖を越えるのは無理だからだ。それに、万が一の時、子供達だけでは生きることさえできなくなる。

最初、おじいちゃんは崖の上に上がると、何度も主張したのだ。

だが、二人で説得した。それは不可能だと。

おじいちゃんは、或いは。死に場所が欲しいのかも知れない。まだその兆候は出ていないが、怪物化し始めた事を、感じているのだろうか。

「あれ? 先生……?」

「寝ていて良いからね」

「うん……」

歩いていると、治郎君が少しだけ目を覚ましたようだ。

まだ軽い。こんなちいさな子を、悲惨な環境にいつまでも置いてはいられない。この森に来てから、勉強は一度も教えられていないが。

いつか、絶対、また勉強ができる環境に戻してあげたい。

湖に到着。

雨の日の少し後に比べると、かなり小さくなっている。だが、相変わらず鏡のような湖面だ。

見て驚いたのは、既に人間大の魚が泳いでいる、という事。以前見た時は、小魚しかいなかったのに。一体どういう事なのだろう。この森では、時間が加速して流れているとでもいうのか。

中に入ることは止めた方が良いだろう。もっと大きい魚がいるかも知れない。

どうして、こんなに魚が大きくなるのが早いのか。生物濃縮が原因だろうか。見たところ、怪物化している魚はいないようだが。

どうせ、水は飲めないのだ。

まさか、水から出てくる魚はいないだろう。また、今の時点では、森の中で、人を殺せるほど大きな獣は確認していない。

よほどのことが無ければ心配は無い。

「大きな魚……」

「水辺に近づいちゃ駄目だよ。 鰐とかもいるかも知れないから」

「先生、ひょっとして、これから何処か行くの?」

寛子ちゃんに、治郎君をお願いして。

寛子ちゃんのおじいちゃんに頭を下げる。後は任せる、という意味だ。

これから戦いに行く。

もう、残った時間は殆ど無いはず。それに、この戦いで好機を拾えなかったら、きっと。逃れる術も、助かる可能性もなくなる。

それは、子供達の死を意味している。

此処は見晴らしが良いが、逆に言えば、空からも丸見えという事を意味している。隠れるのは、森の中が良い。

少し戻って、湖の近くの森の中で、木のうろに当面住む事とする。

近くにもっと住みやすい場所があれば、其処に移れば良い。

「行ってくる」

「銃は」

「いらない。 素手の方が、もう強いから」

もし相手が銃を持っていても、もう制圧できる自信がある。

だから、銃はおじいちゃんと、寛子ちゃんに残す。

後は、言い残すことも無い。

ひょっとしたらもう会えない生徒達に背を向けて、敦布は森の中を走る。まずは、雛理さんに追いつかなければならない。

 

崖の上まで上がると、最初に見えたのは、光を放ちながら飛ぶミサイルだった。

森にまっすぐ飛び込んで行ったミサイルが、轟音と爆炎を噴き上げる。凄まじい地響きが、此処まで来た。

戦車でも、吹き飛ぶわけだ。

雛理さんが手をさしのべてきた。既に崖の上に上がっていた彼女は、戦況をある程度把握している様子だ。

「七分ほど前から、攻撃が開始されています」

「ええと……あれっ? あんな遠くから届くの!?」

言われて気付く。

ヘリは恐らく、軽く一キロ以上先から攻撃してきている。しかも、どうみても戦闘機のようなのも混じっている。

ミサイルが、また森に吸い込まれ、爆発。

思わず頭を抱えて、伏せる。これは、正直な話。生き物がどうにかできる存在じゃあ無い。今肉食恐竜が現世に復活したとしても、軍隊に簡単に全滅させられるのは目に見えている。それだけじゃない。

かの怪獣王が現実に現れても、軍隊にはかなわないのではないのか。

森が炎上しはじめる。

「……おかしいですね」

雛理さんが、隣で身を低くしたまま呟いた。

そういえば、まだ攻撃が続いている。しかも、アパッチとコブラは、陣形を保ったまま定距離での飛行を続けている。

何かあるのか。

不意に、森の炎がかき消えた。

巨大な肉の壁がせり上がる。機関砲を撃ち込みはじめるヘリの編隊。肉の壁が抉られるが、しかし次々に再生した。

酷い匂いが、此処まで漂い来る。

これは、あの黒い雨の香りだ。

「ハハハハハ! どうしてどうして。 流石にたいした力だ!」

学者さんの声が、森にとどろき渡った。

そして、何かとんでもなくおぞましいものが、中空に躍り上がる。

それはヘリが複数、融合したような姿をしていた。しかも融合部分は、どうみても有機的なパーツで構成されている。

禍々しい赤と黒で構成され、所々には血管のようなものが浮き出ていた。

ヘリの機動部分は生きている。

それがおぞましい音を立てながら、回転しているのだ。機械的な音では無く、露骨に有機的な何かを振り回しているように聞こえる。そして、時々肉が引きちぎられるような、ぶちゅり、ぐちゅりという、生理的嫌悪感をそそる音が混じっていた。

ただ気持ち悪いだけでは無い。ヘリ怪物の全身から多数突き出ているのは、ミサイルでは無いのか。

また、ミサイルが飛来する。

だが、ヘリの塊のような怪物から飛び出した触手が、それを中途で撃墜する。触手も吹き飛んだようだが、ミサイルも消し飛んだ。

既に人間が知る戦争ではないし、状況でも無い。

怪物の全身がめきめきと音を立てて、裂ける。

裂け目が一つ一つ、眼球や、鋭い牙が生えた口にと変わる。もはやあれは、何が何だか分からない。

無理にたとえるのなら、車のエンジンに、腐肉をぶちまけたような。機械と生体が、滅茶苦茶に混ざり合った怪物。

学者さんは、本当にあんなものになりたかったのか。

「それに若いぞ! 私! 力がみなぎる! 溢れるようだ!」

全身から、お返しとばかりに、ミサイルをぶっ放す元学者さん。

だがそのミサイルは、ヘリに向けて飛んでいくことは無く、辺りの森や木々に、滅茶苦茶に着弾していった。

けたけたと笑う声が聞こえる。

何を持って、学者さんは若いと言っているのだろう。あんな怪物になってしまって、何が嬉しいのだろう。

むしろ、見ていて悲しくなってくる。

ヘリと戦闘機の群れが、距離を取り始めた。元学者さんの全身から触手が伸び、地面に突き刺さる。

そして、多数の棘が生える。

遠目に見ても、一つ一つが人間大くらいの大きさがある。それを、空に向けて、凄まじい勢いで発射しはじめた。全方位に、である。

「こっちへ!」

雛理さんに手を引かれて、大樹を盾にする。

次の瞬間、巨大な肉の槍が、その木を真っ二つにして、敦布の足下に突き刺さっていた。ヘリの編隊が下がる。撤退するのだろう。実際、肉の棘は、彼らの至近にまで飛来している。あれで貫かれたら、流石に新鋭のヘリでもどうにもならないだろう。

流石の雛理さんも、近づこうとか、隙をうかがおうとか、言わなかった。

学者さんの馬鹿笑いが、此処まで轟く。

「素晴らしい! これで私は、研究を永遠に続けられる! 核でさえ、今の私を止める事は出来ないだろう!」

「……。 哀れな人」

雛理さんの言葉には、同意できない部分も多い。

だが、これだけは、全面的に同意できた。

平坂さんのヘリ部隊が、距離を更に取る。ミサイルを撃ち込むつもりだろうか。

だが、元学者さんが、更に巨大な肉の槍を全身に生やしはじめると、もう無理だと思ったらしい。

ついに、撤退を開始した。

それはそうだ。

ハインドというヘリだけだったら、どうにでもなる戦力だったのだろう。だが、学者さんのあれは、非常識にもほどがありすぎる。

軍隊を指揮していたのが伝説のアレキサンダー大王とかチンギスハンでも、どうにもならなかったのではあるまいか。

地面に突き刺さった肉の槍が、腐臭をあげながら溶けていく。

吐き気をこらえながら、声を殺す。

学者さんが、こっちを見ているかも知れないからだ。もしも気付かれてしまったら、それこそひとたまりも無いだろう。

じっと、雛理さんが、中空に浮かぶ元学者さんを見つめている。何か、不審な点があるのだろうか。

「少ないですね」

「ひょっとして、くっついているヘリの数?」

「そうです。 来てください。 確認しましょう」

確率は低いが、ひょっとすれば戦闘ヘリを確保できるかも知れないと、雛理さんはいう。特に今は学者さんが勝ち誇っている絶好の好機だ。

今のままでは、どのみち詰み。彼女の読みに賭けてみる価値は、確かにあった。

顔を叩いて、気持ちを入れ替える。

もう精神が人間の外に行ってしまったからか。気持ちの切り替えは、とても上手く行った。

「雛理さんは、剣に入ってから、こういう戦いを何度も見たの?」

「まさか。 こんな非常識な出来事、戦場でもありませんよ。 ただ、人間とは別種の怪物が存在するかも知れない、という噂は、剣にいた頃から聞いたことがありました」

どうやらその噂は本当だったらしいと、自嘲的に雛理さんがぼやく。

隣を走りながら、接近。

ヘリを操縦できるかについては、大丈夫だと、ここに来る前に聞いてはいた。

学者さんがいた場所については、しっかり把握している。

「恐らく、平坂は超長距離からのヒットアンドアウェイに切り替えるはずです」

「ええ? まだ諦めないの?」

「さっきは一キロ以上の長距離から攻撃していましたが、今度は更にその数倍先から、移動しつつ攻撃すると思います。 最近の戦車である90式は、三キロ先の的に時速六十キロで移動しながら適中させるそうです。 もしもそのレベルでのチューニングをされているなら、戦闘ヘリでも似たような機動を取るかも知れません」

滅茶苦茶だと思った瞬間、頭上を三本のミサイルが通り抜ける。

不意を突かれたからか、学者さんの側面に、ミサイルが全て着弾、炸裂した。もの凄い轟音だけではない。

虚空を衝撃波が蹂躙するのが見えた。

「ほう、まだ私と戦うつもりかね……」

学者さんが、見る間に体を修復していく。

前に戦ったカムイという怪物でも、似たような事はできていた。あれだけの巨体を誇る化け物である。できても不思議では無い。

拉げてしまった装甲を、内側から直しているのだろうか。

金属音が、此処まで響いている。めりめりと、思わず耳を塞ぎたくなるほど、荒々しい奴が、だ。

またミサイルが飛んでくる。

今度はヘリのメインロータに直撃した。咆哮。かなり学者さんは怒っているようだ。これは、好機かも知れない。

触手を伸ばして、地面に突き刺す学者さん。

全身を撓ませると、猛禽類もかくやという勢いで、移動しはじめる。触手の束で地面を跳ねつつ、ヘリの飛翔力をフルパワーで使っているようだ。またミサイルが飛んでくるが、今度は触手ではねのける。だが、それで体勢を崩したところに、逆方向からミサイルが直撃した。

今度のは、かなり爆発が大きかった。

何かが、巨怪の体からこぼれ落ちるのが見えた。

人だ。

情報を得る好機。

まさに千載一遇。もう化け物になってしまっているかも知れないが。そもそも生きているか分からないが。それでも、賭けてみる価値はある。

「先に行くよ!」

加速。

体勢を低くして、フルパワーでダッシュ。どれだけ速度が出るか試したことは無かったが、やってみると、明らかに時速八十キロ以上は出ている。しかも森の中でこれだから、平地でやれば、もっと出るだろう。

しかも、無理が無い範囲で、である。木は無理しないでも避けられているし、転ぶような心配も無い。ぶつかっても体は無事だという確信はある。

見つけた。

薄着の手術衣みたいのを着せられている女の子。年は中学生くらいか。見たところ、日本人では無さそうだ。

跳躍して、ブレーキを掛ける。学者さんはまだ上で飛んでくるミサイルと戦っていて、自分の取りこぼしには気付いていないようだ。だが、それもこれまでだった。

「おやああ? ジャージ先生、ひさしぶりだなああああ!」

上から、極太の触手が降ってきた。

無言で側にあった倒木を掴むと、フルスイングで迎撃。同じくらい太い触手を、はじき返した。

上を見ると、既にもう学者さんは、なんと形容して良いか分からない姿だった。

滅茶苦茶に複数のヘリが肉塊と融合した体の表面には、恐らく百を超える目がついている。

触手が大量に生えていて、そして口もたくさん。

鋭い牙が多数並んでいる口は、横に裂けているもの縦に裂けているもの、或いは十字に裂けているものまであった。

その口の中から、舌が伸びてくる。

舌の尖端には、学者さんの顔がついていた。

「まさかとは思うが、私と軍隊の戦いの隙を突いて、情報を集めるつもりかい?」

「そうです」

「ハッハ! 君はだから体育教師なんだよ!」

体育教師は、バカがなる職業。そんな俗説がある事を、敦布は思い出した。

敦布は確かに、人間を止める前はバカだった。だから、そう陰口をたたかれても、文句は一度も言わず、頭を掻いて恐縮するばかりだった。

だが、今は。

その言葉に、反論する。

「学者さんとも思えない言葉ッスね」

「事実君は馬鹿じゃ無いか。 もう子供なんか助けることは考えないで、自分だけさっさと逃げるか、そのスーパーパワーを堪能して生きれば良いんだよ。 むしろあの子供達、たべちゃったらどうだ? 子供の肉はとても美味しいと聞いているからねえ。 うひひひひひひひひっ!」

「この鬼畜外道……!」

「もう人道なんて、この島で何の意味も持たないよ。 事実あの子供らは、誰よりも案じてくれている君を無意味に怖れ、近づくことさえいやがっていたじゃ無いか。 そんなのに命を賭けてどうするね。 それだったらいっそ化け物になって、その肉を堪能するくらいでいいんだよ」

かってだったら、その言葉だけで、心に致命傷を受けていたかも知れない。

だが、今の敦布は違う。唇を噛んで、相手の隙を狙う。此処が、勝負所なのだ。好機を見つけて、其処をつかなければ。

「さて、其処に転がっているのは、まだ研究の余地がある私の所有物だ。 返してもらおう……」

ぼんと、凄い音がした。

学者さんの頭が吹っ飛んだのだ。見れば、デザートイーグルで、雛理さんが撃ち抜いていた。

再生が始まるが、その時には。

手術着の女の子を抱えて、敦布はさっさとその場を後にしていた。

後ろから、怒りと憎悪の雄叫びが聞こえる。やっぱり頭を撃ち抜いたくらいでは、もう死なないか。

滅茶苦茶に学者さんが、触手を振るっているのが分かる。またミサイルが直撃したようだが、既にどうでもいいと思っているようだ。実際、普通のミサイルで、無限に再生するあの巨大な肉体を葬ることはできないだろう。

「それは? 戦利品ですか」

「そんな言い方は止めて。 銀髪……?」

「顔立ちからしてロシア系ですね」

背はそれほど高くない。

ロシア系は美少女が多いと聞いていたが、顔立ちは不自然なくらい整っていた。美しい銀髪は、陽光に輝くほどである。肌もとても白い。

「急いで、崖の下に。 密林に逃げ込めば、誰だろうが簡単には私達を探し出せません」

「お前らあああああっ! 今の私は、オンカヌシそのものだ! 雨の日はせいぜい気をつけるんだなあアア!」

わめき声が追ってくる。

またミサイルが直撃したようで、怒りの咆哮が爆音にかき消されていた。

チハのすぐ側を駆け抜ける。

行け。

そう、言われている様な気がした。

 

不機嫌のどん底にまで落ち込んだ黒鵜が戻ってくる。

作戦の展開は、平坂も見ていた。黒鵜は全く問題の無い戦術を展開し、それが故に敵を倒せなかったとも言える。

ミサイル三十発以上を無駄に浪費した。

だが、それで分かったこともあった。

平坂は秘書官を呼ぶと、彼女を通じて連絡を入れる。入れた先は、平坂と関係がある、武器の密輸業者だ。

今回の作戦にも、かなり大規模に関わっている組織である。平坂に首根っこを押さえられているため逆らえず、主に第三諸国から多数の武器を得るための重要な路となっている。今回の作戦でも、兵器類の三割は此処から調達した。

連絡を入れると、営業の男が出た。

やせぎすの男は、平坂の顔を見ると、ただでさえ血色の悪い顔を、更に青ざめさせた。無理難題が来ると本能的に悟ったからだろう。

「すぐに後方に連絡し、気化爆弾の準備をしてもらってくれ」

「き、気化爆弾ですか」

「あの化け物の戦闘力を見ただろう。 泥人形の軍団といい、通常火器で倒せる相手ではないな。 核兵器は無理だとしても、大威力の兵器を用いて、一気に勝負を付けるほかあるまい」

実際、黒鵜の懸念は適中したことになる。

途中からヘリのパイロット達はだいぶ士気を落としていた。黒鵜が叱咤しなければ、逃げだそうとさえしたかも知れない。

そう言う意味で、黒鵜に責任は無い。

平坂としては、今後勝てるための処置を執らなければならない所だ。

気化爆弾は、現在核に次ぐ破壊力を実現する、いわゆる大量破壊兵器。これが、平坂が用意できうる切り札だ。

「何日で用意できる」

「流石にすぐには。 ロシアからの横流し品を拾うにしても、元々在庫が豊富にある品でもありませんし」

「可能な限り早く用意してくれたまえ」

通信を切る。

今の戦闘の様子を見ていたのは、岸田も同じだ。よだれを流しそうなほどに興奮していた。

黒鵜はじっと黙り込んだまま、その隣に立っている。

「さて、今回の作戦だが、失敗はしたが意味はあった。 次は気化爆弾を用いて、あの化け物を潰して欲しい。 できるかね」

「それも必要ですが、彼処まで敵が強いとなると、もう一つ用意して欲しいものがあります」

「何かね」

「トマホークを装備した巡洋艦を一隻。 航空兵器の火力では限界があります。 トマホークを使える方が、今後は何かと安全でしょう」

腕組み。

流石にそれを出すとなると、スポンサーもかなり五月蠅くなるだろう。研究は今、進展速度を遅らせている。

「必ず倒せるかね」

「もし確実に倒すのであれば、水爆を使う他ないかと。 できる限りのことは、用意していただいた兵器を駆使してやってみます。 現実的な範囲内で必要なものを、今述べさせてもらっただけです」

「……分かった。 いいだろう。 少し型式は古くなるが、東南アジアのルートから、一隻調達してみよう。 ただし少し時間が掛かる」

黒鵜は、それでもまだ不安そうだった。

今は、研究を最終段階まで、なんとしても持っていかなければならない。

皆を戻らせると、平坂は今後の計画を、頭の中で微調整しはじめたのだった。

 

(続)