境界線の攻防
序、心音
やっと見つけた、ちいさな小川。
水の中にも、おかしな生物はいない。アマゾンのジャングルには、体の穴という穴から侵入して肉を食いちぎる恐ろしい魚がいるという事だが、此処にはそんな存在もいないようだった。
やっと体を洗って、一息つく。
子供達が寝入るのを見届けてから、耳を澄ますと。
遠くに、滝の音が聞こえた。
段差から言って、たいした滝では無いだろう。距離はどれくらいだろう。五百メートル。それくらいか。
五百メートルなら。今は、どれくらいで走れるだろう。
敦布は、かってスポーツに青春を捧げた。
体育教師になった理由も、それが一つであったかも知れない。
戻ってきた雛理さんが、機嫌悪そうに荷物を下ろす。結局まだ回収していなかった、崖下側のそりに積んであった物資だ。
水が数日分。
食糧も同じくらいは入っている。どれも保ちが良いものだが、いずれにしても、食糧そのものは、誰も困っていなかった。獣は捕まえられるし、毒草の類はある程度見分けがつくからだ。
しばらく、膝を抱えて座っていると。
雛理さんが、側に乱暴に腰を下ろした。彼女は野性的な格好だが、既に露出した部分の手足には、傷が相当数目立っていた。
傷が治っている暇が無いのだろう。
しかし、以前は目立たなかったちいさな変化も、今は詳細に分かるようになり始めていた。
「何かおかしな事はありましたか?」
「なにも。 近づいてきている人もいないよ」
「……」
休むと言い残し、雛理さんが消える。
近くの大岩の影に、木ぎれを組んだ屋根を作って、簡易の小屋を作った。雨風はしのげるし、食糧のため込みも難しくない。
それに、岩陰になっているので、発見もされにくい。
良い要素が多いが、そればかりでは無い。
攻撃をいざ受けたとき、隠れる場所が無いのだ。
敦布の様子がおかしいことは、寛子ちゃんも治郎君も、既に気付いていた。寛子ちゃんには、近くで枯れ木を集める作業を担当してもらっている。治郎君は火を見る番だ。鍋を使って蒸留装置を作ったので、それに水をいれて、火で温めて。二度ほど蒸留すれば、飲める水になる。
時間ばかり掛かる作業なので、治郎君にやってもらっている。
だが、二人とも、敦布のことを見る目が、以前とは変わってしまっていた。
治郎君は、露骨に怖がっている。
寛子ちゃんは、悲しそうに敦布を見る。
何となく、気付いているのだろう。
敦布が、どうやら「時間切れ」になりつつあるのだと。
だが、その一方で。この研ぎ澄まされた感覚と、以前より露骨に上がった身体能力は魅力でもあった。
勿論、自分が嬉しいのでは無い。
敵を突破し、脱出手段を得るために、だ。
何となく、敦布には分かっている。もう自分には時間が無いこと。そして、おそらくは、助かる方法も無い事も。
それなのに、心はまるで、鏡のように静かに澄み切っていた。
いざというときは。
子供達を守る事を忘れ、怪物になってしまうときは。殺して欲しい。
そう告げてはある。雛理さんと、寛子ちゃんのおじいちゃんの、二人共に、だ。
迫ってくるタイムリミットは、まだ実感が無い。いずれにしても、取り返しがつかない状態になってしまっているのは、確実だ。
ヘリのロータリー音が聞こえる。
旋回するように飛んでいるから、此方に気付いているのでは無いだろう。そう考えてから、ヘリの大体の位置と、今どこにいるかが分かってしまう事に苦笑する気も無く、膝に顔を埋めた。
もしも、化け物になってしまっても。
それでも、子供だけは襲わない化け物になりたい。そう、敦布は思う。
学者さんが戻ってくる。
ちょうど目が覚めたらしい雛理さんが、手を叩いて、皆を集めた。
「これから、大事な話をします」
敦布は膝を抱えて、その様子を見守る。
どうやら、雛理さんは、約束を守ってくれるようだった。
どこの国にも、暗部と呼べる存在がある。
勿論、平和を謳歌している日本にも、である。
政府は一枚岩では無く、海外から潜り込んだスパイが横行し、多くの住民の影で暗躍している。
それは決して、遠くの出来事では無い。
多くの人間が普通の生活をしている影で暗殺が横行し、邪悪な陰謀が進められている事も多いのだ。
しかも、政府がそういった勢力と、結託していることも珍しくない。
政治問題になることを怖れ、敢えて放置する。そういった事も、よく発生するのである。
たとえば。数年前に地下鉄で毒ガスをばらまく史上最悪規模のテロを発生させた宗教団体が存在したが、この者達の裏には北の某国家が存在していた。だから、蛮行を繰り返しているにもかかわらず対処が遅れ、最悪規模のテロを発生させるという事態に至って、やっと警察が動く事が出来たのだ。
現在でも多くの傷を残したこの事件は、未だに国の暗部に至る難しさを示しているとも言える。
日本でさえこれである。
世界的に見れば、政府規模での利権争いで、防げる悲劇が防げなかったり、邪悪が野放しにされることがいくらでもある。
だからこそに、必要とされたのが、雛理が所属している組織だ。
いかなる政府の利権にも関与せず、被害者団体からの献金で動く組織。通称「剣」である。
雛理が剣に所属したのは、さほど昔の事では無い。
身寄りが無いに等しく、死んだところで誰も悲しまない存在だけを集めて、剣は作られる。
民間軍事会社で素晴らしい成績を上げ続けた雛理が、そのコネから剣にスカウトされたのも、無理が無い事であったのかも知れない。
ただし、ある意味剣は究極の非合法武闘集団であり、どこの国からも目の敵にされている。
所属してからの寿命は、長くないのが普通だった。勿論、所属していることを公表するのは、自殺行為である。
それに、危険なのはスポンサーだって同じだ。
剣に出資していることがばれるのは、文字通り死を意味する。どこの国の諜報組織であっても、存在を許しはしない。
それに、何よりだ。
当然のことながら、スポンサーが善意で出資するわけが無い。
大金持ちなどというのは、それ相応の理由でなるものだ。たとえば、貯蓄に興味が無かったり、大金を運用することに嫌悪感を抱く者の場合、ある程度の金持ちになっても、使い方を心得ないことが多い。
だからこそに、剣に出資するスポンサーは複雑に絡んだ利権の一端を担っている事が多く、汚れ仕事を担わされたりする事も珍しくない。中には、政府側とべったりの人間もいる。いざというときの保険として、スポンサーを買って出ている訳だ。
当然、それで現実とのギャップを感じて、組織を出て行く者は多い。中には、体制側の諜報組織に買収されてしまう者もいる。
正義の味方など、漫画の中にしか存在しないのだ。
人間が集まった武闘集団である以上、それは利権で構成されているのである。
雛理の説明を受けて、意外に敦布は平然としていた。
子供達は分からない様子だったが。敦布が平然としているのは、やはり以前からは考えにくい。
子供の前以外では、随分と子供っぽい人だったからである。
今回の話でも。以前だったら、相当な反発をしてきたことは、疑いないだろう。子供の前で、酷い話をしないでとか、泣いて抗議したかも知れない。
今は、それを当然のものとして、受け入れながら聞いている。
この人はやはり、強くなったと言うよりも。
非人間的になったと言うべきかも知れない。
ある程度以上まともな人間なら、こういう話を聞けば、モラルに基づいた反発を覚えるからだ。
雛理はまともじゃないことを自覚している。社会の上層に行けば、それだけ非人間的になる事も理解している。
だが、それだけに。
モラルに基づいて生きている敦布のことが、不思議で仕方が無かった。
今ではある意味、雛理以上に敦布はインモラルな事象を、受け入れるのかも知れない。それが正しいことなのか、よく分からなかったが。
「それで、その「剣」が、今回の実験をかぎつけた訳か」
「はい。 それで私が尖兵として、ここに来ました。 少し前に北海道で似たような事件があった事もあり、状況を確認し次第、本隊を呼んで対処する予定だったのですが」
「これじゃあ、呼ぶどころじゃないな」
行成お爺さんが、皮肉混じりに言う。
手が空を切ったのは、酒を探して、無意識でやったのだろう。なんだかんだで、酒好きな人だ。
残念ながら、嗜好品を持ち出すような余裕は無かった。
「一体、北海道の事件ってのは何だ」
「陸自の特殊部隊30名ほどが、謎の失踪を遂げた事件です。 政府の発表では自殺とされていますが、同時にかなりの兵器類が消えたことが分かっています。 これについては、元々非公式の部隊だったので、もみ消しは難しくなかったようです」
「入り込んできていた何処かの国の諜報員と交戦した、とかじゃないのか」
「最初は我々もそれを疑いました」
実際問題、行成お爺さんの発言が、一番合理的な解釈だからだ。
事実最初も、剣の分析では、それが大多数を占めていた。しかしながら、交戦が行われたと見なされる孤島に潜入した人間が、驚くべき情報を持ち帰ったのである。
実際に行われたのは、生物兵器の大規模実験と思われる、と。
それだけではない。
無人の孤島とは言え、あまりにも数年前と地形が変わりすぎていたのだ。島が小さくなったというのなら、まだ分かる。激しい戦いで、地形が変わってしまった、というような事はあり得るからだ。
近代兵器の破壊力は、それだけ凄まじいのである。
実際、数十人が兵器ごと行方不明になるような戦闘があったのなら。そういう変化があってもおかしくない。
だが、島は。
大きくなっていたのだ。
「なるほど、此処と同じか」
「はい。 それだけではなく、気候も地質さえも、以前とは全く別物となってしまっていました」
流石にこの有様を見れば、剣としても尋常では無い出来事が起きたのだと、判断せざるをえなかった。
何かとんでも無い実験が行われた。
そして、日本の裏側で暗躍している男、平坂が浮上したのである。
非常に露出が少ない人間で、顔写真さえも出回っていない。だが、膨大な資金力と幅広いコネを保ち、幾つか剣の関わった事件で黒幕となっていた。
政府が抱えている幾つかの非公式部隊とも関わっているという噂があった。
調査の結果、斑目島で第二の実験が行われるという情報を剣が掴んだ。即座に雛理に偵察が命じられたのだが。
雛理が島に辿り着いて、偵察を行おうとした矢先に。異変が起きたのである。
「そうか。 お前の所で、利権の争いから遅れたわけじゃなかったのか」
「恐らく、それは政府サイドでの方だったのでしょう」
大体の場合、情報は外部から引き出せない。
内部から漏出するのである。
非人道的な実験に耐えられなくなった内部の人間が漏らしたか、或いは利権の調整が出来なくなったスポンサーがやったのか。
どちらにしても、剣だけで拾った情報では無い。
剣の協力者は多いが、それでも無理なことは無理なのだ。
とにかく、悲劇を止める事は出来なかった。剣の本隊が来ていても、これだけの規模の実験だ。
正面から攻撃を仕掛けて、止められたとは思えない。
今、雛理は敵が大隊規模だと考えている。
総力で剣が仕掛けたとしても、果たして勝てるかどうか。
そういう次元の相手だ。
正直、雛理は今のところ、敵を殲滅できるとは思っていない。組織としての力が違いすぎるからだ。
だが、此処にいる人達を脱出させることは、本気で考えている。
ただし、そのまま脱出させることは、それは生物兵器の流出につながりかねない。最低でも平坂か、研究を行っている人間を抑え。怪物化の原因と、その治療について調べる必要がある。
もしも、治療が不可能なら。
その時は、殺すしか無いとも思っていた。
だが、流石に其処までは言わない。恐らく行成お爺さんは、それくらいは理解しているのだろうが。
「どうしてこんな恐ろしい事を?」
「生物兵器の実験と、最初は私も考えていました。 でも、どうも様子がおかしいと、最近は思っています」
生物兵器の実験だとすると、この一連の事件はおかしすぎるのだ。
まず第一に、これほどの規模で行う意味が分からない。何より、生物兵器を試すのなら、住民の中に放ったりする方が、まだデータが取れるはずだ。
住民は文字通り皆殺しも同然の現在、生物兵器の戦闘データをとることは難しいだろう。勿論、より広義の意味の生物兵器でも同じだ。細菌を使ったようなものでも、人間に対する殺傷力を試すには条件がまずすぎる。
生物兵器の暴走の結果とも思ったが、それにしては幾つかおかしい点がある。そもそも、相手側の組織が、全く隙を見せないのがその理由だ。
指揮系統が混乱しているとかなら、敵兵にもっと動揺が波及する。
だいたい、失敗したのなら、殺処分なりなんなりをしているはずだ。それこそ、気化爆弾でも使って、である。
「今のところ、相手の目的は見えません。 しかし、どうも成功しているように思えるんです」
「ほう。 この状況で、かね」
「そうでないと、説明がつきません。 それに、成功しているとすると、一体何をもくろんでいるのか……」
データは、出した。
正直な話、まだ隠しておきたいことはいくつかある。
たとえば、いざというときの対処法、などだ。
しかし、ここまで言ったのだ。皆にもデータは出して欲しい。
「私は、出せるだけのデータを出しました。 まだ隠している事がある人は、お願いできますか」
「あまり話したくは無い事だが……」
最初に、行成お爺さんが話し出す。
「この島には、オンカヌシという存在の伝説がある」
「よくある祟り神の類ですか」
「いいや、実際に存在した脅威だ。 この島はな、四百年ほど前に、一度無人寸前にまで人が死んだことがある。 島の歴史じゃ、それを疫病によるものだって教えてるがな、一部の老人は知ってる。 オンカヌシを怒らせたためだってな」
この、シビアな現実を知っている老人が、そんなことを言い出すのには、当然訳があるのだろう。
オンカヌシとは何か。
話を聞く体勢に入っている雛理の前で、お爺さんは銃を磨き続けながら言った。
「今出てる化け物が、オンカヌシかどうかは分からん。 実際には、伝わっている幾つかの話は、どれにも矛盾があってな。 分かっているのは、当時の領主が島の水を汚したこと。 その結果、腐った黒い水が島中を覆って、多くの人間が死んだこと、そんなところだ」
その黒い水こそが、オンカヌシ。
島で、祟り神より怖れられている、伝承の存在。実際に一度島を壊滅させたというのなら、なおさらだろう。
実際問題、異変の最中に、異臭を含んだ黒い雨については雛理は経験している。あれは原爆が落ちたときに降ったという黒い雨に似ていたような気がするが、後で調べるとガイガーカウンターに反応は無かった。
「島では、アンボイナはオンカヌシの使いと呼んでいたな。 あれほど圧倒的な毒を持つ生物だからこそ、人間ではあらがえない最強の災厄の手先、と思ったのだろう」
「となると、あの黒い雨は……」
「いや、それがよく分からん。 四百年前の災厄でも、あんな人間を化け物にするような効果については記述されておらんからな。 もしそれなら、それこそ伝承に残っているだろうに」
「興味深い! 実に!」
学者さんこと、新田さんが本当に目を輝かせてそう言った。
ある意味、この人は筋金入りの阿呆だ。人生が楽しくて仕方が無いだろう。だが、頭がとても良い阿呆でもある。
敦布さんが完全にムードメーカーから外れた今。この人が、このぎすぎすした空間を、和らげているのかも知れなかった。
「オンカヌシ、か」
不意に、敦布がそう呟く。
どうしてか。雛理は、その言葉を聞いたとき。
背中に寒気が走るのを、感じたのだった。
1、異変の到来
寝ていた平坂が叩き起こされたのは、四時半のことである。
現在、神林は四つの区画に分割し、監視を行っている。そのうち東地区は、現在完全に無視している。カムイもなり損ないも、反応が無いからだ。
北地区に関しては、研究施設である「牧場」が存在するので、重点的な監視を行っている。
西地区に関しては、エアポートがある事もあり、重要な監視対象だ。常に二機のコブラが巡回し、不審者がいれば即座に蜂の巣にすべく、その牙を研いでいた。南地区は東地区に準じる監視の薄さである。理由は、海しか無いからだ。
不機嫌極まりない平坂に、巡回中のコブラ4に乗っている兵が、告げてくる。
「まずは、此方をご覧ください」
「何がどうしたというのだ……」
愛用の携帯に手を伸ばしつつ、平坂は目を細めて、視界を調整する。流石に彼の年になると、寝起きに即座に視界を安定させるのは難しいのである。
目をこすったり額を叩いたりして、必死に起きる努力をするのは。
平坂が、それでも部下を大事に思っていて、その報告を真摯に受け止めようとしているからに他ならなかった。
ようやく目を覚ます努力が実を結んで、映像に見入ったのは六分後。
そして、一辺に眠気が吹っ飛んでいた。
「に、人間だとは思えません」
「う、うむ」
これは驚いた。
恐らく生き残りがゲリラ戦を仕掛けてくるだろうとは思っていたのだが。まさか、これほど大胆に姿を見せるとは。
しかも、やっていることがとにかくとんでも無い。
「すぐに離れたまえ。 歩兵をぶつけたら、まず死人が出ることになる。 キャンプに近づくようなら、遠巻きに射すくめる」
「分かりました。 ……一応確認しておきます。 この位置からなら、ヘッドショットできますが」
「止めておきたまえ」
ヘリに乗っている狙撃手に、無理はしないように告げておく。
赤黒いジャージを着た女は、此方を見ている。
そしてその側には。
へし折られた大木が転がっていた。しかも、道具は一切使っていない。素手でやったのである。
確かに眠気も吹き飛ぶ。
すぐに映像を、解析に回させる。
あの女が、おそらくは研究所に潜んでいた一人であろう事は、既に分かっている。彼らの人数と装備も、大体は判断がついていた。
だが、今までの情報と、アレは。完全に別物だ。
一瞬、なり損ないという言葉が浮かんだが、すぐに否定する。
カムイ化の場合、万に一つの例外も無く、人間の原型がなくなるのだ。これはクローンによって作成した実験材料や、無数の動物を使っての実験で、念入りに確認した。国内や海外からかき集めたホームレスも使って、人体実験も八十例以上行った。
その全てで、人間としての原型を、とどめた例は無かった。
あのジャージは、明らかに人間の形をしていた。顔もあれば、目も。はっきり、意思のある目を持っていた。
寝室を出ると、スーツに着替える。これは寝ている場合では無い。
今回は、基本的に時間との勝負だ。すぐにオフィス代わりにしているプレハブの部屋に出勤。
上司が危急時に寝ていて、兵士達が士気を保てるだろうか。だから、少なくとも兵士達がやる気になれるように、振る舞わなければならない。感情が其処に伴っていなくても、である。
秘書官に濃いめのコーヒーを出させると、飲み干す。
昨日も遅くまで激務だったのだが、倒れてはいられない。二杯ほど飲むと、眠気が綺麗になくなった。後は何度か顔を撫でながら、軽めの食事を取る。レーションを食べる日もあるが、今日はハムエッグとご飯にふりかけという中途半端な和食スタイルである。
平坂は、昔から金持ちだったわけでは無い。
むしろ庶民として育った。だから、こういう食事は、むしろ落ち着く。綺麗に平らげると、部下達も緊急時に体が慣れてきたのか、ベースの中を走り回って、警戒を高めはじめていた。
程なく、黒鵜と岸田が来る。
岸田は、興奮していた。
「平坂ちゃん! ボク、あの女の子欲しいな!」
いきなりド直球な発言である。変態科学者は、最初から一切自重していなかった。流石の平坂も、鼻白んだほどである。
手をわきわきさせながら、岸田は満開な笑顔を浮かべる。
「解剖してみたい! ねえ、いいでしょ!」
「巫山戯るなよ、貴様……」
それに対して、血管が切れそうな顔をしている黒鵜がすごむ。
殺す事は、今の時点では難しくないはずだ。どんなに常人離れしている身体能力を持っていても、スナイパーライフルで頭を撃ち抜けば死ぬ。
ただし、万が一。万が一だ。
もしもカムイ化した上に人型を保っている特例だったとしたら。下手をすると複数あるコアを破壊しないと、死なない可能性さえある。
そうなると、通常人間に用いる戦術は、通用しない。
「観測班からのデータによると、カムイの波動は感じられませんでした。 あの人間が驚異的な身体能力を発揮したのは事実ですが、カムイでは無いと断言できるかと」
「でも、この間の発見できなかった奴みたいな特例もあるよね! やっぱり解剖しないと、分からないよ!」
「あれを捕縛と簡単に言うが、それがどれだけ危険なことか、貴様は分かっているのか?」
黒鵜が、声にすごみを込める。
彼の話によると、巨木をへし折るなどと言うのは、グリズリーにも無理らしい。それだけ、とんでも無い光景が先ほどは展開されていた、という事だ。しかもあの女、拳法の達人のようにはとても見えなかった。ぎこちない蹴りで、四抱えはある大木をへし折ったのである。
「よろしいでしょうか」
挙手したのは、秘書官だ。
彼女は、滅多に発言しない。だからこそ、岸田と黒鵜も、気圧されたように黙り込んだ。
「衝撃的な映像ではありますし、優れた身体能力を相手が見せつけているのも事実ですが、少し驚きすぎでは無いでしょうか」
「続けてくれたまえ」
「この映像のこの箇所。 木には事前に傷が付けられていたのでは?」
彼女が指摘してきた場所を注視すると、確かにそのように見える。
黒鵜は全く表情を動かさないのに対し、岸田がそれに反発した。
「相手を侮るのは危険だよ! ボクはやっぱり、解剖してみないと、何も分からないと思うな! ましてや、あの連中、多分泥洗の影響を、少なからず受けてるんだから! 本当だったら、全員捕まえて、解剖したいくらいなんだよ!」
「本気で言っているのか、貴様」
「本気だよ、黒鵜ちゃん!」
「二人とも、少し黙りたまえ」
平坂がぴしゃりというと、低レベルな喧嘩をしていた岸田と黒鵜が黙り込む。
流石に、平坂による威圧は効果的だ。
変人である岸田でも、自分の生命線がどこにあるかは理解しているのだ。此処で言う生命線とは、己の命のことでは無く、研究の継続、の意味であるが。
「確かに秘書官の言うとおりだ。 それよりも、冷静になってみると、私は幾つか気になることがある。 黒鵜、もしも敵対勢力が、このような行動に出る場合、どんな意味が想定される」
「一種のディスプレイ行動かと」
「動物が、己の力を示すあれかね」
「はい。 要するに、攻撃するなら覚悟しろと、示しているのだと思います。 或いは、此方に警戒させて、動きを鈍化させることが目的かと」
なるほど、それなら納得も行く。
相手側がどうやってあの力を手に入れたのかは分からない。恐らく、十中八九は偶然だろう。
分かっているのは、力を手にしていることを、相手が自覚していること。
そして、場合によっては、力を使う事を、惜しまないという事だ。
日本では、不思議な事に、力を持っていても、使わないことが美徳、というような風潮がまかり通っている。
これは現実的な強さを求めるはずの武術などでも、同じだ。
だがそれは世界的に考えれば、むしろおかしい考え方であると、平坂は知っている。相手側には相当な手練れがいる事が分かっているが、そいつが吹き込んだのかも知れない。いずれにしても、放置しておくと面倒だ。
今までは泳がせていたが。
あれだけの力を手に入れたのだ。既に、障害としては充分な存在に育った、といえるかも知れなかった。
「黒鵜、キャンプおよび、牧場周辺の防備は」
「既に充分に固めています。 肉食恐竜が群れで攻めこんできても、充分に撃退が可能です」
「それは頼もしい。 では、此処からは遠慮無しだ。 此方から仕掛けはしないが、相手がもしも姿を見せたら、容赦なく頭を撃ち抜け」
「分かりました」
不満そうに口をとがらせる岸田。
此奴としてみれば、生きたままサンプルを捕らえたかったのだろう。さっき吐露した本音からしても、それは明らかだ。
実際、岸田は優秀な科学者だ。
だが、それが故に。きちんと首輪を付けて、つないでおかなければならない。
「カムイは殺したら、溶けてなくなっちゃうんだよ……?」
「できる限り善処はしよう。 それに、秘書官が言ったとおり、何かしらのトリックを使った可能性も否定出来ない」
「それはそうだけどさ。 あーあー、もっと研究材料が欲しいなあ」
「例のものは、既に取り寄せた」
不満げな岸田が、一気に表情を明るくする。
飴と鞭は使いようだ。
少なくとも、相手の欠点だけを見て判断する減点法は、平坂の忌むところだった。
未だに、信じられない。
敦布は、本当に自分が木を蹴り倒した事の実感が無かった。身体能力が上がっていることは分かっていたのだ。
だが、まさかこれほどまでとは思っていなかった。
実際には、生木をそのまま蹴り倒したのでは無い。
持ち出したのこぎりで、ある程度木は削っておいた。それに、最初から痛んでいて、コケが一杯生えている木を選んでおいたのだ。それでも出来る自信は無かったが、先に予行演習をやったところ、出来てしまったので。似たような条件の木を探して、それから実施したのだ。
夜明けのうちに抜け出すと、密林を走った。
そして、適当なタイミングでわざとヘリに見つかったのだ。アパッチでは無くて、コブラと呼ばれているヘリだったが、別にそれは構わない。
手を出したら、ただじゃすまさない。
それを相手に示すことさえ出来れば、それで良かったのだから。
木を蹴り倒すと、泡を食ったヘリは飛んで逃げていった。まずはこれで成功だ。雛理さんには言っていないが、今やったことの意味は大きい。
これで、子供達への危険は減る。
反応から言って、相手が守りを固めに入るのは確実だ。それだけ攻めにくくなるが、その一方で。
相手が攻めに使う人員を削ることも、それは意味している。
それにしても、前だったら、こんな考えは絶対に浮かばなかっただろう。どうしてか、頭の回転まで、ぐっと早くなっていた。
皆が起き出す前に、戻る。
後をつけられていない。それは、断言できた。断言できるほど、感覚はクリアになっていた。
日が昇った頃には、皆の所に戻って、何食わぬ顔で朝食の準備を開始できていた。
昨日罠で捕まえた兎を、既に捌いてあったので。そのお肉を、火で炙る。前は兎に誤りながら食べていたのだが。
今は黙々と、その肉を口に運ぶことが出来るようになっていた。
それだけではない。
寛子ちゃんに、猟銃の使い方を教えてくれるように、寛子ちゃんのおじいちゃんに少し前から頼んでいる。
自分はもう、銃器の類はいらない。
現実的に考えれば、度胸もある寛子ちゃんが、銃を使えた方が全体の戦力向上につながる。
そう、敦布は結論していた。
以前だったら、こんな結論は絶対に出ないと、分かっている。
受け入れることも、絶対に無かっただろうとも。
変わってしまった自分が、はっきり分かる。だが、変わっていない部分もある。
子供達を守るためなら。
敦布は、手段を選ぶつもりは無かった。
雛理さんが偵察に出て、戻ってくる。
そして、敦布を見るなり、開口一番に言った。
「先生、何かしましたか?」
「どうしたの? 何かあったの?」
「巡回のヘリが、二機一組になっていました。 相当な警戒をしている証拠です」
普通、相手の装備が貧弱な場合、編隊を組んでまで偵察をする事はまず無いと、雛理さんは言う。
確かにそれはそうだろう。戦闘ヘリは地上兵器の天敵だと聞いている。それに、最近の戦闘ヘリは、装甲も厚いと。
敦布も、身体能力が上がり、感覚が鋭くなって、それを実感できるようになった。戦っても、勝てるとは思えない。隙を突くか、或いは罠に掛けるか。ただ、センサーなどで、隠れていても察知されてしまう可能性も高そうだ。
しばらくじっと敦布を見ていた雛理さんだが。
恐らく、此方の嘘は看破できなかったのだろう。視線をそらすと、立ち上がって、西の方を見た。
彼女が言う、平坂という人がいると思われる方角だ。
「午後から、恐らく一雨来ます」
「! 久しぶりだね」
「濡れないように、物資を石の影にしまいます。 みなさんも、手伝ってください」
それからは、全員で黙々と、物資を住処にしている石の影に移した。
上から見てみると、雨に濡れるかどうかは、判別がある程度つく。粗末な屋根を伝った雨が、どう流れるかも。
物資の中には、濡れてしまうと台無しのものも少なくない。
兎を捕ってきてくれた寛子ちゃんのおじいちゃんが、作業を横目に、昼食の準備を始めてくれる。
無言で手伝う寛子ちゃん。
兎を絞める手つきも、かなり慣れてきていた。
太陽が、頂点を少し通り過ぎた頃くらいだろうか。雨雲が、分厚く空を覆い始めた。そういえば、散々浴びた、腐臭を帯びたあの黒い雨。あれが、体をおかしくした元凶なのだろうか。
オンカヌシという言葉が気になる。
いずれにしても、子供達を雨に晒すリスクは、回避しなければならない。
「昼食、出来ました」
「早めに食べて、雨を浴びないように気をつけて」
「はい。 先生は?」
全員が、岩陰に隠れるのは無理だ。
敦布は、雛理さんとは別の大樹の陰に隠れる。木に背中を預けていると、雨が降り出した。
黒い雨じゃ無い。
雨らしい、普通の臭い水だ。
どうしてか、何となくだが。それが危険の無い、普通の雨だと言う事も、分かってしまう。ますます人間離れしてきているなと、膝を抱えて、敦布は思った。
ぼんやりと降り注ぐ雨を見つめていると、雛理さんが隣に来た。
「何をしてきたんですか?」
「……」
開口一番にこれか。
だませてはいなかったと言うことか。いや、恐らく、確信が無いから、かまを掛けに来たのだろう。
正直な話、嘘をつき通す自信はある。
だが、今の雛理さんと事を構えるのは、あまり好ましくない。流石に敦布だけでは、子供達を守りきれない。
寛子ちゃんのおじいちゃんはとても元気だが、どちらかといえば考え方は雛理さん寄りの、現実主義者だ。
きっと娘さんのことは、最初から諦めていたのだろう。
とはいえ、彼処まで躊躇無く撃てるのである。それは、孫に対しても、同じの筈だ。
「少し、脅かして来ただけ」
「なるほど、合点がいきました。 ただし、次からやるときには、独走は避けて相談してください」
相手はプロの軍人だ。
今回は奇襲的に切ったカードが効果を示したが、次からはあまり上手く行かないと思った方が良い。
そう言われたので、頷く。
それくらいは、敦布だって分かっているからだ。
前は話半分に聞いていたが、近年のスナイパーライフルは、一キロ以上先からの狙撃を可能にしているという。
無茶なものを散々見たからだろうか。今では、理不尽なまでの恐怖を、現実的な危険として認識できるようになっていた。
雛理さんが、隣に腰を下ろす。
まだ話がある様子だ。
「先ほどの話、どう思います?」
「オンカヌシのこと?」
「そうです。 オンカヌシというものが現象なのか、或いは何かしらの恐ろしい出来事なのかは分かりませんが。 少しできすぎていると思いませんか?」
「確かに符合する点が多すぎるね」
特に気になるのが、黒い雨、というものだ。
桜島の噴煙を含んだ雨かも知れないと、雛理さんが呟いていたが、どうもそうとは思えない。
実際問題、このような異常を招いたのは、あの雨が原因だとしか思えないのだ。
それだけではない。
おかしいのは、以前北海道で実験していた、という点である。いくら何でも、離れすぎている。
「平坂って言う人は、ずっとこの斑目島に目をつけていたの?」
「いえ。 この島がターゲットにされたのは、おそらくは孤島で、人口密度も少なく、制圧がたやすいから、かと」
「それなら余計変だね。 どうしてそんな言い伝えと符合する出来事が起こるんだろう」
嫌な予感がする。
ひょっとして、この島は、最初から何か、とんでも無い爆弾を抱えていたのでは無いのか。
そこに、更におぞましい何者かが持ち込まれた。
二つの何者かが融合して、今の事態が起きている。そして、或いは。平坂という人は、それに気付いていないのでは無いのか。
考えて見れば、企業のトップなどが、科学者として知識がある例など、滅多に無い筈だ。平坂という人がリーダーとして実績を残している人だとすれば、危険さに気付いていない可能性は、高い。
雨が、激しくなってきた。
石の方は大丈夫だ。此方はというと、時々大粒の水滴が落ちてくるようになった。勿論、持ち出せた物資に、傘など無い。
無言で膝を抱えたまま、濡れるに任せる。
今更雨に濡れることなんて、何とも思わない。紫外線がどうの日焼けがどうのと気にしていた年頃も、昔はあったかも知れないが。
遠くより雷鳴が轟く。
これだけの豪雨だ。雷が落ちても不思議では無い。
雷は、幸い近づいては来ない。ただし、雨の激しさは、増す一方だが。
水音が聞こえる。
近くの小川が、氾濫しているらしい。そういえば、あの河は最終的にどこに辿り着いているのだろう。
膝を抱えたまま、そんなことを考えていた。
雨は結局一日中降り続けた。
小川に見に行くと、相当に増水しており、近づくのも危険な状態だった。水の流れが激しい上に速く、足を取られたら一気に流されかねないからだ。
水は、備蓄していたものを使うしか無い。
食糧も、だ。
備蓄物資の中から、レーションを開けて、皆で食べる。正直言って美味しい食べ物ではない。ただし栄養価とバランスに関してはとれている筈のものなので、それだけは安心できた。
レーションの中にはチョコレートも入っていた。
治郎君はチョコレートを見ると一瞬だけ嬉しそうにした。嬉しそうにする子供達の姿を見るのが、先生として敦布の一番幸せな時間だったのに。
「治郎君、チョコレート、先生の分もあげるよ」
「えっ? いいの?」
「大丈夫。 先生は、そんなにたくさんいらないから」
昨日は殆ど動いていないから、実際まだ余力はある。雛理さんが、食べていないといざというときに動けなくなるとこの間教えてくれたが。
今の敦布は分かるのだ。
少しくらい、まだまだ無理が利くと。
ちょっとだけでも、子供達の幸せそうな顔は見られた。これで、またがんばれる。
「少し、偵察に出てくる」
雛理さんが何か言おうとしたが、聞く気は無い。
時間が無いのだ。
あまり、もたついてはいられなかった。
昨日から雨脚は衰えていない。風にのって吹き付けてくる雨粒はとても大きくて、前だったらそれだけで尻込みしていたかも知れない。
既に真っ黒と言っても良いほど酷い色になった自慢のジャージのまま、敦布は走る。
途中から木によじ登って、枝を蹴り、跳ぶ。
木の上を行けば、足跡だって残らない。着地した枝に止まっていたカラフルな鳥が、驚いて飛び去っていった。
西を目指す。
どこに平坂という人がいるか、確認しなければならない。
昨日出歩いたときに、何カ所かの木に目印はつけた。それに、東西南北を確認する方法は、既に身につけている。
それでも、完璧には行かない。
何度か迷ったり、戻ったりする。
それでも、一人で、確実に西へ進み続けた。
ある一点で、足が止まる。
無意識が、意識よりも先に働いたのだろうか。気配を感じる。それも、とてもたくさんの気配だ。
人間か。
もしそうなら、平坂という人が連れてきている軍隊だろうか。
しばらく、木の枝の上で、息を殺して様子を見守る。
そして結論。
人間では無い。平坂という人とは違う。
額を拭って、汗だか雨汚れだか分からないものを払う。
気配は、周囲に無数にある。
それが何だかよく分からないが、はっきりしているのは、此方には気付いていないと言う事。ゆっくり移動している、という事だ。
足音が、聞こえる。
雨の中に混じって、ゆっくりと、這いずるような足音が。
息を呑む。
どうやら、更にこの島は、予想を出来ない事態に、突入しつつある様子だった。
それは、最初泥の塊に見えた。
だが、違う。人型をしている。一体や二体では無い。地中に埋まっていた、人間の死体らしいと、判断できた。
だが、泥を全身にまぶしている。それだけではない。
真っ黒の、おぞましい液体が、その全身に纏わり付いていた。
動きはとても鈍い。
だが、確実に、一方を目指して歩いている。オンカヌシという言葉が、唐突に頭の中を走った。
寛子ちゃんのおじいちゃんが言っていた、過去島を襲った災厄。
死体を覆っているあの黒い水、それがオンカヌシでは無いのか。雨でも流れる様子は無いし、何よりも死体の動きがおかしいのだ。
というか、そもそも死体が動くはずが無い。
感覚が、何処かおかしくなっているのかも知れない。
数えていると、簡単に百を突破した。これは、まずい。一旦戻って、皆に知らせた方が良いだろう。
雨はますます激しくなる。
それに伴って、死体はますます増えているようだった。
2、ふたたび黒い雨
平坂が、モニターの前に立つと、既に作戦は開始されていた。
歩き来る無数の死体。まるでゾンビ映画だ。
以前の泥洗では、このような事態は無かった。しかも、カムイの反応は無いと言う。なり損ないの可能性も無さそうだ。
泥洗によって生じる第一段階のなり損ないは、通称「影男」と呼ばれる。ゾンビ映画のゾンビとは全く違う存在で、知能もあれば集団行動も出来る。
何例か影男にならずにカムイになった例も報告はされていた。
だが、あれは異常すぎる。
最初監視装置がこれを発見したとき、平坂も冗談か何かと思った。だが、実際にカメラに映像が捕らえられ、笑うことは出来なくなった。
考えて見れば、カムイだって充分以上に非常識な存在なのだ。そのメカニズムが分かっているだけで、理屈は全く分かっていない。
岸田が早速聞きつけて、サンプルが欲しいとかいっているが、後回しだ。
数が多すぎる。
まずは、撃退を考えなければならない。
「攻撃を開始します」
「うむ。 容赦するな」
雨粒をはじき飛ばしながら飛んでいたコブラが、機関砲の火力を解放した。
頭上から撃てば戦車の装甲でも貫通する火力が、動く死体の群れを襲う。瞬時に吹き飛ばされた死体が、原形を残さないほど粉々に飛び散る。
無数に蠢く死体だが、攻撃は一方的だ。
だが。
殲滅には、つながらない。
死体が、倒れた端から、次々次のものが現れる。
咆哮し続ける機関砲。
だが、敵が減っているようには見えない。むしろ、増えてきているように思える。
乗り出した平坂は、確認する。元々の数が多いのでは無い。飛び散ったはずの死体が、再生しているのでは無いのか。
「敵勢力、前進を続けています!」
「司令官」
黒鵜が通信してきた。火炎放射器を使いたいという。
雨の中では効果が低いのでは無いかと思ったが、違う。まず死体の群れにガソリンを浴びせて、其処に着火するそうだ。
「ナパームを使った方が早くないかね」
「そのコブラには積んでいません。 まず通じるかを試してみたいです」
「ふむ、そうか。 わかった、やりたまえ」
敬礼すると、黒鵜が部下に指示をはじめる。
ガソリン缶から、群れる死人に向けてガソリンがまかれる。そして、チェーンガンが咆哮する。
着火。
爆発。
吹き飛んだ死体の群れ。盛大に燃えさかる森。激しい雨だが、流石にガソリンをまかれている状態だ。火勢が衰える様子は無い。
普通だったら、これで片がつくはずだった。
だが。死体共は、動きを止めなかった。
「牧場から連絡! 研究中のサンプルが、いずれも例外なく動きを活発化させていると言う事です!」
「やはりこの事態に連動していると見て良さそうだな」
「岸田博士が、つないで欲しいと言っているのですが」
「後にしたまえ」
しかし、岸田は珍しく食い下がってくる。
苛立ちながらも、結局折れて連絡をつながせた。
岸田がモニタに現れると、珍しく太った科学者は、泡を食った様子だった。つないで正解だったかと、内心でぼやく。
「平坂ちゃん、早速だけど、今回の件、ちょっとまずいかも知れない」
「理由を簡潔に述べたまえ」
「北海道での実験、失敗したじゃんか。 あの時も、直前にサンプルが揃って暴れ出したの、覚えてる?」
そういえば、そうだった。
対応が遅れた理由も、である。実は大暴走事件の直前、特に目だったなり損ないの反応が検出されることも無く、不意に強大なカムイが発生したのである。だから、対応が遅れたのだ。
今回は、その轍を踏まえ、二重三重の手は打ってある。
だが、その網を、全てくぐり抜けられたのだとすると。
「殺処分も検討しないといけないかな。 もったいないけど……」
「それは私が判断する。 とりあえず、君は持ち場を死守したまえ。 死体の群れは、そっちには行っていない。 内部からの安全だけを、君は考えていればいい」
「分かったよ。 カムイも、一筋縄じゃいかないねえ」
通信を切ると、大きく嘆息する。
これは、思ったよりもずっとまずい状態かも知れなかった。
黒鵜が代わりに連絡を入れてくる。そして、喋る前に、映像を見せてきた。
「見てください。 燃やされたことで、正体が見えてきました」
「泥、か」
「はい。 泥が人間の死体をかたどっている、と見て良さそうです。 ガソリンによって燃やされた後も、水分さえ補給されれば動いています。 この雨は……!」
雨の激しさは、納まる気配も無い。
さて、どう対応するか。
「歩兵戦闘車を使って、敵をおびき寄せられないか」
「やってみますが、敵がキャンプから目的をそらしてくれるとは思えません。 もしもなり損ないと同じだとすれば、より人間が多い方に向かう可能性が……」
「その時は、その時だ」
秘書官が来た。
脱出用のヘリを用意したという。
確かに、あれだけの数の泥の人形に押し寄せられると、かなり面倒だ。ゾンビ映画のように、数で蹂躙されてしまうだろう。ましてや相手には、通常火器が殆ど効いていないのである。
「雨は後どれくらい続きそうかね」
「まだしばらくは」
「……そうか」
最後まで残ると秘書官に告げると、黒鵜に指示。
今まで、何重にも、念入りに作り上げてきた防衛網がある。しばらくは保つはずだが、それでも絶対はあり得ない。
歩兵戦闘車が出た。
豪雨の中、泥を蹴立てて、密林に出て行く。すぐに発砲しはじめる歩兵戦闘車。ヘリも連動して、攻撃を開始する。
敵の動きの鈍さを利用して、群れの外周に火線を浴びせながら、歩兵戦闘車がゆっくり迂回を開始する。
だが、敵はやはり、そちらには見向きもしない。すぐ側にいる泥人間は唸り声を上げながら反応しているが、それだけだ。
「やはりな。 通用しないか」
「次の手です。 現在、この地点にあった小川が、大規模な増水を起こしています。 此処に爆弾を仕掛けて、流れを此方に向けます」
「ふむ、嚢砂の計か」
「左様で」
かって、いにしえの名将が使った作戦を、此処で使うことになるとは。
すぐに歩兵戦闘車を下がらせる。あの泥人間の群れと、兵士達を生で戦わせるのは、最悪の愚策だ。
数には数。
自然には自然である。
黒鵜はすぐに部下達に命じて、火薬を仕掛けさせる。
即座に、実行される爆破。
この時には、既に。
キャンプから数百メートルまで、泥人間の大軍勢は迫っていた。
近いから見て、泥水で押し流せば、キャンプから遠ざけることは難しくない。鉄砲水が、多少予想からは外れながらも、一気に泥人間に躍りかかる。歩兵戦闘車が、モニタの中で飲み込まれ掛けながらも、どうにか逃れることに成功。
だが、ほっとしたのも、つかの間だった。
泥人間の先頭集団は、膨大な水に押し流されて、遠くへ消えていった。
だが、後続は、ぴたりと足を止めたのである。
知能があるのか。
或いは、統率している存在がいる。
これは、或いは。
未発見のカムイがいて、それが操作していると、見て良いのだろうか。カムイの中には、非常識な能力の持ち主が多数いる。ゾンビのように泥を人間の形にして、それを動かし襲わせるという力が合っても、不思議では無い。
「敵が動きを止めました」
今更ながら、間抜けな報告が上がる。
無言で頷くと、平坂は様子を見るように指示。鉄砲水も、いつまで続くか分からない。問題は、それが収まった後だ。
あの泥人間の群れが、いつどこから現れても、おかしくは無いのである。或いは、次は牧場の方に出るかも知れない。
しばらくは、誰もが臨戦態勢のまま過ごすしか無いだろう。
今のうちに、この場にいる者達に、交代で食事休憩をさせる。平坂も、秘書官にレーションを持ってこさせて、それをほおばった。レーションに入っているチョコレートが、平坂の好みだ。
無心で顎を動かしていると、黒鵜から連絡。
敵の群れの規模が、正確に分かったという。
「コブラを飛ばして、敵の群れの外縁を確認できました。 密度から考えて、数は三万を超えています」
「ふむ、三万か……。 動きは鈍いとは言え、その全てが不死というのは、笑えんな」
「カムイが操作しているのだとすれば、それを叩くしかありません。 早く特定しなければ。 他にカムイの反応が無いとすれば、牧場の中にいる研究中のカムイが、何か悪さをしているのかも」
「それならば、泥人間の群れが、牧場に向かわなければおかしいのではないのかね」
此処で議論しても意味は無いのだが、それでも平坂も、安易に殺処分には踏み切れない。
今回のプロジェクトも失敗したら、流石にスポンサーもだませなくなってくる。金を出さなくなってくる者も出てくるだろう。
黒鵜は、理解してくれてはいるはずだ。
だが、それでもなお、こういうことを言ってくる。つまり、それだけ事態が切羽詰まっている、という事である。
「岸田には調査させている。 しばらくは、現場での指揮を頼む」
「分かりました。 サンプルを捕獲した方が良さそうですが……」
「そうだな、今回ばかりはそうしてくれ」
サンプルを捕らえることそのものは、難しくないだろう。
一つ問題がある。
もしもこの泥ゾンビの群れが、カムイと関係なかったら、という事だ。
その場合、この島には。今まで平坂が想像も出来なかった、いわゆる第二勢力が存在した、と言うことになる。
現在フェイズ4まで入っている計画に、大幅な修正が必要となってくる。
極めてまずい事態だ。
そもそも、泥洗で計画的に此処まで作り替えた斑目島に、どうして不確定の要素があるのか。
不可解でならない。
ほどなく、一匹サンプルを捕らえたと、黒鵜から連絡があった。
籠を下ろして、入ったところを抑えたのだという。岸田にも連絡を入れ、すぐに分析を開始させなければならない。
牧場の方は、どうにか岸田以外の職員達に任せるしか無いだろう。
大雨が続いている。
囂々と流れる水が、泥ゾンビの進撃を、かろうじて防いでくれてはいた。
そして、最悪の連絡が、岸田から来た。
通信を開く。岸田は好奇心と恐怖がない交ぜの表情をしていた。
「まずいよ、平坂ちゃん」
「どうした。 簡潔に言え」
「うん。 実はね、どうもカムイは関係無いッぽい。 今もらったサンプルも調べてるんだけど、明らかに遠隔操作なのに、こっちに連れてきても動きとか動作精度とか、様子が変わってないんだよ。 つまり、カムイと関係無いとみた方が自然だね」
「……分かった」
やはり、この島には。
平坂が知らない、第三者がいると言うことか。しかもそれは、泥洗による、島の再構成にも耐え抜いたという事なのか。
一体何者だ。
泥洗によって、この島は外界から遮断された。つまり逆に言えば、一つの島を完全に作り替え、再構築したという事だ。
そんな状態で、自我を保った存在がいたというのか。
研究所に逃げ込んだ人間達とは根本的に違う。それこそ、島の全て、土の中まで泥洗は徹底的に変えたのだ。
それなのに、一体何が生き残ることが出来たというのか。
勿論、この島を使うとき、徹底的な事前調査を行っている。
オンカヌシという伝承の存在が、一度島を滅ぼしかけたというデータもあった。だが、どう調べても、ただの民間伝承の域を超えず、疫病か何かの暗喩だっただろうというのが、通説だった。
だが、もしも。それが違ったのなら。
「オンカヌシ……」
呟く。
その言葉は、とんでもなく、禍々しい響きを伴っていた。
「司令官!」
部下が、おののきの声を上げた。
そして、モニターには。その原因が映り込んでいた。
「黒い雨……だと!?」
泥洗の時に、降り注いだ黒い雨があった。
あれは泥洗によって発生したものだと結論づけられていた。だが、泥洗については、現在封印を施している。
どうして、雨が黒くなる。
「総員、念のために対泥洗の体勢に。 すぐにヘリに分乗する準備を」
「分かりました。 すぐに!」
緊張状態が、極限に高まる。
全員が空中に逃げられる体勢は、とっくの昔に整えられている。この島に来たとき、それが最低条件だと、黒鵜が提示したからだ。
平坂は防護装置も兼ねているカッパを着込むと、すぐに輸送ヘリに移る。オペレーター達も、順次それに習った。
「前線はどうなっている」
「泥人間達は、動きを止めません。 どうやら、河の流れが弱くなるのを、待っている様子です」
「すぐに大型の輸送ヘリを派遣して、歩兵戦闘車を回収。 泥洗に対策するように、黒鵜達にも連絡を」
「直ちに」
泥洗の凄まじい破壊力は、此処にいる全員が知っている。
それにしても、一体何が起きているのだ。
ようやく、平坂も腹をくくる。
これは、計画を進めるどころでは、なくなりつつある。
勿論、データは回収しておく必要がある。スポンサーを黙らせられるかは分からないが、それは此方の手管次第だろう。
「岸田につないでくれ」
まずは、データの退避からだ。
怖れていた事態が始まった。
雨が黒くなり始めたのだ。
しかも、匂いが。あの時の、腐肉の匂いを帯びている。
間違いない。オンカヌシの特徴だ。一体この島で、また何が起ころうとしているのだろうか。
敦布が皆の所に戻ると、既に石の影に、皆が集まって話し合いをしていた。
子供達は隅っこでおとなしくしている。雛理さんが、話を進めている様子である。
「行成お爺さんが言ったオンカヌシと、この状況は酷似しています。 何か対策は思い当たりませんか」
「昔話はな、ただ神の怒りを買った民が悔い改めて、それで世界は元に戻った、で終わっているんだよ。 オンカヌシ様ごめんなさいってな。 黒い雨がそんなことで収まると思うか?」
「……」
何かの暗喩になることが無いか、雛理さんが聞く。
だが、いずれもが。ヒントにはならないようだった。
非常にまずい。
敦布が入る。体が黒い雨に濡れているのを見て、露骨に寛子ちゃんが怯える。治郎君は、もう怯える元気も残っていないようだった。
「大丈夫。 続けてくれる?」
「何が起きているのか、分かりますか?」
「ゾンビ映画みたいになってた」
「……っ!?」
無数の泥を帯びた死体の行進。
遠くから聞こえてきた、銃撃の音。きっと、平坂という人の連れてきた軍隊が、あのゾンビ軍団と戦っているのだろう。
ぐっと、身を縮める寛子ちゃん。
気丈な彼女も、そろそろ限界が近いのだろう。
「もうやだ……」
「大丈夫。 何とかするから」
敦布が肩を抱いて慰めようとすると、露骨に彼女の目に恐怖が宿る。
黒い雨を怖がっているのか。
変わってしまった敦布を怖れているのか。
いずれにしても。もう、戻る事は出来ない、だろう。
「この雨、サンプルをとっても良いかね」
「好きにしてください」
「おお、そうさせてもらうよ」
学者さんが、大喜びで鞄から瓶を取り出し、黒い雨を採取しはじめる。
この人だけは、マイペースだ。行成お爺さんでさえ、不安で身を縮めている様子なのに、である。
雛理さんが、外に出るように、視線で合図してくる。
頷いて、一旦外に。雨に出来るだけ濡れないように、大樹の下に移動した。もっとも、敦布はもう、さんざん濡れてしまっているが。
雨はますます酷くなってきている。そして、露骨に、黒みが増しはじめていた。一体何が起こるのだろう。何度か、降り注いできた雨粒を拭いながら思う。既に、周囲には、据えた腐臭が充満しつつあった。
「さっきの話ですが、好機かも知れませんね」
「無理だと思う」
平坂という人がアホで無ければ、もう撤収をはじめているはずだ。研究成果だけしまった上で、である。
しかも、たくさんヘリを持ってきていると聞いている。
おそらくは、兵士達も残らず回収しているはずだ。
以前では無理だった論理的思考が、敦布の中で動いている。頭が回っているというのだろうか。
強くなったのは、体だけでは無い、という事だ。
「勿論、今の状態で、ヘリを奪うのは難しいでしょう。 ただし、全員がスムーズに脱出できるとも思えません」
「何をするつもり?」
「急襲を掛けます。 彼らにとっては不要なデータでも、此方にとっては違う可能性も高い。 残念ながら、それが出来るのはわたし達だけです。 行成お爺さんでは、足腰が弱っていて、現場まで行けないでしょう」
また、泥が来るかも知れない。
海から、真っ黒な泥が。
その場合。もう、逃げる場所はどこにも無い。
海が見えないのが怖い。海を見て、泥で埋め尽くされていたら、どうしよう。まだ自分の中に、恐怖が残っているのに気付いて、敦布は少しおかしくなった。
「みんなに話してきます」
「……」
無駄だと、雛理さんが表情で言う。
だが、それでも。敦布は、最後の最後まで、自分でありたかった。
3、突入と……
恐らく、平坂という人が身を守るためにやったのだろう。
川の流れが、大きく変わっていた。そして、その川の対岸。さっき見た、ゾンビみたいな人影が、無数に蠢いている様子が見て取れた。
あれは、本当に何なのだろう。
この島は地獄だ。地獄のかまが抜けて、侵略されてしまったのだ。そう思っても、不思議では無い。
「此方を行きます」
下は濁流。
木の枝の上で、雛理が手を引いてくる。落ちたら一巻の終わりだ。
木の中には、相当に強く根を張っているものもある。それらの中には、濁流の中立っていたり、未だに橋のようになって頑張っているものもあった。
ゾンビ軍団は、それらを使う知恵が回らないらしい。
或いは使って先に行けるほど、身体能力が高くないのかも知れなかった。
密林とは言え、雨は降り注いでくる。樹冠が全ての雨を防いでくれる訳では無い。雛理が示したとおりに、行く。
枝は相当にぎしぎしと言って、今にも折れそうだった。
「雨、止まないね」
「私も、いつ貴方のように異変が始まるか分かりません。 これでも、結構びくびくしているんですよ」
「……ふうん?」
完璧超人では無い事は知っていたが。まあ、話半分に受け取っておく事とする。雛理さんのことを、今でも信頼しているわけでは無い。
今では、利害関係、という言葉がよく分かる。
この人にとって、敦布は利用する意味が出てきた。だから心を開いているふりをしている可能性が高い。
歴戦の猛者であり、超国家的な組織に属しているのだ。
それくらい冷徹で無いと、生きてはいけないのだろう。
「あれですね」
雛理さんが、枝の上で足を止めた。
川を越えてから、十分ほど北上した地点で、である。既に夕方を通り越して、夜になりつつある。
見えてきたのは、頑丈な鉄柵で覆われた施設だ。動物園のような、円状の針金ドームが多数見えている。
怪物を閉じ込めて、研究していたのでは無いか。
そんな風に思えてきた。
雛理さんが目を細めて、じっくり周囲を観察して廻る。恐らく罠とか、迎撃装置とか、そういうのを警戒しているのだろう。
もうヘリはいない。
というよりも、生き物の気配そのものが、内部からは感じ取れない。もう少し近づいてみないと断言できないが、きっともう中には誰もいないはずだ。
周囲は沼沢地になっていて、増水で酷い有様だ。
既に周囲は腐臭の坩堝と化していて、普通の人では正気を保つのさえ難しいかも知れない。
不意に、雛理さんが猟銃をぶっ放した。
何かが壊れる音がする。更に、立て続けに二つ。
「監視カメラを潰しました。 後は対人地雷が問題ですね……」
「彼処まで飛び移ればいい?」
「出来るんですか?」
一番近い枝から、金網の上までは二十メートル近い直線距離がある。通常の人間だったら、絶対に無理だ。
だが、今の敦布なら。
枝をしならせて、何度か準備運動する。跳ねているうちに、どれくらい枝に強度があるかは分かった。
周囲の木の枝の状態も、そうやって確認する。
もう、人間である事に、こだわる気は無い。
それに、何だろう。気のせいかも知れないが、雨が降っているとき、いつも以上に力が出せる気がするのだ。
数本分、木を戻る。
そして、其処から、木の枝のしなりを利用して、跳躍。前の木の枝を蹴り、ジグザグに飛んで、最後の木の枝をジャンプ台替わりにする。
鉄条網の上を、越える。
着地。
泥がクッションになったので、助かった。雛理さんに手を振る。向こうは、呆れて手を振り帰していたようだ。
此処から出るのは、どうするか。それは後で考えれば良い。
とにかく、此処は地獄の動物園だ。
檻を、見て廻る。
やはり中には何もいない。ただし、生物がいた痕跡は残っている。糞尿はそのまま野ざらしにまき散らされていたし、中には食べ残しの餌もあった。
それにしても、この匂い。
どうも、嫌な予感がする。獣とは、違う。
此処で研究されていたのは、やはりあの怪物達、という事で間違いないだろう。そして怪物達の元になったのは、どれもが人間。
此処では、人間が変化した怪物を使って、何かしらの研究をしていた、と見て良いだろう。
つまり此処には。
敦布の生徒だった子達の成れの果ても、収監されていたのだ。
実験動物として。
人間って、一体何だろう。
敦布は悲しくなってきた。感情が希薄になりつつある今でも、悲しくて仕方が無い。目をこすって歩いていると、気付く。
ひときわ大きな檻がある。その側に、プレハブの建物があった。二階建てだが、かなり広くて大きい。
入り口は固く閉じられていた。だが少し助走を付けて、ドロップキックを叩き込むと、ドアは内側に吹っ飛んだ。
けたたましいサイレンが鳴り響くが、気にしない。サイレンが鳴ったところで、駆けつけてくる人などいない。それどころか、そもそも此処の警備なんて、もう守る価値だってないのだろうから。
ただし、五月蠅いので、ブレーカーの箱を壁から引きちぎった。そうすると、流石に静かになった。
懐中電灯を付けて、中を歩く。
中は、かなり雑然としていた。
よほど急いで引き払ったのだろう。檻の中には研究施設のようなものあって、がらんどうの棚がたくさん並べられていた。
資料として、ホルマリン漬けの死体が、たくさん入れられていたのだろうか。
デスクがたくさん並んでいる。引き出しを開けてみると、殆どは空だった。急いで引き払いはしたが、研究資料は全部持ち出したという事だ。
上にあった研究施設と同じだ。
逆に言えば、隙がある可能性は小さくない。あちらにも、研究の痕跡のようなものは、たくさん残されていた。
幾つめかの机を引っ張り開ける。
引き出しの中に、資料を見つける。紙束を読んでいくと。見る間に、眉根に皺が寄るような事が書かれていた。
「カムイ研究、No166」
被検体に電流を流す。
何が生産できるか調べる。
コントロールには何が必要か、そうそうに確認する。
殺処分の時に備え、コアがどこにあるか、把握しておく。
人間だった存在に対してそれをするのか。眉一つ動かさずに、出来るというのか。それは、本当に。人間が書いた研究書なのか。
手が震える。
敦布の生徒達が、人間では無い存在に変えられただけではなく、こんな非人道的な扱いを受け続けていたのか。
だが、敦布だって。
人間に戻る方法は、無いのか。紙をめくってみるが、それらしい事は書いていなかった。やっぱり、無理か。
あんな異常な状態になって、人間になれるとは、思えなかった。そうなると、もうみんな、駄目なのかも知れない。
他に紙を見てみる。
だが、何か助けになりそうなことは、書いていなかった。どうすれば怪物になるのか、或いは怪物になることを防げるか。
それらに言及は無い。
こうなったら、だれか平坂という人の部下を捕まえるしか無い。それも、出来るだけ早急に、だ。
敦布の能力は、急速に上昇している。それは自分の体だから、よく分かる。逆に言えば、それだけ進行が早いという事だ。病なのか、或いは突然変異なのかは分からないが、人間では無くなる瞬間も、そう遠くは無いだろう。
子供達も気をつけて観察しているが、本当にいつ変化するか、これでは判断がつかない。勿論、残り時間がどれくらいあるのかも、だ。
とにかく戦利品は戦利品だ。
紙の資料を抱えると、敦布は一旦プレハブを出る。
檻を見て廻るが、誰かが残されているという事は無かった。見つけたところで、どうすれば良いのだろう。
助ければ良いのか。
檻から出せば、それは助けたことになるのか。
分からない。敦布が判断できることでは無い気がする。だが、今は、判断をしなければならないのだ。
全ての檻を見て廻る。
何も痕跡は無い。残されている物資も、水や食糧は無かった。シャベルや重火器なども、残されてはいない。
早く此処を出るべきだと、本能は告げている。
実際、此処にずっと残っていれば、遠からずあの泥ゾンビ達が押し寄せてくるだろう。とんでも無い数で、だ。
板きれが幾つか合ったので、それでジャンプ台を作る。
何度か確認して使えることを見極めると、敦布は黒い雨が降りしきる中、跳んだ。
ジャンプ台だけでは無く、鉄条網も利用して、更に飛距離を稼ぐ。しかも、狙うのは地面では無く、木の枝だ。
十三メートルほど跳んだところで、細めの木の枝を掴む。二度振り子の要領で体を揺らし、枝が折れる前に更に跳んで、八メートルほど先の木の幹に掴まった。後は、木の幹を這い上がればいい。
上では、もう雛理さんが待っていた。
「素晴らしい身体能力ですね」
「そう、なんだろうね」
全く実感はないし、嬉しくも無い。子供達にも嫌われる原因となっているこんな力、好きになれる理由も無い。ただ、今は必要だから、同居しているだけだ。後、便利だとは思っているが。
資料を渡す。
幾つか分かったことはある。だが、それは、決して皆を救うためになる知識では無かった。
子供達を救いたい。
敦布の願いは、此処では叶わなかった。
「周囲を探しましょう。 まだ平坂のベースは残っている可能性があります」
「子供達は、なんとしても助けたいよ」
「分かっています。 今は、弱音を吐く前に、行動することです」
その通りだ。弱音を飲み込むと、敦布は顔を叩いた。
きっと、真っ黒でドロドロになっているのだろうなと、自嘲した。
それからしばらく、無言で周囲を探した。
沼沢地になっているから、この大雨で湖も同然の有様に変わっている場所も多い。とはいっても、どす黒く濁ったおぞましい湖だが。まるでタールで作られた湖だ。汚くておぞましくて、とても子供達を入れるわけには行かない。
探索は、三十分ほどで効果を示した。
地獄の動物園の南に、恐らく雛理さんがキャンプと呼んでいる場所があったのである。形状からして間違いないと、雛理さんは断定。
ただし、此方は入れそうにも無い。
周囲が凄まじいまでに見通しが良い上、見るからに罠が山ほど仕掛けられている。絶対に踏み込まない方が良いと、本能が警告していた。周りを覆っている鉄条網も、地獄の動物園とは比べものにならないほどの頑強さだった。
雛理さんもしばらく周囲を観察した後、あっさり諦めたほどである。
「今回は仕方がありません。 引き返しましょう」
「……二時間あれば、入れるかも」
「どうやって、ですか?」
「木を切り倒して、橋にする」
見ると、オートで動く銃器が、未だに稼働しているようなのだ。
監視カメラと連動して、此方を撃ってくる仕組みだろう。木を橋にしただけでは、入れないことは分かる。
「恐らく死ぬだけです。 貴方の身体能力は人間を超越してしまっていますが、それでもこの火力の網を突破するのは無理でしょう。 監視カメラを狙撃したら、即座に相手も撃ってきます。 それも、極めて精確に、です」
「だから、囮を使う」
「! まさか」
「少し、待っていて」
今、囮になる存在が、川の対岸に山ほどいるのだ。
雛理さんは木の上にでも逃れてくれていればいい。此処は密林だ。落ちさえしなければ、危険は無い。
敦布は、どうしてだろう。
あの動く死体に襲われる可能性を、あまり感じないのだ。
勿論撫でたりしたら食いつかれるだろう。だが、率先して襲われるとも、また思えなかった。
「相手の基地を壊滅させることは出来るかも知れませんが、既に無人基地です。 危険が大きすぎます」
「それだけじゃないよ。 あの死体達、何者で、どんな特性を持っているのかも、調べられる」
雨は、まだ収まる気配が無い。
恐らく、あの死体達は、雨が降る限りは動くはずだ。まだ、タイムリミットは残っている。
「反対です。 そのメリットだけでは」
「危険が大きすぎる?」
「はい。 リスクの面で、賛成しかねます」
「それなら、これでどうだろう。 中にある銃器とかを、ひょっとしたら持ち帰れるかも知れないよ」
雛理さんが首を横に振った。
自衛隊は元々、銃弾の一発でさえ非常に厳重な管理をしている組織であるらしく、非公式部隊であれあまり取りこぼしは期待出来ない、という。
ましてやこの作戦を見ていると、平坂の周到さがうかがえるという。
「一時避難したつもりでも、基地を明け渡す気は無いようです。 自動での迎撃装置を残しているのが、その証拠です」
つまり、内部には、更に強力な罠などが仕掛けられている可能性が高いという。
そういった自動兵器を壊すことが出来れば、或いは弾などを持ち帰れるかも知れない。だが敦布には知識が無いし、雛理さんの身体能力では、この壁を突破できない。勿論、泥の死体軍団も、雛理さんには襲いかかる可能性が高いだろう。
結論から言えば、八方ふさがりだ。
「一度戻りましょう。 このレポートだけで、充分です」
「ならば、わたし一人で行くよ」
「駄目です」
ばちりと、火花が散るのが分かった。
勿論比喩的な意味で、だ。
正直な話、雛理さんは自分が死ぬことを怖れていない。しかも、他の誰に対しても、同じだろう。
彼女が考えているのは、全てをデータ化して、効率を最大限に任務を全うすること。それだけだ。
あの時話した愚痴は、恐らく敦布に対するポーズだったのだろう。
雛理さんは、多分絶対に譲らない。
ならば、利害関係を含めて、説得するしか無い。敦布の残り時間はあまり多くないし、子供達だってそれは同じなのだ。
雛理さんにして見れば、最大戦力の敦布を此処で失うわけにはいかないのだろう。
だが、敦布にしても、此処今という最大の好機を棒に振るわけにはいかないのだ。実際問題、なんぼ身体能力が上がったって、戦闘ヘリと戦って勝てるなどとは思わない。武装した現在の軍隊は、伝説のドラゴンくらいなら、特に手こずることも無く倒してしまうのだろうから。
「だったらどうすれば、同意してくれる?」
「一度戻りましょう。 私に言えるのは、それだけです」
「分からず屋」
空気は帯電したままだ。
降り注ぐ雨と同じで、両者に対話の糸口は無い。そう思えた。
「子供達を助けたいの。 今は少しでも情報が欲しいよ」
「今の子供達は、敦布さんを怖れていても、信じてはいません。 それでも助けたいんですか?」
「だからって、寛子ちゃんのお母さんみたいになるのを、見過ごせない」
「正直に言いますが、今生き残るために、貴方は重要な戦力の一人です。 子供達は最悪死んでしまっても構わないと、わたしは考えています」
どんどん、話せば話すほど亀裂が大きくなっていく。
不思議と、互いに戦闘をする意思は無いのに、である。
どんと、凄い音がした。
雷が落ちたのだ。木が一本、燃えながら倒れていく音がした。さほど遠くは無いだろう。木の下で雨を避けている雛理さんと、もう濡れ鼠になることを何とも思わない敦布。まるで、二人の温度差を示しているかのようだった。
「自分の命を、大事に出来ませんか」
「もう助からない」
「少しでも多くの命を助けるために、まだ貴方の命は必要です。 最悪の場合、一人でも脱出できれば、少しは今後の状況が改善出来るかも知れない。 多くの子供も助かるんですよ、先生」
「わたしには、この島の……わたしの生徒達が全てなの!」
また、雷。
駄目だ。平行線だ。
これだけ黒い雨を浴びているのに、全く頭が冷える気配は無い。雛理さんはまるでドライアイスみたいにクールだが。己の持論を引っ込める気は、今もこれからも無い様子だ。ただし、それは敦布も同じだが。
「もしも命を使うなら」
雛理さんがいう。
「敵兵を捕らえることに費やしましょう。 恐らく、まだ好機はあるはずです」
「もし、ヘリでこの島からみんな逃げてしまった後だったら?」
「その可能性は小さいでしょう」
雛理が言うには、このキャンプは明らかに後で使う事を想定して、無傷のまま残しているという。
確かに、もしも証拠隠滅をはかるなら、徹底的に破壊していくはずだ。
でも、懸念事項がある。
もう、敦布には、時間が無い可能性が高い。
怪物になってしまった治郎君のお兄さんは、理性を完全に喪失していた。敦布が耐えられないのは、怪物になってしまうことで、子供を襲うことだ。
自分が死ぬことは、怖いけれど、あきらめがつく。
だが、子供達を守るどころか、手に掛けるなんて。
「本当に、平坂って人は、まだこの島にいるんだね……」
「ほぼ間違いなく」
今は、退くしか無い。
単独で、このキャンプに乗り込むことは、不可能だった。
書類を持ったまま、帰還できたのは、明け方近くだった。
途中で大増水した川に阻まれ、渡河地点を探して随分手間取ったのである。雨は少しずつ小降りになってきているが。
黒さは、更に増している様に思えた。
石の下に避難している皆も、ござを引いて、その上に神経質に座っている様子である。唯一元気いっぱいなのは学者さんで、採取した黒い水を色々調べて、満面の笑みを浮かべている様子だ。
「先生……真っ黒」
「うん。 大丈夫。 あっちの木の下に行くから」
治郎君の悲しげな声に、敦布は笑おうとして、失敗した。
どうやって笑うのか、忘れた。
何だか、感情の作り方が、どんどん下手になってきている気がする。前は、どうすれば子供を安心させる笑顔を作れるのか、息をするかのように簡単に実践できたのに。子供の笑顔は、生き甲斐だったのに。
木陰で、膝を抱えて座る。
どうしてだろうか、全く寒くない。
雛理さんは、向こうで話をしている。多分、今後どうするべきなのか、確認をしているのだろう。
ぼんやりとする。
そういえば、どうして子供達を育てるなんて、大役を目指したのだったか。
忘れるわけが無い。
忘れてはいけない。
それだけは、たとえ怪物に落ちてしまっても。
雨が止みはじめる。
そして、雲間から、太陽が覗いてきた。気付くと、既に昼近い時間になっている。雀のかわいらしい鳴き声では無くて、熱帯らしいけたたましい大きな鳥の声だが。
周囲は水浸しだが、ずんぐりと黒ずんでいる。
おぞましいと言うよりも、何だかどうしてか分からないが。今の敦布には、懐かしい光景に思えた。
顔を洗いたい。
そうだ。
放棄されているあの研究所に行ってこよう。彼処だったらまだ設備も何もかも生きているだろう。
今の身体能力なら、崖越えも難しくない。
顔どころか、ジャージを洗濯することも、出来るはずだ。それに、もう一つとても美味しい事がある。
もしも怪物化してしまっても。
子供達に、危害を加えなくて済むはずだ。
雨は、完全に止んだ。
雛理さんが来る。彼女は、複雑な面持ちをしていた。
「あのベースの周囲を張ります。 場所が分かったのは好都合です」
「待ち伏せするの?」
「はい。 兵の一人でも捕らえられれば、結果は全く違ってくるはずです。 研究レポートを見る限り、彼らはカムイと呼ばれる怪物に、人間を変える実験をしていた様子で、自分たちがカムイにならない方法も知っていたようです」
怪物にならない方法、か。
しかし、怪物を人間に戻す方法は、多分分からないだろう。
現実でも、末期癌から回復した人は殆どいないと聞いている。癌の場合は掛かった後の「予後」という表現がされるらしい。
これはつまり、癌になった後、何年生きたか、という意味なのだ。
つまり死ぬ事が確定してしまっている。
今の時点では、幸い、敦布以外には症状は出ていない。敦布だけが犠牲になれば、みんな助かる可能性は高い。
「一度、あの研究所に戻ってくる」
「一人で、ですか?」
「子供達を怖がらせたくないから。 わたし、ほら、今真っ黒じゃん」
「……分かりました。 ただし、敵兵を見かけたら交戦は避けてください。 できれば地下にも行かない方が良いかと」
雛理さんがいうには、エレベーター周辺の監視装置類は全て潰したそうだが。しかし、エレベーターが動いていれば、敵に筒抜けになる可能性が高いという。
鷹揚に頷く。捕まったらその時はその時。内部から、相手を見るのも良いかも知れない。いずれにしても、実験動物として解剖されてやる気などさらさらない。
「昼までに戻ってくるよ」
雛理さんは止めなかった。
森の中を走る。主に、今まで通った路を厳選して進んだ。それを、どうしてか、頭の中でトレースできるのだ。
崖にとりついて、登る。
登り切るのも、さほど難しくなかった。
崖上には、まだチハがいた。
錆が目立っていたが、それでも朽ち果てている訳では無い。ただいまと言われているような気がしたので、おかえりと呟く。
チハちゃんには、此処でみんなを見守っていて欲しい。
黒くぬかるんだ土を踏んで、研究所に急ぐ。
彼処には洗濯機や乾燥機もあった。
以前、ジャージを洗濯したとき、黒い汚れは落ちた。今回も落ちると良いのだけれどと思いつつ、歩く。
今のところ、誰かに見られている気配は無い。
研究所に入ると、まだエレベーターは生きていたので、ほっとする。
地下階は、何も手を付けられていなかった。
水回りも生きている。シャワーも、ちゃんとお湯が出た。
お風呂で黒い汚れを落として、その間に洗濯をする。乾燥が済むまで、大体一時間と少し。
ふと、鏡に自分を映してみる。
以前は頭の悪そうな笑顔が似合いそうだったのに。
目つきが完全に変わってしまっていた。何というか、据わっているのだ。子供達が怖がるわけである。
指で引っ張って、笑顔にしてみようと思った。
だが、上手く行かない。
やっぱり、もう笑顔は作れそうに無かった。笑顔は、自慢の一つだったのに。同年代の男性には相手にされず、ガキとしか言われなかった敦布だが。子供達の事を考えて、表情から直していたのに。
とても悲しくなった。
それなのに、涙は全く出なかった。
お風呂から出て、乾燥機からジャージと下着を出して、そのまま着込む。随分綺麗になっていたが、やはり完全には汚れも落ちなかった。
エレベーターのボタンを押す。ドアが開かなかったので、ふと気付く。エレベーターが、上に上がっているのだ。
どうやら、雛理さんの警告は、図に当たったようだった。
「ターゲット、捕獲しました」
「うむ」
平坂は移動指揮所、つまり輸送ヘリの中で、その報告を聞いていた。
別の輸送ヘリには、カムイや研究資材をまとめて乗せている。いざというときにはスタッフがパラシュートで逃げ、爆破するための処置だ。
まだ、スポンサーには、現在起きている事態については、説明していない。
雨は止んだし、あの泥ゾンビ達がどういった行動を取るか。それに、黒い雨の成分分析は。
それらが済んだらベースに戻り、研究を再開するつもりだ。
今は、別のミッションに主眼を置きたい。
「どうするの!? すぐ捕まえに行くの!?」
「いや、ハイリスクな行動は避けたい」
興奮する岸田を押しのけて、指示を出しておく。
監視カメラを再セット。
エレベーターの入り口から死角になる位置に、オートで発砲する麻酔銃をセットする。麻酔の強度は、象に使うものを使用。普通人間が相手の場合死んでしまうが、今地下に閉じ込めた存在に対しては、充分だか分からない。
それらに、優秀なスタッフは、すぐに取りかかった。
元々研究所の電気系統は、ずっと監視していたのだ。
だから、使っている奴がいると分かったとき、掛かったと平坂は確信した。勿論、相手が分かった上でやっている可能性もある。
だから、対応は万全を期さなければならない。
エレベーターはそのままロックさせる。
これで、ターゲットが取る行動は一つに限定された。エレベーターの戸を強引にこじ開け、シャフトを上がってくることだ。
そして、一階のドアを開けて出たところを狙撃する。
しかもこのロックは、遠隔での操作が最優先され、たとえブレーカーを落としても再起動はしない。
「狙撃銃、セット完了」
「念入りにやりたまえ。 象の強度とチーターの速さを併せ持つ相手だと思って、念入りに、だ」
「分かりました」
研究所に入ったスタッフ四名が、念入りに麻酔銃を仕掛けていく。
使うライフルの弾は、射出すれば軽く音速を超える。流石にどれほど人間離れしていても、それをかわすのは不可能だ。
しかも、多重に仕掛けるのである。死角は無い。
スタッフを撤収させる。
奴は一人では無くて、プロの傭兵レベルの協力者がいる。うちの兵士達は優秀だが、万が一がある可能性が否定できない。
撤収したスタッフが戻ってきた。全員をヘリに乗せ、身元確認を済ませる。その上で、すぐに上空に退避した。
「臆病過ぎはしませんか」
「これくらいで良い」
どれだけ慎重に進めていても、今回のようなトラブルが起きたのだ。
実際泥人間の群れは、今キャンプに殺到していると報告があった。自動迎撃システムや入念に仕掛けた地雷を再生能力にものを言わせて突破し、内部で破壊の限りを尽くしている様子である。
さて、捕らえた虎はどうか。
エレベーターの、下部の扉の反応が消失。
つまり、こじ開けたという事だ。
シャフトを上がってくるのは間違いない。あのエレベーターは密封式で、ドアからでないと出入りは不可能だ。
さて、どうなるか。
仕掛けた監視カメラに、度肝を抜く光景が現出した。
殆ど、下の扉の反応が消えてから、時間が経っていない。地下十階分のシャフトを、一体どれだけの速度で上がって来たのか。
それだけではない。
エレベーターのドアが、内側から拉げているのだ。
反応したライフルが、自動で射撃を開始する。勿論、エレベーターの扉に突き刺さるばかりである。
強引に内側からねじり開けた扉から、更に出てくるのは、内部で引きはがしたらしいエレベーターの天井板。
それを、通路に投げ込んできた。
壁に突き刺さる天井板。特殊強化モルタルの壁に、である。笑い声がこぼれてくる。これは象でも無理だろう。自動車撃システムが、更に二枚、天井板が突き刺さる間に、全て沈黙した。
「素晴らしい!」
大感動した岸田が、よだれを垂れ流しながら叫んだ。
これは、象の耐久力では無く、肉食恐竜のパワーも兼ね備えているとみた方が良さそうだ。
つまり、大きさこそ人型だが。
カムイそのものである。
「黒鵜。 これから、あの人間を、人型カムイと呼称する。 全力で捕縛に動いてくれたまえ」
「全力を尽くします」
「一旦、離島のベースに退避。 全機、本島を離脱せよ」
ヘリの編隊が、斑目島を一旦離れる。
体勢を立て直すためには、どうしても必要な措置だった。
4、人を止めてしまった体
穴だらけになった天井板を見て、敦布は失敗したかなと思った。
雛理に、出てくる前に秘策を授けられたのだ。多分こういう形で捕縛をはかってくるだろうから、対応策はこうこうと。
その通りに動いたのだが。少しはひねりを利かせた方が良かったかも知れない。何だか雛理さんの意図通りに動いたようで、気分が悪かった。
まだ、時間はありそうだ。
だが、どれだけ時間があるかが、よく分からない。
海を見ると、青くとても澄んでいる。泥に島が埋め尽くされたときの状況とは、だいぶ違っていた。
もしかすると、だが。
あの海から上がって来た泥が、平坂さんの作り上げた何かよく分からないもの。
そして、降り注いできた黒い雨は、それとは別の現象だったのではあるまいか。それなら、話につじつまも合う。
実際問題、今、海はとても綺麗なのだ。
あれだけ黒い雨が降り注いだのにもかかわらず。
そうなると、黒い雨は。オンカヌシという存在に、間違いないのだろう。
オンカヌシとは何なのか。
それが、分からない。
黒い雨そのものがそうなのか。もしそうだとすると、あの泥ゾンビ達は、オンカヌシの手先なのか。
しかしそれならば、伝承と全く違うことは、どう説明づけるのか。
敦布の頭では、分からない。
崖を素手でくだって、皆の所に戻る。ジャージは綺麗になったし、体も洗ってさっぱりした。
怪物になってしまうにしても、まだ時間はあるだろう。
思った以上の速度で、一番下に到着。
黒くぬかるんだ泥を踏んで、皆の所へ走る。
今、この島に、恐らく平坂さん達はいない。すぐに戻ってくるだろうが、多少の間は、羽を伸ばせるはずだ。
問題はオンカヌシの泥ゾンビだが、近づかなければ危険は無い筈。動きも速くは無かったし、この密林だったら木に登るのも手だ。
子供達を全員守りきる自信は、あった。
直線距離で、皆が隠れている場所まで走る。その途中で、ふと気付いたことがある。
森の木々が、以前と少し、変わっている。
川に遭遇。
こんな大きな川は、以前には無かった。これもオンカヌシの力なのだろうか。ただし、水は不自然なほどに澄んでいる。
だが、これを飲めるとは、とても思えない。何しろ泥は黒ずんだままで、所々酸を掛けられたように煙さえ挙げているのだから。
水の備蓄は、まだある。
だが、正直な話、子供達にもどれだけの時間が残っているのかは、よく分からない。
ジャージ先生が戻ってきた。
寛子は、少し前から先生の様子がおかしいことに、気付いていた。
目つきが変わった。
以前は子供を安心させるために、日頃から凄く気を遣ってくれていたのに。今では全く笑おうとしない。
変わったのは表情だけじゃ無い。
ジャージ先生はほんわりしていて、抜けていて、とても可愛い人だった。男子などはバカだアホだ散々言っていたが、それでもみんなジャージ先生が好きだった。いつもひまわりみたいに笑っていて、スポーツがとても得意で、バスケなんか男子が束になってもかなわなかった。虫を怖がる事も無かったし、子供達のためなら何だってしてくれるという強い安心感があった。
今でも、寛子達の事を、真剣に考えてくれている事は分かる。
雛理さんとは違う意味で、とても怖い人になってしまった。
お母さんが怪物になってしまって、死んでしまって。怖くて不安で、いつ涙がこぼれてくるかも分からない今。
ジャージ先生が、以前とは違う人になってしまったのは、本当に心細い事だった。
おじいちゃんと先生が、何か難しい話をしている。以前とは、先生は、しゃべり方も替わってきていた。
「そうか、まだ時間はありそうか」
「とにかく、黒い雨を出来るだけ浴びないように。 水も蒸留を繰り返してから飲んでください」
「ああ」
多分ジャージ先生の体の話だろうと、何となく分かった。
もう、まともに水も飲めない。体を洗うのはどうだろうと、話をしている。そこで、嫌な言葉を聞いた。
「はっきりいいますが、私も先生も、あの黒い雨を浴びる以上のことはしていません」
「うん。 口には入れてない」
「そうなると、蒸留した水で体を洗うしかねえな……」
「ははっ、今更無駄だと思うがね」
学者さんがけたけた笑う。
「むしろ敦布くん。 私は、君みたいに人間を越えた肉体が手に入ったら嬉しいなあと思うよ」
「学者さん、正気ですか?」
「至って正気だね。 こんなガタが来た体より、象並のパワーとチーター並のスピードを実現するその体の方が良いに決まってる。 多少人間の姿じゃなくなったとしても、私はかまわんよ」
学者さんの声は、嫌でも耳に入ってくる。
あの人は、嘘なんかついていない。本当の本気だ。
そして、狂気を発してもいない。いたって正気で、あの言葉を吐いている。
「よく世間じゃ不老不死を否定するけどね、それは若い連中の理屈だ。 長い間積み重ねてきた全てが、死ねば全部おしまい。 誰だって知っているが、怖いからすがるんだよ、神様とか天国とかにね。 そんなもの無いって、知っているのにね。 それだけ怖いんだよ、生きた末の死は。 ああ、それに耐えられる奴は、耐えて死ねばいいのさ。 私は出来るんだったら不老不死が欲しいね。 頑健な肉体に戻りたいね」
「それは、貴方のエゴです」
「ああ、エゴさ。 だが、世の中はそのエゴで廻っているんじゃないのかね? サービス業なんかは、どうやって客のエゴを満たすかって仕事だろ。 他にも、結局エゴが、世の中を動かしているんだよ。 エゴに基づいて動いて、何が悪いのかね」
発火しそうな空気。
雛理さんが、銃に手を伸ばしかけるのが見えて、思わず寛子は頭を抱えて、蹲ってしまった。
「喧嘩?」
「こっちに来て」
石の影に、治郎君の手を引いて逃げ込む。
流れ弾でも跳んできて、怪我でもしたら。もっと酷いことになったら。
現在の状況では、助かる可能性が無い。
治郎君を抱きしめる。かってだったら、これはジャージ先生の仕事だったのに。怖くて震えが止まらない。
「あの黒い水ね、面白いんだよ」
「……」
「濾過しても、性質が全く変わらない。 しっかりした機材で調べたいと思う。 私は、結局この年までなんら世間で評価されもせずに、親からもらった財産を食い潰し続けて、学術的にもアンボイナの発見を幾つかしただけで終わろうとしている」
ヘリの、音。
慌てて伏せる皆の中、縄ばしごが降りてきた。学者さんはそれに捕まると、手を振って消える。
「さようなら。 私は、こっちに行くことにするよ。 此処も面白かったが、やっぱり不老不死になれるなら、その方が良い。 人間を止めたとしてもね」
「あれ? アパッチやコブラじゃ無い」
「……」
ヘリが飛んでいく。学者さんの姿は、もうどこにも見えなかった。
学者さんの鞄の中に、通信機を見つける雛理さん。
「最初から、通じていたみたいですね。 どうりで大事にしているわけだ」
「あのヘリは?」
「ハインドという戦闘ヘリです。 恐らく平坂とは別の系統の組織でしょう。 ……どうやら、相当に事情が入り組んでいるようですね」
混乱する状況の中、また一人いなくなった。
こうやって、みんないなくなっていくんじゃないのか。
そう思うと。
寛子は。怖くて怖くて、何処かくらい穴の中にでも逃げ込みたくなるのだった。
(続)
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