おぞましき密林

 

序、地獄の森

 

平坂は朝食を終えると、全身に虫除けスプレーを掛けて、視察に出た。隣には秘書官が付き従っている。

流石に密林の中に作られている「牧場」に、スーツで行くのは好ましくない。側には護衛の黒鵜もいるが、此処の環境は、根本的にもとの斑目島とは違っているのだ。

むしろこの環境は。

「以前の」斑目島と、酷似しているのかも知れない。

いずれにしても、牧場としては申し分ない。そしてこの国にとっても、いずれ大きな利益を約束する場所となる。

キャンプから離れると、すぐにむっとした熱気が襲ってきた。

キャンプの中でも、クーラーが効いているプレハブの中以外は暑い。しかし外に出ると、大量の植物があるからか、更に暑気がます。

歩いていると、草を踏みつぶす音がひっきりなしに響く。分厚いサバイバルブーツだからヒルの侵入は警戒しなくても良いが、毒蛇によっては靴を噛み破る事もあるかも知れない。

「この辺りから、ちいさな沼が点在します。 気をつけてください」

「ほう?」

いわゆる底なし沼である。

報告は受けていたが、確かに踏み込むと面倒だ。粘性が強い上に、車くらいは丸ごと飲み込んでしまうと言う。

確かに、所々、不自然に草が生えていない場所がある。

慣れている秘書官や黒鵜は、それを的確に避けているようだ。平坂も彼らのあとをついて歩いて行った。

程なく、草が切り取ら作られた空き地に出る。

外には分厚い金網が作られ、内部からはきいきいと鳴き声が聞こえている。異臭が酷い。動物園と同じような匂いだと、平坂は思った。

中に入ると、全身防備の研究員達が、作業をしていた。

金網の中、檻が幾つか作られている。いずれも複層構造で、絶対に出られないようになっていた。

中には、瞬時に殺処分が出来るよう、整えられた施設もあったほどである。確かに、此処にいる実験対象の危険性を考えると、無理もないことだ。

カムイ化した場合、全力で掛からないと止められないという事もある。決して大げさな施設ではない。

「おお、平坂ちゃーん! 来てくれたんだねー!」

満面の笑顔で、岸田が来る。

元々風船のように太っている怪博士は、全身防備のスーツを着込んで、ますます巨大化したかのように見えた。黄色い防護スーツを着てよちよち歩いてくる様子は、昔の映画に出てくる怪獣のようである。

「進捗はどうかね」

「んー、そこそこかなあ。 見ていく?」

「成果が出たというものだけを。 案内してくれるか」

「お、それで来たのか! すぐにでも! 驚くよ!」

無邪気な笑顔の岸田を見ていると、平坂は咳払いしたくなってきた。何というか、悪意とは無縁の、だがこれ以上もないほどの邪悪を感じてしまう。

こういう男は、科学界に必要不可欠だ。

しかし一方で、その邪悪さは、確実に周囲を傷つけもするのである。

一番奥の檻の前に。

其処には、くぐもった声を上げ続ける、闇が存在していた。

形状は形容しがたい。

呼吸する肉塊、としか言いようが無い。間近で見るとその醜悪さは、言語を絶するほどだ。

「どう? この状態でカムイ化させれば、此奴一匹だけで年10トンを越える貴金属を生産できる。 この国の隠れた財源になるよ」

「うむ、素晴らしい。 他の進捗は」

「石油を造り出す奴はもうちょっと待って。 管理が大変だから、調整しないと。 このままカムイ化すると、多分大事故につながる。 戦闘タイプのはもっと時間が必要かな」

「後どれくらいで出来る」

腕組みした岸田は、しばらく考え込んでから、小首を捻る。

「そうだなあ。 貴金属のはカムイ化まで二日。 ただ、カムイ化すると、それはそれでまた調整が必要になるから、もう二日はいるかな。 その間に他のも調整を進めるけど、断言は出来ないよ」

「なるべく早くやってくれたまえ」

「分かってるよ。 どーでもいいけど、例のものはもらえるんだろうね?」

「問題ない。 既に手配済みだ」

やったと、子供のように岸田は喜んだ。

この変態科学者は、ある報酬を欲している。勿論モチベーションを保つためには必要だから、既に手配済みだ。

発展途上国に行けば、いくらでも手に入る程度のものである。勿論、既に入手して、運ばせている。

元々人道など、放り捨てている状況だ。

何を今更恐れる事があろうか。

研究施設を一通り視察。調整がまだ済んでいない個体は、凶暴な唸り声を上げたりもしていた。

「安全には万全を期してくれたまえ」

「大丈夫、任せて。 これでも、なり損ないとカムイに関しては、世界の誰よりもボクが詳しいんだから」

「そうか。 しかし、油断はするなよ」

施設を離れると、すぐにキャンプに戻る。

片付けなければならない書類が、山のようにあるのだ。此処と外を結ぶルートは一つしか無い。其処をひっきりなしに行き交うヘリは、殆ど毎日輸送物資で一杯だった。

空にしかルートがないことで、カムイが万一の事態でも逃げ出すことはあり得ない。最悪の状態に備えて、既に航空自衛隊の精鋭にも待機させている。

カムイの状態になると、近代兵器並みの実力を発揮する場合もある。

しかし、それでも、人間の手が及ばない存在では無いのだ。

勿論絶対はない。だからこそに、平坂はできうる限りの完璧な備えを、常に心がけていた。

無表情のまま隣を歩いている黒鵜に、聞いてみる。

「ところで、研究所に立てこもっていた連中はどうなったかね」

「物資をまとめると、予定通り神林に入りました。 今のところ、足取りは追えていますが」

殺しますかと、黒鵜は言う。

命令すれば、黒鵜は襤褸ぞうきんを引きちぎるようにして、彼らを抹殺することだろう。文字通り赤子の手を捻るようにたやすくそれを実行するはずだ。

少し考えてから、平坂は返した。

「いや、まだよい。 泳がせておけ」

「見たところ、中の一人は特殊部隊員並の実力があるようですが。 今のうちに叩いておかないと、いずれ後悔することになるやも知れません」

「実験の耐久力を見のには、ちょうど良い。 なり損ないの制御実験にも使えるから、よほどキャンプに近づかない限りは放っておけ」

「分かりました。 監視を続行します」

キャンプに戻ると、少し仮眠を取る。昼も夜もなく働いている平坂は、睡眠時間も乱れに乱れていた。ただし、いつ起こされるか分からない仕事である。いつ眠れるかも分からないので、眠れるときには寝ておかなければならなかった。

四時間ほど眠るように携帯をセット。

充電してから、布団に潜り込む。

しばらく無心に眠りを貪っていると、不意にアラーム音が鳴った。まだ起きる時間には少し早い。

何かあったと言うことだ。

寝床から這い出して、目をこすりつつ、プレハブの自室を出る。

外では、既に黒鵜が待っていた。

「何事かね」

「はい。 居場所を補足できていなかったなり損ないの一体が見つかりました」

「この様子だと、既にカムイ化しているか」

「はい。 場所に関してはキャンプからは離れているのですが、能力推定値がかなり高く、迂闊に近づけない状態です」

なり損ないは、時を経ると、カムイへと変態する。

管理下でカムイ化すればそれは問題ないのだが。管理を外れた状態でそうなってしまうと、非常に厄介だ。

「全プロジェクトを一時的に凍結し、カムイの排除に全力を挙げてくれたまえ。 プロジェクトの再開は、排除が成功してからだ」

「スポンサーが黙っていますか?」

「黙らせる。 君は急いで事に当たりたまえ」

頷くと、黒鵜は配下の特殊部隊をつれて、森に出て行った。

厄介なことになった。

まだなり損ないには、データが取り切れていない部分が少なからずある。こういった事故も、起こることは想定されていた。

しかし、まさかこんな最悪のタイミングで事故になるとは。

これから、面倒な作業をしなければならない。現場は黒鵜に任せておけば心配ないだろう。

後は、指揮官である平坂が、バックアップの体制を整えなければならなかった。

 

1、咆哮に追われて

 

まず最初に、ロープを作らなければならなかった。

人の体重を支えるのに充分な強度があり、長さは最低でも数十メートルは必要になってくる。

蔓草を使って、ロープを編む。

敦布は、ひたすらその作業に没頭した。

寛子ちゃんはおじいちゃんと一緒に、酷く傷ついたチハを使って、物資を運んでいた。崖の近くまで、食糧を全て運び出しているのだ。水もこれからは、相当量が必要になってくる。

密林で、そのまま水を飲むのは自殺行為だと、雛理さんはいっていた。

得体が知れない生物が水の中にはたくさん潜んでいるし、黴菌もたくさんだ。赤痢にでもなったら、助からない可能性だってある。

だから、できる限り水はもっていく。

濾過器があれば良いのだが、それでも濾過しただけで水は飲めないだろうと、雛理さんは付け足していた。

敦布に出来る事は、今はロープを編むことだけ。

ロープの強度を確認しながら、ひたすら編んでいく。

もどかしい。

だが、人間が怪物になってしまうことは、ほぼ確定事項なのだ。どうしてかは分からないが、あれだけ泥を浴びてしまった敦布や雛理さんだって、いつ化け物になってもおかしくない。

怖い。

それ以上に、生徒達が怪物になってしまったことがほぼ確定してしまったことが、ひたすらに悲しい。

やがて、どうにか一本が編み上がった。ほとんど二日がかりだったが。

二本目のロープ作成に取りかかった頃には、既に研究所は空になっていた。必要になりそうな物資は、あらかた持ちだしたからである。

雛理さんが来て、ロープを確認する。

近くの木に結びつけて、引っ張ったり伸ばしたり。ロープは雛理さんの行動の全てに耐え抜いた。

即興で作った割には良く出来た。雛理さんの指導が良かったからだろう。

「ロープの強度は問題ないですね。 長さも申し分無さそうです」

「……二本目も、作っておくね」

「お願いします」

手を動かしていると、酷い戦いだったことを、忘れられる。

この一瞬だけでも、作業に現実逃避できる。

幸いなのは、治郎君が、どうもあの悪夢のような出来事を、現実として認識できていないことのようだった。

まだ、お兄ちゃんは無事かなとか、大丈夫かなとか、時々口にしているのだ。

それでいい。

気付かなくて良いのだ。

ロープが半分ほど仕上がった所で、呼ばれる。

皆で、崖まで移動する。途中怪物が出る事は無かったし、あのアパッチという恐ろしいヘリを見かけることもなかった。

寛子ちゃんは、ずっとお母さんにつきっきりだ。すっかりやせ細った寛子ちゃんのお母さんは、時々変なうわごとを言う以外は、おとなしくしていた。

雛理さんは言う。

そのまま静かにしてくれていれば、何もしないと。

物資を運ぶのに、フル稼働していたチハが、崖の側に止まっている。

もうここから先は連れていけない。

ボロボロになりながら、本当によく頑張ってくれた。感謝の言葉もない。寛子ちゃんのおじいちゃんによると、もう燃料も残っていないそうだ。

後は、此処で朽ちるに任せるしかないだろう。

学者さんが手をかざして、密林を見つめながら言う。

「それで、どう降りるのかね」

「ロープを体に結んで、下ろします。 私自身は、クライミングをしますけれど」

雛理さんがさらりと言ったので、寛子ちゃんが蒼白になったのが分かった。

しかしこの状況だ。万が一、などと言ってはいられない。それに頑張って作ったとは言え、所詮手作りのロープだ。そう長い間持ちこたえられるかは分からない。子供達が降りている途中に切れでもしたら。

確かに、クライミングをする事で支える人は、必要になる。

リュックに物資を詰めると、最初に学者さんが降りることになった。一緒に雛理さんも、猟銃を担いで降りる。

「水際が一番危ないですから、警戒してください。 いざというときは、ばらばらに逃げる事が重要です」

言い残すと、雛理さんがするすると崖を降りていく。

隣で、ロープを体に結びつけた学者さんが降りていった。二人の姿は、すぐに見えなくなった。

ぎしり、ぎしりとロープが軋む。木に結びつけたロープが、徐々に短くなっていく。

しばらくして、ロープが引っ張られるのが、止まった。

一時間ほども、経った頃だろうか。

雛理さんが戻ってくる。

クライミングをものともしていない。たいした体力だ。

ただ、流石に上がりは、ロープを使っていたようだが。

「次は先生、お願いします」

「うん……」

生徒達が心配だ。

だが、下にある程度動ける若い人がいないと、危ないというのも分かる。

学者さんを一人だけにしておくのも危ない。

ロープを引き上げると、体に結びつける。

そして、雛理さんと一緒に、崖をおりはじめた。

ロープが徐々に下ろされて、崖上が遠くなっていく。何だか、生徒達と過ごした斑目島も、それと一緒に遠くなっていくような気がした。

おかしな話である。

そんなもの、とっくの昔になくなってしまっていたというのに。

今でも、寝て起きれば、あの日常が戻ってくるのではないかと、期待してしまう。だが、この悪夢は、既に現実に置き換わってしまっていて、どうにもならないのだ。

徐々に、木々が近づいてくる。

近くで見ると、とんでも無く巨大な木だ。赤い実がなっているもの、とても長い葉がぶら下がっているもの、様々な種類がある。

色自体もカラフルで、決して緑一色ではない。

大きな鳥が、木の枝に止まっているのが見えた。人間が怖くないのか、逃げる気配がない。

全身が極彩色で、我が物顔に翼を手入れしている様子は、何処か滑稽だ。

ロープが、どうにか足りた。

足が地面に着く。学者さんが手を振って、此方だと叫んでいる。

それにしても、なんと目を輝かせているのだろう。周囲の様子が、珍しくて仕方が無い様子だ。

「いやあ、これは実に興味深い森だよ!」

「……」

苦笑いしか出来ない。

猟銃を渡される。すぐにロープが上に戻っていった。

次は生徒達だ。

子供達はまだ腕力も弱いから、ロープを結んだ上で、上から下ろすことになる。雛理さんが、寛子ちゃんのおじいちゃんと一緒にやってくれるそうだ。

寛子ちゃんのおじいちゃんが、最後まで上に残るという。いずれにしても、人数が分散されるのは好ましくない。

治郎君が降りてきた。

虫が大好きな子だが、今はそんな気分にはなれないらしい。降りて来ると、すぐに崖の側に座って、膝を抱えてしまった。

辺りの地面は若干湿っていて、泥っぽい。

学者さんが、目をきらきら輝かせながら、調べて廻っている。専門は海の生物らしいのだが、此処も充分に調べていて面白いようだった。ルーペを掴む手がぷるぷるしているのは、歓喜がゆえらしい。

「植生は完全に熱帯のものだが、明らかに未知の新種も多数含まれている! これは脱出したら、調査隊を派遣したい森だよ」

「そうですか。 でも、まずは脱出しないと」

「脱出しなくても良い気がしてきたなあ」

好きにしてくれと言いたくなる。この人は、たとえ地獄でも、気に入った場所ならご機嫌で居座るのだろう。

ある意味、地獄でも平気で適応できる存在だ。

寛子ちゃんも降りてきた。

これで、残るは二人。

もう少しで、全員が降りられるだろう。雛理さんもこの高さを何度も往復して体力を消耗しているはずで、できる限り早めに作業は終わらせたい。

寛子ちゃんのお母さんも下ろした。

既に完全に意識が曖昧な状態で、自分が何をされているかも分からない様子だった。少なくとも、邪魔にはならないという事で、連れてきてはいるが。寛子ちゃんも悲しそうにしている。

誰かが、置いていこうと言い出すのは、時間の問題かも知れない。

襲われたとき、真っ先に死ぬのも、ほぼ確実だろう。

この人は、あまりにも深い業を抱え込んでしまった。

もしもニエの一族の人達に殺されても、文句を言えないほどの業。

そして自分が正しいと思っているから、それに気づけない、より深い悪夢のような邪悪に全身をむしばまれている。

時々、助ける意味はあるのだろうかと、敦布さえ思うことがある。

だが、一番報復する権利がある雛理さんは、何もしない。そればかりか、この人の娘の寛子ちゃんに酷いことはしないし、殺そうともしない。今の時点では、だが。

雛理さんは、何を考えているか、分からないところも多い。

しかし、この関係性を動かすべきではない。

そう、敦布は思うのだ。

何も怪物は現れない。

猛獣も姿を見せない。

夕方になる前に、全員が下に降りた。もう一度見上げたのは、心の中でチハに礼を言うためだ。

ありがとう、チハちゃん。

チハは、世界大戦では殆ど誰も守れない戦車だったと聞いている。だが、あのチハは。

守ってくれたのだ。

子供達を。

「あいつも本望だろう」

そういって、寛子ちゃんのおじいちゃんが、行くように促す。

まずは、密林に紛れ込むことだと、事前に説明は受けていた。そうすることで、勝機を探るのだ。

此方に残されている戦力は多くない。

銃器も旧時代のもので、弾もそう備蓄があるわけではない。

だが、ジャングルの中では、やりようによっては屈強な大男を翻弄することも出来るのだ。

ジャングルファイトと呼ばれる戦術に、ベトナム戦争で米兵は散々手を焼かされた。アジア最強の戦上手であるベトナム人と、迷路も同然のジャングルという環境が重なった時、その破壊力は言語を絶するものとなった。

それくらいの史実は、雛理でさえ知っている。

「アパッチを鹵獲できれば、恐らく脱出への道が開けます。 其処まで行かなくても、相手の組織の全容を理解し、トップを抑えることが出来れば」

「夢みたいな話だな」

「ジャングルでは、そうでもありませんよ」

不敵に雛理さんは、寛子ちゃんのおじいちゃんに返す。

この人は実戦経験者であり、言葉通りにとるならば、きっとジャングルでの戦いでなら自信があるのだろう。

「で、操縦は出来るのか」

「戦闘ヘリは何とか操縦経験があります。 最近のは頑丈で、ちょっとやそっとじゃ落ちませんよ」

「それをどうにかしなけりゃいかんのだろ」

やはり、寛子ちゃんのおじいちゃんは、慎重論を常に唱える様子だ。

そりを使って、荷物を引く。ロープで下ろした小柄なそりには、四十キロくらいの荷物を載せて運ぶことが出来る。

勿論段差には弱いが、そのまま運ぶよりも格段に楽だ。

時々、雛理さんが足を止めて、向きを変えるように指示を出してくる。

踏み込むと危険な沼が、たくさん点在しているのだろう。場合によっては、ブッシュを切り開いて、そのまま進むこともあった。

「良いの、こんなに痕跡を残して進んで」

「良いも何も、今の時点では、我々は捕捉されています。 どう進もうと、同じですよ」

聞かなければ良かったと、敦布が後悔するのを横目に、雛理さんが進むように指示を出してくる。

あの怪物を差し向けてきた人達は、つまり此方の動向を今の時点で掴んでいる。

それを振り切るための下準備を、何かしている、と言うところか。

殆ど虫の類は見かけない。

「お母さん、こっち」

「うー。 あー」

寛子ちゃんが、綺麗な葉っぱに手を伸ばそうとしたお母さんを引っ張る。

不満そうに引きずられる寛子ちゃんのお母さん。

「それで正解だろうねえ。 あれは多分毒草だよ」

「脅かさないでください」

「いいや、本当さ」

学者さんまでも、酷いことを言う。

こんな状態だ。冗談でも言っていないと、どうにもならないのだろう。

しばらく歩き回って、雛理さんが不意にまっすぐに進み続けるように指示を出し始めた。途中、何度か短めの偵察を入れている。しかも、その頻度がとても短いのだ。

雛理さんは怪物との戦いの時も、非常に勇敢だった。この人が歴戦の実戦経験者である事を、疑う理由はない。

何か目的があって動いているとみていい。

「見つけました」

不意に、彼女がそう言った。

「監視の位置が掴めなくて困っていたのですが、特定できました」

「今は衛星から熱探知、とか出来るんだろ?」

「この島では多分あり得ないですね」

難しい軍事用語を使って会話をはじめる二人。

その間に、黙々と進む。まだ進むようにと言う指示は出ているからだ。或いはこの会話、最初から聞かせるつもりなのかも知れない。

しばらくして、寛子ちゃんのおじいちゃんが納得したようだった。

「そうか、分かった。 それでどうする?」

「……」

指を下にぐっと突き立てて、無言で雛理さんが森に消えた。

 

密集した植物の香り。

時々聞こえる、動物の鳴き声。動物の鳴き声には全て意味があり、知ってさえいればそれは大きな武器になる。

そして、何よりも、物を言うのは天性のカン。

斑目島で、周囲は全て敵だった。多分、勘が鋭かったのは、生まれついてのものだろう。ニエの一族が、ずっと養ってきた、敵を避けるための本能。それが雛理にも備わっていたのだ。

だから、それが第六感と呼ばれるものであっても、驚かない。

ジャングルは味方だ。

密林の中にいると、人間は確実に異物となる。だが、雛理にとってはそうではないのだ。

現在でも、ゲリラを相手にするのは大変な苦労を伴うものだが。雛理が民間軍事会社でもエース扱いを受けていたのは、この対ゲリラ戦を非常に得意としていたからだ。ほどなくスカウトを受けて、今の仕事に移ったのだが、それもジャングル戦での実績を買われたのが大きい。

雛理は、決して運で復讐できる立場に戻ってきたのではない。

長年積み重ねられた一族の恨みと、何より自身の努力で、復讐を可能としたのだ。

もっとも、島に来たときには、不思議と復讐心は薄れはじめていたのだが。それに今では、復讐する対象さえいなくなってしまった。

複雑な気分である。

飛燕のように、ジャングルを走る。

雑念は出来るだけ払うが、どんなに変わり果てたとは言っても、此処は斑目島だ。どうしても思い出してしまう。

離散した一族は、東京で何をしているだろう。

もう一人とて居場所を知らない。生きているかさえ分からない。

彼らはどう思うのだろうか。斑目島の、ニエの一族を虐待してきた連中が、全部まとめて化け物になってしまったと知ったら。

喜ぶだろうか。

喜ぶに違いない。きっと、今でも底辺を這いずる生活をしているだろうから。憎悪を向ける相手は必要なはずだ。ざまあみろと、嘲笑するかも知れなかった。その光景が目に浮かぶようだ。

最後に雛理の記憶に残っている両親は、罵り合っていた。

今でも、思い出せるのは、憎悪に歪んだその顔だけだ。

音を立てずに行く。

どういうわけか、少し前から此方への監視が緩んでいる。敵兵を一人でも捕縛できれば、様々な情報を聞き出せる。

拷問の心得はある。

だが、こんな所に来ている連中だ。普通に拷問しても喋ることはないだろう。

だから、切り札を使う必要がある。

それを使えば、喋らせることが出来る自信はあった。

現在、敵は複層に渡る監視体制を引いていることが、さっきまでの偵察で分かっている。リモコンヘリを利用した、無人偵察機による監視が一つ。これはすぐに分かった。

問題は、それを操作している奴がどこにいるか、だ。

更にもう一つとして、彼方此方に仕掛けられている監視カメラと盗聴器。これについても、既に仕掛けているパターンを確認している。それにジャングルである以上、これを無力化する手は、いくつかある。

木に這い上がるようにして登ると、枝を蹴って跳躍。

直接此方を監視している奴を捕捉するまで、監視カメラには手を出さない。盗聴器にも、だ。

そのためには、移動経路を極力工夫する必要がある。

「さて、と」

樹冠まで這い上ると、探す。

監視機器類の設置パターンは読んだ。この辺りに隠れているはずだが。

辺りを見回して、見つける。

ただし、監視者ではない。雛理を探しているらしいヘリだ。リモコンで動くタイプの無人偵察ヘリで、小さいながらもロータリー音は極小。よほど気をつけていないと、雑音が多いジャングルでは見つけられない。

動き自体も、相当手慣れている。

豊富な人材を抱えている上に、資金が余っている組織だと、アレを見だけで判断が可能だ。

しかし、これではっきりした。

すぐ近くに、操縦者がいる。

場所を移動。

ジャングルでは、木の上にも、独自の生態系がある場合が多い。木に寄生した植物も多く、それらを利用した茂みに似た環境などもある。

上手く利用し、身を隠しながら、操縦者が隠れている場所を絞り込んでいく。

ほどなく、見つける。

ツーマンセルで潜んでいる。枯葉をまぶしたネットをかぶせて、その中にいた。一人は護衛だろう。カラシニコフを持っていて、背中にはバックパック。恐らく組み立て式の狙撃銃くらいは持っていてもおかしくない。体格からいっても、相当な使い手だろう事は間違いない。

もう一人が、複雑なリモコンを動かして、ヘリを操作している。

会話が聞こえることはない。

口元もマスクで隠しているから、唇も読めない。小声で喋っているとなると、こっちに声は届かないとみていい。

だが、枯れ葉ネットは、身を隠せると同時に、大きな弱点がある。背後への警戒が、疎かになる事だ。

しかし、だ。

歴戦の勘が、仕掛けようとする足を止める。

あれだけ豊富な資金を用意している組織だ。本当に潜んでいるのは二人だけか。

身を潜めて、周囲を確認。

念入りに調べた方が良い。どのみち、相手の場所は分かったのだ。もしも長距離に狙撃手が潜んでいた場合、面倒な事になる。

最近の軍用狙撃ライフルは、一キロ以上の長距離から相手を狙えるものもいくつかある。条件が限定されるが、この密林にも、持っているものがいないとは限らない。いや、雛理だったら、高確率で配置するだろう。

しばらく、周囲を探る。

まだ仕掛けるには早い。

 

夕方近く。

雛理さんが戻ってきた。

浮かない顔である。寛子ちゃんのおじいちゃんと、難しい話をしているが、断片的な会話の内容は拾えた。

どうも監視をしている人達は見つけたらしいのだが。仕掛ける隙が無かったのだと言う。雛理さんに無理なのなら、他の誰でも不可能だろう。

途中から二人は筆談をはじめた。言葉を拾われていると判断しているのかも知れない。

「そんなに豊富な人材を用意してきているのか」

「少なくとも二人、互いをカバーする位置に狙撃手を配置しています。 両方ともかなりの腕利きで、実戦経験者でしょう。 このままだと、仕掛けようとした途端に頭を撃ち抜かれるでしょう」

「八方ふさがりだな」

「まだ好機はあります」

雛理さんが話している内容を聞く限り、監視している人達は、どうしてか此方を泳がせようとしている、という。

ならば相手の思惑に乗ったふりをして、しばらく動けると言う事だ。

だが、妙なことも多いという。

「昨日に比べると、どうも監視で受けるプレッシャーが小さいように感じます。 何かトラブルが起きたのかも知れません」

「……もしそうだとすると、此方も安全とは言いがたい気がするな」

「いずれにしても、未だに監視は巻けていません。 早めに対処をしないと、危険かと思います」

爆発音。

こんな音、自然に発生するはずもない。

二人の表情が、張り詰めるのが分かった。

「走って!」

雛理さんの判断は速かった。

そのまま、手を振って、此方に来るように促しながら、密林の中を走り始める。爆発音はまだ遠いが、いつ近くに来るかも分からない。

ヘリが飛んでいくのが見えた。

あのアパッチという恐ろしい戦闘ヘリだ。

完全に此方を無視している様子だったし、何かとんでも無い事が起きたのは疑いないだろう。

滞空しながら、アパッチが凄まじい火線を密林に浴びせているのが分かる。ミサイルも放ったようだ。

また爆発音。

完全に修羅場だ。一部、森が炎上しているのが分かった。

「少しでも戦場から離れます」

転びそうになった治郎君を、支えて立たせる。

散り散りにならないよう、寛子ちゃんのおじいちゃんが叱咤して、皆で一緒に、爆発から離れるようにして走った。

不意に、雛理さんが消えた。

違う。坂になっているのだ。かなりの長距離、傾斜が続いている。

枯れ葉を踏むようにして、飛び込む。そのまま、坂を滑り降りる。全員ついてきているか。振り返り、何度も確認する。

寛子ちゃんは、お母さんの手を引くので必死だ。

追い打ちを掛けてくるようにして、爆発音がした。

一人だったら、悲鳴を上げていたかも知れない。何か、とんでもなく怖い事が、後ろの方で行われているのだ。

炎上が凄い。後ろの方が、丸ごと燃えているかのようだ。

だが、此処で雨が降り出した。元々みずみずしい森だし、これ以上炎上は広がらないだろう。

ヘリのロータリー音が、空を切り裂いているのが分かる。

治郎君がぎゅうとしがみついてきた。怖いのだ。怖い事は、おかしな事じゃない。

坂が終わる。雛理さんが手を振って、こっちだと招いている。吃驚して飛び出してきたらしい猪と、すれ違う。上の森にいた奴とあまり大きさは変わらないが、勢いはもの凄くで、ぶつかられると怪我をしそうだった。

「ほおー。 あれだけ出し惜しみしないで攻撃しているって事は、よほどのことらしいなあ」

「こっちです! はやく!」

脳天気な事をほざく学者さんに、雛理さんが叱咤した。本当にこの人は、自分の大事な鞄さえ守れれば、戦場でも嬉々として歩いているのではないかと思ったのだが。冗談抜きに、その通りだったか。

森を走る。

途中、不意に雛理さんが猟銃をぶっ放した。

木の上に向けて撃ったようだが、理由は分からない。ただそのまま、ひたすら走り続けた。

止まったのは、森のだいぶ奥に入ったのが、確実な場所で、である。

そりに乗せていた物資以外は置いてきてしまっている。呼吸を整えながら、寛子ちゃんのおじいちゃんが言う。

「まけたか?」

「さっき、監視カメラは潰しました。 監視の人員については、ついてきていない可能性が高い、ですが……」

言葉を濁す雛理さん。

何かあるといっているようなものだ。

辺りは木しか無く、まっすぐ走ったのか、それとも廻っていたのかさえも分からない。ただ、地形は思ったより起伏がある。大きな木が側にあり、その根元に穴があるのを、雛理さんが発見。

「休めそうですね。 中には何もいません」

「酷い匂いがしない?」

「多分、何かの巣穴だったんでしょう。 持ち主は、あれでしょうね」

側に転がっている、白骨。

かなり大きい。熊か何かかと思ったが、逆にそれだと小さいかも知れない。

熱帯の動物だから、小さいという事なのだろうか。

中に入った寛子ちゃんのおじいちゃんが、スコップを使って、土を掻き出しはじめる。糞は無い様子だが、それで酷い匂いが少しは出た様子だ。

穴をそのまま拡張して、中で休めるように整備しはじめる寛子ちゃんのおじいちゃん。チハの時も生き生きしていたが、整備自体が好きなのかも知れない。

穴掘りを終えると、少し休む。

雛理さんがそれを横目に、偵察にいく。まだ遠くでは戦闘のものらしい音が響いている。監視をしていた人達をまけたかどうかも、分からないのが実情なのだろう。

敦布は体力に自信があるから、もう動けるが、他の人はそうではない。

唯一元気そうなのは、なんと学者さんだ。めをきらきら輝かせて、やはり辺りを這いずり回っては調べている。

この人だけは、やはり何があっても死にそうに無かった。

「順番に休みましょう。 治郎君、寛子ちゃん。 寛子ちゃんのお母さんと一緒に、しばらく休んで」

「ジャージの。 お前はどうするんだ」

「私は、雛理さんが来るまで見張ります」

無言で、雛理さんが残していった猟銃を拾い上げる。

ずっしりと重い。

撃ったら、人が死ぬ重さだ。

「そうだな。 休んだ方が良いだろう。 先に休め」

「治郎君、ほら。 お母さんも」

寛子ちゃんが手を引いて、木の根の下の穴に入る。

近くの木に背中を預けると、敦布は見張りをはじめた。何かあった場合は、敦布が命を捨ててでも、皆を逃がす覚悟だ。

「私はもう少し、辺りを調べるよ」

学者さんは、満面の笑みで、聞かれもしないのにそう言った。

 

夜明けが来た。

気がついたときには、夜が明けていたことになる。

眠いが、そうも言っていられない。

足音。

銃を抱えて立ち上がると、茂みを割って現れたのは、雛理さんだった。

「何事もありませんでしたか?」

「平気。 そっちは?」

「……行成おじいさんも合わせて話しましょうか」

あまり無事そうには見えない。

何カ所かに、擦り傷があった。浅黒い肌だから目立ちにくいが、どんな超人でも、怪我をして痛くないという事は無い筈だ。

手当てしようにも、物資は最小限しかない。

寛子ちゃんのおじいちゃんは、すぐに木から下りてくる。上で見張りを担当してくれていたのだ。

そういえば、良い例ではないが。沖縄戦で、椰子を利用した狙撃兵が、かなりの戦果を上げたとか聞いている。米軍の司令官も、それで命を落としたとか。

「早速ですが、既に監視はされていません。 まいたと見て良いでしょう」

「何があったかは掴めたか」

「分かりませんが、既に戦闘は終了しています。 勝ったのは、恐らく我々を監視している組織でしょうね」

アパッチが護衛する輸送ヘリが、黒焦げの巨体を運び去るのを、雛理さんは見たそうだ。

その巨体は正体が掴めない大きな生物で、研究所を襲撃してきた怪物よりも更に大きく、理不尽な姿に見えたという。

「全長は八メートルを超えていました。 しかも蛇のように長い訳ではなく、ずっしりとした巨体で、です。 アフリカ象以上の巨体で、此処にある装備で撃退するのはまず不可能でしょう」

「上に来た奴も、チハがあってどうにかって相手だったしな」

「一体何……? 生物兵器なの?」

敦布の問いに、雛理さんは首を横に振る。分からない、ということだろう。

だが、ファンタジーな存在だとは思えないのだ。これだけでたらめな出来事が起こりまくっているにもかかわらず、である。

「この森には、そんな怪物が闊歩してるのかな」

「その可能性は低いと思います」

「俺もそう思う」

寛子ちゃんのおじいちゃんが、酒を探しているような手振りを見せたが、すぐに向き直る。

お酒が好きだったとは聞いている。ずっとお酒を断っているから、それなりにつらいのだろう。

「もしもそうだったら、想定の範囲内だから、監視が緩んだりはしないだろう。 何らかのイレギュラーだったって事だな」

「同意です」

「でも、それがイレギュラーで終わるかな」

「何とも言えませんね、そればかりは」

安心できるような言葉は出てこない。

膝を抱えたまま、敦布は弱音を口にしてしまう。

「正直ね、私はもう、自分が死ぬことは覚悟してるの。 でも、生徒達はどうしたって、脱出させてあげたい。 どうにか、出来ないかな」

「今はその手立てが見えません。 ただ、此方を監視していた連中が、兵力を削られたことは、好機ですね」

人が傷ついただろうに。

それを好機だなんて。

だが、その言葉に同意してしまっている自分がいる事に気付いて、敦布は酷い自己嫌悪に陥っていた。

いい加減、腹をくくらなければならないのは分かっている。

子供達を逃がす。そのためだったら、この島で野ざらしの骨になったっていい。

まだ足りない。

どんなものでも利用し尽くして、生き残るくらいの覚悟が、必要になってくるのではないのか。

しばらく黙っていると、寛子ちゃんのおじいちゃんが、薪をたき火にくべた。

「で、ジャージの。 人を殺せるか?」

「……」

「これから、脱出するには、ヘリなり飛行機なりを、俺たちを見張ってる連中からぶんどらなけりゃ無理だろう。 そうなりゃ、守ってる連中を少なからず殺さなけりゃ無理だろうな。 出来るか?」

出来るようになっておけ。

そう言い残すと、寛子ちゃんのおじいちゃんは、木の上に戻っていった。

「見張り、やっておくよ」

頷くと、雛理さんも、木のうろの中に消える。

やっと得られた新しい住処は。

まだ、安全とはとても言えなかった。

 

2、カムイ

 

平坂も、カムイの捕縛が終わった時点で臨戦態勢を解除した。万一を考え、キャンプから輸送ヘリCH-47JAに乗り込んでいた平坂だったが、撃破完了の報告を聞いて、ようやく安心することが出来た。

ヘリが着地して、部下達がめいめいに散っていく。

三交代での休憩を命じると、平坂自身も、オフィス代わりにしているプレハブの自室に入り、椅子に背中を預けて、一息ついた。

戦闘の一部始終は見ていた。

近代兵器の火力をフルに浴びせて、ようやく撃破できる生物が存在するとは、信じがたい事実である。

RPG7の直撃に、二発も耐え抜いたのだ。軽機関銃程度では、弾が弾かれてしまって、通じなかった。次からカムイを捕獲する場合は、10式戦車を持ってこなければならないだろう。

しばらく、秘書官に淹れさせた紅茶を堪能する。

これからのことを整理しておく。実際に手を動かすのではなく、頭の中で、である。そうすることで、実際に動く際の効率を上げることが出来るのだ。

カムイの捕縛記録を、黒鵜が作成して持ってきた。

目を通していくと、いくつか気になるところが浮かび上がってくる。黒鵜自身に聞くよりも、映像などを見た方が早いと、平坂は判断した。

目覚めたカムイは、全長8.4メートル。体重14トン。

装甲は、近代戦車のもの以上。RPG7を二度も防ぎ抜いたのだから、これは妥当なところだ。

装甲を解析すれば、非常に有用な結果を得られることは疑いない。

攻撃能力も高い。

今回は二名戦死者を出した。どちらも有能な兵士だった。惜しい損失である。しかしながら、それが無駄にならなかったのは嬉しい。

幾つかの攻撃については、映像が残っていた。

木を一本、殆ど瞬時に溶かすほどの強烈な酸の噴射。体内にどうやって蓄えていたのかも、解体後に解析したい所である。

そして爪は、チタン合金や、最新のセラミックを越えるほどの硬度。

全身に六つある腕状の器官から繰り出される爪の破壊力は、近代の戦車を瞬時にスクラップにするほどの代物だ。

機動力も、この巨体にしては驚異的だ。

時速八十キロ近くで走る上に、跳躍力は十メートル以上。流石に、アイヌの言葉で神を意味するだけのことはある。

完全に生物の常識を越えた存在である。

これの前に出たら、地上最強の肉食動物であるホッキョクグマなど、可愛い小熊のぬいぐるみに過ぎない。瞬く間に小粋なおやつとされてしまうだろう。

むっつりと不満そうな黒鵜が来る。

大事な部下を二名も失って、不快なのだろう。

幾つか質問をして、それに答えた後。黒鵜が切り出した。

「北海道に続いて、これで二度目です。 カムイを探査する方法を早めに造り出さないと、更に無駄な損害が増えることとなります」

「分かっている。 死んだ兵士達の経歴を見せてくれるか」

「此方になります」

以前も、黒鵜は同じような事件が起きたとき。死んだ兵士達の経歴書を提出してきた。

彼らのことを忘れないでくださいと言ったとき。鉄面皮に思える黒鵜の顔に、不平と怒りが浮かんでいたことを、平坂は明晰に思い出せる。

兵士達は黒鵜を嫌っているらしいのだが、致命的なところで激発に至らないのは、こういう根底での強い感情を感じているからだろうか。

否、否。

そんなことを察知できるほど、人間は出来た生物ではない。

そう、平坂は思う。

経歴書に目を通すと、平坂は黒鵜に、遺族への補償を説明した後、言う。

「それで君は、カムイに対する有効な戦術のあてがあるかね」

「まず第一に、近接戦での攻撃を防ぐことが必要です。 所詮生物。 どれだけ化け物じみていても、遠距離からの攻撃はひとたまりもありません」

実際、今回も決め手になったのは、アパッチからの砲撃だ。

アパッチが装備しているチェーンガンによる射撃で全身を穴だらけにし、其処に大威力の対戦車ミサイルを複数叩き込んでとどめを刺した。

冷静に指揮をしていた黒鵜の巧みな戦術が、綺麗に決まった形である。それでも、死者は出てしまったのだが。

「今回、カムイの常識外な装甲を、一部無傷で手に入れることが出来ました。 これを解析させ、持ち込んでいる戦車に装備しましょう。 後は酸ですが、これに対しては幾つか対抗策があります」

「問題は、カムイの成体が、それぞれ別物と言うほど違っていることだが……」

「戦闘タイプに関しては、前回の事件で目撃した六体と、今回の一体を合わせても、さほど能力に差が無いと思います」

黒鵜の分析によると、カムイは如何に強いと言っても、生物の領域を越えていないという。

つまり、出来る事には限界があるという事だ。

「それに、もう一つ懸念があります。 まだ、確認できるだけでも数体のなり損ないが発見できていません。 早いうちに見つけないと、危険です」

「分かっている。 探査には全力を尽くさせよう」

「思うに、泥洗の規模が大きすぎたのではないでしょうか」

これも、黒鵜は不満そうだった。

だが、これだけの規模の神林を造り出すには、あれは必須だった。何度も不満を言われているが、そう返すしかない。

「制御の範囲に関しては、完璧に守れていた。 これもこの国と言わず、人類の未来のためだ。 諦めてくれたまえ」

「……分かりました」

「増援の手配は、私からしておく。 言うまでも無いが、既にこのミッションはフェイズ3に入っている。 成果に関しては、どのスポンサーも満足しているから、増援については期待出来るだろう」

「代わりを連れてくることは出来ますが、死んだ部下は生き返りません。 それを覚えておいてください」

わかりきったことを言うと、黒鵜は部屋を出て行った。

そんなことは、平坂だって知っている。

知っているからこそ、このプロジェクトを立ち上げたのだ。このプロジェクトが成功すれば、人類は一段階上に行ける。

やっとだ。

宗教が衰退し始めてから、カルトがそれに取って代わって。哲学は結局宗教の代わりをする事が出来ず、イデオロギーは政治を混乱させるだけだった。

民族主義は所詮新手のカルトに過ぎなかった。

今更、人間という生物そのものには期待出来ない。新しい科学技術をいくら作り出す事が出来ても、精神文化の発展は万年前からなんら変わっていない。

このような生物は、根本から変えなければならないのだ。

まずは、この島を平坂の王国にする。

そして、それを地球上全てに広げる。カムイの力を用いれば、地球全てを泥洗することも可能だ。

仮に科学文明が進展して、地球人が宇宙に行くことがあっても。

それは、地球上で散々繰り返してきた愚行を、宇宙規模で再現するだけになる。

それではいけない。

いけないのだ。

万物の霊長を自称するのならば。宇宙に出るときには、それに相応しい存在になるべきだ。

此処は、平坂の王国であると同時に、人類の新しい歴史の出発地となる。

そのためには、犠牲はいくら出ても構わないと、平坂は考えていた。

携帯電話が鳴る。

研究所に立てこもっていた連中を監視させていた班よりの連絡だ。

「どうしたのかね」

「はい。 実は、早急にお耳に入れたい事がございまして」

「何か」

「はい。 監視対象が消えました。 現在痕跡を追跡中ですが、途中泥沼を敢えて渡るようなまねを何度となくしておりまして。 なおかつ、相手にはジャングルファイトの達人である者がいる様子です。 この人数での追撃は難しく……」

なるほど、あの騒ぎの隙を突かれたか。

これは面白い事態だ。

泳がせるつもりだったのだが、しっかりそれを読んで行動してきた。

「逃げ込んだ可能性がある地域は」

「現時点では、キャンプとはかなり離れているかと思いますが、四地点ほどを想定できます。 現状の戦力から考えれば、なり損ないをけしかければ、即座に駆逐できると思うのですが」

「不要。 しばらくは泳がせるように。 君達は撤退して、監視システムの再構築を」

「分かりました」

通信が切れる。

キャンプの周囲は、なり損ないを探索することも含めた監視網の巣だ。此処を突破するのは、ハリウッド映画の特殊部隊出身ヒーローでも無理だろう。

しかし、相手の出方次第では。

これだけのことを成し遂げた人間だ。そのまま圧力で押しつぶすのも面白くない。せいぜい泳がせて、計画にあらがってもらうとしよう。

舐めているのではない。

フェアに行動しているだけだ。

ただし、対策はきちんとしておく。ジャングルファイトの達人がいる以上、油断する訳にもいかないからだ。

携帯電話で、さっき出て行ったばかりの男を呼び出す。

「黒鵜、仕事だ」

「何か起きましたか」

「例の監視対象達を見失ったらしい。 攻撃に備えて、警戒を強めるように」

「分かりました。 直ちに取りかかります」

電話を切ると、仮眠を取ることにする。

三十時間以上眠っていないのだ。少し体を休めないと、思考をクリアに働かせる事が出来ない。

それに、いつ次に眠れるかも分からないのだ。

眠れるときには、眠らなければならなかった。

 

黒鵜はキャンプの周囲に、部下達を督促して念入りな警戒網を敷いていった。

元々カムイ対策に、ティランノサウルスでも突破できないような重厚な布陣は敷いている。雷竜が突進してきても、跳ね返せる自信があるほどだ。

だが、それでも絶対はない。

先ほど倒したカムイは、制御コアを打ち抜くまで、どれだけ攻撃しても戦闘意欲を捨てなかった。高圧電流程度では、どうにもならない可能性も高い。

ましてや人間はどうか。

人間は万物の霊長などでは無いと、黒鵜は考えている。

だが、この世で最も狡猾かつ邪悪な生物だとも、考えていた。

玄人が罠を作れば、それで防げるというものでもない。

今まで黒鵜が知る限りでも数件、玄人が作った情報防衛網を突破して、暗殺に成功した例がある。

黒鵜が知る例だけでもそれだ。難攻不落の要塞が最後までそうであった事例は無いように、世の中に絶対は存在しない。

地形を地図と見比べる。

弱点があるとすれば何処か。自分で攻めるならどうするか。

徹底的な検証を続けている黒鵜に、部下の一人が話しかけてきた。

「何だかおかしな話ですね。 戦闘タイプのカムイを作って、けしかければ良いだけのような気もするのですが」

「俺は反対だな。 あの戦闘力を見ただろう。 しかも知能も高い」

人間に従える方法は限られてくる。

反逆した場合、止められない可能性も高い。自己増殖は今の時点では出来ない様子だが、それでもいつどうなるか分からない。

「なり損ないなら自爆装置でどうにでもなるが、カムイは底が知れん。 倒すことだけならどうにかなりそうだが、な」

「そんなものでしょうか」

「最悪の事態を想定して、離島で実験をしていることを忘れるな」

前回は、北海道で同じような実験が行われた。

其処は完全な密室状態の孤島で、無人島だった。

今でも忘れられない。あの時は、暴走したカムイを全滅させるために、本当に大きな犠牲を払ったのである。

充分な準備をしていたあの時でさえ。

今回は、以前よりも豊富な人員に機材、装備に知識。いずれもが比べものにならないが、それでも事故で死者を出してしまった。

納得は出来ない。

平坂の言う事も分かる。だが、黒鵜は納得できなかった。

裏家業で働いているとは言え、部下は部下。人命は人命だ。戦闘ではゴミのように人間が死んでいくが、それは指揮官の工夫次第で減らせる。

おかしなものである。

人間の非合理性と、コミュニケーションと称する定型句に不満を持ち、多くの人間に対して壁を作っている黒鵜が。

部下達に戦闘マシーン呼ばわりされている黒鵜が。

こんな風に考えていると知ったら、部下達はどう思うだろう。まあ、どう思おうが、知ったことでは無い。

コミュニケーションは心などでは成り立たない。

利権と見かけと定型句だけで成り立っている。それを知っている黒鵜は、別に何も他人に求めてはいなかった。

一通り、作業を行う。

考えられる死角は全て潰した。後は研究施設「牧場」の方だが、あっちも充分な防備を施している。

問題は移動時だ。

キャンプと牧場は、わずかに距離がある。

これはいざという時に主要施設が全滅することを避けるための処置だ。実際前回の北海道実験では、構造の問題が被害を拡大したのだ。

「移動経路に監視システムを配置する」

「柵で覆った方が早くないですか」

「それだけの物資を取り寄せるよりも、ひとまず何か現れたらすぐに対処できるようにしておきたい」

「そうですね。 わかりました」

勿論最終的には鉄条網で覆うのが一番だ。

だが現時点では、数百メートル分の鉄条網を、すぐには用意できない。勿論用意は出来るが、運んでくるまでにかなり時間が掛かってしまう。

現状の監視システムと、強化ポイントを考えていると。

遠くから、不快な声が聞こえてきた。

顔を上げると、岸田だ。

満面の笑みを浮かべている。奴がこっちに来たという事は、何か大きな発見があったと言うことか。

「やあやあ黒鵜ちゃんじゃないか! 元気にしとったかね」

「馬鹿なことを言うな。 部下が死んだばかりなんだぞ」

「そういえばそうだったか。 ごめんごめん」

上機嫌な岸田は、相変わらず誰に対してもため口である。まるで少年漫画に出てくる無礼な子供だ。

部下達も、不快そうに見ているが。岸田は全く気にしていない。

「それよりも、君が取って来てくれたサンプルね、実に興味深い事が分かったんだよ、ばらしてみたら!」

「俺になんで説明する」

「そりゃあ、君に関係ある事だから」

嫌な予感がした。

岸田は全く邪気が無い笑顔で、手振りを交えて説明してくる。

それを聞いていて、部下達が見る間に青ざめていくのが分かった。

「あれ、まだ死んでなかった」

「何……っ!」

「コアが損傷して、休眠状態に入っただけだったんだわ。 その証拠に、コアを取り出したら、すぐに動き出してね」

遠隔操作の手術室だったから、死者は出なかったそうだが。

その場でロボットアームに触手が絡みつき、引きちぎられそうになったのだとか。

即座に焼却処分して、カムイを焼き払って。今度こそ完全にコアを破壊して、とどめを刺したそうなのだが。

岸田は、とにかく嬉しそうだった。

「コアが最初から複数合ったとみて良いだろうね」

「何だと……!?」

「カムイはコアを破壊されない限り死なないけど、今後は複数あるコアを全て破壊し尽くさないと死なないと、認識を変えた方が良さそうだよ。 今のところ、調整中のなり損ないはコアが全部一つだけど。 カムイ化して家畜化したら、ひょっとしたら……分からないかも知れないねえ」

けたけたと、嬉しそうに岸田は笑う。

此奴はイカれている。自分が死のうが危険な目に遭おうが、関係ない。知識欲さえ満たせれば、後はどうなろうと構わないというタイプだ。

異常と言うよりも、常人とは精神構造が根本的に異なっている。それは黒鵜も同じだが、此奴の場合はより危険な方向に、極端に傾いていると言って良い。

「それと、サンプルの素性、分かったよ」

「本当か」

「本当も本当。 あ、これは平坂ちゃんに言ってからの方が良いか。 じゃ、平坂ちゃんと遊びに行ってくる」

肥満しきった体をゆさゆさと揺らしながら、化け物科学者が去って行く。

黒鵜は、人知れず呟いていた。

俺たちの方が、よっぽどカムイより化け物じみている。

この島に住んでいる最強最悪の化け物は、やっぱり人間なんじゃ無いか、と。

空恐ろしい事に、そのつぶやきが真実である事を、黒鵜は知っている。

そして、その化け物の一匹が、自分である事も、である。

既に地獄と言って良いこの島は。これからさらなる地獄に落ちるとみて良いだろう。殺戮の旋風には、黒鵜の部下達も巻き込まれると判断して間違いなかった。

 

3、水際の悪夢

 

雛理さんが、新しく地面に地図を書き始めていた。

どうやら元からあった島の地図では、もう対応できないらしい。実際問題広さが違う上に、いびつに西に広がりすぎて、原形をとどめていないからだ。

彼女によると、新しく出来た密林は、現時点で最低でも十五キロ四方程度の広さがありそうだという。

密林の広さを計測する方法があるほか、今まで歩いてきた距離に加え、地平線がだいたい十キロ程度先という事を考えると、そう言う結論になるのだとか。

ただし、それも絶対では無いと、彼女は言う。

「この密林は、色々とおかしな事が多すぎます」

雛理さんは、そう言って説明してくれる。まず第一に、河が無いと言う。

密林を成立させるのに必要なのは、豊富な水分だ。

それは雨であったり霧であったり。いずれにしても、恒常的に水分が供給される必要があると言う。

逆にいえば、それだけの水がどこに行ってしまうのか。

だからこそ、必ずそれなりの規模の河が出来る。或いは、沼沢地のようになる。

この規模の密林だと、相当な大きさの河もしくは湖が無いとおかしいという。

「それに、降水量が少なすぎるのも気になりますね」

そういえば、木の根元の穴に住み着き始めてから、まだ雨が降っていない。

研究所の方にいた頃は、かなり雨が降っていたのだが。

考えて見れば、不思議な話である。同じ密林でも、崖の上にあった奴の方が、比較的健全に見えた。

だが、他にもおかしな事は多い。

「虫の類が、とても少ないと思いませんか?」

「ああ、それは私も感じるねえ」

学者さんが話に乗ってくる。

そして、教えてくれた。

アマゾンなどの密林では、毎年膨大な種類の新種が発表される。あれは地道に探しているのでは無い。

木の下などで煙をドバドバ焚いて、落ちてきたものをみんな調べているのだそうである。そんながさつなやり方でも、膨大な新種を発見できてしまう。つまり、それだけとんでも無い種類の昆虫が存在しているという事だ。

密林では、普通の森では考えられない場所に、独自の生態系が存在する。

木々の枝の上にも。

コケが生え、その上に独自の昆虫や植物たちの生活圏がある。

それが、この密林には、存在していないのだ。

「なんというかねー。 無理に植林すると、こんな感じになるんだよねえ。 熱帯雨林をドカスカ切り開いた後、植林とかいって木だけ生やすでしょ。 そうすると、こんな感じで、ちぐはぐな森になる訳。 動物は住み着かないし、昆虫も殆どいない」

「つまりこの森は、強制的に作られたから、いびつだと?」

「うーん、しかし自分で言って何だけど、それでもおかしな点があるんだよね」

小首をかしげる学者さん。

彼が言う所によると、この森は「豊かである」条件を満たしているというのだ。どういうわけか土は芳醇な腐葉土として完成しているし、木々にもこけがしっかり根付いている。熱帯雨林としては、完成された形にはなっている。

だが、其処には、いるべき生き物がいない。

土を掘ってもミミズは出てこないし、それを餌にする少し大きな昆虫もいない。勿論それを餌にする小型の動物も、それを更に食べる肉食獣もいない。

いないいないづくしだ。

虫が全くいないというわけでは無い。

小型のカマキリは敦布も見かける。蝶も飛んでいる。

だがヒルのような生物はいないし、蚊も見かけない。

おかしな事に、蠅もいない。

この人数がいると、トイレの始末は結構面倒なことになってくる。だが、始末した糞便に、蠅が集まる形跡が無いのだ。

「一体この森は何なのか。 いきなり出来たという事もあるし、興味深いねえ」

「で、その情報が、何か役立ちそうなのか」

今まで黙っていた、寛子ちゃんのおじいちゃんが話に加わってくる。

雛理さんが頷くと、地図上の自筆で書き加えた部分に、指を走らせた。

「森に動物がいると、警戒音などを出すので、奇襲がやりづらくなります。 人間だけでは無くて、動物も警戒しなければならないので」

「なるほどな。 ただしそれは、逆も言えるのでは無いのか」

「その通りです。 此方も奇襲を受けた場合、かなり早期で発見しないと、全滅の危険があります」

つまり、敵も味方も、非常に危険な状態にある、という事か。

敦布は膝を抱えて、戦術談義は聞いているしか出来ない。本当は子供達と一緒に食糧を集めたり、お風呂代わりに入る小川でも見つけにいきたいのだ。この気温なら、川に入っても風邪を引くことは無いだろうから。

だが、今は、それさえ許されない。

分かってはいる。

早く、一刻も早く。この密林を抜けなければならないのだと。

最悪の事態になれば、雛理さんは子供達を、足手まといを切り捨てると言い出しかねないのだ。

何か言わないと。

そう思った瞬間である。

夜中である今、寝ているはずの寛子ちゃんが、血相を変えて木の根から飛び出してきたのだった。

「ジャージ先生!」

「どうしたの!?」

「お母さんが!」

雛理さんが、目を細めるのが分かった。

ざまあみろと、彼女は口に出して良い立場だ。何しろ彼女の所属していたニエの一族は。

だが、今は、まず人命を優先したい。

手を引かれて、木の根の中に。

這い出してきた治郎君は、完全に青ざめていた。

「先生! おばさんが、おばさんがっ!」

木の根の奥から、異様な音が響いた。

恐怖に身をすくませる治郎君を下がらせる。考えて見れば、心を病んでいたからとは言え、いきなり体調を崩すとは思いにくい。

「今日の夜くらいから、急に何だかよく分からない事を喋るようになって。 眠ってからも、何かをずっと喋っていました。 それで、そうしたら、あんな……!」

わっと、顔を押さえる寛子ちゃん。

背中に庇うようにして、木の根の奥に、懐中電灯の光を当てる。

思わず、呻いていた。

繭だ。

汚らしい糸を吐くようにして、寛子ちゃんのお母さんが、繭を作り始めている。おぞましいうめき声に聞こえるのは、糸を吐く音だったのだ。

病的に歪んだ体をよじって、寛子ちゃんのお母さんが、此方を見た。

もう目の焦点は合っておらず、完全に白目だ。口の中は、歯ではなく、牙になっているようにさえ見えた。

側に来た雛理さんが、懐中電灯に照らされた子供達を見て、学者さんに言う。

震えている子供達を、連れて行って欲しいと。

「やだ! お母さんが!」

二人には、聞かせられない話をするつもりだと、すぐに敦布は分かった。

拳を固めて、わなわなと震える。

どうしてだろう。人外に変わりつつある寛子ちゃんのお母さんに対して、さほど恐怖は感じない。

それよりも、過剰な合理主義への反発の方が、大きかった。

「そんな話、今しなくても!」

「さっき言ったはずです。 この森は、奇襲を防ぐのが非常に難しいと」

「分かった。 連れて行くよ」

半ば呆れた様子で、学者さんが二人の手を引いて、少し離れた茂みへ行く。

繭になりかけている寛子ちゃんのお母さんの手は、紫色に変色し、爪は長く長く伸びていた。

「に、にえ、ころす、くらう……」

「……」

無言で、寛子ちゃんのお母さんの頭部に、猟銃を向ける雛理さん。話なんて、する木は無かったんだ。

邪魔な二人を遠ざけて、ただ撃つために。

この人は、子供達を騙すようなことを、言った。

背筋が凍りそうになる。

「これで、はっきりしましたね」

「な、何が……?」

「あの黒い雨を浴びたわたし達も、いずれ怪物になるって言う事です。 きっかけは分かりませんが、この人は他よりそれが早かった」

そして、雛理さんは。

何ら躊躇無く、引き金を引いた。

しかし、顔を吹き飛ばされても、雛理ちゃんのお母さんの異形化は止まらない。更に二発、銃弾を撃ち込む。

木の根の穴の中で、繭が鮮血に染まる。

うめき声なんて上がるわけが無いのに。みしみし、めきめきと、巨大化していく体が、怒りの咆哮を上げているように思えた。

「ウィンチェスターを」

「おう」

寛子ちゃんのおじいちゃんも、銃を構える。

相手は、実の娘だというのに。

やめて。

言おうとするが、声が出ない。怖いと言うよりも、目の前の現実が恐ろしすぎて、どうすれば良いのか分からない。実の娘を撃つ親。何の躊躇も無く、猟銃の引き金を引く雛理さん。

更に数発の弾丸が、寛子ちゃんのお母さんだった肉塊を抉り、吹き飛ばす。

血に混じって、あの臭いがした。

黒い雨が降り注いだ日、嗅いだ。腐った肉の匂いだ。

肉の塊の中、何か見えた。それは真珠のように光っている球だった。

それを打ち抜くと同時に、肉塊がふくれあがるのが止まった。

一気に肉塊が、腐り始める。

真っ黒になり。ぐずぐずに溶けていき。

やがて完全に液状になり、地面にしみこんでいった。

もう、この穴は使えない。

酷い匂いがすると言うよりも、もう。此処は、人が住める場所ではなくなった。涙が出てくる。

拭いても拭いても、止まらなかった。

「どうして……」

いつのまにか、膝を突いていた。

どうして、こんな事に。

それに、雛理さんは言った。誰もが、怪物になってしまうと。黒い雨を浴び続けた敦布や雛理さんよりも早く、どうして寛子ちゃんのお母さんが、そうなってしまったのか。

分からない。

免疫力という問題なら、もうおじいちゃんである学者さんや、行成さんがどうして怪物にならないのか。

「やはり、あの怪物と同じですね。 さっきの白いのが、コアになる部分でしょう。 あれを打ち抜けば殺せる」

「ああ。 ……これじゃあ、埋葬もできねえな」

寛子ちゃんのおじいちゃんが、銃を下ろすと、その場を離れていった。

他に、何も言うことは無いのか。

怒りがこみ上げてくるが、それ以上に今は、悲しみの方が強かった。

スコップを担いできた寛子ちゃんのおじいちゃんが、木の根の中の穴を埋め始める。そして、手を合わせて、南無阿弥陀仏とだけ言った。

 

その場を離れて、少し南下する。

海に近づきたいと、敦布さんが言ったのだ。

理由はよく分からない。

翌日から、全員で荷物を担いで、そりを引いて。南に進んだ。

何が起きたのか分かっているらしい寛子ちゃんは、一言も喋らなかった。治郎君も昨日のことが怖かったのだろう。何も言わず、黙ってついてきた。

お風呂には数日入っていない。

体からは酷い匂いがしているだろうなと、敦布は自嘲する。

そんなときでも、子供達の方が心配なのは、職業病から、だろうか。

食べるのだけは、食べている。

森の中だ。食べられる木の実はあるし、動物だっている。敦布さんが昨日はどこからか兎を捕まえてきて、それを目の前で捌いて焼いた。食べてみると、とても美味しかった。兎を解体するのを、可哀想だと思えなくなってきている自分がいた。子供達も、何も思わないようだった。

誰も、不満一つ言わない。

不満をずっと口にし続けていて、狂気を発して壊れてしまった寛子ちゃんのお母さんが、あんな事になって。

それで、誰も不満を言えなくなったのかも知れない。

無言で木に登りはじめた雛理さんが、降りてくる。

そして、首を横に振った。

「此処までです」

「……?」

詳しく聞き返す余力も無かった。

「南の方、ずっと山みたいな土が連なっています。 崖状になっていて、今の装備だと乗り越えるのは難しそうです」

「やっぱりな。 この森、周囲を崖状の土砂で覆われてるって事か」

「海抜からだいぶ低いから、おかしいとは思っていましたが。 予想が悪い形で適中しましたね」

こんな時も、この二人だけは平常心だ。

いや、もう一人。

「実に興味深い。 調査隊をつれて、調べたいほどだよ」

昨日、人が死んだばかりだというのに。

学者さんは、目をきらきらさせて、話に聞き入っていた。

治郎君が泣き出す。

多分、もう耐えられなくなったのだろう。

「やだ……怖いよ……! 家に帰りたいよ……!」

「大丈夫。 先生が、此処から絶対に出してあげるから」

嘘でも、もう家に帰してあげるとは言えなかった。

敦布は、治郎君を抱きしめて肩をさすりながら思う。この狂った世界は、一体どこまで続いているのだろう、と。

雛理さんは、まるで感情がこもらない様子で、それを見ていた。

そして、遠くを手をかざして見ながら、言う。

この人は、戦闘ロボットか何かなのだろうか。

「此処にいてください。 周囲を見て来ます」

「ジャージの。 警戒に入る。 ほれ、村田銃もて」

「少し、待ってください。 子供が、泣いているんです」

「悪いが、待ってられねえ。 すぐにしろ」

見かねたわけでは無いだろう。

寛子ちゃんが、代わりに村田銃を持とうとした。首を横に振ると、敦布が代わりに村田銃を拾う。

子供に、あんな事だけは。

昨日の、人だった者を撃ち殺すようなまねだけは。させられなかった。勿論、人だって、殺させるわけにはいかない。

「ごめん。 寛子ちゃん。 治郎君を、お願い」

「ジャージ先生、大丈夫?」

「私は。 大丈夫、だから」

みんな、狂ってる。

私も、きっとその一人、

銃を持って、教えられたとおり構えをとる。誰が来ても、すぐに撃てるように。

誰かが、怪物になってしまったとき。即座に撃ち殺せるように。

もちろん、それは。

自分自身も、例外では無い。怪物になるのだとしたら。何があっても、子供達に害を与えないように。

自分で自分を撃たなければならなかった。

 

4、マシーンの通ってきた戦場

 

森の中を、無音で走る。

さっき、敦布が膝を抱えて、一人で泣いているのを見た。子供達が寝静まった後のことである。

やっと見つけた、大樹の陰。雨風だけはしのげそうなその場所で、一時休止をする事になって。

雛理は偵察に出てきたのだ。

一人になると落ち着く。

それ以上に、雛理は思ってはいた。

敦布に、色々悪いなと。

雛理だって、人間的な感情が存在しない訳では無い。だが、それ以上に見てきたのだ。人間が、人間では無くなる瞬間を。

それはなにも、この島で起きているような、物理的に怪物になるような事では無い。人間はその精神が壊れたとき、容易に化け物に成り下がる。そして、人間の精神は、簡単なことであっさり崩壊するのだ。

そしてそれは、決して珍しいことでは無い。今も、世界中の彼方此方で、実際に起きている事だ。

だから、敦布先生に、同情は出来なかった。気の毒だとは思ったが。

むしろ彼女は、よくやっている。

そう評価はしていたが、それ以上のことを言う気は無かった。

木に這い上がると、周囲を確認。敵を探し、殺す。戦力を探り、隙をうかがい、物資を奪う。

戦いは、雛理の生活の一部になっている。この平和な日本で生まれた事とそれは、ほぼ関係が無い。

雛理は、傭兵だ。

アフガンでも、イラクでも。民間軍事会社の人間は、消耗品として扱われる。軍の作戦に伴った出動をさせられ、ゲリラやテロリストを狩る。

狩られる場合もある。

捕らえられたときには、何をされてもおかしくない。だから、自殺用の手榴弾を支給されている場合もある。

雛理が所属してきた民間軍事会社でも、体を失って止めていく奴も多かった。ゲリラを殺しすぎておかしくなって、病院送りになった奴もいた。

もちろん、殺されて、棺桶に入って故郷に帰る奴も、もっとたくさんいた。

雛理はいつの間にか、戦闘マシーンと現地でも呼ばれるようになっていた。

狙撃の腕前、戦闘での剽悍さ、いずれもが筋肉で全身を覆った歴戦の傭兵よりも上回っていた。最初の頃は面白半分に声を掛けてくる男も多かったが、すぐにそれもいなくなった。

あいつはいかれている。

そう、周囲から言われるようになったからだ。

それで良かった。実際自分でもおかしいとは思っていたし、何より他人との関係は煩わしくてならなかったからである。

憎悪を、敵にぶつけていれば良かった。

ニエの一族を虐待し、家庭を崩壊させた連中の事を考えれば、簡単に引き金を引けた。敵を殺しても、何とも思えなかった。

子供も殺した。

反政府組織の中には、浚ってきた子供をチャイルドソルジャーに仕立てているくず共も少なくない。

アフリカでの仕事で、何度かそういう組織とやり合った。

一晩で、十人以上の子供の頭を撃ち抜いた日もあった。

いつのまにか、相手が誰だろうと。たとえ子供だろうと。殺す事に、何ら躊躇はなくなっていた。

天性の殺しの才能があった、というのとは少し違うだろう。

雛理は、憎悪の塊であることを自覚していた。

そして、憎悪を効率よく制御することを、何らためらわなかった。

だから、おそらくは。スカウトされたのだろう。

この仕事には、情がある人間は向いていない。古巣である事以上に、その性格が評価されたのは、疑いが無い所だった。

枝を鳴らさないように降りると、再び闇の中を走り始める。

ワイヤートラップがあっても、即座に回避できる程度の視力と経験はある。

自分に対する絶対的な客観視。

それが、雛理の強さの秘密だった。

この近辺には、敵の勢力は及んでいない。監視カメラもないし、盗聴器もまかれている様子が無い。

敵はまず勢力圏を確保した後、何かをしようとしている。

それを突き止めるのが、雛理の仕事。

そして食い止めることが、至上命題。

この件には、ほぼ間違いなく、北海道で起きた事件が関わっている。其処までは、知らされている。

である以上、敵はあの。平坂だろう。

顔を直接見たことは無い。

だが、宿敵だ。必ず殺さなければならない相手であった。

少し小高いところに出る。

身を低くして西をうかがうと、いた。滞空している戦闘ヘリ。アパッチでは無くてコブラだ。

アパッチに比べると一世代前の戦闘ヘリだが、近代化改修が重ねられ、充分に実戦に耐えられる戦闘力を持っているのが、夜目にも分かる。雛理くらいになると、兵器のシルエットを見だけで、その改造されている箇所や、だいたいの戦闘力を把握できる。

分かるのは、見つかったら終わりという事。

戦闘ヘリはもともと歩兵や地上兵器の天敵だ。ましてや、今は手元に対抗できる兵器が存在していない。

ロケットランチャーでもあれば話は別なのだが。それでも、最近の兵器には、対抗策が施されていることも多い。

必ず勝てる手段などない。

ましてや今は、ヘリを手に入れなければならないほどの状況だ。

それにしても戦闘ヘリを二機も投入しているとは。平坂が黒幕だとすると、今回は恐らく、全ての力を投入しているとみて良いだろう。

どうにかして外と連絡が取れれば、状況は変わる。

増援を呼び込めば、少しはマシになる。

いずれにしても、今は一刻一秒が惜しい。早めに平坂を捕まえて、この状況の裏側に迫らないと。皆が怪物化するまでのタイムリミットがよく分からない。

こうしているうちにも、体に異変が始まる可能性は、決して低くないのだ。

もちろん、回復できない可能性もある。

だが、それはそれだ。

今まで渡り歩いて来た戦場では、生還できる可能性のほうが低い場所も少なくなかった。そう言う場所では、諦めた奴から銃弾の餌食になっていった。勇敢な奴も、すぐに死んでしまった。

生き残ったのは、冷静な奴だ。

だが、それが度が過ぎていて。雛理は怪物と呼ばれたのだが。

コブラが旋回し、戻っていく。

方向は大体分かった。

頭の中で、地図を修正していく。敵のベースの位置は、三角測量から大体計測できた、と思う。

今、狙うべきはベースでは無い。

敵の歩兵だ。

少し下がると、丘を迂回して、森の中を進む。

敵兵を捕縛して装備を奪えば、勝機はそれなりに見えてくる。尋問して情報を聞き出すことに成功すれば、更に勝率は上がってくるだろう。

ジャングルでの戦闘では、誰にも負けない自信がある。

相手が怪物でも無い限りは、だが。

森の中を、ひたすらに進む。

時々星で方角を確認し、小走りで行く。既に、現状の夜空で、判断に使うべき星は決めてある。

細かく確認を繰り返しながら、闇の中を行く雛理は。

ある一点で、それに気付いた。

うめき声が聞こえる。

人間のものかと思ったが、微妙に違っている。むしろ、あの怪物のものに近いかも知れない。

気配を消すと、声に忍び寄る。

勿論、ブービートラップの可能性も否定できない。何度か角度を変えて、音の出ている場所を特定。

音を三角測量する方法は、北極狐などが雪の中にいる鼠を捕らえるために行う。人間にも応用は可能だ。

しばらく観察した後、テープでは無いと判断。

耐性を低くしたまま、近寄る。

その時、月明かりが、ジャングルに差し込んだ。

圧倒的な巨体が露わになる。

それは、肉で出来た塔とでも言うべき存在であった。無数の顔が塔の前後左右についており、高さは七メートル以上もあるだろうか。

手足は無い。

ただ存在している塔についている顔は、いずれもが苦悶の表情を浮かべ、苦しげな声を垂れ流し続けていた。

「ころせ。 ころして、くれ」

「人間を、こえる存在になるって、いっていたのに」

「こんなすがただなんて、きいていない」

おおおおおお。

慟哭がこだまする。

塔の周囲には、複数の触手が蠢いていた。それが側にいる鼠や虫を捕らえては、塔についている顔に運んでいるらしい。

そして塔についている歪んだ顔は、本能のまま、かってだったら口にしなかっただろう小動物を、むさぼり喰っているのだった。

塔がてらてらと濡れているのは、流れ出たよだれと涙の結果らしい。

そして、恐らく。塔は、すでに周囲が見えていない。

「……」

無言で、触手の範囲外から、塔を観察する。

見た覚えがあると思った。

すぐにその正体が分かる。

これは、村長の一族だ。しかも、その全員。

斑目島のおぞましいニエの風習は、その全貌が明らかにはならなかったが、少なくとも謎の連続殺人事件として全国報道はされた。更にその後の、島に来た人々が追い払われる偏屈な風習が明らかにはなった。

そんな状況で、新しく村長になった一族は、かっての村長一族の懐刀に当たる存在だった。

彼らは上手に法の追求を逃れた。

実際にニエの一族のシステムを運用していたのにもかかわらず、である。

その後も、村の王様として振る舞い、利益の殆どを独占していたと聞いていた。

ゲスはゲス。

クズはクズだと、その話を聞いたとき、思ったものである。

この末路は、むしろ小気味が良い。放っておけば、勝手に狂死するだろう。身を翻して、森に戻る。

これを他の生存者に知らせる理由は一つも無い。

そればかりか、死なせてやる必要だって。

ふと、気付く。

何ともやりきれない目で、敦布が此方を見ていたのだ。

いつ、来た。

全く気付かなかった。

「先生……?」

「その人達を、死なせないで放っておくつもりだったんだね」

阿呆だと思っていたのだが、ずばり核心を突いてくる。

いろいろ聞きたいことはある。

どうやって追ってきたのだとか、どうして来たのだとか。それ以上に、どうやって気配を悟らせずに雛理についてきたのかとか。

「知っての通り、私は戦闘マシーンですから。 無駄なことは、一切しません」

「嘘だよ……。 ニエって言われたとき、怒っていたの、覚えているもん。 雛理さん、戦闘マシーンなんかじゃない……」

なんでそんなに悲しそうな目で見る。

子供向きの漫画じゃあるまいし、大人同士のコミュニケーションに感情など不要だろうに。

側を通り過ぎて戻ろうとすると、手を捕まれる。

離せと言おうと思ったが、口を引き結んだ敦布は、譲ろうとしない。

「村長さんの一家が、どうしようもない人達だって事は、分かってる。 でも、これはあんまりだよ。 死なせて、あげようよ」

「どうやって?」

「燃やすしか、無い」

「島を占領している連中が、確実に来ますよ」

その時はその時だと、敦布は言う。

無計画で、不快感ばかりが募る物言い。

だが、手を掴んでいる敦布は、離そうとしない。その腕力は、どうもおかしいような気がした。

なんだかんだ言っても、敦布は健常な肉体を持つ、貴重な戦力の一人だ。後は老人と子供ばかりだという事を考えると、此処で敦布と決裂するのは色々とまずい。

戦略的にそう判断すると、雛理は内心で舌打ちしながらも、妥協した。

「分かりました。 燃えるものを集めてください」

「うん……。 雛理さん、本当に島のことを恨んでいるんだね」

「それは当然ですよ。 程度が低い人間は、自分より価値が低い存在を設定することで、ようやく自己を保てるものです。 それは実在の人間だったり、漫画だったりアニメだったりの架空の存在だったり。 わたしの一族は、そんなくず共の慰み者に、何十世代もされ続けたんですよ。 怒らないと思いますか?」

触手の外から、燃えるものを塔の側に投げ込む。

枯れ木。

枯れ枝。片っ端から投げ込んでいく。

触手はパワーが弱く、それを押しのける力も無い様子だった。この辺りは密林だが、燃えるものはいくらでもある。

のこぎりを使って、肉塔の周囲の木を倒していく。

延焼を防ぐためだ。倒した木も、塔の方へ押しやって、燃料にした。本当は生木は燃えにくいのだが。今はそうもいっていられない。

二人がかりの作業だ。

だから、黙々と、とはいかなかった。

「どうやって此処まで来たんですか?」

「帰ってくるのが、遅いと思ったから」

「……いつもと同じくらいの時間しか掛けていませんが」

「そんなこと無いよ」

時計を確認すると、二割増しくらいの時間は経っていたかも知れない。

だが、それでも帰還する時間を含めれば、想定の範囲内だったはずだ。いつに帰るとも告げていなかったのだが。

まさか、それらを、体内時計だけで計ったのか。

勿論、今まではそんなことが出来る奴では無かったことは確認済みだ。最初に締め落とした時だってそうだったが、簡単に後ろもとれた。勿論殺す事だって、そう難しくは無かった。

だが今は、得体が知れない警戒心が、わき上がってくる。

「火を付けます」

「お願い」

言葉少なく、死をもたらす動作の確認。

火を付けると、しばらく抵抗した後、炎が盛大に吹き上がった。

肉の塔が燃えはじめる。

悲鳴を上げながら、想像を絶するおぞましい悲鳴を、塔が上げた。だが、敦布は、それに対して、耳を塞がない。

ただ立ち尽くしたまま、ぼんやりと炎に包まれる肉の塔を見つめていた。

以前よりも感情が鈍くなったのか。

否、少し違う。

むしろ戦闘マシーンのようになったのは。

「離れましょう。 敵が来ます」

「敵って、何? どうしてこんな事をしたの?」

「分かりません。 ただはっきりしているのは、北海道でかって似たような事件が起きたこと、それで多くの死者が出たこと、以上です」

ヘリのロータリー音。

気付いたとみて良いだろう。

すぐにその場を離れる。

来たのはコブラだ。しかも三機。

どうやら、敵の戦力は、雛理が考えているよりも、更に大きい。そう見て間違いない様子だった。

 

平坂がスポンサーと話していると、血相を変えた黒鵜が部屋に入ってきた。

これはただ事では無い。

電話先の相手に、すぐにかけ直す旨を伝える。相手は不満そうだったが、現場にいる平坂の方が、状況を判断できる。

黒鵜は冷静な戦士であり、兵士としても優秀だ。

これほど慌てるのは、よほどのことが起きた、という事だろう。

「如何したか」

「はい。 カムイが一体、また発見されました」

「何……っ!」

流石にそれは、黒鵜が血相を変える訳である。

未発見のなり損ないは、まだ何体かいた。だがそれにしても、まさかカムイ化までして、波動を検知できないというのは、どういうことか。

すぐに映像を、黒鵜が出す。

コブラのうち、作戦従事中の一機がよこしてきた映像だと、黒鵜が説明する。確かに、ヘリのロータリー音が聞こえていた。

映っているのは、燃えさかる肉の塊。

時々炎に包まれた触手を振るっているようだが、それだけだ。

「これは何かね」

「見ての通り、炎に包まれています。 既にコアも破損しているようで、カムイの反応が出たのは一瞬でした」

「……ふむ」

例の逃亡者達の仕業か。

偶然出くわして、火を付けた、という所だろう。見たところ戦闘タイプではないようだったし、火で焼き払うというのは妥当な判断だ。

「完全に沈黙後、現場を解析。 それと、人間の痕跡は?」

「調査はこれからになります。 第一報を入れるべきかと判断しましたので」

確かに、その判断は正しい。

カムイは捕縛するのも難しいし、倒されるのもマイナスが大きい。

しかし躊躇無く火を放つとは。

それ以上に、問題がある。

「どうしてカムイの反応を探知出来なかった」

「は。 それなのですが……」

「ボクが説明するよ」

部屋に遅れて、巨体がゆさゆさと入ってくる。

汗を拭き拭き、眼鏡を直すのは、岸田であった。

「どうもこれ、残りのなり損ないが全部融合したものだったみたいなんだよね。 ほら、声色が複数に重なってるでしょ?」

「ふむ、続けたまえ」

「つまり、なり損ないになっているのが、カムイになっているのを覆い隠していた、みたいな様子なんだよ。 いやー、びっくりだね! できれば生かして持ち帰りたかったんだけど、これじゃあ残念だけど、無理だよねー!」

岸田が本当に残念そうに眉をひそめたので。黒鵜がまるで汚物でも見るかのように、太った科学者を見た。

くつくつと笑うと、平坂は下がって良いと二人に指示。

これで、此方の体勢は整った。既にノラとなっているなり損ないは存在しない。後は、邪魔を排除しながら、慎重に研究を進めていくだけで良い。

スポンサー達に説明。

フェイズ三は既に終盤。

これから、フェイズ四に入る事を告げる。既に実用化しているカムイは何体かいるうえ、泥洗についても貴重なデータを充分に取得できた。

これから、ついに。動き出す。

人類を変えるプロジェクトが。

スポンサー共は、これを軍事転用のためとでも考えているようだが、連中にはもう事実上用は無いと言える。

勿論、計画は最後まで動かす。

最後の最後まで、連中は黒幕だとでも勘違いしていれば良いのである。

その時には、全てが終わっている。

連絡を取り終える。更に増援を投入できる見込みだ。

計画の達成は近い。

後は、細かい不安要素を、排除していけば良いだけだ。

勝利の美酒を早めに楽しもうかと、思ったその時だった。持ってきているブルゴーニュの逸品に手を伸ばそうとしたが、すぐに止める。

部屋の戸が、ノックされたのだ。

また黒鵜が戻ってくる。何かあったのか。

「如何したか」

「はい。 今、また一つ、重要な情報が入りました」

「何かね」

「はい。 どうやら、なり損ないがまだ存在している模様です。 詳細はいまだ不明ですが、少しずつ反応が強くなっているようで、カムイ化の怖れも……」

それは、またどうしてなのだろうか。

なり損ないになるには、幾つかの条件がある。泥洗の時にそれを全てクリアしていなければ、なり損ないになる可能性はない。

そうなってくると、考えられるのは。

まあいい。

完全勝利を味わうのは、まだ少し先。

しっかり不安要素を取り除いた、その先で充分だ。

「分かった。 即座に調査を開始したまえ。 それと、岸田はどうしている」

「研究に没頭しています。 研究をしている間は風呂どころか食事もしないそうで、同僚達が気味悪がっています」

「それでいい。 天才とはそういうものだ」

既に、リスト化していたなり損ないは回収および排除が済んだはずだ。

それなのに、どうしてなり損ないが増えたのかは、よく分からない。仮説はあるが、敢えて口にすることも無いだろう。

此処からは、時間との勝負だ。

「研究所と、此処の監視を密にしたまえ」

「わかりました」

黒鵜が出て行くのを、また見送る。

もう戻ってくることが無いと良いのだがと、平坂は開け損ねた秘蔵のワインを見ながら、思った。

 

妙に体が軽い。

敦布は、寛子ちゃんのお母さんが死んで、それをどうにも出来なかったことで、一人で泣きはらしてから。感覚が鋭くなっているのを感じていた。それだけではない。全身がとても軽いのだ。

スポーツをずっとやっていた敦布は、今でも身体制御がしっかり出来る。だからこそ、分かるのだ。

異常なくらいに、自分が強くなっていることが。

だから、敦布さんが出て行ったときも、すぐに分かった。どうしてかあれだけ鋭かった敦布さんが、雛理がついていっても気付かないようだった。

勿論隠れながら後をついていった。途中、何度か振り返ったが。いずれも、対応は出来た。

或いは、敦布に害意が無かったから、気付かれなかったのかも知れない。

動物などは、殺気を感じることが出来るとか、雛理さんは言っていた。勿論それは、超自然的な力では無くて、攻撃時に発散される生体物質などをかぎ取ったり、その場で相手が立てている音などを感じ取ったりしている、という場合が多いのだという。

雛理さんくらいになると、人間相手にも殺気をある程度感じられるそうだ。

勿論、敦布にそんなつもりはない。

だから、気付かれなかったのか。いずれにしても、隠れている場所には寛子ちゃんのおじいちゃんがいる。

置き手紙は残してきたから、雛理さんを追跡することは、別に何も感じなかった。

「敦布さん、今まで手を抜いていましたか?」

「必死だったよ」

それは知っている筈なのに。どうしてそんなことを言われるのだろう。

不快と言うよりも、ちょっと悲しかった。

勿論、雛理さんも反応が見たかったのだろう。既に夕暮れになった森を並んで走りながら、時々雛理さんは振り向いている。

さっき、怪物を焼いたとき。ヘリが三機も来ていた。

以前見かけたアパッチとは全然違う形だったから、別のヘリなのだろう。ぶら下げていた武器は似通っていたが。

ただ、事前に、攻撃ヘリは地上兵器に対する必殺の戦闘力を持つと聞かされている。雛理さんが急いで逃げているのも、それが理由なのだろう。

「雛理さん」

「何でしょうか、先生」

「一つ、お願いがあるの」

走りながら、話す。

雛理さんは聞かれているかどうかが心配なようだが、問題ない。どうしてか、問題ないと分かる。

この辺は、もう超感覚と言うほか無い。

「知っている事を、全部放して貰えないかな」

「子供達もいる前で、ですか?」

「怪物になるまで、タイムリミットもあるんでしょ? 隠し事がある中でなんて、一緒にいられないよ」

これは勘だが。

きっと、寛子ちゃんのおじいちゃんも、何か知っている。

でも、雛理さんが話してくれれば、それはきっと解決するはずだ。それに息を合わせて戦う事が多い寛子ちゃんのおじいちゃんと雛理さんだが、裏ではあまり仲が良くないのかも知れない。

それも推測で、筋道立てて理由は説明できない。

だが、あながち間違っていないようにも思えるのだ。

走りながら、会話を続ける。

「何を知っているの? 全て知っている訳じゃ無いとはわたしも思うけど。 いろいろな事を、まだ知っているでしょ?」

「どうしてそう思いますか」

「分からない。 でも、何だか妙に勘が働くの」

それでは説得力が無いのは、自分でも認める。というよりも、頭が悪い敦布では、きっと合理的な説明は、これからも出来ないだろう。

勉強を子供に教えるのは、出来る。

だが、それとは根本的に違う。ましてや雛理さんは、交渉ごとには敦布よりずっと長けているだろう。

「正直な話をすると、私にも分からない事は多数あります。 怪物については、未だに全く」

「……」

「しかし、そうですね。 ならば、聞かれたことに関しては、答えましょう。 私にも時間が無いことは共通していますし、今ある戦力を失うのは惜しい」

雛理さんは、合理主義者だ。

だから、むしろオカルト全開な方面から攻めたのが、良かったのかも知れない。

足を止める雛理さんに合わせて、敦布も止まった。

「何から話しましょうか。 そうですね。 私が所属している組織からにしましょうか」

「皆がいる所で、お願い」

「……いいでしょう」

ろくでもない事を聞かされるのは、既に分かっていた。

だが。

今はもう、特別扱いをもうけている余裕は無い。

子供達は、絶対に敦布が守る。

だが、同時に。

子供達にも、耐えられるだけのことは、やってもらわなければならなかった。

 

(続)