汚泥の世界
序、潮が引くとき
平坂幸夫は、軍用輸送ヘリの座席から、その光景を見ていた。
すっかり、斑目島が「カムイの血」に覆い尽くされる。
島で蠢いていた「なりそこない」達は、全てがそれに飲み込まれた。後は、浄化の時を待てば良い。
神経質そうなサラリーマンに見える平坂は、手元にあるノートPCと、左手にある携帯電話を同時に弄りながら、隣に座っている秘書官に告げる。
「政府の反応は」
「おおむね満足しているようです。 ネットなどでも、騒がれてはいません」
「そうか」
マスコミが完全にスポンサーに尻尾を振る犬になりさがってから、しばらく時間が経つ。
既に政府は、マスコミの言う事など気にしなくても良くなっていた。問題は直接的に情報が書き込まれるネットだが、それに対するために、この島が選ばれたのだ。
「それにしても、凄まじい効果ですね。 島一つが、わずか数日で……」
「まだ実験は第一フェイズをクリアしたに過ぎない。 ここからが実験の第二フェイズである事を忘れるな」
カムイの血が、引き始めた。
現在はコントロールの下にある。三十五年前、北海道で発見されたこの存在は、アイヌの伝承の中でだけ存在していた脅威だったのだが。研究の末、ついに戦略兵器としての転用に成功したのである。
これを使えば、今までどうにもならなかった問題が、一挙に解決する可能性がある。
そう、無邪気に喜ぶ上役達の顔を思い浮かべて、平坂は口の端をつり上げていた。
愚かな連中だ。
やがて、カムイの血が、完全に休眠状態に入る。
再起動には、幾つかのプロセスを踏まなければならない。それを行うには、平坂の承認が必要だ。
「島に展開。 調査を開始」
「ただちに。 それと、研究棟に入り込んだ者達は、如何なさいますか」
「捨ておけ」
まさか、彼処に逃げ込める者がいるとは思わなかった。
戯れに退路を残しておいてやったのだが、其処に逃げ込める鼠の存在に関しては、まさか存在しないだろうと、平坂は実のところ考えていたのだ。
だが、いた。
しかも、フェリーで見かけたあの女。
それに、旧時代の亡霊。
まさかチハのようながらくた戦車の代名詞が、このように活躍するとは。戦時中のプロパガンダ漫画でも、此処までは行かないだろう。
呼び集めた特務部隊一個中隊が動き出す。
いずれもが海外で実戦経験を積んだ、戦闘のプロばかりだ。
まずは「泥洗」が済んだ連中を集めて、所定の労働を行わせる。
そして、生態系の変化についても、確認しなければならない。有用な生物が発見されれば、新種として発表し、役立てる。
危険で獰猛な生物は、そのばで排除。
大丈夫。海の生物に、カムイの血は効力を及ぼさない。仮に及ぼしたとしても、怪獣映画であるまいし、近代兵器の前には無力に等しい。
島は、かなり形が変わってしまっていた。
かっては南北に細長かった島だが、今は長さ幅がそれぞれ軽く三倍以上に拡大している。「日本の離島」としては、間違いなく最大級のものだろう。しかも、予定通り、気候も熱帯に変化していた。
最大の目的である「神林」も、存在を確認。
もっとも、その異常な変化が、外に姿をさらすことはない。
今、この島を中心とした半径六十キロの範囲は、外界から隔絶されているのだから。
これも、カムイの血の影響である。
「作戦を開始。 まずはなり損ないどもを集め、変化を確認する」
「逆らう場合は」
「射殺せよ。 連中は既に人間では無い」
「確認は出来ていませんが、「カムイが生じていた」場合は?」
その場合は、捕獲するように。
命令だけを下した。
実際問題、「カムイ」は単独の言葉でははかれないほど様々な種類が存在する。それ以外の命令は、出しようが無かった。
地形もすっかり変わってしまった島で、特務部隊が作戦を開始する。
情報的に表に出たことが無い部隊だけあり、動きも機敏だ。少し前には新潟に上陸しようとした北の特殊部隊を全滅させ、また沖縄で暗躍していた大陸の諜報部隊を全滅させる実績を残している。それだけではなく、彼らの走狗となっていた組織を、一週間で闇に葬った。無能なマスコミは、それらの裏さえも掴めていない。
勿論、人ならぬものとの交戦経験も豊富である。
さて、あのイレギュラーはどう動くか。それが、楽しみではあった。
何事も、予定通りに進みすぎては面白くない。
「特務部隊、状況を開始します」
頷くと、平坂は紅茶を所望した。
これから作られる彼の王国には、必要不可欠の存在であったからだ。
1、泥が引いた島
エレベーターで、一階に上がっていた雛理さんが戻ってきた。
その間、エレベーターにずっと銃口を向けていた行成お爺さんが、大きなため息をつく。エレベーターの中には泥も無かったし、雛理さんだけしか乗っていなかった。
「泥は?」
「一階は綺麗なものです。 ただし、一回何かに蹂躙された跡がありましたけれど」
「蹂躙?」
「押し流された、と言うべきですか。 恐らく、十中八九、あの泥かと」
だが、今はその泥がないという。
舌打ちすると、行成お爺さんは、他の地下階を見て廻ると言い出した。
反対する理由はない。実際問題、泥に埋没しているかと思われる一階から、雛理さんが生還しているのである。
もしも泥が引いたのなら、島に何かしら活路となるようなものがあるかも知れない。実際問題、この地下空間に籠城していても、未来など無いのだ。
「今度は俺が行くか」
「それじゃあ、私も……」
敦布が手を挙げると、寛子ちゃんのお爺さんは、ぎろりと一度だけにらんだ。だが、怖がってもいられない。
此処には多くの食料が備蓄されているが、それも絶対ではない。
もしも外の様子が安定したのであれば、一度見に行った方が良いのは、自明の理だからだ。
エレベーターに乗る。
まずは、地下九階から。
見て廻るが、以前見て廻ったときと、あまり代わっていない。
荒らされた形跡は無いし、泥にまみれた様子も無かった。シェルター構造になっているというのは、事実らしい。
八階、七階と、順番に見て廻る。
縦に長い建物だ。一階ごとの広さはたいしたことが無い。その上、どの階も構造自体は同じだから、見て廻るのに時間は掛からない。
しかし、この間は急いでいたからか、見逃したものが結構多かった。
六階にはロッカールームが有り、ブルーの作業着が掛かっていた。作業着の中には、幾つかメモのようなものを、ポケットに残したままのがあった。
お爺さんに渡す。
しばらく見ていたお爺さんが、鼻息荒く返してきた。
「教師だろ。 読めるんじゃないのか」
「いや、そうなんすけど」
「話を聞くなら、俺じゃないだろうな」
確かにその通りだと思った。
メモには、こう書かれていたのだ。この島における異変の日時について、と。
つまり、此処で働いていた人は、あの異常な出来事について、事前に知っていた、と見て良いだろう。
問題はどこへ彼らが消えてしまったか、という事になる。
四階はオフィスになっていたが、がらんどうだ。殆どの机は、綺麗に掃除までされて放置されていた。
メモも大体は破り捨てられていて、ご丁寧にシュレッダーの中身まで綺麗にされていたほどである。
しかし、物陰にあったゴミ箱が、一つだけ。
中身が少し残っていた。
その中身が、コンビニで売られていた菓子の包み紙だったのである。
つまりだ、姿を全く見かけなかった研究所の人達が、外と接点を保っていた証拠である。いや、逆に考えた方が良いかもしれない。
コンビニで買い物をした人が。此処にゴミを捨てたのだ。
それは短絡的な話だろうか。
いや、そうとは思えない。
雛理さんにも話を聞いたが、幾つかおかしな事がある。工事現場で働いていた人達が、ある時間を境に皆消えてしまった。
そういえば、敦布をけしかけた消防団の人達だって。
そもそも、島の人達は。
分からない。本当に一体この島で、何が起きたのだろうか。
一階に出る。
様相が、まるで変わってしまっていた。
残っているのは、壁と床だけ。窓硝子は綺麗になくなっている。割れたと言うよりも、溶けたような感触だ。
外にはチハがまだいた。
動くかは分からない。だが、近づく勇気はわいては来なかった。
あの輪郭だけの怪物は見当たらない。出口の辺りまで行ってみたが、いない。寛子ちゃんのおじいちゃんはずっと銃を構えていたが、発砲する機会はなかった。
外に出る。
そして、絶句した。
全くというほど、環境が変わってしまっているのだ。
小高かった場所だから、周囲が見回せる。
少なくとも、黒っぽい泥に覆われた海は消えていた。島の周囲には元の青くて美しい海が広がり、空は入道雲がもくもくと伸びている。
島自体も、とんでもなく広がっていた。
斑目島と言えば、離島の名前が相応しい、とてもちいさな場所だったのに。
何だか見回すと、本土に近いとても立派な島に思えてくる。それくらい、島は広く雄大になっていたのだ。
チハを調べていた寛子ちゃんのお爺さんが、ハッチからひょこりと顔を出す。
「動く。 問題ない」
「良かった。 チハちゃん、また頼むッスよ」
「ふん……」
お爺さんがチハに乗り込むと、建物の横につけた。それまでは、盛り上がった土に寄りかかるようになっていたからだ。
木々も、此処に逃げ込む前と、随分変わっている。
もっと南の、沖縄に生えているような亜熱帯性の植物ばかりが目立つ。同じ亜熱帯でも、九州の南にある斑目島と沖縄本土では、まるで別物と言うほど生えている植物は違うのだが。
「一度戻るぞ。 この建物を要塞化して、様子を見た方が良さそうだが、それには準備がいるからな」
「はい!」
電気は、まだ来ている。
ただし、建物の中の照明装置などは、根こそぎなくなっていた。泥に溶かされてしまったのだとすると、ぞっとする。
怪物達がどうなったのかも分からない。
外に出たとき、建物の屋根の方を確認したのだが、そちらも綺麗さっぱり装飾が消え失せていた。雨樋なども、なくなっていた。泥に運ばれてしまったのだろうか、それとも。
少なくとも、怪物達が生き残れたとは思えない。
あの悪夢のような海が、正常に戻っているのは、とても嬉しい。
まだ解らない事だらけだが、それでも絶望まみれだった数日間とは打って変わって希望が見えてきていた。
一旦地下に戻り、雛理さんと話す。
雛理さんは既に銃の手入れを終えていた。
「どのみち、備蓄もいつまでももたなかったでしょう。 外に出るのは賛成です。 ただ、ですね。 気付いていたかも知れませんが、斑目島の地形そのものが、大幅に変わっています」
「それは私も気付いたよ。 何だか凄く大きくなっているみたいだったね」
「ええ。 それに、住宅街などが消えています。 村長の家が更地になっていたことを覚えていますか? アレとは少し様子が違ったようですけれど」
「根こそぎ何もかも変わっちゃったみたいだったよ」
怖い。本当に斑目島は、どうなってしまったのか。
安全圏と言えるのは、この地下空間だけ。
だがそれも、電気が切れたりしたら、どうなるかは分からない。そもそも、非常口のような脱出手段はあるのかも分からないのだ。最悪の場合を想定して、出来れば電力がどこから来ているか位は、確認しないと危ないだろう。
一旦、一階に物資を運び出すことにする。
全部を出してしまうと、また泥が来たときに詰んでしまうから、数日分だけ。そして、その前に、プレハブの中で身支度をする。
シャワーを浴びて、洗濯しておいた服を乾かす。
赤いジャージはすっかり真っ黒になってしまったが、洗濯すると腐臭は取れた。ただし、選択後の水は、おぞましい真っ黒に染まっていたが。
シャワーを浴びたときも、凄い色の汚れが出た。
しばらく殆どお風呂には入れなかったことよりも、最後に降ってきたあの黒い雨と、それがしみこんだ泥を浴びていたのが原因だろう。
一階に出ると、まずは窓の補修をしなければならないことがよく分かった。硝子はないから、木の板で外から塞ぐしかない。
入り口はチハで固めるとして、それである程度の防御能力は得られるはず。問題は、その後だ。
やっぱり、此処に立てこもり続けるのは、現実的ではない。
それは敦布だって分かる。
どこから来ているかもよく分からない電気が命綱なのだ。それが切れたら、文字通り終わりである。
何とかよそに助けを求めなければならない。
つまり、最終的には、この島を脱出することが、目的になる。
チハに積んできた物資の中には、幸いにのこぎりやハンマーもある。まずは手分けして、研究所の周囲の木を何本か切り、板に加工。これだけでも、かなり時間が掛かった。それを釘で打ち付けようとしたのだが。研究所の外壁は相当に硬く、釘を打つのは難しそうだった。
一旦はめ込んで誤魔化すしかない。
その間に、寛子ちゃんが地下から椅子とか机とかを運んできた。
それを使って、窓に簡易のバリケードを作る。
一通りの作業が終わると、すっかり夜だ。一旦子供達と学者さんは地下に戻ってもらい、敦布は雛理さんと、寛子ちゃんのお爺さんと一緒に、たき火を囲んだ。
たき火だって、いつまでも作れるわけではない。
物資は何もかもが有限なのだから。
「探索に出るしか無いな」
「同意です。 ただし、チハは置いていきましょう。 何があるか分からないですから、最後の防衛線が必要になります」
「え? また歩きで?」
雛理さんとおじいちゃんが同時に頷いたので、敦布はげんなりした。
ただでさえ、銃の使い方を覚えて欲しいとか言われているのである。これ以上は頭がパンクしそうだ。
ただ、子供達を守るためには仕方が無いという事も分かる。
「昼間観察していたのですが、島の方に動く影がありました。 もう少し近づいてみないと、正体は分からないと思いますが」
「またあの怪物かな」
「それを見極めるためにも、明日以降の探索が重要になります。 夜間探索でも、私は別に構いませんが」
「昼にしようよ」
この人みたいに、敦布は戦争を知っているわけじゃないのだ。出来れば歩き回るのは日中にしたい。
雛理さんも幸い同意してくれたので、その日は交代しながら、地下で休む。おかしくなってしまった寛子ちゃんのお母さんは、もう目の焦点が合っておらず、意味不明のあえぎをあげながらうろつくばかりで、無害だった。
学者さんが呟く。
「どうやら、一番の役立たずになってしまったようだねえ」
冷酷な言葉だが、この人の今までの言動を考えると、仕方が無いのかも知れなかった。実の娘である寛子ちゃんが、時々悲しそうにしているのが、敦布にはたまらなくこたえるのだが。
それでも、ここ数日の経験からか。
負のオーラをまき散らしながら、皆の足を引っ張るよりはいいと思えてしまう部分も、あるのだった。
自分の後ろ暗い面に気付いて、慄然としてしまう。
ニエの話を聞いて、この島は滅ぶべきだったと思った事も、また事実だった。だが、人の歴史は悲劇の歴史でもある。少しでも歴史をかじれば、誰でも知っていることだ。
今は、少なくとも子供達だけでも。
救う方法を考えなければならなかった。
翌朝。
日の出と同時に、敦布は研究所を出た。しかし、この時点でおかしな事に気付く。
携帯を開いてみると、時刻は九時を回っていたのである。
日の出が九時などという事が、あり得るのだろうか。雛理さんは当然首を横に振った。
「日本であり得る事ではないですよ」
「本当に一体、どこにいるんだろう」
「まずは、探索してからです。 今の時点では、何も分かりませんから」
猟銃を渡されたので、背筋に寒気が走った。
雛理さんはデザートイーグルという大きな拳銃を使うという。こっちの方が慣れている、という事であった。
猟銃の使い方は聞いたが、弾が貴重だと言う事で、撃たせては貰えなかった。もっとも、敦布の腕で、命中させられるとは思えないが。
「雛理さんは、どこで銃の使い方とかを覚えたの?」
「民間軍事会社です。 分かり易く言えば、傭兵です」
「人も殺した……の?」
沈黙は、すなわち肯定だった。
その辺りを歩いてみて、気付く。地形そのものが大幅に変わっているという事は無い様子だ。
チハに乗って一気に踏破したからうろ覚えだが、確かに坂だった辺りは坂のままだ。島の中心地だった平野は、平野のまま。
ただし、家やコンビニ、お医者さんは、全て消え失せていた。
最初から存在しなかったかのように。
研究所の建物は、どうして無事だったのだろう。おそらくは押し寄せてきていたあの黒い泥による結果なのだろうが。
チョウチョが飛んでいるのに気付いて、ぎょっとした。
モンシロチョウによく似た蝶、スジグロシロチョウだが、まさかあの泥の地獄を生き抜いたのか。いや、それは考えにくい。
これでも敦布は、虫の生態にはそれなりに詳しい。雨粒はちいさな昆虫には致命的な打撃を与えうる能力を持っている。だから蝶にしても蛾にしても、雨の日は草葉の陰などで休むのが普通だ。
あの泥が押し寄せた日、凄まじい雨が降り注いでいた。
草葉の陰にいた虫たちが、みな泥に飲まれてしまっただろう事は、想像に難くない。
しかしそれをいうならば、植物が青々と茂っているのも、またおかしい。確か泥に飲まれる前後、奇怪極まりない植物が見るも無惨に生い茂っているのを、見たでは無いか。あれはまぼろしだったとでも言うのか。
「頭が変になりそう……」
「敦布さんは、生徒がいると何倍も力を出せるんですね」
「そうかも」
指摘には、苦笑せざるを得ない。
雛理さんが冷酷なだけの人では無いことは分かっている。感情もあるし、人の悲しみだって理解しているはずだ。
怪物とは、今のところ遭遇していない。
丘を越えて、島の中心地だった辺りに出る。見回してみて、気付く。
島が広がったと言うよりも、むしろ海の水位が下がったのだ。かってテトラポットがあったり、岩場だった場所が、そのまま陸地になっている。
海は、そろそろ近くに見えてきた。
きちんと波が規則正しく行き来していた。悪夢のような黒い海ではなく、近くで見てもちゃんと美しい元の海だ。
「海岸線まで出ましょう」
提案に反対する理由はない。見回しても、此方に害を為すような存在は影も形も無いのだ。
ある程度大胆に動いても大丈夫だろうと、思い始めていた。
だが、雛理さんの表情は険しいままだ。研究所の辺りから見下ろしたとき、動いている影を見たから、だろうか。
海岸に出る。
砂浜は、やはりない。そして海の中には、露骨すぎるほど多数のアンボイナが、獲物を求めて蠢いていた。
「この様子では、相変わらず海に入るのは無理そうですね」
「岩場を行くだけで、かなりリスクが高いよ」
「一度戻りましょう。 船を探すのは、後でいい」
アンボイナはいるが、魚もいる。
食料は、どうにかなりそうだ。もっとも、またあの泥が押し寄せてくる事になったら、それどころではなくなるだろうが。
この島は、元々美しい自然に包まれていた。
腐り果てたのは、人が住み着いたから。
そんなことを、自然を見ていて思わされる。多少植生は変わっているとしても、人家や道路がないだけで、こうも美しくなるものなのかと、驚かされた。
研究所に戻ったときには、昼を少し廻っていた。
行成おじいちゃんと学者さんにも出てきてもらって、たき火の跡を囲んで円座を作る。雛理さんが、今後について、話の口火を切った。話を聞きながら、敦布はたき火に使えそうな木を集める。
「もう何日か周囲を探ってみて、危険が無さそうだったら海で食料を集めましょう。 以前と同じく多数のアンボイナはいますが、入りさえしなければ危険はないはずです」
「ほう、是非私も連れて行って欲しいな」
興味津々なのは学者さんだ。
雛理さんは頷く。というよりも、邪魔にならなければ良いとくらい思っているのかも知れない。それに、この間、有毒な生物を見分けてくれていた実績を買っている、ということなのだろうか。
「本当に化け物はいなかったのか?」
「今のところは見ていません。 以前見たあの怪物達は、要所要所を的確に見張っていましたが、島の要所に彼らの姿はありませんでしたよ」
「ふん……」
腕組みしたお爺さんが、場に爆弾を放り込む。
「俺が思うにな。 あの化け物共は、島の連中の変化したものなんじゃないか」
「……根拠は?」
「あらゆる状況証拠が、それを告げているだろう」
青ざめ、枯れ木を集める作業を中断する敦布。
だが、皆は平然と話を進めて行っている。もともとマイペース極まりない学者さんも、むしろ面白そうだとばかりに、身を乗り出して話を聞いていた。
「確かに私もそれは考えましたが、そうなるとおかしな点がいくつかあります。 まずどうして村長の家が燃やされたか、ですが」
「……そうだな。 たとえば化け物にされた連中が、そんな風になるとは知らず、そそのかされていたとしたら? 腹いせに、村長の家を丸焼きにもするんじゃないのか」
「確かに考えられますね。 でもそうなると、あの統率の高さは、どういうことなのか」
雛理さんがいうように、輪郭しか確認できなかった怪物達は、とても組織的に動き回っていた。
理にかなう動きを終始していたし、明らかな知能を持っていた。
しかし、村長が怪物化した彼らを統率していなかったのだとしたら。そして、怪物化した人々に、理性があったのだとすれば。
それに、研究所の人達が、どこに行ったのかも気になる。
今は仮説に仮説を重ねている状態だと、雛理さんはいう。これらの説を裏付ける情報が必要になってくるとも。
全面的に同意できる話が多い。
だが、肝心の脱出に関しては、まだどうして良いか分からないのが実情だ。
「とりあえず、明日から探索の範囲を広げてみましょう。 海岸線を調査した後は、集落があった辺りを調べてみる方向で行きますが、異論はありますか?」
「私は海の生物が調べられれば、後はそれでいいなあ」
学者さんが、相変わらずマイペースな事を言った。
日の出が九時だったからか、日の入りも遅かった。なんと夜の九時半を廻った頃である。当然非常に明るい時間が続いていて、感覚がおかしくなりそうだった。いわゆる時差呆けという奴かも知れない。
少しずつ、研究所の周りを整備していく。
無駄な木を切って視界を広げて、薪を作って積み上げる。
本当は枯れ木以外は薪にしてはいけないというルールがあるらしいのだが、今回は非常事態だ。切った後の木は並べておいて、しばらく乾燥させる必要が生じてくるが。いずれにしても、研究所の周囲を開けておけば、何かに奇襲される事態は防ぐことが出来ると、雛理さんはいう。
幾つか巨木も生えている。それらに関しては、そのまま残すと、雛理さんは言う。
いずれ見張り用の櫓などが必要になってくるから、そのためだという。
それと、研究所の外壁に、はしごを掛ける。
木を切って縄で結び合わせて、不格好だが頑丈なはしごを作った。子供達に見張りをしてもらおうという話が出たときには、流石に敦布もちょっと嫌な予感がしたが、確かに今の状況、無駄な行動はしている余裕が無い。
寛子ちゃんにその話をしたら、頷いてくれた。
治郎君にも、いずれやって貰う必要があるだろう。
後は、これは敦布の希望だが。
子供達には、余裕を見て、勉強も教えたい。
そんな場合ではないとみんなに反対されそうだし、自分でもそう思うのだが。やはり、それでも。
子供の本分は、勉強だと思うのだ。
いずれ、余裕が出てきたらで良い。それまで、この事は、言い出すつもりはなかった。
その日は交代で見張りを立てることにして、そのまま眠る。
以前と違って、風呂や洗濯が出来ると言うことは、それだけ快適さが増しているという事も意味している。
多少は、気も晴れる。
だからか、随分以前よりは、安らかに眠ることが出来ていた。
翌日の探索は、昨日と逆方向に行う事となった。
つまり、森を突っ切っていくルートである。
元々この研究所は、島を覆っていた危険な森の中にあった。逆に言うと、視界を今でも森が一部妨げている事になる。
かっては、森を抜ければ海岸線に到達したが、今では地形が大幅に変わっている可能性も高い。
最初に集落があった辺りを調べようという意見も出たのだが、それは最初に却下された。というのも、周囲に危険な場所があるなら、先に探っておいた方が良いと、学者さんが言ったからである。
確かにもっともな意見だ。
しかし、どうしてだろう。妙な違和感もある。
彼は確か、海岸線を探りたいと言っていたはずなのだが。
森に入ってみると、早速むっとするほどの熱気が周囲に満ちているのを感じ取れた。元々亜熱帯だから、夏は地獄のように蒸すのは前提ではあったのだが。
ここしばらくは、良くも悪くも涼しい環境にいたからか。頑健でなければ、体を壊しそうだった。
最初、学者さんはついてくると言ったのだが、雛理さんが突っぱねた。
或いは雛理さんは、最初からこの状態を予期していたのかも知れない。ただ、敦布が一緒に来るように指名されたのは驚きだったが。
てっきり役立たずと思われているかと考えていたのだが。
「止まって」
「あ、猪?」
視界の先に、猪がいる。
ただし、以前見た奴よりも、ずっと小さい。あれだったら、人間に怪我をさせることはないし、そもそも襲ってくる事も無いかも知れない。
「知っていますか? 赤道に近づくほど、肉食動物は小型化するんです」
「そうなの?」
「赤道近くには、マレー熊という非常にちいさな熊がいます。 もちろん人間に怪我をさせる程度の力は持っていますが、ヒグマのように対処を間違うとちいさな村が全滅させられるような事はありません」
つまりあの猪も、そういった法則に基づいている、ということか。
しかしそうなると、おかしな事も多い。
「この島、どうなっちゃったのかな」
「植生が変わった時点で、予想は出来ていたんですが。 ひょっとして、あの泥に覆われた後と前で、この島は別の場所にあるのかも」
「え……?」
「たとえば、島ごとずっと南に移動したとか」
そんな馬鹿なと笑い飛ばそうとして、失敗する。
何が起きても不思議では無い状況なのだ。今まで起きた怪奇現象の数々は、それこそテレビで放送されていた世界の七不思議などとは比較にならないほどのとんでも無い有様を造り出していた。
寛子ちゃんのお母さんが発狂してしまったのも無理はない。
敦布だって、いつ発狂しても、おかしくなかった。今は比較的落ち着いているとは言え、今後何が起きても不思議では無いと、自分でも思う。
「それに、夜、空を見ましたか?」
「どういうこと?」
「何だか、知っている星座がない気がするんです。 ひょっとして此処、地球じゃ無いのかも知れませんね」
また薄ら寒くなることを言われる。
戻ったら、学者さんに聞くしかないだろう。いずれにしても、まずは森を抜けることだ。
気のせいか、以前のような、異常な雰囲気が森から消えている。前は足を踏み入れるのも怖くなるような、まるで怪物でも潜んでいるかのような気配が充ち満ちていたのだが、今はそれもない。
そう言う意味もあって、以前はチハがあっても、踏み込むのは命がけだった。
だが今は、何となくだが。自然にブッシュを避けながら、歩くことが出来ていた。
「森、長いですね」
「うん。 何だろう、こんなに広い森だったかな……」
「森の中では迷子になりやすいので、さっきから目印をつけて歩いてはいます。 直線的には歩いているんですが……」
既に一キロ以上は、森の中を直線的に歩いていると、雛理さんはいう。
それは色々とおかしいかも知れない。
森は、まだ抜ける気配もない。
いい加減おかしいと感じ始めた頃だっただろうか。
不意に、雛理さんに手を捕まれた。そして、気付く。
自分が、崖に立っていることに。
ぞっとした。本当に、どうしたのだろう。ついさっきまで、森は途切れる気配もなかったのに。
慌てて下がろうとして、尻餅をつく。
だから、そのあまりにも雄大な光景を見て感動するよりも、痛みが先に来た。
「あいたっ!」
「……」
隣で、雛理さんが目を細めているのが分かる。しかも感動しているのではない。不可解な光景に、不信感を募らせているのだ。
崖の下には、地平の彼方まで、巨大なジャングルが広がっていたのである。
地平の彼方までという事は、最低でも十キロはあると言うことだ。確か地球の丸みの関係上、視界が届くのは十キロくらいが限度であったはず。
崖の高さは、多分二百メートルくらいはあるだろう。
しかも、ジャングルを覆うようにして、延々と伸びている。それこそ、視界の果てまで、である。
飛んでいるのは何だろう。
とんでもなく巨大で、普通の鳥とは思えなかった。
「これだけの規模の密林……」
「本当に、此処、どこ!?」
立ち上がれない。
雄大な光景を楽しんでいる余裕など、ない。
不安と恐怖で、腰が抜けてしまったかのようだ。情けないこんな姿、絶対に子供達には見せられない。
「おかしいのは、海抜もです。 あれだけ低い位置なのに、海水が流れ込んでいる様子がありません」
完全に異常だと、雛理さんが言う。だが、驚きはもうわいてこなかった。
あの小さかった斑目島が、どうしてこんな事になってしまったのか。
これからどうすればいいのか。
敦布には分からない。
「幾つか、知っている植物が道中にありました。 帰りに木の実をもいでいきましょう」
それなのに、雛理さんはあまりにも冷静。
死線を何度もくぐっているからか。それとも。
ひょっとして、この程度の状態は、既に予想していた、とでもいうのか。
だとすると、この人は本当に、何者なのだろう。
少なくとも今までは味方してくれている。だが、今後は、本当に味方をしてくれるのだろうか。
この人が子供達に牙を剥いたとき、雛理は守れるのだろうか。
身を挺しても、守れるとは思えなかった。
震えが、今更に来る。
異常さよりも、それに平然としている、雛理さんに。
この人を信用するには、あまりにもその材料が不足しすぎていた。敦布も、アホだ馬鹿だと言われ続けたが、もう子供ではないのだ。
目を見て相手を信じるとか、言動で相手を信じるとか。そんなばかげた言葉が寝言である事くらいは、熟知していた。
「貴方は……」
「はい?」
「何者なの?」
雛理さんは、敦布が怖がっているのを、感じ取ってはくれたのだろう。
だが、答えてくれることはなかった。
1、空虚なる楽園
次の日。
寛子ちゃんのおじいちゃんと、一緒に島の東を調べに出る。
かってコンビニがあったり、少し足を運べばお医者さんに行けた辺りだ。
敦布は気が沈んでいて、何よりとても怖くて。雛理さんと顔を合わせるのも、一緒にいるのも、震えが来るほどだった。
今更に気付いてしまったのだ。この島の異変に、あまりにも動じていない雛理さんのおかしさに。
そして、その気になれば、彼女が子供達を瞬時にミンチに出来る事に。
たとえば、食料がなくなったとする。
その時、最も最初に餌食になるのは、子供達だ。
それは、決しておかしなことではない。
かって、貧しい時代のロシアでは、子供を交換して食べるという悲しい出来事があったという。
飢饉の際の古代中国や、日本でも同じ事が行われたと聞いている。
少しでも歴史をかじっていれば、それくらいは知っている。
人身売買だって、先進国を自称する日本でさえ、ほんの百年ちょっと前には、平然と行われていた。
農村から都会の工場に女性を売り飛ばすことなんて、当たり前だったのだ。発展途上国では、悪名高いカカオ農場に子供を売り飛ばすことが当然のこととしてまかり通っている。被害者は、世界全体で、軽く数百万人を超えるとさえ言われているほどだ。
それでも、かってよりはマシ、というのが事実。それくらいは、如何に無知な敦布だって、知っている。
今は周囲が密林で、食料にも水にも困りそうにない。
実際、昨日から何度も雨が降っていて、煮沸して濾過すれば飲めることも分かっている。島が泥に覆われたときと違い、澄んだ綺麗な雨だ。
しかし、この極限までの変化が、たった数日で行われたことを忘れてはならない。
いきなり砂漠や、極寒のツンドラに周囲が代わる可能性が、無いと言えるだろうか。食糧が尽きるような事が、起こらないと言えるのか。
この島が、異常な状況に置かれている事は、今でも変わっていない。
今すぐ、子供達をつれて逃げ出したい。
だが、どこへ逃げて良いのかさえ、分からない。
「ジャージの。 前が見えてないだろう。 気をつけろ」
「え? あ、はいっ!」
「そろそろコンビニがあった頃だ。 ふん、彼処の店主は、俺たちのことを目の敵にしてやがったな」
寛子ちゃんのお爺さんが言うには、コンビニの店主はニエに対する差別主義の急先鋒だったそうである。
だから、ニエ制度を快く思っていない寛子ちゃんのお爺さんとは犬猿の仲だったそうだ。
しかも、島で唯一のコンビニと言う事もあって、下手に権力を持っていたことも有り、非常に面倒だったとか。
寛子ちゃんのおじいちゃんも、島で随一の猟師で、猟師としても一番だった。そうでなければ、闇に紛れて消されていたかも知れないと、お爺さんはぼやく。
それをこの島では笑い飛ばせないと、敦布は知っていた。
寛子ちゃんと話している内に聞かされたのだが。
敦布が教師として来る前くらいには納まったそうだが、不審死を遂げた村人が随分いたそうである。死体が見つかればまだマシな方で、そのまま失踪してしまった人もかなりいたそうだ。酷い場合には、家族ごと消え失せてしまったのだとか。
不思議な事件だなどと考えるほど、寛子ちゃんも子供ではない。
この島は、一体どこまで腐っていたのか。暗闘がどれだけ激しかったのか。今は、それさえも、知る術がなかった。
コンビニの跡地に到着。
完全に更地になっている。当然設備関係の跡なども、綺麗になくなっていた。
「何が明暗を分けたっすかね」
「どういう意味だ」
「チハちゃんは、無事だったじゃないッスか。 でも、きっとチハちゃんも、泥に飲まれたと思うんスよ」
「そうだな。 状況からして、それが自然な判断だろう。」
チハはさほど大きくない。
少なくとも車高は、研究所の一階屋根部分を越えていなかった。上から降りるとき、案外背が低いなと感じたほどである。
つまり、研究所の一階が泥に飲まれたとき、無事だったとは思えないのだ。
「それに、輪郭しか分からない怪物達は、どうして追撃を諦めたんスかね」
「さあな。 分かっているのは、今此処に、訳が分からん状態になった斑目島が、今も存在しているって事だ」
その割に、寛子ちゃんのおじいちゃんは落ち着いている。
何か知っているのではないか。そう、敦布は感じた。
住宅街があった辺りに出る。
痕跡は全く残っていない。昨日見た巨大な密林と比べると、落差が凄まじい。そのまま、港の辺りまで足を運んでみる。
案の定というか、予想通りというか。
船は一隻も残っていない。
小さいとは言え離島である。港には漁船がいつも停泊しているのが普通だった。数人乗りのモーターボートは、必ず一隻はあり、いざというときの避難用にされていたのである。影も形もない。
流されたのか、或いは。
「港に船が常に置かれるようになったのも、最近のことでな」
港があった辺りは、ぐっとえぐれている。
地形は変わっていない。
水が多少引いたくらいで、もともとあった水深を、陸地が侵略しきれなかった、ということなのだろう。
だが、逆に言えば、崖のようになっているという事でもある。
此処は危ないから、子供達が近づかないように、後で注意しておこう。敦布はそう、下を覗き込みながら思った。
下を見ると、流石に最下部の辺りは、かなり雰囲気が変わっている。
切り立った崖状ではなくて、丸く柔らかく底へつながっている感触だ。
「なんで船を置かなかったか分かるか?」
「あまり、聞きたくないような……」
「それが正解だろうな。 ニエの脱走を防ぐためだよ」
やはり、そうか。
この島は、本当にどうしようもない場所だったのだと、悲しくなる。子供達も育つ上に、どんどん島の悪い部分に染まっていったのだろう。
しかし、それでも。
滅びてしまった今は、ただ悲しかった。
「一度戻るぞ」
寛子ちゃんの実家も、何も痕跡は無かった。
それを見届けると、寛子ちゃんのおじいちゃんは、傾きはじめた太陽を見て、少し寂しそうにそう告げた。
一度研究所に戻ると、雛理さんが地図を作っていた。
敦布が話をすると、すぐに地図に情報を書き加える。そして彼女は、寛子ちゃんのお爺さんに向き直る。
「どう、思いますか」
「人間の痕跡を、全部消しに掛かってるみたいに見えるな。 それよりもおかしいのは、こっちだ」
おじいちゃんのしわだらけの指が伸びたのは、やはり森を越えた先にある、崖下の密林だ。
軽く広さは十キロ四方以上。
雛理さんが調べたところ、三十メートルはある巨木が林立していて、かなり大型の鳥類が飛び回っている。否、鳥類か、さえも分からない。
それよりもおかしいのは、海抜よりも明らかに下に、密林がある事だ。
密林の縁が、ずっと崖で囲まれている、という事だろうか。
「当面の安全は確保されてるのかな」
「いや、そうとも言えませんね」
雛理さんが、敦布の楽観論を否定しに掛かる。
ここ数日、周囲を偵察して、地図を埋める作業を続けているのだが、その過程で、雛理さんは色々とやっているらしいのだ。
電波の受信が出来るかどうか。
空を飛行機が飛んでいないか。
船が通りがからないか。
いずれも、成果はゼロ。
「この島は、最低でも元の位置から大幅にずれているか、それとももっとおかしな変化が起きているとみて良いでしょうね。 日本の近海、しかも九州のすぐ近くにある島で、此処まで船も飛行機も来ないというのは、異常すぎます」
「そもそも、フェリーはどうなったんだろう」
「あれは前から好かんかったな」
寛子ちゃんのおじいちゃんが、今だから話すがと、ろくでもない事実を教えてくれる。
フェリーの船長は、島の村長と結託していたそうである。当然のことながら、ニエの一族が逃げるのには、フェリーを使うのが一番手っ取り早い。だが、フェリーでは出航後、敢えて徹底的に検査を行い、ニエの一族を逃がさないようにしていたそうなのだ。
一人あたり、五万。
それが、フェリーの船長が受け取っていた報酬だという。
勿論捕まったニエの一族は、島に戻された後、言語を絶する虐待を受けた。殺されてしまった人もいるという。
「そんな。 其処までしないと、この島の人達は、自尊心を保てなかったんスか!?」
「くだらねえ話だ。 俺はだから、この島がずっと嫌いだったが……」
おじいちゃんは酒が欲しいといった。
もう残っていない。
しばらく沈黙が通り過ぎた後、雛理さんが何も無かったかのように、話を元に戻した。本当にこの人は、どういう心の強さなのだろう。
「不可解なことが、一つあります」
「何……?」
「この研究所ですよ」
それは分かっている。だが、今更蒸し返すことなのだろうか。
雛理さんは、来るように促した。ついていった先は、屋上である。その一角に、雛理さんが調べたらしい跡が残っていた。
「何だと思います、これ」
「分からない、よ……」
「偽装されていますけれど。 幾つかの痕跡が残っていました。 簡単に言うと、軍用ヘリのポートですよ。 研究所の人達は、ヘリに乗って脱出したとみて間違いが無さそうです。 それと、これ」
見せられたのは、炭。
見覚えがある。たき火なんかで出る、ヒラヒラの膜状の炭だ。風に飛ばされて、簡単に何処かに行ってしまう。
「屋上の一角で見つけました。 飛んできて此処に挟まった物でしょうね」
「何かを燃やした……?」
「不要な書類や、あるいは。 実験材料か何かか。 今は分析する機材などがありませんが」
つまり、だ。
研究所の人達は、何が起きるか、精確に把握していた、と見て良い。
それだけではない。
「仮に村の人達があの怪物になったとします。 村の状況から考えて、異変がある事は、知らされていたとみて良いでしょうね」
「ふん、それで俺たちが残った理由にも説明がつくな」
「どういう事ッスか?」
「わかりきってるだろう。 俺たちは、村にとっていらねえ人間だった、ていうことだ」
背筋に寒気が走る。
つまり、村そのもので、何が起きるか把握していた。
だから家の中は綺麗に片付けていたし、変化した後の準備もしていた。犬しか死んでいなかったのは、それが理由か。
治郎君も、親にいらないと見なされたのか。
あの家は前から問題があった。兄にだけ期待しているのは知っていた。
だが、それでも。
小学二年生の子供を、いらないと判断できる親の神経が、敦布には理解できない。本当に同じ人間なのか。
此処だけ、子供を売り飛ばす発展途上国の倫理が、まかり通っていたというのか。
吐きそうになるのを、こらえる。
子供の命は、宝だと敦布は思う。この島では、違ったという事か。
ずっと悲しそうにしていた治郎君は、そういえば。
一度も、親の名前を、口にしなかった。
そういうことだったのだ。
「島はずれの学者さんは村の人達にとってどうでもいい存在だった。 それは論理的に説明がつきますが。 寛子ちゃんのお母さんについては?」
「あれは、本人は知らなかったが、村の連中にしてみれば、鉄砲玉も同じだったんだよ」
「……ああ、なるほど」
猟犬はいらなくなったら煮られてしまう。
そんなことわざが中国にあったのを、敦布は思い出していた。
「異常です、こんなの」
「この島じゃあ、何十年も、下手をすると何百年も、これが普通だったのさ。 ニエの一族の告発で、それが崩れた。 噴出した矛盾が、全てを焼き尽くした。 今起きてる異変も、ひょっとすると、ニエの一族の怨念が引き起こしたのかも知れねえな。 もしそうだとしても、俺は何もおどろかねえよ」
おぞましすぎて、考えたくない。
雛理さんは、どうして平気なのだ。ニエの一族の出身だというのに。
世界で、それだけの地獄を見てきた、というのだろうか。その地獄は、一体どんな場所だったのだろう。
「しばらく休んでいてください。 でも、その後は働いてもらいます」
肩を叩いて、そう雛理さんは言う。
表情は、何も無かった。
まるでこっちの方が化け物みたいだと、敦布は思った。
2、島の形
がけの縁にいた雛理さんが、手招きしてくる。
寛子は頷いて、足下に気をつけながら、進み出た。そろそろ靴に穴が空くかも知れない。今日は食糧を集めるついでだと言って、連れてこられたのだ。
だが、うすうすは知っていた。
島が、原形をとどめない状態になっている事は。
毎日学者さんがとても生き生きと楽しそうにしているし、逆にジャージ先生は誰も見ていないところでは悲しみを押し殺すように黙り込んでいる。寛子や治郎君の前では明るく振る舞っていてくれるが、無理をしているのは何となく分かっていた。
その理由が、島の異変だと言う事も。
既にあのおぞましい泥に包まれた島が、怪物が跳梁跋扈する魔界に変わっていても驚かない。
だから、むしろ島が大きくなって、熱帯地域同然になっている事を知った今は、ほっとしているくらいなのである。
蚊はいない。
密林に入ってからは、マラリアの原因になるという蚊や、ヒルを気にしていた。どちらもこの森には、殆どいないようだった。
がけの縁に出ると、どこまでも広がる樹冠が見えた。
テレビでしか見たことの無い光景だ。
「本当に此処は、斑目島、ですか?」
「ええ」
「私達、どうなっちゃうの?」
「生き残るために、最善を尽くしましょうね」
雛理さんは銃の状態を確認すると、戻るよう促す。
どうしてこれを寛子に見せたのかは分からない。だが、雛理さんが、ジャージ先生に対して、あまり期待をしていないことは、何となく分かっていた。
ジャージ先生は、寛子や治郎君、つまり生徒のためだったら本当に凄い力を発揮する。子供達がジャージ先生を信頼しているのは、本当に味方をしてくれる人だと知っているからだ。
どんな話でも真剣に聞いてくれるし、それこそ命を賭けて守ってくれる。
実際島がこんなになってから、ジャージ先生が気を配ってくれていなければ、寛子も治郎君も、もう死んでいてもおかしくなかった。
それに、考えたくは無いのだが。
環境が今はいい。食糧には困っていない。実際、おじいちゃんが昨日、猪を仕留めてきた。銃弾を使わず、罠だけを用いて、だ。
それで数日分の食糧が手に入った。猪を捌くのを手伝ったことはあるから、寛子も協力して、お肉は燻製にした。
だが、あの環境激変から、一週間も経っていない。
また泥が来て、島が滅茶苦茶にならないと、言い切れるだろうか。
もしも食糧がなくなったとき。きっと、殺されるのは、最初にお母さんだ。気が触れてしまった状態だから。
だが、その次は。きっと、治郎君や寛子だろう。
或いは、雛理さんは。
既に、寛子や治郎君が死んだ場合の事を、想定しているのかも知れない。
こんな状態だ。
もしも病気にでもなれば、助かる術は無い。
そういうとき、真っ先に餌食になるのは、子供だ。それくらいのことは、寛子にだってわかる。
雛理さんは、元傭兵だとか聞いた。
今も、それに近い職業をしていることは、見ていれば何となく分かる。
だからかも知れない。シビアを通り越して、冷酷にさえ感じる事が、時々あるのは。
研究所に戻ってきた。
蚊は見かけなかったが、刺されていないか入るときにチェック。靴も脱いで、ヒルが入り込んでいないか確認する。
森の中に、熱帯の危険な昆虫や生物は、今のところいない様子だ。見かけることもなかったし、被害も受けていない。
雛理さんも、最初の内は煙を体に掛けておくようにと口うるさく言っていたが、今ではもう何も言わない。
本当に危険な虫や動物はいないと判断したのかも知れない。
大人達が集まって、話を始める。
寛子はたき火の周りに円座を作っている大人達の後ろから、話を見ていた。治郎君も、最近は話を見ているようになった。
少しずつ、現実が理解できはじめたのかも知れない。
「今日の探索で、大体本来の斑目島の状態は分かりました。 地図を見る限り、集落があった辺りに、危険はありません。 食糧を得るのも、水を得るのも、難しくはないでしょう」
「一安心て所だな」
「問題は、ここから先です」
元の島の地図の西に、広大な未確認地域が追加されている。
巨大な密林だ。
話を聞く限り、地平の彼方まで広がっているという点から考えても、十キロ四方以上の広さがあると言う。そのいびつな構造は、地図を完全にはみ出して描写しなければならないほどだ。
それにおかしいのは、構造だけではない。
寛子はまだ誰にも言っていないのだが、昨日見た。密林の上を、ヘリコプターみたいのが飛んでいたのだ。
見つかってしまったら、きっと殺された。
怖くて震えている内に、ヘリコプターは飛んでいってしまった。それから言いそびれて、誰にもまだ告げられていない。
寛子にだって分かっている。
今起きている意味不明な大災厄が、人の手によるものだという事くらい。
それを引き起こした人達が、恐ろしい武器や兵器で武装していて、いつ攻めてきてもおかしくないという事も。
だから、怖い。
ジャージ先生は、いざとなれば命がけで寛子を守ってくれる。
だが、守りきれるかは分からない。
寛子を守るために、ジャージ先生が死んだりしたら、嫌だ。
それに、本当に異変を起こした人達だけが、恐ろしい悪魔になるのだろうか。
雛理さんは寛子の考えを知るわけもなく、密林の辺りで、ぐるりと指を動かしていた。その指が、その気になれば簡単に引き金を引いて人を殺せると思うと、寛子には恐ろしくてならなかった。
おばあちゃんが死んだとき、悲しくて仕方が無くて、三日はご飯が喉を通らなかった。
その時のことを思うと、今回の件は規模が異常すぎておかしすぎて、感覚が麻痺してしまったのだと思う。だが、それでも、怖いものは怖い。
「問題は此方です」
「少し前から、その辺りから奇怪な声が聞こえるなあ。 多分何かが積極的に動いているとみていいだろう」
「あの、昨日は、銃声みたいのも聞こえました」
「あり得る話です。 この事件を起こした奴が、単独だとは思えません。 特殊部隊くらい連れてきていても不思議ではないでしょうね」
特殊部隊。
映画に出てくるヒーローみたいな強さを持つ軍人さん達。
そんなの、勝てるわけがない。
きっと雛理さんよりも簡単に、寛子を殺してしまうのだろう。
「密林に踏み込むのは、やめた方が良さそうだね」
「……」
腕組みする雛理さん。
ジャージ先生の言葉に、あまり同意する気にはなれない様子だ。
「今、退路は何があると思いますか?」
「退路……?」
「そうだな。 こんなイカレた状態の島から脱出するには、海路と空路のどちらかを使うしかないだろうが。 海路は今の時点じゃ難しいだろうな」
おじいちゃんが言うには、海路を熟知しているとは言え、既に島は滅茶苦茶だし、それがどこまで通じるか分からないという。
気候そのものが変わってしまっているのだ。
もしも島が日本近海から離れてしまっていたら。その可能性を想定をしなければならない状態である。当然、その場合は海路も滅茶苦茶だと言えるだろう。かって島一番の猟師としてならしたおじいちゃんの知識など、役に立つと言い切れない。
「おかしいのは、啓太の野郎が、戻ってこないことだな」
「ええと、寛子ちゃんのお父さんですよね」
「そうだ。 流石に島と連絡が取れなくなって、時間が経ってるからな。 彼奴もどっちかといえば、島の連中から煙たがられてたし、「いらねえ」扱いはされていただろう」
それならば、島に戻ってきていてもおかしくはない。
たしかに、お父さんはおじいちゃんと同じで、島の人達からはどちらかと言えば浮いていた気がする。
仲間はずれにされていたという訳ではないが。
でも、今はそれが良かったと想う。お父さんがあの怪物達と同じになってしまったらと思うと、悲しい。
「もしも島が元の位置から移動していない場合は、戻ってこないのはおかしいですね」
「そうだ。 海路はまず外して考えた方が良いだろうな」
「そうなると、空路ですが……」
黒幕が、まだこの島にいるかさえ分からないと、雛理さんははっきり告げた。
「仮に飛行機械、ヘリや飛行機を手に入れたとします。 ヘリの操縦は私も出来るのですけれど」
しかし、此処が何処かも分からない状態で、空に上がるのは自殺行為だと雛理さんは言った。
「航続距離の限界を超えた位置にあった場合、最悪の場合海にドボンです。 絶対に救助なんて来ませんよ」
「モールス信号で救助は出してみたか?」
おじいちゃんの言葉に、雛理さんは小型の無線機を出してみせる。
モールス信号というのはおぼろげにしか分からなかったが、それでおじいちゃんががっかりするのが分かった。
「何だ、もうやってたのか」
「毎晩必ず。 未だに連絡はありませんね。 というよりも……」
本当に電波が届いているのかさえ分からないと、雛理さんが絶望的なことを言った。
一旦、研究所の地下に戻る。
治郎君は最近、夜中にふらふらする事があるのだ。この間は一階に出てきてしまって、慌ててこっそり地下に連れ戻した。
幼い治郎君が、両親に捨てられたと思っている事を、寛子は知っている。
実際その通りである事も。
だが、そんな悲しい事を、耐えられるわけがない。
心に生じた軋みは、彼を夢遊病に近い状態にさせていた。ジャージ先生を心配させないためにも、寛子が面倒を見るしか無い。
幸い、治郎君は眠っていた。
だが、悪夢にうなされている様子だった。同じくおかしくなっているお母さんが、大いびきで寝ているのを見ると、少しムカッとする。
そういえば、学者さんはどうしたのだろう。
会話には加わっていなかったし、眠っているようにも見えなかった。
研究所の外に戻る。
学者さんが、いつの間にか加わっていた。
「あー、調べてみたんだがね。 どうも空の様子がおかしいねえ」
「やはりそうでしたか。 北極星も見当たらないから、変だとは思っていたんですよ」
「北極星もない!? それって……」
「どうも星空に関しては、この世のものとは違うと考えた方が良さそうです」
たき火に、雛理さんが薪を放り込んだ。
ばちんと、大きな音を立てて薪が爆ぜる。何だか、怖くて悲しくて、燃える火を見ていられなかった。
「ジャージ先生、貴方はどうしたいですか?」
「出来れば静かに過ごして、救助が来るのを待ちたいけれど」
「空を見る限り、その可能性はゼロでしょう」
「やるしかない、か」
おじいちゃんが、嫌そうに、だが決意を決めたかのように言う。
何をするしかないかは、大体分かった。
きっと、あの密林に踏み込むのだ。
そうして、黒幕を見つけ出す。
多分黒幕は、いる。
ヘリがいたのだから、何かしらの事情を知っている人達は、いるのだろう。それはつまり、映画に出てくるような特殊部隊と、戦ったりしなければならない、という事なのだろう。
怖いし、逃げ出したい。
でも、どうしようもないのは、寛子にも分かる。
話し合いは、それで終わりになった。今日の見張りはジャージ先生だ。これから寝ないで、夜中の半分ほどを過ごさなければならないらしい。その代わり、昼間にその分を寝ていて良いのだ。
ジャージ先生の、ちいさな背中が寂しい。
「寛子ちゃん、こっちに来たら?」
「うん……」
火の側に行く。
ジャージ先生は、無理に元気を作っているのが、丸わかりだった。痛々しくて、見ていられない。しゃべり方も、いつもと同じだ。寛子や治郎君を不安にさせないための、涙ぐましい努力。
見ていると、悲しくなってくる。
誰のせいで、こんな事になってしまったのだろう。
周り中の人を、いつの間にか疑っていることに、寛子は気付いていた。
此処は地獄だ。
そう思った。
崖の縁の調査を二日ほどした結果、降りられそうな箇所が二つ見つかった。
雛理さんはその間、ずっと走り回っていた。休憩に割り当てられている時間帯も、銃や弾薬の整備に費やしていたり、研究所地下の物資をチェックしていた。真面目で精力的と言うよりも、むしろタフだ。
民間軍事会社では、これくらい当たり前だったと、彼女は言う。
敦布のいる学校も、今はかなりヘビィな職場だ。
教育委員会の異常な地域はいくらでもあるし、学校側に問題がある場合も少なくはない。ITと建築関連、それに外食産業が一番酷い仕事量だと聞いたことがあるが、学校の場合は体力ではなく、精神力に負荷が掛かる場合が多い。
敦布と同学年の学生達も、教師にはなりたくないと、かなりの人数が言っていた。
今は社会の価値観が瓦解していることもあって、問題のある生徒は多い。それ以上に、問題のある保護者が多すぎるのだ。
だが、それでも。雛理さんの仕事量を見ていると、凄いと思わされる。
子供のためなら、いくらでもがんばれると自負する敦布だが。それでも、叶いそうにないなあと感じた。
「一度戻りましょう」
「あ、うん。 それよりも、降りるときはどうするの?」
「ロープを作ります。 編み方次第で、体重を支えるのに充分な強度を作り出せますから」
ロープを腰に結びつけて、降りる。
なるほど、それなら崖でも安全に降りられそうだ。クライミングをするのではないかと思って、怖かったのだが。
だが、勿論その安心を、即座に打ち砕いてくれる。
「ロープに適した素材が足りない場合は、クライミングをすることになります」
「ちょ、無理だよ……」
「教えますから。 出来なければ、いずれ我々全員、野ざらしの骸骨ですよ。 勿論子供達も」
それを言われると弱い。
怖いけど、頑張らなければならなくなる。それを恐らく、雛理さんは知っている。知っていて、突いてきている。
何だかこの人は怖いなあと、思う。
実戦経験者なのだから当然だが、それでも。
不意に頭を捕まれて、地面に押しつけられる。
本人も身を低くして、静かにするように言われた。怖い。全身に震えが来る。
こんなに乱暴に動いた雛理さんは、久々に見た。そう、チハに乗って、研究所に乗り込んだとき以来か。
荒い呼吸の中、気付く。
凄い音が、近づいてきている。これは確か、ヘリコプターのロータリー音だ。以前一度だけ、近くで聞いたことがある。
「ヘリコプター、ですか」
「少し前から、密林の上の方を飛んでいた攻撃ヘリです。 形状からして、アパッチロングボウでしょう」
聞いたことがない名前だが、とても怖そうだ。
そっと顔を上げて見て、ぞっとした。
ヘリとは、こんなに洗練して、相手を叩き殺す事に専念するデザインになるものなのか。その黒い機体は、何処か美しくさえある。脇についているのは、ミサイルを発射する装置だろうか。それに、なんと怖そうな銃を左右にぶら下げているのだろう。
それに、防御力も高そうだ。ヘリと言ったらあまり頑丈そうではないイメージが合ったのだが、あれは違う。
見るからに屈強で、強大な外骨格を纏った甲虫が飛んでいるかのようだ。
チハじゃ、絶対勝てない。
見た瞬間に、それを悟らされてしまった。
「多少もとのをカスタマイズしているようですね。 正規部隊の機体では無さそうです」
「どういうこと?」
「やはり特殊部隊、それも恐らく非公式の存在の保有機体でしょう。 しかもアパッチは、五十億円以上するヘリです。 相当な国家上層部が絡んでいるとみて良いでしょうね」
幸い、アパッチというヘリは、此方には気付かず飛び去っていった。
距離があったから、かも知れない。或いは、此方を探知対象にしていなかったのかもしれなかった。
あんな凄いヘリだ。きっとレーダーも、高性能なのを積んでいるのは間違いないだろう。
ヘリのロータリー音は空を振るわせるようで、とても恐ろしかった。あんなのが近づいてきたら。
研究所をアレに乗っている人達が制圧しようとしたら、それこそ一瞬、という事だ。今更ながら、この島が楽園でも平和でもないことを悟らされる。
ようやく、頭から手を離してくれた。
呼吸を整える。
冷静になってみると、怖いだけではなく、とても強そうで、格好良い機体でもあった。でも、今は敵なのだ。
肉食恐竜は、子供達が憧れるとてもかっこうよい生物だ。
だが、それが間近にいて、しかも此方を喰おうとしていたら。
それを、格好良いと言って、見上げていられるだろうか。
或いは富士の火力演習で見ていたのだったら、かっこうよくて美しいヘリだと、感心できたのかも知れない。
「あれではっきりしました。 持久戦という選択肢は、これでなくなりました」
「説明してくれる?」
「いいですか、アパッチを保有しているような部隊です。 最低でも所属している戦力は二個小隊以上、中隊規模に達するかも知れません。 装備もほぼ確実に潤沢で、全員が自動小銃くらいは保有していてもおかしくありません。 或いは、最新鋭の戦車や歩兵戦闘車を所有しているかも。 その上、それらをこの島のどこにでも、いつでも、投入できる可能性もあります」
説明を受けると、どんどん絶望が加速していく。
雛理さんがいうには、こうだ。
もしも一カ所に留まっていると、即座に制圧され、場合によっては皆殺しにされる。
敵は此方に気付いてないかも知れないが、いずれ気付かれるのは確実。もしくは、とっくに気付いていて、泳がされている可能性もある。
それならば、一カ所に留まるのは危険だ。
定期的に動き続けて、相手に此方の居場所を探られないようにするしかない。
「それには、あの密林の中が一番良い」
「まって、そんなの、一人で決めないで」
「だから、皆で話し合います。 もっとも、説得する、という方が正しいでしょうが」
あのヘリは、どこから来たのだろう。
少なくとも、地平の果てに飛んでいったのは間違いない。
一機だけでも恐ろしいのだ。あんなのが、二機も三機もいたらどうするのか。
空を見るのが、怖くなってきた。
こんな気持ちは、初めてだった。
ふと、森の方を、雛理さんが見つめた。一瞬だけのことだったが、あの日、泥に島が覆われたとき。
チハを追ってくる怪物を撃ったときと、同じ目をしていた。
3、敵手の姿
平坂が仮説キャンプのテントでノートPCを叩いていると、部下の一人が戻ってくる。
陸自から抜擢した精鋭の一人、黒鵜蓮尾(くろうはすお)。百九十センチ近い巨漢で、全身を分厚い筋肉で覆った見本のような軍人である。戦闘スキルの高さもさながら、各地の軍で密かに研修を受けさせ、狙撃、サバイバル、格闘技、戦闘指揮、レンジャー、いずれも高い成績をたたき出しているエリートだ。
実戦経験もある。しかも豊富に。
この特務部隊に所属してから、今まで十五を超える任務に参加し、そのいずれでも圧倒的な味方の勝利に貢献してきた。殺した人数は五十人を超える。的確な狙撃で子供でも容赦なく殺すため、キリングマシーンと呼ぶ部下もいた。
普段は全く口を利かないので人となりがよく分からないと言われるが、平坂は彼の腕だけを信頼していた。
だから、人格などどうでもいい。
軍人として優秀で、任務を的確に遂行することが出来る。だから平坂は黒鵜に全幅の信頼を置いてきたし、彼もそれに応えてきた。
黒鵜は今まで三回、平坂を身を挺して守ったことがある。
平坂の忠臣と陰で言われるのは、それが理由だ。
アパッチの乗降口から降りた黒鵜は、まっすぐ平坂のテントに歩いてきた。横目でそれだけを確認すると、平坂は携帯電話に視線を移す。
既に、仮説の基地局は作っていて、ベースとその周辺でのみ、インターネットに接続することが可能だ。
政府側は監査の人間を数名つけてきていて、彼らが五月蠅いのである。
「どうであったか」
「なり損ない共の確保は、88パーセントが完了。 残りは二十匹を割りました。 実験体のAとKが、以外に役立っています」
「そうか。 それで崖の上の動きは」
「今だ調査に徹している様子です。 叩くのであれば、今のうちにやっておくべきかと思いますが」
不要と返答すると、黒鵜は頭を下げて戻っていった。
今、密林の中に作っている牧場に、なり損ないを集めている。また、新種の動物も、軽く調べただけで五十七種が発見されていた。その中には、予想通り、非常に有益な特性を持った生物が多数含まれていた。
やがてこの島は、政府が密かに所有する、宝の山となるだろう。
置き換わりの存在についても、既に政府側の工作は終わっている。既に誰にも気付かれる可能性はない。
気付いた場合は、消せば済むだけの事だ。
一旦作業を終えると、別の部下を呼ぶ。
化学班の一人。岸田祐介である。
東大を主席で卒業した実績を持つ男だが、学閥に興味を持たず、結果表の学会からは排斥された経歴の持ち主だ。
マッドサイエンティストの見本と言われているが、事実その通り。いろいろな異常者を見てきた平坂でも、ほれぼれするような人物であった。
「ひらさかちゃーん! ボクに用事かい!?」
大変になれなれしいが、別に構わない。
岸田は風船のように太った男で、いつも汗を掻いている。非常に見苦しい格好だが、実は食事を殆ど取らない。太っているのは何故かというと、独自の考えで行っている「ブドウ糖健康法」のためだ。なんとブドウ糖の濃度が高い「独自の考えで作った」栄養を、定期的に点滴しているのである。摂取カロリーは食事の比では無く、豚のように太る結果を招いている。
ただし、それを止めると、あっという間に骨と皮だけになる。
既存の倫理とか常識とかを蟻の糞ほどの価値も無いと断言するこの科学者は、すっかりはげ上がった頭を陽光にてからせつつ、牛乳瓶の底のような眼鏡をずりあげた。
「なり損ないの様子は」
「いらないのは五十くらい。 残りは、それぞれ面白い変化をしてるよ。 ボクが見たところ、被検体NO65がお勧めだね」
ノートPCを叩いて、資料をDBから呼び出す。
なるほど、これは面白い。
戦闘向きでは無く、資源的に有用な存在だ。なんと空気中、土中、水中の貴金属を集めて、体外に定期的に輩出するという。およそ四キロの金、銀、プラチナの混ざり合ったインゴットを、三日ほどで生産するそうだ。
「これを量産して、海につけとけば、すごいよ。 ひらさかちゃんは、あっというまに大金持ちなのらー!」
「そうか。 それで他に有用なのは?」
「そうだねー。 NO105はどうかな」
ちなみに番号は、変化前から既に振ってある。
だから、元の姿も、DBには登録されていた。
「これはまた面白いな」
「痛い痛いって五月蠅いのが玉に瑕かなー。 まあ、喋らないようには調整できるし、場合によっては品種改良しても大丈夫だね」
「そうか、では進めてくれ」
「あいあいさー。 で、邪魔なのは、どうする? ミンチ機にでも放り込む?」
此奴がいらないと言っているのは、通常のなり損ないのことだが、勿論それらにも利用価値がある。
奴隷労働をさせるのに最適だし、品種改良の中間材料としても使える。捨ててしまうのはもったいない。
勿論、構造分析のために、数体はばらしてしまって構わない。
「お前はどうしたい、岸田」
「ボク? そうだなあ、ばらして調べたい!」
「じゃあそうしてくれて構わん。 だが、当然レポートにまとめて、提出するようにな」
「わかったよー。 じゃ、張り切って解体してみよう!」
きゃっきゃっと子供のように嬉しそうにはしゃぎながら、岸田が牧場の方へ消えていく。五十を超える男とは思えないほど無邪気で、それが故に残虐だ。
資料をDBに格納し、もう一度目を通しておく。
今の時点で、計画の遂行は順調だ。
問題があるとすれば、逃げたなり損ないが、研究所に逃げ込んだ生き残りと合流することだが。
それも別に構わない。
この島から出ることは出来ない。外部に情報を伝えることだって出来ない。
平坂を倒し、駐屯している特務部隊を全滅させ、「門」を奪取すれば話は別だが。その戦力は、残念ながらこの島には存在していない。
携帯が鳴った。スポンサーの一人からだ。
進捗状況を求めるものだったので、丁寧に告げていく。
「現在、目標の実験はフェイズ2に突入。 既に成果は80パーセントをトータルで突破しています」
「フェイズ3までの所要時間はどれくらいになりそうかね」
「現時点では、二日以内という所です。 これは万全を期すためで、短縮は考慮に入れていません」
舌打ちの音。
「君は相変わらず融通が利かないな。 計画を前倒しすれば、客が喜ぶとは思わないのかね」
「前倒しすることで作業の品質を落とす可能性があるために、短縮を考えていないのです」
「そうか、ならば勝手にしたまえ」
相変わらず気が短いスポンサーだ。
ただし、昔と違って今は、平坂は洒落臭い口を利いても問題ない地位を手に入れている。その気になれば暗殺も難しくない。
そして、それをスポンサーは理解している。
それが故に、ごり押しはしなかった。
一通りの作業が終わったところで、紅茶を淹れさせる。
平坂はアールグレイが好みで、温度まで指定して淹れさせている。最近はその程度の作業も出来ない秘書が増えたので、今回はわざわざ、使用人を雇ってまで作業させていた。中東の方で米国の対テロ部隊にいた経歴を持ち、現地のテロ組織に家族を殺された女性だ。小麦色の肌をした健康的な雰囲気の、グラマラスな美しい女なのだが、テロリストへの憎悪が尋常では無く、雇う条件が変わっている。
刑務所に入っている指定したテロリストを処刑すること。
以上だ。
しかもこの条件を満たすため、民間軍事会社を転々として、指定の任地に入っていたという筋金いりぶりだ。噂によると三つの組織を潰したという。今では、民間軍事会社の方からスカウトをして来ているとか。
彼女が茶を淹れるのを横目に、平坂はDBのデータを整理する。そして、紅茶の香りを楽しみ、茶菓子をほおばった。
それが終わった後は、眠りにつく。
無駄な時間など、一瞬足りとてない。
故に、平坂は、此処まで来ることが出来たのだった。
目が覚めると、雨だった。
簡易ベースとはいえ、プレハブである。雨が漏るような事は無いが、これでは外で働いている人間の能率が落ちることを計算に入れなければならない。
平坂は、根性論を憎んでいる。精神論もだ。
雨が降ったり、物資が不足すれば、能率の低下を考慮するのが当然だ。それを出来ない人間は、低脳なのだと考えている。
残業を肯定し、労働者の負担を是とし、組織への絶対的な忠誠を無為に要求する。
そんな事だから、どれだけ優秀な国民がいても、この国は不況を脱出できない。無能な政治家は、それを理解できていない。
滅多に口に出すことは無いが、平坂の持論である。
外に出て、携帯電話を操作しながら、状態を確認する。傘は同じ時間に起きてきた使用人に持たせたまま、見て廻る。
作業中の部下達に、話を聞いて廻る。
「雨の状態は。 安定しているか」
「降り始めに確認しましたが、「濃度」は規定値を大幅に下回っています。 なり損ないに変化する可能性は、考慮しなくてもよろしいかと」
「分かった。 それでは、今日は休憩を十五分延長して、作業を実施してくれ。 労働時間は、通常通りでいい」
敬礼する部下に鷹揚に頷くと、部署を全て回る。
今日はなり損ないの牧場を、直接見に行こうかと思っていたのだが。雨が降っている以上、万一の可能性もある。
カムイの血は回収した。
実験でも、回収できることは確認できている。
だが、島をあれほど変化させた戦略兵器だ。科学的に説明的でない要素を多数含んでいるオーパーツ的な存在でもあり、絶対はあり得ないし、大丈夫だとも言い切れない。そんな不確定な存在である以上、危険は可能な限り避けなければならない。
作業をしていると、黒鵜が戻ってきた。
今日は、島の偵察を行うがてらに、なり損ないを捕獲に行っているはずだが。こんな時間に戻ってきたという事は、何かがあったと言うことだ。
「どうした、何があった」
「二つほど、悪い知らせが」
「何かね」
「まず一つ。 島の東、密林の端に、強力ななり損ないを発見しました。 今まで土中で、完全体への変態を待っていた模様です」
「ほう?」
それは興味深い。
阿呆どもに、そこまでの知能があったとは思えないから、本能的な行動だとみて良いだろう。
「まだなり損ないということかね」
「はい。 カムイ特有の波動は確認できていません」
「それならば、実験に使えるな」
丁度いい実験台もいる。
今まで泳がせてきたが、そろそろ潮時だろう。
向こうに知恵が働くのがいれば、分かっている筈だ。既に此処が、現実世界から切り離されてしまっている、異空間だという事に。
脱出するつもりだったら、平坂と接触して、情報を得なければならないという事に。
勿論、平坂がそんなことをするはずもないと、知ってもいるだろう。
それならば、生じるのは、結局の所戦いだ。
「例のものを埋め込んで、島の東部隔離地域に放せ」
「分かりました。 直ちに」
「気をつけるように。 人材は一人でも無駄にしたくない。 それで、もう一つの良くない条件とは」
「はい。 東部隔離地域にいる生き残りについて、詳細なデータが手に入りました」
全ての生き残りについては、既に素性が割れているのだが、一人だけ例外がいた。
浅黒い肌の女で、どうも実戦経験者らしい輩だったのだが。
話を聞いていると、なるほどと思った。
「そうか、ニエの一族の出身者か。 その上、民間軍事会社で実戦も経験してきているというのか」
「それだけではありません。 どうやら「剣」のエージェントらしく」
「……」
それは面倒だ。
今まで平坂が散々抗争してきた相手である。侮れぬ組織力を持ち、優秀な人材を多数抱えてもいる。
この実験をかぎつけられていたとすると、増援が来てもおかしくはないだろう。
そうなると厄介だ。
武装にしても人材にしても、この実験を潰すだけのものを、投入できる可能性がある。カムイの壁を簡単に突破できるかは分からないが、備えておく必要があると見ていい。
増援を、今のうちから手配する必要がある。
「よし、早めの対処を。 偵察の強化と、警戒レベルの一段階引き上げだ」
「分かりました。 直ちに実施します」
巌のような顔をした黒鵜が、敬礼して仕事に戻っていく。
平坂としても、余計な仕事が増えてしまった。今のうちに、手を打っておかなければならない。
スポンサーの何名かに、電話を入れる。
増援を手配するといっても、メールを一本送れば、一個中隊が空から降ってくる、というわけにはいかない。
今の時点では予算にもまだ余裕はあるが、不測の事態はいくつ続いても不思議では無い。最悪の事態を常に想定した上で、行動するのが平坂のやり方だ。
この島自体の価値は、いずれ天文学的なものに跳ね上がる。
それを理解しているスポンサーを失望させないためにも、早めに行動をしておかなければならない。
しかし、どうやって剣の連中が、此処をかぎつけたのか。
或いは、内部に密告者がいるのかも知れない。国家百年の計を理解していない、勘違いした正義が、全てを台無しにしようとしているのか。
不快な話だ。
一時間ほどで、スポンサー達と話を付け終える。
追加予算についての目処はついた。
後は、作戦を、滞りなく実施するだけのことだ。
悪いことばかりではない。良い事もある。
剣のエージェントであるならば、なり損ないの性能実験としては申し分ない相手だ。最悪負けてしまったとしても構わない。
此処には丁度岸田を連れてきているからだ。その場で改良実験に取りかからせる事も出来るのだ。
通信が来た。黒鵜からだ。
「なり損ないを捕獲。 例のものを埋め込みました」
「被害は」
「不意を突いたので、損害は出ていません。 これから輸送し、投下します」
「気付かれないようにしたまえ」
空飛ぶ戦艦と言われるアパッチでも、地対空ミサイルの直撃場所が悪ければ、最悪落ちることになる。
頑強な耐久力を持つ機体だが、それでも絶対ではない。今までの実戦で撃墜された機体も、決して少なくはないのだ。
使用人に、紅茶を出させる。
ライブカメラで、状況が映し出される。捕獲されたなり損ないは、既に相当に成長している様子だった。かなりの戦闘力を見込むことが出来るだろう。
ただし、カムイになってしまったら、実験に用いるのは問題外だ。その場合のために、例のものを埋め込んでおく。
勿論、実験終了時にも用いる。
人間の味を覚えてしまったら、有害極まりないからだ。その状態でカムイにでもなられたら最悪である。
実際、此処ではなくて、今までに行われた予備実験で、大きな被害も出した。
紅茶を楽しみながら、実験開始の合図を送る。
不安要素が一つ取り除かれると思うと、実に面白い。
人命など、それこそどうでも良いと平坂は思っている。
ただ、滞りなく、自分が定めたとおりに物事が進めば、それが一番嬉しい。不確定要素が生じることも分かっている。
だから、それも排除する。
物事を予定通りに進めることが出来れば、それが最高の快楽になるのだ。平坂にとっては。
エージェントが配置につき、監視が開始される。
相手が実戦経験者で、過去の遺物とは言え戦車まであるとなると、大変に有用なデータが取れるだろう。
興味深いと、平坂は思った。
4、迫る闇の手
早朝、敦布は非常に嫌な予感を感じて、飛び起きていた。
何かとんでも無いものが近づいている気がする。交代で見張りにつきながら、研究所の一階奥の部屋で寝ていた敦布は、すぐに外に飛び出す。
外では見張りについていた雛理さんが、屋上に上がって、手をかざして遠くを見ていた。敦布に気付いたのか、振り向きもせずに言う。
「行成おじいさんを呼んできてください」
「やっぱり何かあったの?」
「ええ。 どうもおかしなものが、此方に近づいてきている様子です」
彼女がデザートイーグルとか呼んでいた拳銃を構えるのを見て、もうただ事ではないことが、明らかになる。
すぐに研究所に飛び込むと、エレベーターのくだりボタンを押した。何度も。
エレベーターが、来る。
最下層までスムーズに動く鉄の箱。だが、それでも今は、遅いと感じて仕方が無かった。どうしてこんなに焦っているのだろう。
一体何をこんなに怖れているのか、分からない。
あのアパッチという怖そうなヘリが攻めてくるのだろうか。それとも、もっと怖いものなのだろうか。
出来るだけ子供達は怖がらせたくない。
だが、小走りでお爺さんの所へ行こうとすると、寛子ちゃんが目を覚ましてしまったようだった。
「ジャージ先生?」
「寛子ちゃん、寝ていて良いよ。 所で、おじいちゃんは?」
「七階に行くって言っていました。 ……私、一階に行きましょうか?」
チハは、一人では動かせない。
行成おじいちゃんだけではなく、弾を装填する人と、大砲を操作する人が最低でも必要になってくる。本当は戦況を見る人がもう一人いるらしいのだが、それはもう、今は仕方が無い。
学者さんは、横になって寝こけている。
こんな時、勘が鋭すぎる寛子ちゃんのことが、煩わしく思えてしまった。寝ていて欲しいのに。
危険には、晒したくないのに。
「ごめん。 後から追うから、先に行っていて」
「分かりました。 先生、待っています」
治郎君は寝ている。それでいい。
最悪の場合、彼だけで生きていかなければならなくなる。その場合、寛子ちゃんのお母さんは、助からないだろう。
酷い話だが、追い込まれると、こういう思考もしてしまう。
それが溜まらなく嫌だった。
学者さんを起こして、上に。七階で一旦降りて、寛子ちゃんのお爺さんを探す。寛子ちゃんと学者さんには、先に行ってもらう。
寛子ちゃんはともかく、学者さんはこんな時にまで飄々としていた。何も怖れていないどころか、むしろ状況を楽しんでさえいる様子だ。
こんな図太さがあれば楽だったろうに。
行成おじいさんは、奥の方でロッカーをあさっていた。何をしているのだろうと思ったら、お爺さんは無言で取り出してみせる。
「まだ残っていた」
「それは?」
「防弾チョッキだな。 無いよりはマシだろ」
投げて寄越される。
無言で着込む敦布に、お爺さんは先に歩き出す。何も言われずとも、悟ったらしい。
エレベーターが戻るのを待ちながら、事情を話す。
聞き終えると、お爺さんは頷いた。
「一つ、良くない話がある」
「この状態で、更に、ッスか」
「ああ。 チハの燃料も、長くは保たん。 それに地下の空気が動かない場所で経年劣化を誤魔化してきたが、外に出して野ざらしになっている今、急速に錆の侵食が進んでいてな」
あまり長い事は動かせないだろう。
そんな悲しい事を、おじいさんは言った。
チハがいなければあの泥に飲まれて、一巻の終わりだっただろう。それを思うと、悲しくてならない。
やっと一階に出る。
外に飛び出すと、既に寛子ちゃんと学者さんが、チハに乗り込むところだった。
後で知ったのだが。
研究所に乗り込むとき、大砲を操作していたのは学者さんだったらしい。とても巧妙だった気がしたのは、何故だろう。
お爺さんも、無言でチハに乗り込む。敦布はチハの上に這い上がると、以前のように周囲を見回した。
手を振って、雛理さんに合図。
頷くと、雛理さんが叫ぶ。
「急いで出してください! もうすぐ其処まで来ています!」
何が来ているのだろうと思った瞬間。
まるで空気圧が、張り倒すかのような勢いで、襲ってきた。
それが咆哮によるものだと知ったときには。それは、既に姿を見せていた。
チハがバックして、それの姿が逆によく見えてしまう。
全体的には、アルマジロに似ている。だが、とんでも無く、桁違いに大きい。
多分熊よりも大きいのではないかと思わされる。何しろ、木々をへし折りながら、我が物顔に進んでくるからだ。
黒光りする巨体の前面には、おぞましいことに無数の目がついていた。顔らしいものは存在せず、代わりに縦に裂けた大きな口があり、其処から長い舌が覗いている。巨大な口は、人くらい簡単に飲み込めそうだった。
体には何か棒状のものが複数突き刺さっている。貫通しているようにも見えるのだが、どうして平然と動けるのか。
足は六本もある。しかも、形状は虫に似ていた。
発砲音。
屋上から、雛理さんが猟銃を撃ったのだ。二発、三発。立て続けに弾が巨大アルマジロの目を打ち抜く。
だが、潰された目が、瞬時に内側から生えてきた新しい目に、とって変わられる。
ぞっとした。
こんな生物、いるわけがない。
いたとしたら、それは。此処が、地獄である事の証左ではないのか。
化け物が走る。
チハよりも、雛理さんに狙いを定めたようだった。
雛理さんも、それで行動をむしろ取りやすくなったらしい。研究所の屋上から飛び降りると、近くの木に登る。二メートルほどの高さに達したところで、アルマジロの怪物が、追いついた。
体勢を低くして、アルマジロの怪物が、木に突進。
数百年は経ていそうな(それもおかしな話だが)巨木が、とんでも無い負荷に、悲鳴を上げるように軋んだ。
チハが砲塔を緩慢に旋回させ、怪物に狙いを定める。
だが、怪物は、その弾丸を、よけもしなかった。
耳を塞いだ敦布は、射撃の瞬間、怪物が此方に向き直るのを見た。
そして、怪物は。
その縦に裂けた口から舌を伸ばすと、鞭のようにふるって、飛来した砲弾をはじき飛ばしたのである。
虚空へ飛び去った砲弾が、どうしてか。
遙か向こうで、地面に落ちる音が、聞こえた気がした。
「ひ……!」
無理!
心が悲鳴を挙げる。
如何に骨董品とはいえ、戦車砲を防ぐ生物なんて、いるわけがない。多分肉食恐竜でも、喰らったらひとたまりもないだろう。
よく見たら、大きさだってチハ以上では無いのか。
舌を見せびらかすように揺らめかせながら、怪物は木にしがみつくと、揺らしはじめる。雛理さんは、最初の体当たりには耐えたが。このままでは、落ちるのも時間の問題だろう。心臓の鼓動が聞こえるほど、激しく動いている。
怖い。
それ以上に、絶望に心がわしづかみにされていた。
チハのエンジンが咆哮し、あろうことか怪物に向けて進み始める。
正気か。
目の前が真っ暗になりそうだ。だが、操縦しているのは、寛子ちゃんのおじいちゃんだ。間違うはずがない。
「隙を作るように言え!」
ハッチの中から声。
怪物が、面倒くさそうに、此方に振り返ろうとする。あの舌が、獲物に狙いを定めたかのように、ぴたりと動きを止めた。
「雛理さん! 隙を作って!」
叫ぶ。
木の上に避難したとき、雛理さんは銃を捨ててはいなかった。小脇に挟んでいた。
それを器用に振り回すと、雛理さんは発砲。
弾丸が、怪物の舌を貫く。
怪物の横を通り過ぎざまに、チハが発砲。
弾丸が、怪物の体を貫通、体の向こう側を爆裂させた。
だが、どうしてだろう。
そんなのを浴びれば、即死して当然なのに。怪物は不快そうに、チハへと振り返る。大穴が空いているのに、死ぬどころか、まだ余裕があるようにさえ見えた。
おかしいのは、それだけではない。
怪物の体から流れているのは、血ではない。
どす黒い、何かよく分からない液体だ。まるでタールみたいに粘性が強く。それに、あの匂いがした。
あの、泥が島を覆った日に嗅いだ、腐肉の匂い。
再装填と、寛子ちゃんのお爺さんが叫んでいるのが聞こえる。怪物は多足を撓ませると、走り出す。
こっちに来る。
チハの鈍足では、逃げられそうも無い。どう見ても、人間よりもずっと早いからだ。雛理さんが木から滑り降りると、二発、三発と発砲する。だが、怪物は目もくれない。やはり大穴を開けてくれた相手には、頭に来たからだろう。
悲鳴を上げる暇も無く。
怪物と、チハの距離がゼロになった。
とんでも無い衝撃。
振り落とされないようにするだけで、精一杯だ。
チハは二十トン近くあると聞いていた。最大級のアフリカ象の数倍であり、しかも平たい形状をしている。
それなのに、激しく揺さぶられた。
同格以上の戦車との戦いではないにもかかわらず、である。
装甲がひしゃげる音がする。
チハが、押される。
砲塔が旋回するが、途中で怪物に当たって止まる。まずい、死ぬ。
寛子ちゃんは。
中で、おじいちゃんが操作するのに必死で、構っている余裕は無い。助け出さないと。だが、寛子ちゃんは、敦布の視線に気付くと、首を横に振った。
おじいちゃんが冷静なことに、気付く。
まだ勝機はある、という事だろうか。
至近まで来た雛理さんが、怪物の巨大な傷口に向けて、発砲。二度、三度。
吹っ飛んだ血肉が、真っ黒なタール状の液体を迸らせる。怪物が五月蠅そうに体を揺すると、なんと傷口から触手が伸び、鞭のようにしなって雛理さんを吹き飛ばそうとした。間一髪避けるが、当たっていたら真っ二つだろう。
怖くて、体が凍りそうだ。
だが、雛理さんも、おじいちゃんも、必死に戦っている。それなのに。
何か出来ることは無いのか。
このままだと、寛子ちゃんも死ぬ。
みんな死んだら、治郎君だって助からない。
唇を噛むと、チハから飛び降りる。
見たのは、木の枝。
これでも、身体能力だけなら、自信があるのだ。
一抱えもある木の枝を抱え上げると、突撃。
怪物が振り返るより先に、傷口に、木の枝を抉り込んでいた。
流石に悲鳴を上げた怪物が、木の枝を抜こうと、触手を絡みつかせる。
チハがその隙に少し距離を稼ぎ、砲塔を旋回させた。
飛び退こうとした足首を、怪物に捕まれ、つり上げられる。だが、怪物が口を開けた瞬間、其処にチハが主砲を叩き込んでいた。
再度の直撃。
怪物の舌が吹っ飛び、背中の辺りが盛大に爆ぜ割れた。
敦布が、地面にたたきつけられるのはほぼ同時。
だが、此処までされてもなお、怪物は死なない。酷くダメージは受けているようだが、それでもまだ動いている。
チハの再装填はまだだ。
触手を伸ばして、砲塔を掴もうとする怪物。
雛理さんが無言で背中に這い挙げると、傷口に猟銃を突き刺し、ぶっ放した。
耳を塞ぎたくなるような、おぞましい悲鳴が上がる。
効いているけれど、何かが足りない。
まだ、怪物は止まらない。
全身穴だらけになり、血だらけにもかかわらず。
気付く。
怪物の左後ろ足。複数ある足の一番後ろ。
何か、見覚えがあるような気がするのだ。奇怪なアルマジロのような巨体を支える、太くて奇妙な足。
何にも、似ても似つかない筈なのに。
「お兄ちゃん……?」
いつの間にか。
治郎君が出てきていた。
寝ていたのに。誰もいないときには、絶対に上に来てはいけないと、前々から言っていたのに。顔を上げると、怪物が止まっていた。
そして、全身から、黒い血を噴き出した。
音として表記も出来ない、説明も出来そうにない悲鳴が上がる。
無数の触手が、怪物そのものを縛り上げる。
耳を思わず塞いだ敦布の前で、怪物はねじられるようにして、立ち上がり、全身の装甲を軋ませた。
チハの砲塔が、その時、火を噴く。
それがとどめとなった。
体に大穴を開けた怪物が、後ろ倒しになる。
地面に大量の黒い血がぶちまけられた。そして、しばらく痙攣していた。
まだ触手は動いていて、辺りをまさぐるようにしている。
震えが来た。
怖いからではない。
治郎君の言葉で、この怪物が、何者だったのか分かってしまったからだ。
涙が、溢れてくる。
どうして、こんな事になってしまったのだろう。
気がつくと、既に怪物は溶けてしまっていた。真っ黒な液体になり、地面にしみこんでいく。
この酷い匂いは、あの雨の日と同じ。
腐った肉、そのもの。
この黒い液体は何なのだろう。散々浴びてしまった敦布がいうのもおかしいが、これが諸悪の根源なのだろうか。
治郎君は何が起きたのか分からない様子で、立ち尽くしている。
痛々しくて、見ていられない。
だって、目の前で、怪物に変えられてしまったお兄ちゃんが、溶けて死んでしまったのだ。
あの足、見覚えがあると思った。
生徒の体の特徴、忘れるはずがない。足のすね傷と、全く同じものがあったのだから。
あんな特徴的な傷、見間違えるはずがなかった。
傷がついた経緯だって覚えている。サッカーをしているとき、キーパーだった彼が調子に乗ってボールをダイビングキャッチして、怪我したのだ。
幼い日の、ステキな思い出だった、その筈なのに。
目を乱暴にこする。
生徒の前で泣くわけにはいかない。此処が地獄になってしまったことは、随分前から分かっていたのだ。
現実感がなかった。
ここ数日はあまり怖い目に遭うことも無かったし、ひょっとしたらみんな生きているかも知れないと思ってしまっていた。
だから、現実を今目にして。
心が、軋んでいるのかも知れなかった。
チハから、寛子ちゃんのおじいちゃんが降りてくる。
可哀想に、チハの装甲は歪んでしまっていた。傷だらけになっていて、砲塔も酷い傷がついていた。
あの触手には、それだけのパワーがあった、ということだ。
「すぐに此処を発つ準備をしましょう」
雛理さんに、肩を叩かれた。
酷い顔をしている事は分かった上で、振り返る。
それで、気付く。
雛理さんも、ぼろぼろだ。そういえば、怪物の上に登って、銃で撃ったりもしていたのだ。無事で済むはずもない。
「あれはほぼ間違いなく、アパッチに乗っていた勢力が差し向けてきたとみて良いでしょう。 今後も此処にいれば、ほぼ確実に襲われます。 チハの消耗を見てください。 次は、支えきれないでしょう」
逃げ回るしかない、ということだ。
最悪の状況が、また到来する。
洞窟に逃げ込んだときと、同じくらいの絶望が、胸を覆っていた。
「少し、考える時間をくれる……?」
「知っている、人だったんですね」
頷くと、しゃがんで膝を抱えた。
生徒達の前だ。動かなければならない。明るく振る舞わなければならない。
どんな酷い言葉をぶつけられても、笑顔でいなければならない。
生徒達を不安にさせてはならないからだ。
でも、どうしてだろう。
子供達が大好きだから、みんなのことを思えば、いつも強くいられたのに。
今は大事だから、子供達を誰よりも敦布が守らなければならないのに。
涙が止まらない。
心の軋みを、抑えることが出来ない。
「準備は、私と行成おじいさんでしておきます。 先生は、あとから来てください。 崖下の密林へ逃げ込む算段を、今から取りますから」
ああ、やはり彼処へ行くしか無いのか。
食糧を手際よく、雛理さんが運び出し始める。子供達は呆然としているようで、敦布が動かなければならなかった。
何度も、深呼吸する。
自分の事なんて、どうでもいい。いまは、命を賭けても。
二人しか生き残らなかった、自分の生徒達を守るのだ。
場合によっては、怪物になってしまった、自分の生徒からも。
「寛子ちゃん、治郎君、荷物を運び出そう。 大丈夫、きっと何とかなるから」
「先生……私、怖いよ」
寛子ちゃんが、広がっていく黒い亡骸を見て、呟いた。
分かっている。
こんな風に、子供達を不安にさせてはならないのだ。だから、その分は、敦布が頑張るしかない。
なだめながら、物資の運び出しを手伝いはじめる。
時間との勝負だと言う事は分かっている。
怪物がまた来る前に、此処を離れなければならないのだ。チハも、もう一度の戦いには、耐えられないだろうから。
敦布は、青い空を見上げる。
頼れる者なんて、誰もいない。
戦況を観察し終えた黒鵜は、何ら感情を動かさないまま、レポートを書き上げていた。
歴戦の傭兵に、実戦経験者の老人。
それに第二次大戦でも、下位に入る戦車だったチハ。後は一般人が何名か。
これだけの戦力があれば、なり損ないの撃退は可能だと言う事が分かった。これからは、そのデータを数字化して、具体的な分析を行う必要があるが。
「ターゲット、移動を開始しました。 追撃しますか」
「捨て置け。 不確定要素を残すのが、プロフェッサーの意思だ」
「了解。 なりそこないの回収と、分析を行います」
部下と会話を、実際にはしていない。
良いように喋らせているだけだ。実際には、平坂とさえ、黒鵜は会話していない。
コミュニケーションなど、定型句の集まりに過ぎないと、黒鵜は考えている。所詮は全て組み合わせで、其処に心など存在しない。
というよりも、多くの人間は、相手に心など求めていない。
自分に都合が良い行動を取ることだけを要求している。
子供の頃は、黒鵜も妄想を抱いていた。
人間社会では、心のあり方が重要だと。漫画などを読めば、そう感じる事も多い。
だが実際に社会に出て、心なんぞ欠片も求められておらず、実際には見た目と定型句だけが全てだと知ったとき。
黒鵜は、他人に対して壁を作る事を決めたのだった。
一旦戻ると、成果をレポートにして提出する。
此処から、地獄の第二幕が始まる。
平坂の遊びにつきあうのもまた一興。平坂は鬱陶しい定型句と面倒くさい格好の調整を求めてこない、良い上司だ。
だから、今まで何度も命を守ってきた。
自分にとって、都合が良い存在だからである。
アパッチが飛び立つ。
飛ぶ戦艦と異名を持つ世界最強の戦闘ヘリは、密林の上で、獲物を求める猛獣のように、鋭い音を立ててキャンプへ向かった。
(続く)
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