島を覆う闇
序、黒の帳
既に学校が化け物達の造り出した檻に等しいことは、如何に敦布の頭が残念な出来でも、一目で分かることだった。
結局、学校に避難してきていたのは二人だけ。
一人は屋上で敦布が見つけた治郎君。小学校二年生に相当する子だ。虫が好きな、これと言った特徴がない子だ。虫についてはそれなりに知っているが、小学校レベルを越えてはいない。
敦布も昔はおてんばだったので(今でもだが)、虫については苦手でもないし、むしろ好きだ。カブトムシなんかの善し悪しは分かるつもりだし、取り方だって並の男の子には負けないくらいは習熟している。
だから分かる。
この子は、ここから先、どうにか守っていかなければならないのだと。
もう一人は、地下室に隠れていたところを、雛理さんが見つけてきた。
青白い顔をした、やせ形の老人だ。見覚えがある。島の外れに住んでいる、変わり者だという学者さんだ。
この島に来たのは、専攻のアンボイナの研究について、だそうである。
家にはたくさんアンボイナを飼っていて、中にはかなり珍しい種類もいるのだとか。
雨が激しい内に、脱出しなければならない。
もしも視界が晴れてしまえば、此処は文字通り、まな板の上。後は料理されるのを、待つばかりになってしまうのだ。
「裏手の見張りはごまかせそうにないですね。 行きと同じ方法で、脱出します」
「怖いよ、先生」
「大丈夫」
「布を噛んで。 貴方たち三人とも」
無言で首を横に振る学者さん。
それでも、雛理さんは、布をぐっと差し出した。
「訓練を受けていなければ、どうしても悲鳴を上げてしまう事態があります。 そうなると、皆が危険にさらされます。 気持ち悪いかも知れないですが、口に入れてください」
「いやだ」
意固地なお爺さんである。
しばらく押し問答が続いたが、まずい事に、雨が少しずつ弱まってきている。
ためいきをつくと、雛理さんが、窓を音もなく開けた。
最悪なことに、夜明けまで、四時間を切っている。
外をうろついている怪物達が、昼間にどれくらい活動できるかは分からない。だが、昼間に身動きをしなくなる、などという保証はどこにもない。
雛理さんが言っていたことだ。説得力がある。
窓を開けた。
雨が吹き込んでくる。もうこの学校に入ることは、多分無いだろう。流石にこれ以上後に、学校に逃れこれる人がいるとも思えない。
ただ、机の上に、メモは残した。此処にいても助けは来ないから、出来るだけ別の場所に隠れるように、と。
土砂降りが、徐々に弱くなってきた。逃げるなら今だ。
またジャージがぐしょ濡れになる。嫌だなあと思いながら、敦布は治郎君の手を引いて、窓から出た。
文字通り、滝のような雨。
最後に出てきた学者さんが折りたたみのかさを出そうとしたので、流石に雛理さんが噴火しかける。必死に学者さんをなだめて、かさをしまってもらった。学者さんは他にも、多分論文を入れているらしい鞄を、絶対に手放そうとはしなかった。
手を引いて、小走りで、身を低くして行く。
木立の陰まで逃げ込んだら、近くの民家の塀の影に逃げ込む。後は少しずつ、海岸線に向けて逃れていく。
最悪、誰かの家の中に潜む手もある。
ただし、他の人の家の中には、怪物がお邪魔している可能性も、考慮しなければならないだろう。
もうこの島は、人の領土ではない。
そう考えた方が、良いのかも知れなかった。
雨脚が弱くなってくる。
今のところ、怪物は何度も見かけるが、気がつかれてはいない。しかし、思ったよりもずっと機敏に言うことを聞く治郎君よりも、学者さんがずっと危なかった。怪物に興味津々で、覗き込もうとしたりしたのだ。
このままだと、或いは。
何度も雛理さんが頭から角を生やしそうになっているのが見て取れた。
「港に出ないか?」
海岸がやっと見えたところで、学者さんが言う。
雛理さんが、首を横に振った。
「南の洞窟に、取り残されている人がいます。 まずは彼らと合流します」
「そんなの、どうでもいいだろ」
「なっ……」
一人でも港に行きたいと、学者さんは言い出した。
遠くで、けたたましい鳴き声が挙がる。
学校の方だ。
恐らく、開けっ放しにした窓が、見つかったと判断して良いだろう。怪物の動きが活発になるのが、露骨に分かった。
家々の屋根を飛び交いはじめる。
羽が生えているわけでもないのに、跳躍力だけで、家の屋根にまで上がっているのだ。かなりとんでも無い。カンガルーでも彼処までは跳べないだろう。
ぎゅっと治郎君がしがみついてくるのが分かった。敦布だって怖い。
だが、此処は、先生がしっかりしていなければならない。
「港はあの様子では、厳重に警戒されますよ。 逃げられると思いますか?」
「わ、私も、そう思うッス。 まずは南に行って、怪物が静かになるのを待ちましょう」
「……」
舌打ちした学者さんが、大事そうに鞄を握りしめた。
この研究は、世界一大事なものだ。そう学者さんは、ぶつぶつと呟いていた。
怪物が飛び交いはじめたので、しばらくは身動きが取れない。家の中を覗き込んだり、何か奇怪な声を上げてコミュニケーションを取ったりもしている。
やはりあの怪物達は、相当に知性が高い。
見つかってしまったら、一巻の終わりだと思って良いだろう。
雛理さんが村田銃の再点検をする。
見つかったら、その瞬間に撃つ気なのだろう。この島に来てから、一度猪狩りをするのを見た事があるが。
あれはとても恐ろしいものだった。
猪でさえ、あれだけ恐ろしいのだ。怪物とは言え、等身大の存在を撃ったりしたら、きっと心に傷が残ってしまう。
その瞬間だけは、治郎君に見せないようにしなければ。
それが、先生として、今できる唯一のことなのだから。
視界から、怪物が消えた。
雛理さんが手を振って、来るように告げてくる。
隣の家の、塀の影に移る。
最悪なことに、明けの明星が出始めていた。雨も既に上がっている。もしも怪物が近くに来たら、高い確率で発見されてしまうだろう。
やっとおひさまの加護が戻ってきたというのに。
心が、まるで晴れることがない。
まもなく、日の出の筈だ。
下手をすると、その場で丸一日、動きを止めなければならないかも知れない。
1、奥底の地獄
寛子は、おじいちゃんが言うまま、もしも怪物が来たときの準備を整えていた。
洞窟の奥は、地元の人間でも把握し切れていないほど複雑な迷宮になっているという。だが、その一角だけは、おじいちゃんも知っているのだとか。
理由は教えてくれなかった。
様子を見る限り、おじいちゃんは、この奥のことを本当に知っている。それも、いざというときは此処に逃げ込めば何とかなると、確信できるほどには。
小さいとき、此処で真っ暗闇の中に放置された経験がある寛子としては、あまり長居はしたくない。
だが、怪物達の真ん中に出るわけにも行かない。怖いのを我慢して、此処に居続けるしかなかった。
母はずっと静かにしていて、もう文句を言おうともしない。
あまり好ましくない状況だと、きっと理解できているのだろう。それだけで、寛子は充分だとも思う。
おじいちゃんが銃の手入れを終えて、立ち上がる。
「遅いな、娘っ子ども」
「あの人、雛理さんって、おじいちゃんの知り合い?」
「ああ。 前にくだらん諍いごとがあってな、島から追い出された家の娘だ。 ニエの一族の一人だな」
そういえば、聞いたことがある。
村の大人達が、そんな話をしていたことを。
おじいちゃんは参加しなかったのだが、以前は村の平穏を保つために、ニエと呼ばれる一家を作っていたのだという。
そのニエには、何をしても良い。
そう言う決まりがある事で、閉塞した島の安全が保たれたのだとか。
とんでも無い風習だが、なんと平成まで残っていたのだそうである。
だが、あるとき、ニエの一家が、国に告発文を送った。島の駐在は買収されていたから、本土の警察に、である。
それで警察が来た。
ここぞとばかりに、ニエの一家は、今までの悪事の証拠を、警察に突きつけた。彼らがため込んでいた怨念は尋常では無く、証拠は相当量があった。一族の中には、村人の憂さ晴らしのために殺されたりしたものもいた。ニエの女性達は、酷い仕打ちを受け続け、男性の性欲のはけ口にされ続けた人もいたという。
それらの非道を立証する証拠も、山ほどあった。
逮捕者が十人以上出た。死刑になった村人もいたという。当然大事件に発展し、連日新聞を賑わせたのだとか。
だが、それでニエの一族と、他の村人達が、融和するわけもない。
ニエの一族は、復讐を果たすと、村中の冷たい視線の中、さっさと引っ越していったのだという。今までは、引っ越しすることさえ許されなかったのだとか。だが、これで彼らは自由になることが出来た。
面白くないのは、斑目島の住民達である。
ニエがいなくなって、確実に村の治安は悪くなったと、老人達は愚痴をこぼしていた。立証できるものがなかったから、犯罪者にならずにすんだものだっていただろうに、身勝手な言い分である。
酷い話だと、寛子は思う。
だが、大人達は、ニエの制度に、皆好意的だったのだ。
それがまた、信じられなかった。
おじいちゃん子だったのは、そんな酷い風習を、両親までもが支持していたことが、理由の一つだったかも知れない。
実際母は、もっとも酷くニエの一族に当たっていた一人だという。
そういえば雛理さんは、一度も母と目を合わせなかった。
バリケードが出来る。
具体的には三重の構造になっている。最初のバリケードを放棄したら、後ろに下がる。そうすると、飛び込んできた相手を、三方向から狙い撃ちに出来るのだという。
おじいちゃんがくみ上げたバリケードは、とてもしっかり作られていた。寛子は石を運んだだけだが、それでも役に立てて嬉しかった。
後は、助けが来るまで、どう待つか、だ。
それとも、どう逃げるか、だろうか。
おじいちゃんは、何か逃げるための秘策があるのだろうか。だとすると、どうしてすぐに実施しないのだろう。
酷く降り注いでいた雨が、止みはじめる。
そろそろ日の出だ。
洞窟の中は、妙に湿気が少ない。海洋洞窟と一部がつながっているにもかかわらず、である。
ちなみに、海に面した部分は崖状になっていて、最初から柵が植え込まれている。仮に怪物達が攻めてくるとしても、事前に察知することも出来るし、上から岩を落とせば、子供でも撃退できる。
おじいちゃんがバリケードに寄りかかって、目を閉じる。
寝ているのではないだろう。
感覚を研ぎ澄ませて、怪物が来たとき、即座に対応できるようにするためだと、寛子は見た。
しばらくして、雨が晴れる。
そして、太陽が昇りはじめた。
おじいちゃんが、立ち上がる。
寛子についてくるように言った。母については無視である。母も、横になり、ぼんやりとくつろいでいるようだった。
外に出ると、島の様子は、一変していた。
まず、島の地面の色が、違ってしまっている。
昨日までは、雑草が緑なし、そうで無い場合はアスファルトの灰色が広がっていたのだが。
今では、どす黒い、いや紫色の地面が、どこまでも広がっている。
雑草は見られない。
アスファルトは何年も経ったかのようにひび割れていた。そして、割れたアスファルトの間から顔を出しているのは、見た事も無い奇怪な植物の群れである。
それだけではない。
怪物は、いなくなってなどいない。
どういうことかは分からないが、日光の下でも、シルエットしか把握できない。ニンゲンに近い形をしているけれど、ニンゲンでは無いという事は、一目で分かる。だがそれ以上でも以下でもない。
何か、得体が知れないものが、動き回っている。
そうとしか認識できないのだ。
まずいのは、出かけていった雛理さんたちだ。これでは戻ってくるのが一苦労だろう。夜闇に紛れて、という手が使えないからだ。
「昼間のうちは、戻ってこられないとみた方が良さそうだな」
戻るぞと、おじいちゃんは言う。
確かにその方が良さそうだ。此処に逃げ込んでいる人がいると知られるわけにはいかないし、最悪の場合二次遭難になってしまう。
中学生になっているのだ。
寛子にだって、それくらいの判断は難しくなかった。
勿論ジャージ先生は心配だが、あのしっかりした雛理さんが側にいるのだ。きっとどうにかなるはずである。
夜の内に、コンビニに行ければ。
そうすれば、少しは食料が得られる。幸い海に釣り糸を垂らせば、魚を確保するのは難しくない。
夜を狙って魚を炙っておけば、食料だけには困らないだろう。
どうしてなのか、今の時点では、怪物達は海の洞窟の側には近寄ってこないようだ。それならば、今のうちに、休んでおくのが一番だろう。
洞窟に戻ると、開口一番に寛子は言った。
「おじいちゃん、見張りをしてるから、少し休んで」
「そうか、すまねえな」
如何にまだ足腰はしっかりしているとは言え、おじいちゃんも年だ。
寛子が見張りをする横で、すぐにごろんと横になって、眠りはじめた。
テトラポットの影に隠れて、ようやく一息つくことが出来た。
お日様が上がってからは、生きた心地がしなかった。
どうにか怪物達の隙を見て、海岸線まで逃げ込めた。問題は此処からだ。テトラポットを伝って、五百メートルほど南下したのだが。
防波堤の上には、怪物がいる。しかも、結構な数。
雛理さんが言うには、巡回の隙は見えないという。つまり、波しぶきを被りながら、夜まで我慢しなければならない、ということだ。
意外に学者さんは、鞄を抱えていられれば平気らしく、無言で耐えている。まるで彫刻みたいな静かさで、息をしていなければ人間では無いと思ってしまったかも知れない。
治郎君は疲れが出たのか、静かに眠っている。無理もない話だ。さっきから、大人で体力に自信がある敦布でも、眠くて仕方が無いのだから。
テトラポットの影に隠れてから、全員小用は一度ずつ済ませた。波の音に紛れて、上には聞こえていないと思う。
もうジャージはぐしゃぐしゃだし、何時からか、着替えがないことは気にならなくなり始めていた。
それにしても、不思議なのは、怪物達だ。
お日様が出て、日光の下にいる筈なのに。どうしてか、全く姿が見て取れないのである。輪郭は分かる。
だが、それでおしまいなのだ。
人に似ていて、人とは違う。それしか分からない。
目を閉じている雛理さんに、布を取って良いか聞こうとして、止めた。
寝息を立てているのに気付いたからだ。恐らく、今のうちに寝ておこうと思ったのだろう。
雛理さんも人間だと確認できて、少し安心した。
そのまま敦布も、その場で少しうたた寝する。隣にいる治郎君も、敦布に寄りかかったままだ。
しばらく、そのまま無心に休む。
幸せな夢は、昔からおなかいっぱい食べる夢だった。
今は、少し違う。
生徒達がみんな無事で、この魔界とかしてしまった島から脱出できること。それだけが、敦布の願いだった。
でも、その願いは、叶いそうにない。
何となく分かるのだ。他の子供達は、きっと。もう。
眠っている治郎君に波が掛からないように、位置を少しずらす。
治郎君は、問題のある親の下で、苦労している子だ。一人遊びばかりしていると聞いているし、両親は学力の高い兄の事ばかり見ていて、弟に全く構わない。将来非行に走るのでは無いかと、不安で仕方が無い。
こんなちいさな子に、実の親さえも構わないという現実があるのだ。
しかし、そうなるとおかしな事もある。
この子の兄である一幅(いちの)くんは、中学校を出たら本土の高校へ行くことが確定している。
それだけかわいがっている一幅くんは、どうして今回の件から、逃れられなかったのだろう。
おかしな事は、まだある。
寛子ちゃんの家は、島の端とは言え、何故怪物達の襲撃から逃れられたのか。
というよりも、だ。
そもそも、襲撃はあったのか。
ここに来る前に、いろんな家を見てきた。
しかし、窓や戸が破られている家は、殆ど存在しなかった。というよりも、見ている範囲ではなかった。
それだけではない。
死んでいたのは、チロだけだ。犬は他にもたくさん飼われていた。あんな怪物が一杯出たら、どうして激しく吼えなかったのか。
敦布は頭が悪いから、おかしな事には気づけても、どうしてそうなのかはよく分からない。
雛理さんなら、分かるのだろうか。
しかし、状況になし崩しに来てしまったが、本当にこのまま洞窟に逃げて良いのかという疑念もわいてくる。
あっちには寛子ちゃんがいる。
だから、寛子ちゃんと合流するためにも、戻らなければならない。それは分かっているが。何だか腑に落ちないのである。
ぼんやりとしている内に、おなかがすいてきた。
ご飯を食べたい。
波はだいぶ緩やかになってきている。それは海に落ちても助かる可能性が出てくると同時に、怪物がテトラポットを覗き込んでくる畏れが生じてくる、とう意味でもある。
おなかが鳴る。ひもじい。
チョコは昨日のうちに全部食べてしまった。
かといって、コンビニなんかは怪物が徹底的に見張っているに決まっている。最悪お魚ばかりを食べて過ごすことになるかも知れないと思うと、憂鬱だ。
雛理さんが目をこすって、体を起こす。
そして、防波堤の上を覗いてきたが、すぐに戻ってくる。
首を横に振ると言う事は、上にいるという事だ。
身動きが完全に取れなくなった。このままだと、下手をすると此処で餓死することになってしまう。
布を取って良いと言われたので、気持ち悪い布をはき出す。
ただし、気持ち悪いのが直るのを、待ってはくれない。
「少し移動しましょう。 もう少し南に」
「でも、其処は確か、テトラポッドが」
「賭になりますが、他に方法がありません」
もう少し南に行くと、テトラポッドがない、岩場の地帯に入る。
当然のことながら、アンボイナがうようよしているので、地元の人間は絶対に、ぜーったいに足を踏み入れない。文字通りの自殺行為だからだ。波も高くなるし、岩も濡れている。
確かに、防波堤からは死角になる場所も多い。
だがそうだとしても、危険度が高すぎる。
「夜まで待ってから……」
「夜になったら、上の怪物達が、どいてくれると思いますか?」
思えない。
学者さんは、さっきから会話に加わる事無く、黙々と鞄をなでなでし続けている。
まるで愛娘をかわいがるような動作だ。
「貴方の意見は?」
「好きにすれば良い」
「それは貴方を囮にして、私達で逃げても良いという意味ですか?」
さすがにむっとしたのか、雛理さんが言うと。学者さんは鞄をさする手を止めて、答える。
「夜まで待って、警備が薄そうな所を突くという手は?」
「使えません」
即答する雛理さん。
彼女によると、もう北の方は、守りが厚すぎて、抜けられる状態ではないという。
明るい日差しの下でも、怪物達は動きを止める気配がない。
「ならば、危険を冒しても行くしかあるまいて」
「決まりですね。 アンボイナに刺されたら、助けるすべはありません。 気をつけてください」
治郎君を起こすと、また布を口の中に入れる。
反論はしたい。
できるだけ治郎君を危険にさらしたくないからだ。
だが、理論的には、どう考えても雛理さんが正しい。治郎君は震えているが、恐怖からではなく、寒いからだろうと思いたい。
口に布を入れているから、もう喋れない。
黙々と、暗くなり始めた空の下を歩く。洞窟まで逃げ込めば、ひょっとすればご飯にありつけるかも知れない。
そんな願望を、胸に抱きながら。
やがて、テトラポットが抜けて、防波堤もなくなる。
その辺りにも、怪物はいた。やはり人間がうろついていると、認識しているとみて間違いないだろう。
本当に、どんな存在が統率しているのだろう。
テトラポットの影から、海の上に突きだしている岩場へ抜ける。
見られていない。雛理さんの次は、敦布が。
これでも運動神経は良いのだ。子供を背負って跳んだり跳ねたり位、造作もない。結婚して子供が出来たら、何人でも背負って抱えて外に行くつもりだ。ベビーカーなど使う気は無い。問題は、そんな相手がいないことだが。
岩に張り付くようにして、行く。足音が何よりも怖い。
岩場には、危険な生物がいくらでもいる。潮だまりにはアンボイナの他にも、鋭い棘を持つウニや、毒の針を隠し持つ魚が無数に生息しているものだ。
本土の海辺は子供達も遊べる楽しい場所だが、この島での潮だまりは違う。
滑らないように気をつけながら、岩場を行く。所々では、身を低くして進まなければ、死角から外れてしまう。
当然、もろに波を被ってしまう場所も出てくる。ちいさな悲鳴を治郎君が挙げた。波に浚われないように、必死に岩にしがみつく。
「もう少しです。 頑張って」
先を行く雛理さんが、手招きする。
手を掴まれ、引っ張られた。意外にも平然とついてきていた学者さんを岩陰に引き込んで、一旦休憩。
カニが、岩を這っている。
フジツボが辺りにはびっしり。そろそろ、日が暮れる頃だ。もしも怪物が探索に力を入れるとしたら、今ではないのだろうか。
島の方から、恐ろしい叫び声が聞こえる。
怪物達のもので間違いないだろう。この島に来て三年経つ敦布だが、あんな声は聞いたことがない。
動物のものでは無いことだけは確かだ。
「少ししたら、此処から南下して、一気に洞窟の下の海に出ます。 其処からは、岩を二メートルほど上がって、洞窟に入る場所があります」
やたら詳しいのは何故だろう。
雛理さんはこの島の出身らしいが、それにしても詳しすぎる。こんなルートを、どうして知っているのだろう。
途中、何カ所かで水没していた。
胸の辺りまで、海水が来ている。流れもかなり速い。こうなってしまうと、完全にヤケだ。
行くしか無い。
水もそろそろ、冷たくなってきた。
此処が九州の南にある離島で無ければ、凍死していたかも知れない。
完全に陽が落ちた頃、南の洞窟のバリケード前に辿り着く事が出来た。大きく迂回して崖の下を通り、何度も足を踏み外しそうになりながら、必死になって辿り着いたのだ。
洞窟の奥の方で、たき火をしている。
そのままだと一酸化炭素中毒になりかねないが、この洞窟はかなり立体的に広がっていて、風も吹き込んでいる。だから問題は無い。
服を脱いで、毛布を被った。
毛布があったのは、奇跡に近い。ただ、おかしな事を、寛子ちゃんが言う。
「この毛布、おじいちゃんが持ってきたんです」
「へ? どこから?」
「知りません」
治郎君は安全なところに来たからか、ずっと眠っている。
学者さんは寛子ちゃんのお爺さんとしばらく話していたが、それが済むと、眠いと言い残して奥の方に歩いて行った。最後まで、絶対に鞄から手を離すことはなかった。本当にあの鞄、何が入っているのだろう。
「ジャージ先生、大丈夫ですか?」
「大丈夫大丈夫。 鍛え方が違うから」
「良かった。 治郎君だけでも、助かって良かったです」
「……」
なんとなく、その言葉だけで分かる。
寛子ちゃんは、みんなが生きている事を、もう諦めている。
無理もない話だ。こんな状況で、生き残りがいると思える方が、おかしいとみて良いだろう。
それに、あの怪物達。
島中を徘徊していた。きっといずれ、此処にも現れるはずだ。
そうなったとき、どうすれば良いのだろう。
面と向かって立ち会ったときの、あの殺気というか恐怖というか、本物だった。雛理さんと寛子ちゃんのお爺さんが銃を持っているとして、それで通用するだろうか。撃ったとして、倒れてくれるだろうか。
大体、こんな所に立てこもっていても、活路があるとは思えない。
心がしゅんとしているからか、どんどん悪い方向へ、心が落ちて行ってしまう。
頬を叩いて、気合いを淹れ直す。
怖いのは、みんな同じだ。
生徒達のためにも、此処で敦布が頑張らなければならないのだ。
服が適当に乾いたところを見計らい、バリケードの側で村田銃を抱えて、横になっている雛理さんの所に行く。
雛理さんは半身を起こすと、辺りを見回した。
どうやら、うたた寝をしていたらしかった。
「何かありましたか?」
「雛理さん、私に何か出来る事は無い?」
「ええと、ジャージ先生と呼べば良いですか? それとも敦布さん」
「それなら……」
ジャージ先生と呼んで欲しい。
というのも、敦布という呼ばれ方が、ずっと悪意の籠もったものだったからだ。
島の人達からは、役立たずとか穀潰しとか言われ続けた。寛子ちゃんのお母さんも、さっき穀潰しとストレートに呼んできた。
そのほかの人も、大体名前で呼ぶ。
だが、そうされたとき、良い印象を受けたことが、全く無いのである。
一方、子供達は、敦布をジャージ先生と呼んでくれる。最初は揶揄も籠もっていたが、最近はその呼び方に、信頼を感じていた。
「分かりました。 ジャージ先生、貴方は見かけよりもずっと頼りになります。 治郎君は貴方を信頼しているのが、見て取れました。 貴方がいなかったら、治郎君を守り通すことは、出来なかったでしょう」
しらけきった目で、寛子ちゃんのお母さんが、此方を見ていた。
きっと、酷いことを考えているのだろう。背負ってきた治郎君を見た時、そんな子供や老人に食べさせる食料なんてないんだけどと、言ったほどなのである。
多くの大人の女性は、子供が好きなのでは無い。
自分の遺伝子を引き継いだ子供が好きなのだ。ましてや、男性はもっと遺伝子を受け継いでいない子供に対して冷淡。そういう大人が、再婚相手の子供を虐待して、死に至らしめたりする。
そんなものだ。
大なり小なり、多分人間だったらそんな要素がある。実際に人を傷つけたりしなければ、目をつぶるべきではないかと、敦布は思っている。少なくとも、これ以上嫌われないようにするには、そうするしかない。
大人には、同じ目線で話をすれば分かってくれるという、子供に対するやり方が通用しないのだ。
敦布は子供のようなとか、よく言われる。
自分でもそれは分かっているから、腹を立てることはしない。
「これからは、子供達も必要な存在になってきます。 労働力はいくらでも必要だし、何より観察力が優れているから、敵の早期発見も出来ます」
「それで、私は?」
「子供達が騒いだりしないように見張ってください。 後は食糧の確保。 出来るだけ静かに、釣りをしたり岩場に降りたりして、食べられるものを集めてください。 岩場に降りるときは、アンボイナに気をつけて」
「うん、分かった!」
良かった。それなら、敦布でも十二分に活躍できる。
乾いたジャージを着込むと、寝ている治郎君はそっとしておいて、寛子ちゃんに声を掛ける。
治郎君は目が届くところにいて貰わないと困る。
そして、食料の確保。
トドみたいに寝転がっている寛子ちゃんのお母さんには期待しない。お魚やカニさんを捕まえて、火を使って焼いたり煮たりして、或いは乾燥させて、長持ちするように加工するのだ。
出来る事を、一つでも良いからしよう。
そう、敦布は思った。
2、絶望の海
地獄が始まってから、三日目が来た。
雛理が見張っている間に、行成お爺さんが洞窟の奥に行く。以前打ち合わせた、脱出のための切り札が、其処にあるからだ。骨董品としか言いようが無い存在だが、それでも、兵器が相手でなければ突破の重要な戦力になる。
ジャージ先生は子供達をよく見張って、魚を釣り上げたり、貝を拾い集めてきていた。意外なのは、学者さんである。
貝を見ては、即座に有毒、有害なものを判別。
元はアンボイナの研究のために来ていたという事だが、それが理由かも知れない。貝に相当に詳しいとみて良いだろう。
魚もかなり豊富に釣り上げられていて、食料はどうにかなりそうだ。
問題は、水と、そのほかの生活物資。何よりも、奴らが来たときの対抗策となる、鉛玉の確保だ。
行成お爺さんが持ってきた村田銃の弾と、猟銃の弾は、合わせて百五十発ほど。どちらも猪狩りには充分な破壊力がある。速射性には問題があるが、あの怪物が常識的な生命力の持ち主であれば、倒すことは難しくないだろう。ただし、其処まで楽観はしていない。あくまで、ここに来た場合は、切り札を使うときだと考えた方が良いと、雛理は思っている。
そして雛理が持ち込んだデザートイーグルと弾が二百。これ以上大きな銃器は、色々と問題があって持ち込めなかったのだ。デザートイーグルは強力な拳銃だが、訓練をしっかり積まないと扱えるような代物ではない。銃の所持免許を持っている行成おじいさんでも、扱うのは無理だろう。
そもそも、今回は早期警戒の目的で島を訪れた。一旦撤退してから、本土に連絡して、それから本気での任務達成のために来るつもりだった。当初は、一人で事に当たる気は無く、最低でも味方を十人は連れてくる予定だったのだ。
それなのに、相手の動きが、予想を遙かに超えて速かった。
見通しが甘かった雛理の責任だが、しかし。
いまはそれを嘆くよりも、動かなければならない。
行成お爺さんが戻ってきた。
整備は彼にしか出来ない。現地にあるものを何でも利用するように訓練を受けている雛理だが、流石にあれは古すぎて無理だ。
「どうですか、整備の状態は」
「まだしばらく掛かる。 俺は向こうに行きっきりになった方が良いかもしれねえな」
「しかし、そうなると、いざというときに」
「分かってる。 火力が足りないっていうんだろう」
腰を下ろすと、黙々と行成お爺さんは、銃の手入れをはじめる。
今の時点で、怪物は来ていない。バリケードの方にも来ないし、そもそも洞窟に興味が無い様子だった。
これは或いは、ひょっとして。
しかし、甘い見通しは怪我の元だ。
何より、見通しが甘かったから、今窮地に陥っているのだから。
もしも、此方に怪物が来なければ、着々と撤退の準備を進めることが出来る。だが、そう甘い話がある筈もない。
敦布さんが、子供達と、魚を釣り上げて戻ってきた。
子供を任せると、彼女には安心感がある。ただの役立たずで足手まといにしかなり得ない子供達が、しっかり食料の収集で戦力になっている。
むしろ、横になって転がって、文句ばかり言っている寛子ちゃんの母の方が、今は使い物になっていない。
それに、あの女には、色々と思うところがある。
未だにニエの一族であった頃の事は、よく覚えている。最も熱心に迫害をしてくれた一人の上に、未だにあれが正しかったと思っているような奴など、死んでしまえば良いのである。
すさんでいると、自分でも分かっている。
だが、思うことだけなら勝手だ。
実行には移さない。いざというときに、見捨てるかも知れないが。
「休憩どうぞ。 見張りは引き受けますから」
「ああ、分かった」
行成お爺さんが、奥に行って横になる。
ぐーぐーいびきを掻いている女を横目に、お爺さんはたき火の側で、猟銃を抱えたまま横になった。
まあ、あの程度のいびきだったら、外に聞こえることもないだろう。
今は、休めるときに休んでおかなければならないことは、事実なのだ。
「それにしても……」
思わず、口に出して呟いてしまう。
政府が何かしていることは分かっていたが、こうまで急な展開が来るとは。本当に、一体何が起きているのか。
そもそも、陽光の下でも姿がはっきり視認できないというのは、どういうことなのか。米軍が開発しているステルス技術は日進月歩だと聞いているが、それとはまた違うとしか言いようが無い。
それに、あれはどう考えても人間では無い。
最初に考えたのは、チンパンジーをベースにした生物兵器ではないか、という事だ。チンパンジーは凶暴な上に知能が高いし、コントロールさえ出来れば生物兵器としてはうってつけだ。
しかしそれにしては、幾つかおかしい点がある。
殺されていた人間が殆ど見当たらない、というのがそれだ。
チンパンジーは肉食性の傾向が強く、人間の皮を剥いで食ったという報告例が幾つかある。群れで小型の猿や他の群れのチンパンジーを襲い、喰う習性も持っている。
もしも島中に放されていたら、今頃は地獄絵図になっていただろう。
しかし、むしろ島は静かなままだ。人間だけがいなくなっている。家の中には、鍵が掛かったまま、中の人間だけが消えた例さえもあった。
もう一つ考えられるのが、人間を丸ごと飲み込んでしまうような怪物がいるパターンだ。
だが、これも考えにくい。
丸ごと飲み込むにしても、どうしても抵抗する者は出てくるはずだ。島は怪物の手に落ちるとき、あまりにも静かだった。
此処にいる数名を除くと、島の人々は。
あまり考えたくない可能性が、此処で生じてくる。
此処にいるメンツからして、その可能性は決して低くない。だが、仮説に過ぎないから、まだ口には出したくない。
しかし、この仮説は。あまりにも、裏付ける状況証拠が多すぎるのだ。
更に気になることが、一つある。
ひょっとして、政府の。正確には、この国の政府においても根を張っているあの連中の手先の。
実験は、今のところ。
上手く行っているのでは無いのだろうか。
魚が焼き上がったようなので、たき火の方へ行き、バリケードを見つめながら口に入れる。
焼き上がったばかりの魚は、骨など気にならない。そのままバリバリと食べる。とても柔らかくて、そして美味しかった。
「ジャージ先生」
「何ですか?」
「行成お爺さんが目を覚ましたら、偵察に行きます。 寛子ちゃんを借りても良いですか?」
「寛子ちゃん」
彼女は無言で頷く。
この子は機転が利く上に、とても賢い。連れて行って損は無いだろう。
偵察に行くと言っても、夜になってからだ。
それまでは、此処で静かにしていかなければならない。整備も、急いだ方が良いだろう。焦ってしまったらおしまいだ。
まとまっているとはとても言えない集団だが。
これで焦りまで生じたら、勝ち目はゼロになる。
陽が落ちると同時に、行成お爺さんが目を覚ます。状況を説明して、偵察に行くことを告げる。
お爺さんも、偵察自体には賛成の様子だった。ただし、条件を付けられた。
「出来るだけ早めに戻ってこい。 整備が出来なくなる」
「分かっています」
戦えるのは、雛理と行成お爺さんしかいないのだ。二人しかいないと言うことは、休憩を二交代でしか出来ないという意味がある。一人が席を外した場合、安全が無くなるという事も意味している。
偵察で命を落とすわけにはいかなかった。
敦布さんが何度か頷く。逃げ延びた子供達がいたら、連れてきて欲しい、というのだろう。
分かっている。
その可能性はどれだけ低くても、善処しなければならないだろう。
「ふん、これ以上役立たずが増えたってね」
誰かが毒づくが、気にしない。
洞窟を、そのまま出る。物陰から、洞窟の上にある丘の様子をうかがう。
怪物は、いない。
だが、村の方を見て、愕然とした。
幾つかの家に、明かりがついているのだ。昨日の時点では、そんなことは絶対にあり得なかった。
しかも、襲撃されている様子も無い。
一体、何が起こっている。此方をつるための餌か。
スターライトスコープはないから、此処から覗くことは難しい。腕組みして考え込んでしまう。
「雛理さん、あの明かりが気になるんですか?」
「そうね。 一体どういうことなんだろう……」
「もう一つ、気になることがあるんですけれど」
側に来た寛子ちゃんが、指さす。
言われて見て、気付く。なるほど、これが確かにおかしい。
民家だけではなく、もう一つおかしな点が生じていた。
燃え落ちた村長の家の辺りが、更地になっているのだ。
普通、火事で家が燃え落ちると、其処には残骸が山のように残る。それだけ燃えにくい部材が多いのだ。ましてや現在建築ではなおさらである。
この島は、昔ながらの家も少なく、近代的な様式の家が多かった。確か、村長の家もそうだったはずだ。
燃えれば、相当な残骸が、遠くからも目立つはずである。
あのような更地になるのは、家を燃やした後、整備しなければならないはずで、それをあの怪物達がやったのはほぼ間違いない。
問題は、それに一体何の意味があるか、という事だろうか。
明かりがついている家に近づくのは危険すぎる。学校と同じで、釣り餌の可能性が高いからだ。
あの更地は、どうだろう。
夜陰に乗じて、少し距離を詰めてみる。茂みを経由して、見つかりにくい地形を伝って、少しずつ村に近づく。
何時でもデザートイーグルを抜けるようにはしてある。サイレンサはつけてあるが、これはもともと大音響を少しはマシなレベルに下げるくらいにしか使えない。当然撃てば、即座に周囲の怪物が押し寄せてくるだろう。
撃てば、終わりだ。
使うタイミングは、最後まで見極めなければならない。
「布を口に」
「はい」
とても聞き分けが良い寛子ちゃん。中学生くらいだろうか、発育の割に賢いのはとても助かる。
この年頃の子供は、頭と体のバランスが取れていないことが多く、その場合肉体に頭が振り回されていることが殆どだ。過剰な性欲や衝動で体が先に動いて、破滅的な事態を招くことも多い。
自分がそうだったから、よく分かる。
丘の様子を、茂みの中からうかがう。
見張りらしい怪物が、互いの視界をカバーするようにして立っている。やはり此処を抜けるのは、厳しいか。
西に向かって、森を抜けるルートを試してみたい。
ジャージ先生はいやがるだろうが、突破口として考えておきたい場所の一つだ。それに、こんな事をしでかした連中が潜んでいる可能性も一番高いとみて良い。あの政府の研究所が、これに絡んでいる確率は、当然九割を超えているだろう。
少し戻って、西に行くように促す。
寛子ちゃんが、真っ青になるのが、夜闇の中でも分かった。
危険なら、即座に撤退する。
死ぬわけにはいかないのだから。
慎重すぎるほど慎重に、進む。
森はひんやりとしていて、星明かりに照らされていながら、まるで凝縮された闇の塊のようだった。
道路は、ある。
だが、案の定、道路には複雑な形状のバリケードが積み上げられている。その上、バリケードの上には監視カメラだ。
あの監視カメラが生きているかは分からない。時々動いている様子だが、その向こうに人がいるかは、確認できる状態にない。
一つ、はっきりしたのは。
研究所は、独自の電気系を有していると言うことだ。そうでなければ、監視カメラが動くわけがない。
当然の話だろう。自家発電をしているのか、それとも本土から送電ケーブルを引いているのかまではわからない。
分かったのは、もしも人間が中にいた場合、多分怪物よりも厄介な相手になりかねない、ということだ。
もしも研究所の人間が生きているとして、この事態を把握していたら、当然自衛隊なり救助のレスキューなりを要請するはずである。連絡ぐらいは出来るはずだ。此処は離島とは言え、本土にほど近いのだから。
だが、数日待っても、海自の護衛艦は姿を見せない。
研究所にも怪物が入り込んで、人間が皆殺しにされている可能性もある。
しかし、それにしては妙なことが多い。
「怪物が、いない」
森の方には、あの輪郭しか確認できない奇怪な怪物が見当たらないのである。
森自体は、とんでもなく危険な雰囲気を放ち続けている。奥に入り込んだら、多分助からないだろうとも思う。
困ったことに、その理由が分からない。
暗い森が怖いなんて、理由にはならない。雛理はこれでも、様々な訓練を受けてきた。ゲリラとの戦闘を想定したり、逆に正規軍を相手にゲリラ戦を行う場合もあった。それらの戦闘時、暗闇はむしろ味方だった。
おかしな事に、この闇は、味方だとは思えない。
「今日はここまで。 一端引く」
相当に怖かったからか、寛子ちゃんは真っ青になり、汗を一杯掻いていたようだった。
訓練を受けている雛理でさえ怖かったのだ。一般人がどれだけ恐ろしい目にあっているか。逃げ出さなかっただけでも、マシだっただろう。
一旦引き上げる。
島の方に見える明かりが、さっきよりも増えている。
このままだと、誤解して島に上陸するフェリーが出てしまうかも知れない。
そう思ったが、帰ってから行成お爺さんに聞いてみると、首を横に振られた。
「いや、フェリーは来ない」
「断言できる要素があるんですか?」
「其処の岬からは、フェリーが来れば一目で分かる。 時間もある程度決まっている」
見張りの範囲内に、フェリーが見える場所が入っていると、おじいさんは言う。
なるほど、それで一つ分かったことがある。
だが、敢えて口にはしない。
「休憩します。 三時間したら、起こしてください」
「ああ。 寝ておけ」
洞窟の奥に入ると、横になって転がる。
寝られるときに寝ておくこと。それはサバイバルの鉄則だ。
また、陽が上がる。
少しずつ、皆もこの恐怖になれはじめていたようだった。だが、それも、この日で終わることとなった。
行成お爺さんが、ハンドサインを出してくる。
全員に、口をつぐむように指示。
そして、バリケードの影に、身を寄せた。
怖れていた事態が来た。
洞窟の入り口付近に、怪物が来ている。闇に紛れて動くあの姿、見間違えるはずがない。数は、三体。
何か話している。不思議な事ではない。
あれだけ組織的な監視体制を敷ける存在なのだ。会話くらいは出来ても不思議では無いだろう。
ただし、耳を立てても、日本語らしいものは聞こえない。
何を喋っているか、内容が理解できれば少しは違うのだが。
怪物達が、足を止める。しばらく此方を見ているのが分かった。いつでも、銃は撃てる。そして此処なら、あまり音は響かない。
殺るべきか。
治郎君が、震えているのが分かる。その手を握っている敦布さんは、表情を引き締めていた。
いつでも、逃げられるように。
逃げるときはどうするか。
それだけを考えてくれていれば良い。むしろその方が、雛理としてもやりやすくなる。
無言の対峙が続く。
「ゲ、ゴゴ、アゴトス、ギル、スス、イスル」
怪物が、全く理解不能な鳴き声を上げた。
それで、気付く。
この声は、蛙に似ているかも知れない。しかし、覗き込めば、ほぼ確実に、此方に気付くだろう。
「ゲゲ! ルゲゲ! ガゲ!」
怪物の一匹の声が、遠ざかっていく。
仲間を呼びに行ったか。
行成おじいさんと頷き会う。そして、同時に、バリケードから身を乗り出し、ライフルを構えた。
しかし、引き金を引くことはなかった。
其処には、何もいなかったのである。
痕跡も無かった。
「ジャージ先生」
「え?」
「来てください。 少し調べます」
手を貸して、彼女をバリケードの上に引っ張り上げる。一緒に並んでバリケードを降り、怪物がうろついていた辺りを見て廻る。
まだ、二匹がその辺にいるかも知れない。
天井も、確認した。いない。
岩の影。いない。
さっきまで、そこにいて。奇怪な鳴き声を上げていたのに。今は、文字通り蒸発したかのように、なんら姿が見えなかった。
どちらにしても、また大挙してここに来る可能性が高い。
その時、支えられる保証はない。
「前線を下げる。 このまま洞窟の奥に下がるしかない」
「ちょっと、それでどうしようっていうのよ!」
行成さんに、寛子ちゃんのお母さんがくってかかった。目を血走らせて、唾を飛ばしながら罵る。
「もうまっぴらよこんな暗いところ! あの化け物が押し寄せてきたら、やっぱりどうにもならないじゃない!」
「だったら、表に出ますか?」
「そうしてやるわよ! 寛子、来なさい! 昼間だったら、化け物だってそうそう襲ってこないでしょ? 港まで歩いて行くわ!」
寛子ちゃんの手を掴む。
だが、寛子ちゃんは、冷静ではない母親の手を、顔をしかめながら振り払った。治郎君は大きな声を出す大人が怖いらしくて、ジャージ先生に掴まって震えている。
「何よ、あんたまでアタシの言うことを聞かないって言うわけ! 今までクソ爺の言う事きいてやっただけでも、感謝して欲しい位なのに! どうしてよ!」
「少しは落ち着いたらどうですか?」
「黙れニエッ!」
ふつりと、頭の中の何かが切れる音がした。
腐れ豚女の顔面に拳を叩き込んだのは、次の瞬間。そのまま首を蹴り折ろうとして、後ろから羽交い締めにされる。
ジャージ先生だ。
「そこまで!」
「け、ケダモノッ! やっぱりニエなんか、信用できないわ!」
「今のはお前が悪いだろう」
行成さんが味方をしてくれたことで、少し頭が冷えてくる。
それにしても、ジャージ先生。思ったより、筋力がずっと強い。いやこれは、恐らく火事場の馬鹿力という奴か。
泣き始めた寛子ちゃんの母。
非常にわざとらしい。いらだちが募るが、見かねて寛子ちゃんが奥に連れて行った。一人、分かっていないらしいジャージ先生が聞いてくる。
「ニエ……ってなんですか?」
「この島に、十年以上前にあった悪習です。 娯楽が少ない島で、憂さ晴らしをするための腐ったシステムですよ」
「反論できないな」
「ほう?」
今まで黙ってやりとりを見ていた学者さんが不意に話に加わってくる。
そういえばこの人、怪物が来たときも、怖れる様子が全く無かった。むしろ興味津々に、向こうをうかがっていたほどだ。
「そう言うシステムがあった事は、私も聞いていた。 何かね、君はニエの一族の生き残りかね」
「大変に不快な話ですが、そうです」
「おお、そうかそうか。 後で話を聞かせてくれないか」
「ニエに関する話なら、そちらの行成おじいさんに聞いた方が速いと思いますけれど」
ニエの制度には反対であったらしいのだが、それでも、行成おじいさんは見てきたはずだ。それこそ何十年も、ニエの一族に対する残虐な迫害を。
「今はそれどころじゃねえからな」
「分かっています」
本当に嬉しそうで、なおかつ楽しみそうな学者さん。
なんと名刺を懐から取り出す。
新田五祐と、名刺には書かれていた。そして、雛理もそれを手渡された。
「怪物が来たら、どうなっちゃうの?」
不安そうな治郎君を、無言でジャージ先生が抱きしめる。
様子を、今は見る。
大勢で来るようなら、洞窟の奥に引っ込んで、地形を利用して攪乱迎撃をしていくしかないだろう。
いっそ、この洞窟を捨てるという手もある。
しかし、行成お爺さんに聞いているあれの存在を、捨ててしまうのは惜しい。整備さえ終われば、突破の大きな戦力になるからだ。
怪物は、来ない。
安心は出来ない。怪物はこの島に詳しい。まさかとは思うが、洞窟の他の入り口から攻めてくるという事はないだろうか。
やはり、少し下がった方が良いかもしれない。
思考がまとまらない中、時間だけが過ぎていく。体力の浪費が酷い。夜になっても、怪物は攻めてこない。
だが、三匹だけでも、洞窟の入り口まで来たのだ。
他が大挙して押し寄せてこないなどと、誰が言えるだろう。不安になっている皆を安心させる目的だとしても、そんなことは言えない。
あまりにも無責任だからだ。
「外を見てきます」
「気をつけろ」
「わ、私も」
「ジャージ先生は、寛子ちゃんの様子を見てきてくれますか?」
奥に引っ込んだまま、戻ってこない寛子ちゃんの様子が気になる。
そちらを見に行くほど、手は空いていない。今は、優先順位が、外の確認の方が高いのである。
デザートイーグルの安全装置を確認。
いざというときは、即座にぶっ放す気で当たるしかない。誤射を避けるために、今のうちに合い言葉を決めておいた方が良いかも知れなかった。
さっきの喧嘩は怖かった。
怪物が来たときよりも、怖かったかも知れない。敦布は、雛理さんから、本気の殺気を感じたほどだった。
反射的に飛び出して羽交い締めにしなければ、雛理さんは、寛子ちゃんのお母さんを殺していた。これは、漫画などではない。現実の出来事だ。そして理解する。雛理さんは、実際に人が死ぬ場所で生きてきた存在なのだと。
それにしても、一番問題なのは、寛子ちゃんのお母さんだ。
問題のある保護者だと言う事は、前から分かっていた。家庭訪問をしたときにも、酷いことを散々言われたが、それ以上に今回、状況がその異常さを告げていた。
ネグレクト寸前のいい加減な態度に、敦布を見下す行動の数々。人格が歪んでいることが、すぐに分かる言動。
寛子ちゃんがおじいちゃん子になったのも、よく分かる。
だが、それでも、死んでしまえば良いとか、そんなことは思わない。敦布にしてみれば、生徒が悲しむことは、一つでも起こらないで欲しいと思うくらいなのだ。どんなに酷くても、ちいさな子供にとって、親は絶対。
中学生くらいになってくると反発心も沸いてくるが、大人になればそれも解消されることが多い。
昔、敦布は、教師に向かないと言われたことがある。
生徒に親身になりすぎると。
お前みたいな愚図に、適職なんか無い。家に引っ込んでいろと、面と向かって言われたこともあった。
実際、勉強もそれほど出来た方では無い。
適性が無いかも知れないと、自分で思った事もある。
だが、生徒のために働く自分を、敦布は嫌いじゃない。どんなに無能で役立たずでも、生徒達のためなら。悪口だって我慢できるし、村八分にされたって耐えられる。子供達も心を開いてくれていた。何よりも嬉しい事だった。
洞窟の奥に探しに行く。
ニエの話は、さっき寛子ちゃんのお爺さんに、かいつまんで聞いた。酷い制度があったものだと思う。
江戸時代まで存在した語るのもおぞましい差別制度については、敦布も知っている。それに近いものだと感じた。
きっと、受けて来た苦しみは、雛理さんにしか分からない。それが故に敦布は、悲劇を知ったからには忘れないようにしようと思う。
しらけた目で天井を見ている、寛子ちゃんのお母さんを発見。寛子ちゃんは、膝を抱えて、すぐ隣に座っていた。
「ジャージ先生?」
「良かった。 おじいちゃんの所に、戻ろう」
「うん……」
寛子ちゃんが、お母さんの手を引いて、立ち上がる。
言われるまま立ち上がった寛子ちゃんのお母さんの顔には、大きな痣が残っていた。酷いとは思うが、この人が言ったことの方がもっと酷い。
今になって思えば、思い当たる節がある。
赴任した当初、おかしなことを何度か言われたのだ。先輩の先生からは、こんな時に大変だなとか、苦労するだろうが頑張れとか。最初の頃は、先輩の先生達も、優しかったのである。
だが、二月もしない間に、どんどんよそよそしくなった。中には、露骨に手のひらを返した先生もいた。
殆ど同じ時期から、島の人達も、敦布に対する悪口を言うようになった。役立たずという言葉も、この時期から浴びせられるようになった。
随分傷ついたが、思えば。
あれは、ニエの代わりにしようと、島全体で示し合わせていたのではなかったか。
敦布の少し前に、先生が一人いなくなったと聞いている。辞めたのだと聞かされていたが、本当にそうだったのだろうか。
この島は腐っていた。
子供達のために考えようとはしなかったことだ。多くの若者達が島を出て行ったのには、きっとそれも理由の一つだったのだ。以前、ニエの一族の告発があってからも、島の体勢は変わっていない。
それは、寛子ちゃんのお母さんを見ていれば、よく分かる。
「何よあの女! 許さない!」
ヒステリーを起こす寛子ちゃんのお母さん。
見ていると、敦布の方が悲しくなってきた。しばらく騒ぎ立てていたが、やがてその元気もなくなったのか、おとなしくなる。
雛理さんが戻ってきた。
「明らかに、此方の異変に気付いていますね。 丘にいる怪物の数が、昨日に比べてかなり増えています」
「あんたのせいよ!」
「どうして数日前に来た私のせいなんですか?」
「昌子、少し黙れ」
寛子ちゃんのお爺さんが、短く、だが迫力を込めて言う。
そうすると、流石に喚く元気もないのか、寛子ちゃんのお母さんは静かになった。雛理さんも、これ以上騒ぐなら殺すと、視線で告げていた。
「数はどれくらいだ」
「ざっと五十はくだらないかと」
「ふん、地上からの突破は無理だな」
「分散して叩くのにも限界があります。 人間よりも頑丈だと思った方が良いでしょうし、それにあれだけで全てとは思えません」
専門的な戦術用語を使って、会話しはじめる二人。
寛子ちゃんと治郎君を連れて、敦布は奥へ行く。どうなるにしても、今は疲れを取らなければならない。
特に治郎君は、ヒステリーを起こす寛子ちゃんのお母さんに怯えきっていて、ずっと泣きそうになっていた。
雛理さんが洞窟の入り口辺りに出て、岩を転がしはじめる。
多分、入り口を狭める気なのだろう。ちょっと戦術を話しているときに、そんなことをすると言っていた。
治郎君の頭を撫でながら、寛子ちゃんにお願いする。
「出来るだけ、お母さんの側にいてあげて」
「先生?」
「お願い。 今は、誰かがおかしな事をするだけでも、大変なことになるから。 雛理さんやおじいちゃんに何かあったら、私達、きっと万に一つも助からないよ」
頷くと、寛子ちゃんは自分だって嫌だろうに、お母さんの所に行く。
敦布に出来る事は少ない。
だから、せめて。
暴発が見える場所を、塞いでおかなければならないと思う。
学者さんが鞄を弄っていた。取り出した論文に問題が無いか、チェックしているらしい。相変わらずマイペースな人だ。
この人は心配しなくても良さそうだと思うと、少し安心感がわく。
時間は、容赦なく過ぎていく。
いつ怪物が群れをなして攻めてくるか分からないという恐怖が、疲労をどんどん蓄積させていった。
だが、それでも、子供達の前で、不安だけは出せなかった。
怖いのは、敦布も同じだ。
だが、子供達は、もっと純粋な恐怖に耐えているのだ。大人が取り乱していてはいけない。
しばらく、じっとしている。
やがて、入り口のバリケード強化が終わったらしく、雛理さんが戻ってくる。
それと同時に、行成おじいさんが奥に行く。
なにやら整備をしているというものの続きをやりに行くのだろう。
「ジャージ先生、此方に」
呼ばれたので、側に行く。
緊張しながら中腰になると、バリケードに寄りかかったまま、雛理さんはいう。
「此処からは持久戦になります。 見張りは私がしますから、ジャージ先生は二つのことを担当してください」
「何を担当すれば良いの?」
「一つは、私と交代しての見張り。 何かあったら、どんな手を使ってでも、私を起こしてください」
それは、大役だ。
つまり寛子ちゃんのおじいちゃんは、奥で整備に取りかかりっきりになるという事だろう。
もう一つ。
「地図を渡しておきます。 もしも怪物が現れたときは、私が時間を稼ぎますから、皆を行成お爺さんがいる奥へ」
「私が、引率するの?」
「学者さんはリーダーシップに興味が無さそうですから。 普段から子供達を引率している貴方が適役です」
「……」
一瞬だけ、寛子ちゃんのお母さんを見た。
ふてくされて横になっている。
あの人を引率できる自信が無い。雛理さんに向かって、ニエと堂々と言うような女の人だ。
ニエの代わりに虐待しようと考えていた敦布の言う事なんか、聞くだろうか。
「いざというときは、他の人たちの事を優先してください」
「そんな……」
雛理さんの目は本気だ。
息を呑んでしまう。
この人は、本当に冷酷な戦場の理屈を知っているのだ。だから、そうやって、人間の死を割り切れる。そして、場合によっては、自分で命を絶つことだって厭わないのだろう。勿論子供達だって、その対象になるはずだ。
この人が、どんな悲しい人生を送ってきたのかは、分からない。
だが、その出発点は、間違いなくこの島だったのだ。どれだけ怪物に囲まれても冷静だったのに、ニエと罵られた瞬間顔面に拳を叩き込んだことからも、それは明らかだ。
「それなら、先に避難しておいた方が……」
「食料はどうするんですか?」
「う……」
しかし、だ。
避難できる場所に、少なくとも子供達は向かわせた方が良いはずだ。洞窟の奥に先に行っていれば、きっと怪物への対処も、少しはしやすくなる。
「判断は任せます」
「ちょっと待ちたまえ」
不意に、学者さんが話に加わってくる。
雛理さんはそちらを見もしない。入り口に向けて、じっと猟銃を構えたままだ。
「それよりも、海がおかしいようだ」
「え……?」
釣られて、海の方を見る。洞窟の一部は光が差し込んでいるから、海が見えるのだ。
そして、絶句した。
「真っ黒……」
しかも、波もない。
ただ、泥のような黒い海が、どこまでも広がっている。そういえば、いつの間にか、さざ波の音さえも聞こえなくなっていた。
洞窟の一部は崖になっている。其処から海を見下ろせる。
見下ろして、絶句。
其処にあった海は、まるで泥の塊のように、真っ黒だ。
それだけではない。
海には、あまりにも多くのアンボイナが、ひしめくようにして群れていた。その全てが、通常では考えられないほどの速さで蠢き廻っている。
あんな所に降りたら、確実に死ぬ。
魚も、もう捕れないと思って良いだろう。
何だ、この異常な海は。
有明湾の泥海だって、こんな状態ではないはずだ。
「ほう、あんな状態だというのに、元気なアンボイナだ。 一匹か二匹、捕まえてきてもいいかね」
「駄目ッスよっ!」
「何だ、けちくさいな」
見ていると吐きそうな光景だというのに、学者さんは心底残念そうに、そう言った。
これでは、船を手に入れたとしても。
島から脱出できるかは分からない。海が泥状態になってしまっているのなら、船が進むとも思えないからだ。
いつの間にか、雛理さんが来ていて、海を覗き込んでいた。
絶句しているのは、彼女も同じ様子だった。
「ど、どうしよう……」
「こんな状態は、初めて見ます。 どれだけ干ばつが酷い国でも、河が干上がったとしても海が干上がることは滅多にないものなんですが」
ついさっきまでは、こんな状態ではなかったと、雛理さんはいう。
外に、皆で出る。
そして、その異常な光景を、見ることになった。
見渡す限り、全ての海が真っ黒の泥状になっているのだ。
それだけではない。
空も真っ暗だ。まだ夜には早いというのに。その中を、真っ赤な雲が浮かんでいる。太陽は、見えない。
代わりに、眼球だとしか思えない、気味が悪い月が、空に出ていた。本当に、何かの目としか思えないのだ。巨大なクレーターが真ん中に有り、しかも其処だけが黒々としているのである。
「アハハハハハハハ! 終わりだわ! この世の終わりが来たのよ!」
寛子ちゃんのお母さんが、馬鹿笑いした。
敦布だって、頭がおかしくなりそうだ。ついに泣き出してしまった治郎君をなだめながら、寛子ちゃんの手を引いて、洞窟に戻る。
膝を抱えて、座る。
これじゃあ、どこにも逃げる場所なんてない。怖くて泣きたくなってくる。
こんな異常な光景、見た事も無いし、あると想像したこともない。この辺りの海は水深がかなり深くて、大陸棚からも離れている。
それなのに、まるで地続きで、しかも泥の中は猛毒のアンボイナだらけ。しかも、本来海水の中でないと生きられないアンボイナが、どうしてあんなに活発に、泥の中で蠢いているのか。
狂気に陥りそうだ。
何度も頭をかきむしる。このままだと、きっとおかしくなってしまうだろう。呼吸を整える。
気丈に振る舞っていた寛子ちゃんまで、泣きそうになっているのだ。
此処で、敦布が頑張らないと。
どうにかして、希望を示さないと。
それが教師の仕事なのだ。
学生時代、敦布に道を示してくれた人がいた。その頃から、敦布は馬鹿だと言われて、誰にもあざけられていた。
スポーツしか取り柄がない阿呆と言われていた敦布に、その人は。
優しく、道を示してくれた。
今では、子供が好きだと、胸を張って言える。
教師が好きだって、誰にだって宣言できる。
だからこそ、なお。
教師である事を、示さなければならない。
「大丈夫。 先生が、きっとどうにかするから」
どうにかする方法を、考えなければならない。
いつ攻めてくるかも分からない化け物達を撃退して、泥沼になってしまっている海を逃げて、あるかももう分からない本土に帰還する。
その方法があるとしたら、何だろう。
船が使えないのだとしたら、どうやってこの泥の海を行けば良いのだろう。
方法は、あるのだろうか。
無いとしても、どうにかしなければならない。敦布は、先生なのだから。
3、絶望の道
子供達を何とかなだめて、敦布は洞窟の奥にまで避難した。
怪物が来る様子は無い。
ぶつぶつ文句を言っている寛子ちゃんのお母さん。しかしよく見ると、もう目の焦点はあっておらず、正気を保っていない様子だった。
無理もない。
何かを馬鹿にすることでしか、自信を持てなかったような人なのだ。世界が壊れてしまって、意識を保てるわけもない。
「お母さん、私には昔は優しかったんです」
寛子ちゃんが、洞窟を行きながら教えてくれる。
治郎君は、完全におかしくなってしまったおばさんが怖いらしくて、ずっと敦布の手を離さなかった。
「でも、何だか少しずつおかしくなっていって。 病院の先々代の先生を、前は村中で虐めていたらしいんです。 その人の次の先生が、その、今の前の先生なんですけど」
「気が強い人だったよね」
「はい。 その人を虐めるのが上手く行かなくなって」
この島は、悪い意味で弱い人間しかいなかったのかも知れない。
弱者を設定して、それを皆でいたぶることで、ようやく自分という個を確保できる人間の集まり。
そんなのは、文字通りのクズだ。
嬉しいのは、子供達は、そんな風になら無かったという事。多少愚図な子でも、敦布が知る限り、この島の子供達の間にいじめはなかった。大人はおかしいと、寛子ちゃんの上級生達は、いつも言っていた。敦布が赴任した頃からだ。
医者との確執の結果、お母さんはおかしくなったと、寛子ちゃんは言う。
なんでも、病院の先生は、この島でまだ悪事が行われている形跡があると、国に告発文を送ったそうである。その結果、村長は交代して、警察がたくさん来たという。
何があったのかは、よく分からない。
分かっているのは、自殺者が何人か出たこと。ただし、その場で自殺したのではない。
かって、不審死をした自殺者が、さかのぼって告発されたのだという。何人も逮捕されて、今でも島には帰ってきていない。
ニエ事件以降、二度目のスキャンダル。
お医者さんは、のうのうと虐められてなどはやらなかったのだ。
離島まで医師をしに来たというのに、善意を踏みにじった島民達に対して、徹底的に反撃したのだ。
そして、暴露された膿。
島は耐えられなかった。
恐らく、寛子ちゃんのお母さんのように、心身のバランスを崩した人は他にもいたのだろう。
自業自得の結果だとはいえ、敦布にはそれをざまあみろとは言えなかった。
寛子ちゃんにとっては、唯一のお母さんなのだ。
だが、お医者さんが、ベストの対応をしたのは、事実だった。それは、敦布もそう思う。先代の先生は、島の膿だしが終わると、もうこんな所に用は無いと言わんばかりに出て行ったそうである。
まあ、無理もない話だ。
同じ立場だったら、敦布も島を出ただろう。
そして、今度は敦布にターゲットを絞ったというわけだ。性懲りもなく。
ただし、今回は、前ほど大規模にはやれなかった。だから、敦布に対してやんわりと嫌がらせをする程度でしか、動けなかった。
文字通り、ゲスの住む島。
だが、子供達を、敦布は嫌いじゃない。
大人がどんなに腐っていても、子供達は違う。
鍾乳洞の奥にまで来た。
もう海水の香りはしない。少し広い空間に出て、驚く。辺りには、明らかに整備された跡があったからだ。
しかも、人が入ってきた形跡が随所に残っている。
広さは四十メートル四方もあるだろうか。完全に平らな空間で、埃っぽい事を除けば、学校にも使えそうなほどだ。
天井も、整備されている。
鍾乳石がにょきにょき、というような事も無い。綺麗な天井には、幾つかの明かりが付けられていた。
奥にある、こんもりとした塊。
薄暗い其処にあるものに、じっと寛子ちゃんのお爺さんはとりついて、作業をしていた。整備をしているのだろう。
「それは……」
「此処まで来たって事は、化け物共が攻めてきたのか」
振り返りもせずに、おじいさんは言う。
だが、違う。
今はまだ、だが。
「海が、真っ黒になりました」
「何だって?」
「おじいちゃん、本当。 海が泥みたいになっちゃって、たくさんのアンボイナみたいな変なのが蠢いてて。 怖いよ……」
「寛子……」
流石に振り返った行成お爺さん。
かなり歩いた。地図があっても、迷子になりそうな鍾乳洞だったからだ。
雛理さんも、怪物が出てこなければ、近々追ってくるだろう。
もう食料は、得られないとみていい。
魚釣りとかをして、焼いて、蓄えたのがどうにか二日分という所。それ以外は、何もかも物資が無い。
戦いのことが全く分からない敦布にだって分かる。
完全に詰みだ。
味方にハリウッド映画のヒーローがいても、どうにもならないだろう。それでも、正気を保たなければならない。
子供達を守るのだ。
体だけではなく、心も。
「整備は、どれくらい掛かりそうですか?」
「……そうだな。 あと二日もあれば、どうにかなるか」
こんもりとした、鉄の塊。
こんなのが国の管理下になく、密かに隠されていた、というだけでも驚きだ。
かなりさびが浮いているようだが、おじいちゃんの言う事を信じるなら、動くのだろう。驚く。
骨董品かも知れないが。
普通の人間や、動物、それにあの人間大の怪物に対しては、きっと決戦兵器になるはずだ。
治郎君を奥に座らせて、焼いた魚を一緒に食べる。
ずっと泣いてばかりの治郎君だが、しっかりしろとは言えない。まだ小学校低学年だ。しかも、親御さんも、いないのだ。
少しは楽しい話をしようと思うのだが、見つからない。
学校の話は地雷だし。アニメだってゲームだって、今は何を話してもむなしいだけだろう。
「コンビニは、どうなっているのかな」
「そうだね、その子が動けば、コンビニに突入して、お菓子とかを持って行けるかもね」
丁度、残っているのは、二日分くらいの食料。
上手く行けば、それくらいは出来るかも知れない。この鉄の塊の暴力的破壊力は圧倒的だ。
近代の兵器には手も足も出ないかも知れないが、猟銃くらいだったら文字通り一ひねりにしてしまうだろう。怪物だって、きっと蹴散らせる。
「飯に関しては、此奴が動けばどうにかなるかも知れんがな。 だが、コンビニの飯を奪ったところで、その後どうするか、だ」
行成お爺さんが、地雷を直接踏みに来た。
そんなことは、敦布にだって分かっている。どうしようもない。
あんな海で、動ける船なんて、あるわけがない。しかも、泥の中には、それこそ何がいるか知れたものではないのだ。
空もおかしかった。
ひょっとして、既に世界は滅んでしまっているのではないのだろうか。そんな錯覚さえ、覚えてしまう。
錯覚だと、言い切れない。
それが怖くて仕方が無い。
「雛理さん、遅いね」
寛子ちゃんが、そんなことを言った。
雛理は舌打ちする。
少し外に見に行ったが、丘から怪物が此方に向けて動き始めている。輪郭も、以前に比べて心なしかはっきりしているようだった。
手は、いくつかある。
此処で交戦して可能な限り頭数を削り、それから下がる。
今手元には、ウィンチェスターの新型がある。思ったよりもかなり新しい銃で、弾丸もそれなりに豊富。
此奴なら、猪くらいは倒せる。行成お爺さんの手持ちだ。
猪を侮る人間は阿呆だ。あれは最大で体重百八十キロに達し、時速六十キロ近くで走る筋肉の塊だ。しかもスピードがあるだけではなく小回りが利き、戦闘能力はとても高い。家畜の豚も実はとても戦闘能力が高いのだが、猪はそれ以上。つまり、そんな奴を仕留められる。
行成お爺さんは、村田銃を持って、整備場に閉じこもっている。だから、村田銃は手元にはない。
これに加えて、島に持ち込んだデザートイーグルは、拳銃とは言え反動が凄まじい。訓練を受けなければとても使えない強力な銃だが、雛理はこれを実戦で何度か使いこなしたことがある。
相手の動きを見る限り、十体までなら、始末できる。
だが、岡の上には、五十を超える怪物がいた。
行成お爺さんと協力して作ったバリケードを上手く活用すれば、相打ち覚悟でならば半数は仕留められるかも知れない。
だが、それは意味が無い。
ここに来たのは。
この島で、行われている世にもおぞましい悪事を、告発するためなのだから。
弾数だけなら、足りている。
バリケードの脇で、呼吸を整えながら、静かにしていると、思い出す。
この島を出た頃の事を。
心身ともにずたずたにされた家族。姉は東京で結局精神を持ち直せず、早死に。病院で、子供も産めない体にされたことが分かって、それが決定打になった。殆ど、自殺も同然だった。逮捕された連中は塀の中でのうのうとしていると思うと、はらわたが煮えくりかえりそうだった。
母は精神病院通いになり、父は仕事を転々としながら酒浸り。
政府の支援があっても、どうにもならない現実。
一家が離散するまで、それほど時間は掛からず。雛理はやがて、里親に引き取られることになった。
里親はいい人だったが、それで何かが代わるかと言ったら、ノーだ。基本的に減点法で人間を評価するこの国の社会で、親がいないと言うことが、どれだけのマイナスになるか、恐らくそうならなければ理解は出来ないだろう。
結局、島を出ても、何も代わることはなかった。
減点法で評価される世界に、差別を受けてきた人間のいる場所はなかったのだ。ましてや近年では、差別を正当化する風潮が根強くなってきている。
やがて、世の中に怒りが向いた。
高校を出ると、民間軍事会社に就職。
アフガンやイラクなどの激戦地を転々とした。銃を持って彼方此方を走り回り、テロリストを撃ち殺した。仲間が死ぬのも、何度も見た。危ない目にも、散々あった。だが元々の強運と戦闘センスもあって、逃げ延びることも、生き残ることも出来た。
硝煙の臭いと、臓物の香り。
日本にはない、別世界だった。その気になれば、あの忌々しい斑目島に乗り込んで、島の連中だって皆殺しに出来ると思うと、気も晴れた。
やがて、それなりの技量を身につけた頃。
人生を転換した。
いつしか、怒りを押し込めることが出来るようになっていたのだ。だが、消えたわけでは無い。まだ燻った怒りは、ぶつける先を求めて、蠢いている。
向こうで、音がする。怪物達が騒いでいる様子だ。
意識が引き戻される。来るなら来い。しばらく集中して、ウィンチェスターを構え、敵の到来を待った。
だが、小一時間経過しても、誰も来ない。
それどころか、怪物の声が遠ざかっていく。気配も、である。
何が起きた。
そして、気付く。
腐敗臭が近くなっている。
小走りにバリケードから出て、海を覗いて、呻く。
水位と言うべきか。泥の高さが、露骨に上がって来ている。洞窟を出て、島の様子を見て、絶句した。
島の半分ほどが、既に泥に埋もれてしまっているでは無いか。
当然港も。更に言えば、コンビニもだ。
相変わらず、眼球のような月が、島を見下ろしている。
今、その月の黒目が動いたような気がしたのだが、気のせいだろうか。
流石に、絶望がせり上がってくる。
見ると怪物達は、少しでも高い所に行こうと、集まっている様子だ。彼らでも、あのおぞましい黒い泥は嫌いらしい。
既に、此方をどうこうしようという状態ではないだろう。
何が起きている。
まるでこの島だけ、現実から切り離されてしまったかのようだ。
洞窟の中に戻る。もしも泥の水位がこのまま上がり続けるとすると、この洞窟の入り口は、遠からず水没、否泥没することだろう。
いずれにしても、ゲームオーバーだ。
ふと、森の方を見る。
まだ研究所は泥に埋もれていない。
ひょっとすると、最後の活路があるかも知れない。考えて見ればあの研究所、妙に小高い位置にある。
最初からこれを、見越していたのではないのか。
確かに、どうも生きている臭い監視カメラといい、可能性は大いにある。それならば、まだ希望はあるかも知れない。
とにかく、急ぐしかない。
雛理は気持ちを切り替えると、洞窟の中を走る。
整備には二日かかると言っていたが、待っていられない。
自分も加わる事で、整備の完了を早くするしかない。
既に、事態は、風雲急の中にあった。
鉄の塊を整備している寛子ちゃんのお爺さんを横目に、敦布は皆に休むよう頼んでいた。こんな状態で、休むのは難しい。だが今休んでおかないと、何かあった時に、対応が出来ない。
自分だって怖い。
だが、必死に恐怖を押し殺して、皆の不安を取り除かなければならなかった。
飄々としている学者さんは、大事そうに鞄を抱えたまま、ホールを歩き回っている。時々行成お爺さんの様子を見に行っては、一言二言話しているようだ。
「どうですか? 退屈ではありませんか?」
「大丈夫っすよ。 休んでいてくれると、嬉しいですけど」
「そうかね。 ならばそうさせてもらおうかなあ」
彼方此方うろつき廻られるので辟易していたのだが、静かになってくれるのなら嬉しい。不意に、気配。
ホールの入り口。
緊張で身が強ばるが、姿を見せたのは雛理さんだった。
「怪物?」
「いえ、泥です」
「あの、海を覆っていた?」
「ええ。 どうも洞窟が水没するほどまで水位が上がってきたので、物資を引き上げて此方に来ました」
ぞっとする。
あの凶暴そうなアンボイナが蠢いていた泥が、そんな高くにまで。
「コンビニも泥に埋もれました」
「えっ……」
「ただし、まだ希望はあります」
青ざめる敦布に、雛理は声を落とした。希望とは、研究所に攻めこむことだと。
もしもこの事態を引き起こした元凶があの研究所だとすれば、もしも内部を制圧できれば、生き残れる可能性がある。
だが、希望とは言っても。
もしもその研究所が全ての根源だったとしても、相手は近代兵器で武装している可能性が、極めて高いのではないのか。
あの鉄の塊が、近代兵器の前ではオモチャも同然なのは、敦布にだって分かる。
単なる銃の性能でも、向こうはずっと上だろう。村田銃に至っては、前の世界大戦で使われていたものだと聞いたことがある。
「あの鉄の塊……近代兵器相手には、どれくらい耐えられるの?」
「軽機関銃でも穴が空きますよ」
「ひ……」
それでは、相手が近代兵器を出してきたら即死ではないか。
噂に聞くロケットランチャーRPG7なんか浴びたら、全員即座にミンチで丸焼きだろう。
震える敦布をみて気の毒になったか、大きく雛理が嘆息した。
「大丈夫、私が随伴歩兵します。 狙撃で敵兵を可能な限り削りますから、生存率は上がるはずです」
「でも……」
「やるしかありません。 整備をしますから、貴方も手伝ってください。 見張りはもう大丈夫です。 怪物も、泥は嫌なようで、こっちに攻めてくるどころでは無くなったようですから」
子供達は。
治郎君を見て、寛子ちゃんがなだめているのを確認。
任せてしまって大丈夫だろうか。寛子ちゃんはしっかりしているが、それでもまだ中学生だ。
だが、それでもやらなければならない。
これ以上、子供達を不安にさせるわけにはいかなかった。
4、沈みゆく島
敦布が見に行くと、既にバリケードがあった辺りは、完全に泥に沈んでいた。
それだけではない。
洞窟の中にも、既に泥が入り込みはじめている。泥の表面では、奇妙な生物が蠢いていて、中には触手を持った訳が分からない生物もいるようだった。
泥は、確実に上がって来ている。
まるで、獲物を捕食しようとするアメーバーのように。
恐怖をねじ伏せて、戻る。
整備を続けている雛理さんは、こっちを見ようともせずに言う。
「ジャージ先生、どうでした」
「完全に下は泥に埋まってます。 更に泥が上がってくるのは確実かと」
「でしょうね。 急ぎましょう」
「ジャッキ寄越せ」
見ると、寛子ちゃんが手伝っている。工具を並べて、言われたものをおじいちゃんに渡している様子だ。
凄いなと思ったが、或いは違うのかも知れない。
恐怖に押しつぶされるのを、動く事で回避しようとしているのだろう。
「寛子ちゃん、代わるよ」
「ジャージ先生、それじゃ、お願いします」
「うん。 治郎君を見ていてあげて」
頷くと、寛子ちゃんは治郎君の方に行った。
それにしても、昌子さんは完全に壊れてしまったらしい。虚空をぼんやり見つめて、小も大も垂れ流しにしてしまっているようだ。
学者さんはというと、お構いなしに、鉄の塊を上から下から見ている。
専門外のものとはいえ、興味がそそられるのだろうか。根っからの学者人間という事なのだろう。
「それにしても、こんなものがよく残っていたね」
「沖縄戦の頃、各地の島にも兵器が配備された。 本土にはこれの後継型が配備を進められていたんだがな」
だが、実際には使われることなく、戦争は終わった。
使われなかったのは、幸運だっただろう。
本土決戦などというものをやったところで、勝ち目など無かったのだから。使ったところで、壊されただけだ。
程なく、整備が終わる。
丸一日、ぶっ通しでの作業だった。更に此処から、次の破滅的な行動に出なければならない。
「少し休んだ方が良いんじゃ……」
「休んでなんていられねえ。 寛子、其処のおかしくなったの連れてこい。 中に突っ込むぞ」
お爺さんが、虚空を見てぼんやりしている昌子さんを、金属の塊の中に引っ張り込む。
学者先生と、治郎君も中に。
「ジャージ先生は、私と外をお願いできますか」
「え? でも私、銃なんて」
「はい、これ」
双眼鏡を渡される。
上がって、敵を探せという事か。
真っ先に狙われるポジションだ。だが、もしも敵が重火器を装備していたら、きっと鉄の塊を真っ先に狙ってくるはず。
それに、随伴歩兵というのは、確かかなり危険な仕事であったはず。
みんな、危険なことに変わりは無いのだ。
早期発見できれば、この鉄の塊への攻撃だって防げるかも知れない。
やるしかない。
「一時間後に、動かす」
中から、行成お爺さんが言った。
雛理さんにつれられて、ホールの一角に出る。其処には縄ばしごがあって、外に出られるのだ。
外に出ると、其処は森の一角。
盛り土のようになっていて、その側面に、鉄の塊を出すための出口が隠されている。今のうちに、掘り出しておかなければならない。
「内側から、ボーンとできない?」
「パワー不足です。 主砲を叩き込んでも、埒があかないでしょう。 少し掘りますので、手伝ってください」
「……」
そんなものに命を預けなければならないのだから、泣けてくる。
だが、それでも、素手でみんなで固まっていくよりはマシだろう。あんな化け物を造り出したのが研究所だとすると。
しかし、本当にそうなのだろうか。
鉄の塊のそばにあったシャベルを使って、森の土を掘り返す。
異臭。
土を掘ると、黒くなっているのが分かった。雨が降り出す。
そして、異常の正体に気付く。
雨自体が、黒いのだ。それも普通の黒い雨ではない。明らかに異様な粘りけがあって、腐肉のような匂いがした。
無言で、二人で掘り返す。
森の土だから、かなり重い。校外活動で掘ったことがあるが、木の根は食い込んでいるし、腐葉土になっているから、重量があるのだ。
ムカデが出てきて、吃驚することもしばしば。
しかし今は、ムカデが出てきても、ああムカデだと、むしろ安心してしまう。あの海で蠢いている訳が分からないのに比べたら、何万倍もマシだ。
既に、神経が麻痺してきているのかも知れない。それに、此処はかなり小高い場所で、見えてしまうのだ。
島の半分以上が、既に泥に埋まってしまっている、地獄のような光景を。
これは、学校に誰かが逃げ込んでいても、今頃は。
涙をこする。
子供達は、もうきっと生きていない。
酷い匂いが、全身に染みついていくのが分かる。呼吸が乱れてきた。
自慢の赤いジャージは、もう何色だか形容も出来ない。散々酷使した上に、ろくに洗ってもいないからだ。
拭ってもこすっても、涙が出てくる。
雛理さんは、どうして平気なのだろう。そう思ってみると、彼女も唇を噛んでいた。きっと、耐えているのだろう。
この異常すぎる現実に。
やっと、掘り終わった。
木の板のような戸が見えてくる。かなり大きな戸で、これを開けて鉄の塊を出すのだ。手がかなりしびれているが、それよりも。
タオルで頭を拭いたら、真っ黒になってしまった。しかも、鼻が曲がりそうな匂いがする。
さほど清潔にこだわらなかった敦布でも、もう我慢が限界を超えそうだった。
「もうやだ……」
子供達がいないからか、強くあれない。
涙が、どうしても止まらなかった。腐りきった肉の匂いを孕んだ風が吹いてくる。もう、希望なんて、どこにもないように、思えてならなかった。
雛理さんが、離れるように言う。
内側から、木の板が開けられた。子供達を見ると、情けない顔を見せられないことを、思い出させられる。
無理に明るい表情を作って、敦布は手を振った。
「オーライ! オーライ!」
心の芯は、まだ折れていない。
涙は、無理矢理に止める。寛子ちゃんにも、治郎君にも、見せるわけにはいかない。
土塊を押しのけて登場したのは、戦車だ。
整備しているときに聞いたのだが、名前は九七式中戦車。チハと呼ばれることの方が多いという。
以前テレビで見た十式戦車はスマートで動きも速く、何より見るからに強そうだった。世界最強の戦車の一つと言われると、頷ける代物だった。日本の超絶的技術力で作られた最強の陸上戦闘兵器と、胸を張って言えるだろう。
だが、このチハは。日本製の戦車がポンコツと言われた時代のものなのだ。
乗って見て分かったが、とにかく遅い。走ると追い抜けるほどに遅い。
遅いだけではない。
装甲はブリキも同然。さっき雛理さんが言っていたとおり、機関銃でも貫通するという代物。
火力も貧弱。
米軍の戦車と戦ったとき、装甲を抜けずに、一方的にやられてしまったと聞いているが、それも無理がない話だ。
走攻守揃うという言葉があるが、このチハは、それが駄目な方向に揃っている。
上に乗ってみて、よく分かる。この子は、気の毒なくらい駄目な戦車だったのだろうと。
ただ、雛理さんが隣を小走りで来ながら、フォローできる点もあると教えてくれる。
「この戦車は、歩兵戦を想定したもので、そもそも戦車との戦いを考慮していませんでした」
「そうなの?」
「ええ。 それにヨーロッパで世界最強のドイツ戦車と戦って鍛えられた戦車と比べるのでは、気の毒に過ぎます。 このチハが戦っていたのは、装備も訓練も貧弱な歩兵が中心だったんですから」
雨が、徐々に激しくなってくる。
見たくないものも見えた。
泥の筈の海が、激しくうねっている。まるで何か、得体が知れない巨大生物が、のたうち回っているかのように。
いや、多分その通りなのだ。波にしては、動きが不自然すぎる。
坂に出る。
黒くて臭い雨は、更に激しく降り注ぎ続けている。泥の海は荒れに荒れていて、更に島の殆どが、急速に侵食されつつあるようだった。
「此処をくだると、研究所です!」
「雛理さん、分かるなら教えて! 行成お爺さんは、どうしてこの戦車を乗りこなせるんだろう?」
「戦争末期、子供も戦場に行く準備がされていた時期があったんです。 その頃、鍛えられたんでしょう」
そういえば、戦争末期、竹槍を持たされた女の人達が訓練したりしていたと聞いている。沖縄では多くの民間人が動員されて、戦争の中で死んでいったとも。
此処は、本土よりも沖縄の状況に近かったのかも知れない。
研究所のバリケードが見えてきた。坂道で何度か転輪をスリップさせかけながらも、チハが来る。そして、主砲をぶっ放した。
流石に、弱いことで知られているとは言え、それでも戦車の主砲だ。
バリケードが、木っ端みじんに吹っ飛ぶ。
反動も強烈で、思わず砲塔の上で身をすくめていた。
壊れたバリケードを吹っ飛ばしながら、チハが走る。
数十年、戦いもせずに眠り続けた鬱憤を晴らすかのように。だが、それはやっぱり遅くて、走れば充分に追いつける程度の代物でしかなかった。
エンジン音が凄い。
地響きのようである。中古のトラックのようだが、それ以上に、聞いていて心配になってくる。
きちんと最後まで動くのだろうか。
戦車の車体も、瞬く間に黒く塗りつぶされていく。
けたけたという笑い声が聞こえるのは、恐らく寛子ちゃんのお母さんのものだろう。もうあの人は、まともに現実を認識できていないはずだ。
ただ、それは、敦布だって同じ。
「ジャージ先生、何か見えますか?」
「いえ、人影は何も! あ、まって!」
後ろから、来る。
四つん這いで追いかけてくるのは、あの輪郭しか見えない怪物達。
空は真っ暗。
懐中電灯で先を照らしながら走る必要が、そろそろ生じてくるかも知れない。そんな矢先のことだ。
「警告射撃!」
事前に準備していた通り、ハッチを開けると、中に叫ぶ。
砲台が旋回し、主砲をぶっ放す。弾の装填は、寛子ちゃんがやっているようだ。
地面が爆裂して、怪物達が怯む。第二射。少し、追撃が遅れた。
先を走っている雛理さんが、手を振っている。来いという合図だ。とは言っても、もとより鈍足なのだ。
威嚇射撃、三発目。
怪物の何匹かが、吹っ飛んだようだった。それで足を止める怪物が出るが、まだ数匹がこっちに来る。
追いつかれたら、危ない。
たん、たんと鋭い音。
怪物の足下に、恐らく雛理さんが撃った銃の弾が突き刺さる。それは正確無比で、流石に怪物達が怯む。弾を素晴らしい手並みで再装填しながら、雛理さんが走る。
既に手元は、黒い雨でドロドロだった。
「研究所は!」
「アクション無し!」
「……なら、そのまま突入を!」
チハのエンジンが咆哮し、監視カメラが付けられている鉄塔を蹂躙しながら進む。
やがて、研究所が見えてきた。一階建てに思える、コンクリの建造物だ。アンテナも鉄塔も、目立つものは何も無い。
誰もいない。
入り口は封鎖されているが、其処には躊躇無く、チハの主砲が叩き込まれた。
至近に横付け。主砲の砲塔を、此方を見ている怪物達に向ける。
「行け。 此処は俺が抑える」
「では、そうさせてもらいますかねえ」
のたのたと、学者さんがチハから這い出てくる。手を貸して、引っ張り上げた。
次に治郎君。更に、口からよだれを垂れ流している寛子ちゃんのお母さん。寛子ちゃんが、装填手として残ろうかというそぶりを見せたが、お爺さんは首を横に振った。
装填は遅くなるが、戦車は大きな鉄の塊だ。
近代兵器でなければ、チハを止められる戦力は、此処にはない。おじいちゃんを心配はしなくても大丈夫だろう。
ただ、雨の中、遠くをうかがうと。
もう島は、この森の一帯以外、残っていない様子だ。
あの怪物達も、追われてここに来たのかも知れない。
きいきいと、鋭い声が聞こえた。
怪物達を統率している存在がいるのはほぼ確実だろうと、雛理さんは言っていた。それは、どこにいるのだろう。
もしも人間が生き残っているのだとすれば、此処に集まっているはず。いや、集まっているかも知れない、だろうか。
タオルで、顔だけでも綺麗にする。
もう、全身真っ黒で、どろどろだ。酷い匂いが、とれそうにない。
「ジャージ先生、あの雨、怖い……」
「大丈夫、きっと晴れるから」
「此方です」
雛理さんが、手招きする。外からは、チハのエンジン音が聞こえる。だが、それ以上に、雨脚が強くなりつつあるのか。
雨の音の方が、より力強く聞こえていた。
研究所はちいさなコンクリの建物だったが、地下は広かった。
建築の業者が来ていたのだが、どこで何をしていたのだろう。そう思わされるほどに、中には何も無い。外にも、建築中の建物らしいものは何も無かった。それだけではなく、ユンボの類も見当たらない。
雛理さんが、ぼやく。
ぽたぽたと、黒い雨水が、床に垂れ落ちていた。
「此処にも、誰もいませんね」
「気をつけて。 基地局みたいに、怪物だらけかも」
「え……」
「消防団と一緒に、最初に基地局に行ったんだ。 中はあの輪郭しか分からない怪物だらけだった」
あの時から、あらゆる何かがおかしかった。
もしも元凶がこの研究所にあるのだとしたら。
エレベーターが動いていた。しかも、地下十階まである。
一階ずつはさほど広くもなく、人気も無い。というよりも、掃除までして引き払っている様子だった。
「一度、見てきます」
雛理さんがエレベーターに乗って、一度下に降りる。
一階ずつ確認しているのだろう。ゆっくり、エレベーターは動いて、戻ってきた。その間、生きた心地がしなかった。
渡された村田銃の使い方は聞いたが、怪物が出てきたとき、撃退できるとは思えなかったからだ。
ほどなく、雛理さんが戻ってくる。
顔が、青ざめていた。
「行成お爺さんも呼んできてください。 今すぐ」
「え?」
「急いで」
寛子ちゃんと連れだって、急ぐ。
何か、とても嫌な予感がした。
その予感は、すぐに現実になった。
外でチハを乗り回し、大暴れしていた寛子ちゃんのおじいちゃんを、手を振って呼び、連れ出す。かなりの大音響の下である。気付いてくれるまで、随分時間が掛かった。戦車を横づけると、何をしていると怒鳴られた。
だが、二人で雁首を揃えて、呼びに来ているのである。
よほどのことがあったと、察してくれたのだろう。
チハを乗り捨てて、出てきてくれた。
怪物は追ってこない。よほどチハに酷い目に遭わされたのか。それとも、別の理由からか。
念のため、途中にある戸は、全部内側から戸棚や机を押しかけておいた。これで、少しでも時間を稼げるはずだ。
少なくとも、泥が此処に押し寄せるくらいの間までは。
全員で、エレベーターに乗る。途中、地下四階で止まって、雛理さんが来るように促す。
そして、見た。
どこもかしこも、無人だ。
それだけではない。
「このエレベーター、シェルター構造になっています。 最初から、泥が来ることを、知っていたんでしょう」
「え? でも、それなら、働いていた人達は?」
「それは、分かりません」
つまり、最下層にも、答えは無かったという事か。
最下層で、エレベーターが泊まる。
むき出しの岩盤。
丁度、チハが格納されていた、ホール状の空間のようだった。
物資が山積みされている。水や食料は、それなりに備蓄されている様子だった。分からないのは、此処にも人がいないことだ。
発電機がある。
トイレや、風呂なども。ホールの一部にプレハブの建物が有り、その中に作られていた。簡易のキッチンもある。
「使える、かな」
「子供達を先に。 見張りは、私がします」
「本当に、誰もいない?」
「これじゃあ、隠れようがないねえ」
皮肉混じりに、学者さんがいう。
何しろあるのは、エレベーターのシャフト、それに空間の真ん中に据え付けられている発電機。備蓄物資の山。隅の方にある、プレハブ。
プレハブも一階建ての簡素な造りで、中に誰かが隠れられるようなものではない。
分からないのは、奥の方にある、水たまりだ。
此処だけ、妙に原始的だ。むき出しの洞窟の中、石を組まれて作られた池のようなもの。その中に、虹色の水がため込まれている。
匂いはしない。
子供二人を風呂に入れ、自分もシャワーを浴びて、用意されていた作業着みたいなのを着る。やっと生き返った敦布は、エレベーターを見張っている行成お爺さんを横目に、泉の前に座り込んでいる雛理さんに歩み寄る。
「虹色の水?」
「触らないように。 有毒の廃棄物かも知れませんから」
「でも、これが研究所の研究対象だったりして」
エレベーターが動く気配はない。
それにこれでは、備蓄物資が尽きてしまえば、いずれおしまいだ。シェルター構造だとしても、あの泥はいずれこの島を飲み込んでしまうのではないかと思う。
詰み、なのだろうか。
やっぱり、涙が出てくる。
「しばらく様子を見ましょう。 まだ、終わりだと決まってはいませんから」
雛理に言われて、頷くしか出来ない。
自分は駄目な先生だなと、敦布は思った。
(続)
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