偽りの楽園

 

プロローグ、島へ

 

丘の上に出ると、もう島の全てを見回すことが出来る。

風に吹かれて、麦わら帽子を飛ばされないように押さえる。美しい青い海が周囲にはどこまでも広がり、空の向こうには山のような入道雲。

ただし、それを楽しむには、日差しが強すぎた。

此処斑目島は、離島と言うに相応しい存在である。

空港は無し。

人口は百五十人を超えない。

島へのアクセス方法は、多くても週三回のフェリーのみ。そのフェリーも、天候が悪いと来ないことも多い。

日本の最果てとも言える、地理的には九州の南にあるちいさな島だ。

亜熱帯気候に属する地域だけあり、島の半分以上を原生林が覆っている。かろうじてハブは生息していないが、その代わり海の中は危険なアンボイナだらけで、観光地としてはやっていけない状況だった。

だから、若い人達は、みんな島を出て行ってしまう。

村長は昔から、此処に資本を誘致しようと、様々な事をしてきた。

だからかも知れない。

少し前から、黒服を着た無口な男達が土建屋と一緒に出入りして、建築資材を持って山奥に何かを建てていた。

誰も、何が作られているかは知らない。

だが、島の自然は、いとおしむものと言うよりは危険な傾向が強い。海の中にいるアンボイナもそうだし、森の中には本土から持ち込まれたらしいオオスズメバチも生息している。猛獣と呼べるほど危険な動物はいないが、猪は気性が荒く、怪我をさせられることもある。

だから、自然を荒らされると怒る年寄りは、あまりいなかった。

「寛子ー!」

名前を呼んでいるのは、祖父だ。

まだ壮健な祖父だが、漁師としては既に引退して、息子夫婦に漁を任せている。

もっとも、この島の近海では、ろくなものが採れない。海流の問題か、良い漁場が存在しないのだ。

だから、稼ぐためには、遠くへ行くしか無い。

しかしそうなると、他の島の漁師達と、諍いも生じる。

無言の争いがしばらく続いた結果、幾つか漁場は確保されては来た。だが、近年は、漁場は育てて守っていくという概念を知らない海外の漁師が勝手に荒らしていくこともあり、決して生活は楽ではなかった。

丘を降りる。

祖父は畑を見回し、収穫を促した。

頷くと、収穫の手伝いをはじめる。ろくでもない島だが、採れる野菜はまずくはない。三年前からこの島で生活しているが、今ではさほど不足は感じない。かろうじて携帯は動くし、コンビニだってある。24時間営業ではないが。

「寛子、そこの籠をとってくれや」

「はい、おじいちゃん」

祖父はかって相当気が荒い人物として知られていたそうだが、今ではすっかり穏やかだ。もっとも、寛子の前以外では機嫌が悪いという話も聞いたことがあるから、本質はあまり変わっていないのかも知れない。

祖母は既に亡くなっているし、祖父も体にガタが来始めている。

もし祖父が亡くなったら、寛子は恐らく、母の意向もあるし、本土に戻ることになるだろう。だが、それまでは、祖父と一緒にいたいのだ。

日が暮れるまで、時間が掛かる。

夏休みが終わるまでが、待ち遠しいと思うこともある。始まる前は、あれほど楽しみだったのに。

思えば、この時。

何か、嫌な予感がしていたのかも知れない。

 

フェリーには、珍しく十人以上の客がいた。その殆どが政府の関係者らしく、一カ所にまとまっている。

他の客は雛理を含めて四人。

一人はいかにもチャラそうな男だ。好き勝手に生きてきたと顔中に書いていて、そばに見るからに頭が悪そうな茶髪の女を侍らせている。

もう一人は逆に生真面目そうなサラリーマン風の男で、ずっと小型のノートPCをいじり、たまに携帯電話を操作していた。非常に寡黙で、機械であるかのようだ。

「でもー、タカシさー。 なんでこんなクソ田舎に行きたいわけ−?」

「ばっかてめ、いいんだよコーユー所の方が。 夜とか外でヤる時スリル満点じゃね?」

ゲラゲラと馬鹿笑いをするアホカップル。

まあ、言葉通り野外でのプレイでも楽しむつもりだろう。或いは村で窃盗でもするつもりかも知れない。雛理にはどうでも良いことだ。

窓際の席が確保できているので、そこでぼんやり外を見ている。まだ、目的の島は見えてこない。

「なー、ねえちゃんよー」

タカシとか言うアホ男が声を掛けてきた。

性欲丸出しの顔で、正直うざい。

「一人? だったら俺とあそばね?」

「……」

「アケミには最近ちょっと飽きてきててよお。 刺激が欲しいんだよ。 なんなら、あんたが望むようなプレイをしてやるぜ? どだ、あん?」

彼女がトイレに行っているのを良いことに、好き勝手な事をする男だ。

呆れたので、ベトナム語で返事をしてやる。お断りです、と。

その瞬間、舌打ちして席に戻っていった。

「んだよ、外人か。 パツキンならともかく、アジア系に用なんかねーんだよ。 ビョーキうつされたらたまんねーからな」

それはどうも。こっちとしても、貴方のようなゲスはお断りだ。

その男の顔の何カ所かに、性病の初期症状である事を示す特徴が出ていたのだが、教えることなく放っておく。

まあ、この様子では、長生きなど出来ない。存在するだけで害になるようなクズだから、さっさと死んでくれると嬉しい。

読んでいた本を閉じると、再び窓の外に視線を向ける。あと二時間もすれば、島に到着できる。

政府関係者らしい連中が、何か話をしている。

見るからに、カタギではない連中も混じっているところを見ると、噂は本当という所なのだろう。

面倒な仕事を引き受けたものだ。

ビジネスマンがノートPCを閉じると、鞄にしまい込んだ。

そして今度は携帯電話に、持ち運び式の充電器をセット。ビジネス書を読みながら、左手で器用に操作しはじめた。

中々に器用なおじさんだ。

アホ二人は、さっきからビールを飲み始めている。この場で本番でもはじめかねない勢いだったが、そのまま気持ちよく寝入ってしまい、静かになった。いびきが五月蠅いが、ぎゃーぎゃー騒がれるよりよっぽどマシだ。

「貴方、日本人でしょう」

不意に後ろから声を掛けられた。

ビジネスマン風の男だ。ずっと携帯を弄りながら、話しかけてきている。視線も此方に向けてはいない。

改めて観ると、まだ若い。三十代にはなっていないかも知れない。ただ、髪の毛は、かなり北上しているようではあったが。

体つきは細いし、筋肉があるようにも見えない。

「分かりますか?」

「さっきのベトナム語、まだ練習が足りない。 貴方、教授か何かですね。 ただ、知ってはいても、まだ荒い。 現地で使っているベトナム語ではありませんね」

「ふん……まあ、そんなところです」

実際には少し違うが、それだけ見抜ければ充分だ。其処の寝入っているアホ二人に比べれば、随分と頭が良さそうである。

何者かは分からないが、警戒はする意味がある。

短く刈り込んでいる髪の毛を掻き回す。ハーフシャツにジーンズというラフな格好。肌はこんがり焼いているから、女扱いされないことも多い。

だが、それがむしろ都合が良いのだ。

「このような僻地に何の用です、教授先生」

「それは此方の台詞ですが。 貴方こそ、こんな僻地で、何の商売を」

「秘密です」

「それならば、此方も」

一瞬空気が張り詰めたが、別にそれはどうでもいい。

島が見えてきた。

日本でも最果ての離島の一つに分類される島、斑目島。やや細長い形状をしていて、長辺はおよそ三キロ、短辺は一キロ少し。気候は亜熱帯で、豊かな自然を持つ島だが、問題がいくつかある。

まず海は、非常に危険なアンボイナの群生地帯だ。

アンボイナというのは、日本ではイモガイとも呼ばれる、強力な毒を持つ貝である。食べると危険なのではなく、毒針を発射して狩りをするタイプの貝だ。この毒の強烈さは、コブラなどの名高い毒蛇に全く引けを取らないほどで、刺されると処置が遅れた場合、死に至ることも多い。

見かけは毒々しくもないため、その危険性に気付かないことも多い。

この近辺の浅い海域には、アンボイナが多数生息しており、下手に踏み込むのは文字通り自殺行為だ。

しかも遊べるような砂浜もない。

殆どがアンボイナにとって都合が良い岩浜ばかりで、当然のことながらその全てが立ち入り禁止にされている。

かといって、島の内陸の原生林はどうかというと、売りに出来るほどのものがない。

ハブは生息していないが、その代わり獰猛な猪が多数いて、地元の住民達でさえ手を焼いているそうである。

しかも此処近年はオオスズメバチが多数発生していて、森の中には地元の住民でさえ行かないとか。

徐々に視界の中の島が大きくなって行くにつれて、海流が激しくなったのか、フェリーががくんと揺れた。アホ二人が目を覚ます。

ぎゃーぎゃー文句を言いながら起き出した連中の目は、酔いで真っ赤になっていた。

「んだよ、もうついたのかよ。 うぜー!」

「タカシー。 海に遊びに行こうよー」

「死にたくなければ止めておきなさい」

「あん? んだよおっさん」

しらけた様子のタカシ君に、サラリーマン風の男が、猛毒の貝が一杯いるからやめておけと、出来るだけ分かり易く教えてやる。

そうすると、ゲラゲラ笑って、馬鹿にしきった様子で二人は甲板に出て行った。まあ、死ねば良い。知ったことではないし、むしろ死んだ方が世のため人のためだろう。あの手の連中は、生きているだけ社会に害を為すだけだ。

ほどなく、ちいさな漁港にフェリーは到着。ぎゃあぎゃあと飛び出すように降りていった二人は放っておいて、それぞれがマイペースにおりはじめる。黒服の集団がぞろぞろと降りていくのを見届けると、雛理も荷物を背負って、港に降りた。

この島に来るのは、久しぶりだ。

というよりも、この島は故郷なのだ。二十年ぶりに訪れる、だが。

しばらく、無心に島を見て廻る。

家がもう無いことは知っている。だが、それでも、幼い頃の思い出が色々、彼方此方に残っているのが見て取れた。

驚いたのは、コンビニがある事だ。二十四時間営業ではないようだが、それでもきちんと存在している。

こんな島にも、ついにコンビニか。

島には診療所もある。海には当然立ち入り禁止の札が掛かっているが、あのような脳タリンが、それをきちんと確認するとは思えない。数時間後には此処に泡を吹いたアホ二人が担ぎ込まれるか、それとも死体が発見されるか。まあ、どっちにしても、人類にとっては椿事だが。

死ねば良い連中が長生きするのは、好ましいことではない。

島の中央を背骨のように通っている道路を歩いて、北上。

島の北端には、一時間ほどで出る。其処はちょっとした丘になっていて、島全体を見回すことが出来るのだ。

幼い頃、この丘に来るのが好きだった。

まばゆいまでの日差しを浴びながら、丘を上がる。

既に日差しはさほど強くないとはいえ、本土とは比べものにならないほど暑い。麦わら帽子を持ってくれば良かったかと、途中で思った。

潮風に吹かれて、しばし故郷の雰囲気を楽しむ。

気に入らないものもある。道路を使って、明らかに多くの資材を運んでいる形跡がある事だ。

森の中に、何かが作られていることは知っている。

其処に、政府の連中が、妙なものを運び込んでいることも。持ち込んだ道具類を使って調べるのは、まだ少し早い。

まずは、島の様子を確認してからだ。

島の畑には、様々な作物が植えられている。多くはもう少しで収穫が出来そうな背丈になっていた。

家のあった辺りは、既に畑の一部だ。

目を細めて、青々とした作物を見る。今日の宿はもう取ってあるのだし、気にしなくても良いだろう。

「おや、あんたは」

「お久しぶりです」

昔、隣に住んでいたコト婆だ。

雛理が子供の頃から年老いていたが、久々に姿を見たらやはり老婆だった。当時から疎遠だったが、今でもやはり目礼だけをして通り過ぎる。

すぐに雛理が戻ってきたことは、島中に広がることだろう。

それは別に構わない。

この島に住む気はもうないし、何よりそれが目的ではないからだ。

一通り島を見回る。子供の頃、遊んだ場所は多くが残っていた。その反面、やはり開発されたり、潰されたりした場所もある。

しかし、森はどうしたのだろう。

いろいろな知識を事前に仕入れてはいた。

だが、見てみると、以前より明らかに濃くなっているのだ。

雛理が幼かった頃も、森の中には得体が知れない空気が、確かにあった。だが、今の森は違う。

何というか、妖気というか、悪意というか。

そんなものが、立ち上っているかのようだった。

本当にこの中に、妙な研究所が建てられているのか。

確かにこんな島では、誘致できるようなものはない。レジャー施設なぞ建てたところで、人など来るわけがない。

だが、政府の研究施設や、廃棄場だったら。

実際、島の中を通る道路は舗装されているし、家はどれもそれなりに改装されている。村長は、大きな代償と共に、ある程度豊かな生活を手に入れることには成功したのだ。ただし、その代償は。

森の中に、足を踏み入れる勇気は、すぐには沸いてこない。。

頭を振ると、一旦森から離れる。さっきから、森の中をオオスズメバチが飛び交っているのが見える。

噂は嘘では無いという事だ。

オオスズメバチは、危険度で言えば相当なものだ。人間を殺傷する能力を充分に持ち、攻撃力も攻撃性も非常に高い。

どこの馬鹿がこの離島に、こんな危険な生物を持ち込んだというのか。

ふと、空を仰ぐ。

巨大な入道雲が、迫ってきていた。これは、夕方くらいから、一雨来るかも知れない。そしてそれは、大雨に発展する可能性が高そうだった。

 

見込みは当たった。

宿に入って少しした頃から降り始めた雨は、瞬く間に滝のような代物となった。

この島に唯一存在する宿は、大体埋まっていた。客が来ているのでは無い。研究所を建てるのに関わっているらしい建築業者達が泊まっているのだ。連中はみな荒くればかりで、筋肉の盛り上がった腕でビール瓶を掴み、一階の居間で馬鹿騒ぎをしていた。ざっと見たところ、十人くらいはいるだろう。

二階建てのちいさな旅館だが、外にまで建築業者の荒くれ達が屯している。勿論かき入れ時ではあるのだろうが、あんな連中がおとなしくしているとは思えない。毎晩のように喧嘩したり、大騒ぎしているのではないのか。

もっとも、旅館の周囲には民家は一つも無い。

夜も遅くなると、更に雨は激しくなってきた。

そういえば、あのアホ二人はいない。まあ、あの様子からして、行き当たりばったりで来たのだろう。死のうが生きようが知ったことではない。海にさらわれて人知れず行方不明にでもなれば、手間が省けて良い。

そういえば、サラリーマン風の男もいない。

或いは、政府の関係者で、研究所とやらに今頃入っているのかも知れない。

自室に籠もると、鞄を開けて、荷物を取り出す。

一つはカメラ。最近のデジカメは性能の進歩が著しく、しかもデリケートではなくなっている。

以前は大変にデリケートだったが、近年は少し金を出せば防水機能は当たり前についている。携帯電話の付属品としてカメラがはやったことは、カメラそのものの衰退を招くのと同時に、その技術を著しく進歩させた。

続いて、小型のノートPC。

この島でも、一応ネットにはつながる。ただし、光回線などと言う都合が良いものはない。

電話回線を利用してのADSLだ。ISDNでないだけマシかも知れない。

回線速度は、案の定かなり遅い。

一通りニュースをチェックしてから、島の天気予報を見る。

あまりよろしくない。進路を逸れると思われていた台風が、こっちを直撃すると出ていた。

しかもかなり遅い台風である。予定通り、次のフェリーが来るとは思わない方が良いかも知れない。

ドアがノックされる。

鞄の中の装備を確認。大ぶりのサバイバルナイフをはじめとした武器類が入っている。窓の鍵も掛けていないから、脱出路もある。

「はい。 誰ですか?」

「夕食が出来ましたが……」

「有りがとうございます」

白々しいやりとりだ。

とっくに此方が雛理だと知っているだろうに。この旅館を経営している老夫婦のことだって、知っている。

あの事件があってから、よそよそしい扱いを常にしてきた相手だ。正直なところ、目もあわせたくない。

居間に出ると、どんちゃん騒ぎはまだ続けられていた。

荒くれ達はコンビニで食い物を仕入れてきているらしく、それをおかずに酒盛りをしている。無言のまま用意された夕食を食べ始めると、一人が絡んできたが、無言で手をはねのけて、夕食を続けた。

「んだよ、あいそがわりいな……」

流石に無茶はしないか。

実は、こういう荒くれが好き勝手にやっているというのも予想はしていたのだ。何しろ連中は島にとっては大事なお客様である。その立場を好き勝手に利用しているのではないかと。

だが、政府の意向なのかよく分からないのだが、思ったよりもずっとおとなしい。まあ、おとなしいのなら良いことだ。

食事をさっさと済ませると、自室に引きこもる。

食器を出すとき、女将と一瞬だけ鉢合わせた。だが、互いに無言で視線をそらした。

大きな音。

雷か何かか。

外は大雨なのだし、無理も無い事である。一瞬だけ、闇の森の中に、何か得体が知れない気配が立ち上った気がするが。

気にせず、PCを叩き続ける。

島のデータを、今日見た情報と照合しつつ、修正していく。見て廻るべき場所は、いくつでもある。

そして、最悪の場合の、脱出路。

これも幾つかプランは用意してあるが、どこまで実現できるかは分からない。だが、それでも、今から準備はしておかないとまずい。

一通り準備を済ませると、ひとまず眠ることにする。

行動するのは、明日の朝からだ。

 

1、忍び寄る影

 

雨がもの凄い。

寛子は自室で膝を抱えて、何度も顔をぐりぐりと膝にこすりつけていた。

外に出たい。

遊びたい盛りと言うには、中学生になった寛子は無理がある。

だが、血が騒ぐのだ。

せっかくの休みである。離島の学校でも、きちんと義務教育はある。高校に行くには、九州に出なければならないが、それでも此処で、中学相当の教育までなら受けられるのだ。

しばらくベットで膝を抱えていたが、一階に下りる。

この様子だと、父は漁から戻ってこられないだろう。母は横になって、退屈そうにテレビを見ていた。

「どうしたの、寛子」

「おじいちゃんは?」

「畑の様子を見に行っているわよ」

無言で、外に出る準備を始める。どうして一緒に行かなかったなどと言っても、もう遅い。

畑は家のすぐ側とは言え、外に出られる大義名分がこれで出来たというのもある。

長靴を履いて、カッパを着込んで、外に。

どっと横殴りの雨が、体にたたきつけられる。これでは、傘など何の役にも立たない。

おじいちゃんは畑の中で、作物が傷まないように、作業を続けていた。ビニールを巻き付けたり、藁で覆って縛り付けたり。

すぐに手伝いをはじめる。

「昌子は、どうしたあ」

「テレビ見てるー!」

「そうかあ」

大声で会話しながら作業するのは、それだけ風の音が凄まじいからだ。

おじいちゃんはまだ足腰は大丈夫だが、耳がかなり弱ってきている。そんなおじいちゃんを放って、テレビを見ている母が、不快でならない。

寛子は前から、おじいちゃん子だとよく言われていた。

だが、こういう場合は、思うのだ。

「早く戻ろう! 怪我しちゃうよ!」

「あと少し! そこをビニールで覆う!」

「分かった!」

風が強いから、風よけの対策を何重にも施さなければならない。石を積んで風を避けるようにし、作物によってはさっさと収穫してしまう。

外に売る作物は殆ど無い。此処の畑のものは、家族で食べてしまう分が半数以上を占めている。

だから、多少は気楽だ。

もしこれが売り物だったら、洒落にならない。

おじいちゃんと一緒に、家に戻る。相変わらず母は、寝そべってテレビを見ていた。

畑の作物は、確かに微々たる収入しか作らない。

今は、島のどこでも、政府からの支給で楽な生活をしている。家を建て直しても、まだおつりが来るほどなのだ。

数年前までは、嫌々ながらも母は畑の手入れを手伝っていた。

だが今では、この通り。

無言で仕事をする祖父は、それでも嫌そうな顔はしなかった。どっかとテーブルに腰掛けると、言う。

「昌子、酒をくれねえか」

「今だしますよ」

露骨に舌打ちすると、母は冷蔵庫に向かう。

まだ足腰がしっかりしているのだから、自分で取りに行け、とでもいうような雰囲気だ。頬を膨らませる寛子に、良いとおじいちゃんは言う。

ひょっとすると、仕返しのつもりなのかも知れない。

おじいちゃんは昔、気性が荒く、厳格だったという。

実の娘である母にも、相当つらく当たっていたと聞いている。その時の意趣返しのつもりなのか。

もしそうだとすると、おじいちゃんも、罪滅ぼしのつもりなのかも知れない。でも、それはみんなが不幸になるだけだと、寛子は思う。

テレビが消えた。

既にこの離島でも、アナログ放送が終了して久しい。リモコンをしばらく弄っていた母の前で、テレビの電源自体が落ちる。

「停電か」

「やだなあ。 村の消防団の人達、大変だね」

「そうだな」

煙草に火を付けるおじいちゃん。

一番大変なのは、夜からだ。まだしばらく雨は止まない。さっきテレビで見たが、台風がこの島を直撃する。島が暴風域を抜けるのが、大体今夜の夜半くらいだとか。ただし、かなり足が遅い台風だし、この近辺で勢力が衰えることはないだろう。

つまり、夜に電気無しで過ごさなければならない。

冬ではないから、寒さの心配はしなくても良いだろう。

母は昼寝すると言い残して、自室に向かった。

当然、昼飯を作る気など無いだろう。気は重いが、寛子がやるしかない。

「おじいちゃん、何が良い?」

「冷蔵庫は」

「そっか、選んではいられないね」

痛みそうな材料から先に、順番に出していく。

卵は全部卵焼きにして処分してしまう。コンロをIHにしていなくて助かった。しかし、おじいちゃんに言われて、やっと気付くとは。

寛子は頭が良い方では無いが、結構悔しい。

さっさと卵焼きを仕上げて、他の材料も使っていく。味噌汁ができあがった頃には、母がタイミング良く降りてきた。

三人で食事にする。

停電が復旧する気配はない。外の風はますます強くなる一方で、出られそうな気配はなかった。

やがて、雷が、島の彼方此方に落ち始めた。

「こりゃあ、電力の復旧は、無理かも知れんな」

「今頃、災害救助隊を呼んでるかも」

「大げさな。 これくらいの台風、年に何度もあるでしょう」

母が平然と言う。

雨戸は閉めてあるから、ガラス戸が割れることは、多分無い。

怖いのは竜巻が起きたりする事だが。このレベルの台風なら、寛子も何度か体験したことがある。

いずれの時も、人が死ぬ事は無かった。

「寛子、今のうちに寝ておけ。 夜が一番危ないからな。 お前も消防団にかり出されるかも知れん」

「分かった。 おじいちゃんは」

「俺は良い。 適当にビールでも飲んで、ゆっくり過ごすさ」

頷くと、自室に戻った。

雨戸に何か当たったか、がんと鋭い音が一つ。この様子だと、消防団だけではなく、工事の人達も、大変だろう。

布団に潜り込むと、目を閉じる。

夏休み早々、大変な日が来たものだと、寛子は思った。

しばらくして、外が静かになったのに気付く。

風が弱まったのかと思ったが、違う。風の音は、相変わらず雨戸越しに聞こえてくる。むしろ、雨脚が弱まったのかも知れない。

一階に下りる。

おじいちゃんが、相変わらず黙々とビールを飲んでいた。

「寛子、起きてきたか」

「何だか静かになったね」

「猟銃を出してこい。 何だか嫌な予感がする」

まさかと笑い飛ばそうとしたが、おじいちゃんの顔は真剣そのものだった。

そして、この顔をしているとき、色々と嫌なことが起こる。

前は大きな水難事故が起きて、村の漁師達が何人も死んだ。少し前には猪が大暴れして、おじいちゃんが猟銃で仕留めた。

すぐに外に出て、物置を探る。

不気味なほど周囲は真っ暗で、風だけが囂々と吹いていた。雨は全く降ってきていない。台風は、もう通り過ぎたのか。

携帯を取り出してみるが、圏外だ。

この辺りだと、普通は一本二本は立つのだが。基地局に、何かあったのだろうか。

物置に入っている猟銃を取り出す。

本当は免許を持っていない寛子が持つのはいけないことなのだが、今は仕方が無い。三重に掛かっている南京錠を外し、弾も取り出す。弾は五十発ほどある。

この島には熊はいないから、猪対策の弾だけだ。それでも、一撃で猪を仕留めることが出来る、強力なものだ。

よく熊にはライフル弾も効かない、などという話があるが、それはあくまで当たり所の問題。

実際には、専用の銃を使えば、熊だろうが象だろうが一撃で殺せる。

人間の兵器は、それだけずば抜けた破壊力を持っているのだ。地上で人間だけが一方的に繁栄しているのは、その武器があまりにも飛び抜けて強力だからだ。おじいちゃんの受け売りだが、何度か見た猟の様子を見る限り、正しいと寛子も感じている事だ。

油紙に包んだ猟銃を、おじいちゃんの所に持っていく。

「雨はどうした」

「ううん、降ってないよ」

「……オンカヌシ」

「え?」

何でも無いと言うと、おじいちゃんは猟銃の整備をはじめた。

黙々と銃身の状態を確認し、手入れを着実にしていく。銃の手入れを終えた後は、弾を確認しはじめた。

幾つかを、横に弾く。

駄目になっているとか、そう言う理由だろう。

「いざというときは、島の南に洞窟がある。 中は迷路みたいになってるから、入り込めば簡単にはみつからねえ筈だ」

「え? どういうこと?」

「あくまで万が一の時のことだ。 それと、動きやすい格好に着替えて、昌子を起こしてこい」

何だか、とんでも無く嫌な予感がする。

言われたまま、いつも外を歩き回るときに使うハーフパンツとシャツに着替える。濡れてしまうと大変だから、着替えを持っておいた方が良いかと思って、何着かリュックに詰め込んだ。

母を起こしに行くと、非常に不機嫌そうだった。最近ひいきにしているドラマが見られないと、文句をぶー垂れている。まだ電気は復旧していないのだから、当然だろう。携帯も、そろそろ充電しないと危なそうだ。

「あによ、なんだっての?」

「おじいちゃんが、降りて来いって。 動きやすい格好に着替えてって」

「ふん、今忙しいんだけど」

「猟銃出してる」

そこまで言うと、渋々母も階段を下りはじめる。この家で、おじいちゃんが猟銃を出すという事の、意味を知らない人間はいない。

外で、大きな音。

雷でも落ちたのか。首を思わずすくめた寛子に、母は早く降りるよう、邪険に促した。雨が降っていなくても、雷は落ちるのかと、少し不安になりながら、階段を下りる。

おじいちゃんは、既に銃を整備し終えていた。

弄っているのは、ポータブルラジオだ。だが、音は聞こえてきていない。

「こりゃあ、いよいよただ事じゃねえな」

おじいちゃんが呟く。

嫌な予感が、胃の辺りをせり上がってくるのを、寛子も感じた。

「隣の家の様子を見に行くぞ。 何があっても、俺から離れるなよ」

おじいちゃんが腰を上げる。

既に時刻は、0時を廻っていた。

 

様子がおかしいことに、雛理は既に気がついていた。

すっかり宴会で盛り上がっていた工事の連中も、既にいなくなっている。居間に降りると、濃厚な酒の匂いと、食い散らかされた食い物が、手当たり次第に散らばっていた。

厨房に出る。

誰もいない。というよりも、最初から誰もいなかったかのように、冷え切っている。真夜中だからとはいえ、明かりが一切ついていないのはおかしい。こういう場所には、自家発電が出来る装置がついているものなのだが。

無音の旅館の中を歩く。

それほど古い旅館ではないが、やはり真っ暗になると、おかしな威圧感というか、雰囲気も出る。

階段を踏むたびにぎしぎしと音がするのには、閉口させられた。

自室に戻ると、装備を確認。

この島に来た時点で、覚悟はしている。そもそも、この島に来たこと自体が、異常事態を察知したからなのだ。

昼間島を見回った時点では、おかしな事はさほどは無かった。

研究所とやらが作られているという森の奥には、異様な気配はあった。だがそれだけで、島民達は平穏に暮らしていたし、知っている人だっていた。

今は、違う。

誰もいなくなった旅館を、リュックを背負って出る。

携帯もノートパソコンも、あまり長くは充電は持たない。予備のバッテリーは持ってきているが、それでも限界がある。

だから、使うタイミングを、吟味していかなければならない。

外に出ると、雨は全く降っていなかった。さっきまで降っていたから、地面は泥まみれだが。

その泥の中、多数の足跡が残っている。

十中八九、工事業者の連中が残したものだ。つまり連中は、何かしらの理由で、連れだって外に行ったことになる。

夕方辺りから二時間ほど雛理は寝ていた。

しかし、起きた時点では、まだ下で騒いでいる音がしていたのだ。旅館を経営している夫婦も、なにやら行き交って作業をしている様子だった。

しかし、十一時を過ぎた頃だろうか。

急に、音が止んだ。

しばらくは様子見をしていたが、やはりおかしいと判断。雛理は動く事にしたのだった。

足跡を付けていく。空は真っ暗。もの凄い分厚い雲に覆われていて、星一つ、月さえも見えない。

確か、工事の連中は何台かのバンとトラックを乗り回していたはず。

だが、それらの姿もない。

遠くで、大きな音。

音がしているのは、密林の中ではない。どちらかと言えば、住宅街の方だ。住宅街と言っても、民家が点々としている、程度のものだが。

嫌な予感が、加速度的に大きくなってくる。

この仕事を始めてから、危険な目には何度もあって来た。

東欧のある国では、政府主導の少数民族虐殺の場に出くわした。動員された軍が、本当に情け容赦なく、女性から子供まで虐殺を実行していた。

あの時は、物陰に隠れなければ、自分も殺されていただろう。

容赦なく、何もかもを抹殺しようという空気。

張り詰めたというか、巨大な猛獣の前に出たようなと言うか。

そんなおぞましい空気は、確かにあるのだ。

もたついていると、本当に危ない。

一旦身を隠すべく、この島の事を思い出す。行くならば、南部にある洞窟が良いだろう。波の浸食で出来た大きな洞窟で、内部は入り組んでおり、滅多なことでは入り込めば見つかることはない。

はっきりいって、避難を促している暇は無い。

もたついていれば、自分の命が危ない。だが、見かけた人間には、避難を誘導しよう、とは思った。

南へと走る。

途中、森を見かけた。

昼間以上のおぞましい空気を感じ取ったので、避けて走る。

あの中に入ったら、何に出くわしてもおかしくない。そんな勘が働いた。

 

琴原敦布(ことはらあつの)は、斑目島に赴任して三年目の学校教師である。専業は体育なのだが、この生徒数十名程度のちいさな学校では、関係無しに授業を教えなければならない。

いつも赤いジャージを着込んで授業をすることから、敦布は生徒達からジャージ先生と呼ばれている。

他に二人いる先生はどちらも中年以上で、二十代の敦布はまだ新人に等しい。だから、雑用や事務は、率先して引き受けなければならない立場だった。

ちいさな島だが、子供達は可愛い。

だから、夜間に残業をすることも、テストを作るのも、苦ではない。

今日のように、消防団に入って、見回りをするのも、だ。

島には若い人は殆どいない。

自警団も兼ねている消防団の人達は、みんな一回り以上年上のおじさんばかりだ。しかも閉鎖的で、みんな敦布の事を警戒しているのが丸わかりである。

ただ、手を出してこようという雰囲気は無いし(お猿みたいなショートにしている髪と、野暮ったいジャージが、そして何よりあんまり高くない背が原因かも知れない)、生徒達のためだという意識の方がより強いので、嫌だと思った事は一度も無かった。

「雨は止んだみたいッスね」

「……」

じろりとにらまれたきり、それきり。

体育会系の習性が全身に染みついているからか、どうも喋るときはッスとつけてしまう事が多い。特に年上の相手と喋る場合は、だ。

頭が悪いのは自覚している。だが、得意なものもある。笑顔だ。

モデルさんのような女っぽい艶っぽい笑顔は出来ないが、子供が寄って来るような笑顔は作れる。

だから、生徒達には、嫌われていない。

相談を持ち込まれることもある。中学校の高学年に当たる生徒には、恋愛相談をされることもあった。

恋愛の経験はあまりないが、それでも真摯に相談を受けてきたからか。女子達は、いざというときに、敦布を頼りにしてくれているらしい。それが、教師としては、とても誇らしい。

雨は止んだが、風は強い。

最初に消防団が到着したのは、基地局だ。ほぼ島の真ん中に有り、ちいさな発電所と併設している。

発電所は自家発電が効いているからか、まだ明かりがついていた。

一方で、基地局は真っ暗である。

このちいさな島には似つかわしくないほど、基地局は立派だ。数年前、政府がなにやらおかしな研究所を建て始めたとき、村に多大なお金を落とした。これはその象徴の一つ。この島ではテレビにしてもラジオにしても携帯にしても、使用には困ることがないのだが、その利便性はこの基地局があるおかげである。

恐らく、本土の僻地よりも、よっぽど電子化が進んでいる。

「おい、ジャージの」

「何ッスか?」

「見てこい」

一番年かさの消防団員に言われて、懐中電灯を渡される。彼はこの島に唯一いる駐在だ。非常に気むずかしいおじさんで、巌のような顔が笑みを作るのを、敦布は見たことが無い。

流石に命令には凍り付いたが、これも円滑な人間関係のためだ。大丈夫大丈夫。笑顔笑顔。自分に言い聞かせながら、懐中電灯に明かりを灯す。

基地局は周囲をコンクリの塀で囲まれていて、入り口は鉄の門扉がある。普段は見張りの警備員がいるのだが、今日は姿が見えない。

こんな暴風雨(今は風だけだが)の中だから、無理もないか。

「お邪魔しまーッス!」

チャイムを何度か押してみる。

返事無し。

小首をかしげながら、後ろに声を掛けてみた。

「砂土原さん! 返事無しッスよ!」

後ろでは、無言で此方を見ている。

さっさと中に入れとでも言うのか。

「ええー!? 流石に不法侵入なんじゃ……」

「……」

「分かったっス! もう、酷いなあ」

チャイムを何度かぴこぴこ押しても、反応無し。仕方が無いので、コンクリ塀にしがみついて、登る。

高校時代にやっていたのは、バスケだ。一応県大会でのベスト4まで残った強豪で、レギュラーもやっていた。もっとも、レギュラーになれたのは三年からで、エースプレイヤーにはほど遠かったが。

ただ、レギュラーになろうと、青春は全部つぎ込んだ。

そのため、ジャンプ力はそれなりに鍛えられている。男子みたいにダンクシュートなんてできないが、それでもこのくらいの門扉だったら乗り越えられる。

「よっと!」

内部の敷地に、着地。

消防団に出るとき使っているのは、自前のバスケシューズだ。高校の頃から愛用しているこの靴は、今でもサイズが変わらず使う事が出来る。もっともこれを履いているおかげで、猿みたいだとか男みたいだとか、島民には陰口をたたかれているのも事実だ。未だにこの島では、貞淑な女性が見本だとされているらしい。ちょっと寂しいが、生徒達のためならがんばれる。

生徒達は無事だろうか。

不安はあるが、まずは安全を確認しなければならない。今の時点では、全員の安全を確認は出来ている。ただ、台風はまだ通り過ぎる気配がない。停電を復旧すれば、連絡だって取りやすくなる。

基地局の異常が復旧すれば、携帯だって動くようになる。

今は役立たずの携帯も、すぐに頼りになる相棒として復活してくれるはずだ。

冷え切ったドアを開ける。自動ドアではないが、何故か押すだけで、内側に開いた。

妙な気配がある。

中に勤めている人だろうか。発電所と基地局は、本土から派遣されてきた人が働いていると聞いたことがあるのだが、まだ顔を見たことは一度も無い。この狭い島なのに、である。

そういえば、消防団の人達は、どうしてここに入りたがらなかったのだろう。軋轢でも、あるのだろうか。

「お邪魔しまーッス!」

出来るだけ大きい声で挨拶。

部活の先輩達に、大きい声で挨拶するようにと、一年の頃から鍛えられた。そうすることで相手に誠意を示せるし、自分でも気持ちが良くなると。

不法侵入してしまったので、せめてこれくらいの事は、と思ったのだが。

結果的に。

それが、最悪の結果を招いた。

ひたり。

ひたり、ひたり。

足音が、近づいてくる。奥から、複数。懐中電灯を向けて、挨拶しようと思った敦布は。懐中電灯のライトを浴びたそれの正体を、最初理解できなかった。

懐中電灯を取り落とさなかっただけ、マシかも知れない。

少なくとも、それは、人間では無かった。

全身に震えが来る。

がたがたと揺れるライトの先に、映り込むそれは。一つや二つではない。

よくは見えないが、それが人間にとって危険な存在である事、それに会話など成立する余地も無い存在である事、だけは確かだった。

雰囲気が、違うのだ。

強いて言うなら、此方を捕食しようとしている猛獣。

彼我の間には、食物連鎖という絶対的な壁が、立ちふさがっている。

「ひ……!」

後ずさる。

情けないことに、自分の悲鳴で、やっと我に返ることが出来た。心臓がばくばく言う。そして、相手が一歩を踏み出した瞬間。

「のぎゃあああああああああああ!」

あまり可憐とは言いがたい悲鳴を上げて、敦布は懐中電灯を投げつけ、一目散に走り出す。

後ろから、追いすがってくる気配。

がちゃんと、懐中電灯が砕ける音。外の人達が、逃げてくれることを祈るばかりだ。あんなのが、島中にいたら。

いや、まて。

そもそも、どうして敦布だけが、この中に入れられた。

まさか、此処に誰も入りたがらなかったのは。

門扉に飛びついて、よじ登る。

さっきまで外で待っていた人達は、一人もいなくなっていた。悲鳴を聞いて薄情にも逃げたのだろうか。振り返っている余裕は無い。飛び降りて、這うようにして泥の中を走り出す。

後ろから、何かが迫ってくる。

滅茶苦茶に走って、逃げ回った。みんな、どこへ逃げたのだろう。或いは。

最初から、知っていた。

それとも。

不意に、後ろから飛びかかられ、口を塞がれる。

もがいて逃げようとするが、相手の力も体格も、此方より上だった。運動部で鍛えていたはずなのに。

殺される。

それだけではすまない。きっと食べられてしまう。

その様子を想像するだけで、敦布は失神しそうだった。

「静かに!」

人の声。

そういえば、口を塞いでいる手には、ぬくもりがある。

心臓が飛び出しそうなほど跳ね回っている中、目をつぶって、必死に呼吸を整えていく。

耳元に、声。

「大丈夫、私は人間だよ」

まだ、口から手を離してはくれない。

だが、女の人の声だ。

しばらくして、やっと口から手を離してくれる。振り返ると、浅黒い肌の、精悍な雰囲気の女性が立っていた。

格好は女性と言うよりも、活発な男の子みたいだ。ジャージ姿の自分とは、多分活発の方向性が違う。

自分の場合、ずぼらさが目立つのに対して、この人は何というか、実践的な雰囲気がある。

「あ、昨日フェリーで来た……」

「やっぱり知られてたか」

開口一番に、女性はそう言って、苦笑いした。笑うと多少はかわいらしくなる。

だが、すぐに表情を引き締める。何か大きな音が、集落の方でしたからだ。

まさか、あの化け物が、島を襲っているのか。

子供達は、無事なのだろうか。

反射的にそちらに向かおうとする手を、捕まれる。

「そっちに行ったら、死ぬよ」

「で、でも、子供達が! 私、先生で!」

手を、話してくれない。

この状況、異常すぎる。それぞれが逃げてくれることを祈るしかないと女性が言うのを聞いて、敦布は気を失いそうになった。

生徒達十三人は、全員を把握している。

誰が何が好きで、どんな夢を持っていて、どんな風に勉強が出来て。

勿論家の環境だって知っている。

みんな、順風満帆な環境ばかりではない。親の仕事を強制的に継ぐことを義務づけられている子もいるし、あまり良くない親の下で苦労している子だっている。逆に、義務教育終了を待たずに、島を出て行く予定の子もいた。

みんなに、何かあったら。

敦布は、きっと生きていけない。

みんなは、ずぼらでいい加減な敦布を、先生と慕ってくれる、命より大事な存在なのだ。

「まずは此方に来て。 一人でも、今は避難して、それから考えよう」

「せ、せめて、様子だけでも!」

ぐいと、女性が後ろに回ると、首に腕を絡めてきた。

意識がすっ飛ぶ。

後は、暗闇だけが、其処にあった。

 

誰もいない。

隣家の中には、それこそ何もいなかった。確か隣家では、ホンという名前の老猫を飼っていたのだが、その子もいない。

おじいちゃんは家の中を見て廻っていたが、やがて決めたようだった。

「南に行くぞ。 洞窟に逃げ込む」

「ちょっと、おじいちゃん!」

「死にたいならおいていくぞ」

母の言葉を、おじいちゃんが遮る。

外の風はまた強くなってきている。他の家を見て廻る余裕は無いと、おじいちゃんは判断したのだろう。

寛子は、正直、怖いと思った。

何が起きているのか、全く分からないのが怖い。

誰もがいなくなってしまっているのが、怖い。

そして、うすうす感じるのだ。

島の中に、何かおかしな気配が、充満しつつあるのを。

クラスのみんなは、無事だろうか。

仲良しの美智子とは、明日一緒に遊ぶ予定を立てていた。コンビニでお買い物をして、別の友達が持っているゲーム機を目当てに転がり込もうと思っていたのだ。ゲーム自体には、寛子も興味がある。

勿論、ゲーム機自体は、家にもある。

だが、ゲームにはどんなものがあるかよく分からないし、あまり本数は持っていない。詳しい子の家に行けば、効率よく遊べるものなのだ。

「行くぞ、寛子」

「おじいちゃん、何があったのかな」

「まずは避難してからだ」

息を呑む。

これは、一刻の猶予も無いかも知れない。

しかもおじいちゃんは、島を縦断する道路は使わないと言う。島の縁の方にある海岸線を通っていくと言うのだ。

足場も悪いし、波も高い。

もしも海に落ちたら即死確定だ。助ける方法は一つも無い。

母ががなりたてようとするが、おじいちゃんがひと睨みで黙らせる。そして、無言で歩き始めた。

まだ気力はしっかりしているし、足腰も弱っていない。

おじいちゃんは、やっぱり頼りになる。だが、もう年なのだ。何かあったら、寛子が支えてあげなければならないだろう。

村の方で、また大きな音。

あれは、美智子の家の方だ。

「みっちゃん……」

何が起きているのか分からない。

だが、怖くて仕方が無い。

風の音が、化け物の唸り声に聞こえた。耳を塞ぎたくなる。潮の匂いが強くなってくる。文字通り波濤が押し寄せている海岸線に出る。海は、予想以上に荒れていた。だが、何か様子がおかしい。

点々と散らばっているものを見て、おじいちゃんが足を止めた。

「少し戻れ」

「? あ……」

この島の海に多数生息している、危険な貝、アンボイナ。

それがどういうわけか、多数打ち上げられて転がっている。波がそれだけ強いという事だが、どういうことなのだろう。連中は岩場に潜んでいて、波くらいは避ける術を持っている筈なのだが。

踏んでしまうと、確かに危ない。

道から外れて、歩く。

強く吹き付けてくる風が、潮の欠片を飛ばしてくる。波が千切れて、潮水が舞い上がり。それが風に吹かれて飛んでくるのだ。

今、雨は降っていないが。

海岸線の近くでは、その激しさは、あまり変わらなかった。

轟と、凄い音がした。ひときわ強い風が吹いて、カッパのフードが千切れ飛びそうになった。

その表紙に、見てしまう。

燃えている家がある。

その周囲には、何かが無数に集っていた。その何かが、何者なのかは分からない。

だが炎に照らされるその姿は、人とはとても思えず。それどころか、寛子が知っているどんな生き物とさえも違うような気がしてならなかった。

あれは、村長の家だ。

たき火のように燃えさかる家。おじいちゃんに、手を引かれた。

もう間に合わない。

そうおじいちゃんは、言った。

平和な、楽しい夏休みが。

一転して、地獄に叩き落とされたのは。この瞬間であったかも知れない。

 

島の南端。

先端部から少し外れた海岸線は、小高い崖状になっている。其処を降りていくと、広い横穴が有り、中は鍾乳洞になっているのだ。

これが、島の名物である、洞窟である。

内部は迷路のように入り組んでおり、子供達には絶対に入らないようにと、親から一度は声が掛かる。

それだけでは危険だと判断したからか、数年前からは、この洞窟を使っての実習が行われるようになった。

一度、わざと一人にするのだ。

離島でも、完全なる闇というのは、中々経験する機会はない。

洞窟の中で置き去りにされて、子供は大体パニックになる。恐怖が染みついた辺りで、大人が助けに来るのである。

これをやるようになってから、洞窟に忍び込む悪ガキも、それによる事故も、著しく減った。

だが、それが故に。

祖父に連れられて洞窟に入るとき、寛子は全身に、言いしれぬ恐怖が這い上がってくるのを、感じたのである。

何か得体が知れないものが、島を蹂躙している恐怖ではない。

人間の根源に訴えかけてくるような、原初の恐怖だ。

母は、めっきり口数が少なくなった。

燃えさかる村長の家を見て、流石に現実を悟ったからだろう。祖父と喧嘩している場合ではないと、理解したのかも知れない。

「誰かいるな」

自然な動作で、おじいちゃんが猟銃を構える。

あまりにも自然な動きだったから、寛子は全身が緊張に固まるまで、一テンポ遅れてしまったほどだ。

闇の中、懐中電灯の光が浮き上がる。

おじいちゃんとにらみ合うのは、若い女性だった。見た事がある。確か、フェリーで昨日島に来た人だ。

「行成おじいさん?」

「唐島のとこの娘か」

二人は知り合いらしい。だが、おじいちゃんは銃を下ろさない。しばらくにらみ合った後、女の人が一歩下がった。

それで、やっとおじいちゃんが、銃を下ろす。

「何をしている」

「避難をしてきたんだけど」

「どうしてここに来た」

「此処が一番安全だと思ったから」

空気がきりきりしている。

ほどなく、道を譲るように、女の人が右足を下げた。

おじいちゃんが手招きしたので、洞窟の中に入る。懐中電灯を女の人が手渡してくれたので、中の様子が分かった。

他に人はいない。

いや、一人いる。

ぐったりした、寝込んでいる女の人が一人。見覚えのあるジャージ姿。

ジャージ先生とみんなに呼ばれている、敦布さんだ。だらしないしずぼらだし、頭もあまり良くないけど、生徒はみんなジャージ先生が好きだ。気取らないし飾らないし、話をきちんと聞いてくれるからだ。何より、大人と言う事を盾にして、言う事を無理矢理聞かせようとしない。しっかり子供と話をしてくれる、良い先生だと思う。

でも、大人達は、みんなジャージ先生が嫌いだ。

役に立たないとか、アホだとか、陰口を利いているのを、何度も聞いたことがある。

「ジャージ先生?」

先生は目を覚まさない。

揺すってみるが、寝たままだ。まさかと思ったが、息はしている。怪我もしていないようだ。

「落としたな」

「聞き分けがなかったので。 運ぶのが大変でしたよ」

「ふん……」

おじいちゃんが女の人と、相変わらずぎすぎすしたやりとりをしている。

ほどなく二人で、洞窟の入り口に岩を積み始めた。手伝うように言われたので、小さめの岩を運ぶ。

バリケードを、作るらしい。

母も嫌々ながら、手伝いはじめる。きっと、作業が大事だと思ったからだろう。ただし、露骨に手を抜いているのが見て取れたが。

手近な岩を運んで、体が半分くらい隠せる岩の壁が出来る。

それで、まずは大丈夫だと思ったのか。おじいちゃんが、振り返った。

「寛子、ついてこい」

「おじいちゃん?」

「逃げてきた奴がいないか、見てくる。 こっちに来る奴がいないかもな」

少し怖かったが、おじいちゃんがいればへいきだ。

おじいちゃんはリュックから予備の猟銃を出す。村田銃という奴で、今使っている奴のお古だとかいう銃だ。

「いざというときには、使え。 使えるか?」

「免許はあります」

女の人は、笑顔を浮かべることもなく、そうおじいちゃんに答えた。

 

2、這いずる闇の中で

 

目が覚めると、其処は洞窟の中だった。

側には、さっき見た女の人が座っている。どういうわけか、猟銃が近くにおいてあって、その弾を数えている様子だった。

思わず半身を起こす敦布。

「起きました?」

「え……と?」

星明かりが、かなり強い。

ということは、雨雲は去ったという事だろうか。洞窟の入り口には、あまり背が高くないバリケードが作られているようだ。上からは見えないように、構造が工夫されている。側には、不機嫌そうな、寛子ちゃんのお母さんがいた。

「あ、ども」

視線をそらされる。

苦笑いを浮かべる敦布は、居心地が悪くなって、女の人を見た。

「あ、あの……その……」

「出来るだけ静かに。 何が起きているかは、私にも分かりませんから」

それにしても、思い出せない。

どうして寝てしまったのだろう。たしか、生徒達を探しに行こうとして。

思い出す。

飛び起きようとするのを、押しとどめられる。

そして、口を手で塞がれた。

「んー! んーんー!」

「駄目です。 いいですか、今外は、地獄も同じです。 出すわけにはいきません」

「行かせれば? どうせそんなの、いても役に立たないでしょ」

寛子ちゃんのお母さんが酷いことを言ったので、涙目になる。

だが、頭をぶんぶん振った。

「そんなの、酷いですっ!」

「静かに」

「何が起きてるか分からないッスけど、まだ子供達がたくさん取り残されてるんですよ!」

「今、行成おじいさんが見に行っています」

また、口を塞がれる。

暴れるが、この女の人の方が力が強い。

というより、この人、何者だろう。銃を手入れする様子が、もの凄く手慣れているのだが。

でも、諦めきれない。

此処を逃げ出すには、どうしたら良いだろう。

しかし、外はあの化け物が、一杯いる可能性も高いのだ。

怖い。

もっと怖いのは、生徒達を、あの化け物が襲うことだ。

可愛い子供達が、あの化け物にどうにかされてしまうことを考えると、恐怖で身が張り裂けそうだった。

膝を抱えて、ちらちらと女の人を見る。

「ええと、お名前、は。 私は、あつのって言います」

「ジャージ先生でしたね」

「生徒達には、そう呼ばれてます」

「いい年してジャージなんか着てる役立たずの穀潰しよ」

酷いことをまた言われる。

島の大人達が、敦布に冷たいことは、今に始まったことでは無い。多分、ぴりぴりしているのだろう。

女の人は、雛理と名乗る。珍しい名前なので、すぐ覚えた。

「雛理さんは、お巡りさん?」

「どうしてそう思うんですか?」

「その、銃が……」

「免許を持っているだけです」

すげない返事だが、それで納得がいった。

猟師などの一部の人は、銃を免許を取ることで所持できると聞いている。この島にも、何人かそうやって銃を持っている人がいたはずだ。

さっき名前が出たが、行成というと、おそらくは寛子ちゃんのおじいちゃんの事だろう。

「寛子ちゃんは?」

「今、おじいさんと一緒に外に」

「どうして!」

「行成さんが、役に立つと思ったんでしょう」

沈黙が訪れる。

しばらくして、気付く。この人、結構皮肉屋なのかも知れない。

バリケードのすぐ側に移動すると、雛理さんは、銃を構える。何かいるのだろうか。おっかなびっくりバリケードから身を乗り出そうとすると、肩を掴まれ、沈められた。

「あう?」

「このバリケードは、銃撃戦を想定したものではありません。 相手の視界を遮るものです。 分かりますか?」

「えっと?」

「此方からは見えて、相手からは見えないようにする、という事です。 そうなれば、一方的に撃てるでしょう?」

おっかないことを、さらりと雛理さんは言う。

身がすくむ。

しばらく、また沈黙が流れた。

岩場を踏む音。こわごわ覗き込むと、寛子ちゃんと、おじいちゃんだった。ぱっと明るくなる自分の心。

だが、少なくとも寛子ちゃんは、浮かない顔をしていた。

「寛子ちゃん!」

「先生!」

胸に飛び込んでくるかと思ったが、そんなことはない。

しっかりものの寛子ちゃんは、まず敦布の心配をする。

「おけがはありませんか?」

「あー、うん。 寛子ちゃんは?」

「大丈夫です。 おじいちゃんが一緒でしたから」

健脚な行成おじいさんは、バリケードを乗り越えると、その影に隠れて、難しい話を始める。

「村の方におかしな連中がいるな。 多分人間じゃあねえ」

「やはりですか。 何か似ているものとかは」

「遠目じゃわからん。 だがな……」

おかしな事が、多いと行成おじいさんは言う。

まず悲鳴が聞こえないという。異形の者達が村を襲っているのなら、どうして村人達が逃げ回ったり、悲鳴を上げたりしないのだろう。

村長の家は火を掛けられていた。

だが、それ以外に破壊活動が行われている形跡が無い。もしも、この島全域が襲われているとしたら、もう辺りは地獄絵図になっていてもおかしくないはずだ。

それは、如何に頭が悪い敦布にも理解出来た。

「死体の一つも転がってねえ。 何が起きてるのかさっぱりだ。 あんたは、知ってるんじゃないのか?」

「こ、子供達は!?」

「先生」

寛子ちゃんに、ジャージの袖を引っ張られる。

確かに、今二人の会話を邪魔するのは、良くないかも知れない。

「私が知っているのは、この島で重大な犯罪が行われている事です。 ある告発を受けて、来ました」

「公安か何かか」

「いえ、もう少し泥臭い組織です。 いずれ、機会があったらお話しします」

とにかく、今は此処にいることを、悟られないことだと、雛理は言う。

でも、不安で、じっとしていられない。

「寛子ちゃん、クラスメイトは見かけなかった?」

「いいえ。 いくつかの家は覗いたんですが、人の形跡がそもそも無くて……」

「えっ……」

「誰も暮らしていないようでした。 埃が家中に積もっていた家さえありました」

そんな馬鹿な。

この島は、小さいし辺境だが、それでもそれなりに資本が投下され、道路も発展しているし、コンビニまである設備が整った場所だ。

嫌われているとは言え、島の人たちの事は、敦布はみんな覚えている。顔も名前も、である。

頭が悪いしおっちょこちょいだが、唯一の特技は、人の顔を名前を覚えられることだ。

この島の人は、全員知っている。

経歴だって、簡単には分かる。

だから、住んでいないように見える家なんて、あり得ない事がよく分かるのだが。

「先生、落ち着いて。 きっと何か、おかしな事があったんだよ」

「うん。 でも、心配でならないよ」

夏休み、みんな楽しんでいただろうに。

どうしてこんな事になってしまったのだろう。何人かは、確か島の外にいる親戚を訪ねていると聞いている。

きっと、無事でいてくれることを、今から祈るほか無かった。

 

茂みに潜んで、小学二年生の治郎は、じっと息を殺していた。

外にカブトムシを捕りに出て、それから帰ってきて。村がおかしい事に気付いたのである。

変な奴らがたくさんうろうろしている。

それだけではない。

村に、誰もいなくなってしまったかのようだ。

台風が近づいていることは知っていた。避難したのかと思って焦ったが、どの家も鍵を開けたまま、無人になっていた。

しばらく辺りをさまよう。

どうせ虫取の成果はゼロ。夜にも元気に飛び回っているスズメバチが良いみつや餌場を独占してしまっていて、カブトムシどころでは無かった。

そうしている内に、どんどん雨が酷くなってきた。

家に戻って、布団にくるまって静かにしていると。

やがて、それが聞こえてきた。

隣の家の周囲を、びっしりなにかよく分からないものが囲んでいる。窓からこっそりそれをのぞき見た治郎は、全身が縮み上がるのを感じた。

何だろう、あれは。

お兄ちゃんが遊んでいるゾンビのゲームに出てくるおばけ達みたいな、いやもっとおっかなくて、恐ろしい。

それなのに、どうして現実にいる。

ゲームは現実じゃないって、お父さんとお母さんによく言われる。

それなのに、現実は、どこに行ってしまったのだろう。

よく分からないが、それは人のようで人では無く、生き物のようで生き物ではないことが見えた。明かりに照らされることが無かったので分からないが、頭があって、手足があって。それ以上のことは分からない。

分かるのは、残忍で恐ろしい爪が手に着いていること。

暗くてよく見えないが、もたもたしていたら、囲まれてしまう。それはよく分かった。だから、こっそり裏口から這い出したのだ。

それから、走った。

学校に行けば、逃げられるかも知れない。ジャージ先生はおっちょこちょいだけど、きっと話を真剣に聞いてくれる。そうすれば、あの怖い奴らをどうするか、一緒に考えてくれるはずだ。

途中、何度も道を外れた。

でも、それが良かった。

時々、あいつらが歩いているのが見えた。見えるたびに、木陰や物陰に逃げ込んだ。震えているすぐ側を、彼奴らが通る。

通るときに、見える。

何だか、足がとても長い。

それに凄く臭いのだ。さっきはあまり感じなかったが、すぐ側を通ると、腐った肉みたいな、酷い匂いがぷんぷんした。

足を、彼奴らが止めた。

見られているのだろうか。そう思うと、心臓が止まりそうだった。震えて、物陰で膝を抱えてじっとする。

何も、音がしない。風の音だけが、嫌に大きく聞こえる。

だんだん、息をする音が、大きくなっていくのが分かった。頭を抱えてしまう。怖くて、涙が出そうだった。

行ったのだろうか。

おそるおそる、顔を出す。

いない。

良かったと思って、立ち上がって。

そして、見てしまった。

すぐ側の木の上に、いた。二本の足で枝の上に立ち、長い首を伸ばして遠くをうかがっている、気味が悪い生き物を。

悲鳴を上げそうになる。

尻餅をついて、必死に口を押さえた。音がして、相手の動きが激しくなる。

見つかったら、きっと殺される。

這いながら、その場を離れる。全身泥だらけだ。怖い。でも、行かなければ、確実に殺されてしまう。

茂みの中に逃げ込む。

頭を抱えて、ずっと震えていた。

すぐ側を、また彼奴らが通る。草を踏む音が、側で響く。ざり、ざり。重いのだろうか、草がすり切れる音が、嫌に長く響いた。

顔を上げると、今度こそ、化け物はいなかった。

見つからなかったのは、奇跡に近い。

せっかくの服が泥だらけだ。でも、もう、それどころじゃなかった。

学校へ急ぐ。

きっと、ジャージ先生が、助けてくれる。

 

拝み倒した。

「お願い! もし無事な生徒達がいるなら、学校へ行ってるはずッスから!」

そういって、敦布は怖いおじいさんと、雛理さんを説得した。駄目なら、自分一人でも行きたいというと、雛理さんが腕組みする。

「確かに、避難場所になっている学校へ向かう機転が利く子がいてもおかしくはないですね」

「やむを得ないな」

村田銃の手入れを終えたおじいさんが、好きにしろと視線で促してくれる。

やったと歓喜の声を上げそうになるが、しかし。

布を渡されて、ぎょっとした。

「それを口に入れて」

「え……」

「多分何かの拍子で喋ってしまうでしょうから。 口に入れることで、静かになります」

何それと思ったが、冗談を言っている雰囲気では無い。

言われるまま、布を噛む。

すごく息が苦しい気がするが、女の人は気にしない。村田銃に弾が籠もっていることを確認してから、出るように促した。

これでも運動神経だけは悪くないので、バリケードを越えることは難しくなかった。

風はまた強くなり始めている。

ハンドサインを覚えろと言われたが、人名ではないので覚えられない。手招きされたのでついていくと、露骨にげんなりした雛理さんがいう。

「頭を下げて、ついてきてくださいという意味です」

「んーんー」

了解といったつもりなのだが、口の中に布があるせいで、よく喋れない。

洞窟を出て、崖伝いに進んで。

丘の上に出ると、星が出ているので、辺りが見回せた。

ぎょっとしたのは、一カ所だけ火が出ているが、それ以外は無事だ、という事だ。

同じ動作をされる。

確か、頭を下げてついてきてと言う意味だった。兎跳びみたいな低い体勢でついていく。女の人はかなりそんな体勢でも速い。

そそくさと低木の茂みに入り込む。

雨のしずくが一杯ついていて、濡れて気持ち悪い。だが、これで見つかることはなくなるだろうか。よく分からない。

そもそも、あの怪物が、何だったのかも。

今になって思うと、気が動転していたから、あり得ないものをみたのではないかとさえ思えてくるのだ。

だが、行成おじいさんも言っていた。

何か、得体が知れない怪物がいると。

寛子ちゃんもだ。

「んー、んーんー」

「静かに」

「んー」

濡れて気持ち悪いと言ったのだが、通じなかった。

それにしてもこの女の人、本当に何者なのだろう。自衛隊とかの人なのだろうか。村田銃を持っている姿が、本当に堂に入っている。

それだけじゃあない。

さっきちらりと見てしまったのだが、小型の拳銃も持っているようなのだ。

怖いので、そうとは口に出せなかったが。

ついてくるように言われたので、体勢を低くする。

そういえば、小学校の場所を、知っているのだろうか。不安だったのだが、迷い無く進んでいる。

行成おじいさんと知り合いなのだし、この島には詳しいのかも知れない。

茂みを抜ける。

頭を抑えられた。

顔を上げてみて、その理由が分かる。

いる。

何かよく分からないものが、星明かりの下で、歩いている。

今になってみると、人の形に近いかも知れない。間違いなく、基地局で見た何者かだ。

二足歩行しているところを見ると、やっぱり人間なのかも知れないと思ったが、星明かりの下でうっすら見えるシルエットは、どうみても違う。どんな風に変装しても、人間だとは思えない。

全体的に、足が妙に長いのだ。

それに、腕も長い。何か道具を使っている様子は無いが、動きは機敏で、見つかってしまったらきっと。

何をされるか分からない。

自分は別に良い。

怖い目にあった事自体は、実は今までにだってある。

でも、子供達が怖い目に遭うことだけは耐えられない。

しばらく無言で待つと、雛理さんが頭から手を離してくれた。布を口から出したいが、そんなことをしたら何をされるか。

言われるままに、ついていく。

大きな大きな月が、空に出ていた。

茂みを何度も通りながら、北に。何となく分かる。この人は、偵察がしたいだけなのだ。

多分逃げ延びた人が学校にいるなんて、思っていないのだろう。

でも、おかしな事もある。

この島には、多くの人がいたのに。

一体どこへ行ってしまったのだろう。やっぱりそれが腑に落ちない。

この島の猟師は、寛子ちゃんのおじいさんだけではなかったはずだ。猟銃がある家も一軒だけではなかったはず。

消防団には、お巡りさんも参加していた。

そういえば、消防団の人達は、どこに行ってしまったのか。

あの人達がいれば、少しは頼りになるのに。

目の前に、手。

これ以上進むなと、雛理さんが言っているのだ。どうしてだろうと首を伸ばして見ると、理由が分かった。

前方。丘の辺りに、あの訳が分からない怪物が、密集している。

数は十や二十じゃない。もっとたくさん、たーくさんいる。

迂回していくと、道路に出てしまうか、森に突っ込む。しかもあの丘は、周囲の全てを見回せる。

道路に出ると、多分見つかってしまうだろう。

「森に行くしか無さそうですね」

「んー! んーんー!」

森は駄目だ。

この時間の森に入るのは、自殺行為だ。森の中は地形が入り組んでいる上に、大きな石とか枯れ木が転がっていて、しかもスズメバチがたくさんいる。

熊はいないが、凶暴な猪だっているし、怪我をしたらまず助けは来ないと思って間違いない。

しかも、今はこんな状況だ。

必死に雛理さんを引き留める。首を横に振って、森は駄目だと言う。

冷たい目で敦布を見ていた雛理さんは、大きく嘆息した。

「ならば海に出ますか?」

道をかなり戻って海岸線を下り、岩場を北上していくという手も、確かにある。

しかしそれはもっと危ない。

この島に来て、最初に誰もが教わるのは、海には近づくな、だ。

海には超危険な毒を持つ、アンボイナという恐ろしい貝がたくさん住んでいるのだ。毒をもっていると言っても、食べると危ないというような存在では無い。積極的に刺してくるのだ。

敦布もアンボイナを見せられたことがあるが、貝殻は綺麗なのに、とても恐ろしい貝だった。口から長い毒針を発射して魚を襲い、毒を注射して食べてしまうのだ。捕らえた魚を丸呑みにしてしまう姿が恐ろしくて、最後まで見ていることが出来なかった。

学校では子供達が海に近づかないように、授業でその恐ろしさを教える。都会の子供には遠くの恐怖かも知れない。

しかし、この島では、身近な死の危険なのだ。この島にとって、海は漁をする場所であり、同時に危険な場所でもある。

間違っても遊ぶ場所ではないし、泳ぐ場所でもない。

だから、本土でプールに入って、はじめて泳いだという子も何人かいる。

しかもアンボイナの毒には血清がない。

刺されると死亡率も高いし、血清がないから確実に助かる保証もない。しかもアンボイナの毒針は鋭くて、場合によってはスニーカーくらい貫通する。

見ると、動きやすい靴を履いている雛理さん。かなり高級な品のようで、素材が良いのが見て取れる。

そっちはいいが、敦布は少し古いスニーカーだ。岩場を越えられるか、自信が無い。

勿論、アンボイナは貝だ。

陸上に出てきているわけでは無いし、人間を襲って食べる訳ではない。しかし、岩場を通っていくとなると、彼らの目の前に手足を出してしまう可能性が、ぐんと跳ね上がる。

「い、岩場は、どうにかならない!?」

そう言おうとしたが、布が邪魔で言えない。

そうこうするうちに、引っ張られるようにして、戻る。

途中二度、化け物を見かけた。

「この様子だと、相手には知能がありますね……」

「んーんー?」

「見てください。 島の要所を確実に押さえています。 危険地帯を通らないと、島を自由に移動は出来ない。 そう言うことです」

しかも、だ。

雛理さんがいうには、怪物達は見張りに適した場所を確実に制圧しているという。これは、逃げた人間を、捕まえるための工夫ではないのか。

「ど、どうしよう」

口に出そうにも、布が邪魔だ。

右往左往している敦布を引っ張って、雛理さんが行く。多分敦布一人だったら、もう十回くらいは掴まっているのではないのか。

あの怪物達は、基地局で見たとき、とてつもない悪意と殺意を感じた。

コミュニケーションが成立することは、きっとあり得ないと思う。捕食者と、被捕食者。それくらいの違いがあるはずだ。

ならば、子供達が毒牙に掛かる前に、早く助けなければならない。

ついに海岸線に出てしまった。

風がとても強く、岩場に打ち寄せる波が非常に強い。立ち入り禁止のロープをくぐって、岩場に出た。

潮風の匂いが強い。

波が、すぐ側のテトラポット近くまで押し寄せている。勿論、海はとんでも無く深い黒で、落ちたら即死だと一目で分かる。怪我をしなくても、この海に落ちたら、瞬時に海水温で体温を奪われ、泳ぐまもなく水死体になって、お魚さん達の晩ご飯だ。死体が上がることさえ無いかも知れない。

雛理さんはテトラポットの側に躊躇無く降りると、手招きしてくる。

怖い。

でも、子供達を助けなければと言う事を思い出して、決意する。

怖いなんて、言っていられない。

どんなに愚図だって言われたって。

どんなに役立たずだって言われたって。島中からゴミ教師呼ばわりされたって。

敦布は教師なのだ。

都会では、教師に対する風当たりも強いとか聞いている。ジャージをいつも着ている敦布なんて、きっと学級崩壊の餌食にされていただろう。

体育教師を馬鹿にする傾向も強いと聞いている。

学生時代、バスケをやっていたことなんて、親御さん達にとっては何の意味も無いだろう。

「運動神経、良いですね。 小柄な割に、力もかなり強いみたいですし」

「んー? んーんー」

「喋らなくても良いですよ。 はい」

下まで降りると、かなり強い波が足を浚いに来る。

波しぶきを浴びながら、雛理さんは手をさしのべて、敦布を引っ張り上げた。

テトラポッドにはフジツボもたくさんついているし、夜だというのに船虫も動き回っている。

船虫は怖くないが、素手で掴みたいとも、また思えなかった。

海岸を北に。

数キロしかないちいさな島だが、それでも何時間も歩いているように、全身を疲労がむしばむ。

口を指さすが、駄目と言われる。

布を取りたいのだが。

防波堤の上を見ていた雛理さんが、首をゆっくり引っ込める。そして、敦布の側に身を縮めると、黙るように促してきた。

きっと、すぐ上にいるのだろう。

波をひっかぶって、悲鳴を上げそうになる。凍りそうなほど冷たい。

「もうやだー!」

そう叫びたいが、冷たい海水のしぶきの中、妙な音にしかならなかった。横に這うようにして、行く。

途中三回、だいぶ威力を殺されているとは言え、冷たい海水を被った。

此処が九州の南とは言え、それでもやはり波は冷たい。

ジャージは汚れることを想定している服とは言え、着替えはないのだ。このまま濡れたジャージで過ごさなければならないと思うと、げっそりする。

幸い、空気はさほど冷たくない。

しばらくして、また首を防波堤の上に出していた雛理さんが、上がるように促してくる。手を引っ張られ、防波堤の上に。

遠くに、動いている人影。

出来るだけ敏速に防波堤から降りて、低い姿勢で小走りに行く。

気付かれた形跡は無かった。

呼吸を整えながら、辺りを見回す。

まだ、学校まではだいぶある。

 

3、忍びゆく

 

途中、何件か民家の側を通り過ぎた。

ブロック塀の内側は、隠れるのにもってこいの場所だと、雛理さんが言う。言われるままに、何度も身を隠して、化け物をやり過ごす。

ふと、気付く。

最初に見たのと、今通り過ぎていったのは、形が違うかも知れない。

家の中も覗いてみるが、誰もいない。

唯一。

平井さんの家で飼っていたチロという柴の老犬が、おなかを開かれて死んでいた。辺りには酷い血の臭いがした。

しかも刃物で切り裂いた雰囲気では無い。

どうみても、掴んで引きちぎったような跡だった。それも、殺した後、うち捨てているのだ。

食べるつもりでもなく、ただ殺しただけ。

ますます得体が知れない。本当に一体何者で、何が目的なのだろう。

人が、あのチロのように死んでいたら、戻してしまったかも知れない。

だが、誰もいない。

抵抗した形跡さえ、見つからない。

しかしそうなると、異変が始まった頃、何カ所かで響いた大きな音は、何だったのだろう。

家がある方が、見通しは悪くなる。

いきなり怪物に正面から遭遇する可能性が上がる分、相手から身を隠せる可能性も高い。誰かが生き残っているなら、住宅街だろう。南の洞窟まで逃げ延びる事を考える人は、どれだけ出るか分からない。

生徒の一人の家を通りかかる。

中は真っ暗で、人の気配はない。それどころか、争った形跡も無かった。

この家の生徒はひろしくんという穏やかな男子で、来年から本土に行くことが決まっていた。

無事でいて欲しい。

ひろしくんの部屋を覗くが、さっきまで寝ていたような、というような生活感は全く感じ取れない。

そればかりか、むしろ、妙だ。

「シーツはまるで今敷いたかのように綺麗。 見てください。 オモチャやゲームの類も、片付けられています。 此処の子は、そんなに几帳面だったんですか?」

首を横に振る。

むしろだらしない子で、机の中はいつもぐちゃぐちゃだった。

物置や、押し入れの中も確認する。

誰かが隠れている形跡は無い。

この事態が発生する前に、停電が起こった。だが、見ていて気付くのだ。テレビはひょっとすると、その前から消されていたのではないのか。

最近はテレビを見ない人も増えているという話だが、それはあくまで都会のことだ。

田舎では、まだテレビは重要な存在で、情報源としても力を持っている。

これは、ネットに若い人達の関心が移っているのとは関係ない。過疎化が進んでいる田舎では、まだまだテレビ好きの老人が多いからだ。

家を出てすぐに、塀の影に隠れるよう促される。

雛理さんの危険察知能力は犬並だ。すぐ側を、怪物が通り過ぎていく。星明かりの下で、資金で背中の辺りを見てしまう。

何だろう。

人間とは違うのだが。

何処かで見たような感じがある。服は着ておらず、全裸で歩いているようだ。怪物なのだから、当然か。

行ってしまったのを見計らい、学校へ向かう。

住宅街の中も、怪物だらけだったのだ。学校の周囲が違うとは、とても思えない。

 

学校の中は、がらんどうだった。

先生達もいない。

治郎は、職員室に入ってみた。十人もいない先生の席は、半分と使われていない。その中の一つが、ジャージ先生の席だ。

席には、伝言が残されていた。

危なくなったら、学校に逃げ込むこと。

子供にも分かり易いように、ひらがなで書いてある。

そして、子供との間でしか使わない隠語で、具体的にどこに隠れれば良いか、書いてあった。

あの人は、頭が悪いとか親に言われているが、子供に関してはとても優しいし、勇敢だし、時に知恵だって回る。

一人でさまよっていた治郎は、光が見えたような気がした。

あの訳が分からない怪物達が、いつ押し寄せてくるかも分からない。いや、学校の周囲には、少なくない数がいた。

地下室はだめ。いざというとき、逃げ込んでも、逃げ出せなくなる。

屋上が良い。

屋上なら、もしも空から助けが来たとき、分かり易い。

逃げ出すのだって、難しくない。

実は、屋上には、火事の時に備えて、緊急脱出用の装置が備えられているのだ。大げさなものでは無く、飛行機などに付けられている、簡易な滑り台のような筒だ。

使い方は、避難訓練の時に聞いた。

他の先生は良いと言ったのだが、ジャージ先生だけはそれに反対したのだ。もしも先生が誰も動けないとき、子供達が逃げるためには必要です、と。普段は馬鹿にしきっている相手に食い下がられて、流石に面倒になったのか。避難訓練は延長されて、装置の使い方を子供達も見て覚える事になった。

とはいっても、二階しかない建物だ。

あの怪物達が来て、もしいるのがばれたら。どこにいたって、助かるとは思えない。

壁を這い上がってくるかも知れない。

屋上のドアなんて、簡単に破られてしまうだろう。

鍵のあるキーボックスは、開けることが出来た。屋上の鍵には、多分ジャージ先生のつけた可愛い兎のストラップがついていた。

他の誰も逃げてきていないのだろうか。

学校に入ったとき、教室は覗いた。誰もいなかった。

トイレも見た。

誰かが入っている形跡は無かった。怪物は、今のところ、多分入ってきていない。

だが、それは本当だろうか。

学校には怖い噂が一杯ある。

そもそも、このちいさな島で、この学校は珍しいコンクリ製の建物だ。本当は三階建てにされる予定もあったと聞いている。

使われていない部屋も、いくつもある。

その中には、おばけが出ると噂される、鍵が掛かったままの部屋も、いくつもあるのだ。そういう部屋に、怪物が潜んでいたら。

がたがたと窓がなって、思わず悲鳴を上げて蹲ってしまう。

しばらく、頭を抱えて、震えていた。

おしっこは漏らさなかった。

でも、顔を上げると、何も無い。窓から、怪物が覗いていることはなかった。きっと、風が揺らしたのだろう。

急いで、屋上へ。

きっとジャージ先生は、助けてくれる。

みんな色々馬鹿にしていたりするが、それでも子供達は、一致した意識を持っている。

親たちが、どうしてあんなにジャージ先生を馬鹿にするか分からない。

屋上に、出た。

風が凄い。

此処で過ごさなければならないなんて、心細い。

でも、きっと先生は、来てくれると信じる。膝を抱えて、他は誰も来ない中、待つことにした。

 

「これで五十を超えた……」

雛理さんがぼやく。

どうやら、今まで遭遇した怪物を数えていたらしい。丘に大集合していた怪物達は、どうやって数えたのかは気になるが、それよりもだ。

学校が見えてきた。

生徒達が逃げてきているなら、きっと此処にいる。

だが、問題がある。

雛理さんが言うように、学校の周囲に、露骨に怪物がたくさんいるのだ。もしも生き残りや子供が中に逃げ込んでいるとして、それはひょっとすると、釣り餌ではないのだろうか。

しかも、である。

学校の前面には校庭が広がっていて、星明かりがある今、入ろうとすれば丸見えだ。というか、そう雛理さんに指摘された。腕を捕まれて、そう言われたのだ。最初敦布は、真っ正面から学校に入ろうとしたのだった。

一方、裏口もある。

後ろは山になっていて、其処からなら人目につかずに入れる。どうして雛理さんがそれを知っているのかは分からないが、とにかく入る事は出来る。

だが、問題があった。裏口に関しては、今見ているところなのだが。

裏口近くの木の上に、怪物がいるのだ。しかも一匹ではなくて、相互に視界を補完しているようなのである。

下手に踏み込めば、自殺行為だ。

しかも、あれでは、脱出も出来ない。どうにかして相手の意識をそらさなければならないが、問題がいくつかある。

怪物はあれだけじゃない。

もしもあの怪物の気を引くことが出来ても、周囲から他が集まってきたら、文字通り手も足も出ない。

更に、脱出の際の問題もある。

敦布でさえ分かるくらいだ。そして、手の打ちようが無い。

木の枝の上にいる何かよく分からない怪物は、だらりと長い手をぶら下げている。きっとあれは、獲物を見つけたら、即座に襲いかかる体勢なのだろう。

「他に入り口は?」

実は、ある。

職員室の窓を、いつもこっそり鍵を掛けないでいるのだ。ただし、そこから入るには、校庭側に回り込まなければならないが。

校庭に入ってしまえば、周囲から丸見えだ。

「撤退をしましょう」

雛理さんの言葉に、首を横に振る。

もしも生き残りがいるなら、ここに絶対来ている。此処は避難場所だし、生徒達にはいつも言っているからだ。

だが、それには、多くのハードルをクリアしなければならないのも事実だ。

声を潜めて、敢えて雛理さんはいう。

「やはりあの化け物達には、知能がありますね。 しかも的確に統率されているとみて良いでしょう」

「んー? んーんー」

「しかもその統率者は、恐らくこの島について、相当詳しいとみていい」

この学校を、露骨に釣り餌として残しているところが、その証左だと、雛理さんは言った。一瞬証左という言葉の意味が分からなかったので考え込んでしまったが、恐らく雛理さんは納得したのだと、好意的に取ってくれた様子だった。

ただ、有利な点も見て取れるという。

「視力や聴力、嗅覚に関しては、人間と大差ないと見て良さそうです。 今までの反応からして、間違いありません」

知能自体も、人間に近いが、それを越えるとは思えないという。

確かに、それは何となく理由が分かる。

非常に的確な見張りをしている割には、行動にムラが多いのだ。見張りをしろと命令した存在は、とても知能が高いのだろうか。

或いは、何か他に別の理由があるのか。

「他には入れそうな場所は」

「んー」

難しい。

この学校は、研究施設が建ったとき、ばらまかれたお金でかなりセキュリティが強化されている。

窓などを割ったら、それが即座に警察に通報される仕組みだ。

そして、今の状況では。

警察への自動通報が、良い方向へ働くとは思えないのだ。

当然通報先は、島に一つしかない駐在になる。あのお巡りさんが、敢えて敦布を死地に放り込むようなまねをしたのには、納得がいかない。

ひょっとして。

いや、それは考えすぎだろうか。

「ならば、しばらくこの辺りで待機します。 隙が出来るまで、二時間ほどは待ちましょうか」

当然、それ以上は待たないつもりだろう。

雛理さんの隣に座ると、敦布は膝を抱えてむくれる。

この人は、一体何なのだろう。

銃の扱いにもてなれているし、何よりこのプロっぽい行動の数々。とてもではないが、普通の「活発な人」ではすまない。

一体この島は、何なのだろう。

何が起きて、こうなってしまったのか。

月が出て、周囲が照らされる。

怪物達は影になっていて見えない。そういえば、それもおかしな事だ。さっきからシルエットは見えるのに、どうしても体のパーツは確認できないのだ。目も分からない。猫とかは、闇夜で目が光るのだけれど。

風が、だいぶ静かになってきたが。

この場合は、ありがたくない。

ただし、希望も出てきた。

かなり分厚く、雲が出始めたのだ。台風はまだ通り過ぎたわけではない。このまま暴風雨になってくれれば、学校へ突入するチャンスが生まれてくる。

これほど、暴風雨の到来を願ったことはない。

「緊急避難場所の一つとしてカウントしたいので、敦布さんの家が何処か教えて貰えますか?」

「んー」

地図を出して貰うと、指さす。

敦布の家は、住宅街の一角にあるアパートだ。

そういえば、あのアパートには、政府の人達も何人かいたはず。

無事だろうか。

もしも無事だったら、学校に来ている筈だが。

今の状況では、とてもではないが、そちらにまでは行けない。文字通り、無事を祈るしかない。

風が、出てきた。

思わず頭を低くしたのは、隠れている茂みが激しく揺れただろうと思ったからだ。少しずつ、知恵がついてきた気がする。

 

好機が訪れたのは、一時間半ほどしてからだ。

雷が落ちた。

更に、周囲に大粒の雨が降り注ぎはじめる。これならば、脱出は出来ないにしても、視界はほぼ塞がれるとみて良いだろう。

怪物達が、困惑したしわがれ声を上げはじめた。

唸り声のような、とてもおぞましい声だ。この世の生き物の声だとはとても思えないが、しかし。

何故だろう。

やはり、何処かで聞いた声に思えてならなかった。

袖を引っ張られる。

今なら、校庭は死角だ。

雷がまた落ちて、首をすくめてしまう。だが、これこそ好機。

空いている窓へ、壁を這うようにして急ぐ。失敗すれば、文字通り袋の鼠になってしまうが、中に入る価値は充分にある。そして、それ以上に、急いで出なければならないだろう。

大粒の雨がたたきつけられる中、学校に飛び込む。

外に動きはない。

だが、ひょっとすると、これは泳がされている可能性もある。裏口は使えないとみて良いだろう。

でも、考えて見れば、南の洞窟だって、安全だとは思えない。

如何に寛子ちゃんのおじいさんが良い腕だって、それに雛理さんがいても、こんな数の怪物を防ぎ止められるとは思えない。見つかってしまえばおしまいだ。見つかる前に、どうにかして。

どうやって、逃げれば良い。

助けなんて来るとは思えない。しかし、雛理さんもおじいさんも、妙に落ち着いている。つまり、逃げる手段があるのだ。

そうか、港か。

しかし、港に出たところで、無事な船があるだろうか。

フェリーだって、この台風である。来ることはまず期待出来ない。

迷う中、ジャージの裾を絞る。凄い量の水が出た。思わず呻きたくなるが、まだ布を噛んでいるので、それは出来ない。

手招きされる。

鍵束を、弄った跡があった。

「私は地下を見てきます。 敦布さんは、上から調べてください」

二手に分かれるのは、得策だとは思えなかったが。

今は、スピード勝負だ。

窓がある事を思い出し、階段を上がるとき、姿勢を低くしながら行く。もしも子供達がいるなら、屋上だ。

二階を抜けて、非常口へ。

ちいさな階段の先に、ドアがついている。

鍵は、空いていた。

激しい稲光が、目を打つ。

だが、雨から顔を庇いながら、敦布は屋上に飛び込んだ。

誰か、誰かいないか。

いない。

だが、見つける。

ドアの影に、膝を抱えて蹲る、ちいさな影。

治郎君だ。

良かった。生存者がいた。

涙が出そうになる。

治郎君を、そっと抱きしめる。豪雨の中、身を縮めていた治郎君は、じっと敦布を見つめた。

「先生。 来てくれるって、信じてた」

絶望の中で点った、ちいさな希望。

必ず守り通さなければならない。そう、敦布は誓うのだった。

 

(続)