孤島の幕引き
序、薄暗い島
目が覚めると、仰向けのまま、転がっていた。
しばらく瞬きをしてみたが、さっぱり解らない事がある。
自分の名前。
何で寝転がっているのか。
それよりもまず、此処はどこなのか。
半身を起こしてみる。
辺りは砂地。しかも、自分はどこからか落ちでもしたのか、砂地には引きずったような跡が二十メートルはついていた。
ぶるぶると頭を振って、砂を落とす。
幸い裸では無いが、上はシャツ一枚。下は半ズボン。しかも裸足である。サンダル一つ無いのは、ちょっと恥ずかしい。
ぼんやりと、辺りを見回す。
見渡す限り、砂だらけ。木の一本も生えていない。空気はさほど乾燥していないが、我慢できるほど涼しくも無い。
生き物の影は、全く見当たらなかった。
そういえば、自分の性別は、女だった。
それが、唯一思い出せたことだ。立ち上がってみる。触ってみて解るが、多分高校生か、発育の良い中学生くらいだろう。つまり、よく分からないという事だ。実際には大人かも知れないし、そうでは無いかも知れない。
何しろ、側には何も無いから、自分の顔も見えない。
もっとも、今は顔を見たところで、誰か解るとは、とても思えなかったが。
砂漠かと思ったが、どうも違うようだ。太陽の照りつけはさほど激しくないし、空気の乾燥も酷くない。
ぼんやりしているが、それでも立ち上がる。
このままここにいても、いずれは餓死してしまうだろう。何度か失敗して、尻餅をついた。どうも巧く立ち上がれない。
体が弱っているのかなと思ったが、そんなことは無いはずだ。むしろ頭の方がぼんやりとしていて、それが原因かも知れない。
少しずつ、日差しが強くなってくる。
それでも、やはり話に聞く砂漠の酷暑に比べれば、なんと言うことも無い。どこで話に聞いたのかはさっぱり思い出せないが。
まあ、記憶喪失になるほど頭を打ったのなら、ぼんやりして当然か。
しばらく、無心に歩く。
裸足だから、砂に足跡が綺麗にくっきり残る。扁平足になっている訳でも無くて、ごく普通に綺麗な足形だ。足に病気の類も無い。そういえば、近年は女性にも水虫が蔓延していたはずだが、それも無い。
多分、記憶が消し飛ぶ前は、それなりに美容に気を遣っていたのだろう。足もそこそこに綺麗だった。ただ、爪をごてごて飾り立てたりはしていなかったようだが。
日差しが弱いからか、砂もさほど熱くない。
ふと、気付く。もう、昼をだいぶ過ぎたらしい。影が伸びてきているからだ。さっきよりも、随分長くなった。
汗も出ないくらい、日差しは弱い。
ふと思う。
この様子だと、むしろ夜は寒いのでは無いのか。
こんなシャツ一枚なんて格好じゃあ、凍死するかも知れない。それは嫌だなあと、漠然と思った。
確か、砂漠を歩いていると、無意識に同じ所に戻ってきてしまうとか言う話があった。具体的な用語は忘れたが、目印が無い場所だと、人間はまっすぐ進めず、最終的には円を描いて歩いてしまうのだそうだ。
だが、幸いにも、この砂漠はそれほど広くなかったのか。
やがて、土が見え始め、小石が転がっている場所に出た。踏まないように気をつけないと、怪我をしそうだ。
日が暮れ始めた。
だが、思ったほど寒くならない。だが、シャツ一枚だと、ちょっと今後は不安だ。何か服になりそうなものはないか。動物なんか仕留められないし、仕留めたって捌けそうにないから、果物か何か。
何だか、てきぱきと理論的にものを考えている自分に気付く。
よく分からないが、頼りになるかも知れない。自分。
ちょっと嬉しかった。
だが、そんな喜びも、ほどなく消し飛ぶことになった。
ちょっと小高い丘に出て、見下ろして、硬直する。
其処にあったのは、飛行機の残骸。
多分セスナだろう。木っ端みじんに打ち砕かれていて、飛ぶどころでは無さそうである。周囲に点々としているのは、黒焦げになった死体。原形をとどめている人間の残骸は、一つも無かった。
問題は、それらに、集っている動物さえいないという事。
それに、飛行機が落ちたら、救助くらい来てもおかしくないのに。その気配さえないという事だ。
これは一体、何が起きている。
飛行機の側まで歩く。
酷い臭いがした。何処かで、嗅いだことがある。これは確か、人間が焼ける臭いだ。でも、どこで嗅いだのかは解らない。
遠くに、海が見える。
近寄ってみると、岩礁になっている。それだけではない。海の水は囂々と渦巻いていて、とてもではないが入って助かるとは思えない。
ちょっと小高い場所に出てみると、遠くを見ることが出来た。
どこもかしこも、岩礁だ。どうやら激しい流れの中、孤立している島らしい。或いは、半島のようになっている場所だろうか。ちょっと歩いてみないと判断が出来ないが、海を通っての脱出路はあり得そうにも無い。
脱出と、今不意に思い当たって、驚く。
そういえば、どうして脱出しようと思ったのか。
座って、頭を抱える。
解らない事が多すぎる。
そもそも、私は誰だ。知識が妙に深い気もするし、こんな状況で妙に落ち着いていることもおかしい気がする。
飛行機の残骸は、まだ燃えている。
この様子では、食べ物も得られそうに無いだろう。人肉を食べることだけは、どうにか避けたい。
海に入れば魚くらいは捕れる可能性もある。貝とかカニとかなら、もっと簡単だ。
だが、あの海に入って、生きて戻れる自信は無い。
おなかが減ってきた。
困ったと思った。
どういうわけか解らないのだが、おなかがすいても、何かを食べようと思考が直結しないのだ。
これは或いは、いつも何かをして貰っていたお嬢様だったのかも知れない。
そんな風に思って、乾いた笑いが漏れた。
いずれにしても、水も無ければ食べ物もない。
頭が良くても、冷静でも、あんまり役に立つとは思えない。頭をばりばりと掻くと、さっき落ちきれなかった砂がこぼれた。
既に、陽はすっかり落ちている。
まるで禍々しいたいまつか何かのように、セスナは燃え続けていた。そういえば、どうしてセスナとアレを呼ぶのかも、よく分からなかった。
1、まず生きること
そろそろ、おなかが洒落にならないほどに減ってきた。からっぽだから何か入れろと、ぐるぐるごろごろ音がする。
もうどうでも良いと思って、辺りを見回せる丘で転がって寝ていたのだが、朝日が昇って弱々しい日差しを受けて、目が覚めてしまったのだ。
あくびを一つすると、目をこする。
顔を洗いたいが、そうするなら海に近づかなければならない。しばらく思案した末に、セスナの残骸に歩み寄る。
硝子とか踏むと嫌なので、気をつけながら周りを探る。
だが、履き物になりそうなものはない。人体の残骸はだいたい燃え尽きてしまっていて、履き物もそれと同じ運命をたどっていた。
何か、食べ物とか、そういうものは。
そう思って漁ってみるが、残念ながら何も無い。火はもう消えていたが、多分食べられそうなものはみんな燃え尽きてしまったのだろう。リュックらしいものが一つあったが、中身は金属製の容器とかで、食べられるものは入っていなかった。
仕方が無いなあと、呟く。
そういえば、おなかがすいただけでは無い。水も飲みたい。
潮水を飲んだら死ぬと何処かで聞いた覚えがあった。こうなったら、どうにかして水を確保しなければならないだろう。
水を見つけても、そのまま飲むと危ないかも知れない。
色々懸念はある。
まずは何をすれば良いのだろう。転がって考える。その後、海に沿って歩いてみた。蟹さんがいたが、もの凄く大きくて、下手に手を出すと指くらい千切られそうだった。上手に捕まえられれば、美味しく食べられるかも知れない。
波が凄いしぶきを上げる。
自分の背丈の何倍も、波のしぶきは凄かった。これは下手に海に近づくと、あっというまに浚われてしまうだろう。そして海の中で、即座にジエンドだ。
これは、或いは詰んだかも知れない。
だけど、漠然と思うのだ。死ぬのは嫌だなあと。やる気が無い自分に言い聞かせるようにして、歩く。
だが、都合良く泉の類が見えてくる事もない。ほぼ一日、空腹を抱えて歩いて、そして見る。
燃え尽きたセスナの残骸。
どうやら、やはり此処は島であるらしい。海岸線をぐるっとたどって、戻ってきてしまったという事だ。
飛行機が落ちたのだから、救助は来るのだろうか。
どうも、そんな気配は無い。
さっきの蟹さんはともかく、虫さえ見かけないのだ。こんな状況、普通だったら蠅とかが飛んできそうなのに、全く姿を見かけない。
水浴びくらいしたいのだが、安全に海に入れそうな場所なんて、1カ所も無かった。
おなかがすいた。
一度呟いて、それから大の字に転がって、叫んでみる。だが、疲れるだけなので、止めた。
このまま餓死するのはつらそうだ。
仕方が無い。砂漠の中に入ってもどうにもならないだろうし、せめて小川か何かが無いか、探すしか無い。
水が入手できるようになったら、まずはそれを沸かしてみる。そうすれば、毒物でも入っていない限り飲めるだろう。
漠然と、だが。妙にてきぱきと、やるべき事が浮かんでくる。
それなのに、どうしてだろう。この頭の方の、全くと言って良いほどのやる気のなさは。この落差が、自分なのにそうでは無いみたいで、ちょっと面白い。
記憶が吹っ飛ぶ前の自分は、一体どんな奴だったのだろう。
それに興味がわくが、今は残念ながら、それを思索している暇が無い。まずは、生きるために動かなくてはならない。
水を飲むことが出来れば、次はたべものだ。
この死の島に、何か動物がいればいいのだが。蟹さんはいるようだし、動物がいなくても、最悪海の生き物を捕まえれば良いかもしれない。
そんなことを考えながら、歩く。
セスナの辺りは硝子の破片とかもあったが、少し行けばもう何も無い。地形の起伏はあるが、小石を踏まないように気をつければ、それで事足りてしまう。
もうどこにいても同じだし、適当に歩いて廻る。まずは高所を目指してみようと、漠然と思いついた。もし川があるのなら、高所から流れるだろうし、見回せば何か有用なものが見つかるかも知れない。
適当に、高所に向けて歩く。
既に、陽がかなり高くなっていて、影が短くなってきていた。この気候の穏やかさからして、この島は赤道直下には無い事だけは確実のようだ。
ただし、だからといって何が出来るわけではない。
ぼんやりと歩き回っていると、見つけた。
ちょっと小高い丘みたいになっているところがある。セスナの側の丘よりも、だいぶ大きい。
歩き回って解ったが、この島はさほど大きくない。この丘だったら、辺り一面を見回せる可能性がある。
おなかがすいてきて、そのまま倒れそうだが、どうにか歩く。
それにしても、人間やる気が無くても、空腹にせっつかされれば歩けるものなのだと思うと、ちょっと面白かった。
面白いとか言っていられるような状態では無いはずなのに。おかしなものである。
丘のてっぺんに着いて、辺りを見回してみる。
セスナの残骸が見えた。
遠くの方には、水平線も見える。やっぱりぐるりと見回してみると、島だと言う事がはっきりする。
川は無いのか。見回すが、どうもそれらしきものはない。
これは、水を得るのは難しいかも知れない。道具があれば、海水から真水を濾過するくらいのことは出来るかも知れないが、海はあの荒れようだ。下手に近づいて波に浚われたら、その時点でおだぶつである。
困ったなあと、何度か呟く。
でも、それで事態が解決するわけも無い。しばらく腕組みして考える。ごはんと、水を得られる方法は。
水が無ければ死ぬ。
ご飯が無ければ、餓死する。
どっちも嫌だ。
これで、雨でも降ってくれば、水だけでも何とかなるのだが。
空は嫌みなほどに晴れ渡っていて、雲も点々と見えるくらいである。あれが雨に発展することは無いだろう。
これは終わったかも知れないと、私は思った。
ふと、視点が1カ所に固定される。
緑色の塊がある。或いは、植物かも知れなかった。
どうせ行く当ても無いし、歩いて行く。近づいてみると、思ったよりも緑はずっと広域に展開している様子だった。
そういう色の岩か何かだったら、がっかりするだろうなあと思いながら、現場に到着。途中から正体は分かっていたが、走り出すほどの体力は残っていなかったから、そのままてくてく歩いて、その場についた。
大きなサボテンである。
これは幸運だ。確か、この手の植物は、中に水を蓄えているはず。しかも、似たようなサボテンが辺りに一杯生えている。果肉も、食べられるかも知れない。ただ、棘には気をつけないと、とても痛いだろう。
まず、小さなサボテンを一つ、千切ってみる。
やっぱりみずみずしい。むしった果肉をしゃぶると、それだけでとても水分が多くこぼれ出るようだった。
ただし、果肉は恐ろしくまずい。スポンジを噛んでいるみたいで、味がしないと言うよりも、そもそも受け付けない。
カニさんのエラを思い出す。甲羅の裏のお味噌を囓っているとき、興味本位でエラを噛んでみて、こんな味がしたような気がした。
はて。いつの記憶だろう。
小首をかしげながら、サボテンを慎重にむしっては、水を口に入れる。結構棘が凄いし、何より堅いので、ちょっと油断すると指を怪我しそうなのだ。そしてこんな状態で怪我をしたら、命に関わる。
しばらく無心に果肉をしゃぶしゃぶしていると、やっと喉の渇きから解放された。あとは、何か食べられるものを探さないといけないだろう。
口にした以上、捨てるのももったいないので、おっそろしくまずい果肉も飲み込む。おなかは壊しそうに無いが、消化できるかは不安だ。しばらくもぐもぐしていたが、無理矢理に飲み下して、良い気分が台無しになった。
まずは、生きることだ。
水はこれでしばらくはどうにかなりそうだ。あとは、どうにかして、安定して水を得られる仕組みを考えて行けばいい。
それと、次はご飯である。
この様子だと、少なくとも陸上生活をする動物はいないだろう。植物がサボテンしかない状態で、しかも此処にしか無いのである。餌が無ければ、生態系は成立しない。サボテンを食べるタイプの草食動物なら、この近辺に生息しているはずだし、それを狙う肉食動物もしかり。
サボテンには、人間を警戒しない虫さえ集っていないのである。そうなれば、結論は一つしか無い。
そうなると、あの荒れた海に行くしか無いわけだ。
この辺りの冷静な思考の組み立ては、やっぱり記憶が吹っ飛ぶ前の自分が何者か、よく分からない要因になっている。
とりあえず、水さえあればしばらくはもつはずだ。海をよく観察して、食べられそうなものを見つけていくしか無い。
蟹さんにはかわいそうだが、あれしか見つからないのなら、他に手はない。石か何かをぶつけて潰して、食べる以外に無いだろう。
ただ、生で食べるのは色々と危ない。寄生虫がいる可能性も高い。寄生虫の中には、脳まで入ってきて食い荒らすような危険な奴もいるのだ。そんなのに入り込まれたら、まずたすからない。
しかし、助かってどうなるのだろうとも、水を得て気付く。
おなかはぎゅるぎゅる鳴り続けている。理性が働く内に、きちんと食べるものを食べた方が良いと、感じる。
大の字になって転がりながら、それでも面倒くさいと思う。
解らない。
どうして、生きることさえもが、面倒くさいと感じるのか。
2、過去の幻影
海岸線に出て、カニを見つけた。
何匹かいるが、一番大きいのに狙いを付ける。海の方まで出ると、波がもの凄く高くて、近づくだけで危ない。
それにしても、凄いはさみのカニだ。
一抱えもある大きな奴の上、はさみは握り拳くらいもある。やっぱり下手に近づくだけで危ない。動きは鈍いようだが、挟まれたら指くらい簡単にちょん切られてしまうだろう。
体は鋭角で棘だらけで、青黒い甲羅は、まるで戦車を思わせる。同じくらいの大きさの生き物が相手だったら、多分無敵なのだろう。石を抱えて、近づく。
カニも、危険を感じたのか、はさみを振り上げて威嚇してきた。
そのまま、石を落とす。
ぐしゃっと嫌な音がして、蟹の甲羅に、大きなへこみが出来た。だが、カニはまだ泡を吹きながら生きている。
何だか気の毒だなあと思って、石をまた持ち上げる。
びっちゃりと、カニの体液が付いていた。
もう一回、石を落とす。また一度。何度も繰り返している内に、カニの甲羅はぐしゃぐしゃになって、やがて動かなくなった。
一つの命が、消えたのだ。
こっちも、手が痛い。べたべただ。
謝りながら、カニの潰れた死体を、持ち上げて、運んでいく。まだ少し足は動いていたので、挟まれないように気をつける。
セスナの影に、火を熾しておいた。
よく調べると、ライターが幾つか見つかったのだ。それに食べたサボテンの破片とか、セスナの中にあった燃えそうなものとかを集めて、火を付けたのである。カニさんをあぶって、食べる。
とても美味しい。カニには悪いことをしたが、空腹と言う事もあって、手が止まらなくなった。
しっかり火を通しておかないと危ないと自分に言い聞かせながら、蟹の甲羅をしゃぶる。熱くなっていたが、それでも食欲の方が勝った。
やがて、火が消えた頃には、おなかが一杯になっていた。
蟹さんは、甲羅と、あとはエラくらいしか残っていない。あとは全部火を通して綺麗に食べた。栄養のバランスを考えると、他にも色々と食べたいが、贅沢も言っていられない。当面はライターを使って火を熾しながら、サボテンから水をとり、カニさんを焼いて食べて、凌いでいくしか無いだろう。
多分、数日ぶりの食事だからか。
食べたら、すぐに眠くなった。
横になって、一眠りする。
土の上に直接だが、あまり気にはならない。あとは風呂に入ることが出来れば最高なのだが。
どうやら、低い水準での生活に慣れてしまうと、平気になるものらしい。
セスナが落ちたのだし、救援くらいそのうち来るだろう。そう自分でも思ってもいない事を自分に言い聞かせて、眠りにつく。
ふと気付く。
真っ暗なところにいた。抱きしめているのは、誕生日に貰ったテディベア。
この子は、そうだ。思い出した。
借金取りが来て、むしり取られたのだ。ブランド品だからとかで。泣いたらその場で殴られた。両親は、何もしてくれなかった。泣く私を見て、筋骨隆々の大男は、げらげら笑っていた。
金を借りるのが悪いとか、言っていた気がする。
でも、確か両親は、何もしていなかったはずだ。いつの間にか訳が分からない借金を背負わされて、何もかもを奪われた。しかもそん両親に、世間は何もしなかった。
この時では無かったか。
常識なんてものが、何の意味も無いと気付いたのは。
社会の一員としての自覚がどうのという言葉に、敵意しか感じなくなったのは。
社会が、両親に何かしてくれたのか。
常識が、取られたあの子を返してくれたのか。
彼奴らを罰したというのか。
所詮社会的な強者が、好き勝手をするために作られたのが、常識なのでは無いのか。
子供の頃から、そんなことを考えていた。
結果、私は。
気がつくと、土の上に転がったまま寝ていた。
おなかはまだ空いていない。満天に星が輝いている所からして、見ての通り夜というわけだ。
ぼんやりしたまま、目を閉じる。
だが、眠気はもう無い。半身を起こして、大あくび。この気候が異様に安定した島では、布団も枕もいらない気がする。食べ物さえあれば、楽園と言えるのでは無いのだろうか。
それにしても、人間は一人では生きていけないなどと言ったのは誰か。
大嘘だ。
むしろ究極的には、人間は一人で良いのでは無いかと思う。
体を伸ばして、ぼんやりと辺りを歩き回る。サボテンの辺りには何度か往復して、行き方を完璧に覚えた。
海岸線を出歩いて、海草か何かが落ちてないか見回る。残念ながら、そんなものは一つもない。これだけ波が激しいと、拾いに行くのも結構危ない。波のパターンを見極めれば出来るかも知れないが、リスクが高すぎる。
どうしてこんなにリアリストな思考が出来るのか、よく分からない。ただ、自然と体は危険から遠ざかる。
しかし、それならば、どうしてだろう。
何でこんなに、何もかもが面倒くさいのか。
小さくあくびをして、無心に辺りを見て廻った。何か、知らないものがあるかも知れない。
このままだと、いずれ裸で生活することになるだろう。出来ないことも無いが、それは自己としての最低限の尊厳を守れていない気もする。
それは流石に嫌なので、着られそうなものを探しておいた方が良い。セスナの残骸からは、あいにく良さそうなものは見つからなかったのだ。
ただ、島に、自分の足跡だけが増えていく。
しばらく歩き回っても、何も見つからない。
呆れるほど、何も無い島だ。
だが、それが故に人間が寄ってこなかったのかも知れないし、それで平和が保たれた可能性も否定できない。
いずれにしても、有用なものは全く見つからなかった。
サボテンの近くに戻ると、横に転がって、ぼんやりする。サボテンは多少囓ったくらいでは全く減る気配も無い。多分、これだけあると、囓るよりも増える速さの方が上回るだろう。
ふと、顔に水がかかった。
雨かと思ったが、違う。サボテンの近く、凄い勢いで塩水が流れている。ちょっと仰天した。慌てて、サボテンの所まで避難する。
満潮、干潮という次元では無い。
少し寝るところを間違えていたら、ひとたまりも無かっただろう。文字通り、今頃は海の藻屑と化していたはずだ。
危ないところだった。
そのまま、砂地をこばしりで移動して、島を見て廻る。
島中が、海に飲み込まれていた。小高い場所から見ると、さながら網の目のように、潮が走っているかのようである。
これは、油断するとかなり危ない。
セスナの方を見に行く。セスナの機体も半分くらいが水没していて、後半部分は流されていた。黒焦げの死体も、一緒に流されてしまったようである。
なるほど、これではこの島に、なにも生物が定着しないのも、無理が無い事なのかも知れなかった。
潮の流れは凄まじく、水没した辺りの地面は文字通りえぐり取られているようだった。しかし、その割に島の起伏はそんなに激しくないのが気になる。どういうことなのだろうか。
それに、サボテンばかりどうして都合良く生えたのかも、よく分からない。
何も覚えていないことが腹立たしい。
相変わらず、名前さえも、思い出す事が出来ない。あのセスナに乗っていたのか、違うのか、それも解らなかった。
子供の頃持っていたテディベアの名前も、思い出せない。
寝ていれば何か思い出す事があるかも知れないが、今の状態では、それも危ない。
念のため、島を一望できる一番小高い丘に登り、そこで膝を抱えて座り込む。もしも此処まで水が来るようなら、その時点でアウトだ。その場合は、じたばたしても仕方が無いだろう。
ぼんやり見ているが、潮は引かない。
そういえば、潮が引いたら、お魚や海草を食べることが出来るかも知れない。それはちょっとばかり嬉しい話だ。
火を熾す回数に制限があるのも、そのうち解消したい。
火を熾す方法は、何となく解る。あとは道具類を、どうにかして整備しておきたかった。
それにしても、やはりこんな状態になっても。
私は、異常なほどに冷静だった。
潮は夜になっても引かず、ますます激しさを増しているようだった。海岸線は、明らかに此方に向けて進んできている。サボテンは多分水没しないだろうと見ていたのだが、この様子では危ないかも知れない。
いずれにしても、一番高いところまで潮が来るようならおしまいだ。
何だか面倒くさいと思う。
どうせこれだけ人生をもてあそんでくれたのだ。最後くらい、綺麗さっぱり終わらせて欲しいものである。
星を見つめる。
オリオン座を見つけた。有名なオリオンのベルトが、嫌みなくらいはっきり見える。
そういえば、アレが見えると言う事は、季節が特定できるかも知れない。確か冬の星座である。そうなると、今は冬と言う事か。
でも、それが解って何だというのだろう。
今が何月何日かまで特定できたとして、この島で何の役に立つというのか。
囂々と、逆巻く潮の勢いが、一段と激しさを増した。潮しぶきが、自分のいる所まで、かなり飛んでくる。
のぞき込んでみるが、潮は夜らしく真っ黒で、非常に恐ろしげである。セスナは機体が水没してしまっていた。引き上げていない物資は、みんな流されてしまっただろう。まあ、どうでも良いことだが。
人肉を喰おうとは思わなかったが、しかし人間の死には、限りなく冷淡な事に、今更ながら気付く。
やっぱり、理由は分からない。
殺すなら、早くして欲しいなあ。そう呟く。
どうせろくでもない人生だったのだ。
そう思う理由も、よく分からない。ただ一つはっきりしているのは、投げやりになっている自分に、違和感が無い。それだけだった。
お葬式。
親族の席に座っているのは、自分だけ。
彼奴らも来ていた。ガムを噛んだり、談笑したりしている。香典を全部持っていくために来ているのだ。
それだけじゃない。
両親が残した財産を、全部持っていくのが、ここに来ている目的だった。そればかりか、私を、水商売の店に売り飛ばす気でさえあるようだった。
もう、我慢できない。
許せなかった。
お経の途中で、席を抜け出す。
小さな葬式会場だ。中には、彼奴らと、あとはよく分からない奴らしかいない。坊主も強欲で、やる気も無いのが子供の目からも丸わかりだった。
会場の周りに、ガソリンを撒く。
ガソリンは、近くの車から盗んだ。
そして、ガソリンを入れていたポリタンクを、会場に放り込むと。ライターで着火した。
吃驚するほど派手な爆発が巻き起こった。
中でもがいている奴らの姿が見えた。全部焼け死ぬのは、一目でわかった。あまりにも快感で、きゃっきゃっと大喜びして叫んでしまった。
死ね。
死ね死ね死んじゃえ。
すぐに、その場から逃げ出す。もう、どうでもよい。学校も、周りの大人も、何もかもが死ねば良いし壊れればいい。
解っていたのだ。
社会その者が、自分の敵だと。敵の理屈で、裁かれてたまるか。今までされた事を、全部十倍にして仕返ししてやる。
それからは、ありとあらゆる復讐を、社会全体にしていった。
火が付けられそうなものには火を付けた。
食べ物は全部盗んで奪った。
喧嘩も上手になった。同年代の子供にはまず負けなかったし、大人が現れたら隠れるこつも身につけた。何度か少年院に入れられたが、そのたびに脱走した。人を殺すことに、何ら躊躇は無くなっていた。
背が伸びきった頃には、立派なテロリストになっていた。
成人した頃には、殺した人数は百を超えた。国際指名手配を受けていたが、そんなものは鼻で嘲笑っていた。
目が覚めて、半身を起こす。
どうもしっくり来ない。今見た光景が、本当に自分の記憶なのだろうか。あれが自分だったとしたら、どうしてカニさんを殺す程度の事で、あれほど躊躇したのだろう。もっと嬉々として殺したし、セスナが落ちているのを見て喜んだのでは無いか。
しかし、だとすると、誰の記憶なのだろう。妙にリアルだったのだ。まるで、自分が経験しているかのような。
そうなると、熊のぬいぐるみの記憶も、何だか怪しくなってくる。
頭を振って、周囲を見回す。
潮が、引き始めている。点々と見えていた浮島のような陸地が、徐々に大きくなっていくのが解った。
なるほど、これでは陸上生物は、生息できないわけだ。
座り込んで、辺りを見つめる。
既に、セスナはあらかた流されてしまったようだ。これでは救助が来るどころでは無いだろう。
本格的に詰んだのは間違いなさそうだ。これは、多分海産物を食べ、サボテンで水を補いながら、生きていくしか無いだろう。それが出来るだけ、マシと言うところか。
明け方頃には、水はほぼ引いた。
島が削られているのが解った。サボテンは無事だが、彼方此方に海水のたまりが残っている。
島の形が、以前とは違いすぎる。ぼんやり辺りを歩き回って確認するが、ある結論が浮かび上がってくる。
これは、ひょっとして。
この島は、或いは出来てからあまり時間が無いのかも知れない。しかしそうなると、サボテンのことが気になる。あれはかなり育っていた。もしかすると、たまたま地形が良い場所にあったサボテンが、今まで流されずに残っていた、というだけなのだろうか。
しかし、セスナも流された今、救援が来る可能性は皆無だろう。どっちみち、あと何回か潮が来たら死にそうだし、もうどうでもいい。
最後まで、あがけ。
そう考えもしたいのだが、どうしてか気乗りしない。
何故だろう。投げやりになっているのとは違う。何というか、何もかもがどうでも良いのである。
自分自身の命も含めて。
空は抜けるように青かった。
そして、なんと。
雪が、降り出した。
雲一つ無いのに、である。そして、どういうわけか、触っても全く冷たくないのである。辺りの気温も、全く下がっていない。
自分でも、状況が理解できない。
サボテンの所まで歩く。
幸い、水の供給源であるサボテンは流されていなかった。しかし、である。島の真ん中辺りに、細めの海峡が出来てしまっている。これは、向こう側にはもう、容易には渡れないだろう。細い水路のような海峡とは言え、流れはかなり激しいからだ。その周辺も土がヘドロ状で、とてもではないが安全とは言いがたい。
そして、不思議な事に、歩いていて逃げ遅れた魚や蛸、海草なんかは、全く見つからなかった。
不可思議な雪が降る中、思いだしたことがある。
私の名前だ。
確か、マオとか言ったはず。何か違和感があるが、それに間違いは無い。名前なのだし、忘れるはずも無い。
どうして今まで思い出せなかったのか。
それが、解らなかった。
見上げた先は、相変わらず青空。それなのに、雪は止まない。
相変わらず、海岸線を闊歩している大きなカニさん。
石を落として潰して、確保してあるライターで焼いて食べる。時々セスナがあった辺りを見にも行くのだが、救援など来る様子は全く無かった。
詰んだことは、ほぼ確定だなと思う。
だがその一方で、妙に安心している自分もいるのだった。
ひょっとしたら、セスナを落としたのは自分だと思っているから、だろうか。
しかし、飛行機を落とすのは大変な作業だ。道具にしたところで、どこにあったのだろう。飛行機に最初から潜入していて、脱出したのだろうか。その割には、不手際が目立つ。もしもあの記憶の通りの人生を送ってきたのなら、妙に「へたっぴ」だなあと、思ってしまうのだ。
体を洗うことは出来た。
海峡の部分は流れが比較的緩やかで、手を突っ込んでみたがいきなり流されるようなことも無く、何より水深も浅かったからだ。
潮水で洗えばベタベタになるかなとも思ったが、そのまま放置しておくよりはマシである。あとで、機会があったときにでも、真水で洗い直せばいいのだ。
無心に体を洗って、気付く。
あんまり、体が焼けていない。
シャツ一枚に半ズボンという、ラフにもほどがある格好をしているのに、全く肌が焼ける気配が無いのである。
この貧弱な日差しのせいかとも思ったのだが、どうも雰囲気がおかしい。
体を洗った時に、肌に念入りに触ってみたのだが。手入れしていないにしては、妙にすべすべなのだ。
これは余計におかしい。
もしも記憶にあったような人生を送っていたなら、そんな暇は無かっただろうし、意欲もわかなかったに違いなかったからだ。
一体、私は誰だ。
本当にマオという名前なのだろうか。
でも、そうだとしたら、この怪現象の数々は、一体どうやったら説明が付くのだろうか。
海峡の部分で、潮に顔を突っ込んで、何かいないか探してみる。結構魚は、流れさえあれば水深の浅い所にも来る。捕まえられるかは、話が別になってくるが。
でも、魚はいない。
カニさんはいるのに、それ以外の生物は、全く見かけない。
タコさんも、貝も。
海鳥さえも。
この閉じられた世界は、やはりおかしい。しかし、脱出する術も、やはり無い。
たとえば、あのサボテンを使って、筏のようなものを作れないかと一瞬思った。だが、資材が無いし、何よりあの棘だらけの上に乗るのは無理だろう。
何もかもが、疑問に思えてくる。
ぼんやりと横になって、ふと気付く。
意識がはっきりしていたら、或いは発狂してしまったのかなあと。
あり得る話だ。
このおかしな世界は、考えれば考えるほど矛盾がわき出してくる。それだけではなく、自分自身にも、異常が蓄積していくように思える。
記憶は、断片的にわいてくる。
人を殺す記憶が多かった。
一時期などは、声を掛けてくる相手を全て殺していた。町中だろうが何だろうが関係無しに。取り押さえようとしてくる警官を、その場で突撃銃を使って蜂の巣にした。食料を手に入れるためにスーパーに押し入り、店員を虐殺してはわずかばかりの戦利品を持って立ち去った。
こんなばかな。
これだけのことをしでかしたら、絶対に軍なり特殊部隊なりが出てくる。いくら何でも多勢に無勢だ。どんな平和な国でも、此処までやらかして生き残れるわけが無い。
しかも、見たところ、ある程度はともかく、街の治安はさほど悪くない様子なのだ。普通に物資は売られているし、人だって行き来している。
こんなに凶悪な殺人鬼がうろつき廻っていたら、多分街は恐怖に包まれて、誰も外を歩いていないだろうに。
やはり、おかしい。
そんなに人を殺していた割に、やっぱりカニさんを殺すのさえ躊躇している。もしも彼処まで頭がおかしい殺戮兵器だったら、カニさんどころか人間を殺す事に、全く躊躇はないだろうに。
髪の毛を掻き回す。
やっぱり潮水で洗ったから、ベタベタしていた。
水平線は波が酷くうねっていて、飛び込んだところでたどり着けるとは、とても思えなかった。
映画か何かで、見た光景なのだろうか。
しかし、それにしては妙にリアルだ。手には感触が残っている。突撃銃の扱い方も頭に叩き込まれていて、目をつぶっていても組み立て分解装填が可能だ。
手を試しに動かしてみるが、やっぱり問題ない。
銃やそのほかの武器の名前も、すらすらと浮かんでくる。手榴弾やトラップの扱い方も、嫌と言うほどリアルに緻密に記憶に叩き込まれていた。それで、人を殺す光景も浮かんでくる。
しかし、どうしてなのだろう。
やはり、自分の記憶だとは思えないのだ。
あの子、記憶にある悲惨な人生を送った女の子の事は、よく分かる。実際あのような悲劇は、世界中どこにでもある。
どうしてそれを知っているかは、さておく。
だが、ああいう子は長生きできない。少年院に入れられたあとは厳重に監視が付くし、犯罪組織などに拾われたらあらゆる悪逆に晒されて、命を縮める。
この年、今の体の年まで、生き残れる訳が無い。生き残れるとしても、もっとずっと違う精神構造をしているはずだ。
ふらふらと歩き回るが、やっぱり戦利品は見つからない。意を決して海峡のむこうがわまで行ってみたが、向こうは半ば水没していて、次に水が来たら完全に海の底になるのは確実だ。
困るが、どうしようもない。
この島も、不可解すぎる存在だ。
こんなに急速に侵食が進む島なんて、聞いたことが無い。
しかし、その聞いたことが無いと言う知識は、極めて曖昧だ。あれほど、非現実的なテロリスト少女の記憶は、脳に入ってくると言うのに。
何もかもが解らない。
裸のまま、転がって、空を見上げる。
ぼんやりして空を見上げると、また雪のようなものが降ってきた。寒そうだなあと、他人事のように思う。
だが、どうにも出来ない。
寒くも無いのだし、対処も不要だ。
私は、どうしてここにいるのだろう。
静かに降り続ける、冷たくも無い雪の中。裸で寝転がったまま、マオという名前を持つはずの自分は、その場でぼんやりと考え続けた。
3、記憶の溝
多数の兵隊に囲まれる。
そして、一斉に撃たれた。
積み重ねた経験も、磨き上げた戦術も、数の暴力の前にはどうしようもない。雨のように降り注ぐ銃弾が、壁や床、四方八方を撃ち貫く。窓硝子が砕け散り、天井の電球が吹っ飛ぶ。
跳弾が肌を擦る。
物陰から出て、反撃。敵を倒す。
冷静と言うよりも、完全に思考が機械同然。恐れる事もなく、ただひたすら敵を殺す事だけを考える。
だが、数の暴力の前には、どうにもならない。
無力化用の音響手榴弾が放り込まれ、炸裂。鼓膜が破れ、蹲ったところを、一斉にガスマスクと防弾チョッキで武装した兵士達がなだれ込んできた。
突撃銃で、反撃しようとする。
だが、その瞬間。
眉間を、弾丸が貫いていた。
目が覚める。
潮の音だ。また、潮が島を侵食しはじめた。
不思議と、こんな時のために、一番小高い丘にいたのだ。潮が満ちる感覚がよく分からなかったし、その勢いだけが脅威だったからだ。
潮が、島を飲み込んでいく。
前回よりも、かなり激しい規模だ。
ああ、これは死んだなと思う。潮が逆巻きながら、島の隅々まで飲み込んでいくのが解る。サボテンも、この様子ではもう海の底だろう。
波の音。
それを聞きながら、思い出す。
あの光景は、やっぱり。記憶にあったテロリスト少女は、多分死んだのだ。あれだけやらかして、無事でいられるとは思えない。
彼女の境遇には同情する。彼女を悪だとは思わない。
其処まで追い詰めたのは社会そのものだ。社会は彼女から搾取することがあっても、何も与えることが無かった。
弱者は搾取されていろとでもいうのなら、それはさらなる強者から搾取されても何ら文句は言えないと言うことになる。
彼女は、社会そのものに喧嘩を売ったのだ。自分の敵であったから。
膝を抱えて、座り込んだまま、見つめる。
しかし、それでも矛盾が生じる。
記憶の中で、彼女はもっと「育っていた」ような気がするのだ。撃ち殺されたあとの記憶があるように思えたのは、何故なのだろう。
ついに、丘の麓まで潮水が来た。凄い勢いで、水位が上がっている。水死するのは苦しそうだなあと、漠然と思う。
出来れば、見苦しくないように、消えていきたい。
そういえば、カニさんが辺りには一杯いるか。カニさんは確か人肉が結構好きなはずで、死んだ後は彼らが綺麗に処理してくれるだろう。こっちもカニさん達を殺して食べたのだし、おあいこだ。
それに何より、ぶくぶくふくれた水死体になるよりは、白骨にでもなった方がましだ。
立ち上がったのは、水が来たからだ。おしりを水でくすぐられるよりは、立っていた方がいい。
足下まで、水が来て、砂を浚いはじめる。サボテンもこれではもう潮水漬けだ。どのみち助からない。
ふと、妙な音がした。
これは聞き覚えがある。ヘリのロータリー音だ。足下が急速に砂に浚われていく中、ヘリが見えた。かなり大きな軍用ヘリである。下ろされる縄ばしご。
聞き覚えがある声がする。
「マオ博士! 上がって来てください!」
「ええと、その声は……」
「あとで解ります!」
しばらくためらったあと、縄ばしごを掴む。
ヘリが上空に。
同時に、今までいた丘を、三メートルくらいは高さがありそうな、大波が浚っていた。
ヘリに乗り込むと、コートを渡された。シャツの上から羽織る。
渡してくれたのは、少し年下に見える女の子だ。白衣を着込んでいて、ヘリの操縦を一人でやっている。髪は真っ黒で、しかもショートにしている。あんまり女の子らしくはない格好だ。
「誰?」
「すぐに解ります」
ヘリから見下ろして、気付く。
だが、驚きはしなかった。
島の外側に、堤防があったのだ。しかも、水門が今は全開になっていた。
なるほど、この島は人為的に沈められていた、という事なのだろう。そうなると、今まで見たものは、全てが用意されていた、という事なのか。
だとすると、この記憶の数々は何だ。
あのセスナは。死体は。
まさか、実験だったのか。全てが。
ヘリは程なく、メガフロートらしい浮島に到着する。そこで、大勢の銃を持った軍人さんが、敬礼してきた。
見たところ、何処かの国の軍人さんでは無い様子だ。
そうなると、此処は。
何処かの企業の、私設秘密施設か。
履き物が欲しいと言うと、すぐに靴下とスニーカーを持ってきてくれた。だが、サンダルが良いと指定。
わがままに嫌な顔一つせず、すぐにサンダルを持ってくる女の子。
「体中ベタベタですものね」
「……何だか、引っかかるなあ」
不快感がせり上がってくる。
風呂に入りたいというと、すぐに用意してくれた。何だか高級ホテルのバスルームみたいな状態である。
メイドも用意するかと聞いて来たので、流石に拒否。
体を洗うと、砂が出る出る。垢もかなり溜まっていて、落とすのが大変だった。髪の毛は特に酷い有様で、良くこれで人前に出られていたものだと感心する。
鏡を見て、ふと思い出す。
特に美人でも無く、ブスでも無い。ごく普通の、特徴が無い地味な顔。だが、この顔を忘れるわけが無い。
そうだ、私は。
朝下真緒博士。
世界でも有数の製薬会社、ドラグニットカンパニーで、主席研究員をしている人間だ。
少しずつ、思い出してくる。
自分の正体が解れば、あとは早かった。
更衣室を見ると、汚い白衣と、他にもいろいろな服が入っている。どれも、愛用の品ばかりだ。
そして、あのヘリの運転手は。
頭を振る。
そうだ、全ては。実験だったのだ。
部屋を出ると、カナデが待っていた。日本でドラグニットが拾ったエージェントで、元の名前は違う。
そうだ。
この子の記憶だったのだ。あの、凄惨な日常は。
カナデの両親は小規模な資産を相続した善良な人間だった。だが悪いことに法の知識が無かった。
その結果、訳が分からない借金を背負わされ、全てを強奪されたあげく、保険金を得るために自殺させられたのだ。
いずれもが、闇金業者の下劣な策略の結果だった。
運良く生き残ったカナデも、危うく少女売春の修羅場に放り込まれる所だった。だが、彼女は、運命に反逆する道を選んだ。
葬式場を丸焼きにし、恨み重なる外道共を皆殺しにして、それからは復讐心だけを抱いて社会を歩き回ったのだ。
二度逮捕され、そのたびに脱走。最後は資産家の家に立てこもり、一家全員を惨殺したあげく、警察特殊部隊に囲まれた。そして額を打ち抜かれて、死んだ。
だが、その死体を、ドラグニットが拾い上げたのだ。
脳を切り開いて、記憶を抽出。
肉体からはDNAを採取して、クローンを作成した。そうして作り上げたのが、世界では非公式だが、今後世界の紛争で主力として活躍することが期待されるクローン兵士、カナデだった。
実際クローン母胎として作られたカナデは、あらゆる戦闘技術に恐ろしいほどに高い適応率を示し、訓練という訓練で高い成果をあげた。
あとは、量産したクローンのカナデに、この記憶を移植する実験。
それだけではない。戦闘経験を記憶として移植するそのこと自体を、ビジネスにする事も、上層部は考えていた。
「マオ博士、お帰りなさい」
「ん……」
思い出す。
その実験体として、自分が志願したことを。
あれは、極限状態の中、どれだけ植え付けた記憶が拒否反応を示さないかの実験。その実験には、元の記憶に上書きして、記憶を植え付けた兵士を殺人マシンに変えるというものも含まれていた。
人間の社会には、闇が満ちている。
この製薬会社は、その縮図だ。大学を出てから、野心に溢れていた真緒は此処で実験を重ね、そしてそのあまりのインモラルに、決めたのである。
そして、カナデの記憶を自分に植え込んで、知った。
この世でもっとも邪悪な存在は、人間に他ならない。
モラル無き人間など、野獣以下だと。法で武装しようが、理論で武装しようが、それは同じなのだと。
そして殆どの人間は、モラルなど鼻で嘲笑っているのだ。そうすることで、大人と呼ばれる。なんと下劣な生き物か。
「カナデは博士のためなら何でもいたします。 カナデを人間として認めてくれたのは、貴方だけなのだから」
「……そう、だね」
やるべき事は、決めている。
あのセスナの残骸と、周囲の死体、本物だった。実験の精度を上げるために、民間のセスナをカナデに撃墜させたのだろう。
救助が来なかったのも当然だ。
年の純利益一兆六千億円とも一兆八千億円とも言われるドラグニットである。各国首脳との関わりも深く、事故のもみ消しぐらい、何でも無い。
これは、世界最大の化け物の巣窟だ。
ならば、やることは一つしか無い。
今回の実験で、記憶の移植自体は不完全ながら出来ることがはっきりした。
人は、孤独に生きることが出来ることも、よく分かった。
ならば、するべき事は、決まっていた。
「カナデ、私のために、手を汚してくれる?」
「簡単なことです」
「そうか。 ありがとう」
ケイタイを渡された。
番号は全て頭に叩き込んでいる。呼び出したのは、幼児にしか性欲を発揮できないドラグニットの最高取締役の爺だ。
「カレント会長、例の実験ですが、今帰還しました。 幾つか技術的な問題はありますが、おおむね上手く行きそうです」
「おお、そうか。 これで発展途上国に輸出できる安価な兵士の生産で、我が社は世界のトップに立つことが出来る。 我が社の年間純利益は二兆五千億円を超えることだろう」
「誠におめでたいことです」
携帯を切る。
そして、関係各所に、クローン兵士の生産について、指示を出した。記憶の移植技術については、自分の経験から、幾つか変更を加えればそれでいい。
あの、リアリティの無い記憶の連続は、他人のものだったから。
カナデは戦場で、何度も何度も死んだ。そのたびに、いろいろな記憶を蓄積していった。最初に死んだのは、両親に無理心中を迫られたときだったかも知れない。心が、その時に死んだのだ。
そして、両親の敵を焼き殺したときも、心は死んだ。
あの冷たくない雪は、その記憶の一部だ。
何度か目に死んだとき、カナデは仰向けに倒れていた。致命傷の銃創を受けて、ぼんやりと降り注ぐ雪を見つめていた。
もう温度も感じなくなっていたのだろう。
死のフラッシュバックが、あの幻覚を見せたのだ。
何度も何度も死を繰り返し、カナデという怪物ができあがっている。その断片を、真緒は見た。
最初にカナデを見た時、どうしてこの子が出来てしまったのか、すぐに解った。何という非道をと、笑顔の裏で社会に憤った。
MIUを主席で出たのは、こんな子を増やすための作業をするためでは無い。邪悪にならなければ人間社会を回せないというのなら。そんなものが正当化されるというのなら。
全てを、打ち砕いてやると思った。
こんな社会に、守る価値はあるのか。社会の法を遵守して、生きる価値なんて、あるのか。
ずっと感じていた倦怠感は。きっと、社会への不快感が、形になったものだったのだろう。
彼方此方に指示を出し、五千のクローン兵士の生産を行わせる。
全てがカナデと記憶を共有する。数多の死を乗り越え、膨大な戦闘経験を積み上げた、殺戮の申し子だ。これが成功したら、発展途上国のチャイルドソルジャー達に記憶を移植する計画もあった。はっきり言って、完全にイカれている。
彼女らが目を覚ましたとき。
真緒はあらゆる通信手段を用いて、命じた。
「ドラグニットの社員を、皆殺しにしろ。 特に経営陣は、絶対に逃がすな」
「承知!」
カナデの分身である兵士達が、全世界で一斉に動き出した。思考のプロテクトなど関係ない。バックドアなど、とうに準備してあった。
未曾有のテロが、ドラグニットを襲った。
惨劇は、30分で終わった。
全てが終わったとき、十万を超えるドラグニットの社員は、上から下まで全てが物言わぬ肉塊と化し。
そして、真緒は、社会から姿を消した。
4,孤島の一日
かってドラグニットが所有していた小さな島。
今、そこで真緒は生活している。
電気は発動機でまかない、水や食料は、時々逃げ延びたカナデに、島の中から調達させていた。
生活力は、何年経っても身につかない。お魚を捌いたり、カニをばらしたり、お野菜を炒めたりするのは、だいたいカナデがやっていた。
砂浜にしつらえた安楽椅子に座って、ぼんやりと真緒は空を見つめる。
何か、意味がある行動だったのだろうかと、真緒は思う。
ドラグニットが滅んでも、世界が良くなるわけが無い。
邪悪の埋め合わせは、別の邪悪が行うだけのこと。
今も何処かで、邪悪な研究が行われ、多くの弱者が踏みにじられているのだ。人間にはモラルなど存在しないと、鼻で嘲笑うように。
世界最悪のテロリストとして、真緒は指名手配されているらしい。正直、どうでも良いことだ。
いざとなったら、島に仕掛けてあるダイナマイトで自爆する。かってドラグニットが集めたものだ。島ごと消し飛ぶほどの量があり、爆発させればそれこそ一瞬でこの世から消えることが出来る。
それまでは、静かにこの島で暮らすだけだった。
五千もいたカナデも、もうあまり多くは生き残っていないだろう。
だが、彼女は言う。唯一の理解者の側にいられて、幸せだと。
真緒は、だから思う。
最後まで、カナデの理解者でいようと。
カナデの記憶を植え込んだ時点で、理解者とは言えた。だが、あの何度も繰り返される死を無理矢理植え込まれる恐怖と、その悲しみは、多分理解できるものではないだろう。
今日も倦怠感が酷い。
社会に対する敵意が、生きようという意欲を根こそぎ奪い去って行く。
何が、社会のためにだ。
学業を極め、世界でも有数の企業に就職してさえこれだ。これからも、人間の社会は弱者を根こそぎ踏みにじっていくことだろう。
そんな社会と、折り合いを付けてやっていく方法もある。
だが、真緒はそれを、選べなかった。
否。
選ぶ事を拒否した。
倦怠感は、ますます酷くなっていく。
ふと、遠くに閃光が見えた。
核兵器の爆発に似ている。
或いは、全面核戦争が始まったのかも知れない。
何もかもが、くだらない。人間の業は、ついに此処まで来たか。ならば、勝手に滅びてしまえば良い。
そう、真緒は思った。
(終)
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