こと寄せ

 

序、戦い終わって

 

大陸中央部での戦いが沈静化するのとほぼ同時に、コーネリア王国での戦闘も終結した。勝ったとはいえ、コーネリア軍の被害は大きく、短時間では癒えない傷も残った。また、帝国軍は大きな被害を出したと言っても余力を残しており、戦略的価値の稀少さがコーネリアを救ったともいえたのだった。そして、攻撃軍の司令官であるミディルアが、戦略的価値の希薄さを理解していたからこそ、戦は短期で決着がついたのである。もしこれが無能な司令官であったら、戦いは確実に泥沼化し、最終的にコーネリアは滅びていたであろう。コーネリア軍の奮戦がなければ、無論短期間に帝国軍は鋼鉄の暴風となってコーネリア王国を蹂躙していた事は疑いない。だが、コーネリア軍の奮戦だけが勝利の要因ではなかった事もまた事実であった。

帝国軍は二度の戦いで、ジェシィ少将を含む合計八百名ほどの捕虜を出した。無論彼らは帝国軍の正規兵であったし、帝国としても彼らを見殺しにするわけには行かない。当然の帰結として、ミディルアの部隊が撤退して後、コーネリア王国に帝国から使者が訪れた。それは和平の使者であり、コーネリア王国としても絶対に無視するわけには行かない相手だった。もし帝国軍が今一度の攻撃を行えば、コーネリア王国はもう持ちこたえられないであろう事は誰の目にも明かであり、全くの事実でもあったからである。コーネリア王国はすぐに使者を受け入れ、会談の場を設ける事を公約した。両者が条件に合意し、半月ほどが経過した。

 

「陛下、もうすぐコーネリア王国に入ります」

「うむ、ご苦労」

護衛兵の敬礼に頷くと、帝国皇帝ハイマンドは、コーネリアの国境となっている山岳地帯を見上げた。彼は今回、前回の攻略戦に加わったミディルアを含む三十名ほどの少人数で行動している。周囲はザムハルグを初めとする帝国最強の者達が固め、危険は極めて少ないが、臆病者には到底できないことであった。

「ミディルア軍団長、今回の戦いは惜しかったな。 常勝の名高い貴官の経歴に傷が付いてしまった」

「無念ですわ。 敵は見事な用兵を見せ、我が軍も決して無様な戦いはしませんでした。 全ては指揮官たる私の責任です」

「貴官に無理であれば、他の誰にも無理であっただろう。 要は、未だ命数を使い果たさぬ国を無理に滅ぼそうとしたのが失敗だったのだ。 肝に銘じておこう」

「御意ですわ。 小官も肝に銘じさせていただきます」

傍らのミディルアと話しながら、皇帝は馬を進めた。ふと彼が視線を移した先には墓場があった。それは、二度の戦いで命を落とした者達を葬った共同墓地であり、どちらの兵士も手厚く葬られている事が一目で分かった。皇帝は敬礼し、皆もそれに習う。

「さて、我が精鋭を撃退した勇敢なる女王陛下に、お目通りを願うとしよう。 聞く所に寄ると、春風のように暖かく優しげな女王だそうだ。 しかし、同時にその春風が我が軍を敗北に導いた。 是非一度会いたいと、余は心底から思う」

「私も、かなり興味がありますわ」

「さもありなん、無理もない事だな」

不敵な笑みを浮かべると、皇帝は峡谷の中、実に堂々と馬を進めていった。大陸全土が急速に平和に向かい、その風潮はこの国でも例外なく到来していたのである。皇帝の到来は、その引き金となる出来事であった。

 

1,飛翔

 

皇帝来る。その報は短期間でコーネリア王国を駆けめぐり、民衆の間には動揺が走った。皇帝ハイマンドの名は、閉鎖社会であるこの小さな国の子供でさえ知っている。一代にして大陸の半分にまたがる大帝国を築き上げた英雄、生ける伝説。同時に様々な噂を持つ人物でもあり、勝手に造られた人物像が一人歩きもしていた。当然コーネリア側も対応に負われ、エイモンドもドルックも戦闘時以来の過剰労働を強いられていた。

また、合戦での論功行賞も進行していた。勝ったからには恩賞が出るのは当たり前の事である。何人かは地位が上がり、また国から報奨金が出た。これらも以前家康が計算をすませていたため、何とか予算内で納める事が出来たが、もし土地の価値を至上とする封建社会であれば、備蓄していた予算だけではまかないきれなかっただろう。

アッセアは、コーネリア至上最年少の長老に就任した。長老格の人材としては前例が幾らでもあったが、三長老の一人にこんな若い、しかも他国出身の人間が就任するのは初めての事態であった。アッセアの武勲は誰もが認める物であったし、タイロン長老の戦死もあったから、誰も異論は唱えなかった。アッセアは人望もあったから、この件について陰口をたたく者も少なく、人事はスムーズに進行していった。戦後処理は女王イレイムの明敏で的確な決断と、それを支える家康の力によって、見る間に片づいていった。それほどに二人の人望は高まっており、また公平であったため、異論を差し挟む余地が誰の口にもなかったのである。

そして、会談の日が来た。帝国にとっては今まで何十度と重ねた行為だったかも知れないが、コーネリアという小さな国にとっては、歴史的な節目となる日であった。

 

会談を行う場所に選ばれたのは、コーネリア王国首都王城の大広間であった。もっとも、王城と言っても、他国での砦程度の規模しかないため、大広間などと言う言葉をつけるのが気恥ずかしい規模であったが。ともかくその(小さな大広間)にて、帝国とコーネリア王国の和平会談が始まった。

晴れた日であり、円卓の一方に就くイレイムは空気を心地よいと感じていた。窓から差し込む光は優しく、ほのかに暖かい。何人か控えている護衛兵達や、コーネリアの高官達も、落ち着ききったイレイムの表情を時々見て、安堵している様子であった。二十人が座れる円卓には、双方の人員が十人ずつ座り、時々互いに小声で会話している。そして、自国の人間同士で喋りはしても、隣の席にいる(敵国)の人間とは一切話そうとしなかった。ほんの小さな距離が、巨大な壁によって遮られている。それは隣の席に座ったくらいでは全く揺るがないと、イレイムは改めて思い知った。

上に立つということが、如何なる事か。この一年で家康に徹底的に教え込まれたイレイムは、今此処で何をするべきか悟っていた。大国の皇帝の前で、堂々たる態度を示す事。何があっても、落ち着いた姿勢を崩さない事。心を落ち着かせることにより、皆の不安を取り除く事。今の時点で、イレイムは完璧にそれらを果たし、実行していた。そうでなければ部下達は不安を隠せず、強大無比なる(帝国)に飲まれてしまった事だろう。今のところ皆精神的に五分の情況を保っており、それは上に立つべき者であるイレイムの態度に寄る所が大きかった。

実際の交渉自体は水面下で既にかなり進行しており、今回の会談は最終的な確認という意味合いが強い。後ろには家康がいたが、イレイムはあえて彼の方を見なかった。真の意味で師に認められるには、この会談を一人で成功に導かねばならないと思ったからである。

時間が来た。イレイムはあくまで平静を装い、心中にて深呼吸しながら、決められた行程通りに言葉を吐いた。

「時間が来ました。 よって、コーネリア王国女王として、会談の開始を宣言いたします」

「セイモル帝国皇帝ハイマンド、会談の開始に同意する 我が剣に、この喜ばしい会談に全身全霊を傾ける事を誓おう」

ハイマンドの言葉は実に堂々としていて、イレイムは単純に凄い、と思った。とにかく場慣れの度合いが違う。かろうじて平静を保っている彼女と違い、緊張の中にあっても平然と威厳を保ちうる様子であった。幾つかの儀礼的な言葉の応酬をすると、いよいよ本番に取りかかった。双方の提案が机の上に配られ、まずイレイムがコーネリア側の主張を読み上げる。出来るだけ読み上げる口調がぶれないように、細心の注意を払いながら。

「我が国の主張として、以下の物を上げます。 一つ、我が国は今後帝国に侵略する事はなく、また帝国からのいかなる侵略も認めない。 一つ、我が国は閉鎖的な性格を打開すべく、帝国と経済的交流を持つ事を提案する。 そのために双方から等価の出資を行い、国境に物資集積を目的とした街を建設する。 一つ、我が国は今回得た捕虜のうち、望む者があれば速やかに故郷に帰す事を約束する」

要は不可侵条約の提案、交流の提案、捕虜の帰還の名言である。意図的にストレートな物言いにしているのは、反論等があったときに対処しやすくするためであった。ハイマンドは書類に目を通して頷くと、今度は自国の提案を読み上げた。

「我が国の提案としては、以下の物を挙げさせて頂こう。 一つ、我が軍が得た帰国の捕虜は、望む者を直ちに帰還させる。 一つ、南部諸国連合の侵略があった場合、我が軍は援軍としてはせ参じる事を約束する。 一つ、我が国は貴国に対し、積極的な技術援助を行う。 一つ、我が国の外交官を、貴国に常駐させる」

一件、理想的な条件提示に見えるが、実はそうでもない。捕虜の返還は良しとして、問題は以降である。以降の条件を認めた場合、コーネリアには帝国が認めた人間が堂々と入ってくる事になる。しかも、いざというときには(援軍)という名目で軍までもが、である。更に帝国の技術は明らかにコーネリアに比べて優れているから、ふと油断するとコーネリアは帝国にかかりっきりで生きなくならねばなる情況も想定出来るのだ。

今回コーネリアが帝国を撃退出来た最大要因が、その情報が外部に殆ど漏れていない、という事である。この帝国の提案をのめば、その強みも消滅する事になる。しかし、コーネリアの発展を考えると、これら帝国の提示条件は決して悪い話ではないのである。水面下交渉の際、議論の焦点となったのがこれであった。そして、イレイムは今まで考えて、結局結論を出せなかったのである。

こんな時、家康ならどう考えるだろうか、とイレイムは思った。無論意見を聞くのは簡単だが、それをやってはいけないとすぐに自制が働く。義理をこれ以上もなく果たしてくれた家康に応えるためにも、今家康に頼ってはいけないのである。家康が教えてくれた事を、イレイムは一つずつ思い出していく。そして、はたと思い出した。家康は、政治とは点ではなく全体である事を常々言っていた。現在の情況が正にそれではないかと、イレイムは悟ったのである。

極端な話、こと寄せさえ使わせないようにすれば、民の平和と安全な生活さえ保障されれば、コーネリア王国自体は無くなっても良いのだ。だが、現時点ではそれは無理だ。この閉鎖社会に暮らしてきた者達は、(コーネリア王国人)という狭いくびきの中で固まっている。それ自体は決して悪い事ではない。だが将来的発展の面から考えると、少しずつ未来の覇者である帝国と同化していく必要がある。それには、村社会的な閉鎖的性格は少しずつ解消していかねばならないだろう。だが、完全に帝国の属領と化してしまうのも問題である。自らに全てを預けてくれた民のためにも、イレイムは考えなければならなかった。

イレイムはしばし考え込んでいた。その顔を、皇帝は興味の視線でずっと見やっている。皇帝の隣にいるミディルア大将も、興味の光を隠さずにイレイムを見ていた。イレイムの隣に座っているセルセイアも、長老達も、衛兵達も、皆イレイムを見ていた。やがて彼女は小さく頷いて、千万の視線の中決断を下した。

「我が国は、皇帝陛下の提案を受け入れましょう。 ただし、外交官は此方の指定した地域にとどまって貰う事、技術は当方の吟味の末に導入する事、関所は廃止しない事、軍事援助は此方の要請がなければ絶対に派遣しない事、等を再提案いたします」

ハイマンドが目の奥に興味深げな光を宿し、ミディルアは目を細めて小さく頷いた。要するにイレイムが言った要旨は、条件は飲むが同時に隙は見せないと言う事であった。まさに堂々たる態度であり、一種の宣戦布告と言っても良かった。圧倒的軍事力を持つ大国を前にして、自分の立場を自覚した上で、此処まで堂々と物を言う。家康が教えた事によって覚醒したのは、正に王器であった。

「……良かろう。 余は陛下の提案を全面的に飲ませて貰う事とする」

ハイマンドは言い、イレイムが笑みを浮かべた。二人は立ち上がり、イレイムはセルセイアに渡された家伝の弓(ナイルタ)を持ち、ハイマンドは帝国の宝刀である(シュナイテン)を手に取った。そして互いの得物をそれぞれ天に掲げる。

「コーネリア王国女王、イレイム=アス=コーネリア。 ここに、和平の締結と、条約の承認を誓います。 我が誇りと、偉大なる先祖と、この弓にかけて」

「セイモル帝国皇帝、ハイマンド=フォン=セイモル。 ここにめでたき和平の締結と、条約の承認を誓う! 我が誇りある将兵と、未来と、この剣にかけて!」

こういった言葉は儀礼的になることが多いが、この二人のそれは違った。周囲の者達は例外なく沸き上がる心を自覚し、手を叩いた。年甲斐もなくドルックは落涙し、エイモンドも拍手を惜しまなかった。今後も、細かい条約の調整や、必ず起こるであろう小さな摩擦を解消するため奔走せねばならない。だが、平和が訪れた瞬間に立ち会い、それを見届けた事実はまごうことなき物であり、皆の心を打つには充分だった。

イレイムは沸き上がる拍手の中、笑顔を崩さなかった。涙をこらえるのに必死で、皆と歓喜を共有出来なかったのである。やがて定められたとおりに彼女とハイマンドは歩み寄り、条約締結書を交換し、握手を交わした。ここに、完全に帝国とコーネリア王国の紛争は解決したのであった。

拍手の中、イレイムは振り返る。視線の先にいた家康は笑みを浮かべており、拍手を惜しまなかった。彼の視線の意味を悟り、イレイムは頭の中で深々と礼をした。家康は、良くやったと、心の底からイレイムを褒めていたのだった。

自分自身でこの難しい局面を乗り切ったイレイムは、一人前の君主として完全に覚醒した。決断力、判断力共に十二分の物を備え、自身の立場を自覚し、何より民の事を大事に思える、理想的な名君の誕生である。まだ若干経験が足りない部分はあるが、それは幾らでも周囲が補ってくれる。人望は、彼女の行動、そして実績自体が既に十二分に作り上げた。もう、誰もイレイムを頼りない女王などとは思わない。戦場では最前線で戦い続け、外交の場では自ら決断し、戦い抜いた彼女をあざ笑える者など何処にいるというのだろうか。ひな鳥は翼を延ばし、今枝を蹴って空に飛び立ったのである。家康やハイマンドを初めとする英雄達がいる、その同じ空へと。

 

2,英雄、政治を語る

 

会談の夜はささやかな宴となった。実際問題、二度の総力戦と恩賞の支給、被害の復旧等で財政は余裕がなく、豪華な宴など開きようがなかったのである。だが、帝国の要人達は別に気分を害する様子もなかった。ささやかではあったが心のこもった宴である事に変わりはなく、また彼ら自身が質実剛健を旨とする者達だったからである。

無論、これは無礼講ではないから、ハイマンドやミディルアには意図的に監視が付いた。普段酒を飲まないハイマンドは当然の事、酒を飲むと子供同然になるミディルアには特に厳重な監視が付くことになった。当然の話で、ここでミディルアが暴れて、酒瓶でイレイムをぶん殴ったりしたらせっかく成立した和平が台無しになる。そうしたら、無駄にまた血が流れる事は疑いなかったであろう。監視をつける事を要求したのは、勿論ミディルア本人であり、彼女はさも恨めしそうに酒を飲む者達を眺めながら、ちまちまとコーネリアの郷土料理を口に運んでいた。大人げない行動であったが、酒を飲んで暴れたら更に大人げない事になるので、これでよいのである。

ハイマンドは先ほど解放されたジェシィ准将に話しかけながら、時々視線をイレイムと、その隣で黙々と酒を飲む男へ向けていた。イレイムが優れた君主であることは彼自身の目で確認したが、一年前はただの小娘同然だったという報告もまた受けている。であれば間違いなく師匠がいるはずで、それは相当な人物だと見当もつけていた。会って話をしてみたい、そして出来れば部下にしたい、それが今のハイマンドの心境であり、それが簡単にかなえられる情況に今彼はいるのである。

ジェシィは有能な軍人であると同時に、情報員でもある。ハイマンドにしてみれば極めて重宝する部下であり、何で能力ではなく体の方にも心が動かされるのかと、何度も自分の体に蠢く節操の無さを悔やんだか分からない。ハイマンドは聖人君主ではなかったが、同時に自分の立場が分からない人間でもなかったので、一線を踏み越える事はなかったのだが。

「ジェシィ准将、今回は役目大儀であった。 故郷に帰ったらゆっくり休むように」

「はい」

「……所で、此処だけの話だが、ただ捕まっていただけか?」

「いえ、コーネリアの内情を可能な限り探っておきました」

一応軟禁されてはいたわけだから、解放されてから部下達の間を周り、情報を収集してまとめたのであろう。その手腕は大した物であり、ハイマンドは満足げに頷いた。

「……あの中で、女王に教育を施したであろう者がいるはずだ。 見当は付かないか?」

「おそらく、あそこで黙々と酒を飲む、小柄な男かと」

「ほう、なかなかに鋭い目つきの男だな」

「……あれが噂のイエヤスのようです。 女王の成長時期と、あの男がこの国に現れた時期はぴたり重なるそうですので、間違いはないかと」

頷くと、ハイマンドは席を立った。隣で飲んでいたザムハルグも、無言でそれに従う。ジェシィはそのまま席に座り、引き続き、隣で恨めしそうな目つきで料理をつついているミディルアの監視に当たった。ハイマンドは、無言のまま家康に近づいていった。相手もすぐにそれに気づいたようで、形式だけ笑みを浮かべて頭を下げた。ハイマンドは最強の護衛と共に腰を下ろすと、目の前にいる男の品定めにかかった。

「お初にお目にかかる。 余はセイモル帝国皇帝ハイマンド。 貴公は?」

「儂の名は徳川家康。 陛下の名は、常々雷鳴の如き轟と共に聞き及んでおります」

「そう形式張らずとも良い。 無礼講とは行かぬが、男同士胸襟を開いて語り合う事としようぞ」

「身に余る光栄でございます」

家康は頭を下げたが、心までは平伏していない。それを敏感に悟ったハイマンドは、ザムハルグの方に手を伸ばした。護衛はすぐにその意味を悟り、主君の手に果汁飲料の入った瓶を握らせる。

「余は下戸故、酒は飲めぬ。 故にこれで乾杯しよう」

「杯、つつしんでお受けいたしましょう」

言葉は丁寧に応じているが、家康はハイマンドを冷静にかつ綿密に観察し続けていた。ハイマンドは目を光らせると、家康の杯に飲料を注ぎながら、話始めた。

「今度の戦では、我が帝国の誇る将を二度も撃退した貴公らの采配には誠恐れ入った。 アッセア将軍と、今一人傑出した指揮官がいたと聞く」

「さて、誰でございましょうな」

「ふふ、謙遜はよせ、貴公であろう」

それだけ言うと、ハイマンドと家康は計ったように大笑いした。周囲の者達が一瞬だけ視線を向けたが、すぐに視線を戻す。宴はそれほど楽しい物であり、気配りを欠かさぬイレイムがその愉しさを倍増させていたのだ。

「ゼセーイフを倒した最初の戦は見事であったと、我が部下達から聞いておる。 ひょっとして、半年くらい前から準備していたのではないか?」

「そうですな、或いはそうかもしれませんな」

家康は明確には応えないが、表情がそうだと告げていた。殺した殺されかけたの間柄であるのに、会話する二人はそれを超越した場所から言葉を交わしている。無論命を散らした部下の事を忘れているのではない。それは仕事であり、仕事と私情を完全に区別しているのだ。

「我が軍は決して無様な戦いをしたわけではないのに、うち負かされた。 ゼセーイフも、決して無能な男ではなかったのに、一敗地にまみれた」

「城攻めであればこうはいかなかったでしょう。 野戦は儂の得意分野にて、巧くいった部分もありますな」

「ほう、それを聞いて安心した。 貴公とアッセア将軍が本気になったら、数年で我が領土を大分浸食されるのではないかと、心配しておったのだ。 だが、作戦立案者たる貴公がそうなら、その恐れもなさそうであるな」

無論今のはハイマンドの謙遜である。帝国軍が敗北したのは、コーネリアの戦略的価値が稀少な点が要因の一つなのである。もしコーネリア軍が身の程知らずの野望に駆られたら、たとえ率いているのが家康やアッセアであっても、帝国軍は苦もなくそれを叩き潰せるだろう。元々総合的なポテンシャルが全く違うのである。

そして、ハイマンドは戦略立案者が家康である事を既に見抜いていた。今の言葉からそれを敏感に悟った家康は、不敵な笑みを浮かべて続けた。

「ご謙遜を。 それよりも、二次侵攻時の陛下の軍は手強かったですぞ」

「ミディルアは余の配下でも一二を争う戦上手だ。 故に手強かったのは当然だな。 心が強く、酒癖が悪くなければ、あれは間違いなく帝国一の武人だろう」

「そういった癖の強い人材を使いこなしてこそ、真の英雄でございましょう」

「お、貴公に褒められるとは光栄だな。 ふはははははははは、実によい気分だ」

相手の言いたい事を即座に洞察しながらの話し合いは続いた。相手の一語一語が、互いに力を伝え会う。家康はひとしきり笑うと厠に立ち、ハイマンドは傍らのザムハルグに言った。

「どうだ、あの男は」

「陛下と真の友になるか、或いは最強の敵になる男でございましょう」

「お前もそう思うか。 余の最強の部下とはなり得ないか?」

「危険だと、存じます」

動物的な勘を持つザムハルグの台詞はいちいち重みがあり、ハイマンドは納得して頷いた。この無骨な男は欲に乏しく、いや皇帝の為になる事自体が欲望の充足とかしている観がある。故にその言葉は心底からの本音であり、だからこそ信頼も出来るのだった。ザムハルグは皇帝に全面的な忠誠を捧げており、いざとなれば死をもいとわない行動をする。同時にそれは、必要と感じたときは、命をかけて諫言をする事も示していた。そして彼は実際の階級こそ大佐であったが、中将級の待遇を受け、ある程度は皇帝に意見を具申する権利も有していたのである。

「そろそろ席にお戻りになりますか? あの男を部下にするのは不可能と存じます」

「いや、余はしばしあの男と語り合いたい」

「御意」

忠実な部下の台詞に、ハイマンドはそんな風に応えた。ハイマンドが視線を移すと、イレイムが、彼が連れてきた中将の一人と語り合っていた。兎に角柔らかい印象を与える女王で、乱世の英雄にはなり得ないかも知れないが、やはり君主としては盤石の基盤を築きうる存在であろう。ただの小娘をそこまで育て上げたあの男と、ハイマンドは今しばし語り合いたかったのである。

「お待たせしました。 いやはや、若い頃に比べるとどうしても厠が近くなりますな」

「余もそうであるな。 所で、イエヤス殿。 一つ聞きたい事がある」

「何でしょう?」

「まつりごととは、貴公にとってなんであろうか?」

投げかけられたのは、途轍もなく重い言葉であった。それに臆する事もなく、家康は応える。なぜなら、彼には既に明確な結論があり、正しいと思える言葉を相手に投じる事が容易だったからである。そしてその相手が、その言葉を投じる意味があるとも、家康は悟っていた。

「儂にとってまつりごととは、全てのしるべですな。 社会を形作るのは責任ある為政者の責任あるまつりごと。 である以上、国の基礎を為す民の力を、正しく導くのがまつりごと。 そのためには、如何なる手でも用い、如何なる手を使っても全体の利益を考えなくてはならない。 それが、儂のまつりごと、ですな」

「なるほど。 余にとってまつりごととは、秩序ある社会の基礎となる物だ。 これに関して、貴公はどう思う?」

「そうですな、秩序とは進歩と相対する事が多き物。 また、秩序のためには様々な犠牲が出るのもいたしかたなき事実。 まつりごとは冷酷になる可能性が高き物であり、だが常に慈悲を忘れてはならないでしょうな。 なぜなら、まつりごとは人という生き物に直接触れる事であるが故に。 社会を作り上げ、人という種を導く行為であるが故に。」

「参考になるな、確かにその通りだ」

ハイマンドは大いに頷き、楽しげに果汁飲料を煽った。家康はかなり強いであろう酒を飲み干しながら、ようやく酔いも回り始めたようで、酔眼を光らせた。二人の間には、互いを知りたいという思いが膨大な感情の流れとなって現れ、周囲から隔離する幕を作り上げていた。英雄は英雄を知る、その生きた事例がこの場所にはあった。この場で語り合う二人の英雄は、互いを互いの理論で計りながら、さらなる高みを目指すべく会話を続けた。

「陛下は、まつりごとを好いていますかな」

「そうさな、好いていない、といえば嘘になろう」

「それを聞いて安心しました。 人は社会を造る生き物であり、社会こそが人を動物から隔離する枠組みですからな。 人とは弱い生き物であり、そうでなくなる時が来るには、まだまだ遙かなる時を積まねばなりますまい。 そのときまで、我らは粉骨砕身まつりごとに携わらねばならないでしょうな」

「なるほど、確かにその通りだ。 流石だ。 まつりごとをそこまで整理してとらえているとは」

相手の言葉にいちいち感銘を受けるハイマンドは、愉しさをこらえる事が出来ないようだった。やがて二人は細かな政治論に入り込んでいき、意見を交わすたびに相手の言葉を身に刻み、大いに頷いた。

二人は共に円熟した政治家であり、また君主でもあった。そしてこの場では、利害関係を気にせずに言葉を交わしあう事が出来たのだ。知識実績において想像を絶する高みにいる者同士が語り合う機会は、実のところそう多くはない。二人は互いを認めると、宴が終わるまで語り合い、知識を深めあった。

後に、ハイマンドはこのときの対話を出来うる限り思い出し、部下に記録させている。帝国で後世最も普及した政治学書(皇帝かく語りき)は、これにアレンジを加えたものであり、帝国の発展に貢献した影響は計り知れない。

夜は更け、やがて宴は終わった。ハイマンドは家康に頭を下げると、驚くザムハルグの前で言った。長年ザムハルグはハイマンドに仕えてきたが、これほど澄んだ主君の表情は見た事がなかったのだ。

「有り難う、イエヤス殿。 今宵は本当に楽しかった」

「儂も、今宵の事は生涯忘れられぬでしょう。 陛下、感謝しますぞ」

心からの礼を言いあい、二人は別れた。そして、その後二度と会う事はなかったのである。

 

3,別れへ

 

高柳藍は、城の中庭で宴の喧噪を聞いていた。中庭にも簡易テーブルが置かれ、料理が振る舞われており、第七特務部隊の面々や、帝国王国双方の護衛兵などが羽目を外しすぎない程度に料理を楽しんでいた。武器の持ち込みは禁止されており、また雰囲気自体が良かったため、乱闘騒ぎも起こらず、平和に宴が続いた。

藍は料理を摘みながら、この国の事を色々思いだしていた。この国で、藍は真の力と、圧倒的なまでの殺戮快楽に覚醒した。故郷に戻ってもそれが消える事はあり得ず、いかなる決断をしたとしても、今後は自らの内に住む怪物と同居して行かねばならないだろう。もっとも、藍自身はこの怪物を大いに気に入り、自分が最も敬愛する真田幸村の名前を付けているほどであったから、悲観は全くしていなかった。むしろ、他に隔絶した何かを得た事を、喜ばしくさえ思っていたのである。この力を得る前の彼女は、たんなる歴史マニアの小娘に過ぎず、その力は極めて希薄で微少であった。だが、今はその絶大な力を振るって、その気になればいつでも隣人の首をへし折る事が出来るし、内臓を引っ張り出す事も出来るのだ。藍にとって見れば、もう殺人は空気と同じ物であり、一定時間行わなければ確実に禁断症状さえ現れるであろう絶対必需事項だった。

もう藍は、時間が来たときどうするかを決めている。だから、この宴は彼女にとって気楽な物であった。数ヶ月間悩んで決めた事であり、その決意は盤石で揺るぎない。だからこそ、今は平然と食事を摘む事が出来るのだ。今は単なる通過点に過ぎず、故に河の中にある水草のように、平常通り揺れながら時と空間をやり過ごす事が出来るのであった。

辺りには、藍が世話になった者達が大勢いた。常に藍を監視していたセルセイアと、その部下達。店を潰してしまってからは、却ってさっぱりした様子で仕事をしているアイサ。第七特務部隊の仲間達、それを率いるロフェレス夫妻。皆、腹を割って話せる者達である。特定の男を奪い合うわけでもなく、また地位をかけて争うわけでもない関係だから、そうなったとも言えたが、親友である事に間違いはない。

恋多き青年ミシュク。彼は流石にこの場には出づらいらしいティセイラと、かなり巧くいっていると言う話だった。この国には珍しい生粋の武人だったヨシュア。彼は引き続き第七特務部隊に残り、今後は魔物退治と国境警備に力を注ぐと言う事である。寡黙で真面目なセイシェル。彼はヨシュアと同じく第七特務部隊に残り、この国に(いざというとき)が再び訪れたときのために、体を鍛え続けるようだった。

最も世話になったロフェレス夫妻であるが、この国に残るつもりのようであった。今後も軍の中核的な存在になる事は疑いなく、おそらく国からの待遇も相当良いだろう。そしてこの夫妻は、殺人が無くても耐える事が出来る者達である。その点では、藍とは根本的に違う存在であった。

ティータは今も例の如くどじでひ弱で、子犬のように藍にまとわりついてくる事が多かった。大事な親友であり、守るべき存在でもある。この場にはいないが、明日会いに行き、正式に今後の去就を告げるつもりであった。

そう、藍は、日本に帰るつもりなのである。自分の中に住む怪物から、一番大事な者達を守るために。

 

「アイサさん、大事なお話があるんだけど、いい?」

「うん? なんだい?」

珍しく深刻な様子の藍の言葉に、料理をしていたアイサは手を止め、振り向いた。アイサの前では、藍はいつもおどけていたから、無理もない事ではあった。アイサは人を見る目にもかけていて、それが店を潰す原因ともなっていた。料理の腕だけは超一級であったが、それ以外の事は本当に何も出来ない娘だった。だがその愛すべき下町風の豪快な性格は、それらをカバーするほどの大きな長所であった。藍にしても、この人なら絶対に信頼出来ると信じたからこそ、最初にアイサに話を持ちかけたのである。

「私、帰るんだ」

「……」

「私の国、此処とはずっと離れた遠くにあるんだよ。 そして、もう時間がないんだ。 おそらく明後日、遅くても明々後日には、帰る事になると思う」

「……そうかい」

藍はアイサの顔を見る事が出来なかった。何で自分が帰るのか、その理由を告げられないと言う事情もある。この親愛なる友に、自分の怪物の存在を見せる事など出来ないし、理解させる事など到底無理だろうから。うつむき続ける藍に、アイサは言った。

「もう、会えないのかい?」

「まず無理。 とても、とても遠い所だから」

「そうか、そうだよね。 そうじゃなきゃ、わざわざこんな話しないか」

藍は俯いていた。アイサはそのまま料理に戻り、一言も発しようとはしなかった。無言のまま藍は振り向き、宴が行われている方を見て、ため息をついた。帰る事自体には、全く心は動じない。しかし、大事な人達と別れる事が、此処まで辛いとは正直思わなかったのだ。

そのまま藍は自室へ戻っていった。そしてその途中、ふと気づいて自分の手を見た。小さな水滴がかかり、その手は濡れていたのである。

「……あ、涙だ」

無言のまま藍は駆け出し、自室へ飛び込んだ。そして壁に背を預け、はたはたと落涙した。声を上げて泣こうにも、そんな事は出来なかった。ほんの少し前は出来た気がするのに、もうどうやっても出来なかったのである。今彼女に出来る事は、静かに泣く事が精一杯であった。

「いいんだよ、これで。 いいんだってば」

遠くから喧噪の音が聞こえる。イレイムは条約調印を成功させた事は間違いないし、この国に今後は平和が訪れる事もほぼ疑いがない。もう、真性の殺戮狂である藍は、この国に居場所がないのである。故郷では居場所がないかというと、そうでもない。故郷の世界では、飛行機を使えば幾らでも貧しい地域に飛ぶ事が出来るし、そう言った場所では紛争や内戦が絶えないのだ。その気になれば、先進国であっても幾らでも殺しを楽しめるだろう。

それに、友を殺したいという欲求は最近ますます大きくなっている。このままこの場にとどまれば、アイサやティータを殺す日が必ず来てしまう。イレイムだって、暗殺してしまうかも知れない。帰らねばならない、絶対に帰らねばならないのだった。

ふと気が付くと、もう朝であった。藍は目をこすると、着替えて、部屋の外に出る。朝食を取ろうと食堂に向かうと、案の定セルセイアに途中で呼び止められた。

「藍ちゃん、ちょっと話があるわ」

「もう時間だってんでしょ? 分かってるよ」

「……明日の夜、家康様と貴方を故郷へ帰す儀式を行うわ。 故郷に帰るつもりだったら、遅れないようにね。 でも、この国に留まるって言う選択肢もあるのよ。 どちらを選ぶかは……」

「もう決まってる。 私、帰るよ」

ついと身を翻すと、藍は朝食へ向かった。此処の朝食は、いつも美味しくて、楽しみの一つだった。だがこの日は好きなメニューだというのに味気なく、いつの間にか食べ終わってしまっていた。

全く満足しないまま、藍は席を立ち、そのまま街へ向かった。空は白々しいほどに晴れ渡っていた。

 

藍は無言のまま、ティータの元へ向かった。第七特務部隊の面々に挨拶するのは明日で良いとしても、ティータは今日中に挨拶しておかねばならなかったからである。昨日、ティータはまた飛び級を決め、一学年飛び越す事が決まったのだ。それを魔法学校の掲示板で知った藍は、別れをかねてティータにおめでとうというつもりであった。

もう隅々まで歩き尽くした小さな王都は、藍の庭も同然だった。何処に小粋なアクセサリーが売っているかも分かるし、何処に美味しいお店があるかも知っている。アイサの店の跡地には、今はまた別の大衆食堂が建っていて、そこそこに繁盛している。元アイサの店の前を通り過ぎ、時々すれ違う知人にそれとなく挨拶しながら、藍はアクセサリーショップへ足を踏み入れた。給料は戦功に応じて渡されているから、藍がその気になれば結婚指輪だって買える。藍はつまらなそうに店内を一瞥すると、ティータが喜びそうなアクセサリーを探しにかかり、そしてふと今更ながらに気づいた。

全然面白くないのだ、女の子の本分である買い物が。もう藍は、骨の髄から、普通の女の子ではなくなっていたのである。だが、もうそれにさえ感慨を覚えることなく、藍は適当に小さなネックレスを選んだ。こんな小さな国の宝飾店だから、一流の技術者が造るような業物は置いていないが、それでも一応かなり作りの良いネックレスである。安物の宝石である事は一目瞭然だが、鎖の長さは調整出来るようになっていて、装飾自体もかなり細かい。ティータが大きくなっても、充分につける事が出来るであろう落ち着いたネックレスだった。

何の感慨もなくそれを買って店を出た藍は、空を見上げた。先ほどまで嫌みなほどに晴れていたのに、少し雲がかかり始めている。心を空に見透かされたように感じた愛は舌打ちすると、歩調を早め、ティータの元へ向かった。どうせ大して広くもない王都であるし、その道のりはどうということもない。まだ心の準備など整っていないのに、ティータの住む学生寮は見えてきてしまった。

 

この時間帯、ティータは大概外にいる。学習効率が普通の人間の数倍あるこの少女の場合、勉強時間は非常に短く済んでしまい、やる事が無くなってしまうのである。一応個人寮に入ってはいるのだが、近くの部屋に親しい学友がいるわけでもなく、外のブランコで何と無しに時間を潰している事が多かった。どじで鈍いティータを可愛いと思えるような年に学友がなる頃には、事情も変わって来るであろうが、少なくても今のティータは学校内部で孤独だった。だが藍がいるから、彼女は最近目に見えて明るくなり、あらゆる面で活力を取り戻してきたのである。

藍が遠くから呼びかけると、ティータはすぐに気づき、子犬のように愛嬌を振りまきながら走り寄ってきた。途中で転びそうになるのもいつもの事で、呼びかけると三回に二回は転ぶ。だが今日のティータは何とか転ばず、藍の元にたどり着く事に成功した。頭一つ小さなティータは、藍にそのまま飛びついた。

「アイお姉様ー! 久しぶりなのー」

「うん、久しぶり。 元気してた?」

目をきらきら輝かせながら頷くティータに、藍はネックレスの入った箱を手渡す。ティータはまるで骨を貰ったイヌのように喜び、箱を抱きしめて藍に礼を言った。藍はその表情を見て、別れを言い出しづらくなった。ティータの事だから、泣くのは確実だったし、下手をするとショックで食事を暫く取れなくなるかも知れない。だが、このままいなくなるよりはましだと、藍は判断した。しばしティータの話を聞きながら、藍は機会を探していたが、なかなか掴めず、時間ばかりが過ぎていった。いや、それは実のところ、機会を掴みたくないと思っていたのが原因かも知れない。藍は暫くティータの話を聞いた後、少し強引に事態を進展させる事を決意した。

ネックレスを取りだして、藍はティータの首にかけてやった。そして、不意に表情を改めると、咳払いした。空気が代わったのを感じて、ティータの顔がこわばる。

「ティータちゃん、大事な話があるんだ」

「……?」

「私の国、遠い所にあるんだ。 ものすごく遠い所で、ここからはどうやっても行けない。 それで……私、そこに帰らなきゃ行けないんだよ。 明日の、夜」

「アイお姉様……」

藍はティータの顔を、勇気を出して見た。そして、意外にも落ち着いた様子だったので、却って驚かされた。

「……ティータちゃん、知ってました。 アイお姉様が、異国の人だって」

「……え?」

「アイお姉様に言われて調べた魔法陣、こと寄せの魔法陣だって、二ヶ月くらい前に分かったの。 ずっと前から、アイお姉様の体から感じる魔法の波動が、ティータちゃん達と違う事が、それで納得出来ちゃったの」

「……」

藍は目を細めて、ティータの頭をぐしゃぐしゃにした。この友人は、彼女が思っていたよりずっと頭が良かったのだ。ずっと大人だったのだ。気づいた上で、今まで気づかない振りをしていてくれたのだ。本当は、自分を追い越してしまっていたのかも知れないと、藍は気づいたのだ。

殺しやすいかそうではないか、弱点がどうか、強いか弱いか、そういった事には気づきやすくなった藍だが、友人の成長には全く気づいていなかった。逆にそう言った部分の感性は、快楽殺人者として覚醒する事で衰えてしまったのかも知れない。

「それに……アイお姉様が、とても怖い事が大好きになっちゃった事も、気づいていました。 アイお姉様の心が、とても怖い色に変化して、でもティータちゃんを傷つけないようにそれを抑えてくれているって、知ってたから……」

「そっか……全部……知ってたんだ」

「……アイお姉様が何で帰るのかも、ティータちゃん知ってます。 ……みんなを傷つけたくないから、帰ってくれるんだって……」

無言のまま藍は膝を突き、ティータを抱きしめた。小さくて柔な体。その気になれば、すぐにバラバラに出来る体。バターみたいに柔くて、内臓を引っ張り出したら最高に気持ちいいはずの体。この体を壊す事を何度妄想し、欲望のはけ口にしたか、数え切れないほどだった。内蔵を引っ張り出し、骨を粉々に砕きたいと言っても、ティータはひょっとすると笑って許してくれるかも知れない。そして、そんな風に妄想してしまう時点で、もう藍はティータの側には居てはいけないのであった。

藍の目からは涙が流れ落ちていた。そして、ティータも涙を流していた。

「ごめんね……」

「アイお姉様、ティータちゃん友達って言ってくれて、嬉しかったの……だから……ティータちゃん……」

「それ以上は言わないで。 本気でティータちゃんを切り刻みたくなるから。 ……さようなら。 ティータちゃんは、私の世界一大事な友達だよ……」

藍は最愛の親友との別れがこれほどに悲しいと、初めて知ったのだった。雨が降り出し、藍が城に戻り始めた頃には、本降りになっていた。彼女の脇には、コーラルがいる。傘を持ったコーラルは、ティータ同様、全ての事情を悟っているようだった。

「藍ちゃん、おともだちに、おわかれいった?」

「うん。 もう……いつでも帰れるよ」

「そう。 ……さみしくなるわぁ」

コーラルの言葉に、上の空で藍は応えた。この国で過ごす時間の残りが、刻一刻と少なくなっていた。

 

4,帰還、そしてその後

 

藍と家康は、一年前に召喚された部屋に来ていた。コーネリア王国の至宝であること寄せは既にイレイムの手にあり、細かい儀式が始まっている。ぼんやりと床に座っている藍、床几に完全武装して座っている家康、共に来たときと同じ格好であり、だが今度はリラックスした様子であった。

おそらく今回のこと寄せ使用は、コーネリアと言わず、この世界で唯一目的を達し成功した例であるかも知れない。こと寄せで神や魔王を召喚せず、最低限の力を使って(守る)事に終始したのがその要因であっただろう。しかし、もうこと寄せは出来るだけ使わないようにせねばならない。今回の使用でさえ、たった二人を呼びだしただけなのに、この国の民だけで五百人以上も命を落としたのである。文字通りの最終兵器であること寄せは、人がそれを使うにふさわしい存在に成長するまで、暗き封印の底へ沈める必要があるのだった。

「ねえねえ、家康さん」

「何だ?」

「大事な人達に、もうお別れはした?」

「……済ませた。 だが儂の場合、混乱を招くわけにも行かぬから、ほんの少数に当たり障りのない別れ方しか出来なかったがな」

家康の口調は大分柔らかく、初対面の時とは別人のようである。そのまま目を閉じてしまった家康に、藍はもう一度だけ視線を向けたが、これ以上何かを話しかける気にはならなかった。

……ティータと別れてから、藍は第七特務部隊の戦友達に別れを告げた。彼らは皆一人一人心から藍を気持ちよく送り出してくれた。最後までフィフィは怖かったが、それでも相手の心遣いを感じて、藍は嬉しいと思ったのだった。

アイサはお弁当を造り、手渡してくれた。藍にとって、ティータと共に最大の友人であったアイサだったから、悲しみは同じほどに辛かった。自分に出来る一番良い事をしてくれたと、藍にはすぐに分かったから、余計に辛くなったのである。そして、無理に涙をこらえて、笑顔で送ってくれた事も余計につらさを倍増させる事となったのだった。

イレイムは儀式のためにあれこれ周囲に指示を出しており、その口調は柔らかいにも関わらず万人を納得させ動かす物があった。長老達も無論同席しているのだが、彼らは一切口を出す必要がなかった。長老の内、アッセアだけはこの場にいなかった。藍には居ない理由が大体見当付いたので、それを言うような野暮な真似はしなかった。

アッセアは藍の友人だった。ティータやアイサほど関係は深くなかったが、友人である事に変わりはなかった。だからこそ、アッセアが家康に恋慕している事はとうの昔に知っていた。昨日別れを告げたとき、アッセアは泣き腫らした目をしていた。そして、藍に言ったのである。

「そうか、君も行っちゃうのか」

「アッセアさん、この国の事を、ティータちゃんやアイサさんの事をお願いね」

「……分かった。 ぼくの命に代えても」

藍が安心して帰れるように、アッセアは精一杯の事を言ってくれたのだろう。その精神的努力を考えると、藍は友に最大限の敬意を払わざるを得ないのだった。

「時間です。 儀式を始めます」

イレイムの言葉が、容赦なく時間の到来を告げた。

「礼はもう良いぞ、聞き飽きたからな」

「右に同じく。 むしろ、礼を言いたいのは私の方だから」

藍は槍を譲り受けていた。それに弁当箱もである。家康は何も物品は受け取らなかったが、彼にしてみれば小さな国を大国の侵略から一年で守り通すという巨大な政治的経験を積んだのだから、それで満足であろう。もう二人とも、一年前の二人ではないのだった。

一年前と同じ呪文が唱えられ、こと寄せが目を覚ます。魔法陣が淡く輝きを発し、膨大な魔力を周囲に発し始めた。同時にこと寄せが輝き、周囲の景色が少しずつ薄れていった。

藍と家康は、共に見た。イレイムが澄み切った笑顔で、礼をする様を。二人は、最高の感謝と笑顔に送られて、故郷に帰る事に成功したのであった。

 

「藍ちゃん、どうしたのー?」

一年ぶりに聞く母親の声、藍は自分が故郷に帰ってきた事を実感した。しかもあの様子では、本当に召喚されたときと同じ時間軸に帰ってきたのであろう。適当に返事を返すと、藍は自分の部屋に戻り、今までは見向きもしなかった、家康について触れた資料を手に取った。槍は机に立てかけ、弁当箱も机に載せて、藍はベッドに横になると、本のページをめくる。家康が、小牧長久手の戦いの直後からきたと言う事はすぐに分かった。家康がその後どうなったのか気になった藍は、今まで読み飛ばしていた家康の経歴を読み始めた。複数の本を読み、客観的に内容を分析し、大体以下のような事が分かった。

……小牧長久手の戦いに、家康は戦術的に勝利こそしたが、結局戦略的には敗北した。秀吉は痛烈な敗北の後、家康の同盟者である織田信雄に接近したのである。信雄は当時でさえ(サンスケ殿のなさることよ)などと陰口を叩かれた凡百の愚将であり、戦う前に主力部隊を自らの手で切り捨ててしまったほどの低能である。案の定、信雄はまんまと秀吉の罠に引っかかり、言われるままに講和をしてしまった。戦う理由が無くなった家康は信雄の無能ぶりをひとしきり嘆いた後国に帰り、徹底抗戦の態勢を整えた。

家康の実力を知る秀吉はその後外交攻勢に移行し、妹や母すらも人質に送って家康を懐柔しようとした。秀吉の母思いは有名であり、その秀吉最愛の母を人質に送りつけられた家康はついに折れた。このときの懐柔策からしても、如何に太閤秀吉が家康を高く買っていたか明かであろう。その後は、秀吉の右腕として、家康は天下統一に協力する。家康はそれから秀吉の配下の武将達と太いパイプを築き、老年になって判断力も明晰さも失った秀吉の愚行から彼らを助け、また朝鮮出兵等の愚行にはきちんと批判を行った。秀吉亡き後は事実上豊臣政権の内部紛争であった関ヶ原の戦いに勝利し、江戸幕府の基礎を築く事に成功した。関ヶ原の勝利の際、家康は戦略レベルで絶対に勝てる条件を整えており、打つべき手を全て打ち、勝つべくして勝っている。その後、体制の変化を認めようとしない旧豊臣派の人間達を大阪の陣で葬り去り、三百年に渡る平和の礎を作り上げる事に成功したのだった。

家康の造った体制には、当然矛盾も多かった。部落差別の発生はその第一であろうし、平和と引き替えに発展、特に軍事技術の進歩を捨てた事は近代の日本にとって仇になった事も事実である。しかし物事を客観的に見る事が出来るようになった藍には、当時の情況ではそれが最善に近い選択だと言う事も分かった。家康は、成し遂げる事が出来たのである。彼の故郷の民達が望んだ、長き平和の実現を。

逆に言うと、彼ほどの英雄であっても、政治から矛盾を取り去る事は出来なかった。また彼の作ったシステムが強固で完成度が高すぎたために、幕末では改変のため国を一から作り直す必要さえ生じた。

これらから家康が完璧な人間かとも思えるが、そうではない事を藍は良く知っていた。家康は狭い天井に頭をぶつけたり、痛くて仕方がないのをやせ我慢したり、コミカルな性格を幾つも藍の前で披露してくれた。また、幾つかの資料には、晩年の家康の行動が記されていた。盤石の基盤を作り終えた家康は老齢もあり、また油断が前に出たのであろう。元々我が儘な性格だった家康は、精神力でそれを押さえていたのだが、その必要もなくなり、精神の暗い部分が悪い形で噴出した。幼女愛好に走ったり、後家殺しと呼ばれたりしたのである。また、膨大な写経を行う過程で、自分を神だと妄想したりもしたようだ。あれほどの精神力を備えた人間も、老いるとやはり衰えるのだと、藍は感慨深くそれらの資料を見やった。藍は恐ろしい速度で本を読み終えてしまうと、ベットの上で目を細めた。家康は過去の人間だが、本の中で今でも生きている。真の英雄となり、様々な形で語り継がれる男となったのである。

「……今度は私の番かな」

呟くと、藍は今後の殺戮プランを練り始めた。伝説になるほどの、しかも合法的な大量殺戮魔となるプランをである。目に闇を湛えると、藍は今後の肉体改造計画、戦闘技術向上計画、更に狩り場の確保方法などを練り始めたのだった。

 

それから藍は様々な方法を駆使して、世界中の情報を収集した。イスラエルの諜報機関モサドの情報を調べ、世界最強をうたわれる英国の特殊部隊SASの情報を調べ、米国のCIAを念入りに調べ、また第三諸国の情報を次々に調べていった。そして、どうやってか稼いだ金で頻繁に第三国に渡り、二〜三十人単位で反政府組織やテロリストを殺して帰ってきた。帰ってきてからも藍の知力戦闘能力増大は止まらず、もう銃程度で倒されるような存在では無くなっていたのである。

藍はそうやって中学卒業まで自らの欲求を満たした。そして中学卒業と同時に米国に渡り、CIAに就職した後は、人類最強の暗殺者として、世界中で反政府組織、テロリスト、麻薬組織、さらには米国に都合の悪い人間などを片っ端から殺して回った。短銃さえ使わず、槍一本で、たまに思い出したように他の肉弾戦闘用武器で大量虐殺を続ける藍は、すぐに(キラー・ディープブルー)と呼ばれて恐怖の的となった。しかも作戦遂行確率は98%を超えており、米国は重宝がって藍の思うとおりに戦場に投入した。それに応え、藍は特殊部隊やCIA局員とともに大量殺戮を続け、多いときには一度に五十人以上も殺した。別に藍は米国を好いていたわけでも愛していたわけでもなく、最も簡単に殺人が出来る組織に入っただけの事であった。つまり米国と藍とで、利害が一致したのである。

五十年後、藍は老齢を理由に引退し、無人島へと籠もった。五十年間で実に六千五百人もの人間を殺し、史上最強最悪の暗殺者として恐れられた末での引退であった。仕事の他でも、軽く七百人以上が彼女の手にかかったと後に計算されている。その悪名は裏社会に雷鳴の如く轟いており、引退後も藍の住む島へ名を上げるために乗り込もうとする愚か者が居たが、誰一人生きて帰っては来なかった。九十一才で心筋梗塞での死をむかえるまで、藍は殺戮快楽の餌食に事欠かなかったのである。

ある意味、藍は歴史に名を残し、また幸せな人生を送った。客観でそれを否定する事は可能だが、主観では間違いなく藍は幸せだったのである。人間の闇を極限まで圧縮したような人生を、だが藍は楽しみながら謳歌し、そして天寿を全うしたのであった。

 

エピローグ

 

コーネリア王国に、春が訪れた。帝国がつい昨年旧南部諸国連合で最後まで抵抗していたシュムールゼール王国を滅ぼし、大陸全土を支配下に置いたというのに、この国は未だ独立を保っている。名目上は属国であり、帝国に支配されている部分も多いが、それでも帝国の手が及ばない部分は多い。根本的には独立国であり、帝国も誠意をこの国には払っていた。

国は相変わらず小さく素朴で、王宮であるというのに砦程度の規模しかない。人口はここ五十年で二割ほど増えたが、国の雰囲気事態は変わっていなかった。王城のテラスには柔らかい光が注いでおり、安楽椅子に座った上品な老婆が、読みかけの本を降ろして目を細めた。テラスからは、適度に繁栄し、適度に人が行き来する王都が一望出来る。王城同様、王都も大した規模ではないのである。だが、老婆は、この王都を心の底から愛していた。正確にはこの国に住む人全て同様、王都に住む人々を、である。

「おばあさま、おばあさま!」

「アイ、聞こえていますよ。 どうしたのですか?」

「ああ、やっぱり此処にいた。 おばあさま! 昨日の続きのお話、聞かせて聞かせて!」

老婆が振り向くと、其処には有り余る元気を全身からオーラにして発している娘がいた。かなり仕立てのいい服を着ているが、素材自体は質素で、華美ではない。素朴な中に上品で、贅沢ではなく威厳がある。そんな服であった。娘のスカートには頭一つつ分小さな男の子がすがりついており、こわごわと辺りをうかがっていた。

「タケチヨ、あんたはまたびくびくして!」

「だって、此処高くて怖いんだもん」

「あんたに名を貸してくれた家康様が聞いたら怒るわよ! くらーいお部屋に連れて行かれて、お尻百回くらい引っぱたかれるわね! 多分確実よ!」

「ふえ……」

「ほらほら、喧嘩をしにここにきたのですか? アイもタケチヨも、其処に座りなさい」

優しい老婆の声は二人を諭し、大人しくさせた。それだけの力が、老婆の声にはあった。強制力ではなく、不思議と相手を慕わせ、従える、そんな声であった。説教を止めた女の子は、小さな椅子にちょこんと座ると、敬愛する老婆にせがむ。

「おばあさま、それで昨日のお話の続き、聞かせてよぉ」

「はいはい、そうでした。 昨日は家康様が、アッセア様と戦いに向かう所でしたね」

「うん! 迫り来る帝国軍およそ五千! 迎え撃つコーネリア王国軍およそ二千五百!」

本来男の子が喜びそうな場面で、娘は目を輝かせていた。この娘の名はアイ=アス=コーネリア。イレイムの孫娘であり、今年で十一才になる。逆にこわごわ話を聞いているのは、タケチヨ=アス=コーネリア。アイの弟であり、今年で八歳だった。竹千代というのは、家康の幼名である。そして話をしている老婆こそ、コーネリアの歴史上に残る名君と呼ばれる、イレイム=アス=コーネリアだった。現在七十才に近い高齢であり、政治の表舞台からは引退したが、その人望は厚く、民衆の信望を集めていた。今でも現女王であるティルナは、時々イレイムに意見を求めに来る事があった。それに的確に応える事が出来る頭脳を、イレイムが持ち合わせているからだった。

「帝国軍の指揮官は、ゼセーイフさん。 とても大きくて、とても強くて、とても戦争が上手な人だったの。 それに帝国の人達はみんなとても強くて、家康様はこれでは勝てないと思ったのよ」

「うんうん」

「それで、家康様は半年も前から帝国の人達と戦う準備をしていたの。 お城を頑丈にして、みんなが戦えるように戦いの仕方を教えて、何処で戦えば勝てるかみんなで考えたのよ。 家康様は、てきがたくさん一度に通れないせまーい道に陣地を張ったの。 帝国軍はそこを力尽くで通ろうと、地響きを上げて襲ってきたわ。 黒くて怖い鎧を着た人達が、道一杯に、土煙を上げながら攻めてきたの。 兵隊さん達が持っている剣や槍は鋭くて、ぎらぎらと光を反射して、凄い勢いで迫ってきたわ。 私は、家康様と、他の兵士さんと、伏せて待っていたの。 そして、敵がある程度まで近づいた所で、家康様が立ち上がって、手を振り下ろしたのよ。 戦いが始まったわ」

戦の情景は、年老いたイレイムの脳裏に今でも甦る。このとき最前線で女王が兵士達と共に戦った事は、今だにコーネリアの民の間で語りぐさとなっている。当然戦いの情景描写は本人の体験談だから、迫力が違った。息をのむアイと、姉にすがりついて話を聞くタケチヨ。イレイムにとって、それは幸せなひとときであった。

 

……家康と藍が去ってから、四十年ほどは平和な時が続いた。コーネリアはもはや名君と呼ぶにふさわしいイレイムが安定した統治を行い、軍事面はアッセアが隙を見せず、諜報面ではセルセイアが常に最新面の情報を手に入れ警戒を怠らなかった。帝国は徐々に地固めを行い、名宰相エイフェンは各地の地盤を強固な物としていった。ハイマーは帝国軍事の重鎮として軍の編成と配備を司り、ミディルアとゴルヴィスは連合との和平成立から遠からずして元帥となり、ハイマーの両翼となった。ハイマンドは部下達に慕われる名皇帝となり、また下戸と女好きというのは良い方向に取られ、幾つもコミカルなエピソードを残した。真の意味で慕われ、愛される皇帝となったのである。またジェシィは同僚の将軍と結婚したが、それも笑顔で祝福出来る度量を生涯絶やさなかった。晩年は多少少女愛好の性癖を見せたが、通して名君という評価は揺るがなかった。それに対して南部諸国連合は徐々に傾き、不和を生じ、自滅の道を歩み続けていった。

連合の名将ニーナ将軍も、晩年は半ば軟禁され、不遇の最期を遂げざるを得なかった。故国のために強大を極める帝国軍と戦い、比類なき功績を挙げた者に対する仕打ちがそれであった。信賞必罰を守れぬ体制が長続きしないのは歴史の鉄則である。体制は腐敗するべくして腐敗の極みに達し、やがて連合内での紛争が始まった。きっかけは些細な事であったが、戦禍は拡大の一途を辿り、やがて連合という結合自体が瓦解した。牙を研いでいた帝国は、正にそれを待っていたのである。

帝国三代皇帝レファルスが、父の悲願であった大陸統一を成し遂げるべく大動員を発令した。動員兵力は実に六十万に達し、しかも帝国黄金期の名将達にも劣らぬ、次代の名将達に率いられていた。勢い衰えた旧連合諸国は聖アーサルズ皇国を皮切りに次々と討ち滅ぼされていった。十年かけて、帝国は旧連合全土を完全に併呑する事に成功したのであった。旧連合諸国の民達は、むしろ帝国軍の到来を歓呼と共にむかえたほどである。帝国の善政は有名であり、また駐屯軍も伝統に添って民衆をいたわった。たまに愚行をしでかす帝国兵もいたが、それらには容赦なく厳罰が科された。それはハイマンドの時代からの、良き守られるべき伝統であった。

大陸全土を併呑した帝国は、(セイモル統一帝国)の樹立を宣言した。連合攻撃の際、コーネリアは一軍を率いて帝国に加勢した。その際、奮戦したシュルテル将軍は、藍の親友だったティータの息子である。コーネリアは終始時代を見る目を持ち続け、異例に近い独立を得続ける事に成功していた。これも名君へと覚醒したイレイムと、彼女が心からの愛情を持って育て上げたコーネリアだったからこそ成し遂げられた事であった。

イレイムは二人の子供、六人の孫に恵まれた。現役を引退したセルセイアやアッセアも、今では子孫に囲まれて平和に隠遁生活を送っている。かっては主君と配下であったが、今では気ままに話せる茶飲み友達である。一番厳しかった時代を支えた者達も、皆天寿を全うするか、老後を過ごしている。

家康によって育てられ、名君として覚醒したイレイムは、この地に恒久的でないにしろ、一時代の平和を築く事に成功したのである。それを否定出来る者など、おそらく誰一人居なかっただろう。

 

「……はい、今日はここまで」

「はい、おばあさま。 今日も、すっごくたのしかった!」

「うん。 ぼくも、たのしかった」

「続きはまたの機会にしましょうね。 さあ、お勉強の時間ですよ」

幼い子供達は、イレイムによくなついており、その言葉は素直に聞いた。教師役の文官達と歩いていく子供達を見送ると、イレイムは小さくため息をついた。

あの戦いで何人が死に、何人が傷ついたか。今の内は、戦争の勇壮さに心を躍らせていればいい。しかし、兵士達の痛みを理解出来ない子供に育ってしまえば、この国の未来はなくなってしまう。

平和など脆く儚い物であり、壊そうと思えばすぐに壊れる。彼女が小娘だったときに、身にしみて味わった教訓であった。

イレイムは、彼女と共にこの国の事を守った人達の事を、順番に思い出していく。それは彼女の日課であった。家康と藍を手始めに、セルセイア、エイモンド、ドルック、タイロン。アッセアに、第七特務部隊の強者達、彼女と共に戦った兵士達。そして、理知的に和平を受け入れてくれたハイマンド皇帝。酒に弱い事を後で知り、文通友達になったミディルア元帥。半ばはもうこの世で会う事が出来ず、あの世で語り合う事が後の楽しみの一つとなっていた。

城下は今日も程々ににぎわい、歓声がテラスまで届いてくる。そろそろ日が朱に染まり、地平の彼方に沈む頃であった。この時間帯には、イレイムにはもう一つの日課があった。立ち上がり、頭を下げると、最大限の感謝を持って、さっき思いだした人達に言うのである。政治というのは、人という種の表にも裏にも直に触れる事だから、それを欠かしてはいけないとイレイムは思うのだった。

「みなさん、本当に有り難うございました」

今日もコーネリアには、平和な時間が続いている。紅い夕日に照らされるテラスには、揺れる安楽椅子が一つ残っていた。

(終)