決戦

 

序、持久戦

 

コーネリア王国北部に展開する帝国軍南部方面防衛軍は、連日の夜襲にさらされていた。三カ所に分散した陣のうち、特に激しい夜襲を受けていたのは、中間点に位置するウォーレン中将の部隊であったが、そのほかのどの部隊も慢性的な小規模攻撃に悩まされ、兵士達の不満と不安は高まっていた。しかも攻撃してくると見せかけて何も起こらない日もあったり、不意に日中にゲリラ攻撃を仕掛けてくる日もあり、その動きはまさに変幻自在で、コーネリア軍は土地を知り尽くしている強みを最大限に生かしていた。

更に、偵察隊や伝令が襲われる事など日常茶飯事であり、有能な事で知られる帝国の諜報員達も、この悪すぎる状況下ですっかり意気消沈していた。今まで攻略してきた国々は、殆どが確固とした地盤を持たないか或いは悪政に苦しめられており、更に民衆は帝国の善政を知っていて、積極的な協力をしてくれる者も多かったのだ。

別にコーネリアは大陸全土に誇れるほどの善政を敷いてきたわけではない。だが閉鎖的な土地柄と、此処暫く暗君を出していない事は民衆に政権に対する信頼と安心感をもたらし、強固な地盤を作る事に成功していた。帝国軍は、此処一週間ほどの戦いだけで、それを嫌と言うほど思い知らされていた。

兵士達の不平不満は、司令官達にも届いていたが、彼らはなだめこそすれあえて動こうとはしなかった。まず第一に、情報が少なすぎる事、悪い状況下であっても、確実に情報は集まりつつある事、ミディルアがまだ動く事を指示しておらず動くに動けない事、等が理由としてあげられた。実際問題、神経を削られこそすれ、大した実害は出ていなかったのである。兵士達も睡眠不足になったり、疲労がたまったりはしたが、結局それで引き下がらざるを得なかった。

「不愉快な戦いだ。 敵は遊んでいるんじゃないのか?」

ウォーレンの部下の一人が、ぼそりと呟いたが、誰もそれに異議を唱えなかった。戦闘開始から十日が経過し、ようやく大きな転機が訪れた。ミディルアと主要幹部が一旦ウォーレン隊の陣に集まり、大規模な攻勢に転じる事を明言したのである。

 

連日の夜襲は、兵士達を少なからず疲弊させていた。一旦合流した帝国軍の本陣には、アシムト准将を除く将官全員が集まり、円卓を囲んで憮然としていた。アシムトの陣との連絡は常に取られているが、その連絡隊が襲撃を受ける事は珍しくなく、大した実害はないものの、相当皆を苛立たせていた。

天幕の中で、皆の視線を受けながら、ミディルアは頬杖をついていた。敵陣を目の前にしながら剰りに地の利が悪すぎて手を出し得ない情況、連日の積極的な敵の攻勢は、根比べだと分かっていても彼女を苛立たせていた。まして、敵を倒すまでは大好きな酒が飲めないのだ。

現在、ミディルアはある点に絞って積極的な情報収集を行っていた。この辺りの地形に関しては収集がほぼ完了し、まともな会戦に持ち込めば同等の実力の指揮官二人が相手でも確実に勝てるとミディルアは考えていた。それに関しては問題がなく、彼女が今試みているのは別の情報収集であった。

それは、敵の行動パターンと、具体的な陣配置である。現在、奇襲を行った後に敵がフェデット沼地に戻る事、他三カ所ほどの中規模拠点があるらしい事は判明している。だが、肝心のフェデット沼地の地形を何度探っても敵陣の様子がよく分からないのだ。諜報員は幾度も敵陣の見取り図を持ち帰ってきたが、そのいずれもが矛盾をはらんでいた。諜報員はいずれも熟練者であり、敵の配置を見間違えたと言う可能性は極めて低い。つまり敵は毎度陣配置を換えているとしか推測出来ず、だがあの複雑な地形でそれを行う以上何かしらのパターンに基づくはずだとミディルアは考えていた。そして、それさえ分かれば、迷宮に巣くう敵に効果的な攻撃を行えるのだ。

ここは安定した地盤を持つ敵国であり、略奪や焼き討ちなどの行為は民衆に絶対的な憎悪を植え付け、制圧後の統治に大きな混乱を産む事になる。である以上、行動には細心の注意を払わねばならず、また地の利が敵にある以上兵力が数倍でも絶対的に有利な状況とは言えない。皆それを知っていたから、ミディルアに強く出る事が出来ないのも実情だった。

しかし、このまま手をこまねいてみているわけにも行かない。ミディルアは立ち上がると、幾つかの最新情報を皆に示した。その中には、敵攻略の足がかりになりうるものもあった。新たな情報で修正された地図を示しながら、ミディルアは言った。

「敵の中間補給地点の一つを補足しましたわ。 敵軍の夜襲に合わせて別働隊を派遣、一気に其処を攻略します。 目的は敵の撃滅及び、捕虜の取得ですわ。 高級官僚の捕獲に成功すれば、我が軍は一気に有利になります」

「おお、いよいよですな」

「タイムリミットは一時間ですわ。 夜襲を受けた陣地は防御に徹し、奇襲隊の動きは極力悟られないように。 また、敵の諜報員の能力も考慮して、奇襲隊には騎馬隊を適用します」

ミディルアの視線の先で、無骨な表情を湛えた男が立ち上がった。強力な騎馬隊を麾下に有するカーネルカ中将である。彼は野戦の名将であったが、急襲も同様に得意としており、指揮している兵種の特性もあって一撃必殺の用兵を常に行っていた。

「カーネルカ中将、貴官はこの地点に精鋭二千と共に伏兵し、合図と同時に敵陣に突撃。 攻撃を行いなさい」

「了解しました」

「シャスゼ中将、貴方は防御部隊の指揮ですわ。 いかにも戦意がないように、防御に徹してください」

「了解しました。 そのように致します」

その指示を受け、皆に精気と高揚が戻った。ミディルアはそれを見て頷くと、自陣の指揮を執るべく帰途についたのだった。

その夜、コーネリア軍は、開戦以来最大の被害を出す事になる。

 

1、父母との誓い

 

コーネリア王国で戦っている南部方面防衛軍だけが、苦戦を強いられていたわけではない。百年来の大会戦に参加している他の帝国軍部隊も、戦意こそ衰えてはいなかったが、連日の小戦闘で疲労がたまっていた。帝国の誇る名将達は常に形勢を有利に保ってはいたが、敵を突き崩すにはいたらず、戦闘は延々と続いていた。既に前線での睨み合いは一月に達し、死者の数は帝国と南部諸国連合を合わせて九万を超えていた。三度の大きな戦い、七度の小さな戦いを経ての結果であり、既に両陣営は完全な総力戦態勢へと移行していた。

帝国軍は三度の会議を経て、この情況を打開すべく、決戦を行う事を決定した。狙いは連合の主要人物であるニーナを討ち取る事で、実際敵はニーナさえいなければどうとでもなる相手だという評価が定着していた。ハイマーやエイフェンはそうでもなかったのだが、連日の戦いでの小さな、だが確実に蓄積していく被害は名将達をも焦らせ始めており、皇帝もそれは同じだった。敵は此方以上の損害を常に出し続けていたが、元々数が多い事もあり、兵力比は結局殆ど変動しなかったのである。膠着状態を打開するため、ついに帝国軍は賭に出たのだ。

帝国軍が立案した攻撃計画は、大体以下のようなものであった。

まず第一に、右翼部隊が前進、敵に攻撃を掛ける。これは右翼部隊全てを動員した攻撃である。右翼部隊の突撃に対し、敵の対応が始まった半刻後、左翼部隊が突撃。敵を圧迫しつつ、一点突破を狙う。以上の攻撃を行いつつ、中央本隊はニーナ将軍の動向に注意、彼女が出撃したら一気にその部隊を撃破する。

最初に右翼部隊だけで攻撃を行うのは、敵の対応を誘うためである。また、敵が此方の攻撃を無視した場合は、段階を置いて全前線での攻撃を行い、ニーナ将軍の動きを封じ、各個撃破が可能となる。いきなり全前線での攻撃を開始しないのも、敵将ニーナの動きを掴みやすくするためであり、この大規模な攻撃は結局彼女を暗殺するための壮大な罠に過ぎなかった。現在、帝国軍は二十九万、連合は三十六万の兵を有している。残りは戦死したり、負傷して後方に送り返されたりした。今のところ、新しい兵の増援はほぼ無く、不意に新しい敵が出現するおそれはまず無い。

ニーナ将軍、つまり敵の主力となる聖アーサルズ皇国軍を撃破するため、帝国は最精鋭を集結させた。その中には以前の戦いで輝かしい功績を残したゴルヴィス兵団麾下特殊攻撃隊も含まれていた。彼らの武名は既に連合側の恐怖の的となっており、それが実力以上の戦果を引き出す事も疑いはない。

皇国軍は現在七万五千ほどの戦力を有しており、これは帝国兵五万に相当すると計算されていた。中央部隊には十二万の兵力が配備され、その中で乱戦のさなか皇国軍に対しうるのはおよそ七万と推測される。撃破は可能だが、死闘となるのは誰の目にも明かだった。左右両翼にはゴルヴィスとハイマーが配置され、最も重要な中央部隊はハイマンドの指揮下に置かれる。帝国が活発な動きを始めたのは、連合側にもすぐ伝わり、戦場は刻一刻と激しい熱気に包まれ始めたのである。

 

決戦が決まった夜、皇帝は自分のテントで昔のことを思い出していた。彼には、どうしてもこの大陸を統一せねばならない理由があったのである。

帝国は今でこそ大陸最強の軍を持ち、安定した地盤に支えられる強国だが、かっては違った。初代皇帝の時代には、幾つも強力な隣国があり、それらから侵略を受ける事も珍しくなかった。ハイマンドは父母の手の中で、常に戦場にあり、膨大な戦の情報を幼き頃から吸収していた。彼が山岳戦の指揮を最も得意とするのも、かっての帝国本土がそう言った地形だったからであり、それによる膨大な戦場経験が(得意)を形作っているのだ。

帝国は父の時代から、徐々に勢力を強大化していたが、それを恐れた隣国はそろって手を組み潰しにかかった。元々小国だった帝国本土に、想像を絶する大軍が侵入した。ハイマンドが七歳の時である。その戦の事は、ハイマンドは今でも良く覚えている。人間の負の真性を極限までさらけ出した戦いであり、既に滅びた幾つかの国は、行った愚行を正確に記録されることで現在も断罪されている。ハイマンドは、その戦で、母を失い、父も右目と左足を失った。

 

幼きハイマンドの前に、焼き討ちされた村があった。膨大な大軍は確固とした秩序を持たず、兵士達はそれを敏感に感じ取っていた。彼らは黙認された暴虐に熱中し、弱者から奪い、犯し、殺す事に終始した。そのやり方には一切容赦がなかった。ハイマンドは後で知ったが、敵軍の首脳部は兵士達の凶行を黙認する代わりに、儲けのピンハネまで行っていた。腐敗した国家の首脳と軍隊は、人間の恥部そのものであり、そういった醜行を見せる事が珍しくもなかった。

「ワシは奴らを許さぬ」

ハイマンドの父皇ルマンドは、怒りに震えてそう言った。ハイマンドの母ジュリは帝国でも最も有能な将軍の一人で、前線で転戦していた。二倍三倍の敵を撃破する事は珍しくもなく、日を日を追って敵の損害は増え、同時に村々への報復攻撃も苛烈になっていった。

皇帝はハイマンドの手を引き、焼き討ちされた村を歩く。周囲には黒こげになった死体が転がり、家からは間だ煙が上がっていた。乾いた音がして、ハイマンドが下を見ると、炭になった人間の手を踏みつぶしていた。ハイマンドは、恐怖よりも先に怒りを覚えた。

「父上、どうしてこの様な事が起こるのですか?」

「確固とした秩序がないからだ」

「秩序、ですか?」

「これを行った奴らは、鬼畜外道というわけではない。 むしろ、普通の人間だ。 秩序を与えられない人間は、こういった事を平気で行うのだ。 目に焼き付けておけ、これが秩序無き世界の姿だ。 人間の本性であり、その行動だ。 だからワシは、大陸を統一し、おおいなる秩序を再び作らねばならぬ」

父皇は兵士達に命じ、命を落とした村人達を丁重に葬った。その姿は兵士達を感動させ、戦意を奮い立たせた。その姿はハイマンドを大いに感動させ、そして無秩序に対する怒りを彼の胸へと刻み込んだ。

父皇は全軍を結集させると、敵首脳部に対して決戦を挑んだ。帝国史においても(苛烈なる事この上なし)と記された戦いであり、多くの有能な将帥が命を落とした。その中にはハイマンドの母も含まれており、父皇も毒矢を受けて目と足を失ったのである。しかし、敵連合軍は壊滅的な打撃を受け、以後帝国との力の差は徐々に、だが確実に逆転していく事となる。

 

激戦が終わって。ハイマンドの元に、どう見てももう助からない母が運ばれてきた。最前線で戦い続け、全身に返り血を浴び、何人も敵将を屠り去った結果であった。泣きじゃくるハイマンドの脇で、片目を摘出し、片足を切除した父も落涙していた。周囲の武将達も、無事な者は殆どいなかった。文字通り国家の命運を掛けた総力戦であり、別に皇帝夫妻だけが不幸だったわけではないのである。

「ハイマンド……」

「母上、ハイマンドは此処におります、お気を確かに」

「……強くなれ。 強く、優しい、皇帝にふさわしい者になるのだ」

「はい、母上。 私はかならず母上が誇りに思う者になります」

笑みを浮かべると、ハイマンドの母は皇帝へ視線をずらした。それだけでも、膨大な努力を要するようであった。

「ジュリ、すまなかった、必ずやワシがこの大陸を統一しよう」

「お願い、貴方……。 私は先に……」

それだけ言い残すと、母は命を落とした。父は自らの誓いを胸に刻み込み、涙を流す他の将帥と共に天に向け絶叫した。そして、その誓いは、ハイマンドへと受け継がれたのである。

 

ハイマンドは昔の事を頭の中で整理すると、大きく嘆息した。あれから成長し、数限りない戦いをこなしてきた彼は、様々な世界の現実を見てきた。彼の見た物だけが全てではない事も、当然悟っている。だが、世界は確固たる秩序の元に立ち、その秩序は万民に公平な物でなければならないという考えに変動はなかった。秩序は当然皇帝をも縛る物であり、それをハイマンドは率先して皆に示してきた。民を虐げた者は、功臣でも容赦なく罰した。その一方で寛容な所も見せ、様々な些事も許した。また彼の法は絶対法治主義に基づいた堅苦しいものではなく、柔軟で伸縮性に富んだ優れた物であった。彼は法の使徒であったが、同時に世界は法だけで動かぬ事も良く知っていたのである。そう言った姿勢が絶大な支持を彼に集め、大陸の半分を統一するという空前の成果を生んだのである。

だが、それと同時に、ハイマンドは父と母の願いを叶えたかったのである。これは私事であったから、部下に強要する事は絶対に出来ない。皇帝となり、その責務を理解したハイマンドは、それを良く悟っていた。しかし、どうしても妥協し得ない事は確かにあるのだ。ハイマンドにとって、誓いの成就こそがそれであった。

やがてハイマンドは顔を上げた。翌日の決戦は、その誓いを成就しうる最後の機会であった。かってない決意を胸の中でしてハイマンドは頷き、テントを出ると、静かに二つの月を見上げた。幼き頃より、彼はそれを父と母の姿に見立て、崇拝してきたのだった。

「見ているが良い、父上、母上よ。 私は必ずや、明日貴方達の本懐を遂げる」

月はそれに何も応えなかった。ハイマンドは再び大きく嘆息すると、明日の決戦に備えるべく、眠りにつこうとテントの中に戻ったのだった。

 

2,タイロン逝く

 

コーネリア王国軍の中で、奇襲部隊の指揮を執っていたのはアッセアだった。アッセアはこういった任務には元々適した人材であり、ここ数日で充分な被害を敵に与え、精神的な損害を与える事に成功していた。その行動はまさに神出鬼没で、三つある中継地点を旨く使い、三カ所ある敵陣を巧みに攻撃し損害を与えていた。

当然、そんな彼女の元には、セルセイア麾下の諜報部隊から、優先的に情報が入ってくる。そして、その一つを見たアッセアは、大事を取って一旦本陣へ引き返した。その報告とは、以下のようなものであった。

(敵軍に不穏な動きあり、大規模な攻撃を予定している可能性あり)

 

「まあ、当然の動きといえるな。 敵としても、連日の攻撃で流石に頭に来たのだろう」

「敵の総攻撃が近いと言う事ですか?」

「いや、それはわからん」

アッセアの報告を聞くと、家康は考え込んだ。現在、フェデット沼地の中央部に張られた陣の中で、この司令部の正確な位置は、敵に知られている可能性が極めて低い。一方で、三カ所に設置した中継陣地はいつ攻撃を受けてもおかしくない。また、前線基地として構築した砦は巧妙に偽装しているが、敵に発見されればただではすまないだろう。圧倒的多数の敵と戦う以上、不安要素は掃いて捨てるほどある。

イレイムは少なくとも表面上は落ち着いており、精神的な成長が伺える。それを横目で確認すると、家康はセルセイアが持ち込んだ最新の情報全てに目を通し、腕組みをした。

「敵は攻勢を準備している。 そして、それをわざわざ見せつけているな」

「この迷宮に等しい沼地を、力尽くで攻略するつもりだろうか」

「可能性はあるな。 だがむしろ儂は、此方の心を圧迫しようとしているようにも思える」

戦では、相手を心理的に追いつめる事が重要である。何より、今までの夜襲や奇襲は、それを地で行った攻撃であるのだ。敵側も当然同じ事をしてくるわけで、心理的に飲まれてしまえば戦は負ける。家康はもう一度情報に目を通し、そして結論を出した。

「おそらく、今動いている部隊は陽動だな」

「では、ただ我らを牽制するつもりなのか?」

「いや、違う。 恐らく敵は本当に攻勢を掛けてくるつもりだろう」

「……そうだな、私なら、首都を狙うか、或いは持久戦に備えて出城を築く」

アッセアの意見はもっともであり、家康としても考え込まざるを得なかった。後手に回るのを避けたいという事情もあったから、彼は完全に自由な選択権を持っているわけではなかった。であっても、不安な顔を此処で見せるわけにも行かない。イレイムは以前とは比較にならないほどに強くなっているが、もし家康が負けるなどと顔に書けば、確実に肩を落とすだろう。

「よし、敵に余裕を与えてはならない。 アッセア殿、引き続き夜襲を行って貰いたい。 出城を築かせるわけにも、首都への攻撃を行わせるのも、看過するわけには行かぬ」

「分かった」

「儂は千の兵を率いて、遊撃に回る。 陛下、この陣の守備はたのみますぞ」

「分かりました、この命に代えても守ります」

その戦いは、いつもとさほど変わらぬ形で幕を開けた。まずアッセアがいつもと同じく五百の兵を率いて出撃し、家康が少し遅れてそれに続いた。その時点では、二人とも敵の戦略に気付いていなかった。真夜中に出撃したアッセアは、セオリー通り明け方まで待ち、今まで攻撃を仕掛けなかった部分へ強襲を掛けた。敵はいつもと同じように迎撃を行って来て、アッセアは適当に打撃を与えると一旦距離を置いた。被害は軽微であり、安全圏まで撤退して一息ついたアッセアの元に、息せき切って伝令が駆け寄ってきた。

「アッセア将軍!」

「どうした」

「敵騎馬兵、タイロン長老の補給陣地に向かっています! 数はおよそ二千!」

「しまった、計られたか!」

アッセアは舌打ちすると、皆を叱咤して敵騎馬隊の追撃にかかった。おそらく家康も同じように動いてくれているはずであり、上手くすればタイロン隊を救えるかも知れない。タイロンの保有する兵力はおよそ二百五十。全軍の一割に達する数であり、元々兵力の少ないコーネリア軍にとってこの部隊を失う事は死活問題であった。

タイロンは決して無能な男ではないが、敵騎馬隊の圧倒的な実力はアッセアが一番良く知っている。残念ながら、凡百の将であるタイロンの手に負える相手ではない。しかし、敵に補足されれば、タイロンの救援どころではなくなる。アッセアは最短距離ではなく、間道を選ばざるを得ず、その行軍速度は必然的に鈍くならざるを得なかった。

アッセアがタイロン隊を視野に捕らえたときは、既に空が白み始めていた。そして、戦はとうの昔から開始されていた。ひっきりなしに情報がアッセアの元に入り、彼女は舌打ちしていた。タイロン隊は不意の攻撃を受ける事さえ避けたようであったが、圧倒的な敵の攻撃にさらされ、既に敗走状態だった。タイロンが生存しているかどうかも分からず、秩序はもう失われている。対し敵騎馬隊は統率を保ち、効率的にコーネリア軍を撃破していく。アッセアは適当な地形まで移動すると、頃合いを見計らって号令を下した。

陽を逆光にして、なだらかな坂をアッセア隊が駆け下りる。無数の猪が駆けるような轟音が坂を揺らし、敵から驚きと困惑の声が挙がる。それにつけ込むように弓隊が矢を乱射し、不意をつかれた敵騎馬隊を次々と射倒した。アッセアは敵前衛部隊に自らの陣頭指揮で痛烈な打撃を与えると、本格的な抗戦は避け、敵陣を貫くようにして一旦坂の上に抜けた。敵騎馬隊は一旦動きを止め、タイロン隊が我先に逃げ出す。アッセアは部下の一人をそちらに向かい、敗軍の統率を任せると、陣を移動させ、今度は敵中軍に攻撃を掛けた。だが、敵の抵抗は激しく、アッセア隊も最初の一撃のような戦果を上げる事は出来なかった。

元々敵は装甲騎兵であり、まともに戦っては分が悪すぎる。態勢を整えられてしまっては、もう数で劣るアッセア隊に勝ち目はない。三度目の攻撃には流石のアッセアも二の足を踏み、それに対して敵は陣形を整えつつある。しかも、此方を補足した以上、幾らでも増援を呼ぶであろう。

矢継ぎ早に指示を飛ばしながら、アッセアは軽く戦いつつ、敵の出方を見守った。案の定、およそ三千以上かと思われる敵援軍がまもなく現れ、合流した。それは歩兵中心の部隊で、アッセア隊の伏せる場所に何の問題もなく攻めかかる事が出来るのだ。タイロン隊が逃げ切るまでは、まだ時間がかかる。アッセアは覚悟を決めると、新たに現れた敵部隊が態勢を整える前に打撃を与えるべく、自ら部下を鼓舞し、突撃を試みた。

そのとき、部下達から喚声が上がった。新たに出現した敵兵団の側面から、有力な味方が攻めかかっているのだ。数は千以上、家康の遊撃部隊に間違いなかった。そのまま戦は乱戦に移行し、一旦戦闘が終結したのは二時間後であった。

 

この戦いで、家康隊、アッセア隊、ともに開戦以来の被害を受けた。圧倒的多数の敵とまともに戦ったのだから当然の結果であろう。敵が撤退したのは、中央部へ猛攻をかけた家康隊が敵旅団長を戦死させたからで、その作戦自体も大きな被害を出す要因となった。第七特務部隊は今回も参戦し、めざましい戦果を上げたが、やはり戦況自体の変化には何一つ貢献しなかった。しかし、何より大きな被害を受けたのはやはりタイロン隊であり、およそ四割が戦死していた。そして、タイロンの死骸も、彼の陣地の最前衛で発見された。

タイロンは複数の矢を受け、柵にもたれかかるようにして命を落としていた。情況から言って、最後まで最後尾に残って指揮を行ったようだった。決して有能ではなかったが、男の意地を見せた死に様であった。家康はその亡骸に黙祷すると、一旦兵をまとめ、本陣に帰還する事を明言した。

「被害報告をせよ」

「はっ! およそ戦死二百、負傷者六百!」

「分かった。 本陣に帰還し次第、休憩を取るように。 救護班の手配を急げ」

家康は冷静であり、大きな被害を出したものの、兵士達はそれを見て安心した。馬を隣に寄せてきたアッセアが、声を低くしていった。

「すまぬ、イエヤス殿。 私のせいだ。 もっと早く敵の狙いに気付いていれば、タイロン長老を救えたかも知れぬ」

「いや、敵の策を看破出来なかった儂のせいだ。 それよりも、まず軍の再編成と、今後の戦略の見直しが必要になるな。 それにしても……」

家康は周囲の情況を見回し、舌打ちしていた。野戦の名将と言われた彼であったから、此処まで被害を押さえられたともいえるのだが、それにしてもこれは被害が大きすぎる。奇襲戦法をこれからも続けるのは良いとして、早期に決戦を挑む必要があるだろう。

「敵を引きずり出す策、何かアッセア殿に持ち合わせはあるか?」

「そうだな、私であったら、弱体化した振りをする」

「ふむ、策としては正しいな。 ただ、敵将はかなり有能な人物だ。 簡単には引っかけられぬぞ」

「そのためにも、敵の出鼻をくじいておきたい所だ。 このまま先手を取られるのは面白くない」

アッセアが心底悔しそうに言ったので、家康は苦笑した。戦が嫌で此処に逃げ込んできたというのに、戦場で何と生き生きとしている事か。家康も故郷では国主であるから、戦が如何に民にとって有害な物かは良く知っている。しかし、その戦自体には、アッセア同様こうして血湧き肉躍る興奮を覚えてしまうのであった。

本陣に帰還した家康とアッセアは、兵士達にねぎらいの言葉を掛けると、救護隊の作業をいそがせた。現在およそ四分の一の兵士が負傷によって無力化しており、そのうちの幾らかでも戦えるようにしておかねばならないのだ。二人が一連の作業を見届けてから天幕に戻ると、イレイムとセルセイアがもう待っていた。陣は意外に落ち着いていた事から、イレイムが落ち着き、その姿を見て兵士達が安心していたのはすぐに家康にも分かった。

「家康様、ご無事で何よりでした」

「タイロン長老が亡くなられた。 惜しい男を亡くしたものだ」

「……長老のためにも、一刻も早く戦を終わらせなければいけませんね」

「うむ、そのためには、敵主力に相応の被害を与える必要がある」

敵を全滅させるとか、壊滅させるとか言わない所が、家康の実力を示していただろう。家康は最新の情報によって修正された地図を広げると、皆は額を集めて相談を始めた。今回の打撃によって、コーネリア軍はそう長く戦えない事が明らかになった。それである以上、一刻も早くこの湿地帯へ敵を引きずり込む策が必要となり、それには相当な被害を被る事も予想された。

当初の戦略は、夜襲をかけつつ敵軍を圧迫し、フェデット沼地に敵を引きずり込むという物だった。夜襲による圧迫が効果を上げつつも、大きな被害を受けた今、それに何かしらのスパイスを加える必要が生じてきたのである。

「こんな案はどうだろう」

アッセアがそう言ったのは、幾つか案が出た後の事であった。そしてその案が、帝国軍との決着をつける起爆剤となるのである。家康はその案を聞き終えると幾つかの点に修正を加え、策として完成した。イレイムは出来るだけ被害を出さない方針でと付け加えた後、それに許可を出した。作戦の実行日時は一週間後の夜。コーネリア王国での戦いに、決着が付く瞬間が、刻一刻と近づきつつあった。

 

3,百年の決戦

 

戦場の緊張感が、一秒ごとに高まっていく。昨晩から雨が激しく振り、兵士達の上に容赦なく雨粒が降り注いでいるが、それは決して戦意を削がなかった。特に帝国軍の兵士の戦意は、削がれる様子もなかった。双方は共に総力戦の用意を終えており、今その成果が爆発しようとしていた。

帝国軍右翼部隊が動き始めたのは、おそらく日が沈んだ頃であろう。分厚い雲に阻まれ、太陽の所在は分からなかったが、ともあれそのくらいの時間であったであろう事は疑いない。大地を埋め尽くすような圧力を持って動き出す帝国軍右翼部隊。敵陣は沈黙していたが、手ぐすね引いて待ち受けているのは明らかだった。

どちらかが先に矢を放ったのは分からない。だが、最初に倒れたのは連合の兵士だった。収束した戦意がその瞬間爆裂し、喚声を上げながら帝国軍は連合左翼へ襲いかかっていった。左翼部隊には帝国と因縁浅からぬシュムールゼール軍が主力に配備されており、しかも今日の帝国軍右翼は知将ハイマーが指揮している。まさに因縁の戦いであったといえるだろう。ハイマーは老練な、冷静な用兵を普段行うが、今日は違った。帝国軍の動きは敏捷で、その攻撃は苛烈を極めたのである。帝国軍右翼は敵陣の弱点を徹底的に責め立て、前線基地を次々に叩き潰していった。敵の動きを誘うためであるから、当然であった。

戦闘開始から一時間、帝国軍右翼部隊の側面から喚声が上がった。連合軍右翼部隊の一部が戦場の後方を迂回し、帝国軍右翼部隊の右側方から強襲をかけたのである。両軍は激しい戦いを交え、押されっぱなしであった連合軍左翼も反撃を開始、ハイマー隊を押し戻しにかかると思われた。

だが、流石は知将ハイマーである。彼は前衛部隊を防御に専念させると、自ら精鋭を率い、強襲をかけてきた敵右翼へ反撃を見舞ったのである。元々戦場を強行してきた部隊であるから、その陣は長い縦隊と化しており、此処まで積極的な反撃を受けると思っていなかった事もあり、その前衛部隊は瞬く間に壊滅した。だが、連合は元々保有兵力が多く、撃破しても撃破しても次から次へと増援がわき出した。

現在ハイマー隊は、敵左翼部隊の前衛を蹂躙しつくし、その半ばへ陣を埋め込んでいる。だが現在主力を注いでいるのは敵右翼部隊への反撃であり、敵中軍へ無力な腹をさらしている態勢であった。ハイマーは親衛竜師団にも匹敵する最精鋭の中央部で指揮を執りながら、顔にかかる雨を拭った。

「こほん、敵の動きはどうなっている?」

「我が軍前衛、シュムールゼール軍を三度撃退! 敵は一旦後退しました! しかし此方も度重なる戦いでかなりの被害を受けています!」

「我が軍精鋭、敵右翼部隊に打撃を与えました! 敵は撤退を始めていますが、入れ替わりに敵軍が出現した模様! 兵力はおよそ二万五千! 新たな指示をお願いします!」

「うむ、ごほんごほん。 かねての指示通り動け」

ハイマーは敵を挑発するように、前衛に更に兵力を補強し、陣を柔軟に変化させて新しい敵を迎え撃った。その指揮は巧妙で、新しい敵軍は縦深陣の奥へと引きずり込まれ、袋だたきにされて後退する。しかし、肝心の敵中軍は動く気配を見せず、ハイマーの側で傘を差す侍従も珍しく苛立つ主君を目撃していた。

 

戦闘開始よりしばしの時が流れ、いよいよ満を持して帝国軍左翼部隊が陣を出撃した。左翼部隊は轟音をたてて雨に濡れた地面を蹴りつつ、連合左翼部隊へ膨大な兵力を裂いて弱体化した敵右翼へと躍りかかった。敵の抵抗は強烈であったが、帝国軍の攻撃は更にその上を行き、瞬く間に前衛部隊を叩き潰し、敵最新鋭兵器の攻撃をかいくぐって中軍に迫った。だが、敵の抵抗も其処までだった。既に敵は右翼部隊の陣を放棄していたのである。中軍以降は散発的に伏兵が配置されているだけで、その陣は空であった。偵察隊を多数派遣したものの、敵の姿は捉えられず、帝国軍を困惑させた。

帝国軍左翼部隊を指揮しているのはゴルヴィスであり、その麾下には三名の軍団長が配備されていた。いずれも有能な指揮官達で、ゴルヴィスも信頼を置いている。ゴルヴィスは少し考え込むと、軍団長の一人に制圧した陣の守備を任せ、自らは主力を繰って一旦敵前線を抜け、方向転換し、敵中軍に斜め後方から襲いかかった。

後背を突かれたにもかかわらず、敵の抵抗は意外にも激烈であった。ゴルヴィス隊はそれでも若干有利に戦いを進め、同時に周囲へ偵察隊を放たせた。雨はますます激しくなり、敵の位置は容易に補足出来ない。それにしても、敵将ニーナの手腕が伺われる。帝国軍は個々の点では有利に戦いつつも、肩すかしを食らいっぱなしで、全面で有利に戦っているとは言い難い。ゴルヴィスの指揮は巧妙だったが、敵中軍はそれに匹敵する用兵の妙を見せ、やがて兵力差もあり戦況は五分になった。そしてそのとき、ゴルヴィスの元に伝令の一人が駆け込んできた。

「ゴルヴィス大将!」

「なんだ、何か起こったか!?」

「制圧した陣へ、敵右翼部隊の一部が猛攻をかけてきています! 兵力はおよそ七万、我らだけでは支えきれません!」

「……なるほど、分かった。 すぐに急行する! おのれ、敵は右翼を二手に分けていたか!」

ゴルヴィスは自らの部隊を最後衛に据えると、そのまま斜め前方に進軍し、円をかいて制圧した敵前線へと戻った。そして攻撃中の敵部隊を補足し、その側面を突く事に成功した。既に陣の半分は奪還されていて、陣形の不利を悟ったゴルヴィス隊は、大打撃を受けた守備隊と合流後、陣を放棄して敵を味方中軍へと押していった。同時にゴルヴィスはハイマンドの元へ伝令を飛ばし、補足した敵を挟み撃ちにするべく指示を仰いだ。ハイマンドは快くそれに応じ、一部の兵を裂いてゴルヴィスに応えた。両軍は計算しつくされたタイミングで敵右翼の一部を挟み撃ちにし、その四割ほどを撃滅する事に成功したが、中軍に逃げ込む事を阻止する事までは出来なかった。

戦場は一秒ごとに混乱を増し、両者の被害は鰻登りに増えていった。

 

現時点で、帝国軍連合軍共に、右翼も左翼もそれぞれ独立した戦いを強いられている。帝国軍右翼部隊は敵に二方向から挟まれつつも、五分以上の戦いを展開している。帝国軍左翼部隊は敵右翼部隊の一部を中軍と協力して撃破はしたが、自身も大きな損害を受け、陣を必死に立て直していた。そして、中軍は、攻撃に出るべきか否か、難しい判断を強いられていた。周囲の幕僚達も混乱を極める情況に困惑を隠せす、様々に意見を飛ばし合っていた。

「ニーナ将軍は、ひょっとして中軍にいないのではないか?」

「いや、あの用兵は彼女以外には考えられない」

「何にしても、このままだと右翼部隊が危険なままだ。 出撃するべきだ」

憶測で物を語り合う幕僚達を制すると、ハイマンドは軍の一部を右翼へ向け、自らは主力を率いて敵中軍へ攻めかかった。何にしても、これらの情況は想定できたことであり、攻撃をためらう理由には当たらない。ハイマンドは最精鋭である親衛竜師団をも含む部隊を率い、敵中軍へと迫った。すぐに凄まじい戦いが始まり、鮮血が飛び散り、両軍共に兵士達は吠え猛った。ハイマンドの軍は敵陣の前衛を蹂躙し、更に奥へ迫ったが、それ以降はまるで鉄の壁にぶつかっているようで、突破は不可能だった。ハイマンドの心を焦りが支配するが、それが兵士の命に代えられない事も彼は知っていた。冷静な指揮をとれば取るほど、ニーナ将軍の堅陣が如何に突破しがたい物か、ハイマンドにはよく分かった。そして、作戦の失敗をも。ニーナは度重なる挑発にはとうとう乗らず、攻撃を尽く防ぎきる事に成功したのである。

「陛下、これ以上の前進は不可能です!」

「……止むを得ぬ、後退せよ」

悲鳴を上げる幕僚に、顔を向けずにハイマンドは応えた。この後彼は兵を入れ替えて六回ほど攻撃を行ったが、明らかにニーナ将軍の陣頭指揮かと思われる敵堅陣はびくともせず、結局突破する事は出来なかった。そればかりか、戦力を補強した敵右翼が再び陣を張り始めたので、後退せざるを得なかった。後退は流石に堂々とした物で、ニーナ将軍も追撃をかけては来なかった。

 

帝国軍右翼部隊は、膨大な敵兵を撃退し続けたが、流石に被害が大きくなり、制圧した陣を支えきれなくなった。また、左翼部隊も攻勢に出る余力を残しておらず、中軍の援護に出る余裕はなかった。それに対し、敵はまだまだ兵力を有し、次々に増援を送り込んでくる。敵は兵力が多い事を最大限に生かしており、帝国軍はそれに対処する作業に追われっぱなしであった。

「ハイマー将軍、このままでは危険です。 一旦引くべきかと思われます」

「……そうだな。 良し、我が軍が最後衛となる。 各自、自陣へと撤退せよ、こほんこほん」

この機に乗じてと、相も変わらず軽薄に襲いかかったのは例の如くシュムールゼール軍だったが、帝国軍の撤退行動はなれた物で。彼ら如きに付け入る隙を与えなかった。それどころか、無理な攻撃を強行した部隊は壊滅的な損害を受け、すごすごと逃げ帰る事となった。

ハイマーは軍の全てが自陣に戻った事を確認すると、悠々と自らも引き上げた。そして、救護班に命じて、味方の収容と救護に当たらせた。

 

帝国軍は戦闘開始から三日後、攻勢の継続を断念した。およそ五万の兵を戦死させ、推定で九万以上の敵を屠り去ったが、結局戦いは引き分けに終わり、状況に変化は起こらなかった。また負傷者は帝国軍の方が圧倒的に多く、現在の実働戦力は以前と大差ない比率であった。戦いは文字通りの死闘であり、師団長も三名戦死した。主要幹部に戦死者は出なかったが、人的被害は補いようもないもので、これ以上の戦闘継続は不可能だと言っても良かった。

雨は戦いが終わるとほぼ同時に止み、白けきった空を皆の上に展開させた。戦場には合わせて十三万以上もの死体が転がり、ハイマンドはその供養を率先して行わせた。連合も同じ事をしているようであり、その間どちらも手を出そうとはしなかった。一度などは両軍の一部が百メートルほどにまで接近したのだが、示し合わせたように両者とも後退し、戦いにはならなかった。

示し合わせたように、ニーナ将軍の使者が帝国軍陣地を訪れたのは、戦場に残った死体の処理がほぼ終わった頃であった。南部諸国連合も、度重なる膨大な被害に音を上げたであろう事は、ほぼ疑いがなかった。手紙には半月後の会談が明記され、ハイマンドは頷いてそれを許諾した。

それから半月は、ただの睨み合いが続いた。帝国軍も南部諸国連合も、戦いを仕掛ける気力が残っていないと言うのが実情であっただろう。帝国軍の指揮官には、まだ戦意の残っている者もいたが、兵士達の顔を見ると主戦論も控えざるを得なかった。兵士に無理を強要するような指揮官は、帝国には存在しなかった。戦場の凶熱は急速に萎んでいき、小競り合いさえも発生しなかった。

両者の会談は両軍の布陣する中間点で行われ、帝国からはハイマンドとエイフェンとハイマー、南部諸国連合からはニーナ将軍と、各国首脳が出席した。ニーナ将軍の厚化粧にハイマンドは驚いたが、エイフェンもハイマーも驚いていたので、別に彼が特別なわけでもない。簡易陣地で、連合首脳は所在なさげに周囲を見回しており、何度もニーナに安全かどうかを確認していた。周囲の警護に当たっているのは帝国軍五百、連合軍五百で、いざ何かが起こればどちらも無事ではすまない配置にされており、この情況で何か仕掛けようとする者などいない。それでも不安を隠せないのは、帝国軍の猛々しさや、皇帝から発せられる圧倒的な威圧感が彼らを恐れさせているからであろう。

連合側の代表になったのは、皇国の政治を現在取り仕切っているマセルト議員長であった。対し、帝国は当然ハイマンドが代表となり、互いの提案書を確認した。

帝国側の出した条件は、連合軍が戦争開始前の自分の領土に戻る事、交流を行うために特使を帝国首都に派遣する事、更に貿易を遂行するための法を整備する事、等であった。いずれもさほどの負担を産まない提案であり、賠償金や領土の要求もない。ハイマンドとしては賠償金くらいは取りたかったのかも知れないが、敵を刺激するのは彼としても避けたい所だった。

一方で、連合の提示してきた条件は、以下のようなものであった。連合軍が国境まで撤退する際に追撃を行わない事、相互不可侵条約を結ぶこと、侵略を企てない事、などである。帝国が積極的な交流を提案しているのに対し、自身の安全ばかりを求める内容で、ハイマンドを苦笑させるのには充分であった。

即座に提案を許諾するのは無理であるから、両者は一週間ほど此処にとどまり、調整を行いながら結論を出す事で合意した。ハイマンドは自分のテントまで引き上げると、エイフェンとハイマーを呼び、周囲を固めて相談を始めた。後ろには今回の戦いでも、敵将数人を倒したザムハルグが、鉄の巨像のようにそびえ立っていた。

「どうしたものかな? 二人の意見を聞きたい」

「受け入れるべきだと、小官は思います、こほん」

「私も同意見です。 受け入れて損はないかと思います」

「何故そう思う? 二人にそれぞれ意見を求めたいな」

ハイマンドの言葉に、二人は顔を見合わせた。二人とも、直感的に皇帝が何かを期待しているのを悟ったが、その意味が分からなかったからである。最初に咳払いをして、自分の意見をまとめたのはエイフェンだった。

「まず第一に、我が軍の損害は大きく、ここは再軍備と国力強化に励む必要があると言う事です。 また、敵が再侵攻してきた場合、兵を出す大義名分が出来ます。 また、これは連合と結ぶ盟約であり、敵の一国が破ったり犯したりした場合は、即座に対処が可能な代物です。 我が国にリスクはありません。 受け入れるべきだと、私は思います」

「なるほど、確かにその通りだな」

「今後は国家百年の計を練り、連合の切り崩し工作を進めるべきだと思います。 この情けない提案書からしても、相手は滅びつつある国家です。 ここは急な攻撃は避け、じっくり腰を据えて、切り崩していけばいいはずです」

エイフェンの言葉には隙が無く、ハイマンドはただ頷くだけであった。続いてハイマーが、自身の意見を述べた。

「こほん、小官は宰相殿とほぼ同じ意見ですが、一つ付け加えさせて貰うとすれば、おそらくすぐに連合を支配するのは無理だと言う事ですな。 ごほんごほん、ニーナ将軍一人だけでこの有様、敵本土に入り込めばさらなる抵抗があるのは疑いないでしょう。 しかも、敵の領土は我が帝国とほぼ同等の広さがあるのですぞ。 今は、民力休養、兵力整備の時期かと思われます」

「なるほど、全くその通りだな」

皇帝は大きく嘆息すると、二人に苦笑いを浮かべて見せた。

「今だから言おう、余は大陸を支配したかった。 大陸を統一し、皆が平和に暮らせる世を作りたかったのだ。 こと寄せに目をつけたのも、それが計画の一環だった」

「陛下は充分にその任を果たしたではないですか。 国土は富み、汚職官吏は影を潜め、陛下を慕わぬ民などおりましょうか」

「エイフェン、そう言う事ではあるまい。 こほん、しかし陛下、今強引な事をすれば、陛下はその願いを永久に叶える事が出来なくなりますぞ」

「そう、その通りだ。 だからこそ、余は悔しい」

ハイマンドは滅多に他人に見せぬ自嘲を、もっとも信頼する三人の部下達に見せていた。ハイマンドはもう一度周囲を見回すと、大きく息を吐き出した。

「すまぬな、下らぬ事を聞かせた。 大陸制覇は、余の子の代、孫の代へと託そう。 そしてそのときには、大陸が平和な時を迎えられる事を祈ろうぞ」

「良くぞご決断していただけました、陛下。 ごほん、この不肖ハイマー、生涯陛下につくし、帝国の為に生きましょうぞ」

「このエイフェンもです、陛下。 帝国のため、身命を賭して尽くす覚悟です」

「私も、ザムハルグめも陛下のために!」

二人に続いて、負けじとザムハルグも敬礼した。良い部下達を持った事を実感し、皇帝は頷くと、人前であるというのに落涙した。コーネリア侵攻部隊が全軍の一割を失い、撤退したという情報が入ったのは、その直後の事であった。

 

4,決着

 

コーネリア王国に展開する帝国軍陣地では、次の作戦へ向けて会議を行っていた。敵にかなりの損害を与えた事は事実であったが、敵兵の意外な強さと戦意の高さを確認し、続いての攻撃には出られなかったのである。また、カーネルカ中将の装甲騎兵団も被害が大きく、整備が必要という事情もあった。

同時に、襲撃し壊滅させた敵陣地からは、思ったほどに情報が得られなかった。合戦時の敵戦力はおよそ千八百であり、それから推測しても総兵力は三千を超えないという推測が成立したが、それでも敵の正確な位置が分からなかった以上、完勝とは行かない。

帝国軍将官の意見も二つに分かれた。シャスゼは持久策を主張し、ウォーレンは逆に積極攻勢を提案する。ミディルアは持久を押しで、カーネルカとトンプソンはウォーレンに賛同した。幾度か彼らの間で議論が交わされたが、結局結論は出なかった。

敵は打撃に懲りたかというとそうでもなく、夜襲はその後も頻繁に行われた。一度などは食料庫を補足されかけ、慌てて防備を固めるという事態もあった。こうなると、先の勝利は無意味だったのではないかという思いに兵士達がとらわれ、さしものミディルアも焦りを感じ始めざるをえなかった。そんなおり、ジェシィから報告が入ったのである。ジェシィは情報の信憑性に疑いを持っていたようだが、とりあえず情報の一つとして報告を行った。

「敵の拠点の一つをまた確認しました。 情報の信憑性には疑わしい物がありますが、我が軍の諜報員の調査によると確かにそこには敵陣らしき物があったようです。 駐留する敵兵の規模はおよそ二百人ほどと推測されます」

「……ふむ、考えどころですわ」

「司令官、攻撃を御命じ下さい。 今度は私が、敵を蹴散らせて見せます」

そう言って詰め寄ったのはウォーレンだった。背後ではシャスゼが渋い顔をしており、カーネルカとトンプソンはウォーレンに賛同の意志を示した。

ミディルアが不安に思ったのは、敵を同じ方法で攻められるのかという疑念があったからである。敵司令官の力量はかなりの物であり、油断は出来ない。それに、こと寄せ以外に価値のない土地を攻略するために、膨大な被害を出すわけにも行かない。出来るだけ、被害を押さえる必要があるのだ。しかし、これ以上将兵の不満を蓄積させるわけにも行かない。嘆息と共に、ミディルアは結論を出した。

「分かりましたわ、攻撃を許可します」

「はっ!」

「ただし、今度の攻撃は全面攻撃ですわ。 次の戦で、一気に決着をつけます」

立ち上がると、ミディルアは確固たる決意と共に明言した。大陸では日常茶飯事であったが、コーネリアという小さな土地においては百年に一度の決戦と言っていい戦いが、始まろうとした瞬間であった。

 

「で、私たちが此処に配備された、と」

「そうよぉ。 こんかいのたたかいが、きっとさいごになるわ」

かーちゃん、おれ、こえええええええっ!

「大丈夫よぉ、だってイエヤス様と、アッセア様がたてた策だものぉ」

コーネリア軍前衛基地の一つで、いつものように漫才を繰り広げていたのは第七特務部隊の面々だった。藍が監視を命じられているティセイラは、後方で救護を手伝わされている。どうも最近ミシュクはティセイラが気になるらしく、口を開くとアッセアの話と彼女の話ばかりしていた。どうもティセイラは身近にいる上に頼ってくれるらしく、そこが嬉しいらしい。もっとも、ティセイラにしてみれば、ミシュクくらいしか頼る対象がいないのであろう。

同陣地には、アッセアがいて、二百の兵と共に作戦開始の時を待っていた。今回の作戦は、敵の一軍をフェデット沼地に引きずり込む物である。そのためには、かなりの長時間追撃を耐えねばならず、アッセアか家康でなければ作戦遂行は為し得ない。故に、此処には最精鋭が配備され、作戦開始の時を今か今かと待っていた。

「なあ、本当に戦終わるのかな?」

「陛下を信じろ。 いつも俺達のために体張ってきた陛下だ、多分信用出来る」

不安げなミシュクに、ヨシュアが力強く言った。セイシェルは無言で槌を磨いており、周囲にも緊張が満ちていた。

「来たぞ! 全員所定の位置に着け!」

中隊長が叫び、全員が立ち上がって配置についた。特に藍は愛用の槍を一振りすると、目のおくに尋常ならざる殺気を湛えて敵を見据えた。馬蹄の音が響き、徐々に迫ってくる。アッセアは指揮杖を振り上げ、そして振り下ろした。

 

今回の攻撃で要になるのは、ウォーレン隊およそ五千であった。現在、中継陣地にはシャスゼが陣取り、防衛に当たっている。また、ミディルア率いる本隊は、フェデット沼地の眼前に布陣し、ウォーレン隊の攻撃の首尾を待っていた。

作戦の概要は以下のような物である。まずウォーレン隊が敵陣地を補足、攻撃を仕掛ける。周囲の地形は調べ済みで、敵は伏兵もしづらく、おそらく逃げられる事もない。ウォーレン隊は敵を撃破し、敵の援軍を引っ張り出すか、或いは敵陣まで並行追撃する。敵援軍が現れた場合は、増援を要請、挟み撃ちにする。そして敵陣までたどり着いたら、其処を足がかりにして一気に攻撃開始、敵を屠り去るというものであった。

フェデット沼地の地図は、少しずつだが確実に出来上がってきている。略図だが、細かすぎる地図があっても役に立つかは疑わしい。既にミディルア隊はレンジャー部隊と軽戦闘部隊を多く配備し、ウォーレン隊の攻撃を待っている状態だった。全軍が攻撃の開始を待ち、息を潜めている状態であったのだ。

そう言う事情であったから、ウォーレン隊の突撃は猛烈であった。敵を一気に蹴散らすべく、敵陣に殺到する。小さな陣は瞬く間に蹂躙された、かに見えた。だが、それは擬態であった。そこは空の陣地であり、入った兵士達を待っていたのは炎の洗礼だったのである。陣にはうずたかく藁や薪が積まれており、それには油が掛けられていた。そして陣が充満するや否や、炎がかけられたのである。

ウォーレンはそれに対し、冷静な指示を出した。全軍を動員して陣の一部を崩させ、中に入り込んだ五百ほどの兵士を救い出す事に成功した。だが百人ほどが命を落とし、ほぼ同数ほどが火傷をした。舌打ちする帝国軍に、不意に二百ほどのコーネリア軍が襲いかかった。隊形を崩していたウォーレン隊は、それに不意を打たれ、かなりの被害を出した。

「ふん、こざかしい! 敵は少数だ、蹴散らせ!」

実際問題、敗北を覚悟するほどの数でもなく、ウォーレンの豪語は正しかった。一時は縦横無尽に暴れ回っていた敵であったが、ウォーレンの指揮の元、帝国軍が体勢を立て直すと、押されて逃げ出した。ウォーレンはそれを追撃するべく、味方を叱咤し、周囲の地形に慎重に気を配りながら馬を駆った。この辺の慎重さは流石に大した物で、将才に関してはゼセーイフより彼の方が上であろう。

追撃はしばし続いた。敵は後退しながらもその指揮は巧妙で、包囲される事を避けながら的確に反撃を行ってくる。特に数名の敵は異常な強さを見せ、近寄る者はばたばたと斬り倒された。

「すわ、あの化け物はなんだ?」

「第一次攻撃隊の生き残りも、ああいう怪物に会ったそうです。 クールランスに匹敵するか、それ以上の手練れのようですが……」

「まあいい、全体的には優位は動かぬ。 行けーっ!」

ウォーレンは味方を叱咤し、兵士達もそれに戦意を高揚させ敵を追った。そして徐々に、だが確実に深みにはまりこんでいった。暫く追撃すると、徐々に土が柔らかくなってきた。周囲には木が増え始め、霧が出始めた。一旦足を止めると、ウォーレンは部下に命じた。

「ここはどの辺りだ?」

「はっ! ええと……この辺は」

部下の顔が蒼白になるのに、さほど時間を要しなかった。

「フェデット沼地の中です」

 

コーネリア軍は、フェデット沼地のうち、最も乾燥した一角に敵を誘導したのであった。慌てて集結しようとする敵は、自分が非常に狭い乾いた土の上にいる事に気付いて愕然とした。これで作戦の第一段階は成功した。混乱する相手に、アッセアは猛攻を仕掛けた。更に、八百ほどの援軍が現れ、帝国軍に襲いかかったのである、

「全軍、押し返せ! 今までの鬱憤を叩き付けろ!」

「おおっ!」

ここは見通しの悪い森の中ではないから、以前のように敵を殲滅する事は不可能である。だが、敵部隊に打撃を与える事、それをフェデット沼地の前面に展開する敵に見せつける事は可能である。実に、今回の作戦の目的は其処にあった。

混乱するウォーレン隊前衛を、援軍と合流したコーネリア軍は思う様叩きのめした。特にめざましい活躍をしたのは第七特務部隊で、藍は槍を振るって鬼神の如き働きを見せていた。敵将は必死に味方を叱咤して、何とか沼地から脱出する事に成功したが、そんな事はどうでも良かった。この沼地では、兵力差など何の意味も為さなかったのである。一割の兵を失い、我先に逃げ出していく敵兵を見送ると、アッセアは指揮杖を振り、味方にまた号令を下した。

「良し、作戦の第一段階は終了した! 第二段階へ移行する!」

 

ウォーレン隊の攻撃失敗は、すぐにミディルアにも分かった。しかし、である以上、敵は相当数の兵力をそちらに集中しているはずである。今はまさに攻撃の好機といえた。

こういった場所での戦闘を訓練したレンジャー部隊や、軽装歩兵部隊が先頭になり、小舟を駆って沼地へと大軍が侵入していく。やがて沼地の中で、小競り合いが起こり始めた。ミディルアの指揮は巧妙で、確実に支配地域を広げていき、安全圏を確保していく。それに伴い、後続部隊が出陣を始め、先鋒に合流しようと試みた。

「第三部隊前方に、強固な敵陣地発見! 増援の派遣を願います!」

「敵兵力は?」

「およそ一千かと思われます!」

「となると、其処が本陣ですわね。 良くやりましたわ!」

ミディルアは思わず立ち上がり、矢継ぎ早に指示を飛ばし始めた。実際彼女としても、度重なる夜襲と、延々と続く持久戦には嫌気が差していたのである。だが、その高揚が凍結するまで、さほど時間はかからなかった。

「敵部隊出現! 制圧した島を一つ奪い返されました!」

「どこの島ですの?」

「ここです、指示をお願いします!」

それは、現在攻撃をしている部隊と、後続の部隊の連絡を絶つ箇所であった。このままでは攻撃部隊は孤立し、壊滅してしまうであろう。島自体は非常に攻めにくい場所で、だが敵はその弱点を熟知していたようであった。ミディルアは自ら最精鋭を率い、船に飛び乗ると、最前線へと向かった。だが、それでは遅きに過ぎた。更に敵の一部隊が現れ、側面から味方を攻撃、引っかき回しにかかったのである。その上島を制圧した敵は、後方より攻撃隊を挟撃、その惨状は遠くから見ても目を背けたくなる物であった。敵は喚声を上げ、味方は悔しげにうめく。

「このままでは、攻撃隊は全滅します!」

「分かっていますわ、この地点に攻撃部隊を集中! 新たな拠点を建設するのですわ」

いつになく焦ってミディルアが言う。恐らくこの様子からして、敵がこの沼地での戦闘訓練を嫌と言うほど積んでいたのは間違いない。ウォーレン隊失敗の時点でさっさと撤退すべきではなかったかと、彼女は自問自答したが、時既に遅かった。

地図は完全な物ではなく、故に不備も多かった。敵の側面に回り込んだと確信した部隊が、膨大な葦の群れに行方を阻まれて愕然としたり、島が実際は無いのを見て呆然としたりした。ミディルアはそれらの報告を手元で整理させ、それを元に少しずつ戦況を改善していった。自ら率いる精鋭を使って新たな拠点をつくって壊滅しかけていた攻撃部隊を救い出したのを手始めに、後続部隊との連絡を少しずつ密にし、水上陣地を少しずつ築いていった。特に見事な活躍を見せたのはレンジャー部隊で、大きな被害を出しつつも味方の援護を着実に行っていった。

戦闘開始より二日が経過した。敵は神出鬼没であり、小部隊ずつに分かれて敏捷に奇襲を行ってきた。その動き、激しさ、陸上戦の比ではなく、被害は冗談では済まないほどに大きかった。ミディルアは敵の本陣に迫り叩くべく、ありとあらゆる手を駆使して敵の主要拠点二つを攻め立てたが、その堅牢さ正に要塞の如しであった。

ミディルアの心を、徐々に撤退すべきであるという言葉が浸食していった。沼地に入ってから敵の反撃は猛烈を極め、既に味方の被害は千を超え、その中にはレンジャー隊が多く混じっていた。このままだと攻撃どころか、この沼地からの撤退さえ危うくなるのだ。敵にも大きな被害が出ているはずだが、問題は此方が侵略軍で遠征軍だと言う事だ。長期の対陣は不利であるし、何よりこと寄せ以外にこの土地に攻略価値はない。後問題があるとすれば、ゲリラ共が帝国軍敗北の報で勢いづかないかと言う事だが、各地に駐留する帝国軍の能力や執政官の力から言って、帝国が瓦解する可能性はないだろう。おそらく、蚊に刺されたほどの被害ももたらすまい。

「ミディルア大将」

「うん? どうかしました?」

「ジェシィ少将がお戻りになりません」

思わずミディルアは息をのみ、そして慌てて咳払いした。伝令を始め、兵士達は皆彼女を見ているのだ。その前で、無様な事をするわけには行かなかったのである。

「何かそれに関する情報は?」

「今日は諜報部隊を率いて、前線に出ていました。 おそらく、敵に捕獲されたか、捕殺されたか」

「情報は他にはありませんの?」

「……申し訳ございません」

ミディルアは部下を下がらせ、攻撃の一旦中止と後退を命じた。ジェシィは帝国軍の中でも指折りの才能の持ち主であり、おそらく次世代の帝国軍を背負って立つ器である。こんな所で死なせるわけには絶対に行かないのだ。出来るだけ平静を装う彼女の元に、若干ましな情報が届いたのは、二時間後であった。

「ジェシィ少将の情報が入りました。 少将は敵に捕獲された模様です。 おそらくはまだ生きているかと」

「その根拠は?」

「少将の率いていた小隊が帰還しました。 そのうちの一名の証言です。 ただ、少将の部隊は大きな損害を受けていて、半身不随の状態です」

「……御苦労様でしたわ。 一旦我が軍は沼地より退却します。 貴方もゆっくり休みなさい」

部下が頭を下げてさがると、ミディルアは全軍に撤退を命じた。コーネリア王国攻略は失敗したのである。

今までの一連の戦いで、およそ死者は二千二百に達した。全軍の一割に近い数であり、一割が戦死すると戦は敗北だと言われる。そして、これ以上の被害を出してもコーネリアが攻略できないことは、今までの戦いからも明かであった。以降の事は皇帝に任せて、彼女は尻尾を巻いて撤退するしか無かった。こんな局地戦で、これ以上の戦力を無駄に消費するわけには行かないし、こと寄せの確保は(絶対ではない)と皇帝も明言していたのである。ここは引くのが上策であっただろう。

撤退する帝国軍を、コーネリア軍は追おうとしなかった。ミディルアは油断無く逆撃の構えを取りながら、味方をまとめて撤退に移った。その姿は堂々たる物であり、敗軍だとはとても思えなかった。

 

「お久しぶり。 いやー、こんな形で再会するなんて残念だねえ」

「……」

ジェシィが目を開けると、其処には以前あった子供がいて、彼女を見下ろしていた。確か、タカヤナギ=アイとかいう名前であった事を記憶していた。

子供は以前同様凄まじい殺気と戦意を身に纏っていて、彼女と同じ人種であると一目で悟らせるには充分だった。ジェシィは体を起こそうとしたが、槍で酷く打ち据えられているらしく、起きあがれなかった。そして思い出す、この子供を含む数人に彼女が直接率いていた小隊が壊滅させられ、撤退しようとした所を気絶した事を。

「ねえねえ、どする? 殺っちゃおっか? 腕とかもいで良い? それとも、内蔵最初に引っ張り出そうか? この人心強そうだから、殺りがいありそうだなー」

「だめよぉ。 このひとはぁ、だいじなひとじちよ」

「ちぇーっ、残念」

頬をふくらませる子供が、昔の自分に本質的によく似ている事を悟り、ジェシィは複雑な気分を味わっていた。遠くから勝ち鬨が響き渡ってきたのは、丁度そのときであった。

「あれは?」

「ミディルアさんが、撤退を始めたみたいだよ。 取り合えず、我が軍が勝ったみたいだね」

ジェシィの言葉に、子供はむしろ残念そうに応えた。周囲の者達がジェシィを担ぎ上げ、陣へと運んでいく。戦いが終わった事を、ジェシィはこのとき確信したのだった。

 

「みなさん、本当に、本当に有り難うございました。 我が軍の勝利です。 そして、戦は終わりました!」

イレイムはそう言い、涙を流して頭を下げた。兵士達も涙を流す物あり、隣の者と抱き合って喜ぶ者あり、陣の全てが歓喜に包まれていたと言っても良かった。

決して被害は少なくなかった。再び百三十名の兵士が死者に加わり、第一次攻略戦以来の合計死者は五百名を超えた。更に膨大な軍事費を消費しつくし、これからは国民全てが団結して復旧して行かねばならないだろう。

イレイムの後ろに立ちながら、家康は目を細めていた。民衆と同じ立場に立ち続け、自分とは違う存在がある事を理解し、いざというときは最前線で命を張る。この娘は正に国主の鏡であり、今まで教えた事はむしろ光栄であった。既に彼の政治的思想を書き記した書物は完成しており、後は帝国と条約を締結すれば、この地での家康の仕事は終わる。そして、家康がいなくなっても、愛弟子と言っていいこの女王と、家康に匹敵する戦上手であるアッセアがいる限り、当分この国は安泰であろう。百年以上も後の事は、家康も責任を持てない。ただ、一つの歴史的単位の中で、平和が訪れうるのは確かな事であった。

天幕に戻ると、イレイムは改めて家康とアッセアに礼を言った。その言葉に嘘や曇りはなく、確かに誰をも信頼させるものがあった。

「家康様、アッセア様、有り難うございました。 貴方達無くして、この勝利はあり得ませんでした」

「陛下、そんな。 私を受け入れ、認め、指揮権を与えてくれたのは貴方だ。 むしろ感謝するのは、ぼ……こほん、私のほうだ」

「うむ、そうだな。 だが、まだ二つやる事が残っている」

家康はいつになく温かい目をしながら、大事をやり遂げた愛弟子達を見やった。そして、言うべき事をきちんという。

「まず第一に、帝国との和平案の作成だ。 実質的に平和が確保出来るなら、体面に必要以上にこだわる必要はない。 帝国の事を尊重し、我が国の事も独立国として認める案を考えねばならぬ」

「はい」

「もう一つは、儂がいなくなった後の事だ。 後は、長老達と、陛下、貴方がこの国を引っ張っていくのだ。 分かっているな」

その言葉は、イレイムに、現実を思い出させたようだった。こと寄せによる召喚の期限はそろそろ切れるのだ。意味が分からないらしいアッセアを横目に、家康は滅多に浮かべない笑みを浮かべた。

「さあ、陛下、まだ仕事は残っている。 兵士達をまとめて、首都に帰還するぞ」

家康はそれだけ言い残し、指揮を執るべく天幕を出ていった。イレイムはその背中に、改めてもう一度礼をし、そして思い出したかのように敬礼した。限りない感謝を込めて。

「陛下、さっきの事は?」

「……アッセア様、藍様と家康様を、私は無理に呼びだしてしまいました。 そして、藍様にも家康様にも、帰る所があるのです。 ……そういうことです」

その言葉の意味を悟ったアッセアは立ちつくした。イレイムはアッセアに詫びると、そのまま天幕の外に出た。空には二つの月がかかり、彼女を見下ろしている。その光を浴びながら、イレイムは次の仕事に取りかかるべく、家康と、頼れる部下達が控えている本陣へ歩き始めたのだった。

(続)