二つの戦い
序、集結
大陸を揺るがす決戦は、いよいよ間近に迫りつつあった。帝国軍およそ三十四万、それに対する南部諸国連合軍およそ四十五万。帝国軍の兵力は当初の予測通りであったが、連合軍は局地戦での敗北等もあり、集結兵力は予想を若干下回った。だが膨大な軍勢であることに疑いはなく、その威圧感は地を埋め尽くし、障気の風となって帝国領へと吹き付けていた。双方の兵力は合わせて八十万弱。帝国王都の人口が三百万に達しない程度であるから、その三割弱ほどもの数が此処に集まっていることになる。
両軍は数十キロに達する前線を挟んでにらみ合っていた。集結した南部諸国連合軍は、国境を越えて帝国領内に侵入を果たしており、既に帝国軍が作り上げた長大な防壁の前で、布陣していたのである。帝国軍を指揮するは生ける伝説であるハイマンド皇帝その人。そして南部諸国連合を指揮するは、名将と名高い、連合の盟主聖皇国の大将軍ニーナであった。両軍の総合能力は全くの五分であり、また互いに仕掛ける隙が見あたらず、延々と神経を削り合うにらみ合いが続いた。
ニーナ将軍は現在布陣している地域に明るい者を集め、また積極的に斥候を放って敵の情報を探らせた。それに対し帝国軍は同じく情報収集に全力を注ぎ、それ以外に動こうとはしなかった。ニーナ将軍は皇帝の、更にその周囲を固める帝国軍幹部の有能さを熟知しており、簡単には動けなかったのである。また、帝国の知将ハイマーが構築したと思われる帝国軍陣地には隙が無く、迂闊に攻め込むことができないと言う事情もあった。
帝国と連合の境では、兵馬をぶつけ合う戦いと同じほどに激しい情報戦が展開されていた。同じ頃、そこからかなり離れた場所にて、同じように激しい情報戦が繰り広げられているとは、流石にニーナも知りえなかった。だが、彼女の元には、帝国とコーネリアが紛争を開始したという情報は入っていた。情報の精度は低く、また確信も持てなかったので、それを元に戦略を組むわけには行かなかったが。また、帝国本隊からすれば少数の部隊がコーネリアに移動しているという情報もあり、それはますますニーナを考え込ませた。
「将軍、好機ですな。 敵は少数ながら、そちらに兵を裂かざるを得ない。 我が軍が有利になります」
嬉々として言う配下の将軍の言葉を聞き流し、ニーナは曖昧に頷いた。彼女には、どうも帝国軍の動きが理解出来ず、不審を感じざるを得なかったのである。
帝国軍は豊富な人材を有し、兵の指揮も訓練度も極めて高い。まともに戦えるのは皇国軍の精鋭部隊くらいで、残りは数に任せた戦法を採るしかない。それは如何なる事かというと、即ち帝国軍の弱点は兵力不足にあると言うことだ。つまり帝国軍としては、少しでも多くの兵が欲しいはずで、この大事な時期に辺境の小国と紛争を起こして、あまつさえ兵をそちらに向ける意図が理解出来ないのだ。ましてそれを命じたのは、凡百の愚将などでは断じて無く、大陸統一をなし得るかも知れない怪物ハイマンドなのである。
しばしニーナは考え込んでいた。確信は持てなかったものの、幾つかの結論を頭の中で練り上げる事にはそれで成功した。その結論は、全てがこの時期に帝国軍が兵を裂かざるを得ない事情があるという推測に基づいていた。帝国軍に抵抗するゲリラの根拠地がコーネリアにあるのかも知れないし、或いは超が突くほどの重要人物が同国に逃げ込んだのかも知れない。だが、帝国軍の別働隊はそれほどの数では無いという報告も入っていたから、帝国自体を揺るがすような重要事ではないだろうとも、ニーナは結論していた。そしてそれは一端忘れ、目の前の敵を排除することに全力を挙げることに頭を切り換え、入り来る情報を整理し、戦略を調整する作業に没頭し始めた。
両軍の対峙は半月に及び、徐々に緊迫は高まっていった。小競り合いが何回も起こり、その規模は徐々に大きくなっていった。この緊迫に、徐々に平和に慣れた国々から派遣された兵士達が耐えられなくなってきた。また、帝国軍の中でも、実戦経験のない部隊や暫く実戦に参加していない部隊は、同じように緊迫した空気に気圧され、消耗し始めていたようだった。
ニーナはそれを見て決断を下した。聖皇国軍約九万を主力とした連合軍が、大地を揺るがし、大規模な攻撃を開始したのである。帝国軍も勿論即応し、全前線において壮絶な死闘が開始された。死闘は一日や二日で終わるようなものではなく、一瞬ごとにその激しさはまし、血の臭いが大陸の中央部を制圧していった。大陸の支配者を決する壮絶な戦いの火蓋は、此処に斬って落とされたのである、
1,捕縛された者は
一人の娘が、泥のような睡魔を振り払い、目を覚ました。だが、それは春の訪れのようなとか、そういったさわやかな寝覚めではなく、睡魔は未だに強大な勢力を彼女の中で確保していた。娘はしばしぼんやりし、周囲の者達の会話を無意識的に聞いていた。彼女は迷い込んだ湿地帯で魔物に襲われ、右腕に痛烈な痛みを感じたことまでは覚えていたが、それ以上の記憶を持ち合わせていなかったのである。それに、積極的に行動するほどの精神力も持ち合わせておらず、もし暴力を受けても抵抗出来なかっただろう。むしろ無気力に包まれ、娘はゆっくり周囲の様子を探っていった。
「あのー、大丈夫でしょうか?」
「何ともいえんな。 何とか解毒には成功したが、右腕は暫くリハビリしないと使い物にならないだろうし、恐怖がどういう風に精神に影響を与えたかは本人しかわからん。 大体暴れたらすぐに取り押さえなきゃいかんし、しばらくは監視をはずせん」
周囲の会話を聞き終えると、ぼんやり辺り見回し、娘は再び目を閉じた。どうやら周囲はテントらしく、配置されている機材などから医療テントだと判断出来た。しかも、周囲に佇む者達の装備は明らかに軍人の物で、ここが民間施設でないことは一目瞭然である。魔物に襲われた後、コーネリア軍に助けられたらしい。助かったことが分かったが、同時に捕まったことが分かったので、心安らかになりようはずもなかった。下手をすると、この後拷問にかけられる可能性さえあるのだ。そうしたら、元々大した精神力を持つわけでもない彼女が耐えられようはずもない。そればかりか、拷問が終わった後は文字通りの用済みであるから、何をされるか知れたことではなかった。安らぎようがないのも当然であっただろう。
娘の名は、ティセイラ=リフォンテ。ごく普通の帝国軍兵士であり、頭がいいわけでも、特に優れた技能を持つわけでもない、良くも悪くも単なる凡人であった。その凡庸な帝国軍人の娘が何故こんな所にいるかというと、先の敗戦の際に逃げ遅れた彼女は、皆と逆方向に逃げ、コーネリア領内に偶然入る事に成功し、そのまま潜伏していた所を魔物に襲われ、魔物の巣に運び込まれた所をコーネリア軍人に助けられたのである。運が良いのかのか悪いのか判断に苦しむ情況だが、現時点で生きていること、前回の敗戦で帝国軍は侵攻に使用した兵力の半数を喪失したこと、形はどうあれ魔物の巣から生還出来たこと、等から考えると、運がよい方なのかも知れない。一応帝国で水準の攻撃魔法技術と防御魔法技術は身につけているが、その技能も現時点では、宝の持ち腐れとなり果てていた。
やがて、ぼんやりしていたティセイラの耳元が、不意に騒がしくなった。誰か来たのであろうと結論し、ティセイラが振り向くと、そこには妖艶な女と、槍を持った子供がいた。医師はもう退室したらしく、周囲には見あたらない。二人の内、子供の方に、ティセイラは見覚えがあった。うすら笑みを浮かべながら、右に左に帝国兵を叩き伏せ、表情を変えずに殺戮を続け、彼女の所属していた小隊を壊滅に追い込んだ子供だった。無論子供一人との戦闘で小隊は壊滅したのではないが、剰りにも凄まじい強さと恐怖が、子供の顔をティセイラの網膜に焼き付けていた。思わずティセイラは身じろぎし、悲鳴を小さく漏らした。
「ひっ!」
「ん? 起きてるじゃん、この人」
子供とはとても思えぬ素早さと、異様な力が、この子供が記憶通りの存在だとティセイラに告げていた。子供は目も止まらぬ早さで手を伸ばし、ティセイラの首を掴んで引き寄せ、顔をのぞき込んだのである。眼鏡の奥にあるのは、獲物を前にした獣の目だった。ティセイラの全身から冷や汗が吹き出し、娘は死を覚悟した。だが、幸運か不運か、またしてもティセイラは死を免れたのである。
「だめよぉ、そんなことしちゃあ」
「ちぇーっ。 いっそ暴れてくれないかな。 そしたら、公認で切り刻めるのにさ。 久しぶりにザコの内蔵引っ張り出したいなー」
「もう、そういうこと言ってるって、友達に言っちゃうわよぉ」
「へいへい、わかりましたよ。 もう」
口先を尖らせて、まるでだだをこねる子供のような口調で(子供なのだから当たり前かも知れないが)目の前の恐るべき怪物は言った。子供は手を離し、ティセイラは咳き込んで布団を掴んだ。元々気弱な彼女は、もう生きた心地がせず、涙がこぼれるのを止められなかった。右手の握力が嫌に弱く、だるさを感じるのも、彼女の気弱さを後押ししていた。
「お願いします、命だけは、命だけは助けてください」
「殺すつもりだったら、とっくにそうしてるわぁ。 少しおちついて」
妖艶な肉体の持ち主なのに、妙に幼い口調と動作。そのアンバランスさに、ティセイラは一瞬とまどったが、それで態度を変えられるほど今の彼女には余裕がなかった。殺す気がないとしても、拷問にかけられる可能性は高く、未だ余裕などあるわけが無い。はらはらと落涙するティセイラに、続けて女は語りかける。
「あなた、帝国軍のへいしね。 あそこでなにをしていたのか、おしえてくれる?」
「……」
無言のまま、ティセイラは首を横に振った。拷問は怖かったし、死の恐怖には耐えられなかったが、仲間を売ることはそれ以上に許せないことだったからである。震えながら何とか呼吸を落ち着けようとするティセイラを、子供の方が冷然と一瞥した。
「やっぱさ、腕の一本二本むしった方が早くない?」
「だぁめ。 もう、藍ちゃんはきが短すぎるぞ」
「へいへい、すみません。 じゃ、私外に出てるから、それが暴れたら呼んで。 切り刻むから」
子供は言い捨て、テントを出ていった。何とか一息つく事ができたティセイラであったが、考えてみれば、目の前の女はあの怪物をも従えている存在である。もしこれ以上逆らったら、何をされるのか想像するのさえ恐ろしい。女が再びティセイラに視線を向け、笑顔を浮かべた。
「ごめんねぇ。 こわかったでしょ?」
「……」
「なにも、わたしは仲間をうれとか、そういうことはのぞまないの。 なんでまものにつかまったのか、どうしてこのじきにあんなばしょにいたのか、それが知りたいのぉ」
ティセイラは布団を掴んで沈黙していたが、やがて肩を落とした。やはり死ぬのは怖いし、拷問にも耐える自信はない。それに第一、仲間を売るも何も、軍事機密など何一つ知らないのである。元々立場的にも平の軍人だし、敗戦の際も逃げるので精一杯だったのだ。
「わかりました……だから、乱暴しないでください」
「うん。 藍ちゃんも、私がけしかけなければなにもしないから。 じゃあ、ひとつずつおしえて」
観念したティセイラは、素直に問いに応じ、自分の知識を話し始めた。どうせ大した分量ではないし、すぐに終わるだろうと思っていたのに、喋り出すと意外に情報量は多かった。目の前にいる女は、それをいちいち熱心にメモしていった。ティセイラは、どんな形であれ、自分が命惜しさに情報を売ったこと、もう帝国に戻れないことを知った。
数日もすると、ティセイラは外を歩けるようになった。魔法兵だったことは既に白状しているから、彼女の右腕には封印魔術が掛けられ、魔法の使用を制限されていた。元々だるかった右腕に、更に重石がつけられているような感触であり、更に直りきっていない傷の痛みも加わって、ティセイラは閉口していた。また、外を歩けると言っても、医療陣地内から出ることは許されなかったので、気晴らしもできなかった。
彼女の他に、帝国軍の捕虜はいないようだった。小耳に挟んだ話によると、既に別の場所に護送され、監視下に置かれているらしい。さもありなん、これから前線になる場所に捕虜を置いておくなどあり得る話ではない。ティセイラ自身も、恐らく近いうちにそちらへ護送されるのであろう。そう考えると、ますますティセイラは憂鬱になった。彼女は形はどうあれ味方を売ったのであり、他の捕虜達からつまはじきにされることが確定した未来に思えたからである。
ティセイラは帝国の辺境の、ごく平凡な田舎に生まれた。軍人になった理由は、魔法が使えたことと、それしか割のいい仕事はなかったこと、さらに村から逃げ出すには方法がなかったこと、等がある。ティセイラは本当の意味で、ごくごく平凡な田舎娘だったのである。
二年ほどの転戦の後、彼女は帝国軍南部方面軍に配属された。ティセイラは文字通りの一兵卒であり、師団長や連隊長など雲の上の人であった。帝国軍は、才能や実績のある人間は出自や身分など関係無しに出世することができる場所であったが、ティセイラのように特筆すべき能力もない凡人には関係がなかった。目立った武勲を建てたわけでもない彼女は、ようやく二年間の勤務の後に経験を買われ、三等兵から二等兵へ出世することができた。だが、その直後に敗戦に直面することになったのである。
幼い頃から、ティセイラは運がよいと言われ続けてきた。阿鼻叫喚の坩堝と化す戦場で、彼女の小隊は化け物のような敵に蹴散らされ、彼女自身も方角を見失ってしまった。その後は、あの女、コーラル=ロフェレスと言う女に言ったとおりである。何とか逃げ延びたが、その後魔物に襲われて、意識を失っていたのだ。コーラルは、危うく巨大な魔物に喰われる所だった所を助けてくれた恩人であるが、同時に帝国に帰れない原因を作った張本人でもあるから、感謝することも恨むこともできなかった。運がよいと言われ続けたティセイラだが、本人はそれが違うことを知っていた。ティセイラは運がよいのではなく、運が良いときと悪いときが両極端なのである。
「……はぁ」
小さな切り株に腰を下ろして、ティセイラはため息をついた。元々気が弱い彼女は、嘘などつけない。他の捕虜達に問いつめられれば、自分がしたことを隠し通すことはできないだろう。だが、考えてみれば、これは転機かも知れなかった。いっそのこと、帝国を離れる好機なのかも知れなかった。
そのような考えに、ティセイラが至ったのには理由がある。彼女はハイマンドが嫌いだったのだ。帝国人の中では非常に珍しいが、あの英雄皇帝を心の底から嫌っていたのである。
ティセイラが顔を上げると、此方に向けてのほほんと歩いてくるコーラルの姿があった。その脇には、数人の男の他に、あの恐ろしげな子供も控えていた。故に近寄るには勇気が必要であったが、気弱な娘はそれでも意をかろうじて決することができた。
「あの……すみません」
「ん? なぁーに?」
「あの、ぶたないでください、怒らないでください。 ……私、もう帝国には戻れません。 どんな形であれ、味方を売ってしまったんですから。 それで、あの……」
静かに答えを待つコーラルの前で、重苦しい息が吐き出された。
「亡命します。 どうか、亡命を許してもらえませんでしょうか」
「ふうん……そう、わかったわ。 じゃあ、上の人にそうだんしてみるわぁ」
亡命を認めた所で得も損もないティセイラであり、その申請はすぐに受け入れられた。コーラルはアッセアに相談し、アッセアはその人格を聞いた所で、即座に了解の判を押したのである。これはアッセアが、ティセイラが破壊活動などと言う大それた事ができそうもないと判断したからであり、した所で大した害にもならないだろうと相手の存在を見切ったからである。情けない話であるが、それは全くの事実であり、それを聞かされたティセイラもむしろ安堵したほどである。
一応亡命は受理されたが、だが念には念をという言葉もある。ティセイラには藍とミシュクが監視につく事になった。
恐らく戦闘が始まったら解除されるであろう任務であったが、任務には違いなく、二人は他の仕事がないとき、せっせと(主任務)に励んだ。実際問題、哨戒任務は暇な仕事であり、また演習に加わるわけにも行かず(哨戒自体が彼らの任務だったので)、藍もミシュクも退屈を覚えていたのだ。藍にしてみれば、色々なことを知りたい年頃であるし、同時に命令さえもらえればティセイラを切り刻みたいのだ。それにミシュクにしてみれば、いざ最終目的のアッセアと接する機会があったとき、女の子と話したこともないのであれば、まともに思いも伝えられないため、適当な(女の子)と接して慣れておこうという気持ちがあったようである。故に二人は交代できちんとティセイラを見張り、少しずつ彼女とうち解け始めていた。それが一段落して、二人が不思議に思った事は、ティセイラに逃げ出す素振りや故郷を思う様子が全くないことであった。不審に思った藍は、食事の時に聞いてみることにした。不意に話しかけられて、ティセイラは困惑したようだったが、元々藍は相手に遠慮するような性格ではない。
「ねえ、ティセイラお姉さん。 どうして逃げようとしないわけ?」
「えっ? それは……どうせ逃げられはしないし、逃げても何にもならないから」
藍の視線は鋭く、ティセイラの深奥を見透かすようであった。普段彼女が接している相手は、その視線を受けても全く動じなかったが、ティセイラは違った。露骨に怯えを見せ、すくみ上がったのである。
「おいおい、あんまり脅かすなよ。 怖がってるじゃないか」
「分かったよ、もう。 で、もう少し詳しく聞かせてくれないかな」
「……私、もう帝国に居場所がありませんし……両親ももういませんし……」
頬杖をつき、猜疑の視線を向ける藍の前で、気弱な帝国兵は言った。
「それに……皇帝陛下は……私……その……嫌いですから」
その台詞は、二人に興味を持たせるに充分な物だった。数日接しただけで、この娘がうそをつけないのは二人とも充分以上に悟っていた。故に、ミシュクも、藍も、このときティセイラに大きな興味を抱き始めたのである。理由は簡単なことであった。小さな幸せを求める、小さな人間が、彼らの周囲には一人もいなかったので、新鮮な感触を与えたからである。
2,アガートラーシュ平原会戦
帝国軍と連合軍の死闘は熾烈を極めた。ハイマンドの元に、ひっきりなしに戦況報告が届き、それを元に参謀達が地図に修正を加え、一秒ごとに地図は変化していく。戦闘開始から半月が経過し、戦況は早くも泥沼化の様相を見せ始めていた。
比類無き有能さを誇る帝国軍と、ニーナ将軍以外は大した人材のいない連合軍では、勝負は初めから見えているようにも思えたが、そうはならなかった。連合軍は装備や人数の面で総合的に帝国軍を凌いでおり、強力な兵器も多く所持していた。特に投石機やクロスボウといった強力な兵器の所有数は、帝国軍を遙か凌駕していたのである。
結果、帝国軍は全面的に優勢を保ちながらも、一気に押し切ることができなかった。また、ニーナ将軍も自軍の強みを良く理解しており、強力な兵器を旨く駆使して帝国軍の攻勢を阻み続けた。ニーナ将軍自身が指揮する戦場においては、常に優勢を保ち続けさえした。消耗戦が続けば数に劣る帝国軍が不利なのは自明の理であり、ハイマンドの元ではひっきりなしに会議が開かれ続けていた。
帝国軍としても、これほどの兵力が結集する大会戦は始めてであり、かってがつかめ無いという事情もあった。帝国軍の誇る兵団長達や、知将ハイマーを筆頭とする名将達は見事な用兵を見せていたが、全面的な突破口の創出にはどうしても至らなかった。
悩むハイマンドの元に、ハイマーが一つの作戦案を持ち出してきたのは、開戦から十七日が経過した頃であった。ハイマンドはそれについて幕僚達と会議を行い、最終的に多少の修正を加えながらも実行を許可した。皇帝としても、否定する理由がなかったし、試してみたい大規模な戦略であったのだ。結果、それは今までの半月間での局地戦の全てを凌ぐ大規模な戦いへと発展する。俗に言う、アガートラーシュ平原会戦である。実際にはアガートラーシュ平原だけではなく、戦線全域での戦いであり、最も激しかったのは戦線中央部での死闘だったのだが、戦いのきっかけが起こった場所がアガートラーシュ平原のため、後には統一してこう呼称される。
アガートラーシュ平原は、両軍が対峙する戦線の少し東に位置する広大な平原である。周囲の戦略拠点は開戦当初全て帝国軍が押さえていたが、連合軍の布陣により、幾つか生じた新たな戦略拠点がある。その一つが、このアガートラーシュ平原だった。
この平原は大規模な戦いを行うには全く向いていない場所であった。広さは申し分ないのだが、岩や尖った小石が無数に散らばっており、地形は起伏に富み、複雑を極めている。草も殆ど生えていないため、騎馬兵団を運用するのは難しく、また高速で歩兵軍団を運用するのも困難である。必要ではあるが、余り多数の兵力を投入したくない戦場であろう。
現在長い前線は、緩やかな弧を描いて連合を半包囲する形になっている。だが、このアガートラーシュ平原を制圧すると、そこから反時計回りに、帝国軍の戦略拠点の一つを突くことができるのだ。無論、剰りに多くの人数を裂くと、前線自体が手薄になるため、作戦行動には慎重で迅速な作戦行動が不可欠となる。現時点で、この平原には千五百ほどの連合兵が陣取り、帝国軍の行動を監視するにとどめている。連合としても帝国の布陣に隙が見いだせず、この地点に多くの兵力を投入すると前線を突き破られる可能性があったからである。
血みどろの泥沼から足を無理に引き抜くことを、最初に決断したのは帝国軍だった。
「帝国軍、およそ二万五千! アガートラーシュ平原に向け移動中!」
朝食中のニーナ将軍は、けたたましい伝令の声に驚きの声を漏らした。そして化粧も忘れて、天幕の外に出る。周囲を見回すと、何人かの甲将が既にニーナの天幕の周りに集合していて、天幕から出てきたニーナを見て一斉に吹き出した。
ニーナは化粧が無闇に濃いことで知られているが、それには理由がある。化粧を落とすと異様な若作りで、せいぜい二十代半ばの、駆け出しの参謀くらいにしか見えないからである。ニーナは自分自身の童顔にコンプレックスを感じていて、それを元に低く見られるのを何より嫌っていたのだ。かと言って、化粧を無意味に濃くするのもどうかという説もあるのだが、元々化粧が好きなニーナにその言葉は届かなかった。ともあれ、ニーナは自分の失敗に気づいて天幕の中に戻り、水準よりずっと優れた顔に無闇に化粧を塗りたくり、咳払いして天幕の外に出た。必死に笑いをこらえている甲将達に、ニーナはもう一度咳払いし、詳しい報告を求めた。
「何か動きがあったとか。 詳しく、正確に報告を願います」
「はっ! 帝国軍およそ二万五千が、アガートラーシュ平原を攻撃中との報告が入っています! 既に平原に布陣している部隊は応戦している模様ですが、援軍を送らねば防衛は厳しいかと。 決断を願います!」
甲将達の報告はそれほど詳しくはなかったが、ニーナはそれを聞いて事態を正確に把握した。帝国軍が延翼運動を行ってきただけの話であり、対処策は幾らでもある。素早くニーナは、周囲の者達に指示を飛ばした。
「直ちに二個軍団と、シュムールゼール軍をそちらへ向けなさい。 更に前線全てに偵察兵を派遣、兵力配置を再分析!」
「はっ! 了解しました!」
取り合えず型どおりの命令を下すと、ニーナは考え込んだ。この時期にわざわざ延翼行動をしてくる意味が分からなかったのである。全面攻撃に転じてくるとしても、この時期である理由がない。考え込むニーナの元に、次々と情報が届けられる。それを元に、彼女は頭の中で敵陣の分析を行い、やがて幾つかの結論を出した。それは帝国軍中央部の一カ所に隙ができ、其処を突けば今までにない戦果を上げる事ができるというものだった。それに基づいた決断を下し、自ら軍馬に飛び乗ると、ニーナは指揮杖を振るって麾下の兵団に号令を掛けた。
「総員攻撃開始! 我に続けっ!」
帝国軍、ゴルヴィス兵団長は物見櫓の上から敵味方の動きを見ていた。そして、ニーナ将軍の陣からおよそ五万の兵が彼の守備地域に攻めかかってきたのを見て、ほくそ笑んだ。直ちに彼は左右の味方に伝令を飛ばし、総司令官ハイマーの立てた作戦通りに動き始めたのである。
確かに今、彼の部隊は孤立している。だが、それは半ば計算尽くの孤立であった。現在彼の有する戦力はおよそ三万、ニーナ将軍の部隊の六割に過ぎないが、しかも更に兵力差が拡大するのは確実であったが、恐れてはいない。何しろ彼は帝国内でも指折りの兵団長であり、ことに防御戦にかけては右に出る者無しと歌われる名将である。それでも敵は名うての名将であり、厳しい戦いになるのは避けられないが、それは同時に論功行賞で彼が有利になることも意味しているのだ。そして何より、この陣を奪取されたとしても、それは計算の内だったのである。
「総員総力戦用意! 三日だ、三日耐え抜けば援軍が来る!」
「おおっ!」
兵士達が喚声を上げ、ゴルヴィスは指揮杖を振るった。敵主力は、遅れて出撃してきた味方と連携しながら、ゴルヴィスの陣の周囲にできた弱点を圧迫しつつ、ゴルヴィス兵団に襲いかかってきた。その猛攻は凄まじく、火力に物を言わせて次々に巨石や巨大な矢を陣に叩き込んでくる。少し高い位置に陣取っているとはいえ、陣内に安全な場所など一つもない。敵は巧妙に周囲の帝国軍兵力を切り離しつつ、味方の部隊をゴルヴィス軍に指向させ、今や十万を超す大軍がゴルヴィス軍を攻め立てていた。前線全体で連合軍は帝国軍に対して全面攻撃に出ており、凄まじい叫び声が周囲からは轟いていた。
「なかなか壮観な眺めだな」
「司令官閣下、敵主力は此処へ兵力を集中しています! このままでは、此処は突破されます」
「うろたえるな。 もう少し敵を引きつけろ。 特殊攻撃隊、用意!」
冷静なゴルヴィスの声は、参謀達を確かに安心させた。そして、特殊攻撃隊と呼ばれた五百ほどの兵が、武具を振り上げ喚声を上げた。彼らはゴルヴィス兵団内でも優れた武人達の集まりであり、その戦闘力は高名な(クールランス)程ではないにしても、相当に高い水準にある。やがて、頃合いを見てゴルヴィスは指揮杖を振った。
「魔法隊斉射っ! その後特別攻撃隊出撃!」
後に朱の部隊と呼ばれ、連合の兵士達を恐怖のどん底に突き落とす者達の、これが初出撃となった。
ゴルヴィス隊の陣に肉薄していた兵士達は、何が起こったか分からなかった。今までの攻撃とは質が違う。閃光が迸ったかと思った瞬間、凄まじい轟音が響き渡り、最前衛にいた兵士達が吹っ飛んだのである。投石機や、巨大な攻城用クロスボウが燃え上がり、何とか生き残った兵士達が苦しみのたうち回っていた。
「魔法隊の同時斉射……何という精度だ……信じられん」
何とか今の攻撃を耐え抜いた皇国軍丙将が、頭を振って立ち上がりながら、攻撃の正体を悟って呟いた。そして、彼が後退を命じるよりも遙かに早く、敵が陣から躍り出てきたのである。呆然とする彼に、ましらの様に帝国軍兵士が躍りかかり、曲刀を振るって首をはねとばした。帝国軍兵士と皇国軍兵士では、元々格闘戦闘力の桁が違う。更にその最精鋭となれば、比較にさえならなかった。数百の、精鋭部隊と思われる敵部隊は当たるを幸いに皇国軍兵士をなぎ払い、更にその周囲を固めた一万ほどの兵士が、浮き足だった皇国軍を叩き潰していった。後方から駆けつけたニーナ将軍の精鋭部隊が退路を圧迫し敵を追い払った頃には、既に連合軍の、特に皇国軍の被害は無視し得ない物となっていた。
この強烈きわまる逆撃で、六十台の投石機、四十五機の攻城用クロスボウ、他にも七十台以上の攻撃兵器が破壊されるかもしくは奪われ、三千以上の死者が出た。そしてゴルヴィス軍の陣は傷つきながらも健在であり、落ちる気配もなかったのである。
帝国軍の突撃部隊は皇国軍に恐怖を与えた。更に幾度も逆撃が行われ、包囲部隊には無視し得ない損害が出た。これにより、攻撃部隊は浮き足立ってしまい、ゴルヴィスに有利に戦況は運ぶかと思われた。だが、名将ニーナ将軍は、彼の勝ち逃げを許さなかった。七度目の逆撃で痛烈な打撃を受けた皇国軍第七軍団が後退するのと同時に、彼女自身の指揮下における精鋭を駆使し、総攻撃を開始したのである。火力の集中を徹底的なまでに行い、あくまで他の部隊の攻撃は牽制にとどめた。その強引きわまりない一点集中攻撃に、ついに敵陣の一角が破れた。味方から喚声が上がり、それと同時に敵陣から火の手が上がった。敵が陣を放棄し、後退を開始したのである。流石はニーナ将軍、強引にするべき箇所を完璧にわきまえていたのである。被害を恐れぬ激しい攻撃が、却って勝機を生むことも多いのだ。
帝国軍は陣を放棄し、鮮やかに、後方に設置された二次防御陣に後退した。だが、連合側にも追撃する余裕など無かった。帝国軍が陣を放棄し、新たな防衛線を構築するのを眺めやるしかなかった。それほどに損害は大きく、同時にニーナがこの戦場を離れなければならなくなったからである。
「ニーナ将軍、ニーナ将軍!」
「何事ですか?」
「アガートラーシュ平原から伝令がありました! 敵軍と衝突し、一進一退の攻防が続いているそうです! 援軍があれば、一気に敵を蹴散らせると」
無言のままニーナは考え込んだ、帝国軍の動きがあまりにもお粗末に思えたのである。一端ニーナは兵の再編成を命じ、自らそれに従事して周囲の様子をうかがった。彼女の危惧は的中した。ニーナは程なく届けられたもう二つの報告を聞いて舌打ちした。
「で、伝令です! 西部戦線が手薄になった隙をつかれ、帝国軍の猛攻を受けています! 既存の兵力だけでは支えきれません! 援軍を願います!」
「アガートラーシュ平原より更に伝令! 敵援軍出現、我が軍は窮地に落つ!」
「なるほど、この隙は私をおびき寄せる餌だったのか」
ニーナは敵の策を悟った。中央部にわざと隙を作り、其処へ兵力を集中させ、その隙に左右を一気に蹂躙する。仮に中央の部隊が蹴散らされたとしても、後で左右から挟撃することができる。また、ニーナが名将ゴルヴィスとの戦いに集中すればするほど、それにも気付き難くなるのだ。おそらく、ゴルヴィス隊に追撃を掛ければ、また痛烈な反撃を受けたであろう事は必至であり、ニーナはそれを捌くのにかかりっきりになってしまったことであろう。勝つ自信はあったが、手を抜けば今まで以上の被害が出ることは疑いが無く、全力を尽くすのは絶対条件だった。そうすれば伝令が彼女の元に情報を届けられる可能性も、それを冷静に聞ける可能性も大幅に減ったことは疑いない。それを考えても、帝国を代表する名将の一人ゴルヴィスを倒せるかも知れないと言う誘惑は、彼女の心を激しく揺さぶった。だが、ついに連合最高の名将は、それにうち勝った。
「命は預けておく、ゴルヴィス将軍」
ニーナは口中で呟くと、麾下の精鋭に後退の命令を下した。彼らはニーナのことを信頼しており、故にすぐに命令に従う。それを見て、周囲の部隊も渋々という感じで後退を初め、凶熱は急速に収まっていった。ニーナは自軍を最後尾に据え、敵の追撃を牽制すると、安全圏まで後退することに成功した。
現在、この地域には全軍の四割以上が集中している。ニーナは指揮杖を振ると、複雑な指示を周囲に出し始めた。そして自ら精鋭をまとめ、東へと急行した。目指すはアガートラーシュ平原であった。
「ゴルヴィス兵団長、陣を放棄して後退しました!」
「敵将ニーナ将軍、精鋭を率いて此方に向かっています! そのほかの敵軍は、後退して陣を立て直している模様!」
「うむ、ご苦労。 下がって良いぞ、ごほんごほん。 ……流石はニーナ将軍だ、そう簡単には引っかからぬか。 手強い相手だな。 ごほん」
アガートラーシュ平原方面の指揮を執るハイマーが、咳払いしながら兵士達を下がらせた。西部戦線の全面攻勢を指揮しているハイマンドと、東部戦線の突破を命じられた彼。帝国は、最も重要な三つの地点に、最強の指揮官達を配置していたのである。これは、豊富な人材を誇る帝国だからこそできた芸当であった。
現在、この地点に展開している帝国軍はおよそ五万、敵は三万五千ほどである。数でも上回っているが、元々未熟な連合軍の将は、帝国どころか大陸を代表する名将であるハイマーの敵ではない。まるで赤子のようにもてあそばれ、全面潰走に近い状態に陥っていた。だが、ニーナ将軍率いる最精鋭が迫っているという報告もあり、油断はできない。ハイマーは再び咳払いをすると、麾下の部隊に号令を下し、攻勢の強化を命じた。
だが、意外にも連合軍はしぶとくそれに耐え抜いた。元々この平原が非常に動きにくい場所だと言うこともあるし、勝ち目がないと悟った連合のシュムールゼール軍が中心となって防御陣を展開、勝ちを放棄して味方の到着を待つ事に専念したという理由もある。それは結果的に正しい戦略になった。強行軍で駆けつけたニーナ将軍の部隊が、手薄になった帝国軍陣地の一つを強襲、ハイマー隊の背後を脅かしたのである。無闇に乱戦のさなかに飛び込むのではなく、より効果的な戦術をとったニーナ将軍は確かに時代を代表する名将の一人であっただろう。帝国軍の陣地を守った将は良く戦ったが、何しろ兵力が違う。急を告げる伝令は幾度もハイマーに状況を説明して援軍を促し、困惑した幕僚の一人が後退を進言した。
「ハイマー将軍! このままでは退路を断たれます!」
「うむ、まあこんな所だろう。 ごほん、総員陣まで撤退。 殿軍は私が務める」
のほほんとハイマーは言い、むしろ堂々と彼の部隊は後退を開始した。勢いづいたシュムールゼール軍が追撃を開始したが、芸術品と言っていいほど完璧に構築された防御陣にうち当たって返り討ちに合い、惨敗の上塗りをしてしまった。あろうことか、将官を三名も失ってしまったのである。それと殆ど同時に、西部戦線にも連合の援軍が到着、大きな被害を出しながらも何とか帝国軍を押し戻すことに成功した。それが戦いの終わりとなって、前線の全ての地点で、戦いが急速に収束していった。
四日間に及ぶアガートラーシュ平原会戦は集結した。帝国軍の損害はおよそ死者二万一千、連合軍の死者はおよそ四万に達した。特に連合軍西部戦線は大きな損害を出しており、ニーナ将軍の本隊はそれをカバーするためにやや西よりに布陣を変更したほどである。連合は帝国の二倍近い被害を出したが、全面崩壊にはいたらず、前線を維持することに成功した。両軍は互いに大きな被害を出しつつも、結局致命傷を与えるにはいたらず、この会戦は戦いの泥沼化に更に拍車を掛ける結果だけを残した。戦いが終わってみれば、双方の陣配置は殆ど変わっておらず、兵力配置にも大差はなかったのである。
「申し訳ありません、ごほん。 結局策は成功しませんでした」
「いや、戦の勝敗は兵家の常だ。 それに、ニーナ将軍が想像以上に手強いと分かっただけで充分だ」
ハイマンドは手を挙げて部下の謝罪を遮り、敵将のいる陣地を眺めやった。連合にニーナ将軍さえいなければ、一息に蹴散らせると思っていたのだが、それは思い上がりのようであった。もしそうであれば、西部戦線を今頃突破し、敵を全軍崩壊に追い込めていただろう。敵の必死の抵抗は激しく、歴戦の帝国兵士達をもなかなか勝ちに奢らせなかったのである。
ハイマンドは嘆息すると、さらなる策の捻出をハイマーに求め、自らは天幕へと引き上げていった。その顔は決して普段見せない悲しみに沈んでいた。彼の夢は遠くへ、更に遠くへと、手を離れつつあったのだった。
3,平凡な日常、平凡な夢、平凡な人
嵐の前の静けさという言葉があるが、今のコーネリアは正にそれに包まれていた。二度目の帝国軍侵攻が確実なこと、しかもその兵力が前回の五倍であり帝国屈指の名将が率いていること、等が噂として伝わったためである。流石に、如何なる呑気者であっても、味方の十倍に達する敵兵団が来襲すると聞いて心穏やかであり得るはずもなかった。元気なのは子供と世間知らずの若者だけで、それですらどこか精彩を欠いている印象があった。
藍は束の間の休暇を貰った。だが、その期間もリテーシャと行動を共にするように命じられてもいたので、食欲を押さえるのに苦労しなければならなかった。どうも最近は、人間を見る際相手の内蔵の形や、その引っ張り心地を想像してしまうのである。喉を掻ききったときにどんな表情をするか、肉を切り裂くときの感触はどんな感じか、断末魔の悲鳴はどんな風に響くのか、鮮血は如何に飛び散り味はどうなのか。既に三十人以上を戦場で殺した藍は、それにますます貪欲になっていた。無論制御もできるのだが、ふくれあがる欲望もますます大きくなってきていたのである。
リテーシャはそれにいちいち反応して、藍を面白がらせた。考えてみれば、血になれているアッセアや家康やセルセイア、逆に全くと言っていいほどそれに疎いアイサやティータなど、彼女の周囲には両極端な人間が多く、それが余計にリテーシャの反応を新鮮にしていた。藍は、リテーシャが怯えの表情を見せるたびに、槍を突き刺して心臓を抉りたくなるのを相当な努力で押さえ込まねばならなかった。
藍は既に幾つかの事を心に決めていたが、どうしても決めきれないこともあった。この気弱な娘と接していると、その答えが出そうな気がして、藍は微妙にうれしさも覚えていた。無論リテーシャは迷惑そうにしていたが、そんなこと最初から知ったことではない。藍は、色々な意味でリテーシャには何でもできるような気がしていた。それには、他の者には聞けないようなことを、聞いてみるというのも含まれていた。
藍は幾日か行動を共にすると、リテーシャに、今までずっと思っていたことを聞いてみることにした。それは、彼女が離れかけていた、日常に関する物であった。
何日行動を共にしてもリテーシャは藍に慣れなかった。時々じゃれついてくるティータや、忍びで会いに来るアッセアと話しているときの藍と、戦場で殺戮を繰り返す藍の双方を知っているからであろう。藍は視線を時々彼女に向けるが、その度にびくびくするので、それを楽しんでもいた。
その日、二人は王都から少し離れた草原をふらついていた。藍は二三度その辺りを彷徨いたことがあったが、戦争が始まってから来るのは初めてだった。藍はもはや分身と化している愛槍を揺らしながら、振り向きもせずに宣った。
「風が気持ちいいねえ」
「え? う、うん、そうね」
「こういう日に解体ができたら最高の気分だねえ。 風向きも良いし、いい感じで血の臭いが広がると思うなあ。 こう草の匂いと血の臭いが混じって、何日も後まで、思い出すだけでおかずになりそうな勢いでさ」
舌なめずりをする藍、周囲には誰もいない。しかも、リテーシャが逃亡を図った場合は問答無用に殺して良いと藍は言われているのだ。凍り付き、涙目になるリテーシャに向け、藍は苦笑を浮かべた。
「冗談冗談。 私が殺る気だったら、もうとっくにリテーシャさん死んでるって」
「……」
「この少し先に、おっきな岩があるんだ。 其処はもっと風が気持ちよくて、辺りを見渡せるんだよ」
つかつかと藍はその岩に歩いていった。岩は小さな山と言った感じの形をしていて、彼方此方が出っ張り、所々草が生えていた。身軽に藍は平べったい頂上部に登り、あくせくしながら登ってくるリテーシャを見る。魔法兵だったと言うことだが、これで良く軍人がつとまっていた物だと、藍は冷徹な印象を浮かべた。だが、(幸村)が目覚めるまでは、藍もそれとそう大差がなかったのである。それを不意に思い出して、藍はリテーシャから視線を逸らし、感情を悟られないように苦笑した。
地面と岩の頂上までは、三メートルほど離れていた。リテーシャが登り切ると、藍は王都の方へ視線を移した。王都で生活する友を守ることが、殺戮快楽を味わうことと列ぶ藍の目的である。それを思い出しながら、岩の頂上でへばって、肩で息を付いているリテーシャに視線を戻す。リテーシャは、視線に気づき、びくりと体を震わせた。
「ねえ、リテーシャさん」
「え?」
「帝国軍って、どんな感じ? 皇帝陛下って、どんな風に思われてるの?」
藍は足をぶらぶらと揺らしながら、背後にいる元帝国兵に聞いた。リテーシャは少し考え込むと、もう隠す意味も必要もないと思ったのか、嘆息しながら言った。
「すごく規律の厳しい所。 みんな強くて、立身出世のために必死になってるわ。 陛下はとても立派で、努力をすればするだけ応えてくれるから……」
「今のコーネリア軍もそうだよ?」
「うん、雰囲気的には似てる。 でも、少し違うの。 生きた伝説になった陛下のことを、まるで神様みたいに慕ってる人も多いのよ。 私は……そういうのっておかしいと思う」
「ふうん」
藍は鼻を鳴らすと、岩に自生している草をむしり取り、手の中で粉々に千切った。掌にのせた無惨な草の亡骸を吹き、空に散らすと、緑の風が遠くへ去っていった。
「うちの陛下は、(慕われるお姫様)であっても、(生ける伝説)じゃあないからねえ。 でも、それもそれでいいんじゃないの?」
「私……私みたいな凡人には、あそこは地獄よ」
リテーシャの表情がますます沈み込んだ。彼女は岩の上に少し残った草の欠片を手に取ると、藍と同じように吹いた。だが息の加減が良くないのか、或いはタイミングが悪いのか、草の死体は失速し、足下の地面へ落ちていった。
「私、平凡な人生送りたい。 平凡に結婚して、平凡に子供産んで、平凡なおうちに住んで。 戦争に巻き込まれないで、素敵な人生でなくても、普通に一生を送りたい」
「……刺激的な人生って、楽しいよ?」
「楽しい人はそれがいいかも知れない。 でも、私には大した力も決断力も意志力だって無いし、作れない。 人には分相応ってのがあるし、私はそれから足を踏み外して、怪我したくない」
真剣な表情でリテーシャが言った。藍は涙を瞳にためたその横顔を見やりながら、不思議な感覚を覚えていた。
「私は、自分の器がどんなものか分かってる。 ……だから……器を広げさせようと、あれこれする陛下は嫌い……迷惑だわ。 無理に器を広げようとすると、壊れてしまう場合の方が多いんだから……」
「ふーん、それで陛下を嫌いって言ったのか……」
「そうよ。 私は根性なしの凡人よ。 世間的には無能と呼ばれる存在で、死も痛いのも苦しいのも嫌い。 苦難から逃げてるんじゃなくて、そもそもそれに耐えられるように心も体もできてない。 でも……でも。 世間の人間は、みんなそうだと……私は思う」
藍はリテーシャの言葉に嘘を見つけられなかった。要するに、リテーシャは自分の能力をこれ以上もないほど正確に把握しており、自身を客観的に知っているのだった。これはおそらく、超実力主義の帝国軍内で揉まれに揉まれた事が原因であろう。だが自身を客観的に知ると言うことが如何に困難かは言うまでもないことであり、そう言った意味では、リテーシャはなかなかに大した人物なのかも知れなかった。
リテーシャは要するに、普通の人々、世間の圧倒的大多数を占める(一般人)の心理をそのまま口にして見せたのである。藍はそれに大きな感銘を受けた。なぜなら、今の藍とは対極に近い位置からの言葉だったからである。風が吹き、リテーシャが吹き損ねた草を飛ばし、遠くへと運び去っていった。それを見送ると、藍は静かに苦笑した。象徴的だと思ったからである。
「……リテーシャさん」
「……? なに?」
「私さ、今日貴方をここでかっ捌こうかと思ってたんだけど、やめたわ。 逃げようとしたとか言えば幾らでも言い訳出来たし、何より私、とってもおなかが空いてたから。 でも、やーめた。 あーあー、惜しいなあ。 貴方の心臓えぐり出して、囓ってみたかったのに。 骨を槍で突き刺してさ、軟骨むしりたかったなあ。 でもやめたよ」
小さく悲鳴を上げて引きつるリテーシャに、藍はまさに小悪魔的な笑みを向けた。
「ありがと。 私、貴方のことでまた一つ大事なこと分かった気がする。 まあ、趣味とそれは関係ないけど、今ので……結論が出たよ。 心の中のもやもやが晴れた。 やることが、決まった」
藍は身軽に岩から飛び降り、リテーシャを促して王都へと歩き始めた。彼女の心から、最後の悩みが消えていた。最終的な結論が出、行くべき道が決まったからこそ、彼女は歩き始めたのである。
「イレイム様、もう少しですね」
「はい。 もう少しで、戦いが終わります。 家康様を信じて、最後まで頑張りましょう」
最前線の陣地にいることが普通になってしまったイレイムを見て、セルセイアが言った言葉は、力強い返答によって押し戻された。僅かに眉をひそめた彼女は、ひょっとすると心配していたのかも知れなかった。セルセイアの様子に気づいてか気づかないのか、イレイムは天幕の中で小さく嘆息し、遠くを見るような目つきで言った。
「家康様は、結局平凡な人達のために戦っているのですね」
「おそらくは。 それにしても……よくよく危険な男でした。 良く此処までこれたものです」
「でも、合理的な危険さです。 それは何度も私、心の底から思いました」
イレイムは立ち上がると、セルセイアを促して天幕の外に出た。外では、たった一度しか実戦を経験していないとは思えないほどの精鋭に成長した兵士達が、水も漏らさぬ布陣で周囲を警戒していた。彼らの敬礼に応えながら、二人は若干声のトーンを落とし、歩きながら続けた。
「しかし、私としては意外ですね。 あの男は確かに有能です。 しかし、あの手の有能な男の中には、優秀な者だけが世界を作ると妄信している者も少なくないのですが」
「……私は少し、家康様の気持ちが分かる気がします」
「と、いうと?」
「家康様は、きっと自分が優秀な人間だなんて、思ってはいない……そう感じています。 私、自分が凡人だって知ってます。 たまたま、本当にたまたま、民に命を預けられていると言うことを知ってます。 それと……私と同じ空気を、ほんの少しだけ、家康様から感じるんです」
周囲の兵士達は規律も気力も申し分ない。家康を信頼し、その訓練を受け入れ、そして勝利を得たからこその士気であった。そしてそれは、家康が信頼に値する人物であり、命を預けるに充分な相手だと感じているからであろう。
本当は、それら兵士達の忠誠は、最前線で戦い続けたイレイムにも捧げられている。日々苦労を重ね、膨大な情報を持ち帰っているセルセイアや、戦術レベルでの戦いを誰よりも見事な手腕で遂行しているアッセアにも捧げられている。兵士達は普通の人間であり、だがそれが故に誰よりも現実的に物を見ることができるのだ。無論それは時に間違い、時に流れに乗せられるが、一部の知識階級が考えているほど民衆も兵士達も愚かではない。むしろ、知識階級と等量の知識を与えられれば、屁理屈をこね回す知識階級などよりずっと現実的な行動と判断を見せる者の方が多いことだろう。
そしてそれは、帝国のハイマンド皇帝や、連合のニーナ将軍にも共通している。兵士達は、少なくとも忠義を尽くすべき相手に出会えたときには、その全力を引き出すことができるのである。
イレイムは、今の時点でそれには気づいていなかった。だが、自分は有能な人間ではない、という考えは決して悪い方向に作用していなかった。無論自分を天才だと信じることで力を発揮出来る者もいるにはいるが、イレイムの場合はその逆でその全てを発揮することに成功していたのである。そして、兵士達や、民衆の信頼を得ることにも。
「イレイム殿、其処におられたか」
談笑していた二人が振り向くと、家康が目に笑みを湛えて立っていた。後ろにはアッセアと、隊長級の指揮官が何人か控えていて、大事な用だとすぐに分かる情況であった。
「家康様、何が起こったのですか?」
「うむ、アッセア殿が新たな戦術について披露してくれるとのこと故、イレイム殿にも御同席願いたいと思いましてな」
「はい、早速伺わせて頂きます」
イレイムはセルセイアに一瞬だけ暖かい視線を向けると、家康の元に歩み寄っていった。その視線の意味を悟ったセルセイアは髪を掻き上げ、静かに息を吐き出した。もうイレイムは大丈夫だと、心の底から思ったからである。
大事な子供が独り立ちした、親の心境であったかも知れない。その夜、珍しく痛飲して、蜷局を巻いたセルセイアの姿が部下に目撃されている。
4,名将と呼ばれて
帝国軍南部方面防衛軍の動きは早かった。名将ミディルアに率いられていると言うこともあるが、自国の領土内をこれ以上もないほどに調べ尽くしているという理由もある。途中物資や兵糧を補給し、コーネリアに知識のある人物を徴募したりもしながら、それでも疾風と言っていい速度で敵国へ進行していた。
ミディルアが単なる戦術家にとどまらない点は、彼女の情報に対する貪欲さに代表されるだろう。ミディルアは情報の重要性を良く知っており、それが故に戦略家として大成している人物でもあった。無論、今もそれに衰えはない。ミディルアは第四師団を撃破したコーネリア王国軍を過小評価せず、あらゆる情報を集め、その弱点と長所を探った。
ミディルアは酒を飲んだときこそ非常に不真面目だが、普段は真面目であり、特に戦時は体力の限界まで自身の体を鞭打った。今回の遠征でも、手を抜けばいいと言う周囲の意見を退け、彼女流のやり方でコーネリアへと接近していた。なぜなら彼女は知っていたからである。戦いは、戦場に着くときには既に勝敗が決していることが多く、そう言う意味では既に戦いが始まっていると言うことを。
そのミディルアの表情は、最近晴れない事が多かった。兵力、物資、人材面では圧倒的優位にあるのだが、戦略的には優位を確保しているとは言えなかったからである。
ミディルアの情報整理作業は、その日も深夜まで及んだ。無論決戦前はきちんと休眠を取るミディルアだが、彼女のテントは兵士達から(不夜城)と良く呼ばれていた。ミディルアの欠点の一つがこの体の酷使で、以前それが原因で何度か病魔に冒された。体調管理ができるようになった今はそれも無くなったが、本当に病魔が消えたのかは誰も知らない。
「軍団長、お呼びでしょうか」
「御苦労様ですわ、ジェシィ少将。 その辺に適当に掛けてください」
テントに入ってきたのは、第四師団で善戦したジェシィだった。ミディルアのもう一つの欠点は、自身のスケジュールに悪気無く他人をつきあわせることで、そのため参謀の中には、戦場に着く前、夕方に仮眠を取る者さえいるという。ジェシィは無論文句一つ言わなかったが、彼女は例外であろう。
ジェシィはテントの中を見回し、珍しく困った表情を浮かべた。其処は文字通りの豚小屋であり、私物やら書類やらが無秩序に散らばって、カオスそのものであった。これは、ミディルアに親しい者だけが知る欠点であった。彼女は片づけが非常に苦手で、自室もこんな有様だという噂である。そして、彼女の配下にいるある密偵の仕事は、出発前のテントを片づけておくことだという噂まであるのだ。
何とかジェシィは適当な場所を見つけ、床にそのまま座った。ミディルアは椅子を逆さにして座り、椅子の背に顎を乗せながら、結構だらしない格好で破顔した。
「どんな様子ですの?」
「芳しくはありません。 コーネリアの諜報組織は少数ながら有能で、部下も多くが帰りません」
「それに、そもそもコーネリア人の多くは、コーネリアが滅ぶことを望んでいない」
ミディルアが言うと、素直にジェシィが頷いた。大きくため息をつくと、椅子の背を抱きしめミディルアは言う。
「戦争で勝つコツは、自分の力と敵の力を正確に把握し、味方の力を最大限に生かし、敵の力を最低にまで削いで、民衆を味方にして戦うこと。 負けるコツは、敵を侮り、味方を侮辱し、小利を大儀に優先して、民衆を敵に回すこと」
「そのうち、兵団長は最後しか該当しませんが」
「それが問題なのですわ。 結局今回は、侵略戦争なんですから」
ミディルアは憂鬱そうに呟く。古今東西、民衆に望まれて国は滅びる。そして、民衆に愛されて滅ぶ国はほとんど無い。例外はないに等しく、帝国の滅ぼしてきた国々はほぼ全てがその条件を満たしていた。此処で言う民衆の愛とは、愛国心等という物ではなく、政策に対する支持である。これを無理に強要しようとすれば、見るも無惨な結果になることが、歴史的に証明されている。
椅子を前後に揺らすミディルアに、ジェシィは機械的に言葉を返す。その表情は相変わらず乏しく、言動は機械的だった。
「しかし、目的を達することは難しくないでしょう」
「簡単かどうかはさておいて、問題はその後ですわ。 駐留部隊は、当分の間石を投げられて過ごすことになります。 ついでに、あの閉鎖世界を良いことに、馬鹿なことを政務官がしでかしたりしたら、民衆は永久に我らを許しません」
「……そうですか。 それと、これが目的の物です。 早めにお渡しいたします」
ジェシィが差し出したレポートを受け取ると、ミディルアは曖昧に頷いた。ジェシィはそのまま出ていこうとしたが、ミディルアは慌てて制止をかける。
「あ、ちょっと待って。 少し余裕もあることですし、お話しいたしませんこと?」
「しかし、任務もありますし、体力も回復しなければいけませんので」
「ええと、でも、人間らしくなりたいっていったのは、ジェシィ少将ですわよ。 (人間)は完璧の寄せ集めからできているんじゃなくて、無駄の寄せ集めからできているのですわ」
数秒の沈黙の後、ジェシィは床に再び腰を落とした。にんまりとミディルアは微笑むと、仕事場の愚痴や、様々な世間話、それに無駄なことを話し始めた。まるで人形に語りかけているように手応えがなかったが、実は違った。流石に夜が更けてくると、ミディルアは眠気を覚え、それを見たジェシィが帰ることを申し出た。ベットに半身を埋めたミディルアに、思いがけないことにジェシィから言葉がかかった。
「軍団長」
「ふぁ……あ。 なに? 少将」
「無駄、私には有意義でした。 今後も、余裕があったらご教授願います」
「……了解。 お互い、生きて帝国に帰りましょう」
ミディルアは寝ぼけ眼であったが、そのときジェシィが笑ったような感覚を覚えた。だがそれもすぐに眠気の底に沈み、気が付いたときは朝であった。ミディルアは大きく延びをすると、もう何事もなかったかのように仕事を始めた。彼女の体にかかった無理は、決して少なくないことを承知の上で。
半月ほどすると、ついに帝国軍はコーネリア王国との国境に達した。以前の戦いの跡が生々しく残っていたが、死体は片づけられ、墓が建てられていた。墓は丁寧に整備され、一つとして苔が生えている物はなく、しかも帝国軍とコーネリア軍の墓に同じ材質が使われている。コーネリア軍が死者を鞭打つ真似をしなかった事がこれだけでも明かである。ひときわ大きな墓の側には、ゼセーイフ将軍が愛用したハルバードが突き立てられており、墓碑にはこう書かれていた。
(勇猛なる将軍此処に眠る。 見事な戦いぶり、我らも苦しみ、感銘せり)
ミディルアは率先してその墓に敬礼すると、部下達に黙祷、それに慰霊を命じた。厳粛な雰囲気が周囲を包む中、ジェシィだけが別行動をしていた。部下達を彼方此方に放ち、情報を徹底的に収集させていたのである。
ミディルアが黙祷を終え、再進撃を命じた頃、ジェシィから報告が入った。周囲に敵影無し、敵防御施設は既に撤去されている、と。
「我らに恐れを成して逃げた……等と言うことはあり得ませんな。 あのゼセーイフを手玉に取った相手です、手に唾して待ち受けていることでしょう」
シャスゼ中将の言葉に頷くと、ミディルアは隙のない布陣で進行した。まず精鋭が要所要所を確保し、続いて本隊が狭い渓谷を素早く渡っていく。やがて、ゼセーイフが膨大な犠牲を払って確保した戦略拠点は、無傷のまま帝国軍の手に再奪取された。
「アシムト准将」
「はっ!」
ジェシィと同じく敗戦を生き残り、一階級昇進した男が呼ばれて現れ、跪いた。彼は現在四個連隊を指揮する旅団長であり、任された兵力は二千に達する。所属としては、シャスゼの麾下になる。第四師団は現在再編成が進んでいるが、指揮官は旧第四師団とは別の者達が当てられる予定であった。
「貴方は此処に陣取り、周囲を密に警戒すること。 警備の他に、間道の一つ一つまで調べ上げ、奇襲を警戒してください」
「了解しました!」
敗戦時の冷静な対応が買われた元連隊長は、若干緊張した面もちで頷いた。此処は文字通り天然の砦であり、また撤退時には生命線にもなる。戦いが長期になれば、補給線ともなるのである。如何に高い評価を自分が与えられたかアシムトはすぐに悟り、襟を心中にてただしたのである。
アシムトは地位に従って力を伸ばすタイプの男であり、確実な成長を見せていた。ミディルアとしては前線に投入してみたい人材でもあったのだが、やはり手堅い決断を下したかったのであろう。
シャスゼの率いる師団は戦いの前に三分の一を失うことになったが、これは仕方がない事だった。敵地にて兵力を分散してはいけないというのは戦略の鉄則の一つだが、同時に補給線を確保するのも戦略の鉄則であるから、仕方のないことであった。また、ミディルアはシャスゼの手腕を期待し、その部隊から兵力を裂いたという事情もあったのである。それに加えて、この位置であれば例え奇襲を受けた所で一息に蹴散らされることはあり得ず、本隊まで救援の使者を飛ばすことも、籠城することも、それに最悪の場合帝国に撤退することも用意なのである。
様々な戦略的思惑を絡めながら、帝国軍はゼセーイフが敗北した森へと入り込んだ。既に情報部隊はフル活動しており、またレンジャー部隊も周囲に縦横な展開をしていた。本隊は彼らに守られ、隙無く森の中を進軍していった。奇襲を誰もが警戒したが、結局それは最後まで無かった。
「森の出口まで、敵影無し」
その報告を陣の中央部でミディルアは聞き、今まで判明している情報でできる限り精密にくみ上げたコーネリアの地図を見やった。彼女は頷くと、地図の一点を指し示した。
「取り合えず、一端この位置に陣を張りますわ」
ミディルアが指し示したのは、森より少し進んだ地点だった。大軍が陣を張るには申し分ない広さで、周囲へ無数の連絡路が延びている。この地点で更に情報を集め、敵との戦いに万全を尽くすのが一つ、敵に圧倒的な大軍の姿を見せつけて、心理的に圧迫する目的が一つ、といった所である。堅固な防護陣を築き始める帝国兵達を横目に見ながら、ミディルアはむっつりと押し黙ったカーネルカ中将に語りかけた。
「中将、この情況をどう見ます?」
「……敵はおそらく、我が軍に対してゲリラ戦を仕掛けてくるつもりでしょう。 首都に無理矢理進駐しても、制圧したとは言えないかと。 敵を集めて叩き潰す工夫が必要です」
「具体的な方策は?」
「敵の中枢を把握し、全軍をもってそれを圧迫するしかないかと。 多少不利な状況に身を置くのも、やむを得ないことかと思われます」
ミディルアは頷き、他の将官達にも順次意見を聞いた。ほぼ全員が、カーネルカと同じ見解を示した。
「根比べですわね。 恐らく勝負にも、敵の発見も、時間がかかりますわ」
帝国を代表する名将は、腕組みすると呟いた。
意外なことに、ミディルアの予言は半分はずれた。三日後、敵軍の情報が入り始め、その存在、そして集結がほぼ確実となったのである。ミディルアは自ら五千ほどの兵を率い、その地方へ威力偵察を行った。結果、情報が確実であることが分かり、陣地にウォーレン中将を残し、残りの主力でそちらへ進撃した。ウォーレンも、いざとなったら出撃がいつでもでき、敵の後背に回り込む姿勢を崩さない。
帝国軍がたどり着いた先は、広大な湿地帯であった。湿地帯の中には浮島や平原がぽつぽつとあり、その殆どに歩いて、或いは船で渡ることが可能な様子である。敵の抵抗を粉砕すれば。その殆どに敵の陣があり、数は帝国軍陣地からの眺めでは計ることができなかった。
「この辺りは、地元の住民にフェデット沼地と呼ばれている模様です。 複雑な地形で、地元の者でさえなかなか中には入りたがらぬとか」
「これはまた、随分戦いにくい所に陣取りましたわね……」
この地点を無視して首都に進撃すると背後を突かれること、簡単に敵へ攻撃を行えないこと、その二つを悟ってミディルアは苦笑した。住民達も帝国軍には非協力的で、金銭にも物資にも関心が薄かった。それでも協力的な住民を捜すことをミディルアは部下達に命じ、敵陣の配置を見やる。
「数は……ここから見た所では、一万前後」
「馬鹿な、ありえません。 そんな兵力、この王国の国力では養えるはずがない」
「当然ですわ。 ま、殆どの陣は擬態でしょう。 でも、どの陣が擬態なのか、なかなか見破るのが難しいのが事実ですわね」
参謀の言葉に、自分の見解を付け加えると、ミディルアは敵陣を遠めがねを使って見やった。いずれも偽の陣とは思えないほど良く作られており、堅固そうである。しかも地形が複雑な上に霧も出ていて、無理に入り込めば魚の餌になることが一目で分かる。
「さて、どう攻めたものか」
ミディルアの目に、形容しがたい色が灯った。彼女も所詮戦に生きる者であり、目の前の情況が楽しくて仕方がなかったのである。やがて兵団長は指を鳴らし、部下に向かってあるものを準備するように命じた。
帝国を代表する名将の一人と、コーネリア軍が激突するとき。刻一刻とそれは近づきつつあり、コーネリア全土を炎に包もうとしていた。様々な人々の思惑が絡み合い、互いを燃やしあう血の祝宴は、今政に始まろうとしていたのであった。
(続)
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