炎のロンド

 

序、愚かなる(文明人)

 

帝国軍の名将ミディルアの前に、皇国軍三甲将が一敗地にまみれた、ル・ライラ平原。そこは再び、仁義無き戦の場と化していた。戦闘を行っているのは、帝国軍と、南部諸国連合軍の一つシュムールゼール王国軍であった。

帝国軍の兵力はおよそ三万、王国軍の兵力はおよそ四万五千。兵力だけを見れば、王国軍は帝国軍を遙かに凌いでいたが、指揮官の力量差は、まるで大人と赤子であった。帝国軍の指揮を執っているのは、ミディルア将軍に匹敵する戦歴の持ち主、ゴルヴィス大将である。そしてその用兵は、まるで王国軍を寄せ付けなかった。意地になって様々な戦術を駆使し、敵陣を攻め崩そうとする王国軍の攻撃が、海綿に水をしみこませるかのように、吸収されてしまう。そして、気づいてみれば、いつのまにか半身不随に等しい打撃を受けてしまっているのだ。徐々に王国軍は不利になりつつあり、やがて自陣の中央にいたゴルヴィスが、ゆっくりと指揮杖を横に振った。同時に伝令が戦場を駆け、声の通る何人かが叫んだ。

「三時方向に味方およそ八万、急速接近中! もうすぐ援軍が来るぞ!」

帝国軍兵士達が喚声を上げ、慌てて振り向く王国軍兵士達は、接近する圧倒的な砂煙を見た。彼らの心理は、自陣同様、脆くも崩れ、逃げ腰になっていった。そして、帝国軍は、それを見て、全面攻撃に移ったのである。形勢は決まり、王国軍は脆くも駆け散らされ、彼方此方で叩き潰されていった。

砂煙は、実際には一万ほどの騎馬隊が鞍の両脇に枝を取り付け、上げた物であった。せせこましい策略であったが、その効果は絶大であり、王国軍の心理を徹底的なまでに叩きのめした。数時間後、第二次ル・ライラ平原会戦は終了した。王国軍は、六千以上もの死者を出し、四千以上の捕虜を出す大敗を喫した。王国軍は見栄も外聞もなく、無様にニーナ大将軍の陣に逃げ込んだ。対し、帝国軍の戦死者は、千二百に達しなかった。第一次同様、ル・ライラ平原での戦いは、またしても帝国軍の圧勝に終わったのだった。

 

そもそも今回の戦いは、南部諸国連合内の不和と、帝国に対する認識の違いが露呈した物であった。連合内でも、シュムールゼールは最南端に位置する国で、帝国とは最も地理的に遠かった。同盟に従い、聖皇国の招きに応じて、兵力を集めて参戦したものの、帝国の力も知らず、恐怖を身をもって味わっていなかった同国は、敵を完全に舐めきっていたのだ。まして、王国兵は勇猛果敢なことで知られ、北部の民に対する差別も最も根強かったのである。

王国軍を率いてきたのは、国王ルテルサ自身であった。自身勇将と名高い彼は最初から帝国軍を見下しており、その兵力と陣容を見てあざ笑った。帝国軍の陣は理にかなった何の問題もない物だったのだが、王国内で流布している(最新鋭の軍学書)に載っている物ではなかったため、ルテルサの目には(兵学を知らぬ蛮族の愚劣な陣)としか映らなかったのである。そして帝国軍を完全に格下と見下したルテルサは、憮然とする大将軍ニーナに、作戦案を持ちかけたのであった。それは大まかに言うと、帝国内の戦略拠点を一つ制圧し、敵の集結を待たずして左右から撃破する、という物であった。

戦略構想としては、敵より多数の兵力を有しているのだから、特に問題はなかった。しかしニーナは帝国軍の陣内に、皇帝、帝国を代表する知将ハイマー、それに現在四名の兵団長が到着していることを知っていた。その上、その中には、以前三割り増しの皇国軍を一蹴したミディルアに匹敵する指揮能力の持ち主であるゴルヴィスがいることも掴んでいた。そして、ルテルサ以外にも、敵を舐めきっている連合諸国の将が多いことを痛感している彼女は、しばしの沈黙の後、ルテルサの作戦案を認めた。もう少し、痛い目にあっておいた方がよいと思ったからである。そしてその考えは、完全に予想通りとなったのであった。行軍中に補足された王国軍は、完膚無きまでに粉砕されたのである。

 

叩きのめされたシュムールゼール王国軍は、無惨な姿で陣内に帰還してきた。兵力の二割強を失い、残りも戦闘能力を喪失している状態であった。中でも、ルテルサは死人のように蒼白な顔をして、部下達に支えられていた。彼は自分の信じる(最新鋭の軍学書)が何の役にも立たなかったことを誰よりも良く悟っており、意気消沈していたのである。それを見て、連合諸国の将達はようやく敵の恐ろしさを認識し、ようやく敵とまともに戦える態勢が連合軍内で整ったのだった。連合は二度の戦いで大きな損害を出したが、このまま敵と戦えば一息に駆け散らされることが明白であったから、得た物は失った物以上に大きかった。

結果的に、ニーナは多くの味方を死なせた。だが、致命的な損害は避けた。極めて冷酷な判断ではあったが、味方を効率よく死なせたという点で、戦略的には極めて高い評価を与えることができるだろう。こういった非情がまかり通り、正しい判断となる。それが戦場なのであった。

 

帝国軍は今回の局地戦での勝利を、特に価値ある物とは捕らえなかった。両勢力の主力部隊が集結しつつある以上、今後局地戦は幾らでも起こるからである。それに何より、今回の戦いの結果、ニーナが連合軍をまとめ上げることに成功したという報告も入っており、喜んでばかりいられないと言う事情もあった。

現在、帝国軍はおよそ二十二万、南部諸国連合軍はおよそ三十万の兵が集結している。今回の局地戦で連合軍はおよそ一万の兵力を喪失したが、その程度で兵力差は埋まらない。帝国軍は、当初の戦略に基づいてどっしり構えて情況を待つ姿勢を崩しておらず、また二度の手痛い敗北を被った連合側も容易に動こうとはしなかった。

帝国軍にも、連合軍にも、続々と援軍が到着している。帝国側に限れば、各地の駐屯兵の他、北部地域で転戦していた部隊や、重武装の警備隊も作戦に参加していた。今回ミディルアは作戦に参加しないが、それは連合側には悟られてはおらず、またカモフラージュのために本陣には彼女の部隊の旗も立てられ、様々な情報工作も行われていた。

こと寄せの所在地を掴んでいるのは、現在、帝国最上層部と、コーネリア王国上層部だけであろう。だが、情報とは水のような物で、様々に形を変えて何処へでも行くし、手の間からは容赦なく漏れていく。最初、皇帝の示したコーネリア王国攻略案はあまり将軍達には歓迎されなかったが、連合の手にこと寄せが渡った場合のことを示唆されると、ハイマーもエイフェンも折れざるを得なかった。現在、南部方面防衛軍の五個師団がコーネリア王国攻略へ向け秘密裏に動いており、その総兵力は三万に迫る。

様々に動き回る事態の中、帝国軍に凶報が届いた。コーネリア王国へ向かった先発部隊、第七師団の敗報である。威力偵察を命じていただけなのに、兵のおよそ半数を喪失、しかも残りも戦意を喪失してしまっているというのだ。南部方面軍では直ちに会議が開かれ、それにはハイマンドも出席した。

事態は加速の度を強め、今や火が出んばかりの勢いであった。それが破滅へと向かっているのか、未来へと向かっているのか、当事者にも分からないのが現状であった。

 

1,深遠なる小国

 

「では、何故第四師団が破れたかを聞かせてもらおうか」

帝国南部方面防衛軍、コーネリア王国攻略部隊本陣で、シャスゼ中将が言葉を発した。円卓の最上位で腕を組んでいるのはハイマンド、その右をミディルアが、左を彼が固めていた。他にウォーレンやトンプソンと言った師団長級の司令官は、無言のまま事態を見守っている。

彼らの視線の先には、ジェシィ少将が顔色も変えずに立っていた。既に皆の手にはレポートが配られており、それを再度確認することになるが、これは必要な無駄であった。まず第一に、失敗の原因を当事者の口から直接聞くことができるし、当事者も嘘を付きにくくなる。第二に、これから戦に望む者達が、敗戦の報を直接言葉で聞くことで、文字で書かれた以上に気を引き締めることができる。これは、戦場に臨む前哨戦と言っても良い。そして、第三に、敗者が惨めさを味わうことで、次の戦いに向けて奮起する材料にもなるのだ。

無論これらの長所は、人によっては短所になることもあるが、荒くれ強者曲者揃いの帝国軍将官達には、プラスになることの方が遙かに多かった。帝国軍の将官には、血筋や金銭と言った実力外のことで成り上がった者は一人もおらず、全員が地位にふさわしい力と経歴の持ち主であった。そんな帝国軍の中でも若手で有能な事で知られるジェシィは、普段は敗者を見下ろす場所にいたが、今日は立場が逆だった。しかし、いつも通りの機械的な無表情で、まったく恐れたり恥じ入ったりした様子はなかったが。

「敵には相当に熟練した司令官がいます。 我が軍は地図上のこの地点から、コーネリアに侵入しようとしましたが、敵はこの位置に堅固な陣を敷き、我が軍を迎え撃ちました」

「ふむ、確かにこれはよい位置だな。 しかも布陣に隙がない。 それで、その後の経過は?」

「ゼセーイフ将軍は、味方を矢継ぎ早に投入、敵を消耗させ、突破に成功しました。 しかし敵は、我が軍に鋭い逆撃を幾度も行い、反撃を誘い、巧妙に森の中へと引きずり込んでいきました」

ジェシィの説明はよどみが無く、また客観的でわかりやすい。皆の前で、彼女の指は地図上を滑り、コーネリア王国内で確認される樹海の上で止まった。

「おそらく、この地点だと推測されます。 というのも、我らは森の中を右往左往し、皆の情報が錯綜しましたので。 ともあれ、我らが完全に現在位置を見失った頃、敵が計算し尽くしたとしか思えないタイミングで本格的に反撃を開始しました。 その頃には、我が軍は前後にのびきり、敵の奇襲に耐える陣の厚さを維持していませんでした。 我が軍は支離滅裂に分断され、壊滅しました」

「なるほど。 敵を、自分のかって知ったる土地に引きずり込み、掌の上で壊滅させる。 絵に描いたような対外迎撃戦の戦略ですわね。 しかも、戦術レベルで、歴戦の指揮官たるゼセーイフを完全にもてあそびながら実行する。 司令官はただ者ではありませんわ」

「……心当たりはあるか? それほどの手腕を持つ武人、ただ者ではあるまい。 在野の人材や、我が国にあだなす者で、それほどの力を持つ武人と言えば……」

最後の口を開いたハイマンドが周囲を見回すと、シャスゼが小さく息を吐いた。そして腕を組むと、しばしの間考え込む。

「最近小耳に挟んだ噂では、コーネリアにアッセア将軍が逃げ込んだとか。 他に考えられる事とすれば、元々コーネリアに優れた未知の武人がいた、とかでしょうかな。 正直な話、我が国にあだなすゲリラ共には、大した人材はおりませぬ。 また、南部諸国連合の武人共は、ニーナ将軍以外は恐れるに足らぬ小物ばかり。 それら有象無象の輩ばらが、視野は狭くとも熟練した武人であったゼセーイフ将軍と、五分に戦えましょうかな」

「となると、アッセアか。 メルフィラレルの狼と呼ばれる手腕は、未だ健在と言うことだな。 奴に我が軍は幾度も苦しめられたが、その歴史がまた再現されるのか」

ウォーレンが大まじめに頷き、周囲の者達が半ば忌々しげに賛同した。だが、ジェシィはその言葉を否定した。皆が怪訝そうな視線を向ける中、彼女は淡々と自説を紡ぐ。

「おそらく、敵はそれだけではないかと」

「うむ? というと?」

「敵の防衛陣地は頑強で、兵士達の動き、ねばり強い防御、いずれも並々ならぬものでした。 更に、森の中での計算しつくされた攻撃は、それにも劣りませんでした。 ……おそらく、我らを引きずり込んだ者、森の中で指揮を執った者、それぞれ別人でしょう」

その言葉を聞くと、ミディルアが考え込んだ。彼女は本質的に戦略家であり、また情報収集を欠かさず、研究も欠かさない勉強家であった。彼女は、アッセアは戦略家としても優れてはいるが、どちらかと言えば最前線で与えられた任務を突発的に起こる様々な難事を下しながら遂行する本当の意味での(将軍)に向いた人材であると知っていた。おそらく、この緻密な作戦案は、アッセアが建てたものではないだろうと、ミディルアは推測した。

「なるほど、何にしても……」

ミディルアが立ち上がり、皆がそちらへ視線を集中する。最年少の兵団長であり、帝国を代表する戦上手でもある彼女は、その眼差しの奥に鋭い光を湛えた。

「分かっているのは、コーネリアが予想外に手強い、と言うこと、それをうち破らねば攻略はならぬ、という事ですわ」

「うむ、その通りだ。 ……例のこともある、万全の注意を払え、兵団長」

「はっ、了解しましたわ!」

ミディルアの敬礼に合わせ、皆が一斉に敬礼した。そして、このとき、本当の意味で第一次コーネリア王国攻略戦は集結した。そして、第二次コーネリア攻略戦が始まったのである。

 

ミディルアがこと寄せのことを知らされたのは、意外にも最近のことである。彼女は酒を飲むと子供に戻ってしまうため、重要事は事前まで知らされないことが多かったのだ。当然その際は、口は綿よりも軽くなってしまう。ミディルアにとって、酒は愛すべき友であると同時に鬼門であり、出世を阻む凶でもあったのだ。

だが、どうひいき目に見ても、長所を欠点が遙か上回る事は疑いがあるまい。それでいながら、ミディルアは酒を止めようとはしなかった。彼女は酒癖が悪い事を自覚してはいたが、それがほぼ唯一のストレス発散手段であることも知っていたのだ。もともと、膨大な集中力を必要とする実戦指揮や、様々な戦略を与えられた情報の内から練る作業は、相当なストレスを産むのである。ミディルアにとって、酒はそれを排除する貴重な手段であり、それがなければまともな指揮能力と判断力を喪失してしまうのだ。それである以上、出世の枷になる酒と同居するのがミディルアの課題であり、今後もそれは人生の命題となっていくことであろう。

何にしても、今後情報を漏らす可能性がある以上、はやめにこと寄せを確保する必要がある。ハイマンドは特にそう言う指示を出したわけではなかったが、ミディルアは自分の欠点を嫌と言うほど把握していた。それが彼女を焦らせたのは、否めない事実であろう。今回の攻略戦で、もしこと寄せを確保出来なかった場合、世界をひっくり返しうる最悪の兵器が野放しになるのだ。帝国によってもたらされる未来の青図をこれ以上もなく素晴らしく感じているミディルアに、それは悪夢以外の何者でもなかった。一見のほほんとしながらも、ミディルアの気合いの入れ込み用はなかなかに半端ではなかった。それを知る将官は今のところいなかったが、無意識的に皆の意識が高まっていたのは事実であった。

現在、コーネリアにこと寄せが落ち着いた経緯は既に調べが付いており、それはミディルアも知っている。それから推測するに、おそらくコーネリアは防衛にこと寄せを用いない、用いたとしても致命的な召喚魔法は行使しない、と結論は出ている。それは複数人物による一致した見解であり、充分に説得力のあるものであった。今回、ミディルアが相手にするのは人間である。少なくともジェシィとゼセーイフが戦ったのは人間であり、今後も人外が召喚される可能性は低い。だが、相手が手強いことは既に判明しており、気を抜くことはできない。また、長期戦になった場合、恐怖に駆られた相手がこと寄せの無為な使用を行う可能性もゼロとは言えず、戦いは短期で決着をつける必要もあった。ミディルアに与えられた選択肢は少なく、絶対的に有利な状況などとは、到底言えないのが現実であった。

ともあれ、コーネリア王国に向け、帝国南部方面防衛軍は動き出した。第七師団は当分再建を行わねばならず、今回は兵力の内に数えることができない。だがジェシィは、コーネリア王国での戦闘経験者として、当然従軍することとなった。第七師団を除いた四個師団、兵力二万四千が、巨大な蟻の群となって、小国を攻略するために移動していた。

同兵団は、一部を除いて特に重武装の部隊ではない。主力は歩兵であるが、例外がある。それは、カーネルカ中将の率いる第二十一師団であった。

第二十一師団はル・ライラ平原会戦には参戦しなかったが、その高い戦闘能力には定評がある部隊である。主力は装甲騎兵で、兵数は五千五百。兵力の六割強を、強力な装甲騎兵部隊が占めていた。重装騎兵の集団突進戦法は、実際に凄まじい破壊力を誇り、同数程度の歩兵であれば鎧袖一触に蹴散らす事が可能である。ジェシィの証言から、コーネリア軍は歩兵が主力である事が分かっているから、投入地点次第では戦局を決める存在になるであろう。無論万能の存在ではないのだが、一撃必殺の破壊力はやはり魅力的である。

また、少ないながらも多角的に収集した情報からも、敵が大軍を動員出来ないことは既に判明している。である以上、敵の被害を大きくする策を意図的にとり続け、最終的には弱体化した所を一気に蹴散らす方策が有効であろう。それには、とどめを刺すべき騎兵団と、良く統制された部隊の存在が不可欠である。それらからも、戦略は奇兵ではなく、隙を見せない正攻法で攻めるのが最上となる。また、補給路を確保することも重要であり、その任務は最重要となるであろう。

様々な考えを巡らせながら、ミディルアはコーネリアの方を見た。まだ件の国は、遠き空の下である。小国であるが、だが決して侮れない、深遠なる小国は、未だ遠かった。

 

2,快楽と友との狭間で

 

帝国軍撃退さる、当方被害軽微。その報告が届いてからと言うもの、コーネリア王国首都は祭りのような喧噪に包まれていた。女王が勇敢に最前線で戦い、敵将の一人を倒したという報告は大げさに伝えられ、民衆の喜びもピークに達していた。だが、百名以上の死者を出したことは事実であり、更に大規模な侵攻が近いうちに間違いなくあることも伝わっていたから、心の底から喜べないのも事実であった。

どこか空虚な祭り騒ぎの中、槍を持った藍はぼんやりと町を歩いていた。先ほどまでティータにまとわりつかれていて、疲れ果てていたのである。別に、肉体的な疲労など感じてはいない。問題なのは、精神的な疲労であった。

藍はこの間の一件以来、またしても(食欲)を押さえるのが困難になりつつあり、ティータを切り刻んで内蔵を引っ張り出そうという誘惑に狩られる自分を押さえるのに苦労していたのである。典型的な学者タイプであるティータは、魔法のことはよく分かるが、それ以外にはとんと疎く、藍から危険をまったく感じていないようであり、さながら子犬のようにまとわりついていた。それはまさに、空腹のライオンに、子犬がまとわりついているのと同じであっただろう。だが、ライオンの方は必死に自制心を働かせ、美味しい肉であると同時に大事な友達でもある子犬を食べずに来た。だが、それは相当なストレスを藍の心へと投下したのである。そして、その努力を評価してくれる存在など、誰一人いなかった。

穂先を布で包んだ槍を抱え込んだまま、藍は木陰に座り込んで、二つの月が光る夜空を見上げた。彼女の悩みは極めて特殊な悩みであり、一般人に相談はできないし、した所で理解もされない。理解してくれる者はいるにはいるが、同時に苦手な存在でもあったので、積極的にその側へ行こうとも思えないのが現実であった。しかし、このままでは心にひっかかった重りが、近いうちに平常心を破砕することも確かに思われたので、藍はため息をついて根本的治療を施すことにした。即ち、世界で唯一彼女と同じ悩みを共有出来る存在、コーラル=ロフェレスに相談することである。

そう思い立った藍は腰を上げかけ、それで停止した。戦に勝利し、浮かれる陣の中でコーラルに言われたことを思い出したのだ。目を細めた藍は、再び木陰に座り直した。根の一つが丁度いい形に張り出していて、其処は座るのにとても都合が良かった。

「あの時の陛下の目、私は忘れない。 凄く強くて、決意に満ちていて、誰にも負けない意志を秘めてた。 でも、それと同じ目をした敵を、私はためらいもなく斬ることができたんだよね……」

斬る瞬間の、手の感触。それを思い出し、藍は背筋に快楽の蜜水が走るのを感じた。だが次の瞬間、爆裂した殺気におびえたか、周囲の鳥が一斉に飛び立ち、子犬が悲鳴を上げて逃げていった。それが気を削いだようで、藍はもう一つ嘆息し、静かに目を閉じた。

「……友達を私は守りたい。 こと寄せなんか関係ない。 年の差もなく、友達になってくれたあの人達を、私は守りたい。 でも……切り刻んでもみたい。 ……はぁ。 あんびばれんつって、こういうのを言うのかな」

ぶつぶつと呟きながら、藍は掌を見つめた。遠くで上がる花火が、時々其処へ光を落とす。周囲を通るかかる者はいたが、誰一人藍には関心を向けなかった。藍は、心の中のもやもやを確認するように、一語一語を対外に投げ捨てた。

「……武器ってのは、結局どう言葉を飾っても、利己的に敵を傷つけるものでしかない。 武力だってそう。 剣道がお座敷剣法って呼ばれるのは、本質であるそれを忘れたから。 真に強いのは、心の強い者じゃなくて、全ての能力のバランスが優れた者。 それには、頭脳や運勢、相手に対する遠慮のなさや、殺意だって含まれる。 最強の使い手は、才能や努力以上に、結局戦いと、殺すことが大好きな存在。 ……私は、殺すことが大好き。 殺して、内蔵を引っ張り出して、肉片を引きずり出して、骨を砕いて、血に酔いたい。 相手が強ければ強いほど楽しい……自分との関係が強ければ強いほど……斬ったら楽しそう」

小さな枝を拾い上げると、藍は無造作にそれを片手でへし折った。その音が奇妙に心地よくて、藍はうっとりと目を細めた。そして、目の奥に闇を湛え、静かに呟いた。

「でも、ティータやアイサさんを斬ったら、私後悔するだろうな……」

その言葉には、誰一人応えなかった。しばしの沈黙が流れすぎ、やがて藍は埃を払って立ち上がった。個々で考えたことは決して無駄にはならないと思ったし、何より寒くなってきたからである。

 

暫く祭りの町をぶらついた後、藍は城へと戻っていった。祭りと言っても、今晩だけの物であり、また予算も少ないらしく規模もそれほどではない。それを盛り上げているのは、住民達のどこか投げやりな愉しみ方であろう。

それらを横目で見ながら、藍は思考を進めていた。それでいて、その歩調に乱れはなく、他人にぶつかるようなこともない。重心の移動や無駄のない動きは武術の達人中の達人が故の者であり、見る者によっては感嘆を隠せなかったことであろう。

「壊したいけど守りたい。 守りたいけど壊したい。 複雑な気分だな……。 しばらくは、カカシか何かでストレス発散しないといけないけど……」

近くを蜂が飛んでいた。藍は槍を最小限振り、それを殆ど瞬間的に叩き落とした。周囲を歩く首都の住人は、その絶技に誰一人気づかなかった。速度と手並みが尋常でなかったのだから、それも致し方がなかったかもしれない。

「……そんな機会が来ないといいな……もし隙があったら、私が我慢出来ないかも知れない」

心の中で肩をすくめ、藍は歩調を早める。王城は、もうすぐ其処であった。周囲の通行人は減り始め、喧噪の音が遠くなりつつある。入り口で門番に通行証を示すと、自分に与えられている部屋へと藍は直行した。普段なら、荷物をおいた後庭で訓練をする所だが、今日はそんな気分になれなかったのである。

ベットの上で半身を起こして、藍は窓に頬杖をつき、遠くの町を見やった。あの町には、振る舞い料理を作るためにかり出されたアイサや、もう疲れ切って家で寝ているティータがいる。彼女らが友としてとても愛おしく、同時に切り刻んでみたくて仕方のない相手でもあった。遠くにある、だが近くの世界。小さく欠伸をすると、藍は布団に潜り込み、久しぶりに(幸村)に語りかけた。

「ねえ、起きてる?」

答えなどあるはずもない。だが、答えが返ってくるのを、藍は未だに期待していた。実際に、彼女の中に(幸村)がいるのは確かであり、数々の以上性癖や桁が外れた戦闘力がそれによってもたらされたのも確実だったのだから。

「私さ、どうしたらいいんだろうね」

十五秒ほど待った後、藍は嘆息した。やはり、返事はなかったからである。天井を見つめたまま、藍は呟き続ける。

「国に帰った後……この感情を、押さえる術はあるのかな。 それとも、国には帰らない方がいいのかな……」

自分の口から、初めてその言葉が出たことに気づいて、藍は内心驚いていた。自分でも意図しない言葉だったからであり、真剣に藍は考え込んだ。もう、約束の時間は迫っているのである。家康の手腕で、後半年でこの国と、大陸自体に安定の時代が来たとしよう。そうしたら、帰った方がよいだろうと藍は考えていた。もし来なければ、彼女としては是非帰る日を延ばしたい所であったが。

「……」

無言で、藍は何故歴史が好きになったのか、真田幸村が好きになったのか思い出していた。歴史が好きになったきっかけは思い出せないが、幸村に心惹かれた理由は明確に思い出せる。戦国乱世の統一という偉業を成し遂げた男に戦いを挑み、それを後一歩まで追いつめた(という逸話が残っている)からである。藍も平均的日本人と同じ(判官贔屓)であり、終いには年頃の女の子らしい妄想もふんだんに抱くようになっていった。それは健康的な女性である、良い証拠であっただろう。結局の所、藍はミーハーであり、幸村を格好良いと思ったから好きになったのだ。

だが、実際に家康に会ってみて、藍は複雑な気持ちを味わっている。幸村への思いは揺るがないが、同時に家康のことをバカにもしなくなったのである。同時に、彼女の中の世界が広がり始めた。近視眼的な世界が豊かに広がり、現在では世界を客観的に見ると言うことすら覚えた。そして、その客観的視線からすると、帰るべきか、帰らないべきかは、非情に微妙な物となっていたのである。

「……母さんか、友達か。 殺しのある世界か、殺しのない世界か」

前者のいずれも、藍は好きであった。ただし、後者に関しては、好き嫌いが分かれた。今の藍にとって、殺しのない世界など、色彩のない油絵と同じである。一度覚えた圧倒的なまでの快楽は、やはり手放すには惜しいことであった。しかも殺しのある世界であれば、それを得るため、殺戮の腕を嬉々として振るうことが許されるのである。いずれにしても、此処がよいと断言出来る場所はなく、悩みは螺旋を描きながら彼女の心を駆けめぐった。

やがて、藍は自分でも気づかない内に、眠りに落ちていた。結局、彼女の中で、結論は出なかったのであった。

 

翌朝、藍は会議に呼ばれた。会議と言っても形だけのもので、実際は家康による政治講義であった。イレイムは日々様々な事柄の決断をするのと並行して、家康の講義を熱心に受けていた。それには恐らく、家康の(契約期間)が近いことも原因としてあるのであろう。

藍が席に着くと、講義は始まった。頬杖を付く藍と違い、イレイムは真剣そのもので、表情にも笑顔や緩みはない。政治を本格的に行えば行うほど、その重要性を身にしみて分かってきた彼女は、何よりも真面目に政治を学ぶことに取り組んでいるのであろう。

「世の中には様々に国がある。 武士が起こしたもの、民が起こしたもの、坊主が起こしたもの。 だが、それらは根元的な所でつながっておる。 イレイム殿は、そのつながりとはなんだと思うか?」

「ええと、支配階層が、民に権力を預けられているという点でしょうか」

「ふむ、確かにそうだな。 では、何故権力を預けられるのだ?」

家康の言葉に、イレイムは考え込んだ。その沈黙は数分にも及んだが、結局藍は降参と言った感じで、無難な答えを返した。

「ええと……支配者を信頼しているから、でしょうか」

「違うな。 力を一点に、或いは幾つかの点に集めた方が、まつりごとの効率がよいからだ」

「と、いいますと?」

「国家とは、それが内包する全ての社会の道しるべであり、皮であり、背骨だ。 それは道具であり、それ以上の物でも以下でもない。 尊い物でも醜い物でもなく、ただ単純に(国家)なのだ。 故に、まつりごとの理想はおそらく、独立して物を考えることができる全ての者が参加し、公平な方法でそれを集積し、少数の意志もくみ取りながら行うものであろう。 だが事実を見ると、世には差別を受ける者、力無き者、知識無き者、様々におる。 考え方も感じ方も皆異なるし、或いは一人一人が高度な社会的知識と識見を身につければ話は違ってくるだろうが、そうもいかん。 赤子同然の者も社会には多く、社会を運営するのは、それらの者には無理だ。 人という生き物は完全ではなく、それが形作る社会には矛盾が多く含まれている。 また、人は本来身勝手な生き物だ。 手を抜けることが分かれば際限なく手を抜くし、寝て暮らせるのなら仕事などせぬ。 働かずに奪って暮らせるのなら、弱者を痛めつけ平然と奪って暮らす。 それが人だ。 まあ、全てがそうではないが、残念ながら多くの、ほぼ全ての人間はそうだ。 故に、現実をみすえれば、ある程度の力を持って社会をまとめて行くことが絶対条件として必要になる。 たとえば、民によって運営される国というものもあるが、それも結局は民の代表と呼ばれる少数者に権力を集めて、国を運営するという方式を採っているのだ」

家康の口調は淡々としていたが、極めて論理的なものであった。家康は実際に途方もない実績を上げている男であり、藍の故郷にいた無能な政治家達とは識見も能力も比較にならない。その言葉には哲学的な要素すら含まれており、政治に興味のない藍も楽しく聞くことができた。

「それである以上、国家における最強の力は、(事実上其処にある国家)の、上層部そのものでなければならぬ。 何も力とは、兵である必要はない。 何も個人に集めねばならぬ訳ではない。 だが、そうでなければ、社会は背骨を失い、空中分解して崩壊することになろう。 一方で、国家の上層に力を集めすぎれば、今度は暴走を止める者がいなくなる。 故に、国家を作る上での命題は、二つとなる。 一つは今まで何度も述べているように、根元的な安定性だ。 そして今ひとつは、(力)を如何に集め、如何に振り分けるか、だ。 いずれにしても、支配者は自らの仕事をわきまえ、力の意味をわきまえねばならぬ」

それだけ言い終えると、家康は幾つかの例を丁寧に示していった。そして、それによって自らの言葉を立証すると、次に続けた。

「国家の構成とは、結局の所、(力を如何に振り分けるか)に尽きるのだ。 例えば力を極点に集中すれば、絶大な力を振るって様々な難事に強力に当たることができる。 戦の多い時、疫病に見舞われた時、凶作に見舞われた時、或いは社会が混乱し建て直しが必要な時は、力を一点に集めた方が良いであろうな。 ただし、そう言った場合は、失敗すると取り返しの付かない事態をも招く。 心せよ。 そして、平和な時、社会の地盤が固まり安定したときは、権力を皆に分けることを考えよ。 さすれば、一人の独走を押さえることができ、致命的な災厄や不満の爆発も防ぐことができよう。 そして、何より大事なことになるが」

家康は一度言葉を切った。そして真剣な眼差しのイレイムと、頬杖を付いて講義を聴く藍に向け、静かに言った。

「支配者とは、仮のものに過ぎないこと。 結局潜在的に最大の力を持っているのは民であり、自分の振るっている物は民の力である事を心せよ。 それを支配者が忘れたとき、国は滅ぶ」

「はい」

「民は純粋な力だ。 様々な色に簡単に染まり、傾く。 そして、社会には、支配者を選ぶことさえできない者達も多く存在している。 故に、社会とは収束した力によって立つ。 そして、力は、それを持たぬ者にも手をさしのべつつ、全体を動かして行かねばならぬ。 心せよ、社会を背負って立つのはまず力なのだ。 人が愚かである以上、力がまず優先せねばならない。 一見汚くも見えるが、事実誰が力無き支配者に従おうか。 支配者に力が無い社会を考えてみるが良い。 強者は弱者から力で奪い、誰もそれを防ぐことができない。 弱者は即ち虐げられる者となり、強者は如何なる事も行うことができる。 社会は即ち、獣満ちる森へと落ちることであろう。 そしてそれは、滅び行く国の姿そのものなのだ。 力のない世界とは、すなわち力のない者がこれ以上もないほど暮らしにくい、闇の世界だと心得よ。 なぜなら、人という生き物の本質こそが其処にあるからだ」

言葉を切ると、家康は彼には珍しく神妙な面もちで言った。

「儂の故郷が、まさにそうであった。 支配者が力をなくしたが故、人が皆欲望にかられて好きなことをし始め、全ての土地が戦乱に見舞われたのだ。 人間の欲望の前に、個々の良心などは全くの無力であった。 そんな混乱した社会をまとめていったのは、純粋なる力だ。 もし人が良心に生き、契約によって生きる生き物であれば、この様な事態は起こりえぬ。 だからこそ、収束した力を持って、まず社会に背骨を入れ、それによって民の生活を保障し、その支持を買って行かねばならぬのだ」

更に家康は、様々な例を挙げていった。古代中国では、様々な政治的思想が跋扈した。その中で、大きな成果を実際に上げ、社会を統制することができたのは、その中で最も有名な孔子の建てたいわゆる儒家、ではない。法家と呼ばれる思想である。法家は極めて実用的な思想であり、社会を法、即ち力によって統制するという物であった。この根元になっているのは、人間の本質が悪であるという事実であり、それが故に社会を統一することができたのである。儒家は社会に計り知れない影響を与えたが、乱世の統一には何ら寄与しなかった。

人間は生まれながらに善と悪の要素を持っている。何の気無しに、利益不利益関係なく誰かを助けることもある。だが同時に、逃げる相手を嬉々として殺戮し、弱者から平然と奪い、欲望のままに犯し、気に入らない相手を排除して愉しむことができる生物でもあるのだ。

そして、実際に社会を動かしているのは、その後者としての本質である。多少の善性は、感動を呼ぶことがあっても、実際に社会を動かせることは滅多にない。あったとしても、例外に過ぎない。法家はその無惨な現実を把握し、目を背けずに直視したが故に社会を統一に導くことができたのだ。人間の良心を信じる思想は、或いは究極的な社会には向いていたのかも知れないが、現実の前には無力であった。ただしその後、法家思想は力の使い方を誤り、また多数の民の意志を無視したため、最終的には折角統一した社会を滅ぼしてしまった。あまりにも厳しく縛り付けすぎても、結局人間は生きることができないのだ。なぜなら人間は根本的に愚かで悪を基調にしている生物であるから、汚れ無き清濁な河には住むことができないのである。無論社会が聖人君主の集まりであれば、それも可能であろうが。そして、発達した国家になれば成る程、法家の思想に基づいて社会を統制していることは、言うまでもない事実であろう。無論現在は、様々にそれに改良が加えられているが。

社会的な生物としての人間は、根元的に愚かである。それを認めた者こそが、政治家としての第一歩を踏み出すことができる。だがそれは、決して人間という存在自体にマイナスとはならない。個人個人の人間の中には例外的に愚かでない者もいるし、愚かであるが故に今後進歩することもできるからだ。愚かであることを蔑ずむのではなく、それを受け入れ、現実を処理していくのが、政治なのである。

「あの……家康様」

「うむ、なんだ?」

大体の言葉を吐き終えて、次に移ろうとした家康が、イレイムの言葉に停止した。興味深げにイレイムに視線を注ぐ彼の前で、女王は静かに発言した。

「家康様の、理想の国とはどういうものですか?」

「ふむ、そうさな。 民の末端までが皆高い政治的識見を持ち、正しい政治的判断力を持ち、最も適任な支配者が常に選ばれ、皆が自己の勝手を殺して全体のために奉仕出来る、そんな社会だ。 分かっているとおり、それを無理に再現しようとすれば、宗教か何かの思想で皆を洗脳した、見るも無惨な国へとなり果てような。 政治家は常に現実を見ねばならない。 理想を持たねばならないが、現実がそれに優先したら、ためらい無く現実を採らねばならないのだ。 分かったか、イレイム殿。 まつりごとを行うと言うことが、本来如何に難しく、悲しく、誇り高いことであるかを。 そしてそれによって自らのみを利することが、如何に恥知らずであることかを」

イレイムは、大きく頷いた。その目に、あの誇り高い光が宿っているのを見て、藍は自分のことのように嬉しかった。この娘が将来大物になることは、もう確定的な未来にも、藍には思えたのだった。

そしてこのとき、藍の心の中で、一つの結論が出た。昨日、どうしても出なかった結論が、である。藍が笑顔を向けたのを見て、イレイムが笑った。二人の笑顔が交錯し、この後の未来を暗示した。だが、この時点で、イレイムはその意味に気づいてはいなかったことであろう。

「今日はここまでだ。 儂も、幾つか仕事が忙しいのでな」

家康はそれだけ言うと、少し疲れた様子で、だが満足して部屋を出ていった。藍は自分と同じ立場にいる唯一の人間の背中に、心の中で何かを呟いた。だが、その中身を知るものは、藍以外誰もいなかった。しかしそれは、三ヶ月後、この国の上層にいる者全てが知ることになったのだった。

 

3,戦略戦

 

しばしの宴の後、コーネリア王国軍は再び激しい演習を行い、身を鍛える作業に戻っていた。その動きは明らかに精彩を増し、真の精鋭になったことが誰の目にも明かであった。それは実戦経験を得たこと、勝利に貢献したこと、司令官に絶大な信頼を得たこと、等が原因であろう。

以前勝利を得た森での演習はもう行われていない。代わりに、幾つかの湿地や平原での演習が繰り返され、主力部隊は連日被害を埋め合わせするように新兵を交えて汗を流した。その動き、敏捷性、いずれももはやかってのコーネリア軍とは一線を画し、誰が見ても優れた軍隊の圧倒的な実力を感じさせた。

数回の激しい演習が終わった頃、会議が行われた。セルセイアによって、帝国の新たな情報がもたらされたからである。それは予想通りの情報であったが、動員兵力は当初の推定を遙かに上回っていた。コーネリア軍幹部が、野戦陣地に全員集結し、その周囲を護衛達が固めると、セルセイアは口を開いた。

「現在、我が国に、帝国軍南部方面軍の四個師団が接近しています。 おそらく、何度かの補給と集結を経て、来月後半には我が国に侵攻を開始するでしょう」

「ふむ、してその兵力は?」

「最低でも、二万五千に達します」

「二万五千……我が軍の十倍か」

声まで青ざめて、何人かが視線を交わしあった。彼らは家康とアッセアのお陰で、実戦と、少数の兵力で多数の敵を撃破するのが如何に難しいか、心の底から思い知った。現実を知る彼らにとって、十倍の敵兵力というのは悪夢以外の何ものでもない。

動揺する彼らに比して、アッセアと家康は落ち着いた物で、平然とケルを傾けていた。皆の視線が集まる中で、家康は二杯目のケルを給仕に頼み、そして軍地図に視線を走らせる。

「セルセイア殿、敵の予測侵入地点は?」

「おそらく、北部国境からかと。 東部国境から侵入するとなると、更に半月を要しますので」

「となると、決戦は、此処で行われることになろうな」

そのまま家康は指揮杖を軽快に撓らせ、地図上の一点を指し示した。そこは複雑に湿地と森林が入り組んだ場所で、地元の住民からは(フェデット沼地)と呼ばれている。沼地とは呼ばれているが、正式には湿地帯と言うべきであろう。広大な湿地帯で、両軍併せて十万程度の兵力による戦闘を展開することが可能である。森や起伏のお陰で遠くの見通しが付かない上、湿地の水深は浅く、非常に船が使いづらい。その上、霧が出ることもあり、無計画に侵入するのは危険な場所である。

この湿地帯は、特に重要な場所でもないので、コーネリアとしても特に気取った名前を正式に付ける気にもならなかったらしく、地元住民の呼称が正式に用いられているのが現状であった。ちなみにフェデットとは、コーネリアの民話に登場する水棲の魔物である。現在は絶滅寸前であるらしいのだが、昔はこの湿地帯に多数生息し、住民に被害が出、それが後世に大げさに伝わって、世にも恐ろしい民話が幾つも残っている。現在も、地元の住民達は恐れて此処に近寄らないようである。

本来はさほど戦略的に重要な場所ではないのだが、北部国境から侵入した軍が最短距離で首都を突こうとすると、この地点に側背をさらすことになる。もし此処、及びこの近辺にコーネリア軍が陣取っていれば、帝国軍としては戦いを挑まざるを得ないであろう。そして、この複雑怪奇な地形に上手く引きずり込むことができれば、多数の敵と充分以上の戦いを展開することが可能である。侵略軍を迎え撃つには、自分が得意とする場所に引きずり込むのが絶対条件である。敵を分散させるのは、今回は難しいであろうから、まず決戦場をこういった場所に設定することで、少しでも兵力差を埋めなくてはならないのだ。以前補修した砦は、この湿地帯から少し離れた所にある。敵としても、戦略拠点の制圧を考えるとなれば、此処に敵が陣取っていた場合戦闘を交えねばならないだろう。敵の選択肢を削り取り、自分の有利な方向へ導いていくのが、戦略の真骨頂であった。

家康がそれらを説明すると、幹部達の間から安堵の声が挙がった。エイモンドでさえ、忌々しげに視線を逸らし、鼻を鳴らしたほどである。家康の言葉に重みと説得力があることを、認めざるを得ないのであろう。幾つか質問が出て、それをアッセアと家康が捌いていき、何回か手が上がるのを見送った後にイレイムが挙手した。

「ええと、国境で迎え撃つわけには行かないのでしょうか。 あの狭い地形に、我が軍全てを投入すれば、敵の侵入を防げるのでは」

「相手は百戦錬磨の名将と聞きます。 おそらく、以前儂らがうち破った部隊の生き残りから情報を聞き、その辺りは入念な対策を練ってくるでしょう。 同じ意味で、森林内で撃退する戦略も恐らく今回は使えません」

「イエヤス殿、それは推測に過ぎないのではないか?」

「いえ、間違いありません」

皆の視線が集まったのは、セルセイアであった。発言したのは彼女であり、忌々しげに情報組織の長は視線を家康からずらした。彼女は家康を嫌いではなく、心も許し始めていたが、それ以上にイレイムの肩を持ちたかったのであろう。イレイムと、家康に反論したタイロン長老が見守る中、セルセイアは苦労して入手した情報を披露した。

「我らが集めた情報によると、敵部隊は周到に山岳戦や攻城戦の訓練を積みながら此方に向かっています。 しかも攻城兵器や、多くの投石機を揃え、あの地形でも防ぐことは困難かと。 更に敵はレンジャー部隊も投入するつもりのようで、森林に引きずり込んで各個撃破する事も無理でしょう。 もう一度同じ作戦で迎撃すれば、我が軍はほぼ確実に全滅します」

「与えられた情報から、敵を分析し、勝つための努力は全てしておく。 そして、殆どの場合、戦場に着いたときには既に勝っている。 まさに名将だな。 手強い相手だ」

家康は自らの言葉に頷き、アッセアが無言のまま襟を正した。元々家康は、同じ手が二度も通じる相手だなどと敵を見下しておらず、故に今回は全く別の地点で戦略を練り直したのである。家康は相当に手強い相手と戦える喜びに、武者震いを押さえることができなかった。この辺りは、戦に生きる者としての、救いがたい性であろう。

「そうですか。 できれば民への被害は、最小限に押さえたい所ですね」

「戦闘発生予想地区からは、早めに住民を避難させる手だてを取る。 それと、いざとなったら、首都の兵士達には抵抗しないように伝えておく。 そうすれば、被害を最小限に防げるだろう」

腕を組んだまま、エイモンドがぶっきらぼうに言い放った。そしてその計画案を提出し、細部まで説明して見せた。その細かさに、家康は満足して静かに頷き、ドルックも感心してレポートをめくった。その書類は、エイモンドが確かに無能でないことを、この国のことを誰よりも熟知していることを、隅々から発し読み手に伝えていた。やがて、家康とアッセアに不機嫌そうな視線を向け、エイモンドは言った。

「勝算は、あるのだろうな」

二人が同時に頷いたので、ドルックは嘆息し、舌打ちして視線を逸らしてしまった。小さな笑い声が上がったので、皆がそちらに視線を向け、憤然とエイモンドが周囲に視線を向けると、その発生源はイレイムだった。気が短いエイモンドは、さながら溶岩のように真っ赤になった。

「陛下! 何かおかしいことでも?」

「いえ……あの……そうではなくて、安心したんです」

イレイムは目尻を拭い、皆に笑顔を向けた。

「皆様が心から、この国のために力を合わせてくれたから。 私は、女王として、誇りに思います」

「まだ、感謝の言葉は早いですな。 全ては、勝ってからです」

ゆっくり立ち上がり、家康が言うと、皆立ち上がって敬礼した。コーネリア王国は、今年二度目の戦に向け、全力で驀進していた。

 

コーネリア王国に迫りつつある帝国軍南部方面防衛軍は、セルセイアが察知したとおり、だが半ば見せびらかすように、周到な演習を重ね、各地の軍事拠点から攻城兵器を接収し、進軍していた。その進行速度は速く、とても演習を行いつつ進んでいるとは思えない物であった。帝国軍が如何に優秀な後方参謀を要しているか、人材の層が厚いか、これだけでも明かであろう。

ミディルア兵団長は、時々皆の目を盗んで好物である魚の干物を囓りつつ、それらの指揮に当たっていた。そして、コーネリアまで後一月の地点まで来た所で、何度も軍事会議を招集した。コーネリアの情報収集は積極的に行いつつ、周到に策を練る。まるで老獪な魔物の如き、準備の良さと知性のさえであった。

両軍は、対話の余地無く、決戦へと突き進んでいた。名人級の戦略戦がその間では展開され、それは致命的な破滅しか産まない物と思われた。相対距離は徐々に縮まり、戦いの時は近づいている。それは、コーネリア王国に帝国軍が侵攻する、最後の戦いとなるのだが、それには未だ誰も気づいてはいなかった。

 

4,実らぬ果

 

前回の戦いで、敵の主将を屠りさり、一気に名声を上げた第七特務部隊。歴戦の強者ロフェレス夫妻を主軸に、六名の精鋭を集めた部隊であり、立った六名で七十以上の敵を屠り去るという常識外の戦果を上げた。集団戦よりも、隠密行動を得意としており、その実力は帝国最強の特殊部隊(クールランス)にも劣らないことであろう。

戦いに向け、演習が日々激しくなる中、彼女らの活動も活発化していた。一般の兵士達が、湿地帯での演習を行う中、部隊からはぐれた兵士を救出したり、魔物を退けたりと、その活躍は目を見張る物があった。今まで中隊級の待遇を受けていたこの部隊であるが、次の戦い次第では大隊級の待遇に昇格するという説もあり、一般兵士達の畏怖の目はますます強く注がれていった。

だが、常識外の実力者であるロフェレス夫妻と、文字通りの戦神と化した高柳藍を除けば、元は普通の兵士達である。特に一番若いミシュクは、多少血の気が多い何処にでもいる青年で、アッセア将軍への思慕が丸見えであった。本人はそう言われるたびにむきになって否定したが、前回の戦功でアッセアに直接貰った勲章を暇さえあれば愛でているような所と言い、アッセアの友人である藍に彼女のことをしつこく聞いていたり、魂胆は見え透いていた。

もっとも、アッセアは元々世間知らずであり、しかも庶民のこととなると殆ど知らない。兵士達については詳しいが、その生活には関心が及ばないのである。酷薄な性格ではないが、住んでいる世界があまりにも違いすぎるのだ。しかも、アッセアは筋金入りの戦人であり、生活の全て、思考の全てが戦争を中心に回っている。それに対し、ミシュクは血の気が多いとはいえ、普通の青年以上でも以下でもなく、戦争好きではない。根本的に、属する世界が異なっているのである。

しかも致命的なことに、アッセアは恋愛沙汰に興味を持たない。家康にあこがれを抱いているようであるが、それは恋愛感情ではない。家康も、自分が帰還した後のことを考え、意図的に手を出すことを避けているようだった。

そんな状況下においても、ミシュクはアッセアへの思慕を諦めなかった。そして、それは今日も同じであった。恋は盲目と言うが、彼の場合その形容はまさに正鵠を得ていた。

 

本日の第七特務部隊の任務は、(フェデット沼地)の哨戒任務、更に演習中の部隊の周囲を回って、はぐれた部隊や人員の回収、確保を行うことである。第七特務部隊の他にも、対魔物用の訓練を受けた部隊が幾つか哨戒しており、心配された魔物は出現しなかった。大多数の人間の中に飛び出していけば、一瞬の地に切り刻まれることくらい理解出来るのであろう。元々魔物は、それほど人間に対して高いアドバンテージを持っているわけではないのである。

一応の哨戒を終えると、第七特務部隊は広大な沼地の端に移動した。其処は野戦陣地の設営が予定されている場所で、沼地の多くを見下ろし、把握出来る絶好の場所であった。にこにこと笑顔のまま歩き続けるコーラルに、藍が口先を尖らせて不満をこぼした。

「こんな所に来て、何するわけ?」

「それはねえ、ここがアッセアさんがじんどるばしょだからよぉ。 戦闘中に、まものがあらわれたり、帝国のスパイがあられたりしちゃあぶないから、したしらべをしておくのぉ」

「念入りに調査を行いましょう! 蟻一匹逃さない態勢で!」

ミシュクが尋常ならぬ気迫で言ったので、皆は失笑を殺すのに苦労した。藍は欠伸をしながら、周囲の地形を観察し、此処が陣地を隠すのに絶好であり、また守りやすい場所であることを確認していった。確かに守備側が陣を張るには最良の場所であり、此処を制圧しないのは愚者であろう。

「みんなぁ、あつまって」

不意にコーラルの声がして、調査を行っていた者達は皆振り向いた。見ると、コーラルが手を振っており、集まるべくサインを出していた。

「何? 何かいた?」

「そうよぉ。 みて、これ、それにこれ」

藍の声に、コーラルはまず地面を指さし、ついで近くに生えた木を指さした。地面には足跡が残っており、木には小さな傷が複数付いていた。皆がそれを見たのを確認すると、コーラルは相変わらずのマイペースで言った。

「かたほうは人のあしあとよぉ。 おそらく、ついさっきついたものだわ。 もうひとつは、魔物のマーキングね。 このかたちからして、多分(ジェセス)のものよぉ」

「ジェセスってのは?」

「人間の二倍くらいのおおきさにたっする大型のまものよぉ。 かわいそうだけどぉ、げきはしておくひつようがあるわ。 せんとうちゅうに、これがでてきたら大混乱になるわぁ」

コーラルの言葉は、全員の顔に一気に緊張を塗りたくった。黙々とフィフィは周囲の調査を続けており、それを横目で見ながら藍は挙手した。

「手強いの?」

「ええ。 ゆだんしたら、死人がでるわよぉ」

「かーちゃん! かーちゃんっ! みてくれぇええええええええっ!」

不意にフィフィが大声を、本人にしては小さな声のつもりなのであろうが、ともあれ地獄の底から響くような声を発した。コーラルが色気たっぷりの動作で腰をかがめると、地面の痕跡を食い入るように見つめ、小さく何度か頷いた。そして、皆に顔を向け、相変わらずのマイペースで言った。

「ここをうろついてた人を捕まえてぇ、すにひきずってったみたいよ。 ジェセスは獲物をすぐにはたべなくて、マヒさせて、すにはこびこむの。 そこでおなかがすいたら、別の種類のどくをちゅうにゅうするのよ。 それで、どくがからだにいきわたって、やわらかくなってからたべるのぉ。 いそげば、たすけられるかもしれないわ」

此処で問題なのは、ジェセス自体に罪はない、と言うことだ。本人はただ食事をしようとしているだけだし、そのすみかを勝手な理屈で接収し、侵略したのは人間なのだ。複雑な気分を味わう藍の横で、コーラルは手を叩き、細かい指示を出し始めた。

「セイシェルちゃんは、傷が治ってないでしょ。 本陣にもどってぇ、医療班のてはい。 解毒まほうのじゅんびをおねがいね。 それが終わったら、ほんじんで待機。 増援はいらないわ。 あとのひとたちはぁ、わたしにつづいて、ジェセスを処分しにいくわぁ」

一瞬セイシェルは不満げな表情をしたが、コーラルの指示が今まで間違ったことはない。すぐに本陣へ向け、飛ぶように駆けていった。そしてそれを見送ると、皆は猛然と駆けだしたフィフィの後に続き、湿地帯を疾走していった。

 

疾走する藍は、地面を観察することを怠らなかった。そこには、筋状の足跡が複数残っており、細長く何処までも続いていた。それから推測するに、(ジェセス)という魔物は、細長い足を持つ種族であろうと推測される。或いは、昆虫のような姿をしているのかも知れない。或いは先ほどの話から推測して、蜘蛛に近い存在かも知れなかった。

その予測は的中した。ある程度進むと、フィフィが足を止め、振り返って唇に指を当てた。注視すると、地面が所々輝いている。そして、その何カ所かに、小さな虫がこびりついていた。コーラルが頬に指を当て、妖艶な体に幼い表情を浮かべていった。この辺りは湿地帯であるが、周囲には木も無数にはえ、むしろ森に近い場所だった。だが、所々の地面は柔らかく、また沼も多く、湿地帯であることは歴然とした事実であった。

「(ジェセス)は、この糸を通じて、振動を感じ取るのぉ。 おなかがすいたときは、そとにでて獲物をとろうとすることもあるけど、ほんらいはすにいて、獲物が来るのをまっているの」

「これ以上侵入すると危険ですか?」

「うん。 ここからさきは、ほんとうのいみで(ジェセス)の領地よぉ。 だから、できるだけそとにひっぱりだして、たたかうくふうがひつようなの。 総員、戦闘配備」

それだけ言うと、コーラルは近くの木の枝を片腕でへし折り、輝く糸をつついた。接着剤で地面時を固定したかのような瞬間だった。木は糸から全く離れなくなり、コーラルが何度かそれを引っ張った後、木々の奥から大きな何かが現れる音がした。同時にコーラルが木の枝を離し、数歩を飛び退いた。彼女の脇で、フィフィがバトルアックスを構え、腰を低く落とす。その真剣な表情を見て、他の者達も各々武器を構え、敵の出現を待った。

「うえ、何あれ」

藍が露骨な嫌悪を示したのには理由がある。それは蜘蛛に近い生物だったが、それよりも遙かにグロテスクな姿をしていたからである。そして、何より、大きさは予想を遙かに超えていた。人間の二倍どころか、三倍以上はあるだろう。

体節は三つに分かれていて、最後尾は大きくふくらんでいる。真ん中の体節からは、蜘蛛のような足が合計五対生えていて、それぞれの長さは二メートルほどもあろう。しかも先端部は鋭く、見るからに硬そうで、下手な刃物よりも質が悪そうであった。そこまでは蜘蛛に似ていたのだが、最前部の体節は蟻塚のような形をしていて、体の上方へ延び、最上部には無数の目らしき物が無数に、かつ無秩序についていた。口は蚊に似た構造で、三十センチほどある筒があり、その先端に鋭い針がついていた。あの長さからして、刺された箇所によっては、ひとたまりもなく即死であろう。腕や足を刺されたのなら、無論助かるかも知れないが。そして、最前部の体節には無数の触手がはえ、その先端は奇怪な音を立てて揺れていた。にらみ合いはしばし続き、それをうち破るようにコーラルが言った。

「参ったなあ……あんなおっきいのははじめてみるわぁ。 ……じゃくてんは、あの上に出っ張ったところの、いちばんてっぺんよぉ。 でも、かんたんには死なないから、きをつけて。 くるわよっ」

コーラルが普段使っている武器は、驚くべき事に拳闘具である。無論鋭い棘と、爪のような刃が装着されており、殺傷力は非常に高いが、本人の姿と全く合っていない事実は否めまい。彼女がそれを装着した腕を横に振ると、不意にジェセスの動きが早くなり、複数の触手の先端部が開いて、糸を放出した。恐らく彼らは、相手の動きに反応するのだろう。

連続して攻撃が繰り出され、それは皆コーラルに襲いかかった。他の者達は指示通り散開して、まだ手を出そうとはしない。三度バックステップして、コーラルはいずれの攻撃をもかわしたが、一気にジェセスは巨体を揺らして間を詰めてきた。だが、コーラルは今だ反撃に出ようとせず、それを指示もしない。敵を領土から引きずり出そうとしているわけであり、わざと攻撃を紙一重でかわしているようにも見えた。なかなかに、相当な使い手でないと出来ない芸当であろう。

数度の攻防の後、ジェセスは奇怪な叫び声を上げ、不意に足の一本を振るい、コーラルにむけなぎ払った。コーラルはそれをかわしきれず、もろに吹っ飛んで木に叩き付けられる。更にとどめを刺そうと前進するジェセスであったが、次の瞬間、コーラルがゆっくり立ち上がりつつ、攻撃開始の指示を出した。それを待っていたように、左右から藍とフィフィが躍りかかった。巨大なバトルアックスが足の一本に食い込み、藍のつきだした槍が脇腹に突き刺さった。だが、それぞれ致命傷にほど遠く、ジェセスは奇声を上げて暴れ回る。更にヨシュアとミシュクが参戦するが、情況を好転させるには至らない。表皮は意外なほどに硬く、また巨体の割に恐ろしくすばしこい。確かに訓練を受けた兵士の二個小隊にはかなわないが、だが決して油断出来る相手ではなかった。振り回される足は空を切り、草をなぎ払って皆を襲う。また、時々はき出される糸は恐ろしく狙いが正確で、地面に落ちた後も粘性を失わず、危険度は非常に高い。

「槍じゃ分が悪いな……」

何度か刺突を見舞い、それの効果が薄いことに藍が舌打ちした。人間相手なら充分な効果を発揮するのだが、そもそも構造の全く異なる生物にはやはり一撃必殺とは行かない。藍は分厚い刃を持つ長剣を振るうミシュクに視線を移すと、再び刺突を見舞いながら叫んだ。

「勝機を作る! だから狙って!」

「おうっ! まかせろっ!」

足での一撃をはじき返しながらミシュクが叫んだ。その脇では、無言のままヨシュアが剣を振るい、糸をはき出そうとした触手を叩ききっていた。そして、丁々発止の戦いが終わりを告げ、勝機がもたらされた。ジェセスの背後が、不意に燃え上がったのである。後方の異常に気づいた魔物が、前面の敵への注意を一瞬喪失し、それが破滅へと直結した。

「いまよぉっ!」

どうやら今の事態の立て役者らしいコーラルが、煙を突き破って突貫、コンビネーションブローをジェセスの腹部に叩き込んだ。鮮血が飛び散り、魔物が絶叫する。更にフィフィが足の一本をついにバトルアックスで叩ききり、そしてねらい澄ました一撃で、藍が以前開けた穴にもう一度槍を突き込み、更に蹴りを見舞って奥へとつっこんだ。噴水のように赤い血が噴き出し、それに合わせて、ミシュクが剣を水平に構え、藍が開けた穴の一つに、それを突き刺した。

「ギ、キギギィイイイイイイイイイイイイイッ!」

どうやら悲鳴らしい音を発し、だがまだまだ屈しない。体を旋回させ、足を振るって周囲に群がった人間共を吹き飛ばすジェセス。藍とフィフィは何とか逃れたが、ヨシュアと、動きが鈍っているコーラルはかわしきれず、弾かれて地面で受け身をとった。興奮したジェセスはもう一度地獄から響くような奇声を上げ、そして一人足りないことに気づいた。だが、気づいたときには遅かった。

「俺は、ここだっ!」

今の攻防の間に、木の上に登っていたミシュクが、飛び降りざまに剣を振りおろした。それは狙いすました一撃であり、ジェセスが振り向く暇もなく、その頭部に深々つきたち、半ばまで切り裂いた。無数の触手がミシュクに絡みつき、放り投げる。だが、それが最後の抵抗だった。もはや悲鳴を上げることさえかなわず、数歩、よろけるように前に歩くと、大量の鮮血をばらまきながら、ジェセスは息絶えた。おそらくこの個体は、ジェセスの中でも最強の戦士の一人であっただろう。

「ごめんねぇ。 あなたに、つみはないのよ」

そういって、コーラルは右腕を押さえながら、偉大なる敵に頭を下げた。

 

ジェセスの巣の中は、穴の中に巣を張るタイプの蜘蛛の巣をそのまま大きくしたような形状をしていた。所々に獲物を包んだらしい糸の固まりがあり、その中身の殆どはぼろぼろの死体だった。人間の物らしい死体はほとんど無く、人間ばかりを襲う種族ではない事がこの事象からも分かろう。ただ、当然領域に人間が侵入したら獲物にする生物でもあるのだ。

粘つく糸を踏まないように注意して歩いていた藍が、やがて比較的新しい糸玉に気づいた。大きさと言い、つかまった人間かも知れない。槍の先でそれをおそるおそる開けてみると、外れであった。既に体が変色している鹿であった。ひょっとすると、さっきのジェセスは、この鹿を食べている最中だったのかも知れなかった。

「いたぞー! まだ生きてる!」

奥からミシュクの声が響き来た。藍は鹿の死体から興味を無くし、奥へと歩いていった。

 

糸玉にされていた人間は、どうも腕を刺されて麻痺したらしい。全身麻痺させれば呼吸も止まってしまい、死ねば保存も利かなくなる。それが原因かは知らないが、ジェセスの毒は相手を生かさず殺さず麻痺させる物らしく、今回はそれが事態を良い方向に動かした。

「女の子だね。 年は私より五つくらい上かな」

糸を取りながら、藍が言う。獲物にされていた女性は動きやすい服を着ていて、意識こそ無かったが呼吸はしていた。背は藍より大分高いが、コーラルよりも少し低い。顔立ちはどちらかと言えば美人であるが、コーラルほど色気があるわけでもなく、また以前藍が会ったジェシィほど無機的でもない。何というか、少し洗練に欠ける、田舎町の小さな店で看板娘をしていそうな娘であった。やがて粘つく糸を取り除くと、コーラルが腰をかがめ、ボディチェックを始めた。そして彼女は、気絶している女性のポケットから、なにやら色々な物を引っ張り出した。その一つを見て、コーラルは眉をひそめた。そして、藍の目の前で、この娘の正体を特定したコーラルが、小さく嘆息した。そして、娘が所持していた軍手帳を読み上げた。

「ティセイラ=リフォンテ。 帝国北部地区出身。 帝国軍二等兵」

「帝国軍の魔法兵か? でも何でこんな所に?」

「さあ。 前の戦いで逃げ延びたのか、それとも諜報任務で忍び込んできたのか。 何にしても、殺っちゃおっか。 時間の無駄だったね」

「だめよぉ、そんなことしちゃあ。 さ、ほんじんへはこびましょう。 はやくしないと、このこの右腕、つかいものにならなくなっちゃうわ」

露骨に残念がって藍は舌打ちしたが、誰もそれを咎めなかった。もう、この娘が世界で最も危険な人間の一人であり、だがそれを制御出来ることは皆知っていることだったからである。

 

これは大きな戦いの前での、小さな出来事に過ぎなかった。だが、この娘を助けたことが、ミシュクと、それに藍にとって、大きな転機につながるのである。様々な決意を固めつつある藍の中での、最後の鍵となる娘の出会い。報われない行為に没頭していた男の、現実への回帰。無論この地の歴史を動かしうるほどの事ではなかったが、藍には、それにミシュクには、大きな歴史的事実であった。

(続)