各々の理

 

序、山津波

 

帝国各地で、今までにないほど活発な軍事行動が始まっていた。彼方此方に分散し、或いは予備役になっていた部隊が集結し、補給物資が集められ、中枢部隊の元へ集結し、皆に見送られて出発する。帝都に常駐している師団の幾つかも、補給と編成を終えて出発、物々しい雰囲気を周囲に漂わせていた。

軍勢は皆、南へと向かっていた。合計して、大都市の人口にも匹敵するほどの数である。計算され尽くした補給計画が練られており、膨大な数の荷駄隊がその行動をサポートしていた。

無論、制圧したばかりの土地や、まだ政情不安状態の土地には、駐屯軍が残っている。だが、それ以外の正規兵は、七割方が動員されたと言っても良い。兵達の士気は高く、南に行けば行くほどその兵列は太くなり、密度を増していくのであった。

膨大な兵達の一端は、既に帝国軍南部方面軍と合流を果たしている。南部方面軍自体も、短い休暇を終え、集結を始めていた。国境地帯の要衝、旧ルフォリア国の要塞を戦略的拠点とし、兵達は続々と集まっている。国境地帯の住民の避難もそれに合わせて行われていたが、それに反対する者は少数だった。南部諸国連合が先に手を出したことは知られていたし、連合の兵達が彼らの大事な土地に何をしたか、それも一端故郷に戻った者達の口で広く伝えられていたからである。第一、集結する兵力を見れば、これから行われる会戦が、大陸史上に残るほどの大会戦に成ろう事は子供にでも理解出来ることだった。これに巻き込まれようものなら、未来が永久になくなるのは疑いないことだった。

帝国宰相エイフェンは、こうして発生した戦争難民を実に見事に捌いた。別の土地に移住することを希望する者には、戦争にて放棄された土地や、未開墾の土地を与えた。不満が噴出しなかったのは、与えられた土地の量が平等な上に、税的に優遇され、しかも補助金が出されたからである。また、以前の土地にこだわる者にも、不平等な措置が執られる様なことはなかった。各地に蓄えられた食料を提供し、また軍が先導してキャンプを張り、パトロールも行って治安の維持に務めた。出費は膨大なものになったが、民衆はエイフェンの手腕を褒め称え、不満が噴出することはほとんど無かった。

帝国軍の前衛部隊は、既にその数を五万ほどにまで増やし、その中央部にはハイマンドがいた。その天幕は決して華美ではなく、むしろ質素である。不機嫌そうに様々な指示を出し続けるハイマンドの傍らには、帝国の中枢を担う人物達が勢揃いしていた。右に佇立している小柄な男は、高名なる帝国最高の知将ハイマーである。ハイマーは今回の作戦の総指揮を任されており、完璧な補給計画を立て、実行した張本人であった。また、左に立つ若い男は、帝国最高の頭脳とも言われる、宰相エイフェンである。彼の手腕がなければ、難民をここまで完璧に捌くことはできなかったであろう。二人は、どちらも本来大国の国家元首を任せることができるレベルの人材であり、この二人を完璧に使いこなしているハイマンドの度量が後世に伝わることは疑いない。

「陛下、ごほん。 後一月ほどで、我が軍の集結兵力は十五万に達します。 最終的には、ミディルア将軍の部隊を除外して、合計三十四万の兵力が集結する予定です」

「うむ。 敵の状況はどうなっている?」

「大慌てで兵力をかき集め、再編成を行っている様子です。 ただ、皇国のニーナ将軍の手腕は確かで、その集結は予想外に早い事が確認されています。 恐らく一月後には、最低でも戦力は二十万に達し、更に増加を続ける事は疑いないかと。 現在の試算では、敵の最終的な兵力は四十五万から四十八万に達するという見込みが出ています。 ごほんごほん」

淡々と報告を行ったハイマーは、短く二つ咳払いした。これは彼の癖で、重要な報告の後に必ず行うのである。また、言葉の途中にも、常人より遙かに多く咳払いが入る。これが故に、ハイマーは咳払いの知将と呼ばれており、本人もそれを喜んで受け入れていた。

ハイマーの報告を聞き終えると、ハイマンドは頬杖をついたまま、二人へ視線を走らせた。その表情は、公人としての強固なフィルターが掛けられており、滅多な洞察力では真意を洞察することはできないだろう。

「それで、どうするべきだと思うかね? 敵の集結を待たずに攻撃を仕掛けるか、それとも此方も集結に全力を注ぐか」

「臣は、和議をおすすめいたします」

「……私の個人的な意見を述べさせて頂くと、敵の集結を待った方が良いかと思われます、ごほん」

「ふむ。 まずエイフェン、和議をとはどういう事だ?」

皇帝の問いに、まだ若い帝国宰相はよどみのない口調で応える。元々彼はどもりの傾向があり、自分に自信もなかったため、周囲からつまはじきにされていた。だが、自分の実力を認めてくれた皇帝のために、一念発起すると自分に誓ってからは、背筋も伸び、口調も快活になった。そして、恩人である皇帝にも遠慮せず、厳しい意見を述べる様になった。なぜなら、皇帝がそれを望んだからである。そして、政治面に限定した皇帝の最も有力な家臣として、国政をリードし、民を守り続けてきたのだった

「臣の見立てでは、おそらく双方の戦力は総合的に五分。 戦えば双方が大打撃を受け、その上決着はつかないでしょう。 無駄な死人を大量生産するくらいなら、多少不利な条件でも和議を結んだ方が得だと臣は愚考いたします」

「成る程、一理あるな。 次にハイマー、貴公の意見は、どういう意味なのだ?」

エイフェンの言葉に、ハイマンドは特に心を動かされた様子がない。これは要するに、二人の発言に対して公正を保つためのポーズであるが、それをきちんと実行出来るのは大した物だと評価出来るであろう。

「現在、確認されている敵兵力は約七万、我が軍の四割り増しです。 ごほん、しかも、我が軍との差は今後も縮まることはあり得ません。 ただでさえ不利な条件ですし、此方から攻め込むよりは、かってしったる土地に引きずり込んで、ごほん、決戦を挑むのが上策だと考えます」

「ふむ」

「そこで、現在駐屯している辺りを要塞化して、国家百年の計を計るのが良いかと、ごほん。 宰相殿も言うとおり、恐らく一度の戦いで決着はつかないでしょう。 ごほん、私の調べたところによると、南部諸国連合は、腐敗こそしてはいますが国家機構にひびが入るほど堕落してはいません。 一息に制圧出来るほど柔な相手ではありませんし、もし制圧できたとしても、後々相当な反発に合うことは必至でしょう。 故に、この地域を要塞化し、後々の戦いに備えるのは、ごほん、当然の策かと思われます」

二人の意見を聞き終えると、ハイマンドは黙り込んだ。どちらの言葉も確かに利ある物であり、同様の欠点をも含んでいる。ふと瞳を光らせ、ハイマンドはハイマーに聞き直した。

「では、ミディルア兵団を戦線に投入したらどうなる? 情況は崩れると思うか?」

「いえ、ごほん。 この大軍同士のぶつかり合いの中で、二万や三万の増援を投入した程度では、劇的な効果は上がらないでしょう。 それが名将と名高いミディルア殿の部隊でもです、ごほんごほん」

「そうか……では、例の物を投入したらどうなると思う?」

場が一瞬緊迫を帯びた。周囲に人はいないが、それでも皇帝の声は自然と低くなる。

「二人の意見を聞きたい」

「未だ手に入れてもいない物を考慮に戦略を組むのは愚行ではないかと。 ただ、もしそれを投入したとしても……利があるとは思えません、ごほん」

「ハイマー将軍の言葉に賛成です。 もしそれで戦いに勝てたとしても、南部諸国連合の民草は我が帝国に無限大の憎しみを抱くだけです。 百年経っても、百五十年経っても良いから、南部諸国連合が自壊するのを待つのが最上かと臣は思います。 元々、腐敗が始まっている国々なのです、無理に圧力を加える事はないかと。 当然、その間に、我が帝国の地固めと連合の切り崩しを積極的に進めるべきでしょうが、今はまだ強引に雌雄を決しても意味がないと愚考いたします」

皇帝は静かに嘆息した。皇帝としては、当然二人の言葉は聞くべきだった。だが、彼個人としてはそれに納得出来なかったのである。だが、公人として、公人として最も責任ある立場として、個人の我が儘を通すわけには行かなかった。

「……分かった。 では、当分はこの辺りを要塞化する作業、敵を監視する作業に重点を置くこととする。 敵の奇襲に備え、防備を怠るな。 要塞化の作業はエイフェン、汝が行え。 兵の配備に関しては、ハイマー、汝に命ずる。 決して油断するな」

敬礼し、二人のこれ以上もなく頼れる最高の部下は天幕を出ていった。頬杖をつくと、皇帝は静かに嘆息する。彼の夢は、意外な方向から断たれようとしており、そしてその圧力は一秒ごとに重さを増してきていた。

 

1,修羅を生きし者

 

大陸中央部で、この地の歴史上でも最大級の会戦が準備されていた頃、コーネリア王国でも事態は風雲級を告げていた。セルセイアらの調査の結果、ついに帝国軍南部方面軍第四師団が、コーネリアに向け進撃の準備をしている事が確実になったからである。

幾つかある侵攻ルートから、どう侵攻してくるか、そうした場合はどう撃退するべきか。そういった戦略は、既に家康がくみ上げていた。そして、今までの訓練で組織的に動ける様になった兵達を引き連れ、何カ所かの、戦場になりうると想定されている場所での演習が繰り返された。それらは非常に激しい物となり、連日怪我人が出た。だが、現状を視察する家康を驚かせたのは、傷病兵を回復する魔法の存在であった。

重傷者にはさほど効果を示しはしなかったが、精神力と引き替えに軽傷者を即座に回復出来る魔法は、家康からは想像も出来ないものであった。また、組織的行動が可能になった頃から、タイロン長老が家康に紹介した、子飼いの魔法部隊も、彼を驚かせるには充分だった。確かに根本的な、絶対的な戦力にはなり得ないし、射程距離も短いのだが、破壊力は大きい。使い方次第では、砦の戸を一息に突破したり、敵将を護衛もろともまとめて吹き飛ばすことも可能であろうその威力は、家康には新鮮であり、同時に貴重な戦力だと思わせるに充分だった。恐らく単純な点の破壊力だけなら、彼の故郷にあった焙烙や、大筒を更に凌ぐだろう。

それらも戦略に組み込んで、家康が最も念入りに演習を行ったのは、コーネリア王国国境北部に存在する、シャルテの森であった。この森は、四つの山を包み込む様に広がり、その広さは横断するのに歩いて二日を要するほどである。ここは、北部から帝国軍が唯一侵入出来る場所で、中の地形は入り組んでいて、道を踏みはずすと魔物に遭遇することもある。その危険な森での演習は一週間にわたって続けられ、家康が陣頭指揮を執り、参謀としてアッセアが補助を行った。

一週間にわたる激しい演習が終わると、アッセアにも家康がもくろむ帝国軍の迎撃策が見え始めたようだった。それ故か作戦指揮は的確になり、何度も二手に分かれて行った演習では、互いに弱点を把握して其処を突くべく的確な動きを見せた。兵士達は既に家康とアッセアに絶大な信頼を寄せており、一糸乱れぬ動きを見せ、それが演習の成功にも繋がった。

演習のさなか、演習中の部隊の周囲を回り、魔物の動きを警戒し、はぐれた兵士達を本隊へ送り届けていた部隊がいる。それは、アッセア麾下の、コーラル指揮下特務部隊であった。彼らの行動は的確で、また魔物に対しても充分以上の能力を発揮し、行方不明者を確実に発見して保護していった。様々に事情が絡み合い、激しさを増していった演習が終わると、参加した軍の中核部隊七百名ほどは、シャルテの森の側にある平原に集合し、一糸乱れぬ隊列で陣形を整えた。既にこの部隊は、帝国軍の精鋭ともまともに戦えるほどの錬度を身につけていた。家康は満足げに仕上がりを見やると、小高い丘に登り、視察に来ていたイレイムを促して、彼らに呼びかけた。七百名というと、少ない様にも思えるが、小さな町の人口を凌駕する数である。いざ実戦となれば、農民兵や予備役兵も会わせて二千五百の兵を動員出来る準備も整っており、補給計画も万端である。そして今、激しい演習を経て、敵を迎え撃つ準備は完全に整ったのだった。

「女王陛下、万歳!」

笑顔でイレイムが丘に登ると、兵士達が喚声を上げた。左右には家康とアッセアが控えており、笑顔を浮かべるイレイムに、兵士達は手を挙げて喚声を投げかける。

「女王陛下万歳! イエヤス将軍万歳! アッセア将軍万歳!」

「家康様……なんだか……熱狂的ですね」

「これでいいのです。 兵士達は、侵略者から故郷を守ろうという気概を持ち、陛下を守ろうという志を持ちました。 後は、戦いを待つばかりですな」

そう言いながら、家康は目を細めた。現在のコーネリアの情況は良いとは到底言えないが、それでも彼の故郷よりは遙かにマシだったからである。しばし兵士達の熱狂に応えた後、イレイムは護衛を伴って本幕へ戻っていった。その後ろ姿を見送りながら、家康は左右の兵士達に指示を出し、演習を終えた兵達に休息の指示を出し、自らも自分のテントへと戻っていった。その脇に、アッセアが馬を寄せた。

「家康殿」

「うむ? アッセア殿、どうした?」

「ここ数日で何度も思ったのだが、貴方の師は誰なのだ。 あれほどの用兵、余程の師がいなければ身につけることができないだろう」

しばしの沈黙の後、家康は、振り返りもせずにアッセアに応える。アッセアは、家康に親近感を覚える様で、子猫の様にまとわりついてくる。家康は、それを決して嫌ってはいなかった。

「儂の直接の師は、大原雪斎と呼ばれるお方だ。 僧でありながら、儂の最初の主君の軍師をしていた」

「僧が軍師をするのか?」

「……この世界を暫く見て回ったが、兵農分離が丁寧に行われておるな。 また、坊主の政治への関与が押さえられている。 その常識からすると、確かに考えられぬやもしれぬ。 かつて、そう言った政策を進めた者がいたのか?」

「ええと……それは多分、四百年ほど前に大陸を統一したアシュータ統一王だと思う。 統一王は今まで政治に関与していた聖教会を政治から分離し、(剣と農具の部割れ)と呼ばれる政策を行って、武装した農民達から武器を取り上げて、逆に兵士を専門階級にしたって話だ」

アッセアの話に、家康はしばし耳を傾けていた。そしてそれが終わると、申し分ない位置に作られた野戦陣地へ入り、馬から下りて本幕へ歩きながら、アッセアに言葉を返す。周囲の兵士達は、きびきびと歩きながら雑談する二人に敬礼した。アッセアは最近、イレイムから直接家康の境遇を教えられた。だが、彼女の家康に対する敬愛にも、尊敬にも、変化はなかった、

「お陰で、農民兵を訓練するのに苦労したわけだ。 しかし、興味深い政策だな。 心にとめおくとしよう」

「家康殿の故郷では、農民が槍を取るのが普通なのか? 僧が政治に関与しているのか?」

「そうだ。 戦では、農民が戦いでの主力となるし、僧もまつりごとに関与する。 どちらも改めねばならぬ事なのだが、現実問題として農民兵がいなければ戦は成り立たぬ。 また、坊主は数少ない学問を修めた者達故、様々に社会の上層に関わってくる。 結果、今まで様々な悪弊を社会にもたらしてきた。 ある天皇……ええと、この世界で言う統一皇帝だな、はその弊害から逃れるために、都を移したことさえあるほどだ」

「僧がまつりごとに関与するなど、百害あって一理もないだろうに。 しかし、家康殿はそのお陰で戦の仕方を覚えたのだから、悪いことばかりとも言えないのかな」

本幕の入り口を潜りながら、アッセアの言葉に更に応えようとして、家康は頭をぶつけた。それをさりげなく隠しながら、入り口を潜り、家康は席に着いた。机上には水が用意されており、それを杯に注ぎながら、家康はアッセアに座る様に促した。本幕の入り口には何名かの屈強な兵士が護衛に立っており、安心度は極めて高い。リラックスして椅子に背を預けると、家康は先ほど吐こうとした言葉をアッセアに投げかけた。椅子に座ると言う習慣に短時間で馴染んだ彼の適応力は恐るべきものであったのだが、今のところ誰もそれには気づいていない。

「今度は儂の番だ。 アッセア殿は、いかにして戦のやり方を覚えたのだ?」

「私は、父上に教わった。 ……それだけだ」

「成る程、儂の故郷で言うもののふの家に生まれたわけだな」

「そうなる。 私の父は優れた武人で、私にもそれを強要した。 ……正直辛かった」

家康から見て、アッセアは大分最近心を許してくれる様になっていた。何度か痛い目にあったため、家康は人使いの難しさを心得ている。今回は様々な事情もあり、アッセアの心を掴まねばならないが、同時に一定の距離を置かねばならない。アッセアという人物をあらゆる角度から知るため、家康は努力を惜しまなかった。それは勝つためであり、同時に生き残るためでもあった。

「家康殿の父は、どういう人だったのだ?」

「儂の父は苦労絶えぬ人でな。 強国に左右を挟まれ、家臣団はまとまらず、国内では僧が力を持ち、彼方此方に不安要素を抱えた国の主だった。 そんな環境に生まれ、有能でも無かった父が取った道は、強者にこびへつらい、誇りを捨てて民と国を守ることだったのだ」

アッセアの顔色が変わった。別に家康にとって、その過去はトラウマでも何でもなかったが、アッセアには強烈だったのだろう。家康の背負っている重みは、アッセアの悩みなどとは次元が全く異なるのだ。それは個人に与えた精神的打撃という点では比較ができないが、背負う重みに関しては全くの別物であった。

「それは……」

「儂もそんな環境であったから、幼い頃に人質に出された。 そして強国の間を右往左往しながら、大人になったのだ。 だが、不思議なことにな、苦境が却って団結心を産んだ様で、儂が国主に就任した頃には他国に誇れるほどの団結心があった。 それは儂の財産だった。 国は途轍もなく貧しく、彼方此方に不安を抱えていたが、それだけは儂にとって希望の光だったな」

黙り込むアッセアに、家康は椅子に背を預け、それをゆっくり揺らしながら続けた。水差しから杯に注がれる水音が、嫌に大きく響いた。

「民は飢えていた。 飢えていたのは民だけではなく、儂の家臣達もだった。 儂の父は決して暗君ではなかったが、弱かったのだ。 結果、国はこうも荒れ果ててしまった」

「……その……家康殿の父上は」

「家臣に殺された。 儂の祖父も家臣に殺されたのだがな。 ……まだ儂が幼い頃だ。 そして儂は隣国の強大な大名の世話になり、結果相手のことを全て聞かねばならなかった。 成人しても、だ。 戦には弾よけに大事な家臣達を使わねば成らず、国の米も金も、極限まで吸い上げられた。 何故、この様なことになったのか。 それは儂が弱かったからだ」

家康の口調はさほど荒っぽくはなかった。むしろ静かで、それ故に巨大なエネルギーを内包もしていた。水を口に含むと、家康はわざと視線をアッセアから外し、言葉を続けた。

「そんな情けない儂を、民は受け入れてくれた。 何故か、それは儂を信ずるにたる主君だと思うてくれたからだ。 儂のすむ土地の民は正直で冷酷でな、国主に至らぬ所があればそれは破滅に繋がっていたのだ。 だから儂は……民のために命をかけた。 民のため、家臣達のためであれば、彼らが嫌がることも積極的にした。 その過程で多くの血も流れたが、それは仕方のないことだったな。 儂は強くなることを誓った。 そのためには他人の戦に兵も出し、優れた敵からは何でも学んだ。 人の使い方、領国の経営の仕方、国のあるべき姿、戦のやり方、何でもだ。 真の姿ですらも偽った。 それが、領国のためだったからだ。 儂の直接の師匠は大原雪斎僧正であったが、本当の師匠は、儂が関わってきた物全てだ。 そう、今此処で関わっている、コーネリアでの出来事も、この世界のまつりごとの仕組みも、戦の仕組みも、謀略でもたらされることも。 全てが儂の師匠だ。 全ては強くなるため、強くなって、誰よりも強くなって、儂を信頼し、命を預けてくれる者達のために戦う。 それが儂の生き甲斐なのだ、アッセア将軍」

「家康殿……私では、とても叶わないな」

「いや、そんなことは無い。 アッセア殿の用兵は見事だ。 恐らく軍才は、儂以上であろうよ」

家康の言葉は本心からであったから、嫌みは全くなかった。家康も若い頃から、名将と名高かった(清康)の再来等と言われたのだが、同じ年の頃アッセアと刃を交えたら、まず勝ち目はなかっただろう。膨大な経験を身につけて、ようやく今は良い勝負ができると言う所である。戦の手腕という物は、たゆまぬ勉学も大事だが、それ以上に才能が物を言うのである。杯の水を飲み干す家康に、アッセアは多少顔を赤らめながら言った。

「その……家康殿。 この戦いが終わったら、いや帝国が完全にこの国に手を出さなくなったらなのだが……」

「何だ、アッセア殿」

「私の、師となってくれないか? その……様々に教えを請いたい」

しばしの沈黙の後、家康は心中で苦笑した。この様なことを言い出すと言うことは、半年ほど後に、用が済んだら家康が故郷に帰ることは、アッセアは知らないのだろう。此処で断れば、この負けん気の強いお嬢ちゃんが臍を曲げてしまう事は明かであった。それに、アッセアの成長は、イレイムの成長と列んで、家康としても見てみたいことではあった。だが、それは、思いはせる故郷の家臣達や民に比べたら、幾分か弱かった。

「ふむ……分かった。 考えておこう」

「本当か? ぼ……こほん、私は嬉しい。 これは、是非頑張らねばならないな」

子供の様に無邪気に言うアッセアを見て、家康はもう一度、心中にて苦笑していた。今後もアッセアは、確実にコーネリアの生命線になる。あまり帰還した後も、臍を曲げる様な事があってはならないだろう。

それだけ考えて、家康はもう一度心中にて苦笑していた。もう少し上手い受け答えが出来なかったものかと、思ったのだった。

 

2,修羅になりし者、修羅から帰りし者

 

「はい、みなさん、おつかれさまでしたぁ」

「おおおおお、かーちゃん! かーちゃんこそ、御苦労様だったーっ!」

「はいはい、お疲れお疲れ」

家康の指揮する本隊から少し離れた林の中で、七人の人間が祝杯を挙げていた。それは、今回の演習で思う様周囲に有能さを見せつけた、コーラルの特務部隊であった。現在、この部隊は(第七特務部隊)と便宜上呼ばれており、中隊待遇を受けている。わざわざ彼らが森の中で祝宴を開いたのは、周囲に豊富な食料があるからで、つまみに事欠かないからであった。無論そのつまみには、猛獣や魔物も含まれるのである。後方任務担当として隊にはいることを認められたアイサは、いつも大きな動物や魔物を捌かねばならないので、遣り甲斐がありそうにしていたが、同時にかなり疲れている様だった。

ここ数日で、藍は何度と無くロフェレス夫妻の圧倒的な力を目にした。特に妻のコーラルと来たら、完全に(幸村)の力を引き出しても勝てるかどうか分からないほどである。単純な物理戦闘能力だけではなく、簡単な魔法をも使いこなすのだが、その使い方が極めて巧みなのである。自分の能力に合わせて戦略を練り、戦術レベルでそれを完璧に引き出しているのが誰の目にも明かであった。

この世界に来てから、特に覚醒してからというもの、藍は普通の女の子が興味を持つ様な事柄には見向きもしなくなり、逆に戦闘にばかり関心を示す様になってきている。無論、アイサやティータと遊んでいるときは話が別だが、やはり興味のベクトルは普通の少女とは大きく外れてしまっていた。今も、頭の中で何度もロフェレス夫妻の個々の能力、戦略と戦術、それに息のあったコンビネーションを反芻し、それに対応する策や、自分の能力に反映する方法を考えていた。

宴もたけなわになると、どれだけ飲んでもまるで酔わないコーラルが立ち上がった。隣には、逆にコップ一杯の低濃度アルコールでひっくり返ってしまったフィフィが、気持ちよさげに鼾をかいていた。

「はい、みなさん、それではおしらせがあります」

「隊長、何でしょうか」

「今月末から来月初頭、帝国がぁ、いよいよせめてきます。 これはぁ、ほぼかくじつな情報です」

それを聞いて、藍の目が獲物を睨む鷹の様に細まった。いよいよ、公然と人を殺せる事態が到来するのである。ここ暫く、猛獣を何度も切り刻んで殺したが、やはりそれでは満足しなかった藍。彼女の中では、欲望が獲物を求めて目を輝かせている。そして、人間でなければ、その欲望は到底満足しないであろう。快楽殺人者には、(殺す)ことよりも、(人間を殺す)ことが重要なのである。藍にしてみれば、結構我慢してやりくりしているのだが、それも限界が近い。藍の目が異様な輝きを発するのに気づいてか気づかないでか、コーラルはいびきをかく夫の隣で続けた。

「わがぶたいはぁ、いろいろな困難な任務をおこなわなければいけません。 みなさまのぉ、けんとうをいのります」

「具体的には、どんな任務なんですか?」

生真面目にミシュクが手を挙げ、発言した。まだ酔いが足りないらしく、口調はしっかりしていて、上げた手もぴんと空を目指して伸びていた。それに対して、コーラルの口調は代わらず、表情も微動だにしない。

「だめよぉ、ミシュクちゃん。 ひみつは、ちょくぜんまでとっておくものよぉ」

「はぁ、しかし、任務の内容が漠然とでも分かれば、対策は練りやすくなると思ったのですが」

「ううん、だめ。 おしえられないわぁ。 それと、私以外のひとのまえで、それをいっちゃあだめよ」

防壁は堅いと判断したか、ミシュクは口をつぐんで引き下がる。その肩をヨシュアが掴んで、自分の方に一気に引き寄せた。その目は完全に座っていて、思わずミシュクが引きつった。

「ミイイィシュクぅううううう。 飲みが、足りないよぉおおおおだなぁああああああ」

「ひっ! ヨシュアさん、飲み過ぎだよっ!」

「あぁん? 俺の何処が酔ってるってぇええええぇ? バカを言えタコがぁああっ! 俺はなあぁ、俺はなぁああああああ! ちっとも酔っちゃいねええええええっ! そして、それはてめええええぇえもだああああっ!」

ヨシュアに、ダイレクトに高濃度アルコールの瓶を口中へとつっこまれ、悶絶するミシュク。その脇では、第七特務部隊の一人であるセイシェルが、無言のままワインを傾けていた。

狂乱の宴はしばし続き、やがて静かになった。酒を飲める者達が、コーラルを除いて全滅したのである。コーラルは酒を鯨の如く飲み干し、殆ど表情が変わっていなかった。最後まで残っていたセイシェルが無言のまま地面に沈むと、コーラルはゆっくり藍に視線を向けた。

「あいちゃん、なにをかんがえているの?」

「ええと……別に」

「ひとをころしたいの?」

硬直する藍に、微笑を続けるコーラル。コーラルはそのまま、焚き火に巻きを一本追加した。闇夜の中、其処だけが明るい。先日から曇りが続いたため、地上に光は届かず、周囲を焚き火の光だけが照らしていた。

「何故……分かるの?」

「それはねぇ。 すこしながくなるんだけど」

笑顔のままコーラルは座り直し、いつもの幼い口調で、自分達が如何なる環境で生きてきたか、それを静かに、のんびりと語り始めたのであった。

 

既に地図上に無い国が、ロフェレス夫妻の故郷だった。地図から消えたのは、つい十年ほど前の話であり、それを行ったのはハイマンドだった。大陸中央部にあった、シュターデルフ公国が、件の国であった。

この国は、統一王朝時代から続く名門であったが、ここ暫く名君が現れず、国民は苛政に喘いでいた。酷薄な国王は、民衆から絞れるだけ搾り取り、貴族共と宴会やダンスパーティばかりを行ってそれを浪費した。対外的には、無理に兵を駆って侵略活動を繰り返し、周囲に血の雨ばかりを降らせていた。

まがりなりにも大国であったから、地盤はゆるんでいたがその国力は強大で、圧力は周囲の国々に対して極めて過酷であった。また、公国には傑出した将軍が何名かいて、国王のやりたい放題を心ならずも助けていた。だが、その情況は一変した。勢力を広げ続けた帝国が、ついに公国と国境を接したからである。

ハイマンドに率いられた帝国軍は強かった。しかも、民衆を味方につけており、その善政は大陸全土に轟いていた。その上、公平な目で人材を評価し、奢ることがなかったため、有能な人材が彼の元へと次々に集まっていたのである。周囲の小国を火が出る様な勢いで次々と切り従えた帝国軍は、鋭鋒をシュターデルフ公国へと向けた。しかも、ハイマンドは公国の切り崩しにも余念が無く、有能な人材は次々に帝国へと流出した。

三度の大きな会戦が行われ、いずれも兵力が劣っていたにもかかわらず帝国軍が勝利した。兵力以外のありとあらゆる面で、公国は帝国に劣っていたのである。帝国軍は民衆に対して略奪を行わず、たまに不届き者が出ると容赦のない処罰が行われた。それに対して公国軍は平気で略奪を行い、抵抗する民衆には裏切り者のレッテルを貼って虐殺した。そんなことが繰り返された結果、民衆は歓呼の声で帝国軍をむかえ、内応する者が続出した。だが、流石に数百年を経た国だけあり、すぐには瓦解しなかった。五年を掛けて、ハイマンドは公国の領土を蚕食していった。

公国を支えていた将軍達も、次々と帝国軍に捕らえられ、或いは臣従し、或いはそれを潔しとせず死を選んだ。元々地盤がゆるんでいた公国は、文字通り落陽の様を見せ、一秒ごとに弱体化していった。

最後の決戦が行われた。その頃国王は疑心暗鬼から半ば狂気に落ちており、諫言を行う心ある家臣を次々に処断し、周囲を無能なイエスマンばかりで固めていた。もはや、国王に殉じようと言う者は殆どいなかったが、それでも少数はいた。王宮に突入した帝国軍は必死の反撃を受けて若干苦戦し、ハイマンドを驚嘆させた。

だが、それも最後の輝きという物以上ではなかった。狂気じみた咆吼を上げる国王の側には、もはや心ある家臣は誰もいなかった。前線に出ていた将軍達は、残らず倒れるか降伏した。そして、国王の部屋に帝国軍兵士が乱入し、その首を上げた。

だが、問題だったのは事後処理であった。ハイマンドの元に、保護された十数名の子供と、狂気じみた実験の報告書が届けられたからである。

 

コーラルが覚えている一番古い記憶は、如何にして人を殺すかという授業だった。後々、彼女は奴隷市場から買われ、国王の狂気じみた実験に参加させられていたことを知った。解放されたかなり後、ハイマンドの手によって公国に関する情報が公開され、概要を知ったのである。その概要とは、大体以下のような物になる。

帝国に領土を蚕食され始めていた公国では、国王の命令が実行に移されていた。すなわち最強無敵なる人間兵器の開発である。それを持ってして、ハイマンド自身をピンポイントに屠り去り、帝国を瓦解へ導こうという計画であった。

まさしく愚策の中の愚策であろう。公国が滅びに瀕したのは、今までの失政の積み重ねが原因であり、帝国の外圧は滅亡のきっかけに過ぎない。帝国軍が攻め寄せなかったとしても、恐らく数年来には民衆が大規模な反乱を起こしたことはほぼ疑いがなかった。だが、それを進言した者は尽く墓場に直行させられ、国王は自ら指揮を執り、(人間兵器)の作成に着手した。

子供は無作為に、奴隷市場から買い集められた。元々公国内では、奴隷はモノ以下の価値しかなかったから、それに異議を唱える者はいなかった。様々な戦闘技術の専門家が集められ、暗殺術のプロが結集した。子供達には感情など育つ暇はなかった。子供にとって最も大事な時期を食いつぶすように殺戮の技術を習得させられ、やがて子供達の心は闇へと閉ざされた。それを、マインドコントロールの強固なシェルターが封鎖した。

子供達の内、最も年長者だった者達は、実戦投入もされた。それがコーラルとゲフゴーズトだった。彼女らは魔物との戦闘で実戦を経験した後、何カ所かの小規模な戦場に投入された。結果は、おそらく狂える国王の予想を遙かに超えていただろう。二人は、たった二人は、一個小隊にも勝る戦闘能力を発揮し、想像を絶する戦果を上げたのである。国王は有頂天になった。だが、それまでだった。

帝国軍は既にその頃、兵力に置いても公国軍を遙かに上回っていた。また積極的な遠交近攻策を実施し、効果的に近隣の敵を排除していた。また、公国軍に元から所属していた者も多く帝国には下っており、彼らから(秘密兵器)の事は幾らでも情報が行っていたのである。

帝国軍の最終的な猛攻が始まった。コーラルもゲフゴーズドも常識離れした奮戦を行ったが、絶大な物量には、龍車の前の蟷螂の斧に等しかった。二人はひとたまりもなく捕らえられ、皇帝の前に引きずり出された。当然コーラルは首をはねられるものかと思い、隣でうなだれるゲフゴーズトと共に悄然としていたが、皇帝の反応は意外な物であった。マインドコントロール解除専門の医師を呼び、二人にかかっていた精神的なくびきを外してくれたのである。

 

不意に自由になった二人は、風の噂で実戦に未投入だった(仲間達)が、皇帝に解放されたことを知った。元々二人は組んで仕事をするように訓練されていたこともあり、離れて暮らすのも辛く、一緒に旅を続けた。夫婦になったのも、ごく自然な成り行きであっただろう。

だが、元々一般常識など知らない彼女らに、まともな生活などできるはずもなかった。まず、金銭面での圧迫が大きな障害となった。試行錯誤の末、自分の技能を生かすべく、傭兵に入ってみた事もあったが、剰りにも苛烈すぎる敵への攻撃が咎められ、長続きはしなかった。傭兵を諦め、二人は仕事を探した。そして、次に就いた仕事こそが天職となった。それがすなわち、魔物狩りだった。魔物が相手であれば、どんな苛烈な攻撃をしても、全く咎められる事がなかったからであった。

二人は嬉々として仕事に熱中した。少しずつ作られていった心と一緒に、今まで封じられてきた生物的な、原初的な欲望が制御出来なくなってきていたのである。それはすなわち、殺戮に対する生理的なまでの欲求だった。

だが、心も同時に育っていった二人は、非常に大きな矛盾を抱えるようになった。相手が魔物であろうと、思うままに暴力を振るうことが、如何に人倫に外れるか悟り始めたからである。途中で帝国のスカウトも何度か来たが、二人は尽くそれを断った。ハイマンドに個人的な恩義を感じてはいたが、同時に自己への探求心は更に強かったのである。数年、世界を旅し続け、やがて二人は悟った。血なまぐさい場所に行けば行くほど、二人は血が騒ぐのだと。そして、その血に酔い、愉しみたくなるのだと。獣としての本性が、うずくのだと。

そして、二人は、戦のない土地へと向かった。そして、コーネリアにたどり着いたのであった。二人にとって、この地は天恵の土地であった。だが、戦が迫りつつあることを、二人は敏感に察知していたのである。そして、それと同時に、人でありながら最強の獣である存在もが、覚醒しようとしていることも。それは、二人であったからこそ察知出来たことであった。そして、運命が引き合うように、藍と巡り会ったのである。

 

話を終えると、コーラルは少し眠そうに目をこすった。その幼い動作を見て、藍は悟った。この女性は、子供っぽいのではないのだと。そうではなく、精神年齢が、ようやく子供に達したほどしかないのだと。恐らくそれに関しては、ゲフゴーズトも同じなのであろう。

そして、同時に親近感もわき始めた。自分の中にある冥い思いも、この二人であれば理解出来るのではないか、共有出来るのではないかと思ったのである。

「あの……コーラル隊長」

「ん? どうしたのぉ?」

「私の中にいる、大事な存在。 心の支えで、同時に血を求めて暴れる愉しさを教えてくれた存在なんだけど、何なんだろうね」

コーラルはしばし考え込んだ。薪がはじけて、火花が周囲に散る。それが三回繰り返された後、口を開く。

「それはぁ、きっと、じぶんでみつけるものよぉ」

「そっか。 それもそうだよね」

藍はいたずらっ子にふさわしい、悪辣で弾力に富んだ笑みを浮かべると、後ろに寝っ転がった。彼女の周囲環境は、少しずつ良くなってきている。何より、自分の闇を理解してくれる人が現れたことは、とても大きな精神的な逃げ場となった。

藍はこの世界が好きになってきていた。この土地のことも好きになってきていた。おっとりしたイレイムも、どこか抜けているアイサも、自分を慕ってくれるティータもである。そして理解者という最大の後援者を得た彼女は、ごく自然に闘いへと自分を駆り立てることができるようになっていた。

そして、心の余裕は、忘れていた物も呼び覚ます。藍は故郷のことを思い出していた。自分の家、自分の居場所。無数の真田幸村に関するグッズ。それらの元にも、帰還したいと思っていた。それを成し遂げるには、やはり此処で戦い抜かねばならない。そして、勝たねばならないのである。

藍は静かに決意を固めた。そして拳を固めると、そのまま無言で天に向けた。それは、彼女にとって、決意を示す一種の儀式だったのである。

 

3,乱世の英雄と、国策の犠牲者

 

現在、帝国軍は続々と南部諸国連合との国境地帯に集結しつつある。それに伴い、幾つかの戦略的拠点は急ピッチで修復され、或いは補強され、また幾つかの街道もいそいで慣らされていた。同時に、大量の物資も集積され、後方拠点に設定された幾つかの都市では、思わぬ掻き入れ時に上へ下への大騒ぎをしていた。

そんな中、帝国軍親衛竜師団へ向け、数名の供と共に歩いている人影があった。供は皆帝国軍兵士の軍装であり、正式配備されている槍や剣を身につけている。そのため、誰も咎める者はいなかったが、流石に本営となっているヨツムント城に入ろうとするときは、歩哨に咎められた。

「止まれ! 何者だ!」

「帝国軍南部方面軍第四師団副師団長、ジェシィ=ブラドウッド少将だ。 陛下にお目にかかりたい」

「これは失礼いたしました。 念のため、身分証をお願いいたします」

無言のままジェシィは身分証を取りだし、それはすぐさま本物だと確認された。兵士が城内へと走り、程なく慌てたように素早く中から高級士官が現れ、ジェシィは皇帝の元へと案内された。内部には親衛師団の各師団長を始め、帝国中枢を担う高官が何名もおり、彼らに敬礼しながらジェシィは奥へと進む。奥へ進めば進むほど警備は厳重となり、やがて皇帝が使っている部屋の前へとたどり着いた。

皇帝は基本的に豪奢な部屋を好まない。かって城主が使っていた部屋は会議室にしてしまい、平の武将が使っていた広くも狭くもない部屋を利用している。取り次ぎを部屋の外に佇立していたザムハルグに頼むと、帝国最強の男はすぐに皇帝に話を持っていってくれた。連日の激務に流石に皇帝は疲れているようだったが、それをおくびにも出さず、部下を部屋に案内した。

「ジェシィか、良く来た。 何か良い酒でもあればいいのだが、戦場で私だけ良い思いをするわけにもいかん。 暫く不自由が続いているが、これは致し方のないことだな」

「戦場に置いては、至極当然のことでしょう。 兵士と同じ食事をする陛下は、尊敬に値します」

「はははは、まあ、お前に褒めてもらえれば悪い気はせぬな。 ……それで、情況はどうなっている?」

「はい。 我が第四師団は、コーネリア王国への侵攻準備をほぼ整えました。 補給物資、兵備、指揮系統の整備等に問題はありません。 これが侵攻の計画書となっております」

ジェシィの差し出した報告書を受け取ると、ハイマンドはそれに素早く目を通した。この計画書はゼセーイフが書いた物であり、一応ミディルアも承認の印を押していた。だが、ハイマンドは、あまり良い顔をしなかった。

「ゼセーイフは、相変わらずだな。 無能な男ではないのだが、敵を舐めすぎる」

「……」

「他に何か思い当たる点はないか? 遠慮無くもうして見よ」

本来、讒言とは極めて忌むべき行為であり、まともな君主ならそれを受けて喜ぶことはまず無い。だが、今回は状況が特殊である。ジェシィは野心が皆無であり、利害関係を元に相手を貶めるような発言をすることがない事は、皇帝も良く知っていた。それで、わざわざゼセーイフへの率直な意見を求めたのである。その事情はジェシィも良く悟っていたから、何の遠慮もなく発言した。

「ゼセーイフ師団長は、功を焦っているように見受けられます」

「……奴には、能力にふさわしい地位を与えているのだが、不満なのか」

「いえ、同僚に先を越されて悔しいと、酒の席で言うことがあります。 おそらくは誇りの問題かと」

「ふむ……そうか」

ハイマンドは小さく嘆息した。考えてみれば、ゼセーイフは宿将の一人である。例え能力が幾分か小粒であっても、それなりに目を掛けてやる必要はあるのかも知れない。何しろ、世の中の人間の殆どは、凡人なのだから。

ゼセーイフは軍を支えるほどの名将ではないが、無駄に捨てて良いほど無能でもない。しばし思案を巡らすと、皇帝は再びジェシィに言った。

「単刀直入に聞こうか、ジェシィ。 ゼセーイフは、勝てると思うか?」

「……コーネリアの情報は、殆ど外に漏れません。 それ故に、私が見て回った範囲だけの情報で判断します。 おそらく、短期間で圧倒的な勝利を得るのは不可能だと思います」

「理由は?」

「コーネリアはしっかりした地盤に立つ国です。 そして、最近現れたイエヤスという男の手腕は、町で得た断片的な情報でも相当な物だと判断出来ます。 負けるとも思いませんが、同時に勝てるとも思えません」

明快なジェシィの言葉を聞くと、ハイマンドは苦笑した。そして軽く手を振ると、もう良いと動作で示した。

「大体分かった。 それで、ジェシィ少将。 いつ城を発つ?」

「報告も終わりましたので、もう発とうかと思いますが」

「いや、貴官は少し働きすぎだ。 今日一日くらい休んでいけ」

数秒の沈黙の後、ジェシィは敬礼した。

「了解しました。 陛下の命とあれば」

 

帝国軍の座右の銘は、質実剛健である。また、皇帝は、誰よりも厳しく自分を律し、それは末端の兵士に至るまで良く知られていて、士気の向上と風紀の引き締めに一役買っていた。

だが、皇帝個人としては、それが歯がゆいときが何回もあった。特に今日はそう感じざるをえなかった。ジェシィは言葉通り、本当に、与えられた部屋で熟睡しており、自分自身は夜半過ぎまで軍議に参加せざるを得ず、終わったときには疲れ果ててしまった。無論ザムハルグや他の兵士達も、口の堅さには信頼感がある。皇帝がジェシィに手を出した所を見ても、絶対に口外しないだろう。だが、部下に権力を傘に手を出すというのは、皇帝の責任とプライドが絶対に許さないことだった。

皇帝は何人かいる皇妃も愛しているが、同様にジェシィも愛していた。だが機械的な上に、鈍いことこの上ないジェシィの性格もあるし、皇帝としての立場もある。故に歯がゆい気分を味わいながら、ジェシィを常に見守るしかなかった。実に皇帝とは、まともな国家であれば、本当に不自由な存在なのである。まして、帝国は現在地盤が固まりきっておらず、皇帝の行動次第ではいとも簡単に瓦解してしまうおそれがある。皇帝は、誰よりも言動を選ばねば成らず、誰よりも国のために働かねばならぬ身であった。

また、皇帝には幼い子供もいる。この子供のことを考えると、醜聞を残すことが如何に大きなマイナスか容易に理解出来よう。

そして、皇帝はそれらを理解し、自らを律することができる存在であった。そうでなければ、混乱に陥っていたこの大陸の北半分を、殆ど一代で統一するなど不可能であっただろう。

 

ふと皇帝が気がつくと、朝になっていた。余程疲労がたまっていたらしく、落ちるように眠り込んでしまったようであった。寝間着から正装に着替えて外に出ると、ザムハルグが敬礼した。いつ寝ているのか分からないと言われるこの男は、実際には生え抜きの部下と交代で一日四時間ほど睡眠を取っている。普通の人間には明らかに足りない時間であったが、鋼鉄の剛将と呼ばれるこの男には、充分すぎる睡眠時間のようであった。

「陛下、おはようございます」

「うむ。 見張りご苦労」

「食事の準備ができております。 兵士達には、いつものように行き渡った後にございます」

頷くと、皇帝は食堂へ向かった。そこではいつものように質素な食事が並べられ、何人かの将軍が食を取っていた。皇帝の登場に気づくと、彼らは一斉に立ち上がって敬礼をし、皇帝は軽く片手を上げて楽にするように指示した。皇帝が腰を下ろすと、ザムハルグもそれに習い、黙々と食事を取り始めた。

皇帝は決して貧乏性ではないが、特に出陣の際は必ず一般兵士と同じ食事を取った。それを必ずしも将軍達には強制していなかったが、元々質実剛健な風潮もあり、自然と皇帝のまねを将軍達がするようになっていた。それに此処暫くは将の有能さもあって、補給はしっかりしており、帝国軍が飢えたことはなく、あまりにもまずい食事が出ないのも、その慣習が守られる要因の一つであっただろう。

皇帝は食事を取りながら周囲を見回し、ジェシィの姿を見つけた。隣にはハイマーがいて、なにやら話しているようである。時々ハイマーは皺の寄った顔に笑顔を浮かべ、咳払いしながらジェシィになにやら語りかけていた。ジェシィは相変わらず無表情で、事務的に、いやむしろ無機的な対応をしていた。

そんなことぐらいで功臣であるハイマーに嫉妬するほど皇帝は子供ではなかったが、全く気にならないはずもない。皇帝の食器が止まりがちなのを見て、ザムハルグが大きな手で食卓上の陶器を掴んだ。

「陛下、ケルをどうぞ。 これは安くて美味しい良いケルで、食が進みます」

「む? おお、すまぬな。 注いでくれ」

「はっ。 では、注がせて頂きます」

無骨な大きな手から比べると、ままごとの道具のように陶器の瓶は小さかった。だが、ザムハルグは不器用ながらも丁寧に皇帝のカップにケルを注ぎ、一滴もこぼさなかった。

やがて、ハイマーが出ていくと、それにつられて他の将軍達も、皇帝に敬礼して随時出ていった。食堂は静かになり、食器を片づける音が響き始める。皇帝は自らも食事を終えると、同じように食事を終えたジェシィの元へと歩み寄った。

「昨日は眠れたか? ジェシィ少将」

「おかげさまで、良い休養になりました。 栄養を補給しましたので、早速発とうと思います」

「うむ。 だが、その前にコーネリア王国攻略戦について、幾つか指示を出そう。 隣室へ来てくれ」

ジェシィは言われるまま、隣の小さな会議室についてきた。ザムハルグはその戸の前に陣取り、誰も通しはしないだろう。二人きりの空間が作られたわけであるが、交わされた会話は色気のないことこの上なかった。皇帝は小さな円卓の椅子に腰掛け、ジェシィはその向こうに立った。

「まず、コーネリア軍を侮らないこと。 ゼセーイフも、余がわざわざそういえば、少しは警戒しよう」

「了解いたしました。 しかと伝えます」

「次に、敵を深追いはしないこと。 必ず退路を確保してから、敵を追うようにせよ」

「了解いたしました。 それも、確実に伝えます」

考えてみれば、それは侵略戦の常識である。だが、常勝に奢った侵略軍が、貧弱な敵に敗れたことなど歴史上枚挙にいとまがない。今回は威力偵察が目的だとミディルアから報告が来ているが、敵を侮りすぎれば絶望的な敗北が待ち受けている可能性もある。ジェシィは皇帝の言葉を大まじめに反芻すると、きちんとメモを残した。皇帝はそれを見ながら僅かに表情をゆるめ、私人としての表情でジェシィに言った。

「公国が滅びて、もう十年になるのだな。 余もジェシィ少将も年を取った」

「私に心を与えてくださって、感謝しています」

「うむ……そうだな」

皇帝は、ジェシィと会ったときの事を思い出した。それは、大陸中央部の強国、シュルデフ公国を滅ぼした日のことであった。

 

本陣で座す皇帝の前に、公国の重要人物が次々に衛兵に槍や剣で威圧されながら現れた。ある者は昂然と胸を反らし、ある者は露骨におびえ、ある者は打算に冷や汗を垂れ流していた。立て板に水を流すように、まだ若い皇帝はそれを捌き、或いは死罪に、或いは家臣に加え、或いは追放刑を言い渡していた。遠くでは、無闇に華美な公国王宮の一部が戦闘によって燃え、巨大な松明となって夜空を照らしていた。公国の、象徴的な印象すらを与える最後だった。そんな中、まるで感情のない、氷のような眼差しの女の子が、彼の前に連れてこられた。なんでも(実験動物)とレッテルが貼られた部屋に、何名かの子供と押し込められていた所を、保護されたのだという。皇帝は先ほど捕らえた、戦鬼の様な二人組を思い出し、マインドコントロールの解除と護送を部下達に命じると、事後処理に戻った。女の子は、連れて行かれる間も、ちらちらと皇帝に視線を送っていたようであった。

数ヶ月後、王宮で次の戦いの準備を何名かの将軍と協議していた皇帝は、公国で保護した子供達のことをふと思い出した。会議の後、作業を任せた家臣にその後を聞いてみると、マインドコントロールの解除後、半数ほどは何名かの家臣の養子になり、残りの半数ほどは士官学校への編入を望んでいると言うことであった。皇帝が冷たい目の女の子のことを訪ねると、家臣は資料を手早く調べ、有力な将軍の一人、老将エズモンド=ブラドウッドの養子になったと返答した。エズモンドは子にも孫にも先立たれており、それなら問題なかろうと、皇帝は後五年にわたって女の子のことを忘れた。

五年後、エズモンドの麾下に、嫌に有能な副官がいるという噂が、皇帝の元に届いた。何でも機械的な正確さと、何事にも動じない冷静さを持つとかで、一兵卒から見る間に出世したのだという。流石に下士官の人事までは責任を持っていなかったから、その詳細について皇帝は知らなかった。

やがて、戦場にて、直接エズモンドに、皇帝は有能な副官とやらを紹介された。その顔を見て、皇帝は流石に驚いた。五年前に、エズモンドの養子となったと聞いた、例の女の子だったからである。

相変わらずの徹底的な無愛想と、機械的な調子は健在であったが、完全に違っていたのは、もう子供ではないと言うことであろう。だが、どうもそれは肉体面に限るようで、エズモンドが恥ずかしげに言った。

「この子は、ジェシィはワシの元に来たとき、ようやく人としての生を受けたようじゃった。 今、少しずつ心は育っておりますがのう、まるで乾いた土から出た、しなびた小さな芽のようじゃあ。 豊かで広い心を持つ事はできるか、ワシは未だに心配ですのう」

「そうか。 エズモンドよ、血の繋がらぬあの子を大事にしてくれて、礼を言うぞ」

「いえいえ、とんでもない。 ……老い先短いこの愚将の最後の望みは、あの子が幸せになってくれるかどうかという所ですがのう」

そう飄々と言っていたエズモンドは、翌年死んだ。帝国の初期を支えた老巧な名将は、以外にも自宅で命を終えることができたのである。ハイマンドは、エズモンドの事もあるし、ジェシィのことに気を配るようにし始めていた。

ハイマンドが最も不安を感じたのは、エズモンドの葬式の時でさえ、ジェシィが涙の一つも見せなかったことである。エズモンドは心が育ちつつあると言ってはいたが、不満に駆られたハイマンドは、有能さを発揮して出世を続けるジェシィに、時々心を持つよう働きかけていった。ジェシィも自分が心を持つとエズモンドが喜ぶことを知っていたから、ハイマンドの言葉を素直に受け入れ、代わろうと努力していった。

そして、現在に至る。ジェシィは副師団長にまで出世し、皇帝は大陸の覇権を掛ける戦いに、これより望もうとしていたのであった。

 

「……いよいよ、余は、大陸の命運をかけた戦に挑もうとしている」

昔話を終えた皇帝が、不意に真面目な顔になった。元々聞き手だったジェシィは、皇帝の言葉に時々頷いてはいたが、自分から積極的に話そうとはしなかった。皇帝は、ジェシィに何か言おうとしたが、それを飲み込み、しばしの沈黙の後言った。

「君の髪には、何か飾りを付けてみてはどうだ? 無論、邪魔にならぬ範囲でな」

「了解しました。 誰か他の将軍に相談してみます」

「うむ。 長話につきあわせて悪かったな。 コーネリア攻略戦、貴官の健闘を祈る」

完全に公人としての、皇帝としての表情を作り、ハイマンドは帝国式の最敬礼を行った。ジェシィも完璧な動作でそれに応えると、部屋を後にした。どうにも成らぬ二人の、どうにも成らぬ時間は、静かに終わりを告げたのであった。

 

4,女王の決意

 

イレイム=アス=コーネリアは、王都へ戻ってきていた。だが、翌日にはまた前線に赴くつもりである。しかも今度は視察ではなく、実戦を行う軍の中へ、士気を高めるために行くのであった。

セルセイアの情報によって、いよいよ帝国軍南部方面防衛軍第四師団が、一週間以内の侵攻を始めることが確実となった。敵軍の兵力は五千強。帝国軍師団の中では小規模な部隊ではあるが、それでもコーネリア王国軍全軍を遙か凌駕する大軍である。しかも、精鋭といえない第四師団と言えど、侮ることは到底できない。家康が半年がかりで鍛え上げたからこそ、現在は五分に戦えるであろうが、もしそうでなければ、ひとたまりもなく戦慣れした敵に押し潰されてしまった事であろう。帝国軍は、今まで撃退してきた相手とは、訳が違うのである。

首都には、ドルック長老が、極少数の守備兵と共に残る。これは警備を行う最小限の数であり、事実上戦闘訓練を受けた者は、ほぼコーネリア王国北部国境地帯に集結していると言って良い。エイモンド長老と、タイロン長老は、イレイムに従って王都を出た。数日の後、守備兵を伴った女王は、家康の陣へとたどり着いていた。家康の陣に集結した兵力は、農民兵も会わせて約二千五百。四捨五入すれば、何とか二千六百になる。だが、そうした所で帝国軍の半数に過ぎず、数的劣性はどうしても否めなかった。

既に戦闘発生予想地域から、住民は避難を完了している。何度も訓練を行った結果であり、その行動は迅速であった。兵士達は落ち着いており、むしろ悠々と敵を待っている。これは家康とアッセアの手腕を間近で何度も見た上に、激しい演習を何度も繰り返し、自信をつけてきたことの現れであろう。無論、家康の、卓絶した人心掌握能力も、兵士達の落ち着きに一役買っていることであろう。

家康はイレイムを出迎えると、補修の完了した砦を示した。小さいながらも良く整備され、恥ずかしげのない姿を見せるそれは、確かに兵士達を安心させるに充分であった。周囲の布陣は全く文句のつけようが無く、理にかなっている。砦内から家康に遅れて現れたアッセアもイレイムに礼をし、主君を奥へと招き入れた。会議室に、この場にいるコーネリア王国幹部が出そろうと、家康がまず発言した。

「いよいよですな、陛下」

「はい。 家康様も、アッセア様も、それに長老達も。 皆、よく頑張ってくださいました」

イレイムの言葉を聞くと、タイロンは静かに頷き、エイモンドは舌打ちして視線を逸らした。もっとも、最近はエイモンドも協力的な姿勢を取り、資材の確保や連絡体制の整備、避難計画の立案実行などでそれなりの業績を見せていた。そのエイモンドの側から、タイロンが前に歩み出た。

「イエヤス殿。 一応私が名目上の総司令官だが、気にすることはない。 遠慮無く、思うとおりに戦ってくれ」

「それでは、タイロン長老にはこの城にて、守備隊の指揮を執って頂きたい」

「了解した。 おやすいご用だ」

家康は頷き、タイロンに幾つかの紙束を渡した。そして、一言二言耳打ちすると、頷きあい、その後女王に向けて言った。

「陛下は、どうなさいますか?」

「私は……」

沈黙が流れた。家康は目を細めて、イレイムを見守った。今のイレイムが、政治的な判断をできるようになった女王が、どういう決断を下すか興味深かったからであろう。

「前線にて、兵士達と共に戦います」

「陛下……」

「儂の命にかえても、陛下はお守りいたす。 ご心配召されるな」

長老達に、家康は静かに頭を下げた。その瞳には、形容しがたい光が宿っていた。

 

砦の前に、およそ二千の兵士達が集まっている。彼らの見上げる先には、既に家康とアッセアが口を真一文字に引き結んで立っており、やがて女王がその間に現れ、彼女の臣民を見下ろした。

女王の眼下に居並ぶ人々は、今より命をかけ、戦に赴く。女王のためではなく、この国のためにである。そして、この国の最高責任者であるイレイムには、それを見届ける義務があるのだ。

「私は……コーネリア王国女王、イレイム=アス=コーネリアです。 兵士の皆様には、お集まり頂いたこと、感謝の言葉もありません。 私は生ある限り、今日の、偉大なるこの日のことを忘れないと、母なるこの土地に誓います」

一息にイレイムがそれだけ言うと、兵士達の間に流れていた雰囲気が一気に引き締まった。女王が演説を始めることが、彼らにも分かったからである。

「私は女王です。 そして、それは民に比べて偉いことを意味はしません。 それが意味するのは、私が、皆の責任を負って立つ存在だと言うことです。 それ故に、皆が私に命を預けてくださる事を、今まで感謝してきました」

イレイムは差し出された冷たい水を飲み、呼吸を整えた。今、イレイムは、象徴としての役目を完全に理解し、実行していた。女王の目にあるのは、自分の仕事を完璧に果たし、少しでも兵士達の生還率を上げようと言う使命感であった。

「私は、戦の場に赴こうと思います」

その言葉は効果的だった。兵士達が静まりかえり、小隊長や中隊長を務める者達も、固唾をのんで次の言葉を待っている。彼らの誰もが、まさか女王が前線に出る気などとは思っていなかったからである。

イレイムは数秒の間をおいて、言葉を続けた。頭の中で何度も反芻し、練り上げたであろう言葉を、兵士達の上に優しく掛ける。絶叫するわけでもなく、力強いわけでもなく、弱々しくもなく。だが、その言葉は聞き手の心を確かに掴んだ。なぜなら、彼女の心には、嘘がなかったからである。

「私は、今、皆様と責任を共有したい。 これは、本心からの言葉です。 皆様だけを死地に赴かせ、私だけ城の奥で震えているわけには行かないのです。 帝国軍は強大です。 しかし、私たちには、長年コーネリアを守り続けてきた長老達がいます。 名将家康様と、アッセア様がいます。 そして、なにより、母なる大地が我らを見守ってくださいます」

イレイムの顔は紅潮し、必死に興奮と呼吸を抑えている様が誰の目にも明らかだった。やがて、イレイムは、もう一度水を飲み干し、兵士達に語りかけた。

「私は逃げません。 もし戦利無き時は、私が帝国軍の刃に身を捧げ、皆を守ります。 皆の生活が守られるように、私が命をかけて、責任と誇りの元に生け贄となります。 そして、勝利の暁には、皆様に、最大の功労者たる皆様に、勝利の栄光を捧げたいと思います」

兵士達の視線は、イレイムの顔に釘付けとなっていた。多少見にくい位置にいる者も、その声に必死に耳を傾け、微動だにしない。やがて、イレイムは静かに最後の言葉を言った。

「これはおそらく前哨戦に過ぎません。 おそらく今侵攻しようとしている帝国軍を撃退しても、更にその背後には、勇猛な帝国の名将が待ち受けていることでしょう。 しかし、私は逃げません。 皆と責任を分かち合い、皆を守り、そして皆と勝利を分かちたいと思います。 最終的な勝利を」

言葉が終わると同時に、喚声が上がった。兵士達は女王が親愛の対象であると知っていたが、まさか此処まで心を奮い立たせてくれる相手だ等とは思わなかったのだ。女王を讃える言葉を叫ぶ兵士達の前で、イレイムは国宝たる剣を静かに引き抜き、天に向け掲げた。煌々たる陽光がそれに反射し、情況を更に神秘的に、更に美しく脚色した。

兵士達の士気が否が応にも高まるのを確認すると、家康が立ち上がった。そして、兵士達に号令を飛ばす。途端に彼らは落ち着きを取り戻し、プロフェッショナルの集団に戻った。数部隊に分かれ、慎重な速度でシャルテの森奥深くへ進軍していった。彼らの目には、今や誇りが炎を燃やしていた。

多少あざといやり口ではあったが、効果的な方法であるのは確かだった。実際にイレイムは鎧に身を包み、護衛と、家康の部隊と共に森に入った。

これでセルセイアがいれば心強いのに、とイレイムは思ったが、すぐにその考えを頭の中でもみ消す。家康は最精鋭を率いており、周囲の兵士達も皆逞しく、引き締まった顔つきであった。やがて家康は、国境地帯まで進出し、既に守備兵が引き払った関所兼砦を見やった。小さな其処は、寂れており、修復した所で何の戦略的価値もない。周囲に兵士がいないことを確認すると、イレイムは家康に歩み寄った。

「家康様、国境を固めて敵を迎撃する、という策はなかったのでしょうか」

「敵は疲れ切った所を撃つ。 或いは、かって知ったる土地で撃つ。 或いは、補給を断ってから撃つ」

いつもの冷静な口調で家康は言い、近くの兵士を呼んで何かを命じた。セルセイア麾下の諜報部隊が、既に帝国軍が歩いて二時間ほどの距離まで来ていることを報告してきており、余裕はない。

「慣れない土地の、慣れない地形に迷わせ撃つ。 これが最も被害を出さぬ戦略だ、イレイム殿」

「……勝てますか?」

「敵は二倍と言っても、此方の情報は殆ど知らぬ。 それに対し、此方は地形を完璧に把握し、徹底的に準備と鍛錬を重ねてきた。 何を恐れることがあろうか。 勝てるとも、イレイム殿」

不敵な笑みを浮かべる家康を見て、イレイムはこの男がやはり戦に生きる人間だと改めて思った。やがて家康は麾下の部隊に号令を下し、移動を開始した。

コーネリア王国にて、大陸史から見ればささやかな戦が始まろうとしていた。だがそれは、大陸の命運を担った戦でもあり、また小さいとはいえ幾千の運命が交錯した戦でもあった。

二つの月だけが、何も変わらない。だが、それが照らす小さな国には、今正に血の雨が降らんとしていたのだった。

(続)