前哨戦
 
序、集結
 
皇国軍二万四千は、ついに満を持して、帝国領への侵攻を開始した。その圧倒的な兵力を前に、組織的な抵抗は一切無く、最初の数日は、文字通り無人の野を、皇国軍は蹂躙していった。予想された帝国軍南部方面軍の反撃もなく、皇国軍は幸先の良さに喚声を上げていた。
南部諸国連合の中でも、聖アーサルズ皇国は最大の兵力を有し、兵の装備も最新鋭の物が支給されている。装備、訓練だけ言えば、けっして帝国軍に引けを取らない。体制は腐敗しているが、指揮官達は一応の戦闘経験と指揮能力を有しており、故にこれが何らかの罠だとは、すぐに判断が付いた。彼らは多数の斥候を放ち、周囲の情報を収集すると同時に、自分たちの持つ帝国領の地図を睨み、敵の策を読もうと必死に頭を働かせた。帝国軍南部方面軍を指揮する兵団長ミディルアの有能さは彼らも伺い知る所であり、帝国軍を侮っては居ても、油断だけはしていなかったのである。
ほどなく、彼らの少し先に、帝国軍が布陣していることが判明した。南部方面軍の三個師団で、兵力は約一万八千。布陣に隙はなく、実に堂々たる物であった。
「帝国軍のブタ共が、意外に見事な布陣ではないか」
こともなげに言い放ったのは、皇国軍の指揮を執る三名の将軍の一人、デシェルー甲将であった。彼はベテランの将軍であり、メジナ丙将の上司だった。しきりに手をかざしていたのは、帝国軍のシャスゼ中将の旗印を探していたのである。部下の敵討ちという様な感覚よりも、むしろお礼参りというのが近かったかも知れない。シャスゼの旗印は、やがて見つかった。どうも第二陣にシャスゼと、彼が率いる第七師団はいるらしく、舌なめずりしてデシェルーは笑った。
「デシェルー、抜け駆けをしようとするなよ」
「へっ、分かっているとも。 だがな、シャスゼの首は俺の物だぞ」
デシェルーに釘を差したのは、彼よりも四才年下のイオーズ甲将だった。理知的な将軍だと評判だが、それは今まで単純に危機にあったことがないから、という理由もあった。運の良い男で、今まで何度と無く持ち前の強運で危機を乗り越え、出世街道を上ってきた人物である。呆れた様に後ろから二人を見やっていた者がいる。フラッツ甲将だった。一応、彼が今回の作戦の総指揮官をまかされている。年齢的にも、経歴的にも、十五名いる甲将の中では群を抜いていて、当然の人選ではあった。
今回の作戦の趣旨は、帝国軍に打撃を与え、その領土を削り取る、という物である。目標としている幾つかの地区は、既に制圧を完了した。皇国の威光を知らしめるという名目で、家屋には火がかけられ、畑は焼かれていた。残った物資は兵士達の略奪に任せ、司令官達は当然その上前をはねていた。民衆は既に逃げ出していたが、もし残っていたら、何をされていたかは容易に想像がついたであろう。
皇国軍と帝国軍の間に、一秒ごとに殺気が充満していく。その間を風が吹き抜け、無数に生える草を揺らした。戦いの場となったのは、帝国領内にあるル・ライラ平原である。左右を河に挟まれた広大な中州で、帝国軍の布陣する少し先に、幾つかの山がある。両軍併せて四万以上の大軍がぶつかるには、充分な広さだった。皇国軍が渡河した地点は、充分に歩兵が歩いてわたれるほど浅く、渡河作戦は問題なく行われた。水際での反撃もなく、損害を出さずに皇国軍は渡河を終えた。
「バカが。 やはり所詮は蛮人、戦を知らぬようだな」
陣を張り終えたデシェルーが、帝国軍を見ながら失笑した。確かに水際殲滅というのはセオリーであり、それを受けたら大きな損害を受けると皇国軍も覚悟していたのだ。だが、帝国軍はそれを行わず、易々と渡河を許した。勝利を確信した皇国軍は、決戦前の軍議に入った。デシェルーの率いる皇国軍第十一軍が先鋒に、シャスゼの第三軍が右翼、フラッツの第八軍が左翼となり、やや前面が突出した横列陣を形成する。数に劣る帝国軍の中枢を、勢いに任せて粉砕し、一気に勝利を得ようとする構えだった。対して帝国軍は極標準的な方陣を敷いており、全く動こうとはしなかった。その弱腰にも見える態度が、皇国軍指揮官を更に図に乗らせた。既に、当初の警戒心は、どこかへ飛び去っていた。
後に、ル・ライラ平原会戦と呼ばれる戦いが、始まろうとしていた。これは後に行われる更に大きな会戦のいわば前哨戦であり、この戦い自体にはそれほど大きな意味は無かったものの、後の歴史に大きな影響を与えることとなる。
 
1,目覚め行くもの
 
「参ったわね、囲まれたわ」
セルセイアがそう呟く。口調が柔らかいのは、部下が周囲にいないからで、堅い口調にする必要がないからであった。藍はその脇で、目を細め、なにやらぶつぶつ呟いていた。現在、彼女ら二人は他の諜報部隊員と別れ、単独行動を行っていた。普段なら問題ないはずであったのだが、今回はたまたま不運が重なり、盗賊団に発見され、追いつめられてしまったのである。セルセイアは、最初から交戦を放棄して逃げに徹したのだが、敵はどうも軍人崩れらしく、簡単には逃げさせてくれなかった。そして現在、深い森の中で、十名ないし十五名ほどの敵に遠巻きに包囲され、互いの出方をうかがっている状態であった。隠れている木の側には、二本矢がつきたっている。敵はかなり有能な狙撃手を用意している様だ。文字通り、最悪の状況であろう。
「殺っちゃおっか?」
「バカを言わないで。 勝ち目がない戦いは避けないと」
嫌に余裕のある藍を横目で見ながら、セルセイアがたしなめる。彼女には、殺すではなく、戦うと藍が言った様に聞こえていた事もあった。あくまでセルセイアの持ち味は常識的な思考を行える所にあり、想像を超える怪物の存在は最初から頭の中にない。無論藍の力は知っているが、即座に実戦で役立てられる共思えず、それを元に思考を組み立てる様なこともない。数十分後、その思考が根底から覆る事など勿論知るよしもなく、セルセイアは嘆息した。頭の後ろで指を組みながら、藍は唇をとがらせて、不平満々と言った様子で呟く。
「めんどっちいなあ……」
「……」
その台詞を聞き流しながら、セルセイアは必死に策を練っていた。元々彼女は、個人の能力も優れてはいたが、それ以上に中規模集団の指揮官として優れた人材である。故に思考は集団戦の理論へ傾きがちで、総合的な利益を重視した物へと動きがちである。個人としての危機のような部類は、むしろ対処を苦手としていたのだ。やがて、その苦悩は、受動的な形で取り払われた。イレイムに手渡された槍で、肩を軽く叩きながら、藍が立ち上がったのである。
「ちょっと……何をするつもり!?」
「私、召喚されてから何の役にも立ってないでしょ。 だぁかぁらぁ、この辺で役に立とうかなってね」
その言葉に再反論しようとして、セルセイアは硬直した。藍の目を、月に照らされた眼鏡の奥の目を、まともに見てしまったからだ。全身に、雷光のごとく恐怖が奔る。今、ここに、地獄の扉は、音もなく開かれたのである。藍の言葉が嘘であることは一目瞭然だった。様々に危険な人物を見てきたセルセイアは、藍が何をするかすぐに分かった。硬直する彼女の前で、ゆっくりと藍は遮蔽物にしている木の陰から出た。ゆっくり槍を回転させ、それに両手をつくと同時に、矢が飛来した。恐るべき勢いで、少女の眉間を貫かんと襲いかかった人工の獣は、いともあっさりと槍にはじき落とされた。
「全部で十三匹。 こりゃあいいや……」
藍が呟くと同時に、周囲の小動物が一斉に悲鳴を上げて逃げだし、小鳥たちが飛び去った。セルセイアも逃げ出しそうになる体を、必死に押さえつけなければならなかった。剰りにも凄まじい殺気が、周囲を蹂躙し、舐め尽くし、焼き尽くした。唇をなめ回すと、藍は地を蹴った。
武の神が、この地に降臨した瞬間だった。そして、降臨した武の神は、血と、肉と、恐怖と、命を生け贄に欲したのである。
 
イオレスは、帝国と皇国の国境地帯を縄張りにする盗賊団の頭目であった。彼は元兵士であり、軍でレンジャー訓練を受けていた上に、頭も良かった。軍律違反で帝国軍を抜けてからは、その才覚で部下を集め、旅人から金を奪ったり、村を襲って金品を巻き上げたりして、勢力を広げていた。彼はこの辺りの土地に通じていて、時々帝国軍が非公式の仕事を頼むことさえあった。アウトローでありながら、時と場合と報酬次第では政府の犬になることもある人物であったのだ。現在、彼は三十名ほどの部下を有しており、そのうち半分弱と今の獲物を追っていた。腕と良い、的確な逃走と言い、明らかに獲物はただ者ではない。おそらくはどこかの国の諜報員であり、生かして捕まえれば、帝国軍なり皇国軍なりから、報酬を得られることが確かだった。相手が相手だけに、油断は出来ないが、近来にない素晴らしい獲物であった事は間違いなかった。
小柄な人影が、イオレスの視線の先に現れる。諜報員が連れていた子供だった。どういうわけで、敵地で働く諜報員が子供を連れていたのかは分からなかったが、諜報員の逃げ足に平然と着いていくばかりか、今まで投擲した武器と放った矢を尽く叩き落としてきた相手である。ただ者ではないことは確実で、或いは諜報員よりも此方の子供の方が重要人物なのかも知れない。イオレスの隣にいた狙撃手が放った矢を、平然と叩き落とすと、子供は地を蹴り、あろう事か此方へとかけだした。舌打ちすると、イオレスは後方に回り込んでいる部下に指笛で合図をし、数名の部下に指示して子供へ向かわせた。イオレスは妙な焦りを感じていた。先ほど凄まじい殺気を感じたが、それを発したのがあの子供ではないかと思ったのだ。そして、思ったときには、既に遅かった。彼は部下達全員に、逃走を命じるべきだったのだ。
惨劇が起きたのは、その直後だった。子供を取り押さえようと飛び出した一人の喉へ、閃光が奔る。何が起きたのか、おそらくその男は知ることさえなかっただろう。首が半ばもげ、鮮血をぶちまけながら男は前のめりに倒れた。
「ん……これが……人を殺す感触……」
絵に描いた様な完璧な動作で、槍を振るったらしい子供が、頬に飛んだ鮮血を手の甲で拭い、それを舐めながら言った。次の瞬間、物質化するほど強烈な殺気が、風の様に周囲を襲った。
「イぃ……いいよ……凄くいィッ! 最高っ!」
子供の姿がはじけた、いや残像を残して跳躍したのだ。そのまま子供は槍を半回転させ、呆然と立ちつくす部下の一人の目に、斜め上から石突きを叩き込んだ。それは男の眼球を貫通し、脳味噌を貫き、頭蓋骨を砕いて後頭部へ飛び出した。槍を引き抜き、子供は更に動いた。残像がぶれ、風がなる。子供がナイフを取り出し、半狂乱になって刀を振り下ろした部下の一撃を紙一重でかわす。地面へ手を突き、鞠の様に体を弾くと、顔面へ計七本のナイフを叩き込んだ。のけぞった男が血泡を吹き、地面に倒れる。倒れる音が、パニックの序曲だった。イオレスは、部下達全員へ、総攻撃を命じた。隠れていた部下達が、銘々武器を取りだし、子供へと殺到していった。子供がイオレスへ振り返り、にいと笑みを浮かべた。
子供の動きは、異様な早さと的確さに加え、まさに模範的な物だった。遮蔽物を利し、敵が多数な事さえ利し、一人ずつ確実に敵を屠りさる。イオレスの部下は見る間に数を減らし、半分を切った所で逃走に転じた。だが、子供は一人も逃がさなかった。一人ずつ異なる方法で、明らかに楽しみながら、彼らを処理していった。殺すときに、顔中に愉悦が浮かぶ。まごう事なき、快楽殺人者の表情だった。イオレスの部下が全滅するまで、おそらく十分もかからなかっただろう。
「バ……バケモノ……か……」
大量の鮮血を浴び、ゆっくり向き直った子供を見て、イオレスはそう呟くしか出来なかった。子供は幾つかの軽傷を受けている様だが、動きに変動はない。子供の姿がぶれ、恐るべき速度で間合いが侵略された。恐怖に引きつった叫びをあげながら、イオレスはナイフを突きだした。意外なことに、それは子供の右腕を抉った。だが、反撃はそれで終わりだった。子供のつきだした槍が、イオレスの喉に突き刺さり、そのまま一息に脊髄を砕き、首を貫いた。数瞬の痙攣の後、イオレスは血泡を吹き、その波乱に満ちた命を終えた。もう少し自重していれば、更に名をはせることが出来たかも知れなかったが、もうすでに遅かった。地面に彼が倒れ、その目が光を失う。二つの月から注ぐ光が、その体を淡く照らし続けていた。
 
「ふう、ふう、ふうっ……」
藍は全身に満ちる熱い高揚に酔っていた。頭の中での妄想では、どうしても到達し得ない快感が、彼女の全身を駆けめぐっていた。涎さえこぼれるのを、阻止出来なかった。手の甲で口の端を拭い、藍は槍を振るって鮮血を落とし、そしてそのとき初めて全身のダメージに気づいた。
ダメージは七カ所。内、敵から貰った物は三カ所だった。二カ所はかすり傷だが、一つのナイフのダメージはかなり大きい。渡されていた布を使って、右腕を縛り、止血を行う。高揚が徐々に冷めていき、変わりに痛みが訪れ始める。敵から貰わなかったダメージは、肉体の酷使による筋肉疲労で、致命傷にはほど遠い物の、何度も繰り返すとかなり筋肉に危険な被害を与えるであろう。恐ろしいほど冷静なまま、藍は自問自答した。
「……はじけすぎたかな。 ……次からは少し自分を制御しないと危ないね」
全身のダメージは、動く分には全く問題がない。最後に受けた一撃も、的確な処置のお陰で、一週間もあれば問題なく治癒するであろう。ゆっくり舌なめずりし、槍の穂先に布を被せると、藍は自分の中の(何か)に語りかけた。
「……ねえ、起きてる?」
返答はない、だが藍は続ける。もう彼女にとって、(何か)は無くてはならない存在であり、快楽の供給源でもあったからだ。
「今日はアリガト。 んっふふ……凄く美味しかった。 お礼にさ、名前、つけたげるよ。 名前無いのも、少し寂しいしいモンね……」
藍は、一つの名前をためらい無く選択した。それは、彼女がもっとも大事だと思う存在の名前であった。
「幸村。 今日から君は、幸村だよ」
血染めの石突きで軽く地面を叩くと、藍はセルセイアへ向け歩き出した。明らかに一線を越えてしまった存在の、闇へと傾いた眼光が、そこにはあった。
 
2,ル・ライラ平原会戦
 
ル・ライラ平原に展開する帝国軍三個師団を指揮するのは、ミディルア兵団長だった。ミディルア=パルクレンは大将の地位を持つ熟練した将軍で、ハイマンドの幹部級の部下達の中では、ハイマーに次いで、ゴルヴィスと同格の、ナンバー3の位置にいる。バランスの取れた能力を持つ有能な将軍で、強いて言うなら、防御より攻撃を得意とし、戦術家と言うよりも戦略家として優れた人物であった。あくまで比較してのことだが、それらの特徴は皆、ライバルである同僚のゴルヴィスと正反対であった。本質的に戦略家である故に、今回の会戦に望む際も、ありとあらゆる手を事前に打っていた。事実上、帝国軍南部方面軍を維持しているのはこの人物であり、おそらく今後もそれに変化は無いであろう。
ミディルアは、皇国軍の侵攻が確実になった時点で、まず領主達に布告を出し、民衆の避難を手助けさせた。早めの指示が功を奏し、民衆は特に混乱もなく、悠々と避難を終えた。帝国軍が彼らに援助金を出すことも約束したので、なおさら避難が巧くいった事もあった。民衆が避難した後、役人達が避難を行った。これは厳重な監視の後に行われ、また役人達の士気も高かったため、ごく一部の愚か者を除いて不埒者は出なかった。
続いて、今ひとつの指示を、ミディルアは命じていた。これは三百人ほどの人員を投入し、密かにそして迅速に行われた。これはミディルアが対皇国軍の戦略を練りきっていたことを示しており、必勝の態勢を持って敵を待ち受けていたことを示している。皇国軍は獲得した領土、更に帝国軍の消極的な姿勢という二つの餌に食いつき、その美味に酔いしれた。そして、万全の態勢で敵が待ち受けているという、もっとも大事なことを失念しきってしまった。その事実を示す様に、皇国軍の陣は早くも乱れ始めている。ミディルアは馬上でそれを見やっていたが、やがて身を翻し、天幕へ戻った。中では、帝国軍三個師団の司令官と、参謀長が待っていた。
「敵の動きについて、説明をお願いいたしますわ」
「はっ」
ミディルアの若々しい声に反応して、一人の士官が立ち上がった。少将の徽章をつけており、敬礼も様になっている。今回、情報参謀として、帝国軍南部方面防衛軍第四師団から貸し出されたジェシィ少将だった。彼女はコーネリア方面へ配備されている師団の副司令官だが、参謀としての腕を買われ、今回ここへ配置されていたのだった。今回も、彼女は敵の位置をこれ以上もないほど正確に把握し続け、有能さを周囲に示していた。
「敵は兵力二万四千。 やや凸字に傾いた横列陣を敷いています。 おそらく、兵力に任せて中央突破を行い、一気に勝負を決めるつもりでしょう」
「セオリー通りですね。 そして、予想通りですわ」
「では、作戦に変更はない、という事でよろしいかな」
そう言ったのは、この戦いの原因とも言える男である。現在、第二陣の指揮を任されているシャスゼ中将であった。シャスゼは熱い気概を持ち、未だ優れた運動能力と気力を持つ老将である。年は今年で六十五になる。帝国内では最年長の将軍で、若手の者に全く劣らぬ実績を上げてきた男であり、兵士達の信頼も厚い。何より彼が優れているのは果敢な決断力で、ただ今回の一件では、それが裏目に出る形となってしまった。無論、皇帝も敬意を払って接しており、(おじじさま)と慕う将軍も何名か居る。今回も、ミディルアの右腕として、作戦に対して発言権を与えられ、それを積極的に行使していた。しかし、彼が口を挟む必要がないほど、ミディルアがきちんと策を練っていたため、殆ど後見の様な形になっていた。
「はい、そう言うことになりますわ」
「フム……」
「何か、不満な点や、不安な点がございますか?」
「いや、そうではない。 出来るだけ被害が少なくすむと良いな、と思ったのだ」
単なる粗野な将軍には吐けぬ言葉を机上に乗せると、シャスゼは着席した。変わって立ち上がったのは、先鋒を任されたウォーレン中将であった。後衛を任されたトムプソン中将は、腕組みして沈黙している。どちらも有能な将軍で、三十代半ばであった。
「……実は、別動隊から連絡がありました。 例の場所で魔物が活動を活発化させたとかで、少し作業に手こずっているそうです。 持ちこたえねばならない時間が延びるかも知れないですな」
「それは、厄介ですわね……」
「作戦を変更しますか?」
ウォーレンの問いに、ミディルアは首を横に振る。つややかな黒髪が、左右に揺れた。彼女も三十代になったばかりだが、そうは見えないほど若々しい。派手な美しさには欠けるが、優しげな風貌は兵士達にも人気が高い。ただ、仕事に対する情熱が非常に大きいため、周囲でつやっぽい噂は聞かれないという話もある。
「いえ、今更策を変えるわけにはいきませんわ。 そもそも……」
「お取り込み中失礼いたします! 敵が動き出しました!」
天幕に駆け込んできた兵士が敬礼し、皆が一斉に立ち上がった。そして、敬礼し、己の陣へと散っていった。その丁度十分後、臨界点まで接近した両軍は激突した。ル・ライラ平原会戦の、血で血を洗う死闘の始まりであった。
 
大地を馬蹄が轟かす。方陣を取る帝国軍に、数で勝る皇国軍が殺到していく音であった。皇国軍先鋒デシェルー甲将は馬上にてバトルアックスを構え、雷の様な大声で部下を鼓舞した。
「ゆけえっ! シャスゼの首を取った者は、軍で最高の馬と武具をくれてやるぞ!」
ここで一生遊んで暮らせる金とか、将官にしてやるとか言わない所が、微妙なけちくささを周囲に感じさせた。僅かに浮き足立つ皇国軍に対し、敵が殺到しても、野戦陣地にいる帝国軍は微動だにしない。無数の矢を乱射しながら皇国軍が距離を詰めても動かず、歩兵が熊手を投げて柵を崩そうとしたとき、初めて動いた。盾の影から弓隊が躍り出、組織化された動きで、一斉に矢を放ったのである。数隊が交互に、交代しながら無数の矢を放つ。乱射される矢は正確さにおいて比類無く、柵にとりつく皇国軍を次々に射落とした。柵は意外に頑丈で、大きな被害を出しつつ皇国軍は崩すことが出来ず、矢の射程範囲内に入り込んだ歩兵達は、生きた的と化した。閉口した兵士達は逃走ではなく戦術的後退に転じ、吠え続けたデシェルーも流石に少し敵から距離を置き、弓隊を前面に出して敵陣へ矢の雨を叩き込ませた。矢には当然火矢も含まれており、帝国軍のウォーレンが守備する陣の各所から、小さな火の手が次々に上がった。それにあわせて、攻撃の主体となったイオーズ甲将が猛攻を開始し、柵際での争いは激化の一途を辿った。
戦闘開始から二時間三十分。結局敵の防御を突破し得なかった皇国軍は攻撃の手を一瞬休め、それに併せて帝国軍が反撃を開始した。あれほど頑強だった柵を内側の仕掛けで倒すと、槍を揃え、一斉に突撃を開始したのである。先鋒になったウォーレン将軍と、他の部隊の連携は見事で、不意をつかれた皇国軍前衛は文字通り蹴散らされた。流石に面食らった皇国軍は、一時足並みを乱し、対応が遅れた。今まで攻め続けられた鬱憤を晴らす様に、帝国軍は押しまくり、三十分ほどの戦いで敵を二キロほど押し戻した。だが、そこからは元からの兵力差が物を言い、じりじりと皇国軍が勢いを盛り返し、徐々に形勢を挽回していった。皇国軍の三人の将軍は確かに無能ではなく、様々な戦術を駆使して帝国軍に襲いかかり、特にウォーレン隊を積極的に責め立てた。だが、いずれも決め手には成らず、また帝国軍の反撃も凄まじい。両軍は多大な被害を出しながら、戦況は徐々に膠着状態へと陥っていった。
 
戦闘開始より四時間二十分。つねに最前衛で戦い続けたウォーレンが後退し、代わりにシャスゼが前衛に躍り出た。それに呼応する様に、デシェルーも猛然と反撃を開始、大地はますます激化する戦の振動に震えた。デシェルーはバトルアックスを振り回し、シャスゼ隊に自ら突貫、群がる敵兵を蹴散らしながら咆吼した。デシェルー自身は高名な猛将であり、当たるを幸いに敵をなぎ倒すそのバトルアックスは、既に深紅に染められている。また、勇将の下に弱卒なし、猛悍さを見せつける将に鼓舞された兵士は、狂人の様な叫び声をあげながら、激しく帝国軍に襲いかかった。つっかかってきた騎兵の頭を唐竹割にし、その鮮血を全身に浴びながら、デシェルーはわめき散らす。
「出てこい、シャスゼ! 白髪首は洗っておいたであろうなッ!」
「蛮人蛮人と皇国人は我らを罵るのに。 これではどちらが蛮人か分かりませんわ……」
デシェルーの狂態を、自陣で遠めがねを使って見やりながら、ミディルアは嘆息した。その彼女の元に、伝令が訪れ、何かを告げた。静かにミディルアは頷き、乗馬すると、指揮杖を振るった。今までサポートに回っていたミディルアの直属部隊が、指揮官の後に続き動き出す。同時に、味方の後方を大きく迂回し、敵の右側面に回り込んだトンプソン隊が、デシェルー隊の援護に回ろうとしたイオーズ隊に強烈な横撃を加えた。体勢を崩したイオーズ隊は、思わぬ奇襲に苦しみ、大きな損害を出し、十五分後に副軍団長を失った。やはり、イオーズは危惧通り、危地に弱かったのだ。だが、このとき帝国軍も既に二名の将官を失っており、決して有利な状況とは言えない。また、イオーズ隊も混乱から立ち直ると数にものを言わせて反撃を開始、トンプソン隊を力任せに押し戻した。両者が総力でぶつかり合った結果、結局兵力差で皇国軍が形勢を徐々に挽回し始め、やがて帝国軍はじりじりと押され始めた。帝国軍は、かなりの損害を出し、それでも皇国軍の激しい攻撃を捌きつつ、三角州の隅へと移動していった。そこは皇国軍が渡河作戦を行った箇所同様、川の水深が浅く、兵士が歩いてわたることが出来た。シャスゼが巧妙な指揮で皇国軍の猛攻をはねのける間、帝国軍は渡河を行い、やがて隙を見てシャスゼ自身も渡河を行った。冷静な指揮は流石に歴戦の勇将ならではのもので、かなりの被害を出したものの、指揮に乱れはない。皇国軍も黙ってはおらず、デシェルー隊を先頭に、向こうの川岸から猛烈な射撃をしかけてくる帝国軍に、渡河を行いながら突貫した。帝国軍は陣形を立て直す暇を与えられず、川岸から徐々に下がる。勢いづいた皇国軍は、血走った目でバトルアックスを振り回すデシェルー自身を先頭に、渡河を続行し、やがてその半ばが川を渡り終えた。そのとき、地鳴りの様な音が、両軍兵士の耳に届く。困惑し、周囲を見回す皇国軍に対し、帝国軍は無言で更に川岸より後退、川から距離を取った。その様子をいぶかしみながらも、皇国軍は敵につられて前進、ついに渡河を完了、しかし次の瞬間音の正体を悟った。
洪水であった。巨大な岩を転がし、泥水がうねり、大地が轟く。それは蛇に睨まれた蛙のように立ちつくす皇国軍に、情け容赦なく襲いかかった。巨大な泥の蟒蛇が、無様な蝦蟇蛙に食らいつき、飲み込んだのである。皇国軍兵士達は、慌てて帝国軍が後退した意味を悟った。彼らをあざ笑う様に、巨大な奔流が、皇国軍後衛、更に中衛にいた兵士達にかぶりついた。それは、一瞬の後の死を意味していた。
泥水に飲み込まれるのをかろうじて逃れた皇国軍兵士達は、慌てて川から離れようとしたが、彼らを待っていたのは帝国軍の、今までとはうってかわった猛悍な攻撃だった。浮き足だった皇国軍に、彼らは先ほどまでとは比較にもならないスピードと、獣の様な獰猛さで襲いかかり、片っ端からなぎ倒していった。戦闘開始より六時間半、勝敗は決した。
 
皇国軍は洪水よりも、それによる心理効果により致命傷を受けたのだった。洪水によって実際に飲み込まれた兵士は全体の一割ほどにすぎず、残りは健在だったのだが、自然の恐るべき力による恐怖と、前面に立ちはだかった帝国軍の凄まじい猛攻の前に、その戦意は完全に消失した。皇国軍の指揮官三名はなんとか溺死及び圧死を免れたが、退路を失い、統率を失った軍を立て直そうと必死にあがくも、それをなしえなかった。対し、完璧に味方をコントロールしたミディルアは、ナイフで肉料理を切り刻むかの様に、一撃一撃ごとに敵軍を切り裂き、バラバラに分解し、個別に叩き潰していく。歴戦の勇者が揃う帝国軍は、見事な指揮に最大限に応え、浮き足立つ敵兵を片っ端から切り伏せていった。もはやそれは、戦闘と言うよりも、虐殺に近い状況だった。
戦闘開始より八時間が経過した頃には、既に皇国軍は軍としての形を失い、陣形も失っていた。既に戦いは悲惨な撤退戦へと移行しており、とっくの昔に兵力差など逆転している。水が退き始めた川に沿って後退する皇国軍を、帝国軍は情け容赦なく追撃し、叩き潰していった。無論捕虜に手を出すことは許されては居ないが、抵抗する敵兵に対する攻撃が苛烈さを増したのは否めない事実であろう。帝国軍兵士達は、調子に乗って皇国軍がやらかした愚行と驕慢を全て知っていたのだ。退路こそ断たれなかったが、計画され尽くした並行追撃は隙が無く、一秒ごとに皇国軍兵士は脱落し、数を減らしていく。それは戦ではなく、公認された報復であり、或いは狩りに近い状況だった。
悲惨だったのは、殿軍(しんがり)をかって出たフラッツの直属精鋭部隊だった。彼らは指揮官の下、冷静にかつ積極的に動き、味方の撤退を援護し続けたが、それが故に帝国軍の目の敵にされた。邪魔をし続ける相手に業を煮やしたミディルア自身がその包囲の指揮を執り、ついに彼らは川岸に追いつめられた。死兵に対して突撃する様な馬鹿なまねはせず、帝国軍は円陣を組んで決死の覚悟を見せるフラッツ直属部隊に、遠距離から容赦なく無数の矢を叩き込んだ。何度か、十重二十重と周囲を覆う分厚い包囲陣を突破しようと試みるフラッツ隊は、そのたびに雨の様な矢を四方八方から浴びせられて後退した。決死の突撃も意味を為さず、川に入り向こう岸にわたろうとする者は優先的に矢を打ち込まれた。やがて彼らは身動きすら出来ぬ有様になり、戦う力を失った。絶望にとらわれ、恐怖を顔中に張り付かせた部下達の中から、ゆっくり、鎧に数本の矢を受けたフラッツが立ち上がる。そして、部下達を見回した。
「……皆、よく戦った。 もうよい」
そして、剣を捨て、帝国軍に降伏を呼びかけた。やがて、ミディルア自身が、それを確認し、部下に攻撃を止めさせる。敵将の方が、味方より遙かに理知的であることを悟ったフラッツは、大きく嘆息し、それを見た部下達は、おいおいと武器を捨てていったのであった。フラッツは決して死を恐れたのではなく、味方のこれ以上の犠牲を増やさぬために降伏したのである。もし彼が自決していたら、部下達は皆決死の突撃を再開し、全滅していたことは疑いがない。そして相手の心情を即座に見抜き、ミディルアは降伏を受け入れたのだ。文明人を自称する皇国軍人にも、此処までの将は殆ど居ない。しかも、帝国軍では、決してミディルアはナンバーワンの名将ではないのである。フラッツが嘆息したのも、無理はない事であった。
 
「おのれ、おのれおのれおのれええっ!」
かろうじて皇国領に逃げ込み、残兵をまとめ上げたデシェルーが歯ぎしりした。三人の将軍のうち、皇国に逃げ込めたのは、あろう事か彼だけであった。逃走の途中、イオーズは戦死した。パニックに駆られた彼は、部下を見捨てて逃げようとした所を、追いすがったウォーレン自身の剣によって首を叩き落とされたのである。武人がもっとも恥とする、背中からの一撃での死であった。また、デシェルーの副将も、似た様な形で命を落とした。
皇国軍は、出撃時の四割強、一万弱まで数を減らしていた。数日間にわたって続けられた凄まじい並行追撃により、倒れた兵は数知れず、降伏する兵も多かった。それでも、まだマシな状況だったかも知れない。フラッツが決死の覚悟で殿軍を務めてくれなければ、五千も生還出来たか疑わしいのである。無論、(侵略ではなく正当に接収)した領土など全て奪い返されてしまった。デシェルーの手元に残った兵は僅か四千ほどで、特に損害の多かったイオーズ隊などは二千を割り込んでいた。フラッツ隊は、途中から指揮を受け継いだ副将ラクレースの巧妙な指揮で、かろうじて過半数を生還させたが、損害の大きさに変わりはない。兵士達は帝国軍に恐怖さえ覚えた様で、デシェルーの副官など髪を真っ白にし、ぶつぶつと意味を為さないうわごとを口走っていた。ここで無傷な兵士を探すことなど、絶滅寸前の動物を山奥で探すよりも遙かに難しかっただろう。皇国の歴史上でも、まれに見るほどの、文字通りの全滅的敗北であった。
やがて、出迎えにやってきた皇国軍大将軍ニーナは、あまりの惨状に流石に言葉を失った。帝国軍の、特にミディルアの有能さは彼女も知る所であり、恐らく負けるであろうことは予測していたが、短期間でここまで徹底的にやられるとは思っていなかったのである。デシェルーにしろ、イオーズにしろ、フラッツにしろ、無能とは到底言えない者達だったのに、軍は致命的なまでの打撃を受け、兵士達は完全に戦意を喪失してしまっている。デシェルーも声高に復讐戦を叫んではいるが、その目には自暴自棄の光が宿り、次に帝国軍との戦いになったら、以前同様に暴れられるかは微妙であろう。皇国軍は、軍の再編成と、対帝国戦略の根本的見直しを、これからせねばならないのだった。
当然、この惨状は、戦を推奨した議員達にも伝わった。それは甘い妄想に浸っていた彼らの後頭部を怒れる雷神の槌が如き勢いではり倒し、現実に目覚めさせることになった。彼らは恐るべき帝国軍の実力を知り、恐怖し、右往左往した後、このままでは身の破滅だと考えた。正確には、ようやく現実と、帝国軍の恐ろしさを認識したと言うべきなのであろう。
ル・ライラ平原会戦の後、皇国は帝国に対する誤った認識を改め、同盟諸国と連絡を取って、総力戦へと移行していく。やがて、先とは比較にもならぬ大軍が編成され、激突するであろう事は、推測ではなく、確実な未来へとなっていたのである。
 
帝国軍陣地で喚声が上がっていた。帝国軍はこの戦いで千百名強を失ったが、文字通りの完全勝利であることは疑いが無く、兵士達の士気は高まっていた。文明と物量に奢った皇国人の鼻をへし折ってやったという意味でも、歓喜の声をあげるのに充分なことであっただろう。既に奪還した土地には、民衆が帰還を始めており、本陣では祝宴が開かれていた。この功績により、ミディルアは恐らく一階級の栄進が確実だと早くも噂されていた。
ミディルアが今回取った戦略は、わざとらしくない様に偽装しながら、敵を川及びその周辺に誘い込み、洪水で退路を遮断、更に心理的に致命傷を与えるというものだった。それを実行するため、皇国が活発な動きを見せ始めてから、川の上流に堤防を築かせ、何度か実験して、どれほどのタイムラグをおいて水が流れるか徹底的に調べ尽くした。また各隊も、本気で戦いながら力不足故に徐々に押されていくように見える、という演技を、演習通り、実に巧妙に行ってくれた。これは徹底的な下準備の結果であり、地の利を知り尽くしていること、敵の驕慢を逆手に取れたこと、等を完全に利用しきっての勝利でもあった。正面から戦っても勝つことは可能であったかも知れないが、それでは力勝負になった上に味方の損害も大きく、挙げ句勝ったとしても殆どの敵に逃げられてしまっただろう。敵軍に致命傷を与えるには、派手な効果でまず相手の心を砕く必要があったのである。
川は血に染まり、敵兵の死体がうずたかく積まれていた。また組み立てられた柵に片手をつきながら、宴会から抜け出したミディルアは、風に当たっていた。彼女は皇帝などと比べれば遙かに酒豪だったが、今日は酔いの回りが早い様な気がして、風に当たりに出ていたのである。酒臭い息を吐いて、ぼんやり死体の山を眺める彼女に、後ろから誰かが声をかけてきた。
「ミディルア軍団長」
「んー? だれー?」
「ジェシィです」
酔眼で相手に焦点を合わせると、成る程確かにジェシィだった。酔うと色々ぼろが出るミディルアは、それでも構わないと言った様子で柵の下にへたり込み、持ってきていた酒瓶を煽った。ジェシィはその様を、せかすでもなく、だがきちんと相手に自分の存在をアピールしながら見守り続けた。
「ジェシィちゃん、どーしたろー? 今はオフレコだぞー」
「……次は、コーネリア王国の攻略戦に赴きます。 それについて、軍団長の忌憚無い意見を伺いたいのです。 無論、個人的な意見で構いません」
「陛下も何を考えてるんだろね。 あんなへんぴな国をしんりゃふしても、へるものなんて何もないのにね。 きゅふー。 酔ったー。 えへへへへへー、きもちいーのらー」
普段の上品さと、あまりに激しい落差に、崇拝者が見たら落胆する様な光景であった。それでも動じることなく、ジェシィは鉄仮面のまま、言葉を続けた。
「……具体的な戦略はありますか?」
「そうらね。 まず一個師団を、北部国境から侵入させる。 それれ……まず敵軍の強さをさふって、可能なら一気に全土を攻略。 ダメだったら、わたひが今回使った部隊を連れて、ちょくせふ攻略に行く。 いく、いくいくー! いくだって! きゃははははははは!」
ひとしきり一人で手をばたばたして意味不明なことに大うけした後、不意にミディルアは目の奥に、鋭い光を宿した。だが、喋っている間に、すぐにそれは薄れてしまう。
「……あの国は情報が全然外に出てこないから、正直攻めるのが難しいのですわ。 ジェシィちゃんが、もし危ないと思ったら、すふに撤退するよーにひてね。 あー、わたし、おそらとんでるきふん。 わーい、ふーわふわなのらー」
「テントまで、肩を貸しましょう。 今日はもう、お休みになった方がよろしいかと」
「やらー! もっと遊ぶのー! あそびたいのー! ジェシィちゃんのばかー!」
会話不可能と判断したらしいジェシィは、口をとがらせて酒瓶を振り回すミディルアを軽々と担ぎ上げた。これはジェシィが力持ちと言うよりも、むしろミディルアが軽いのである。視界が回転したため、ミディルアは目を回し、不意に静かになった。幸い吐かなかったが、流石にそのままでは不味いかと思い直したのか、肩に背負う様な形にして、ジェシィはミディルアをテントまで担いでいった。途中、事情を知っているらしいシャスゼが、形容しがたい顔で敬礼していた。
ミディルアは布団に入れられると、すぐに眠りについてしまい、記憶がとぎれた。翌日、彼女は目を覚ますと、記憶が飛んでいることから、またしても自分が例のことをやらかしたと悟り、頭を抱えたのだった。何と彼女は、記憶にはなかったが、以前師団長だった頃、ハイマンドに酔って絡み、酒瓶で頭をぶん殴った事さえあるのだ。無論皇帝は笑って軽い罰で許してくれたのだが、自分の酒癖の悪さを悟ったミディルアは、自分の軍にのみ様々な特例布告を発布、自分が酔ったときの対処用マニュアルまで作らせた。ミディルアの部隊内外でも、凄まじいまでに悪い酒癖と高潔で上品な普段の落差は有名で、酔って周囲に絡みまくるミディルアを見て驚くのは新兵だけである。ミディルアの決めた特別布告の中には、酔っているときの監視役が当番制で決められており、当番に当たった兵士は後で給料が割り増しになる代わり酔った師団長を見張って周囲に失礼がない様にしないと行けない。無論、酒が入ったミディルアからは剣が取り上げられているので、護衛の任務もかねる。力尽くで止めて良いとまで書かれているのだが、流石にそこまでする兵は居なかった。無論、その割増分の給料は、ミディルアの給料から支払われるのである。
ミディルアが本営に出勤し、無礼を詫びると、皆苦笑してそれを許した。そして指示に従い、最低限の駐屯兵を残すと、めいめい兵を帰還休息させ、戦の準備を解いたのだった。それは嵐の前の静けさにすぎなかったが、ひとときの平和の到来であることも確かだった。
 
3,天敵襲来
 
コーネリア王国王都では、戦の準備が整えられると同時に、イレイムの仕事も忙しくなってきていた。イレイムは元々優れた責任感の持ち主であり、勤勉さも持ち合わせていたから、弱音を吐くこともなく積極的に政務を見、分からない所は長老、特に家康に相談し、着実に一件一件難題を片づけていった。
それらの中には、きれい事では片づかない事も多かった。イレイムは自ら申し出て、そう言った仕事もきちんと自分で考えて、相談も交えて処理し続け、経験を一日ごとに積んでいった。
そんなさなか、ついに帝国軍と皇国軍が激突したとの報が、コーネリアにもたらされた。それから十日ほどはかなり情報が錯綜したが、やがてコーネリア諜報部隊は、帝国軍の完全勝利であったという結論に達した。それとほぼ同時に、様々な工作を終えたセルセイアが帰還、イレイムは満面の笑顔で彼女を迎えた。
「セルセイア様、お疲れさまです。 よく帰ってきてくれました」
セルセイアの脇で、藍はつまらなそうに周囲を見回し、やがて断って外に出ていった。それを静かに見届けると、セルセイアは心なしか声を落とした。
「お人払いをお願いいたします」
「……? どうしたのですか?」
「危惧が現実になりました。 すぐにロフェレス夫妻を呼んで、対策を練らないといけません」
イレイムの顔色がさっと変わった。セルセイアは視線を時々戸に移しながら、言葉を続ける。
「真の意味での戦闘の達人は、戦闘自体と、何より血と殺戮を好む事が多い。 それはよく知っているつもりでした。 それに、ロフェレス夫妻の警告もあったので、警戒はしてはいました。 しかし……武の神の降臨に立ち会う気分が、あれほど恐ろしいものだとは……」
「藍様が……あの少しとぼけていても、心優しい藍様が?」
「とぼけていて、心優しいという点にはおそらく今後も変わりがないでしょう。 しかし、彼女は覚醒したのです。 そして、今後、彼女には生き餌が必要になります」
生き餌とは何か、すぐにイレイムは理解できないようだった。セルセイアは大きく嘆息すると、気を保つ様に念を押し、言った。
「……高柳藍様は、武神とも言っていい武を身につけるのと同時に、猟奇快楽殺人者として目覚めました。 殺戮自体が快楽になり、それがないと心を維持出来なくなったようです。 恐らく、戦がないと、彼女は我慢が出来ません。 定期的に生け贄を与えないと、民間人に被害者が出ることになります」
思わずイレイムは両手で口を押さえ、椅子になついていた。その顔が蒼白になっている。数秒間呼吸さえ止まり、その後激しく咳き込んだ。セルセイアは、呼吸を整えるまで静かに待ってくれた。剰りにも強烈なインパクトは、流石にイレイムには厳しいだろうと悟っていたから出来た行動でもあったかも知れない。
「藍様が……そんな……」
「……おそらくこれは、召喚される前から心に何かが宿っていたとしか思えません。 そしてそれは、何かしらの拍子に、必ず目覚めたはずです。 イレイム様がお気になさる必要はございません。 事故ではなく、必然だったのでしょう」
「……」
セルセイアの前で、イレイムははたはたと落涙した。そして両手で口を押さえたまま、黙りこくってしまった。海よりも深い自責の念が、彼女の心を突き刺している。やはり、結局イレイムは、か弱い小娘にすぎないのだ。強くなったとしてもそれは後天的な物で、すぐにそれが先天的な要素を圧倒するわけではないのである。冷静な事がうりなセルセイアは、彼女らしくもなく、困惑し、動揺していた。町中で、連れの女の子に大泣きされた男よりも動揺していた。
大きな咳払いの音がして、二人が視線をそちらに向けると、家康が腕組みをして立っていた。もう一度咳払いをすると、家康は微妙な光を湛えた光をイレイムに向けながら言った。
「邪魔をしたか?」
「いえ、そんなことはありません。 家康様、どうしましたか?」
「……セルセイア殿の様子がおかしいと藍に言われたので来てみただけだが、案の定だったな。 何があったか、儂にも説明してもらおうか」
 
家康の闖入は、セルセイアにとっては天の助けとなった。彼女は動揺しきった心を落ち着ける事に成功すると、家康にも同様の説明を行い、意見を求めた。家康は冷静な様子で言葉を聞き、それを終えて後に口を開いた。
「良かったではないか」
「……え……?」
「今まで、あの子供ははっきり言って役に立つ存在ではなかった。 だが、武に覚醒したことで、卓絶した個人的武勇の所有者として、戦場に投入することが可能になる。 戦術的な活用が可能になったという意味で、喜ばしい限りではないか」
イレイムが蒼白になる。彼女は戦略的、政治的に物を考えるよう、今まで家康に嫌と言うほど指導されてきたのに、やはりそこまで合理的になることが出来なかったのだ。
「生け贄が必要だというのなら、死刑囚でも何でも与えておけばよい。 それが居ないのなら、セルセイア殿が連れ歩いて、余所の国の盗賊組織でも犯罪組織でも狩らせれば良かろう。 それで、一騎当千の勇者を手に入れることが出来るのなら、安い物だ」
セルセイアが家康に非難の視線を向けたが、家康はまるで平然としていた。イレイムは無言でうつむいてしまい、何も言葉を発することが出来なかった。家康は更に言葉を紡ぐが、不思議とそれは追い討ちに属する物ではなかった。
「……ただ、一つ問題があるな。 何かしらの押さえが必要だ、と言うことだ。 人間、抑えが効かないと、必ず増長し傲慢になる。 誰か逆らえない存在が居ると、制御しやすくなるのだが」
「その押さえなら、心当たりがあります」
「ほう?」
ようやく安心した様子で、セルセイアが言った。そして、侍女を呼ぶと、ロフェレス夫妻を呼んだのであった。
 
藍は上機嫌であった。手にした槍はとても軽く感じられ、体自体もとても軽く、制御しやすく思えるのだ。これから多少自制を働かせれば、殺りたい放題だと思うと、それだけで涎がこぼれそうであった。
ただ、彼女としては、友人達が大事であることに変わりはなかった。食堂のアイサや、アッセア将軍、それにティータは大事な友人であり、彼女らのために戦うのを、ためらうことは今後もあるまい。また、頭の中で殺して切り刻みたいと思ったとしても、実際にそれをやって良いと言われたとき、実行することはまずあり得ない。怪物を心の中に宿しはした物の、同時に理性を喪失したわけではないのである。
藍は成長期であり、積極的に体を成長させることを考えれば、幾らでもそれが叶う年頃であった。栄養分豊富な食物を食べ、特にカルシウムを豊富に摂取し、頑強に体を作り上げていく。そうすれば、更に容易に、更に大規模に殺戮が可能になるのだ。必ずしも大きく作ることは必要ではない。強固に、敏捷に作ることが重要なのだ。もはやおしゃれや身だしなみなどよりも、藍の心の中には、そちらの方が重要なこととなっていた。
「さーて、アイサさんの所に、お昼に行こうかな、と」
そういって振り返った藍の視界を、巨大な黒い何かが塞いだ。数秒の沈黙の後、藍はその正体に気づいた。
「きゃあああああああああああああああああああぁああっ!」
うぉおおおおおおおおおおおおおおおっ!
二つの悲鳴が、城の中庭に響き渡った。腰を抜かした藍は地面を張って後ろに逃げようとしていた。そこにいたのは、以前廃屋で見た、巨大な男だったからである。何故男が吠えたのかは分からないが、どうも藍はこの大男が苦手であり、冷静に状況を見るよりも逃げようと言う気持ちが先に立った。
かーちゃん! かーちゃんっ! いた! ここにいたーっ!
男の咆吼が響き渡る。藍は必死に這いずり、隅に逃げ込んでいった。だが、その前に、妖艶な体型ながら妙に幼い雰囲気の女性が立ちふさがった。特に危険な感じを受けたわけではないのだが、藍は妙な違和感を覚えた。どうも柔で弱い容姿なのに、その通りの相手には思えなかったのだ。彼女は子供が浮かべる様な笑みを浮かべると、藍に向けて腰をかがめた。
「みつけたわよ、たかやなぎ、あいちゃん」
何か危険な物を感じた藍は、振り向いたが、そちらには先ほどの男が小山の様な威容を見せつつ立っていた。引きつった顔で視線を戻すと、そちらには変な女性がにこにこと微笑んでいる。まさしく状況は、前門の狼、後門の虎であった。
「だ、だだだだだ、だれ?」
「わたしは、コーラルっていうのぉ。 そっちのおおきなひとは、わたしのおっとで、フィフィっていうのよ」
「そ、そうじゃなくて、わ、わわ、私に、い、一体何の用!?」
十数人で構成された盗賊団を一人で一蹴し、もはや地上でも最強レベルの武を身につけた存在が、歯の根があわない。滑稽な光景ではあったが、当人には真剣な危機であった。パニックに陥る藍を、女性は、驚くべき事に片手で掴みあげた。
「ちょっとはなしがあるわ。 いっしょにきてもらうわよぉ」
兵士達は一切手を出さないよう、あらかじめ言われているらしく、誰も何も言わなかった。蒼白になって呆然としている藍を小脇に抱えた女性は、彼らの前を大男と共に悠然と通り過ぎ、やがて中庭の端に設置されている小屋へと入り込んで、戸を閉めた。
 
小屋の壁に背を預けて、藍は震えていた。本能的に、この二人には叶わないと悟っていたのかも知れない。戦闘能力云々ではなく、人間的に勝てない相手というのは存在する物だ。一般的な呼び方としては、天敵というのがある。この二人、特に女性の方からは、全く持って抗しがたい、絶望的な圧力を藍は感じていた。
「まずだいいちに、わたしたちは(まものがり)をほんしょくにしていたけどぉ、このあいだしかんしたの。 いまは、アッセアしょうぐんのしたで、特別軍属としてはたらいているのよぉ」
「そ、そう、なんだ」
「それで、わたしたちのしたで、あなたをつかっていいってことになったのぉ」
数秒の沈黙。その後、藍は血の気が引くのを感じた。
「いまのところぉ、わたしたちをいれて五人が、特別軍属としてはたらいているわぁ。 それで、わたしが、そのしきけんをまかされているのぉ。 あなたは六人目として、せいしきにとうろくされることになるわぁ」
か、かーちゃんはとても厳しいぞ! おれは、かーちゃんの訓練がこぇえええええええっ!
「おやあ? あいちゃん、どーしたのぉ?」
皆まで聞かずに、藍は目を回して気絶していた。目を回している藍を軽々と抱え上げると、コーラルは自分たちに与えられた訓練場へ連れて行ったのであった。
 
4,安らぎの形
 
家康の提案で、アッセア指揮下に作られた精鋭部隊は、全部で現在六名。ロフェレス夫妻と、高柳藍、更に領内から選りすぐった精鋭三名から構成されている。そのうちの一人は、国境に配備されていたミシュクという男であった。何でも、引き抜かれた原因は、たまたまコーラルの目にとまったとかで、部隊長の無茶な性格が伺われる。ただ、実際に、地獄の如き訓練を施された結果、かなりの実力を持つ様になっていた。ただ、同時に彼は此処に配属されてから、乾いた笑みしか浮かべない様になったとも言われていたのだが。訓練の激しさが、それだけでも薄々と伝わってくる事態であっただろう。
この部隊は、敵軍の指揮官強襲を目的に編成された。数に勝る相手を叩くには、相手が数に勝るということ自体を利用せねばならない。驕りを付く方法、パニックを起こさせる方法、分断して各個撃破していく方法、様々にあるが、有効な物の一つが指揮官及び指揮官級の高級士官を捕縛或いは捕殺することだ。それを目的として、この部隊は編成された。
本来、これは奇計に属することで、まともな用兵家なら遺棄する事である。家康も、当然最初は渋ったらしい。彼は地味で堅実なことが服を着ている様な男だったから、当然のことであっただろう。だが、切り札が多ければ多いほど良いのは当然のことで、藍の超常的な武力をセルセイアから聞いたこともあり、部隊の作成に動いた様である。マクロな集団戦において、普通に戦ったのではミクロの人間など何の役にも立たないが、使い方次第では話が別だ。そして、今回はその使い方を選ぶわけには行かないのである。
皇国と帝国が正面衝突を始めたことで、家康の対外的戦略は一応の成功を見た。続いて、今後侵入してくる帝国軍を撃退すること、帝国軍に此方が施した陰謀を看破されないこと、が戦略の完成に必要となってくる。帝国軍に負け、ことよせを奪われたらそもそもそれが成り立たないのだ。そして外交努力で帝国軍の侵入を防ぐことが出来ない以上、如何なる策を使ってでも撃退する準備を整えなければ行けないのである。
良い意味で普通の少女であるイレイムには、辛い決断が続いた。ぶつかりあった帝国軍と皇国軍は、併せて一万五千人以上の死者を出し、これは今後更に増えることが確実である。様々な情報によると、ハイマンドは既に帝国軍各師団に号令を出し、南への移動を開始し始めている。対し、南部諸国連合も活発な動きを開始していた。戦闘の規模は恐らく百年に一度の物になるはずで、現在の概算で南部諸国連合が約四十万、帝国軍が南部方面軍を併せて約三十万の兵を用意するだろうという結論が出ている。おそらく南部諸国連合の司令を務めるのは百勝将軍と唄われる皇国大将軍ニーナ、帝国軍の司令を務めるのはハイマンド自身で、恐らく綺羅星が如き将星も多数参加することは疑いがない。そして両者が総力を挙げてぶつかった場合、実力は伯仲、死者は最低でも十万を超えるとの試算も出ていた。そして、それを煽るべく策を練ったのは家康であり、実行するべく決断したのはイレイムなのだ。彼女は昔、笑顔が素敵だと評判であったが、今では憂いの表情の方が遙かに多くなっていた。自分で決断していることなので、誰も責めることが出来ず、彼女の心は一日ごとに疲労の度合いを強くしていた。
そんなある日、彼女は調練に引っ張り出された。まず最初に視察したのは正規兵の調練で、最近は家康も満足するほど見事な動きを見せているそれを見学し、兵士達にねぎらいの言葉をかけた。その後、幾つかの部隊を視察した後、コーラルの部隊へと移動した。そこは、意外にも、暖かい雰囲気の場所であった。
 
「はいはい、ではみなさん、次は実戦訓練ですよぉ」
コーラルが言うと、彼女の指揮下の五人に、それぞれ訓練用の武具が配られた。そして、藍ともう一人が組み、残りの三人と対峙した。今日、藍と組んだのはミシュクであり、残りの三名の中で、ひときわ強大な力を見せるのはゲフゴーズドであった。両者の間に殺気が満ち、コーラルが手を振り下ろすと同時にそれは炸裂した。
まず最初に地を蹴ったのは藍であった。一瞬遅れてミシュクが、続いて他の三人が動いた。
「しゃっ!」
おぉおおおおおっ!
藍とゲフゴーズドが同時に叫び、振り上げられた剣と、振り下ろされた斧が激突した。火花を散らしてはじきあったそれは、一瞬後には燕の様に尾を翻し、再び相手へと向かう。藍は絶対的にゲフゴーズドと比してパワーが足りなかったが、スピードとテクニックで不足分を補っており、激しく互角に打ち合っている。だが怖いのか、やはり目は見ない様にしており、その間隙をついて今一人が藍に打ちかかった。彼は正規軍から抜擢された兵士で、ヨシュアという。優れた使い手である以上に、コーラルが卓絶した潜在能力を見込んだという話で、事実めきめきと実力を伸ばしていた。横殴りの一撃は、テクニックよりもパワーを重視しており、まともに受ければひとたまりもない、かと思われた。だが、藍は剣を斜めにしてそれを軽々弾くと、側転し、振り下ろされたゲフゴーズドの一撃を回避する。真横に逃げたことで、ヨシュアをゲフゴーズドの巨体が遮断することになり、好機が訪れた。そのまま藍は地面を蹴り、素早い動作でゲフゴーズドの肩を蹴って跳躍すると、相手を見失って一瞬硬直したヨシュアの脳天に、鋭い一撃を叩き込んだ。
「そこまで。 ヨシュアちゃん、戦闘不能」
コーラルが手を横に振ると、ヨシュアは肩を落とし、訓練用の剣を投げ捨てると、とぼとぼと訓練場の外に出た。訓練場の中では、戦いが激化の一途を辿っており、決着する気配もない。若干押され気味のミシュクに対し、藍は一撃ごとに猛悍さを加え、ゲフゴーズドをじりじりと押し始めていた。だが、そこへ横やりが入った。
「あなたぁ、まけたらおしりひゃくたたきよぉ」
お、おおおおおおっ! 百叩きこぇえええええええっ!
目を血走らせ、絶叫したゲフゴーズドが、不意に技に対する切れ味を増した。藍は舌打ちする。この男は、幾度か戦って分かったのだが、どうも自分の力にリミッターをかけていて、コーラルの言葉で外すことが出来るらしいのだ。今まで二十七回対戦して、十五勝十二敗。リミッターが残っているときは確実に勝つことが出来たのに、外されてからは一度も勝てなかった。今度こそ、と唇を噛み、藍は激しい攻撃を捌きながら、チャンスをうかがう。だが、重く鋭い攻撃群の前に、訓練用の剣は徐々に悲鳴を上げ始め、やがてへし折れた。大きく斧を振りかぶるゲフゴーズドだったが、藍はその顔面に剣を投げつけた。そして鋭くバックステップし、地面に転がった、ヨシュアの放棄した剣を拾い上げ、激しく打ちかかったのである。同時に、ゲフゴーズドも、殆ど動物的なまでの勘で斧を横になぐ。閃光が交錯し、両者がすれ違った後、一瞬の静寂が訪れた。
「はい、あいちゃん、フィフィ、戦闘不能」
「……もうっ! 最低っ!」
「おぉおおおおおっ! 相打ちだっ!」
悔しがって地面を殴りつける藍と、意味もなく絶叫するゲフゴーズド。程なくミシュクも、奇跡的な逆転勝利を決め、今回は藍チームの勝利に終わった。時刻は丁度昼飯時となり、料理係が手を叩いて皆を呼ぶ。
「みんな、おつかれー! ご飯だよー!」
藍が疲れた笑顔を向けた先には、数日前からここで部隊員の昼食と夕食の作成を任されているアイサがいた。彼女が此処で働いているのには様々な事情があり、部隊内でその理由は熟知されており、誰もそれについては触れない。要は、藍の言うことを聞かずにまたしても変なことをやらかした挙げ句に、とうとう店を潰してしまったのである。しかし、藍がイレイムに口添えし、このポストを回して貰ったのだった。元々、恐ろしいまでに金銭に執着がないアイサは、料理さえ作れれば何処でも良い様だったので、今は充分馴染んでいた。アイサのうりは健康的な魅力であるが、それは現在でも健在である。エプロンがこの上もなく、健康的な笑顔に似合っている。コーラル隊の面々はめいめい席に着き、コーラルが栄養面を考えて献立を練り、アイサが達人の技量で作った、だがそれでも美味しいとは限らない昼食を口に入れ始めた。
「アイサさん、これうまいな。 何この魚?」
「ああ、それはね、山大百足」
ヨシュアが咳き込んだ。魚だと思って食べていた白身が、山に数多く生息する、体長四十センチを超える大百足の物だと分かったからである。ロフェレス夫妻を除く他の者達も蒼白になり、しばし手を止めていた。しかし、残すことは絶対に許されないので(そんなことをすればアイサに殺される)、皆無言で食べる。やがて、全員が満腹し、コーラルが次の指示を出そうとし、振り返った。そこには、護衛を伴ったイレイムの姿があった。コーラルがおっとりした、だが綺麗で完璧な動作で敬礼し、他の者も順次それに習う。アイサだけは相手の正体を知らない様で、イレイムが視線を逸らした隙に、藍にこっそり耳打ちした。
「藍ちゃん、あの子誰? 随分感じがいいけど?」
「女王陛下だよ」
「え、ええっ? そっか、噂には聞いてたけど、こんな所まで視察に来るんだ。 熱心な人だね」
「生真面目で、責任感が強い人だよ。 何より優しくて、それで色々困っているみたいだけどね」
イレイムが藍に笑いかけたので、藍は笑顔でそれに応えた。少し安心した様子で、イレイムは視線を逸らし、その理由が分からず藍は小首を傾げた。コーラルとイレイムは先ほどからなにやら話し込んでいるが、藍とアイサの元には、何を話しているかまでは届かなかった。
女王が質素な生活をしている事は、民衆もよく知る事実である。イレイムが演習を視察する場合、必ず行うのが兵士と同じ食事を味わうことで、どんなに不味い軍隊食でも文句を言わず、残さず平らげた。その姿勢は兵士達の間でも有名で、ますます忠誠を高める要因となっていた。本日もその例にならい、彼女は昼食を此処で取る気の様だった。
コーラルがアイサに指示を出し、頷いた料理長は残った材料を調理し始める。この部隊の食料は、朝山へ採りに行った物で、経費はかかっていない。アイサの分も含めて七人分しかないので、それで成立してしまうのだ。コーラルが申請し、特別に承認されたことで、故に毎回味にばらつきがあるのだった。ただ、交戦中にもレーションが支給されるわけではないから、いざ開戦したときのために、今のうちから保存食を作り蓄えておかねばならないだろう。兵士と同じ席に着き、文句も言わず待つ女王。護衛の兵士達も同じ席に着く様言われ、逡巡の後それに従う。流石にアイサも女王の食事を作ると言うことで緊張した様だが、腕の方が多少の緊張でどうにかなるような柔な物ではない。それに、アイサも軍で一般的に食べられているレーションのまずさは良く知っている。で有る以上、さほどの緊張もなく料理を作り上げることが出来た。
女王は丁寧に食前の礼をすると、兵士と同じ食器を取り、食べ始めた。藍は以前、女王に同行したことがあり、最初に食事をしたときに料理を残していたのを見た。これは元々そう言う環境に育ったからで、悪気もないのだが、不快感を覚える料理人もいる。機会を見て藍がそれを教えると、イレイムはすぐに自分の行動を修正し、今では全て食べる様になっていた。この娘には、元々食べ物に好き嫌いが無く、故にそれが成し遂げられるという事情もあった様であるが。何にしろ、今回も全部平らげた女王は、育ちの良さを伺わせる笑みをアイサに向けた。
「とても美味しいですね。 これは、何を料理した物なのですか?」
「山で採れた……」
聞き返す様なことはなく、イレイムは相手の言葉の続きを待つ。困った様にアイサは眉をひそめたが、コーラルが笑顔で頷いているのを見て、事実を告げることにした。
「これです」
取り出された、まだ生きてもそもそ動いている巨大百足を見て、護衛の兵士達がそろって後ろに転倒した。イレイムは笑顔のまま硬直し、微動だにしない。藍が目の前で手を振ってみたが、瞬き一つしない。そのまま気絶してしまったらしかった。
数十秒後、意識を取り戻したイレイムは、しばし呆然としていたが、やがて笑い始めた。息をのむ皆の前で、あくまで上品に、くすくすと笑い続ける。しかも一度火がつくと、なかなか笑いの蝋燭は火勢が衰えぬ様で、涙さえ浮かべながら、イレイムはあくまで上品に笑い続けた。
「あ、あの、すみません、なんだかびっくりして、とてもそれがおかしくて……」
それだけ言うのが精一杯だったらしく、またイレイムは顔を下げて、口に手を当てて笑い始めた。護衛の兵士達はようやく立ち上がって、呆然と初めて見る女王の笑顔を見守った。しばしの後、ぽんと手を打った藍は、スープの材料に使われていたらしい何かを残った材料の中から取りだした。
「陛下、これ、スープの出汁」
再び石化するイレイムと、護衛の者達。それは何と、未だ元気にうねうねと蠢く、巨大なナメクジだったからである。体長は三十センチに近くになる。これは数日前にとって来た後、餌を与えないで糞を出させた物で、藍の故郷で言えばエスカルゴに使う蝸牛と似た様な処置を施したことになる。食べ方は異なったのだが。再び固まったイレイムは、また笑いだし、今度は耐えきれない様で自分の肩を抱いて笑い続けた。藍はイレイムの笑いのつぼを悟った。要するにこの娘は、あまりにも自分の感覚からして非現実的なものに触れると、恐怖よりも先に笑いが漏れてしまうらしかった。
 
しばしの後、落ち着きを取り戻したイレイムは、護衛を外で待たせて、人払いをすると、藍とアイサに頭を下げた。
「ありがとうございます、藍様、アイサ様。 お陰で随分楽になりました」
「え、いいよ、そんなの。 凄く辛そうだったから、少しでも楽になればいいと思ってしただけだし」
「? え、ええ」
イレイムにため口を聞く藍に、アイサはとまどった様だが、藍がこっそり耳打ちした。
「訳ありなの。 後で理由話す」
「お二人は、お友達なのですか?」
「あ、えっと、うん。 そうだよ、じゃなくてそうです」
「……」
イレイムの表情に、羨望が奔った。藍は彼女が言いたいことを即座に理解したが、それは自分自身で言い出さないと意味がない事だった。となりで、アイサもそれには気づいていた様であり、イレイムが決断するまで待つ。イレイムは決然と顔を上げた。政治的決断を下すときの、強いまっすぐな意志の力が、その瞳の奥に宿っていた。
「あの……すみません。 私も、お二人のお友達にしていただけないでしょうか。 無論、プライベートだけのつきあいで構いません。 でも……」
「あたしは構わないよ」
「私も。 てか、陛下とは前から友達になってみたかったんだ」
二人の言葉を聞くと、イレイムの表情がぱっと明るくなった。藍は、この瞬間、この女王の笑顔が魅力的な物だと、改めて感じたのだった。イレイムは、このときを境に、徐々に人間的にも強くなる。これは、その契機となる、重要な事件だった。
 
帝国軍南部方面軍第四師団司令部に、ジェシィと、その直属部隊が戻ってきた。第四師団師団長ゼセーイフ中将に敬礼すると、ジェシィは口を開いた。
「ミディルア兵団長のご命令をお伝えします」
「うむ」
「第四師団は、来月後半をめどに、コーネリア王国への侵攻を実施」
「ほう、いよいよか」
ゼゼーイフが不敵に、口の端を笑みの形につり上げた。彼は帝国軍でもかなりの古株だが、戦術家としては有能でも戦略家としては落第点のため、今まで師団長以上には出世出来なかった。本人もそれにコンプレックスを抱いていて、今回単独行動を任され、喜びを感じたのであろう。此処で功績を挙げれば、今までのキャリアからして、副兵団長への栄進もあり得るのだ。
「目的は威力偵察。 可能であれば、コーネリア王都を攻略、女王イレイムを捕縛せよ、との事です」
「相変わらず慎重だな、ミディルア殿は。 ふん、我が師団が、田舎の小国のヘボ軍如きに引けを取るとでも思っているのか」
相変わらず思慮の浅い言葉を口にすると、生き生きとした様子で、ゼゼーイフは部下達に指令を飛ばし始めた。ジェシィは嘆息すると、コーネリアの方へ視線を移す。戦いは、ついに避けられぬ所まで来た。無表情なジェシィの顔に、ふと表情らしき物が浮かんだが、それはすぐに消えた。そして、二度と現れなかったのだった。
(続)