関わり合うもの

 

序、理由

 

部屋の中で待っていたのは、髭を茂みか何かのごとくに蓄えた巨躯の男と、妖艶な肉体に妙に幼い表情を同居させている美しい女だった。男は何かにおびえるように周囲に視線をちらちらと向け、落ち着かない様子で与えられた長椅子に縮こまっており、女は人好きのする笑みを浮かべて、その隣にちょこんと座っている。二人は夫婦で、魔物狩りの業界ではかなり名の知れた者達であった。

妻はコーラル、夫はゲフゴーズドと言う。夫は複雑で珍しい名であり、親しい者は、夫のことをフェフィと縮めて呼んでいる様だ。普通は、ロフェレスという姓で、ひとくくりに呼ばれることが多い二人であった。事実、二人は文字通りの鴛夫婦であり、いつも共に行動していた。だが、彼らがまともな性格の持ち主かというと、到底そうとは言えないであろう。この国に越して来てからも、最初は近所の人付き合いに難儀していた様である。

「かーちゃん、俺、怖ええ!」

「もうきめたことよぉ。 わがままいわないの、あなた」

「わかったよ、かーちゃん!」

夫のはき出した異常に弱気な言葉、妻の紡ぐ異常に幼い言葉、それらはとても歴戦の勇者たる物とは思えない。だが、この二人が、下水道から現れた重量級の魔物を一蹴し、市民を守ったのは紛れもない事実なのである。そして、その事件こそが、彼らと住民の架け橋となった出来事でもあった。二人は決して自分の前職を好いてはいない様であったが、恐らくこの時だけは、自分の技能に喜びを感じたことであろう。

二人の様子を、のぞき穴から見ていた男が振り返り、上司に、困惑した表情で語りかけた。背後に控えているのは、この国の諜報組織を一手に束ねるセルセイアであり、その隣には女王であるイレイムも控えている。不安げな男と女王に対し、セルセイアは不貞不貞しいまでに冷静である。

「本当に、あの二人が、最強の魔物狩りなのでしょうか……」

「最強かどうかは分からないけど、超一流の使い手であることは事実よ。 今も、壁の向こうにいる私達に気づいているし、並の使い手ではないわ」

「ええっ?」

慌てた諜報員がもう一度覗き穴を開け、夫婦の様子を見やると、コーラルが笑顔で手を振っていた。それを見て、ようやく納得したのか、諜報員は不満をこぼすのを止めた。不安そうにやりとりを見守っていたイレイムが、言葉を発したのはその後だった。

セルセイア様、私、行って来ます

二人の間に、それ以上の言葉は必要ではなかった。静かに頷くセルセイアと、護衛を申し出て、謝絶される諜報員。二人を背後に残して、女王は決意を瞳に秘め、一つ深呼吸すると隠し部屋を出た。

控え目な性格だ、大人しい女王だと言われていたイレイムは、最近その評価を一変しつつある。(控えめ)は(行動的)に代わり、(大人しい)は(有言実行の)に代わった。本人自身も、徐々に、だが確実に、脱皮し、成長しつつある。

帝国との対決が、ほぼ確実になった今、徐々に不安は末端の民衆へも伝わりつつあった。無論、現時点では、その情報は公開されていないのだが、漠然とした不安は、どうしても周囲に漏れるのである。だが、イレイムの成長、南から来たという(イエヤス)の辣腕ぶり、それらも共に伝わりつつあり、パニックは未だ起こってはいない。

既にロフェレス夫妻の人格は調査済みで、イレイムが何か危害を加えられる可能性はほぼ無いと結論も出ている。しかし、一応仕事であるし、監視は怠ってはならない。セルセイアが注意深く、怪談の様子を見守る中、イレイムが呼吸を整え、口を開いた。

「私が、女王を務めているイレイムです。 お二人の勇名は、宮廷内にも雷のごとく伝わっています」

「お、おれが、フェフィだ!」

「わたしが、つまのぉ、コーラルです。 はじめましてぇ、女王陛下」

奇妙な挨拶をすませると、イレイムは気を引き締める。この二人が信頼出来るかどうか、実戦でどれほどの力を発揮してくれるのか、見極めなければならないのだ。

彼女は女王であり、その決断一つで簡単に人が死に、全てを失う者も出る。決断の一つ一つにも気を抜くことは許されず、それが通常生活の数十倍もの成長を促す。自分の立場を理解し、仕事を理解し、責任を理解している以上、手抜きは絶対に許されない事だった。これに関しては、家康にしても、ハイマンドにしても、そしてイレイムにしても、共通する認識であっただろう。

やがて、言葉を選びつつ話し始めたイレイムは、夫婦が仕官してきた驚くべき理由を知った。そして、自らの責任が更に、少し、だが確実に重くなった事を察し、心中にて嘆息したのだった。

 

1,苦悩

 

家康は自室で、眠りについていた。彼の故郷に比べ、この世界の寝具は若干寝にくかったのも事実であるが、最近はすっかり慣れ、平然と眠ることが出来る。元々彼は苦境に強かったから、慣れるのも早く、今では故郷の様にこの土地に親しんでいた。

それが心の緩みを産んだか、最近彼はもっとも辛かった事を思い出す様になっていた。彼の長男で、勇将と名高かった信康の事である。

 

「むう……!」

真夜中、家康がうめき声と共に身を起こした。冷や汗をかいていることに気づき、柔らかい布を手に取る。久しぶりに王城に戻ってきた彼は、翌日からの訓練計画を立て終えると、眠りについていたのだが、悪夢が彼を枕から突き飛ばした。

悪夢に出てきたのは、やはり信康だった。信長の命令により、妻築山殿もろとも手に掛けねばならなかった長男。優れた武将であり、誰もがその最後を惜しんだ信康。信長の非情な命令は、彼が武田に通じたからだと言われているが、実際には諸説あり、事実はよく分からない。分かっているのは、信長の命令が絶対至上の物であり、逆らえば死のみがあった、という事だ。ここで、個人であれば、家族の事を守るために、絶対的な力と戦うという方法もあったであろう。だが国主である家康には、部下達を絶対に勝ち目のない戦いに駆り立てるなどという決断は許されなかったのである。

翌日のことを考え、再び家康は眠ろうとしたが、どうしても寝付けなかった。嘆息すると、彼は渡されている夜着を羽織り、部屋の外に出た。護衛長に、少し城内を彷徨くことを告げ、階段を上ってテラスに出た。柔らかい月明かりがテラスに降り注ぎ、周囲からは様々な虫の声がした。

空にある月は二つ。何度見ても、二つであって一つではない。また、建物も、木以上に石が多く使われている。だが、ここ暫くの内に、それらを攻める方法を研究した家康には、なんらそれは抵抗のある物ではなかった。目をつぶり、試しにこの王城を攻め落とす方法を考え始めたとき、後ろから声が掛けられた。

「家康殿、どうしました? こんな夜中に」

「……セルセイア殿か。 眠れぬでな、夜風に当たっていた」

家康は一瞬だけセルセイアに視線を向けたが、すぐに戻す。家康から見ても、セルセイアは充分に美しい女だ。だが、今は城の構造と、それに基づく攻城戦の計画を考える方が、興味引かれる事なのだ。家康は、以前アッセアを(戦に生きる者)と称したが、それは彼も同じ事なのである。あらゆる意味で、根っからの軍人なのだ。気まずい空気を感じて、セルセイアが咳払いした。

「……訓練は順調に進んでいますか?」

「ああ。 おそらく、帝国軍が侵入してきた際には、一応の訓練を受けた、二千五百程度の兵を動員出来るはずだ」

「予定通りですね」

「ああ。 あとは戦場で、名将に率いられた数倍の精鋭を撃破するだけだ。 全く愉快な話ではないか」

心底楽しそうに家康が笑ったので、セルセイアはついていけないと思った様であった。風を切る音がしたので、家康が視線をそちらに移すと、藍がいて、槍を振るっていた。城壁の上にいる二人には、気づいているのかいないのか、それは分からないが、藍は絶倫の技量を発揮して、槍で的を貫いている。

「最近、あの娘が、小さな子供を連れて一緒に歩いているそうだな」

「良く知っていますね」

「他にも街に友達が出来たと、何度か自慢げに話していた。 それが原因かは分からぬが、急に目に宿る光が良くなってきた。 今のあれは、充分に使い物になるだろうな」

藍を見る家康の目が、心なしか優しげに細められたのを見て、セルセイアはどうも以前から暖めていたらしい言葉を口にした。そう家康に思えたのは、巧妙に隠してはいたが、彼女は以前から何か言いたそうにしていたからである。

「故郷の家族は、どのような人達ですか?」

「たくさんおる。 儂はこれでも精力には自信があってな、側室は沢山おいているし、子も多い。 儂が確実に、同世代の英雄達に勝る点は、頑健さと精力だからな」

むっとした様子でセルセイアが口をつぐんだので、家康は苦笑した。現在、家康は女を囲ってはいない。正確には、囲う暇がない。それはセルセイアも知っているはずだったが、それでも不快感を隠しきれないのであろう。

かなり厳しい実力主義者である家康から見ても、セルセイアは、他の長老達などと違って有能である。この娘は、社会の裏も表も良く知っているが、少々堅い所があり、それが欠点と言えば欠点であろう。それを除いてしまえば、大国で充分に重臣になれる力があると、家康は評価していた。何だかんだ言っても、イレイムとこの娘はよく似ており、故に親近感も高まるのであろう。そしてそれが、本人の能力を、更に高める結果となっている。

実際問題、セルセイアの作戦遂行能力は非常に優れている。帝国と皇国の国境紛争を演出した手腕は大した物で、出来ることなら部下として国に連れて帰りたいほどである。この娘の警戒を、解いておく必要があると家康が感じたかどうかは分からない。或いは、単に感傷的な気分になっていただけなのかも知れない。結果として、家康は、信康のことをセルセイアにしゃべった。

「……といっても、その中の一人を失ったことが、とても辛い時もある。 当然の話であるがな」

「……」

「儂は戦国の世でも、最高の英雄の一人の部下だった。 一応、公式には独立国で、その方の同盟者と言うことになってはいたが、事実はその方の部下の一人にすぎなかった。 戦術よりも戦略に優れた方でな。 革新的な事を幾つも生み出す頭脳と、古き物をうち砕く力、優れた部下を取り立てる度量と、先見の明の持ち主だった」

「過去形と言うことは、もう違うのですか?」

セルセイアの言葉に、家康は頷いた。そして、再び、鋭く槍を振るう藍に視線を戻し、半ば独語する様に言った。

「文字通りの天才。 だが、同時に、際限なく残虐で、容赦のないお人でもあった。 イレイム殿とは、正反対の性格でな、人の心や命など何とも思っていない節があった。 それが故に、とんでもなく簡単な失敗で、命を無惨に落とした」

客観的ではあるが、同時に際限なく苛烈な評価を下しながら、家康の口調は変わらない。家康は、今話題に乗せている人物を、畏怖してはいたが、決して好いてはいなかった。これは彼に限ったことではなく、話題の人物、織田信長に関わっていた者の、九割以上がそうであろう事は、疑いなかったであろう。信長は、未来への圧倒的な光と、自信への絶対的な恐怖、この二つで部下達を縛っていたのである。二つの月から、光を浴びながら、彼は淡々と続ける。

「正直、儂はそのとき、ざまあみろと思った。 そのお方、織田信長公を手に掛けたのは、彼の武将の中でも最高の力を持つ一人だった。 その武将、明智光秀は信長公にいびり倒され、母を見殺しにされ、領地を奪われた。 ついに耐えきれなくなったのだろうな。 気持ちは、よく分かる。 無論対外的には悲しみを示し、すぐに敵討ちの軍を出したが、内心は小躍りせんばかりだった」

「……それで、陛下に、あれほど良く尽くしてくれるのですか?」

「流石に鋭いな」

「鈍くては、この仕事はやっていけませんので」

セルセイアが笑った。家康は目を細め、その表情を見やると、再び視線を藍に戻す。藍は眼下で、様々な構えを試した後、嵐の様な連続攻撃を的に叩き込んでいた。その攻撃は激しく、やがて穴だらけになった的は、乾いた音と共にはじけ飛んだ。

「光秀殿は、母を失った。 儂は、妻と息子を失ったのだ。 完全な濡れ衣を着せられてな」

「……」

「妻は、築山は。 多少気位は高かったが、良いおなごであった。 我が子信康は、有能で、勇猛果敢な武将だった。 確かに……築山は、信長公の宿敵、今川家の血を引く者だった。 信康には、多少融通が利かぬ部分もあった。 しかし、裏切るわけが……敵に通じるわけが無いではないか……」

家康は、表情にフィルターをかけていたから、セルセイアにも表情を読むことは出来なかっただろう。しかし、月明かりに照らされたその顔には、いつもの冷静さはなく、激情があったかも知れない。だが、それも一瞬後には消えて、家康は苦笑していた。セルセイアは、微妙に困惑しながら、家康に問う。

「……かっての貴方の主君を殺した、ミツヒデと言う方は、本当に一人で事を行ったのですか?」

「さてな、知らぬ。 ……ただ、同僚である羽柴秀吉が一枚絡んでいたという話も、朝廷が一枚絡んでいたという話もある。 朝廷というのは、儂の故郷で、名目上の最高権力だ。 信長公には、朝廷に取って代わる野心すら有ったという話だったから、朝廷も気が気ではなかったであろうな」

「見え透いたことを」

「どう思おうと構わぬよ、セルセイア殿」

セルセイアと家康の視線が、数秒ぶつかり合った。先に視線をはずしたのはセルセイアで、体ごと視線をはずすと、彼女は家康から離れ、歩き始めた。そして、思い出したかの様に振り返った。

「あまり遅くならない様に。 貴方はこの国に必要なお客様なのですから」

「そうするさ。 儂も、イレイム殿の可能性を、もう少し見てみたいのでな。 無理は出来ぬ」

去りゆくセルセイアの背中を見送ると、家康は延びをし、欠伸をした。眼下では、藍がまだ修練を続けているが、別に最後までそれを見続けることもあるまいと、家康は判断した。そのまま彼は寝室へ向かい、そのまま目をつぶったのだった。

 

家康こそが、本能寺の変の真の立て役者であるという説は、広く流布される噂の一つである。その噂の根拠となっているのが、信長に招かれて京に赴いた家康が、本能寺の変にあわせる様に、あまりにもタイミング良く脱出した事であろう。だが、家康は、本能寺の変を知った直後、無法地帯と化した織田領を、(伊賀越え)と後世に呼ばれる凄まじい苦労の末に脱出、本拠地三河にたどり着いており、計画的に光秀と事を計ったとは考えにくい。実際、この(伊賀越え)の最中に、せっかく手に入れた武田の旧臣、穴山信君を失っている程で、実際家康の人生の中でも、1〜2を争うほどの危機だったのである。

また、このときに、高名な服部半蔵がいわゆる伊賀者を使って、家康の逃避を手助けしたことは歴史的な事実である。伊賀者は忍びを始め、築城等の技術も持つ技術集団であり、このときの活躍も良く知られている。服部半蔵はこの功績を後に認められ、諜報活動を一手に束ねる長となっているが、その反面で大名への出世は閉ざされてしまった。服部家は、家康が幕府を開いた際、一万石にみたぬ石高しか与えられなかった。半蔵の父は、息子に、軍事のみにて働けと説いていた様だが、それは正しかったのだ。実際問題、半蔵は伊賀越えまでは侍大将として活躍していて、功績もあったのである。

家康は現実主義者で、実力主義者でもあった。彼がこのとき、情報の重要さを再確認したのは疑いがない。そして、伊賀越えから数年を経過した今の家康は、充分にそれを知っていた。

 

鍵を握るセルセイアの心を解くため、家康は今回の様なことをしたのだ。少なくとも、家康は自分にそう言い聞かせていた。感傷などではないと、家康は念を押して自分に言い聞かせていた。

信康と、築山殿のことが脳裏をよぎる。助けてやれなかった二人のことを思い、もう一度嘆息すると、家康は眠りについた。彼には、様々な意味で、本当は休息が必要だったのである。国主としてではなく、一人の人間としての家康には、誰か支えになる者が必要だったのだろう。

しかし、それは叶わぬ事であった。身近にいる人間には、これからの作業の効率を考えると、手を出すわけにも必要以上に親しくなるわけにもいかない。

 

この男は、助けを求め始めているかもしれない。今は少しずつ、だが確実に、それは心に負担を呼び、いずれは取り返しのつかぬ事態が訪れうる。だが、現時点で、それに気づいている者は、誰もいなかった。家康の心に、徐々に闇が差し込み始めていた。

 

2,壊れ始め

 

(何か)の力を、徐々に引き出せるようになり始めた藍は、自分の力を試すのが楽しくなってきていた。最近は異常なまでに訓練量が多くなり、それに比例する様に技量が上がっている。力も徐々に付き始め、少しずつ重い武器も使える様になり始めていた。そして、もう一つ彼女に備わったものがある。それは、破壊に対する快感である。槍を振るって、的を打ち抜くとき。弓を引き絞り、矢を放ち、的を貫くとき。剣を振るって、訓練用に設置された案山子を斬り砕くとき。手に伝わる感触、物が砕ける音、飛び散る被破壊者。それらが藍を、今までにない程の快感に駆り立てていた。心底楽しそうに笑みを浮かべながら、少女は剣を振るい、槍を繰り出し、夢中になって訓練に没頭した。

少しずつ壊れ始めた少女の心は、武具に魅せられると同時に、友への依存を強め始めていた。王都は春を終え、街路樹が力強く緑なし、鳥に混じってレシアン虫と呼ばれる昆虫が鳴き始めている。そんな中、藍は穂先を包んだ槍を背負い、上機嫌で大通りを歩いていた。少しずつ戦のことが噂になり始めている王都であったが、彼女の歩調と表情は、明るくなるばかりであった。

現在彼女に渡されている槍は、他国の鍛冶が鍛えた業物で、先代の王が趣味で集めていた物の一つだった。実際に使えることは既に証明済みで、訓練を積極的にやる様になった藍に、イレイムが手渡した物である。コーネリアでは、槍術が教養の一つとして認められており、彼女の様に槍を背負っている者が時々いる。ただ、それは結局の処、座敷芸の域を出ない物で、平和な地に伝わる武術以上の物でも以下の物でも無かった。江戸時代後、お座敷剣法となりはてた、日本の剣道に近いと言えよう。

その槍を背負ったまま、藍は大通りへと向かっていた。そこで、彼女は二人と待ち合わせる予定だった。一人は最近軍への協力を申し出、訓練に顔を出し始めたアッセア。今一人は、藍のことを慕う少女ティータであった。仕事柄時間に非常に正確なアッセアと、性格的に時間に正確なティータは、ほとんど待ち合わせに遅れたことはなく、今日も正確な時間に待ち合わせ場所に現れた。アッセアは年齢以上に幼い表情で手を振りながら、ティータは千切れんばかりに手を振りながら。

藍を介して友人になったこの二人は、元々友人と呼べる存在に極めて疎遠だったこともあり、互いを非常に大事にしている様だった。だが、戦争のことしか分からないアッセアと、魔法のことしか分からないティータは、互いの意志疎通に苦労している様で、常に藍を頼りにしていた。年齢的には大人のアッセアが、子供の藍を頼るというのも変な話ではある。だが、根っからの軍人で、しかも元貴族であるアッセアは、社会年齢的に子供以外の何者でもなく、無理もない話であったかも知れない。

「おいーっす! 元気してたー!」

「アイお姉様ー!」

藍が手を挙げて二人に呼びかけると、ティータが飛びつく様に抱きついてくる。二歳しか年が変わらないとは思えないほど幼いこの少女は、喜を顔中に浮かべて、昨日有ったことをさも貴重なことの様に藍に報告した。それを楽しげに聞きながら、アッセアが言う。

「今日は何処に行くの?」

「アッセアちゃんは、どこか行きたい所有る?」

「ぼくは、この間の美味しいお料理が食べたいな」

「ティータちゃんは、アイお姉様の行きたい所が良いのー」

目を輝かせて言うティータを見ながら、藍はふと奇妙な感覚を覚えていた。この娘は、壊させてくれと言ったら、壊させてくれるのだろうかと思ったのだ。ティータの体は細い。同年代の女の子から比べても貧弱な肉体だが、案山子や的よりは頑丈だろう。槍で胸を貫いたら、矢で喉を打ち抜いたら、剣で肩口から真っ二つに切り裂いたら、どうなるのだろう。それは一瞬の思考だったが、際限なく暴走していった。鮮血はどういう風に飛び散るのだろう。肉を切り、骨を砕く感触はどうなのだろう。斬られた瞬間、どんな表情を浮かべるのだろう。血だまりは、どのように広がるのだろう。断末魔の悲鳴は、どんな風に響くのだろう。……感じてみたい。

「アイお姉様、いたいー……」

ふと藍は我に返り、ティータの手を離した。いつの間にか、随分強く腕を握りしめていたらしい。困惑し、首を傾げるティータに、適当にごまかすと、藍はまずアイサの店に向かうことにして、率先して歩き始めた。

二人から、顔を逸らしながら、藍は口を手で押さえた。今の思考の暴走が、恐ろしく感じたのもそうだが、同時に際限ない甘美な感触も覚えたのだ。困惑する彼女の中で、再び思考がさびた歯車の様に、軋みながら回り始める。

斬ってみたい。切り刻んでみたい。砕いて、千切って、血をぶちまけてみたい。白い肌を掴んで、喉を絞め、窒息させてみたい。死に行く前の表情を見てみたい。断末魔を聞いてみたい。……いや、なによりまず第一に、殺ってみたい。

藍は子供だった。自分が子供だと理解していた。今の思考の最中、彼女は想像を絶するほどの快楽を感じた。初めて感じる、絶望的なまでの悦びだった。それは、子供の快感ではないと、藍は悟った。彼女はそれを、不潔な物だとして、否定する気はなかった。口の中に湧いた唾液を、音を立てない様に飲み下すと、藍は静かに唇をなめ回していた。眼鏡の奥の瞳が、この瞬間、闇を湛えていた。

アイサの店は、すぐ近くにまで迫っていた。ふと隣を歩いているアッセアに、藍は聞いてみた。

「ねえねえ、アッセアちゃん」

「ん……? どうしたの?」

「……人を殺す感触って、どんな?」

数瞬の沈黙の後、アッセアは息を吐き出した。ティータはそもそも言葉の意味が分からなかった様で、不思議そうに首を傾げている。藍が怖いことをするはずはないし、怖い話をするはずもないと信じ切っているのだ。

「……染みついて、洗っても取れなくなる。 そんな感じかな?」

「そうなんだ」

「アイお姉様ー? アッセアお姉様ー?」

困った様に二人を見るティータに、藍は我に返り、いつも通り笑顔を向けた。それを見て、ようやくティータは安心した様だった。

「何でもないよ、うん。 それよりも、今日の定食楽しみだね」

「ティータちゃんは、お魚がほしいのー! 白いのが、特に好きー!」

高音ではしゃぐティータを後ろに、藍は店ののれんを潜った。店内にはいいにおいが立ちこめていて、威勢のいいアイサの声が、客達を出迎える。皿をまともにしただけで、この店は客に恵まれる様になり、今までの苦労は何処かの世界へと消え去っていった。だが、料理以外には常識がないアイサは、目を離すと何をしでかすか分からないため、定期的に藍が店に来てチェックしているのである。

藍は美味しい料理を、気のおけない友と取りながら、すっかり先ほどの思考を忘れた。そして、二人と、正確には三人と別れ、城に戻った頃、再び思い出したのである。

 

王城の中庭の一角は、最近藍専用の修練場と化していた。何度も直しては壊された的や案山子が設置され、練習用の槍や剣が立てかけてある。藍の絶倫の技量は噂になり、最近はイレイムのすすめで、兵士に実戦で使えそうな技を教えることもあったが、巧くいっているとは言い難かった。武術に関しては完全に天才の藍(のなかにいる何か)だが、教官として天才というわけではないのだ。時々、腕のいい兵士や諜報部隊の面々が、参考にしようと藍の剣術や槍術を見に来ることはあった。だが、一般の兵士達にはレベルが高すぎて、とてもではないが参考にはならない様だった。

案山子を前に、槍を手にして、藍は佇んでいた。腰を落とし、息を吐くと、案山子に集中する。今までは、技量が上がるのが楽しく、痛めつけることの愉しさを自覚してはいなかった。しかし、今は違う。藍はゆっくり目を閉じ、自己暗示をかけ始めた。数秒の集中の後、ゆっくり瞼を開ける。案山子ではなく、そこにはティータが、恐怖に歪んだ顔のまま立っていた。おびえの表情で、藍の嗜虐的な感情が全て引きずり出され、爆発した。たとえ幻想であっても、いや妄想であっても、それは確かに引き金となったのだ。ティータの泣き顔、恐怖の顔をイメージするのは簡単だった。初めて会った時の事を思い出せばよいのだから。

藍の視線に、刃の如き光が宿った。風が吹き、彼女の髪を揺らした。次の瞬間、槍を、藍は体ごと、ティータに向けてつきだしていた。鋭い穂先が、少女の胸に突きたち、鈍い感触が手に残る。そして、地面に倒れたティータを踏みつけると、藍は槍を逆手に持ち替え、何度も何度も突きおろした。鋭い穂先が幾度もめりこみ、鈍い音、乾いた音、砕ける音、それらが重なる。目に闇の渦を浮き上がらせながら、藍は絶大な快楽を感じ、そして思わず笑い声を漏らしていた。

「ふふ……ふふふ……ふ……ふふふふ……うふふふ……!」

二十回ほども槍を突きおろしただろうか。彼女は肩で息をつきながら、槍を放り投げた。集中が解けると同時に、周囲の光景が現実に戻った。倒れ、滅多刺しにされたティータは、完膚無きまでバラバラにされた案山子に戻った。周囲に飛び散った、甘美なる紅き香水は、草の匂いに代わった。そして、手に残った淫靡すぎる感触は、木を叩き打ち据えた感触へと戻った。無論それは快感ではあったが、妄想の中の快楽とは次元が違う代物でしかなかった。

「ねえ、起きてる?」

藍が問いかけたのは、(何か)だった。無論声に出してではないが、眼鏡を直しながら、藍は再び問いかける。

「起きてるんだったら返事してよ。 ねえ、いいじゃない」

やはり返事はない。藍はハンカチを取りだし、口の周りをふきながら、更に問いかけた。今までの友人に問いかける様な口調ではない、別の口調で。

「人を斬ったこと有るの? ……当然だよね。 そうじゃなきゃ、こんな凄い力を手に入れられないものね。 ふふ……ふ……ふふふ……ふふ……ふふふふ……ふ……!」

返事がないのを分かり切った上で、更に藍は続けた。その瞳には、今や消しえぬ闇が宿り、それを本人が、完全に受け入れていた。

「ねえ、どんな感触なの? 教えてよ。 ねえ、教えてったら……。 教えてくれないなら、自分で経験しちゃうモンね。 戦が愉しみ。 帝国軍、はやく攻めてこないかな……愉しみ、とても楽しみだよ」

我慢しきれなくなった藍は、ついに身をのけぞらせて哄笑した。この瞬間、ことよせが召喚した、真の意味での武の達人が覚醒し、コーネリアに降臨したのであった。

「人を斬れない間は、動物で我慢する。 ああ……でも……やっぱり、人を斬る感触には代えられないんだろうな……。 戦争って、本当に、ほんっとうに、す・て・き。 人間殺し放題、斬りたい放題、殺りたい放題なんだから……ふふ……ふ……ふふふ……あははははははははははははははは! あー、もう、最高ッ!」

藍は、心の底からうっとりした表情であった。このとき、彼女は、(何か)と完全に同調していたのかも知れない。そしてこれから藍は、武人として、真の意味での戦いの達人となり、同時に人間として壊れていくのである。

 

この数日前、仕官してきたロフェレス夫妻は、人を見る目にたけていた。彼女は、仕官の席で、イレイムに言ったのである。藍は武人として頂点を極めるが、同時に非常に危険な存在であると。そして、妻のコーラルは、こうも言った。

「わたしたち、むかしかられきしのにないてと、よくかかわるのぉ。 こんかいも、きっとそうなるわ」

そして、藍の監視も引き受けると言った。そのとき、イレイムは、もしもの時はお願いしますとだけ答えた。だが、そのもしもの時は、間近へと迫っていたのであった。

 

3,戦う意味

 

連合の主力国アイゼンハイムスは、過去の存在となりはてていた。スファ要塞を攻略されたことが伝わると、兵士達に動揺が走り、ろくな抵抗もせず降伏する者が続出したからである。帝国軍の進撃自体も凄まじい勢いで、要塞戦で疲労した部隊ではなく、疲労の少なかった部隊や、後方に控えていた予備兵力を的確に投入、文字通り疾風の如き早さで進撃していった。

帝国軍は半月で十三の城を落とすという猛攻を見せ、首都も三時間ほどの戦いの後制圧された。元連合の要人達は大半が捕縛され、帝国本土へと送られていった。ハイマンド皇帝はそのまま親衛竜師団と共に首都に入り、アイゼンハイムスの国家解体を宣言した。

連合の消滅はそれで対外的に示された。だが、他の二国に比べると、アイゼンハイムスの征服は、簡単には終わらなかった。アイゼンハイムスの王族、軍人、共に人材はいなかったが、民間人はそうではなかった。帝国嫌いで知られる政治学者のロッフェルという男が、レジスタンスを組織し、複雑に入り組んだアイゼンハイムス首都の地下下水道を利して、ゲリラ戦を開始したのである。

レジスタンスは兵力こそ少なかったが、士気が高く、ハイマンドを個人的に憎む者が多かった。連合と帝国の戦は長期に及んでおり、特に先代のアイゼンハイムス王は名君と呼ばれ、連合の最前線に立って帝国と死闘を繰り広げ続け、戦死した闘王であった。その王に個人的な忠誠を誓っていた者達もレジスタンスに加わっており、帝国軍は神出鬼没の敵に悩まされ続けた。

事態を重く見たハイマンドは、自ら王国首都へ駐留することを決定し、また懐柔政策を積極的に行い、状況の安定と収拾を計り始めた。

 

帝国上級政務官フローマは、帝国宰相エイフェンの愛弟子であり(といっても師より年上だが)、各地で実績を上げてきた、優れた政治家である。彼は皇帝に呼ばれ、護衛と共にアイゼンハイムス首都へと先日到着した。首都は略奪や放火の跡が未だ残り、徐々に復興しつつあるとはいえ、未だ治安の回復が完全だとは言えない。ただ、帝国軍の軍規の苛烈さと、それによって生み出される少々堅苦しい安全は、民衆に安心を呼び、少しずつ治安の回復を産みつつある。

王宮は無意味なほどに華美で、国力を如何に王族が蕩尽していたか明らかであった。無様な末路と言い、この国は滅ぶべくして滅びたのである。だが、それはここ十年ほどのことであって、それ以前は優れた王により、安定した統治が行われていたそうである。迎えの兵士に頭を下げると、フローマは文官に支給される服の襟を正し、皇帝の元へと向かった。

公式の場での節度は当然要求されるが、非公式の場で、皇帝は苦言や諫言を拒まない。典型的な文官であるフローマは、戦争に反対する立場を常に取っており、今回も苦情を述べるつもりでいた。彼は口やかましいと周囲からはよく言われていたが、そうすることが仕事であると思っており、そしてこれからも変える気はなかった。

王宮の奥に、衛兵達に守られ、ハイマンドはいた。王宮の解体に伴い、旧役人の整理や、後宮の解体などを行わなくてはならないので、直接現場である此処にて指揮を執っていたのだ。それが終わり次第、帝国の地方府を少し離れた場所に建設し、この王宮は民間に開放するつもりの様であった。以上のことは、フローマの上司であるエイフェンから既に話が来ており、周囲の者達も、それにフローマ自身も既に理解していた。

「陛下、フローマ、ただいま参りました」

「おお、良く来てくれた。 有能な文官がどうしても足りなくてな、来てくれて嬉しいぞ」

単純な褒め言葉だが、同時に全くの事実でもあったし、フローマは、不愉快さを覚えなかった。大陸のほぼ半分を支配する皇帝が、しかもそれを作り上げた生ける伝説が、自身のことを必要としてくれているのである。これで気分を良くしなければ、自信過剰であろう。

「はい、ありがとうございます。 早速ですが、私は何処の政務を執ればよいのでしょうか」

「そこの机に、まとめて置いた。 カイレアとレシュレーが、当分王都の警備と軍備を担当するから、彼女らに出来ない政治的業務全般を行って欲しい」

無論、重要事は皇帝に相談しなければならないが、それでもこの仕事は大きい。有る程度は予想していたが、フローマは高揚を隠せず、小さく嘆息した。これで、諫言もしなければいけないというのが、辛い所だ。

「陛下、それで、少しお話が……」

「うむ? よし、お前達、下がれ」

皇帝が手を振ると、衛兵達が敬礼し、一糸も乱れぬ動作で隣室に下がる。咳払いすると、フローマは、仕事だと割り切って諫言を始めた。

「陛下、最近軍費がかさみすぎです。 このままでは、我が帝国の経済は、数年のうちに赤字に転落いたします。 我が国の善政は、民衆の事を第一に思うが故に成り立っています。 どうか御一考を」

「うむ、分かっておる。 とりあえず連合はこれで屠り去った。 後は、南部諸国を蹂躙すれば、天下統一はなったも同然だ。 中部の小国群は、いずれも軍費を食われる様な存在ではあるまい」

「それは希望論でしか有りません。 軍を縮小し、戦争自体を辞めるわけには行かないのでしょうか」

「今は駄目だ。 今軍を縮小すれば、南部の連中が逆に侵攻してくる」

皇帝はそれだけ言うと、顔をほころばせ、口調をゆるめた。

「だが、貴公の言うことにも理はあるな。 軍事費の削減を、検討に入れよう」

「はっ! ありがたき幸せにございます!」

「ただし、条件がある。 ……南部最大の国家、聖アーサルズ皇国軍と、我が南部方面軍が小競り合いを起こしている。 そして、今のところ、状況は沈静化するか本格化するか分からぬ。 分かってはいると思うが、皇国が本格的な侵攻を行ってきたら、軍事費削減どころではなくなる。 つまり、皇国の侵犯が無いこと。 それが条件だ」

フローマは敬礼し、表情を改めて統治の技術論に移行した。皇帝は条件付きであっても、約束を違えたことはなく、それがフローマには嬉しかったのである。

 

王宮を後にしたフローマは、その足で休むことなく軍本部へと向かった。現在、旧アイゼンハイムス首都には、二個師団が駐留しており、他の部隊は続々と帝国本土へ帰還している。

帝国軍第八師団は、歩兵を中心とした兵団であり、レンジャー訓練や攻城戦用の訓練を受けており、実践も豊富である。指揮しているカイレア将軍は、とにかく野性的で女らしくないが、指揮能力を疑う者はいない。武勇も優れており、ハイマンドと同じタイプの、前線で戦う闘将である。今回の戦でも、スファ要塞に一番乗りしたのは彼女の師団の兵士であり、他にも派手な武勲は上げるにいとまがない。

同じく、配備されている帝国軍師団は、第十三師団である。これは都市占領を主任務とする師団であり、特に他の師団に比べて優れている処はないが、情報収集能力には定評がある。四つの旅団を内包しており、現在はそのうちの三つが旧アイゼンハイムスに来ていた。残りの一つは、副師団長に率いられ、南部国境線に配備され、情報収集の手伝いを行っている。この師団を指揮しているレシュレー将軍は、カイレア将軍のいとこであるが、兎に角お淑やかで女らしいと評判である。ただ、戦の戦闘指揮能力自体はいまいちで、今まで地味な任務を着実に積んで出世してきた。そういう経歴であったから、何かとカイレア将軍と対比されることが多かった。他に四個連隊がレシュレーに任せられ、旧アイゼンハイムス首都の治安維持に当たっていた。

両師団の司令部は、旧王都の郊外にあった。周囲は煌々と焚き火がたかれ、厳格な軍規に基づいて見張りが行われている。特に精鋭でもない部隊であるが、帝国軍特有の引き締まった軍規は存在する様だった。身分証を提示すると、すぐにそれは取り次がれ、奥から果実を皮ごと囓りながらカイレア将軍が現れた。一応帝国軍の軍服を着てはいるが、袖の辺りは汚く、髪はぼうぼうである。ハンカチなど使わず、手の甲で口の周りの果汁を拭い、彼女は笑った。カイレアと、フローマは旧知の仲だった。

「おー? おっす! 珍しい面が胴体に乗ってやがるな。 いつこっちへきやがった?」

「今日ですよ、カイレア将軍」

「へー、今日の今日か! 相変わらずはっええの! まるでへーかみてーだな! ギャハハハハハ!」

周囲の兵士が蒼白になっていることには全く構わず、国によっては不敬罪になりかねない暴言をさらりとほざき、しかもひとしきり馬鹿笑いすると、カイレアは不意に表情を改めた。そうしていると、結構引き締まった凛々しさがあるのだが、いつもの言動が下品すぎて際だたない。

「で、何の様だ? テメーのことだし、遊びに来た訳じゃねーだろ?」

「ええ。 レシュレー将軍と、三人で話しましょうか」

「レシュとー? あー、しょーがねーなあ。 わーったよ。 こっちだ、きな」

いとこ同士で、二人は結構息のあったコンビなのだが、通常時は口うるさいレシュレー将軍を、カイレア将軍が敬遠している節がある。今も露骨に面倒くさそうにしながら、カイレア将軍はフローマを手招きし、陣地の奥へと進んでいった。陣地は実に理にかなった構造をしており、このだらしない娘が造らせたとは到底思えない。やがて、中央部にある天幕へ、カイレア将軍と、フローマ、それに護衛の兵士達はたどり着いた。まるで同僚を家に連れ込んだ酔っぱらいの親父の如き口調で、カイレア将軍は、天幕の中に入った。フローマは、黙ったまま外にいる。生真面目なこの男は、女性のいる部屋に、断り無くはいるわけには行かないという信念を持っていた。

「レシュー! 客だぞー。 カキはくわねーぞ!」

「何を訳の分からないことを言ってらっしゃるの? もう、またクアキを皮のまま囓ったりして!」

「あー、わりいわりい。 つい田舎の頃の癖でよー。 でも、この方がうめーんだぜ?」

「いい加減にしなさい!」

乾いた音が響いた。多分、何かでカイレア将軍が頭をはたかれたのであろう。十五秒ほどの空白の後、天幕から、眼鏡を掛けた真面目そうな女性が顔を出した。落ち着いた雰囲気の女性で、瞳と髪の色はカイレア将軍と同じであった。レシュレー将軍である。

「申し訳ございません、お待たせいたしましたわ。 どうぞお入りください」

「あ、いえ。 ではお邪魔します」

「麗しき乙女の館にようこ……ふごぐっ!」

中で何かをほざいたカイレア将軍が、また何かではたかれた様だった。苦笑しながらフローマは天幕に入り、今後の相談に入った。

「あーいてえ。 大人しそうな面しやがって、馬鹿力女なんだからよ」

頭をさすりながら言うカイレア将軍の頭を、なにやら紙で造ったらしい道具でもう一度はたくと、レシュレー将軍は上品な笑みを浮かべた。本人の話によると、二人の髪質は同じだそうだが、とてもそうとはフローマには思えなかった。

「で、用件は?」

「エイフェン宰相から、この地の治安回復を任されました。 それで、協力を申し込みに来ました」

「ほー?」

「何か、妙案はありますの?」

レシュレーが、目の奥に静かな光を湛える。軍事に関しては今ひとつのこの娘も、政治に関してはだいぶ強い。フローマは咳払いすると、計画書を懐からだし、机の上に広げた。

「へー。 結構えげつないこと考えるな。 テメーの師匠はよ。 確かに人間が団結するには敵が必要だけどよー。 ちとあくどい気がするぜ?」

「考えたのはエイフェン師ですが、実行するのは我々です。 それで細かい部分になりますが……」

「分かりましたわ。 最善を尽くさせて頂きます」

三人の打ち合わせは、深夜まで続いた。そして、この地の命運は、事実上それで決まったと言っても良かった。

 

数日後、帝国軍が新しい動きを見せた。何カ所かで活動しているレジスタンスに対し、積極攻勢に出たのである。同時に、降伏した者に対する寛大な処置が発表され、大々的に宣伝が行われた。

もとよりレジスタンスは、王国の未来を担う、若者の支持をほとんど受けていなかった。親の世代に半ば強制される様にレジスタンスに加わっている者も多くいたのである。帝国によって倒された愚王の統治しか記憶にない若者は、機を見て少しずつ降伏し始め、抵抗が下火になり始めた。また、帝国軍は情報網を広げ、補給線を断つことに専念した。そして、補給線を潰してしまうと、今度は監視と、治安の強化に徹した。

結果、レジスタンスは二ヶ月ほどで盗賊化した。民衆の支持、物資の補給を受けぬレジスタンスなど、解放軍どころか、ただの賊と同じなのである。各地で略奪、暴行、虐殺などが報告され、民衆の心は彼らから完全に離れた。それを待ち受けていたフローマは、カイレア将軍、レシュレー将軍と協力し、一気に敵の残党を刈り尽くした。民衆の敵意も元レジスタンスに向き、多くの者が積極的に帝国軍に協力した。ロッフェルはなんとか逃げ延びたが、もう組織的な行動は取れず、半年ほど後に、辺境の村で捕まり、帝国軍に突き出された。

また、フローマは鞭だけでなく、飴の使い方にも長けていた。アイゼンハイムス出身者が帝国本土でも職に就けること、有能な者は積極的に採用することを明言し、実際に言葉を実践して見せた。また、帝国本土から輸送した物資を使用し、街道の整備を行い、川に橋を架け、民衆のために尽力した。

レジスタンスが崩壊しても、まだ抵抗する者はいたが、それも数年で消滅した。帝国の統治の方が、旧アイゼンハイムスの統治より遙かに良かったからである。

フローマはエイフェンとハイマンドの期待に応え、旧アイゼンハイムスの治安を二ヶ月ほどで完全に確保した。だが、フローマ自身は不満を隠しきれない様子であった。そのときには、折角の、皇帝と交わした約束が、反故になってしまったからであった。

 

4,大戦の先触れ

 

コーネリア王国王都に、あわただしく伝令が出入りする様になり始めた。今まで辞書上の存在でしかなかった軍が正式に訓練を開始し、配備が発表された。それに伴って、王宮から正式な発表が行われた。後の世で、これはコーネリア史上に残る名文と絶賛され、その論旨は非常に複雑な物であった。無論、それを読める者だけではないので、要約した説明も同時に張り出された。それらに記された大体の内容は、帝国の侵略が近いうちに行われ、コーネリアは総力を持ってそれに抵抗すると言う物であった。

帝国が連合をうち破り、大陸北部の強国を一掃した知らせは、既にコーネリアにも届いている。帝国の善政はコーネリアでも知られていたが、同時に敵国に対する苛烈な侵略も知られていたので、当然の事ながら若干の混乱が起こった。

だが、軍や警察組織は冷静だった。長老の一人エイモンドは、不満たらたらの様子であったが、任された仕事を手際よく処理し、二週間ほどで混乱を沈静化させて見せた。これはエイモンドがこの国のことを良く知っていたこともあるのだが、それ以上に、入念な下準備がされていたから出来たことであった。また、軍も、各地に散らばっていた部隊や、予備役の兵等が嫌に効率よく集められ、編成されていった。今までの訓練が実を結び、それらの行動による混乱はなかった。

中核の正規兵部隊に加えて、これらの兵員が加わったことにより、コーネリア王国の軍は千五百に達した。更に農民から志願者を募り、それらを加えた結果、約二千五百の兵士が中央平原に集結した。

ドルック長老が兵糧を集め、手配する一方、最初の大規模な訓練が行われた。指揮をした総司令官はタイロン長老で、女王イレイムもそれに立ち会った。基本的な訓練を三日続けた後、実戦訓練が始まった。千五百の主力を家康が、残りの農民兵をアッセア将軍が率い、二手に分かれての演習が行われたのである。

 

「久しぶりだな、この感覚は」

軍馬にまたがった家康が、手をかざして遠くに布陣するアッセア将軍の部隊を見やった。彼はここ数年、本陣に座して万単位の軍を指揮することが多く、この様な少数の兵を、自ら指揮することは久しくなかったのである。敵陣を見る彼の視線は、鋭く引き締まっていた。その視線の先にあるアッセアの陣は、現在沈黙を保っていた。流石に、有能で多数の帝国軍と、苦闘を続けてきたアッセアだけあり、見事な布陣である。数も錬度も不利な状況にもかかわらず、上手く兵士達を統率し、混乱を起こしていないのは、流石であろう。

現在、両軍が手にしているのは、殺傷力のない訓練用の武器である。鏃や刃がないのはもちろんのこと、魔法で更に威力を軽減しているのだ。無論、これだけの規模の訓練となると、怪我人は当然出るし、死人が出る可能性もあるから、医療班はきちんと後方に待機していた。家康は馬上にて、指揮杖を振ると、周囲に控えた中級指揮官達に、一斉に号令を掛けた。彼らは家康が兵士の中から抜擢した者達で、いずれもすぐれた能力を持つ。後は、経験を積めば充分な活躍が出来るであろう。

「第一隊、第二隊、突撃!」

「はっ!」

指揮官が敬礼し、突撃を開始した。既に策は軍議の際に練られており、これはポーズにすぎないが、それでもその命令は兵士達を高揚させた。約三百名の第一隊と、三百七十名ほどの第二隊が突撃を開始し、更に遅れて第三隊、主力の家康隊が動き始める。これに対し、アッセア軍は沈黙を保ち、第一隊が弓隊の射程に入っても動かず、相手が矢を乱射しながら迫ってきても動かず、眼前にまで来てから不意に猛々しく動いた。

弓を構えた兵士達が一斉に立ち上がり、お返しとばかりに大量の矢を、引きつけきった第一隊に見舞う。鏃の先には染料が付いており、当たった者はすぐ分かる様に工夫されていた。両軍の被害はたちまち増え始めたが、どう考えても第一隊が不利であった。数分遅れて、斜め右からえぐり込む様な形で第二隊が加勢し、アッセア軍の一部を執拗に責め立てた。矢が飛び交い、両者の間は見る間に詰められ、弓兵の援護を受けて歩兵が接近戦に持ち込もうとするが、なかなか陣の周りに張り巡らされた堀と冊を越えられず、四苦八苦している内に矢に当たってしまうのだった。

半刻の攻防の後、かなりの被害を受けた第一隊が後退し、代わりに第三隊が主力となって、攻撃に参加した。第三隊は騎馬兵を五十名ほど要しており、軽快な機動力を生かして、周囲から矢を陣内に叩き込む。だが抵抗は激しく、なかなか陣の周囲の防壁を突破するには至らない。その間に、家康の主力部隊は忽然と姿を消しており、再編成を終えた第一隊が戦線復帰すると、両軍の戦力はほぼ互角となり、激しい戦いが繰り広げられた。被害は、アッセア軍の方が、少ない様に思われた。

死闘の末、家康軍の各隊から喚声が上がった。アッセア軍の後方から、満を持して家康軍が到着したのである。二時間にわたる死闘の末、両軍はかなりの被害を出しており、疲労の少ない大部隊の到着はまさに天の恵みであった。家康軍の主力部隊は、満を持して相手の弱点を見極めており、地響きを立てつつ其処に殺到した。それに連携する様に、第一隊、第二隊が猛攻を開始し、第三隊が家康隊の援護に回った。

家康隊の前に、強固な敵部隊が立ちはだかった。それは先ほどまで陣内を駆け回り、各所の補強と援護を行っていた、アッセア直属の部隊だった。勇将の下に弱卒なし、先頭切って敵にぶつかるアッセアの猛悍さは兵士達を高揚させ、凄まじい乱戦に発展した。アッセア軍主力部隊は、家康隊を二度にわたって押し返したが、実はそれ自体が罠であった。家康が指揮杖を振ると、第三隊、第二隊が不意に攻撃の矛先を変え、第一隊と交戦していたアッセア隊に集中攻撃を開始したのである。同時に家康隊も第三次の突撃を開始し、アッセア隊主力を徹底的に攻め立てた。アッセア隊の最大の弱点が錬度の低さで、複雑な命令は実行出来ないという事を家康は熟知していたのである。故に、アッセア自身を他の部隊からこうして引きはがしてしまえば、勝機は見えてくるのだ。

猛攻の前に、ついにアッセア軍の、陣の一角が破れた。かなりの被害を出しながらも、家康軍は陣への突入を果たし、相手の抵抗を粉砕しながら制圧戦を開始した。しかし、アッセア軍の主力部隊は大きな被害を出しつつも健在で、未だ家康に楽はさせない。乱戦はその後二時間にわたって続き、終了したのは陽が落ちた頃であった。

結局、最終的な家康側の被害は三百三十七名、アッセア軍の被害は四百九十四名に達した。これは実戦で言えば、死者、負傷者合計に相当する数字である。最終的に、アッセアは味方の撤退を援護し、自らは最後尾に立って戦い続け、流れ矢に当たって戦線離脱した。だがそのときには、無事な兵は安全圏に大半が逃れ去っていたのである。勝った側の家康も楽な戦いだったとは到底言えず、課題の多い結果と終わった。

 

演習を終え、帰還してきた兵士達をねぎらいながら、イレイムは長老達と話をしていた。相変わらずエイモンドは不満をこぼし、ドルックはひたすら感心していた。タイロンはというと、腕組みしたまま戦況をじっと見やっており、自らの知識のなさを不甲斐なく思っている様だった。

「ふん……。 見事かも知れぬが、結局はごっこ遊びではないか。 そんなものに、多大な国費を費やしおって。 ばかばかしい」

ぼそりとエイモンドが呟いた。この男のひがみ根性は、最近も余すことなく発揮され、イレイムはそのたびに辛そうにした。まして今はセルセイアが藍を連れて帝国内に出かけており、支えになってくれる者もいない。ドルックやタイロンは既に家康の手腕を認めているのに、この男だけはそうではなかった。無能ではないのだが、このままではあまりよい方向には進みそうもない。

「エイモンド長老。 家康様の手腕を、どうしたら認めていただけますか?」

心の底から辛そうに、イレイムが言った。流石に周囲の者達が、一瞬凍り付く。エイモンドは息をのみ、そして舌打ちした。

「……あやつの力は認める。 私だって、認めておるわ!」

「では、何故そんなに、無理に突っかかるのですか?」

「……今まで私たちだけで、この国は成り立っていたではないか! 何故あんな奴が必要なのだ!」

「先ほどの演習を、長老が行えましたか? あれほど見事に、兵士達を指揮出来ましたか?」

ぐっと息をのんだエイモンドは、言葉に詰まった。エイモンドは当然の事、あれほど見事な用兵は、タイロンにだって無理であったことだろう。事実、戦にはほとんど知識のないエイモンドでも、家康とアッセアが名人芸と言っていい用兵を行っていたことくらいは分かった。帝国の侵攻は間近に迫っているし、もう引き返すことは出来ないのだ。やがて、彼は呟く様に言った。

「……分かった。 出来るだけ、あやつには突っかからぬ様にする」

「ありがとうございます、エイモンド長老」

胸をなで下ろし、イレイムが言った。ほっとしたせいか、その笑顔は周囲の者達を和ませるほどに愛らしかった。彼女もほっとしていたが、何よりも周囲の者達が一番ほっとしていたことであろう。

エイモンドは頑固な人物ではあるが、約束を違える様な者ではなかった。この機を境に、彼は積極的に家康に協力することさえなかったが、同時に無為に逆らう様なこともなくなり、少しずつ協力的な姿勢を見せる様になっていくのである。

 

家康とアッセアが、イレイムの元に戻ってきた。演習終了を告げ、両者とも兵士達をまとめての帰還である。負傷者は軽傷も含めると、双方併せて三十名ほどでたが、死者は出なかった。今回の演習で、互いの力量を認めた様で、馬上で談笑しながら帰還してきた二人は、イレイムの出迎えを受け、馬を下りて表情を改めた。

「陛下、家康、ただいま戻りました」

「アッセア、帰還しました」

「はい、お疲れさまです。 二人とも、見事な戦いぶりでしたね」

家康はその言葉に目を細めて礼をし、アッセアは若干影を湛えて頷いた。家康には、アッセアの心理がよく分かった。嬉しいことは嬉しいのだが、結局自分が戦の中でしか生きられないことを再認識し、歯がゆいのであろう。それにしても、苦境に立ってからのアッセアの指揮は見事であり、ねばり強さには感嘆さえ覚えた。同数の兵力であれば、負けていた可能性もある。これは本当に大きな拾いものだったと、家康は感じていた。

 

「アッセア殿は、実にねばり強い戦いをするな」

「家康殿こそ、優れた指揮に感嘆した。 同数の兵力で、一度お手合わせ願いたいものだ」

演習が終わった後、開かれた酒宴の席で、家康の隣に座り、笑顔さえ加えながら、アッセアは言った。酒宴と言っても、指揮官達と兵士達に配られている酒は同じ質の物で、量自体も多くはない。それでも、先ほどの疲労がたたってか、皆したたかに酔い、宴を愉しんでいた。そんな中でもアッセアは、ひときわ楽しそうであった。事実、彼女は酒だけではなく、久しぶりに感じる戦の興奮に酔っていた。圧倒的な敵兵や侵略者と戦う恐怖ではなく、力量的に拮抗した相手と戦う喜びに、である。彼女は戦が大嫌いであったが、こういった興奮自体は嫌いではなかったのである。喜びをもたらしてくれた相手に大して、アッセアの心は少しずつ溶け始めていた。元々オープンな性格でもあるし、彼女はぽつりぽつりと話し始める。

「……帝国と戦っていた頃、敵は常に圧倒的多数だった。 私は一将軍で、戦略に関与する権限は与えられていなかったから、状況はどうにも出来なかった」

「ふむ、それは無惨な境遇だな」

「ああ。 私は戦が嫌いになった。 いつも圧倒的な敵兵が、津波の様に押し寄せてくる。 怖くて怖くて仕方がなかったんだ」

流石に、父に心の中で頼っていた、等と言うことまでは言わなかった。親ほども年が離れた相手に、アッセアは酒をあおりながら続けた。酒が弱いこともあり、顔は見る間に真っ赤になっていく。

「しかし、今日の戦は見事であった。 負け戦にもかかわらず、兵達を逃がし、最後尾に最後まで残って戦い続ける。 儂の軍の損害も、想像以上に大きかった。 臆病者に出来る事ではあるまい」

「私は臆病者だっ!」

周囲の宴はたけなわになっており、アッセアが酒瓶を席に叩き付けても誰も反応しなかった。家康も半ば酔眼で、アッセアの様子を興味深げに見やっている。女性の将軍というのも、彼からすれば初めて見る存在であるという話であるし、あれほどの戦を出来る者、仲良くなって置かねばなるまいと思っているのかも知れない。

アッセアは戦が嫌いだった。一方で、戦が大好きでもあった。彼女の中の武人が、戦へと彼女を駆り立てる。一方で、父と帝国軍に対する恐怖が、彼女を戦から遠ざける。ここで、戦という行為が非常に非生産的で、愚劣な行為だという現実は、彼女の思考にはない。極端な話をすれば、アッセアは極度のエゴイストであり、自分の快不快で戦を判断しているのであった。

「私は……臆病者なんだ……」

「臆病なことが、それほど恥ずかしいか?」

「……」

ゆっくりした動作で、アッセアは家康に視線を向けた。家康は酒を兵士に勧められ、それを煽ると、ほとんど酔っていない様子で言った。既に酒量は、アッセアの四〜五倍に達しているのに、だ。

「此処だけの話、儂だって戦は怖い。 故郷に武田信玄という、武の神かと思われるほどの戦の達人がいてな。 何度戦っても全く勝てなかった。 彼と戦うとき、儂は何度も恐怖を覚えたものだ」

「……」

「特に恐ろしかったのが、三方が原の戦いだ。 信玄公の兵力は約二万。 儂の方はその半数。 儂の配下達には猛者が揃っておったが、信玄公の部下と来たら、儂の故郷で最強とも言える者達でな」

そう言って、家康は簡単に両者の布陣を示して見せた。そして、戦の推移を示して見せた。家康のこもる浜松城の前を素通りし、坂を降り始めた武田軍。家康はそれを背後から急襲するべく、全軍を持って出動したが、武田軍はそれを察知、そのまま坂を駆け上がり、陣形をくみ上げた。家康が戦場に到着した頃には、魚鱗陣と呼ばれる陣が完成されており、家康は慌てて横一線の鶴翼陣を張った。

「敵は長い坂を下り始めたと、忍び達は報告してきた。 勝てると思って飛び出した儂は、一糸も乱れぬ魚鱗陣に正面からぶつかることになった。 援軍は頼りにならぬでな、信玄公の部下達に一ひねりに押しつぶされてしもうたわ。 儂の部下達もおいおい叩きのめされ、元々の兵力差もあり、やがて軍は総崩れとなった。 儂は逃げ帰るので精一杯だった。 あのときは、本当に恐ろしゅうて恐ろしゅうて、生きた心地がせんかったわ」

「凄まじき将だな、シンゲンとやらは。 貴公ほどの将を、其処まで恐怖させるとは」

「だが、信玄公も、実は臆病だったと聞く。 芋虫が苦手でな、さわろうと指を伸ばした所、指先まで真っ青になったそうだ」

「う、嘘だろう? いくらなんでもそれは……!」

家康が首を横に振ったのを見て、アッセアは二の句が継げなかった。家康は口の端をつり上げると、また兵士の薦めに応じ、酒をあおった。安い酒だが、さほど不味くもない。

「世の中、そんな物だ。 何も貴公だけが臆病なだけではないぞ、アッセア殿」

「……そんな物なのか」

「真の臆病者とは、アッセア殿の立場に立った際、何もせずに逃げ出す者のことだ。 そんな真の臆病者でさえ、時に名将と呼ばれる事がある。 何を引け目に思うことがあろうか」

「そうか……そうなのか……」

感銘を受けたアッセアは、飲めもしないのに、また酒をあおった。そして、程なくひっくり返ってしまった。心底幸せそうに、無邪気な笑顔を浮かべたまま。

 

「家康様、今日は本当にご苦労様でした」

「おお、陛下。 わざわざ酌をしていただけるとは、この家康感無量にございます」

アッセアを兵士が寝室に運ぶのを横目で見ながら、家康はイレイムに答えた。イレイムは先ほどから、重臣の周りを迷惑にならぬ程度に回って、苦労をねぎらっていた。本人はアッセア以上の下戸なので、酒は飲めないが、代わりにその笑顔が、皆の心を和ませる。

「アッセア将軍は、何を話していたのですか?」

「悩みですな」

「そうですか。 アッセア将軍も、様々に大変なのですね」

家康はイレイムの酌を受けて、酒をあおった。周囲でも、そろそろ酒が無くなり始めており、宴も終わろうとしていた。彼方此方で火が消え始め、自分の陣に戻って休む兵士、そのまま寝てしまう兵士等もいた。家康も最初だから、これくらいのことは勘弁するつもりであったが、すぐに精鋭は育たないものだと、横目で見ながら実感していた。

「……陛下、今回は死者も出ずにすみましたが、実戦ではこうはいきませぬぞ」

「はい、分かっています」

「覚悟は、決めて置いてくだされ」

それだけ言うと、家康はイレイムに断り、自分のテントに戻った。これからのことを考えるべく、一人になろうと思ったのである。歩きながら、家康は幾つかの考えをまとめ始めた。

家康はアッセアと話して実感した。あの娘は、極限まで世間慣れしていない。おそらく精神的な年齢は子供と大差があるまい。有名な軍人の娘で、英才教育を施されたという話であったが、その実孤独な子供時代を送ったのだろう。家康も親から離され、人質として悲しい少年時代を送ったが、周囲には何人もお付きの者達がいた。そう考えてみると、どちらが幸せかは微妙な所であろう。何にしても、能力的には申し分ない。ただ、子供すぎる部分も多いので、扱いには慎重を要するのだが。

続いてイレイムであるが、ますます能力の覚醒に磨きがかかっている節がある。先ほど小耳に挟んだのだが、エイモンドを黙らせ、今度の協力を承認させたと聞く。今後、エイモンドが協力を拒むようなら、家康は処分を考えていたのだが、その必要はなさそうである。実際、処分することになれば、家康の負担も増したはずで、正しい判断だと言えただろう。この調子で、手腕を伸ばしてくれれば、帝国を撃退した後、歴代でも有数の名君として、後世に名を残す可能性もある。家康としては、先の成長が実に楽しみな存在であった。

後必要なのは、数百名の兵を指揮する中隊長級の人材だが、これは今回三部隊の指揮を任せた者達も含め、充分な人数が揃いつつある。アッセアの指揮した農民兵の中にも使えそうな人材がいたので、抜擢したい所であった。

準備は整いつつある。実戦も、魔物とやらを相手に積ませてきたし、後は策を練りに練っていくだけである。家康は、小さく息を吐き出すと、自分のテントに入った。唯一彼に残念だったのは、まだ女を囲う暇がないことであっただろう。一人だけの闇の中、彼は寝床に潜り込み、すぐに寝息を立て始めたのだった。

 

帝国南部の国境付近。セルセイアと、藍が、見下ろす眼下に、集結しつつある雲霞の如き大軍の姿があった。それは皇国軍第十一軍であり、近くには第三軍、第八軍の姿もあった。対する帝国南部方面軍も、部隊を集結させ、戦う構えを見せている様だった。

「これは……チャンスだわ」

藍の視線の先で、セルセイアが呟いた。藍が小首を傾げると、数秒の逡巡の後、セルセイアは答えた。

「……おそらく、南部方面軍は公国軍の一部と全面衝突することになる。 となれば、我が国に向く帝国軍の鋭鋒も、数を減らすはずよ」

「……ふーん、そうなんだ」

「……?」

藍の言葉に、セルセイアが不審を覚えたのは、妙に残念そうな口調だったからである。何にせよ、これは一刻も早くイレイムに報告せねばならないだろう。

 

セルセイアは部下をまとめると、帰還を命じた。その帰り道、彼女は武神の降臨を目の当たりにすることになるが、それまでには、惨劇までには、まだ少し時間が残されていた。

 

(続)