侮りと油断と無知と敗北

 

序、怒濤

 

地を埋め尽くすほどの大軍が、攻撃の命令を待っていた。アイゼンハイムス公国、シュタードフルフ候国、ルーヴェンブル公国の三国からなる、通称(連合)に対する、帝国軍の最終的な軍事行動が始まろうとしていたのである。

帝国軍の動員戦力は七個師団六万五千に達し、更に背後には予備戦力として三個師団が配備されている。先に越境行為を行ったのは連合側であり、当初はそれも成功したのだが、今は圧倒的な戦力差の前にその命運は風前の灯火となっていた。最初の段階で攻めきれれば連合側にもまだ勝機はあったのだが、皇帝自ら率いる親衛竜師団の奮戦により、その意図もくじかれ、現在はまさに彼らにとって八方塞がりの状況となっていた。一方で帝国軍は、有能な指揮官、現実的で無理のない補給計画、それに圧倒的な物量に物を言わせ、むしろ悠然と状況の推移を見守っている。

既にシュタードフルフとルーヴェンブルの両軍は、二度の会戦で完膚無きまでに粉砕され、事実上瓦解、首都も一月間の攻防の末に制圧された。首脳部は何とか逃げ延びたが、もう彼らなど辞書上の存在にすぎず、何も実質的な行動などできはしない。ゲリラ戦を指嗾しようにも、帝国の善政は連合でも広く知られており、また自分たちの行った悪政が災いして、むしろ両国の民衆は帝国軍を歓呼の声で迎えたほどだ。よって、現在、何とか軍としての形を整えているのはアイゼンハイムス軍だけである。

そのアイゼンハイムス軍が、現在最後の戦略的要衝スファ要塞にこもり、徹底抗戦の構えを見せている。総兵力は約一万、補給物資は一年分ほど蓄えられていると、周囲には伝わっていた。

 

「返事は来たか?」

馬上のハイマンド皇帝が、要塞を見ながら、側に控えた参謀に問う。参謀は静かに首を横に振り、心底残念そうにそれに答えた。

「いえ、要塞側は沈黙を守っております。 再三矢文は打ち込んでいるのですが」

「そうか、無駄な抵抗で無駄な血を流す。 愚かな者達だ」

皇帝は嘆息し、再び要塞を見やった。一瞬、今彼が裏で手に入れようと画策しているマジックアイテムの事が脳裏に浮かんだが、頭を振ってそれを頭の中から追い出す。まだ手に入れていない物の事で、無意味な戦略を立てても仕方がないからだ。

難攻不落を唄われるスファ要塞は、過去幾度も戦にさらされ、その度に名を高めてきた文字通りの鉄壁である。周囲には巧妙に拠点が配置され、この地域自体が要塞化していると言っても過言ではない。既に攻城側は、再三にわたるチェックを行い、精密な見取り図を造ってはいるが、正面から攻撃すると相当な損害が出る事は疑いがない事が、参謀達の一致した見解となっている。かといってこの要塞を放置しておくと、首都攻略の際、完全に補給路が確保できず、背後が危険になる。ある程度の犠牲を覚悟して力づくで攻めるか、兵力のうちある程度を裂いて此処の牽制に当て、残りで首都を短期間で攻略するか、難しい判断を要求される所であろう。

此処の指揮官であるシェムテス将軍は、それほど指揮官として優れているわけではないが、義理堅い人物として知られており、手腕も堅実で、兵士達にも人望が高い。こんな滅び掛けた、腐りきった国に忠誠を尽くしているのも、その人となりがなせる業であり、それが故に今回は非常に厄介な敵手となる。年齢は既に老境に達しているが、特に持病の類もなく、逆に強壮ということもなく、どこにもいないほど普通の老人で、どこにもいないほど淡々と老いていく人物だそうである。

シェムテスは、アイゼンハイムス軍の総司令官ではない。総司令部は首都にのうのうと居座っており、援軍をよこす様子もなく、日々豪勢な生活を送っているという情報が流れてきている。要塞の能力を過信している上に、シェムテスを捨て駒くらいにしか考えていないのだ。そんな連中に殉ずる事の意味が、ハイマンドには理解できなかったが、ともあれ確かなのは、この要塞を落とさぬ限り攻略は成功しないと言う事である。

まがりなりにも連合は、大陸北部で最後に残った、帝国に対抗しうる勢力である。各地でゲリラ戦を行っている連中もいるが、戦況は圧倒的に民衆を味方につけている帝国が優勢で、優位は全く揺るがない。そしてゲリラ達の望みの綱は、この戦役で連合が勝利し、帝国が勢いを減ずる事なのである。

である以上、帝国としても、此処で負けるわけには行かない。勝てば長年の敵手であった連合を辞書の中の存在と帰す事が可能であり、大陸北部に有力な敵勢力は存在しなくなる。もし負ければ、ゲリラ共は勢いづき、しばらくはそれらの鎮圧に戦力を裂かねばならなくなる。一見地味な戦いではあるが、それがもたらす影響は予想外に大きく、帝国軍としては侮ってかかるわけには行かないのだ。

現在、ハイマンドの側にいる上級軍幹部は、七個師団の司令官の他、参謀長のジュルツ大将、今回の主力となる、三個の師団を内包する白竜兵団の指揮官ゴルヴィス大将、高級副官のレイテス少将などである。いずれも優れた能力を持つ者達で、この戦いの意義くらいは当然理解している。

本営の方から、皇帝を呼ぶ声がした。ハイマンドは、もう一度要塞を一瞥すると、部下達の元へと戻っていった。

 

「で、攻略に際し、何か妙案はあるか?」

皇帝の声に、部下達は皆難しい顔で視線を交わしあった。見取り図を何度詳細にチェックしても、弱点らしい弱点が見つからず、結局力責めしか無いという結論しか出てこないのである。正面攻撃三倍則という戦略上の法則があり、堅固な陣地へ正面攻撃をする場合、兵力は最低でも三倍は必要とされている。しかも、相手は堅固な陣地以上に堅固な、鉄壁の防備を誇る要塞である。城攻めの際は、攻城側の五倍から十倍の兵力が必要とされ、しかも力責めで城を攻撃する場合、最終的な損害は相当な物になるであろう。

「妙策はありません。 周囲の出城を一つずつ落としていき、補給路を断ち、要塞を孤立させ、じっくり攻めるしかありません」

極めて堅実な性格で知られるゴルヴィスが挙手して言い、ジュルツがそれを受けて嘆息した。

「問題は、それにどれほどの時間と労力が掛かるかですな……」

「他に策はないのか? あの要塞を攻めるのでは、兵士達が気の毒だ」

彼らの言葉に、皇帝が割り込んだ。高級幕僚達は困惑した視線を交わしあい、幾つかある代案を取りだした。いずれも危険度が高かったり、非現実的だと言う事で放棄された戦略が多かった。

「特殊部隊を潜入させ、内部から制圧するという策もありますが、敵将はさほど有能ではない代わりに堅実で奢らぬ性格、見たところ警備もかなり厳重ですし、巧くいく可能性は低いでしょう」

「城外に敵を引きずり出し、叩くという手もあります。 それにしても、どうやってそれを行えばよいのか……」

「敵将の調査は済んでいるか?」

ハイマンドが不意にレイテスに視線を向け、資料の提出を促した。血色の悪い、細身の副官はそれを受けて頷き、分厚い紙束を取りだし、皇帝に恭しく提出した。彼は口べたではあるが、有能な男であり、今までにも補佐関係の任務で失敗をした事はない。

「……家族は全員要塞内にいるようだな。 人格的にも特に弱点はない」

「おもしろみのない相手ですが、それ故に厄介ですな。 長所もない代わりに、欠点もない。 そして、あの要塞には、それで充分。 下手に有能で個性的な相手なら、逆に罠にはめようがあろうものを……」

「愚痴を言っていても仕方がない。 ……それよりも、この策はどうだ?」

皇帝が、幾つかあった案の中から一つを取り出し、指さした。

「しかしそれには、かなりの危険がつきまといますが……」

「構わぬ。 その代わり、成功すればこの難攻不落の要塞を、一気に掌中に収められる」

「陛下、しかしこの地域の部隊は、相当な危険にさらされます」

ゴルヴィスが、困惑し、控えめに反論した。彼には、皇帝が何を言い出すか見当がついていたのかも知れない。だが、皇帝は不敵にほほえみ、そして言った。

「心配はいらぬ。 その部隊に関しては、予が直接指揮を執ろう」

 

1,訪れ始める暗雲

 

 大陸中南部にあるコーネリア王国では、いよいよ首脳部が恐れていた事態が現実となっていた。皇帝の密使が、数名の護衛を伴って、王都を訪れたのである。

密使と言う事もあり、特に彼らは国旗を掲げていたわけでもなかったが、持参した書類は紛れもなく皇帝の印が押された物であり、むげに扱う事は出来なかった。しかも、書類の中身は、恐れていた通りの物であった。

手紙を持参した密使は、皇帝の全権代行者である事も、手紙には明記されていた。コーネリアの女王であるイレイムは、数日後の返答を約束すると、一旦密使に引き取りを願い、協議に入った。集められた幹部は、長老三名とセルセイア、家康、それに藍であった。長老達は当然渋い顔をしたのだが、こと寄せの関係者であり、後に軍で働いて貰わなければいけない事もあるため、イレイムは藍にも出場を願ったのである。

会議室は薄暗く、まだ全員は集まっていない。イレイムは用事があって少し遅れるが、既に報告はされており、皆がそれを知っている。またセルセイアは重要な任務から今日ようやく帰還してきた所で、急いで王都に向かっている物の、まだ到着には時間が掛かると、部下を通じての報告があった。もっとも、彼女は部下に命じ、帝国に派遣している諜報員達の情報をまとめ、中間報告として皆に提出していた。コーネリアの諜報組織の有能さは確かであり、今回の密使の事も、ほぼ一週間以内の精度で予見されていたのである。末席にちょこんと座っている藍は、それらの事情をイレイム経由で知っており、今もジュースを啜りながら、様々に思惑を巡らせていた。

「……恐れていた事が、現実になってしまったな」

「おや、そうならないとでも思っていたのか?」

エイモンドに、ドルックがたしなめるように言った。自分が不満を抱いている事を外部にさらしてしまった事に気づいたらしいエイモンドは慌てて咳払いし、回りから視線を逸らした。その様子を見て、藍は表向き無表情を保ちつつ、心の中では失笑を隠すのに必死になっていた。その隣では、家康が腕組みをしたまま、微動だにせず、イレイムの登場を待っている。

藍は自分の中にいる(何か)のお陰で、恐ろしいまでに情報分析能力と判断力がましているが、経験が絶対的に足りない。そしてそれを完璧に自覚しており、手の内を読まれる事を避けるため、家康とは出来るだけ距離を置くようにしていた。無論よそよそしくするのではなく、接する機会を減らし、自然に距離が空くようにしている。これらの事が、もはや子供どころかそれなりに経験を積んだ大人でも無理な判断力に基づく行動であることまでは、流石に現時点で藍は気づいていなかった。結局の処、藍は子供であり、(何か)のお陰で奇形的に能力が増しているにすぎないのである。

藍は視線を家康から逸らし、長老達三人へ順番に視線を這わせていった。彼女の見る所、彼ら三名はいずれも無能者と言うようなタイプではないが、国家を背負って立つ人材とも言い難い所がある。エイモンドは私心が多すぎ、ドルックは主体性がない。タイロンは沈思黙考といったタイプだが、本業に関する経験が足りない。はっきりいって、三人合わせても、家康一人に及ばないだろう。だが、今後は帝国との戦いに突入する可能性が極めて高い事もあるし、人材は一人でも多く必要である。勿論それには、足さえ引っ張らなければ、と言う前提がつくのだが。

その三名は、藍の失礼きわまりない上に事実を冷然と突く分析など知るよしもなく、ぼそぼそと小声でなにやら話をしている。家康は砂糖の入ったクルを時々口に運ぶだけで、彼らの会話には参加しようとしていない。だが、時々ドルックやタイロンが話を振る事はあり、それには親切に応じていた。話は時々藍にも振られ、彼女もそれに親切に、出来るだけ子供っぽく答える事を忘れなかった。というのも、こんな連中に警戒されて、足を引っ張られてはたまらないから、適当に合わせておこうなどと、とんでもない事をこの少女は考えていたのである。流石に藍は、家康の考えまでは読めなかったが、何にしろ長老達に愛情を抱いていない事くらいは分かっていた。

二時間ほど不毛な時間が過ぎ、やがて会議室のドアが開いた。入ってきたのはイレイムで、かなり急いでいたらしく、肩で息をついている。うっすら汗をかいており、王宮内を彼女なりの最高速度で走ってきたであろう事は疑いない。それでもきちんと笑顔を作り、彼女は言った。

「遅れて申し訳ございませんでした。 セルセイア様は、もう少し遅れるそうですが、本人の了承は得ているので、会議を始めたいと思います」

給仕が椅子を引いて、イレイムが着席するのを見やると、藍は姿勢を正した。同時に、会議が始まった。

 

「帝国の密使が持参した密書は、これです。 皆様、内容をお確かめください」

イレイムが懐から手紙を取りだし、机の上に丁寧に置いた。まず長老の中でも古株であるドルックが手に取り、エイモンドに渡され、タイロンに移り、家康が確認し、そして最後は藍が読む。手紙が順番に、全員に回され、全員が中身を閲覧した。すでに印が本物である事は確認済みで、字も皇帝の書いた物に間違いない。不安げに皆が手紙を読む様子を見ていたイレイムには構わず、一番長く手紙を見ていたのは家康だった。

手紙の内容は、密書と言う事もあり、極めてストレートな物であった。こと寄せの譲渡を求め、それがかなえられる場合は帝国との同盟を約束、自治権を確約、敵対国からの庇護を保証。一方、こと寄せの譲渡に応じない場合は、軍を派遣し、コーネリアを帝国の属領とするという物である。一見極めて高圧的な内容だが、こと寄せを譲渡した場合は内政自治権を認め、危地に際しては全面的なバックアップを約束し、決して不平等な内容ではない。コーネリアと帝国の国力差は七十倍強にも及んでいて、対等な同盟などそもそも結びようもないから、考えられる限り最良の条件であったかも知れない。無論平和な時代であれば、大国と小国で、対等な条件での同盟というのもありではあるが、今は混乱期であり、そのような事をすれば無意味に国が乱れるだけである。

また、この手紙は、極めて巧妙に様々な事を書き込んでいて、ごまかしが通用しない。曖昧に書かれた手紙であれば、相手の言葉の裏をかいて、様々な心理トラップを仕掛けた外交が可能なのだが、この内容ではそれも無理だ。そういった言葉の裏をつく外交を得意とした家康は、手紙を見て、内心感嘆を隠せなかった。付け入る隙が無いというのが正直な印象で、これでは相手の攻撃を引き延ばせそうにもない。ハイマンドという男は、家康よりも幾分か若いようだが、おそらく同じくらいに悲惨な境遇をすごし、必死に生き抜く術を学んできたのであろう。手紙に現れる老獪な文章は、それを如実に示していたと言っても過言ではなかった。

「陛下、それでどう返答なさるつもりですかな? この内容では、是か否か、それ以外に答えようがありませんぞ」

緊張した面もちで皆の様子を見つめていたイレイムに、最初に言葉を掛けたのは家康だった。こういう手紙が来る事は分かり切っていた事ではあるし、そのために家康と藍が呼ばれたのだが、いざ事態が到来すると、やはり困惑を隠せないらしい。沈黙は数秒だったが、家康には随分長く感じられた。これは場の毒気に当てられたとでもいうのであろうか、いややはり彼も緊張していたのか。流石に時代を代表する英傑に何人も会って来た家康であるが、それでも慣れないものは慣れないのかも知れない。

「は、はい。 確かに、そうですよね」

「やはり、こと寄せを帝国に譲り渡すわけには……」

「それは出来ません」

弱気に見えるイレイムに便乗してか、おずおずとエイモンドが発言したが、即座に一蹴された。不満げに黙り込むエイモンドを見て、逆にイレイムは覚悟が決まったようであり、唇を噛むと、決意に満ちた顔を上げた。その瞳の奥には、家康と藍を召喚する時にも見えた、熱い炎が再び宿っていた。

「私、ハイマンド皇帝に、こと寄せの譲渡を拒否する旨の手紙を書こうと思います」

「準備はできているのか? 今帝国軍が攻めてきたら一体どうなるのだ!」

「そのおそれはありません。 セルセイア様の報告によると、我が国の周囲の帝国軍が、軍備を整えている形跡はありません」

「軍備を整える? 何を言っている!」

イレイムの言葉の意味が分からなかったらしいエイモンドが、己の無知をさらけ出しながらくってかかった。イレイムが家康に視線を向け、頷き、苦笑しながら百戦錬磨の戦国大名はそれに応じた。

「戦をするには、様々な準備が必要。 補給を整え、軍を編成し、指揮系統を決め、戦略を練らねばならない。 補給を考えなくても良いごく少数の兵士ならばすぐにも動かせますが、数千の兵士ともなれば、最低一月、いや二月はかかる。 戦をすると決めれば、すぐに戦を出来るとでもお思いでしたか?」

「む、むうっ!」

青ざめたエイモンドに、さらに追い討ちを掛けた者がいる。同じ長老であるタイロンだった。

「戦に詳しくないのだから、知らないのも無理はない。 しかし、同じく戦を全く知らなかった陛下も、それくらいは学習していますよ。 相手に反論する際は、きちんと考えた後にしていただきたい」

「……」

「エイモンド長老、すみません。 でも、これは考え抜いた上での結論です。 お願いです、従っていただけませんか?」

黙り込んだエイモンドに、イレイムが落ち着いた口調で言葉を掛けた。茹でた蟹のように真っ赤になっていたエイモンドは、無表情のまま事態を見守る藍の前で、ゆっくり拳を机に叩き付けた。そして、沸騰した薬缶のように、蒸気が如き息を吐き出した。

「……分かった。 確かに私の専門分野ではないな。 首をつっこんで済まなかった」

「いえ、長老がこの国の事を案じてくださっているのは存じています。 これからも、国のために様々な発言をしてくださると助かります」

「ああ……」

エイモンドからゆっくり視線を逸らし、イレイムは皆に視線を移し替えた。

「出来るだけ、時間を稼げる案があったら、提出していただけると助かります」

「この手紙では無理ですな。 返答の日時がはっきり明記され、それ以降になったら拒否したものと見なすとはっきり示されている」

家康の言葉は冷然と事実を指摘しており、皆を黙らせるには充分だった。だが、それだけでは終わらなかった。

「故に、時間ぎりぎりまで引き延ばし、その日まで使者への返答を待った方がよいでしょうな」

「それしか、方法はないでしょうか」

家康の表情が、方法は無いと告げていた。彼自身も、相手の大きさに困惑している所でもあったし、すぐには策を出しようがない事も事実であったからである。

「分かりました、では期日ぎりぎりに返答しましょう。 後、手紙の文面ですが、どういたしましょうか」

「どうというと?」

「ええと、礼を尽くした返答にするか、それとも挑発的な内容にするか、と言った所です。 礼を尽くした返答であれば、相手の好感を得られるかも知れません。 一方、挑発的な内容であれば、相手の動きが掴みやすくなるかも知れません。 あくまで、ひょっとすれば、の話ですが……」

疑問を差し挟んだドルックは、イレイムがそのような事を言い出したので内心驚きを隠せなかった。政治戦略に基づく言葉を、こんな小娘が口にするとは思っても見なかったのだ。良い師匠がついたからとはいえ、随分と短期間で成長したものである。男子三日会わざれば刮目して見よという言葉があるが、それは男子に限らないと、ドルックは今更ながらに認識した。そして、自らも目まぐるしく頭脳を回転させると、言葉を吐いた。

「……今更、相手を挑発しても仕方があるまいて。 それに、あの皇帝が私情を外交に挟むとも思えぬしの。 ここは、礼を尽くしておくべきではないかな。 家康殿は、どう思う?」

「ドルック長老と同意見です」

「タイロン長老、エイモンド長老はどう思いますか? 藍様は?」

一人は単純に同意の意志を示し、今一人は不満げに、だが賛同の意志を示した。彼らの様子を横目で見ながら、藍も小さく、出来るだけ子供らしく見えるように頷いて見せた。イレイムは静かに頷くと、瞳の炎を消さぬまま、立ちあがった。

「では、満場一致につき、以上の結論に基づき、返答の手紙を作成します」

 

結局会議に間に合わず、終了から三十分ほど後に帰還してきたセルセイアは、会議の内容を聞いて満足げに頷いたが、それ以上のコメントはしなかった。彼女はイレイムが一人で会議をリードできた事が嬉しかったが、それを表に出すような事もなく、ただ見守るだけにとどめたのである。

返答の書状は、勿論イレイムが手書きをするのが筋であり、しかも女王は帝国式の作法に基づいてそれを行った。これは、相手に対する最大限の敬意の表現であり、しかも文体は堂々としていて、卑屈な部分がいっさい無い。イレイムは政治の勉強をする合間に、帝国の公文書に関する資料に目を通しており、今回はその勉強の成果が出たと言う所であろう。

いずれにしろ、出来た書類の内容は誰が見ても文句のつけようがない代物であった。若干字が下手なのが残念だが、イレイムの字が下手なのは昔からであり、こればかりはどうしようもない。この娘はどういう訳か字が下手で、今まで何度か改善を試みた事があったが、幾ら練習してもいっさい改善しなかったのである。今更練習しても改善は望めず、彼女の字はもう余所で知られている事もあるし、このまま出すしかないだろう。

セルセイアと家康が厳重にチェックした結果、誤字脱字の類はなく、内容的にも明確で問題はいっさい無かった。手紙に封をし、コーネリア王国の刻印を押すと、イレイムは一息ついた。後は密使に渡せばよいのだが、この密使、全権を任されるだけあり得体が知れない。護衛も百戦錬磨の強者である事が明かで、話すだけで圧迫感を覚えるほどであった。

期日は、あっという間に訪れた。イレイムは、セルセイアに護衛を頼み、密使の待つ郊外の宿に出かけようとしたが、そんな彼女に家康が声を掛けた。王宮のテラスからは、狭いとはいえよく手入れされた庭が一望でき、訓練をしている藍の姿も見えた。家康は、周囲に人がいないのを見計らうと、藍を後ろ手で指さし、言った。

「陛下、あれを連れて行ってはどうだ?」

「藍様を、ですか?」

「うむ。 あれは今のままでは役に立たない。 だから、少しずつ役に立つようにして行かねばならない。 今回は、直接戦う相手が分かるし、良き機会ではないか」

思案の末、イレイムはその言葉に従う事にした。無論藍の意志を確かめ、同意の末に連れて行ったのは、彼女の人柄をよく示していただろう。

軍勢同士の戦ではなかったが、帝国とコーネリア王国の戦争は、事実上此処で始まったと言っても良かった。だが、最初の火ぶたは、実に静かな形で切られ、後の凄惨な戦闘とは全く無縁な代物にも見えたのだった。

 

2,帝国の将軍

 

そこは小さな家だった。セルセイアが所有している二階建ての邸宅の一つで、彼女の部下が、時々私服で出入りしているが、中に生活はない。単純な拠点としての住居で、誰かが(住んでいる)ような事はなかった。

数日前から、その家の二階に寝泊まりしている四名も、それに関しては同じ事である。リーダー格の小柄な影は黙々と一つの部屋にこもって読書していたが、他の三人は時々家の中を彷徨き、何かを探しているようだった。いずれも淡々としていながら真剣で、張りつめた雰囲気が其処にはあった。四日目が過ぎ去った頃、ローブで人相を隠しているリーダー格に、部下らしい一人が跪いて言った。

「ダメですね。 隙がありません」

「そう。 ご苦労様」

素っ気ない返事に頭を垂れると、部下は自分の部屋に引き上げていった。それを確認すると、リーダー格はローブをずらし、外気に素顔を露出させた。

それは、若い娘であった。顔立ちは美人といっていいのだろうが、とにかく印象に残らない顔立ちで、注意してみていなければすぐに忘れそうな感じである。プラチナブロンドの髪を三つ編みにしていて、目の奥にはどういう訳か、ちらちらと殺気が揺れている。瞳は細く、唇は薄く、化粧っ気が無い。なにやら闇の影が差し、生活感の無い娘であったが、異質なのが首筋にある小さな模様であった。それだけは、その入れ墨だけは生き生きとしていて、陰性な娘の中で、異彩を放っていた。感情がないわけではないのだが、影のある美女であろう。

娘の名は、ジェシィ=ブラドウッド。弱冠二十三歳にして、帝国軍少将という、いわば筋金入りの帝国という国を代表する軍人だった。

この娘がどういう人生を送ってきたかは、あまり知られていない。本人がどういう人物であるかも良く知られていないが、作戦時のねばり強く冷静な行動は一目置かれていて、周囲の信頼は高い。また、少し異質で使い手が少ない、変わった魔法を使う戦士である事も有名である。帝国軍人は出自を無視し、能力で選抜されるため、この娘の他にも素性が知られていない者はいる。その代表が知将として知られるハイマー将軍で、この男も全く素性が周囲に知られていない事で有名だった。ジェシィは帝国軍将軍としては中堅と言った所の役回りで、現在南部方面防衛軍第四師団の、副師団長を務めている。

それほど権限があるようにも見えないが、南部方面防衛軍と言えば、南部諸国により侵略が行われた場合、真っ先に戦いその矛先を防ぐ目的で配備された重要な軍で、様々な密命を帯びて行動している。第四師団自体はさほど重要な部隊でも、精鋭でも無かったが、其処に属するジェシィは外交官としての役目を与えられる事が多い、単なる戦闘屋ではないマルチな将軍として周囲に知られ、中将、そして師団長への出世も間近ではないかと噂されていた。

暫く黙々と読書を続けていたジェシィが、不意に顔を上げ、それと間をおかずしてドアが叩かれた。ローブをかぶり直し、言葉少なく部屋にはいるように言うと、部下が咳払いと共に入ってきた。

「失礼いたします、コーネリアの女王が自ら此方へ来た模様です」

「……分かった、今行く」

部下が頷き、部屋を出た。ジェシィはローブを脱ぎ捨てると、荷物から公式外交の際に着る服を取りだし、肌着の上から手際よく着込んでいった。それは何とも色気のない動作で、機械人形に人形師が布を着せているような印象を、もし見ている者がいたら与えただろう。自分の体でおしゃれをしようとかそういう発想がないようで、体を道具と見ている印象があった。その分手の指先からつま先の筋肉まで完全に制御していて、相当な使い手だと、見る者が見れば明らかだっただろう。

帝国の公式外交服は、国の特性を示すように、軍服に近い形をしている。しかし、帝国らしく無い部分もある。普段、帝国の物と言えば質実剛健が基本となるのだが、これだけは芸術的に趣向が凝らされていて、特に襟と裾の部分には細かな装飾が施されている。白い腕をその袖に通すと、機能的に配置されているボタンを留め、薄く化粧をしてジェシィは部屋を出た。その化粧も、最低限の礼儀としてしているような印象を、周囲に与えた事だろう。決して下手ではないのだが、自分を飾り立てようと言う意図がまるで感じられないのである。嫌々ながらしているというような様子はないのだが。

準備を終えた彼女の前後を護衛の三名が固め、周囲を油断無く警戒しながら、階段を下りていく。彼らは帝国でも指折りの諜報員で、腕も頭脳にも申し分はない。階段の下では、既にイレイムとセルセイアが、数名の護衛と共に待っていた。小汚い邸宅であったが、今此処は、国家を代表する者達がぶつかり合う、戦いの場と化したのであった。

 

用意された机には、椅子が既に人数分用意されていた。コーネリアの名産である赤葉クルが、これもまた人数分用意され、湯気を立てている。まずイレイムが席に着き、その正面前にジェシィが座った。ついで、部下達が順番に着席していく。これは帝国式の作法で、イレイムは此処で用意できる自国の名産で相手を歓迎しつつ、相手に敬意を表した事になる。イレイムの見事な手腕を確認しつつ、まず最初に発言したのは、ジェシィだった。

「我は帝国南部方面防衛軍所属、ジェシィ=ブラドウッド少将。 今日はイレイム女王に、返答を持っていただけたものと期待する」

「はい、お望みの物をお持ちしました。 此方です、お確かめください」

「確かめさせて貰う」

淡々と会話が続き、差し出された手紙を、ジェシィが手に取った。左右の諜報員が素早く耳打ちし、印が本物である事を確認した事を告げる。一方、その間、イレイムの脇にいる女性もなにやら女王に耳打ちし、情報を渡していた。

手紙は封がされ、丁寧に閉じられている。無論ここで開ける事もジェシィには許されているが、それは失礼に当たるという物だろう。越権行為云々ではなく、これは密書とは言え、大国と比較にもならない小国とは言え、国主が国主に対して提出した手紙であるからだ。

ジェシィは何かと私心に乏しく、何を考えているかよく分からないため、こういった外交では相手に心理を読まれにくい。今も実は相手に敬意を感じてはいるのだが、イレイムには能面のような表情しか見えまい。これは実際に、こういう場では大きな武器となっていて、今までも難解な外交を幾度も有利に運ぶ事に成功してきたゆえんでもある。また、負け戦の際にも、無表情で落ち着いている彼女のお陰で、兵士達は取り乱さず、全軍の瓦解を免れた事もあった。

とりあえず、手紙を自分で確認する事は失礼に当たるとしても、全権使者として、幾つかやっておかねばならないこともある。無論、今回の件に関する事については、手紙の中にあるので、追求しても意味がない。無表情のまま、ジェシィは言った。

「丁寧なる対応、感謝する次第である。 我、皇帝の代理にて、礼を言う」

「いえ、此方こそ、丁寧に対応していただいて感謝の言葉もありません」

「例え如何なる返答が手紙にしたためられていようとも、我、陛下の対応を素晴らしき物として皇帝に伝えるものなり。 皇帝の代理として、それを命に掛けて行うと誓おう」

これは半分は儀礼、半分は本音である。手紙の内容は彼女も知らされていたから、下手をすると護衛もろとも此処で殺される可能性さえあったのだ。それだというのに、イレイムは礼を保った対応をしてきた上に、自らもきちんと尊厳を保った。ジェシィと護衛達は、待つ間この邸宅に閉じこめられはしたが、それは当然の予防措置という物であって、何ら恥じる事はあるまい。

ここまで言うと、イレイムの顔に、微妙な表情が浮かんだ。それを、ジェシィは見逃さなかったが、わざと気づかぬふりをした。他にも幾つかの質問を交わし、やがて会談は終わりに近づいた。丁寧な礼をして、イレイムは廃墟を後にし、セルセイアと、護衛の一人が残った。驚くべき事に、その護衛は子供だった。子供であるにもかかわらず、きちんと武装していて、動きに無駄がない。ジェシィだけではなく、子供の異様さにはその護衛達もとまどっていたようであった。やがて子供の方から口を開き、彼女は机の上の安物のカップの前で、だらしのない笑みを浮かべながら言う。

「ねえ、帝国の人」

「……何か?」

「おみやげ♪」

言葉と同時だった。子供が流れるような動作で腰を落とし、手を腰につけていた剣に滑らす。一瞬後、それが鋭い光と金属音を発し、何事もなかったかのように、再び鞘に収められた。護衛達が、動く暇もなかった。そして、子供が指を鳴らすと、カップが上下二つに泣き別れになり、少し大きな陶器のリングが出来た。机の上に、鏡のような切断面を持つそれが、乾いた音と共に転がり、短くダンスを踊った。

「あげる。 結婚指輪にはおっきいけど、良い土産にはなるっしょ」

「そうだな、これは確かに興味深い土産だ」

子供の行動も子供の行動なら、ジェシィもジェシィだった。何のためらいもなく陶器のリングを拾い、懐に収めたのである。結局の処、意味不明な思考回路を持つという点で、この二人はよく似ていたのかも知れない。

「名を何という? ただ者ではあるまい」

「高柳、藍。 この国最強の、武術の達人だよ」

「タカヤナギ=アイだな。 覚えておこう」

どう考えても本当だとは思えない相手の言葉に、ジェシィは大まじめに頷き、挙げ句の果てに部下に名前を記録させた。そして荷物をまとめさせると、無表情を保ったまま、家の外へ出ていった。護衛の者達は、いつも外交の際の冷静きわまりないジェシィと、変なときのジェシィを共に見てはいたから、混乱する事はなかったようだが、やはり驚きは隠せないようだった。

コーネリアを出るまで、セルセイアの部下が周囲を護衛と称して監視した。そして、国境まできちんと送り、最後までその動向を見守った。

 

「しかし、面白い子供だったな」

「あの技は何かの芸でしょうか。 となると、余興だったのかも知れませんね」

現在、皇帝は連合との国境に人を張っており、ジェシィは其処へ最高速度で急いでいた。背後で、護衛達がなにやら話をしているが、彼女にはそれこそどうでも良い事だった。それに、彼女には、あれが紛れもない達人の技量から繰り出される、正真正銘の絶技だと分かっていたのである。

ジェシィは何を考えているかよく分からないと言われているが、皇帝への忠誠心は誰にも疑われていない。女性関係に若干だらしのない皇帝だが、一方で彼は部下に手を出さない事で有名である。故に、皇帝とジェシィの間で、男女の関係は無いらしいのだが、単純な主従と言うにしては嫌に忠誠度が高いと周囲からは見られている。もっとも、皇帝に熱狂的な忠誠を誓う者は男女関係なしに珍しくなく、彼女もその一人であったから、特に目立つ存在ではなかったが。

第四師団司令部に形だけ寄ると、荷物を整え、すぐにまた出発する。数を数名増やした護衛と共に、ジェシィは最大限の速度で主君の元へ急いだ。大体半月強の行程を、数日縮めて連合領に到達する。途中には若干治安の悪い地帯もあったから、それは到底臆病者に出来る強行軍ではなかった。それをもたらしているのは、絶大な皇帝への忠誠心である事は疑いがない。また、任務への責任感も、原動力になっている事であろう。

何度か馬を変え、護衛を変え、ついにジェシィは皇帝の元にたどり着いた。陣地は勝利に湧いており、兵士達には酒が順番で配られていた。見張りの兵士はきちんと任務を遂行し、交代した後に酒が配られている。誰一人不届き者がいないのは、軍の士気が如何に高いかを示していただろう。ジェシィは見張りの兵士に案内され、本営本幕に通された。そこでは戦勝パーティが行われており、近くの簡易牢では、縄を掛けられたシェムテスがうなだれていた。皇帝は上機嫌で酒を飲んでいたが、ジェシィの到着を知ると休憩のふりをして場をはずし、帝国最強の兵士を護衛に伴い、個人テントへと移って姿勢と表情を改めた。それが簡単だったのも、飲んでいたものが実は酒ではなく果実ジュースだったからである。皇帝の噂のうち、下戸であるというのは全くの事実で、しかし酔うふりは巧かったので、パーティの時はジュースを飲むと相場が決まっていたのだった。今日は僅かに飲んではいたようだが、ほんの少しの酒だったから、幾らでもごまかしが利く様子であった。

ジェシィは最敬礼をすると、イレイムの手紙を皇帝に渡し、封を切って中身を見る皇帝を見守った。皇帝は手紙を読み終えると、額に手をやり、右の眉毛をいじりながら苦笑した。困惑しているときに、彼が見せる癖だった。皇帝の背後では、帝国最強の男ザムハルグ護衛長(帝国大佐)が、さながら武神像のごとく、無言で佇立している。

「ふむ……。 ジェシィ少将、ご苦労だった。 これから貴官にも関わる事であるから、手紙の内容を教えておこう」

「拒否されたのですか?」

「鋭いな、その通りだ。 字は下手だが、礼に則った手紙だ。 好感はわくが、拒否された以上は仕方がない。 力でコーネリアを制圧する」

詮索は許されない事である。あの女王と戦う事になるのかと思うと、ジェシィは残念に思ったが、決して表には出さなかった。皇帝は机を指先で短くリズミカルに叩いていたが、やがて部下を呼んで手紙を持ってこさせ、ジェシィに声を掛けた。

「少将、おそらく攻略は、第四、第七、第九、第十一師団によって行われる事になるだろう。 各師団長に連絡、それにミディルア兵団長にこの手紙を届けるようにな。 それを終えたら、一週間の休暇を与える。 ゆっくり休むがいい」

「はっ、そういたします」

決して猛々しいわけではなく、淡々とその言葉は紡がれる。皇帝は、微妙な光を両眼に宿すと、部下に問うた。彼はこの部下の、心を刺激してやりたいようであった。

「イレイム陛下は、どんな方だった? また、何か変わった事はあったか? 君の私的な意見を聞かせてくれないか?」

「陛下は、丁寧に配慮の出来る人で、好感の持てる人でした。 それと、武術の達人タカヤナギ=アイに会いました。 子供で、これを土産だと言って目の前で切りました。 素晴らしい技でしたが、冗談は意味不明でした」

「……事情はよく分からないが、どれ、見せて見よ」

無表情のまま言うジェシィから、藍が切ったリングを受け取ると、皇帝はそれを机の上で転がしてみた。切り口は鋭く、手を切るおそれがあったので、すぐに遊ぶのを止め、後ろのザムハルグに手渡す。ごつい護衛長も、その切り口には興味を引かれたようで、しげしげと見やった後、懐に大事そうにしまった。彼も皇帝を崇拝する一人で、今渡されたものも宝として保管する事は疑いないだろう。

「……少将、君はイレイム陛下と戦いたいか?」

「陛下が戦えと言えば戦います」

「……そうか。 残忍な命令を出してすまないな、少将」

小首を傾げ、敬礼をすると、ジェシィはテントの外へ出ていった。

 

ハイマンドは嘆息すると、後ろに立つザムハルグに声を掛けた。酔いは既に醒めているようで、口調には自嘲的な物がこもった。

「ザムハルグ大佐、ジェシィ少将をどう思う?」

「何度見ても、無表情なおなごですな。 何を考えているかさっぱり分からないところが、小官には理解できん処です」

「ほう、君は他人の心がわかるのかね?」

「いえ、分かりません」

愚直で無骨な部下は、正直に答え、自分の言葉の矛盾にも気づかなかった。皇帝は苦笑すると、大まじめで少し頭が足りない部下に、諭すように言う。

「あの娘は、少し感情表現が苦手なだけなのだ。 私が抜擢したときも、本当は嬉しかったのだと思う」

「そうなのでしょうか? 小官には理解できませんが」

「そうだとも。 ……酒を飲み直そうか、大佐」

そう、皇帝が言い切ったのには理由があった。彼は、ジェシィの過去を知っており、無表情で無愛想な理由も知っていたからである。彼が滅ぼした国の、暗殺組織の一員だった、哀れなジェシィ。無個性になるように育てられ、自分を道具として使うように育てられ、表情を造るように育てられた娘。今、無理にありもしない表情を造らないようになっただけでも、かなり進歩しているのだ。首筋の入れ墨は、皇帝が発案した物であり、娘はそれを大事にしている。本当のところ、皇帝はジェシィを后の一人に迎えたいとも思っていたのだが、部下に手を出しては示しがつかなくなるし、大体ジェシィの能力は最前線にこそ必要だ。皇帝とは、予想以上に思い通りにならない物であり、それが彼を飲めもしない酒へと走らせていた。無論彼は今の后達も愛してはいた、つまりそれは、いわゆる男の身勝手であることも事実であったろう。

パーティに戻った皇帝は、今度は本当に酒を飲んだ。そして、すぐに酔いつぶれてしまった。

 

3,南にて

 

帝国との戦が確実になったコーネリア王国では、今まで以上に熱心に軍事訓練と補修が行われ、流石に国民がそれに気づき始めた。大きな混乱が起こらなかったのは、幸か不幸か暫く戦がなかったため、民衆に戦に対する現実感がなかったからである。

徐々に帝国への脅威が明らかになりつつあるコーネリア王国だけではなく、不穏な空気が漂い始めた場所がある。それは、大陸でも帝国に次ぐ国力を誇る、南の聖皇国である。そこでも、不安定な空気が流れ始めていた。

 

文化の国と称される聖皇国では、芸術家の社会的地位が高く、代わりに軍人の地位が低い。実力と才能を兼ね備えた芸術家は、貴族にも勝る資産を蓄える事が不可能ではなく、現に豪華な邸宅を立てている者もいた。一方で、軍人は完全に貴族と分離され、生活はお世辞にも良いとは言えない。帝国は南部諸国との国境に兵を配置してはいるが、越境行為をした事はなく、軍自体も彼方此方にばらけていて数が少ないため、それほどの脅威とはなり得ない。故に戦はますます遠くなり、聖皇国の軍人の給料はますます減らされ、不遇を託つ者が多くなっていった。

大将軍はそれでもまだ良かったのだが、それ以下の地位の将、特に中堅、下級クラスの将軍は不満を蓄積させていた。その中の一人、メジナ丙将は、国境の小さな砦で、毎日酒浸りの日々を送っていた。彼は百八十名ほどの兵士を任されており、彼らの管轄をしなければならない身でもあったのだが、司令官がそうだから兵士の綱紀がゆるむのは必然であり、砦の内部はたるみ、ゆるみきっていた。メジナは決して無能な将帥ではなかったのだが、緊張感を持続する事が出来ない男であり、結局それが破局へとつながったのである。

彼の元へ、何人かの部下を通じて、密告が来たのは、雨の降る少し寒い夜の事であった。以前からも噂のあった事であり、それが密告の信憑性に拍車を掛けた。何でも国境の村の一つが、帝国と通じており、諜報員や監視員の巣窟となっているというのである。しかも其処を拠点として、帝国軍は皇国への侵入をもくろんでおり、現在も着々と準備を進めているというのだ。

この手の所属がはっきりしない小規模集落という物は、余程統治がしっかりしていない限り、国境地帯には必ず出来てしまう。メジナはそれを知っていたはずだったが、剰りにも退屈すぎる毎日のせいで、彼の脳は鈍磨を避けられなかった。また、兵士達や、参謀にも彼を止めようとする者はいなかった。この村は帝国も皇国も所有権を主張している村であったが、そもそも皇国は帝国を嘗めきっていて、帝国の主張など、皇国人は最初から歯牙にも掛けていなかったからである。

むしろ嬉々としてメジナは砦の兵士達に出陣を命じ、歩いて三十分もかからぬ場所にある其処へ、四十名ほどの、すぐ動かせる兵士達を叱責して急行した。もしメジナが無能であれば、村人達は襲撃を察知して逃げられたかもしれなかったが、不幸な事にこの将は、純粋な軍事行動に限っては有能で、率いる兵が少数と言う事もあったが、行動は極めて迅速だった。

結果から言えば、密告は嘘ではなかった。村に乱入した兵士達を迎えたのは、混乱し、散発的でありながらも、従属ではなく抵抗だったのである。帝国側も、急すぎる襲撃にパニックに陥ったのだ。数人の兵士が傷つき、いきり立った兵士達が理性を喪失した。メジナはむしろ、それを助長さえした。悲劇が、起こるべくして起こった。獣と化した兵士達は、元々モラルを喪失している事もあり、情け容赦なく非戦闘員に襲いかかった。帝国の諜報員は不利を知るやさっさと大半が逃げ出しており、中には非戦闘員を守ろうとする者もいたが、それは例外にすぎなかった。抵抗もあったが、何しろ数が違う。殺戮は一方的な物となった。

兵士が火矢を放ち、家が燃え上がる。雨など物ともせずに、紅蓮の炎が沸き上がり、家の中に隠れていた者を焼き殺し、或いは追い立てる。金を差し出し、逃れ得た者はむしろ幸せだった。若い娘はその場で地面に押し倒され、兵士の欲望のはけ口にされ、挙げ句に殺され、或いは砦へと連れ去られた。要領のいい兵士達は、村長の家や倉庫へ乱入し、金目のものを奪い尽くして火をつけた。

村が消滅するまで、三十分もかからなかった。

 

十日後、反作用が起こった。メジナは意気揚々と自らの戦果を中央軍へと報告し、得意満面であったが、その上機嫌も長くは続かなかった。不意にわき起こった喚声に、気づいたときには既に遅かったのである。小さな砦の城門は、極めて計算し尽くされた魔法攻撃により破砕され、猛り狂った帝国軍兵士が一気になだれ込んできたのである。

何の事はない、事情は簡単であった。襲撃を生き延びた帝国軍の諜報員が、国境の砦に駐屯していた南部方面防衛軍第七師団へ援軍を要請、司令官シャスゼ中将はすぐ動かせる一個大隊を指揮し、自ら強行軍で砦に押し寄せたのである。

兵士の数は五分であったが、不意での攻撃と言う事もあり、また油断しきった兵士達の中には昼間から酒を飲んでいる者さえいて、見張りもろくに機能していなかった。呆れた事に、メジナは相手が報復行動に出てくる事を、予想さえしていなかったのである。メジナは戦術家としては合格点の能力を持っていたのだが、戦略家としては完全に落第だった。

砦に連れ込まれた何人かの女性は、そもそも全員が帝国の諜報員だった。後で判明するのだが、何年かかけて諜報員達は、あの村を村人から買い、完全な情報前線基地へと仕上げていたのである。今まで侮辱と屈辱を味あわされ続けていた彼女らは、当然の事ながら黙っていなかった。兵士の油断をつき、自ら脱出すると、帝国兵に積極的に協力、砦の中を案内したのである。帝国兵士の練度の高さ、シャスゼの有能さもあり、村が滅ぼされた時以上の早さで、砦は制圧されていった。帝国兵には、攻城戦だと言うにもかかわらず、ほとんど被害は出なかった。これは帝国軍が強いのではなく、単純に皇国軍が油断しすぎ、弱すぎたのである。

メジナは自室で武器を手に取りかけた所を、村から拉致してきた女性の諜報員に刺殺された。完全に自業自得の最後であった。砦を完全に制圧し、皇国兵を一掃してしまうと、シャスゼは非戦闘員に対する略奪や暴行をいっさい許さず、負傷者と救出した捕虜を守って、来たとき同様疾風のごとく引き上げていった。そして、これが後の帝国と皇国の争いの発端となったのである。

 

皇国中央軍では、激しい議論が沸き上がっていた。諜報員が住み着いていた村への攻撃は正当な行為であり、帝国軍に制裁を下すべきだという一派、状況をよく見て、それから帝国軍と折衝するべきだという一派、両派に分かれて、大将軍ニーナ=カミンの前で、喧々囂々の争いを繰り広げていた。

ニーナは皇国では珍しい有能な将軍で、今年四十三歳になる。有能なのだが、異常な化粧好きで、しかもそれが似合っておらず、無闇に濃い。それが唯一の欠点であるが、有能さには疑いが無く、異例の若さで将官に就任、今まで八年間にわたり着実に業績を積み上げてきた英才である。彼女はうんざりし切った様子で、眼前の争いを見やっていたが、やがて一つ嘆息した。

はっきり言って、両派は共に利権の塊である。一派は帝国と戦って単純に手柄を立てたいグループ、もう一派は一見良識派に見えるが、実は好戦的なグループの足を引っ張り、それによって自分が出世したいだけの連中である。彼女としては、こんな連中をまとめつつ、有能さにおいて右に出る者がいない皇帝、彼が率いる帝国軍と事を構えなくてはならないのだから、頭が痛いというのが事実であろう。

問題は権力者の動向であるが、政治にほとんど興味がない聖皇帝よりも、現在は憲法議会が遙かに大きな力を持っており、利権が複雑に絡み合っている。議員を後ろ盾にしている軍人は多く、軍の派閥はそのまま議会の派閥と直結していた。それである以上、此処での議論はほぼ無意味で、出るだけ無駄だというのが本音であったが、義務というものがあるから、嫌でも出席しなければならない。

憂鬱なニーナの前で、無駄で無意味な議論は延々と続いていた。それが一段落すると、なにやら部外者が部屋に入ってきて、主戦派の将軍達の耳に何かを耳打ちする。おそらく議員達の密使だったらしく、それを聞くと途端に将軍達の議論が変わった。反戦派の連中達さえ、不意に主戦派に傾いたのである。

おそらく議員同士の裏会合で、戦を是とする結果でも出たのだろう。自主性のない人形共は、ニーナに口を揃えて(不埒な帝国軍への制裁活動は、理にかなう正当な行為である)と合唱した。ニーナが頭を巡らせたのは、この連中を説得する事ではなく、如何にこの事態を利用するかであった。この様な連中、説得するだけ無駄だと彼女も知っていたからである。

やがて、ニーナは結論をはじき出した。そして、立ち上がり、期待に目を輝かせる将達に、はっきりと言った。

「イオーズ甲将、デシェルー甲将、フラッツ甲将」

帝国で、中将クラスの地位を持つ将軍三人が、威勢の良い声と共に立ち上がった。表情を殺したまま、大将軍は言葉を続ける。

「各将はそれぞれ一個軍団を率い、帝国軍第七師団と交戦する準備を整えよ」

「承知!」

だいたい準備には、一月半かかるだろう。そしてそれは、帝国軍側も同じはずだ。皇国での軍編成は、異常なまでに数字を統一する傾向があり、それは兵種や作戦行動においても同じである。一個軍団というと必ず八千人と決まっており、戦があって減ると必ず補充され、八千人に再統一される。あまりの兵員はかならず(予備隊)に編成され、別軍団に欠員が出るまで順番待ちする事になるのである。

皇国の総兵力は、現在十二万を少し越えるほどである。軍団数は15で、どの軍団も、戦略上の目的も関係なく、全てきっかり八千人である。無駄な軍制と言わざるを得ないが、伝統を何よりも重視するこの国では、変えようのないタブーでもあった。

将軍達は、既に勝ったつもりでいるらしい。一方で、ニーナは別の考えを抱いているようだった。すなわち、後々のためにせいぜい痛い目に遭ってこいなどと、酷い事を考えていたのである。

 

4,復錯

 

コーネリア王国北部の砦に、二人の女性が訪れていた。一人はアッセア元メルフィラレル市国将軍、今一人は高柳藍であった。彼女らは、眼下にて訓練する二百名ほどの兵士を見ながら、なにやら話し合っていた。

アッセアは、戦が嫌で逃げてきたのに、どうしても眼前の光景には興味がそそられるようだった。根本的な意味で、この娘は軍人なのだろう。それに対し、藍は組織戦にはあまり興味がないようで、ひたすら組織戦の訓練をする兵士達の様子を、棒状の菓子を囓りながら見守っていた。

この二人は、此処一月ほどで非常に仲が良くなった。戦、戦に追われて、それ以外の事がほとんど出来なかったアッセアには、部下や上司は沢山いたが、そもそも親友がいなかったので、町を色々案内し、様々な事を教えてくれた藍は一種の恩人であった。一方で、藍にとっては、実戦の事を知るにはアッセアと話すのが一番の近道で、有意義な事でもあったのだ。

今日、二人は、イレイムに頼まれてこの砦に来ていたのである。数ヶ月前とは見違えるほどに砦は修復され、兵士達の動きも実によい。また、物資の集積も進んでいるようで、見張りの兵士達の顔にも精気が宿っていた。自分たちの仕事が、実に有意義な物だと兵士達が感じ始めているのであろう。それが真実かどうかは脇に置くとして、それが精鋭を造る原動力である事は、間違いのない事実であった。

「アッセアちゃん、どう思う?」

「うん、ぼくの見る所では、まだ少し訓練が足りないな。 素人ではないが、まだまだ戦に出るには無理だね」

「ふーん、そーなんだ」

アッセアが、藍の前で、地の言葉でしゃべるようになったのは、一週間ほど前からの事である。それは単純にアッセアが世間知らずで、相手の事をすぐ信じてしまう事にも原因があったが、今回それはマイナスにはならなかった。藍は一癖も二癖もある娘だったが、無体に相手を裏切るような娘ではなかったからである。藍は異様にて慣れた動作で林檎に似た果実を剥くと、ミリ単位の正確さで左右に切り分け、半分をアッセアに手渡し、自分も頬張った。口の中に食べ物を入れたまましゃべる藍であったが、流石に上流階級の出身者だけあり、アッセアはそれだけはまねしなかった。

「あのひほはひ、ろのへんはよふないのはな」

「ええと、あの人達、どの辺が良くないのかな、でいいの? それなら、少し反応が遅いと思うよ」

「その通りだ、よく分かっているな」

不意に背後から声を掛けられて、慌ててアッセアが振り向くと、其処には家康がいた。藍はとうの昔に気づいていて、林檎に似た果実を飲み下し、よそ行きの顔を作っている。この辺は、世間慣れしている女の子らしいしたたかさで、アッセアにはない要素だった。

「な、なんのようだ!」

「そう堅くなるな。 異国から流れてきた者同士、少し仲良くしようではないか」

「ぼ、いや私は、戦に関わる気は無い!」

「訓練をするだけでは、直接戦に関わるわけではない、そう思わぬか? 暫く体を動かさずに、なまっていた所だろう。 どうだ、少し体を動かして見ぬか?」

アッセアが黙り込んだのは、家康の言葉が図星をついていたからである。藍は藍で、アッセアの生真面目な反応を、果実を囓りながら、楽しそうに脇から見ていた。家康は表情を改めると、二人についていくるように促した。

 

二人が通されたのは、この砦の会議室だった。会議室ではセルセイアが待っていて、机の上には地図が広げられていた。それはコーネリアの物ではなく、連合の物であった。

「この地図が、どこの物だか知っているか? アッセア将軍」

「連合の主力国、アイゼンハイムスの物だ。 この要塞はスファ要塞、難攻不落の名城だ。 王都はこの辺で、ここ、それにこのあたりに城が配置されている。 各地への物資の輸送はこの道を利用して行われ、集積地となるのがこの砦だ」

地図を見ると、軍事的な解説をためらうことなく始めるアッセア。結局の処、この娘は骨の髄から軍人なのであろう。口調も生き生きとしていて、隣で藍が愉快げにその横顔を見やっていた。家康は口の端を僅かにつり上げ、手にしていた棒の先端を、スファ要塞の上に持ってきた。

「その難攻不落の要塞が、僅か十日で陥落した。 アイゼンハイムスの首都は既に帝国軍に制圧され、国家は解体されたようだ。 現在は、残敵の掃討戦に移っているようだな」

絶句したアッセアは、数秒間呼吸する事も忘れていた。スファ要塞の規模、堅固さ、司令官である老将シェムテスの堅実な性格、それらは良く彼女も承知していた。それが僅か十日で陥落するとは、想像を絶する事態であった。

「い、いったい何が起こったのだ!」

「知りたいか? アッセア将軍」

「……ああ」

「やはり、主は戦に生きる者だな」

返答を聞かずに、家康は地図上に視線を落とした。

「セルセイア殿、もう一度確認した情報を」

「……帝国軍は、巧妙な戦略を採りました。 まず、この砦、この砦、そしてこの一対の砦に、集中攻撃を掛け、要塞への退路を塞ぎ、逃げ道を一カ所だけにしたのです。 砦自体は小さな物で、落とすのに時間はかかりませんでした。 敗走する兵士達は追い立てられ、一カ所に集められました。 彼らの逃げ道にあったのは、この小さな砦だけです」

更に、帝国軍を示す駒を、セルセイアは並べ始めた。アッセアが不審げにその配置を見やる。包囲は兵士達を追い込んだ砦と、要塞を無理に包囲する形となっていて、かなり無茶な陣形だった。

「何という無理な包囲網だ。 これでは、挟み撃ちにしてくれといわんばかりではないか」

「儂も一見そう見たが、よく見ろ。 危険地帯に配置されているのは、皇帝率いる最精鋭だ」

家康が、要塞内部に配置されていた、幾つかの駒を外に出した。それは、連合軍を示す物であった。

「成る程、そういう事か。 要塞側としては、危地に追い込まれた兵士を救う事もあるし、この気に皇帝を討ち取れると考えたかも知れない。 そして討って出て、罠にはまったと言う事か」

「流石だな、アッセア将軍」

家康がセルセイアに視線を移すと、彼女は髪をかき回し、駒を複雑に動かし始める。予想は完璧に事実を突いており、説明の必要もないような感じであったからである。

「皇帝率いる最精鋭が、食糧不足に陥り、討って出た砦の兵と、それにタイミングを合わせて出撃した要塞軍に、前後から挟み撃ちにされました。 同時に、周囲に伏せていた帝国軍が一斉攻撃を開始、猛攻の末についに要塞の一角を登り切り、その地点を橋頭堡として、一気に要塞内部になだれ込んだようです。 皇帝率いる最精鋭は、相当な打撃を受けたけど、要塞内からあがった火の手が勝負を決めました。 シェムテス将軍は、死闘の末に捕らえられ、他の兵士達はそれを聞いて敗走するか、降伏したようですね」

以上の情報は、皇帝が宣伝の意味もあり、むしろ積極的に流した情報だった。しかし、それを最速で入手し、まとめ上げたのは、セルセイアの手腕が並々ならぬ物である証であろう。

「しかし、皇帝と言う男は、恐るべき将才の持ち主だな。 儂であれば、おそらくじっくり構えて、時間を掛けても確実に城を攻めただろう。 羽柴秀吉であれば、この川を利用して堤防を築き、水攻めをしたかも知れぬ」

「ハシバヒデヨシとは誰だ?」

「儂の故郷にいた名将だ。 城攻めの達人で、それに関しては儂の主君をも凌いだだろうな。 何にしても、だ。 この皇帝が率いる軍と、儂は戦うわけだな」

アッセアが、むうと唸るのを、家康は聞き逃さなかった。戦の生きる者の悲しき習性を、彼は嫌と言うほど知っていたから、それは予想の範囲内の事であった。

「……これを見せる事が用事なら、これで用はすんだか? 済んだのなら、失礼させて貰っても良いか?」

家康が頷くと、アッセアは藍の手を引き、むしろ急ぐような動作で、部屋を後にした。

 

「ねえねえ、アッセアちゃん」

「うん? 何?」

再び調練場の上に戻った二人は、暫く無言のまま、訓練を繰り返す兵士達を見ていた。アッセアの表情が沈んでいる事を察した藍は、高い木になっている、林檎に似た果実を、いとも簡単に、渡されている小弓で射落とし受け止めると、また皮をむき始めた。

「ひょっとして、戦いたいとか思ってなーい?」

「ぼくは戦が嫌で、戦場から逃げてきたんだ。 それは……無い」

「れほは、はっきほひぇもいひいひひへはほ?」

「えっと、でもさ、さっきとてもいきいきしてたよ、でいいの? そういわれてみれば、そうかも知れないね。 ぼくはきっと、死ぬまで戦から離れられないのかもしれない」

林檎に似た果実を、口に入れたまましゃべる藍に困惑しながら、アッセアは憂鬱そうに、壁に寄りかかって答えた。額に手をやり、嘆息する。要は、藍に言われた事を否定しきれないのである。その悩みに追い討ちを掛けるように、藍は言う。

「イレイムちゃんがいってたけどさー。 後数回戦いに参加すれば、もう戦争しなくて良いって。 で、つまり、今回は」

残った半分の実を口に入れ、かみつぶしながら、藍は続けた。その口調は意味深であったが、とても聞き取りづらかった事が、残念な点に上げられるであろう。

「はいほのひゃんふはもひれないへ」

「最後のチャンスから知れないね、って言ってるの? ……そうかも知れない」

もう慣れたアッセアは、いとも簡単に相手の言葉を解読して見せた。回りに誰もいない事を確認すると、彼女は今度は自分から口を開く。

「藍、貴方はどう? この国のために、戦おうとか考えているの?」

「そんな気ないよ。 国何てモノのために、誰が戦うモンかい」

「……そうなんだ」

「でも、私の友達が、此処には何人も住んでる。 だから、その人達のためになるっていうんだったら、戦っても良いかな」

藍がとても幸せな境遇にいる事を、アッセアはこの時知ったかもしれない。ほとんどの者は、戦に赴く際、理由など考える余裕はないのだ。第一に、アッセア自身がそうだったのだ。今回は、強制されずに、戦う最初で最後の機会かも知れない。アッセアはそれを悟り、静かに息を吐き出した。

「ぼく……」

藍が、アッセアの顔を見る。戦を忌み、戦場から逃げ出した将軍は、じっと手を見た。

「……戦ってみても、いいかな。 今回が、最後だっていうんなら」

 

イレイムが、セルセイアの配下から、報告を受けていた。女王の顔は沈んでいて、悲しみを隠しきれないようだった。聖皇国のメジナ将軍に、幾つかのルートを経て諜報員が潜む村の事を密告する事を指示したのは彼女だったのだ。家康とセルセイアの発案であったが、許可したのは彼女であり、罪業は消えないであろう。そして今、双方がそれが原因で局地戦に突入し、戦が始まった報告を受けたのである。これを笑い飛ばすには、イレイムは優しすぎた。長期的な政治戦略の要になる策であり、またコーネリアに向く帝国軍の数を減じる事も出来る一石二鳥の策なのだが、そのような事が免罪符になどなるわけもない。結局、それは修羅の道なのである。

「そうですか、分かりました」

女王の言葉に、無言のまま頷き、諜報員は消えた。代わりに、部屋にセルセイアが入ってきた。セルセイアは、イレイムが目をこすっているのを見た。

「陛下……」

「これは……私が決めた道ですものね。 泣いていてはいけませんよね」

「……二つ、良い報告があります」

イレイムが表情を改めるのを見て、セルセイアは胸を痛めた。女王がどれほど無理をしているか、彼女には手に取るように分かったからである。それなのに、無理をして大丈夫なふりをしている。しかし、逃げるわけには行かないのだ。

「一つ、腕利きの魔物狩りの夫婦が、軍へ志願して参りました。 夫婦共に相当な使い手で、軍の中核として、藍様と共に活躍が期待できます。 今ひとつは、アッセア将軍の事ですが、軍への協力を打診してきてくださいました」

「そうですか。 魔物狩りの夫婦というと、ひょっとして、以前下水道から現れた魔物から、民衆を守ってくれた、あの二人ですか?」

「はい、あのロフェレス夫妻です。 妻コーラルは優れた魔法使い、夫ゲフゴーズドは比類無き剛腕の持ち主、二人共に得難い、正真正銘の強者達です。 頼りになる事でしょう」

頷くと、イレイムは自ら二人に会う事を明言し、期日の指定をセルセイアに頼んだ。それほどの者達なら、自分があって真意を確かめるのが当然だと思ったからである。

ふと彼女が外を見ると、家康と藍が此方の世界に来たときと同じ月が、闇夜に姿を見せていた。満ち欠けの周期が一周して、同じ姿を再び現しただけであったが、女王には深い印象を与えたようで、表情を僅かにゆるめさせた。

髪を掻き上げると、イレイムは再び政務に取りかかった。覚えること、決断すること、しなければならないことは、これからますます増えていくのだ。こんな処で足踏みは、彼女には絶対に許されなかったのであった。

 

コーネリアから発した織物が、関係ある糸達を巻き込み、自らを構成する一部へとしていく。それは徐々に激しくなり、絡み合う糸も複雑に、色も多彩になっていくのだった。歴史という巻物が、激動の時代を織り終えるまで、今しばらくの時が必要である。そしてそれが終わる直前にこそ、糸はもっとも激しく絡み合い、光彩を放つ事、今からでも疑いがないほどであった。

(続)